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「せ」


2011年鑑賞作品

性愛婦人 淫夢にまみれて
2010年 分 日本 カラー
監督:池島ゆたか 脚本:後藤大輔
撮影:清水正二 音楽:大場一魅
出演:竹下なな 里見瑤子 琥珀うた なかみつせいじ 野村貴浩


2011/4/30/土 劇場(テアトル新宿/ピンク大賞ベストテン授賞式AN)
2010年度第一位作品。なのになのに私はまたしても後半睡魔に襲われてしまった(爆)。去年も一位作品でやっちゃったんだよなあ(爆爆)。確かに一気に五本の上映作品をひとつももらさず観る自信はないにしても、最初の一本でいつもやっちゃうなんて(汗)。
でも今年は、去年は本当にすっかり後半を飛ばしてしまったのほどひどくはなく、目を開きながらも意識が集中出来ない程度に留まり、なーんとなく台詞は頭の中に入ってきていた。

後半、つまりはクライマックスなんだけど、あそこはつまり、夫が正気になり、相手が妻ではなく妻の妹だと判り、その名前を呼び、新たな愛のセックスをする、という感じ、だよね?
応酬する台詞はかなり多かったけど、それはモノローグも含めて全編に渡ってそうで、それが疲れてしまうひとつの要因でもあった、のだが……。

ていうか、ていうか。これはベストワン作品なんだけど、正直うーんという気持ちはあった。いや、文学的で哲学的で深層心理に深く食い込んでいて、素晴らしいとは思う。好きなタイプの作品では確かにあるのだけれど……うーん。
あのね、お隣に座っていた二人組男性が、「つまんねぇ」「これじゃヌケねえ」とぶつぶつ言ってて、いや別に私はそーゆーアレでアレな訳ではないのだが(爆)、でも確かにそれも、判るかもしれない(爆爆)。

確かにピンク映画はエロシーンさえあれば何でもありなところこそに、ひとつの面白みがある。だからこんな風に素晴らしく作家性の強い作品も現われ、衝撃を受けるんだけど、あのね、もう身もフタもないこと言っちゃうと、ヒロインを演じる竹下なな嬢が、あまりにおっつかなくて(ゴメーン!)。
今回本作でも素晴らしい熱演を披露しているたけみつせいじ氏が何回目かの男優賞をとっているし、“本当の妻”として写真と回想で出てくる里見瑤子があまりに素晴らしいもんだから、彼女のお芝居の稚拙さがあまりに見てられなくって……。

里見瑤子はね、写真だけの時点から素晴らしいのよ。本当にそうなの。もう写真の時点で、彼が愛して愛してやまなかった、そして彼女も彼を愛して愛してやまなかった、本当に愛し合っていた夫婦なの。
回想シーン、つまり里見瑤子の登場シーンは決して多くない、ほんのちょっとと言っていいぐらいなんだけど、もうそれだけでさらってしまうんだもの。
愛するだんなさんを残して逝ってしまうことへのすまない気持ち、自分が死ぬ怖さより、自分が死ぬことで彼と離れてしまう悲しさや恐怖が、彼女の全身から溢れてるんだもの。

単純に言ってしまっても、たけみつせいじや里見瑤子の演技力となな嬢のそれとではあまりにも差がありすぎて……いや、これがもっとアッケラカンとしたエンタメやコメディだったらそれもそんなに気にならないのかもしれないけど、これは思いっきり芝居力が要求される作品、それだけ脚本の完成度が高いと思うからさあ……。

と、思っていたら、本当にその通りのことを監督自身が冊子で語っていたからちょっとビックリした。いやそりゃあさ、今回作品賞、監督賞を受賞した壇上ではそんなことは言わないよ。でも、まず今までは池島作品でデビューした新人女優はみな新人賞を取れていたのに今回それがかなわなかったことから切り出され、「竹下ななには荷が重い役だった」「本当は里見にこの役をやらせたかった。彼女がやったお姉さん役は佐々木麻由子とかで」と語っていたのを見て、ぶわっと画が浮かんで広がって、それこそカンペキじゃん!と思ってしまったのであった……。

活字になって残ってしまう冊子にそこまで赤裸々に言ってしまう程に、悔しいことだったのだろうと思う。
実際、悔しい、と言ってた。ピンク映画って、先述の様にかなり自由度があると思っていたけれど、主役は新人女優をという会社の意向、というのが、作品によってはこれほどクリエイターを苦しめ、そして作品の完成度にも影響するのか、と思った。

なんてことばかりつらつらと言っていてはちっとも話が進まないから。これはね、伊豆半島の小さなペンションの物語。実は観ている時にはペンションだなんてことは気づかなかった。だって宿泊客が来る訳でもないんだもの。
ただただそこで、二人は朝ごはんを食べている。妻と思しき女が聞く。「ところであなたはどなた?」男は言う。「それは夜ゆっくりね」「ダメよ。夜はいつでも……」
そこでカラミが展開するのはいかにもピンクだとは思ったが、しかし少々様子が違う。彼は彼女が握りしめていたお味噌汁をよそうお玉で、彼女の尻を赤い痕がつくまでぶち、彼女は尋常じゃない潮を吹いた。
コトの後、ぬぐいもされない水たまりがフローリングにそのままになっている。

