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千年女優
2002年 87分 日本 カラー
監督:今敏 脚本:今敏 村井さだゆき
撮影:白井久男 音楽:平沢進
声の出演:荘司美代子 小山茉美 折笠富美子 山寺宏一 津嘉山正種 飯塚昭三 津田匠子 鈴置洋孝 京田尚子 徳丸完 片岡富枝 石森達幸 佐藤政道 小野坂昌也 小形満 麻生智久 遊佐浩二 肥後誠 坂口候一 志村知幸 木村亜希子 サエキトモ 野島祐史 浅野るり 大中寛子 園部好徳 大黒優美子
実写映画に対するアニメの強みは、想像力の翼を自由自在に広げられるところにある。今はCGなども発達して、実写映画でもそうした試みが多様にできるようになったけれども、実際人物や実写風景に付加するリアリティとアニメでのそれを考えれば、やはりアニメでのそうした描写の方が、圧倒的な力を持つ。「千と千尋……」も本作も、あるいはクレしんだってドラえもんだってそうに違いない。しかも本作は、それら他のアニメ作品とそのスタンスというか個性がかなり違う。ひとことで言えばいぶし銀。シブいのだ。話といい展開といい、そしてカッティング、小道具、画面全体の色調、キャラクター……アニメ作品がまず集客力として提示してくるようなスタイルからは確かに離れている。本作の宣伝ポスターは実際の映画のイメージとはちょっと異なる、ハデハデしい振袖姿の女の子が駆けてくる姿になっていて、これは何とかその集客力を、という努力の跡が見られるのだが、それは正しい宣伝の仕方かどうか。
大映画会社、銀映の撮影所が取り壊されることになり、それに伴ってこの銀映の看板スターであった往年の大女優、藤原千代子のドキュメンタリーが撮られることになる。それを企画したのは、当時銀映にペーペーとして勤めていて、藤原千代子の大ファンだった立花源也氏。彼女の元を訪ね、恋と映画に捧げた人生を語ってもらう。銀映という映画会社の名前と当時の作品群(パンフレットやポスターでそこここに指し示されている。明らかに「君の名は」がベースになっているものも)、その撮影風景、藤原千代子という女優、その名前と当時のたたずまい。もちろん実在しないフィクションの映画会社で映画作品で映画女優なのだけれど、かつての黄金時代の映画界をこれ以上ないほどに再現していて、見事。当時青春を過ごした人たちなら、もうこれだけで涙腺を緩ませてしまうのではあるまいか。映画と人生がない交ぜになる記憶を物語っていく、現在はもう相当な老齢であろう藤原千代子は、しかし実に上品に年をとり、目もとのホクロは若かりし頃のチャームをいまだ漂わせている。ホッソリとした体に和服がしなやかに似合う。これだけお年を召した女性をキャラクターとして持ってきて、それがこれだけ美しく魅力的だというのは、アニメ作品では初めて見た気がする。
彼女が若い頃のたたずまいも、というかもともとの絵柄がその頃の日本、日本映画、日本映画界の女優を彷彿とさせる、和の美しさに重点が置かれているので、決して華やかではない(まあ、このへんがアニメ作品として宣伝しにくい部分なのだろうと思う)。戦時中の描写になると、ことに色調がぐっと抑えられ、セピアっぽいダークグレーで描かれることで重苦しい戦時中の空気を良く伝えている。そうした実際の時間軸と、お姫様だったり忍者だったりする映画の物語の時間軸との境を自由自在に飛び越えて彼女は語る。聞いている立花源也とその助手の井田恭二(彼は若く、その時代を知らないので、いささか冷ややか。距離をとりながら絶妙に関西弁でツッコミを入れてくる)もその世界に取り込まれていく。そう、取り込まれていくのである……彼女が語る、その実際の場所に彼らもおり、若い彼女を実際にカメラが追い、その事態を実際に目撃するのである。立花なぞはこのシーンで50何回泣いた、などと感激する始末で……しかしその場面は映画の撮影シーンではなく、実際の時間軸で彼女が体験していることなのであれれ?と思う。
