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「け」


2011年鑑賞作品

軽蔑
2011年 136分 日本 カラー
監督:廣木隆一 脚本:奥寺佐渡子
撮影:鍋島淳裕 音楽:
出演:高良健吾 鈴木杏 大森南朋 忍成修吾 村上淳 根岸季衣 田口トモロヲ 緑魔子 小林薫 日向寺雅人 小林ユウキチ 蕨野友也


2011/6/9/木 劇場(錦糸町楽天地シネマズ)
原作が未読の場合、観た後、いつもどうしようかなあ、と思うのだが、今回はえいやっと、原作文庫に手を出してしまった。手を出してしまってから……うーん、マズかったかなあ、と思った。
手にした時、その予想外に厚くずっしりとした重さに、まあ媒体の違いとして小説の方が中身が多くなるのは仕方がない、それを映画作品としてどう昇華させるかだもの、と思いはしても、その重みが、原作の持つ重苦しさのような予感を感じて、読み進めるのも気が重くなった。
だってそうなると、原作に引きずられてしまう。映画でどこまで描いているのか、などと比較対照する気持ちも薄れていき、映画の記憶そのものが薄れていってしまう。

それに正直……好きなタイプの作品じゃなかった。こういうの、個人的には読もうとは思わない。なんかね、中上健次が原作というので、ちょっと映画を観る前から臆していた気分はあった気がする。
現代小説家の中でも、老練な映画クリエイターの中から折々名前が上るのを聞く作家、つまり映画玄人たちが好む作家というイメージがあって……。私みたいな、単純でバカな映画ファンには、もう名前だけで敷居が高い、みたいな気がしていた。

原作に手を伸ばしたのは、冒頭からなんか台詞が聞き取り辛く、カズさんが真知子をさらうために(という訳でもなかったのか……成り行きだったのか)起こしたトップレスバーでの騒ぎ、警察の手入れを模した騒ぎをカズさんに仕掛ける兄貴の、ムラジュンが何を言っているのか、カズさんに扮する高良健吾も何を言っているのか、なんか全然聞き取れなくって、もう最初からその焦燥感があると、大事なところを取りこぼしているような気がずっとしてしまって、その気分がなんだか最後まで続いてしまったからかもしれない。
都会の喧騒の中、ガヤガヤとした小汚いラーメン屋、臨場感はあるけど、物語が開ける突破口の場面でそうだったから何かとても焦ってしまって。ずっとそんな雰囲気が続いていたような気がした。

あるいは。原作を読んでしまうと感じてしまう重さが、映画にはなかったことなのかな、やはり。
いや、それは本作を見て軽いと思った訳じゃなくって、なんかね、杏ちゃん演じる真知子の気持ちが、どうもよく判らないというか、いや、彼女がどうとか真知子がどうとか言うより、どんどん展開に流されて、聞き取り辛い台詞に流されて、この世界観だけで見せてしまうみたいな雰囲気に、取り残されてしまったからなのかもしれない。

正直、観ている間中思っていたのは、こういう映画、というか、こういう画、もうなんだか飽きちゃったな……などというナマイキな気持ちだった。
ひと目見た途端、もうこの二人に幸福なハッピーエンドはなかろうと判ってしまうような刹那な雰囲気、遊び人の男と、身体をさらして暮らしている女。
そしてヤクザ、そして拳銃やナイフによる血の応酬。ああ、なんかもう、こういうの、あるなあるな、という感じだった。
映画として魅力的な素材ではあるけど、魅力的過ぎて使い古された素材で、その古くささを突破するのは容易なことではないと思われたのだが、本作はそのことにはまるで頓着していないように思った。

それがクリエイターとしての自信、なのだろうか。あるいはこの原作が20年前、という経過があるからしょうがないことなのか?
でも、この原作が20年前であること、ほんの20年前なんだ、意外に最近なんだ……と、ちょっと驚いたぐらいだった。
それぐらい、身体を売る女が遊び人の男にささげる純愛物語、ていう図式や、暴力的なほど保守的な田舎に傷ついていく彼らが、遠い過去の物語を見ているようだったから。

いや、確かにそれを皮肉っぽく示唆する台詞はある。カズさんの故郷に連れられて来た真知子が、あまりに保守的なことにちょっと笑っちゃうぐらいにして「何それ、今の日本の話?」と言ってしまうような。
私、それはこの映画において、古い時代の原作に対する揶揄というか、言い訳のように言っていたのかと思ったが、違ったんだね。
原作で既にその台詞はあり、原作の時点でもう古過ぎる価値観に苦しめられる若い二人の物語、だったんだ。
確かにその価値観、田舎の旧家の形のない価値観にしがみつきがたる日本人性は、きっと今現在、現代でもがっちりとしみついているんだろう。
見た途端、決して幸福になることはないことが判っちゃう、というのがある意味魅力的ではあり、その点であの傑作「息もできない」なぞを思い出したが、悲劇の度合いは似たり寄ったりでも、なぜか衝撃の度合いは全然違った。

