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「て」


2011年鑑賞作品

天使突抜六丁目
2010年 96分 日本 カラー
監督:山田雅史 脚本:宮本武史 山田雅史
撮影:笠真吾 音楽:渡邊崇
出演:真鍋拓 瀬戸夏実 服部竜三郎 麿赤兒 若松武史 蘭妖子 栗塚旭 長江英和 デカルコ・マリィ 桂雀々 横山あきお 柄本明


2011/11/29/火 劇場(新宿K’scinema)
単純にこの神秘的なタイトルに惹かれて足を運んだが、「堀川中立売」から続く“京都連続(シリーズ)”企画だということにちょっと腰が引けたのも事実。玄人筋には評判が良かったらしいかの作品、私はちっとも判らなくて、文字通り頭を抱えてしまったから。
本作に関しては判りやすい“筋”は表面的には一応見えているし、そこまで戸惑うこともなかったんだけど、やっぱり同じ企画のラインにあるんだなあと感じさせる、独特のアーティスティックさを感じたのは事実。
京都、というところは、さすが古の古都、連綿と続く芸術の都だから、こんな風に独特の味わいの作品が出来るんだろうか?若干の排他的感覚を感じつつ……でもそれはいい意味でかもしれない……そう、いい意味で、戸惑いと屈託を抱えながら、見ていた。

そもそも、このタイトルとなっている地名が実際は存在しない、ということを劇中で言っていただろうか?その前に、予告か何かでその知識は頭に入っていたのだけれど、劇中ではそんなことはわざわざ言わなかったような気がする。
それどころか、この実に映画的な“天使突抜”という名前の町自体は実在していること、しかし四丁目までしかないこと自体、劇中で何も語られないので、前知識も後知識もないままだったら、その意味付けなど何も判らないままだったかもしれない。判らないままの方が良かった……?どうだろう……。

でも、四丁目までしかなく、舞台が五丁目ではなく六丁目であることにやはり何がしかの意味を感じるしなあ。隣ならするりと迷い込むこともありそうだけど、隣の隣なら、入り込む人間の中に何かの条件のようなものがなければならないような気がする。

主人公の昇は勤めていた工場が突然倒産、経営者を追いかけてきた借金取立てのヤクザから逃げ出すために、野を越え山を越えこの六丁目に迷い込んだ。
でも、それだけではない、ずっと彼を支配してきたような虚無を感じる。管理人をやっている自分のアパートに昇をかくまってくれる幼馴染だという佐々木も、そこに住む天使の羽を背中に育てているみゆきも、死んだ夫をいつまでも待ち続ける初老の女も、みんな、やっぱり、何がしかの屈託を抱えてる。

五丁目ではなく六丁目、まあ五丁目であったって私は同じことを思ったかもしれないけど、パラレルワールドなのかなあ、なんて。ちょっとフシギ設定があるとすぐパラレルワールドに逃げ込むのは私の悪いクセだが。
しかし昇が最後、因果か輪廻のように元のシチュエイションに戻ってくること……、冒頭の画と同じように逃げ出した彼の画が、いでたちも背景も全く同じなことを考えると、やっぱりそれっぽいなあ、と思う。
まるでメビウスの輪のように、彼はここに戻ってきてしまう。毎回展開は違っても、逃げ出し、逃げ惑い、ここに戻ってくるというシチュエイションは同じ。
昇自身気づいていなくても、これまで何回も何回も、彼はそれを繰り返していたのかもしれない、と思うような。

……とにかく基本的な物語を語ろう。先述したヤクザから逃げ出し、佐々木のアパートの空き室に転がり込む昇。
そもそも彼が佐々木の居所を判っていたのか。佐々木は昇を幼馴染だと言うけれども、昇はイマイチ彼のことを覚えていないし。
逆に佐々木が昇のことを覚えていたのは、後に語られるところによれば、いじめられていた彼を昇が助けてくれたからだ、というんだけれど、何かそれも、今思うと、佐々木の勘違いってコトだってあり得るよな、などと思う。
それぐらい、何か二人の間柄が危ういというか、希薄に感じるんである。

だってね、昇がヤクザから逃げ出して路上でぶっ倒れ、次に目覚めた時佐々木のアパートの管理人室にいるんだけど、その間の展開も全く飛ばされてるのも後から考えればブキミかもしれない。