潮吹きというのは、本作のひとつのキーワードである。まー、正直潮吹きって現象には私は大いにギモンがあるんだけど、ま、それだとホントに脱線しちゃうからおいとくとして(爆)。
半島ではあるけれどまるで陸の孤島のような、激しい波が打ち寄せるに突き出た島の突端を俯瞰で撮った画は非常に印象的で、その寒々とした、神々しい情景は何度も繰り返し挿入されるんである。
そしてそれがラストシーンでは、ありえないほどの大潮吹きと共にザッパーンと打ち寄せるという、ギャグすれすれの愛のおとぎ話に昇華するのだが。

彼の職業、というか、立ち位置自体が非常に映画的魅力に満ちてる。実際の彼は無職。まるで学者崩れのような彼は、山に登っては化石採集に精を出している。伊豆半島というのは太古の昔、プレートによって南洋から運ばれてきたんだと。だからそこにしかない化石があるんだと。
レピドシクリナという実に詩的な名前のそれを、彼は日がな一日探している。もともと教師だったという彼がその職を辞したのは、愛する妻が病に倒れたから、であろうな……明確に言っていたかどうか、ちょっと忘れたけど(爆)。

で、観客は最初のうち、それが竹下なな嬢だと思ってるから、ちょっと言動がヘンな彼女を、つまりおかしくなってしまった彼女を支えるために彼が仕事を辞めて彼女の側にいるんだと思ってるんだけど、実はおかしくなったのは、夫の方、だったのだ。

種明かしをされるのはかなり後半になってからだとはいうものの、割と最初の方に里見瑤子の写真が出てくるから、しかも彼女がなな嬢と同じ和服を着ているから、何となく察しはついてしまう。
なな嬢はこの写真に対しても「あなたはどなた?」と言う……何も、一人だからそんな芝居をする必要ないじゃん、とすべてが判ってからはちょいと思いもするんだけど。
でも全てが判ってからだと逆に……あまりにも愛し合っていた二人を近くで見ていた妹である彼女が、姉を通して彼を愛してしまって、だから姉を「どなた?」にしてしまいたかったのかなあ、などとも思う。

……というのはつまんない勘繰りなのかもしれないけど、そういう勘繰りも、キャストが違えばホントにしてしまえたような気がする。
なな嬢はね……この日登壇した彼女がとても可愛かったから、その後スクリーンの中の彼女が、えっ?と思うほどその可愛さがなかったので、なんか老けて見えたし、ひょっとしたら慣れてないことでこわばっていたのかなあ。

和服もね、なんかガバガバなんだよね。ちゃんと着れてない。でもそれも思いっきり勘ぐれば、里見瑤子はしっとりと着こなしていたから、それを妹の彼女は着こなせない、借り物なんだという哀しさ、だったのかな、なんていくらなんでもうがちすぎかなあ……。
でもこの和服ってのは凄く象徴的でさ、わざわざ和服を着せるっていうのは、やっぱり意味を感じるじゃない。いや、エロを醸すってこともそりゃまあ、あるけど。でもそれとはやっぱり、違う気がしたんだよなあ……。

妻がおかしくなったと思っている彼のモノローグで進行していく。何かとてつもなく哀しいことがあると記憶を失ってしまうということがあるというが、彼女にそれほどまでの哀しいことがあったなんてことは、まるで見当がつかない、と彼はモノローグするんである。
実際は、とてつもなく哀しいことがあったのは彼、つまり愛する妻が死んでしまったことであり、そんな彼を見かねて妻の妹が身代わりを買って出たのだ、というのが徐々に明らかになってくる。

彼の弟が訪ねてくるのだ。何か放蕩息子みたいな雰囲気で、借金を申し込みにきたらしい。
その途中軽い事故を起こして淫乱ナースと一戦交えるくだりは、コメディリリーフとエロ担当だけかと思ったが、このナースが、実はおかしくなって検査入院したのはダンナの方だった、と後に暴露することになるんだから、そのあたりはなかなか抜け目がないんである。

で、その弟よ。野村貴浩氏の八重歯の感じがいかにも甘えっこの弟といった雰囲気をかもし出し、義姉の納骨の用事にかこつけて借金を申し込みにきた、といううだつのあがらなさが見事である。
義姉の和服を着込んでいる義妹に事の次第を察し、ムリヤリ押し倒してヤッちまう彼はとても哀れだが、しかしピンクによくありそうな、そのまま彼女は喜悦の声をあげることはなく、哀しそうに、彼を受け止めるのだ。
これもお姉さんが彼女の中に乗り移っているという描写なのかもしれないなあ、ヤハリ……。

あの淫乱ナースに吸いつかれて、ダンナはついに思い出す。涙と鼻水をダラダラ垂らして泣くなかみつ氏に圧倒される。
が、このあたりから私の意識は遠のいていって(爆)。でもね、この淫乱ナースはなかなかいいの。彼女こそこの精神的物語の中で浮きまくっている存在に他ならないんだけど、そこをパキーッと割り切っててね。
医者に食われては捨てられる、いわゆる都合のいい女、身持ちの悪い女の悲哀をイイ感じにカルく現わしてて、実はとても哀しい女の子なんだけど、ちょっと笑っちゃうなあ、みたいなのって、意外に難しい気がする、んだよなあ。
もちろんスパーッと解放的なエッチさが出せる女優さんであるという強みこそが必要なんだけどね。

