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「た」


2010年鑑賞作品

ダーリンは外国人
2010年 100分 日本 カラー
監督:宇恵和昭 脚本:大島里美
撮影:加藤等 音楽:野口時男
出演:井上真央 ジョナサン・シェア 国仲涼子 入江雅人 川岡大次郎 坂東工 國村隼 パトリック・ハーラン ダンテ・カーバー 戸田菜穂 大竹しのぶ


2010/4/21/火 劇場(錦糸町TOHOシネマズ)
うーん、多分、原作の方が面白い……多分、というのはこのコミックスが話題になった時、ちらと拾い読みぐらいしかしてないからなんだけど。
で、その時ホント面白いと思って、その後彼らが赤ちゃんをもうけるエピソードが電車内のビジョンでアニメーションで流れてたりしてそれにもかなりハマったし、ホント、原作買ってみようかなあと思ってたんだよね。

で、そう。ほぼ未読だからホント何とも言い難いんだけど……「なんかフツーの映画だよなあ……」などと思ってしまった、“外国人の恋人を持つが故の苦悩と、それを乗り越えてのハッピーエンド”てのがね、原作にも本当にある部分なのかなあ、って。
外国人が恋人というだけで引かれたり、ぐらいはありそうだけど、今時珍しいほどの“ザ・父親”に厳粛に反対されたり、その父親が許さないままに死んじゃったり、だけど実はこっそり英会話の本なぞ買ってて、しかもしかもその巻末に「娘をよろしく。君は私たちの家族だ」と英語でメッセージを書き残していたりとか、映画だけのエピソードなんじゃないかって。
そうやってドラマチックに仕立て上げるために入れ込んだ要素が結果、この原作が持つ面白さを失わせてしまったんじゃないかって。それじゃこの原作を映画化した意味がないんじゃないかって。

いや、それらが本当に原作にもあるのなら、ゴメンナサイ(爆)。でもね、例えそうであってもね、原作の面白さはまずはカルチャーギャップであり、それによって自らの日本人としてのアイデンティティに逆に気付かされることであり、それらが深刻にはならず、あくまでドライな笑いとして提示されていることだと思うんだよなあ。
そう、ドライ、だと思うのだ。なんたって“ダーリンは外国人”だから、一見ウェットなラブが、最も重要なテーマのように見えなくもないけれど、違うと思う。大体、あの見事にデフォルメした絵柄は可愛らしくも決してウェットじゃない。

トニーの貪欲な知識欲に応える妻は、もちろんそれを“日本人だから知っている”という、ある種の優越感から発しているという立ち位置だから、トニーの問いは天然ボケの可愛らしさと共に、そうした日本人が外国人に日本文化を教える、という意識を客観的に持っていて、それがあの絶妙に簡略化された絵柄と共に、非常に面白いんだよね。
トニーが相当頭がいいのはその“語学オタク”っぷりから察せられるけれど、英語はサッパリであるという作者の奥さんだって、相当クレバーなお人だと思うのはそこんところで。

でね、“語学オタク”のトニーが「ぶん殴るって、なんで“ぶん”なのかなあ」とか「やれこうしろああしろ、のやれって何?」とか発する疑問に接すると、まずは思わず噴き出してしまうところから始まるんだけれど、でも改めて考えて見ると、それに答えることは出来ないんだよね。
そう、そうやって日本人としてのアイデンティティに、実はそんな日本人である私たちこそがもっとも無知である、という地点に立ち返らせてくれる、というのが、この原作の最もクレバーなところだと思う。
そんなピュアな疑問を発するトニーが可愛らしく見えるのは、つまりはテキトーに日本人やっているんだと気付かされるところにあるのだ。
勿論、トニーのそんな天然な可愛らしさが原作の魅力の大前提であり、だからこそ原作は大ヒットしたんだと思うんだけど、映画作品にはその“大前提”が活かされきれていない気がしてならないんだよなあ……。

