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「け」


2010年鑑賞作品

ゲゲゲの女房
2010年 119分 日本 カラー
監督:鈴木卓爾 脚本:大石三知子
撮影:たむらまさき 音楽:鈴木慶一
出演:吹石一恵 宮藤官九郎 坂井真紀 村上淳 宮崎将 唯野未歩子 夏原遼 平岩紙 柄本佑 鈴木慶一 寺十吾 徳井優 南果歩


2010/12/7/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
私も熱心に観ていたからどうしても、同原作の朝ドラとの相違点がどうしても気になってしまうのは致し方ない。
ただ、撮影自体は映画の方が先であり、朝ドラの大ヒットに左右などされていないことは明らかだし、そしてこれが……同じ原作とは思えないほどに、雰囲気も色合いも違う。
主なエピソードやその時に使われる台詞なんてのはもちろん同じなんだけど、その意味までもまるで違って聞こえてくる。ああ、やはり、朝ドラの二人とは別人なんだな、と思う。
別の俳優が演じているから当たり前っちゃ当たり前だけど、そういう意味ではなくて、同じ水木しげるとその妻、布枝であっても、違う水木しげると布枝、なのだと思わせる。

考えてみれば朝ドラの方は布枝の名前は布美枝(ふみえ)になり、何より水木茂の本名も音は似ているけれど判り易く変えられていたし、その他の登場人物たちも実際のモデルがいるにも関わらず、名前も出版社の名前なども変えている。
実際の物語なんだから変える必要もないだろうと最初は思っていたけれど、朝ドラという尺上の問題で原作(実際)にはいない登場人物がたくさん創作され、水木しげるの物語をベースにしながらも、あくまでも朝ドラとしての創作物に作り上げたことを考えると、あの水木夫婦とこの水木夫婦はやっぱり別人なのだ、という思いを強くするんである。

実際、朝ドラのキャストを聞いた時と、映画版のキャストを聞いた時とでは、しっくりの度合いは圧倒的に映画版だった。そしてそれは双方観終わってみてもやっぱりそうだと思われる。向井理と松下奈緒じゃ美しすぎると思ったもんなあ。
まあ、布枝さんのことはその時点では知らなかったからアレだけど、水木しげるに向井理じゃ若すぎるというのをさっぴいても美しすぎるし……と。
松下奈緒のゴージャスな美しさも、同様にしっくりこない気がしたし。ただ、しっくりこないように思えた二人も見事水木しげると布枝(布美枝)となって視聴者を釘づけにした訳で、そこはさすが役者といったところなのだけれど、でもその朝ドラが終了して、最初からハマリ役と思っていた映画版に対峙してみると、う、うう、やはり、最終的にしっくりきたと思っていた向井理はやっぱり美しすぎたかと(爆)。

顔が似てる訳じゃないんだけど、クドカンの貧相さと(ゴメン!)大らかさを併せ持つ雰囲気って、“売れる前の、貧乏時代の水木しげる”のイメージにピッタリなんだよね。いやそれこそ、実際の“売れる前の、貧乏時代の水木しげる”を知っているわけでもないんだけど(爆)。
でもなんか、ホント……ピッタリなんだよなあ。突然低いトーンからハッハッハッと笑う様もなんとも“しっくり”くる。それに対して布枝が戸惑うばかりなのも実に、“しっくり”くるんである。

吹石一恵嬢は、ほどよく地味な女優さんで、それが故に今まではどこか決定打に欠けていたというか……いや、彼女がじゃなくて、彼女が演じてしっくりくるような役が、なかなかなかったんだけど、本作に彼女のキャスティングを聞いた時は、やっと来たか!と思ったなあ。
実際の水木しげると布枝の年齢にも二人ともピタシで、やっぱりそういうリアリティは嬉しい。だって向井理はどんなに老け風に演じてても、お肌がツヤツヤなんだもおん。

朝ドラでの二人は、結構最初からラブラブなんだよね。彼女のために質流れの自転車を買ってきてくれた茂に布美枝が瞳をうるませる場面なんて前半のハイライトで、私はもう既にあそこで号泣してたもんなあ。
でも本作の二人は、最初から最後までそんな雰囲気は皆無である。考えてみれば、お見合いして五日で結婚したんだからそれが普通とも思える。
やっぱりさ、朝ドラだと、お見合いから結婚式から上京するに至ってまで細やかに描写して、その間に何となく心が近づいたり離れたり、なんて雰囲気もあるけど、映画は見合い写真の撮影から、もうぽん、と新居に到着しているんだから。
でもその方がリアルだと思うんだよなあ。いくらその間になにがしかのことがあったって、やっぱり見合いから五日で結婚して、突然東京での生活で、しかも超貧乏、なんだもん。

朝ドラのように、ヒロインを助けてくれる近所のおばちゃんたちやらも当然、いないしね……。
思えばその“フィクション”こそが、一番朝ドラチックであり、そしてそのことによって、「ゲゲゲの女房」をフィクションとしてドラマ化したというスタンスがハッキリしていたんだと思う。
そりゃあ映画だってフィクションなんだけど、でも、布枝の孤独や貧乏に喘ぐリアルさは、やっぱり本作は見事だと思ったなあ。

そうなの、布枝はすんごく孤独に見えるのだ。同じ東京におねえちゃんは住んでるけど遠くだし、相談できる人もいない。
なのに、お金はないし、取り立ては来るし、原稿料の受け取りを頼まれて赴いても「売れるマンガを描いてくれなきゃねぇ」と逆ギレされて、半分しかもらえない上に、その出版社はほどなくして倒産してしまう。
その間、布枝はずーっと一人の寂しさに耐え抜いている。売り物にならないキャベツの外側の葉をもらってきたり、野草を引き抜いてきたり、パン屋さんから食パンの耳を譲ってもらってきたり。

涙ぐましい努力を続けて食事の支度をしているところに、二階の下宿人から「いやあ、いい匂いですね。実は家賃を待ってもらいたいんです。生活が苦しくて……」と持ちかけられて、彼女は爆発してしまう。
こんなミジメな思いをして食料を調達してるのに、まるでこっちが楽な大家みたいな言い方しやがって、みたいな……いや、しやがってなんて、言ってないけど(爆)。

