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「け」


2006年鑑賞作品

痙攣 (淫らな唇 痙攣)
2004年 64分 日本 カラー
監督:田尻裕司 脚本:芳田秀明
撮影:飯岡聖英 音楽:
出演:佐々木ユメカ 真田幹也 堀正彦 北の国 大葉ふゆ はやしだみき


2006/5/30/火 劇場(ポレポレ東中野/R18 LOVE CINEMA SHOWCASE Vol.1/レイト)
2004年度、由美香さんと女優賞を分け合った佐々木ユメカ姐さん、あの「たまもの」の由美香さんと並ぶ演技ってどういうものかと興味があったんだけど、確かに、と納得した、いや、納得どころか呆然とした。この同じ年に、ピンク女優の代名詞的存在の二人の女優が、共にこんな奇跡的な演技を披露していたことに。
そして片や由美香さんは死んでしまった。あの「たまもの」の彼女が夢のような存在だっただけに、そして本作のユメカ姉さんがリアルな存在感なだけに、そんな別れ道がなんだか胸に突き刺さる。

ユメカ姐さんのこと、今までスクリーンの中で何度も観てきたはずなのに、こんな素敵な彼女は観たことがなく、まさしく呆然とする。何か失礼な言い方だけど……ホントに。
でもそれは、急に発露したものという感じではなく、彼女のキャリアが見事に結実した、という言い方がピタリとくる。
入れ替わりの激しいピンク女優の中で、由美香さんと共にスクリーンの中でオーラを育て続けてきた、そのオーラがビンビンに張ってる。若い女優は確かに魅力的だけど、こんな存在感は出せないもの。

ベテランの女性カメラマン、という役どころも素敵。黒のタンクトップにジーンズというシンプルなカッコがそのスリムな肢体にさっそうと似合ってて、肩までの揺れる無造作な髪を揺らして駆け抜けていくカッコよさといったらない。とってつけた感が微塵もない。もう呆然と口を開けて観るしかないほどに素敵なんである。
果たしてこれはピンク映画なので、当然繰り返しセックスシーンが出てくるんだけど、本作のそれもまたなんというか……圧巻である。
ここまで汗はかかねえだろ、と突っ込みたくなるぐらいに汗だくになる二人、しかし汗に髪を張りつかせるユメカさんは、これは……なんといったらいいんだろう……また由美香さんを引き合いに出すのもなんなんだけど、実際にホンバンだったという「たまもの」の由美香さんのそれと全然違ってて、作られた中に圧倒的なパワーがあるというか、今のリアルな30を過ぎたユメカ姐さんそのものの美しさがあふれてて、肉体の迫力があって、なんかもう、呆然と見つめるしかないのだ。
とにかく彼女にぴったりと寄り添うカメラが素晴らしく、それは彼女のもう若くはない女の表情を時に残酷なまでに映し出すんだけど、だからこそとにかく圧倒的で。

彼女は雑誌編集長の櫛田と不倫を続けている。冒頭はそのカラミから始まる。この男は必ず彼女の口の中でイき、飲ませるんである。
ウマイわけねーだろ、こんなもん飲まなくてもタンパク質は足りてるよ、などとこの行為から想像されるコイツの支配欲に憮然となるんだけど、この性癖が実は後から効いてくるんである。
他人の男を寝取る女と言われきたみのりを櫛田はこう評する。
「お前が他人のものを欲しがるんじゃないよ。お前がいい匂いをさせて男の近くにいるからだ。それも手の届きそうな、絶妙な位置にいるんだよな」
この台詞というのが、ユメカ姐さんの演じるみのりを端的に示してる。そしてそれを体現するユメカさんが実に素晴らしいのだ。

この櫛田は、かつてみのりが尊敬していた女性編集者の恋人だった。そして過去にもみのりは他人の恋人を「食い散らかした」ことがよくあったらしい。
彼女と偶然再会した大学のサークルの後輩の女の子は、「あの人は他人をメチャクチャにする人よ」と吐き捨てた。そしてみのりも「そのものズバリよ」と認める。実際ここでも恋人に出て行かれたばかりの青年が彼女に思いを寄せる。その原因も間接的にはみのりの存在があったことは否めない。
でもその“いい匂い”というのは、彼女が発する、強さの中に隠しきれない寂しさ、のようなものだったんじゃないか。

櫛田は、そういう彼女の揺れる思いを理解してはいない。彼を帰り道送りながら「流されてセックスすると落ち込む」と冗談交じりに言う彼女の言葉も、冗談としか受け取っていない。
口では「お前も30だろ。俺と遊んでばかりでいいのかとは思ってるんだけどな」と言うけれど、その方が都合がいいと思っているに違いない。
そして、彼女がまだ言い足りなそうにしているのに気づいてないのか気づかないフリをしているのか、タクシーが来た、とさっと背を向けてじゃあな、と一人乗り込み帰ってゆく。いかにも不倫の間柄のさっくりとした別れ際である。
慣れたように手を揚げて見送るみのりだけど、その姿に一抹の寂しさを覚えずにはいられない。

この時櫛田が「じゃああいつと付き合っちまえば」と名指ししたのが、今回仕事を一緒に組んでいる編集の慎一だった。「青年はカンベンしてください」というみのりの言い様が実に堂に入ってて、なんだかすっごく判っちゃう。
恋の部分から始めなきゃいけないことへの煩わしさと共に、そんなこと今更、とまぶしさに気後れしている30を過ぎた自分を感じてる。大人で経済力がある男がいいというのは、それが余計に感情を揺さぶられることがなくてラクだから。
でも一方で、心揺さぶられることを、待っている。この慎一が……彼が仕事を始めてまだまだ日が浅くて、ガッツがあるのがそばで見てて判るから、余計にガードを固めてしまう。そう、まさに“青年”なのだ。

慎一との出会いはあまりいいとは言えなかった。櫛田との夜を過ごした朝、気づくとみのりはいつのもように一人部屋にいて、誰もいないと判っていながら「……櫛田さん?」と呼びかけていた。もう出かける時間はとっくに過ぎている。
急いで走っているところを車から声をかけられる。「木島さん?」それが慎一だった。
ムスッとして助手席に乗り込むみのりに、「遅刻を謝りもしないんですか」とこちらも不機嫌モード。しかも現場で慎一がみのりを「お前」呼ばわりしたことでみのりはかなりムッとする。
そう、男は女をいつだって下に見てて、キャリアを積んだオバサンなんてうっとうしいぐらいにしか思ってないんだろ、そんな気持ちが感じられて。

アダルト漫画家の森あげはが久しぶりに復帰するという仕事を櫛田が取り、今回はその連載前に載せるインタビュー記事だった。
しかし彼女の様子はどうもおかしい。どうやらムリヤリ櫛田に確約を取らされたらしく、やはり描けないと言う。みのりはそんなあげはを容赦なくカメラに収めた。
それが彼女を怒らせた、と慎一は仕事のジャマをされたとばかりに憤るんだけど、でも見る限り、ろくなインタビューも出来ていなかった慎一のせいじゃないのとも思われる。

みのりがどこか挑発するかのように、シャッターを切り続けたのには理由があった。
まずは……森あげはが櫛田の女だったことを、その漫画の内容から判ってしまったから。みのりが普段櫛田にやらされている行為の全てが、そこに描かれてた。つまり毎回、口でイッて飲まされるとかね。
でもそれ以上に、きっと森あげはは描く。いや、描かなければいけない。そんな直感を、同年代の同じ女性として感じたからだと思う。
出来上がった写真は思ったとおりとてもいい出来だった。「いい顔」みのりは満足そうにつぶやく。
一方、慎一は櫛田から、でっちあげのインタビュー記事を書いて森あげはを追いつめて描かせちまえ、となんとも無謀な指示を出される。
「この5年間の恋を吐き出さなくちゃ」などという、いかにも男の頭の中で想像したような言葉を書き連ねた原稿を読んだみのりはたまらず吹き出すんだけど、こう提案してみる。「これ、森あげはに見せてみたら」

