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「な」


2011年鑑賞作品

名前のない少年、脚のない少女/OS FAMOSOS E OS DUENDES DA MORTE
2009年 101分 ブラジル=フランス カラー
監督:エズミール・フィーリョ 脚本:エズミール・フィーリョ/イスマエル・カネッペレ
撮影:モウラ・ピンヘイロ.JR. 音楽:マルティン・グリナスチ/ネロ・ヨハン
出演:エンリケ・ラレー/イスマエル・カネッペレ/トゥアネ・エジェルス/サムエル・ヘジナット/アウレア・バチスタ/アドリアナ・セイフェルチ


2011/4/5/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
最初のうち、何が起こっているのかよく判らなかった。ここが現実なのか、夢の中なのさえ。
いや、全てを観終わってみても、やはり何が起こっていたのか判らなかったのかもしれない。現実なのか、夢の中なのかさえ……。
少年は、ネットの中で永遠に生き続ける少女に恋していたのか、それとも同化していたのか。

同化、そう彼が感じる台詞があるから。今はもう死んでいる少女に同化する、なんて、少年の“自分”があまりにもなさすぎる気がして切な過ぎる。でもそれが少年期ということなのか。
ネットというのはとても現代的なテーマなのに、その中で永遠に生き続ける少女、というのがあまりに神話的で、古典的で。
何か、生まれた時から見続けている夢を見ているような気がした。

タイトルからして繊細で文学的である。名前のない少年、脚のない少女。名前のない、というのはネットに耽溺して詩を投稿し、そして投稿サイトの中にくだんの少女の写真を見つける主人公の少年のことである。
ボブ・ディランを敬愛し、名曲「ミスター・タンブリマン」をハンドルネームにしている。彼の詩を褒めてくれるチャット仲間のE.Fからは、3日後のボブ・ディランのライブに誘われている。しかし、小さな村から一歩も出たことのない彼はそんなこと想像も出来ない……。

これが、ブラジル映画らしからぬ、と言われるんだけれど、そもそもブラジル映画を観る機会がないので判らない。
けれども確かに、単純にイメージされるサンバやなんかの陽気な雰囲気からは皆無である。
主人公の少年はジャン・ピエール・レオーをほうふつとさせるような、一見しただけでこの難しい年頃を自分自身でももてあましているのが判る、迷い、反抗し、だけど優しいまなざしをしている。
母一人子一人で暮らす彼が、実に思春期らしく母親に反発するんだけれど、最後の最後、泣き顔を見せて母親の胸に顔をうずめた時ホッとしてしまう。いつの時代も現代っ子といわれる子供たちは、それでもやはり、優しく、愛情に満ちているんだと。

そしてそう、このタイトルは実に不思議なんだよね。名前のない少年、はこの主人公のことだけれど(名前……呼ばれてなかったっけ?)脚のない少女、は、写真サイトの中だけで生き続ける少女、ジングル・ジャングルのこと。
別に彼女に脚がないわけじゃないし、脚がないっていうのは、実に日本的に幽霊の意味合いを思わせる。

しかも本作の中には自殺の名所のような大きな橋が登場し、物語のラストには主人公の少年が実に思わせぶりにその橋をしずしずと渡って、映像は思わせぶりにボケボケになって、ブラックアウトしてしまうんだもの。
……なんか、三途の川の橋渡しだのを思わせちゃうじゃない。それって思いっきり日本的な発想だよなあと思いながらも、この橋があまりに印象的なので、観ている間中、ずっとそのことを思っていた。

まあそもそも、原題がそのまま邦題に反映されているかどうかも判らないし(英語だって判らないのに、そうじゃなければ余計に判らん(涙))そのあたりはどうなんだろうなあ。
ただね、ただ……本当にね、本作の印象はまず凄く……文学的だということ。主人公の少年が詩を投稿していることもそうなんだけど、個人的なポートレートが多用されているのに不思議なんだけど、文学的、なんだよね。

いや、もっと絞って、私小説的、と言った方がいいだろうか。ジングル・ジャングルが投稿している写真も、写真だけど私小説的である。写真なのに、ささやきというか、つぶやきを感じる。
とてもクロースで、親密で、肌の温度や匂やかささえ感じるような写真。それは彼女が恋をしていたから。かたわらには恋人のジュリアンがいたから。そして、彼女だけが、死んでしまった。

そのジュリアンが、この小さな町にいるんである。もっと正確な表現をすれば、“戻ってきた”んである。ジングル・ジャングルと心中をしたけれど、彼だけがうっかり生き延びてしまった。
最初はそうした事情が判らず、主人公の少年と友達のジエゴと夜更かしで遊んでいる時に、暗闇の中からジュリアンが近寄ってくるのに対しジエゴの方が身構えるから、彼が怖がっている近所のヤクザな兄ちゃんとかなのかなあ、と思っていた(爆)。