でも布枝の気持ち、すんごい判るんだなあ。だってこの2階の下宿人は、それこそ朝ドラではひどく同情的に描かれていたけれど、映画版では、資本マンガ家時代のプライドを捨て切れなくて、街中で似顔絵描きをしていても、ミジメに感じてすぐに切り上げてしまう、なんていう男なんだもの。
演じるムラジュンの枯れっぷりでついつい騙されてしまいそうになるが(爆。どうも最近、ムラジュンの枯れっぷりにヨワいんである)、女から見れば、一番タチの悪い男である。
そんな布枝の叱咤が効いたのか否か、彼はその後しばらくして、荷物をまとめて去っていく。その行く先がアイソをつかされた奥さんと子供の元なのかは判らない。そんな人情話には、しないんである。

そうそう、この、ね、下宿人が似顔絵描きに立つのが、パルコの建物もバッチリ映る渋谷の街角で、街中を走るバスの頭に示されている行き先表示もしっかり電光表示だし、姉の元にプチ家出をする場面で、バスを待っている場所は田んぼの中なんだけど、その向こうに、思いっきり近代的な高層マンションが見えていたりするんだよね。
思えば布枝が東京に着いた場面の、その東京駅の前でのシーンから既に、あれ?とは思ってて……。都心から二人が暮らす調布に走る電車や、車の感じも恐らく、現代、だよね?
見ていてなんともヒヤリとしたんだけど、そもそも本作は、現代の日本の中で昭和30年代を描く、というのが、ひとつのテーマだったんだと言う。そんなバカなと一瞬思ったけど、なんか次第に、確かになるほどかもなあ、とも思ったんだよね……。

現代の弱い自分たちの土俵で、水木しげるとその妻という、タフな人間を撮る。そこに投影されるのは、その、弱い現代の自分たち。
監督の意図どおり、確かに本作での水木しげるも布枝も、決してタフではない。またしても朝ドラを持ち出してアレなんだけど、例えば、彼がこの貧乏生活を抜け出す大チャンスである、マンガ週刊誌からの依頼を、苦手なジャンルだからと断わる場面。
朝ドラでは、自分の才能を信じている水木しげるが、大丈夫、彼はまた来る、と自信たっぷりだったのに対して、本作の水木しげるは、「宇宙ものなんて描けない、気が向かない漫画を生活のために描くぐらいなら、妖怪と心中する」という、なんというか、後ろ向きな態度に見えるんである。
エピソードや台詞が同じなだけに、実はこっちの方がリアルな感触なのかもしれない、と思うけれども、判らない。

布枝は、本作の中だけの感触としては、水木しげるの漫画の凄さを何となくしか実感していない感があり、先述の下宿人に対してキレたように、しげるに対しても「描く気がないなら、今すぐやめてごしない」と、質屋に持っていかない蔵書を引き抜いて叩きつけるんである。
……そういやあ、朝ドラでも(まだ言うか)、家中のものを質屋に入れては出し、入れては出ししてたけど、確かに蔵書は入れてなかった。でもそのことについては言及してなかったんだよね。

いわば、しげるの仕事場は聖域であり、質札だらけの生活でも、二人は明るく暮らしていた印象だった。でも、思えば、アレだけ貧乏に苦しめられているのに、あんな立派な蔵書だけは質屋に入れないことに奥さんが立腹しないのは確かにおかしいよなあ。
それを思えば、朝ドラはやっぱり、貧乏生活をリアルに描くことにはそれほど執着していなかったことに改めて思い至る。
いや、見ている時からそれは思ってたけど。だって、商店街で知り合った友達たちとの絆の方が楽しそうだったもん。そしてそれが超フィクションで、多分、こんな風にリアルに追い詰められていたのが本当だったと思うんだよなあ……。

布枝が身ごもって、それに対してしげるが「子供は大変だぞ……」とつぶやき、彼女を絶望させるシークエンスも朝ドラにもちゃんとあったんだけど、その台詞を聞いて絶望して、お姉ちゃんの元に身を寄せたのが朝ドラ版。
映画版では、苦労している妹を見かねてお姉ちゃんが連れ出し、迎えに来たしげるにその時点で布枝が妊娠を告白、彼の台詞にみるみる顔をこわばらせて涙をあふれさせ、「私もしげるさんも年をいってるから、今度、いつさずかるか判らない。私は産みます」と宣言するんである。
これって、順序が違っただけで、ぜんっぜん、印象が違うよね。バナナを持って迎えに来るのは同じだけど、しげるの言葉に傷ついて姉の元に身を寄せたのと、迎えにきてからその事実を告白したのじゃあさあ……。

実際がどっちだったのかは判らないけど、何となく、映画版の方がリアルな気がした。あくまで、あの時代だから、ね。今の時代で、しかも万人が見ている朝ドラでそれをやっちゃうと色々と問題があるからさあ……確かに順序をちょっと違えてみれば、現代風ラブラブ夫婦の物語に早変わりしちゃうんだもん。
実際、朝ドラで、突然家を出た奥さんにうろたえて、バナナを携えて迎えに行く向井理にかなり萌えたしな(爆)。

でもね、やっぱりリアルはこっちな気がするよ……。あのね、子供を授かったって、つまり、そういう行為をしていたって(なんか、サイテーな言い方だが)、やっぱり二人は見合いから五日で結婚したという、なんか契約同居人みたいな雰囲気が、ここに至るまでずっと漂っていたしさ。
ことにしげるがこんな無責任発言したことで、もしかしたらそんなことを言われるんじゃないかと予測していたかもしれない(やっぱり一緒に暮らしてれば、そういうのって、感じるじゃない?)布枝が爆発することでようやく、そうじゃないんだ、ということを、しげるに判らせることが出来たと思うんだよなあ。
なんかね、ホント、こういう感じこそリアルなんだと思うし、布枝が爆発する場面はここと、あの下宿人の場面ぐらいで、ホントそれ以外は淡々と過ごすんだけれど、だからこそ、そこでハッキリと変わっていくんだよね。

それにね、それこそ、子供が出来るような行為をしたのに……なんて下衆なことを言っちゃったけど、それもちゃんと、結婚まもなく、ていうか、もう最初の日にそうだろうな、っていうのを示してるんだよね。
家に着くなりしげるは仕事部屋にこもっちゃうし、夫婦生活以上に考えなきゃいけないことがあまりにもあり過ぎるし。
でも、この日の晩、お風呂が沸きましたよ、と布枝に言いにきたしげるが、背中を流してもらえますか、と結構アッサリと言うんだよね。アッサリすぎるから、布枝も、え?と返す。しげるはちょっと照れたような風を見せながらも、背中が届かないから、などと言う。
……思えば、じゃあ、今までその届かない背中をどうしていたのかと思わなくもないのだが、思わなくもない……うーん、意外とそんな色っぽい相手がいたりしたのか??いやいや……下宿人に手伝ってもらっていたのかも……(ああー、妄想大爆発!)。

でも、とにかくとにかく、しげるにそう言われ、風呂場に向かった彼を見送って、ややしばらくして(かなり、しばらくあったぞ)、おもむろに靴下を脱いだ布枝の場面で一度カットアウト。
次は二人が布団を並べて寝ているシーンで、目覚めた布枝が掛け布団をのけて身体を起こし、ちょっと困ったような風情を見せて、放置されていた帯を探り当てて腰に巻きつけ、体裁を整える。
つ、つまり、帯はどこへかすっ飛んでいて、身体に寝巻きはまとっていたものの、かなりあらわな状態だった訳で……それって、もうまんま、新婚初夜ってヤツやんか!