なかみつ氏のモノローグで展開していって、なんたってモノローグ、語り部だからそれが正解だと思っていたところに、くるりとひっくり返るオドロキ、そして騙し合うことが愛という深さ、全てがゼロに戻されて始まるクライマックス、荒波が打ち寄せる半島の絶対的孤独な存在感。
様々魅力的なファクターはあるし、構成自体は凄く凄く、素晴らしいと思うんだけど、あるだけに、ひとつ、ふたつ、かみ合わなくなると、なんとも居心地が悪くなる、見本みたいな映画だった……ように……思う。★★☆☆☆


戦火の果て
1950年 90分 日本 モノクロ
監督:吉村公三郎 脚本:新藤兼人
撮影:中井朝一 音楽:伊福部昭
出演:水戸光子 森雅之 滝沢修 関千恵子 二本柳寛 宇野重吉

2011/4/23/土 国立近代美術館フィルムセンター(吉村公三郎監督特集)
うっ、ちょっとビックリするぐらい、データベースが出てこないから焦りまくる。物語の筋は無論(無論てあたり……)キャストや役名もデータベースに頼りきって思い出しながら、書くのでなんとも心もとない。
まあ確かにかなーり昔の映画ではあるけどさあ、こんな有名な監督さんであり、森雅之なんて有名な人も出てるのにい。

そう、森雅之の役名だけは何とか記憶を頼りにネットから探し出した(爆)。いや、当てる漢字が自信なかったから、良かった。ひなくら=雛倉、これでいいのね。やー、よかった。
しかし問題は彼が三角関係に陥る男と女の名前である。男の方は彼の海軍時代の上司である大佐、滝沢修演じるこの男の名前はコジョウ、と発音してたと思うが、古城なのか小城なのか判らない。それ自体聞き間違いかもしれない(泣)。
そしてこのコジョウを待ち続けて5年目に見切りをつけ、雛倉との結婚を決意する女、水戸光子演じるのがおふみだったかおくみだったか、おふみだったと思うけれど……こうなってしまうと自信、ないよー。

まあ仕方ないから、今回ばかりは自分の記憶だけで辿るしかない(いや本来、そうすべきなんだって……)。
これは戦争から帰ってこない恋人を待ち続け、その間彼女に想いを寄せてくれていた男に5年待ってくれと言い、その運命の五年目の日から始まる物語なんである。
本作が1950年の映画であることを考えると、確かに確かに終戦から5年を迎えた時に作られた映画であることにちょっと驚く。
だってつまり、この感覚、実際に戦争に行った男たちがスタッフなりキャストなりにもいただろうし、何より脚本を書いた新藤兼人がドストレートに感じていたことってこと、じゃない?

いやそりゃ見た目は、三角関係のメロドラマよ。いやかなりドロドロだからメロドラマと言ってしまうのもアレなぐらいの。
でもそこには、戦争の影が重苦しくつきまとっている。おふみが待ち続けたコジョウは、海軍の部下たちを人間扱いしないような非情な男だった。「死ぬのが怖い」なんて、貴様それでも海軍か!と往復ビンタをくらわして、自分はイイ女を独り占めするような、そんな男。

今終戦から五年が経って帰って来た彼に言わせればそりゃあ、自分は日本の、軍の指示に従っていただけなんだと、そりゃあ、言うだろう。
その通りだとも確かに思うが、でも彼らの部下だった男たち、特にコジョウの恋人のおふみに想いを寄せていた雛倉は違う。

コジョウが、あの時は皆同じ気持ちだった。皆でひとつの大きな思いで、死に向かっている、これがひとつになるってことだ、みたいにどこかうっとりと回想したのに対して、それはアンタはそう思っていたかもしれない。でも俺たちは違った、とかみついた。
同じく同僚たちもコジョウに対して、あんたみたいな考え方をする人間がいる限り、日本はまた戦争をするんだ、と加勢し、殿山泰司が後ろの方から、そうだそうだ、難しいことはよく判らないけどそういうことだ、と加勢するのがいかにもコメディリリーフで可笑しいんだけど、まさにそういうことなんである。

そしておふみもまた、時が経つにつれ、コジョウへの思いがどういうものだったのかに直面させられることになり、帰ってきたコジョウがひどく狭量な男だったことが判ると、自分がホレていたのが、軍服や懐剣だったのだと思い知らされる。
それに女がホレてしまう時代、というのがまさに哀しい訳なのだが(ま、今もコスプレ的な意味ではあるけど……それは違うもんね)、それもまた、日本がマッチョであることを信じていた時代、ということなんだろう。

いやおふみだって終戦間際のあの頃は、そのことに対して疑問を持っていたに違いない。実際、誠実な想いをまっすぐに向ける雛倉に心が揺れ動いていたし、何よりその頃は、そんなマッチョな日本という幻想も明らかに崩れかけていたのだもの。
恐らく男より女の方が、それはきちんと感じ取っていただろうと思う。そして自分の弱さに直面できる雛倉のような下っ端の兵士たちもまた、そうであろうと思う。
マッチョな誇りを持ったまま最後の突撃にも挑んだコジョウのような男には判らないまま、戦争は終わったのだ。

