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「ほ」


2011年鑑賞作品

ホームカミング
2010年 105分 日本 カラー
監督:飯島敏宏 脚本:千束北男
撮影:稲垣涌三 音楽:冬木透 栗山和樹
出演:高田純次 高橋惠子 麗奈 秋野太作 森次晃嗣 堀内正美 木野花 桜井浩子 高橋ひとみ 中原裕也 青山草太 井上順 林隆三 竜雷太


2011/4/16/土 劇場(銀座シネパトス)
高田純次主演っていうのに単純に興味を惹かれて足を運んだんだけど、これが思わぬ落涙。そういやー、最近はそのキャラばかりに注目が集まって、彼が元々役者だったことを忘れていた?
いやいやいくらなんでもそれは言い過ぎにしても、それにしても彼と同期の柄本明やベンガルはスッカリ重鎮役者になっている一方で、高田純次はえ?彼ってコメディアンじゃなかったの?ぐらいの誤解が今あるような気がする……。
かく言う私も、そっか彼って役者だっけと久々に思い出したぐらい(爆)。

でもそれこそ、映画主演は今回が初というのは判るけど、映画に出てたことってあったっけ?みたいな……映画でもドラマでも、どこかゲスト出演っぽいイメージ?いや、それは私が単にあまり観ないから知らないだけかなあ。
何はともあれ、喜劇過ぎることもシリアス過ぎることもなく、高田純次ではなく主人公の鴇田としてスクリーンの中に生きている彼に、う、上手いじゃん……などとナマイキにも思ってしまったんであった(爆)。

この監督さんの名前も、私的には知らなくて……金妻などの、往年のドラマを手がけたことで有名な演出家さんだということで、そういうのを観ないまま来てしまった私としてはかなり腰が引けたのだが。
彼がその金妻もそうだし、本作は、まさにそれこそが主人公だと言える、舞台であるニュータウンにこだわって撮り続けている、というのは、非常に興味深いものを感じたんであった。

というのも、彼自身がそのニュータウンに住んでいるから。つまりその時々のニュータウンの今をまさに、切り取っている、ということなんだよね。
ニュータウンの老人街化、ちょっと大げさに言ってしまえば廃墟化というのは、今現実に問題になっていることで、本作はその社会問題に切り込んだ一作と言えるのだろうけれど、恐らくそこに住み続けている監督は、じわじわじわじわ、その危機感をリアルに感じ続けてきたんだろうと思う。

社会問題になった時には、そんなことずっと感じ続けていたよ、と思っていたんじゃないだろうかと思う。
ペンネームを使って彼自身が手がけた脚本は、そんなリアルな思いがいっぱいつまっているんじゃないかという気がする。
ひょっとしたら、鴇田が息子から言われる、「この街に思い出なんかない。友達も皆出て行ってしまった。文化的とか伝統とか、そういうのがあるのがふるさとだろ」という台詞はひょっとしてひょっとしたら、監督自身が子供さんから言われた言葉だったりして……などと妄想をたくましくしてしまう。

確かにこのニュータウンという存在は、都心にそれなりの時間で出て行けて、当時最新の建築技術で計画的に建設された美しい街並みはムダがなく、学校や商店街や施設も計画的に建設されているから便利である、というのがウリだったんだろうと思う。
劇中、このニュータウンを売りまくった、それが人生だったという不動産会社を勤め上げた男がおり、そして鴇田はまさしく彼からサラリーマン人生を賭けてこの家を買ったのだ。

しかも気が早いことに二世帯住宅にして。都心の会社に勤めて寮生活をしている息子が久しぶりに帰ってきて、待望の恋人を連れてきた。しかしその恋人は赤坂のマンションつきの金持ち娘。
で、それにガッカリする父親に息子が投げつけたのがくだんの台詞で、全てが完璧だと思われたニュータウンが、子供たちにとってはそうじゃなかったのかと、定年してようやく家庭を、街を顧みた鴇田はボーゼンとするんである。

モーレツサラリーマンだったこの年代の男たちは多かれ少なかれ、そう、ニュータウンに住んでなくったって、似たような状況に直面するんだろう。
今までは会社が、仕事が、全てだった。定年後は家庭に戻ってのんびりしよう、それがどれだけ都合のいい考えだったかを、思い知らされる。
妻はもう自分の生活を確立していて、趣味も多彩で夫を置いてきぼりにするし、子供は自分の思い通りの人生を歩んでいない。
それにニュータウン問題、老人化していき、衰退の一途を辿る街の問題がのしかかる。ニュータウンって、ホント、そんなサラリーマンそのものを象徴しているような気がしちゃう。

私ね、高田純次主演に惹かれたから本作に足を運んだけど、それがなかったら、こういう話だっていうだけだったら、ちょっとなァと思ったかもしれない。
確かにこれは社会現象化した問題、そして元気なシニア世代と若い世代ががっぷり四つに組む、というのは結構ありがちな企画で……ある意味リアルじゃないというか。
実際は若い世代とシニア世代はこんな風に交流できないよとか、理想がワザとらしいとかどっかで思っちゃうところがあってね;
ま、つまり、私はシニアでも若手でもない、ただただ文句を言うことだけが立派な、やっかいなアラフォー世代だからかもしれないけど(爆)。

でも本作はそこんところが実に自然に、魅力的だったんだなあ。
確かにそうした、シニアと若手の交流の不自然さを自嘲気味に示すところはあるのね。
新しくこの街に派遣されてきた若い駐在さんはなんと女の子。しかも美人!というんで、この街のシニアたち、特に男性陣は色めきたつ。そして逆に女性陣は冷ややかな目線を送る。
つまり、若い子なんて理想ばかり、自分たちの現実についてこれる訳がない、というのが、特にクライマックスのお祭りの開催か否かで攻防するおばさまとケンケンガクガクされるんだけど、そういうのも実に、サラリ上手くかわすというか、かわすというとちょっと語弊があるかなあ、さらりと描写する。

確かにこの若くて美人の駐在さん、美咲がこの街が大好きで、この街に帰ってきたいがために駐在を目指した、というのは出来すぎているかもしれない。特に、美人というあたりがね(爆)。
でも、モーレツサラリーマンがサラリーマン人生をかけて買ったこの街には、たくさんの子供たちもまた育っていた筈であって……確かに鴇田の息子が言うように、その大部分は街を出たまま帰ってこない、この街に思い出なんかない、と思っているのかもしれない。
そもそもが親世代がこの街で育っているワケじゃなくて、本当に新しいだけの街だったんだから。伝統も文化も何もないんだから。

そしてサラリーマンたちの功罪もまたあって……本当は彼らがそれを作らなければならなかった、新しい街が生まれたのなら、それに携わる人間たちが文化も伝統も作っていかなければいけなかったんだけれど、サラリーマンとしての人生を優先して、ハコだけを家族に提供して顧みなかった、その功罪がある、んだよね。
だから子供たちが、しかも都会にカンタンに出て行けるような距離的交通的事情にあれば、こうなるのは早い段階で判っていた筈なんだけど……。
でもね、そんな子供たちが大部分であったにしても、そりゃあ中には、大勢の中には、美咲のような子も、確かにいたっておかしくない。

私自身が親の転勤で各地を転々として、故郷とか幼なじみとかがいない身だというせいもあるかもしれないけど、美咲がふるさとに執着する気持ち、判る気がするんだよなあ。
彼女は別に転勤族という訳じゃないけど、ただ母親を幼い頃に亡くして、で父親は刑事でほとんど家にいなくて、まあ判りやすくグレた。
鴇田の息子にまとわりついて、息子が道を踏み外すのを恐れた鴇田に手ひどくブン殴られた過去を持っている。
でも彼女はそれで目が覚めたと。そして実に判りやすく更生してこの街に帰ってきたのだ。

ちょっと本筋からズレまくったまま来ちゃったけど(爆)。そうそう、主人公は鴇田でしたな。
冒頭は彼が長年勤めた会社をリタイアして、花束を渡されて帰ってくるところから始まる。
電車で乗り合わせたのが同じ街のご近所さんの奥さんだということに、乗り換えたバスになってようやく気付くというあたりでニュータウンの絆の薄さを端的に示す。
いやぁでも、これはニュータウンのみならず、今の都会の、いや、都会に限らず日本の問題を示している。ならばこれはニュータウンの問題から始まって、日本社会の問題を提起しているとも言えるんだな、確かに。

ニュータウンっていうと建ち並ぶ団地をイメージするけれども、本作は瀟洒な一軒家が立ち並ぶ美しい街並み。つまりニュータウンの中でも格上と思われるのだが、しかし、その一軒家は似たようなつくりが並んでて、鴇田がこの奥さんから、私、あの角の……と指差されても一度では判らないというあたりが、ユーモア仕立てにしていながらなかなかにシンラツな描写だよな、と思うんだよね。
で、だから、まだこの街は一軒家が中心だからいいんだけど、団地が建ち並ぶニュータウンは、今の、ちょっと土地が空けば高層マンションがバンバン立つような、高層であればある程ステイタスみたいなマンションの林のような現代社会がその進化系(退化系?)のように思えてさあ……。

本作のクライマックスは、今まではヤクザの露店に任せっきりだった街のお祭りを、自分たちの手作りで作り上げることに尽きるのだが、その前にちょっとした事件がある。
ていうか、そうそう、脱線してたけど、鴇田はフリー初日に張り切ってジョギングに出かけるけれど、街の人たちは挨拶しても冷ややかで、ていうか、何か冷笑って感じで彼を見やる。
つまり、そんな風に初日に張りきってジョギングするけど、すぐに挫折する例を見慣れているらしいんである。

