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「あ」


2007年鑑賞作品

愛されるために、ここにいる/JE NE SUIS PAS LA POUR ETRE AIME
2005年 93分 フランス カラー
監督:ステファヌ・ブリゼ 脚本:ジュリエット・セイルズ/ステファヌ・ブリゼ
撮影:クロード・ガルニエ 音楽:クリストフ・H・ミュラー/エドゥアルド・マカロフ
出演:パトリック・シェネ/アンヌ・コンシニ/ジョルジュ・ウィルソン/リオネル・アベランスキ/シリル・クトン/アンヌ・ブノワ/オリヴィエ・クラヴリ/エレーヌ・アレクサンドリディス/ジュヌヴィエーヴ・ムニク


2007/1/11/木 劇場(渋谷ユーロスペース)
なんかね、「Shall We ダンス?」をフランスが作るとこうなるんだな、って妙に納得してしまった。前提が最初から違う。男には帰ってゆく幸せな家庭などなく、かなう筈のない美しい女性との恋がかなってしまう。
でも一体、どちらが幸せなのだろう。本作では、スタートでもう、幸せな人生を否定している。帰っていく幸せな人生は、男だけでなく女にもないんである。出会った二人の感情と過ごす時間は今、この時の刹那で、決して幸せな人生を予期させるものではない。それはまさしくタンゴの官能そのもの。

ジャン=クロードは執行官。裁判所の決定によって支払い義務に応じない人への督促や差し押さえを行う、あまり気持ちの良くない仕事をしてる。仕事に情熱を感じているというわけでもない。父親の仕事を継いだだけだし、もうそうして何十年にもなる。
離婚してからも、相当の時間が経っているように思われる。今度事務所に入ることになった息子とも、どこか久しぶりのようなぎこちなさを感じてる。
彼は、いつも窓から見えるダンス教室を眺めていた。一人でこっそりステップを踏んだりしてた。
医者から、軽い運動をした方がいい、と進められた彼は、迷わずそのダンス教室のドアを叩いた。そしてそこにいたフランソワーズ。

フランソワーズがこの教室に来ているのは、結婚式でカッコよくタンゴを踊るためだった。本当なら婚約者であるティエリーも一緒に来なければ行けないのに、小説の執筆がはかいかない彼は、来週は行くから、とばかり繰り返し、腰を上げようとしない。
彼女は、ジャン=クロードを見た途端、彼が誰なのかを悟る。
小さな頃、彼の妻に面倒を見てもらったことがある間柄。「ファンファンよ」と話しかけると、ジャン=クロードはやっと彼女を思い出す。

それを、解説では「人生におけるターニングポイントを迎えた男女」と表現している。
50の男と35の女。
そうなの、男はそれを、50歳でも迎えることが出来るんだよね。女は、35が限界なのよ。そう言われている気がする。
これって、下世話な話だけど、やっぱり子種の問題だって気がする。人間が「人生のターニングポイント」などというものを持つのは、やっぱり人間も生物だから。
それでもなぜ女が長生きするかっていうのは、孫がシッカリ育つまでの面倒を手助けする、みたいな気までしちゃう(私も大概ひがみ根性だが……)。
女が子供を産んでいれば、それは誇らしいことなんだろう。
でも……。
まあ、本作は愛を実感せずに50まで来てしまった男が、一歩を踏み出す物語。男の側こそが問題の物語。だから、そんなに女の側のことを言うべきではないんだろうけど。

でもね、この展開って、男の夢にしか過ぎない、と当然、言われかねない。確かに逆のパターンは、どれだけ可能性が低いかって話だもの。50の女に35の男がホレるパターン。まず、画にならない。だから女は老いるのを男よりも恐れる。
そして、本能的に35ぐらいで寂しさと愛しさへの渇望を覚える。それはここで愛しい人を見つけなければ、「犬との二人暮し」(後述)が待っていることを、どこかで察知するからなのかもしれない。
女は、過酷なのだ。

でも、フランソワーズを演じるアンヌ・コンシニの実年齢は40を軽く超えてる。首の筋とかそう見えなくもないけど、なんとなくね、キャラの雰囲気として35ぐらいな感じに思えるのよ。物語が示している感じというか。それとも私が自分だったら、などと考えてしまうせいなのかなあ。
それにジャン=クロードを演じるパトリック・シェネの方だって、50どころか60近いもんね(これはちゃんとそう見える。50じゃねえよなあと思ったもん)。やっぱりキャラ設定とのズレはあるよね。
でも、フランスはなんせアムールの国だから、何歳だろうと気にならない。当然、それなら逆の年齢差だって気にならないはずなんだけど……でも、さしものフランスでもそれはムリなのかなあ。まあそういう話もなくはないんどさ。

自分の妻が子守りをしたかつての女の子、なんて本当ならば恋愛対象になるわけがない。でも、妻と別れてから枯れた生活を送っていたせいなのか、「面影がある」とか言いながら彼女が成熟した大人の女になっていたからなのか、彼はなんだか最初からモゾモゾとしていた。
彼女の方はというと、最初はそんなつもりはなかったにしても、昔なじみだということで警戒心がなかったせいか、まるでなつくように隣に入り込み、そのことが……何だか化学反応のように感情が変化してしまった感じだった。
バスが来ないからと、何度か車で送ってもらった。別にその時点では他意はなかったように思う。でも車という密室空間に二人の男女がいれば、空気は変わる。
そして、車の中にダンスの靴を忘れた、と言って彼の部屋に取りに行ったあたりから、確実に二人の間の感情が一変した。

それまでも、ダンスレッスンで一緒に踊ってはいた。でもその時、二人の間には確実に距離があった。だけど彼に教える形で二人きりで踊った時、フランソワーズは抱き寄せるように、彼の肩に回した手に力を込めた。
それは、昔からの知り合いという親密、だったんだろうか。
そして、何度目かに送ってもらった時、彼女のマンションの前に着いても、なぜか降りようとせず……挨拶の頬と頬を交わした時、唇がお互いを求めてしまう。
それは確実に、欲望のキスだった。挨拶なんかじゃない。
ジャン=クロードは恋が始まった、と確実に思っただろう。フランソワーズが結婚を控えていることなど、まだ知らなかったから。ウキウキと彼女への香水なんぞ選んだりして。

思えばこのダンス教室、ダンス教室なのに、タンゴしか踊ってない。いや、最初からタンゴダンス教室なのかな。タンゴは愛のダンスである。彼女が結婚式で踊ろうとしているぐらいだもの。
それを不特定多数の男女が踊るダンス教室は、それだけでどこかエロティックな感覚をもたらす。
そもそもこの教室、それこそ「Shall We……」みたいな、基本からきっちりと教えるという雰囲気じゃない。このあたりはフランスって感じがする。皆好き勝手に踊ってて、ダンスホールみたい。たまーに単独で躍らせて「リード出来てない」程度の、漠然としたアドヴァイスをするだけ。

フランソワーズは練習の相手に、迷わずジャン=クロードを選んでた。彼女に婚約者がいると知ってて言い寄るカルい男なぞもいたけれど、目もくれなかった。
思えば、彼の車の中に靴を忘れたのだって、意図的だったように思える。
彼女を部屋に迎えることにジャン=クロードが舞い上がって、首筋に香水をスプレーしたりする様はなんだか可愛い。 そして彼女に選ぶプレゼントも香水……なんかフランスだよなー。香水って、エロティック。でもジャン=クロードは、気に入った香水の名前が「激しい情熱」だというのにうろたえて、「砂の薔薇」という無難な名前のものにするんだけどね(笑)。

ダンス教室の一環で、実際のステージを観に行く場面がある。時間にしてほんのつかの間のシーンなのだけれど、ねっとりとした情熱のタンゴのステージは非常に強い印象を残す。シンプルな、たった二人の舞台、音楽のテンポもゆっくりで、テクニックを見せるというよりは、ねっとりと、二人の時間を見せる感じ。だからこそ、濃密で、官能的な空間に引き寄せられる。
後ろの席から見つめるジャン=クロードの視線に気づいたかのように、振り返るフランソワーズ。彼女の首筋の後れ毛、そしてステージでは愛のタンゴ。間接的なだけに、やけにエロな想像をかきたてる。
実際、予告編でもこのシーンが何度も、繰り返し挿入される。本編ではほんのつかの間なのに。でもそれぐらいのインパクトがある。まるでこれが二人のたがを外したかのように。

でも、ジャン=クロードがフランソワーズの手を握って、そのたがを外したばかりの時、彼女が結婚を控えているってことを、知ってしまう。子供のように取り乱して、彼女を置いて車を飛ばしてしまう彼。
フランソワーズは説明をしに、彼の事務所を訪れる。説明?でもそれは……「あなたを期待させて傷つけたのだったら申し訳なかった」などという内容だった。おかしいよ。だってあの時、必死に車に取りすがって、弁解しようとしていた彼女の気持ちは、そんなんじゃなかったはずじゃない。
ただ……ジャン=クロードに揺れる気持ちを、フランソワーズは叔母に相談してて、当然その叔母は、そんなのは結婚前の不安に過ぎない、もうダンス教室に行っちゃダメよ、約束して、と釘をさしていた。
その場では頷いたフランソワーズだったけど、次の場面ではアッサリとダンス教室に顔を出していたのだ。
でも、実際、結婚は迫っている。素敵なドレスを試着して、心が浮き立ってもいる。婚約者が嫌いになったわけでもないし、不満があるわけでもないのに……。
それが、あの台詞になってしまったのか。あるいはジャン=クロードに何かを変えてほしいためのカケだったのか。

そんな彼女を冷たい言葉で追い払うジャン=クロード。それをドアの外からそっと聞いていた秘書の女性が、彼に言うのだよ。
「私も似たような台詞をある男性に言ったことがあります。もしそうしなかったら、今、犬と二人暮しはしていないでしょう」
これも、ギリギリの台詞。この秘書の女性はジャン=クロードとさして年齢は変わるまい。でも彼女には、彼にはめぐってくるチャンスはもう来ないのだ。だから、かつての自分が犯してしまった失敗を彼女にさせないでと言っているのだ。
男は50になってもチャンスがある。いわば死ぬまである。でも女のチャンスはせいぜいがとこ、ここが限度なのだと言っているのだ。
勿論、そんな例ばかりじゃないけど、50になったって可愛くてきれいでチャーミングな女性はいるけど、じゃあ逆に言って可愛くてきれいでチャーミングではない女性はさらに、ここが限度なのだもの。

結果が、どうなったのか、明確には示されない。ここまで具体的に進んだ結婚話を、いわばマリッジブルーにしか見えかねないこんな状況だけで、頓挫させるなんてするだろうかとも思う。
でも、フランソワーズは最後の最後、またダンス教室に現われた。ジャン=クロードと視線を絡め合わせ、身体をピッタリと預け、今までの中で一番、官能的なダンスを踊った。

結婚すると決めたほど、愛した人だったはずなのに。女はちょっと目を離した隙に、他に運命を見つけてしまう。運命は、ひとつじゃないのかもしれない。あるいは運命というのは、女の作った幻想なのかもしれない。
婚約者のティエリーは、確かにちょっと幼稚で彼女に甘えたがりで、自分の夢に入り込むと彼女をほったらかしてしまうようなところもあったけど、だからこそ魅力的だったんじゃないの?
ティエリーとは対照的なジャン=クロード。好きでもない仕事を漫然と父親から受け継いで、妻からも仕事を継がせた息子からも見放されるような男だった。フランソワーズに何をアピールしたわけでもない。
なのになぜ?これが人生の、恋の不思議?
それともこれこそが、男の夢の具現化なのだろうか。

実は、彼女とのロマンスだけが本作に描かれるわけではない。ジャン=クロードの老いた父との関係も、等分に描かれる。
もう身体が上手く動かなくなった老父は、今は施設に預けている。週に一度、ジャン=クロードは彼に会いに行って、モノポリーの相手をしたり、散歩に連れ出したりする。
この老父、老い特有の気難しさで周囲を困らせる。やることなすこといちゃもんをつける父に、じっと耐えるジャン=クロード。帰りの車の中で、散々悪態をついてウサをはらす。

でも、父親は絶対、息子が来るのをいつもいつも心待ちにしていたに違いないのだ。息子をイヤな思いにさせているのを判っていながら、その帰りを寂しそうに窓から見送る。
その視線を感じたかのように、車に乗り込む前、ジャン=クロードはふと窓を見上げる。父は慌ててカーテンの陰に隠れる。その繰り返し。
母も兄弟も皆、この気難し屋にネをあげて会いに来なくなったのに、彼だけは毎週足を運んでいた。
長男の義務だから?確かに彼はそう思って来ていたのかも知れない。でも、憎悪の裏返しのような感情があったんじゃないの。
この父親の息子である自分も老いて、今同じように孤独の中に生きているから。

ジャン=クロードはかつて、テニスをやっていた。優秀な選手で、いい成績を残していた。ふと思い出してジャン=クロードは、そのトロフィーやなんかをどうしたのかと聞いてみると、父親は捨てたと言い放つ。
かつて、この父親に厳しく言われてテニスに没頭した子供の頃。それだけが青春だった。だったらなぜあんなに厳しく勝てと言ったのかと、ジャン=クロードは食ってかかる。
このテニスの記憶だけが、父親とのつながりだったのだ。だから、くだらない、捨てたと言われて激昂したんじゃないの。
一方の父親は、その台詞にもあったように、ホコリをかぶってほっとかれたことに、寂しさを覚えていたんじゃないかと思う。あの強い絆を忘れて息子は今生きている。思い出したように言い出したことに、意地になっちゃったんじゃないの。
本当は、大事にこの施設に持ってきていたのに。

ジャン=クロードは初めて父親の前で怒りをぶちまけ、二度と来ない、と去ってしまう。呆然と身じろぎもせずに座ったままの父親。
なんかさ、なんか二人、ソックリじゃない。やっぱり父親は窓から息子を見送って、それでもやっぱりジャン=クロードも窓を見上げて。
ジャン=クロードは、同じ轍を踏まないようにとでも言うように、息子を一方的に解放する。そりゃ息子は、辞めよう辞めようとは思ってて言い出せずにいたけど、父親に何も言うことも出来ずに、握手をして去っていくのは……本当にこれで良かったんだろうか。

この後の展開は、ちょっと、読めちゃったけどね。電話が来た時、あ、お父さん、死んじゃったんだってすぐ判ったし。
そして施設に向かったジャン=クロードは部屋の片づけをしてて、どうしても開かないロッカーがある。あ、ここに絶対、トロフィーがあるっていうのも、判っちゃう。トロフィーや盾だけじゃなく、新聞の切り抜きやなんかも大事に保管してあった。しかもそのカギは父親の内ポケットに大事にしまわれていた。
そういえば、父親が何で死んだのか示されないけど、きちんとしたスーツ着て、その内ポケットにカギ入れて、ベッドに横たわっているなんて……まさかだけど、まるで自殺みたい。
まさかね。
でも、ジャン=クロードとあんな別れ方したからさ……。

彼女との老いらくの恋(!)で収まりそうな話に、父親とのエピソードを入れてくる意図は、なんだろう。
いや、浮いているというわけではなく、不思議に融合は感じるのだけど。
父親、彼、彼女、という、年齢を踏んだ人間を見せることで、人生の機微を見せるということかな。
確かに、時間の経過は非常に感じさせる。そもそも彼女との出会いだって、幼い彼女を妻が面倒をみていたという関係だったんだから。そして子供の頃、父親に厳しく鍛えられた彼、離婚した妻とはもう長いこと会っていなくて、久しぶりに会った息子ともぎくしゃくしてて。
でも、彼女とは、昔々、ほんのちょっとの邂逅なのに、一気に飛び越えて愛しい感情を抱くのだ。

それこそが、二人を結びつけたタンゴの魔法なのかもしれない。 踊るセックスといわれる、愛のダンス、タンゴ。それも、情熱のアルゼンチンタンゴの。★★★☆☆


愛の流刑地
2007年 125分 日本 カラー
監督:鶴橋康夫 脚本:鶴橋康夫
撮影:村瀬清 鈴木富夫 音楽:大島ミチル
出演:豊川悦司 寺島しのぶ 長谷川京子 仲村トオル 佐藤浩市 陣内孝則 浅田美代子 佐々木蔵之介 貫地谷しほり 松重豊 本田博太郎 余貴美子 富司純子

2007/1/26/金 劇場(丸の内ピカデリー)
あー、なんか久々にドキドキしちゃったわあ。何だろ、これはやっぱり豊川悦司と寺島しのぶの演技の凄まじさなのかしら。本当に二人が死ぬほどの恋愛に、身体そのもので堕ちていくのが見える気がしたもんなあ……。
四回目の共演ということでの息が合った部分もありつつ、本当に、今この目の前のたった一人の人、というのを信頼関係できっちり構築できるっていうのかしらん。完成披露試写で寺島しのぶが「危なく、本当に好きになりそうでした」と冗談ぽく言った後に感極まって涙ぐんだのも、なあんか判る気がするっていうかさ……。

でもこれって、原作とイメージはどこまで合っているんだろ?すみません、未読なもんだから……。豊川悦司と寺島しのぶじゃ普通にお似合いのカップルに見えちゃうけど、実際は男は10以上は年上なんだし、堕ちた恋人たちなんだろうし。
寺島しのぶの方が、年よりもしっとりとしてる感じ。もち肌とはこーゆーことだろう。現代にいるとは思えないような、浮き世離れした雰囲気がする。
彼女はいくつかの映画で見ているのに、そんな印象を受けたことはなかった。なんかね、まるで初めて見る彼女、みたいに見えるのだ。菊治を愛して死ぬためにふっと現われた女、そんな気さえしてしまう。

不倫の話で、女の側に家庭があるというのは案外新鮮。男も家庭はあるけど、別居中……うーん、でも妻が再婚するかもって台詞があるってことは、離婚してんじゃないの?
でも女が不倫する時に男の家庭は気にするのに、彼は全然気にしてないっていうのがねー。

物語は、彼が彼女を殺してしまう場面から始まる。一糸まとわぬ姿で激しくカラみ合う二人、上にまたがった女の「殺して」の言葉に、男は下から手を沿え、首を締める。セックスの歓喜と苦しさが交じり合った、くぐもったような息をもらす女。
やがて彼女は動かなくなる。男が驚いて、「冬香、どうした……」と軽く頬を叩く。やがて事態を察して呆然とする男は、しかししばらくの間彼女の側を離れられず、あるいは屋上に登って発作的にフェンスに駆け寄ったりする。

まだ、二人がどういう事情なのか明かされない。これだけじゃ、本当にただの恋人同士が性愛の果てにうっかりマチガイを犯してしまったようにも見える。けれども……。
ようやく警察に通報した男。村尾菊治と名乗る。作家。しかしそれを聞いた警察官はピンときていないよう。それでもかつてはベストセラー作家だった。10年間も書けずにいた。でも今、ベッドで動かなくなっている入江冬香にインスパイアされて、傑作をものにしたところだった。
警察官は、「愛人関係?どうして殺しちゃったの」とぽんぽんと言葉を投げかける。ただ黙り込む菊治。愛人、という言葉に頷かなかったのは、彼の中でそんな言葉がしっくりとこなかったからだろうと思う。

二人は、彼の元編集者である魚住祥子の紹介で知り合った。何とか彼に次の作品を書いてほしいと心配する祥子は、菊治の大ファンである冬香を連れて行った。後に祥子は刑事に、「彼に書いてほしくて、こんな熱烈なファンもいるんですよ、という意味で彼女を紹介したんです」と語る。
刑事は、「あなたも、彼と関係があったんですか」などと下卑た質問をぶつける。憮然と睨みつける祥子。

そんなんじゃないのだ。本当に菊治は冬香にひと目で恋に落ちた。それが画面に溢れてた。静かな寺の境内に入ってくる二人の女、祥子の後ろから慎ましく、手で日差しを避けながら歩いてくる冬香に菊治は釘付けになった。カメラで彼女の姿をズームで捉え続けた。
憧れの人に会えたことで、震えそうなぐらい緊張している冬香から目を離さず、菊治は問う。
「もしかしてあなたは北陸の方の生まれではないですか」
驚くように顔を上げる冬香。実際、彼女は富山の出身だった。
菊治は越中のおわら節を思い出していた。荒々しい男踊りと、たおやかな女踊り。
日にかざした冬香の手のしなやかさに、真っ先に女踊りを思い浮かべていたのだ。

その現場に居合わせた祥子は、二人が初対面の段階でただならぬ雰囲気になっているのを感じとっていた。
その後、二人が進展していくのも、実際に見聞きしたわけではないけれど、判っていた。
「秘密の恋をしている二人は、見ていて判ってしまう。彼女はどんどんきれいになるし……」
実際、恥ずかしそうにうつむいていた最初の冬香から、彼に愛されるようになって、どんどん体を開いて、露もしたたるような美しさになっていく寺島しのぶを、どこか呆然としたような気持ちで見つめてしまう。
順撮りじゃなかったというのに!これが女優の凄まじさなんだろうなあ。

冬香がどうしても忘れられない菊治は、何とか彼女を呼び出す。たった2時間の逢瀬。老木に降り注ぐ霧雨を見つめながら彼は言った。「あなたはこの雨のように老木をよみがえらせる雨だ。雨は光……(なような台詞。うーん、細かくは忘れた)」
キラキラと雨の光に照らされる彼女は、まだ恐れ多いという感じに、恥ずかしそうにしていた。
彼は老木の根に乗っていた彼女の手をとって降ろししな、そのまま抱きすくめて口づける。崩れ落ちる彼女。うわあ……久々、久々、ドキドキした!なんかもう……完璧な構図。引いたショットもたまらなく美しい。

次に会った時、彼は京都の町が展望できるホテルの部屋をとる。それがどういう意味なのか、彼女も判っていたはず。どこかおずおずと彼についてホテルに入る。
彼女をぴたりと抱きすくめ、口づける彼。思わず身体を離す冬香に「好きなんだ」(うっわ、なんという直截な台詞!)と囁き、ベッドへと連れて行く。
思わず顔を覆う冬香。
「こういう風になるのは、イヤですか」
彼女は彼の腕の中で、ややおいて、こう答えた。
「……おまかせします」……なんとも琴線に触れる言葉だ。

恋の感情が相手の全てを求めるというのは、大人の恋の方が正直で欲深いのかもしれない。若い頃は恋の感情だけで満たされていたのに。
会うたびに、肌を重ねる、それが更に恋の感情を増幅していく。京都にいた彼女に会うために新幹線に乗って、たった数時間の逢瀬を重ねていた。彼女が夫の転勤で神奈川に引っ越してからは、その頻度は倍増した。

菊治が行きつけのバーのママは、微笑んでこう言った。
「恋をしてるのね。判りやすい人」
彼女と菊治は付き合いが長い。それでも菊治はこのママもまた、そんな恋をしたことを知らなかった。死んでもいいほどの快楽を得ることの出来る恋。それを与えられる男とそうでない男がいると、そんな風にママは言った。
彼女は恋のために何もかも捨てて、だから今一人でこんなバーをやっているのだと笑う。演じる余貴美子が凄く魅力的。彼女は法廷でも、恋に殉じた一人の友人を、微笑んで見つめていた。
あるいは、このバーで菊治から話を聞く出版者の中瀬(津川雅彦。だんだんお兄ちゃんに似てくる……)はひとしきりうらやましがりながらこう言った。「恋は唯一、創作活動と両立できる」と。実際、菊治は久しぶりに書く気になっていた。それを書き上げたら真っ先に冬香に読ませる、それが彼の筆を一層乗らせた。

この物語の中では、「恋」と「愛」とが等分に語られる。外から彼らを語る時には、恋と言われていることが多い。バーのママも、出版社の中瀬も、菊治が恋をしている、と言っているもの。
でも当事者の彼らは、自ら恋だと口にすることはない。その関係が深まって、それが何かと尋ねられた時には、愛だと表現する。法廷で裁かれる菊治は、彼女を愛していた、彼女も僕を愛してくれていたと、言い募る。
でもやっぱりこれは、恋だよね。恋だからこそ、彼女は死んでしまったんだと思うもの。愛っていうのは、世間的にも認められる権利のある概念。愛のために罪の意識に苦しんだりしない……基本的には。

冬香は、菊治と会うたびに、罪の意識に苦しんだ。彼女には家族がいたから。苦しんで苦しんで、もう彼に殺してもらうしか方法がなくなった。
彼はそんな彼女の苦しみなど思いもよらなかった。中学生の男の子みたいに、恋の感情にウキウキだった。床に転がりながら彼女にメールを打つ彼の姿なんて、大人の男とは思えない無邪気さだった。
冬香から、亭主から言われた冷たい言葉を聞かされても、自分と一緒にいれば彼女は幸福なんだと嬉しく感じる程度だったように思う。
女検察官から、あなたは彼女を離婚させて、子供たちを引き受ける覚悟などなかったんだと言われる。実際、これは的を得ている。こんな耽美な話にヤボだけど、彼女が死んでしまったことさえ耽美だけど、彼は彼女の死さえ、自分のための死だと苦しみの中に酔いしれていられるのだもの。

後半は、どう彼が裁かれるかが描かれる。その回想に、二人の恋の日々が挿入されるんである。
ところでさ、会うたびにセックスしている割には、彼女のこと、ちゃんと脱がしてないんだよな。
ハッキリ見えるのは、最後のセックスとなった事件の起こった夜。冬香にとっては菊治に何も告げずに図った、覚悟のセックスだった。その覚悟を示すように、彼女は一糸まとわぬ姿で、彼にまたがって髪を振り乱した。そして、彼に首を締められて、死んだ。

彼女が、まーいわばオッパイ見せてるのは、この場面ともうひとつ、彼女の誕生日に旅館に泊まったという場面に、しかもかなりチラリとだけなのよね。
その他の、逢瀬のたびにセックスを重ねる場面では、常にスリップ姿のまま交わってる。そのスリップが黒、総レースと段々と大胆なものに変わっていくとはいえ、その下は見せないのよね。えー、こんなにも恋い焦がれる相手なら、全身愛撫したいんじゃないの。それとも、それこそ恋の性急さで、とにかく早く相手を自分の中で満たしたいのかなあ。
まあ、毎回出さずに、ここぞという場面で出すから意味合いが違うのかもしれんが……。
なんて私、ピンクに慣れすぎ?

