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「ね」


2010年鑑賞作品

ねこタクシー
2010年 106分 日本 カラー
監督:亀井亨 脚本:永森裕二 イケタニマサオ
撮影:中尾正人 音楽:野中“まさ”雄一
出演:カンニング竹山 鶴田真由 山下リオ 芦名星 室井滋 内藤剛志 高橋長英 甲本雅裕 草村礼子 田村泰二郎 根岸季衣 塚本高史 水木一郎


2010/7/1/木 劇場(歌舞伎町シネマスクエアとうきゅう)
そりゃあもう、ねこと名がつけば観に行かない訳にはいかないんである。ま、とか言いつつ結構見逃しもあるなと思ったのは、本作が「ネコナデ」のチームによって作られていると知って、そういやあ、「ネコナデ」は観よう観ようと思いつつ時間が合わなくて逃がしてしまったんだよなあ。
しかし「ネコナデ」よりも、タイトルとしてはねこタクシーの方がずっとハッとさせられるものがある。終わらないうちに行かなければ!と今回は張り切って足を運ぶ。主人公がカンニング竹山というのもイイ感じだったしなあ。

しかして、一点問題が。本作の存在を知ったのはチバテレのCMだったのだが(ま、どうでしょうを見てたもんで^^)つまりは、先にテレビドラマがあっての映画化作品だったってこと。
キー局ではなく、いわゆるローカル局でほそぼそと放送するようなところでの作品が映画化にまでなったということにもオドロキで、それだけで確かに興味はそそられるものの、先にドラマがあるということは、やはり、それを見ないで臨む、ということに若干の不安を感じるんである。

そりゃまあドラマと映画は別物とはいえ、きっとドラマファンにとってはそれ前提の上での映画作品だろうし……。
ちらりとドラマのサイトなんぞを覗いてみると、映画作品はドラマの続きという訳でもなく、ドラマの要約のようでいて結構気になる設定変更もあり、映画作品だけに足を運ぶ観客にとってはかなりビミョーな立ち位置で、小心者の私はこんなことで恐る恐るになってしまう(爆)。
でもね、ねこなんだもん。ねこがタイトルになってて、ねこがメインで出てくる映画を逃がすわけには行かないじゃないかあ。

くだらないことだが、ねこ、とひらがなっていうのがね、私はひらがなでねこ、って書くのが一番好きなのだ。猫でもネコでもなくて、ねこ。ねこの柔らかさ、暖かさ、優しさを一番伝えるのが、このひらがなだと思う。
そしてね、この雰囲気をこの“主人公”のねこさん、御子神(みこがみ)さんは非常によく伝えているのよね。

どうやらドラマ版ではこの御子神さんのみの登場らしいんだけど、映画では御子神さんがいなければ上手く生きられない、猫見知りで人見知りなこむぎも間瀬垣(ませがき。凄い名前だ……)に引き取られるのね。
ここがまず大きな違いだろうし、そしてドラマ版では御子神さんの飼い主についてはそう大きな扱いじゃなかったらしいんだけど、ていうか、飼い主がいるかもということ自体ずっと判らなかったらしいんだけど、映画ではもうかなり最初からそれが明らかである。ていうか、飼い主から正式に御子神さんと、御子神さんにべったりのこむぎを譲り受けることになるんである。

その猫たちを飼っている……じゃなく、「一緒にいるだけ」というけれど、もうこれぞ猫屋敷、間瀬垣のタクシーでつり銭サギをしてすたこらさっさと逃げた通称“ねこババァ”を演じるのが室井滋。
確かに尺が決まった映画作品で、猫のありかた、人間のありかた、そして猫と人間のつきあいのあり方を示すためには、こうした仲介的な人物が必要だろうと思う。

しかし、そんなアイマイな存在ではなく、ほおんとに、これがドラマでは存在しなかったことが不思議なぐらい、もう室井滋の存在感爆発!なんだよね。
本作は彼女のキャラに負った部分が大きいと思う。彼女は猫を飼っているんじゃない、だって来るんだもん、と、一緒にいるだけだと言った。その言い方はドライに思えるけれど、こんなにも猫のアイデンティティを尊重する姿勢はないと思った。

実際に猫を迎え入れると判る。飼っている、なんてとてもとてもおこがましくて言えたもんじゃない。一緒にいさせてもらっている、本当にそんな感じ。来るんだもん、と言えるのがうらやましいほど。
彼女を信頼しているからこそ、多くの猫が集うのだろう。それは単に、ごはんをくれるから、ってだけではないと思うのは、やはり猫と一緒にいるとなんか判るんだよなあ。
でもやはり世間的には彼女は疎外されており、近所から通報されて保健所の連中なんぞが出入りしている。まさか間瀬垣自身が保健所に睨まれることになるとは思いもしなかったのだが……。

本当に、偶然、だったんだよね。昼休み、小さな児童公園で妻お手製のお弁当を広げていた間瀬垣、土管の中からゆったりと這い出てきたぽってりとした三毛猫と目があった。
まるでお弁当を狙っているかのように、絶妙な位置に陣取る猫に警戒し、背中を向ける間瀬垣。しかしその猫は実にゆったりと、彼の前に鎮座するだけなんであった。
しかし間瀬垣がタクシーに戻ると、知らない間にその猫がシートに!急ぎの客になすすべもなく、猫を乗せたままスタートしてしまう。

しかし思いがけず、その中年夫婦の客は、かなりギスギスした会話を繰り返していたんだけれど、その猫のおかげですっかり和んでしまった。
首から御子神という札をぶら下げたその猫に頭を下げて、土管に戻した次の日、感謝の思いを込めてなけなしのおこずかいの中からキャットフードをたずさえて公園に行くも、御子神さんの姿はなかった。
後に間瀬垣は、 “ねこババァ”につり銭詐欺にあい、どうやらタクシー仲間の間では有名らしい彼女に会いに行き、思いがけずそこで御子神さんと再会するんである。そして御子神さんとこむぎを譲り受けたところから、彼の人生は回り始めた……。

