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「う」


2011年鑑賞作品

うさぎドロップ
2011年 113分 日本 カラー
監督:SABU脚本:SABU 林民夫
撮影:柳田裕男 音楽:森敬
出演:松山ケンイチ 香里奈 芦田愛菜 桐谷美玲 佐藤瑠生亮 綾野剛 木村了 高畑淳子 池脇千鶴 風吹ジュン 中村梅雀 キタキマユ


2011/8/30/火 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
本作に関してはネットで原作コミクスをチラ読みしていて、その後に映画化を聞き(なんか最近こういうパターン多いけれども)楽しみにしていた。
しかもそれが松ケンだというのだもの!彼に関してはどんな役にも化けられる人なので、イメージがどうとかはあまり思わなかったけど、“おじいちゃんの隠し子”のりんが芦田愛菜嬢だというのには最初、ん?と……。

というのも原作コミクスでの、しかも最初の方だけチラ読みしただけだから余計に、たった一人の家族を失ったばかりの、その他にも沢山の屈託を抱えまくったりんのたたずまいが、なにかとてもシックで艶めいてて、“もう起きない”おじいちゃんのために庭のりんどうを積みにいくショットなんてどきりとするぐらいで、6歳の少女なのに喪服の女の色気さえ感じたんだもの。

それはこのシャープな絵柄のせいもあると思うけれど……。私はドラマをよう見ないもんだから、彼女のイメージはパブリシティで出てくる場慣れした女の子、という感じで、りんを演るというのがどうにもしっくりこなかったのだが、彼女が注目されたのが超シリアスドラマ、「MOTHER」だと思えば、そして今回のキャスティングがそれを踏まえてのものだと思えば、確かにそうなのだろう。

実際、これが当初の予定通り、演技慣れしていない子をオーディションで、ということになったら、崩壊してしまっただろうな。現時点でりんを演じられる女の子、つまりこの年頃でそんな芝居を出来る女の子は確かに彼女しかいないに違いない。
場慣れした女の子、のイメージは結局は周囲の大人、マスメディアが作り上げたものなのだもの。彼女がそれに毒されずに女優としての道を正しく進んでいってほしいと、勝手な老婆心ながら思っちゃう。

松ケン、あれはパーマじゃないよね……?彼は実は髪が結構硬かったのか、短髪になると剛毛でパーマに見えるのか(爆)。なんか見ようによっては頼りないヤーさんスタイルに見えなくもないのが気になる(爆)。いやそんなことが気になる方がおかしいのか(爆爆)。

とまれ……二人のキャスティングに文句はないんだけど、そのチラ見だけの原作の印象と、作品のカラーもやはり大きく異なっていたように思う。
やあっぱりあの突然の妄想ダンスシーンは監督のアイディアなのね。スタッフは面白がったというが、なんか悪ノリにしか思えないなあ。なんか見ていて恥ずかしくなっちゃう。

そんなシーンが挿入されるせいもあってか、実は結構シリアスな話なのに、なんとなーくゆるい雰囲気が終始漂う。いやまあそれが狙いなのかもしれないけど。

妄想ダンスシーンのお相手は、同じ子育て仲間、こちらはシングルマザーの香里奈嬢。彼女の職業も原作の、普通にOLとは異なって、香里奈嬢自身をほうふつとさせるモデル。
で松ケン扮するダイキチが雑誌の彼女を見て官能的なダンスの妄想にふける訳なのだが……ダンスありきで職業もモデルになったのかなあ。

なんかね、香里奈嬢に関して言えば、シングルマザーであることの苦悩を、彼女が口にする台詞ほどには感じなかったんだよなあ。悪いけど、ちょっと口先だけに見えてしまった。
それはモデルである香里奈嬢そのものに見えてしまったせいもあるのか、普通に勤労女性(いや、モデルだって普通に勤労女性なのだが)を演じていたら、そこに入っていたら、またなんか違った気もしてね……。
なんかそんないまひとつさに、松ケンも引きずられている気がして。大体彼らがあのシチュエイションでキスする雰囲気になるのも今ひとつピンとこなかったし。