菊治は冬香との関係を、世間的な通り一遍の言葉で連ねられることに激しく抵抗する。「欲望の果てに殺した」とかね。そうじゃない、違う、と繰り返す。
彼が作家だから、そんな単純な言葉への物足りなさを感じているようにも思うけど、でも彼自身、冬香への思いがどういうものなのか、彼女の「殺して」という願いを聞き入れてしまったのはなぜなのかを、整理しきれていないようである。
ただ、彼女の望みをかなえてやりたかったと彼は言うけれど、でも彼女が死ぬとは思っていなかった、とも言う。激しく、矛盾している。
彼女の首の骨が損傷するほどに強く締めつけているというのに。

あのね、原作ではね、普通に前から冬香の首を締めているんだというのね。でもここでは騎乗位となった冬香の首を菊治が下から締める形。ご丁寧にも警察署で彼はその図解まで描いてみせる。下からは、上から締めるより3倍の力がいるんだという。確かにこの形の方が耽美だけど、でも彼の「死ぬとは思わなかった」という言葉は、より矛盾度を増すことになる。
弁護士の北岡(陣内孝則)は「人は首を絞めたら死にます」と冷静に言い放ち、殺人より罪が軽い嘱託殺人として争そうことを提案する。困惑する菊治。
菊治が法廷で放ったこの言葉が、最も正直な気持ちなんだろう。
「どんなに罪が重くてもいいんです。ただ、冬香が、性愛の果てに死んだ愚かな女と断じられるのは耐えられない。」
……何となく、勝手な言葉に思えなくもないけど。

菊治は冬香との愛の行為の時、ベッドの下にボイスレコーダーを忍ばせていた。そのことは冬香も知っていた。彼はそれを、二人の愛の記録だというけれど、……豊川悦司がそう言うから何となく聞き入れちゃうけど、ちょっとサムいよな、とさすがに思う。
ただこれが、嘱託殺人を勝ち取るかという上で最大の争点になる。
「意気地なし。どうして殺してくれなかったの」これは、最初に殺して、と冬香が言った時の台詞。そして最後のセックスの時、「ください、私をめちゃくちゃにしてください」と彼を鼓舞させ、「本当に愛しているなら、私を殺して」という言葉で彼の行為をうながした。それがテープにハッキリと残っていた。

それを繰り返し聞き、考え込む検事、織部美雪。原作よりかなり年若い設定で演じているのはハセキョー。彼女がなかなかヨイ。容疑者である菊治の前に胸の開いたセクシーなカッコで現われて、まるで挑発するように調書を取る彼女はイメージとは違ってかなりの色っぽさ。
彼女は上司の稲葉(佐々木蔵之介)と不倫している。だから「こんな痴情事件」とは言いながら、その事件のあらましに次第にのめりこんでいく。
「あなたは死ぬほど人を愛したことがあるんですか!」と菊治から言われたことにショックを受けてしまう。
それは幸せなことなんだろうか。それともそこまで愛さなければ、それは本当の愛ではないというんだろうか。
織部の回想で、稲葉に雨の中後ろから抱きすくめられて、ミニのスカートの中に手を入れられる場面は、セックスシーン並みに官能的。

事件後すぐに出版され、ベストセラーになった「虚無と熱情」は、最初は重過ぎる、と出版がなかなか決まらなかった。
法廷に立った中瀬はこれは傑作だと言うけれど、この事件の興味が出版とベストセラーを引き出したに違いなかった。
織部は、この作品が冬香と出会ったことで生まれたのならば、セックスの後に、放出した虚無でドライに立ち返る男と、その余韻を引きずる熱情の女、二人もそうだったということになる、と突っ込む。中瀬は「これは文学ですから……」と事態を不利にしてしまったことに気づいて困ったような顔をする。
でも実際、そうだよね。だから菊治は冬香のそんな覚悟など気づかなかったんだもの。放出したとたんに虚無になる時間こそ、女の思いが長く引きずり、その覚悟を固めていくんだもの。

法廷に冬香の夫が立つ。二人の刹那の恋をより儚く、そして熱烈に燃え上がらせるために、彼女の夫は定石どおり、「仕事に忙しくて、妻の昼間の行動など思いも寄らない夫」なんである。家族のために仕事に邁進する、というあたりもあまりにも定石どおりである。
夫は勿論、激しく憤り、被害者である自分がこんな風にさらし者になる理不尽さも糾弾するのだけれど、その叫びは虚しく、冷静に押さえ込まれるばかりである。
子供に至っては、幼すぎて母親がなぜ死んでしまったかなど、まだまだ思いもよらないのである。
彼らは大きくなった時、母親の死の理由をどう受け止めるのだろう。

この法廷の最大のクライマックスは、母親の証言シーン。演じるのが寺島しのぶの実の母である富司純子だというのも、最大限に効いている。
「私は加害者側の証言に立っているつもりはありません。今でも彼を殺してやりたいという気持ちです。ただ、娘のために、真実を明らかにしてやりたい」
母親の決意の表情は、その後回想される、菊治との最後のセックスに向かう冬香のそれに重なった。
「私ら雪国の女は、心ん中にきっついもん持っとりますから」母親は、娘の決意を心のどこかで理解してしまえる女としての自分と、娘を愛する母親としての自分に葛藤しながら、こみ上げる涙を抑えながら話し始めた。

「あんまりキレイに化粧をしているもんだから、ドキッとしました。何かイヤな予感がして……」
実際、思いつめた表情で鏡台に向かう寺島しのぶの艶と怨を含んだ表情、特に眉毛のくねり具合ときたら、ちょっとゾッとする美しさ。
母親は、娘のワンピースの背中のファスナーを上げてやる。これで、共犯関係が整ってしまった。
これは、最高に美しかった「緋牡丹博徒」の母でさえ、成しえなかった、恋に死んでいく女の美しさだ。
不穏な空気を感じた母親は娘に声をかける。「あんた、えらい事考えとんじゃないがけ?」娘は答えた、「母さん、私、後悔せんから」

菊治は、この母親に思わず土下座する。涙を流して菊治を見つめる母親。取り押さえられる菊治。
でもね、菊治は、夫の証言や、何よりこの母親の証言、その中に含まれている子供の母親である冬香の存在に、「自分の知らない冬香が沢山いて……自分と一緒にいる時の冬香とどちらが本当なのか、判らなくなりました」と言うのね。
菊治には別居している妻子がいるけど、どことなく独身の雰囲気だった。
でも冬香は常に夫の帰りを待つ人妻であり、三人の子供の母親であり、その上で菊治に会いに行く女としての自分を抱えて、もうギリギリ限界、引き裂かれる思いだったんじゃないかと思うんだ。

菊治の高校生の娘はね、父親が悪くないと信じてる。必死に信じようとしてる。
面会に来て、「あの人は自分が死ぬために、利用しただけなんだよ!お父さんは悪くない!」と涙ながらに叫び、菊治もまた涙を流して娘を見送るんである。
でもさ、別居して母親と一緒に暮らしている状態の娘が、なんでそこまで父親に理解があるの……。
だって、父親がセックスの最中に女の首を締めた、って詳細が判って言っているわけでしょ。え?何?今のティーンはこんなことぐらいじゃショック受けないの?
このあたりは、男の甘さをちょっと感じちゃうなあ。
でも、妻にはひと言も語らせないあたりが、その甘さをいましめる辛さになっているのかもしれない。
妻は、傍聴席にはいなかった。娘は一人、傍聴席で聞いていたけれど、赤裸々な描写に聞いてられなくて出てきてしまう。

最後の日、神宮の花火を菊治の部屋で一緒に観るためにと、冬香はとっておきの浴衣を持参して訪れたのだった。子供たちを見てもらうために、冬香は富山から母親をわざわざ呼んだのだった。
いや、母親を呼んだのは、最後の始末をつけてもらうため。菊治への手紙を、最初にサインしてもらった思い出の本の間にはさんで、母親のバッグに忍ばせた。
「ムリをさせたね」と菊治。 「ムリをしなきゃ、会えません」と冬香。
どこまで彼は、その覚悟を判っているのか。
少女のような浴衣姿に着替えた彼女、それが死装束となった。

その手紙は、法廷内でさらされることはない。母親は、8年の実刑が決まった菊治に、郵送でそれを差し入れた。
もう、誰にも触らせないために、冬香は菊治に自分を殺させた。
それは、逆だってあり得たと思う。誰にも触らせないために、彼を殺す。それだって、あったと思う。
でも殺させたところに、彼への思いを感じる?いや……逆にしたたかさを感じる。菊治は生きている限り、ずっと冬香で満たされ続けるだろう。今生きているのは、彼女が生かしてくれたとさえ思うだろう。そして彼女は妻として母親として、殺人者になるわけにはいかなかったんじゃないの。
8年の実刑。長く感じたけれど……冬香と共に生きていく、そう菊治はつぶやく。やはり自分は、選ばれた殺人者だったのだと。

豊川悦司はねー、とにかく抱き締め方が上手いんだよね。セックスの描写より、彼女を抱きすくめる、その描写にもうとにかくドキドキする。
密着度なのかなあ、相手と出来る限り一体になろうとするような、吸いつくような抱き締め方なの。これじゃ、そりゃあメロメロになっちゃうよなあ。
美しい指っていうのは寺島しのぶも言ってたけど、あれで、ぎゅっと抱き締められると、正気を失いそう。
あの指で首を締められるんなら、死にたくはないけど、ちょっと、うらやましい!とか思ってしまった。★★★☆☆


赤い文化住宅の初子
2007年 100分 日本 カラー
監督:タナダユキ 脚本:タナダユキ
撮影:下元哲 音楽:豊田道倫
出演:東亜優 塩谷瞬 佐野和真 坂井真紀 桐谷美玲 鈴木慶一 鈴木砂羽 諏訪太朗 江口のりこ 安藤玉恵 本多章一 伊藤幸純 佐倉萌 浅田美代子 大杉漣

2007/5/22/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
今最も作品を観たい監督の一人、タナダユキ。
それでやっと劇映画作品を観ることが出来たのがまだ二作目だというのに、もう彼女は時のカリスマ女性クリエイターの一人として「さくらん」に名を連ねているんだから、その実力が伺われるというものである。
それにしても、これもコミックなんだ……。日本映画のペシミスティックさの流れを汲む展開に思えたから、オリジナルか、あるいは小説の原作かと思った。
日本のコミックはホント、空恐ろしいというか、末恐ろしいというか……。

もう、ほんっとにもう、初子が可哀想で可哀想で……。
父は幼い頃に失踪し、母に先立たれ兄と二人暮しの彼女は、そのキュウキュウの貧乏の苦しみを、一人耐えているんである。
彼女は何にも悪くないのに。一生懸命、一生懸命やっているのに。彼女を救う手立ては何もないのか。
親はいないけど一応兄が仕事していて保護者として成立してしまうことが、かえって彼女の悲劇となっている。
彼女たち兄妹を助ける親類は誰もいないのか。失踪した父、死んでしまった母ともども親兄弟がいないということはあるのだろうか。あるのかもしれないし、いたとしてもそんな子供たちを引き取ってやれるような気持ちや懐の余裕のある者がいないということなのか。
そんなことを考えてしまう私が、いかに恵まれて育ってきたことが判る。
それはでも、初子のボーイフレンドや友達たちは一様にそうなんだけど……彼らはすぐ隣にいる彼女の大変さが、現実として身にしみないのだ。

文化住宅。そうか、こういうボロアパートのことをそんな風に言うんだっけ。とても文化的とは思えない住まい。今やこういうアパートに「めぞん一刻」のような人情も望めない。
赤い、といったって、その色はさび色にくすんでいる。それが建てられた当時はそんな鮮やかな赤だったのかもしれないけれど、今やそんな想像をするのも虚しいぐらいに、くすんでいる。
彼女はその中できちんと正座して、今月のお金を計算している。
家賃、水道代、電気代、とそれぞれ書いた封筒にお金を入れて、そして最後、残った数枚の百円玉を二つに分けて行ったりきたりさせる。
しばらく悩んだ後、テーブルの上の百円玉をひとつ多くして、彼女はお兄ちゃんに声をかけた。
「お兄ちゃん、お昼代おいとくね。電気代払っておいて」

お兄ちゃんの給料だけでは生活が苦しく、初子は中学生ながらアルバイトまでしている。荒くれ男たちが集う汚いラーメン屋で身をすくめるようにして働いている初子は「カウンターの、テーブルに運んで。もうちょっと気ぃ使えよ」と主人から怒鳴られ、「ビールが先だろ。栓抜き」と客からはすごまれ、……だって、中学生の女の子だよ。しかも彼女はちょっとこんな子、まだいるんだ、と思わせるような、内にこもるタイプの懐かしいような女の子で、もう見てるだけで身が縮む思いがしてしまうのだ。

それなのに、やっともらった給料はあまりに少ない。
「時給600円は、高校生以上だからね。中学生を雇ってやってるんだから、感謝してもらわないと」
……そうかあ?アンタが人件費を押さえるために、弱みを握っているとしか思えないのだが……。
でも確かに初子の動きは緩慢で、客に愛想よくも出来ないし、でもそれは彼女がまだまだ中学生の女の子であり、世間ずれしていないからなのに。
あんまりカネカネ言うな、と店主に言われ、初子はとぼとぼと歩きながら、「カネ、カネ、カネ、カネ……」とつぶやく。ボロアパートの階段を上る。そしてほこりにまみれたポストに拳を打ちつけ「シネ」と吐き捨てた。

ボーイフレンドの三島君が初子の心の支えだった。一緒に東高校に行こう、それが彼との合い言葉。でもそれをただムジャキに口にする彼に、初子の苦悩など判るはずもない。
実際にあのボロアパートを訪ね、中学生なのにバイトをし、お昼におにぎり一個しか食べられない彼女のことを目にしていても、判らないのだ。
それが証拠に、「だから俺と同じ塾に行こうよ」などと言うのだ。「紹介料二千円もらえるし」というのが皮肉にもなっていないことを、彼は気づきもしないだろう。二千円をもらえるのは彼であり、彼女はそんな塾に行けるお金もなく、そのたった二千円が彼女にとっては喉から手が出るほど欲しい、生きるための金なのだ。
だからといって、彼が悪いというわけではない。彼は初子が貧乏だろうと金持ちだろうと好きなのだし、将来結婚したいと思ってる。それがどんなに幼い気持ちだろうと、ウソはない。
初子の方が、そんなことはありえないと、判っている気がする。彼女も彼のこと純粋に好きで、将来結婚したいと思ってる。でも心のどこかで、彼とは生きる道が違うと思ってるのだ。

加えて言うと、先生方もサイアクなんである。特に担任の田尻先生は授業からしてやる気がなく、教卓にガバッとだれかかって、「誰か出席とって〜、委員!」ともう最初っからダメダメ。三者面談で、高校に行きたいと勇気を振り絞って言う初子とそんな余裕はないというお兄ちゃんとのやりとりに、「担任だからって人の家の面倒まで見てらんないわよ」と言い放つ。
学校なのにミニスカのハデなカッコしてヒマさえあれば携帯をいじって男と喋くり、職員室を訪ねた初子に「この人に、あたしが本当に教師だって証明してやってよ」とケラケラ笑う。初子が就職にします、とだけ告げると「あっそ」とだけ返し、「今、生徒一人指導した。教師っぽいでしょ」……どこが指導しとんじゃ。
しかし哀しいのは初子が、「うるさい先生じゃなくて良かった」とつぶやくことなんである。それが良かっただなんて、ちっとも良くないのに……。

しかもサイアクなのはこのセンセイだけじゃなく、生徒の指導に当たる学年主任までがそうなんである。就職しなければいけない、でも高校に行きたい、中卒じゃ就職先も難しい、という苦難に直面する初子に、「早く進路決めてほしいんだよね。先生たちを春休みまで働かせる気か?」と信じられない台詞を吐く。
それとも、これが信じられないと思う私が甘いのだろうか。今の学校なんてこんなもんなの?金八先生的なものを頭に浮かべる私が古いのか。そりゃまあ私だって、金八先生的な先生に当たったことなんてないけどさ……。

一人でトボトボと歩いている初子に……いつも不安でいる時の初子に、声をかけてくれる栄子(浅田美代子)の存在。彼女が救ってくれるかもしれないと思った。そんなことあるわけない、今の世の中、そんな人情物語があるわけないと判っているのに、願ってしまった。
最初に出会った時、こんな人通りのないところを一人でいたら危ないよ、と家まで自転車で送ってくれた。初子は小さい頃母親の自転車の後ろに乗ったことを思い出す。

親はいない、そしてこんなみすぼらしい文化住宅に住んでいる初子に同情の色を浮かべ、「コレも何かの縁だから」と福沢諭吉をねじ込んでくれる栄子。
ちょっとドキリとする。初子が逆にミジメな思いを覚えて、ショックを受けるんじゃないかと思った。でも初子は栄子の後ろ姿を見送った後、お札を取り出してまじまじと見つめ、「これで参考書が買える」とつぶやくのだ。
そんなプライドを持つだけの余裕は今までなかったのだ。ずっと落ち続けていたから、ミジメな思いを抱くことさえ出来なかったのだ。
それがなんだか逆に哀れで。
だって多分、お兄ちゃんはそれを持っているんでしょ。だから仕事場でバカにされればキレるし、自分から妹に就職してくれって言えないんでしょ。そのプライドが人間の尊厳だとしたら、初子にとってはいらないプライドでしかない。

しかもね、そのお金で初子が最初に買ったのが、セール品の3000円のワンピースだってのがね……店員から、「彼氏とのデートにピッタリですよ」と言われて口の中で反芻するように「彼氏……」とつぶやく。
そして街の小さな本屋で参考書を二冊選び出す。10円足りない。落としたお金を拾おうとしゃがむと、自分が落としたんじゃない10円が転がっている。ふと手を伸ばす。男の子が見ている。この子に視線を合わせながらも、ズックで10円を抑え、じりじりと引き寄せる初子。
うう、なんて哀れな……。

お兄ちゃんは初子にとにかく冷たく当たるのね。「中学を出たら就職するって、お前の口から言ってくれるんだと思ってた。俺から言ったら、いかにもダメな兄貴じゃん」だなんて、何も言えない初子に替わってその通りだよ!とこっちから突っ込みたくなるぐらい。
いつも荒れ気味のお兄ちゃんを心配する初子に、「俺に何も期待するなよ!」と罵声を浴びせる始末。
しかし初子、ふと往来でお兄ちゃんを見かけるのね。肉屋でコロッケを買っている。その晩のおかずとして、食卓にのぼったコロッケ。他人に対しては愛想良く笑顔を見せるお兄ちゃんを、初子はじっと見つめていた。

彼女の表情は、それをネガティブに受け止めているように見えたけど、でも逆なんだよね。
初子の前では本音を言い、弱音を吐き、いいカッコなんて出来ないお兄ちゃん。
初子が不安でそばにいてほしい時にも、自分の苛立ちの方を優先して飲みに出かけちゃったり、デリヘルのお姉ちゃんとコトに及んでいるところへ帰って来た妹を追い出す場面なんか、ほんっとなんてサイテーなのと思ったけど、その条件で考えると、本当にウソのないお兄ちゃんってことなんだよね。
初子がそこまで具体的に考えていたかどうかは判らないけど、父親が出て行った時も、母親が死んだ時も、ずっとずっと、辛い時を共有した唯一の人だったのだ。

そうなの、このお兄ちゃんは全き悪人ではないのよね。それが始末に悪いというか、してやられたというか。
いや、全き悪人なんていないってことぐらい、判ってる。私たちがそうならないで済むのは、それを取り繕うだけの気持ち的、金銭的余裕があるからなのだ。
私たちはヒロインである初子にシンクロして見てしまうけれど、ふと考えてみると、たった20かそこらで妹と二人の生活を支えなければいけない立場になってしまったお兄ちゃんの焦燥や不安は、ひょっとしたら初子よりも計り知れないかもしれないのだ。

そりゃ、初子の方がよほどしっかりしていて、お金の管理もするぐらいで、お兄ちゃんときたら妹から払うよう頼まれてた電気代と水道代をパチンコですっちゃうようなサイテーなヤツなんだけど、それもひいき目で見れば、このギリギリの生活を何とかしたくてやったのだと思えなくもないし、それにやっぱり……決して給料が高くはないであろう彼が、妹が進学校に行きたいなどと言ったら、これから先の高校、大学の7年間を考えて、途方にくれたであろうことは想像に難くない。
だからといって、妹に高校を諦めろと言える立場じゃない。だから、彼女から言ってもらうのを、待っていた。それにそれを自分から言おうが妹から言われようが、ミジメな思いになるのは変わらない。
ただ、今の生活を何とかすることだけを考えている初子に、イラ立つのも無理はないのかもしれないのだ。もちろん、初子はただただケナゲに、懸命に頑張っているだけで、彼女に落ち度などありようはずもない。
ただ、大人になると、そんな部分が見えてしまうから。

担任の田尻が「いつか誰かが助けてくれると思ってるでしょ」と初子に向かって言い放った台詞は、彼女自身そこまで考えが及んで言ったとは思えないけど、そういう意味で確信はついているんだ。
初子が進学校を希望する意味を、好きな男の子と一緒の高校に行きたいという意味程度にしか考えていないのに比して、お兄ちゃんはそこまで考えている。
初子が今日の生活を何とか成立させようと頑張っているのに比して、お兄ちゃんは幼い妹とのこれからを常に不安に感じている。
そう、初子に何も悪いことなどあるわけがない。でも、エネルギー配分を考えずに一生懸命な彼女の態度が、頑張っていればいつか王子様が迎えに来てくれる的な、シンデレラ神話を夢見ているように、ひねくれた大人の女には映ってしまうことも、あるのかもしれない。

初子が栄子にそういう救いをどこかで感じていたこと、言葉にはしないけど、現われてる。
もしそれを本当に感じていないなら、自分の生い立ちを話したり、アパートまで送ってもらったり、金を受け取ったり、彼女の家に入り込んだり、更には……怪しげな施設、精魂会についていったりしないだろう。
そうなのよね……ここにはホントにガッカリした。一方でああやっぱりって気もしたけど、弱ってる人を連れてきて、いつでも来ていいよってな癒しの場所にしておきながら、電話番号を聞くのが目的。それが先にはどういうことになるのかは……なんとなく想像がつくじゃない。
そんな栄子についてきてしまったのは、お兄ちゃんがデリヘル呼んでて追い出された初子が階段から転げ落ちてケガまでしちゃって、しかもその時風邪気味で具合まで悪くて……という、あくまで流れであって、初子が浅はかだという感じはみじんもないんだけど、結果的に言えば、「いつか誰かが助けてくれると思ってる」と言われても仕方のない行動ではあるのだ。
そう、栄子が助けてくれたら、って思ってたのに。本当に、一瞬にして態度が変わるのだ。初子の家に電話がないと知ったとたんに!浅田美代子、コワすぎる……彼女は結構凄い役者なんだよなあ……。
世の中には血も涙もないのか……。

初子が三島君と夏休みデートをする場面さえ、なんか可哀想で切なくて。
デートったって、何をするわけでもない。海を見ながら背中あわせに座ってアイスを食べるぐらい。それがこんなにもドキドキする。しかもなけなしの3000円で買ったあのワンピース。
三島君は「なんかいつもと違う。似合うとる」とは言ってくれるけど、でもこのワンピースの意味を、彼はどこまで判ってるんだろう。
汚れたズック靴をハッとして引っ込めた初子の女心にさえ、気づいていないのに。
そして初子は三島君との結婚生活を妄想する。遠足で使うビニールシートをしいて、小さなプラスチックの食器で、ままごとみたいな三島君との結婚生活。初子の大きなおなかがどんどんふくれて風船のようにパチンと割れる。
まるで、夢さえ見ることが許されないみたいに。

このワンピース、三島君が初子の家を訪ねる場面で、初子が部屋着から慌てて着替えるんだよね。
ワンピース姿で出てきた初子に三島君、「あれ?これから出かけるの?」判ってないっ!もう、女心が、乙女心が判ってないっ!
まあだから、三島君はいいんだけど……大好きな彼にまで哀れまれたら、もう救いがないんだもの。
でも、あまりにも判ってないから、時々どつきたくなっちゃうんだもん。
部屋の中、三島君と向かい合わせで正座している初子。すんごい距離が近い。なんかギャグになるぐらい近い。初子はタンス(これがまた、引き出しのいっぱいついてる、古風なタンスでさあ)からはみ出している、さっき慌てて着替えた服を片手でしまう。突然三島君がガバリ!と初子を押し倒し、「けっ、結婚しよう!子供作って……」コーフンしている三島君をハードカバーの赤毛のアンで撃退する初子。
み、三島君、鼻血出てますけど……。

初子は、赤毛のアンが嫌い、と言うのだ。母親が好きだった本だけれど、嫌いだと。こんなの、しょう紅熱にかかったアンが見た幻想じゃないか、皆がアンを好きになるなんて、ケンカ相手の男の子にも好きになってもらえるなんて、そんな都合のいい話なんてない、と……。
うっ……そう言われれば……そうかも……。
親がいないという境遇は同じでも、他人と暖かい家族を持ち、夢見る幸せが次々現実になるアンを、初子が苦々しい思いで見ているのはムリない。けれど……中学生でそう思わざるを得ない彼女があまりに哀れで。

もう明日は卒業式という時。初子が自分で探してきたビスケット工場の就職試験の結果はまだ出ていない。「(就職に落ちたら)結婚しろって」と笑顔を作る初子にクラスメイトたちは「田尻、なに言うとるん。勝手やわ」となんかマジに返される。「そうやね……」とアイマイに笑う初子。
そこで、三島君も一緒に笑っちゃダメだろう……あんたが、結婚して初子を守るって、あの時言ってくれたじゃないの。理性を失っていた時とはいえ、言ってくれたじゃないの。

「仕事を選ばなければ、なんだってあるっていうし。そこで資格とか身につけてキャリアアップしてお金ためて、高校行かなくても通信教育受けて、大検受かれば大学だって行けるし」
そんなクラスメイトの台詞にどこか呆然となる初子。
「初子ちゃん、知らないの。私もテレビで見たよ」
「……何言ってるの」というのは、初子の心のつぶやき。そして、彼女の前に突然現われる、机を積み上げたバリアー。中学生である彼女の心理を示すこうした妄想描写は折々に差し挟まれるのだけれど、この描写が一番ドキリとくる。彼らはバリアーの向こうにいる。決して、自分と交わることはない。
呆然とした初子のつぶやきにハッとさせられる。私もまた、「テレビで見た」という程度に、人間そんな風にいくらでも頑張れるよと無責任に思っていたことに気付かされて。

選ばなければ、って中学生の彼女がどれだけ選べるというのか。そしてその台詞には、女の子には奥の手がある、という風俗の影がちらつく。困ったら身体売ればいいじゃないの、と言っているのと同じなのだ。
そういえば初子が帰宅の遅いお兄ちゃんを探しに風俗の町をうろつく場面で、酔客から肩をつかまれ、客引きの女の子に「それ、本物(の女子中学生)だから」と助けられる。しかもそのメイクのハデな「3000円ボッキリ」(同じ3000円なのよね……はあ)女の子は、初子があんなにも行きたかった東高の制服を着ているのだ。それも、「ウチは制服だけはホンモノやけん」と言って。
そして、資格をとる勉強をするのにも、取得するのにもお金がいる。中卒の彼女の給料なんて生活するだけで精一杯だろう。つまり、同時にお金をためるなんて、容易なことではない。
加えて、大検が受かったとして大学に行けるとなっても、莫大な授業料がかかるのだ。
そのことを初子は瞬時に悟り、親の懐でノーテンキに生きている同級生たちが、まるで異星人のように見えたことだろう。

でも本当は、それでいいはずなのだ。中学生のうちなんか、親の懐でノーテンキに生きてりゃイイのだ。なのに初子には、そんな最低限のことさえ許されない。
そういえばね、一応初子の経済事情も判ってて、お昼におにぎり一個だけほおばっている初子を心配したクラスメイトが、「こっちきて一緒に食べない。私のお母さん、卵焼きだけは美味しいの。甘くて」と誘ってくれたりする場面がある。
でも、右手におにぎり、左手に卵焼きをとって、「ありがとう、おいしい」と言う初子が、やっとその台詞をしぼり出したように見えて、そりゃ、いたたまれないもの。心配してくれているのは判るけど、卵焼きをくれた彼女が毛筋ほどの自己満足を感じずにやっているわけはないし、一緒に食べているクラスメイトたちもそう。私たちは判ってるから、心配しているから、という視線がたまらないのだ。

なんだかんだ言いつつ初子はビスケット工場に就職し、東高に行った三島君とも時間を見つけて会って、それなりに安定した生活を送っていた。
しかし、そんな初子にまたしても試練が。
失踪した父親がずっとこの街で、ホームレスで徘徊していたのだ。
その姿を初めて見かけた時は、まさか父親だなんて思いもしなかった。ただ恐怖を感じた。それは家族も家もなく、こんな風に一人で汚い姿で町を徘徊しなければならない恐怖。
一緒にいた三島君はこともなげに、自分がいるから(つまりゆくゆくは結婚するから)そんなことは怖がらなくてもいいと言った。
初子がその時黙り込んだのは、そんなの何の保証もないことを、知っていたから。
三島君と小指でつながりあう時、見ていても胸がキュウとするけど、でもそれはかりそめの保証という切なさも含まれているように思うから。
小指同士が離れた時に、もうそんなはかない保証は消え去ってしまう。

「初子やろ。母親に似てきたなあ」突然腕をつかまれ、初子は必死にそれを振り払って逃げた。
でもお兄ちゃんは知っていたのだ。
初子を追ってきた父親は、当然お兄ちゃんに罵倒され、口からゲボを吐き、そして……妻がもう死んでしまっていることを知って今更ながらショックを受けていた。
そして初子が高校に行っていないことも。娘の年も覚えていたのだ。
妹一人高校に行かせることも出来ないのか、と言う父親に激昂したお兄ちゃんは、ひたすら足蹴にする。
ムリもないけれど、この父親の台詞はある種この反応を予想した挑発であり、お兄ちゃんに自分を足蹴にさせるためであったようにも思う。
お兄ちゃんは、街で見かけたホームレスが父親だと判っていても、声をかけることもなかったし、顔をしかめて通り過ぎるだけだった。
それは、自分もああなってしまうかもしれないという恐れだったのか。
そしてこんな時でも、ショックを受けている妹のそばにいてやれない。飲みに出かけてしまう。
でもそれも、父親のそんな血を引いているかもしれない自分が、とてもこんな時兄貴面して妹のそばになんかいてやれない、という忸怩たる思いだったのかもしれない。

文化住宅が火事になった。父親が二人の留守中に入り込んで、火を放ったのだ。
全てが火に包まれ、焼けてしまう。
ずっと子供たちのために何もしてやれなかった父親の、最後の子孝行ってことだったのかもしれない、と思う。 自分たち親の因習を断ち切って、新天地を求めさせる究極の子孝行。
死んだ父親は、母親の遺影を抱き抱えて焼け死んでいた。だからその写真だけは焼けずに残った。
父親の遺体を前に呆然とし、その写真にみるみる顔をゆがめるお兄ちゃん。
「お前がこれを残すなよ!」そう言って、泣き崩れる。
お兄ちゃんも、やっぱりやっぱり、苦しかったんだなあ……。悔しい思いもあるけど、やっぱり父親への愛情は捨て切れなかったんだなあ……。

友人のつてをたどり、大阪に出ようと言うお兄ちゃん。初子も連れて行く。やっぱりお兄ちゃんなんだよな。
そりゃここで初子をおいてったら、ホントに鬼畜だけど。
でも、そう。やっぱりお兄ちゃんなのだ。お兄ちゃんと初子の場面は、いちいち心に残るんだもの。
カギを無くした初子が、街中をふらついて家に帰ってきた時に、部屋についている電気の明かりに、心底嬉しそうな顔を見せたりね。
お兄ちゃんが石油ストーブに灯油入れてくれたり、切れた電球の球を取り替えてくれたり。そんなささやかなことが、とてつもなく愛情に思える。
初子がポストに入っていた「セレブなんたら」っていうデリヘルのチラシを、いったんはぐしゃぐしゃに潰すのに、「お兄ちゃんが必要かも判らん」としわを伸ばしてポストに戻すところもなんだか泣ける。
そして究極は、あやとりのシーンだ。初子は母親との思い出をなぞるように、三島君からもらった長い長い赤いマフラーからほつれた毛糸であやとりを始める。この先が思い出せない。お兄ちゃん、と声をかけて、続きをとってもらう。お兄ちゃんはなんたってお兄ちゃんだから、やっぱり初子よりあやとりのとりかたをちゃんと覚えていて……黙々とふたりで続けるのね。それが、幼い頃から肩を寄せ合って生きてきた二人を思わせて、その赤い毛糸が赤い絆に思えて、胸に迫るのだ。