……えーと、またやっちゃったな。もう。状況も人物の相関関係も全然判らんではないか。
えーとね、おふみはね、白鯨亭という定食屋に起居している女なのね。白鯨というのは、この店に程近い港に停泊している船の名前。戦時中は海軍の船として活躍したその船を、元海軍の男たちが5年かかって修理し、漁船に甦らせた。
いよいよ出漁の日を間近に控えたある日から始まる。その日、おふみは手紙を待ち続けていた。いや、正確に言えば、5年間待ち続けた手紙であり、この日はその区切りの日。
そこまでに来なければもう待たないと決めた区切りの日。恋人のコジョウからの手紙を、朝の便、昼の便、と待った。

そして夕方の便、おふみは勿論、彼女の妹分である白鯨亭の娘、そして白鯨亭の夫婦、そしてそして何より、雛倉はドキドキして待った。
来たのはクリーニング屋の広告ハガキだけ。皆は一様に笑顔になり、良かったね、良かったねとおふみと雛倉に声をかける。白鯨亭の娘も、元海軍の青年(宇野重吉。今の寺尾聰にソックリ!)との結婚が決まっていて、一緒にお祝いできるワ、とキャイキャイと喜ぶ。

この定食屋の夫婦がイイ味出してんだよね。酒飲みの亭主に、しっかり者の女将さんというお約束な図式が実にしっくりと来て、場面ごとに笑わせもし、ホロリともさせる。てか、あれ?夫婦だよね?そんなことまで自信なくなるナサケナイ私(爆)。
船の上は冷えるんだから飲ませてくれよと彼は言い、一杯だけだよと言いながら注ぎ過ぎた分を瓶に戻す女将さんのしっかり加減に噴き出してしまう。
しかしその後、コジョウからの手紙が来なかったことでこりゃあ前祝いだと、酒飲みの言いそうなリクツで飲み始めるんだけどね。

しかし、そう、コジョウはその翌日帰ってきてしまったんであった。なぜこのタイミングでと、おふみは勿論みんながガクゼンとする。
まあでもさ、昨日でちゃんと区切りをつけたんだから、一日違いとはいえもう遅かったんだよと言ってもいい筈である。なんたって5年、何の音沙汰もなかったんだから。
それでもやはり、おふみも皆も動揺する。何より雛倉が、もうこれはダメだ、自分は身を引くしかない、と思いつめる。

というのも、彼は恋のライバルという以上に、コジョウを憎んでいるから。戦後5年間、身を立てることも出来ずにボロボロになって帰って来たコジョウを、そりゃあかつての同僚たち皆苦々しい思いは一様に持ってはいるけれど、それでもやはり、一抹の哀れさは否めなくて、自分たちが必死になって直した白鯨船に迎え入れようじゃないか、という話になるのね。
でも雛倉だけはそれをどうにも容認できない。雛倉のその態度は恋のさやあてという点では子供っぽいようにも映るんだけど、でもその生理的嫌悪ってのは実は……本能的な感覚であるそれは実は……当たってたってことなんだよなあ。

つまり、コジョウは正体をさらしちゃうのだ。一時はね、人間扱いをしてもいなかった元部下たちの前に哀れな姿をさらした彼と、その元部下たちの間で微妙な雰囲気も流れる。
しかし何よりその反発の象徴であった雛倉との殴り合い、そして先述の、当時の上官と部下の意識の違いをさらけ出したことで、人間同士としてお互いを容認しあい、これからは一緒に頑張っていこうという話になった、ハズだった。
でも結局コジョウはそんな部下たちの心情も、そしておふみの気持ちも、判ってなかったってことなのかもしれない。

そうそう、そのぶつかりあいの場面の、いわゆる触媒になる事件、かなりの大事件が勃発するのよ。白鯨亭の娘と元海軍の青年の幸せな結婚、ささやかながらも皆に祝福されるパーティーを催していた場面で、東京からの警察が踏み込む。
実はその不穏な空気はかなり早い段階で示唆されていて、白鯨亭の上で二人が話している場面、ようやく結婚出来るわね、なんてラブラブな彼女からタバコに火をつけてもらっている場面。
港に乗りつける男たちが、今から思えば警察だったんだろうなあ、その男たちから隠れるようにしてそそくさと彼女の元を離れた青年に、その不穏な気持ちをずっと引きずったままここまできたから、ああやっぱりそうなのか……と。

こういう、心の底に不穏さを植え付けたまま話を展開するのはホンット、上手いなと思う。
彼は、終戦後、死んでしまった母親の葬儀の金を泥棒で稼ぎ、自首しようと思いつつ故郷に骨を収めるともうそんな勇気も出ないまま、今まで来てしまったのだという。
騙した皆に深々と頭を下げ、泣きじゃくる恋人の肩にそっと手を置いて、出て行く。
待っててくれ、なんて、彼は言わなかった。それでも、同僚の皆は、待ってるぞ、と言い、涙いっぱいの瞳で見送る彼女だってそのつもりであることはアリアリだった。

だからね、コジョウがそこで、いかにも残念でしたね、みたいな口調で言うのがハラが立つのよ。大変なことでしたね、待ってればいいんですよ、なんて、お前が言うか!
てさぁ。でもここで激昂した白鯨亭の娘が言うのは「あなたが来たのがいけないのよ!あなたが来てから何もかも上手く行かない!」えーっ!そこかよ!いやいやいやいや!この場合、この台詞自体に怒らなきゃダメじゃん!
コジョウは何の便りもよこさないまま5年間、おふみをほったらかしにして、おめおめと帰ってきて当然のように、よく待っててくれたなあ!なんて思ってるんだから!