そして再度森あげはに挑んだ二人、口ごもる真一を尻目にみのりは森あげはにつめよるんである。一度は櫛田に描くと言ったんでしょと、何よりあなたは描くべきだと。
そしてあの「いい顔」の写真をあげはに見せる。それをじっと見つめる彼女、突然みのりにつかみかかり、激昂し、わめき散らす。驚いて止めに入る慎一。
またしても失敗に終わった形になったけれど、このあたりから慎一のみのりを見る目が変わっていた。
「俺、あんなに人が怒ったの、初めて見ましたよ」みのりのマンションに車が着く頃、助手席で寝入ってしまっていた彼女の肩に触れようとする。ビクリと身を震わせるみのりは身を翻すように車を降り、慎一に向かってシャッターを切る。また「いい顔」が切り取られる。

最終的にはみのりに揺さぶられたのが効を奏したのか、あげはは連載開始に同意する。でも一方であげはを無理強いした言って、慎一の恋人でみのりの大学の後輩である緑は怒り、彼の部屋から出て行った。
でもそれは多分予感というか、慎一の気持ちがみのりに傾いているのを薄々感じていたか、あるいはみのりは他人の男を取る女だから、という気持ちも働いたのかもしれないけど。

慎一はあげはが同意したことを報告するために、みのりを呼び出す。椅子をすすめられるみのりだけど、「話を聞きに来ただけだから」と立ったままお茶を飲む。……もうその時点で、予感を感じてひどくドキドキする。
帰ろうとするみのりを玄関口で呼び止めた慎一、「みんな木島さんを誤解してる。こんなちゃんとした人なのに」「ちゃんとした?……私はちゃらんぽらんよ」
でもその「青年」のまなざしに、振り返ったみのりは抗えない。この玄関口でのせめぎあいは、もう本当に……時間の進み方ってこんなに主観的なものなのかというのを感じさせる。

お互いに奪い合うように倒れ込む二人。もうせき止めるものが何もなかった。
翌朝、慎一のベッドで目覚めるみのり。起きる気配のない慎一に「このまま恋人になっちゃうかもしれないよ」とささやく。それは自分に対するいましめと、そしてかすかな期待が込められているように感じる。
「あと10数える間に起きたら、恋人になってもいい」そんなことを言ってテンカウントを始める。でもゼロ、まで言っても彼は起きない。みのりはそっと部屋を出て行く。

慎一を吹っ切ったつもりのみのりに、彼から執拗に電話がかかってきた。携帯に出ないと、自宅の電話に留守電が入っている。
みのりは気づかないフリをして、いつものように櫛田を部屋に招き入れるけど、「お前でも気乗りがしないことあるんだな」と見抜かれてしまう。
普段は彼女の気持ちの揺れにまるで気づかないくせに、こんな時だけは突いてくるコイツが悔しい。

ある時、みのりがカメラの中のフィルムを現像してみると、そこには彼女の寝姿を接写した写真があった。慌てて留守電を聞いてみるみのり。「黙ってカメラを使ったから怒ってる?でもいくら起こしても起きないから……」
なんということだ、あの祈るようなテンカウントの前に慎一は起きてて、彼女の「いい顔」を撮ってたなんて!
「青年」との恋を始めるには、ちょっとやそっとのキッカケじゃダメだと思ってた。だからどうなるのかとドキドキして見てたんだけど、もーこの大キッカケには見てるこっちも涙ウルウルである。みのりは駆け出す。満面の笑みで慎一のアパートに向かって疾走する。なんて幸せそうな笑顔!

でも間が悪くて、慎一は仕事に出かけるところだった。
「事前に電話くれればいいのに」と言う慎一にみのりは素直になれなくて、「迷惑なのよ。もう電話とかしてこないで」と心にもないことを言ってきびすを返してしまう。
もおー!みのり!そこで意地張っちゃったら何にもならない!えー、このままほろ苦く終わっちゃうなんてヤだよお!

みのりはとぼとぼと公園に着く。ベンチに座る。やけに晴れた空を見上げる。こみ上げる涙を抑えきれず、でも声を出して泣くこともはばかられて、嗚咽を抑えながら泣いている。
ややあって慎一がやってくる(!!あー!来てくれた……もうそれだけで涙)。黙ってみのりの隣に座る。そして空を見上げて
「何か、すげーいい天気」
こんな何でもないひとことが、それまでのわだかまりをすべて洗い流してくれて、こっちもこみ上げる涙を抑えきれない。
みのりは彼の目をマトモに見られなくて、でもその言葉にうん、とうなづいて……あーもう、ユメカ姐さんの震えるマジ泣きにホントにヤラれる!

ユメカさんが電車の中をずーっと歩きながら、窓の外やカップルを被写体に次々とシャッターを切っていくシーンの素敵さ、カッコよさときたらなかったなあ!それに、どこの地方訛りか判らないけど、彼女だけがこだわるように方言を使い続けているのも絶妙のリアリティがあった。
鼻歌のような挿入歌は、ひょっとしてユメカさん自身?これもまたステキなのよね。音楽がピンクには珍しく(ゴメンナサイ!)シャレてて、ステキだったし。

それにしても田尻監督は傑作を次々と生み出す。P−1の頃、四天王にライバル心剥き出しだったことを思い出すと、何か感慨深い。
いまや女性映画を撮らせたら、彼の右に出る人はいないんじゃないかしらん。★★★★★


ゲド戦記
2006年 116分 日本 カラー
監督:宮崎吾朗 脚本:宮崎吾朗 丹羽圭子
撮影:音楽: 寺嶋民哉
声の出演:岡田准一 手嶌葵 田中裕子 香川照之 菅原文太 内藤剛志 倍賞美津子 小林薫 風吹ジュン

2006/8/21/月 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
今までもジブリ作品で宮崎駿監督以外が演出を務めたことはあったけれども、息子である吾朗氏が監督であるという今回は、やはり大きく意味合いが違う。鈴木プロデューサーはジブリの今後を見据えてとはっきりと明言しているし、つまり後を継がせるという明確な意味合いがあるんだろう。
そりゃ今どき世襲制なんて流行んないし、ましてやこんなクリエイターの世界ではますます無意味なことではあるんだけど、ジブリ、宮崎駿という特殊な存在ではその前提自体が通じないんだろう。
なんか、判るような気がするんだな、吾朗氏が息子の立場として、あらゆる批判を覚悟の上でこの重責を負ったことが。で、恐らく父親である駿氏はそこまでは考えていない。
なんかね、大人とコドモが逆転しているというか……、天才芸術家の下で育った吾朗氏が、大人としての技術を早く身につけなければいけなかったことが、見えるような気がするんだよなあ、この作品を観ていると。

それにしても、掲示板が大荒れである。スタッフが管理、抜粋しているというから落ち着いているだろうと覗いてみたら、かなりの酷評の嵐。そうじゃない意見ももちろんあるけど、酷評がやたら熱弁ふるってて、肯定的意見がとても立ち向かえない感じ。
抜粋の上これなの?ジブリや宮崎駿を背負うって、やっぱりタイヘンなんだな……。原作者が怒ってるっていうのは、なんで君たちが判るんだろうとは思ったけど。
しかしさすがになんかカワイソ。でも意外だったな。そんなにヒドイかなあ……ていうか、全然違うのに。世間一般的にも評価キツイみたいだしなあ。

この原作はもともと、父親である駿氏が映画にしたかったみたいだけど、彼が監督したら全然ベツモノになっていたに違いない。でも、元々の原作からこの映画化のたたき台になるものは、駿監督が作ってるんだよね。でも脚本には関わっていない。というか、ずっと大反対で口も聞いていなかったという。なんか宝物をとられた子供みたいだけど。
ホント、違うんだよね、印象が。というか、息子だから、父親の欠点じゃないけど、父親だったらこうするだろうと思われる、気になる部分を排除したというのもあるのかなあ、と思う。
駿監督はある意味とても無邪気な人で、自分の言いたいことがあまりに生臭く作品に差し出される場合がある。そのバランスが取れている時には稀代の傑作になるけど、あまりに入れ込みすぎて意味不明になることも多い。私にとってはあの名作のナウシカも、そしてもののけ姫なんかその顕著なところだと思うんだよな。

てか、この息子さん、最初からジブリに入ったわけじゃないんだね。というか全然別の畑な上、凄くユニークな経歴の持ち主。
「信州大学農学部森林工学科(凄い学科だな)卒業後、建設コンサルタントとして公園緑地や都市緑化などの計画、設計に従事」ほおー(こういうことに単純に感心してしまうのだ、私)。
「その後'98年より三鷹の森ジブリ美術館の総合デザインを手がけ、'01年より‘05年6月まで同美術館の館長を務め、2004年度芸術選奨文部科学大臣新人賞芸術振興部門を受賞」
へえー、なんかスゲー!駿監督とは全然別の意味でスゲー!