え?これって、考えすぎと違うよねえ?さすが、ひっそりと描写してはいたけど……。なんかね、それこそこういうのをきちっと示せるのこそが、朝ドラと違うとこかなあと(爆。私もしつこいかなあ)。
だって正直、朝ドラでは、何にもしとらんのに、そんな雰囲気を感じることもなかったのに、じっつに健康的?だったのに、なんかいきなりつわりで、子供が出来た??みたいな。
まあその辺を汲み取るのがオトナってヤツなのかもしれんが、でもやっぱり、おとぎ話じゃないんだからという気もしてたからさあ……。

二人は、特に布枝の方はこの時代に比して言えば行き遅れの大年増であり、しげるの方は、もはやこの時代はお国のために戦った軍人さん、などという価値観も薄れ、カタワで帰されたカワイソウな軍人さんであり、奥さんをもらえただけでもラッキーみたいな、そんな時代の目線をひしひしと感じるから。
ラブラブ夫婦じゃ、やっぱり現実的じゃないのだ。言ってしまえば、子供が出来た時点では、つまり、そんな行為をしていても、この時点では、彼らはまだ、心はつながっていなかったと思う。
そこが残酷なまでのリアルであり、ここでようやく、おとうちゃんとおかあちゃんとしての手を結び、そして、映画からははみ出した、これから、なんだよね。
映画は、ようやく週刊誌での仕事が決まったところで終わる。水木しげるが認知される、ドラマやアニメはまだまだ先である。まさにこれは、きっとあの時代、こんな夫婦が沢山いたであろう、そのひとつの物語、なのだ。

意識的に現代のバックグラウンドを見せながらも、何より印象的だったのは、本作の暗さである。時間経過と共に暗くなっていく様が巧みにスローモーションで描かれる。
こんな生活だから、電気が止められるエピソードも用意されている。夕方が急速に訪れて、電気をつけようと思ったら、つかない。
ろうそくを灯して、布枝もアシスタントをしながら、しんしんと作業をする。それはまるで、深夜に降る雪のように、静かな静かな夜である。
妖怪がふとイタズラして、ろうそくの火を吹き消したりする。郷里にいたべとべとさんも、この大都会東京の、しかし片隅の静かな田舎にはいるのかもしれない……。

実際、本作にはびっくりするぐらいフツーに、妖怪がそこここにひしめいている。都心と彼らの住む調布を行き来する鉄橋の下の川には常に小豆洗いが“フツーに”いるし、タダ同然に譲ってもらったバナナを二人してかぶりついている時には、南国風のバナナの木の妖怪?がウッホウッホと踊っている。
そして何より印象的なのは、長女をおぶって橋の上に佇んでいた布枝が、後ろから来る足音に、しげるが話してくれたべとべとさんだと思い、「べとべとさん、べとべとさん、どうぞ先に行ってください」と言ってもシンとしているのでふと振り返ると、そこにはしげるが立っている。

「なんだ、おとうちゃんか」「何ガッカリしてるんだ」「べとべとさんかと思った」

そして、布枝は「帰らんや」とふわりと笑顔を見せる。それにつられたように、しげる、演じるクドカンが、あの印象的な八重歯をニョキッと出して笑う。
なんかあのシーンで全てが決したような気がしたんだなあ。妖怪じゃなくてガッカリした布枝はこの時まさに、“ゲゲゲの女房”になり、そして二人が帰る場所はこれから先もずっとずっと、一緒なのだ。★★★☆☆


ケンタとジュンとカヨちゃんの国
2009年 131分 日本 カラー
監督:大森立嗣 脚本:大森立嗣
撮影:大塚亮 音楽:大友良英
出演:松田翔太 高良健吾 安藤サクラ 宮崎将 柄本佑 洞口依子 多部未華子 美保純 山本政志 新井浩文 小林薫 柄本明

2010/6/22/火 劇場(新宿ピカデリー)
青年二人と少女一人のロードムービーと聞いてふと「突然炎のごとく」なんぞを思い出したけれど、はてどんな話だったかトンと思い出せない。
ただラストだけは覚えている。女の子が片方の男の子と車で突っ込んで死んでしまうのだ。本作は生き残るのは女の子のみ、その点は大きく違うけれど、それはきっと、実は女の方がしたたかに生きるのだという結論なのかもしれないな、とも思った。

瞬間的に男にひっつき、愛されたがりの女の子はきっと「突然……」もそうだったような気がするけれど、実はその、一人の人に縛られずに、自分を今生かしてくれる対象として男を選ぶ女の子は、繊細に理想を求める男の子よりずっと強いものなのだもの。
本作は、タイトルでは三人の名前が連ねられているけれど、実際に見知らぬ世界に旅立つのはケンタとジュンの二人だけ、カヨちゃんはそこには入ってないんだよね。思えば「突然……」も原題は「ジュールとジム」カトリーヌは入っていなかった。

とにかく玄人受けしそうな監督さんで、デビュー作の「ゲルマニウムの夜」は強烈な印象は受けたものの、実際おバカな私にとっては内容自体は??の部分も多かった。
その点本作は、物語自体は判りやすく出来ているように思う。なあんて分類してしまうこと自体愚かなことだと判ってはいるんだけれど、ただこの判りやすさが、とても意識的に行われているような感覚も覚える。

施設で兄弟同然に育ったケンタとジュン、罪を犯して刑務所に入っているケンタのお兄ちゃん、解体工事、それも下請けの下請けって感じの、という職しか選べないことも、そしてそこで二人が恫喝されているイカつい先輩がシャブをやっていてヤクザとつながっていることも、なんだか何もかもがひどく記号的に思えてしまう。
「誰とでもセックスするのは、愛されたいから」というファム・ファタルが登場するに至っては、これはファンタジーなのではないかという気さえしてきた。