本作はね、もともと教師だった間瀬垣がタクシー運転手になってから、もうずいぶん経つのに全然冴えなくてさ、売り上げが伸びないから給料も細々で、教師をやっている妻(てことは、職場結婚だったのかな?)に食わせてもらっているような現状。
思春期の娘には「お父さんのパンツと一緒に洗わないで」と実に判りやすい拒否反応も示されているし、なんともカワイソウな現状、なのよね。

彼がなぜ教師を辞めてしまったのか。ドラマ版でどこまで明かされているかは判らないんだけれど、映画版では、「教師に戻れば」という妻の言葉に「教師失格なのに、今更戻れない」的な台詞があったのが気になったけど、結局そのままスルーされるだけだったんだよね。
でもね、少なくとも映画版では、ねこタクシーに、あるいはねことの関係性やねこの魅力に焦点を当てるというよりは、彼が最後、教師に戻る、という締めくくりこそが重要だったんじゃないかと思うんだよなあ。

そのために、ドラマ版から看板猫であった御子神さんの人生、いや、猫生を終わらせることまでしてさ。いや、テレビ版でもそういう結末だったのかな?判らんけど……。
でもこの締めくくりは、つまり彼は本当は教師を続けたかったのに、タクシー運転手という職は、彼の逃げの場だったのか、御子神さんは彼にとっての癒しであると共に、人生の指針だったのか?なんてさ。

勿論、そこに至るまでには紆余曲折、波乱万丈あるんである。そもそもねこタクシーなんて事態が、御子神さんがタクシーの中ですこぶる気持ち良さげにしているから、偶然生み出された産物なんであった。
間瀬垣が客から「これって、猫カフェみたいなもんですか?」と言われて、猫カフェ自体知らなかったもんだから、そんな商売が成り立つこと自体思いもしなかったのだ。

いや間瀬垣は、少なくとも映画版に関しては、そうした意識はそれほどにはないままだったと思う。確かに御子神さんのおかげでそれまで最下位だった売り上げも飛躍的に伸びた。そして確かに、御子神さんとこむぎを迎え入れたのも、冴えないままのタクシー運転手の自分を変えたいという気持ちで、ねこタクシーをやりたいんだ、と妻と娘にも宣言した。

今までそんな風にハッキリとした気持ちを言ったことのなかった彼に、妻も娘も押されはしたけれど……でもやっぱり、御子神さんありき、だったんだよね。
会社にバレそうになって、保健所やらなんやら、かなりヤバい立場に追い込まれた時、彼はねこタクシーを辞めるのではなく、御子神さんがタクシーが大好きだから、彼を心地良くさせたいから、本当にその一心だけで、一大バクチに打って出るんだもの。
しかも本当に長い時間をかけて、資格をとったり会社に働きかけたりして、でも御子神さんと堂々と仕事が出来たのは、ほんの短い期間に過ぎなかったのに、それでも彼は満足して、そして……教師に戻る決意をしたんだもの。

思わずさらりと言っちゃったけど、もちろんそれに至るにはすごーく色々、あるのよ?これも映画版だけのキャラと思われ、つまりは一気に事態を動かすキャラである、同僚である仁美。
演じる芦名星の、男前なんだけどちょっと陰湿、みたいな女の子が非常に生々しくてね。判るんだなあ。女の武器なんか使いたくないけど、それを使わないと若い女の子は上手く世間を渡っていけない、というジレンマ。

したたかな女の子ならば、プライドを一方で堅く保ちながらも女の武器もしたたかに使うだろうけれど、彼女は恐らく純粋で、不器用なんだろうなあ。
後に彼女が語る、子供の頃、タクシー運転手がめっちゃカッコ良く見えて、絶対タクシー運転手になるんだ!と決めたというエピソードも、本当に純粋だよね。でもその彼女の接した運転手は、したたかさを持っていたからこそ、どんな客にもにこやかに応対していたんだろうし、でも彼女にはそれは出来なくってさ……。
間瀬垣に成績を追い越されてしまった彼女は、彼の秘密を探り当ててパクり、しかもそれをペット雑誌に売ってしまってねこタクシーの話題がいきなり沸騰、保健所が出てくる騒ぎになってしまう。

いや、そのまえに、間瀬垣自体がうっかり猫好きの有名人を乗せてしまって、その人のブログにねこタクシーの話題が書き込まれ、コメント欄が炎上してしまったりしたもんだから、彼は自分こそが!と身構えていたんだけれどさ……。
この“有名人”てのが、水木一郎。微妙な感じに豪華なゲスト(爆)。炎(ほむら)悟(さとる)という芸名を、間瀬垣が「えんご」と読んでいるっつーのも微妙だが……。
自分の替わりに、仁美がヤリ玉に上げられたことに動揺してしまう間瀬垣。彼に力を貸した営業成績トップの沼尻に、こんな日がいつか来ると思っていたよ、と言われ、自分もそう思っていた、と言うものの、それでもなぜだか動揺が止まらないんだと震えるんである。

その後の間瀬垣の行動がスゴいんである。それまでは会社にナイショで御子神さんを乗せていた。しかしねこタクシーを胸を張って堂々と営業したい。実際、お客さんも喜んでくれている。そして何より、御子神さんが居心地良さそうにしてくれている。
彼は保健所の担当者と談判して、必要な資格をとること、会社に登録させることを決意するんである。
その資格をとるには、実に一年もの年月がかかる。