観てた観客の一部が思わず噴き出したのはそーゆー気持ちに他ならない、よなあ……。しかしあまりにえーっ!と思いすぎて、私は口をあんぐりあけたまま固まっちゃったけど……。
で、そのまま彼女はなに言ってんだ!と両親にズルズル引きずられちゃって、その点に関してウヤムヤになっちまうのは、い、いいのかよ(汗)。

おふみはね、ここを出て行くことを決意しちゃうんである。コジョウが船で働くことになって、雛倉がその指導に当たることになって、自分がいればどちらか一方が傷つくことになるから、と。
最初はね、こっそり出て行くつもりだったらしいんだけど、なんか最終的には皆にバレバレな感じでさ(爆)、やっぱり出て行くのか、と皆に言われて、そして何より雛倉に情熱的に抱き締められて、キッス!
あー、この当時のキスシーンの角度な感じがドキドキ!しかも結構クロースで唇が重なる様もアップにするの、美しいわー(ドキドキ)。

なんてドキドキしてるバアイじゃない。だってそれをコジョウに目撃されちゃうんだもの。思えば雛倉がコジョウを心から憎んだのは、出撃前夜、思いのたけをおふみにぶつけたその場面をコジョウに見られて往復ビンタされた事件が大いに影響しており、そしてまた……。
しかしね、哀しいことにコジョウはもう、雛倉と対決する気力もないの。恐らくこの時点で、いくらおふみがこの地を去るとはいっても勝ち目はないと思い知ったんだと思うんだよなあ……。

船を降りて、おふみに迫るのだ、俺を捨てないでくれと。うわー、情けなー!皆が5年を費やした船の出港の日、ようように仲間に入れてもらったくせにこの女々しさ!
今までも薄々感じてはいたけれど、5年待ったというある種の負い目が、何よりこの男に身を任せてしまったことのある過去が彼女の中に大いに影を落としていたから(てことは、雛倉とはプラトニックだったのかなあ……ていうか、一度寝たことでそこまで追いつめられるのはやはり時代か)振り切れずにいたんだけど、もう、ダメである。

だってコイツったら、またレイプ同然に彼女をモノにしようとするんだもん!またなんて言っちゃったが、でもきっと以前だってそうだったんじゃないのかなあ。
んで、もうおふみは激昂して、蹴倒す勢いで拒絶し、白鯨号の出航に急ぎ駆けていくんである。よそ行きのワンピースを着ていたから靴下を履いていたのを脱ぎ捨てて裸足に下駄をつっかけ、全速力で走っていく。

もう白鯨号は住民たちがテープを投げて華々しく出航するところで、彼女の声は雛倉に届きそうもない。おふみはきびすを返し、もくもくと煙を吐く機関車をやり過ごし(この機関車が劇中、すんごい印象的なんだよね)、波止場から大きく手を振る。
雛倉さーん、雛倉さーん!お帰りをお待ちしてます!って!つまりこの地を出て行くことはヤメた訳だね!しかしそうなるとコジョウはどうなるのかなー。あまりにもミジメなんだけど、彼(爆)。

でも彼って、戦争の負の部分をめっちゃ体現してるよね。戦時中は彼こそ勝ち組だったのに、終わった途端に、つまり平常な、マトモな世界になった途端にくるりとひっくり返る悲哀。
戦争責任、かつては庶民だった筈の彼が陥ったマッチョ意識の錯覚。それこそが、本作が描きたかったことなんだろうなと思う。

モノクロなのもそうだし、当時の狭いスクリーン幅、なんだか象徴的に横切りまくる機関車が吹く煙と、何より降りしきる雨(ずーっと雨!)が何ともまあ息苦しさを感じてね。
物語だけ追うと確かにメロドラマなんだけど、やっぱりやっぱり……戦後たった5年後に、その当時の心情をリアルにスクリーンに刻み込んだ本作は、実は凄く、凄いような気がする!★★★☆☆


千羽鶴
1953年 110分 日本 モノクロ
監督:吉村公三郎 脚本:新藤兼人
撮影:宮川一夫 音楽:伊福部昭
出演:木暮実千代 乙羽信子 木村三津子 杉村春子 清水将夫 森雅之 英百合子 菅井一郎 進藤英太郎 相馬幸子 加賀周子 殿山泰司 大美輝子