昇は飛んできた新聞紙の片隅に載っていた警備員の仕事を求め、採用される。マジメな老練警備員の先輩、杉本と共に少しずつ現場を覚え始める。
杉本から「君は真面目な人ですね。判りますよ」と言われると昇はそうかなと思っているのか、微妙な顔つきをする。
何か昇は、自分で自分自身がよく判っていないようなところがある。それは何もとりたてて奇妙なことではなく、落ち着きどころの持ちにくい今の世の中で、大人にならなければいけない人間は多かれ少なかれそうなのかもしれない、とも思う。
ただ、そうかもしれないと思いつつ、このほころびのような感覚が後々、どんどんその裂け目が大きくなっていくことこそが、展開というか、破綻というか、とにかく大きく物語を揺り動かすことになるのかもしれない、と思う。

昇は行きも帰りもやたら道に迷う。なかなかこのボロアパートにたどり着けない。それを佐々木に問うてみると、じきに慣れるよと言いつつも、ここは揺れ動いているとか、何か意味深なことを言うんである。そして、ここの人たちは変化することで頭がいっぱいなのだとも。
イマイチ佐々木の言うことが飲み込めない昇は、それを同じアパートの住人のみゆきに問うてみる。みゆきは、変化したくても出来ないのだと言う。
そしてこの街が大嫌いだと言う。私の背中には羽根が育っていて、いつか私はここから飛び立って出て行くのだと、昇の耳に囁く。昇はそんなみゆきに惹かれ、彼女と交わった。

何かね、このみゆきという女性って、なんかありがちな、私の大嫌いな、白痴系ヒロインにも見えてちょっとヒヤリともするのね。どうなんだろう、そこらへんは微妙な立ち位置。
昇との出会いは、トイレでゲーゲー吐いてぶっ倒れた彼女を介抱した……じゃないな、彼女のつまらせたトイレを掃除したことから。
仰向けにぶっ倒れた彼女をほっといてカッポンでトイレの詰まりを直し始めるあたり、よーく考えると昇は人間的にどうかと思うのだが、なんせここまででも充分異様な雰囲気にのまれているので、何かフツーに見てしまう。

それに何度となく彼女のリバースとその吐瀉物が臆面もなく映し出されるので、そんな引っかかりが吹っ飛んでしまってオエーと思ってしまうっていうのもある。
まさかそれが計算でもあるまいが、この吐瀉物接写は結構悪趣味だよな、と思う。それともこの吐瀉物の物質?に何かの意味が込められているのかとか思い(なんか妙に白っぽくて意味ありげのようにも見えた……うげげ)一生懸命目を凝らしてみたりもしたが、やっぱり気持ち悪いだけ(爆)。困ったなあ。

ふと、白痴系ヒロインと言ってしまったけど、みゆきが何をするでもなくこのアパートにいて、いつもしどけないカッコで、つまりそれで昇の欲情を沸き立たせ、彼がプレゼントするのも童女のような、純白のミニのワンピースだったりして、なんかどうにもこうにもそうした感覚を感じちゃうんだよね。うーん、考えすぎだろうか……?
ただ、みゆきが、結果的に言えば暴力ダンナに怯え続けていること、そのダンナを特に考えもせずにぶっ殺してしまうことと、もう一人、こっちはホントにちょっと白痴になっちゃった女性がいるでしょ。死んでしまった夫を待ち続ける初老の女性。

みゆきと彼女はお互い嫌い合っている、特にこの女性はみゆきを毛嫌いしてて、あの女と話すと魂を抜かれるとまで昇に忠告するぐらいなんだけど、でも実際は、みゆきのような女が成れの果てになったら、この女性のようになっちゃうような気もするんだよね……。
何かね、ちょっとイラッとしたのだ。配偶者によって翻弄されてちょっとバカになっちゃった女。若いうちはそれも蠱惑的な魅力があって、実際昇はちょいとクラリとしてしまうけれども、それでとんでもねー事態に巻き込まれる訳だしさ。
そしてこの初老の女性に至ればもう、誰からも相手にされない。若いうちなら白痴の魅力もあったけど、もはやちょっとおかしなおばちゃんぐらいにしか思われない。