なるほど、このスタンスでの演出ってことなら、いろんな点でなんか納得。確かに絵は描けるスタンス、でもアニメーターとしてのそれとは全然違うんだな。アニメーターではないこと、その経験がないことがかなり掲示板でも言われていたけど、アニメ作品だって、特にジブリなんかまでくると一個の映画として観ていいんだから、それはいっちゃえば関係ないんでない?アニメーターじゃなくても一つの映画として、アニメ作品を手がけている名演出家はいるわけだし。

駿監督はあくまで、アニメーターとしての出発での関わり。ま、言っちまえば彼はオタクなんだよね。そのコダワリのあまりの強さが、時に好き勝手出来る立場での一人よがりにも見えるのは、そのせいだと思われる。
吾朗監督は、高い俯瞰的な位置で、客観的な、ある意味突き放した目線で見てる。それはキャメラの位置やカッティングから感じられる。建築家とアニメーターの違いかも。駿監督は主人公と一緒に飛んじゃうけど、吾朗監督はカメラだけを上に行かせる、そんな感じかなあ。
ホント、駿監督はコドモのまま大人になった人で、その息子である吾朗監督は、切ないぐらいの早急に大人にならざるを得なかったクールさを感じるんだよね。
駿監督は天才だから、ズバっと入った時は、逃れようのない傑作が出来上がる。
その点、確実な完成度を目指している点でいえば、吾朗監督の方が上なのかもしれない。いやまだ一作しか観てないからアレなんだけど、印象としてはね。
職人と天才。でも立ち位置は同じだ。

まずすぐ気がつくのは、色使いの違いである。これはもう、ハッキリ違いをつける意図が感じられる。駿監督じゃなくても、アニメーションの世界ではとかくハレーションを起こしそうになるほどの、非現実的なカラフルさが踊っているから。
本作は本当に中世の、それも情勢が不安に満ちている色合いなんである。
くすみのかかった紫や深みのあるグリーン、茶系の色の渋さ。鮮やかさやクリアさがとにかくない。どこか宗教画のような趣さえある。
次に気づくのは、静かなこと。音楽も、そんな登場人物の声を消さないようにひっそりとついてくる。これまで殆どジブリお抱え状態だった久石ミュージックは、とにかく饒舌すぎたからなあ。今回は音楽家も替えてきた。

耳を済ませていないと、本当に台詞を聞き落としてしまいそう。主人公のアレン(岡田准一)やクモ(田中裕子)なんて特にね。
そのあたりはかなり新鮮なんだよなあ。インディーズの映画だったらありそうだけどね。観客に息をつめて見守ることを強いるなんて。でも心の内側に入っていくこの物語には、確かに有効な手段なのだ。
そう、設定や物語展開は一応、冒険的なファンタジーではあるんだけど、実際はあくまで精神世界のお話なんだよね。アレンやクモ、そしてテルーや、あまりバックグラウンドを語らないハイタカだって、実際に旅しているというよりは、精神世界を旅しているという印象の方が強いし。

話の方は、特にオチのつけ方がよく判らなかったりもするんだけど……原作はとても長いというし、まずキャラ設定を前提に、抜き出した部分の映画化だから、そのあたりは確かに難しいんだろう。
未読だからなんとも言えないけど、原作ファンが怒ってるぐらいだから、ハッキリ別物と考えた方がいいんだろうな。
タイトルロールになっているゲド=ハイタカは、あくまで狂言回し的位置にいる。大賢人とまで呼ばれる重鎮の魔法使いではあるけれど、それを極力使わないがために、この物語の中では正直いって役立たずだし。
彼はこの世界の均衡が崩れつつあることに、危機感を感じている。その旅の途中で少年、アレンに出会う。

アレンは父親を刺して逃げてきた。どうやらうつ状態に入っていたらしく、発作的にやってしまったことらしい……このあたりの彼の心境は明確にされないんだけど、短い会話から推測される親子関係は決してうまくいってはいなかったみたいだし。
「もうあの子も17、大人なんだから」その台詞一つで突き放される、何も聞いてはもらえない、そんな親子関係がうすうす想像されるのだ。
正直、このアレンの声に岡田准一は大人すぎる。でもアレン自身も設定の17にはとても見えない。せいぜい13〜15ぐらいの幼い少年にしか見えない。それは前述の親の台詞とも、更にギャップがある。
さまざまな部分で、少しずつ違和感を感じる大人と子供の途中にいるアレンの造形こそが、世界の均衡の崩れの象徴のように思えるのだ。

「駿監督は少年(男)を主人公にするのがどうしても出来ない人。形ではそうなっていても、どうしても無敵の女の子にさらわれてしまう」と、最近読んだ美少女論の本で指摘されてて、えらくナットクした覚えがある。
本作でも、助けるはずのテルーに助けられてしまう最後にはそんな風に見えなくもないけれど、アレンが最初から最後までさらけだす弱さがあまりに徹底しているので、逆に主人公としての強さを獲得しているように見える。
そしてテルー(女の子)は、そんな彼をちょっとだけ後押しする。美しい歌声と、不思議な力で。
彼女の歌声にアレンが瞳いっぱいの涙を流すシーンは、それこそ駿監督では出せないんじゃないかと思う。これぞ男の子のセンシティヴ。この天才監督の下で息子として育った、吾朗監督の内面が見える気がしたりするんである。

本作で描かれるのは、17歳の少年の親殺しや、人身売買、薬物依存、親からの虐待等々、こうして取り出してみるとやけに現代社会に目くばせした内容になっているんだけど、それはパッケージでしかなく、心の闇、その恐怖をビジュアルで見せてくることに腐心しているから、そうした説教くささは感じることはあまりない。
そう、かなり怖いの。心の内側が。説明のつかない、恐怖が。
アレンに関しては、その心の闇が、自分を追いかけてくる影がなんなのか、自分自身にもよく判ってない。だから怖い。ハイタカはそのことをもう経験済みらしく、だからこそアレンのことを心配してる。

ハイタカの敵となる、やはり強大な力を持つ魔法使いクモもまた、自らの影を拒否している。でも彼(だよね、ちょっと中性的だけど)の拒否している影はもっと明確に、ある一つの形を提示している。
クモは不死を望んでいる。アレンと対峙することによって、隠していた老いが急速に彼をむしばむ。その恐怖にクモは自分自身を見失い、怖い、怖い……と言って崩れ落ちてゆく。
この、「急速に老いが訪れる」ってあたりは、「ハウルの動く城」でもあったけれども、それを老人介護の問題を提示せんがごときにソフィーが献身的に看病しちゃったりしたことがすっごく違和感だったから、ここでクモが突き放されるのが、ちょっと可哀相になりながらも、やっぱりこっちが正解じゃないのかな、と思うのだ。

テルーはアレンに、命を大切にしないやつは大っ嫌いだと言い放った。そして、それは死ぬのが怖いんじゃない、生きるのが怖いんだと言った。どうせ終わりがくるんなら、生きることに意味はあるのかとあくまでネガティブなアレンに、終わりがあるからこそ生きることは尊いんだと言い聞かせた。
テルーは親から虐待を受けた上、捨てられた。それをテナーに救ってもらった。テナーに生かされたんだと彼女は言う。自分だけで生きているんじゃないんだと。
これは、必ずしも説得力のある言葉ではない。ちょっと前ならば、命をもらった親にこそ生かされているという論理になるところだけど、親が必ずしも子供にとって暖かな存在ではないという哀しい現代では、生きる意味づけは難しいのだ。
でもそこは、テルーが苦しみの中からその答えを必死に導いたことが、彼女の風情やその澄んだ声からうかがわれるから、一応OKなんである。