って!あーまた!あのシチュエイションとか訳判らん!最初から行くぞ、最初から……。
えーとね、なんたってこの作品のキモは、先述したように“おじいちゃんの隠し子”である。
おじいちゃんの葬式に主人公のダイキチが赴いてみると、その隠し子、りんがいたんである。つまりりんは母親の妹で自分にとってはおばさん??
しかも奇妙な運命のイタズラなのか、ダイキチはこのおじいちゃんの若い頃にソックリだったらしく、葬式で顔を合わせた親戚誰もがひいと腰を抜かす。初めて顔をあわせたりんも、あっ……と小さく声を漏らして、きびすを返して駆け去った。

後から考えると、りんは若い頃のおじいちゃんを知っている訳はないんだし、つまり、若い頃ならこうだったであろう、という思考回路であった筈で、そう考えると後にりんが口にする台詞が凄く重く響くんだよね。
つまり「ダイキチも死んじゃうの?」というあの台詞。6歳の女の子が口にするにはあまりにも重い重い台詞。
死んでしまったおじいちゃんも、こんな風に若い頃はあった。でも今死んでしまったんだ……と、彼女の中できちんと整理立ててはいないかもしれないけど、きっとそんな風に、彼女は思ったのだ。

死ぬってこと、死ということって、子供の頃すんごく怖かった。死神とか閻魔様とかもリアルに感じたりした。
そんな子供にとって、一番愛する人の死、あるいは誰にでも、自分にもいつか訪れる死というものの重さは、今大人になった自分にとって子供の頃を思い返しても、ゾッとするほど重い。
りんが夜トイレに行けなくて、おねしょを繰り返し、それをけなげに隠そうとする気持ちが愛しくてたまんない。

後に、ダイキチが仕事仲間となるガテン系の同僚たちが皆子持ちでね、子供は説明する言葉を持たないだけで、その中は結構複雑なんだと。判ってるんだと言うのにもね、つながっていくんだよね。
こんな風に、大人が子供をきちんと理解している、あるいは理解していく、あるいは理解しようと努めることが、この物語の魅力であり、そのためには理解なんぞしない大人も登場するのだけれど……。

でも、理解しない大人も、重要なファクターである。それがゆえにダイキチはりんを引き取る決意をしたし、育て続ける決意もしたのだから。
引き取る決意をしたのは、おじいちゃんの葬儀での親戚たちの、自分が貧乏くじを引きたくないという気持ちを隠そうとしない押し付け合いにヘキエキしたから。
それでも独身一人暮らし、仕事に生きがいを感じ、ある意味気ままにも暮らしてきたであろうダイキチは「どうしよう〜、オレ、カッコつけちゃったよー!」と焦りまくる。

しかも彼は部下からやめないでくれと懇願されるほどに信頼される存在であり、見るからに男としてやりがいのありそうな仕事ぶりである……って!私うっかりそんなこと言っちゃったけど、男として、って何よ!ってね。

ダイキチが、割とアッサリと(身体的な疲労に耐え切れなくなったとでもいった風に)部署変えを決めると、そんな彼に声をかける後輩が「なんでコウチさんが犠牲にならなきゃいけないんですか!」と言うのね。
この台詞も、あるいはそこここでキーポイントとなる場面でダイキチが浴びる台詞って、実にありがちというか、めっちゃ“心無い大人がかける言葉”なんだけど、でも実は真実もついていて……。

で、こういう状況に陥っても、女はそんな言葉さえかけられなかったのよね、今までは。
本作では同じように子育てのために部署替えした先輩、池脇千鶴が登場して、ダイキチが、貴女が部署を変わった時も、同じように思いましたよ、と言うんだけど、この、思った、ってところがミソでさ、実際には彼女はそう声をかけられることはなかったんじゃない、かなあ……。

つまりそこが、“男としてやりがいのある仕事”などと私がウッカリ言ってしまった、世間の先入観というヤツなんだよね。女なら、そういう事情で部署が変わっても仕方ないと思われちゃう。
それがたとえ、彼女がダイキチと同じように、実子じゃなくて親戚の子を育てることになったとしてもきっとそうだと思うんだよなあ……。

でも、千鶴嬢はカッコ良かった。一時期パンパンに太っていた時を脱して、可愛くも頼もしい女になった。
「背の高さで判断しないでよね。2歳(の子供がいる)」と胸を張る。後輩から、子供の犠牲になっていると言われたことを気にしているダイキチに、うーん、そうだなあ、と同じ悩みを経たことをにじませながらも、「でも、子供といる時間も自分の時間だから」とさらりと言う。

この言葉が本作の中でいっちばん、重要で、素敵な言葉だったなあ!この言葉ですべてを説明できちゃう。それを言う千鶴嬢がサラッとしてるのも凄くイイのよ!
この言葉を聞いた松ケンが、ランチを一緒にしてるんだけど、箸が止まって、彼女の顔をまじまじと見詰めるのが、イイのよ!「ん?私、いいこと言った?」「言いました」いいなあー、このやりとり!