2011/4/9/土 国立近代美術館フィルムセンター(吉村公三郎監督特集)
私さあ、本作から16年後にまた映画化された方を観ているの、どうして忘れてたんだろ。いやそりゃあ私は忘れっぽいが(爆)、こうして思い出してみて、思い返してみると、もんのすごいキョーレツだったのに。それを思い出したのに。
このタイトルのせいかなあ、とてもこんな女同士のドロドロを描いているなんて、そして生々しくエロだなんて想像も出来ないタイトルじゃない。
タイトルの由来になっているのは、メインキャストのうちの一人、太田文子が愛用している風呂敷の柄ってだけなんだもん。
それこそこの同じタイトルでイメージそのままに想起されるような、全然別の戦争ヒューマンドラマとかもあるしさ。とてもとてもこのタイトルからは想像出来ないんだもの。

観ている間はね、本当に思い出さなかった。同じ筋なのに、なんでと思うぐらい。あれっと引っかかったのは、杉村春子が扮する栗本ちか子のことを、主人公の菊治(森雅之)が、「あの人の乳房にはあざがあって、それに毛が生えているんだよ。僕はそれをあの人がハサミで切っているのを見たことがある。とても気味が悪くてね」と言う台詞で、である。
あら……その画自体を見た覚えがあるなあと……本作の杉村春子はそのシーンを再現はしないんだけどね。
で、帰って調べたら、まさにそのシーンをあの京マチ子がやっていたことを鮮やかに思い出したんであった!そうだ!ジョキジョキ毛を切ってニッと笑ってた!と。

でもほんと、それだけ印象が違う映画だということなんだろうなあ。不思議。だって、脚本は同じ新藤兼人なのにさ。
思えば69年版は肉体関係を持ったことをハッキリと暗示もし、「肌を合わせた」と台詞にも出していたけれど、本作はそこが明確じゃないんだよね。
私がニブいのかもしれないけど、本作ではそんなことは一度もなかったような気さえした。

でも、69年度版では文子と菊治の関係もハッキリと明示されるんだよなあ……より現代的に仕立て上げていたのかなあ。でもねでもね、どっちも傑作なの。いや、私としては本作の方がかなりブルブルきたかもしれない。

だって杉村春子がね!すっごい、キョーレツなんだもん!彼女は菊治のお父さんの愛人の一人だった人。と、いうのが知れるまで、私は彼女が親戚のおばさんかなんかかと思ってた。
いかにも世話好きの、どこかやり手ババア的な感じ。やたらめったら菊治のお嫁さんを紹介したがる。家にも勝手しったる、といった感じでへーぜんと上がりこみ、菊治の着替えを母のごとく、いや嫁のごとく手伝う。
菊治やお手伝いのおばあさんからかなりハッキリ疎まれても、「ハイハイ、私は嫌われ者ですからね」と、判ってんじゃねぇかと(爆)。
悪びれないってのはこーゆーことかと、あの出っ歯気味の彼女の風貌からぽんぽん出る台詞に何度も噴き出しつつ、つまりは彼女はコメディリリーフだと思っていたのに……。

それにハッキリと対照的なのが、菊治と両主演という感じの太田夫人を演じる木暮実千代であり、まあ彼女がまた、杉村春子とは全く違う意味合いでキョーレツなんだよね。
もうね、もう、身持ちが悪い女、とはまさにこのことかと。いやね、劇中では彼女のことを誰もが、子供のような人だと。自分が望むことに対してまっすぐだと。
それってつまり、子供のようにわがままで、ガマンがきかないってことで、めっちゃ困ったちゃんなんだけどさ。
でもねそれよりも、そういう感覚よりかは、身持ちの悪い女、という言い方の方がしっくりくるんだよなあ。この言い方自体、かなり古い言い回しだけど、でもホント、そんな感じなんだもん。

自分でも、誰かにすがらなければ生きていけないんだと自覚している太田夫人、物語の冒頭、お茶のおっしょさんである栗本が開いたお茶会で菊治と数年ぶりの再会を果たす。
この場に太田夫人を呼んだのは栗本で、彼女にしてみれば自分と菊治、つまり彼のお父さんである三谷とのつながりを見せ付けるためのイヤミだったのかもしれないんだけど、「あの人、飛んできたわよ」と栗本が皮肉げに述懐するように、太田夫人はそんな人のウラの悪意など考えないんである。

んで、帰り道も太田夫人は彼を待ち伏せし、木の陰で長々と話し込む。それを文子がハラハラと見守っている。
帰っていくお茶会の参加者にごきげんよう、と挨拶をする中に、栗本もくる。あら、まだ帰らないんですか、と言う栗本に文子が気まずそうにすると、栗本は太田夫人と菊治の様子に気付く。
あらまあ、何をそんなに話すことがあるんですかねえ、とイヤミたっぷりに言って去ってゆく杉村春子は、決してねちっこくないだけに、カラリとしてるだけに、こ、コワイ!本当に彼女がさらいまくるんだよなあ……。

この娘を演じているのが乙羽信子で、まあ、まあ、まああぁ、可愛いこと!なんか、面影ない……っていつの時点から言ってのこと?彼女の出演作はぽつぽつ見てるし、若いころ可愛いのは知ってるけど、それにしても若い!
その頬の愛らしいくぼみで、ああ、確かに乙羽信子だ……と思うほどに、面影ないほどに若い。こんな頃から新藤兼人と……と思うと胸がキュンとなるんである。
文子も菊治のことを好きだったんだろうとは思う。でもそれは、観客にそう想像させる程度で、作品中はとにかく、頼りない母親を支えるケナゲな娘であり続ける。恋をする余裕さえ与えられなかったていうことこそが、切ないのだ。