ついに大阪にたつ日。三島君はウソをついて学校を抜け出した。
いかにも田舎の、人っ子一人いない小さなホーム。線路を横切って駆けてくる三島君の手には、あの火事で焼けてしまった赤毛のアンの本が携えられていた。
死んだお母さんが好きだったんだろ、そう言って三島君は手渡してくれた。
ああ、やっぱり三島君はいい男の子だ。純粋で、邪心がない。いいことしている自己満足も彼は最低限、ない気がする。
赤毛のアンに本当は憧れとった、そう言った初子の気持ちを、三島君なりの純粋な気持ちで解釈しているのが判るから。

言葉もなく見つめ合う二人、三島君が意を決したように初子の唇に近づこうとすると、初子は避けた。「(キスしたら)恋愛ドラマの最終回みたいやん」
でも、それに返した三島君の台詞がいいの。「わしらは結婚して、ホームドラマになるんじゃ」
そしてそっと、初子の唇に触れる。
もう、その台詞だけで救われたと思いたい。たとえ、たとえその確率が何万分の一だとしても。お互いにいつのまにか疎遠になって、お互いにいい人に出会って、お互いに結婚して……きっとその時、この思い出を話すんだ。
初子には幸せになってもらいたい。
どうにかして、このループから抜け出してもらいたい。

「神童」の成海璃子嬢が、実際に中学生なのにその手足の長さや端正な顔立ち、そして演技力で大人っぽさを感じたのに比して、初子役の東亜優はふっくらとした頬やぎこちない台詞回しとしぐさ、背中でバッテンされたつりスカートというダサめの制服が似合う感じといい、貧乏な中学生、がやけにリアルなんである。
やっちもなぁわ(ばっかじゃない)という言葉を、誰にも聞こえない場所で、自分だけに聞こえるように、吐き出す初子。決して自分は頑張っているいい子じゃない。そう思うことが彼女の本当の支えだったような気がして、そんなことない、初子はいい子だよ、頑張ってる、誰よりも、と言ってあげたい。★★★★☆


Academy アカデミー/ACADEMY
2007年 111分 オーストラリア カラー
監督:ギャヴィン・ヤングス 脚本:ギャヴィン・ヤングス
撮影:マーデン・ディーン 音楽:山口英子
出演:高橋マリ子/杉浦太陽/エリカ・バロン/メーガン・ドゥルーリー/ポール・アシュトン/ダニエル・マロニー

2007/6/26/火 劇場(渋谷Q−AXシネマ/レイト)
超難関の芸術学校に通う学生たちの青春ストーリー、のように見えて妙にシュールでキッチュに感じるのは、この作品の監督に抜擢されたのが、実際にこの作品のモデルとなった学校の生徒であり、つまりその若さと溢れる才能から現われたものだとは思う。
でも、それがつまりプロデューサーの企画ありきで、若い才能の側からの提案ではなかったことが、こうした若いインディペンデント映画としてはなんだか珍しいような気もし、それがこの不思議な化学変化の魅力を起こしているのかなあとも思う。

しかもこの監督、この抜擢を受け、その超難関校を休学してまで日本に滞在、脚本を執筆したという没頭ぶりである。キャスティングやロケハンの時だけ現地に行くような合作映画は数々あれど、そこまで入り込んでくれるクリエイターはなかなか稀だと思われる。
そう、これは日本人留学生二人が大きな要となる映画となっているからだというのもそうなんだけど、その監督自らが熱望してキャスティングされた杉浦太陽が、思いがけなく鮮烈な印象を残しているのだった。

しかし杉浦君は最初、この役柄に難色を示したんだというけれど。まあ確かにそれまでの彼のイメージから考えたら仰天するような役だけど、「難色を示した」という時点でちょっと、そんなんじゃダメじゃん、と思ってしまうのだが。それとも監督のラブラブ光線に防御本能が働いたのかなあ。某番組で役者のみならず監督もゲイだったと暴露してたし。ま、でも結局、引き受けてこれだけ素晴らしい印象を残したんだから、今更そんなことはいいんだけどさ。
彼は演劇科の生徒、隆を演じる。英語もろくに出来ないような彼だが、情熱だけはある。クラスメイトたちはそんな彼のことを何となく可愛がっているような感じ。
実際、華奢でカワイイ顔立ちの彼は、また違う目で見られてもいる。監督志望のウェイドから、自身の映画の主役として迎えられる彼は、そこで監督自ら演技指導される。緑色のゼリーがたたえられたバスタブの中に、キスをし、お互いを激しく求め合いながら沈み込んでゆく。つまりはゲイの映画なのだけれど、ウェイドが隆にそういうことをしたいがために彼のためにホンを書き、自ら演技指導したのは明らかである。

このシーンに至るまでの杉浦太陽は、それまで私たちが持っていたさわやか青年のイメージが崩れることなく、ハリウッドスターに憧れる野心もどこかカワイイものでしかなかった。だから、ウェイドに誘われて、まるで甘いお菓子をなめあうようなスウィートなキスから、緑色のゼリーの中で上になり下になり求めあう耽美でエロティックなシーンに愕然となる。
愕然……いや、それが、彼にあまりに似合っているから。この時、隆の相手役として用意されているのが黒人のマッチョな男で、ウェイドは丸太ん棒のように突っ立っているこの男を押しのけて隆の甘い唇を吸うのであり、実際、このマッチョな男と比べると杉浦太陽の身体はまるでアニメの少年のように白く華奢で、いやその顔立ちも含めて、本当に萌えキャラそのものなのだ。

いやいやこれは、つまりは懐かしのやおいというヤツであろうか。こういうアニメチックな美少年を脱がせ、緑色のゼリーが満たされたバスタブで絡ませるだなんて、やおいモンならやってみたいに違いない。
というか、ウェイドにとって彼はもはや“少年”ですらなく、“女神”なのだ。そう、彼に言うんだもの。というか、このウェイドの手管に溺れた隆が、「僕は君のミューズだろ?」と言ってベッドで絡み合うシーンも出てくる。ま、絡み合うったってしっかり服は着ているのだが(どこまで期待してんだ)。
しかし驚いた。杉浦君にとってはこれがひとつの脱皮点になることは間違いない。いつまでもさわやか青年でいたら、いつか頭打ちになるのは目に見えているもの。

しかし本作の魅力はもうひとりの日本人キャスト、高橋マリ子にあるのであった。これにも大いに驚く。いや、たしかに日本人キャストはメインの一翼を担ってはいるものの、その他にもメイン級のキャストはいるのに、高橋マリ子の存在感には誰も敵わないんだもの!
彼女がサンフランシスコ生まれのバイリンガルだとは知らなかったが、彼女の中にこんなポップな魅力が隠されているということも知らなかった。まあ、私の彼女の印象は「世界の終わりという名の雑貨店」で止まってしまっているからなあ……ああいう、いかにも日本的なおとなしい役柄に閉じ込めてしまってはいけない子だったのか。ホンット驚いた。
彼女の登場シーン、調子っ外れの日本語の歌をラジカセでガンガンかけ、くるっくるに巻いたヘアスタイルにカラフルなファッションでうきうきとスーツケースを引いてくる千穂に、皆がうさんくさそうな目を向ける。だってもうこの時点から生徒たちは必死なんだもの。
しかし、千穂はこの学校に嫌々来ているという設定。全ての学生が憧れ、やっと入ったこのAAA、一年後には半分が強制退学になってしまうことをみんなが恐れているのに、彼女だけはその強制退学者となることを望んでいるんである。

「何もしなければ、強制退学になるよ」と言われて、彼女は作品を作るブースを真っ白に塗りたくる。しかし皮肉なことにそれがアートとして絶賛されてしまうのだ。その後彼女は、強制退学になるべく学校中に「私を退学させて!」というスプレーアートを描きまくったりするも、そんなすべてのことがアーティストとして評価されてしまう。
彼女にゾッコンほれ込んだ音楽科のマシューは「君の存在自体がアートだ」(日常とか行動自体と言ってたかも)と言うんだけれど、千穂にはその自覚はない。というか……家や家族が恋しくてたまらないのね。しかし彼女がかける「もしもし、おかあさーん?」というけたたましい携帯電話は、日本の彼女の家では留守電にむなしく吹き込まれるばかりなんである。
どういう事情があるかを詳しくは語らないものの、この学校にムリヤリ入れられた、と彼女は考えているようで、みんなが熱望して入る学校なのに、しかもそこでこんなに自由奔放に才能を発揮する彼女を、マシューはどこかフクザツな思いながらも、彼女に惹かれずにはいられない。

先生から、「変わったオノ・ヨーコね」と言われるのも納得の、自由奔放、唯我独尊、でも瞬間、気づかれないぐらいの寂しさをその頬に宿らせる高橋マリ子は、本当に魅力的。
彼女はこのネガティブな傾向のある日本映画界にいるべきじゃないのかもしれない。あ、「ナイスの森」とかに出てたのか。なるほど、そういうのなら似合いそう。いや、あの監督今ひとつ苦手で、観てなかったのだよなー。

で、その千穂にホレちゃうマシューが、地味なんだけど、ちょっとイイのだ。彼に関しては最初に決められていた役者がイメージが違うとおろされて、撮影が迫る中探しまくっての急遽の抜擢だったということだけど、しかし、彼以外には考えられない。千穂の奔放さに振り回され、しかしその寂しさも見逃さず、才能をまぶしく感じながらも、一人の女の子としての彼女に惹かれる気持ちを抑えられない純粋さ。
メガネをかけた、いかにも気弱そうな男の子な外見の彼。千穂との最初の出会い、持っていたスコアにケチャップをつけられ、「直してくるから!」と彼女はそれを抱えて駆け出す。直すってどうするのかと思ったら、本当に水で洗うんだから仰天である。そして彼が音楽科の教授に罵倒されているところに乗り込んでいって、「大体はとれたんだけど、アイロンがなかった」としわくちゃのスコアを差し出す。確かにその存在自体、行動自体がアートな女の子。

マシューは音楽を、そしてバイオリンを愛しているんだけれど、人前で上手く演奏することが出来ない。でも千穂の前では、完璧に弾けるんだよね。
最初千穂はこの気弱な男の子を、自分が退学させられるための使いっぱしり程度にしか考えてなかったんだけど、いつの頃からかな……彼の家に招待されたあたりから、彼女の態度が微妙に変わり始める。そこには彼の盲目の母親がいて、息子の音楽への純粋な気持ちを何とか叶えさせてやりたい、と思っているようなんである。恐らく自分の家族と比べてしまったのか、黙り込んでしまう千穂。
マシューが千穂の奔放さに戸惑いながらも、自分にはないその自由度に惹かれる一方で、千穂は、自分には受けることの出来ない愛情を一心に受けているマシューを、しかしそれに応えられずに苦しんでいるマシューを、愛しく思うようになったらしいんである。
その二人の関係はどこか未熟で不完全ではあるんだけれど、千穂の前でだけは緊張せずに弾けるマシューのバイオリンからインスパイアされて千穂が絵を描くシーンは、このキッチュな映画の中で数少ない感情のほとばしる場面。そしてまた、ラストがイイんだ!

そしてもうひと組、入学当初から才能を絶賛され、すぐに国立バレエ団から声がかかっていたミシェルと、彼女の友人カレン。希望に胸を膨らませて入学してきたミシェルは、同居人が麻薬の売人だったことから荷物もお金も全部盗られてしまうんである。
で、カレンの元に転がり込むんだけれど、カレンは元々ミシェルに惹かれていたのね。それは勿論、同じ入学者の中でも群を抜いた才能ということもあるんだけど……他の生徒たちはそれを嫉妬の視線で眺めているものの(しかしこれも実に判りやすい構図で描かれているのが、逆にシュールで可笑しい)カレンだけは純粋な憧れの視線なんである。
いや違う、正確に言えば、恋の視線。カレンは自分がレズビアンであることをミシェルに打ち明けることはないんだけれど、でもミシェルがどん底に落ちてしまった時、彼女への気持ちを抑えきれずに、なぐさめの延長線上のように、キスをしてしまうのね。弱っていたミシェルは思わずそれに応えてしまうのだけれど……「私はそんなつもりはない。レズビアンじゃないの!」とカレンを突き飛ばしてしまう。カレンは確かにミシェルに恋をしていたけれど、彼女が落ちていくことを本当に心配していたのに……。

というのも、ミシェルがバイトに入った店が、タチの悪いところだったから。つまりはストリップ劇場に毛の生えたような、まあ脱ぐまではしないまでも、それに近いようなバーダンスを見せる場所だったんである。そこでバレリーナよろしく真っ白なチュチュを着て踊るミシェルは異色で、しかしその異色さが逆に妙にエロティックなんである。
「あなた、AAAのバレエバービーでしょ」と言う先輩ダンサーはAAAからの落伍者の見本だったのに、ミシェルは気づかない。カネを稼ぐことに必死になってしまう。それはタダで住まわせてくれて心配してくれるカレンへ報いる気持ちだったはずなのに、前借りしたお給料でおそろいのネックレスを買ってくるぐらい仲良しだったのに、段々とヘンな方向に捻じ曲がっていってしまう。

カレンは裕福な恵まれたお嬢様で、この学校に入るために親が買ってくれたマンションに悠々と暮らしている。別にカレンはそのことをイヤミにしているわけでもないのに、この店で毎日くたくたになるまで踊らされるミシェルはカレンヘの友情も、そしてダンスへの純粋な情熱さえ、失われていく。
この店で横行しているドラッグを、「私は自分のエネルギーを信じているから」とはねつけていたのに、テスト前日まで店に入らなければならなくて、ついにミシェルはそれに手を出してしまうのだ。そしてテストではハイテンションに転じてしまい、教師は目が点。あんなにも将来を嘱望されたのに、強制退学者となってしまう。

強制退学者となったのはこのミシェルと、作品が盗作だとされたウェイド、ウェイドの撮った扇情的なフィルムを主演を勤めた舞台の上で流されてしまった隆、同じくせっかく獲得したソロパートをボロボロに失敗してしまったマシュー、自分の絵を勝手に売った教師にキレて、その教師の絵に真っ赤なペンキをぶちまけた千穂が含まれていた。千穂はしてやったりの顔をしていたんだけれど、でも次の場面では彼女がこの5人を招集している。学校に勝手をされたまま終わるなんてたまらない、と。

実はこの時点で、この中でただ一人才能がない、当然の結果として落とされたんだと思っているらしいマシューはその場を辞してしまう。確かに彼は教師の前では上手く弾けないけど、なんたってこの超難関学校に受かったぐらいだし、そして天才アーティストである千穂にインスピレーションを与えたぐらいだもの。やはり才能はあるに決まってるんである。
しかしマシューが抜けたことで、言い出しっぺの千穂は急激にトーンダウン、それを他の三人が逆にあおる形になるんである。

優秀学生の発表会に殴り込みをかけた彼らは、売り飛ばされた千穂の絵を奪還するドキュメントフィルムをゲリラ的に流す。そしてミシェルが踊る。会場のカレンに目線を送る。それに導かれて二人踊るダンスは、そんな、二人でダンスを踊る場面など今までなかったのに、息もピッタリでほうっとためいきをつきたくなるぐらいの、ラブダンスなんである。
次々と上手くいく落伍者たちの反撃、しかし言い出しっぺの千穂は次のステージ、バックに演奏者を控えた真ん中に用意されたソロの場所に誰もいないのを見て、静かに立ち去りかける。と!そこに遅まきながら黒づくめのマシューが登場!しかもかすかに胸元なんかあけちゃって、しかもしかもあのダメダメ君メガネもかけてないし、な、なんだかウッカリセクシーなんである!
見事演奏を終えたマシューに向かって舞台に駆け上がり、彼にキスをする千穂。そしてみんなに拍手喝采されるラストは爽快ながらも、この彼の変貌こそが最も判りやすくこの物語のテーマを示していると思える。

実際ここは反逆者たちの舞台なんであって、いつもの気弱な彼ではカッコがつかない。それにマシューが退学になった理由は、実はテストを失敗したわけじゃなくて、いや、それは確かにそうなんだけど、失敗した理由というのが、千穂が教授の絵に赤いペンキをぶちまけた、そこにマシューの学生証が落ちていたからなのだ。それは千穂が彼からムリヤリ預かっていたものだったのだけれど、そのことを突きつけられて、彼は臆してしまって、テストに失敗し、でも多分、学校側は反抗者としてのレッテルを彼にはり、その時点でもう退学が決まっていたと思われるのだもの。

そういう意味で、このアカデミーというタイトルは実に皮肉というか、つまりはアカデミック、学究的であるという意味を、それを提供する学校という組織を守ることにすりかえて、個人の才能を封じ込めるということなのだよね。千穂の絵を、学生がここで創作したものは学校の所有物だという理由で勝手に売り飛ばしたのもそうだし、ミシェルの国立バレエ団からの話を伏せていたのも、同級生のワナにはめられた隆の言い分を聞かなかったのも。
才能ある学生こそが締め出される場所。なんという皮肉。もともと学校は芸術家を育てるなんておごったことは出来ないという皮肉なのだ。こんな皮肉な物語を、モデルとなった学校の全面協力を受けて作っちゃっていいのだろーか。

と、こうして物語を追ってみると割と批判的精神に満ち、あらゆる生徒を追っていたりしてマトモな物語なんだけど、印象はとにかくカラフルでファッショナブルでキッチュでエロティック。
それを日本人役者の二人が担っていること、しかもしかも、今までのイメージからすると意外な二人が魅力を発揮していることを嬉しく思う。日本映画は素晴らしいと思うけど、やっぱりあらゆるチャンスや可能性は日本だけでは花開かない。この意外なキャスティングと成功に、そのことをつくづく思い知った。★★★★☆


明るい瞳/LES YEUX CLAIRS
2005年 87分 フランス カラー
監督:ジェローム・ボネル 脚本:ジェローム・ボネル
撮影:パスカル・ラグリフル 音楽:ロベルト・シューマン
出演:ナタリー・ブトゥフ/マルク・チッティ/ジュディット・レミー/ラルス・ルドルフ/オリヴィエ・ラブーダン/ポーレット・デュボスト/エリック・ボニカット

2007/9/21/金 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
予告編がちょっとシュールでポップな感じだったので、久々にフランス映画なぞに足を運んでみたのだが、実際に観てみたらまったくイメージが違って、やはりフランス映画のビターさを存分に含んだ、切ない物語だった。
いや、そういうイメージを持たずに行ったら、なるほどコミカルにも思えたのかもしれない、クスリとも笑えたのかもしれない。
でもなんだか、ビターさばかりが心の中を覆う。いやそれは、決してイヤだという意味じゃなくて。

ヒロインが抱える心の病気を持っている訳じゃないんだけど、彼女の感じる息苦しさや、自分じゃどうしようもない気持ちが、凄く切実に判る気がして。そ知らぬ顔して生きていると、そんな心の鬱屈をうまく発散できないでいるから、余計に身につまされる思いがするのね。
きっと皆、彼女と、五十歩百歩なんだろうと思う。
そして、彼が出会うオスカーは、現代の王子様なんだろう。見た目には無精ひげで無口な(というか、言葉が通じないからさ)、無骨な木こりだけれど、こんな無条件に自分を受け入れてくれる彼を、現代の女性は心から欲しているに決まってる。

ヒロインのファニーは、自分を上手く制御できなかったり、突然不安になって落ち着きがなくなったり。正式な病名は出てこないけど、いわゆる心の病気を患っている。
近所のおばあさんの家事をしてわずかなこずかいを稼いでいるけれど、ハタキをかけるついでに自分のワキの下をはらってみたり、ナイロンの下着にアイロンをあてて穴をあけてしまったりといった有り様で、ちょっとボケ気味のおばあさんの好意でお金をもらっているという状態。
両親は既に亡く、兄夫婦と一緒に暮らしている。兄嫁は一応理解ある態度をとってはいるけれど、あくまで“理解”であって、積極的に判ろうとしているわけではない。それに今は暫定的な生活であり、このままずっとというのは困るわヨ、と夫に釘をさしている。
つまり、世話してやっているという態度がアリアリなんである。それを、どうせこの変人女は判ってないだろうと思っているのもアリアリである。それは残念ながら……妹を心から心配している兄も、そうなんである。

そして彼女は近所では、変人を通り越して狂人とウワサされている。「お父さんが狂ってると言ってた」と子供がファニーに向かって言う。ファニーが「あなたのお父さんは、子供にソースをかけて食べちゃうのよ。あなたには優しいフリをしているだけ」とせいいっぱいの反駁をするも、それもつかの間、子供たちは彼女をだまして川の中に突き落とすという陰湿なイジメをしかける。ザンコクな、社会の図式。
ある日ファニーは、兄嫁の不倫の場面を見てしまう。それを告げ口することも出来ず、苛立ちを兄嫁にぶつける。取っ組み合いになる。兄嫁は「この変人!」とついに本音を口に出した。兄はケンカを止めるために妹を引きずり倒して水をぶっかけ、そして部屋に閉じ込め、そして……涙ながらに「病院に戻った方がお前のためだ」と言った。

妹にしてしまったこの行為に、自分自身ガクゼンとしたのか、この兄は。もういい年の妹、子供にするような罰は、ただ心に傷を残すだけ。たとえ“変人”“狂人”であっても……いや、そんなんじゃないこと、兄である自分だけは判ってやっていると思っていたのに。
つまり、いい人ぶることが、もう出来なくなってしまったのだ。いや、いくらなんでも、そこまで言うのは酷か。いい人でいることが限界に達してしまい、彼女を見捨てた。
ファニーが夫婦のために、兄嫁の秘密を口にしなかったことを、知ることもなく。「お前は経験がないくせに」とあまりにもあまりなヒドい言葉さえも浴びせてしまった兄。
ファニーは、これまでのこずかいをかきあつめ、兄の車を運転して街を出た。

ファニーはもう、30をとっくに過ぎてる。年齢を明示されることはないけど、演じるナタリー・ブトゥフの実年齢は40に近いぐらいだもの。こんな状態だから恋人なんてものも、今までいなかったんじゃないかと推測される。すっぴんで痩せぎすでメガネをかけて、カッコもかなりテキトーで、年以上に老けて見える彼女は、兄嫁の、家でも胸元を大きく開けているセクシーさとは明らかに違ってた。
今まで、心や頭を病んでいる女性の物語は、それこそフランス映画でもよくあったけれど、それは大抵少女か二十歳そこそこの若い女の話で、つまり、白痴の美しさという禁断のモティーフが好んで使われていたのだ。それは諸刃の剣で、そう、男が征服できる女という判りやすい図式で、観ていてイヤな思いにさせられたのも一度や二度ではなかった。

でもそんな少女たちも、いつまでも少女ではいられないのだ。処女が美しいのは、せいぜい20代前半までなのだ。30をこえて、化粧っ気のない顔がオバサンじみて見えるようになると、もうそれは、ただただイタいのだ。
それは、心を病んでいるという判りやすい設定で示されてはいるけれど、現代社会に潜んでいる闇でもある。
別に処女の痛さというんじゃなくても、似たような痛さを抱えている女性はたくさんいるってこと。

それにファニーは、経験がないことを、誰よりも気にしていた。食卓で夫婦の会話をさえぎって、テレビで見たラクダの性行為の描写なぞを生々しく語ったりする場面は、ラクダを再現するブッサイクな顔はコミカルなんだけど、見ていて辛い。
敏感な彼女の心は、時には言葉よりもセックスが気持ちを伝え合うということを、本能的に察知していたのかもしれない。だから経験がないという焦りや欲望よりも、心がつながりたいゆえのセックスを 欲していたのかもしれない。
だって、きっとそのラクダは、メスの性器に顔を突っ込んでゆっくりと内容物を吸収するなんてことをしているそのラクダは、その行為の中で肉体以上のつながりを持っているに違いないのだもの。
だからこそファニーは、それに釘付けになったんじゃないのかなあ。

わずかなこずかい銭を掴んで出てきた彼女だから、お金が尽きるのも早い。時にはカフェで隣の客のパンかなんかを一瞬で口に入れて、頬がパンパンになったままそ知らぬ顔をするなんていう、コミカルな場面もある。
コミカルな場面……うん、家にいる時だって、兄夫婦のベッドルームのクローゼットに隠れていたり、突拍子のないコミカルな行動は出てくるんだけど、あんまり笑えないんだよね。確かにコミカルなんだけど……せっぱつまった思いばかりを感じちゃって。
旅の途中、カラフルな椅子を運んでいる松葉杖の青年を助けるシーンが印象的。このにーちゃんと何かが起こるかと思ったがそうではなく、貰い受けた椅子が何かを起こすというわけでもなく、ただ単に色とりどりの椅子を一気に背中にしょって、派手なハリネズミみたいになってる彼女のカットを映したいだけだったような気もするのだが。
そして、黄色い椅子をひとつもらって後部座席に放り込み、またファニーは車を走らせる。

ファニーの目的は、父親の墓参りだった。彼女は10代に突入してすぐに最初の自殺未遂をし、つまり家族の中では鬼っ子だったから、父親の葬式にも出させてもらえなかった。しかも父親はドイツの女性と恋に落ち、家族を捨てた先での死だったから、余計にタブーだったのだ。
もしかしたらファニーは、皆から白い目で見られたであろう父親に、シンパシイを感じていたんじゃないだろうか。

男を知らないままきてしまった(恐らく)彼女にとって、父親がドイツ女性と恋に落ちたことを辿る旅で、そのドイツの地で男性と出会ったことが、運命だと思ったであろうことは、想像に難くない。
というのも、別に彼女自身の口から語られる訳ではないのだけれど。
墓地へと向かう途中、タイヤがパンクしてしまって往生していたファニー、本当に山の中で車も通らないし、どうしようってな状況だったんだけど、そこに山小屋があって、一人のヒゲヅラの男が近づいてきて、慣れた手つきでタイヤ交換してくれた。それが、オスカーだった。
正直、小さな山小屋から人影が出てきて、ずんずん近寄ってくるのをワンカットで示す場面は、ちょっとしたホラー映画さながらの怖ささえあるんだけれど、それもまた、画面に凝っているコミカルさでもあるのかもしれない。

ファニーは、ドイツ語が判らない。そしてオスカーもフランス語は解さないようである。言葉の通じない彼に墓地を探していることを、人が死んで、土を掘って埋めるというジェスチャーから始めて説明する。それがまたコミカルなんだけど、そんなファニーをじっと見つめているオスカーの表情やたたずまいがあまりに生真面目なので、なんだか笑うことをはばかられてしまう。
ドイツ人で言葉が通じないということを差し引いても、元から寡黙な男なんではないかと思われる無骨な木こりのオスカーは、しかしファニーの言うことを一生懸命聞いてくれる。言葉が通じないということは、それだけ必死になって気持ちを伝えようとするし、それを理解しようとすることなんだよね。それは、兄嫁の表面だけの理解とは、雲泥の差の、真の意味での理解なのだ。必死の、理解なのだ。
言葉が通じるということは、イコール気持ちが通じているということではない。そう勘違いしてしまいそうになるけど、違うんだ。それどころか言葉が通じることが逆に気持ちの障壁にさえなっていることが、ここで皮肉にも示されてる。

オスカーがどう思っているかとか、これまでどういう生活をしていたかとか、家族のこととかは、一切、語られない。あくまでファニー、あるいはフランス側からの視点だから、彼はあくまで、フランス語圏に闖入してきたエイリアンとして描かれる。
だからこれはあくまで勝手な推測なんだけど、彼はファニーに同類的なシンパシイを感じたから、いつまでも彼のところにい続ける彼女をうっとうしがることもせず、それどころかチェーンソーで枝を払う仕事を教えてあげたり、食事や風呂も提供したりして、彼女の心に近づいていったんじゃないかと思うのだ。それは勿論、ファニー側でそうさせる態度をとったからだけれど、それを受け入れたのは……そう、彼も、別に心を病んでいる訳ではなくても、あまり女を知らないままここまできた男だったんじゃないかと勝手に想像してしまうのだ。

だって、この状況、家族もいなくて一人で山の中で暮らしているこの状況、孤独にしたって尋常じゃない。ファニーよりも徹底してる。
しかし、その家にはアプライトピアノがおいてあったりし、しかも彼はそのピアノを弾く技術がない、ということは、なんらかの家族はいたということだろうけれど。それは奥さんだったのかもしれないけれど。
でも、彼の純朴さは並々ならぬものを感じるんだよなあ。
それにこのシーン、かけられたピアノカバーに潜って弾く彼女を見つめているこのシーン、二人の気持ちが一気に近寄るいいシーンなのだ。
あ、そうか……ということは、もしかしたら、やっぱり奥さんとかがピアノを弾いていたのかもしれない。いや、母親かもしれない。私はどうも、オスカーを純朴なままにしときたいみたいだなあ。女の勝手な願望だろうか。
だってさ、ファニーはピアノが大好きだった筈なのに、兄夫婦の家では全然リラックスして弾けなかったんだもの。イライラして、バーン!と鍵盤をぶっ叩いた後、彼女が弾いていた曲を流麗に弾き直されたりしてさ。んで、彼女がスコアを買ってくるとそれを一瞥したおにいちゃん、「これは、お前には難しすぎるよ」なんて断じて。

二人食事していた最中、ファニーは突然発作を生じ、家を飛び出してしまう。
森の中に入っていったファニーを、オスカーは必死に探し続ける。しかし日も暮れ、腹ごしらえにと一旦戻ってくると、そこにファニーがすやすやと眠っているんである。
その姿を見て安堵の笑みをもらし、そして翌朝ファニーが目覚めると、ベッドの隣の椅子で眠りこけている彼を発見する。
ファニーは、彼の手にそっと触れようとする。しかし臆して手を引っ込める。そして彼が目覚めて目が合い、笑い合う。
ああ、なんか初恋みたいなドキドキを感じてしまう。好きな人にドキドキして、触れたいけど、触れたら電気が走ってしまいそうに思うあの気持ち。でももう、二人とも大人。もう、ここまでくると、結ばれるのは時間の問題なのだ。

二人、散歩といった趣で出かける。ホント、何の目的があるという感じではない。ひたすら、山や森や砂地を延々と歩く。言葉が通じない二人は、取り留めのない話をするということもないのだ。
そして、森に沿った道で、ふと立ち止まる。予感めいた空気が流れる。オスカーが、とん、といった風情で彼女の唇に自分の唇をぶつける。
二人かすかに笑いあい、また歩き始める。また立ち止まる。オスカー、今度は彼女の顔を挟んで、しかしまだ軽いキスを交わす。
また、歩き出す。また立ち止まる。今度は、ファニーはオスカーの首に手を回して、明らかに恋人のキスをするのだ。きっと、初めての。

予想通り、カット変わって次の場面では、二人、神聖な森の中で結ばれる。慎ましやかなメイク・ラブシーンだけれど、ファニーがオスカーの上半身を丁寧に愛撫する描写もあるし、二人が本当にお互いを“愛し合う”描写が丁寧に活写されているのに、でも、というか、やはりというか、次のシーンではファニーが一人車を運転し、この地を去る、ラストシーンなのだ。
何故!?どうして!?せっかく、結ばれたのに。そりゃ、いまだに言葉は通じないけど、でも心はこれ以上なく通じたのに。それはセックスで頂点に達したに違いないのに。
いや、だからこそなのか。これ以上に心が通じることはないと思ったからなのか。それはある意味、絶望なのか。幸せの絶頂は、絶望なのか!?