……何か私、そーゆーことにこだわりすぎ?でもなにか、ね。
このおばちゃんが育てているキュウリを、みゆきはことあるごとに失敬して、昇に差し出したりもする。季節は夏で、まさに夏の野菜だけど、その間にもどんどん大きくなって、黄色く亀裂が入って、ヘチマみたいになっていって、美味しくなさそうになっていく。
最終的には、これは昇の妄想なんだろうけれど、ロケットみたいにでかくなったキュウリが窓を突き破らんと迫ってくる。
しどけないみゆきが携えていることもあって、妙に性的な意味合いも感じたりするんだけど、大きくなって、美味しくなさそうになる、っていうのが、ね。ヘンに考えすぎ?

昇は警備員としての仕事を粛々とこなしてはいるんだけど、まあ、やりたい仕事な訳でもないし。ていうか、その前の工場での仕事だってやりたい仕事のような雰囲気ではなかったけど。
でもそれでも、配管の仕事は彼の身についていて、このボロアパートの水漏れなんかを頼まれもしないのにヒマつぶしに直したりしていた。あるいはそれが、彼が自分の今までの人生をなんとか肯定していた一瞬だったのかもしれないが。
でもこの場面は、非現実的な女、みゆきが水に濡れて更に非現実的なたたずまいになる、つまり画になることを示すためのようにも思えたけど。
実際、フシギ系の女が水に濡れるってのは、やけに画になる。男のどこかの?琴線を引き寄せるんだろうと、女だって判る。

生計のため、というのも、佐々木が「こんな物件で家賃をもらうのは申し訳ない」て台詞がわざわざあるぐらいで、好きに使ってくれとも言っていたし。
食事のシーンは図ったように出てこないし……みゆきが作った料理を食べるシーンはあるけど、いかにもマズそうで、それも意図的な感じがするし。

とにかく、このアパート、天使突抜六丁目に迷い込んでから、一体何のために昇は生きているのか、って感じで。いや、それ以前の昇だって似たり寄ったりというところだったんだろうと思うけれど、そしてそれは、私らだって大差ないんだろうけれど。
家賃とか食費とか、そういう判りやすい生命のための費用が見えにくくなってくると、こんなにも生命そのものが希薄に見えるのか、と。

最初にお世話になったベテラン警備員、杉本からはやけに気に入られ、自宅にも招待される。
杉本が熱中しているのは化石。工事現場からはよく発掘されるんだという。特に杉本が大事にしている、天使の羽の化石が埋もれているという丸い石が、その後の大きな展開に関わってくるんである。

この杉本を演じているのが柄本明で、他にも昇を追いかけるヤクザに麿赤兒とか面白い大御所が配置されているけれど、やはり柄本明には大きな意味を感じる。
それなりに彼の真摯な警備員としての態度を尊敬していた昇だけれど、アイツは使えない老いぼれだと他の現場でクサされているのを聞き、その後昇が仕切りを任された現場で杉本が配置されたことで、昇は一気に尊大になってしまうんである。

確かにね、杉本の潔癖さは現場を停滞させることもあるだろうし、何より車が怖くて車両誘導が出来ないということが、杉本が軽んじられる原因ではあったんだろうけれど。
でもさ、杉本が腹を立てた若い女の子のテキトーな誘導の態度はそりゃあ、杉本の言うことの方が正しいと、見れば誰もが思うじゃん。
それなのに昇は女の子の肩を持って、拗ねてキレた杉本さん、苦手な車両誘導に手を出してトラックに跳ね飛ばされて……あれは、死んでしまったんだろうなあ……うう。

おーっと、実はここにもワナが隠されていたのだろーか。私が大嫌いな白痴女のパターンがここまで二度も示されていて、この警備員の女の子、彼女いわく「いつものようにやっているだけ」と、ちょっとしたベテラン風さえ吹かせる女の子も実は、白痴とまでは言わないまでも、その手前、白痴よりもタチの悪い、バカ女だってことなのか。
あーあーあー……私は基本、女の子が好きだから、こーゆーの、ほんっと、ヘタれてしまうのさ。実は本作で尊重されている女って、一人もいないのかと思うと、ホントにヘタレちゃう。