それにしても、木暮実千代の、女の弱い部分全開っぷりは、同じ女として見てられないっつーか、自分はこうは出来ないから、半ばうらやむ気持ち?いやいやいや……。
正直、さ。菊治は彼女が言うほど、お父さんに瓜二つな訳じゃなかったんじゃないかと思う。実際、お父さんの写真や過去の再現シーンも割とふんだんで、ここでも森雅之が演じているのかしらんと思ったら、顔も全然違う清水将夫が演じているし。全然似てないじゃん、と……。

実際ね、太田夫人は菊治がお父さんにソックリだと、だからこそもう首っ丈になっちゃうんだけど、栗本の方は違うよね。
菊治を世話するのはあくまで三谷の息子だから。菊治に三谷をかさね合わせて恋慕したりはしない。そういう意味では実は栗本の方が、太田夫人より深く三谷を愛していたのかもしれないと思う。あんなうっとうしいやり手ババアでもね(爆)。

でも、そうなんだよなあ。太田夫人は三谷を愛していたという以上に、“誰かにすがっていなければ生きていけない女”であることの方が強かったんだなあ。
だからこそ栗本は、彼女を蛇蝎のように嫌ったんだろう。もちろん愛する人を奪われたライバルということが一番だろうが……。
そのシーンも再現されるんだよね。太田夫人の方を選んで、自分とは別れてほしい、と三谷から言い渡されるシーン。
絶対に別れたくないとよよと泣き崩れる杉村春子は、そういうイメージじゃないだけに……いや、杉村春子がじゃなくて(それも大いにあるかもだが(爆))、栗本がチャキチャキしたやり手ババアのイメージだったから、なんかえーっ!!と驚いちゃうんだよね。
そしてこのあたりから、彼女の女の顔がじりじりとあぶりだされてくるというか……。

それに対して太田夫人を演じる木暮実千代の、女が見たくない超女女っぷりは、ある意味見事である。
私がね、一番うぅっと思ったのは、電車の中で菊治が彼女を見つけるシーン。菊治の東京の仕事場に近い喫茶店で待ち合わせる筈だったところに来ていたのは、娘の文子だった。

あ、そうそう、母親が着物を散乱させて着替えをしているのを見つけて、菊治に会いに行くんだと合点が行き、娘が止めるんだけど、このシーンも凄かったなあ。
いや、単に着替えている母親を娘が止める、それだけなんだけど、着替えている母親、完全に女の顔になってんだもん。きちっとした和服なのに、着替え途中のせいなのか、やけにしどけないんだもん。
いやもう、その顔がさ、女の顔がさ、文子ちゃん、堪忍して、っていう、娘に対してこれ以上ミジメなことない懇願する顔がさ、もう見てられないんだもん……。

でもね、この時点では抑えたつもりだった。実際、待ち合わせ場所には娘が来たんだし。しかし菊治がじゃあ帰ろうと思った時、ホームであのお見合い相手のゆき子と行き会い、一緒に横浜方面に乗り込むのね。
そして親しく話なぞするんだけど、彼女の方が、太田夫人が車両にいるのを見つけるんである。そうすると彼、こともあろうに、そっちに行っちゃうのよ!なんでよ!
この時の太田夫人、もう魂が抜かれたようになってぼんやりと吊り革にぶら下がっている太田夫人、いやさ木暮実千代のしどけなさといったらなくて、思わず息を飲んでしまった。
でもねでもね、和服をきっちり着こなしてて、着崩れている訳でもないのよ。なのになのに、なんかもう……出ちゃってんだもん、どうしようもなく女が。本当に、息を飲んだなあ……。

しかもなぜそこに行く、菊治!ていうか、森雅之!あのね、なんたってこの事態を悪化させたのは菊治よ、てか、森雅之よ!
あのね、そう、69年度版を観たことを思い出してからは、そのキャストの印象の違いには大いに驚くものがあったんだけど、全部ホントに違うんだけど、平幹二朗と森雅之の違いも相当なもんだよなー。
ぼんやりとした甘さを持つ森雅之がやると、その腹立たしいほどの優柔不断さ、というか、優柔不断にさえ至っていない、お前考えてねーだろ、というおぼっちゃまぶりが顕著なんだもん。

結局、栗本に着替えから何から身の回りの世話を何となく任せているのも、その最たるものだしさ。太田夫人にも流されまくって、母親を心配する文子が不憫でならない訳よ。
彼はね、それまで父親のことをあんまり考えたことなかったんじゃないかと思うんだけど、こーゆー事態に至ってようやく正面から向き直る。