その一年を、判りやすい描写で見せる。扇風機の前でふうふう汗かいたりしてさ。それはちょっと記号的にアッサリしすぎな感じもしたし、ここが大事なトコなら、尺の配分がもうちょっと何とかなりそうな気もした。
ただ、彼が自分だけでもねこタクシーをやるんだ、という決意をみなぎらせて、一年かけて資格をとることを妻に打ち明けた場面は、良かった。

そもそも御子神さんとこむぎを突然連れてきた彼に厳しい態度をとっていた彼女だったからさあ。そんな不利な彼を救ってくれたのが思いがけず娘で、猫たちの愛らしさにやられたってのもそうだろうけれど、娘は、父親が初めて自分のやりたいことを声に出して言ったところを見たからだと言ったのだ。
そして妻も、ここで更に進化した夫を見た。「そう来たか……」なんて、冗談めかして彼女は言った。

それでなくても御子神さんはもう相当のお年で、彼が勉強をしている一年の間には、食欲も落ちてすっかり弱ってしまうのだ。
でも娘は、そして仕事中偶然再会した仁美も、御子神さんは彼のタクシーに乗っているのが好きなんだから、乗ればきっと元気になる、と言うのだ。

それを信じて、間瀬垣は頑張る。無事試験に合格して、保健所の担当官と再び相対した時、その時も担当官は、猫を金儲けの道具にしていると難色を示していたけれど、間瀬垣さんが、御子神さんのためにだけ、御子神さんが元気になるためだけなのだと言うと、ほんの少し、態度を軟化させる。

間瀬垣は、ぜひ自分のタクシーに乗ってほしいと言う。担当官は、老いた母親を連れてきた。もうその時点で、彼は許す気だっただろうと思った。
田舎で、牛を何頭も飼育していた。売られていく時は涙を流した。老いた母親は、抱いてみれば、この猫が嫌がってなんていないってことが判る、と息子に言った。
御子神さんは、誰に対してもまるで無防備に抱かれて、本当に幸せそうで……。そして、ほどなくして、間瀬垣と御子神さんが出会った小さな公園で、昼寝に立ち寄ったほんの1時間の間に、息を引き取ったのだ。

ていうさ、この間にもいつもこむぎもいたのに。こむぎは御子神さんと違ってタクシーに乗っているのは居心地悪そうで、この子だけ置いて出たりもするのね。
でも、最後にはやはりこの子も一緒でさ、そして御子神さんが死んでしまって、こむぎが一人きりになって大丈夫か……と間瀬垣はあのねこババァの元を訪ねる。

彼女は、私はもう引き取らないよ、と言う。人も猫も、いざという時を覚悟しているんだよ、そんな風に、ねこババァは言ったと思う。
そう、それは人も猫もおんなじ、こむぎも判っているんだと。なんかそれが……胸に染みたんだなあ。今私のところにいるこの子も、そんな覚悟でいてくれているのかなと思ったらさ……。

娘を演じるリオ嬢が、お父さんに結構肩入れしてくれる(ていうか、猫にかな)から、もうちょっと彼女が割り込んでくる感じが見たかったかなあ……。
どっちにしろ、この尺じゃムリが多すぎる。本当は動物を飼っちゃいけないマンションなのに、ていう障壁もスルーしたまま、猫アレルギーの乗客がいたら、ていうのも口頭陳述?だけで終わっちゃったし(ドラマ版ではエピソードひとつ、あったみたい)。
ねこタクシーという設定で面白くなりそうなところがさらさらと流されてしまって、もったない。やはりこれはドラマを見なきゃいけないか??

でも、いつもちょっと舌をはみ出して、誰にでも大人しく抱かれて気持ち良さげに目を細めている、半ノラ状態だったにしてはあまりにふくよかな御子神さんに超癒されるから、もうそれだけでいっかなあ。
それだけに、それこそ御子神さんの尺自体が短くて、物足りなかった気がするぐらい。それを言ったら一体、こむぎの存在価値たるや??そんなこと言ったら、いけないかあ、やっぱり。

ああ、でもこの監督さん「楽園 流されて」の監督さんなんだ!他の作品、興味を惹かれたのに観られないままだったのも沢山あって、今更ながら後悔。本作はまあともかく(爆)、今後は新作が出たらぜひ観てみたい監督さんのひとり。★★★☆☆


猫は知っていた
1958年 85分 日本 モノクロ
監督:島耕二 脚本:高岩肇
撮影:小原譲治 音楽:大森盛太郎
出演:仁木多鶴子 石井竜一 北原義郎 花布辰男 平井岐代子 八木沢敏 品川隆二 坂倉春江 浦辺粂子 金田一敦子 本山雅子 大美輝子 苅田とよみ 半谷光子 高松英郎 穂高のり子 村田扶実子 井上信彦 藤山浩一 守田学 星ひかる 千早景以子 花野富夫 小杉光史 南方伸夫 高村栄一 中江文男 岡崎夏子 遠藤哲平

2010/5/7/金 劇場 東京国立近代美術館フィルムセンター
猫がつくタイトルだけで足を運ぶのには充分なのだが、しかしその当の猫はモノクロの中の黒猫で、表情が殆んど見えないのが哀しい(涙)。だけど奇跡的なまでに大人しい猫で、されるがままったらない。まあそれでなければ常にスクリーンの中に収まっている、そしてこのタイトル通り全てを知っている天の目としての存在は務まらないだろうが。
しかしそれにしても動かないったらないのよねー、かごの中に入れられて引っ越してくる時も抱かれる時も、一瞬ぬいぐるみじゃないかしらんと疑うぐらいの微動だのなさ(爆)。
まあそのおっとりさ加減が可愛くて、動くヒヨコのおもちゃに寄り切られて困った顔をしているところなんか、思わず笑ってしまったけれどさ。