というのが判るのが、もうリタイヤして五年後の佐藤(秋野太作)に声をかけられる段に至ってである。
もうすっかり達観した佐藤は鴇田に“メンバー”を次々と紹介する。で、彼らと自治会の会議でも再会して、お祭りをやるか否かの騒動に巻き込まれる。
そもそも鴇田を会議に出席させたのは、自分の趣味のスケジュールを優先させた彼の奥さんなんだけど、つまりは今まで自治会なんてものが存在したことすら知らなかったダンナに示すためにワザとだったかもしれないなぁ、と思う。
それでも精一杯の優しさ?「発言なんてしちゃだめよ。役員を押し付けられたらタイヘン」とアドバイスしていたのだけれど……。

お祭りがメインのクライマックスと考えると、その前にひとくさりある、誘拐事件というか、誘拐未遂事件というか、そもそも誘拐のつもりじゃなかったんだから、子供の行方不明事件と言った方がいいんだろうな、てのが、ちょっと違和感を感じもするのね。なんか関係ない話が紛れ込んじゃったなあ、みたいな。
ただ、この事件も確かに、ニュータウンの特殊性が生み出した事件ではある。“犯人”となってしまった老女の息子、鴇田の息子と同じように、この街にふるさとを感じられずに出て行ったのだろう、それっきり数年の間帰ってこないんだという。

老女は高台の、この街の中でも豪奢な家に一人住んでいる。一人、というのが判明するのは大分後になってからであり……。
というのも、新しく着任した駐在員である美咲が訪問すると、表札には夫婦の名前と息子の名前が連ねてあるし、彼女は「今息子が眠っているから……」と声をひそめるもんだから、てっきり久しぶりに帰ってきた息子さんが疲れて眠ってしまったんだと美咲は思っていたのだが、でも、確かにヘンだった。
だってその口調は、幼い子供が眠っているのを妨げないでほしいという感じに溢れていたんだもの。でも「久しぶりに帰ってきた」というあたりにやはり、帰ってこない息子への気持ちも込められていたりして、この時点ではまだ、彼女自身、過去や現在がごちゃごちゃであったんだろうと思う。

でも、どうやらこの老女の元に行方不明になった男の子がいるらしい、と判って訪れてみると、もうすっかり、幼い頃の息子だと思い込んで、その頃の時間に戻ってしまっているんだよね……。
美咲が「ここでは時間が時々止まってしまうんだ」と言ったのが、言い得て妙というか、それもちょっと違うというか。
この老女を演じる彼女がとても美しくて、浮き世離れした美しさで、息子と思い込んでいる男の子とお風呂に入っているシーンなんて、おばあちゃんと孫というより、本当に若いお母さんが息子と一緒に入っているような若々しさで、ちょっとドキッとしちゃって、だからこそなんか哀しくてさあ……。

で、だからこのエピソードはちょっと、浮いているというか。まあ、日々の生活に退屈しきっている老人たちが、自治会の、特にお祭りのことで対立している論客の夫人の孫が誘拐されたらしいと、家の出入りや刑事の変装で見事見破るのは爽快だし、可笑しくもあるんだけど、でもやっぱりちょっと、浮いてる感じがしたのね。
それはお祭りのシークエンスが本格的に稼動してからは余計に感じたんだけど、でも全てが終わってみれば、「ホームカミング」というテーマで、つまり外に出て行った子供たちや孫たちが帰ってくる一大イベントを掲げて催したお祭りに、この老女はフラダンスを見せもし、そして“誘拐”された筈の男の子はすっかり彼女になついて歓声を浴びせるし。

ていうか、この男の子の家庭の事情ってのが実に現代的でね、離婚した奥さんが出戻りし、海外勤務となって自分の母親に預けっきりだった、という事情があるから、無事保護された後も、老女に懐いた息子と共に声援を送っている母親、という図がある訳よ。
でも当の老女の息子はその祭りにも帰ってこないし、彼女は孤独のまま……死んでしまう。最愛の息子と一緒に写った写真を収めたアルバムを膝に載せてね、凄く幸せそうな顔をして……。
ここに至って、ちょっと浮いているように思えた誘拐事件のエピソードが、大きな意味を持っていることを思い知ったんである。

ていうか、そんな脇に気をとられて、クライマックスになかなかたどりつけない(爆)。
クライマックスのお祭りのシークエンスはね、ほんっとうに、イイのよ。ちらっと先述したけど、お祭りの露店には付き物のヤクザ屋さんとの一触即発のやり取りなんてさ、マンガチックに仕立ててはいるけど、実際はリアルな話なんじゃないのかなあ。
まあ、マンガチックなのは、その後そのヤクザ屋さんが、先頭切って肩で風切ってた森本(林隆三)が、こちらも老いに直面して若い奴等にボコボコにされ、商店街の味方につくという展開の方だわな。

でも、マンガチックだというのは自覚の上だろうなと思うのは、せっかく作ったステージが嵐で壊れてしまったところに森本が大型トラックで駆けつけ、すわまたイヤガラセかと身構えた委員たちの前に、その大型トラックの荷台にしつらえた見事な舞台を披露、登場した行きつけの喫茶店のママ(高橋ひとみ、妖艶!)と共に見事なダンスを見せる場面である。
めちゃめちゃマンガチックだけど、思わず知れずジーンとなる、マンガチックにやってるという意図が十分判っていても、判ってるからジーンとくるんである。

ていうか、ていうか!なんかワキにばかり脱線しちゃうけど(爆)、だから鴇田なんだよね。美咲が味方についてくれたこともあって、夢のホームカミング祭りの構想がスタートする。
ホームカミングというのは、アメリカの田舎町に留学していた美咲が持ち込んだ発想。外に出て行った子供も孫も、旅人もみーんなウェルカムなパーティ。お帰りとようこそが一緒になったあたたかなお祭り。
とかく無関心な住人たちを巻き込んでいく展開も泣かせるのよね。こーゆーのも、自分を含め、あまりにも身に覚えがあるんで(爆)。確かにお祭りとか、役員とか、めっちゃメンドクサイと思ってるもんなあ(爆爆)。

助成金が出るからというセキララな理由で、乱立しているサークルの名簿を駆使して誘拐事件を解決したことからヒントを得て、鴇田たちはお祭りへの参加を呼びかける。
露店、発表、次々と仲間が集まる。“フラガールズ”の超おばあちゃんが、ノリノリなのとか凄い可愛い。
その声かけの途中で、社交ダンスクラブの鴇田の奥さんが妖艶なドレス姿で若い講師に肩を抱かれている場面とかも、非常に気が効いているんだよなあ。

そうなんだよね。最初に思っていた、シニアたちが主人公の物語ということへの危惧、それまであったそうした作品へのそこはかとない違和感を笑い飛ばす洒落っ気があるんだよなあ。
今の日本は確実に高齢化に向かってる。つまり映画の観客も。そうした観客への目配せが必要になってくるんだけど、寅さんも釣りバカも終わってしまった今、奥さんは韓流に走るにしても、それまで日本経済をモーレツに支えてきた男たちはどうなのか。
いや韓流だってメインはドラマであって、映画業界はその世代にアピールする流派は衰退の一途を辿ってる。

確かに日本映画界には若い才能も生まれ、海外映画祭などで一定の評価ももらってるけど、そうした映画に足を運ぶのは若い世代で、その若い世代も映画離れが久しいことを考えると本当に危機的状況なんだよね。
シニア世代が足を運ぶ映画は、名画座ばかりというんで本当にいいのか、と。いやその名画だって、結局は若い人たちが主人公の物語じゃん、と。
あ、笠智衆と思い、でも「東京物語」はその年老いた世代の悲哀を映し出したことを考えると、今まで日本映画は、いや世界を見渡しても、この高齢化社会に、彼らをきちんと主人公にした作品を作ってこなかったんじゃないかと、そういう意味では今、未知なる時代に突入したんじゃないかという思いを強くするのね。

老人たちのサークルの発表……バンドやコーラスやハーモニカやフラダンスや……がメインながらも、小学生のダンスや和太鼓も参加して大いに盛り上がるステージ。
まさにホームカミング。若い夫婦やカップルや子供たちが大勢押し寄せる様子に、鴇田は仲間たちと目を潤ませる。
「自分は帰ってきただけですから……」と言いながら声を詰まらせて仲間と固く握手をする鴇田に、高田純次に、素直にうっとこみ上げちゃう。

鴇田の息子が恋人にフラれ、しかもグレてた時代につるんでた美咲が駐在さんとしてこの街に帰ってきてるのを目にし、しかもしかもセクシーなタヒチアンダンスを披露していたりして、もういろいろぐるぐる来ちゃって、「親父、感動したよ!スゲーよ!これぞ祭りだよ!」と悪酔いしてひっくり返る。
彼の携帯の待ち受けが赤坂マンションつきの恋人から美咲のダンス姿に変わっているのを見て、カラッポの二世帯住宅に虚しく座り込んで泣いていた鴇田、その夫を見ていた奥さんはニンマリとしてやったりの握手を交わす。
……てなシーンはね、ほんのオマケで、まあつまりは、美咲の登場で言ったようにそこまでは上手くはいかないよなとは思うんだけど、でもこれはハートウォーミングなホームドラマ、映画のマジックなら、それはそれでいいか!と思っちゃう訳。