いや……それは存外、当たってたんじゃないかしらん、などと。そりゃあ、このファム・ファタルはそれこそ記号的なそれではない。ブスで(そりゃ安藤サクラは美人タイプじゃないけどブスって訳でもないのに……でも美人って訳じゃないのは確かにそうだから否定出来ない……)デブで(これもデブってほどでもないが、映画の中の少女としては充分にその要素を満たして登場。さすがは安藤サクラである)、しかも極めつけがワキガだというんだから。

ここまでくるとさすがにギャグで、それを裏付けんがごとく彼女のファッションも痛々しくて見ていられないほどダサハデなのだが、だからこそ女は生き残るだけの強さを持っているというたくましさと言えば、そうかもしれないと思う。
彼女は青年二人にブスブス言われながらもへこたれず、そしてそう言われつつも彼女のふくよかな太ももや柔らかな二の腕は、孤独な青年を癒すのに充分な母性なのだ。
そう、その太ももや二の腕に触っているだけで男の子二人が癒されてしまうシーンは、知らずに爆睡している彼女の無邪気な寝顔も伴って、まるで時間が止まっているかのようだった。

で、というか、なぜ逃避行になったかっていうところから始めなきゃいけないのか。でも、なぜ、という決定的なきっかけがあったのかどうか。
ケンタはお兄ちゃんがケガを負わせた横柄な先輩に判りやすいイジメを受け、搾取されていた。ジュンはそんなケンタといつも一緒にいた。
女を抱きたいからナンパしに行こう、とケンタを誘ったのはジュンだった。そこで唯一引っかかったのがカヨちゃんで、3Pのつもりだったのかもしれないけど、そこでケンタをかたわらに置きながらカヨちゃんとセックスしたのはジュンだけ。

思い返してみると、カヨちゃんのモノローグが聞こえてくるのはここだけなんだよね。例の、愛されたいから私は誰とでもセックスするんだ、というやつ。自分がブスなのは判っているから、と。
正直、“自分がブスなのは判っている”だからセックスする、というのは、愛されたいからというキーワードをもってしてもいまいちピンとこないんだけど、ここは安藤サクラの圧倒的な存在感をもって押さえ込んでしまうあたりがさすがである。

だって彼女、可愛いんだもん。普通はね、こういう設定の女って、どうしてもウザイっていうか、少なくとも同性に対しては拒否反応を誘発する確率が高いと思う。
だって、こういう女、都合がいい女をそのまま体現しているようなもんだもの。ブスでデブでワキガ、という、ワキガまでいくとそれはギャグとしか思えないけど、とにかくすぐにでも男に捨てられる条件を満載している。言い換えれば、こんな女捨ててもしょうがないじゃん、という言い訳を最初から男に与えている女なんである。

しかもしかも、「網走って知ってる?」と問われ「誰?芸能人?」と聞き返すほどの頭の悪さは、ファム・ファタルにありがちな白痴性と言ってもいいようなもので、この設定って結構ギリギリなんだよね……。
それでも、女にさえ(というか、女にこそ)カワイイと思わせてしまう安藤サクラって、スゴイと思う。ある意味この物語は彼女で成立していると言っちゃってもいいぐらいかもしれない。

とはいえ、彼女はそもそも登場も遅かったけど、中盤もそっくり姿を消すんである。結末まで行って、ああ、結局はケンタとジュンの物語だった、見知らぬ世界に旅立つのは二人だけなのだと判ってしまうと、それも納得ではあるんだけれど……。
なんたって三人同列に語られているタイトルロールなもんだから、あまりにもそっくりいなくなってしまう中盤には、見ている時には若干の違和感を感じなくもなかった。

でも、ケンタとジュンなんだものね。だったら最初からそう言ってくれればいいのにー(いや、誰がどこで言うってんだ……)。
だってさこれって、誤解を恐れずに言えば、ケンタとジュンの純愛物語じゃないの。いわば、カヨちゃんは二人の絆を強くするために現われたライバルみたいなもんでさ。
そりゃあ二人とも健全な男子で、カヨちゃんと一時は同棲までしたジュンは、一度は捨てた彼女から愛していると言われて、まんざらでもなかった。
それどころか、自分も愛していると、思った気持ちも、ウソではなかったに違いないけれども……困ったことに男同士の友情ってヤツは、古今東西、有史以降の昔から、女は介入出来ないことになってるんである。

それを思うとタイトルロールにカヨちゃんを入れたことと、彼女を最後生き残らせたことは、ちょっとした配慮のようにも思えなくもないのだが……。
でもね、ケンタとジュン、だったんだよね。演じる松田翔太と高良健吾にとっては、数々のキャリアを重ねてきた二人なれど、これは確実に転機となる役柄であり、作品であったに違いないと思う。

ケンタはジュンに、俺とお前は違う、と言う。でも結局、何が違うのか、最後まで彼は言わなかったし、観客にも明かされなかった。
本作に対するフラストレーションがあるとすれば、この一点だったように思う。推測できるのは、ケンタには罪を犯してしまった兄がいること、そのことが彼の生きる道を圧迫しているということなのだろうか。
しかしジュンは兄弟さえもいない天涯孤独であり、双方の立場を、どちらがどうとは言えないと思うのだけれど……。

ただ、先述したようにこの、施設で育って未来など選べない男の子、という設定自体が、すごくカッチリと記号的なのに、そこを掘り下げる訳ではないんだよね。
でもこの記号的っていうのが、非常にキワキワというか……記号として扱うにはリスクの高いものばかりってあたりが、作り手の尋常じゃないキモの強さを思わせる。
ケンタとジュンは、網走刑務所に収監されているケンタの兄に会いに行くために、職場からトラックと売り飛ばすための銅線やらを盗んで、ことの成り行きでカヨちゃんも一緒になり、そして途中で気まぐれに彼女を捨てて旅を続ける。

いろんな人に出会い、そのどれもが強い印象を与えるんだけれど……中でもヒヤリとしたのは、施設仲間が勤めている知的障害者施設、そこで働く障害者たちと乗り合わせたバスである。
本当に障害者の人たちをスクリーンに登場させていて……一見して判ってしまうのが、ああ、それが、私たちはなんて隔絶された世界に生きているのかと今更ながらにガックリしてしまうんだけれど、それ以上にガックリしているのは彼らに違いなくて……。

そう、一見して判ってしまう知的障害者、その独特の表情を、隔絶された世界に生きている私たちはあまりに見慣れてなくて、ヒヤヒヤしてしまうのだ。
ケンタもジュンもまるでわだかまりなく、彼らとイエーイなんて手を合わせていて、その描写はそのままスルーしてしまうのだけれど、それは……彼らもまた疎外されて生きてきたものだからという表現なのだろうか。
それにしても、というか、もしそうだとしたら、それは危険すぎるようにも思えたけれど……この一点にこだわってしまうと、この作品自体から離れてしまうからこれ以上はやめておこう……などと思わせるぐらい、ずいぶんと挑戦的なことをするなあ、と思ったんである。