冒頭ではね、ちょこっと原作キャラがアニメーションになって挿入されていたりする。「抜かれるなら度肝がいいよね」とか、まさにそれこそが原作の魅力そのもの。実際、劇場内が一体化して笑いに満たされたのは、そこだけだったような気もする、なあ……。
正直ね、この原作のテイストをダイレクトに引き継いだアニメをもっと多用、どころか全面的に散りばめてくれた方がずっと面白かったような気がするなあ。

てことは私、脚本と共に役者も批判してる!?いやいや、そんなことはないデス。いやまあ、井上真央はちょっとラブストーリー向きのキャスティングで可愛すぎるとは思ったが(いや、原作の作者のお顔は知らないので、別に他意はない(爆))、トニー役の彼は、ヘンに有名どころをムリして使わず、日本語や日本文化に対する造詣や愛情の深さを自然に感じさせる日本在住の俳優さんで、純粋さゆえの可笑しさもとてもセンシティブに感じさせたし、とても良かったと思う。
うーん、だから……問題は井上真央ちゃんの方だったかも(爆)。だってもうこうなったら、ラブストーリー一直線になるしかしょうがないじゃん!いや彼女自身は割とドライなところがありそうな女の子だけれど、女優としての見え方がねー。

さおりは物語冒頭はまだ漫画家ではなく、イラストレーターとして登場、いつか漫画家になることを夢見て、イラストを脱稿する時、担当者に漫画編集者へのつなぎを要請するものの、「あ、そうだっけ?忙しいからまた今度」などとさらりと流されてしまう。
実家からはいつか漫画家になる、と宣言して出てきたらしい、ことは、後の父親との会話で明らかになる。しかもトニーとのことも反対されて、自分がまずしっかりしなくちゃと漫画に本腰を入れ始め、持ち込んだ先で掲載の確約を得、見事デビューと相成る、のね。

……このくだりも、なあ。持ち込んで一発目でいきなりデビュー出来るんなら(多少の修正は指示されたとはいえ)あまたいる漫画家志望の人たちは苦労しないよなあ……なんて。
いや、そりゃー、私がそんな世界を知る由もないさ。でもね、じゃあなぜ彼女は今まで芽が出なかったのか。王道である、マンガ賞応募とかはしてなかったのか、なんか映画の描写だけだと、イラストレーターとしてのつてばかりを頼って、何にも努力してなかった、みたいに受け取られても仕方ないんだもん。

しかも、彼女の漫画を採用してくれた編集者の女性を演じる戸田菜穂が、ファッション誌の記者か、てな(いやそれも、単なるイメージの先入観だけどさ)やけにファッショナブルなデキる女風でさ。さおりが父親の死のショックやらなんやらで描けなくなると言うと「そんな言葉聞きたくないな。本当に描きたいことはある筈よ」とかやけにカッコ良くさおりを励ます。
……現実はそんなに甘くないんじゃない?だってこの描写だとさ、さおりはやっとデビューさせてもらえた段階じゃん。描けないと言ったら、漫画家を目指している人たちなんかいくらでもいるんだから、と切られるのがオチでしょ。だからこそ、「描けない」という言葉すらおいそれとは言えない筈じゃないの。

そりゃまあ、さおりの才能にこの女編集者が惚れ込んでいるんだからと言えなくもないけどさ、でもさおりの方に「描けない」なんて台詞を簡単に言えるほどの自信が、少なくともこの時点であるとは思えないんだよなあ……。
漫画編集者として登場するのは戸田菜穂だけだし、漫画雑誌の世界の厳しさを軽視しているような気がしてならない。
いや、そりゃ私がそんな世界を判る筈もないんだけど(爆)、でもさ、やっぱりそこは、ラブを優先しすぎな気がするんだよなあ。

しかも、あまりにもよくあるラブにしてしまって(爆)。先述したアニメの話、トニーを語るに最も有名な彼の格言「抜かれるなら度肝がいいよね」という台詞、物語中、最後のプロポーズの場面に至るまで、印象的に使われ続ける台詞ではあるんだけど、最初にこの言葉が提示された場面、バスに追い抜かれてしまった時にトニーがこう言うとさおりは、ツッコむというよりは、マジで、もうイイカゲンにしてよ、という顔で「トニー!」と言うんだよね。
……この時点で、ああ、アプローチが違うなあ、と思ってしまう。そりゃあ実際にもリアルにイラッとしたかもしれないけど、それをまんま実写でやっちゃったら……違うよね。