テルーからの受け売りのような感はあるものの、アレンがクモに言い放つ、不死を求めるのは生きるのが怖いからだ。運命を受け止めなければいけないとかなんとかいう言葉が、クモの恐怖を更にあぶりだしていく。
この恐怖のビジュアルは本当に怖くて。心の闇なんて、ちょっとした流行語っぽく流通して、それを説得力を持って描いてくるのは難しいと思う。ヘタに言葉で語らせないからかな。でも本当に、怖い怖い心の闇。自分ではコントロールの効かない恐ろしさ。

クモのそれだけじゃなく、怯えた内向的な少年のアレンが、貪欲に目を見開いた恐ろしい顔になる、つまり“影のアレン”の顔も本当に怖かった。
そしてクモが、真っ黒な空洞の目がどんどん大きくなっていって、つまりもう彼は殆んど死んでいるのに、それでも死の恐怖から逃れられなくて、怖い、怖い、死ぬのは怖い……とつぶやき続けるのが、本当に怖くて。
死の恐怖を否定すると、その恐怖そのものにとらわれてしまう。だからその前の生を、大事に大事に生きなくちゃいけない。
死を考えて生きていくのもイヤだけど、でも死から目を覆うことが、痛みを知らないことが、世界のゆがみの原因でもあるのだから。

と、語ってるのはホントまっとうなことなんだよね。ちっとも難しいことではない。「死ぬのが怖いんじゃない、生きるのが怖いんだ。終わりがくることが判っているからこそ、生が尊い。不死なんて、生きていることにはならない。生きているんじゃない、生かされている。だから、生きなきゃいけない。」ああ、まっとう。
まっとうで、ヘタすると、それこそ駿監督が描いたら押しつけがましくなりそうなところを、アレンがあまりに苦しげに悩むもんだから、ウッカリ?説得力があるのよね。

自分自身、という大事な名目の意味合いだと思うんだけど「まことの名」というのが、魔法以上にマジカルなキーワードとなっている。これが持つ力がちょっと判りづらい……のは私だけかもしれないけど、イタいところだと思うんだよな。
劇中ではハイタカと呼ばれている彼のまことの名が、ゲドだということなんだろうけれど、それが使われる時がどういう時なのか、どういう効力を発揮するのか、というかゲドは全然効力発揮してくれないもんだから。魔法使いなのに。
本当に必要な時にしか使っちゃいけないと判っているせいだとは思うけど、自分のためには絶対使わない。ていうか、テナーのためにぐらい使えよと思うけど。確実に使ったと判るのは、連れ去られたアレンを救い出す時と、街で身を隠す時(←案外しょーもない時に使ってる)

まことの名をクモに教えてしまったアレンに、ハイタカはなんてバカなことを、と慌ててた。そしてテルーは大事な存在のアレンに、自分のまことの名を教えた。
後者なら判る。大切な人に、自分の真実を与えること。でもそれをクモに教えてしまったことが危機を招くというのが、どういうことだったんだかよく判らなくて。それを知られると精神をコントロールされちゃうんだろうか……。悪いヤツには騙されるな……ってわけじゃないよねえ。

クモはこの世界の均衡を崩す存在だった。自分の生に執着するがゆえに。……現代社会の均衡を崩している、さまざまなことを反映しているキャラクター。どこかが突出して力を持つことの恐怖。北朝鮮とか、その中の金正日とか、あるいは広義ではアメリカとか、ううん、日本だって含まれるかもしれない。それは個性とか生ぬるい世界の話じゃなくて。
均衡を保つというのは、自然界ではそれこそ自然になされていたことなのに、人間だけがそれが出来ない。個人レベルでも国家レベルでも、そのくだらないプライドが、均衡をおびやかす。
大事なのは、自分の、そして他人の、他人の隣りの、ずーっと隣りの人の、大切なことをそっと大事に受け止めること、ただそれだけなのに。

大人は結局、役には立たないんだ。自分の力で、進んでいかなくてはいけない。
駿監督お得意の伸びやかな飛行シーンもなく、アレンは地に這いつくばり、壁にしがみつき、必死に進むしかないのだ。恐怖と戦うために。
それが人生なんだ。老いも恐怖も受け止めなければいけないことも。

気になっていることはたくさんある。アレンが刺したお父さんは、死んだわけじゃないんだろうか、とか、そもそもテルーの正体はなんなの?とか。だってアレンが龍と共に飛んでいる描写は、その龍がテルー自身のようにも見えるじゃない。
そもそも龍の意味が、よく判んないし……。
冒頭の解説では、龍はかつては人間と住むところを異にしていた、それが人間界に食い込んでくるようになったと言ってたよね。結局は何が原因だったの?クモが何か関与してたっけ?うーむ……。

原作ファン、ジブリファン、宮崎駿ファン、それぞれの賛否両論の嵐の、まさに嵐のデビューとなった吾郎監督には、今後保守的に回ることなく、倒れることなく、がんばってもらいたい。才能も、演出家として律する力もこの人にはあると思うから。★★★☆☆


ゲルマニウムの夜
2005年 107分 日本 カラー
監督:大森立嗣 脚本:浦沢義雄
撮影:大塚亮 音楽:千野秀一
出演:新井浩文 広田レオナ 早良めぐみ 木村啓太 大森南朋 津和孝行 大楽源太 山本政志 三浦哲郁 麿赤兒 石橋蓮司 佐藤慶

2006/3/1/水 上野一角座
この作品の上映のためだけに、上野の博物館の隣に建てられた真四角の映画館、一角座。周囲のそこここに主演の新井浩文のポスターが設置されてこっちだよと告げていて、それは街の喧騒から外れた上野公園の静寂の中で、なんともざわざわと何かをかきたてていた。
だって、そのポスターの新井氏の顔の上半分だけのアップ、その目がただならぬ光を放っているんだもの。
この映画に関しては、成り立ち、こうした上映形態、日本映画界への挑発、みたいな、映画そのものから離れた部分での主張がやけに強すぎて、作品自体を味わいたいなと思っている私にとってはちょっと引いてしまう部分もあるんだけれど(もちろん、それだけの意気込みがなければ今の日本映画界は変えられないということなんだろうけれど)、とにかく新井氏の満を持しての主演作に大きな意味があることには変わりはない。

この人の出現は、浅野忠信以来の衝撃、いやそれ以上かもしれない。
役者の出現、というより、恐るべき子供。何の前触れもなく、突然出てきた脅威。この現代の混沌とした中から。
それまでは強烈な印象のワキでもこれが案外コミカルだったけれど、彼を主演に据えるならこうだろうという、ハードな彼をあますところなくスクリーンにブチかましている。なぜこれがもっと早くなされなかったんだろう……それはこの強烈な原石をそのままぶつけることに作家たちが臆して、こんな回り道をしてしまったのかもしれない。
曇天の深い雪の中に閉じ込められている彼は、さすが似合ってる。
音もなく、限りなく降り続く粉雪。いつでも希望のないような曇り空の暗さの中で、その真白い粉雪だけが、神の恵みのように降り積もる。

芥川賞をとった花村満月の小説が原作であるという。花村満月……「皆月」がそうだったな。彼の小説は読んだことはないけれど、そう考えるとなんとなくナルホドなと感じる。
強烈に欲望しながら、許されないセックス、しかしそれが神の高みに導かれる、ような。
それはブタのセックスに端を発し、そのオスブタは勃起したペニスをオオバサミでジョッキンとやられてしまう(ひえっ)、そして神に仕える牧師への手淫の奉仕、シスターとの肉体関係。
あのブタのセックス、オスブタに制裁を加えるようにジョキンと切られたのを目にしてから、だったように思う。いやそもそもブタのセックスを、朧(ロウ)は食い入るように見つめていた。
この時、彼はまだ経験がなかった。救護院の院長に穢れの奉仕をしても、そして……人を殺していても。
内に隠し持っている苛立ちを発散させるかのように、突然暴力的になったりするのに、普通に女の肉体を愛することを知らなかった。