全てを知っている、と言ったけれど、さてどうか。だって彼女?は劇中、何度となく薬で眠らされているみたいなんだもの。
そうなの、結構可哀想なの。殺人ミステリの道具にされた猫のチミは、薬で眠らされること数回。いなくなったチミを見つけ出すたびに飼い主の悦子は「あら、薬臭い」と言うんだけれど、それって大変なことじゃないのお。
彼女はチミがいなくなっても「アラ、困ったわね」ぐらいでさして心配している風もないし、「薬臭い」だなんていう、この猫が陥っているであろう危機が想像されることにも、そうつぶやいたままスルーしちゃうし、なんか冷たいのよね。
まあ、今はペットに過剰な愛情を注ぎ過ぎる時代なのかも知れず、そんな現代で愛猫にベッタリかまいすぎの私の目からは、彼らはさっぱりしすぎに見えるんだけれど、コレぐらいの客観的なスタンスの方が当の猫にとっては気楽なのかもしれないなあ(自戒)。

てか、別に猫を観察する映画じゃなくてさ(爆)。内容自体はかなり本格的なミステリ、なんだよね。あれだけの謎解きをこんな尺で収めるのは、少々ムリがあるんではないかと思われるフシもある位。
ところどころ強引なまでにヒロインの悦子のモノローグで「おかしいわ……」と、現状の矛盾を考察して引っ張っていく感じなんである。

このヒロイン、仁木多鶴子は私知らなくて、フィルモグラフィーをチェックすると、観てる作品があと一つぐらいしかない。10年ぐらいしか活動していない女優さんで、ホント知らない。
この作品から名前をもらったということは、デビュー作なのかなあ、正直ちょっと凡庸な印象しかなくて、彼女のキャラも普通のお嬢さんにしか見えず、推理小説ファンだとか、音大生だとかいうのもなんかとってつけたようにしか見えないのがツライんだよね……。
でもそれは、この内容でこの尺というのがムリがあるのかもしれないんだけどさあ。それに彼女以外にもコレといったスター俳優が出ている訳でもなく、結構微妙な立ち位置の映画って感じ。

そう、音大生なのよね。そもそも彼女がこの殺人ミステリの現場である外科病院に登場したのは、「まるで入院しているみたい」な手狭な部屋で兄との同居であっても、部屋代が浮くんだから、ということなんであった。
お兄ちゃんは、何だろう……なんか薬草だか毒草だかの研究をしているらしいことがちらりと触れられるんだけれど、それ以上の発展がないままである。
それに触れたのは悦子以上の推理小説マニアで、この謎だらけの殺人事件に一人ワクワクと楽しげな入院患者の男だけでさ、このお兄ちゃんのバックグラウンドはかなり面白いと思ったのに、劇中では何ひとつ生かされないままである。

彼の役回りといえば、謎解きに執心する妹に同行するぐらいなもので……まあ彼自身もミステリ好きで、だからこそ大きなカギを握る“勘当されて行方知れずの次男”を突き止めた訳でさ。
そう……この次男は医者になる道を強要されるのを嫌って家を飛び出し、推理小説家になっていた。そして雑誌に発表された作品の現場になった間取りが、実家である病院とソックリだったことで、二人に見つけ出されてしまったのだった。

てか、ていうかね。この殺人事件の概要を記さないとね。殺されたのは院長の義母、つまり院長の妻の母だったのね。そして一人の入院患者も姿を消していた……盲腸の手術後の経過が思わしくないと言いがかりをつけて、押しかけ入院をしてきた平坂という男。

悦子は越してきた時、平坂夫人が頬を張られてドアから出て来たところに出くわしていた。この夫人も冷徹な雰囲気で、いかにも訳アリな感じを醸し出してはいたけれども、結局はウワキされた上にその夫が惨殺されたカワイソウな夫人、という立ち位置に収まってしまったのだよなあ……。
自分の夫を「あの人はこんな証拠の残るようなことはしない。もっと周到に立ち回って搾り取る、ダニのような人だ」と吐き捨てる。しかしそれを拾って「ホラ、奥さんがここまで言う人なんだから違うんですよ」と、まるで確たる証拠のように持ち上げる悦子もどうかと思うけどねえ。

そうなのよね、そんな具合に悦子が一人一人、疑わしい人を排除していくんである。中盤までは平坂がずっと疑われていた。いかにもうさんくさかったし、何より現場に彼のキセルが残されていた。
しかしおかしいと思われたのは「今名古屋にいるから」などとかけてきた電話である。それを受けたのが悦子で、彼女はこの電話の声の不自然さをその後もずっと引きずることになる。
もしこの時電話を受けていたのが、平坂の夫人だったらどうしたのかしらねえ、一発で別人だと判った筈なのに。

しかも悦子がこの電話の声のトリックを解くんだけど、かなり大ざっぱなんだよなあ。テープレコーダーに吹き込まれた声を遅い回転で再生すれば、女の声も男の声になるという推測の元に、もともと声が低めの声楽家の友人の声を吹き込ませて“実験”するんだけど、それだけが証拠になるっていうのはあまりに甘すぎるんじゃないのお。

いやその前に、死体を運ぶ為に使われたと思しき車を“ドライブクラブ”に借りに来たのが“小柄な男”だった、という伏線はあるけれども……でもそれって、伏線と言えるほどの伏線ではないような気もするしさ。
でも、ドライブクラブ、ってのが時代の雰囲気、よね。つまりはレンタカーなんだけど、クラシックで格式の高いイメージがあるんだよなあ。

この小柄な男、というのが、犯罪に加担した家永という看護婦、なのよね。この当時、車を運転出来る女というのがまず珍しかったのは当然ながらも、「この病院で車を運転出来る人」と呼びかけること事態が、恐らく男性でもそんなハイソはいなかったのかもと思わせるところが、うーん、いかにも時代、なのだわ。
悦子は一時、この家永という看護婦が事態を牽引したんではないかと推察するんだよね。いかにも冷たそうな雰囲気を醸し出していた女。