映画化に際して、いわばウリとなったのは、あの鈴木杏が、子役から活躍していて、ハツラツとしたキャラの鈴木杏が、ヌードに挑戦!ということがあったろうと思う。
その点に関しては、ああまたしても、おっぱい出しただけで大騒ぎする悪しき日本のマスメディアめ、と思ったけど、予想以上に彼女はちゃんとやってて、へえ、と思う。ちゃんとだなんて、何がちゃんとなのかアレだけれど。
まあつまり、おっぱい出すだけじゃなくて、キスシーンから手抜きを許されないセックスの生々しさもしっかりやってるということで。
いやー、たまにさ、もう乳首出しただけで体当たり!とか言い出す向きもあるからさ(爆)。まああのキスシーンはねっとりは見えたけど、舌は入れてないなとは思ったが(爆。でもそれって結構重要だと思う……)、それでもあの鈴木杏が!というオドロキは充分感じる、腰のグラインドだった。いや、グラインドだけじゃないけれども……(爆)。

ただ、ね。やっぱり、あの鈴木杏が、という驚きだけで終わってしまったかもしれない感はある。ポールダンサーである真知子としてのステージシーンもへえ、彼女、こんなに身体柔らかいんだ、と単純に驚いてしまう程見事にこなしていたけど、外国人ダンサー二人に挟まれてのステージシーンは、彼女が日本人としてはスタイルが良くても、その足の短さとウエストのメリハリのなさにやはりガッカリしてしまう気持ちがあったしなあ……。
それとも、カメラの引きや切り替えに騙されてるだけで、実際に杏ちゃんが最初から最後まで踊ってた訳じゃないのかな??

いや、実際、このステージシーンはなんというか……ちょっと微妙なのよね(汗)。確かに杏ちゃんは扇情的なメイクと衣装に身を包み、挑発的な視線を送ってステージシーンをこなしているけど、客席はなんとも大人しくって、すっごい紳士的にお酒飲んで眺めているだけだしさ。
後にね、彼らの運命を握る賭博場の男、山畑が、自分も新宿を知っている、それどころか君のファンだったと、かぶりつきで見ていて、ここ(太もものバンド)に札束を挟んだと、舐めるような、いたぶるような視線を絡めて言い、その時の、山畑に扮する大森南朋の怖さと色っぽさときたらないのだが、でも、“かぶりつきで見て、太もものバンドに札束を挟んだ”なんて雰囲気、真知子が踊っている店のシーンは割とあったのに、全然、なかったよね……?
正直、冒頭の、警察の手入れに似せた騒ぎのシーンでも、荒らされる店内の様子がVシネかよと思ってしまうような、スカスカとした安っぽさで、正直もうこの時点で気分がそがれてしまったかもしれない、なあ……。

杏ちゃんはねえ、杏ちゃんはねえ……求められていることをきっちりやりこなしたとは思うんだけど、思うんだけど……なんかやはり、勝手な先入観、かなあ、なんかダメなの(爆)。
いやそう思ってしまうのは、彼女の顔の大きさかもしれない(爆爆)。アンパンマンみたいで、全然、悲惨な運命に向かう女って感じが、しないんだもの。たくましすぎなんだもの(爆)。
いや、杏ちゃんに対して顔がデカイなんて言うのはあまりに不遜だが、なんたって彼女と濃厚なラブを繰り広げるのが、端正なちっちゃな顔の高良君なんだからしょうがないじゃないか。顔を寄せると、杏ちゃんのアンパンマンっぷりが目立ってしまってどうもいけない(爆爆)。
おっぱいも腰のグラインドも見せた女優魂、杏ちゃんを高良君があっさり凌いでしまうのは、女優殺しってヤツかもしれない。
彼のキャラは、ズルいよなー。あの大森南朋をして、「お前はズルい。なぜ誰からも愛される。お前とオレと、何が違うんだ」と咆哮させるほどの、愛されキャラ。その愛されキャラこそが、二人の破滅を招いてしまうのだが……。