なんかね、ラクに観られる映画が観たいなあと思って、まあある意味その通りではあったんだけど、でも思ったよりずうっと、ヒロイモノだったなあ、と思ってさあ。
鴇田夫人の高橋恵子始め、“シニア役者”たちがほおんとに、さすがの良さで。若手たちはやっぱまだまだやね!なんてね。★★★★☆


星守る犬
2011年 128分 日本 カラー
監督:瀧本智行 脚本:橋本裕志
撮影:浜田毅 音楽:稲本響
出演:西田敏行 玉山鉄二 川島海荷 余貴美子 温水洋一 濱田マリ 塩見三省 中村獅童 岸本加世子 藤竜也 三浦友和

2011/6/30/木 劇場(有楽町 日劇)
コレに関しては映画化になる話を聞く前に、ネットで半ばまで読んでしまっていたからなあ。いや、ほんのヒマつぶしのつもりだった。なんか泣ける漫画として評判だっていうから。中盤までしか提供してなかったけど、殆ど結末を示唆しているような物語で、コレはヤバいと……。
で、映画化の話を聞き、ちょっとこれはキたかもしれない、と期待した。西田敏行というのも悪くないと思った。
でもこれって……ある意味とてもシンプルな物語なんだけど、漫画媒体としての、いや、この原作としての特徴である手法が何より大きな魅力になっていて、それが映画化に際して“仕方なく”外されると、本質さえも失われてしまったような気がして。

いや、まあそれはかなりメインの話なのでちょっと後回しにすると……。映画を観始めて、あれ、と思った。語り部は西田敏行扮する犬と旅をする中年男性ではなくて、片田舎で静かな独身生活を送っている男性。
ひょっとして映画化に際しての補足?と思ったが、次々に肉親を失い一人ぼっちで育ってきた彼を支える犬との物語がかなり細かいので、これは番外編としてあるのかな、と思って後に原作本を改めて手に入れたら果たしてそうだった。
まあ主人公の中年男性と似たり寄ったりの年恰好の彼と玉山鉄二とはかなり違うが、それでも彼を語り部にして主人公の中年男性を追っていくのもまた“悪くない”趣向ではあるんだけど……。

その青年(玉テツだからね)が中年男性の身元を追って旅をするその道連れに川島海荷ちゃん演じる女の子が現れた時には、これはさすがに違うだろう……と思った。
これはまさか、番外編の番外編に出てくる子とかじゃ、ないよね?これはなんかもう明らかに、この地味な、いや、あくまで画的にね、オッサンと犬しか出てこない画的に地味な物語に花を添えるべく、てか商業映画としてヒロインを迎えるべくってのがあまりにアリアリで……。
いや、それ自体は別に悪いこととも思わない。そういう要素はいくらでもあるし、だからこそ寅さんにも釣りバカにもヒロインが必要な訳だし、時にそのヒロインが商業的事情以上の魅力を発揮したりもするのが、大手映画の醍醐味だったりもする訳でさ。

でも、でも、ねえ……本作に、それは必要だったろうか?てか、本作は、そう、あまりに原作コミクスの完成度が高かったから、この女の子の存在がジャマでしょうがなかった。“可愛い”のは犬だけで十分だと思った。
しかもその“可愛い”は女の子が可愛いってのとはワケが違うんだからさ。いや、可愛い女の子は大好きだけれども……。

だあって、彼女のキャラ自体が、もうウザくって、ウザいなんて言葉は嫌いだけど、そんな言葉を使いたくなるぐらいカンに触るんだもん。
そう、海荷ちゃん自体に罪がある訳ではもちろんないのだが、キャイキャイついて回る彼女がうっとうしくてしょうがない。
彼女もまた家庭に恵まれず、義父に暴力を振るわれ、実母は新しい夫にべったり、という設定も用意されてはいるんだけど、それもまさに彼女の口から語られる“口先だけ”に思えてしまう。だって、オジサンとハッピーの物語はとてもとても壮絶、だからさあ。

そう、“オジサン”。海荷ちゃんを補足キャストに迎え、何より、コミクスならではの、原作ならではの手法を捨て去ってしまうと、そう呼ばざるを得ないの。
ああ、そうか、海荷ちゃんを迎えなければ、オジサンとさえ、呼ばれなかったのか。玉テツ扮する青年市職員、奥津は、海荷ちゃん扮する有希に「その行方不明のオジサンはね……」と、実は身元不明のまま死んでしまったその男性のことを話す。
それ以降、この二人の語り部によって“オジサン”と愛犬、ハッピーの道行きをたどる間中、ずっと彼らの間ではオジサン、オジサン、と呼ばれる。

でも、違うの。本当は、“お父さん”なの。それはね、それは……その愛犬、ハッピーに呼ばれていた呼び名。
だってハッピーは、捨てられていた子犬だったハッピーは、娘のみくちゃんに拾われて三人家族の家に迎えられた。だから、ハッピーの目線からは、みくちゃんとお母さんと、お父さん。
失業し、それ以前に家庭の問題からは目をつぶり続けたお父さんが、お母さんに見限られて娘を連れて出ていかれてからも、ハッピーにとってはお父さん、だったのだ。

オジサンではなく、お父さん。一家の、支えだった人。いや、ハッピーにとってもいつまでも、どこまでも、最後まで、お父さん。
これ自体、実の家族から見限られた彼にとって、ある意味皮肉とも思えることなんだけど、でも、ハッピーにとっては、そうだったのだ。
そして、ハッピーの名前自体は、奥津と有希にかなり早い段階で知らされる。そのオジサンではなくお父さんが(やはりそう呼びたい)立ち寄った温泉旅館の女将がその犬の名前を覚えていたから。

そんな具合に、お父さんとハッピーの道行きを、奥津たちは丁寧に辿って行き、誰もがちゃんとお父さんたちを覚えているんだよね。
でも実際(原作)ではそうじゃない。覚えているのは、ハッピーの結石の手術代を捻出するために家財を売っぱらったリサイクルショップの店主ぐらい。
それも映画ではかなりコミカルに、というか恐妻を交えてくどく描出しているのがちょっとね……。
尺を稼ぐのに必要なのかなあ、と思うのは、その他にも立ち寄った食料品店、海辺のレストラン、とありえないほどそこの従業員が彼らを強烈に覚えていること。
そのために高そうな(爆)豪華キャストをそろえていることからも伺えるんだけど……そんなに、尺が足りなかった、だろうか?

それでも、ね。彼らが最後に外界と関わる場所、海辺のレストランの友和さんは凄く素敵だったし、犬を失ったこのオーナーにハッピーを託していこうとする場面は、正直ちょっとヤラれもした。優しい人の記憶があるならば、ここだけで十分な気がした。
それ以外にも多々あるならば、お父さんたちがここまで追い詰められることはないだろうという気がしたし……。多々、あるんだもの。旅館の女将が覚えているほどの西田氏そのものの人懐っこさは、それがあるなら、彼はこんな状態にはならかったような気がする、ていうか……。

そう、海辺のレストランの友和さんは素敵だったんだよね。お父さんはここにハッピーを託そうとする。だってお父さんはもうこの先生きるすべはない、もう死が待っているだけだ、と判っていたから。
オーナーは快く引き受けてくれた。けれども、ハッピーが去ろうとするお父さんに激しく吠えたから、お父さんはハッピーを置いていくことが出来なかった。
……原作ではね、お父さんは、もうコレが最後だ、と思って、最後の贅沢としてハッピーにジャーキーを与え、自分もゆっくり時間をかけてレストランで食事をする。
その前にね、お父さんは、ハッピーに、すまない、と言ったのだ。この時点で、ハッピーに自分の死に行きに付き合わせることをわびてて……ただ彼の誤算だったのは、死ぬ直前にドアを開けてハッピーを自由にさせても、彼はお父さんのそばを離れなかったことなのだ。

……おっとっと、これじゃまるで原作のレビューになっちゃう。だってそれだけ原作の完成度が高くて……。
てかね、もういい加減本題に入らなきゃ。本作が、原作の手法を、映画だからと捨て去ってしまった故に失われてしまった魅力。それは、ハッピーのモノローグである。お父さん、と呼びかけるのはハッピーだと先述したのはこのこと。
フキダシではなく四角枠の中にカナだけでつづられるハッピーの、お父さんへの完全幸福(今降伏、と書こうとしたのに、変換でこう出たら、そっちの方がふさわしいような気がしてしまった)な愛情が、たまらなくて、全身が総毛立つような感動を覚えるのだ。

無論、犬が人間の言葉を喋る訳もなく、喋ってる訳ではなくモノローグなんだけど、それだって、犬がここまでハッキリとした表現意識を持って思っているかどうかなんて、判らない。それは確かに、人間の願望であり、それを実写映画として、ある程度のリアリズムが要求される場では採用するわけにはいかないのかもしれない。
それこそ、“アニメなら”ぐらいの考えは働いたのかもしれない。私も、実写映画なら、仕方ないかなと、最初は思った。
そんなファンタジーをそのままやられたら興ざめだと。この手法を排除するのは致し方ないと。だからこそ、どんなに完成度の高いコミクスでも映画にするのは難しいと。
でも果たして、そうだった、だろうか?