……千鶴嬢ひいきなもんで、ついつい長引いてしまいました。
でね、まあかなーり脱線したけど、途中でもダイキチは、大人のありがちな心無い言葉に遭遇する。
それは、親戚のおじさんが用意した、“こういう問題に詳しい人”、まあ児童福祉とか、そういう方向のお方らしい。
ダイキチがりんをもてあましているだろうと決めてかかって、カノジョとか出来たら子連れでデートも出来ないでしょ、そんなのヘンでしょ、とまで畳み掛ける。

頭に来たダイキチが突っぱねると「子供を育てるってのは、犬や猫とは違うのよ!」……猫と暮らしてる当方としては、深く傷ついたなあ……いや確かにその通り、判るけどさあ……。
もちろん、ダイキチは違う方向で傷ついた訳で。そりゃね、映画の尺では答えはまだまだ出ないさ、ダイキチもこの先どうなるかなんて判らないと言わざるを得なかった。でもそれだけで充分、それこそが大事なんだと思うんだよなあ……。

それにこの児童福祉関係のおばさんを演じるのが高畑淳子さんっていうのがまた、説得力もインパクトも抜群なのよね。
彼女は確かに子供が理不尽な目に合わないために、心から尽力しているのだろうと思う。彼女がダイキチにかける言葉は、何一つおかしくない。彼女がダイキチの人となりやこれまでの経緯を知れば、また違う形で力になれる人だと思う。
でも、この時彼女がダイキチにかける言葉は、ただただ彼を不安にさせるばかりで……たまらないんだよなあ。

あのね、日本における実子至上主義とでも言えるものに、私はなんとも違和感を感じてて、そんな価値観が子供が出来ない夫婦を、特に女性を苦しめているし、実子でなければ愛情を注げないなんてことはない筈だと思っていてさ。
まあつい最近、里子に対する辛い事件があったにしても、でもそれでも、人類皆兄弟じゃないけどさ、そう思うのよ。
本作は、親戚ではあるし、おじいちゃんの隠し子というインパクトのある設定ではあるけれど、でもそういう現代事情を斟酌していると思うんだよなあ。
もちろん児童福祉施設といった受け皿は大事よ。むしろそれが日本はお粗末な状況よ。でも実子でなければ、という暗黙の前提がそうした施設の存在を足らしめているようにどうしても思えてさあ……。

すいません、かなり個人的な感慨に暴走してしまって(爆)。軌道修正。えーと、どこから行こうかな。
とにかくダイキチはりんを迎えて奔走する。おそらくは自分は殆ど知らなかったおじいちゃんの思い出をりんから聞いたりもする。
ダイキチがりんを引き取ることに猛反対し「子育てがどんなに大変か判ってない。私がどんなに自分を犠牲にしたか」と青筋立てた母親や、子供相手の仕事をしていながら妙に現実的に冷めている妹(それでいて適切なアドヴァイスをグッドタイミングでくれたりする)などとのやりとり。

りんはおじいちゃん(と呼んでたけど、実際はお父さん、よね)と、ダイキチ以外の大人にはとにかく萎縮しまくって、言葉もろくに出ない様だったんだけど、ダイキチの実家にりんを一時預けてみると、あっという間にりん中心に家族が明るく華やぎだす。
これまたありがち、ベタとは思いながらも、案ずるより生むがやすし、ってまさにこういうことだよなー、とあんなに青筋たててた母親=風吹ジュンの目尻の下がりように胸が熱くなるんである。