そういう意味で言えば、みゆきは確かに微妙である。白痴はイコールバカではあらんが、男を堕落、あるいは破滅させるという点では一致している。
背中に羽根が生えてきているんだと囁く時点でアブナいが、しかしこれは映画であり、天使突抜町であり、地図にはない六丁目なんだから。
実際、最後の最後、みゆきは見事に羽を羽ばたかせて、どこかに飛んでいってしまうのだから。

みゆきにはとんと釣り合わない、やけに老人のダンナが突然彼女の元にやってきて、ボコボコに殴りつけているところに昇が遭遇し、止めようとする。
しかしこのダンナが妙に柔和な笑顔なのに腰が引きかけるんだけど、でもボコボコだからさ、昇は再度止めようとすると、逆にみゆきが昇が持ってきたスパナでこのダンナをガンガン殴りつけて、殺しちゃう。

管理人の佐々木は、ややこしいことに首を突っ込むなと言ったじゃないかと言いながら、証拠隠滅に手を貸してくれる。
あのおばちゃんに死体を運ぶところを目撃されるが、大丈夫、あの人の言うことを信じる人は誰もいないから、と意に介さない。
ゾワリとするが、実際こんな風に失踪扱いにされる人たちが結構いるのかもしれないと思うとさらにゾワリとする。

しかし、この殺人は見つかってしまう。雨が降って、埋めた死体が顔を出し、子供たちが見つけてしまう。あまりにも甘い証拠隠滅。
刑事たちが大挙して押し寄せてくる。この時昇は、杉本を事故死させたことで大いに叱責されており、オレは悪くない、オレは悪くない、と唱え続けている。
いや、悪いのはお前だろと思い、今までいい人そうに見えていた昇の変貌ぶりに驚くのだが、しかし、いい人そうというほどの根拠もなかったことにも気づいて、何かオロオロしてしまうんである。

昇がいい人そうに見えたのは、特に悪いことをしていないから。悪いことをする機会もなかったから。
突然見せた杉本に対する尊大な態度は、彼が現場を任されているという、もしかしたら初めてかもしれないリーダーシップに浮かれていたのか……いや、ただ単にここまでの色々不条理な展開に彼自身がイライラしていたのか、なんとも言いがたい。
なんかそんな風に、判りやすく定義できないんだよね、全てが。

みゆきが旦那を撲殺したことが明らかになり、刑事が押しかけてくる。この時点でもはや、昇は杉本の死に際して“自分は悪くない”ループにとらわれ、ついには人形になってしまった!?
これは……あの、工事現場によくある、ただ警備灯だけを振っている人形なんだけど、警備員の役割、歩行者を安全に誘導し、たまには感謝の言葉をもらえることに有意義を見出す杉本のような慎ましい警備員に対し、一番使えるのはこの人形だと臆面もなく言う、これもまたベテラン警備員の存在があって。
そう思えば昇が人形になってしまって、更にはその描かれた稚拙な目から涙をこぼすなんていう描写って、ベタに社会的匂いがしなくもないけど、結果的にファンタジーに昇華した物語の中では、同様にファンタジーになってしまった、かなあ。

警備網を突破し、昇とみゆきはロマンチックに逃亡に成功したけれど、二人が暮らせる“町”なんぞにはたどり着けない。
この六丁目から出られないのか、はたまた、そもそもこんな二人を受け入れる“町”なんてものがないのか……。
みゆきは疲れ果て、昇のとりなしの言葉も耳に入らず、自分には羽根があるんだから!いずれは飛んで行く。あんたを連れては重くて飛んでいけないんだから!と、これぞ逆ギレ。あーたが昇に連れ出してもらったんやんか……。

でも彼女の言葉どおり。みゆきは天使の羽を完成させた。でもそれも、昇が杉本のもとから持ち出した、天使の羽の化石を狂ったようにかじり、吸血鬼のように口元を血だらけにして、そして、悪魔のように背中から見事な羽根をバッサバッサと成長させたのだった。
そう、天使というより、悪魔の羽根に見えた。確かに純白だったけど、鮮血と、突然生え出した妙に立派過ぎる羽の異様さと、曇った空と、天使が人を幸せにするという意味合いと違って、自分が幸せになるために飛び立つみゆきという女のどす黒さと、色々あいまって。
大体、羽を得て、みゆきはどこに降り立つのか。ただ飛び立つことしか考えていないことが、哀れで。