犬のモノローグが何よりの魅力であり、それが仮に人間の傲慢な描写方法であろうが、それを採用しない限り、本作を映画化する意味って、なかったんじゃないだろうか……?と今こうして苦肉の策を弄しまくった本作に接してみて思うんである。
犬のモノローグを採用するのって、思い切って採用してみるのって、そんなにムチャだっただろうか……と。
字幕とか、小さな男の子の声でもかまわなかったんじゃないだろうか。そこは映画のマジック、演出の仕方次第で、ウソくささや悪い意味でのマンガチックさだって、上手く回避できたんじゃないだろうか。
言ってしまえば映画だって、所詮はウソの世界なんだもの。愛犬に、そんな風に思っていてもらいたい、と具体的に示されたら、凄い感動すると思うなあ。

犬が犬のまま、無口な?犬のまま、だとね。このお父さんの物語になってしまうからさ……いや、実際、そうなんだけど、そのものそうなんだけど、でも、やっぱり犬の、ハッピーの、お父さんがどれだけ好きか、ってところから始まってる物語、なんだもの。
いや、それもちょっと違うかなあ。ハッピーは、今は自分をかえりみなくなってしまった、自分を拾ってくれた娘のみくちゃんや、途中までは世話してくれたお母さんも、同じく等しく、家族として大好きだから、やっぱりこの家族物語をハッピーの目を通して見ているというのはそうなのかなあ。でも……。

ハッピーが家族大好きなのは、ハッピーがもう起き上がらなくなってしまったお父さんに疲れ果て、キャンプ場に来ていた家族三人にかつての彼らを見て、思わずワンワンと走り寄ってしまって受けた悲劇を見ても明らかだよ。
そしてこの悲劇は、あまりにもあまりにも壮絶なんだけど……。

あのね、途中までネット読みしていた原作コミクスでもね、最初からお父さんの死後しばらくの間(かなり、しばらくよ)生きていたハッピー、というのが示唆されていたんで、もう起き上がらないお父さんのそばに寄り添い続けたハッピーのことを思うだけで涙が出たんだけど、ハッピーがどうして死んでしまったのか、まさかこんな死に方だったとは、思わなかったのだ。
ハッピーはみくちゃんが幼い頃拾ってきた犬だし、みくちゃんの反抗期を迎える感じからして、かなり年を行ってるのは確実だったしさ。
それにしてもみくちゃんに「大きくなっちゃってぜんぜん可愛くなくなった」などと言わせるのはちょっとなあ……。みくちゃんは自我に目覚める年頃だっただけだと思うんだけど。

まあそれはおいといて(爆)。そう、私はハッピーが年齢的に老衰か、あるいはお父さんに死なれてエサがなくなっての衰弱死か、と思っていたのね。
まさか、人間に殺されるなんて思いもしなかった。いや、相手も殺すつもりもなく、ただ家族を襲う野犬を追っ払うだけの防衛本能だったことは判るんだけど……。
ここは映画で初めて接したので、かなり衝撃で。雪の中薄汚れたハッピーが街の中を徘徊して生ゴミからエサを調達するシーン、街行く人間たちに怖がられるのも胸が痛かったけど。

人間を愛したハッピーが、人間によって、しかも大好きな人間と見間違った相手に木片(炭?)ぶつけられて、頭から血だらけになってお父さんの元にたどり着き、息絶えるというのは、もうあまりにもね……。
だからね、この時、ホントにこの時、ハッピーのモノローグが恋しかった。映画では原作のように明確に、“やっと起き上がってくれた大好きなお父さんと“散歩”(天国だろうな)に旅行く”というシークエンスもなかったし、海荷ちゃんが涙流してるだけだし(爆)。
ヒマワリの中、西田氏とハッピーがワゴンの車の上で寄り添っている画は確かに癒されるけど、なんかそれもイメージショットみたいでね。
ここはばっちりファンタジーでもなんでもいいから、彼らがハッキリと天国に行く、そこで永遠に幸せになる、と思わせてほしかった。

と、思うのは、ヤハリ、原作のその救いに心癒されたからではあるんだけど……。
映画化に際する救いは、ハッピーにとってのそれじゃないのよ。あくまで人間の、お父さん、いや、ここはオジサンにとってのそれなんだよね。
でもオジサンにとってだって、そんな救い、別にいらなかったと思うなあ。ハッピーがいれば、いいんだもの。彼は家族のすべての思いを象徴する存在なんだもの。
奥さんだって、娘さんだって、そんなひどくお父さんを嫌っていた、憎んでいただけじゃない。タイミングや、状況や、今の社会のせいにするのはいけない?でもでもでも……。

原作コミクスにもちらりと描かれているけど、映画ではそこんところはハッキリと示されているのは、やっぱり映画は“人”で作る、という意識が表れているからなのだろうか。
奥さんと娘が帰った実家にまで様子を伺いに行くシーン、奥津と有希がその足跡を辿り、ねぷた祭りに遭遇してそこで奥さんと娘とすれ違う、なんていうのも、いかにもそんな“人で作る”意識が如実に表れている気がする。
確かにこれはロードムービーとしての魅力の要素があって、それを掘り下げたい気持ちは判らなくはない。道路がまっすぐに突き抜ける雄大な景色の中、ライダーたちとすれ違い、声をかけられるシーンなんて、確かに映画的だもんね。
天窓から顔を出している、ふわふわ秋田犬のハッピーの可愛さったらないしさ。

ああ、だから北に向かうことにしたのかなあ、とも思った。いやね、お父さんがキャンプ場のそばにガソリン切れの車を突っ込んで、ここが最後の場所だ、終点だと言って、冬を迎えて力尽きるから、雪の描写があるから、原作の、南に向かうのではなく、北に向かう、それもご丁寧に津軽海峡も越えてフェリーの描写なども映画らしく添えて、なんていう展開にしたのかな、と思ったのだ。
玉テツが映画の冒頭出てくるシーンで、車のナンバーが旭川で、へえっと思い、海荷ちゃんが東京に飛び出してオーディションに落ち、帰る手段を失っていたところに玉テツの車のナンバーを見かけた、っていうのもあって。

そういやあ、だから、劇中印象的なエピソードである、ワケアリな幼い男の子との遭遇も、彼が「おじいちゃんがいる」と言ったのは逆の場所に変えられてる。
このシーンが最もそうなんだけど、ハッピーがもっとね、アグレッシブな表現をしてくれたらいいなとも、思った。それこそ“マンガチック”であり、実写映画では難しいのかもしれないけど、ハッピーがこの子をぺろぺろなめて「哀しい味がする」とモノローグしたり、お父さんが食事を調達に行っている間、この男の子がハッピーに抱きついて泣きじゃくるシーンぐらいは、再現してくれていいような気がした。
その“シーン”もまた、ハッピーのモノローグによって描写されるだけの、原作においてもストイックなシーンではあるんだけれど……。

確かに本作は、犬に対するトレーナーが難しいだろうとは思う。でもモノローグをはぶくのなら、余計に……求められる気がしてさあ。
星守る犬、叶わないことを望むことの比喩。このことわざを明確に示すためにも番外編の導入は確かに必要だったとは思うが……。

いかにも泣かせようとするには平井堅、の主題歌チョイスもちょっとあざとい気がしちゃった。
★★★☆☆


星を追う子ども
2011年 116分 日本 カラー
監督:新海誠 脚本:新海誠
撮影:音楽:天門
声の出演:金元寿子 入野自由 井上和彦 島本須美 日高里菜 竹内順子 折笠富美子

2011/5/12/木 劇場(新宿バルト9)
待望の新海監督の新作!正統派ジュブナイル、完全SFはちょっと意外な気はしたけれど、それは私が、彼が名を挙げたデビュー作「ほしのこえ」を観ていないせいかもしれない。観たいんだけど、観られる機会がなかなかつかまえられない。
なんといっても前作の「秒速5センチメートル」が、あの年のベストワンに押したいぐらい琴線に触れまくる作品だったので、新海監督というと少年少女の繊細な心理描写、胸かきむしられる心象風景、時間がゆっくりと流れる地方のたそがれ、その清かな光の輝き、といったしんしんとしたイメージがめくるめくってしまう。

でも本作は、異世界や怪物の描写が細密に描きこまれたファンタジーの傑作であり、何より主人公がハツラツとした少女であるというのが、まるで新海作品を見ているような気がしないぐらいだった。
いや、ていうほど観てないんだけどさ。それだけ今までのインパクトが大きくて。

でもそれでも。やっぱり新海監督だな、と思う。前向きで明るい少女、アスナはしかし、母子家庭で孤独を抱えて、でもそれを表に出さずに家事もしっかりこなす。
寂しさは一人の時にはどうしようもないけれど、それでも絶対表に出さない。成績も優秀。同級生から「ガリベンしてるから」と陰口を叩かれるほど。
ガリ勉、って久しぶりに聞いたなあ。今でも言うのだろうか。

それでもハブにされているという訳ではなく、近所に住む同級生は一緒に帰ろうよ、と声をかけてくれる。それは、アスナのそんな孤独を、どこか判って気にしてくれているようにも思える。
いや、そんなことは全然、言わないのよ。そんなヤボなことは言わない。でも「今日は急がなきゃいけないの」と申し訳なさそうに断わるアスナに「わかった。じゃ、またね」と屈託なく返すその感じは、なんかこの友達にもアスナに似た、内に秘めた強さや優しさを感じた、のは、うがちすぎではなかろうと思う。