そうだ、愛することを知らなかったんだ。彼は最初の相手であるアスピラントの教子に、自分は強姦魔なんだと言ってみるけれど、彼女から「悪ぶっているんですね」と看破される。
犬を蹴り飛ばしたり、先輩を殴ったりするのと同じように女を暴力の下に組み伏すことは出来なかった。セックスに愛を見い出していたからじゃないの。自分の知らない愛が、そこに含まれていると感じていたからじゃないの。
でもまず、オスブタの制裁が彼の目の前で行われてしまった。何かそれが……象徴的なように、思えるんだ。

救護院つきの豚舎や鶏卵場で働く朧。彼はこの救護院に“戻ってきた”んだという。つまり彼は、そしてここにいる誰もが、孤児なんだろう。
セックスのもとに生まれた彼らが、それが愛の結晶だということを否定されて放置される。
敬虔で禁欲的なはずの教会の裏側は、その愛の結晶を生み出さ(せ)ない穢れた欲望に満ちている。
穢れた、といえば、そうだ、朧に心を寄せる男子学生のトオルが、朧から罪とは何かと聞かれて、「穢れたこと」と答えていた。愛の結晶を否定された彼ら自身が、穢れなのか、と思い当たってゾッとする。その存在そのものが罪だとされてしまうのかと。
朧が、罪の意味にこだわるのが、判った。自分が罪そのものならば、どうやってそこから抜け出せばいいのか。

アスピラントの教子との出会いと、関係に至る経過は、かなり刺激的である。
朧が蹴り飛ばした犬にエサをあげようと、しゃがみこんでいた教子。
その犬の具合が悪いのは、朧が蹴り飛ばしたからに他ならないのに、朧は彼女に視線が釘づけになったまま、「鳥をやったの?鳥の骨は折れると尖るから」などと言って隣にしゃがみこむ。
彼女を立たせて、無言で雪の闇の中を歩く。
彼女も黙って、彼の後をついていく。
廃屋の、古ぼけたソファに二人座る。押し倒そうとした朧を彼女は、逆に押し倒し返して馬乗りになり、激しく彼を奪う。ここまでついてきたんだから、その気があるんだなとは思ったけれど、敬語を崩さず、貞淑な面持ちの彼女の突然の行動にビックリしてしまう。いや、外見なんか、関係ないって判ってるはずなのに。

「……出ちゃう」思わずうめく朧。
「受け止めてあげます」教子は言って、いったん身体を離し、お互い一糸まとわぬ姿になる。
演じる早良めぐみ、名前は見たことがあるような気がするけれど……その突然の美しい裸体を全開に出してくるのには、ただただ呆然と見つめてしまうばかり。
「初めてだったのですね。どうでした」彼の頭を愛しげになでまわしながら彼女は聞く。
「……とても暖かかった。直接出ちゃったけど、大丈夫だった?」
「私の中がいっぱいになって、とても嬉しいです」

教子には、過去があった。愛した男の子供をムリヤリ堕ろされた過去。しかもその男は、彼女の前から尻尾をまいて逃げていった。
と、いうのを朧はシスターテレジアから聞く。
朧が教子と関係したことを知った同僚の北が、そのことを先輩の宇川(大森南朋)に告げ口したことから、朧は残飯運搬の仕事に回されたのだ。残飯を引き取りに行った先で、一人静かに食事の用意をしていたのがシスターテレジアだった。
教子との関係を非難しながらも、若い男の肉体をチラチラと見ているシスターテレジアの意識を感じる。
このシスターテレジアを演じているのは広田レオナで、ノーメイクっぽい顔に髪の毛を隠したシスターの衣装だと、妖艶な彼女のイメージとまるで違って、私は気づかなかった。ちょっと、驚く。

教子は女のカンで、朧の、シスターテレジアへの気持ちを見抜く。思えば教子に対しては、初めて受け止めてくれたマリアとしての相手に過ぎなかったのかもしれない。
教子から執拗に「シスターテレジアとなさったんでしょう」と聞かれ、「だからやってないって」と何度も否定するも、「シスターテレジアが好きなのですか」と問われると、素直にうなづく。「あの人を壊して、傷つけたい」
彼の、愛情表現はこうなんだ。そう考えると、まるで制裁のようにボコボコにした宇川に対する暴力だって、彼のことを憎みきれない何かがあったように思う。そして何より、彼によって足をつぶされてしまった戸川神父に対して。

この映画のクライマックスは、聴罪司祭である戸川神父に対する朧の“告白”に極められる。
戸川神父の車椅子を教会の中へと、静かに押してゆく朧。カーテンで仕切られた懺悔部屋に入る。
「僕は人を殺したんです。特に理由があったわけではありません。カッとなって連続して殺してしまった」
瞬間的な回想シーンが入る。車の中、血だらけの男女。返り血を浴びて呆然と座っている朧。
まるで悪びれない朧。「だって世界は変わりませんよ」
そうかもしれない。親の存在も、愛される存在もない朧にとって、もし自分が死んでも世界は何も変わらないと彼が思っているなら、そうなのかもしれない、と思う。

一方で、朧はこんなことも言う。
「僕は先生の車椅子を一生押したっていいんです。先生の側にずっといたいんです」
神父は静かに「判ってるよ」と受け止める。「私は足の次に何をとられるのかな」
朧は即答する。「命」 まるで平然と、いや、それこそがあなたに対する思いを形にするんだと言わんばかりに。
「僕が童貞を失ったのはここに戻ってきてからです。いずれここのシスターが僕の子供を産むでしょう。それでも僕は罰せられないのですか」次々に挑発するような言葉を投げかける朧。
「神は許すと同じ意味だ」落ち着いて神父は返す。
「ただ許していればいいだなんて、あなたも神も気楽な稼業だな」

朧は、罰してほしかったんだよね。彼は他の人間を傷つける……罰することによってしか、相手への思いを確認できなかったんだから。シスターテレジアを、戸川神父を、壊し、傷つけたかった。そうすれば自分の痕跡を確かにそこに残せるもの。
確かに気持ちのやりとりだけでは、愛の確証は得られない。だからつめあとを残したい。許されることが、一番苦痛だと、朧は言っているんじゃないの。
だって、それはそう言って、突き放しているだけだもの。お前なんかに興味はない。お前の存在に意味なんかない。お前の存在は罪だから。
朧は神父を部屋に送り届け、さらに追い打ちをかけるように言う。
「実は、シスターを強姦したというのは、未来に犯す罪です。あなたと神はそれに許しを与えた。まだ存在しない罪に許しを与えてしまったんです。おかげで僕はその罪を確実に実行できます。」押しては引く。まるで恋のかけひきだ。
戸川神父はさすがに絶句し、「……出て行け」と朧に背中を向ける……。

朧は、相手につめあとを残せて、満足しただろうか。
ほどなくして、神父は亡くなってしまう。神父の最期の言葉は、「朧が一番、宗教に近い」だったのだという。
朧がもう一人、心を許している、自殺願望のあるちょっと変わった修道士が、朧の隣に静かに座って、そのことを話してくれた。
「僕は先生が好きだった。でも僕は嫌われていたんです」
「いや、戸川神父は君のことが好きだったよ」
青ざめた月を見上げて涙を流す朧。彼が残した傷を、戸川神父は確かな愛で、彼に投げ返した。

後半、いきなり出てくるトオルが、世界を変える。
彼の登場は、本当に突然。残飯を運搬している朧が、ふと軽くなったことに気づいて振り向くと、手伝って押していたのがトオルだった。
トオルは朧に憧れている。
朧はずっと小宮院長の慰み者になっていたんだけれど、そのあとを受け継がせられているのがトオルだったのだ。
小宮院長ばかりか、同級生の荒川に弱みを握られたトオルは、荒川にも院長と同じ“奉仕”を強要されている。
そんな辛いことがあると、トオルは朧の胸におずおずと、その額を預ける。
そんなトオルをそっと抱きしめる朧。うっわ……美しい、不謹慎ながら、心の中でキャーキャーと叫んでしまう。
他人を優しく抱きしめる朧、なんて、それまでの彼からしたら考えられない。誰かの思いを受け止めるなんて。