やめておこうとか言いながら……でも彼らが登場した時、即座に思い出してしまったのは、カヨちゃんの、無邪気と言い換えられはするけれど、まあ……ちょっと頭悪いというか、頭弱いって感じのとこで、先述したけど、ファム・ファタルによくある白痴美、なんだよね。
でももしそれを結びつけるなら、本当にこんな危険なことはなくてさ……。本作が記号に満ちているんだとすれば、それは世の中が強権的に記号化し、そのことで弱者を抑圧していることへの強烈な批判なのかもしれない、と思ったりする。

ケンタは網走刑務所の兄の元にたどり着く。この網走刑務所というのも、ほおんとに記号的である。正直私は、網走刑務所ってのが今でもあるのかと思わず疑ってしまったぐらいである(もちろんあるんだな)。それぐらい、そう、もう、高倉健であり、網走番外地、フィクションに満ち満ちている“記号”なんだもの。
そもそも彼らが住んでいたのがどこなのか判らないけれど、……ジュンが「茨城より上(北)に行ったことがない」と言うぐらいなんだから、関東地方の片田舎であることは間違いない。
そこで罪を犯して網走刑務所に収監されるものなんだろうか……いや、刑務所自体にもどういったタイプの受刑者を受け入れるとかあるのかもしれないけど、それにしても網走っていうのは、確実にそのネーミングに対する印象を採用したものだとしか思えないよね。

しかも、彼らは“海の向こう”さえ知らないのだ……海を見ただけではしゃぎまくる描写があるのは青春映画の、それこそ記号めいたものを感じる。
一方で、彼らが「外国って本当にあるのかな」とか「海の向こうに何があるのか知ってるのかよ……俺たちの知らない世界だ」などと言うのが、施設で育ったからとか、生き方の選択が出来なかったとか言うよりも、海さえも知らなかった彼らが、海を見ただけで人生が変わってしまうような、そんな強烈さを感じるんだよね。そして実際、変わってしまったのだ。

こんな思いをして会いに来たお兄ちゃんだけど、全く心を閉ざしたっきりだった。演じる宮崎将、収監されているシーンでのボーズ頭になると更に繊細な印象で、なんか痛々しいほどの弱々しさの中から、
微かなふてぶてしさで諦念を漂わせている。
そもそもケンタはお兄ちゃんに会うことで、何かが変わると期待していたんだろうか。否。だって彼は自分にべったりついてくるジュンに、網走に行ってどうするんだよ、と牽制するように言っていたんだもの。

「ケンタの兄ちゃんって凄えよな、ハンパねえじゃん」などと無邪気に言うジュンに、お前に何が判るんだよ、何が凄えんだよ、と突っかかったりもした。
そんな具合に、二人の道行きはしょっちゅう滞ったし、その度ごとにケンタはジュンに、お前と俺は違う、と言っていたんだよね……。
でもさ、結局はケンタは、違う、のは、お兄ちゃんの存在だけだったこと、結局は弱いのはジュンではなく、お兄ちゃんに何かを変えて欲しいと思っていた自分自身だったことを、そんなこととっくに判ってた筈なのに、うっかり網走まで来てしまって突きつけられたことで折れてしまったんじゃないだろうか……。

ジュンには、カヨちゃんが好きなんだろ、一緒に行けよ、なんて言いながら、でもその頼みの綱のお兄ちゃんは、すっかり魂が抜けた顔をしていた。嬉しそうな顔は勿論、迷惑そうな顔さえせずに、面会室に入った弟の前にふらりと姿を現わした。
ぶっ壊しても何も変わらない。そう弟にめんどうくさげに告げた。弟が、ここまでたどり着くまでにぶっ壊してきたこと……事務所を荒らしトラックを盗んで銅線を持ち出し、先輩の車をボコボコにしてシャブを奪って捨てたことやら、そんなことは、ぶっ壊す、になんてまだまだ届かなかった。

本当にぶっ壊してしまったお兄ちゃん、ロリコンというのは本当だったのかもいまいち明らかにされないけれども、どうやら幼女誘拐しちゃって捕まり、戻ってきた職場であの先輩……兄弟そろってイジめられているキョーレツな新井浩文におめーなんかクビだと言われて、黙ったままカッターナイフを斬りつけた。
何度も何度も。そう、静かなままだったけれど、彼は弟がハデにやったこととは比べものにならないほど、ぶっ壊してしまったのだ。
でも、それで網走に来ただけだ。何も変わらない。この壁を壊して向こうになんて結局行けなかったのだ。

ぶっ壊したら世界が変わる、そうお兄ちゃんに言ってほしかったケンタは……そんなことムリだってきっと判っていたに違いないのにさ。いや、ホントに判っていなかったのか、いやいや、最後の砦を崩されたことで、狂気に陥る。
あのイジワルな先輩が彼らの後を追って、拳銃を構えて道路に突っ立っている。
彼らの行き先を突き止められたことも、真っ白の車に黒づくめのいでたちでさっそうと車から降りて拳銃を構える様も、それまでは記号めいていても画面上はリアルさを漂わせていたのが、思いっきり鮮明なフィルムノワールのアイコンである。
ケンタはお兄ちゃんがパトカーで連れて行かれた時と同じように、躊躇なくバイクで突っ込む。

ケンタと先輩とが倒れた画からいきなり飛び、三人が焚き火を見つめている場面になるもんだから、これは夢か、あるいは時間軸が飛んだのかと思いきや、特にそういうこともなく、ケンタはキャンプに興じている男女たちにイライラを募らせるがごとくはむかっていく。ボコボコに殴りつける。
カヨちゃんが焦って、止めてよ!とジュンに言いながら、自らケンタを止めに入る。お前もかよ、とケンタは狂犬のような顔をして彼女さえもぶっとばす。
ジュンは、まるで冷静な顔をしながら、ケンタ君、何してるの、とつぶやいて、あの先輩から奪ったであろう拳銃を構えた。頭を殴りつけるための石を掴んだケンタと、にらみ合った。
あのときも、ケンタはジュンに、俺とお前は違う、と言った様な気がした……いや、そう思いたがっていた気持ちが、常に聞こえていただけかもしれない。ジュンはケンタの腹に発射した……。