全てが、幻だったのかもしれない。また昇は走り続ける。天使の羽の化石のかけらをバックにしまって、そのバッグを抱えて、走って、走って、走って……。
どこかで見た画だ、あ、あの冒頭の、昇がヤクザから逃げてる画と同じだ、と思ったとたんのブラックアウト。

ちらと言った、巨大きゅうりが窓を突き破らんばかりに迫ってくるとか、あと、セミの抜け殻が大量に降ってくるとか、特に説明のつかない異次元描写が魅力的。これが、画になる、ということ、なのだろう。 ★★☆☆☆


デンデラ
2011年 118分 日本 カラー
監督:天願大介 脚本:天願大介
撮影:古谷巧 音楽:めいなCo.
出演:浅丘ルリ子 倍賞美津子 山本陽子 草笛光子 山口果林 白川和子 山口美也子 角替和枝 田根楽子 赤座美代子

2011/7/19/火 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
姥捨山伝説には続きがある……てなテーマで描かれるんだから、そりゃあ、「楢山節考」を思い出さない訳にはいかないんだけど、私はなんたるうっかりさん、それが今村昌平作品だということを失念していた。
おいおいおい、この場合、それを失念したらイカンだろう。だって本作はなんたってそのご子息が監督さんなのだから!
いかに原作小説があったとしたって、その映画化に手を出したのが天願監督ならば、そりゃあ父親の作品へのアンサームービーだと思われたって仕方ない、ていうか、それを十分承知の上でやっているに違いないのだから。
それも世界的に衝撃を与えた作品の、であるんだから!そういう意味ではかなり劣勢だと思われるのが、その心意気やよし!
……などと超ナマイキなことを言ってみて、私は、「楢山節考」観たっけか、観たような観てないような(汗)。
覚えてないなら、もう本作に関しては、そうしたしがらみは全部とっぱらって対峙するしかない。てか、すっかり忘れてたんだから実際そうなんだけど(爆)。

しかし……こんなことを言ったらホント、サイアクなんだけど、直裁に言ってしまうとね……老女たちの見分けがイマイチつかない(爆)。いや、きっとそんなたわけは私だけだと思うが(爆爆)。
本作はね、主演の浅丘ルリ子が初めてノーメイクで挑んだ!ってあたりがひとつのウリで、それがウリになるのもどーかと思うが(爆)。
しかし確かに浅丘ルリ子のスッピンなぞ想像もつかないほど、彼女は黒々としたアイメイクにくっきり真っ赤な口紅のイメージが強く、浅丘ルリ子がすっぴんなら、当然他の老女役のそうそうたるメンメンも皆スッピン。
ていうか、山奥で過酷な生活を強いられる、すすけてしわが深く刻まれて、つまりメイクはメイクでも汚れメイクでね。
さすがに浅丘ルリ子、倍賞美津子あたりのくっきり美人さんは判別できるが……。

てか、倍賞美津子は隻眼にあしたのジョーの丹下段平みたいな眼帯して白いウェービーヘアに黒マントというマンガチックないでたちだから余計に異彩を放ってるんだけど、でも正直、他は皆、見分けがつかない(爆)。そんなバカな自分がイヤ(爆爆)。
確かに私は人の顔の判別が苦手だが(そんなんで映画好きと言うか!!)、この厳寒の雪深い山の中、すすけた、灰色かくすんだ茶色か、てな色だけの、モノトーンより殺伐として見える老婆が実に50人、見分けがつかないのは辛すぎる(爆)。

ああ、(爆)ばかりだ。爆発してしまう(また爆)。そうなの、モノトーンより、と言ってしまったけど、それこそモノクロ映画だって別に平気で観るのに。
そういやモノクロ映画が暗く見えるから、観てて疲れるし滅入るから苦手だって言ってた人がいたっけ……私はそれを聞いた時にえーと思ったけど、今回はちょっとその気持ちが判ったかもしれない。
これだけ、50人からの老女が、雪原の中で、すすけた肌で、ボロ布をまとって、ていうと、モノクロより殺伐とした色味の無さのように思っちゃう。
ところで当の「楢山節考」は今村作品も、その前の木下恵介のもカラーなんだね。私観てるのかな、うーん……。