なぜトニーの、この天然とも言えるキャラが成り立てるのかといったら、疑問が沸き立つほどに、日本が大好き!という前提が感じられるからこそ好ましい訳でさ、勿論原作もその前提に成り立っているからこそ好ましい訳でさ、こんなマジにイラッとした顔を実写でやられたら……もうダメさあ。
まあ勿論、そんなトニーの純粋さ、繊細さをさおりが姉にノロケるシーンはあれど、でもそれは、日本語や日本文化に関することじゃないんだよね……単にトニーが知らなかった、カッコウの託卵についてのこと。ここにそのエピソードを採択して身内に恋人を説明するのも??と思う。

だってこれは、“ダーリンは外国人”なんでしょ。そりゃトニー自身の人となりを判ってくればそれももちろんアリだけど、尺が決まっている映画作品ではさあ……。
なんか単に、日本語や日本文化じゃなくて、そんなトリビア的なことを彼が知らなかったみたいな、日本人はそういう豆知識に詳しいのよ、みたいな、良くない優越感のカタチに見えるんだよなあ……。
そりゃまあ彼の繊細な性格を、日本という要素を絡めずに提示するのも大事かもしれない。でも、それには詰めが足りなすぎる。ホント、単に、“障壁のある恋愛”でしかなく、しかもその展開もメッチャベタなんだもおん。

ラブラブで暮らしていた二人に亀裂が入り始めたのは、ほんのささいなことだった。イライラしているさおりに、何か不満があるのかと問うトニーに、家事を私だけがやっていることだ、とさおりは答えた。
それ以来トニーは洗い物や洗濯を頑張るんだけれど、泡だらけのコップや、分別せずにザックリ洗ってしまってシワだらけの洗濯物にさおりはあぜんとしてしまう。
いや……いつものさおりなら、「もう、トニー!」とガーンと言ってやった筈だった。彼女は彼のことを繊細過ぎると言っていたけれど、それをどこかノロケ気味に語っていたぐらいなんだから、彼に注意することをそこまで気にすることもなかった筈なんだけれど……ここはどうなのかなあ。

勿論、お父さんに反対されていることが、影を落としているのは事実だろう。そして恐らく、これまで彼女が一手に家事を引き受けてきたのは、まあそれなりに、そういう日本的価値感があったからだろうと思う。
正直アメリカ人のトニーがそれに甘んじ続けていたということの方が意外だけど、それも原作を読んでいないからリアルかどうか判らないしなー。

結局は本作のキモは、里帰りしたトニーを追って、英語などまるで判らないさおりが単身アメリカの片田舎に降り立つシークエンスだと思う。
もう最初から。ここに向かって話が作られていた感じがする。いわばそのために姉が結婚し、一度は拒否反応を示した母親がトニーに惚れこみ、父親が死に、母親が「日本人だって外国人だって、他人と家族をなすという点では一緒」とさおりに説き、この場面を迎えたんだという気がする。
トニーの実家でちらしずしとかを作るエピソードは、なんか読んだ覚えがあるんだよね。ドラを鳴らすとかもさ。
さおりのお母さんが「男の子は肉!外国人はおすし!」と、トニーには肉を食べさせ、さおりにはちらしずしの作り方を特訓するシーン、さらりと流されたけれど、結局はあのシーンが一番よかった気がする。

「日本人はねー……」的な視点で登場するトニーの友人各位がね、……うーん正直、浅い感じがしたし、その浅さの中でも、あんまり好ましい感じは得られなかった。
まあそりゃあさ、“日本に来て俺はスーパーマンになった気がする”というぐらい、外国人である、英語が喋れるというだけで、酒の席のギャルたちはキャイキャイと盛り上がり、携帯のやり取りぐらい簡単にしちゃうんだろう。
でもね、それもまた、日本人的礼儀のひとつなんだと思うんだよなあ。ホラ、とりあえず名刺交換するっていう、アレよ。あの文化が、こんなギャル(死語か……)にも脈々と息づいている気がする。