平坂夫人と院長の長男が学生時代恋人同士であったことを、ツーショットの写真から突き止めた悦子は、それをネタに長男がゆすりをかけられ、そこに家永が加担したのだと推理する。
つまり、平坂に強請られていた犯人(この時点では悦子も、そして観客も長男が犯人だと思っている)に平坂を殺すようにそそのかし、殺した平坂の遺体を別人のように仕立て上げ(強い酸で虫歯を患っていたように細工したりね)たのが家永看護婦だったんだけど……。
確かにそこまでの“推理”は正しかったんだけど、犯人の推測は正しくなかった。まあでも……似たり寄ったりの人物であって、それほどオドロキはなかったけどねえ。

犯人は、院長その人。平坂が自分の妻と浮気した張本人である長男ではなくその父を脅したのは、長男がカネを持ち出せるまでの力がないと見切っていたから。
このあたりは確かに平坂夫人が「ダニのような男」と吐き捨てるだけあるのだが、でもあまり意外性はないよなあ……とか言って、確かに私も長男が犯人だろうと思い込んではいたけど(爆)。
ただ、「最も意外性のある人物が犯人」という点で、確かに院長は当たっているのかもしれないけれど、でもね、悦子が彼自身から告白されても「信じられない!」と繰り返す程には、観客の方には意外性が響いてこないんだよね。
というのも、この尺の中では、院長がそんなことをするとは信じられないほどの人格者、というまでの描写を尽くせなかったというのが大きくて……正直影が薄いぐらいなんだもん(爆)。

まあでも、この院長が幼い娘の幸子を溺愛している描写は早々に登場はするんだけれど……このおしゃまな女の子、幸子にピアノを教えるために悦子はこの箱崎家に住み込んでいるんだよね。
幸子は本当におしゃまで愛らしくて、子役らしい一生懸命さがとても可愛くてさ、子役はヘンに上手くない方がいいよなあ、などと覚えずホノボノとした気分にさせられたりするんである。
彼女の口癖は「誰にも言わないでね」で、その言葉を免罪符のようにナイショの話をペラペラと喋ってしまうのが、この年頃だから許せちゃって可愛くてね。このまま大人になったらこんなにヤッカイな女はいないだろうと思うのだが(笑)。

いやいや、幸子よりもキーウーマンは、次男の恋人であるユリ、だろうなあ。後から考えてみれば正直大した役回りでもない気もするのだけれど(爆)、思わせぶりな小道具まで使って結構引っかき回すんである。
そもそも、そのキャラ自体が思わせぶりである。かなり引きこもり気味、病院の人たちは皆変わり者だけど、そんな彼らでさえ腫れ物に触るように接している女の子。それは後に“勘当された次男坊の恋人”であることが明らかにされれば、ナルホドなあとも思ってしまうんである。
んでもって、彼女が無くした小箱のことで非常にうろたえていること、そしてその小箱がおばあちゃんの死体のそばに転がっていたことからガゼン、彼女の存在が浮き上がってくる。

ユリはおばあちゃん子で、彼女の死に心を乱しながらも、箱が発見されたことの方にこそ動揺し、その箱の中から指輪を取り出して急いで出かけていった。
それを目撃していたのが悦子。寄せ木細工で開けるのが困難なその小箱の造りを目にし、そして「今は何も言えない」というユリにミステリの謎を解くカギがあると直感して彼女に張り付く。
「あの潤んだ目は恋をしている目」と、箱を持ち出した人物をかばっていることを確信するんだけど……この断定自体、とても証拠とは思えないアバウトさだわよねえ。

ユリがかばっていた恋人である次男は、確かにこの悲劇の一端を担ってはいた……ユリが預かっていた演劇部の預金を次男が持ち出してしまったことで、困ったユリがおばあちゃんに相談した。かねてから骨董的価値のある茶つぼを所望していた平坂と交渉することで、おばあちゃんは可愛い孫のためにカネを作ろうとしたんである。
そもそもおばあちゃんは、殺される筈ではなかった。あくまで平坂を殺そうとしていた院長、そして家永は、この状況、平坂が誰にも見られず一人きりになる状況を利用しようとしただけなのだ。
だからおばあちゃんを納戸に閉じ込め、待ち合わせ場所で平坂を待っていた。しかし思いがけず何らかの手で納戸から出てきたおばあちゃんがその場に来てしまって、現場を見られて動揺した犯人によって殺されてしまったのだった。

この納戸を開けてしまったのが、幸子と共にチミを探してこの場を通りかかった悦子、だったのだよね。なぜこんな場所に閉じ込められていたのか、と悦子はそのことが最後まで引っ掛かっていて、それが事件解決のカギとなるんだけれどさ。
でもこの事実は、なんとも皮肉だよなあ。だってつまり悦子がおばあちゃんを死に追いやったようなもんなんだもん……でもその点について、彼女はまるで思い当たっていないあたりは、尺の問題だけとは思われない(爆)。

だって悦子は最初から、この事件を痛ましいものとして解決したいというより、推理ファンとしての立ち位置でしか存在してないんだもの。
最後の最後にとってつけたように、「こんな形で父親を失ってしまった」幸子に対して憐憫の情を浮かべ、チミを連れてアハハハハ、ウフフフフと草原を駆け回るシーンなぞが用意されているけれども、うーむ、結構アンタのせいが大きいんだぞ(爆)。
チミは相変わらずされるがままに、二人に抱かれてぶん回されておるが。