カヨちゃんは、排除されるんだよね。二度目の排除。この逃避行の最初、気まぐれかお遊びのように、彼女のお財布から現金だけを抜き取って置き去りにした一度目。その後、まるで奇跡みたいに(網走に行くってことを知っていたにしても)フェリーで再会を果たし、再び道行きを共にして、そして二度目の排除。
息も絶え絶えのケンタを抱き抱えて車に乗せるジュン、駆け寄るカヨちゃんに、来るな!と一喝する。泣きそうな顔になったカヨちゃんが、私のこと、愛してる?と問いかける。ジュンは静かに頷いて、そのままケンタと共に走り去った。

でね、二人は、見知らぬ国へと旅立つんである。険しい岩が切り立った海岸まで、ジュンはケンタを連れて行く。お前、なんで撃ったの、というケンタにジュンは微笑んで、だって俺にはケンタ君しかいないから、と言うのだ。
こ、こ、これって……!このラストが用意されているなら、これはもはやアナカン、モーリスの世界じゃないのお!(そう思うこと自体が古いっ)。

でもでも、やっぱり最初から、ケンタとジュンだったんだよね、カヨちゃんはさあ、カヨちゃんは……彼らにとって必要だったと言うのなら、それは母性、あの、太ももと二の腕を触って子供のように両方から彼女に寄り添った車中のシーンに集約されるのだ。
だからブスでデブでワキガでOKなんだよね。息子は母親に対して美醜で価値を判断しない、ていうかしてしまったらそれこそ、近親相姦とか意味合いが違ってきちゃうしさ、ワキガさえも母親ならば、いや母親だからこそ、自分だけが許せる愛しさなのよ。

でもね、女の子はそんな甘美に付き合って美しき死に同行したりしない。ジュンに置き去られた形になった彼女は、またどこかの男に捨てられて車から突き落とされ、血へどをペッと吐いて唇から垂れた血をぬぐい、前を向く。
その彼女の顔のアップでエンド。やっぱりね、ケンタとジュンの、孤独しか知らない純粋さとは彼女は違う。フツーにお金も持っているし、生きる術も持ってる。この思い出さえも、……そう、遠い思い出にしてしまえるのだ、きっと。

母親に目を潰された男の子とか、飼い主を食い殺してしまった闘犬とか、色々印象的なエピソードはあるんだけれど、書ききれない……。
でも、闘犬のエピソードに出てきた、彼?を引き取ったまるでホームレスみたいなぼろぼろのおっさん(小林薫)が言った「こいつは人間に縛られてた」から、生き方を選べる彼が飼い主を食い殺す選択をした、という言葉は強烈な印象を与えた。
ケンタもまたその言葉を重く受け止めたんだけど、その時ジュンが「飼い主を食い殺すなんて頭悪いじゃん」と言ったことが、二人の“違い”を鮮明に浮き上がらせもした。

生き方を選べないと言ったのはどちらだっただろう。でも言葉上ではそう言っていても、本当はケンタは生き方を選べると、そんなささやかなことが、世界をぶっ壊した先にあるんだと、無意識にも思っていたかもしれない。
でも飼い主を食い殺した闘犬は一応は救われても、閉ざされた柵の中で死を待つしかない余生を送っているのだし、そして二人も……これをファンタジーと言ってしまったのは、それこそ人生に後ろ向きだっただろうか。★★★☆☆


玄牝 -げんぴん-
2010年 92分 日本 カラー
監督:河瀬直美 脚本:br> 撮影:河瀬直美 音楽:ロケット・マツ
出演:吉村正 吉村医院にかかわる人々

2010/11/16/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
最近は特に出産に関するドキュメンタリーや、劇映画でも多い気がするのは、少子化のみならず、世にはびこる痛ましい子殺しなどの事件も関係しているのだろうか。
などと思ったのは、本作のテーマである自然分娩を勧める集まりで、そうではない分娩を経験した妊婦が、「陣痛促進剤を打たれて、お腹を押されて、産まれた子供を大事と思えなかった。自分の方が大事と思ってしまった」と涙ながらに告白する台詞に、実はそういう状況を作り出しているのは、親自身ではなく、合理的になりすぎた社会なのかもしれない、と感じたから。

無論、そこまでうがったことを本作は言う訳じゃない。ただ、生命を、赤ちゃんを、そうした尊いものをきちんと尊ぶのならば、自然のまま、ありのまま産むべきだという、本当にシンプルなことを言っているだけ。
そしてそれを実践している場所を紹介し、その信念に惹かれた妊婦たちの様々を追うだけ。

そう、そんなシンプルなこと、自然に赤ちゃんを産むことが、なぜだか現代日本は困難になっている。
病院の白い壁に閉じ込められ、時間に合わせて陣痛促進剤を打たれ、ムリヤリ引っ張り出される。
お産は、鼻からスイカが出るぐらい痛いもの。そんなことがまことしやかに囁かれる。

いや、私は出産経験がないから、まことしやかがまことなのかどうかも判らないけど、ここで自然分娩を行う妊婦たちは、そうしたエピソードやあるいはフィクション映画、ドキュメンタリーででも見かける、その痛さ苦しさに獣のように叫んで、歯を食いしばっていきむ“見慣れた”出産シーンとはまるで違うのだ。
確かにいきんではいるけど、どこか陶然としてて、うっとりとしてて、ひどく色っぽいのだ。
そう、赤ちゃんが産道を通ってくる、まさに“鼻からスイカ”の時、「気持ちいい、気持ちいい」とまるで幸福なセックスをしているかのように、繰り返す妊婦さんもいる。
なんだろう、この違いって、一体なんなんだろう。
鼻からスイカは、どこに行ったのだ。

ここでの出産経験を語る妊婦さんは、「他の病院で産んだ友達は、トラウマで思い出したくないって。私は思い出したい。確かに痛かったけど、思い出したい」と、実に幸福そうな笑顔で言うのだ。
そしてそれに一様に頷く経験者たち。
それは、この吉村医院の老医師、吉村正の主張する、出産は女性にとって最高の喜びである、という信念にまさに合致しているんである。

まるで仙人のような外見の、この吉村先生が提唱する自然分娩、妊婦だからと言って安静にしているのではなく、よく動き、ビクビクしないで過ごすこと、を実践する場所は、さながら道場のようである。
古民家のつや光りする木の壁をスクワットしながら磨く妊婦たちは、50回を一セットで、一日300回やるんだと笑って見せる。