実際、彼の子犬のような純真さが、映画としての本作を決定付けたと言ってもいいと思う。
というか、それはちょっと、意外だったかもしれない。だって彼の登場シーン、いや、表面的には最後までそうだけど、彼は、こんなのどかな田舎に収まらない、“イイ男”であり、都会からかっさらってきた愛妻のために泥臭く酒の配達なぞして甲斐甲斐しく働く姿さえも、そのギャップこそが女の心をキュンとさせてやまないんであった。
でも根底にあるのは、こんな無頼な男なのに根っこは生まれながらのいいとこ育ち、つまりボンボンであり、この働き口だって親戚の一環だし、住まいだって、地主の親からポンと与えられたマンションだったのだ。
そこで真知子は彼の帰りを待ちながらクリームシチューなんぞを作る。クリームシチューってのが、真知子の心象風景を示すために原作にも登場するんだけど、ここではメニューだけを登場させるといった感じなのが、ちょっとヘンなの、と思う。

原作をウッカリ読んでしまうと殊更に思い、ひょっとしたら映画を観ている時からそう思っていたのかもしれない、などとナマイキなことを思うのだけれど、本作って、結局はカズさんの物語、なんだよな。カズさんに、寄り添ってる。
見た目的には杏ちゃんと高良君の両主演のようにも見えるけど、最終的にはバカな男の愛らしさを、バカだと判ってて女が愛しちゃう男の愛らしさを、この年頃、ドンピシャであるこの年頃でしか放てないフェロモン(という言い方も古いから、ヤなんだけど)全開にした高良君にさらわれきってしまう。

杏ちゃんは、こんな言い方をしてみたらナンなんだけど、脱いじゃったから、この刹那的なキャラに“挑戦”しちゃったから、観客の目にはもうその時点でおしまい、になってしまってるんだよね。
しかも顔デカくてアレだし(爆。ゴメン!どうしても気になるんだもん……)。カズさんの幼なじみや大森南朋から、崇められる目で見られても、やっぱりなんか、ダメなのよ。
でも高良君は……いやはや、彼はズルいよな。適度に濃い、だけどうっとうしくない程度の、これがもう死語になったかもしれない、ハンサムなどという言葉を復活させたくなるような。口角をキュッと上げて、アゴがとがってて、キラキラとした瞳をしていて。こんな男の子、草食系だ韓流だなんて昨今にはいないよ。

何より魅力的なのは、カフェ「アルマン」のマダムである。原作にも出てくるし、お妾さんだった愛する人の孫である設定も変わらないし、そのお爺さんの思い出に生きている今の姿も変わらないけど、とても毅然としていて、女の誇りに満ちている。
昔はナンバーワンの芸者であったというこれまた原作通りの設定も、映画のマダム、演じる緑魔子にはひどく似合っている。
緑魔子!スゲー!もうそれだけで心ワクワクしてしまう。年相応にちゃんと年をとって、それこそがカッコイイ女、まさにこんな女こそが女の理想だ。

本作も、そして原作は特にそうなんだけど、女の造形がどこか、男の典型的なフィルターを通してて、それが理想のそれであったり、嫌悪するそれであったりするのが、それはどっちも違う、女はそんなんじゃない、そんな単純じゃない、と叫びたい気持ちがあってね。
まあ、そんなフィルターを感じることこそが、女も男に対して単純なイメージを押し付けているのかもしれないけれど……。

でもね、この映画のマダムは、そんなところを飛び抜けている。まさに、緑魔子なんだもの。確かに過去の愛する人を胸に、それだけを胸に生き続けてる。お爺さんそっくりのカズさんに胸ときめかせもする。
でも、彼女は今、孤高の彼女として生きているし、多額の借金を背負ったカズさんを救うために土地の権利書さえ差し出して、最終的には店ごと焼かれて業火の中に命を落としても、それは、愛のためではなく、彼女自身のため、なのよ。

ああでも、解釈としては、愛のため、になるのかなあ。だから真知子はこのマダムにはかなわないのかなあ。
ただ、ね。本作が、原作が真知子の、女の目からはうっとうしいほどに女女した視点と価値観とから描出されるのに対して、本作がむしろカズさんであり、あるいはもっと俯瞰した視点、時にこのマダムであったりするのが、いい意味でも悪い意味でも本作をどこか、御伽噺然とさせている気がするというか……。
そりゃあ、このマダムは、理想よ。今はもういない愛する人、愛する人の面影を残した孫(のような存在)のために業火に焼かれるなんて。
でも、画としてはとても素敵だけど、やっぱり……ね。業火に焼かれるアルマンは、ただのカフェというにはお城のような瀟洒なつくりで、それこそがマダムに対するお爺さんの愛を示しているとも言えるけど、でもやっぱり、なにか、御伽噺みたいで。