このシーンを入れた真の意図は判らない、単に、そんなカルい女の子ばかりじゃないし、日本人の女の子が個性がない訳でもなく、さおりはただ一人のさおりなんだ、というトニーの主張を際立たせるだけのことなのかもしれないけれども、なんか、ふとそんな“意図”に反発する気持ちになっちゃったりした、のだ。

父親役の國村隼はあまりにストイックで、娘に反対の意向を伝える場面、すっと身体が冷たくなる感じがしたぐらいだった。
それを実に上手く温めたのが母親役の大竹しのぶ。トニーを一見して「アンタ、騙されてるわよ!どう見たって外国人じゃない!」とあまりにも判りやすすぎる反応を示したものの、その5分後には、自分たちの身内を“あえて”悪く言う日本人たちに、その事実だけでなく「なぜ“あえる”んだろう」てトコまで困惑するトニーに「ヤダー!」と一気に惚れ込んでしまう。
うーん、感覚で生きる女をイイ側面でとらえてて、それがさすがしのぶさん、達者でさ、「トニー君、トニー君」とすっかり気に入っちゃうのがカワイイ♪

それだけに、トニーと気まずくなったさおりに、自分もお父さんと朝食のことでもめたんだと、オシャレな外国映画の朝食に憧れたことを披露するのは、逆にせっかくトニーを気に入った印象に水をさす気がするんだけどなあ。
だってさ、彼女はオシャレな外国映画に憧れて朝食はトーストとコーヒーだと思ってて夫と衝突した、って言ったじゃない。なのにトニーを見ていきなり「どう見たって外国人じゃない!」なんだもの。
いくらその5分後にアッサリ撤回したとはいえ、結局は最後の最後、さおりにその話をするまでそんな過去のこと、おくびにも出さないしさー。

でもそんなものなのかもしれないけれど。外のものに憧れつつ、その気持ちと同時にただただ拒否する気持ち。まさに日本だよね、それって。
いくらでも外国文化を受け入れつつ、恐らく世界中で一番、国際語である英語が通じない国。外に憧れつつ、まるで脅迫めいて内的文化に縛られている国。

一番グッときたのは、最初からトニーがいかにも日本的に「ちゃんと筋を通して挨拶すべき」と気にしていたのに対して、お姉ちゃんの結婚のどさくさに紹介してお茶を濁そうとさおりは算段して、結局は失敗。お父さんは「そういうことはきちんと二人で挨拶に来るのが筋ってもんじゃないのか」と言い、さおりが思わずうなだれるシーンなんだよね。
ベタな展開の中でのベタベタではあるんだけれど、ここを言うべきところとして定めていたのならば、オッケーな気がする。
許してもらえないまま死んでしまったお父さんとトニーが、根本的なところできっちり折り合っていた通じ合っていた、ってことだもの。

ところでさ、実際に“ダーリンは外国人”であるカップルのエピソードをツーショットで語らせ、最後にさおりとトニーが登場するって作り、「恋人たちの予感」まんまだよなー。★★★☆☆


台北に舞う雪/台北飄雪
2009年 106分 中国=日本=香港=台湾 カラー
監督:フォ・ジェンチイ 脚本:ス・ウ 田代親世
撮影:ソン・ミン 音楽:アン・ウェン
出演:チェン・ボーリン/トン・ヤオ/トニー・ヤン/モー・ズーイー/ジャネル・ツァイ/テレサ・チー

2010/3/5/金 劇場(シネスイッチ銀座)
台湾映画は独特の詩情豊かな世界があるので時々足を運ぶんだけど、あら?監督はフォ・ジェンチィだった。
そして台湾映画というよりは、中国、日本、香港、台湾、と多くの国のスタッフや資本が集まって作られている作品で、かなりのビジネスライクっぷりを感じもするのだが、でもやっぱりやっぱり、何とも叙情性がある雰囲気は台湾映画、なのよね。
よく考えてみれば、こんなベタな少女マンガ的展開がふわりとした品の良さを醸し出すのも、なあんか、台湾映画、なのだよなあ。