あ、そうそう、チミが加担させられたのはね、眠り薬から目覚めたチミが飛び出した途端に、毒ヘビの毒を塗ったナイフが飛び出すという仕掛けに利用されていたからなのね。
確かにあれだけされるがままの超大人しすぎるチミじゃなきゃ、そんなにアッサリ敵の手にも落ちないよなあ(爆)。ああ、最後まで哀れなのはチミだけよ(シャレではない)。

「ピアノを好き放題弾ける」と喜ぶ悦子が、自分で弾くたった一曲が、私の大好きなショパンのノクターンOP9−1なのが嬉しい。大メジャーな曲って訳じゃないからさあ! ★★★☆☆


ネコを探して/LA VOIE DU CHAT
2009年 89分 フランス カラー
監督:ミリアム・トネロット 脚本:
撮影:ディディエ・リクー 音楽:マルク・ハンスマン
出演:[駅長]たま/[おくりねこ]オスカー/[鉄道員]エリカ /[カメラねこ]ミスター・リー/[お泊まりねこ]ジンジャー/鹿島茂/石野孝

2010/8/31/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
心の片隅には常にあったことだけれど、こんな風に突きつけられると、ものすごーく落ちてしまう。私はのえち(私の愛猫じゃ)を擬人化して、のえちの猫としての尊厳を奪ってる?可愛いって、癒されるって思うことって、そんなに猫を貶めてる?
自由に、奔放に、恋に生きるのが猫の自然な姿だってことぐらい判ってる。でもそうしてやった途端、きっとのえちはこの都会のトラップにかかって死んでしまうじゃない。その死んでしまう場所からのえちは生還して、私のところに来てくれたんじゃない!

……などと思っても仕方ないのだ。確かにキャラクター王国の日本は猫を擬人化し、猫カフェは猫の猫たるプライドを微塵に踏みにじっているのであろう。
それでも猫カフェは、あまた死に行く猫たちの多少なりとも受け皿になっていると思うし、そこに集う人たちは、無責任にカワイイカワイイとナデナデしていたとしても、猫を愛する気持ちには変わらない。
そりゃあ、あまた死に行く猫たちの原因は、無常に猫を捨てる日本人にあって、なんと猫を飼って二年以内に捨ててしまう人が7割もいるというデータが示されると愕然とする。確かにその事態は異常に違いない。

去勢して猫の恋の季節を奪い、外に出る自由を奪い、癒しの道具にされる猫達は、確かにここでちょっと揶揄されるように売春婦を想起させるのかもしれない。
それは……確かに頭の片隅で思っていたこと。片隅に常においておかなければいけないと、改めて思う。
私はのえちを擬人化しているかもしれないけれど、のえちがのえちだから好きなんだもの。そばにいてほしいんだもの。この願いはムリかもしれないけれど、最期にはそばにいてほしいんだもの。

そう、この作品は、最後にはそう締めくくられている。最期には、猫にそばにいてほしい。激しく共感した。それまでに、猫を通して人間や人間社会の愚かさを見るに耐えないほどに突きつけてきたのに、最後には人間にも優しくなった。
確かに人間は、人間社会と密接に関わってくれる猫に、だからこそ人間よりも先に被害を受ける猫たちに、ヒドイ仕打ちをしてきた。それでも最期にそばにいてほしいと思うのはとてつもないワガママだと思うけど、その願いをかなえてくれる猫がいるのだと思うと、その優しさに涙が出る思いだった。

そうなの、のえちと暮らし始めて、私も元から猫は好きだけど、子供の頃は飼っていたインコやヒヨコを猫にさらわれたりして、ネガなイメージも正直、持ってた。
でも今は、そんな猫の本来の姿を、子供の頃にきちんと知っていて良かったと思う。だからこそ、のえちに対してもすまないと思うし、そしてだからこそ、猫の生来の優しさに心癒される。癒されたって、いいじゃないの。猫って、たまらなく、優しいんだもん。

……ていうか、ていうかさ。何、私、全然支離滅裂(爆)。
これってね、そんないわば、なまっちろい話じゃないのよ。いや、それも充分シンラツだとは思うけれど。
これはね、猫を通して人間社会をあぶり出すドキュメンタリー。語り部は、行方不明になった黒猫のクロを探す女性。
それが、手描き風アニメーションで描かれ、彼女はクロと共に暮らしていた灰色猫に導かれて鏡の向こう、時空を越えて猫のクロを探す。
クロは常にちらりと姿を見せるけれども、それはいつも彼(彼女?)ではない。そしてまた時空を飛ぶ。そこには猫の受けた境遇と共に、人間社会のさまざまが描かれているんである。

正直、こんなにも日本パートがあること自体に驚いた。だってこれってフランス映画なのに。
ヒロインがまず迷い込んだのは、芸術家たちが華やかに活躍する19世紀。画家を中心に猫が描かれる様を解説するんだけれど、もう既にそこで、安藤広重の描く猫の仕草の多様さこそが、それまで猫に悪魔的なイメージしかないまま描写されていた世界を一変した、と解説されるんである。
そして、夏目漱石までが出てくるのには驚く。しかもここでヒロインが「『我が輩は猫である』大好きなんです」と語りかけ、描かれる夏目漱石は確かに良く似ている。

ここを起点にして、オープニングテーマの重すぎる題材から、現代日本の猫の、“存在の耐えられない軽さ”におけるまで、日本に割くパートの多さには驚く。
その殆んどがシンラツであるにも関わらず、なんだか愛情を感じるのは……安藤広重や夏目漱石から始まっていることで既に示されているんだけれど、水俣病や現代の猫カフェや、保健所に殺処分される膨大な数の猫の話に至るまでも、きちんとしたリサーチの元に、きっちりとした批判と共に、そこでも猫を愛している人はちゃんと猫を愛しているのだという視点があるからだと思われる。