私だって女だし、老女50人が色味がないから見分けがつかないなんて、そりゃ言いたくないさ。でも、だからこそ……なんか落ち込んじゃったなあ。
男性はさ、化粧顔は前提にないじゃない。まあ、一般的に。でも女は、特に女優さんは、それが前提なんだよね……特に、映画の黄金期を支えてきた浅丘ルリ子や倍賞美津子はさあ。
むしろ倍賞美津子は、そんな素で赤裸々な感じも結構見た覚えがあるけど、浅丘ルリ子はやっぱり、華々しいスター女優、すっぴんになっただけで仕事が終わっちゃう気がするし(爆)、すっぴんになっても浅丘ルリ子だから、逆にここでは違う気がしちゃう。

て、私、なんか矛盾しまくってる?でもね、でもでもでも……映画というエンタメの場でなら、老婆50人、ごちゃごちゃしてるのは、ちょっと辛すぎる気がしたんだよな……。
それこそ「楢山節考」のようなシリアスなテーマなら、それを負わされるのは、メインで言えば一人の老婆であり、シンパシイも感じるんだけど、老婆50人でそれをやられると……。
ああ、そうか、これってそういう意味では確かによりエンタメ映画、もっと言ってしまえばパニック映画、なのかも。
老婆50人が村への復讐のために立ち上がって、熊に襲われ、雪崩に襲われ、血みどろスプラッタだわ雪崩パニックだわ火事パニックだわ。ああそうか、確かにめちゃめちゃエンタメなんだけど……。

筋を無視して言いまくるのも最高記録じゃなかろうか(爆)。まあでも、ここまでで充分推測できるほどに、筋自体はまあ、シンプルだよね。
姥捨ての文化が残る村。70を過ぎた老婆は厳寒の雪山へと捨てられる。
捨てられる老婆は極楽浄土を願って、白装束でぶるぶると震え、お迎えを待つ。
しかしそこで待っていたのは、村人たち、ていうか、村の男たちが想像もしない、生き延びた老婆たちによるコミュニティ、”デンデラ”。
ヒロイン(という言い方もなかなかに厳しいが(爆))のカユは、30年前に山へ”お参り”に行ったメイが実に100歳を超えて生きていて、老婆たちばかりのコミュニティを作っていることに呆然とする。

70のカユが小娘と呼ばれるのは、ここの一番の新参者で70であっても一番若いというだけではなく、村の掟に洗脳されまくってて、お山に参ったら極楽浄土に生ける、ここで生きているなんて死に損ないの恥さらしだ、という意識が捨てきれないからなんである。
ここにはつい先ごろ”お参り”したカユの親友もいた。大人しい彼女は、殊に極楽浄土を願っていた筈なのに、死にたくない、死ぬのが怖い、だから助けられて、ありがとうと言ったのだと聞いて、カユは更に呆然とするんである。

確かに「楢山節考」で、そして本作で描かれている、姥捨て山の伝統は、それが年老いた”女”に限定されるあたりが、日本の、というか儒教的な悪しき家父長文化を象徴していて、現代になってこうしたフィクションが作られるのは、ある意味当然というか、胸のすく気持ちは確かにあるんだよね。
だってさ、どうせ男は子供を生み残すことも出来ないくせに、逆に、子供を生む女を、セックスの証拠が残るような蔑んだ目で見てさ、そしてこき使って最後には捨て去る、みたいなさ。

倍賞美津子演じるマサリが、村の掟に背いた家族のために、離縁され、片目を潰され、村の男たちの慰み者にされた(という言い方だって、まだ柔らかいよね。つまりは輪姦されまくりの人生だったってことだ!!!)というのだって、現代において描くのなら、はっきりとしたフェミニズム意識が働くと思う。
過去の映画においてはそれは単に……悲しいけれど、エンタメとしての女の悲惨な運命であるだけなのに対して、ね。

でもこと”映画”においてそれがいいのか悪いのか、私には正直、判らない。劇中のマサリはそんな悲惨な目に遭いながらも超然としていて、村に復讐するつもりはないと言い、デンデラの創始者のメイと対立する。
メイは、デンデラを作ったのは、ていうか、生き延びたのは、年老いた女は役立たずだと、クズ以下のように捨てられたことに対する強烈な恨みがあるから。
実に30年を経て、100を越し、50人の老婆たちを集めて時が熟したとあたためてきた復讐計画。村を襲い、皆殺しにする計画を実行せんとし、平和主義のマサリと対決するんである。