ま、そこはヤハリ、そうした世界を体現するキャストがあってこそではあるのだけれど。
台湾の美男スターといったらチェン・ボーリン。ていうか、名前を覚えているのは彼しかいない(爆)。
ジャニーズ系を判りやすく造形したらこうなるだろうというような彼はしかし、前半、あの独特の笑顔を確認するまでは、あれ?ホントにチェン・ボーリン?などと思ったのは……なんか顔や首あたりに若干お肉がついたような気がするんだけど(爆)。
んんー、気のせいかな!?でも彼ってちょっと油断すると実際、太りやすそうなタイプにも思えるから(爆爆)。

でも、だから余計に、というのは失礼かもしれないが(爆)、基本アイドル顔の彼が、こんな緑深いイナカで、町の皆から愛されている孤児というのが意外に違和感がなかった。
のは、まあちょっと田舎くさくなるために、少々お肉がつくぐらいはしょうがないかもしれない??
いやそんな、言うほどお肉がついている訳ではなく(私もしつこいが)、単に私だけがそんな気がしてるだけかもしれないんだけどさあ。

しかしそこへやってくる、まさに天使のような女の子、メイの、ほおんとに透明感のある美しさがなんといってもメインなんである。
劇中、「ホラ、「グリーン・デスティニー」に出ていた子に似てない?」「チャン・ツイィーだろ」というやり取りに、確かに、と納得してしまう程、そう、あくまであの時の、清楚ではかなく消え入りそうな美しさのチャン・ツイィー(いやだって……すっかり大女優オーラ出まくりの女優さんになっちゃったからさあ)をほうふつとさせる女の子なんである。

クライマックス、この田舎町のショボいお祭りのステージで聞かせる彼女の歌声はまさに天使のそれで、彼女の才能を高く買っているゴシップ記者のジャックが「テレサ・テンのようなスターになれる」と言うのもあながち大げさじゃないかも……などと思っちゃうんである。

ま、そこらへんのマジックはさすが、フォ・ジェンチィの手腕といったところかもしれないけれども。
だあってさあ、こうして筋書きを並べていくと、やっぱりビックリするほど少女マンガ的じゃん、声が出なくなって失踪した新人歌手と、田舎町で住民のために働き詰めの孤児の男の子との淡い恋愛物語、なんてさ。

いや、筋書き、まだ全然並べてなかったか(爆)。でも、つまり、そう、そういう物語なのよ……いかにも芸能人的な大きなサングラスをかけてこの小さな駅に降り立った時には、そのいでたちからしても、メイの中には小さなプライドが残っていたのかもしれない。
でも実際、声は出ないし、所属会社の人間たちが自分を探している雰囲気もないし、故郷のチンタオは恋しいし……。

メイが係累がいる訳でもないこの地に降り立ったのは、ただ単にこの列車の終点だというだけの話だったのかもしれない。実は、彼女がきた都会からさほど離れている訳ではないのかもしれないし、タイトルである“台北に舞う雪”は、実際にはこのチントンに降ることこそが条件?な訳なんだから……。

モウが孤児になったのは、父親が早くに死に、母親が出て行ってしまい、育ててくれた祖母も亡くなってしまったから。それ以来、町の人々の好意で彼は生き長らえてきた。
その感謝の気持ちを示すため、彼は町の人々のために便利屋のような仕事で奔走しまくる毎日だった。
いや……それは口実だったかもしれない。充分前途洋々な彼がこの田舎町を出ようとしなかったのは、いつか母親が帰ってくることを信じて待ち続けていたから、なのだ。