いやしかし、ジエゴも何か複雑な事情を抱えているような感じがし……この作品はとかく繊細で寡黙で芸術的映像のイメージがとにかく強いんで、物語とか人物の相関性とかにあまり意味合いがない感じはするんだけど、だからこそ登場人物がぽつりぽつりともらす台詞が凄く気になったりもするんだよね。
ジエゴは主人公の少年よりはもちょっと健全で(爆。いや、ネットに耽溺しているから不健全なんて、私が言える訳ない……)、同級生の美人の姉ちゃんをヤレるかもとネラっていたりなぞもするのだが、こともあろうにその同級生姉妹のお母さんが自殺してしまうんである。あの、橋の上から飛び降りたんである。数年前に死んだ夫を追って……。

ジエゴは多くのヤジウマからは離れた場所で、ぼんやりと佇んでいる。主人公の少年が近寄る。その会話の中でさあ、これってボンヤリ頭の私の聞き違いかなあ、ジエゴのお姉ちゃんが自殺したって言わなかった?そしてそれがあのジングル・ジャングルではないかと……。思い違いだったらゴメンナサイ(爆)。
でもそうなら、ジエゴがジュリアンを畏怖するように忌み嫌うのは判る気がする。そして主人公の少年がジングル・ジャングルに恋していたのが、現実ではなくネットの中だけであったとしたら、この親友との関係はかなり複雑の極みなんだよね。

ジエゴが彼より幼く見えつつ、でも実はジエゴの方が大人であろうという、矛盾のような複雑な構図は、実に思春期の少年的である感じがする。
主人公の少年は、文学や音楽に耽溺している分確かに成熟しているけれど、それは実は……現実に即している部分じゃないんだもの。
ジエゴはそういう意味ではいかにもイナカの無学な少年なのかもしれないけど、現実というものをイヤというほど知ってる。

彼はネットなんかやらないかもしれない。でもマリファナを親友に教えたのは彼だろうし、この街を出てボブ・ディランのライブに行くことが何の意味があるのかと、行くことの意味以前にあしらっていることからも切実に感じる。
でもどちらが幸せなのかと考えると……判らない。現実を知らないまま、もう死んでいるのに永遠に生きる少女に自らの透明な気持ちを投影する主人公の彼の方が、幸せなのかもしれない。

でも、そもそもその主人公の彼(いちいち言うのもメンドくさいが、しょうがないわな)の父親も、自殺しているんだよね。
それが明かされるのは物語もかなり後半になってからなんだけど、そもそもこの母子家庭の様相が、父親が単に仕事でいないとかいう雰囲気でもないし、確かに違和感は感じていた。
ただ、彼があまりにも自分の世界に閉じこもっていたから……あまりにも閉じこもって、そのセルフイメージが前半部分フル回転だったから、観ているこっちが、これはどーゆー話なの、このイメージクリップのような状態で最後まで行ったらどうしよう(そーゆー映画も結構あるからねぇ)とかなりドキドキしていたんだよね。

そのセルフイメージが、現代を象徴するネットという世界に投影されているんだけれど、だからこれはいかにも現代的であると見えそうではあるんだけど……でも実は、そうじゃない、と思う。
この作品に真っ先に感じる文学的、私小説的なイメージは、彼がネットに自作の詩を投稿しているから、などという単純なイメージではないんだもの。
確かにネットはどこにいても全世界につながる、それまでの時代にはなかった、革新的なツールではある。
でも、その世界があまりにも膨大に広がっているから、一方で全世界につながっているむきもあれば、この少年のようにチャットの相手がたった一人だけだったりもする。

ジングル・ジャングルのサイトだって世界中の人が見られる環境にあり、実際見られているんだけれど、少年が彼女に同化するほどに入れ込むのは、彼にとってネットが世界中とつながるツールではなく、自分を判ってくれる人間とつながれるツールだから、なんだよね。
つまりめちゃめちゃ、狭いんだよね。彼が今住んでいるコミュニティよりも狭い。彼はこのコミュニティに息苦しさを感じているというのに、それよりも狭い世界を求めてネットに救いを求めているという矛盾が哀しく切なく、私自身それが切実に判るだけに……これぞネットの功罪だというのが判るだけに……。

ただ、ね。そんないかにもな文化論的なことを言ってしまったら、この作品の魅力はこぼれ落ちてしまう。あるいは逆に言うと、そここそが魅力であるとも言える。
そんな矛盾を百も承知で、このクリエイターはもろく美しく、でも一方で強く優しい価値観を描いているのだろうと思う。

ジングル・ジャングルの発信するセルフポートレートは、次第に恋人との親密さを増していく。主人公の少年がジュリアンと個人的に接するに至ってからは、死んだ筈のジングル・ジャングルとジュリアンと少年とが入り混じり……。
もともと少年はジングル・ジャングルに自身をオーヴァーラップさせていたし、ジュリアンもどこか透徹した意識でそれを見抜いたかのように彼を不思議の異世界へのドライブに誘うし、誰が誰なのか、もう三人が溶けあってしまって、観ているこっちも、いわゆる現実的な理路整然とした関係性などどうでも良くなってくる。