だってアスナがこれから直面する冒険に立ち向かっていけるのは、彼女がイイ子だから。やっぱり類友って、あると思うもん。
その類友の最強の相手として現われるのが、異世界、というか、地下世界、神話の中で語られるだけの伝説の世界と思われるアガルタからやってきたという少年、シュン。
彼はアスナに会うためにここに来たのかもしれない、と人知れずつぶやき、その謎をひとことも明かさないまま、彼女のスカーフを傷口に巻いたまま、死んでしまう、のだ。

……えーっと、だいーぶいつものように先走ってしまったけれども。最初から行こう。
アスナの日課はね、これはさながら秘密基地。線路を伝って、鉄橋を伝って、山の奥深いところ、岩の洞穴に色々持ち込んで、そしてそこで古い手作りのラジオを聞くこと、だった。
秘密基地ってのは多分に男の子なイメージで、確かに一人緑の中をどんどん駆けてゆくアスナはちょっと少年のようでもある。
でも、男の子にとっての秘密基地が仲間たちと共有するものであるのに対して、ここは彼女たった一人の場所だった。

死んでしまったお父さんの、形見の鉱石を触媒にしてアンテナを立て、受信するラジオのなんと詩的なこと!きらきらと輝く青い鉱石が、よもやこのあとこんなにも大きな役割を担うなんて、思いもつかないんだけれど。
そのラジオから、聞いたことのない天上の歌声が聞こえてきた。優しさ、哀しみ、そんな人の柔らかな感情をそのまま声にしたような。アスナは打たれた。胸に刻まれた。この歌声は忘れないと思った。
そしてその後、謎の少年、シュンと運命的な出会いをするんである。まさかこの歌声が、死を覚悟した彼の最後の叫びだとは、アスナは最後の最後まで……知らないまま、なんである。

その頃、クマのような大きな動物が目撃されていて、子供たちに注意がうながされているのね。アスナはその、“クマのような大きな動物”にまさに遭遇してしまう。
いつも秘密基地に行くために通る鉄橋の上。確かに黒くて大きいけれど、どう見たってクマじゃない。
何、コレ!?恐怖で固まったアスナがあわや食われる!と言う瞬間、シュンがひらりと飛んできた。
壮絶な戦いの末、その怪獣は哀れ鉄橋の下の川へと落ちていった。
哀れ、と言ってしまったのは、闘っている最中、シュンが殺したくないんだ、と再三叫んでいたことであり、それは後に、次々と現われるアガルタの門番であるこの怪獣たちに対し、シュンの弟のシンもまた同じことを言うんだけど……。

でもこの最初の場面でもね、シュンがそう言わなくても、もの凄く凶暴なのに、なぜか不思議と……哀れだったのだ。すっかり力を抜いてゆっくりと鉄橋から落ちていく怪獣の姿は、なんとも哀れだったのだ。
……ああいう描写、ほんの数秒の描写で決まることって、あると思う。
その後、川のほとりで死体となって発見されるこの怪獣、身体中に結晶や草が生えている姿も不思議であり哀れであり……とにかく、バトルの相手、悪しき相手ではないことが刻み込まれるんだよね。

その怪獣の死体を検分した男たち、いかにも刑事のような感じではあるけれど、見るからに不穏である。何かが、起こっている。
そしてアスナを助けてくれて、ひととき一緒にいたシュンは、淡い恋のような気持ちを残したまま、姿を消してしまった。
アスナの制服のスカーフを傷口に巻いた少年の遺体が川で見つかった、と聞いてもアスナは信じなかった。だってアスナはシュンに抱かれて空を飛んだのだ。そんなシュンが川に転落するなんてそんなことある筈がない。アスナは心配する母親に笑顔を向けるけれども……。

このお母さん、看護師だというこのお母さんはね、最初の描写の限りでは、どうなんだろ、と思ってたのね。
仕事が忙しいのか知らないけど、いつもいつもアスナを一人寂しい思いにさせて、なんて。
アスナが明かりの灯った家に「お母さん!今日は早いんだね!」と飛び込んで、それが自分の電気の消し忘れだと判った時の落胆の表情ときたら、なかった。
そしてようやく夜勤明けだといって登場したと思ったら、車から降りしな、いきなりぷかぁとタバコをふかし、一緒に朝食を食べたい、という娘をせかせかと送り出し、昼寝をむさぼるもんだからさあ。

でも、アスナのスカーフが巻かれた男の子の遺体が発見されたと連絡を受けて、その彼を待っているであろうアスナの帰りをじりじりとして待ち、雨にびしょぬれになって帰ってきたアスナをひしと抱きしめる姿に、彼女の母親としての深い愛情を知った。
私、ダメだな。ホント、単純に、そばにいられなくて、だから娘の気持ちも判らない、愛情も薄い、なんて、日頃は女が母親業に閉じ込められることに異議を唱えてる(しかもそんなこと言える立場じゃないのに!)くせに、全然判ってない。

母親がアスナの頭をかき抱くようにぎゅっと抱きしめた時、一緒にいられる時感は少なくても、どんなにか娘を心配し、愛しているかを思い知らされた。
こんなほんの瞬間の描写でそれが判っちゃう。後に、シュンや弟のシンのこととかいろいろアスナが知るうちに、父親が死んだ幼い時の回想なんぞも挟まれるんだけど、そんなのなくっても、充分判っちゃう。

それでもアスナはシュンの死を信じずに、時が過ぎた。産休の先生の替わりにやってきたモリサキ先生の授業にアスナはハッとなる。
イザナギ、イザナミの神話。死者が甦る地下の国。同じような神話は世界中にあり、アガルタと呼ばれているところもあると。
その地名にアスナはビクリと反応した。モリサキ先生を訪ねて詳しく話を聞いた。……モリサキ先生が登場した時からこのままでは終わらんキャラだとは思ってたけど、ここまでどっぷりなキャラだとは。

モリサキ先生はそうした地下世界の伝説や文献の研究をしている、という立場からアスナにあたりさわりのない概要を説明したけれど、アガルタの少年と接した、というアスナにキラリと瞳を輝かせた。
この時から、そして最後までそうなんだけど、モリサキ先生は、なんとも……不敵なんだよね。それはずっと心に秘めてきたトンでもない計画を実行に移すだけの強い思いがあるんだから、当然と言えば当然かもしれない。
でも、その唇の端をきゅっと引きつるように上げる笑い方が、時々なんだか、怖くて……それだけ彼には覚悟があったんだろう、だって最後の最後には……オヨヨ、これはさすがにここでは言えない(爆)。

アスナの持っていた父親の形見の鉱石が、地下世界への扉を開く。そもそもなぜアスナがそれを持っていたかというのは、結局明らかにされていないような気がするんだけど、言ってたっけ?(爆)。
なんかさ、割と物語がサクサクとハイスピードで進んで、ファンタジーならではの、その中だけの専門用語も氾濫して、え?え?……てって焦る感じが正直あってさ。
モリサキ先生に導かれて、いや、アスナ自身の意志によって、アガルタへたどり着き、そこからの展開も結構……ついてくの、タイヘンなんだよなあ(爆)。

アガルタに入り込む展開の中で、アスナはシュンそっくりの男の子、シンと出会う。最初のうちアスナはシュンだと思い込んでいて、やっぱり死んでなんかいなかったんだ!と歓喜するんだけれど、やはり、違う。
シンはアスナの持つ鉱石を取り戻すために、アガルタ世界から使命を受けて現われたんであった。

シュンがどういう使命を帯びて地上世界に来たのか、あるいはシュン自身の意志だけだったのか……地上世界ではどのみち長くは生きられない、兄さんが死んだのは仕方なかった、という態度を取るシンは、しかし優秀な兄に対して低く見られる周囲の評価に憮然としている。
最初、アスナがシンをシュンだと思い込んだのが不思議なほど、落ち着いて聡明なシュンと、やんちゃで身体が勝手に動いちゃうシンとは、違うんだよね。
なんかね、やっぱりアスナはシュンに恋していたからそんな風に思いたがっていたのかもしれない、なんて思ってさあ……。

シュンに間違われなくなってから、つまり髪を切って外見的に判りやすくなってからのシンのカッチョよさときたら、ないんである。
いやいや、そういやー、シュンの達観した聡明さもなんともキュンときたもんだが、でもやんちゃ、強がり、兄さんの死にはらはらと涙を流す情の篤さ、シンは伝統的な少女漫画のヒーローキャラで、そう、声もいいのね!
シュンとシンは同じ声で、確かにシュンの時、ちょっと聞き覚えがあるような気がしたのは……そうか、「千と千尋の神隠し」のハク!キャラ的にも確かにシュンと近いわ!
それでいったらシンとは真逆なんだけど、シンのまっすぐな正義と、それゆえに苦悩する純粋さが、イイんだわー!