そこへやってくるのがメイであり、彼女にも実はあまり、家族の影は感じないんだよね。
いや別に、彼女もまた孤児だとか、家族に恵まれていないとかいう訳ではないと思う。そんなエピソードは語られないし、彼女はふるさとのチンタオを懐かしそうに語るのだから。
ただ……“そんなエピソードは語られない”んだよね。これだけモウが家族愛に飢えているという設定ながら、それに相対するメイが、どんな家族の元で育ったのかとか、どんな家族関係を構築しているのかとかひとことも言わないのが、ヘンに勘ぐりたくなるっていうのは正直なところかもしれない。

メイが懐かしがるのはあくまでチンタオという故郷の地だけであって、家族のことはひとことも言わないのが……なんか意味があるような気がしたんだよなあ。
だってさ、この地に執着し、裏切られてなお家族への愛を捨て切れないモウの、その優しさに彼女が癒されていくという展開は、彼女自身にそれなりの思いがあったように思えてならないんだもの。

いや、ね。それでもメイには想い人がいるんだよね。
これもまた絵に描いた様なザ・芸能人、ザ・音楽プロデューサーという趣のレイ。ウェーブのかかったヘアスタイルやら、革ジャン的なファッションやら、オラオラ風に椅子にふんぞり返って、レコーディングする少女歌手にエラソーに指示する風情やら、そして何よりモテ男で、常にゴシップを提供していることやら……もうもう、クサすぎるほど、ザ・ギョーカイ男、なのよね。
この辺は絶対、確信犯だと思う。だってさこれって、ほおんとに、クサすぎるんだもん。世間の人が抱くイメージもふんだんに取り入れた、いくらなんでもここまでのヤツはいないだろ、って思うほどのクサさ。でも多分……いるんだよな、多分(爆)。

だって、確信犯的キャラだけど、決してギャグ的には描いてないんだもの。メイはホントにこの男にホレてて、彼女は田舎から出てきた新人だったからその毒気に当てられて、ショックのあまり声が出なくなったんだろうし。
彼もまた、メイをそういう対象として見てはいないにしても、その才能は高く買っていて、彼女の失踪に会社がちっとも動かないことに憤りを感じてて、結構本気で心配していたんだもの。

この、会社がちっとも動かないってあたりがね……新人がナマイキな、ということもあるだろうけれど、つまり、商品価値をしたたかに計算しているだけなんだよね。
賞をとったりもしてそれなりに認められてはいるものの、まだまだ商品価値は薄い新人。失踪したのも、これまでの恩も感じずにナマイキだぐらいな風情。

しかし、そこに動いたのが、通常は毛虫のように嫌われるゴシップ記者で、でも、そう……彼がそんなに執着するのがヘンな気はしたのだ。だって“新人歌手”ってことは凄く強調されてて、新人歌手、ってことがメイを説明する大前提なのだとしたら、記事ネタとしては弱いよなと思っていたから……。
このあたりの浪花節的なトコが少女マンガ的だと思うんだけど……実はイイ人、みたいな(爆)。でも少女マンガ的、大好きなんだもおん(恥)。

この記者、ジャックはでも、最初はいかにも芸能記者って感じで高飛車で、イヤーな雰囲気なのよ。だから応対したカフェの店員、ウェンディもカチンと来て、あんたなんかに教えない!って態度をとる。
でも結局、彼の熱意にほだされて、ていうか、おっきなぬいぐるみなんかプレゼントされちゃって落とされちゃって、メイのことはモウが知っている、と教えてしまう。
ただこのジャックが、ウェンディと後々イイ仲になり、彼女が多分、彼を追いかけてこの町を出るという含みを感じさせるあたりは、ここにもまた、浪花節が隠されているんだけれどね。

だって、ホントに敏腕の、したたかな芸能記者だったら、ネタをゲットするためにいろんな手管は使うだろうけれど、それでこんな田舎町の(爆)女の子に本気でホレてしまうなんてこと、ないじゃない。いちいちそうなっていたら大変だ……。
つまりジャックは、イケイケの記者に見えながらも、「大物の愛人の歌手」なんてつまんないネタより、これからスターになるんだと彼が確信を持っている、新人歌手のネタを大事にする、すんごい夢のある記者さんなんだよなあ。