セックスの後、眠りに落ちる彼の顔を、あまりにも哀しそうな顔で眺めるファニーに、どうしてそんな顔をするの、とイヤな予感を感じ、さらに涙さえ流す彼女に、そのイヤな予感は確信に変わってしまう。
セックスは、幸せなことじゃないのか。時に言葉よりも通じる、幸せなことじゃなかったのか。
セックスが終わりであるというのは、ファニーの中で最初から決めていたことのようでもあり、潔く、そして哀しく、でもじゃあ彼女は、これからどうやって生きていくのだろうとも思う。
これが、始まりなのか。そうも思いにくい。そしてこの車は、また兄夫婦の元に向かうのか。それも、なんだか思いにくい。
なんだかね、この時が永遠の奇蹟で、ファニーはまた、息苦しく哀しい現実に戻っていく気がして仕方ないのだ。
しかもそれが判ってて、そこへ戻っていくような気がして仕方ないのだ。
そしてそれは多分、私たちも同じ。
王子様との出会いを、運命と思って切り開く勇気がなくて、というか、そんなのムリだと判ってるから、引き返してしまう。
その瞬間を、心の糧にして。

などと悲観的に思ってしまったけれど、世間的にはこのラストは、ヒロインの明日への希望の光りを見い出しているとか解釈されてるみたいだし、監督もそう思っているのかもしれないけど……うーん、私はちょっと、ペシミスティックに過ぎるのだろうか。
監督、若いしなあ。そう、こんな物語を描くには予想外に若いにーちゃん。しかも紹介写真、何このカッコつけ(苦笑)。
ところで、オスカー役のラルス・ルドルフ、私の、いや観客の女性のハートをグッと掴んだであろう彼、「ヴェルクマイスター・ハーモニー」の彼だったのね。
ちょっとふくよかになった気もするが、しかしこの底知れぬ魅力は、ああそうだ、確かに。あの言葉なくして全てを表わすオーラと、ストイックな雰囲気は確かに!
元々はミュージシャンだというけれど、役者としての彼は、もっと見てみたい。
もー、すっごい癒されまくっちゃったんだもん。

なぜこんな、タイトルなんだろう。だから、明るい物語なのかと思ってしまったのだ。
うーん、それはラストの彼女に託された言葉なの?そうだろうか……。★★★☆☆


悪夢探偵
2006年 106分 日本 カラー
監督:塚本晋也 脚本:塚本晋也
撮影:塚本晋也 音楽:石川忠
出演:松田龍平 hitomi 安藤政信 大杉漣 原田芳雄 塚本晋也

2007/1/23/火 劇場(シネセゾン渋谷)
これまで数作の、深層心理に切り込むような重い雰囲気から解放され、どこかポップな雰囲気を感じて、ちょっと息がつける。あのまま生と死の間で激しく揺り動かされる人間を見つめ続けていたら、神経が磨り減って死にそうだったもんね。
いやもちろん本作だって、なんたって悪夢なんだからダークな画面は続きっぱなしだし、血しぶき満載なのだけど、それもどこかスタイリッシュな遊び心に見えてくるから不思議である。
監督が目指しているようにシリーズ化の雰囲気がするのは、タイトルロールである悪夢探偵が、案外登場シーンが少ないことからも感じられる。
最初から出ずっぱりじゃ、なんか彼も疲れそうだもんね。

それにしても松田龍平である。悪夢探偵、影沼京一に、監督が「夢の中に入りそうな佇まいを持つのはこの人しかいない」と指名したという彼。そうそうまさしくそうだわ。悪夢探偵、松田龍平。もう聞いたとたんに、これだー!って思ったもん。松田龍平にはこういう役をふらないとね。彼の特異なビジュアルとオーラが映えるような役でなければ意味がない。
素肌に黒マント、うっとうしい前髪ときめ細かい肌に無精ひげ、いつも不満気なやけに色っぽい柔らかそうな唇と、そしてあの、誰もを黙らせる瞳!
モノクロとも違う、青とセピアが混じりあったような悪夢の世界に、なんとシンクロすることか。

彼のツクリモノめいた声と喋りも、この世界にピッタリマッチする。今回のヒロイン、hitomiもそうで、松田龍平と二人、前衛舞台でもやっているみたいに不可思議にハマり込む。これがナチュラルアクトをするような女優じゃダメなのだ!
塚本監督はほんっと、その作品にピタリのキャスティングに完璧だよねー。ことに女優にさ。
その女優の力量どうこうじゃないんだよね。この作品で生きるかどうかなんだ。だから今回もhitomiという奇想天外なキャスティングなんだよな。
だから、その後見なくなる女優もいるんだけど……。うー、でもなぜ真野きりなは消えてしまったのだ!

おっと、脱線。まずはね、悪夢探偵が悪夢探偵たる場面から入る。奇妙な場面。部屋の片隅に少女のものと思しき長い黒髪。後ろ姿かと思ったら黒髪だけ。
ゾッとするんだけど、その部屋に座っている男、原田芳雄は存外ヘイキそうな顔をしている。そしてスルリと現われた松田龍平、いや影沼京一は、「あなたの娘さんでした。最初に一人だけ、堕ろされたことがありましたよね」と声をかける。
合点がいった男はしかし、一緒に戻りましょうという影沼に首を縦に振らない。ここに残るとガンコに言い放つ。あんな世界に戻りたくはない。ここで娘と一緒にいる。娘は私を心配して出てきてくれたんだからと。
「それでは僕が困る。あなたがこのままここにい続けたら、現実のあなたが廃人になってしまうんです」
いくら説得しようとしても彼は頑として動かない。果たして一人で戻ってきた影沼は、死んでしまった男の家族たちから冷たい視線を浴び、聞きたくもない汚い心の内を聞かされ、憮然とした表情で去っていくのであった。
「ああ、いやだ。ああああ、いやだ」とつぶやき続けて。この声がまたね!

さて、これは後ほど明らかにされるんだけど、影沼はずっと自身の家族から疎まれ続けてきたんである。人の心が見えてしまうから。
悪夢探偵といったって、それで生計を立てているわけではない。しかも夢に入り込んだ人たちを救えたわけでもない。冒頭の男が死んでしまったように。
でも、男が自分でその夢の世界に留まりたいと言ったのだから、それは正解だったのかもしれないし、そして若宮刑事が死んでしまったのだって、ひょっとしたら彼の望みを叶えたのかもしれないのだ。それは……そう判断するのは確かにあまりにも危ういのだけれど、でもそれが、人間の深層心理の複雑さというものだもの。

おっと、若宮刑事というのは安藤政信でね、今回彼と松田龍平の顔合わせは「46億年の恋」を思い出させてドキドキしちゃうのよね。
まあ、もちろんそんなカラミもなく、若宮刑事は早々に死んでしまうのだが……。

えーと、だからね、冒頭を離れると、しばらく影沼の登場はないのよ。
事件が起こるわけ。不可解な事件。連続自殺。確かに自殺に違いないんだけど、なんだかおかしい。最初に見つかった少女は、自宅のベッドの上で自ら頚動脈を何度も切り裂いたと思われる血まみれ死体で発見された。しかし、隣人に「助けて!」という絶叫を聞かれていた。
そして二番目に発見された男は、隣に寝ていた奥さんが、眠ったままのダンナがカッターナイフで頚動脈を何度も何度もズバズバ切っているのを見てしまった。うげー……なんつー悪趣味な場面……。
確かに自殺には違いない。しかしあまりにも不可解な自殺。呆然自失の奥さんはようやく言葉を搾り出した。「悪夢にうなされていたみたいでした……あの人があんな死に方をするなんて」

現場を捜査していたのは、今回キャリア組から自らの希望で現場勤務に配属された霧島慶子。これがhitomi。おいおい、刑事にあんな超ミニスカートはありえないでしょ!しかし、確かにこれは見せなきゃいけないだろうというぐらいの美脚だけど。
彼女は、机の上で事件を分析するばかりのキャリアに違和感を感じて、現場に飛び込んだんである。勿論、異例の異動だった。周囲の刑事たち、ことに今回行動をともにしているベテランの関谷刑事はあからさまに迷惑顔である。
しかし若手の若宮刑事はどこか好感を持って霧島刑事に接し、指示も彼女にあおぐもんだから、関谷刑事はちょっとおかんむりなんである。

でもね、関谷刑事を演じる大杉漣は、日和見主義で、上手い具合に軽くしてて、イイんだよねー。それに霧島刑事に対してだって、別にイヤガラセをするとかいうんじゃない。ぼやきは入るけど、事件にのめりすぎている彼女を心配しているし、彼女が担当する「非科学的」な捜査方法も、首を傾げながらも受け入れるんだから、なかなかに柔軟性があるんである。
あ、非科学的っていうのはね、つまり正当なアプローチの仕方じゃなくて、精神学的な見地からのアプローチ。つまりはいかがわしい方法ででも、なんとかこの事件を解決できないか、というわけで、資料室に閉じこもっているちょっと変人ぽいスタッフから聞き出したのが悪夢探偵、影沼京一なのであった。

ようやくの再登場。しかし彼の家を訪ねてみると、なんと彼は首吊りをしかけて家族が慌てて救出の真っ最中。泣き叫ぶ弟たち(?単にこのボロアパートの子供たち?)。あまりにも取り込み中である。
この事件に手を貸してくれないか、と言っても、影沼は首を横に振るばかりである。危険が大きく、人のイヤな面ばかり見る。もうやりたくないのだと。名刺だけ置いてその場を辞する霧島と若宮。後に霧島の電話に影沼からかかってくる。「あなたは、ゼロに電話をするな」びくりと固まる霧島。

あ、ゼロってのはね(後説明が多いなー)、二人の自殺者がともに死の直前に電話をしていた人物なのね。携帯電話にゼロの名前で番号が残されていた。しかも不思議なことに二人ともその会話を録音していた。どうやら自殺志願者と会話する人物らしいんだけど、おとり捜査で関谷刑事が何度電話してみても、相手は出ない。
しかし、若宮が電話してみたら、相手は出た。「自殺志願者のフリしたら興味持ったみたいで、ちょっとだけ話しました。最後に「あ、タッチしました」って言われたのは気味悪かったですけどね」

霧島は、若宮が暗示にかけられてしまったのではないかと危惧する。過去の二件の自殺者のように、眠っている間に若宮が自分を切り刻んでしまうんではないかと。
助けを求めようと影沼に電話をするも、彼は出ない。その留守番電話に必死になって事態を説明し、来てくれるように懇願する霧島。それを部屋の隅で縮こまって聞いている影沼は、また「いやだいやだ……」をつぶやき続けてる。
でも、影沼が霧島に警告したように、彼は彼女の心の闇を見抜いてた。彼女が電話したら、確実に相手の毒牙にかかってしまうってことを。

果たして影沼は来てくれて、仮眠をとっている若宮の夢の中にイヤイヤながら入ってくれるんだけど、若宮を助けることは出来なかった。ゼロの邪悪に負けたというより……若宮自身も知らなかった心の中の自殺願望を、相手に食い荒らされたと言った方が正解かもしれない。
「自分が自殺したいと思っていたなんて、知らなかった……」
目を覚ました若宮は、どこか微笑みながらそう言って……泣き叫びながら彼を抱きかかえる霧島の手を逃れ、血を吹き出しながら階下へとダイビングして、自分にとどめをさす。
なんかね、自分の中にあった本音に気づいて、幸福そうに死んでいったように見えるんだよね。

そういうトコ、影沼とは非常に対照的に位置しているんだよな。「46億年……」でもそうだったように、松田龍平と安藤政信は妙にそんな風に対の位置にいる。
影沼はいかにも闇とか魔とかいうように見えて、実際、心に闇を持ってて死にたくてしょうがなくて、自殺未遂を起こしてたりするんだけど、「悪夢で死ぬのだけはイヤだ」と言ったり、それほどイヤな悪夢の中にも、人を助けたいと言われると拒めなかったり、つまりアンビバレンツに生への欲求があるのね。
でも若宮の方は、フツーに生きてて、死にたいなんて思ってないように見えて、夢の中では、こんな世の中に何で生まれてきたんだ、ウンザリだ、と両手を突き上げて強烈に叫んでる。のらりくらりと不満を見ないようにかわして生きてきた人間ほど、それが発露した時には危ないのかもしれない。

霧島は自らが囮になることを決意し、ゼロに電話をかける。このあたりからゼロ側の描写も挿入されてくる。
ゼロを演じているのは塚本監督自身。すっごい作り上げた身体でご登場。今までと同じく重い躍動感タップリなのだが、なぜかどこか笑いを含んで見てしまうのは(いや、失笑じゃなくてね)監督自身の意識的なものなのか、微妙なところ。
だって、今までと同じように、力を抜くことなくアクトしているんだもん。でもそのやけに完璧なマッチョが浴槽の上でポーズしてたりすると妙に可笑しくて笑っちゃうの。
松田龍平が非常に精神的な立ち位置にいるから、塚本監督の肉体と対峙した時にすっごく対照的なんだよね。

霧島も、ゼロの「あ、今タッチしました」という声を聞いてしまう。慌てて携帯電話を閉じる霧島。
どこか脅しのように影沼に強力を要請する。影沼は若宮の悪夢に入り込んだことで自らも傷を負い、入院していた。
死にたいんなら、ちょうどいいじゃないとまで言って協力を請う霧島に、「あなたは悪魔だ。絶対に地獄に落ちる」と言い放つ影沼。
死にたいけれど、悪夢の中で死ぬのだけはゴメンだ。あなたは悪夢の恐ろしさを知らないんだ。影沼は言い募る。それって、死にたくないと言っているのと同じように聞こえる。
「どうせ死ぬんなら、ちょっとでも役に立って死ねと思っているんでしょう」図星を指されて霧島は黙り込んでしまう。

霧島は、眠れなくなる。眠ってしまったら、ゼロに入り込まれて、殺されてしまう。一方のゼロは若宮の夢の中で出会った影沼の存在に「面白いヤツだ」と興味津々で、対峙を望んでいる。
ゼロからの電話にいつも入り込む、少女の声……。
そして霧島が見る、赤い服の、もう一人の自分……。

髪をかきむしって眠気を必死に追い払う霧島、いやhitomiは、やけに色っぽい。
彼女は死にたいなんて思ってない、と必死に自分に言い聞かせる。でもいくらそう言い聞かせても、忍び寄る恐怖に打ち勝てない。
死にたいなんて思ってないことが、生きたいと思っていることとイコールではないことに、彼女は気づいていない。
霧島は、その曖昧な線上にのっかってる。彼女もまた、自分に自殺願望があるなんて思ってない。ただ、若宮ほどには、その問題から逃避して見ないようにしてはいない。夢の中で赤い服を着て髪をざんばらに乱した「死にたい自分」と対峙しても、もしかしたらと思う程度ってことだけど。だからこそ呪文のように、「私は死にたくない!」と繰り返す。でも、「私は生きたい!」とは言わないんだよな。
それが、人間の本音なんだと思う。人間は欲深いイキモノで、不治の病にかかっているとかしないと、そんな最後の切り札を差し出さない。こんなギリギリの時点でさえ、彼女は「死にたくない」にとどまっている。「生きたい」と言ってしまったら、それ以上の望みが得られなくなってしまうから。
そして、影沼が、助けてくれると思っているのだ。

その通り、霧島の悪夢の中で、影沼はゼロと対峙する。
ゼロもまた自殺志願者。けれど自ら傷つけた肉体が、悪夢の中の相手を食うことで直ってしまうんである。そしてその夢の本人は、現実の肉体を自ら切り刻んで死んでしまう。
究極の、肉欲のエロティシズム。
ゼロは、死にたくて自らを傷つけたはずなのに、その瞬間から他人の肉を食いたくて食いたくて、この凶行に及ぶんである。なんという、究極の欲望のエロティシズムだろう。
悪夢に誘われて自らを傷つけて死ぬ、っていうのも、自分でヤッて放出して果てる、ってなエロに思える。
それもあんなにも激しく。えっ、これって夢精ってことなのかも?

ゼロは影沼によって、自らの過去を思い出す。
子供の頃に急に途切れてしまっていた記憶。聞こえていた少女の声は……妹の声。
妹が目の前で死んでしまった過去を、彼はずっと忘れていた。
でもあのシチュエイションはどういうこと?金庫のような狭い場所に閉じ込められて、しかもそのドアを閉めたのは一体誰?なぜ、その場所で妹は首から血を吹き出して死んでしまったの?それとも妹じゃなかったの?
なんだかひどく不条理。いや、夢は不条理なものだけど……これは回想であって夢じゃないはずなのに、やっぱり悪夢の延長線上みたいだ。
幸福な回想として思い出される、両親と女の子の映像が、誰のものなのかもちょっと判然としない。それまでの悪夢も現実も、あまりにも暗い画面で描かれているから、急に白日の元にさらされるその幸福な回想さえも、ヘンに白々しく思える。これは妹を見ているゼロなのか、霧島の回想なのか、それとも……。

影沼とゼロの対決は熾烈を極め、しかし影沼がすんでのところで勝利する。
ゼロは、夢でその肉体を血まみれにし、現実の彼はベッドの上で静かに心臓の鼓動を静止させる。
それは、今まで彼が食い荒らしてきた自殺志願者たちと、対極にある死に方……。
でも、最初に腹を刺した彼は病院に収監されて、ずっと危篤状態にあったというのだ。ならば、夢の中で人を食ったら治ったというのも、彼の夢の続きだったのか。
その危篤状態で、携帯電話で彼らと話していたというのも不気味な謎である。

携帯電話、誕生してほんの10年かそこらのこの小さな機械が、いまや夢というアナクロニズムにまで侵入してきている。
「あ、タッチしました」という言葉には、様々な意味や感覚がはらまれている。
携帯電話で全てのコミュニケーションを済ます現代。距離が離れているから、どこか安心してる。それでいて片時も離れたくないと思って携帯に依存してる。
なのに、いやだからこそ、こんな近い言葉に怯える。入り込まれることに拒絶反応を示す。
じゃあ一体、どの距離感で人と付き合いたいと思ってるのか。
携帯のない時代には、作れない物語だ。

夢を見ている時間、あるいは夢の時間を長く感じるほどに、現実の自分が失われていく感覚、って確かに判る。夢を見ている体感時間って、実際よりも凄く長く感じてて、だからこそ飲み込まれてしまう恐怖を感じるし。
夢の自分が長くリアルに感じた時、現実の自分は死んでしまうんじゃないかって、よく思ってたもの。

プラモデルみたいな、ボール紙で作ったみたいな、やけに頼りない都会のビルディング、という映し方は「六月の蛇」を思い出させる。
いや、昔からこんな映し方をしていたっけ。
そういえば、都市と肉体を描く監督、と言われていた。今までそれを核に様々に豊かなヴァリエーションを加えていたけれど、今回、またその原点に戻ったような気がする。
そして、前作「HAZE」の不条理な密室ホラーの魅力が、本作に存分に生かされているのも面白い。★★★☆☆


あしたの私のつくり方
2007年 97分 日本 カラー
監督:市川準 脚本:細谷まどか
撮影:鈴木一博 音楽:佐々木友理
出演:成海璃子 前田敦子 高岡蒼甫 近藤芳正 奥貫薫 田口トモロヲ 石原真理子 石原良純

2007/5/15/火 劇場(渋谷アミューズCQN)
久しぶりに市川準作品を観た、という感じがする。作品自体は観続けてはいるけれど、少女のためだけに、少女の心情のためだけに作られる市川映画を、あの頃のままの市川映画を、本当に久しぶりに観た気がする。
そのためには、それに応え得る少女女優の登場を待たなければならない。かつての富田靖子や池脇千鶴がそうであったように。そして彼女たちが、今でもその少女のキラメキを残しながら、素晴らしい映画女優として生き続けていることが、今回のヒロイン、成海璃子の抜擢で、彼女もまたそうして生きていくであろうことが、その成長をこの目で観続けられることを保証されたようで本当に嬉しい。

恐るべき子供。その言葉が浮かんだのは誰以来だっただろう。彼女が年若いというだけではなく、天才的な演技力であるというわけでもない。そして言ってしまえば、絶世の美少女であるというわけでもない。
そうした意味で、今までの市川ヒロインの富田靖子の演技力や、池脇千鶴の愛くるしさとはまた全く違った存在なのである。
しかし共通点がある。あの頃の彼女たちと同様に、璃子嬢もまた、スクリーンに吸いつくような少女なんである。それは池脇千鶴を発掘した「大阪物語」の脚本を手がけた犬童監督が、彼女に対して口にしたこと。カメラと仲がいい感じがする。カメラが近づけば近づくほど、その少女の肌がまるでそれに応えるように息づく。そんな少女。そうだ……そういう意味ではまだ素材であり、女優というわけではないのかもしれない。
でも、女優が女優以前の素材のままにスクリーンに焼き付けられる季節というのはそうあるわけでなく、まさに今、彼女はその時をスクリーンに刻んでいる。そしてそれを100%すくい取ることができる数少ない監督が、市川準なのだと思う。

小学校から高校までを、違和感なく演じる璃子嬢。
実際はまだ14歳の彼女が、そうとは思えないほどの確固たる存在感と、しかし時々は幼さを見せるうなじやふくらはぎに、そのどちらにも揺れる“少女”そのものを感じるからだろうか。
小学生である彼女、寿梨(ジュリ)は、同級生たちを冷静に見つめている。
いじめられっこの久保田さん(だったと思うが。役名うろ覚え)、クラスの人気者である日南子(カナコ)。
そして、そのどちらでもない私。
しかし彼女は、“そのどちらでもない”ことに殊更に腐心している、ことが後に明らかになる。
それは、ちょっとでも突出してしまえば、日南子のようになれるかもしれないけれど、その紙一重で久保田さんになってしまう可能性も大きいから。
それが証拠に、私立中学の入試のために休んでいた寿梨が久しぶりに学校に出ると、彼女たちの位置は入れ替わっていた。
自分が落ちた中学校に入った久保田さんと、学級会で反発されたことでハブにされた日南子。
日南子へのイジメは小学校卒業で終わるどころか、中学に入っても続いた。
そのはざま、小学校卒業式の日、寿梨は日南子と誰もいない図書館で偶然出会う。

この場面が、二人の運命を決定付けるのだ。
日南子は言った。「ひとりだと、無視しないんだね」
その言葉は寿梨に突き刺さる。彼女は、久保田さんの時もそうだったように、いじめられている日南子に対して何も出来なかった。いじめに加わることはしないまでも、ただ見つめるしか出来なかった。
それは、“人と違うことをすることで、突出すること”が、彼女を救うことよりも、寿梨の中で大事だったから。
でもそのことさえも、日南子には判っている。だって日南子もまた、そうだったから。
「今の私はニセモノの私なの。いじめられるポジションがいなくなったら、誰かが入らなくちゃいけない。それが私だとは思ってもみなかったけど」
そして日南子は太宰の一節を引用する。『お前は嘘がうまいから、行いだけでもよくなさい』

寿梨の両親が離婚し、彼女は母親に引き取られてマンションに住むことになった。兄と父親とは月に一回食事する。すまながる母親に、「お母さんと一緒にいるほうが楽しいもの」と寿梨はニッコリとする。
あの時、日南子の言葉に寿梨がハッとしたのは、彼女もまたポジションごとの自分を演じ続けていたから。
仲の悪い両親に心を痛めて、いい娘であろうとした。私立中学を受けたのもそのためだった。でも不合格。そして両親は離婚。それが寿梨の心に影を落としたのは想像に難くない。
でも寿梨は、それを表面上には出さなかった。私のせい、と口にすることもなく、ただ冷静に運命を受け止めているように見えた。それはそう見えただけで、本当は……今の子供がクールだなんて、ウソだ。心の窓をこじ開けてみなければ、その気持ちなんて決して判らない。

高校になって、寿梨は日南子が山梨に引っ越し、転校することを知る。
あの卒業式の日以来、一度も話をしていなかった。
寿梨はそのウワサをしていたクラスメイトから日南子のメアドを教えてもらって、連絡をしてみる。
『今度は本当の自分になれたらいいね』
日南子からは、『あなたは誰ですか?からかっているのならやめてください』と返って来た。
寿梨は自分をコトリ、日南子をヒナと変換できることを思いついて、自分の正体は明かさずに、日南子に話しかけるようにメールを送り続ける。
それは、文芸部の課題に悩んでいた彼女の小説にもなった。題して「コトリとヒナの物語」

この二人のコミュニケーションは勿論、クラスメイトや家族ともメールのやりとりをしている彼女たち。そのメールの文面が、スクリーンにすっと立ち上がる。
こういう手法はメールが登場してから映画の中で折々見かけたけれど、市川監督がやるとは思わなかったし、やはり何か、ひと味違う。
そしてその彼女たちを、スクリーンを切り取り、分割し、距離を近づける。それはメールのやりとりで感じる、距離感を一気に縮める感覚を思わせる。
不思議なんだけどね。電話で話すのだって距離は飛び越えるはずなのに、電話だとやはり相手の距離は感じるのだ。でもメール、それも携帯メールでやり取りしている彼女たちに、その距離は感じない。それは彼女たちが、毎日会う友人同士でも、普段から頻繁にメールのやりとりをしているからだろうか。

寿梨が日南子に転校生としてやるべきことを、まるで未来予想図のように語っていったのは、あの図書室で「私たち、似た者同士だね」と微笑みあったいわば同志である彼女が、新しい環境でどのポジションにつくべきか不安を抱いていることを、敏感に察知したからだろうと思う。
一方で寿梨も、表面上は無邪気にハイスクールライフを楽しんでいるように見えるけれども、心からの素の自分を出している訳ではない。そんなこと、怖くて出来ない。
本当は彼女だって、カラオケも好きじゃないかもしれない。それは日南子に「カラオケは絶対に行くべき。密室は友情を深めるのに欠かせない場所」とアドヴァイスする文面でそう感じてしまう。

しかし皮肉なことに、寿梨が日南子に送り続けるメールを元にした小説「コトリとヒナの物語」を気に入った文芸部顧問の先生の「大島は文章が上手い」という言葉が、寿梨を創立祭で挨拶をする代表者に押し上げてしまう。
この場面、立候補者がいなくて、推薦されると即決まってしまう。小、中、高とこういう場面、何度もあった。立候補者はと言われてシンとし、更に推薦したい人はと促されると、皆無関心を装って内心ヒヤヒヤしているこういう場面、あまりにも見慣れてて、あの頃を思い出してヒヤヒヤする。
目立ちたくない。才能なんてなくていい。皆と同じことをしていなければ不安。そう思っていた寿梨に突然降りかかった“災難”

それは寿梨がコトリとして日南子=ヒナに伝授する、転校してもクラスになじむ方法に、バッチリと当てはまるんである。
挨拶早々コケて親近感を与えること。ヒナはヘタにクールな美少女だから、一歩間違うと反感を買いやすいのだ。
奇数の人数のグループを探して入り込むこと。ペアになった時のことを考えて、ハブにならずにすむ。そのグループと一緒に帰る時は、さりげなく中央をキープしたりして。
朝早く教室に来て、クラスメイトと会話をすること。あらかじめ盛り上がっているところには入りにくいものだから……。
そしてあのカラオケの極意。カラオケは誘われたら必ず行くことと、更に皆をひきつけるための替え歌まで伝授する。
その甲斐あって、日南子は見事クラスに溶け込むことに成功する。それも以前の日南子のように人気者としてではなく、気安く付き合えるクラスメイトとして。