でもそれも、先述したように、猫の尊厳や自由を奪っている上でのそれだというシンラツさはあるんだけれどね(爆)。
でもね……それこそ最初に示された、しかも語り部が「大好きです」とまで言った夏目漱石、フランスでそれほど知名度があること自体ビックリしたけど(それとも単なる日本オタク?いや……漱石はイギリス留学の経験もあるからなあ)、その「我が輩は……」こそ、猫を擬人化した作品だものなあ。

いや、と言うより、猫を擬人化する形をとって、猫を通して人間社会を皮肉った、つまりは本作そのものの形なんだよなあ、と思う。
そしてそれは、不思議と人間が猫に対してそうしてしまう……人間の思いを託してしまう猫の不思議な魅力にある訳で、それが本作にもつながってくるんだよなあ、と思う。

しかし、オープニングテーマの重さには、そんなお気楽な気分も吹き飛ぶんである。正直、この水俣病を描写する尺の長さには、それを告発する映画なんじゃないかと思ってしまうほどであった。
勿論、日本でだって、教科書にも出てくるし、知識としては知っているけれど、企業の言いつくろいのために膨大な数の猫たちが解剖のために犠牲にされたなんてことは知らなかった。

人間より先に被害を受けた猫が、よだれをたらしてフラフラしている映像が残っていることも衝撃だった。
こういうの、日本のドキュメンタリストは出来るだろうか、と思う。日本のドキュメンタリーは内に入り込むのは凄いエネルギーがあるけれど、外を告発する気骨を感じたことはない。こんなこと、外から言われてどうすんの、とも思うけれど、外から言われた方がガツンとくることは沢山ある。

それでも、それでも、震える声でチッソを告発する被害者も、そして語り部ももちろんそうだけれど、犠牲になった膨大な数の猫たちを悼み、何よりここに暮らす海の民たちは、そんな悲惨な過去があった昔も今も、猫たちと共存していたことにこそ、このパートの意味があるんである。
市場に出せないちょっと痛んだぐらいの魚を、つまり新鮮な魚をポンポン港に住みつく猫にやっている。今も昔も。
それがゆえにいち早く水俣病にかかり、海に飛び込んで死に、ひどい実験材料にもされながらも、今も昔も、ここの猫は港の人たちとの信頼関係を築いている。そのことこそがこのオープニングパートの重みだったのだ。

この重い重いテーマから始まってしまえば、鉄道猫なんてのは微笑ましい限りである。
鉄道猫も、日本から始まる。日本ではすっかり有名な、あの駅長猫。後に紹介される猫カフェの伏線とも言える、いわば捕らわれの猫としての皮肉をどことなく漂わせてはいるけれど、でもこの時点で本作の最後まで通じていく“現代の人間を癒し、救う猫”というテーマが既に示されているのだから、思い返すとやはり上手いなあ、と思う。
駅長猫は、赤字路線の鉄道を救う名物猫として紹介される。観光客が無遠慮にたくフラッシュにも泰然としている。
自由である筈の猫が9時5時に拘束される皮肉をキッチリ示しながらも、この駅長猫がこの場所が好きだからこそここにいるんだ、という部分はきちんと示してある。

だからこその次のテーマである。オープニングの水俣病の重さを別とすれば、むしろここの猫たちこそが作り手が一番描きたかったテーマじゃないかとも思われる。
駅員たちと共に長年“勤務”してきた猫たち。配線をかじるネズミを始めとするげっ歯類(ネズミだけじゃなく、ウサギも証拠映像として登場。ウサギ、めっちゃカワイイ……)を“監視”する“職人”として、誇り高く生きている猫たちを、駅員たちもこの上なく尊重している。
しかし時代の波は、国鉄から細かく切り売りされる民営化へと移り、この“職人”はムダのレッテルを貼られることになるんである。

ここで抵抗する“同僚”である駅員たちの立場は、しかし改めて見ると微妙な感覚も正直する。誤解を恐れずに言えば……ネズミにかじられた場合の費用が別に支給されるのならば、猫が“解雇”されても仕方がないのだ。
そりゃあ、その費用の方が猫へ“支給”されるキャットフードより高くつくとしても。
駅員たちの表情を見ると判ってしまう。彼らもまた、猫に癒されているんだもの。ハッキリそう証言もしている。誰も人の来ない夜間の勤務の時に、猫がいてくれると助かる、と。
作り手がそこまで判ってくれてるのかは微妙な気もするけれど、その気持ちと、猫カフェに癒される都会人の気持ちと、全く違うと言うことは出来ない気がする。

いや、判ってくれていると思う。だって、猫に接する人たちの顔は、みんなみんな、ハズかしくなるほどメロメロな笑顔なんだもの。
あのね、それこそ猫カフェに集うサラリーマンの人たちだって、彼らと同じ顔しているんだよ。猫カフェの“無責任さ”に対照させる形で、一方で無残に殺されてゆくあたまいる都会の捨て猫たちを紹介した上で、そんな猫たちに無償の愛を捧げるホームレスのおっちゃんたちを紹介するのは……確かに効果的だけど、だからこそズルいと思っちゃう。

そりゃあ、自分の食費も削ってちゃんとしたキャットフードを買って、自分より立派なダンボールハウスを猫のために作って供しているおっちゃんは素晴らしいけれど、ホント、自分がハズかしいけれど……でも、猫カフェにいる疲れたオッサンだって、猫を見る時はおんなじ顔してるんだよ。本当に、みんなみんな。
イギリスの鉄道員だって、キャットカムを作った技術員だって、キャットホテルに泊まるラブラブなカップルだって、恋人であるお互いよりも、猫にメロメロなんだもの。