千代子が映画界に入ったのは、運命的な出会いをした絵描きの青年にもう一度会えるかもしれないと思ったから。官憲に追われていた彼を助けた千代子は、「一番大切なものを開ける鍵」を落としていった彼を思い続ける。満州に行くと言っていた彼を探す目的で、満州撮影があるという誘い文句で映画会社のスカウトに応じる。常に千代子の心にはその鍵の君がいて、撮影した映画の記憶も、全てその鍵の君を思う気持ちにつながるものなのである。だから、境がなくなる。立花が遭遇する映画で見たはずのシーンが実際の時間軸のものなのも、彼女の中で境がないからである。一見してそれは、彼女が一途な恋に生きる女性であることを指し示しているようにも見えるのだが、実は違う。最後の最後に用意されている彼女の台詞によってそれが判るのだけれど、実際は、全てに渡って伏線が、いや伏線どころか正解が張り巡らされているのに、見せ方の妙味で、それが全く逆の感覚を観客に与えているのだ。だからこそ、最後の台詞にゾッとし、しかし思い返してみると、全てが思い当たることにもう一度ゾッとする。
映画と実際の境が“恋のために”なくなっている、と見えているし、彼女自身もそういう視点で語っていくのだが、違うのだ。彼女はホンモノの女優だった。女優そのものだった。“女優であることのために”その境は失われていたのだ。ラストに用意されているのは、こういう台詞。語り尽くしたところで大きな地震があって、倒れた彼女は救急車で運ばれる。もうすぐ息を引き取ってしまう彼女に涙ながらに立花は、これであの人に会えますね、というと、彼女は、「そうね……でもそんなことはどうでも良かったのかも知れない。だって……」そのあとは、立花には聴こえず、彼女は飲み込んだまま持っていってしまった台詞なのだが、これなのだ。「だって、私、あの人を追いかけている自分が好きだったんだもの」
だから彼女は、あるいはあの鍵の君が死んでしまっていたことを、知っていたのかも知れない(彼女に手紙を届けにきた官憲が、自分が拷問して殺してしまった、と立花に告白している)。そして、それこそがどうでもいいことだったのだ。彼女は鍵の君に、ではなく、女優であることこそにのめりこんでいたことを、自分自身で知らないふりをしていたのかもしれない。一度は結婚したものの、結局は別れ、一人身で過ごした彼女は、映画界を去ってからも、そうやってずっと女優であり続けたのだ。彼女が見た老婆の幻影は、あるいはそのことを彼女に告げにやってきたのかもしれない。彼女はその幻影から耳をふさぐために映画の現場から離れ、でも離れてもずっと女優であり続け……。
それは、でも、ひょっとしたら。ひょっとしたら幸福なことなのだ。誰か一人を一生かけて好きでいることと、自分を一生好きでいることと、どっちが幸せかと問われたら、……判らない。どちらか片一方だけ選ばなければいけないのなら、それは不幸なことかもしれない。千代子は、前者は後者のためのオカズに過ぎなかったにしても、彼女はそのどちらも選ぶことが出来たのだもの。だって、だって結局は、人間は最後には一人になっちゃうのだ。どんなに愛する人がいても。誰かを愛して愛してずっと一緒にいたいと思っても、それを完全に全うするためには、一緒に死ぬしかないのだ。そうしたとしても、死ぬという行為は、結局はその一人のためだけのものだ。だとしたら……千代子の人生は、一生好きでいられた自分との道行きの人生は、あるいは幸福だったのかもしれないと、思うのだ。ただ、それはどこか苦い味を、観ている者に与えるけれども。
千代子が死ぬのに際して、立花が涙を流すシーンが良かった。彼こそが、ずっとずっと千代子を思い続けていたのだから。千代子が映画界を去った時、そしてこの世を去る時、まるできっかけになるように体を張って千代子を守った彼。この立花と恋に落ちることが出来れば良かったのにね……でも、千代子は現実の恋が怖かったのかな。本当に傷つくことが。