で、この“一時預け”の間にダイキチはりんの母親と面会している訳で。
漫画家であるりんの母親、正子は、「生まれた時には愛しいと思いました」と言いつつも、母親ではないと思うようにしたとか、冷たいというよりは、なんとも要領を得ない感じなんである。
ダイキチが彼女を“見つけた”時、母子手帳にメモしてあったサイトのアドレスにヒットした時、そっけないメールの返事や携帯でのやりとりに、彼はひどく憤ったんであった。
でもその返信の異常な早さにうろたえ、電話に出るとやたらへこへこしちゃうあたりが(笑)。でも会ってみるとこんなぐあいにのれんに腕押し状態というか……。髪をいじりながらうつむいてぼそぼそと喋る彼女は、見てるこっちをやたら不安にさせるんである。

ひとつ、大きな事件が起こるのね。りんと、保育園で仲良しの男の子、コウキが失踪してしまう。
その直前、保育園で保母さんが、お父さんとお母さんの絵を描いてと子供たちに促しているという、まあこれまたかなりベタな展開があったりする。りんはもちろん、コウキも母子家庭で父親がいない。
りんがいなくなったと知って、ダイキチは血相を変えて仕事場を飛び出す。仕事仲間たちも同じく飛び出して、方々を探し回る。
途上、ダイキチは通りに呆然とたたずむコウキの母親、ゆかりを見つける。仲間たちからの連絡を待って、二人ダイキチの自宅で時を過ごすんである。

二人は、コウキの父親のお墓に向かってるのね。彼らを見つけた自転車に乗った若いあんちゃんが、それはこっちだよと案内しながら、怪しい笑みを口元に浮かべるショットなぞが見切れるもんだから、ええっ!やめてよー!と思ったら、彼らはすんなり墓参りを済ませ、今まで泣けなかったんだろう、思う存分号泣して永遠の別れをお互い済ませて、帰宅したんである。
えっ?あの怪しい青年は?と思っているうちに、“帰ってきた感動”な展開に巻き込まれ、親としての未熟さに直面したダイキチとゆかりがお互いの思いを吐露しあう。

成長しているのは子供ばかり、あっという間に大きくなって自分は全然ダメだとか、親になると強くなると思っていたのに逆だ、臆病になってしまった。いなくなったと聞いた時、ひざが震えた、とか。
ここは確かにキーポイントな場面だが、しかし二人がいい雰囲気になってチューしそうになるほどには思えなかったけどなあ?あ、ようやく、暴走した前半に追いついたかしらん(爆)。

ところであの怪しい青年は、ダイキチの妹の恋人?で、クライマックスのお遊戯会のシーンでちゃっかり同席している。ここであっ!と思う訳。
彼が、結婚もいいかもな、とテキトーな感じで彼女にプロポーズ?するのが、このぐらいの軽さがいいんではないかと思っちゃう。だって彼、見た目によらず(!)めっちゃ子供好きそうだしさ!
ところでこのお遊戯会は予想よりは感動しなかったかなあ……(爆)。うう、何が原因だったんだろう(爆)。妹のあざとい(!)振り付けがジャマしたか!?かなりの感動ポイントだったのだが……。

感動ポイントはね、他にいくつかあるから。ゆかりと出会ったばかりのダイキチが、りんの発熱に気づかず落ち込み、子育ての自信のなさを吐露する場面、ゆかりが「子供は自分の味方になってくれる人が判ってるんじゃないかなあ」
そして、最後の最後、りんの母親からお願いされたこともあって、自分の養子にすることを考えたダイキチが、しかしりんから「ダイキチはダイキチでいい」と拒否されたこと。
特に後者は、一見拒絶のように見えるけど、りんが真の親であるおじいちゃん(てか、リアル父親)を愛していること。

そのおじいちゃんとダイキチはイコールではない、おじいちゃんの苗字を父親として冠しているのをダイキチのそれとすげかえることは出来ない。
ダイキチのことも同じくダイスキだけど、違う愛なのだと、まさに子供だから説明する具体的な言葉は持たないのかもしれないけど、すんなりとそれが心に染み入るのがね、いいのよ。
それこそ大人の勝手な思い込みで、違う苗字だと肩身が狭い思いをするとかいじめられるとかじゃなくて、りんの心の中での折り合いは、彼女だけの、たったひとつの尊い答えなのだね!