そして日南子は恋をする。バスで一緒になる男の子と初めてのデート。
「レフ版代わりになるから白の服を」「注文はロイヤルラテ」「困った時には趣味の話題」「お茶の後はカラオケへ」「聞き上手がモテ上手」次々に繰り出す寿梨のアドヴァイスはしかし、今までのようには上手く行かない。
メニューにはロイヤルラテはないし、彼は「カラオケは苦手」と言うんだもの。
思いも寄らぬ彼の言葉に、日南子は思わず私も、と言ってしまう。彼は日南子のクラスメイトである妹から、替え歌でノリノリだった彼女のことを聞いていたから驚き、日南子も思わず言葉を濁してしまう。

それは彼に合わせたいから出た言葉なのかと、観ている時には思ったのだけれど、思い出して見ると日南子はカラオケに誘われた時に躊躇して、流行りの歌も寿梨に教えてもらって練習したりしてあんまり知らないみたいだったし、カラオケはもともと苦手だったのかもと思われるのだ。
ということは、もうその時点で彼とは相性がいいのに、日南子は本当の自分を出すのが怖くて、彼に別れを告げてしまう。

大体、聞き上手がモテ上手だなんて、自分を偽れと言っているようなものだ。
恋愛の場面になってからの寿梨は、今までのようにスラスラと言葉が出てこない。小説やマンガを漁り出すんである。
で、それを受ける日南子は、今まではことごとく上手くいっていたアドヴァイスなのに、想定外のことが起こり出す。想定内のことでも、あまりに寿梨が完璧にフォローし、「こう聞かれたらこの台詞」みたいに返すメールの文面まで用意してくるもんだから、日南子は自分がまるで芝居をしているように思ったんだろうと思う。
でもそれでも、今まではその方がラクだった。彼女も言ってた。今の自分はニセモノの自分だと。そのポジションを演じる誰かが必要なのだと。

でもクラスの中の自分、学校の中の自分、そして家族の中の自分さえ役割を演じることはラクなだけだけど、たった一人の相手と向き合うことになる恋人と自分、ではそれが当てはまらなくなる。
いや、それもちょっと違う。
本当はどこにいる自分だって、相手と一対一なのに、同じように当てはまらないはずなのに、なぜか今まで上手くやってこられたのは、そのポジションにいることを相手が容認してくれたからであり、更に言うとそのたった一人の相手に好かれたい、嫌われたくないという特別な感情にまではならなかったからにほかならない。
恋は時として、尊い友情よりも、家族の絆よりも、自分自身をさらけださせる。

寿梨の方にもそんな想定外のことがやってきた。いや、寿梨自身にではない。母親に恋人が出来たのだ。
寿梨となんとかコミュニケーションを図ろうとするその恋人だけれど、「私には関係ないから……」と寿梨は言う。それは母親の問題。でも彼女が動揺していることは、彼のこんな言葉に対するリアクションで判る。
「今まで大変だったね。でもこれからは大丈夫だよ」
その言葉にアイマイな笑顔を浮かべる寿梨だけれど、内心激しく動揺していた。
もう私は必要ない。今までのことはムダだったのだ。今まで自分が演じていた理解あるいい娘であること、それに全力を傾けていた今までの人生。
それが、母親の恋愛という想定外のことでもろくも崩れ去る。日南子の恋愛と同じように、寿梨にはどうしようもないことが、突如目の前に現われてしまう。

しかも、寿梨は思いがけない人に再会する。それは、あのいじめられていた久保田さん。文芸部の出した同人誌が書店に無料で置かれることになって、それを見に行った寿梨の前に「私、覚えてる?」と現われたのだ。
地味なめがねっ子だった彼女は、コンタクトにしたのかめがねを外し、オシャレに髪をアップして、唇はピンクに輝き、フェミニンなファッションなどしているもんだから、寿梨は俄かには彼女のことが判らなかった。

メガネをかけたいじめられっ子が大逆転、というこの構図。大逆転のなかったメガネっ子の私としてはなんか、そんなにカンタンかなあ、とつい思ってしまうのだが、そこは努力の差というものだろうか。
「なんか雰囲気変わったから……」戸惑う寿梨は、彼女のことを見下していたかもしれないことを、思っただろうか。
あの時、小学生だった時代、いじめられている彼女に、人気者だった日南子は関わらない方がいいよ、と牽制し、寿梨はそれを言われるまでもなく何も出来なかった。
それをまるで気にしていないかのように、華やかな印象で現われた彼女が差し出した住所に、寿梨は見覚えがあった。
めまいがする。
とりつくろって立ち去る寿梨。
そこは、以前、寿梨たち家族が暮らしていた家だったのだ。

そして彼に別れを告げた日南子。ただ、「ごめんなさい」と「好きになってくれた私は本当の私じゃないから」と言う彼女に彼は納得出来ない。
「今までのことはなかったことにして」そう言い募る彼女に、「はじめまして!何もなかったことにしたから。ひと目惚れです!」と頭を下げる彼。ううううう、それまでのぎこちないデートシーンでもうドキドキだったが、このあまりの初々しさに椅子から落ちそうになってしまう。
市川監督自身も慣れないこの甘酸っぱい描写に、撮りながら相当テレたらしい。
「本当の自分って、なんだよ。俺は今目の前にいる花田日南子が好きだ。それじゃだめなのか?」
なんてことない言葉なんだけど、だけど、それが日南子の心を溶かすのだ。
そして、日南子から、寿梨に電話がかかってくる……。

この場面。距離を飛び越えた二人が、闇をバックにした画面の中、隣り合って喋るこの場面。凄い繊細なテンションで緊張感で、張り詰めた糸が切れそうなこの場面。
メールでは正体を明かしていなかった。ヒナ、コトリと言い合っていたのに、寿梨、と呼びかける日南子。「なんで?いつから?」と驚く寿梨に「最初から判ってたよ。忘れるわけないじゃん。卒業式の図書室。大切な思い出だもの」「……私も」
この時寿梨は、かつて家族で暮らした一軒家、今は久保田さん一家が住む家にこっそりと来ていた。
帰ってくる久保田さんを、彼女のお母さんが笑顔で迎えるのを見つめていた。
日南子は「テレビ電話に出来る?顔を見てお礼がしたいの」と寿梨にいう。
現代のハイテクなのに、昔からの思いが忍び込む。そして心の窓をこじあける。

お礼なんか言われる資格はない。ヒナは私の理想だった。日南子のことを考えてあげていたわけじゃなかったのだと、寿梨は苦しそうに吐き出す。
でももはや悩みから脱出した日南子は、逆に寿梨のそんな気持ちをほぐす余裕さえあるのだ。
そしてそう出来たのは、寿梨のおかげだと、言うのだ。
この作品のキーワードになっている本当の私、ニセモノの私。
そこから脱却した日南子は、本当の私になりたいなら、さっさとなればよかったのにね、と、それが結局はシンプルなことであることに、恋人の言葉で気付いた。否定していたカッコ悪い自分を含めて全てが自分なんだ、と解放された。

でも、私がこの年頃の時には本物もニセモノも、とても固まりきれるものではなかった。そこまで確立していなかったからこそ、不安だった気がする。
いや、彼女たちの思いは凄く判るんだよ。こんなに明確ではなくても、それぞれの場面で何かの役割を演じているという感覚はなくもなかった。
でもそれはせいぜい、一人でいる時の自分と友達といる時の自分と家族といる時の自分、そこにはささやかな秘密がそれぞれに介在していて、それを守る程度の差だった。それは確かにアイデンティティに関わる秘密だったけれど、こんなにハッキリとはしていなかった。
彼女たちのその役割がこんなにもハッキリとしているのは、やはり、年寄りくさい言い方だけれど、時代が変わったせいのように思う。

例えば、離婚による父子家庭、母子家庭がそれほど珍しくない時代になった。母親に引き取られた寿梨は、いやその以前、ケンアクだった両親の間で必死にいい娘を演じ続けた。両親が好きだったから?いやそれも……判らない。彼女は後に日南子に言った。私がもっと頑張れば、パパとママは離婚せずにすんだかもしれない、と。
それは子供のケナゲな思い込みである一方、大人への過渡期である少女の、プライドが傷つけられたということでもあるに違いない。
それが証拠に、彼女より幾分年上であるお兄ちゃんは見る限りそんな葛藤にはさいなまれていないし、もっと幼かったら、ただ哀しいだけ、不幸な境遇の自分としか思わなかっただろう。

そして、他人に受け入れられるために、自分を偽るということ。
学校にはいじめられる人間と人気者の人間と、そのどちらでもない人間がいる、と小学校時代の寿梨はもう悟っていた。
どちらでもない人間は、どちらかになることをも恐れている。ちょっと針がブレればなりかねない。それが人気者の人間であったとしても、くるりといじめられる人間になりかねないことを、見て知っているから。
いじめられる存在は、ほんのちょっとしたキッカケでくるりと入れ替わる。そしてそのキッカケは案外なかなか次回が周ってこずに、かつての人気者だった日南子はずうっといじめられたまま……高校になって山梨に転校した。
小学校の卒業式の日、ほんの短い時間話した図書室で、心を通わせた、二人のとっての、大切な思い出。
寿梨は、いや璃子嬢は眉根をぎゅうっと寄せて、大粒の涙を流す。
ずっとずっと澱み、たまり続けてきたものが、その美しい涙で全て浄化されるかのように。

少女のフィジカルよりメンタル。それが出来る璃子嬢。ホント14歳とは思えない。発音もキレイだし。瞳の大きさが意外に、って感じ。そういうイメージじゃないから。その黒目がちな瞳は、カメラが至近距離に寄るほどに、彼女自身を物語る。まさにカメラと友達になれる希少な女の子だ。
璃子嬢はインタビューで、「長まわしがとにかく多かったなあ、という印象でした(最長35分!)。逆に楽でした。ずっと同じ感情でいけるから。セッティングの間に気持ちが切れることもよくあるので」と語ってた。市川監督の少女作品を端的に物語る台詞であり、彼女が高級素材から女優へと羽ばたく女の子であることもよく示してる。
寿梨がコトリとしてヒナに言った「大丈夫。ヒナとコトリの物語は絶対にハッピーエンドだから」という台詞が、寿梨の背中をも後押しする。
尻込みしていた創立祭での代表者挨拶、ステージに向かう彼女の後ろ姿。
体育館にはお父さん、お兄ちゃん、お母さんとその恋人の姿も見える。
うなじにキャメラが近寄り、すっと彼女が息を吸う……。

メールの画面のやりとり。その字がピッピッというかすかな電子音で示される静謐さにちょっと驚く。こんな現代的な女の子のコミュニケーションツールが、まるで本のページをめくっているような密やかさで心に染み入るとは思わなかった。
一方のヒロインである日南子が愛読し、後に寿梨も愛読することになる太宰治、卒業式の図書室、文芸部の同人誌、そうしたクラシックな紙媒体の文章が、寿梨が携帯電話やパソコンで“書く”小説にするりと融合していく。それが、不思議だった。

いや、不思議だと思うことこそが、小説、文学、手紙、あるいは文章、書き文字というものを、年寄りくさい意固地さで、かび臭いクラシックへと追いやってしまっていたことに気付く。携帯を持たない私だって、こうしてパソコンで文章を“書いて”いるのだし、ペンで書くよりも気持ちが指先にダイレクトに伝わるこのツールを愛しているというのに。
でもだからこそ、それが指先に伝わらなくなる時に、気持ちの揺れを、遮断を、いち早く感じる。それはペンで書く時間の緩やかさより速攻で、残酷に、突きつけてくる。筆が止まる、より指先が止まる、の方が身体に、心に、ダイレクトに突きつけられる。文明の利器は案外心と直結しているものなのだ。
そう、寿梨が書く物語の結末を見たくなくて、キーボードを叩く速度がどんどん落ちていったように。

それにしても太宰!青春期に太宰に出会ってしまったら、それも少女が出会ってしまったら、夢中になってしまったら……ああ、判り過ぎるほどに判る!この人の気持ち、この人のことを、私が誰より判ると思ってしまう罪な男なんである。私だって、卒論で太宰をやりたかったけど、あまりにも希望者が多くて、彼を独り占めできないのならと降りたぐらいだもの。
日南子の机にずらりと並べられたハードカバーの全集や、新潮社から出ている黒の背表紙の文庫、ちくま文庫から出ているクリーム色の背表紙の全集……私の本棚にも並べられているだけに、あまりに背中がむずがゆい。

途中挿入されるカット、スクリーンを横切る電線。そこに止まる三羽の鳥のシルエット。一羽が飛び立ってゆく……そんな物語とは別に関係のないシーンが、ふっと心に染み入るようだった。その静寂に、ああ、市川監督だなあ、と感じ入った。★★★★☆


足にさわった女
1952年 84分 日本 モノクロ
監督:市川崑 脚本:市川崑 和田夏十
撮影:安本淳 音楽:黛敏郎
出演:越路吹雪 池部良 山村聡 岡田茉莉子 伊藤雄之助 沢村貞子 見明凡太朗 藤原釜足 村上冬樹 加東大介 三好栄子

2007/3/29/木 (東京国立近代美術館フィルムセンター)
ああ!これこれ!もう何年前になるのか、見逃したのよー。あれは市川監督特集かなんかだったのかなあ。フィルムセンターって、一分でも上映に遅れると、絶対に入れてくれないんだもん。汗ビッショリになって、息せき切って走っていったのに、入れてくれなかった。いまだに忘れないわよ。根に持つタイプなんだから、私。
きっといつか、別の特集でやってくれると信じて待ち続けて、その気持ちがくじけそうになってた矢先、ふっと上映スケジュールをみたら、入ってるじゃないの!危ない危ない、またも見逃すところだった。ということで、最終上映回に滑り込みセーフ。積年の思いがようやく叶ったわあ。

かといってどんな映画だったか知ってたわけじゃないんだけど。結局ウラミだけで思い続けていたのか?
いやいやいや、やはり池部良が見たかったのよね。それも、若い頃の池部良を。ま、本作では若すぎず、老けすぎず、青年のフットワークの良さと大人の男の魅力を同時に見せてくれるけど、もう私の中で池部良は、「昭和残侠伝」がデンと居座っちゃってるもんだからさあ。
それに、このタイトルが、そそられるじゃない?どんな内容なのかまったく推測出来ない、スリリングなタイトル。実際の内容は割とドタバタコメディの王道を行っているような感じだけど、こういうタイトルのミステリアスって、好きなの。「甘い汗」とかさ、あらどんなエロな映画なのかしらと鼻の下を伸ばして足を運んだら、マトモな映画だったりさ。あららら、なんかどんどん本筋から離れていくなあ。

しかしこれ、これまでに三度も映画化されて、本作も二度目のリメイク。最初は岡田時彦、三作目はハナ肇、京マチ子、船越英二。うーむ、スゴ過ぎ。
そんでもって、やはり池部良は素敵なんである。こういう体形の人って、今はいないんだよなー。身長だけならこのぐらいの背の高さの人はいるし、みんなスラリとしてカッコいいけど、こういう、ガッチリと基礎工事が組まれているような体形の人は、いないのよね。
本当にスーツが似合うっていうのは、彼のような体の人だと思うんだよなあ。今、三つボタンが横行しているのは、スリムな体形を強調してカッコ良く見せるためでしょ。池部良のような体形のカッコ良さが失われているからだよね。
従来通りの二つボタンに、このウエストの高さ、しかしそこから伸びる足もがっしりと伸び、しかし不思議に軽やかで、こういう動き自体、今の人じゃ見られないよなあ、などとなんだか不思議な気持ちで見てしまう。これぞ、美しい身体。ホント、そう思うのよね。

劇中の設定は30歳、当時30代半ばと思われる池部良は、適度な若さの甘やかさ、そして仕事にノッている男の精悍さを併せ持つ。実際、劇中の刑事である彼も、ちょっとムチャなくらい仕事に邁進しているし、演じている役者である彼も、きっとそうだと思わせる。
それがね、もう冒頭のシーンに溢れるぐらい現われているんだよなあ。あのね、この池部良演じる刑事、北はね、なんか問題を起こして、上司からしばらく出てくるなと一週間の休暇を言い渡されるんだよね。
その理由が、あまりの早口でよく判らんのよ。北と、上司と、この問題に絡んでいるらしいもう一人が口げんかとも議論ともつかないやりあいをする、それはもう最初っから胸躍らせるほどの躍動感で、しかしあまりの超スピードに、ついていけんのだー。
昔の映画って、時々こういうことある。びっくりするぐらい早口で、聞き取れないこと。でもそれも、演出のひとつであるとも感じることがあるんだよね。聞き取れないのも承知でやってるんじゃないかみたいな。ただ私の耳がギョーザなだけかしら。

で、まあ本筋に行きますと……北は大阪警視庁の、スリ事件担当の刑事。でも、彼がこだわって追っかけているのはたった一人、塩沢さやという美貌の女スリである。これを演じるのが越路吹雪。劇中で、「凄い美人!越路吹雪にソックリ!」などという遊びの台詞が用意されている、私でも知ってる伝説の美女である。
しかし二人は、そういった“ビジネスの関係”とは関係ない場所で会っちゃうんである。あ、この“ビジネスの関係”ってのは、後に彼が彼女に言う台詞なんだけど、後から考えるとそれがいかにやせ我慢の、強がりの台詞だったかが判るのよね。
まあ、それは置いといて……だから、北は休暇で東京に行くために、さやは両親の法事を営みに下田へ向かうために、同じ列車に乗っているわけ。彼の東京行きの理由が、「美人コンテスト見物」ってのも、脱力だが……。んでもって、ここに坂々安古という小説家がからんでくる。

坂々安古って!もう見ただけでフザけた名前。坂口安吾をパロっているのは明らかだけど、アンゴ、と間違って読む相手に、「違います。私は古代のコでアンコ。よく間違えられてメイワクしてるんです」とのたまう。アホかー!メイワクしてるのは天国の文豪の方であろう……。
流行作家であるらしいこのアンコ先生の持論は、「女スリに美人などいるわけがない。それはあまりにロマンチックな幻想にすぎない」というわけよ。食堂車でたまたま隣り合わせていた北はこの台詞に聞き捨てならず、「いえ、女スリにも美人はいます。大阪に来ていただければ判ります!」と息巻く。勿論それは、さやのことを言っているわけであり、まさかこの列車に彼女が乗っているなんて夢にも思ってないのは、この台詞からも判るわけ。

一方の、さやである。彼女はいきなりその美脚をあらわす。タイトルである「足にさわった女」っつーのは、まさにこれなわけ。
今の目から言えば、決して露出が高いというわけではない。彼女の着ているフレアーのワンピースはすねの半分まできているんだし。しかしそのスリットから現われる膝からのスラリとした美脚は、裾が長いだけに、最初から露出があらわなよりは、よっぽどドキッとさせられるんである。
彼女はその足を思わせぶりに向かいの紳士に触れ合わせたりしてメロメロにさせ、彼のサイフの中身を頂こうとしたんだけど、カンがニブって、名刺入れの方を頂いちまった。

なんかそんな風に、このスゴ腕なハズの女スリ、塩沢さやは、案外憎めないんだよね。勿論、絶世の美女には違いない。腕も相当立つに違いない。なんたってこの敏腕(多分)刑事が血眼で追っているぐらいだもの。
だけど、劇中ではなんかことごとくヘマばかりやらかすのよ。親切心のつもりで助けたおばあさんから、なけなしの大金をすられちゃったりなんていう、お株を奪われるにしてもあまりにヒドイめにも合う。
それもこれも、彼女が今“ビジネス”のためではなく、一世一代の“復讐”をしにいく旅だっていうから、なんだか調子が狂っているのかもしれない。

さやは、不幸な生い立ちだった。父親は戦時中、地元の仲間たちからスパイの疑いをかけられ、追いつめられて自殺した。彼女はそのウラミを忘れていなかった。こんな境遇に身を落とし、手を汚して稼いだ金でも、イナカの人間がビックリするような大法要を営んで、見返してやるんだ。それだけが、彼女のよりどころだった。
その話を聞いた北が言うように、そんなこと、現代社会の都会では、通用しない、古くさい、くだらないことなんだろう。
実際、彼女がそれこそが復讐だと思うことを、本当の現代に生きるウチらはさすがに理解しがたいんだけど、でも彼女が再三、「イナカでは通用するのよ」と言うのも、ちょっと判るような気がしないでもない。確かに、田舎の意地って、つまりは価値観って、違うもんなあ。

そんな彼女を追っかける形で、北と、そして彼女にひと目惚れしてしまったアンコ先生が下田へと向かう。もう北は最初の目的などスッカリ忘れ、彼女を追いかけることに没頭する。
だけど彼の言い分では、今は休暇中だから、刑事の仕事として関わる気はない、っていうんだよね。その割には警察官の職権乱用しまくって、鉄道はフリーパス、宿は警察署、交番でタダ、とやりたい放題なのにさあ。
ま、つまり彼は、「女スリに美人はいない」というアンコ先生にそれは違うと証明したい、という理由なわけで、それをさや自身にも言っちゃう。
それって、それってさあ!なんか思いっきり、あからさまに、告白じゃん!しかしそれを彼は自覚しているのかいないのか……テレてる様子もさほどなく、しかし彼女の方は、とにかく下田で大法要!が目的なわけだから、ホントは彼のこと、気になる存在ではあるんだけど、今のところは、それどころじゃないわけだ。

だって、あの婆さんスリにスッカリ騙されて法要のために溜め込んだ大金、全部スられちゃったし!
しかし、さやを中継地点の熱海まで追いかけてきた北は、そんなこと、信じない。実は北もサイフをスられてて、彼はそれがさやのしわざだと思い込んで追いかけてきたんだけど、彼もまたそのバアサンにスられていたわけだ。それを最後の最後、東京の警察で捕まったこのバアサンと再会することで知れるあたりも粋やね。

あ、そうそう、中継地点の熱海ね。ボロい旅館で同行してきた弟分(これがまたマヌケなヤツで、素晴らしいコメディリリーフ)とともに、姉貴分と久々に合流する。ここでさやはあのバアサンに全財産をスられたことに気づくわけである。
手先が不器用だからスリが出来ず、万引きしては捕まり、泣きの演技力でカバーして食い扶持を稼いでる姉貴分、沢村貞子の諦念のカッコよさも捨てがたいものがあるんだよなあ。
最終的にね、さやは北と思いを共有したわけだし、北が警察官であり、犯罪者と結婚は出来ない立場に苦悩していることに答えは出されないにしても、何らかの形で恐らく二人は幸せになるであろうことが、暗示されるじゃない?
それに対して、この姉貴分は非常に対照的で、だけどネガティブじゃなくて、凄くたくましくてステキなんだよね。このふてぶてしい演技力で、ウソ八百並べて生き延びて生きていくのかと思うと、溜飲が下がる思いがしちゃう。

さやは、彼女にホレこんだアンコ先生から、色仕掛けで法要のための5万円を引き出すなんて芸当を見せる。つっても、ナニをしたわけじゃないし、風呂場で片肌脱いだぐらいのもんなのよ。ストイックに、布団も別の部屋に移動したし。
この辺は時代なのかもしれないけど、でも男のプライドや意地の部分に実に上手く付け込んでて、現代だって、この程度で男はコロリと参っちゃうかも、と思わせるんだよなあ。などと勉強になる?いやあ……美女だからなせるワザだけどさ。
だってさあ、彼女、崖の上で今にも自殺せんってな演技を、しれっと見せるぐらいなんだもの。このシーンも実に、面白いよね。カネのありそうなカモを待ち受けて、同じ泣きの台詞を切々と語る彼女の鉄面皮に思わず吹き出しちゃう。女って、コワいよなー。

でも、そんな彼女も、ほだされたというか、予想外のことが、起こった。大法要を営んで鼻をあかしてやろうと思った田舎である下田。独身じゃカッコつかないからと、アンコ先生をニセの夫につけていた。実はコレに関しても、北が「ボクを身代わりの夫にすればいいじゃないか」とさやに迫るやりとりなぞあって、個人的にかなり萌え萌えなのだが、メンドくさいから省略。
その、憎っき親類たち、しかしもうすっかり年をとって、しかもさやが恨んでた昔の過ちを凄く悔いててるのよ。
さやはもうやる気満々で、坊さん10人も呼んで(!笑)広い広い広間を用意した中に、最初はその隅っこに一人しか来てないかと思いきや、そのヨボヨボの弱々しい状態で、本当にすまなかった、こんなリッパな法要に呼んでもらえても、顔を見せることなんて出来ない、と、縁側の下にジーサン、バーサンが、うごめくように、ひしめいてるわけ。なんて悪いことをしたんだ、ワシらは。それなのに、こんな法要に呼んでもらえて、と。
その中でも、後ろめたい気持ちがあまりにも強いためにとか、老いのために来れない人もいて、さやは、半ば呆然とするわけ。その哀れな老人たちに、あまったご馳走を分けてやって、しかしやりきれない思いで、親の墓に詣でる。今まで、自分が生きてきた意味はなんだったのかと。

そこに、彼女をずっと追っかけてきた北が現われる。それで良かったんだと、諭す。それでも意地を張るような強気を通すさやは、この機に乗じて彼にちょっと、甘えているんだろうな。
しかしせっかくいい雰囲気だったのに、そこにアンコ先生が現われちゃってさ。もういいっちゅーの。北は彼女のために黙ってたけど、いよいよ、彼女こそが美人の女スリであることを明かす。呆然とするアンコ先生。
このアンコ先生を演じる、山村聡が面白かったなー。なんかね、ちょっと、ナヨッとしてるのよ。言葉遣いもね。「……なのよ」みたいな言い方するんだよね。しかも他人から「口元が緩んでる」なんて言い方までされちゃって、ちょっとカワイソウかも。
しかしこの和服姿が、なんかソデの中に手を隠して歩いているような、ありんす風情(ような、であって、実際そうだったかは覚えてないけど(無責任)。そういう雰囲気だってことね)が、絶妙にコミカルなのよねー。

思い続けてきた目的も見失っちゃったし、人生をリセットして、清新に生きていくと決心したさやだけど、それには、今までの過去を清算しなくてはいけない。
しかし、スリは、現行犯でしか捕まえられない。どんなに彼女がスゴ腕のスリだと判ってても、しかも下田の事件も片付いてここは東京で(それにはまたひとくさりあったんだけどさ……省略)、自分はスリだと主張するだけの彼女をただ捕まえられるわけもない。
彼女を忘れられないアンコ先生もここまで追いかけてきて、東京の警視庁内でひと悶着あったものの、結局は軽くあしらわれて、放り出される。
どうしても北に捕まえてほしいさやは、彼に見せつける形で、路上に置かれていた商品をワザとらしく持っていってしまう。で、確保!かくして幸福な結末。
ラストは、彼女を連行する彼、その二人が、とてもそんな、“ビジネスの関係”とは思えない様子で、列車で寄り添う。彼女はもう、向かいのカモにちょっかいを出すためにその美脚を伸ばすなんてこともせずに引っ込める。その引っ込めた、ペディキュアをした足元も実に美しく、それがラストカットというのも、粋よね!