そう、キャットカムからまずいこうか。猫につける首輪のような形の、猫の行き先が判るカメラを開発した技術者。通称、キャットカム。世界中から注文が殺到したというヒット商品。
自らも愛猫家である彼は、実にメロメロな顔で飼い猫のミスター・リーに接するんだけれど、彼が“撮影”してきた映像に、飼い主としての無力ばかりを感じるのだと語る。
それは、9・11を境に異常なまでに増えた街中の監視カメラのとらえる映像と、結局は同じなのだという結論に至る。

最初はね、キャットカムはそうじゃないんだと言っていた。街中の監視カメラの意味のなさを糾弾していた。データの結果からもとしても犯罪の抑止力になっていないのは明らかだ、って。その点、キャットカムには飼い主の目的意識がある、と。
でも結局は監視カメラと同じで、後から確認する映像に対して、何の手立ても出来ないって。我が子に迫りくる危機にヒヤヒヤするばかりで、後から見る映像に、助けることなど出来ないのだ。
それは監視カメラと同じじゃないかと。ただただ設置して、何か起こった時に見返して、抑止力にも何にもなりゃしない、って。

それでも、このキャットカムを開発した彼もそうだし、きっとそのキャットカムを購入して余計愛猫が心配になっちゃった世界中の人たちもそうだろう、そして、私がかなり心引かれたキャットホテルのエピソードに出てくる人たちも一様にそうなのだ……もう、猫にメロメロの顔してるんだもの。
正直、キャットホテルと猫カフェの違いって、時間の長さとマンツーマン(マンツーキャット?あるいは人間は複数の場合もアリだが)だけって気もするけれど、その部分こそが確かに大きな違いであるのかもしれない。
キャットホテルというのが、スラングでは売春宿という意味だというのが実に効いていて、私のところは合法なのよ、と支配人の中年女性がジョーク混じりながらも誇らしげに言うのが実に印象的なんである。

人なつっこさを一番の条件に“面接”されて“勤務”する猫達は、「毎夜、違う客をとるんじゃ大変だ」などとこれまたジョークを言う、猫好きの客たちに愛される。
カップルで泊まりに来ているのに、二人とも頬を染めて愛しい猫をナデナデし、「僕の胸に乗って寝ているから、眠れなかったよ」などと言う彼氏に、彼女がニコニコしながらその当の猫をなでているという状態なんである。

中には飼い猫を亡くし、その飼い猫にソックリな赤茶トラ猫を“指名”してくる中年女性もいる。彼女は夫に「他の猫を“抱く”なんて浮気だ」と言われたことを、どこか嬉しそうに語りながらも、しかしその“浮気相手”を愛しげに抱くんである。
いかにも猫に慣れている抱き方で、当の“浮気相手”もじっと抱かれている。やっぱり赤毛ね、という彼女の台詞には、その“本命”猫も微妙な気持ちを抱くかもしれないけれども、なんだか彼女の気持ちも、そして浮気だと言ったダンナの気持ちも、痛々しいほどに判ってしまうんだなあ。

そしてそして、ラストを飾るのが“最期にそばにいてくれる猫”なんである。
認知症の老人を専門に受け入れる施設に生まれ育った、ニ匹の猫。特にちょっと見とれてしまうぐらいの美人猫のオスカーは(あ、でも名前からして男の子かしらん)、人の最期を敏感に察知して、そばに付き添うという。
植物状態だったはずの女性患者が、胸に飛び乗ったオスカーをなでたという。

私ね、このシステム、素晴らしいと思った。そりゃもちろん、猫好きだからそう思うのだろう。でも確かに猫って、こんな不思議な力があると思う。人の最期をかぎ分ける力。
そして、そんな自体が同時に二人かちあってしまったら、家族がいない方の老人の最期に付き添ったというエピソード、出来過ぎだとも思ったけれど、猫ならやりかねない?かもと思った。

私ね、のえちが来てから何も怖くなくなった。以前は疲れた時にはよく金縛りにもあったし、いもしないかもしれない?オバケに怯えたり、もっと単純に、テレビのオバケ番組とかにひえっと思ったりしたけれど、今じゃ全然怖くないのよ。
猫がいると、そういうの、排除するじゃないけど、なんか、うまく折り合いをつけてくれているような気がしちゃう。そういう超越した力を、なんとなく感じてしまう。
だからこそ、最期にいてくれたら安心する気がする。もちろん、単純に、猫という柔らかくて優しくて何の打算もない存在に、それこそ癒されるってことが大前提だろうけれど、やっぱり猫は……違うんだなあ。
人間の犠牲になり、人間社会の愚かな姿を映す鏡であるけれども、だからこそか、全てを超越した存在のように思う。

日本の描写が殊更に、猫を猫たらんとせずにしてきたことに、私も思い当たるフシがメッチャあったから落ち込んだりもした。
現代の日本の飼い猫が、犬化している(飼い主に服従している)っていう説も聞いたことあるし、そうじゃないからこそ猫は素晴らしいのにと思う一方で、移動する先々についてくるのえちが可愛くて仕方なかったりもして、でもそう思う自分が、のえちの猫としての尊厳を否定している気も凄くしていて。

確かに、そんな風に猫は、人間社会を映す鏡なのだろう。不思議と犬だとそうはならない。猫って、つまりは人間が理想とする姿なのだよね。
本作の中にも繰りかえし語られていた。自由で、自立していて、恋に生きていて、美しくて。それはいかにもフランス的な理想とも思えたけれど、でも判る気がする。
フランス革命から婦人参政権運動まで、洒落たアニメーションで語られるその価値感のすべてに、猫のしなやかな姿が重なるから。

最後にひとつだけ、言い訳させて。日本が生み出した可愛いという価値感が、猫に押し付けられた感のある現代日本の猫事情の描写。
可愛いから好きっていうんじゃない。可愛いっていうのは、いとおしいって意味から派生した言葉なのだもの。愛しいから、好きなのだ。★★★★☆


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