なるほど、エッシャーの騙し絵を思わせるというのは、そうかもしれない。つぎつぎと繰り出される、映画作品、その時代背景もくるくると変わり、立花もいつのまにやら映画内の登場人物になってる(笑。そんでもって井田にツッコまれる)。過去を実際の現在進行形でドキュメントする、というのは、確かにありえないことではあるけれど、これぞホンモノのドキュメンタリー!なるほど、これはアイデアだよね。タイムマシンがあったなら、過去に飛んでカメラを回して、ホンモノのドキュメンタリーが作れる、という発想。ここでは千代子自身の記憶がタイムマシンとなり、そのタイムマシンは多分に主観が入っているわけだけど、だからこそ面白く、スリリングで、そして怖い。「パーフェクトブルー」もそうだったけど、これもまさしく大人のためのアニメ作品。かなり芸術家肌が入っているから、ちゃんと咀嚼できる大人じゃないと。アニメは子供のためのものじゃないということを、いくら何でもそろそろ世間に判ってもらわなくちゃ。
このアニメ制作会社のマッドハウスって結構聞くけど、凄いよね。「メトロポリス」「人狼」もここでしょ?アニメ制作会社ってジブリばかり言われるけど、全く違う個性として、大人の、そして芸術派のアニメを制作するこのマッドハウス、タダモンじゃないよなあ。今現在、ひょっとしたらジブリと双璧をなすのがこのマッドハウスなのかも。
この鍵で開けるものとは結局、何だったんだろう。キザな言い方だけど、やっぱり心の扉、かな。★★★★☆
川端康成のノーベル文学賞受賞記念映画、だという。ははあ、そんなものがあったのね。しかしこれは以前、吉村公三郎監督で一度映画化されていて、世間的にはそっちの方が評価が高いらしい。ま、私は未見だけど。この作品の見どころっつったら何といっても京マチ子と若尾文子のがっぷり四つに組んだ二大女優の強烈な演技バトル!京マチ子は大好きで、彼女が出ているからという理由で結構作品を追っかけているのだけど、この若尾文子という人も何故だか今まで私にとって今ひとつ縁のなかった人で、これもコワいことに、初見なのかもしれない。さ、最初にこんなコワいキャラクターで見てしまって良かったのかしらん……。
かつて三谷という男の新、旧の愛人だった女同士。その男が死に、旧、の栗本(京マチ子)の方はこの男を太田夫人(若尾文子)に取られてしまって、その当時は恨みつらみで暴れまくり、うわ、コッワー!と思ったのだが、太田夫人はそれ以上にコワかった。むしろ栗本の方はかっんぺきにフラれてしまえばあとはさっぱりしたもので、彼女が言うとおり、私はもう女ではなくて中性の感覚を持っている人間、男にはもうコリゴリしたの、と言うのに納得しちゃうほど。三谷の息子である菊治(平幹二朗)のお嫁さんの世話が私の義務、と公言してテキパキ奔走し、まとわりついてくる太田夫人を冷徹にあしらうのは小気味いいほど。同じ和服姿でも栗本が颯爽としたおっしょさん(お茶の)であるのに対し、太田夫人はその生地がきゃしゃな身体にまとわりついて、しんねりとしたたおやかな、正直言えばうっとうしい女なのだ。
ほっんとにこの太田夫人のうっとうしさといったらない。京マチ子のカッコよさに対して、若尾文子のうっとうしさぶりもまた実に見事。彼女は誰か(というより男)に頼らなければ生きていけない女性。男が死んだ後は彼にソックリに育った息子にまとわりつき、しなだれかかり、結婚前の大事な息子さんなんだから、と栗本に牽制されても(でも栗本もことさらに煽ってるけどねー、絶対。うーこのイジワルさがたまらない。京マチ子、最高!)、いけないことだと判っていながら逢わずにはいられない、としつこくしつこく通ってくる。もうほとんど待ち伏せの女王で、これぞまさしくストーカーの非常にいい?見本である。しかし菊治もまた太田夫人の魅力に溺れてゆき、彼女が自分と父親とを区別できないでいるのに嫉妬するまでになる。
繰り返される情事。それは彼の父親が大事にしていた茶室、といういわば神聖な場所でも展開される。カビくさくなるまで放置されていた茶室が、男と女の濃厚な官能に匂い立つ。平幹二朗が、ううう、カッコいい!昔の若い男優さんって、こういう風に骨格とかきちっとしてて、風貌もしっかりしてて、こういうずっと年上の女優さんを相手にしても、オバサンとツバメみたいな違和感が全然ないというか、かえってずっと似合ってるんだよなー。今の若い男優には、こういうどっしり感のある人って、いないよな……。それで言ったら京マチ子や若尾文子のような女優もいないけど。平幹二朗の、和服の似合うがっしりした体格、骨ばった、でも長い指をした色っぽい手が若尾文子をぎゅうと抱きしめるとできる、和服の生地に寄ったしわまでもがぞくぞくするほどに官能的。若尾文子は80%ぐらいは息なんじゃないかという、絶えず欲しがっているような声があまりにもあからさまでスゴいものがあり、それが物語後半にいたって彼女が病身でフラフラになっても、それが苦しさからくる声の感じにはやっぱり聞こえないのが、さらにスゴい。彼女はそのフラフラの身体をおしてまたしても彼の元を訪れ、フラフラだってのに、またしても彼に抱かれるんだから。オオーイ。