彼が苦悩するのは、アスナたち地上の人間が地下世界を荒らした歴史的事実による。さらりと示されるのだけど、地下世界の文明を使って争いを持ち込んだ地上世界の人間の絵巻は、ナポレオンやヒトラーと思しき人たちが描かれている。
そして、アガルタは瀕死の状態になり、今はぽつぽつと点在する村がほそぼそと暮らしをつないでいるだけ。
門番となっている怪獣は汚染された地上の空気によって心を失い、意味なく凶暴になり相手を襲う。

そう、だからシュンやシンは、本来なら心を持っていた筈の門番を哀れみ、なんとか心を取り戻してほしい、殺したくない、と思っているワケである。
この、地上世界とアガルタとの関係性は実に判りやすく、争いの歴史でしかなかった人間社会を糾弾するものであるけれど、失われた心を取り戻すために命を賭する存在、というのは、確かにそんな絶望的な人間社会にも少ないながらも存在しているものなのだよな、と思う。

そして、ね。もう、私は本作に関してはもうコレだけ、ミミよ。ヤドリコ、とアガルタの老人に呼ばれる猫のミミ。
彼か彼女かも判らないミミは、ずっとアスナのそばにいる。体全体よりもふさふさとした尻尾の方が大きい造形は、確かにリアルな猫っぽさはないかもしれない。それはアニメっぽさではなく、もうこの時点でミミはヤドリコだったのかもしれない。
地上世界にいる時は、アスナになついているノラ猫、ってだけだった。ずうずうしく家に入り込んで、アスナと一緒にサンマの塩焼きを食べた。

でも、知らない間にアスナのバッグに入り込んでいて、モリサキ先生と共にアガルタへの道行きを共にしたミミは……ぜえったい、もともと、ここの住人(住猫?)だったんだよね。
あの鉱石と共に地上に来たのかもしれない。本当に可愛くて、ずっとこの旅に同行してほしかった。なのに……。

影に暗躍する気味の悪い“イ族”にさらわれたアスナが目を覚ました時、そばで泣いていた幼い女の子。その女の子は地上世界の人間とここアガルタとの間の“ケガレコ”で、その子を村に送り届けたアスナ。
モリサキ先生と共に更に深い、死者を甦らせてくれるという地へ向かう時になったら、ミミは、いつものようにアスナの肩に乗らなかったのだ。
大きな目をぱちくりとさせて、どんなにアスナが呼びかけても、じっと見つめたまま、桟橋から動かなかった。
アスナが涙をぼろぼろ流しながら、その幼い女の子にミミを頼んで、でも、その直後、ミミはその女の子の号泣の中、動かなくなっていた。死んでしまってた。

……これってさ、つまり、ひょっとして、やっぱりアスナも“ケガレコ”だったんじゃないかなあ?なんて思うのは……それこそうがちすぎかね?
でも、なぜミミがアスナのそばにいたのか、そしてここで役目がオワリと思ったのか……あのぱちくりと大きな瞳をまばたいたミミの姿が忘れられない。

こういう役割ってやっぱり、犬じゃ出来ないよな、と思う。猫じゃなきゃ、ファンタジーはつとまらない。
そういやあ本作は、世界観は「世界名作劇場」で、と新海監督は言ったらしく、そういった伸びやかさ、自然の広大さ、とかナルホドとは思うんだけど、世界名作劇場なら、きっと活躍するのは犬だよな。
異世界とつながるのはやっぱり猫。そして……こんなけなげに使命を全うする猫は、記憶にない……(涙)。

でも、アスナは進まなきゃいけない。てか、ほとんどモリサキ先生に引きずられるようにして。
モリサキ先生はね、相当ソーゼツな過去があるらしいのは、回想シーンで明かされるんだけど……まあ、このアガルタを突き止めるための組織に入っちゃったからさ。
でもあの回想シーンは、やたら銃をぶっ放してる回想シーンは、その組織のものなの?彼がこの組織で働いている理由は、愛し尽くした死んだ妻をよみがえらせるためではないんだっけ……その時点では妻はまだ生きているしなあ。

そう、モリサキ先生は、この愛する妻が死んで以来、ただひたすら、そのことだけを思って生きてきた。
アガルタを突き止め、妻をよみがえらせる。オレは絶対に、イザナギのように振り返ったりはしない、と。
アスナから、甦ったその妻の容貌は醜く腐っていた、という後段があるんですよね、と言われてもモリサキは、当然そんなことも知っているモリサキは、ひるむ筈もない。
そう、彼にとってはどんな姿でも、愛する妻が甦ってくれさえすれば、構わない、その筈だったのだろう。まさかそこをついて、こんなどんでん返しを喰らうとは。

こんなん下ったら死ぬわ!という断崖絶壁にアスナはひるみ、モリサキ先生だけが下っていく。
モリサキ先生は、首尾よく亡くなった妻を呼び出すことに成功するんだけれど、その身体を……肉体を、差し出せと、言われるのだ。代替の身体を。
こともあろうにそこに、アスナが到着してしまう。あのね、アスナは、長い長い間、門番として働き続け、もう怪獣としての恐ろしささえ失ったような、達観した巨人にここに連れてきてもらうのだ。

その門番の気持ちを読み取ってしまうあたり、やはりアスナはただの地上人ではないと示唆してるんだけど、そのこんところはヤハリハッキリとさせないあたりが粋である。
それにこの巨人……片腕を失ってて、それはもう即座に、片腕を怪我し、アスナが夢の中でその片腕が切断される様を見てしまうところに通じるではないか。
まるでまるで、シュンの生まれ変わり?いやいや、シュンよりずっと前からこの巨人は悲哀を込めてこの地にいたのだから……。

今、ここに来てほしくなかったと、絶望の涙を流してモリサキ先生は言う。モリサキ先生はだって、妻に差し出す肉体など持ってないから、ここで、せっかくここまで来て、血を吐くような苦労をしてきたのに、それでもダメなのかと落胆していたところだったんだもの。
教え子、何よりこれまでの道行き、ある意味運命の相手、アスナを、愛する妻を甦らせるための器として差し出す。
本当に、本当に、いいの?思わず知らず、心で叫んでしまう。いい訳がない、いい訳がない!

そこにシンが飛び込んでくる。触媒になっている鉱石を必死に叩き壊そうとする。
もうムリだとモリサキ先生が言う。それは言うほどには、嬉しそうじゃない。それどころか、後悔たっぷりにしか、聞こえない。
突然、場面がパン、と変わる。アスナがシュンと、今度こそ本当にシュンだ……と対峙してる。あの場所は、そうだ、あの場所は……モリサキ先生と妻が過ごした部屋ではなかったか?

アスナは行かなきゃ、と言う。生まれる、そう、私は生まれるんだと。
彼女が思い出していたのは、胎児の頃の記憶。大好きなお父さんも生きていて、お母さんのそばに寄り添って、生まれくるアスナを心待ちにしていた記憶。アスナが知る筈もない記憶。
そうだ、アスナはお母さんに聞いたのだ。シュンが彼女の前から姿を消す前、額にキスをしてくれた時言ってくれた言葉。「祝福を」と。
お母さんは誰かに言われたの?とニッコリ笑って言った。それはね、アスナが生まれてきて良かった、ってことよ。私も本当にそう思ってるわ、と……。

シンがアスナを取り戻してくれたこと、そして一度は甦りかけたモリサキ先生の妻が、いや、その前に、本当に生きている時も、愛する夫に語りかけ続けていたこと。
私はあなたよりほんの少し死ぬのが早いだけ。私は充分に幸せだった。あなたにも幸せになってほしい。そう、繰り返し、繰り返し……。

モリサキ先生は、さあ、結局アガルタに留まるんだよね?だってアスナだけを送り出していたもの。
それがとても哀しいことのようにも、それこそ彼の幸せのようにも、なんとも複雑に思えて仕方なかったけど、でもきっと、でもきっと、これでいいんだよね。

アスナは中学校の卒業式を迎える。ずっと夏服のまま、ズタボロになりながらアガルタを駆け抜けてきた。
アガルタに降りた時には、あまりに楽しそうなアスナにモリサキ先生がちょっと皮肉を言ったらね、アスナは真剣な顔して言ったのだ。今まで違和感を感じてた、どこか遠くの場所に居場所があると感じてた。ここがそうだと感じる、と。
だから私、アスナがアガルタに残るのかと思って……でも、アスナには大事な母親がいるし、心配してくれる友達がいるし……。

アガルタにいる間、地上世界で時間が経っていたのか、あるいは行方不明状態になっていたのか、そんなこともヤボに語られはしないけれど、ね。
やっぱりあの時アスナが感じてた違和感と、アガルタがいるべき場所だと感じていたこと、それでも戻ってきたことが、アスナもまた、あの幼い女の子と同じようにケガレコだったんじゃないかなあとどうしても思ってしまう。
だからお母さんもアスナの色々にそれほど動じないし、ひょっとしたら……色々、判っていたんじゃないのかなあ。

たそがれの光、木漏れ日、影から出現する怪物、暮れ行く恐怖、希望の朝日、やっぱり新海監督はめちゃめちゃ光の作家だ。
色設定も撮影にも、全てのクレジットに名前を刻む彼のこだわりは、光と、それが発する影が織り成す千万の色の移り変わりを信じられないほどの繊細さで映し出す。
物語なんか、筋なんか、結局はどうでもいいと思えるほどのそのこだわりこそが、少年少女の、時には中年中女のゆらめきを映し出すんだね。★★★☆☆


堀川中立売 DOMAN SEMAN
2010年 123分 日本 カラー
監督:柴田剛 脚本:柴田剛 松永後彦
撮影:高木風太 音楽:森雄大
出演:石井モタコ 山本剛史 野口雄介 堀田直蔵 清水佐絵 祷キララ 桂雀々 石崎チャベ太郎 住田雅清 タージン 志賀勝 とんとろとん