彼女への思いを伝えられず、しかもその思いが、結婚という最終ゴールに結びついてて、「警察官は犯罪者と結婚はできないんだ。僕は辞める気はないし……」などと勝手に苦悩している北が可愛くてね!
思いを告げてもいなければ、当然付き合ってもいないし、勿論プロポーズなんて先の先のはずなのに、ほんっとに、彼女に対して真剣だってのが判って、カワイイんだよなー。
実際、北はどういう決断を下すんだろう。彼女が塀の向こう側から出てくるまでには時間はあるけれども……。

はー、それにしても、池部良のステキなことときたら。
整髪料で固めていると思しき前髪が、スピーディーなアクションで乱れて落ち、それをほんのり気にする様が、イイのよねー。★★★★☆


アヒルと鴨のコインロッカー
2007年 125分 日本 カラー
監督:中村義洋 脚本:中村義洋 鈴木謙一
撮影:小松高志 音楽:菊池幸夫
出演:濱田岳 瑛太 関めぐみ 田村圭生 関暁夫 キムラ緑子 なぎら健壱 松田龍平 大塚寧々

2007/7/27/金 劇場(新宿ガーデンシネマ)
なんつーか、中盤までは死ぬほどタイクツで、この映画に足を運んだのをちょっと後悔した位。原作のことも知らなかったし、この不思議なタイトルの意味を殊更に考えたりもしてなかったんで、これが謎解きの話だとも思わず、本当にもう、何度も足を組み替えちゃあ、モゾモゾするほどタイクツだった。
しかし中盤以降、それまで河崎によって語られてきた物語が、実はコイツが河崎ですらなく、人物も総とっかえになっていき、似て非なる物語であったことがどんどんと解明されていくとガゼン面白くはなるんだけれども、でもそれが判った上で映画に臨んでいるわけでもないので、やはりそれは演出や構成の問題なんじゃないのなどと思ってしまう。

それともやはり、これは演者の問題でもあるかなあ……瑛太君は誰か上手い触媒がいないと、彼のピンだと正直画面が持たないのだ。ちょっと、ハラハラとしてしまう。
中盤まで彼の相手となるのが、「彼ら三人の物語に飛び入り参加した」と麗子さんに言われることになる椎名(濱田岳)なんだけど、彼はひたすら受け身で瑛太君の話を聞くばかりなので、つまり瑛太君の独演会状態になるわけ。
これはね、やはりベテランの講談師なり落語家でなければ上手い話も面白くならないのと同じで、ただただ聞かされているのって、ツラいのよ。結局彼の話に誰もかんでこないんだもの、中盤までは。

で、その話っていうのは……というか、椎名が大学進学のために仙台にやってくるところから始まる。そしてラストも、椎名が父親の胃がん発病のために呼び戻されるところで終わるので、本当に彼がひとつの尺度になっているんだけれど、確かに椎名は「飛び入り参加」しただけの男だったことは後に明らかになる。

椎名がボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさみながらダンボールをまとめていると、後ろから声をかけてきた男がいた。「ディラン?」スラリとスレンダーな黒づくめ、髪を無造作に立てた今風の男は隣に住む河崎と名乗り、「誰かが来るのを待っていたんだ。一緒に本屋を襲わないか」と突拍子もない誘いをかけてくる。
そして彼の語るブータン人、ドルジの話。それは「隣の隣に住んでいる」男だと言うので、河崎とは逆隣の、引っ越しの挨拶に行った時も寡黙に受け取るばかりだった男のことだと当然思ったのだが……。

中盤から面白くなるのは、前半でタイクツながらも裏づけされた様々なエピソードが、実はこうだった、ああだった、と上手い演者によって再確認されるからなんである。つまり前半は朗読で、後半は芝居、それぐらいの差異がある。
河崎だと名乗っていた瑛太君は河崎ではなく、彼こそがブータン人のドルジであったわけで、本物の河崎である松田龍平、そして河崎の元カノでドルジの愛する人であった琴美を演じる関めぐみの魅力によって、後半急激に作品が輝き出す。
この、本物の河崎に憧れて、彼を模倣している今のドルジが、模倣であるからこそ前半に力がないのか、あるいは瑛太君自身に力がないからなのか、という皮肉な疑問が頭をもたげずにはいられない。
女たらしでイイカゲンで、でも人を惹きつけずにはいられない河崎。前半は全く顔を出さず、後半から実は本物の河崎はこっち、という具合に出てくるのに、演じる松田龍平には作品全体を支配するぐらいの存在感があるのだ。

いわゆる演技力という点では、松田龍平だって基盤があるわけじゃないし、アヤしい部分はあると思うけど、その点では瑛太君の方が出来てるのかもしれないけど、やはり画力、スクリーンにおける引力が映画俳優に求められるものだから、この松田龍平にかなうわけはない。
なぜ、ドルジが河崎を演じているのか。本物の河崎はどうしたのか……。前半の語りで「愛する人を失ってから、ブータン人は心を閉ざした」というから、彼女を亡くしたことは推察されたものの、彼が椎名に「ペットショップの店長のレイコという女には近づくな。あいつは危険な女だ」と言われたその麗子さんが、「河崎には近づくな」以下同文、で逆に椎名に忠告し、更に「河崎は、この世にはいない。あなた自身が確かめなさい」と謎の言葉を残す。
麗子が物語の転換点の扇の要のような役割を果たし、危険な女と見えたのが実は、河崎や琴美やドルジを心から心配している優しき大人であることが後に明らかになるのだ。

で、なんで河崎がこの世にいないかっていうと……彼はエイズにかかって死んでしまったのである。うーん、なんかベタな設定だなと思いはしても、そして見限られた元カノから言われた、「熱いところを見せなさいよ。日本語が判らないなら、本屋から広辞苑を強盗するぐらいの」という言葉を最後の最後に実行しようとする、ちょっとズルいようなピュアさにしても、松田龍平の薄いナイフのような危うさでやられたら、刹那の魅力を放つのだ。
そんな河崎の最後の望みを、ドルジは実行しようとした。で、椎名を巻き込んだ。まあそこには、もうひとつの目的があったのだが……。
切なさでいえば、字が読めないから広辞苑と広辞林を間違えたり、本棚の教科書を盗まれたとウソをついたりする本物のドルジの方が切ないはずなのに、この女たらしのイイカゲン男に負けてしまうというのも、やはり弱い。

最初、ドルジにされたのは、寡黙な山形男である。椎名が引っ越しの挨拶に訪れた時も、はい、と菓子折りを受け取っただけで引っ込んでしまった。河崎のフリしていたドルジは、あのブータン人は自分のカラに閉じこもっているんだ、と言った。
それはつまり、自分のことに他ならなかったのに。後に、「隣の隣って言ったじゃん!」と椎名からつめよられるドルジは、「ウソはついていない」と言った。つまり、自分の部屋の隣の隣……一回行って戻ってきた自分の位置。
河崎に憧れ、愛する人を思って、今の彼は日本人としか思えない喋りと風貌を身につけた。仙台に降り立った当初の彼はいかにもダサイアジア人そのものだった。愛する琴美にそのダサさをさりげなく直されてから、彼女が死に、そして慕っていた河崎が死に、河崎のアヴァンギャルドなジャケットを受け継いだあたりで、大人しくおろしていた髪も河崎風にツンツンに立ち上げ、オシャレで今風な男に大変身した。

でも、その状態こそが、彼にとってはカラに閉じこもっていることに他ならなかったんじゃないの。
だって、琴美が愛したドルジはそんなキャラじゃなかったんだもん。彼女は河崎の姿をしたドルジを愛したわけじゃない。危険を顧みずに迫り来る車から犬を助けた、純粋なドルジを愛したんでしょ。
そう、それが二人の最初の出会いだったのだ。車の行き交う往来の向こう側に取り残された犬を、身を呈して助けたドルジに、琴美は「凄い!でも死んじゃったらどうするの。でも凄いよ」と声をかけた。「ブータン人は、死を恐れない。生まれ変わりを信じているから」そうドルジは言った。まさかこの時点では、彼を残して周囲の人間が次々と死んでしまうなんて思いもしなかった。

前半は、ひたすらブータン人を卑下する発言をする瑛太君にハラハラしてた。ヘンに詳しいがゆえに、そんな不用意な発言して大丈夫なの、と。映画という公的な作品になって、ブータン人から訴えられちゃうよ、なんて。
でも、実はそれを言っていた彼こそがブータン人だったとオチは、それでも、役者自身はやっぱり日本人なわけだから、少々のヤバさは感じつつも、そうか、そういうことだったのか、と霧が晴れる思いはする。

河崎を装ったドルジが本屋を襲ったもうひとつの目的、それは、琴美を死に追いやった男がのうのうと生きていたから。
当時連続ペット虐待事件が起こっていた。その現場に遭遇してしまったドルジと琴美。「あんたたちのこと、警察に言ってやるから!」ペットショップに勤め、動物を愛する琴美は彼らを許せず、そう叫んだ。……しかしその場に定期券を落としてしまい、犯人たちにつけまわされるようになる。
ある日、イヤな予感がしたドルジが、河崎に彼女を助けに行くように頼んだ。ドルジの予感はあたり、あわや琴美は連れ去られる寸前で河崎に助けられた。本来なら嫉妬の対象である元カレの河崎を、ドルジは本当に慕っていて、琴美はなんだかフクザツな顔してたけど……なんかこの河崎という男はそんな風に、どこか憎めない男なのだ。

それに、ひょっとしたら河崎は自分のエイズのことを知って、琴美と別れたのかも……とも思う。琴美は、「私とはセックスする前に別れたから……」と言う。今時そんな関係って、つき合ってたことになるのかなあなどとついついヤボなことも思ってしまうが、琴美のことを思って、ワザと女たらしなフリして距離をおいたのかなあ……。
まあそれは、また別の話なのだが……で、イヤガラセの電話から犯人たちがボウリング場にいることを突き止めた琴美とドルジ、警察を呼んで彼らを追いつめたのだけれど……逃走を図った彼らの車の前に立ちはだかった琴美をこともあろうにコイツらはそのまま撥ね、そして別の車に突っ込まれて三人のうち二人も死んだ。
そして残る一人が、この大型本屋の店長をしていたのだ。ソイツを、ドルジは決して許せなかった。広辞苑を盗むなんて口実だった。ソイツを拉致し、人気のいない草原の奥の大木に縛りつけて放置した。空にはギャアギャアと不気味な声を発する大きな鳥たちが飛び交っている。

少し、話を戻す。確かに、琴美は元カレの河崎を忘れきれない思いはあったんだろうと思う。ことさらに、河崎のことをヒドく言うところにそれは現われてる。ドルジと付き合い出したのだって、河崎と正反対のキャラだからっていう理由はあったにちがいない。
それをドルジは敏感に察したからこそ、河崎に憧れた……その感情は嫉妬のはずなのに、ドルジは純粋なイイ奴だから、そして彼女にホレていたから、それが憧れという感情だと変換してしまったのだ。
なんかね、それが、最後まで、琴美にとっては可哀想だった気がして仕方がないのだ。だって彼女は清新な思想を持っているドルジが本当に大好きだったんだし、なのにドルジはそんな彼女の愛情をきちんと感じることのないまま彼女を失ったんだもの。

アヒルと鴨の違いを、ドルジは知りたがった。それを彼女は、外国から来たのがアヒルで、鴨は元々日本にいたものじゃないか、と言った。「判んないけど」と付け加えて。
まるでボクと琴美みたいだね、とドルジは笑った。
でもそれって、まるで、お互い、一緒にはなれない、似て非なる、大きな隔たりがあるって、言っているようなものだと、後になってみればそう思う。
外見上は日本人とソックリなブータン人。河崎だと思っていた彼がブータン人のドルジだと知った椎名も、「日本人にしか見えない」と言った。でもドルジは、「外国人だと判ってたら、友達にならなかっただろ」と椎名に言う。そんなことはないよ、と言う椎名に、いや、絶対にそうだと断言するドルジ。ただ絶句するしかない椎名。

確かに、そうかもしれないのだ。だって最初ドルジだと思っていた山形男に、ブータン人だと思っていたからこそ、距離をとって接していた。そしてちょっとヘンなヤツだと思っていたニセ河崎のドルジには、どんどん押し切られる形で、心を閉ざしたブータン人のためにと、広辞苑を強盗する片棒を担がされたりしたのだ。
ドルジがとってきたのは、広辞林だった。「これ、広辞苑じゃない、広辞林だよ。ま……似たようなもんだけど」椎名の言葉に、そうか、とだけつぶやくドルジ。
確かに、似たようなもんだ。でも、似たようなもんでも、同じじゃない。そして広辞苑の方が圧倒的に知名度が高く、つまりは広辞林は二番煎じで、例え話に広辞苑が出てきても広辞林が出てくることはありえない。

つまり、ニセモノなのだ。いや、広辞林がニセモノってわけじゃなくて、広辞苑とはタイプの違う素晴らしい辞書だけど(汗汗)、ここでの意味合いとしてね。この時、盗んできたのが広辞苑じゃない、「似たようなもの」だと言われて、河崎のフリしていたドルジがどれほどのショックを受けたか、それは彼の正体を知った時にしか、思いをはせることが出来ない。それも哀しい。
しかし、ドルジがいつから、誰にも疑惑を持たれないほどの流暢な日本語を話し出したのか気になっちゃう。回想部分ではずーっと訛りがあるのに。

ペット虐待犯に対して琴美は怒り心頭で、あんな奴ら、鳥葬にしてやればいいんだ、と息巻いていた。
ドルジは、それは死んだ人間の葬儀の仕方で、生きている人間への復讐ではないと彼女をたしなめるように訂正したのだけれど、まさかそれを彼自身がやることになるとは。
彼女の復讐のためにやったことなのだけれど、そのことによってドルジは自分の文化を汚してしまったし、そして、優しいドルジが好きだった彼女の思いも踏みにじってしまったんだよね。

椎名が口ずさみ、河崎が好きだったことで琴美も聴いていたボブ・ディラン。河崎はディランを神様の声だと言った。
琴美を助けるために相手に暴力を振るってしまって落ち込むドルジに、琴美が「神様には見てないことにしてもらおうよ」とディランのCDを扉の中に隠した。それがラストにも踏襲される。あわや殺人を犯してしまいそうだったドルジに、麗子は自首を勧めた。そして椎名は東京へと呼び戻された、その別れの仙台駅、ディランが繰り返しかかっているCDラジカセをコインロッカーに閉じ込めた。「神様の目をそらさせた」と。
それってさ、どーゆー意味なの。まさかドルジに自首する必要ないと言ってるわけじゃないでしょ……そりゃないよなあ。
印象的なラストだけど、その意味を考えると、いいんだろうかという気になる。そう、ここでタイトルの意味が判り、そしてオープニングには示されなかったタイトルがバンと出てエンドクレジットへとなだれこむのだが、全ての謎は解けたのに、なんだかスッキリしない。

「三人の思い出に飛び入り参加」その意味が、前半では判らなかった。でも後半では、まさにそうだと判る。椎名は完全に部外者だったのだ。
しかし、この椎名の学校生活がね。「もう牛タン食べたか?」ばかりが挨拶の、大学生活の描写のテキトーさ。走り屋と自称しているのに実は免許も持っていない友達や、調子のいい関西弁の友達や……面白くなりそうなのに、なんか寸止めって感じ。友達づきあいの描写がサラリすぎて、意味ない気がする。
原作者の伊坂幸太郎氏はやけに絶賛なのだが。うーん、原作者が気に入っているんなら、いいのかなあ……。

でも、その伊坂氏が監督とのインタビューで、「じゃないですか」をニ連続した時点で、私は降りた。
じゃないですか、は世界で一番嫌いな言葉。知るか!って言いたくなる。それをニ連続する人を、信頼する気にはなれない。
しかも、三連続してたし。
大体、褒め合いほど、気持ち悪いものはないよな……。★★★☆☆


あるスキャンダルの覚え書き/NOTES ON A SCANDAL
2006年 92分 アメリカ カラー
監督:リチャード・エアー 脚本:パトリック・マーバー
撮影:クリス・メンゲス 音楽:フィリップ・グラス
出演:ジュディ・デンチ/ケイト・ブランシェット/ビル・ナイ/アンドリュー・シンプソン

2007/6/8/金 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
ジュディ・デンチとケイト・ブランシェット。この二人の女優の顔合わせは、そりゃあもう、心躍らずにはいられない。どんな凄い化学変化が待ち構えているのか、どんなガチの火花を散らしてくれるのか。期待を裏切らなかったし、想像以上だった。いったいこの二人が現場で、どんな雰囲気でこの演技を作り上げていったのか、すっごく、興味ある。
恐らく、この年代の女優同士で最も理想的なキャスティング。演技というものを純粋に考えた時に、すっとこの二人のことが頭に浮かぶような。スターではあるけれど、まず演技へ没頭する力が先に立つ女優、二人とも。

ジュディ・デンチ扮するバーバラが教師として勤める学校に、ケイト・ブランシェット扮するシーバが新任教師として赴任してくるところから始まる。
バーバラはいかにも叩き上げの老教師といった雰囲気で、厳しく、固く、とっつきにくい雰囲気。それは教師たちの課題であるレポート提出で、皆が何枚ものレポートを校長に提出しているのに彼女はたった一枚、「全国平均より劣るが、大して問題はない。改善の必要はないと考える」とだけ、それも「ひと夏かけて書きました」としれっと言うんである。なんたって彼女はベテラン教師だから校長もあまり強く言うわけにもいかず、皆からも疎まれている雰囲気。それもバーバラはまるで気にしていないようなのだ。

全編、バーバラによるモノローグで進行していくんだけれど、それは劇中、彼女の書く日記に基づいている。んでもって、バーバラはこの学校を、「いずれは配管工ぐらいにしかなれない、労働階級の子供たちばかりが通う学校」と斬って捨てている。つまり、教育に熱を上げても大して意味はないと思ってるんである。見た目は道徳的で厳しい教師、しかしその中身はサイアクの教師、ってところ。
そんな彼女の前に現われたシーバは、後にその見た目で生徒をたぶらかし、肉欲に及んだ、とされてしまうことになる。そもそもシーバ自身、教師としての熱い理想があるわけではない。ただ自分の人生が、こんな平凡な結婚生活によって終わっていいのか、という不満を抱え、何かが出来るんじゃないか、変われるんじゃないかと思って教師になったに過ぎないのだ。そんな自分を彼女は「最悪の教師」だと評している。……一体どっちが、最悪の教師だったのだろうか……。

そしてバーバラには、その外見からは計り知れない秘密があった。美しいシーバにバーバラが執着していくほどに、その秘密が明らかになっていく。友情という名の束縛が、二人の関係をがんじがらめにしていく。
しかもシーバは15歳の教え子、スディーヴン・コナリーと関係を持った。そのことがバーバラの嫉妬心と、シーバへの執着心に拍車をかけていく。

ところで、バーバラは本当にレズビアンだったんだろうか?
いや、そうは言っていないか……でも見た目、そういう捉え方に見える。クリスマス、バーバラの姉妹、親戚などが集まった席で、「ジェニファーは今ストークで教師をしている。恋人が出来て、婚約した」という報告を淡々とするバーバラに対し、彼らがどこか同情の目で彼女を見つめること、そして妹がバーバラの部屋を一人でそっと訪ね、「今は特別な人、誰かいるの?」と心配そうに聞いたこと……だからそう思ったんだけど。
でもそれは、バーバラがまた、過剰に誰かに執着してトラブルを起こすことを心配して、牽制していたってことなのかなあ。

ちなみにジェニファーというのは、後に明らかになるんだけど、以前この学校に勤務していた教師。バーバラは彼女に執着し、つきまとい、ついにはジェニファーをノイローゼにまで追い込み、接近禁止命令まで出された。
恐らくそれを、学校側は世間に体裁が悪いということで、あまり表沙汰にはしなかったんだろう。それが観客に明らかになるまでは、バーバラは単に、ベテランで厳しい教師だから、皆に敬意を持って遇されていると見えていたんだけど、それもバーバラのモノローグに騙されていたわけで、同僚はそういう事情を知っているから、やっぱり彼女を避けていたんだよな。

ただそのジェニファーとの関係がどの程度のことだったのか……友情としての執着が凄くて、つまりはストーカー的な友情以上愛情未満って感じで、性的関係を持った訳じゃ多分、ないんだろうと思うけれど。
ただ、それも、そうした関係を迫られかねない恐ろしさを、ジェニファーが感じたってことだと思うのね、多分。バーバラはレズビアンじゃない……と思うんだよなあ。
だって、バーバラのモノローグでこんなことをつぶやいているんだもの。「この人生、一度もこの肌に触られたことがない」とか、「バスの車掌の手に偶然触れただけで下腹部が熱くなる」とか、バスの車掌が女性とは考えにくいしなあ……。

ううっ、しかもこのシーン、ジュディ・デンチが乳白色の湯が満たされたバスタブにつかりながらのモノローグなのよ!!!
恋愛や性的喜びに恵まれなかった人生が、どこかでひねくれて、そういう喜びを知っている女性にねじれた愛情となって向かったように思う。
その腹の底では、いつでもその愛情が憎しみにくるりと変わる用意が出来ている、みたいな。
自分にはない喜びを知っている相手だからこそ、自分だけが救いになる存在になりたいんだ。つまりは、征服欲と、その相手を見下したい思い。
でも、愛している。
凄く凄く、ねじれているんだ。

だってバーバラが、若い頃からそういう強い“友情”を求めていたって感じではなさそうなんだもん。
若い頃のことはあまり語られない。せいぜい、悲しいことがあった時にさすりあって慰める、なんて女学生時代のことを話すぐらい。
しかもそれは、心の弱ったシーバを落とすための、手練手管だったわけだし……まあ逆に警戒されたけど。
でもそういう、ティーンの頃の友情の独占欲って、友情以上愛情未満、男の子といるより仲のいい女の子とずっと一緒にいたいとか、ベタベタしたいとかいう、ちょいレズ気分って、あるよね。あるいはカッコイイ女の先輩に憧れたりっていうタカラヅカ的気分も、その範疇に入ると思うし。

人生のどこかで恋愛の経験を持たないと、孤独が余計に加算されて、そのティーンの気持ちを意固地になって持ち続けて、それこそが尊いものであると、バーバラは思いたかったのかも……。
確かに、結婚はバクチだ。100%成功する結婚なんて、きっと存在しない。バーバラは潔癖な教師、いわば完全主義者で、結婚した女が少しでもグチをこぼすのが許せなかったのかもしれない。自分には出来ないことをしたくせに、と。
あるいは、それをなんとかねじれた形でも、優越感に持っていくために、殊更に結婚なんて無意味なものだと、言いたかったのかもしれない。
自分の手に落ちそうな女であればあるほど。

そしてシーバはそれを越えて、ひどく魅力的な女だった。浮き世離れしてて、澄んだ声をしている。教師になりたくてなったわけじゃない。今の人生に不満があるから、こんな筈じゃないと思っているから。つまりは、自分を能力以上に評価しているうぬぼれ女なのだ。バーバラにとって、とてもとても、理想的な女。
大体、美術教師だなんて時点で、浮き世離れしている。校長は、荒れた生徒の心を静めるために美術の授業を、なんてもっともらしいことを言うけれど、こんな美しい教師が成績には関係ない美術教師として現われたら、生徒の心にさざなみが立つに決まってる。

バーバラはシーバが赴任してきた時から、目で追っていた。ブロンドですらりとした彼女は同僚にも生徒にも注目され、いずれ生徒とトラブルをおこすのは時間の問題だと、バーバラは踏んでいたのかもしれない。その時に助け出して、彼女に近づく、そう算段をつけていたのかもしれない。
実際、その通りになった。授業中、シーバに「誰とでもヤラせてくれる女だ。ケツに突っ込みてえ」と下卑た言葉を浴びせた男子生徒に逆上した他の生徒が殴りかかり、収拾のつかない乱闘騒ぎになったところを、バーバラがベテラン教師の威厳で収め、シーバはバーバラに深く感謝し、友情関係がスタートするんである。
そう、上手くいっていると、バーバラは思っていた。まさかその時点で既に、シーバがこの逆上した生徒、スティーヴンと恋に落ちているなんて、計算外だった。

スティーブンは、少年らしい正義と潔癖で同級生の言葉に怒ったのかと思っていた。でも違ったのだ。自分こそがシーバとセックスしているから、その独占欲にすぎなかったのだ。
そしてシーバは、それをまるで、初めて恋した少女のように嬉しく思っている。
シーバが自分の手に落ちそうな女、だなんていうことこそが、バーバラの眼鏡違いだったのだ。
なにせこっちはバーバラのモノローグにひたすら押されるものだから、なんだかそんな気になってしまうけれど、思えばバーバラの思惑通りになんて、ちっともいっていないんだもの。

でもバーバラは、このスティーヴンが気にはなっていた。同級生たちとサッカーに興じていた彼が、シュートが決まったテンションで、シャツを脱いで上半身裸になった。そこにはシーバもいて、バーバラは眉をひそめ、彼にシャツを着るように促がした。
まさかその時点で二人がそんな仲になっているなんて、スティーヴンがシーバのためにシュートを決め、見せつけるためにシャツを脱いだなんて思いも寄らなかった。けれど……彼の意味ありげなうるんだ瞳となまっちろい裸体は、確かにざわざわと胸を騒がせるものがあったのだ。
カメラがせわしなく行き交うこのシーンは、そんな胸騒ぎをひどくかきたてるんである。
そりゃ、こんなキレイな女教師になら、15歳の男の子なんて、ヤリたいさかりなんだから……ねえ。

しかし、シーバに暴言を吐いた生徒はいかにも不良っぽいイケイケな男子なのに、その台詞に怒って彼に殴りかかって……もうこの時点でシーバと関係を持っていたスティーヴンは、白い頬を赤らめて憤るような、純で初々しい少年にしか見えなかったのに。
でも、それもまた、皮肉なのかもしれない。このいわゆる問題児学校で、ハキダメのツルのように見える白人少年の彼だけれど、結局は見た目だけで、その見た目を最大限に利用して美術室に通い詰め、シーバを落としたのだから。
確かに彼には絵の才能があったけれど、描きたいという気持ちがどれほどあったのか。それを、純粋な学びたい気持ちだなどと思ったシーバが愚かだったとしか思えず、それは彼の、ちょっと上流に見える外見が後押ししたのは否めない。
もし彼が、シーバに“素直な暴言”を浴びせた有色人種だったら、そんな関係になっただろうか。この少年は暴言は言わなかったけれど、それを直接実行した、じゃあどちらが純粋だというのか。

確かにスティーヴンは美しい女教師、シーバが好きだったんだろう。その気持ちにウソはなかったんだろう。
でも二人の関係がズルズルと進んでいって、問題が発覚しそうになった時、スティーヴンはアッサリと言う。「先生が何で悩んでいるのか判らないけど、僕には救えない」
そりゃそうだ。言うまでもない。15の子供に40の女の苦しみが救えるものか。それを大多数の少年たちは判っているから、女教師に欲情しても手を出さないのであり、その禁を破ってしまったスティーヴンはつまり、ただのガキなのだ。
シーバはスティーヴンのことを大人だと言って、彼を、そして彼に溺れた自分をかばったけれど、何のことはない、それは自分とセックス出来るからってだけの話じゃないの。そりゃ、“セックスできるだけの大人の身体”ではある。でもそんなの、15にもなりゃ誰だって獲得できる。でも真の大人には、全ての人間がなれるわけじゃない。

二人の関係が、ついにバーバラに知られるところとなる。誰もいない教室でセックスしているところを、バーバラは見てしまった。シーバはバーバラを自宅のランチに招待したり、新任教師としての不安や結婚生活の悩みを赤裸々に打ち明けたりしていたから、バーバラは彼女が自分に100%心を開いていると思っていた。だから相当ショックだっただろうけれど……それを彼女は切り札にした。
学校には報告しない。そんなことをしても誰も得しない。彼とは別れなさい。何もいいことなんてない。そう諭すバーバラにシーバが感謝し、友情は一層深まった、と少なくともバーバラは思っていた。
でもシーバはスティーヴンと別れることが出来ず、そしてシーバに対してバーバラが思うほどの友情をどこまで持っていたのか……。

バーバラは猫を飼っていた。ポーシャという、もう老い先短い猫。「猫はオールドミスの必需品よ」と自嘲するバーバラ。そしてそのポーシャが余命数週間だと告げられた時、バーバラはシーバを訪ね、泣きながら慰めてもらう。
なんかもう、このシーンのあたりで、シーバがバーバラをもてあましているように、見えてくる。
「私も飼っていた犬が死んだ時は、二週間泣いたわ」とシーバは言うけれども、涙に濡れたバーバラに見つめられ、会話が途切れると、じゃあ……とバーバラを戸口に促がす。
というのも、さっきから何度も何度も携帯電話が鳴っているからなんである。
バーバラは察知し、隙を見てシーバの携帯に出て、彼女がスティーヴンと切れていなかったことを知るんである。

恩を仇で返された、私を裏切った、とバーバラは激昂する。頭を抱えるシーバ。
そしてポーシャが死に、バーバラは泣きながらシーバを訪ねるけれど、その時、家族皆で息子の学芸会に出かける直前だった。
そんなシーバにバーバラは、自分のそばにいろと言うんである。しかも「(ネコを亡くして苦しんでいる)私より、ピート(の学芸会)を選ぶの?」とまで言って。正気の沙汰じゃない。
そんなバーバラに苛立ち、妻を解放しろと叫ぶ夫。娘も明らかに迷惑顔をしている。
バーバラを疎ましがっている夫と娘。それはいつからだったのか……。

妻を、そして母親をがんじがらめにしていると、客観的な立場だからこそ見えていた。この時、シーバはバーバラに恩を感じていたこともあって、かすかにおかしいと感じてはいたと思うけど、そこまで突き放せなかった。
後で電話するから、と車に乗り込むシーバに、バーバラは泣きながらも鋭い視線を浴びせ、「私と一緒にいなきゃ、後悔するわよ」と吐き捨てる。勿論、スティーヴンのネタを握っているっていう意味だ。なんということだ……。
脅して強要する友情なんて、虚しすぎる……。それは恋愛関係には折々見られるけれど、恋愛は駆け引きが前提だから、お互い様みたいな部分がある。
でも、友情は違うもの。恋愛と違う部分っていったら、駆け引きがないのが友情、と言えるかもしれない。それは友情において許されない。
でもバーバラはそれを隠そうともしなかった。つまりバーバラは口ではシーバと友情を語ってるけど、やはりその感情は恋愛だった、ってことだよなあ……。

そしてついにバーバラは、シーバとスティーヴンの秘密をバラしてしまう。しかも、シーバにホレている同僚教師の相談に乗る形で、「運動場でのウワサ」として。つまり、自分が発信元だと巧に隠して。
でもそんなこと、いずれバレるのは必至なのに……。
スティーヴンの両親がシーバの家に乗り込み、母親が彼女を殴り倒して、ついに家族に秘密が知れるところとなった。その場面にもバーバラはいた。息子の発表会を優先したシーバを許せなかったバーバラだけど、そんなことは押し隠して二人の関係は修復したように見えていた。そして家族から軽蔑され、見放されるシーバを支えることで彼女を手に入れようとしたのだけれど……。
この時、シーバの娘がバーバラに投げつける「疫病神!」という言葉が、まさか彼女はバーバラが噂の発信元だなんて知らないんだけど、でもやはりバーバラが現われた時から家族崩壊が始まっていたことを、娘らしい直感で感じていたに違いない。そして、バーバラが自分たち子供に興味などないことも。

いかにしてシーバを落とすか。その一点にしぼられて、バーバラの“計画”は着々と進行しているように見えたけれども、実際は逆に、バーバラがシーバに落とされただけなのかもしれない。
確かにシーバは“セックス教師”として10ヶ月の実刑を受け、マスコミの好奇の視線にさらされ、家庭も崩壊しかけた。しかし、崩壊はしなかった。家族の元に戻っていくシーバを受け入れる夫、というラストは、表面上つくろっていた家族を、この厳しすぎる障害を乗り越えることで、もう壊れようのない絆になったことを示しているように思うのだ。

シーバの家族はバーバラの目から見ると、失望の形でしかなかった。シーバのような美しい女なら、ハンサムで優秀な男が夫だと思ったのに、自分と変わらない年とった男が顔を出したし、娘はナマイキで、息子は“道化師”。
この12歳の息子、ピートの存在がキーになっていて、彼はダウン症なんだけれど、バーバラは最初から、彼を冷ややかな視線で見ているのだ。道徳的でお堅い教師で通っている彼女が。
しかし、当然といえば当然。だって彼女は自分が勤めている学校の生徒でさえ、末は配管工かそこらの、下層レベルの家庭の子供たち、と見ていて、点数が全国レベルより低くても仕方ないから、改善の必要もないし、問題をおこす生徒は適宜罰すればいい、この中から宝石なんぞ出るわけがない、と思っているのだもの。

“宝石”という希望をシーバに教えたのは、これまたバーバラが軽蔑している“デブ”の女教師である。それが教師のささやかな希望であると。バーバラはそんなもの、最初からないと思ってる。ハナから生徒たちを軽蔑してる。だからシーバがスティーヴンと恋に落ちた時、彼女がただ若い男との、性の欲望に溺れたとしか思わなかったのだ。
確かにそれもなかったわけではない、よね、生々しいけど。シーバの夫はずっとそれを懸念していた。彼もまた教え子である彼女に手を出したクチ。だからこそ、若さに魅力を感じることを、彼が判っているというのが皮肉でもある。彼は妻が自分よりグッと若いから、いつか自分のような老いぼれを見限る日が来る、と恐れていたわけだけど、でも彼女が恋に落ちた少年はまたグッと若くて、バーバラが言うように、このまま関係を続けても、いつか捨てられる。あなたは若くはないのだから、というのが確かに真実には違いないのだ。
そしてそれを進言したバーバラ自身が、ここに出てくる誰よりも老いているのに、恐らく渇望は一番激しいっていうのが、ひどく生々しい。しかもそれは、心だけではなく、肉体の渇望も。
そうでなければ、この御大、ジュディ・デンチの入浴シーンなぞ用意しないだろう(衝撃!)