ていうか、脇ばかり書いていて、メインの二人を全然追ってないんですけれども(爆)。
この二人の展開はほおんと、イイ意味で少女マンガだよなあ。少女マンガで読んでみたいと思っちゃう。二人のルックスもめっちゃ少女マンガ的だし。
メイが歌手だと知った時から、モウは彼女の復帰に力を貸すことを惜しまないんだよね。どの時点から彼が彼女に惹かれるようになったのか、あるいはもう、出会った時からかもしれないんだけど、メイが復帰してしまえば手の届かない存在になるんだと薄々感じながらも、モウはただただ彼女の幸せを考え続ける。

……でもさ、もしかしたら、モウの側に、つまり好きな人と一緒にいることこそが、一番幸せかもしれないじゃん。
そんなことを、この私が言うなんて一番らしくないのだが(爆)。
いや、他人の色恋沙汰に関しては、結構ベタを見たがるもんなのよ……たとえそれが、彼女自身の才能を潰してしまうことになったとしても(うーん……勝手だ……)。
でもそんな、私のテキトーすぎる思惑を飛び越えて、メイは歌手の道へと戻っていった。

本当にね、どうするのかと思っていたのだ。メイはもともと、それほど芸能界に染まっているという感じじゃなかった。ここに訪れた時こそ気取ったカッコをしていたけれど、素朴なモウに出会った瞬間から、まるで故郷に戻ったかのような安らぎの表情を浮かべて、モウが斡旋してくれた安いホテルやボロアパートにも、以前からそこにいたかのようにすんなりなじんでいた。
ただ、それなりに面が割れている彼女を周囲はほっておかなくて、地味に皿洗いのバイトをしようとしても「あの新人歌手よ!」と客の注文取りをさせられたりするし、「どうせ長くはいないよ」という視線がありありで、……ひょっとしたら都会にいるよりも孤独だったかもしれなかった。

いやただ、やはり、モウがいたから。
メイは早くからモウの気持ちに気付いていただろうし、彼女自身も優しい彼に惹かれる気持ちは自覚していたに違いない。
モウはね、声が出なくなった彼女をなんとか治療しようとするんだよね。モウが父親のように慕う名漢方医、マーさんの元に連れて行く。
もう患者は診ていないんだと言いながら、マーさんはメイの声が出なくなった原因はあくまで精神的なものだと見立て、必ず治ると請け負い、のどにいい薬も処方してくれた。
あの時のメイの笑顔は、不安が取り除かれたという安堵感もあるだろうけれど、なんていうか……モウを息子のように思っているマーさんの暖かな心持ちに触れた安堵感があるように思えて仕方なかった。
それこそが、彼女が飢えていた感情だったんじゃないかと思えて。

メイはついに、レイとアシスタントのリサに見つかってしまう。……あのさ、このリサは、あんまりメイ探しに本気じゃなかったし、メイの声が出なくなったことも知っていたのに、レイには言ってなかったんだよね。
その理由が「本当かどうか判らないから」。いわばメイのマネージャー的立場であり、一番メイをかばってあげるべき人物なのに、その彼女がメイを信じてあげてなかったってことがこの時点で明るみに出て、なんか……愕然としてしまうのだ。
そりゃ最初からこのリサは、いかにも都会のギョーカイ人といった風情でさ、そりゃーまー、スカした女ってな雰囲気全開なんだけど……そんな、誰一人頼れない場所にメイが置かれていたことを考えると、彼女がカワイソウでカワイソウで……。

でも、思い余ってその事実をレイに進言した後輩歌手によって明るみに出されるんだから、つまりメイのことを心配している人がいない訳じゃない。
実際レイだって心配していたんだし……なんだから、メイがそのことに気付けば、そして自らの才能に誇りを持てば、事態は動いていくんだよね。そしてそれはつまり、モウとの別れを示してもいて……。