栗本と共にゆき子の家を訪ねるシーンが印象的である。栗本はゆき子をイチオシなのに、その家がやたらモダーンで、外国人が住んでいたという洋館で、瀟洒な椅子にテーブルで、妹が明るいジャズをピアノで鳴らしてる。
父親は「あんた、おれにニセモノをつかませただろ!」なんて栗本が困惑するようなウソをかます豪快さだし、栗本はすっかりヘキエキしてしまうのね。私みたいな古い人間にはどうも……と。
妹のピアノを「上手いんだかヘタなんだか判らない」と言うのには噴き出してしまったが(確かにちとビミョーだったから)そこを菊治が、あなたが勧めた娘さんじゃないかとツッコむと、あっさりそうですよね、と陥落してしまう素直さというか、単純さというか。

で、その帰りに菊治は誘われるまま栗本の一人暮らしの家に寄っていくんだけど、そこで彼女がどんなに三谷を、自分の父親を思い続けているか、知るんである。
写真はもちろん、彼からもらった思い出の品なども大事に大事にとってある。それでいて彼女は菊治から結婚はしないのかと聞かれると、もうこりごり、そういう経験をすると、女は段々と中性になっていくんですよ、と言う。
これは69年度版の京マチ子も言っていて、印象的な台詞だったんだけど、杉村春子が言うと、作中でもやり手ババア的な雰囲気だし、なんたって杉村春子だから(爆)、あまり女の匂いが元からしないというか(爆爆)。
なもんで、思わず観客からはこの台詞に笑いももれるんだけど、でも……実は……彼女が一番、女だったんだよなあ。

太田夫人が、もう彼女はガマンがきかん人だから、またしても菊治の元に押しかける。てのも、栗本がもう彼のジャマをするなと煽るような電話をしたからなんだけど。
で、父親の思い出の茶室で彼に迫りまくり、あわや、というところで、事態を察した娘の文子が駆けつける。
もうあわや、である。母親と同じように外から回って、雨の中ビニールコートを着て突っ立って。
雨だから、娘は油断するだろうと、私が弱っているから、雨だと出かけられないほど弱っているから油断した隙に、来たのだと、太田夫人は言った。なんという、なんという……。
だって、つまり、それって、娘を欺いたってことじゃない。母としてより、女の立場を優先したってことじゃない。そんなこと、見てて判ってたけど、判ってたけど……。

娘に連れ帰られて後、しばしして電話が入る。文子からである。母が倒れたと。相変わらずずうずうしく入り込んでいた栗本が不敵な笑みを称えて言った。「自殺でしょ」と。
……ゾウッとした!いやさ、栗本は太田夫人が最後に訪ねてきた時も、そして文子が迎えに来た時も……てか、この事態を電話で告げ口したのは栗本なんだから……ずっと、いるんだよね。時に障子にシルエットがすすすと動いてさ、不気味な存在感を示しててさ……。
オンナオンナしていた太田夫人とはまったく対照的にチャキチャキしていたのに、次第次第に太田夫人よりずっと怖い女を出してくる杉村春子にゾワー!
自殺でしょ、と言い当てた後、彼女はそのニヤリ笑いを抑えきれない高笑いに変えて、まるで泣いているように崩れ落ちながら、笑い続けた……。

ラストシークエンスは、太田夫人が死に、菊治が焼香に訪れ、そのずっと後になって文子が引っ越し間際の菊治の元を訪ねる場面である。
菊治は父親から譲り受けた会社が傾きかけていて、この家も手放すことにしたんである。この時も栗本がいて、太田夫人は魔性だった、娘だって判ったもんじゃない、行方不明で良かったですよ、などと言っているところに文子が訪ねてきたもんだから、観客は思わず噴き出してしまうんだけど、でも文子はそんな娘じゃなかった。

母親の形見を持ってきた。愛用の茶器。口紅が染みこんでいるそれを、菊治は大事に受け取る。早々に暇を請う文子を、菊治が送りに立つ。
栗本がその茶器を憎々しげに見つめて縁側の石に叩きつけて割るのには、それまでもじわじわと栗本の女を見せ付けられてはいたけど、ここでその答えが完璧に出た気がして、震えがきてしまう。
てか、てか、文子ちゃんがせっかく持ってきたのにさあ……。

でもね、やあっぱ、菊治がダメよ。判ってないんだもん、こいつ。ほのかな想いを抱いていた文子ちゃんの気持ちも判ってなくて、呑気に送っていって、ここでいい、ここでお別れしたい、と言う文子に、また会えますか、どこにお勤めしてるんですか、と聞くという大バカヤロー!
言いません、さようなら、ときびすを返し、泣きながら砂浜を走り去る乙羽信子のけなげさにうっと胸がつまる。もおおお、森雅之、おめーなー!!

それにしても杉村春子だったなあ。中性になる、というあの台詞を、彼女が言うのと69年版の京マチ子が言うのとではかくも違うのかというところが、実に象徴的だった。
割と前半のシーンで、菊治がお茶漬けをお手伝いのおばあさんに所望したシーン、栗本が持参したしば漬けの切り方でおばあさんに文句をつけ、「ステーキは厚く、しば漬けは細かくよ」と言ったのには思わず爆笑!そういう軽さがあるから、ついつい油断しちゃうのよね。
このおばあさんがまた、「あの人が旦那様に可愛がられていたなんて信じられない」とつぶやくのも可笑しく、そのあたりの緩急がホント、抜群なの!★★★★★


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