本作の脚本を、女性が手がけているというのが、この原作からの、視点も含めた意図的な乖離を示しているのだろうか、と思う。いや、女性が、男性が、などと単純には言いたくない。それこそ悪い意味でのフェミニズムだとは思う。
でも、映画を見ていてもどうしようもない男だと思ったカズさんが、原作を読むと、映画のカズさんはずっとやわらげられていると感じ、そのやわらげられているのは、彼が誰からも愛されているということを、具体的な描写でもって示されている部分なのだ。

マダムよりも、古くからの地元の悪友とのじゃれあいのような部分にこそそれが色濃く出ているように思う。
原作では、というか、普通の感覚では、こんなガラの悪い友達、カズさんのいない時でさえマンションにずかずか上がり込むような友達は、いくら世慣れしたダンサーあがりの女とはいえ、恐怖に感じるに違いないと思う。原作でも、その点はハッキリと提示されてる。

でもこの悪友たちは可愛らしいほどに純粋にカズさんにじゃれあって、確かに口では勤めなんて続かねえよ、と言い、まあ実際その通りになるにしても、でもそれは、原作で定義されるほどには決して彼らとの付き合いのせいなどではないのだ。
浜辺のバーベキューに、肉ばかり集まったり、しいたけが食べたいと言ったり、しかしどしゃぶりでおじゃんになったり、なんて描写が妙に可愛らしく、その中の真知子が気まずげなのが逆にほほえましいほど。

カズさんは山畑から借りた膨大な借金に親に土下座までするものの冷たく無視されて、にっちもさっちも行かなくなってこの悪友たちと山畑の店に強盗を仕掛ける。
しかし思ったより金が手に入らず、それどころかバッグの中に拳銃が入っていて、カズさんの身代わりにとらえられた悪友たちは壮絶な目にあって……。

この場面は、原作にないだけに、カズさんたちの幼き頃からの友情が、あまりに幼いだけであっただけ、純粋すぎて辛く、そこには真知子が入っていけない悲哀を強く感じる。
こんな場面を原作にないものとして印象深く挿入するなんて、それこそ女性の脚本家っぽいなあ、などとまたつまらないことを思ったりする。
特に、自分の命が助かりたければ目の前のダチをやっちまえ、と言われて、泣きながら殴打する、カメラが外れ、その友達の、幼い子供と幸せそうに移った写真が血まみれで砂浜に散乱する、だなんて、あまりにも甘美じゃないの。あまりにも、あまりにも……。

マダムが死に、二人で高飛びしようという真知子を一人東京に逃がすカズさん。山畑と対決するカズさんは、本当にお前にやれんのか、とボンボンを揶揄するように自信たっぷりに言う山畑に、ケモノのように咆哮しながら拳銃をぶっ放した。
……そもそも見せ金のようにスカスカの金しかなかったバッグの中に拳銃が入ってたこと自体がよく判らないけど……。

そして、山畑に腹を刺されて瀕死の状態のカズさん、シャッター商店街をのたうちまわるカズさんの元に、真知子が駆けてくる。
マダムの葬儀のままだったからお互い喪服のまま、血だらけのカズさんを抱えてタクシーに乗り込み、「こうなるのは判ってた」と真知子はつぶやく。
そのまま息絶えるカズさんを涙を流しながら抱きしめ続ける。原作が(もう原作とか言いたかないけど、やはりつい……)、真知子がカズさんの死に目にも逢えなかったことを思うと、やはり女が見たいラブストーリーに仕立てている気がする。
真知子が再三口にする「愛し合う男と女、五分と五分」は勿論原作でも何度も出てきて、重要なキーワードでありこの物語のテーマではあるんだけど、それが原作世界においては厳しい現実の前にあえなく崩壊してしまったのに対して、本作は見事にそれが、貫かれたのだと思う。

真知子にカズさんの借金をささやく銀行員、忍成君が、本当にそれだけの役割で、思わせぶりだっただけになんか凄い、もったいない気がした。
でね、劇中でもトップレスバーと言ってたと思うんだけど、トップレスバーって、随分古い言い方だよなあ、と思って。まあ原作の時点では確かにトップレスバーなんだけど、映画は今風のスポーティーなポールダンスなのに、と思っていたら、解説ではあっさり、ポールダンスバーになってた。
うーん、でも、劇中ではトップレスバーってやっぱり言ってたよね?確か……どうでもいいことだけどなんか気になってしまった……。★★★☆☆


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