でも、でもやっぱり私的にはなあんとなく、最初に抱いていたイメージよりはスウィートすぎたような感じもする。勝手な言い草だけどさ。ところどころに施されたマジックが余計にそう感じさせたような気がする。
冒頭、タイトルが現れたときは、ストイックな縦書き明朝体オンリーで、タイトルのラブリーさから、かなりデコるのかと思っていたから。これはかなりのヒューマンドラマが期待できるのかなと思っていただけに余計に……なんてね。★★★☆☆


薄化粧
1985年 124分 日本 カラー
監督:五社英雄 脚本:古田求
撮影:森田富士郎 音楽:佐藤勝
出演:緒形拳 浅利香津代 川谷拓三 大村崑 浅野温子 松本伊代 宮下順子 竹中直人 花澤徳衛 柳沢慎吾 小林稔侍 菅井きん 萩原流行 笑福亭松鶴 藤真利子

2011/11/18/土 劇場(銀座シネパトス/川谷拓三特集)
今回は川谷拓三特集なんだけど、これはやはり、さすがに、主演の緒形拳にスッゲェー!とノックダウンされてしまった。「復讐するは我にあり」の緒形拳に愕然としたあの時のことを鮮やかに思い出した。
何人もの人間を殺した殺人犯、という点では確かに共通するけれど、本作が、無慈悲な男のように見え、いや確かにそうなんだけど、時々人間としての弱さ痛み優しさも見え隠れし、しかしまた鬼のように無慈悲な男に翻り……という、観客を翻弄させ続け、やっぱりやっぱり緒形拳はすっげえ、と思う。

私さ、彼がいかに凄い役者か、やっぱりあんまり判ってなかった。
彼がこんな凄い演技を披露していた円熟期に私はまだまだ子供で、映画が好きになり始めたころではあったけど、まあご多分に漏れずに外国スターにときめいていたりしたし。

日本映画はなんていうか……おじさん、おばさんが観るものみたいに思ってたなあ(爆)。それこそ緒形拳なんて、あの頃の私にとってはおじさん、おばさんにとってのスター、みたいな(爆爆)。
私自身がおばさんになってようやく、その凄さに気づくなんて、ああもったいなかった!

でも私の10代の頃って、やっぱりそんな雰囲気だったよ。
今の子達は日本映画もちゃんと見てるだろうか。今のアイドルは早くから演技の道に入るし、そういう点では私らの時代とは違うかもしれない。

あ、そうか。この映画にも当時のアイドルは出ているんだった。
松本伊代の名前をオープニングクレジットで、しかも単独扱いで見た時にはえーっ?と思ったけど、場面を見て思い出した。
いや、この映画は観てなかったけど、当時バリバリのアイドルだった彼女が、太ももをあらわに見せるこのシーンはかなり話題になって、その画自体は見た覚えがあったから。
ほおんと、そういう意味でもいかに当時のアイドルが生ぬるかったかということを示しているようだが(爆)。

うーむ、しかしせっかく大御所、五社監督の映画に抜擢されたんだから、ここで大きな印象を植え付けていたら伊代ちゃんも大女優の道を進んでいたかもしれない?
まあその正直、お芝居的にはかなり……いやいや。彼女相手にはさすがの緒形拳もなあんとなく柔らかく当たっているように見えたのは気のせい??

まあ、伊代ちゃんの話はどうでもいい(爆)。でもそんな具合に、色んな面白いキャスティングも見所ではあるような。
竹中直人や柳沢慎吾なんてね、ちょっと面白い。実は竹中直人が最初に登場(終わり近くに再登場)した時に私はすっかりネムネムさんで、この時にキーウーマンとなる藤真利子(キレイ!)も出てくるんだけど、緒形拳と三人交えた、それぞれのこれまでの人生を語るシーン、全然覚えてない(爆)。

まあ、坂根(緒形拳ね)が本当のことを言う訳ないし、ていうか殆ど喋ってなかったみたいだし、ちえ(藤真利子)や氏家(竹中直人)の境遇は特に物語には関係してこないよね、ね?(ちょいと不安……)。
竹中直人はかなり面白そうな感じだったんで、ここで眠かったのは悔しいなあ。
氏家は坂根(ここでは偽名を使ってるけど)にヤクザの脅しから助けられたことで大いに恩義を感じ、後に再登場する時に、もうここらは警察がマークしているから逃げてください、と告げに来る訳。