シーバとスティーヴンの問題が明らかになった時、彼女と仲の良かったバーバラがそれを知っていたかどうかが焦点になってくる。バーバラはそれを真っ向否定する。しかし彼女が同僚教師にもらしたのは明らかであり、そして学校側はこの機に乗じてバーバラの過去、ジェニファーとの確執を掘り返し、疎ましい彼女の退職を迫った。
バーバラは受け入れるしかなかった。でもそれも、シーバのために学校を辞めた、という恍惚感があったに決まってる。
シーバは夫から、しばらく考えたいから家を出てほしいと言われ、バーバラの元に身を寄せるしかなかった。「好きなだけいていいわ」とバーバラは落ち着いて言う。きっとその心の中はバラ色だったに違いないのに、それを押し隠して。

しかし、そこでシーバはバーバラのモノローグの元になっている、あの日記を見てしまうのだ。
マスコミたちも、バーバラの過去を知っているに違いない。それを知らないのは、当のバーバラだけに違いない。だからシーバをかばい同行するバーバラに、「ババアが出てきた」などと野卑な言葉を浴びせる。「彼女との関係は」という質問も、そうでなければ出るわけがない。
ここでようやく、バーバラのモノローグにすっかり誘導されていたこと、周りが見えなくなっていたのはバーバラではなく、私たち観客だったのだという事実に驚愕させられるのだ。

この日記を見つける前、若い頃やっていたと思しきパンク風のキツイメイクを施し、セクシーな衣装などつけて、部屋の中でぼうっとしているシーバ=ケイト・ブランシェットはやけに蠱惑的である。
そして、バーバラの秘密を知り、押し寄せるマスコミの中に出て行って咆哮して、でもやっぱり行くところがなくて舞い戻り、自分が荒らしまくった部屋を掃除しているバーバラを憮然として眺めているノーメイクの彼女は、そのギャップもあって、やけに美しい。
フィジカルを100パーセントメンタルに昇華する女優だよなあ……と感嘆するんである。

バーバラが美しいシーバに触れたい気持ちが横溢する視線のシーンは、男が女に肉欲の気持ちで向けるそれよりも、赤裸々で生々しいのはなぜだろう。
それは、欲望が満たされないまま年老いた女が、若く魅力的な女に向けられるものがより執念深いから、か。憎しみが加味されると、性欲じゃなくても性欲に似た、それ以上の生々しい視線になる気がする。
しかもシーバ=ケイト・ブランシェットは、通常触れたくなるような若く弾んだ少女の肌ではなく、女としての喜びを全て知り尽くした熟した身体なのだ。
巨乳ってほどじゃないけれど、ほどよく熟した胸の谷間のプロフェッショナルぶりが、作られた若い女のエロよりよほどそそられるのは、そりゃ当然ってものである。

しかもケイト・ブランシェットはメンタル100パーセント、いや1000パーセントな女優だからなあ!訴えるようにすがりつく大きな瞳、常に何かを言いたそうなふっくらと大きめの唇、それでいてスレンダーで美しいブロンド、透けるような白い肌、その肉体そのものが、いつも何かを訴えているような、感情の水分でひたひたになっている女優なのだもの。
そんな彼女が、ギッチリと大女優の経歴を固めてきたジュディ・デンチとガチ!もう、贅沢すぎる。「私とヤリたいわけ?」なんてジュディ・デンチに言える恩恵を与えられる女優なんて、いないわさ!

ラスト、マスコミをにぎわせた「セックス教師」の実刑が確定した新聞を読んでいる女性に、バーバラが声をかける。私はこの女を知っていた。同僚教師だったのだと。冷淡で物事に無関心な女だった、と。
街が一望に見渡せるそこは、バーバラとシーバが友情を確かめ合った思い出の場所。
「隣、いいかしら」とバーバラはこの女性の座っていたベンチの横に座り、「私、バーバラよ」と手を差し出す。そう言われたら彼女の方も自己紹介せざるを得ない。カプチーノの泡を鼻にくっつけている彼女に、笑って教えてあげるバーバラ。ああ、これも、シーバとの場面にあった……。バーバラは「音楽は好き?アルバートホールのチケットがあるんだけれど、お友達と行って」とコナをかける。
「友達はいないの」と彼女。「あら、私がいるわ」ワナにかかっちゃったよ……。こ、懲りない……。

こんな衝撃的なチャレンジングな役を堂々と演じるジュディ・デンチのカッコよさときたら、ないんである。 それは、自らをカミングアウトした、「ゴッド アンド モンスター」のイアン・マッケランの凄さにも匹敵するんである。★★★★☆


アルゼンチンババア
2006年 112分 日本 カラー
監督:長尾直樹 脚本:長尾直樹
撮影:松島孝助 音楽:周防義和
出演:役所広司 鈴木京香 堀北真希 森下愛子 手塚理美 岸部一徳 きたろう 田中直樹 小林裕吉 菅原大吉 渡辺憲吉 桜井裕美 有坂来瞳 唯野未歩子 石垣光代 真下有紀

2007/4/2/月 劇場(東銀座 東劇)
ちょっと、個人的につらいことがあって、部屋で一人で泣いたら沈みそうだったので、なんか関係ないキッカケでうわーって泣きたいなあ、って思って……劇場に入っちゃった。そんな気持ちで映画を観たらダメだと思ったんだけど、なんか自分で自分を支えられない気分だった。
観ながら、何度も涙が込み上げてくるんだけど、それはこの映画にシンクロしているんじゃなくて、自分の気持ちの中だけのように思って、泣いたらダメなような気がして、最初の気持ちとはウラハラにじっとしてた。
だけど、だんだんそんなこともどうでもよくなっていって、そして自分の気持ちもどっかにすっとんじゃって、なんだか判んないけど、暖かくて、ありがたくて、壊れた水道の蛇口みたいに、ただただ泣いてた。
不思議なんだけど、そんな映画ってあるんだなと思った。それに応えてくれる映画っていうか。他の映画じゃ、ダメだったような気がした。
最後には、このアルゼンチンババアのことしか考えてなくて、この映画に、最初からもたれかかっている気がした。そして、心も身体もすっかり軽くなった気がして、劇場を後にした。

やっぱりそれは、長尾監督作品だったからなのかなあ。今までそういう気持ちで観てた訳じゃないけれど、長尾作品なら、そんな時に同じように支えてくれる気がした。
でも、最初はちょっと不安半分だった。ささやかな場所でささやかな、緑豊かな、風がそよぐ、心がちょっとちくっとくる映画を作ってきた長尾監督が、こんな旬の若手女優と世界的な役者を迎えた、全国規模の配給の作品で、どうくるのか、って。それでガラッと落ちてしまう人を見た覚えがあるから。
でも、杞憂だった。やっぱり緑が目に染みて、風がそよいでて、心がちょっとちくっときた。そして、感情の波が押し寄せて、グッとなった。
カメラを通しているとは思えない、それこそ、原作とコラボしている奈良美智の画になりそうな、照れ隠しのように不器用に見える優しい色彩と、そのまんま不器用で素直じゃない人たちが、泣けた。弱ってる心をぐしゃぐしゃに崩してしまった。

お母さんが死んだ日、今まで毎日欠かさずお見舞いに行っていたのに、その日だけ、お父さんは、行かなかった。
一人で病院に行った娘は、鼻血を流し、口からよだれをたらしているベッドの上の母親を目の前に、呆然と立ち尽くした。
思えばこの最初の描写で、お父さんがいかにお母さんとつながっていたか、お母さんが今日死んでしまうと、どこかで予感してしまったから、怖くて行けなかったことが示されていたのだ。全ては、ここにつながっていた。とっても大事な、最重要事項。お父さんはお母さんを世界一愛していた。
お父さん、姿を消してしまう。葬儀にも出ず、天職である石彫りの仕事も放り出して、実に半年間も、姿を消していた。
しかし、お父さん、ひょんなところで発見される。
それは、街で「アルゼンチンババア」と呼ばれている奇っ怪な老女のお屋敷。スペインから来た彼女は若い頃はスペイン語やタンゴを教えていたのだけれど、いつのころからか気がヘンになり、このお屋敷に一人引きこもっている、と言われている。
前半はともかく、後半はあくまで推測であったことが、後に明らかになる。
アルゼンチンババアことユリは、人生の光を示す、女神だったのだ。

当然、父親を奪還するためにこのお屋敷に乗り込んだみつこだったのだけれど、気勢を飲まれてしまう。
まず、その凄まじいニオイ。そして「みつこさんね!辛かったでしょう。会えたら、抱き締めようと思っていたの!」とユリにギュウと抱き締められるわ、父親はすっかり自由人の趣でマンダラの真理を語りだすわ、しかもユリにすっかり心酔の様子で帰る気なんてこれっぽっちもないみたいだし……みつこは、何も言い出せずに、その場を辞してしまうのだ。
恐らく、不覚ながら、居心地が良かったんだと思う。差し出されたマテ茶も、飲み干した。ウッカリ、まったりしそうで、慌てて逃げ出した、そんな感じだった。
でも勿論、父親がなんだか幸せそうに見えたのが、ショックだったのもあると思う。
だって、みつこは、母の死からずっと苦しんできたんだもの。誰にも言えない苦しみをずっと、抱えてた。

ここは“警官もうなぎ屋も酒屋も、皆幼なじみのような小さな田舎町”なんである。で、みつこの叔母(つまりお父さんの妹)は、殊更にその小さなコミュニティの中で恥をさらすことを気にしている。「兄さんが、よりによってあんな女と!」というわけである。
でも、その叔母もまた乗り込むものの、みつこと同じように気勢をそがれるんである。彼女の息子(つまりみつこのイトコ)も一緒に行くんだけど、自由人となってる伯父さんの姿に、「男の夢の果てっていうの?」と、なんだか共感さえしている雰囲気なんである。
実際、日に焼けて、伸び放題の天パと無精ひげ、ユリと同じようなラテン系のラフなファッションに身を包んだお父さんは、なんだかやけに色香を発してて、オーラがあるんである。
いくらでも文句を浴びせる用意があるハズだったみつこがひるんだのも、判るんだよなあ。

みつこは高校生で、多感な時期で、しかも一人っ子で、だからこの異常事態に色んなことを受け止めていくんだよね。
例えば、なんたってみつこを演じているのは堀北真希嬢なんだから、清楚なことこの上なく、イトコの信一から、「オレが伯父さん連れてきたら、ヤラせてくれる?」などというざれ事に、一瞬どころか、五瞬ぐらい止まってしまうウブさなんだよね。
そんな彼女が、お父さんがアルゼンチンババアの元に半年も身を寄せていること自体衝撃なのに、その二人が屋上で情熱的なタンゴを踊った後、キスを交わし、そして……なトコを見て、動揺しないわけがない。
そしてその頃、彼女がバイトしていた整体院で、ひょっとしたらちょっと好きだったかもしれない見習いの男性が、ワケアリの女性とワケアリな会話を交わし、彼が彼女を抱き寄せる、なんて場面にも遭遇したりする。

この整体院、お母さんが死んだ時、たった一人で葬儀を取り仕切らなきゃいけなかったみつこが、通夜に出すお寿司の桶を三つも重ねて、なんかふっと気が抜けちゃって、そのままふらりとこの整体院を訪ねたのだった。すると、一人残っていた見習いの彼が、彼女の疲れた身体をもみほぐしてくれた。そのまま心も緩んで、うつぶせになったみつこは枕に顔を押し付けて泣き出してしまった。
清純な女の子が、自分の弱さを図らずもさらけだした相手に、恋してしまう気持ちは判る。いや、清純な女の子じゃなくたって、弱っている女には、往々にしてその傾向がある。
みつこがその後、この整体院で働き出したのは彼がいるからだったに違いない。でも、そんな場面を、見てしまった。
訪ねてきたそのワケアリのカノジョは、看護士試験に合格したと言い、「これであなたの足が治るわけじゃないけど……」と口ごもる。どうやらかなりフクザツな訳がありそうである。
しばしの沈黙の後、彼女を抱きよせ、中に入る二人。
その後、彼はマッサージ師の資格をとるために、東京の専門学校へ行くことになり、この整体院をやめる。
恐らく、カノジョのためだろうと、推測される。みつこは彼に何も、言わなかった。

人が表に出さない部分にこそ、深い思いと真実がある。
この物語の中ではみつこが一番しんどい思いをしているわけだけど、周囲の人たちはそれまでしんどい経験をしてきた人ばかりなんだよな。
一見、ノーテンキに見えるみつこのイトコの信一にしたって、そう。
このイトコ同士の関係は、ちょっと微妙なんだよね。
イトコ同士というより、気のおけない幼なじみって感じ。しかし二人の間に男と女の感情があるかどうかは、「ヤラせてくれる?」と冗談半分に言った彼に対して、かなりの間をおいてはぐらかした彼女のリアクションからは図りかねる。
それというのも、超美少女である彼女に対比して、彼は「エッチなことで頭がいっぱい!」な、平均的な男子高校生に過ぎないんだもん。そのニキビ面は正直、恋愛って感じからも程遠くて、このキャスティングは、そういうトコ、結構考えて振ってると思うんだもん。

ただ、信一が見過ごせない存在であるっていうのは、男と女のことに関して、みつこよりも悩み、そして判っているという点にある。というのも、彼の両親は離婚していて、しかも彼が引き取られている母親の方にその原因があり、つまりは恋多き女の母親は、かなり勝手気ままにやっていたらしいんである。
まあ、その母親が父親にガンとして会おうとしないという描写から、それだけではないフクザツな事情があったこともうかがわれるんだけど、息子から「そんなあんたが、なんで伯父さんたちは許せないんだよ」と言われて一言もない。
でも、彼は、そんな母親が好きだったという。恋愛して、ダンナに黙って女一人店を持って、自由っていうの?いいじゃん、って。ただ、その信一の台詞は、雰囲気としては半々な感じなんだよね。本当にそんな母親をカッコイイじゃん、と思っている気持ちと、いくらなんでもやりすぎなんじゃないの、少しは子供のことも考えろよ、みたいな気持ち。それを絶妙のバランスで彼は出してくる。
それが実に、人間、なんだよなあ。彼にしても、彼の母親にしてもね。そんなバランスよく、いい人間になんてなれないもの。平均化された人間ばかりになるなら、世の中つまんないを通り越して、気持ち悪くなっちゃう。

信一はなんか、この伯父さんに心酔しちゃった感じ。
ユリが用意したインスタントラーメンの食事に、彼女に倣って手を組み祈りを捧げる彼に、「おじさん、仏教徒じゃなかったの?」と問うてみる彼。
宗教の問題はなかなか難しいけど、ここは、ラーメン食べるのに、アーメン。そうか、シャレか……みたいな軽さもあって、さらりと受け止められる。
それにお父さんが、いわば、冠婚葬祭の成り行きで、信じていたってわけでもない宗教を、信じる宗教に変えたという真摯を感じちゃうんだよなあ。
だからといって、このことに関しては、あまりベタつくと、意味が違ってきちゃう。
実際、お父さんは言うほどの意味を感じているわけでもないらしい雰囲気。それが、ラーメン ニアイコール アーメン、みたいなカルいノリに示されている気がする。

アルゼンチンババアはいかにも人生経験豊富、って感じだけど、ひょっとして、ひょっとしたら、こんな本気の恋はそうなかったんじゃないかとも思うんだ。
なんで、そう思うんだろう……。
だって、カワリモノとして、はぶんちょにされてきたのは明らかだし、そんな彼女の元に身を寄せたお父さんに、妹をはじめ周囲が困惑していることからも、彼女がずっと、一人きりで人生を過ごしてきたことは容易に想像されるんだもん。
ウワサされるように、狂っているってわけではなかったけど、一人きりでいたことやふるさとでの辛い経験が、彼女をずっと一人にさせていることは容易に想像されるわけで。
むしろ、お父さんに夢中になってたのは、彼女の方かもしれない、と思う。
彼との間に出来た子供を、自分が死ぬかもしれないと思っても産みたいと渇望した彼女に、そう思う。

それを彼女は、みつこに兄弟を作ってあげる、という表現をしたけれど、彼と愛した証しが欲しかったんじゃないか、それが本音だったんじゃないかと思うんだ。
そしてみつこはそのことを、気づかないフリをしていたけれど、きっと気づいてた。お母さんが死んで、お父さんが失踪して、失恋して……いろんな、いろんなことが、あったから。
うん。きっと、気づいてたと思うな。
それでみつこは、最後の最後、空を見上げて、お母さん、と呼んだんだ。
それは単に、雲の上にユリと共にいるお母さんに呼びかけたようにも解釈できるけど、でもきっとそうじゃない。
そんな彼女の気持ちを、みつこも判るようになったから、だから、お母さん、と呼んだんだ。
本当のお母さんと、溶け合っていく、そんな気持ち。

そんなみつこの成長、そしてユリの深遠な気持ちを、お父さんは知るよしもなかっただろう。
だから、女は男を愛しく思い、男は女に救われるのかもしれない。
だったら女はどうやって救われればいいのとも思うけど、愛しく思うことで、救われるのかなと思う。ワガママなんだ、女は。男を支配下におかなきゃ、気がすまない。
そのことで救われるなんて、なんかさもしいような気もするけれど、お父さんがあんなにも愛したお母さんだって、多分そうだったんだよね。
だって、妻が死んだことで、お父さんってば、あれだけうろたえるんだよ?死を受け入れることが出来ずに、半年以上も思い悩むんだよ?病気になってから、いつかは来ることだと予測できたのに……。

ちょっと昔なら、こんな描写は考えられなかったと思う。こんなにも男が弱い描写なんて。
いつだって女がか弱くて、狂って、涙を流して、そんな女を男は愛しいと思ったのなら、それこそ支配下におきたい欲望だったのだろうと思う。
狂った女は確かに美しいけど、ひょっとしたら女は愛されるために、そんなフリをしてきたのかもしれない。
でも、ありがたいことに、そんなことをしなくても女が生きていける世の中になったんである。
だけど……それは、寂しいことなのかもしれない。

そんなユリにホレてしまったお父さん。
彼は確かにユリにホレていたんだけど、それが現実から逃げてきたからであることも、彼女にはちゃんと判ってた。 だから、彼からのプレゼントをそのお腹にもらって、彼をみつこに返す決心をしたんじゃないの。
いくら人生経験豊富なアルゼンチンババアだって、ホレた男をそのままやすやすと返すほど、人間できちゃいないってことなんじゃないの。ババアだって(なんたって鈴木京香なんだから)女なんだもん。
それを象徴するかのように、娘のみつこの前で愛を交わす場面さえ出てくるんだもん。
あのカメラの角度の感じでは、二人はみつこが覗いているのに気づいていないハズだけれど、何たってアルゼンチンババアなんだから、それも気づいてて見せつけたように思えてならないんだよね。
そんなこと、観てる時には思わなかったんだけど、なんか後から思い返すと、そんな風に思っちゃうんだよね。

ユリとみつこが本当に、心の底から信頼し合って、仲良くなるためには、そういう本質的な部分は絶対に必要なんだもの。
お父さんは、ユリにホレていた。それは本当に本当。
でも、妻の死がなければ、この恋は発生しなかったのも本当。
それぐらい、妻を愛していたことも本当……。
こういう状況って、ホント男だなと思う。ある意味、男は強いよね、愛の苦しさから逃げるために、恋が出来るんだもん。男の強さが自己防衛の器用さだとしたら、女の強さは、生きていくために身を削った捨て身の強さ。だから本意じゃないのに、女は男を越えてゆくんだ。

正直、アルゼンチンババアに鈴木京香は、若すぎるような気がしたけれど。原作は未読だけど、インタビューで彼女が、「役所さんより年上の役」だと言っていたし、やっぱりそうだよね。堀北真希嬢演じるみつこが小学生の時、既に伝説的なアルゼンチンババアとして名を馳せ、数々のまことしやかな噂話が囁かれているんだから、現時点での彼女が鈴木京香では、なんだか面白くない。
お父さんが、愛する妻の死にショックを受けたとはいえ、救われ、ホレた彼女に、妹は「よりによって、あんな女」と言うぐらいの相手である。しかも幼少のみぎりに戦争体験があるらしく(それとも、内戦かな……だったら若くてもいいのかなあ)、更には、「この年で妊娠?」と驚かれるぐらいのアルゼンチンババアに鈴木京香じゃねえ……。鈴木京香なら、ちょこっと高齢出産ぐらいで済んじゃうじゃん。
妊娠がファンタジーになるぐらいの、いやそれ以前にこの存在がファンタジーになるぐらいの“アルゼンチンババア”じゃないと、意味ないんじゃないの。凄まじく悩めるお父さんを、超越した部分から包み込むためにもさあ。

やっぱりそこは、画的な見え方を考えたのかなあ。
確かに、「あなたはまず、みつこさんのお父さんになるの」とつっと涙を流した彼女は、ひどく美しかった。けど、ここでは更に若く見えちゃったけどね。
私のイメージでは、岸田今日子、って感じだった。
死んじゃったけど、そんな感覚さえないぐらい、強烈にファンタジーな人だった。死んじゃったはずなのに、ここでアルゼンチンババアをしれっと演じていてもおかしくないような感じがした。役所広司を相手にしても、充分に女を演じられると思ったし。

最初、ユリの屋敷を訪れる人の誰もが、その匂いに顔をしかめるのに、その次に来る時には、あるいは時間が経つにつれ、気にならなくなってしまうのが、逆に気になるといえば、気になる。
最初の印象では、それはいわゆるホームレス的なニオイなのかとも思い……だって彼女は凄い厚化粧にヒッピーみたいなカッコなんだもん。猫屋敷だし、エロな精力剤になる蜂蜜作ってるし、前半の印象はとにかくアヤしすぎなのだ。
しかし、彼らが次第にそこが居心地よくなって、最後にはあんなにケンのあった叔母でさえ、「あの人が兄さんとみつこをグチャグチャにしてしまうと思ったのに、逆だった」と言うぐらい、穏やかに、包み込んでしまうのよね。
じゃあ、彼女の“匂い”って、なんだったんだろう。
それは本来、私たちに備わっていた、自然な匂いだったような気がする。
周囲を恐れ、自分をつくろい、どんどん無臭になっていった人間が、突如懐かしい匂いに戸惑うけど、思い出してしまえば、すっかりくつろいでしまうような。
彼らがアルゼンチンババアに遭遇するのが夏で、汗ビッショリで、っていうのも、そんなことへの伏線のような気がするんだ。

お父さんは、石材店を営む職人。墓石を彫り続けてきた。石には魂が宿っている。だから、それを彫らずにはいられない。そんなこと、言ってた。
なんだか、「夢十夜」みたいだね……。
こういうトコは、すべての物質に魂が宿る、「一寸の虫にも五分の魂」みたいな、日本的価値観を感じるのよね。
あのね、お父さんがあまりにもアルゼンチンババアの元から帰ってこないもんだから、これは、職人の血に訴えよう!と、仲間たちが相談して、最高級の御影石をお屋敷に届けるのよ。奥さんの墓を作りなさい! そう言って。
でも、お父さんは、届けられた石から逃げた。いや、だからこそ、と言うべきかも知れない。
こんな石がわざわざ届けられなくったって、妻から、私の墓石を彫ってね、って言われてた。それがイヤで逃げたのに、石を彫ることが生きがいなんでしょ、と突きつけられちゃ、こりゃ二重の苦しみだもの。
妻の死を突きつけられる苦しみと、それを受け入れることでしか、自分の存在意義を肯定できない苦しみ。

アルゼンチンババアはそれら全てを飲み込んで、彼を受け入れたんだ。その時既に奥さんは死んでしまっていて、だからこそ彼はここに来たんだから不倫なんかではないんだけど、でも彼がここにいるという前提自体、そして帰れないということ自体、彼の中に死んだ奥さんがいて、不倫の苦しみと同じではないか。
みつこが訪ねてきて、そのまま帰ってしまった日、ユリはお父さんを膝枕しながら、言った。
あなたは、ここに来た時、フワフワして、幽霊みたいだった。でも今は、ちゃんと生きてる。ちゃんと足もある。だから、みつこさんもきっと喜んでくれるんじゃないかな、って。

ユリから突き放されてお父さんが家に帰ってきた時、みつこはいなかった。お母さんの骨壷も姿を消していた。
しかし、お父さんは心当たりはあると言って動じず、妻のために用意されたままほったらかしにされてしまった御影石を一心不乱に彫り続ける。
そしてその石を彫り終えて、お父さんは、心当たりの場所に向かう。
親子三人、イルカを見に行った場所。その民宿にみつこはいた。
父子はようやくお互いの思いをスパークさせた。お母さんの死を受け入れたくなかった、だから逃げて、墓石も彫れなかったことを詫びる父親に、うつむいたままだったみつこは、今まで誰にも言えなかった胸のうちを吐露する。
「小さく、汚くなっていくお母さんを見て、もういい、早く死んで!って思ったの。私がお母さんを殺した……!」
ベタなんだけど、確かにベタなんだけど、ここは意地を張らずに涙を流した方が得!と開き直って、ダーダーと泣く。
お父さん、娘の髪をなで、手をとる。寄り添う。お父さんと娘は、言葉では計れない特別な関係があると思う。ホントに、そう思う。

お母さんはイルカが好きだったから、お父さん、イルカを墓石に彫っていたのだ。最後、お母さんにホンモノのイルカを見せてあげよう、そう言って、海へと小船を漕ぎ出した。あ!イルカの群れ!そう言って指差して立ち上がった途端、小船はバランスを崩した。お母さんの墓石となるはずのイルカの彫刻は、ドボンと海へと沈んだ。慌てて飛び込む二人。
海底まで追いかけたけど、でも、ふと、どこかの瞬間で、二人は何かを飲み込んだように、手を離して、海面へと浮上した。
お母さんのお墓は、海にある。
波に洗われて、墓石の輪郭はあいまいになり、やがてただの石になり、そして、海底の砂になり、ずっとずっとはるか年月の後に、この海岸の、波が打ち寄せる砂浜の一部となるだろう。
お父さんよりも、みつこよりも、長い長い年月を、生き続けると言えるかもしれない。
そして、きっと、それは、ベタだけど、最高の供養、なんだと思うんだ。

時が過ぎる。みつこは、趣味だったパン作りに熱中している。この街のパン職人になる。そう、誓っている。古い歴史が息づいてそうな、だからこそかなり寂れた田舎町で、シャレたパン屋など、絶対になさそう。だから、彼女の夢は可愛らしいけど、現実的。そして彼女がパン生地を楽しそうに叩きつけている場所は、アルゼンチンババアのお屋敷なのだ。今までは憎々しげに叩きつけていたのにね。
信一が遊びに来ている。「おじさんが、なんて呼ばれてるか知ってる?」答えるお父さん。「当然、アルゼンチンジジイだろ」(笑) このオチがあってこその物語な気がしちゃう。