憧れの気持ちから、純粋に好きだという気持ちに昇華するトオルにはまったくブレがない。
それが美しいということなんだろう。
そんな二人を、教子が見つめている。
朧は彼女につかつかと歩み寄り、「キレイだろ」とトオルを指し示す。
「本当にキレイな子です」
「教えてやってくれよ」
凝然と立ち尽くす教子。握手をうながされても応じないまま、きびすを返す。朧から愛をもって受け止められていないことが判ってしまった瞬間だった。その後ろには朧の子を宿したシスターテレジアも見守っていた。
きっと、二人とも朧を愛していたのに。女は肉体の欲望から始まっても、それを容易に愛情にしてしまうことが出来る。でも男がそうではないのは、女の中に放射して、後には何も残らないからなのかもしれないと思う。女はそれで心と身体をいっぱいにする。
少なくともシスターテレジアが今愛情を注いでいる真の相手は、朧ではなく、お腹の命なのだということに、彼女は気づいているだろうか。

「どっちを先にやる。荒川か、小宮か」そう朧から問われても、トオルは「いいんです」と首を振るばかり。
「それじゃ、俺が中途半端な気持ちだよ」
「朧さんに甘えたかったんです。自分で何とかします」この前段の台詞はかなり鼻血モノなのだが、その次に即座に展開される、荒川を撲殺するトオル、の場面。
本当に、“何とか”してしまった。
無表情で荒川の遺影を見つめるトオルは、小宮院長に、なぜ彼を殺したのかを告白する。動揺を隠しながら、彼を優しく送り出す小宮院長。
それにしても、この小宮院長を演じる石橋蓮司は強烈すぎる。だって彼、トオルに去られたら、ついには犬になめさせ(!)かみちぎられ(うわっ!)、しかし懲りずに、その犬に自分が“奉仕”してるんだもん!
朧のような性格の青年が、なぜ黙って院長に従ってたのかと不思議だったんだよね……食いちぎるのかと思って見てたのだ。
だって、彼の職場の上司(なのか?どうもヘンだけど)、宇川が平身低頭して従っているボーイスカウトみたいな“隊長”には、それを強要されても、ボコボコにしちゃってじゃない。

ああ、この場面は、奇妙な可笑しさがありながら、吐きそうになるキモチワルサで、この作品の中で特異な印象を残すんである。
固太りなこの“隊長”、ずっと敬語のくせに、突然、「ガッツガッツ!」と訳判らんキレ方するし、もー、気味悪い。
んで、なんと言うにことかいて、「朧君のタンを舐めたい!」え?タン?舌?、いや、あの、カーッ、ペッと出すあの痰!うえええ!ヤメてよお!
んでもって、ズボンをずりおろし、「なめてくれますか」と迫りまくる。こんな男なのに腕っぷしはやたら強く、朧は仕方なく彼の前にひざまずくも、直前、思わずゲロってしまう。そのゲロに隊長、突進し、「おいしそうー」と匂いを嗅ぎまくり。うわっ、うわっ、うわっ!!!
朧、ついにキレ、隊長を蹴り飛ばし、「俺のゲロに手え出すんじゃねえ!」凄い台詞だ……。
しかしまた隊長にやり返され、「なめますから」と朧。「ホントになめてくれるんですか」と隊長。「なめます」……おかしな会話だ……。
でも、そんなことを繰り返しつつも、朧は隊長を当然、ボコボコにしてやるんである。それをなぜ院長には出来なかったのか。
そんなことをする価値もないヤツだったということなのか。

荒川を撲殺し、朧の働く鶏卵場に走り込んでくるトオル。
「お前、勝ったな」と嬉しげに声をかける朧。「僕、勝ったんですか」「お前は勝ったよ!」
まるで、徒競走にでも勝ったようなサワヤカなやりとり、これが殺人が行われた末の会話だなんて、とても思えない。
と、トオル、朧の腰にすがりつく。
「おい、トオル!」うろたえる朧。
「こうするのがずっと憧れだったんです」ええっ!
「俺はお前にしてやれない」
トオル、何もためらわず、「見返りなんていりません」
朧は、まるで金縛りにかかったように動けない。しかし次第にトオルの奉仕、いやこれは愛だろう……に声をあげ始める。
うっわー!ヤバイ、これが美しいなんて、美しいなんて、美しいなんて……どうしよう。
片手を金網に絡めて、思わず恍惚のうめきをあげる新井浩文が、壮絶に色っぽいなんて、彼が色っぽいなんて、想像もしなかった……。

ついに果てた朧、力が抜けて座り込む。トオルも側に座り込む。朧は、トオルの足の指の股にたまったアカの匂いが嗅ぎたいと言う。以前、トオルが、サイレージの匂いがそれと似ていると言ったからだ。
この場面も衝撃なんだけど、トオルの素足を捧げ持ち、その指の股のアカを口にする朧、それはセックスよりも、奉仕よりも、濃密な愛の行為に思える。
お互いに放ち、受け止めることの出来る朧とトオルが、教子やシスターテレジアとは生まれなかった愛を共有できたと考えるのは、不毛だろうか。

朧は、雑貨店で偶然手にしたゲルマニウムラジオをいつも手にしていた。
そこからは、神の囁きが聞こえるんだという。
音もなく降り積もる雪の中で聞くゲルマニウムラジオ、神の囁きって、一体どんなものなんだろう。
彼にだけ聞こえるのではないのか。
何かの度に……人を傷つけたりする度に、彼はその囁きを聞く。許しを請うようにも見えるけれど、まるで全てが、神聖なことだったようにも思える。
愛の結実をもって世に生まれ出たのではないキリストもまた、罪そのものの存在だったのかもしれない。
彼は人々の罪を受け入れることで自らの罪を打ち消そうとした。朧はそんな彼を、軽蔑していたんだ、きっと。
鉄パイプを肩に担いだ朧の姿は、その存在を受け継ぎ、彼のように目をそむけることなく、暴力でもって立ち向かおうとしているようで、それはそんな暴力性よりも、罪そのもので傷ついた痛々しさの方を感じてしまう。
神の囁きは、囁きではなく、朧が聞いてやっている、彼の苦しいうめきだったのかもしれない。

一角座、ずいぶん冒険だなと思ったけど、こんな深い意味を問う映画は、上野公園の静寂を間に挟んで、都会から隔絶されたところでひっそりと、長くやることに意味があるのかもしれない。
それにしても、この監督、ええー!大森南朋の兄ちゃんかい!ビックリしたー!
七三分けの大森南朋なんて初めて見たけど、こんな冒険(?)も、兄ちゃんが監督だからかな。★★★★☆


県庁の星
2005年 107分 日本 カラー
監督:西谷弘 脚本:佐藤信介
撮影:山本英夫 音楽:松谷卓
出演:織田裕二 柴咲コウ 井川比佐志 佐々木蔵之介 紺野まひる 奥貫薫 石坂浩二 益岡徹 矢島健一 ベンガル 山口紗弥加 酒井和歌子 和田聰宏

2006/3/20/月 劇場(有楽町日劇3)
織田裕二は、キッチリエンタメを作り上げなきゃ、みたいな義務観念が、多分本人にもあって、彼自身が作品内部、演出などにも結構積極的に口を出す人みたいだし。それが製作者側にキチンと遊び心がある「踊る大捜査線」なんかでは上手く作用するんだけど、「ホワイトアウト」なんかはそのあたり結構キツかった感じがするのね。つまり、ベタになりすぎるっていうか。
本作はなんかもう、ギリギリのところって感じ。一歩間違えるとかなり道徳的な映画。行政と民間、それぞれの欠点と長所を上手く絡めあわせて、自分の場所、県庁で改革を進めていくという主人公の姿は、ヤバい、ハズかしくなりそうだなー、と予告編の段階でかなりハラハラしたんだけれど、それまでの柴咲コウ演じるスーパーのパート女性とのぶつかりあいになかなかのカタルシスを感じていたので、このクライマックスは結構見られた。それに、正義がそうすんなりと通らない、という描き方も上手かったしね。

などと、そんな一気に言ってしまってはいけない。そもそもは彼は県庁に勤める、野心あふれる公務員だった。海を臨んで建てられる特別養護施設建設のビッグプロジェクトの立ち上げに参加することで、大きなキャリアアップをねらっていた。
でもこれって、私にとっては今ひとつピンとこないというか……なんかこういうのって、一流企業のエリートサラリーマンとか、あるいは政治の世界とか、そういうのだったら判るんだけど、公務員でこういうビッグプロジェクトを立ち上げることによって、地位とかお給料とかがボーンとあがるもんなのかしらん。それとも私の頭の中にある公務員というのは、やっぱりなんか、村役場とか町役場のレベルで、県庁という大きなところでは違うのかなあ。