一方で、薪割りも行なっている。こんなん割れるの、と思うような太い丸太に斧を振り下ろす臨月の妊婦。開脚して腰を落として一気にしゃがむと、太い丸太が見事にパカンと割れる。
撮影している河瀬監督が思わず「カッコイイですね」と声をかけるのも納得の、カンフーマスターのようなとぎすまされっぷりで、しかし妊婦がやる行為とも思えずヒヤヒヤするんだけれど、彼女たちは逆に、常よりもツヤツヤと美しいんである。

ま、常の彼女たちを知っている訳ではないんだけれど……でも殆んどがすっぴんの彼女たちは、そのすっぴんが驚くほどに美しい。
それは元々美人だからすっぴんもキレイとかいうんじゃなくて、ごくごく普通の女性たちなんだけど、メイクを施した女性より、ていうか、比較にもならないほど、本当に、なんだろ……このキレイさって。
彼女たちがね、内面からパワーを感じるって、今までは高い美容液とか一生懸命つけてたけど、今はそんなのなくてもツヤツヤだって、その言葉が本当にそうだろうなと納得できる美しさなのだ。
こんなん、本当にあるんだね。赤ちゃんがお腹にいるという幸福感も勿論、めちゃめちゃにじみ出ているんだけれど、それだけじゃない。本当にキレイ。誰も彼もが生(き)の美しさ。

なんて思いながらも、実は私自身は結構複雑な思いで見てた。いやまあ、複雑なんて、大げさかな。
つまりね、私は出産ていうか、結婚そのものも積極的に選択しないで生きているから。ま、結婚してなくても出産は出来るけど(爆)、んでもって選択しないってか、相手がいないだけだと言われればそれまでだけど(爆爆)。
でも、そう……この世界とは無縁、なんだよね。でも一方で、いやだからこそか、世のお母さんほど素晴らしい存在はいないと思うし、この年になると若い頃にはまったくそんな気持ちはなかったのに、やたらと赤ちゃんや小さい子供に胸がきゅーんとなる自分がいたりして。

……まあだから、自分に負い目があるんだな。ことにこんな少子化社会で、恐らく特に問題なく子供を産める身体を持っているのに、一人気楽に生きていることに対してね。
それって、男性はそんな気持ちにはならんのだろうなあ、とも思って、常に恨めしく思っている(爆)。生殖年齢に割りと期限もないしさ(爆爆)。
だから、なんかね……妊婦さんたちがとてもとても幸福そうに吉村医院での出産経験を語り、ツヤツヤと美しい顔を見せ、果ては「妊婦であることが誇らしく思う。見て見て、私、妊婦なの!みたいな」とまで幸せそうに語る女性に、ちょっと臆してしまう気持ちを感じたのは正直なところだった。

私みたいな無責任者はいいけど、今はこういう問題はいろいろ……あるじゃない。
ただ、確かに日本は、妊婦や赤ちゃん連れのお母さんに対して冷たいところがあり、それもまた少子化を促進している要因だと思うから、この彼女のポジティブな発言は非常にステキなんだけれど、ちょっとヒヤリとしてしまう気持ちも確かに、あった。

だから、幸せな妊婦さんばかりじゃなく、ここに通ってくる仲間には言えないけど、実はだんなさんが行方不明で、幼い娘さんとともに出産に挑もうとしている女性の姿になんとなくホッとするものを感じてしまうのだけど、それって人の不幸を望んでいるみたいで、良くないよなあ。
でもね、彼女が「他の人たちは皆幸せそうだから、言えない」というのが、なんか凄く判る気がしたんだもの。
この映画の音楽を担当する(とはいっても、劇中では音楽は殆んど使われないんだけど)マツさんがピアニカで奏でるメロディに涙する彼女に、なんかとても、シンパシィを感じたんだもの。

いや、実はね、もし私が妊婦なら、自然分娩がいいことだろうとは思っても、ここには参加できないだろうな、と思ったんである。
それこそ、皆があまりに幸せそうだから。ここで幸せそうにしてなくちゃ、失格、みたいな……逆に自分をいつわらなきゃいけないようなプレッシャーを感じそうに思った。
吉村先生の仙人っぽい風貌と、近代医学を真っ向から糾弾し、昔ながらの分娩を推奨する姿勢、そしてそんな先生に心酔して集まってくる女性たち、という図が、こんなこと言っちゃなんだけど、何か……宗教団体めいていて、スクワットや薪割りといった、道場のような生活もそんな思いを加速させて、最初のうちはかなり引いて見ていた、というのが正直なところなんである。

勿論、彼の信念の確かさや、自然分娩の息を飲む美しさ、産まれる赤ちゃんと母親との一体感っていうのが、こんな風に説明する言葉が陳腐に感じられるほど奇跡のようだっていうのが、よくある感動系ドキュメンタリーのように大げさな音楽で飾ったりもせず示されていけば、ただただ頭を垂れるしかないんだけども。

でもね、そんな私のような外道の気持ちを汲んでくれるシークエンスも用意されているんである。
助産婦さんたちが話し合うシーンがある。一人の助産婦さんの妹さんが、ここの母親学級に参加したけれども、結局は見送ったという。というのは、雰囲気に飲まれて、「私はこの中には入っていけない」と感じたんだという。
それねー、きっと私もそうだろうなと思ったからさ(まあ、この仮定こそ、意味がないのだが……)。
助産婦さんたちはその言葉に頷きあい、先生は独裁者といったらアレだけれど、いい意味でのワンマンになってほしい、と言葉を選んで言う。

先生の信念は正しい。だからこそ彼女たちもここで働き続けているのだろうし、全国から多くの女性が集まるのだろうと思う。
でも、人生で一度か二度の経験である出産に際し、妊婦さんの気持ちにきちんと寄り添えているのかと、助産婦さんたちは控えめながらも自問自答するんである。
吉村先生はキャラといいオーラといい圧倒的な存在感で、ドキュメンタリーとは言え、なるほど映画の主人公にふさわしいんだけれど、そう、これはドキュメンタリーだからさ……。

これはね、やっぱり河瀬監督が子供を産んだからこそ、作れた映画だと思うなあ。
ドキュメンタリーとはいえ、画自体はすっかり河瀬節である。泣かせもなにもない、官能的に、本能的に、動物的に、妊婦と出産を切り取る。
私が、ダンナが行方不明の女性のエピソードに一番に泣いてしまうのは、ある意味邪道なんだろうと思う。基本、命をはらんだ女性たちはただただ強く、美しいのだ。

とはいえ、その命が失われることもある。検診でお腹の赤ちゃんの心臓が止まっていることが判った女性は、さすがに顔はオフにして泣きながら語り続ける。
まだ、私のお腹にいます。(普通の病院のように)かきだすのではなく、出産のようにこの子が胎盤と一緒に出てくるのを待ちたいと思います、と……。
ここは、グッときたなあ……実際、昔ならば、というか、本来は、そうやって赤ちゃんの命が失われたことを知ったのだろう。自然分娩と同じく、それこそが自然な形だ。