勿論それを判っているからこそ、モウはメイにとっての最高の舞台を用意した。
あくまで田舎の祭りのステージに過ぎなかったけど、初めてライブで観客の前で歌ったメイの歌声は、そのコスチュームもまさにベタに天使だったけど、そのベタさがリアルに思えるぐらい、透き通った声を響き渡らせた。
メイのことを知り尽くしている筈のレイやリサさえ、驚くほどのオーラを放っていたのだ。
そう、それをジャックは知っていたからこそ、記者という立場を超えて彼女を必死に探していたのだし、そしてモウはメイに惹かれながらも、彼女が戻るべき場所に帰るべきだと思って奔走していたのだ。

お互いの想いを、探り合いながら、でも決定的なことは言えないまま、メイは都会へと帰っていく。そして予想通りに、大スターへと成長していく。
いやいや、このままの展開じゃ少女マンガじゃないでしょ!と思ったけど、確かに含みのあるラストは用意されているけれど、ハッキリとしたハッピーエンド、ではないんだよね。

スターとなり、どのぐらいの時間がたったのか、ある程度自分で時間が作れるようになったとおぼしきメイが、チントンの地に降り立つ。
ウェンディと久方ぶりの再会を喜び合う。彼女にモウの近況を聞いたメイが耳にしたのは、彼が行方知れずのお母さんを探しに町を出たんだということ。
ウェンディも恋人(ジャックだろうな)を追って、町を出るんだと言う。
モウのいない町に寂しさを感じながら、メイは彼との思い出の地をそぞろ歩く。
川に渡されたワイヤーでプレゼントを交換し合った橋の上。そこで彼女はふと気配を感じて振り返ると、そこにかつての笑顔そのままの、モウがいるのだ。

この場面、本当にリアルにモウなのかどうかが、判然としなかった。だって彼は町を出た。それまで、いつか母親が帰ってくることを信じて待ち続けていたモウが、何も行動を起こさないことより、と恩のある町を出たのだ。
その劇的な変化は、勿論メイとの別れにあったに違いなく、自分が望む物を手に入れるためには、どんなに大事なものも時には捨てる覚悟がなければいけないことを、知ったからに違いないのだ。

だからここに彼がいる訳はないし、いてはいけない。
でもメイは、確かにあの変わらぬモウの暖かな笑顔を見て、嬉しそうにニッコリと笑う。
ただ二人の顔がアップの切り返しで、カメラは客観的な状況を引いて映し出すことをしないし、現実場面とは思いにくい描写なんだよね……。
なんかそれがさ、逆に……実際には二人が永遠に会えないようにも思えて、ひどく切なかった。
いや、実際には、今この時、真の再会を果たしたのだと思いたいけど。

モウがこの町を出て行ったキッカケは、降るハズのない雪だった。この町に雪が降ったらお母さんは帰ってくる。つまりそれは、降る筈がないからお母さんは帰ってこない、という逆説だった。
でも、降ったのだ。いや……雪じゃなかった。マーさんが倒れて家に火が回った。必死にマーさんを助けたモウが見たのは、火を消すために降り注ぐ水、いや、あれは化学剤だったのか、雪のように泡状に降り注いでいた。

マーさんは施設に収容される。それまではこもりきりながら、モウが届ける新聞で外界と通じていたマーさんが、その時からスクリーンからも姿を消すその残酷さ。
死んだ訳じゃないけれど、もうこうなると……世間から姿を消すことが、もはや死に他ならないのだ。

そしてモウもまた、町を出る。雪が降ったと思ったから、なのだろうか。それでも母親が戻ってこなかったから、探しに行こうと?なんだか違う気がするのだ……。
マーさんがこもっていた自分の家と、モウがこもっていたこの町、同じことだった気がして。そのことにモウが気付いて、“外”に出て行こうとしたんじゃないかって。
そしてそこにもはや……メイの存在は介在してないんじゃないかって。
だからメイがあの時見た彼の姿は、彼女の願望であり、幻に過ぎなかったんじゃないかって……。

アイドル全盛のかつての日本でなら、こういう物語もリアリティがあったかもしれない。
そして今のアジア各国は、そうした以前の日本と似たような状況にあるように思う。
スターが非現実な存在として成立していること。それはファンとなる一般観客には夢を与えるけれども……。 ★★★☆☆


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