……まあそのー、まだ全然話が見えてきませんわね(爆)。
ていうかさ、見てる時にも全然話は見えてきてない訳。最初、いきなり大爆発!えっ、つかみはOKってヤツですかあ?みたいな。
そこをダーッと逃げてくる緒形拳。警察の調べが入ると、坂根の家の床下から故郷に帰ったという話だった女房の遺体、彼女が連れ帰ったと言われていた幼い息子も後に、身元不明の遺体として処理されていたことが判明。
坂根の愛人、浅野温子(美しいわー)も迷惑げに眉を寄せるばかりで、坂根の行方はようとして知れない。

でね、まあここを基点にするのはいいんだけど、その後もすんなりと時間軸を追っていかないのよ。
確かにこの大爆発、この大爆発でも新婚の若い二人が爆死しており、つまりここに至るまでにもさまざまな物語があった筈なんだけど、とりあえずそれはうっちゃっておかれるし、後に示されていくには行くんだけど、いちいち、小出しなんだよね。
まず、坂根が逃亡した鉱山で竹中直人、藤真利子が登場、坂根の寡黙なワケアリな様子、氏家が彼に示す敬愛、ちえと坂根が密かに惹かれあっている様子、が端的に示される。
ていうか、もうこの時点で坂根はこの現場に間をおきつつ何度も働いているようで、その間をおきつつ、ていうのが、いくつもの鉱山の現場を転々としていて、あの事件からもう何年も経っている、という様子が浮き彫りになってくる。

徐々に坂根が犯した罪が明らかになってくるんだけど、現在軸、つまり坂根の逃亡と、彼が回想する形での、何が起きたのか、っていうのが交互に示されていくもんだから、彼が善人なのか悪人なのか……。いや、善人な訳ないんだけど、人殺してるんだから、それも妻子を……というのがあるんだけど。
でも、今の時間軸で、黙して語らずという感じの坂根が、しかし時折見せる蛇のような目に氏家の腰も引けるし、回想の中で彼が接する女たちも愁嘆場になるとそんな言葉を口にするから、一体彼の本当はどこにあるの?本当の彼はどんな人間なの?と戸惑わずにはいられないのだ。

いや、それこそが、真実なんだろう。まったき善人、まったき悪人などという人間は存在しない。時代劇の勧善懲悪の世界ならそれでスッキリとするけれど、実際はそうじゃない。
性根が甘い私は性善説を信じたい気持ちがあるが、実際はそうじゃないのかと暗澹たる気持ちにもなる。この坂根に関してはどうなのか……それもまた、揺れ動く。

すべての起点となった時間軸の最初の彼は、善の人だった。ちょっと、驚いてしまう。
鉱山の坑夫として働く彼は、落盤事故で命を落とした仲間たちの補償を先頭切って叫んでいた。世の中は民主主義なのだと。
彼が叫んでいる単純極まりない言葉も何かちょっとズレている気がしたけど、ひょっとしたらそこを突かれたのかもしれない。
幹部たちからドサッとカネを渡され、好きなように分配していいから、お前がちょいと取ってもいいから、下の人間を黙らせろ、と言われる。

マージャンしながらニヤニヤ言う幹部たちは、山に事故はつきもの、それをいちいち騒いでいたら仕方ないやないかと、まことしやかに言いやがるんである。萩原流行や笑福亭松鶴の余裕しゃくしゃくの感じにめっちゃムカーとくる。
人を人とも思わない会社の態度に愕然とした坂根は、この時には確かに人間だった。だけど、ここで逆らっても彼に未来はない。そのカネを元手に金貸しを始めた時点で、もう彼は“蛇”になっていたのか。

だけどさ、奥さんとはどの時点から亀裂が入っていたのか……。同僚たちから陰口を叩かれているのにもいたたまれなくなる奥さんの気持ちも判るし、坂根は堂々と愛人のテル子(浅野温子)とヨロしくやっている訳なんだから……。
奥さんが二人の逢瀬に乗り込んでいって逆上し、キイー!とザ・女同士のつかみ合いをするシーンは女としてはあまりにもいたたまれないが、どっちに加担する訳でもなくおろおろと見てるだけの坂根が一番イラッとする訳なんである。