そう、今の時代ならば、確かにこういう思想は出てくるよな、と思う。いや、そりゃあ時代に関係なく、あの「楢山節考」が作られた時代だって、そんな理不尽な文化へのアンチテーゼがあるからこそ描かれたに違いないのだけれど、それに対して女が粛々と従っていたからこその、痛ましさがあった訳でさ。
でも実際、おっかしいよね。翁捨てはなくて、姥捨てだけなんてさ。女は子を産み、大事にされるべき存在なのにさっ。

……などと、子を産まない私のよーなクサレ女が言ってしまうと、ああ、子を産まない女は、更に悲惨な目にあっていたんだろうな、と思う。
ていうか、ここで老婆老婆と言っちゃったけど、老女、というのもなかなかツラいし、つーか、老女に対して老男という言葉はないし、なんかやっぱりどことなーく差別的意識は感じる……かもしれない。
本作は、時代も熟して、そうした女たちの復讐劇が描かれるんだけど……いや、描かれないのだよな。
確かに、心の中で葛藤しながらも、彼女たちが村を襲ってにっくき男たちを皆殺しにする場面を、超絶スプラッターを心待ちにしていた、かもしれない(爆)。
だって、先述したとおり、白とグレーとくすんだ茶色とか、そんな滅入るというか、ちょっと飽きちゃうような(爆)色世界ばかりなんだもの。
村の男たちが予想もしなかった老婆たちの襲来に驚愕の目をむいて次々に倒れていく場面を、確かに期待していた、かもしれない……のだけれど……。

そこまで、辿り着かないんだもん。そもそも彼女たちの中に小さな分裂が生まれていた時点でもう確かに、ムリだった、よなあ……。
村への復讐に賛成するグループが大多数だったけど、それに反対するマサリを中心とした数人。マサリは何度かメイを説得する場面があるけれど、なんたって数の論理と、復讐という凶暴な意志がはねつけてしまう。
マサリたちはいくじなし、と呼ばれていた。だからといって、食べ物を分け与えられないとか、そうしたイジワルはされない。それがデンデラの誇りだったんだけど、それが実は、大いなるほころびだったのかもしれない。

カユの親友は一足先にデンデラに来ていたけれども、身体が思うように動かなくて、寝たきりである。
それでもここでは食べ物は平等に分け与えられる。目の不自由な女は、彼女が自分の目になってくれているんだと感謝している。
まさにデンデラは、弱き者も差別されず助け合って生きていける桃源郷に思えたのだけれど……。

この30年、一度もなかったことが起こる。デンデラの貯蔵倉を熊が襲ったんである。
この年は山に食べ物が少なく、女たちも苦労していた。30年、しかもメイが復讐を決意した年に。
んな具合になるもんだから、クライマックスは村を襲うことではなく、ひたすら熊との闘いに尺が裂かれることになり、老婆たちはばんばん引き裂かれ、切り刻まれて血みどろのバラバラ死体が散乱するし、村を襲うより凄惨なことになるんである。

ことにその冒頭、体が動かない者たちが最初に犠牲になり、カユの親友は足をもぎ取られ一命を取り留めたのだけれど、熊を仕留めるためにおとりにしようと、メイがとんでもない提案を出したあたりから、事態はどんどん怪しくなってくるんである。
つまり、均衡が保たれていた時には、女たちは等しく平等、ことに、姥捨てされて一度死んだ身なのだから、身を寄せ合って生きていこう、そして私たちを捨てた男たちに力を合わせて復讐しよう!ということだったんだけど、このセンテンスのどこかで、女たちの意見が離れてしまった。

どこかで、って、そりゃどこかは明らかだけど(爆)。
でも実は、最も抜け落ちていたのは、実は一番最初、冒頭の”等しく平等”ってところであったというのが悲しくも現実であり、村を襲うか否か、という意識以前に、デンデラのために働けるか否か、という時点でふるい落とされていたことを、こんな残酷なシークエンスで如実に示されたというのがさ……。
どうせもう、助からない(というより、元から役立ってない)←ていう、このカッコ内の気持ちこそが、怖いんだよね。
そして何よりそれを一番判ってたのが、それを受け入れたカユの親友であり……。