もちろんここでは彼は行政の側にいなくてはならない。この物語のテーマが行政と民間のぶつかり合いと、そして融和、なんだから。でもより対照的にするためにそうなっちゃったのか、彼の造形って思いっきりエリートサラリーマンって感じだよなあ……とやっぱり思っちゃう。「踊る……」で演じた、ノンキャリアとの対照という意味合いも強いから、余計にそう感じるんだよなあ。

ま、面白ければそんなことはどうでもいいけど。で、彼、野村は公務員でありながら、住民のために働く、というより、そういう上昇意識の強い人間だった。口癖は「人の上に人を作り、人の下に人を作る」それがこの県庁の世界であり、実力者の議員には深々と頭を下げ、市民団体には、何の力もないくせに、と侮蔑の視線を送ってた。婚約者は大手建設会社の社長令嬢で、このビッグプロジェクトの建設に指名する予定だった。
ま、つまりは行政、というより、行政の損得勘定を計算した癒着、が大きな問題なのね、つまり。そっちに力が傾いて、“お役所仕事”がより顕著になってる。家を失って困っている人に「この県に住所がなければ生活保護手当てなど出せない」と追い返し、「前向きに検討する、と書いて何もしなきゃいいんだよ」とヘイキで言う、ってこと。

しかし思ってもみない誤算が彼に降りかかった。うるさい市民団体を黙らせる意図で発足した、民間企業との人事交流研修。エリート街道まっしぐらの彼は華々しく抜擢されて鼻高々。しかし派遣された三流スーパーで彼の培ってきたキャリアは何の役にもたたず、ジャマにされ、バカにされ、立ち向かうも跳ね返され、彼のプライドはズタズタに引き裂かれてしまうのだ。

でもね、彼だけがマジにやる気だったんだよね。他の仲間たちは、派遣先での活動の定時報告に、バイトの延長みたいなユルい発表しかせずに、テキトーである。この人事交流が、あのビッグプロジェクトへの批判を回避するための、とりつくろいに過ぎないことを判ってて実にしたたかなんだけど、彼だけは、本気で立ち向かおうとしていたんだよね。本気で、民間の良さを身につけて、ビッグプロジェクトに生かそうと思ってた。
でも最初から彼らはやる気なんてなかった。結局は野村だけがプロジェクトから外され、コネのある人間が登用され、野村はあの婚約者にもフラれてしまう。
その彼女が言うには、あなたは私のことなんか考えていないから、ってんだけど、それを父親経由で彼に伝えるのがムカつくよね。結局、プロジェクトから外された彼が出世しないと踏んだからでしょ。
その時、野村は大きなショックを受けるんだけど、そのショックを受け止めてもらおうと酔ってフラフラになって尋ねたのは、研修先のスーパーでことごとく対立していた、彼の教育係、あきの家だったのだから、いつのまにか、彼の心の中であきの存在は大きくなっていたんだよね。

なんてことになるまでは、ホントにこの野村とあき、そして野村とスーパー満天堂のみんなは衝突するんである。
あきは、まだ20代半ばってなところなんだけど、このスーパーでは10年のキャリアを持つベテラン。それを見込んで店長は県庁さん(野村のことだ)の教育係に抜擢するのだ。
まあ、抜擢するというより、押しつけるって感じだけど。この店長はメンドくさいことは回避するばかりで、実はそれこそが、この満天堂をリストラ店舗の危機に陥らせているのだ。
裏の店長と呼ばれているんだろ、と店長から教育係を任命されたあきが、「でも時給は変わりませんけどね」と言ったのは痛烈である。でも店長は、まあそんなこと言わないで、とノンキに彼女に押し付けるんである。
この彼女の台詞は、後に野村が県庁に戻った時に、馴れ合い行政を斬って捨てる場面にとっての大きな伏線となってる。それはまた後述するけれど。

野村は、ふたことめにはマニュアルはないのか、と聞いてきて、あきを閉口させる。
「民間はマニュアルなんかなくても回っていきますから」と。
これはマニュアル至上主義の彼に対しての皮肉だったし、見て覚えるというフットワークの良さと厳しさが、確かに民間の強さではあるのは事実。でも、すべてにおいてマニュアルがないことで、山積みの在庫は手つかずだし、馴れ合いやごまかしは横行してるし、惣菜の調理は衛生的にヤバいのにドンカンになってて気づかないし、問題は山積しているのだ。
あきも、店長室にまで侵食している在庫の山は何とかしないと、と店長に進言はしてるんだけど、自分が指揮してやらせることも出来ないから、動けない。保健所が来て厳重注意を受けた時、またしても店長はあきに責任をなすりつけるような発言をするもんだから、「前から言ってるじゃないですか」とあきはキレるんだけど……言う、ことしか出来ない自分にもイライラしてる。

野村は、この満天堂が閉鎖に追い込まれたら自分のキャリアにキズがつく、ということで改革に乗り出すんだけど、そう最初はホントにそのつもりだったんだろうけれど、多分、いつのまにか、このスーパーが好きになっていたんだよね。
クレジットカードが使えなかったり、いつ買ったのかも判らない枕を取り替えてくれと言ってくるお客に、出来ませんと杓子定規に言う彼に、あきは烈火のごとく怒る。「お客さんに恥かかせないで。県庁さんは人を喜ばせたいと思ったことないんでしょ」
つまり、民間の基本はそこなのだ。まあつまり、お客様は神様です、てなところなんだけれど、そのもっと根っこの部分は、人を喜ばせたいという意識。
というのがテーマってことが“一歩間違えればベタ”なトコなんだけどね。でも本当は、行政だってそういう基本がなければいけないのに、「予算を使い切る」ことだけを念頭に、税金を自分たちの自由になるカネだとでもカン違いして、動いているようなところがあって。

ところで、野村は、惣菜に芽の出た古いジャガイモが使われていたりするのを見て、それじゃお客さんのためにならないじゃないか、新しい食材を使うべきだと進言するのね。
彼のこの意見は、ちょっとあまりにキレイごと過ぎるんじゃないのとさすがに思う。副店長も、そうでなければとても採算がとれないから、と説明するんだけど、野村は、採算よりもお客さんのためでしょう、と返すもんだから、副店長、困った顔しちゃう。
お客さんのことを第一に考える、とあきに教え込まれたからなんだけど、そのためにはまず採算があってのことだということを、税金を自由に使える行政にいた彼は判っていない。
副店長は彼のそんな“正義”をうまーくすりかえて、ならば県庁さんには高級弁当を作ってもらって、これまでの弁当と競争してみてはどうですか、と提案するんである。
ぜっんぜん、問題がすりかわっているのに、そのことに全く気づかず、彼はこの勝負に乗っちゃうのね。
勝てるはずがないのに。だってそういう弁当を主婦がスーパーで買うはずがないんだもの。

見かねたあきが、野村を“マーケティングデート”に誘う。
野村は、きちんと市場調査もしたというけれど、女心までは判ってない、とあきは見抜いたから。
デパ地下に潜入、スーパーでは到底買わない値段の食料を次々に買う主婦を、「スーパーには日用品を買いに行くの」そして、「女は形のないものにお金を払うのよ」と彼に解説するんである。
デパート自体がその特別感を与えているわけで、ここでなら高級弁当も売れるわけだ。
ただね……このマーケティングデートから、県庁さんはいろいろ考えて、「大切な日の弁当」を作り、見事勝負に勝つんだけど、この弁当がそれまで惨敗した高級弁当とどう違って、なぜ売れたのかがアイマイなんだよなあ。
だってこれだって、デパートで売れるなら判るけど、って品じゃない?こういう“形のない価値観”を主婦達はスーパーには求めないんだからさあ。