しかしまあ、確かにこの時点での坂根は、どちらの女に対しても格別の愛情はなかったんだろうなあ。なんたって奥さんが、坂根の道楽である高額のラジオに文句を言ったら「お前よりラジオのほうが大事。文句があるなら出て行け」!!!
奥さん逆上(そらそうだわな)、ラジオにオノをふるったら、坂根はそれ以上に逆上、奥さんの頭にオノをふり!!!惨殺……。キツすぎるわ……。
床下に奥さんを埋め、愛人を迎え入れるも、女の戦いをやっていた頃には盛り上がっていた彼女ももう冷めてしまって「あんたみたいなお荷物しょいこんで」と言い放つ。
この時の坂根、ていうか緒形拳、もう迎え入れたとたんにヤル気まんまん、即座にふんどし姿になって、「衛生サックも用意してる」え、衛生サック……。

なんて感じに、時間軸を順当に追っていると、本作の感じは出ないんだよね。こうした“事実”は本当に小出しにされて、坂根がどういう男なのか、いやどういう人間なのか、なかなか明らかにされない、肌身に感じないもどかしさ、怖さ、戸惑いが常につきまとっているからさ……。
それこそ彼が妻子をぶっ殺し、のみならずうら若い夫婦をダイナマイトでバラバラに吹っ飛ばしたなんて事実が厳然としてあるんだから、どういう人間どころか鬼畜には違いないんだけど、やっぱり回想の最初に出された、幹部の人間たちの人を人とも思わない態度に愕然とした彼を見せられてしまったからさあ……。

そういう意味では上手いというか、ズルいというか。やっぱり私らは心のどこかで性善説を信じてる、から。その後転落していった坂根に対してもそれを適応させたいと思っちゃうから。
それにしたって坂根の転落の仕方はあまりに自分勝手で、まあ悋気からラジオをぶっ壊してしまった奥さんに対してついウッカリ?オノを振り下ろしてしまった最初の殺人に関しては、ラジオの方が奥さんより大事だったということもあり!!って、その時点で問題だろ!とも思うが、まあ夫婦ってーのはそういうもんかもしれない……って、悲しすぎるだろーが!
ああ、前に進まない、もう!

でもとにかく、最初の殺人はまあなんとか、ついウッカリ度はなくもなかった。でもお母ちゃんに会いたいか?と息子に問うて三途の川を渡らせ、まだそれもギリギリ息子への不憫さなのかもとも思い……いや苦しいけれども、でも次のダイナマイト殺人に至っては、これはさすがに、アホとしか言いようがないんだもの。
そう、伊代ちゃんよ。若い娘にのぼせ上がってしまった坂根。伊代ちゃん扮する弘子は、先述した、話題になった太ももあらわ場面で彼の気を引き、金を差し出させた。
ていうか、坂根が金をやたらと出すこと自体、ちょっと不自然だけどなー、などと……。正直伊代ちゃんにそこまで彼をメロメロにさせてる雰囲気もないし(爆)。
で、ついに彼女にソデにされてしまった坂根は逆上、彼女の結婚式の夜、初夜の床下にダイナマイト仕掛け、それが冒頭の場面になる訳。

……て、あらすじを追っちゃえば、確かに男がどーしよーもなく転落していく様がつぶさなんだけど、何度も言うように、これらが細切れで現在の時間軸と交互に現われるから。
現在の時間軸の坂根は回想の彼とは別人、イケイケの過去の彼とは全然違う、ただただ寡黙な男なんだもの。
それは何を考えているか判らないという怖さもちょっとはあるけど、何かそこには、諦念みたいなものがにじみ出ていて……なんて思うのは、彼と惹かれあい、彼の過去を知りながらもその想いを止められない飲み屋の女将、ちえの存在があるから。
坂根がいよいよ追い詰められて、彼女とも永の別れになると、今や金持ちのお妾さんとなったちえの元に現われる場面、その前にも彼らが交わるシーンはあったけど、この最後の交わりはことに胸に迫るものがある。

ついつい、いやー、やっぱりこういうトコで女優は脱げないとダメよね、と思っちゃう。坂根からきれいだと賛辞され「もうおばちゃんだから」と恥らうちえ、いやさ藤真利子の可憐な美しさたるや!緒形拳に吸われるおっぱいも可憐!
同じく緒形拳と絡むシーンがある浅野温子が、こちとら愛人という立場なんだからもっとエロい筈なのに、見せそで見えない、ホントに惜しい!てアングルでさ、ここは温子さん、見せてほしかったわー。