いや、つーかさ、カユが、あるいは製作陣自身が、そのことをきちんと把握していたのか、ていうのが正直気になったりもする。
最終的に一番大事なのは、男に虐げられた女ではなく、女に虐げられた女、ということなんじゃないかと、今、こうして思い返してみて、ようやく思い至った私も遅すぎる。
デンデラを作ったメイが、表面上は捨てられた女たち全てを救う場所を、と言いながら、弱い女を熊のえじきにし、自らは雪崩に巻き込まれ、メイの強硬さに異議を唱えて、デンデラを再生しようとしたマサリも、熊の前に自ら犠牲になり、そうこうしているうちにどんどんどんどんデンデラの女は減っていって……。

最後はね、カユがこの熊さえ倒せば平穏になる。そして私は新天地を目指す、と言って出て行く第二のクライマックスなのね。
もうデンデラには数えるほどしか女は残ってない。ことに、メイやマサリやそのほかの指導者的な女たちも軒並みやられてしまっている。
カユは、残された女たちから、やっぱり小娘だね、と、メイにも言われていたことを言われ(70歳なのに!!)、でもカユを見送って一人の女が「熊がいなくなったら、デンデラを再生する」と言い、他の女から「あんたも小娘だね」と言われる。

ここだけは、なんか、好きだったな。とてもとても、小娘なんて年じゃない彼女たちが、ただ、確かにココに来たら、生き延びると決めたなら、もう決して老婆ではなく、一気に小娘に戻ってる。生きたいと思う。
あけっぴろげな彼女たちが、下ネタに興じる場面がやたら出てくるのはちょっとなんだかなあと思っていたけど、ここにおける伏線だったのかもしれない。
でも時代背景を思うと、今の70歳は確かにこれだけ元気だろうけど、100歳のメイがやたらエネルギッシュなのはネタ的に御伽噺としても、いくらなんでも元気すぎないか。
もうちょっと、ありえる、と思えるリアリティが欲しかったかなあ。

カユを心配して、生き残りの女が一人、ついてきてくれる。彼女もまた、カユを逃がすために命を落とす。
命からがら走る、走り続ける。転がるように行きついた先が人里で……あれは、ひょっとして、彼女たちの人里ってことなの?いや、別の人里?
とにかく熊は、カユを追ってきたことなど忘れたかのように、村人たちを襲う。男たちを襲う。
カユがつぶやいたのが、まだ子供を作るのか、と。雄熊が来てた?なんかめまぐるしくてよく判んなかった……。

でも、まあ、そういうオチ(といったらアレだけど)なんだろうなあ……。だってやっぱり、悔しいけどやっぱり、女が”役立たず”なのは、子供を産んだらもう用ナシ、っていうニュアンスであるからなんだもの。
メイの復讐計画を聞いた時にカユが、自分の家族も殺すのかと、息子は殺させない!とくってかかった台詞が、こうして最終的には空しく響くのがなんとも……ね。
熊は、子供を殺されて、食われても、また子供を作ろうとする。それはまったく本能で、子供を殺され、食われ、自身がひどい目にあっても、そんなことには頓着していないんだ……。

ていうか。ちょっと、ね。熊の造形がね。まあその、着ぐるみとまではさすがに言わないけど、不自然なクロースアップの連続、微妙なストップモーション、なんかやたらの引き画面……なんともなんとも、いや、しょうがないけど、本物っぽくなさすぎて(爆)。
村を襲うことがクライマックスだと期待していたところにそれがおじゃんになって、熊との対決がそれにとってかわったんだけど、それがなんか、やってきた!音と共に顔やら爪やらをドアップにするばかりで熊の全体像が見えないなーと思ったら、いきなりストップしたりいきなり引いたり(爆)。
まあ、予算的に仕方ないのかもしれないけど、ここをクライマックスにするなら、ここで腑に落ちさせるのなら、きびしい、よなあ……。

天願監督は、ここまでの作品が非常に意欲的でかなり期待度が高かった。でも、意欲的、という点では、彼ほど意欲的な人はあるまいと思うけれど。 ★★★☆☆


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