ジュリアンが少年の中に見ていたのはきっと確かに、愛する恋人だっただろう。少年が彼女に同化していたのは、ネットという現代的なツールを介してだとしても、確かに魂で触れ合っていたからだろう。
そんな、ふとするとファンタジーと斬って捨てられるようなことが、クライマックスの、超クロースアップの、超クロースアップだから、もう誰が誰やら、誰と誰が頬を触れ合わせているのか、まつ毛を震わせているのか判らないほどのシーンで、溶け合って溶けあって、どうでも良くなっちゃうのだ。

その時この小さな町は、6月祭の真っ只中である。恐らくこの小さな村では唯一のお楽しみであるのであろう、少年の祖父母はお決まりの新郎新婦の仮装をして、仲睦まじく腕を組んで出かけて行く。
そうそう、この祖父母の元に少年が訪ねていくのも印象的なんだよね。挨拶をしにきただけだから、という孫におばあちゃんは寄っていけ、焼きたてのパンを食べていけ、そんな時間ない?なら持って帰れととにかくベタベタである。

しかしどこかボケ気味のおじいちゃんは、孫と対峙しても話すことがない。ジーっとしている。なんかこれがね、なんともやるせないんである。
この祖父母が父方なのか母方なのか、劇中では言ってなかったように思うけれど(言ってたらゴメン)、父方じゃないのかなあ……。おじいちゃんのジーッとしている様子がなんとも、ね。
少年は6月祭に皆で集まって父親の墓参りする、という行事を強硬に拒み、「どうせもう腐ってる」と言って母親を激怒させる。そう、この時点でようやく彼の父親が死んでいること、それもどうやら自殺だったらしいことが明らかにされるのね。

先述したように母親にはことごとに反発した態度(というか、無視した態度)を示す少年なんだけど、ラスト前、ジュリアンとジングル・ジャングルの場面から6月祭になだれ込んで母親とダンスする場面で、彼女の胸に顔をうずめて泣くところと、もうひとつ、酔っぱらった母親が息子の部屋にワインを持って乱入して二人で酌み交わす、和やかな場面もあるのだ。

クライマックスはそりゃまあ、物語的にも盛り上がりを見せるところだし、観客としても救いが欲しいから、彼の少年らしい泣き顔に思わずホッとしたりもするんだけど、中盤の、それまでもそれ以降も母親にとげとげしいばかりだった彼が、ワインを介すると凄く和やかになるっていうのが、ね。
母親は、もう飲みなれてるのね、と言い、この時ばかりは息子の非行を責めたりしない。というか……彼女が対等の話し相手を渇望していた気持ちは否めなく、それには酒という、大人の証明というか免罪符というか逃げというか、その存在は大きい訳で……。
そう考えるとお酒って……なんかやっぱり哀しいなあ、と思っちゃう。

それにしてもボブ・ディランである。この作品はボブ・ディランをきちんと認識しているかしていないかで、大きく理解度が違ってくると思う。
私は……そういうの、ウトいもんでさ。みゆきさんが大学時代に好きだったのは、レノンよりディランと言ってたのが名前を知った最初だったかなあ?てか、何より「アヒルと鴨のコインロッカー」でとにかくディランが連呼されて、結構ヘキエキしてしまったことを真っ先に思い出して困ったナァと思ったんだけど、そうこうしたものを考え合わせると、ボブ・ディランは確かに、自分自身さえも判らずに迷ってる若い心を、理屈なく揺さぶる存在なんだろうなあということは、何となく判ってくる。

そして少年が行きたくても行けないディランのライブが、実際どこで行われていたのかは、どこで行われる設定だったのかは判らないけれど……きっとえっと思うほどに遠くもない、あるいは、最初からそんな設定さえなされていない、つまりは彼にとってその場所はもう最初から非現実的で、父親の死やジングル・ジャングルの死や、この小さな街への憎悪と愛情、つまりアンビバレンツや、その全てを乗り越え、いや、全てを捨てなければ行けない場所、行けない世界、なんだろうと思う。
それが、三途の川を渡す橋を渡らなければいけないほどなのか、ということを思わせるのは、少年期の柔らかすぎる、傷つきやすすぎる、うらやましいほどに高貴な精神の証しに思えて、汚れちまった当方としては、キリキリと痛い。

確かに、ブラジル映画らしからぬ、だった。それは、ここがどこでもなく、どこでもある場所だったから。
トーキョーやニューヨークといった大都会でないことは確実だけれど、どこかの片田舎、というのもアイマイなような、現実的なのに非現実的なような。
霧の中に、光の中に、ボブ・ディランが演奏していて、彼はただそこに歩を歩ませる。少女は恋人との時間をネットという宇宙空間のように頼りない場所に、宇宙のゴミのように永遠に虚しく漂わせ、それを追う虚しくも懸命な人々が、この後際限もなくこの地球上に現われるのだろう。

少女は永遠に生きてなどいない。永遠に、死んでいるのだ。そのことを誰もが判っていて、気付かないフリをしている。
それはこの地球上のどこでもあって、どこでもないのだ。誰もが判っていて、誰もが気付かないフリをしているのだから。
そうして見捨てられた人たちはこの少年、ジングル・ジャングル、ジュリアン、ジエゴ、あるいは大人たちも、そして今こうしている私たちも、きっとそうなのだ。 ★★★☆☆


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