まあ、でもそんなこんなあり、野村は次第にスーパーの仲間たちに受け入れられていく。
それがあってようやく野村は、自分のこれまでの経験を生かして、仲間たちを救うことが出来たのだった。
在庫の山、食材の保管状態、保健所に目をつけられる問題が山積していたこの満天堂、次の査察までに改善しなければマジで閉鎖されるかもしれないんである。その頃野村は、先述したようにプロジェクトから外され、婚約者にフラれ、そのショックでスーパーをズル休みしていた。特別養護施設の建設予定地に力なく座り込んでいる野村を見つけたあき、自分は誰からも必要とされていない、と落ち込む彼に、「今、県庁さんが必要なの!」と叫ぶ。
「県庁さんの言うとおり、私、逃げてた。いつも気づくのが遅いの……」

以前、野村はあきに、自分の意見したことを彼女がまったく受け付けないもんだから、逃げてるだけじゃないか、と言ったことがあるのね。
その時には彼女、ウザいわ、みたいな態度だったんだけど、内心では野村の言うことは結構図星だったし、彼の作ってきた満天堂の問題を指摘した資料はかなり的を得ていたのだ。
ちなみにそれは店長に渡されていたんだけど、店長はハナから見る気もなく、ほっぽってた。でもあきは気になってそれをコッソリ読んでいたのだ。
このままでは満天堂がなくなってしまう。あきはこのスーパーが好きだし、何よりここがなくなったら、既に両親がなく、高校生の弟をかかえた彼女は生活していくすべもなくしてしまう。外国人労働者の多い仲間たちもまたしかりだ。

かくして、野村は陣頭指揮をとって問題改善に臨むのである。
売れ残りのスチール棚を使って在庫品を整理し、生鮮品には仕入れ日のデータをくっつける。県庁時代のクセで指揮だけとって次に行こうとする野村を「どこ行くの。皆と一緒に汗を流すのよ」とあきが絶妙に舵をとる。みるみるうちにスッキリと整理されていく満天堂。
この「皆と一緒に」というところが、野村がここに来て最も変わったところだったかもしれない。
あの高級弁当で惨敗した時、複雑なレシピを指示して作らせるばかりだった彼に、チームを組んだ仲間たちはウンザリ顔だった。「あいつ、張り紙にまでケチつけるんだぜ」と調理場で働く青年が苦々しい顔で言ったのは、「きちんと手を洗てください」に、野村がわざわざ「っ」をつけくわえたから。「何が小さいつが抜けてる、だよ」という彼の言い様には笑っちゃったけど、後に野村が「僕も一緒に作らせてください」と意を決して言った時、「……早く手をあらつて」と返したのは爆笑だったなー!それになんかあったかい気持ちになっちゃった。

あきと一緒に作った、満天堂の全てを網羅したマニュアルを手渡された店長は、今度はちゃんと読むから、とつい本音が出て「今度は?」と二人に突っ込まれ、苦笑いをする。マニュアルの発揮する強さというのがあるんだ。マニュアルは現状の欠点を指摘する厳しい教育書なんだから。
一人暮らしの野村が、あちこちの売り場をうろついて買い物している姿から、夕方からの「シングルライフコーナー」を考えついたり、それまでは客層のメインである主婦を基点として、表面的な接客しかしていなかったのが、さまざまな客層を考えたアイディアがどんどん出てくる。そして仲間たちの結束はどんどん強くなってゆく。

でも、野村の研修は半年間。ついに終わりの日がくる。彼がビッグプロジェクトからハズされたことを知っているあきは、「仕事はあるの?」と心配して聞く。「ありますよ。やらなければならない仕事がたくさんあります」「ならいいけど」二人のそんな会話はどこか奥歯にモノがはさまったみたいで……二人、言いたいことは別なとこにあるハズなのに、言えない。「じゃあ……」と別れてしまう。

野村がやらなければならないこと、それはただただ湯水のようにカネを使っているあのビッグプロジェクトに物申すことだった。もともと彼が企画立案に携わっていたのに。でも外から見ることで、彼は“お客さん”が望むこと、が明確に見えたのだ。
プロジェクトから外された時、ヤケになって投げ捨てた、県のロゴが入ったバッヂが、あきのメモとともに封筒に入ってひっそりと荷物の中にまぎれていた。
「あなたの誇りでしょ」
彼はそのメモを読んで思わずニッコリと笑う。
あれほど毛嫌いしていた市民団体とも接触、安い予算で出来るプロジェクト案をたった一人で練り上げ、議会承認の場でその案を叩きつけるんである。

知事が、助け舟を出してくれるのね。この女性知事、トップのはずなのに、老練な議員や取り巻きにいいように使われてるって感じで、今まで全然力がなかったんだけど、一人立ち向かおうとする野村に発言をうながしてくれる。
「民間研修のメンバーの一人ね。民間から何を教わったの?」
「仲間の大切さです。僕はそれを、あるパートの女性から教わりました」
パートと聞いて失笑する議員たち。でも彼は気にせず、この半年間の成果をぶつけるんである。
このパートと聞いて失笑、ってところ、凄く重要だよね。そう、これこそ、「でも時給は変わりませんけど」と言っていた、あきのあの場面の伏線がつながるところ。正社員でなければ人間でないぐらいに思っている政治家や世間一般を痛烈に皮肉ってる。でもこういう立場の女性はなかなか正社員登用さえされないし、しかしパートでも正社員以上の経験と働きをしている人がいるし、何よりパートで日本の労働力は支えられているんだ。外国人労働者も含めて。

この場面はとりあえずここでいったん切れ、野村は保健所が査察にきた満天堂に駆けつける。
全ては準備万端で、緊張しながらも、どこでもぜひ見てください、と案内しようとするあきたちに、保健所が、責任者が覚えていなければならない消防管理の条件を暗誦してください、と言うの!固まるあきたち。
しかも店長は、物陰に隠れちゃってるんだもん。
駆けつけた野村、警備室から店員たちに聞こえるイヤホンでその条件をコッソリ教えてやるも、途中で本部からの定時放送が入っちゃう!
もうダメだ、と思った時に、店長がド緊張の顔でフラフラと現われ、つっかえつっかえながらも、その条件を無事暗誦するの。店長ちゃんと勉強してたんだ。逃げたのかと思ったのに!
野村が見守っている防犯カメラに向かって親指を突き出す店長!そしてかたずを飲んで見守っていた店員もみんな、店長にグッジョブの親指!いやー、ハラハラした!

ラストはちょっとホロ苦い。
確かに現実はそう簡単にキレイごとは通らない。そして彼自身もそれが判ってる。
改革は順調?とあきに問われた野村は、そううまくは行かないだろうけどね、と返す。そう、判ってたんだ。
収穫は、以前の彼もそうだったように、ただキャリアを追い求めることしか考えていなかった仲間たちが、彼と同じ気持ちになってくれたことだ。
以前の野村と同様にしたたかにキャリアを追い、このプロジェクトに参加している佐々木蔵之介(役名忘れた)が、野村の変化に共感し、野村の予算案をたたき台に、資料を作り変えて知事に提出する。しかし知事から「私は前向きに検討すると言ったのよ」と言われるんである。あの、“前向きに検討”である。あぜんと驚く佐々木蔵之介。
野村の言うことに知事が耳を傾けてくれたのは、彼女自身も力のない自分を変えなきゃと思ってくれたからだと思ったのに……結局彼女は、力のある議員(へーちゃん)に平然とおもねり、野村の言うことに耳を傾けたように見えたのは、あくまで見目良いポーズに過ぎなかった、だなんて。

でも、少しずつ、少しずつ、変わってゆくしかない。「県民の皆さんの税金で」と書かれていたエスプレッソマシンが、ラストでは一杯100円を入れる箱が設置されている。少なくとも野村に賛同してくれる仲間が出来たし、そしてあきをね……
「デートにつきあいませんか。マーケティング……なしで」
ようやく通じたお互いの気持ちに、承諾の照れ笑いを浮かべながら、仕事場に戻ってゆくあき。
行政と民間の融合はこれからだってこと!

織田裕二はやっぱり笑顔がイイんだよね。前半の、意地を張っている子供みたいな、への字口の彼は見るに耐えなくって……あの、人なつっこい笑顔が戻ってくると本当にホッとする。
ちょっとお行儀のいい映画だなって気はしたけど、織田裕二VS柴咲コウとしては、楽しかったかな。★★★☆☆


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