ユリが死んで、弟を残してくれて、お父さんと二人、彼女の住んでいた遺跡のようなお屋敷で暮らしながら、みつこは思い出す。
人間の、どうしても好きでしょうがない相手。神様がいる空の上からは、キラキラ光るネックレスみたいに見えるのよ。そう、ユリは言った。
「私も、そうなれるかな」
「大丈夫!」思えばこの台詞、ユリは何度も、口にしてた。その柔らかな口調で言われたら、ムリに思えることでも、大丈夫な気がした。
「空の上から見ててあげるから」
「えっ?」意味が判らず、みつこは声をあげたけど、聞き返しはしなかった。
彼女のカッコは長袖のセーラー服。つまり、季節は秋。みつこがユリと出会った後、こんな会話が交わせるほど通って仲良くなっていたことがうかがわれるのだ。
劇中、そんなことは全然示されなかったのに。真夏、お父さんを探しにユリの元を訪ねたみつこが、次に二人に出会うのはお母さんの墓石にする石を引き取りに行った時で、つまりはずっと敵対関係にあったとしか思えなかったのに。

ユリが産んだ新しい命を、街の皆が慈しむ。
それを、みつこが嬉しそうに、見せて回ってる。それが、ググッときちゃう。
お父さんが作っていたマンダラ、その中心にユリを据えるという夢は叶わなかったけど、今やその場所はこの坊やのお気に入りで、まさにそれが正解だったんじゃないかと思うのだ。
全てのしがらみを超越したのは、アルゼンチンババアではなく、この世界の全ての子供であるといえる、彼女の息子だった。
……なんだか、キリストみたいじゃん。
だって、ユリはキリスト教徒だったわけだしさ……。

子供たちがイタズラする爆竹で、あわや火事という事態になる、なんていうスペクタクルも用意されている。ニワトリ小屋に火が移り、焼き鳥!?などと不謹慎なことを思ったりする。しかしアルゼンチンババアは水道管を壊し、屋上にシャワーが降り注ぐ。
深刻になりそうな場面で、いつも素敵なファンタジーになるんだよね。水道管、じゃなくて、あれは雨どいかな?そこを通じて地上から屋上へメッセージを叫ぶ場面なんかもある。リアルがほどよく忍び込んだファンタジーにときめかされる。

みつこを演じる堀北真希。最初に見たのがかなりベタなエーガで、それ以降、ドラマに引っ張りだこだったので、イマイチ彼女の真の魅力を測りかねていたんだけど、本作ではじっくりと見せてくれる。
スカート丈とくたくたのバッグは現代風だけど、クラシックなセーラー服姿と清楚なナチュラルメイクがそそられる。何よりその、深い森の中で大切に守られている湖のような瞳に吸い込まれてしまう。
そして、この可憐な声!母音が混ざったようなベタついた今風の曖昧さの全くない、清廉な声に、彼女、こんな素敵な声の女の子だっけ、とときめく。

何が泣けたんだろう。大人でいるフリが出来ない大人たちに共感したから?そんな大人に、大人じゃないから戸惑うしかない子供たちに?
そうである気もするし、そうじゃない気もする。みつことお父さんと、ユリ=アルゼンチンババア、三人誰もが、明確なこれだって気持ちを提示し切れなくて、迷っているのが判っちゃったからなのか。超越してて、お父さんやみつこにアドヴァイスをするようなユリでさえ、さずかった赤ちゃんを命をかけて産みたいと思うほどの……いわば孤独を抱えていたことを知って、呆然とする。

ラスト、死んだはずのアルゼンチンババアを、みつこは見る。
お父さんが教えてもらったという、タンゴダンスを学ぶ。
その、幸せな、幸せな、こと!
幸せな気持ちで涙があふれることの、その幸福なこと!
ふと気づくと、今までそばにいたはずのユリがいなくて、みつこ、空を見上げて……ありがとう、と言うのかなと思った。ベタすぎるな、と思いながら台詞を待ってると、みつこの口からついて出た言葉は、
「ユリさん……お母さん」
泣いた。

予告編が流れ出した時には、そのタイトルのユーモラスさに、劇場の誰もがクスッと笑った。それだけインパクトがあったから、宣伝効果は絶大だっただろうと思う。そりゃ吉本ばななは超有名な作家だけど、このタイトルは初めて聞いたし、そんな、私のように情報オンチな人間は、案外いたらしいのよね。
そして、この吉本ばななとコラボしている奈良美智のドローイング、宣材や映画のクレジットにも使われてて、これがまた、泣けるのよね。
役所さんが鈴木京香と踊るタンゴは、きっと誰もが彼の出世作、「Shall we ダンス?」を思い出すだろうし、そして、やはり日本のアルゼンチンタンゴといえば、小松亮太なんである。んんーん、しびれる。
劇中、みつこがちっとも帰ってこないお父さんの為に用意していたビールをがぶ飲みしたり、信一が親のタバコをくすねようとして、一本だけよと許されたりする描写、あえて入れてくるところが、勿論重要な要素ではあるとは思うけど、結構冒険っぽい。未成年には、特に高校生にはマズいかも。

娘を捨ててまで、自分の悲しさに打ちひしがれる父親。昔ならこういう大人は考えられないけど、これが現代。親とか子供とかじゃなくて、一対一の人間として闘っていく。むしろ、親という権威を振りかざさないという点では、正しき価値観なのかもしれない。でも、どこか病んでいるとは思うけれど。
だけど、やっぱり、胸の奥があったかくなる。
親もまた子供と同じで、弱くて、恋に苦しむ愚かな人間だと提示される現代は、ひょっとしたら、幸せな時代なのかもしれない、と思う。★★★★☆


アンフェア the movie
2007年 112分 日本 カラー
監督:小林義則 脚本:佐藤嗣麻子
撮影:大石弘宜 音楽:住友紀人
出演:篠原涼子 椎名桔平 成宮寛貴 阿部サダヲ 濱田マリ 向井地美音 加藤雅也 大杉漣 寺島進 江口洋介

2007/4/11/水 劇場(新宿バルト9)
ドラマは基本的にチェックできていないので、ドラマから劇場版になるものに関しては、ほぼ選択肢から外してる私が珍しく足を運んだのは、それこそ珍しく、ハマってたドラマだったから。
このシーズンは「アンフェア」と「神はサイコロを振らない」のツートップにどっぷりと浸かってたもなー。「神は……」が完璧に終わってしまってカタルシスを得たのと対照的に、「アンフェア」は妙に謎を残して終わり、その後にスペシャルが入って更に謎を引きずっていくので、もー!どこまでいけばいいのよー!と思っていたら劇場版がきた。ちくしょー、ハメられた……と思いつつも、観に行くしかないべさ。

とか言いつつ、テレビシリーズは正直最初、西島秀俊に心惹かれて見始めたのだった。彼が死んでガックリはきたものの、すっかりその独特さに惹かれてズルズルと。
私はだから、ドラマをチェックしてないから大きなことは言えないんだけど、物語の面白さというより、一見してこれほど独自の世界を築き上げて視聴者を引きずり込むドラマは、三ヶ月ごとにくるくる変わるドラマ業界ではなかなかお目にかかれない、と思う。思いつくとこで、「私立探偵濱マイク」?
本作の、ダークな色味と重い空気は、なんか脚本家のカラーが反映しているような気もついしちゃうなあ。ところで彼女は映画は撮らないんだろうか……。
ま、それはおいといて、ドラマに独特の味が与えられるのは、やはり、先に映画があるか、後に映画を考えているか、そんなことはひょっとしてあるのかもしれないなあ、とついつい映画ファンは映画寄りに考えてしまうのはいけないのかしら。

で、ズルズルと惹かれていったのは、やはりヒロインの篠原涼子のすさまじいカッコよさがあったからよねー。彼女はテレビで顔は売れていたのに映画に関してはこれまで脇役で、その間に丁寧に存在感を示していったという印象がある。だから、私は彼女主演の映画を早く観たいと思っていた。
それがテレビシリーズの劇場版になるとは思ってなかったけど、それがこの「アンフェア」ならば文句はない。まさに彼女が作り上げた雪平。劇中、上層部が口にする「これだから女は」などというお約束の言葉も、彼女のカッコよさの前では通用しないのだ。
美人だしセクシーなのに、そのことに対する自覚があまりにもない。映画の中では、全裸で寝るというシーンも居酒屋で焼酎飲んでるシーンも出てこなかったけど、それぐらい男っぽい性格……ではなくて、自分の女としての魅力が全然判ってなくて、こっちがハラハラするぐらい無防備なのだ。

それが、新しい。完全にスキのない鉄の女でもなく、セクシーさを前面に出して男をのしていくチャリエンのような女でもない。
それが象徴的に現われているのが彼女が子連れ刑事であり、子供の前では涙もろく、逆に子供から励まされるような母親なのだ。でもその子供も、ママがカッコイイ正義の味方だっていう顔も知っている。
篠原先生、白シャツの下に黒いブラが透けるのが気になってしょうがない!しかも彼女、思ったよりかなりダイナマイトなんだもん。さすがに、こんなクールなドラマだから、走るシーンが多くてもゆっさゆっさと胸が揺れるようなことは押さえて、その意外に大きな胸もしっかりサポートしているようなのだが、しかし目が行く。
ビショヌレになるシーンなぞもあり、ぴたりと張り付いた白シャツに、黒ブラが……!!ヤバい。さすがにヤバイと思ったのか、日を変えたシーンでは、一切透けない黒のシャツである。コートを脱がないのに、黒のサテンシャツ。いかに、あの白シャツがヤバかったか、判る。

てな、どーでもいい話はおいといて、そろそろ映画の本題いきましょか。でも今回の話ってね、ドラマでいつも謎を残してて、まだ、まだ引きずんのかい!とジリジリしていた割には、そーいやー、気になっていた謎ってなんだっけ……と半年も経つとさすがに忘れ、その間に論点がすりかわってしまっている気もするんであった。
警察上層部の不正を追ってたんだよね?雪平は。最初は全然違ってて、姿の見えない犯罪と犯人という、実に独特なミステリ風味だったけど、最終的にはそんな、かなり王道の刑事ドラマみたいになってた。
そして、その具体的な内容を追うことよりも、誰がそれに関わっていたのかが問題になってきて、更にそれもまた曖昧になり、誰がその秘密の証拠を預かっているのか、みたいに重点がシフトしていっちゃって、この謎を追って劇場に足を運んだはずなのに、なんか肩透かしをくらっちゃった気がするのね。それはこの劇場版だけじゃなく、徐々に感じていたことではあるんだけど……。

今回、その不正の秘密をめぐってのバイオテロ、というのはもっと後に明かされることではある。最初は、犯人の目的は判らない。それに警察が内通していることも、いや、それどころか警察官そのものが起こした事件だということも最初は判らない。
これこそが「アンフェア」のいつものパターンだけど、雪平は誰が裏切り者なのか、判らないわけ。それでなくてもその型破りなやり方で警察内部でも彼女の味方になる者は少ない訳だけど、その味方になる者でさえひょっとしたら裏切り者かもしれないというのは、これまでのテレビシリーズでも散々味わされてきた。
だから結局、彼女をずっと助けてくれた斉木がそうであっても、もう免疫が出来ているので観客はさほど驚かない。
……って!もう言っちゃったよ!オチバレが早いだろ!いやー、でも、「アンフェア」ファンなら皆予測ついてたよ、ねっ?ねっ?

だから、映画の中身行こうって……どうも脱線するな。雪平は今、その腕を買われて公安部に所属している。その上司が斉木、チョーカッコイイ江口先生である。
冒頭は、雪平が輸入貨物の中から隠されていたブツを、首尾よく探し出すところから始まる。もう既に単独行動していて、斉木は「……またか」と呆れ気味ながらも、それできっちり結果を出す彼女を評価している様子である。
それにしても、篠原涼子と江口先生のツーショットは、素晴らしく画になるね。ヤバいくらいに。

今回、雪平のダンナが海外出張してて、娘の美央を雪平が預かっている、という設定なのね。
しかし、美央が家政婦と共に車に乗り込もうとした時、雪平は電話中で先に二人を行かせたんだけど……その雪平の耳に爆発音が聞こえた。
慌てて駆けつける雪平。その目の前に炎上する車があった。美央は側に吹き飛ばされていてケガを追ってはいたけど無事だった。だけど、家政婦さんは……。
警察病院に入院する美央の手を握り、「いつもママのせいでゴメンね」とつぶやいた雪平、その足で亡くなった家政婦さんの遺族に謝罪に出かける。
なぜ、娘が。アンタが死ねば良かったんだ。取りすがる遺族に黙って頭を下げるしかない雪平。

その側には、斉木がいた。「君の上司だからね」そう言って、彼女に付き添った。
斉木は、もうこの頃になれば、雪平の、表面上からは判らない弱さが判っていたからかもしれないんだけど、でも結局は斉木こそが、これから始まるテロの黒幕だったことを考えれば、この時彼女のそばにいたことさえ、ひょっとしたら計画のひとつだったのかもとも思わせる。
そういやあ、雪平の車に誰が爆弾を仕掛けたのか、明らかになってないんだよね。斉木は、かつて自分の婚約者が同じように自分の身代わりになった話をするけれど、そのことで暗に、自分ではない、と雪平に予防線を張っているようにも思えるし。そりゃこの時点では、雪平は斉木を疑っているわけじゃないんだけどさ。
疑っているも何も、雪平はまだ知らない。自分と入れ違いに病院にテログループが入り込んだことなんて。

それにしても、ほんっとに、江口先生、カッコ良すぎ!スペシャルで初めて登場して、レギュラーのテレビシリーズでは出てこないんだけど、劇場版では彼が雪平のパートナー。ああ、そうか、安藤も死んでしまったんだもんなア……などと思う。
せめて夫の香川照之が出てきてほしかったけど。まあ、彼ほど重要な役者になると、ウッカリ出ちゃうとまた物語が複雑になってしまうし、テレビシリーズの時とは違う、ミステリというよりはサスペンスアクションの今回、彼の要素はちょっと合わないということなのかもしれんが、残念である。
確かにテレビシリーズのレギュラーメンバーも寺島進や濱田マリなど、いるのだけれど、メインで動くのは江口先生や、敵となる今回新規参入の椎名桔平などが核になるので、かなり違った印象。
それに、作品のカラー自体も、やっぱりかなり違う印象があるんだよね。粛々と闇へと進んでいたミステリの趣のテレビシリーズと違って、大きな巨大悪に立ち向かうサスペンスアクションな趣。

やはり、ここはスクリーンにかかるということだからだろうけど、正直、ちょっとらしくないな、とも思う。大病院にテロリストが押し入る描写、パーティー用の仮面をかぶって、思わせぶりで大げさな挑発したりして、こんなの、「デスノート」じゃないんだから(って、観てないけどさ。何となく雰囲気のイメージで)「アンフェア」じゃないよな、って感じがしちゃう。
押し入るSAT隊員が一気に十数人も死んでしまうハデさも、やっぱりらしくない。あるいは、モニター越しに警察上層部がズラリと並ぶシーンも、「踊る大捜査線」じゃないんだからさあ、などと思ってしまう(これは、割と合ってるよね)。これが集大成だからっていうのは判ってるつもりなんだけど、やはり好きだったから色々と気になっちゃうのよね。

ああーっと!またしても先走りの大脱線してしまった。修正。えーと、だからね。警察病院にテロが入って、でもその犯人の目的が判らないのよ。SPは全滅させたけど、患者は解放した。で、要求も出さず、しんとしている。
しかもこの警察病院はテロが入ったというのに皮肉なんだけど、対テロ用に作られた、防弾もバッチリ、シェルターもバッチリの、要塞のようなハイテク病院だったのだ。
しかし、徐々に重要なことが明らかになってくる。ひとつは、極秘入院していた警察庁長官が解放されていないこと、そして美央と、彼女を担当していた看護師の行方も判ってないこと。
しかし、この看護師、加藤ローサ嬢なんだけどさ、美央を安全な場所に隠した後、犯人グループと鉢合わせしちゃって、射殺されるのね。
だけど、殺されるほどのものを見たのかってのも判んないし、なんか、友情出演を成立させるためだけって感じがする。看護師を一人やむをえず犠牲にした意味が、作品中に全然生かされてないんだもん。こういうコネって感じ、あんまり好きじゃないなー。

まあいいや。とにかく、美央が病院に閉じ込められているらしいことが判って、雪平は必死に中に入ろうとするのね。しかし今回公安は関係ない、とハネつけられるんだけど、犯人グループの方から、公安の斉木を直々に指名して、要求を聞けと言ってきた。
まあ……この時点でアヤしいと思った方が良かったんだろうな、私もニブいから。だってさあ、斉木を指名した理由が、「警察の中でもまだマトモな男だと聞いたから」なんて、仲間同士ほめ合ってどうする、みたいな。そう、仲間だったんだもん。テログループのリーダー、警察OBの後藤(椎名桔平)と斉木こそが、このテロを計画した首謀者だったのだ。
というのは当然、もっともっと後になってから判ることなんだけど……。

で、この時点では後藤の正体も知れていないんで、警察上層部はSAT突入を指示するわけさ。中に美央がいるから雪平は大反対するんだけど、警察官なら身内が危険にさらされる覚悟は出来ているだろうとか、警察庁長官を救出することが大事だとか、なんか勝手なこと言われちゃうわけ。「美央を見殺しにするんですか!」と叫ぶ雪平に、ちっと舌打ちせんばかりに冷笑して「これだから女は」でしょ。もー、ムカつくっ!
この時点では(なんかこればっかりだな)彼ら警察上層部の不正が握られているから、それを押さえ込むことの方が大事だから、冷たい態度をとられてるってこと、雪平はまだ知らない。んで、斉木がそれも含めて全て飲み込んでカードをこちらに切ろうとしていることも、知らない。
果たして何も知らないまま、雪平は薫ちゃんと共に病院の中に忍び込むのだが……。

あっ、あっ、薫ちゃんてのは、テレビシリーズの中でも癒し系、というか、脱力系キャラの加藤雅也ね。今回、まさかまさかこの薫ちゃんが裏切り者!?などと思わせる場面もあったのだが、あー、良かった、最終的に違って。マジホッとしたよ。薫ちゃんが裏切り者だったら、いくら誰もが裏切り者になる可能性があるったって、私、立ち直れん。
いや、だからさ、薫ちゃんはね、車の爆破事件があった時、雪平と電話で話していて、「車はやめた方がいい」と忠告していたのよ。それを薫ちゃんは後から「渋滞していたから」と説明するんだけど、雪平はまさか、薫ちゃんが……と疑い始める。

SAT隊を首尾よく引きつけて、雪平を病院内部に行かせる役目を買って出た薫ちゃんから携帯に電話が来た時も、彼女が「……薫ちゃん、よく無事だったね」と少々の疑いを向けて言ってみると「運が良かったんだな」と彼は返す。
何もかもが曖昧で、薫ちゃんへの疑惑がどんどん強まっていって、観客もまさか、と思う。うー、でも違ってよかったよお。あの曖昧さは薫ちゃんのちゃらんぽらんさってことで、いいよね??
ところで私、「SAT突入だ」が最初、「サッと突入だ」に聞こえて、「中に雪平警部の娘がいますので、サッと突入は……」とか聞こえちゃって、随分ライトな言い方するんだなあ、とか思ってしまったバカ。あー、どーでもいいか、こんなこと。

さて、だから、その第一隊のSAT隊こそが、今回の首謀者の一人、後藤だったわけで、最初にテロリストとして病院に押し入った戸田(成宮寛貴)たちはSAT隊を撃退するどころか、うやうやしくお迎えするわけ。それを知らないから、SAT隊がアッサリやられた!とんでもない奴らだ!と警察の方は焦りまくる。
あ、今回陣頭指揮をとってるのは、寺島進扮する山路。彼は、雪平のこと煙たがってはいるけど評価してるから、雪平が娘を救い出すためにムチャな行動をとるであろうことも、心配しているんだよね。
で、だ。テログループの要求はというと、警察で不正にプールされた80億円をこっちによこせってこと。さもなければ……とモニターで長官に銃を突きつける。そんな脅しには乗らない、大体そんなカネなどない!とつっぱねる上層部に、あ、そーですか、とあっさり長官を射殺してしまう。
げげっ!ま、まさか、そんなアッサリ!この長官が切り札じゃなかったの!?上層部もあまりのことにショックを受け、「これで80億円は引き出せないぞ」とウッカリ認める発言をしちゃう。後藤はそれこそが、目的だったのだろう。ニヤリと笑い、「今度は都民が人質ですよ」と言うんである。

この病院には黒色カイソ菌(字忘れた)が保管されている。人から人へと感染する。都民の殆んどが死滅するほどの量。しかも、血清は二人分しかない。
その菌を取りに行く場面でヘマをするのが、ちょっとショボいっちゃあ、ショボいんだけどさあ。
そりゃまあ、何が起こるか判んない、計画は全てが完璧じゃないってのはそうだけど……菌を落として吸い込んじゃう、まではまだしも、焦った戸田、防護服をどっかに引っ掛けて破いちゃうみたいな描写じゃなかった?いくらなんでも私の見間違いか?そりゃ、そんなドリフみたいな防護服じゃ困るよなあ……。
かくして、テログループも弱みを抱えることになった……と思いきや、口では必ず後で助ける、とか言いながら、彼の存在はアッサリ忘れ去られてるよね。カワイソウに……まあ、正義のためなら多少の犠牲はつきものだと思ってるんだから、当然といえば当然か。

しかし、その感染病棟にウッカリ入り込んでしまった美央、このウッカリのタイミングがまた、ドリフみたいなんだけど……、サスペンスアクションにあまりケチをつけるのもやめとこう。
んで、心優しい美央ちゃんは、感染して皮膚がどんどん黒くなっていく“おにいちゃん”の側につきそって、きっとママが迎えに来てくれるから、と信じて待ち続けるわけだ。当然、彼女も感染してしまう。
しかし、その時点で雪平は中に進入、第一SAT隊がテログループであることも突き止めて報告し、そして美央も見つけた。しかし暗号コードがなければ扉は開かない。これが終わったら警察を辞めて、美央とずっと一緒にいるから、と涙を流す雪平に、美央はニッコリ笑って、バースデーカードを見せた。
「そっか……忘れてた」
美央は言う。「ママはいいママだよ。だって美央、ママ大好きだもん。ママ、やめないでね。やめないで、悪い人どんどん捕まえて」
その言葉で目が覚めた雪平、必ず助けにくるから、と言い残し、戦いの場へ。

その時には蓮見も参戦してるし、ああっ、もう、入り乱れての大混戦なのよお。
あ、蓮見ってのは、テレビシリーズで、雪平が親友だと思ってたのに裏切られて、で、植物人間状態になって警察病院に入院していた濱田マリ。あの時、もう再起不能ぐらいな勢いだったのに、もうすっかり元気になってる。それともこの事件までをも見越しての仮病だったわけじゃないよね……まさかね……。
テログループは80億の入金をうながすため、カイソ菌を撒き散らす時限爆弾をセットしてる。その残り時間をモニターに映し出す。焦りまくる警察庁次長警視監、入江(大杉漣)。
それを見つけ出したのが、雪平と合流した斉木だった。うー、だからこの時点でも彼がおかしいと思わなきゃいけなかったんだってば、もう!しかも彼、首尾よく解体処理しちゃうしさあ。
爆発物処理する江口先生。お約束のタイムアクションだけど、やっぱりドキドキしちゃう。いや、ドキドキしちゃうのは、あまりに江口先生がカッコよすぎるからだな!
しかしこのギリギリの爆発物処理も、作戦のうちだったのかと後から思うとちょっとアレだけど……。

裏切り、裏切られる。これぞ「アンフェア」の醍醐味。信じていた者に、信じ切っていた者に、あっさりと裏切られる衝撃。
蓮見は、新しく仲間となった後藤たちも裏切る。というか、最初から斉木とグルだったらしい。うー、サスペンスらしい二転三転。
そのために、蓮見は薫ちゃんを利用して、雪平をおびき寄せようとしたのだ。薫ちゃん、かつて心を許した同僚の変わり果てた姿に、彼女に縛り上げられた姿で呆然。
でも蓮見はアッサリと、どこか楽しそうに「お金は絶対に裏切らないからね」と言い放つ。そう、人は裏切る。それを彼女は知っていたから、雪平の敵に加担して、出し抜いたはずが、相棒のはずの江口先生に撃ち抜かれてしまう。

ショック。
いくら、お金が裏切らないといっても、それを遂行するために最低一人の仲間は必要で、まさか裏切らないと思った仲間が裏切って、それって、蓮見は口ではあんなこと言いながら、結局最後まで人を信じてたってことじゃない。 愛人だった山路だってそうだしさ……。
結局、蓮見は親友だったはずの雪平と心を再び通わせないまま、死んでしまった。
それは哀しいんだけど、薫ちゃんが裏切り者じゃなくて、本当に良かった……。

しかしさあ……江口先生が椎名桔平を、つまりこの計画の相棒を撃ち殺した時には、蓮見の時の10倍はビックリした。
あ、でもあの一発では死ななかったのか。なんか椎名先生も凄いしぶとく息をながらえて、やいやい言ってたしな。
思いがけず味方に撃たれた後藤は、警察を自分たちの手で生まれ変わらせようと思っていたんじゃなかったのか、と本当に信じられない、といった表情で目を見開き、崩れ落ちる。
そうか、後藤はそこまでピュアに考えていたのか。
それを、ピュアだと即座に思ってしまうことに、自分でビックリする。そうだ、恐らく観客も日本人の感覚も、もうその程度にまで落ちてしまってて、結局はそんなの、信じるだけムダなんじゃん、と思ってる。

でも、矛盾しているんだけどね。だってそこまでの強い信じる思いがあったからこそ、こんなムチャをしたわけだし、テロとはそういうものなんだもん。
でもテロそのものが、卑劣な行為であるというイメージが強い今、テロリズムというものが、何かを信じる強い力が突き動かすことだとしたならば、もう私たちの殆んどは、臆病で、信じる力が持てなくて、信じる自分を信じられなくて、その前に諦めてしまっているのかもしれない。
卑劣なテロだと呼ばれてもいい、と思うほどの強い信念が持てないのかもしれない。
それは、ひょっとしたら、雪平が斉木に最後に言った言葉と、重なるのかもしれないのだ。

すべてが終わって、斉木の口から全てを聞く雪平。高層ビルの屋上の空撮の迫力は、この二人のスターの存在感が難なく跳ね返してしまう。
斉木は、マスコミに渡したって握りつぶされるだけだと。個人が頑張って出来ることなんてあまりにちっぽけだと。だから今、政府関係者と接触している。アンフェアにはアンフェア、権力には権力だ、と言うのね。
雪平は、そんなのはあなたらしくない。死んだ彼女はそんなこと望んでいないはず、と言うけれど、だったらどうすれば良かったっていうんだろう。そこが判然としないんだよな。

純粋に悪を暴くことだけを目指して、仲間を信じてやってきた後藤を殺した斉木は確かに衝撃だったけど、じゃあ雪平がどう出来るのか、示されないまま物語は終わる。斉木は雪平にその証拠を託したけれど、どう出来るのか。斉木がしようとしていた、政府関係者と接触して揺さぶりをかける、以上のことを彼女が出来るのか。
彼が言うように、確かにマスコミに公表するなんてことだけで事態が変わるほど、根は浅くない。ただ、握りつぶされてしまうか、流されてしまうか、どちらかだろう。権力には権力を、と言った彼の選択が間違っているとは思えない。そのために同胞を手にかけたのは何でなのかなとは思うけど、雪平がそれ以上の方法を思いつくとも思えないんだよな。
しかも、西部劇のような二人の一騎打ちのハズが、どっかから飛んできた弾で、斉木は死んじゃうしさ……。

警察の不正の内容は結局はどーでもよくなって、悪いことしてるなら裏金だろう!みたいな話になって、それをテロリストたちが奪おうって話になる。その不正の秘密を引き継いだのが誰なのかみたいな話になって、その中身はどーでもよくなっちゃって、で、それが記されたメモリを斉木から雪平が受け継いで、メデタシメデタシ?違うだろーって気がしちゃう。
しかも今回、またしても謎を引きずっちゃうんだもん。斉木を殺したのは誰なのか。信頼していた、ひょっとしたら心惹かれていたかもしれない彼を、手にかけるなら雪平であるべきだったのに、でも、あの銃を向け合って発砲した時、彼女は、弾をハズしてたよね。彼が自分をハズすかどうかなんて、判らなかったのに。
それが、“心惹かれていた”んじゃないかって、思っちゃった理由なんだけど……思えば雪平は、いつも一瞬心を許してしまった人に、死なれてるよね。西島秀俊も安藤もそうだもん。こういうクールなキャラだからハッキリとは示していないにしても、案外ホレっぽいのかもしれない。んで、その相手とは別れるしかないって、まるで寅さんみたい??

テレビシリーズは、誰かが雪平の命を狙う物語。そしてそれが推理小説の形をとっていたから、どこか文学的でファンタジックな匂いさえした。
それは、復讐の物語だった。犯人の安藤が雪平にホレてしまったために、切なくねじれた結末となって、終わった。
その中で芽生えた、彼女の父親が追っていた警察の不正。
それがシリーズの後半で徐々に大きくなり、スペシャルでメインとなり、そして劇場版となった本作。
だから、趣が変わるのは当然なんだ。
個人の感情の細やかさから、権力へ立ち向かうスケールの大きさへ。
でもやっぱり、どこか寂しい気がしちゃうな。

で、あの含みを持たせたまま、やっぱり終わっちゃうの?アンフェアらしいと言えば言えるけど……。★★★☆☆


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