お腹の中の赤ちゃんが死んでいると判ったからって、かきだす、という行為に、そんな清掃処理のような行為に、何ヶ月かの間、慈しみ、はぐくんできた母親がどんなに傷つくか。
そしてここでふと思い出すのだ。それは、陣痛促進剤を打って、お腹を押して、無理やり赤ちゃんを出すのと同じではないかと。死んでしまった赤ちゃんも、生まれくる赤ちゃんも、まるでゴミのように扱っているじゃないかと。
ああ、このことなんだな。このことなんだ。命を扱うという、本当にシンプルな気持ち、何も、難しくないことなのに。

あのね、本作の中で何より感動的なのは、もちろん赤ちゃんの無垢な存在感もそうなんだけど……本当に本作で見る赤ちゃんは、赤ちゃんそのものというか、なんていったらいいのかな、カメラの寄り添い方がね、皮膚感覚があって、生物感覚があって、ゾクゾクするほど素晴らしいんだけど、それ以上に……子供たちなんだよね。
赤ちゃんよりもほんの数年だけ先に生まれた子供たち。命そのものの、生きている命そのものの、原始的な感動を届けてくれる赤ちゃんとは一味違って、人間としての生活をほんの少しではあるけれど経験して、ママやパパが大好きで、生まれてくる赤ちゃんを楽しみにしている、おにいちゃんやおねえちゃんになる子供たち。

本作の中で最初に描かれる出産シーン、既に三人の男の子を産んでいるベテラン妊婦さん、息子たちと夫に見守られながらお産が進む。
その中のね、一番年長さんと思われる男の子が、それでもまだまだ幼くて、桃のようなほっぺをした男の子が、ゆるゆると(てところが特徴的なのよね)いきむお母さんの手を握って、じっと出産の様子を見守っているんである。
正直、こんな幼い子が、ていうか、子供が出産に立ち合うこと自体にも驚いたんだけど、これはねえ、めちゃめちゃ、アリだと思う!こんな素晴らしい教育はないよ。

この男の子が、溢れる涙を見せないように両袖でかわるがわるぎゅーっとこすってこらえるのが、もう、もう、ズキューン!!!と撃ちぬかれてしまった!
驚いた。だってさ、彼の心に今充満している心情って、凄く大人びたそれじゃない?いや、大人だってそうそうは感じられない、深い生命の神秘に打たれた、感動と言ってしまうには軽すぎる、畏敬という言葉だけでも足りない。
とにかくとにかく、彼がこのわずかな人生経験の中で感じたことがなかった説明の出来ない、複雑で、深い、大きな感情に違いないじゃない?

正直、こんな幼い子供が、そんな感情を感じることが出来るんだということに、私は驚き、凄まじく感銘を受けてしまった。
それって、それこそ、子供を持っていないから、その奥深さを判ってないから、せいぜい子供なんて、と思っているからでしょ、と突きつけられたからに他ならなく、まったくもって大人の風上にもおけねえ愚かさに大恥なばかりなんだけど……。
でも、良かった。本当に、良かった。この姿を見ることが出来ただけで、私は未来に希望が持てたよ。私は子供を産むことはないまま過ぎていくだろうけれど、だから他人様の子供にお世話になるばかりだから……こんな子供が一人でもいるならば、日本の未来も捨てたもんじゃない、ってさ。

一方で、女の子はやっぱり、男の子より強いのかな。あの、ダンナさんが行方不明の妊婦さん、その一人娘。このたびお姉ちゃんになる彼女は、いきむお母さんにうちわで風を送り、額の汗をぬぐう。
この時点で、あの男の子の時のように、こちらがうっと涙をためて待っているとさにあらず、つるりつるりと赤ちゃんが出てくると、感極まって涙したお母さんとは対照的に、まるでクリスマスのプレゼントをもらった時みたいに、赤ちゃんに会いたかったァとはしゃぐんである。
ちょっと拍子抜けしたけど、でも、なんかなんか、嬉しかったなあ。だって心細いお母さんに対して、なんとも頼もしかったんだもの。
産まれるまではね、いつまでもお母さんにだっこをせがんでて、頼りなさげだったのに。女の子、なんだよなあ。

いつも“独裁者”のオーラを放っている吉村先生が、それでも、弱気を見せる最後こそが、命を真正面から描いた本作の真骨頂だったと思う。
長年、いわば強がりながら信念を貫いてきた彼が、しかし時には赤ちゃんの死にも遭遇するし……。
彼は、母体や赤ちゃんの死が悪だとする現代医療にこそ、異を唱えている。死ぬ時は死ぬ、だからこそ出産は尊いのだという信念のもとに、勿論現代医療のいいところは取り入れながら自然分娩を提唱しているんだけれど……。

でもそりゃ、死に際しては、へこむに決まっているんである。正直、現代では救急車で搬送された妊婦がたらいまわしにされ、赤ちゃん共々死んでしまったとかいう話も横行し、まっとうに手を尽くした彼が落ち込む必要などないのは明らかだ。
でも、最初の印象からだと、そんな弱気な姿を見せるなんて、思ってもいなかったから、驚いたというのが正直なところで……。

ひょっとしたら、この構成自体、河瀬監督のしたたかな意図なのかもとも思う。最初のうち、このおじいちゃん、うさんくさいと感じたのは、私だけではなかったかも(爆。いや、それは言い過ぎ!)。
でもさ、ホント、これは出産を経験した河瀬監督だから撮れるのだと思う。男は勿論、子供を産んだことのない女とも、お母さん、って明らかに違う。
妊婦さんや、お母さんだけ、別の世界の、高みの存在なのだと、リアルに思う。

実際これは、私のような、子供を持たない女が、一番リアルにそのことを感じると思う。
自分の世界を貫いていて、子供を持つことに懐疑的だった女の子が、出産した途端にそんな自分自身をすべて投げ捨てて子供だけに没頭する、そんな例を幾度も見て来た。
その度に、お母さんって素晴らしいと思いつつ、一抹の寂しさを感じてもいたのも事実で……変わらない子は、ホントに変わらないんだけれどね。でもそれは、自分自身で抑制しているんだろうなあと思うと更に寂しく感じたり(爆)。
やっぱり、取り残されるのは、社会に貢献せずに気楽に生きている、独り女なのかなあ(だ、ダメだ……)。。★★★★☆


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