2011/1/6/木 劇場(ポレポレ東中野)
とにかく難解だ、一回観ただけじゃ判らない、途中退場者とリピーターが続出だ……云々、という、尻込みするには充分過ぎるネタを振りまいていたから、疲れ切った年末には本能的にエンリョするしかなくて。
そして記念すべき本年一発目に足を運び、とにかくすんなり判る映画じゃないんだと、難解なんだと、そればかりを頭の中に唱えていた。
だからか、いつもならば判らない映画に接した時に感じる、どうしよう、判らないよーっ!という焦りは感じずに済み、判らないなら判らないなりに楽しめることが出来た、と思っていたんだけれど……。

まあ、やっぱり、不安だったんだろうな。珍しく、オフィシャルサイトを覗いてみる気になった。概要だけは、知りたいと思った。
そしたら、一番知りたかった(と、自分では認めたくなかったのだが)ストーリーの部分が、私のパソコンだけでなのか、なぜか見えない。どーしても見えない。
なんか、コラムみたいなのの枠が上にかぶさって、それがどーしても移動できない。しかも、あちこちいじっているうちに、フリーズしてしまった(汗)なしてなしてなしてっ。

映画を観ている時には感じていなかった“筈”の焦りがぶわーっと噴き出してしまう。つまり……私は、観ている時にはまるで判らなかった“ストーリー”が判れば、なんとかつかめるんじゃないかと思ってたんだな……。我ながら超絶情けない。日頃から、映画は物語の筋なんかじゃない、何も起こらない映画が逆に素敵だったりするんだ、なんて判った風なこと言ってるくせにさあ。

いやでもさ、本作は明らかに“何かが起こって”るんだもん。起こっていることはアリアリ判るのに、何が起こっているのかが判らないってところが、特異なところなのだ。
平安時代のサイキッカー、安倍晴明がポッケに入れてた式神様、その安倍晴明を思わせる安倍さん、湯婆婆を思わせる醜悪な皺だらけの老婆、その老婆が差し出す「加藤ザキャットウォーク ドーマンセーマン」の名刺。
街中にぶら下がるペットボトルで作った結界めいたもの、意味ありげに走り回る子供たちと、その中でも妙に悟った目をした女の子、キララは、後にゴジラよろしく街中を巨大化して、しかし静々と進み、マッチ箱のような窓からそっと手を差し入れたりするのだ。

そして何より、安倍さんに見いだされた主人公、信介は、形代と思しき人型の紙でその身を拘束される。
彼が足が動かなくなる橋の上で、真昼と真夜中(なのか、時間の感覚が失われているのか)を同時に見る不可思議さは、まさに“何かが起こっている”ことを象徴する場面。
それがパラレルワールドを示していると観ている時にはピンとこなかった私がバカなのだろうか……やっぱり……。

そうなの、実際にね、焦ってネットサーフィン(懐かしい言葉だ)しまくって、結構詳しいあらすじに行き着いた時、ボーゼンとしてしまったんだよね。
あまりにショーゲキだったので、転載してしまう。ちなみにgoo映画の解説(泳ぎまくった割には、王道に落ち着いてる……)。

大妖怪・加藤the catwalkドーマンセーマン(秦浩司)は、永年にわたり地球侵略を画策していた。それを察知した宇宙警備隊ギャラクシー・フォースのリーダー(堀田直蔵)は、密かに地球の京都と呼ばれる地に降り立った。そして安倍さんと名乗り、陰陽師として人々に畏れられるようになった。安倍さんは加藤の『ドロップアウトを許さない人類補完計画』を阻止するため、“ヒモ王子”信介(石井モタコ)と、“ホームレス男爵”ツトム(山本剛史)に白羽の矢を立てる。加藤は、『正義感殺人事件』の犯人・寺田(野口雄介)の存在を利用して、世界の人間の悪意を呼び寄せる。それを増幅させることで、人々は我を失い、次々に妖怪化していく。安倍さんによって式神に仕立て上げられた信介とツトムは、たった二人で妖怪化した民衆に立ち向かっていく。京都・堀川中立売という一見なにも起こっていないかのように見える地で、京都ギャラクシーウォーズの火蓋が切って落とされる。

あの湯婆婆似の“ドーマンセーマン”が“地球侵略を画策していた”なんて全く判らなかった!てか、そういう明確な台詞を私が聞き逃していた?
それよりなにより、安倍さんが“宇宙警備隊ギャラクシーフォースのリーダー”ってことが一番の衝撃。子供に書いた色紙の「宇宙警備隊」はギャグじゃなかったのか……(落)。
あの場面、柵の隙間から色紙を出してくる子供の描写の異様さにばかりに目を奪われて、宇宙警備隊がマジだなんて、考えもしなかったよ……。

だってこの子、この場面だけじゃなく、クラスメートから給食のパンとかも届けられて、柵の隙間から受け取っている。まるで、まんまだけど、刑務所、というか、軟禁されているみたいで、子供が軟禁されていて、そこにクラスメイトが差し入れしているという図が異様で、そっちにばかり気をとられてしまっていたからさあ……。
でもそれは、確かに意図的だったんだろうと思う。だって、(ほぼ)ラストシーン近くで、瀕死の状態の寺田がさまよい出たところがこの子供のところで、安倍さんからもらった“お守り”の色紙を、彼はもう虫の息の寺田に差し出すんだもの。
ひとつの、象徴的な場所であり、キャラだったんだと思うんだよなあ。

そうそうそうそう。と、思わず意気込んでしまったけれども。寺田、である。判らないなりにも結構吸い寄せられるように観てたのは、この寺田の物語があるからに他ならないんである。
主人公は、安倍さんから見いだされて、ヒモになってる恋人からもさすがにアイソをつかされたことも契機になった信介であることは明らかなんだけれど、そして彼は確かに主人公たるチャームの持ち主ではあるんだけれど、なんたってこの“本筋”は“何かが起こっているのは明らかだが、何が起こっているのか判らない”からなあ(泣)。

だからまあ、そこんところは後述として(逃げてる(落))。寺田のエピソードはね、私らにとって、あまりにも色々と、身に覚えがあるのよ。
ずらずらずらっと彼の経歴やらその後の流れを並べてみるとね、「消費者金融関係者を狙った白昼堂々の殺人事件。マスコミによって、正義感殺人事件と銘打たれ騒がれた。しかも彼は当時十五歳。
そして15年後(?だったかな)当時の事件を模倣したと思われる、犯行声明を事前に示す殺人事件が多発。ひそかに出所している当時の少年の再犯ではないかとネットで話題になり、監視サイトまで現われる始末。当の少年は、出所後、噂だのなんだのと、どうしても過去がもれてしまって、マトモな職に就けずに、福岡から京都まで流れ流れて今日にいたり、今もまたクビになったばかり。途方にくれた寺田に声をかけたのがあの加藤ザキャット……ドーマンセーマン。寺田があんなにも憎んだ筈の消費者金融の取立人になるんである」

長くなってしまったが……だけどさ、あまりにもあまりにも、色々私らに身に覚えがあるじゃない?
てか……こうして列挙してみると、その“身に覚え”が、扇情的なワイドショーやら、正義感(それこそ!)を振りかざしたレポーターやらコメンテーターやら、したり顔した週刊誌の記事やら、それら全てを飲み込んで、100、いや、1000パーセント無責任なネット世界やらで、見聞きしまくったことだと判り……つまりは、ひとつも真実である“身に覚え”じゃないんだよね。
実際、当時のことをかたくなに語ろうとしなかった寺田が、最後の最後にぶちまけたのが、正義感なんかじゃない、イライラしたからやっただけだというのが……それこそが、本作最大の衝撃だったように思う。一体、この世に真実などあるのかと。

でも、それを充分に促がすような伏線は確かにあったんだよね。あの湯婆婆(違うって)が牛耳っているらしいのは名前からして判る「加藤TV」。そこがが拾ってくるのは、世の中の耳目をそばだてようとするネタばっかり。
本作が描かれている時代ははっきりしない、というか、フツーに現代の物語だと思って見ているんだけれど、加藤タワーが近々完成!とか(これはスカイツリーにぶつけてきてるんだろーなー……)とにかく加藤the catwalkドーマンセーマンに牛耳られている世界だというのは判り、で、“イケメンのバンババン君”(イケメンじゃないし、バンババンって……)が「今日もホームレスをぶっ殺しました。街がきれいになりました」と笑顔を見せ、女の子たちがキャーと叫ぶという、ちょっと間違えばありそうな“近未来?”なのだよね。

でもね、実はそれも、随分判りやすいシニカルだなあ、とも思った。あるいはそう思ったのは、ホームレス襲撃という実際の事件や、あるいは先述のマスコミの傲慢で過剰な報道が、実際に市井の私らが切実に受け止めているからじゃないかとも思ったんだよね。
つまり……そんなん、判りやすくシニカルに示さなくても判るよ!みたいな……。なんか、観客が信用されていない気がしたんだなあ。
ホントに判ってるの?あんたたち、噛み砕いて教えてあげるよ、みたいな空気を感じたというか……ヒガミだよなー、ホント、私。だって、全般的にあまりにも判らなかったからさあ……(爆)。