私って悪い女よね、ダメな女よね、いっそ死ねたら……と繰り返す太田夫人に、そうだよ、判ってんじゃないかよ、だったら死ねよ、などという超残酷なツッコミを入れたくなる、っつーのも、観ている側をアクマにさせるという点で、実に残酷な映画かも?しかし、太田夫人は本当に自ら命を絶ってしまい、母一人子一人で彼女をずっと心配していた娘は意気消沈する。この娘ってのが実に出来た女の子で、母親が男に抱かれなければ生きていけないような女だってのに、その母親を不憫に思い、母親のために菊治から遠ざけようとするんだけど、彼女が死んでからは、思い通りにさせてやればよかったのかもしれない、などと後悔するんである。いやあ、んなことはないでしょ、と観ているこっちは思い、今度は娘に近付く菊治に最初の彼女同様拒否反応を示すものの、いや、この子はちゃんと幸せにしたったげて、という思いで、彼と彼女が運命的に惹かれあっていくのをドキドキしながら見守るんだけど……。
そこに割り込んでくるのはまたしても栗本。菊治が北海道への1ヶ月の出張からもどってくると、彼の相手として用意していた娘さんと、そしてこの太田夫人の娘の文子も結婚してしまった、と言う。文子を愛し始めていた菊治は意気消沈するのだけど、その日思いつめたような表情で文子が訪ねてきていて、そのどちらもがウソだと判る。文子が結婚したとウソをつくのはわかるけど、もうひとつのウソは何のために……?そう考えると、栗本の女としてのしたたかな思いに想像がいって、ゾウッとなってしまうのである。この日、文子は彼に抱かれたいという思いをいだいてやってきたに違いなく、彼もまたその思いを敏感に察知して、二人はまたしてもあの茶室で結ばれる。不意の隙をついて彼女の唇を奪い、そして……の展開は、くううう、何というイロっぽさ!しかしあの茶室はいわば、呪いの空間かもしれない。文子の帰り道に栗本が待ち伏せをしていて、彼女を追いつめるようなことをいう。そして彼女は姿を消してしまう。
この太田文子を演じる梓英子の美脚ときたら、ちょっとスゴいですよ、マジで。このへんの時代を描いた映画を観るとよく出てくる、ストンとしたミニのワンピース、ホント、かなり超ミニで、座ったりすると、おおお、鼻血ショットがああ!姿を消した彼女を追い求める菊治なんだけど、栗本はあの子は母親と同じように自殺したに違いない、と妙に確信めいて言うわけ。例によって勝ち誇ったような笑顔を見せて。それを聞いた菊治はあの人は僕が初めての男だった、僕もあの人と肌を合わせて、あの人こそが愛する人だと判った、とか何とか、結構臆面もないことを言うわけね。そんなあの人が自殺するはずはない!絶対にない!って。で、こーりゃどっちの結末だー、とハラハラ、ワクワクしてたら、ぬ、ぬ、ぬわんと、そこでカットアウトとは何ごとだー!?確かに小説ってこういう終わり方するの結構あるから、きっとこれは原作に忠実にいったんだろうなあ。で、でもそれって、絶対……の結末だって思っちゃうじゃない、やだそんなのー!もう、日本文学ってそういう部分クラいから、好きだけど、キラい、もう。
それにしても、このお茶の時間と空間の間合いがねー。やっぱりイイやね。冒頭なんて和服の華やかさを競う、婦女子がわんさと集まったお茶会で、その中に置き去りにされたがごとくの“黒”一点の平幹二朗がまたなんともいい佇まい。そして、その茶室の、どこか無限の時空の中に展開される官能の……うわあ、いいのかしらん、うー、でも好き好き、こういうの、こういう和のエロは、隠微でゾクゾクする。カラー作品だけど、モノクロでもイケそう。★★★☆☆