いい加減、主人公の話に行かなければいけない(爆)。しかし、私自身が、主人公に何が起こったのか判ってないんだから、なかなか厳しい(爆爆)。
ハッキリと判っているのは、この彼、信介が完全、完ッ全、純粋100パーセントのヒモ男子であり、やりたいことはないの?とイカった恋人に問われて「やりたいことは、なにもしないこと」と言ってのけるほどの完璧さ?なんである。
そりゃまあこんな恋人はヤだけど、彼のこの台詞にはある種の感動を覚えたなあ。いや、だから、ヤだけどね!
でも、言いたいもん。皮肉じゃなくて、ホントに。私だって、これが純粋100%の本音だもん!
まあ、こんな彼氏を囲っていられるのは、見た目はSだが実はMかもしれない思わせる、彼氏にベタ惚れの強気な彼女、サエだからなんだろうけれど。

サエは加藤TVに勤めていて、あの妖怪湯婆婆、じゃなくて、加藤the catwalkドーマンセーマンの元で働いている。
なんかもう、よく覚えてないんだけど(爆)、彼女が男たちに対する性の女王みたいになっている描写は、妄想だったのか空想だったのか、とにかくなんか、彼女はスゴいんである(あー、もう、ワケ判らん、限界)。
てかね、信介が安倍さんにスカウトされてから、それまでもワケ判らんかったのが、さらにさらにワケ判らんくなってくる訳。

なんか、ホームレスのカリスマが出てきて、そのカリスマ、ツトムも安倍さんの見い出した男で、彼とコンビを組んで寺田をネットで監視するようになり、しかしその監視カメラは実は彼らの目線で取り付けられていて……あれ?こうして書いてみると大してワケ判らんくない?おかしいな!観てる時はほんっとに、ワケ判らんのに!
あー、そうか、私が必死にストーリーを探してしまったから、なんかムダに整理して理解してしまった?実はそれは監督の望むところではなかったのかも……。

そもそも本作に足を運ぼうと思ったのは、何より何より、あの衝撃の「おそいひと」の存在があったればこそである。あの柴田監督の新作というだけで、足を運ぶ理由は十分だった。
ハッキリと、才能を感じる、感じざるを得ない、とにかく凄い、凄まじい意作品だった、から、私は本作にも必死にその才能を感じる何かを探し回っている気がして、なんか、そんな自分がイヤになるのだ。
そしてそんなこともお見通しで、監督自身は、湧き上がるアイディアの中を縦横無尽に泳いでいるんじゃないか、と。

だってさ、その「おそいひと」で、監督のムチャで、だけど凄まじく崇高な理想に応えた主演の住田さんもしっかり本作で、キーマンを演じているのよ。
非情な少年犯罪を犯した寺田の保護司として、あのインパクトのある車椅子と自動音声パネルを携えて現われる彼。
その自動音声特有の平板な声音を100パーセント生かした(生かしちゃいけないような気がするけど……)「もう生きてても仕方ないだろう。遺族から金もろうてしもうたから、自殺してくれないか」(中途半端ななまりなのは、完璧に覚えてない上に、方言に明るくないから。許されて。)という、衝撃の台詞には、もうただただ……。

それは無論、“信頼されていた保護司”という以上に、彼が判りやすい形での障害者であるからで、そこをついての「おそいひと」の衝撃が、いま一度思い起こされるのだ。
障害者だから、弱い立場だから、こんなこと言う訳ない、こんなことする訳ない……美談や同情に押し込めて、人間性を否定していることを、こんな荒療治で示せるのは、柴田監督しかいない。それは確かなのだ。

まあつまり、私自身もその方面の勝手な期待が大きかったのかもしれないなあ。逆に“その方面”が陳腐と言ったら言い過ぎだけど、そんなぐらいに、形骸化されて見えたのはだからなのかもしれない。
先述の、ホームレス襲撃事件やら少年犯罪やら、おごったマスコミが全てを作り上げてしまうこととかね。
もちろん、私自身、判った気持ちでいながら判っていないんだとは思う。それを、こうした野心的な作品で見せられてさえ、形骸化されているように思うことこそが、実は根が深いということなのかもなあ、とも思う。

てか、その信介の話が全然進まないけど(爆)。でもね、ホント判らないのよ、彼の、というか、彼を取り巻くツトムさんも、恋人のサエさんも、安倍さんもキララちゃんも、そのあたりのシークエンスはさ。つまり、神様が絡む部分はさ。そこが判らなかったらホント致命的だと思うんだけど(爆)。
だからこそ、並行して描かれた、現代社会の問題の数々を体現した寺田の世界がね、赤裸々だし、ある意味判りやすいし、観客はすがっちゃう。

信介の荒唐無稽と絡み合うかと思いきや離れ、みたいなのを前半で思わせぶりに繰り返すから、疲れちゃうのもあるんだけど、繰り返すことで余計に、これまで気楽に生きてきた(と言い切るのもなんだけど)信介達のファンタジックさと、重い過去を引きずる寺田が余計に乖離していく。
絡み合ってる場面でも違和感が残るし、溶け合わないまま、二本のエピソードを入れ込んだのをムリヤリ見せられたような引っ掛かりを感じてしまうんだよなあ……。

まあ、つーのも、後半の猛スピードの前には、寺田の重さが集中的に描かれるせいもあるかもしれない。
正直、信介がヒモ状態で寄生している恋人のサエとのやり取りとかは、ホント面白いんだよね。先述した超無責任な台詞はじめ「(やりたくないなら皿洗いしなくていいよと言われて)皿洗いなんか、やりたい訳ないだろ」と超正直に言いつつも、キレられると、やるよ、やるよとフォロー(になってない!)したりとか、リアルだからこそ、面白い。

そんな信介にサエがホレきっているから別れられないのもいじらしいし(カワイイ、カワイイ、と眠り込んでいる信介にキスするサエこそが可愛かったなあ!)安倍さんに引きずられてサエの元を離れて行方知れずになった信介を、自分から追い出したのに狂ったように探すのも可愛い。
まあ、「ピンクローターの電池を買いに行ったきり、行方不明なんです!」というビラが街中ところせましと貼られているのはハズカシイけど……でも可愛いな、やっぱり。だからこそ、全てが終わって信介はサエの元に帰っていくんだもんなあ。

てか、もう、何がどうなったんだかよく判らなくなっちゃったけど(爆)。あ、そうそう!これが恐らく一番大事、というか、私は一番、怖かったなあ……。
寺田を模倣犯の犯人だと決めつけ、つまり、当然再犯するでしょ、と決めつけ、ネット社会は彼の居所を簡単に突き止めてしまい、市民たちが携帯やらデジカメやらを片手に、隠し撮りという奥ゆかしささえなく、バシャバシャ寺田の写真を撮る、という……。
この、マスコミから派生し、ネット社会が大きく、際限なく増幅させてしまった、プライバシーの侵害問題というのは、勿論、私たちだって脅威に思っている。

けれど……それはあくまで、“幸運にも”犯罪を犯さず“なんとか”善良なる市民でいられた私たちにとっての特権だと思ってないだろうか、と、柴田作品には突き付けられてしまうんである。
そう、ここで、わざわざ、柴田作品、と言ってしまったのは、無論、「おそいひと」で、その“禁断”(本当は禁断なんかじゃないんだけれど)に彼があっさりと切り込んだ衝撃が忘れられないから。
実際、犯罪者にも、それもマスコミやネット社会が振り立てた“正義感”によって、世にも恐ろしい悪魔に仕立て上げられた“犯罪者”にも、その権利は当然過ぎるほどに当然、あるのだということを、いまさら突き付けられてビックリしている場合ではないのだ。

てかね、てかね!そう、本作は、そういう判りやすい問題提起に行けば、確かに言い易いのよ。
でも、全然そんなんじゃないのだ。寺田のエピソードはほんの傍流に過ぎない。演じる役者さんが凄く真摯だったからウッカリ忘れそうになるけど。
そう、ホント忘れそうになるけど、本作の主人公、信介を演じる石井モタコ氏は、関西のロックシーンのカリスマなんだという。ふと、峯田和伸を思い出してしまう。映画俳優はウカウカしてらんないよ。ロックスターにこんなサラリと演じられてしまうんだもの!
だって、そんな、カリスマなんて雰囲気感じなかった。勿論、いい意味で。この長髪で“神様”に選ばれたのかしらん、などと思ってしまった。

やたらブリーフいっちょで、そのガフガフのお尻と、妙に強調される前身ごろ(爆)に、困るなあ(はぁと)と、そして、若い頃のヨッチャンに似てるなんて思いながら見ていた(爆)。
人が人にイラッときたり、嫌いになったり、もっと深く……憎んだりする場面が、後半のクライマックスで、ドーマンセーマンと二人の式神、信介とツトムによって再現よろしく次々と現われる。
そう、まるで、まさしく、走馬灯のようにね。ぼんやりと、怖いなと思っただけで、その意味するところは観ている時には判らなかったけれど……ていうか、今でも判ってないけど(爆)、つまりはあれは、地球侵略しようとしている妖怪が人間の悪意を利用して乗り移っているってこと?違うか?あー、もういいや、ダメだ……。

信介が見る時間が交錯なのか、前後なのか判らんけど、人の首をもぎったりして、牛乳みたいな白い液体が噴出するのは、射精の暗示なのか?妄想のようにも思えるし、もう、ホント、判らん……。
前半、安倍晴明のこととか式神のこととか、メッチャ説明してたのに……判らん……。
とにかく限界。この映画が判る人は“通”なんだろうなあ。いかにも、そんな感じの映画だもん。通になりたいなあ……(落落)。★★☆☆☆


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