まあそんなことはどうでもいいっつの。えーと、なんだっけ。そうそう、ちえといる時の坂根は凄く誠実で、彼女のことを慈しんでいるから、それと交互に現われる鬼畜の彼とのギャップで、本当に混乱させられてしまうのよ。
人間っていうのは、自分でもコントロールできない、自分でも好きな部分と嫌いな部分に翻弄されて生きているのだと、緒形拳の圧倒的な生き様を見せ付けられて、思う。

それでもそれでも、どこか遠いところに逃げると言った坂根がちえに別れを告げて、ちえが思い悩んだ末に彼を追って深夜のプラットホームに現われる場面、彼女をつけてきた警察によってサーチライトがたかれ、坂根が御用となる暗示で終わるんだけど、でもそれでも、彼はこの時、幸せだったと思うなあ。
よもやちえを疑うことはなかった……よね?多分、多分……。だって坂根の名前(偽名だけど)を叫ぶちえの悲壮な顔の美しさときたら、なかったんだもの。

うーむ、川谷拓三特集なのに、彼にまったく触れずに来てしまった(爆)。川谷拓三は、坂根捕縛に執念を燃やす刑事、真壁役。
だって坂根は刑務所の床下を地道に掘って脱獄という、彼のプライドを傷つけるやり方で姿を消したんだもの。
この時既に坂根に対して蛇のような男だという表現がなされているけれど、この脱獄の前、真壁が厳しい尋問をした後に坂根は自殺未遂を犯してるんだよね。
それもズボンの裾の折り目に隠しておいたノミのような刃物で頚動脈をぶった切るという、道具も手段も用意周到な方法で、狂言ではなく、坂根は本当に死ぬつもりだったんだと思う。その後、その首の傷が追跡の決め手になってしまうし。
そう、そのこともあるから、坂根に対して観客の思いが非情になりきれないっていうのもあってさ。本当に死のうとしていた男が生き延びてしまって、ならば生き延びさせてやりたいと、次々と驚愕の回想が示されても、つい、そう思ってしまう、のだ。

あらら、川谷拓三のことを言うつもりが(爆)。そうそう、もうひとつ、これは落とせないことも言い忘れてた。
タイトルからはまったく内容が判じられない本作、女性系映画のようなこのタイトルも強い印象を残すが、でも確かに、このタイトルじゃなければ、ダメなんだよね。
ちえが睦言のたわむれに……いや、彼女はこの時もう、坂根がどういう過去を持っているか判っていたから、最初から彼にヒントを与えるために、たわむれに紛れて示した化粧。
眉墨で太く眉を描くだけでまるきり印象が変わることに坂根は驚き、それ以降自前の化粧道具を持ち歩く。
幼い少女を部屋に呼び寄せて化粧をしてやるシーンでは、坂根の人間性がそんな具合に掴みきれないままに見ているもんだから、うっわこの子をどうするつもりなの、とヒヤヒヤしたりもする(爆)。

ラストシーン、鏡を前に黒々と眉を描く坂根が、それだけではなく頬紅まではたくのが滑稽のようにも哀れのようにも思える。もはや薄化粧じゃない、なんて。
その後ちえの後をつけてきた警察に御用になるのが、その顔なのが、なんとも……。

しかし本当に、こんな凄い映画が作られていた頃、それこそ私はアイドルの伊代ちゃんが太もも見せてたことしか頭になかったのかと。それでもその頃の私にとっては世界は満タンだったのに。
おばちゃんになっていくことはなかなかツラいけど、若者がまぶしくもあるけれど、人生長く生きれば見えてくることはあるのね。
坂根がただひとつの人格だけで語れないことを、リアルタイムで見ていたら、きっと私は理解できなかった。今だって混乱してるけれども。★★★★☆


嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん
2010年 110分 日本 カラー
監督:瀬田なつき 脚本:田中幸子 瀬田なつき
撮影:月永雄太 音楽:木下美紗都
出演:大政絢 染谷将太 三浦誠己 山田キヌヲ 鈴木卓爾 田畑智子 鈴木京香 原舞歌 石川樹 宇治清高

2011/2/17/木 劇場(角川シネマ新宿)
みーまーの愛称までついているほど人気の原作のあらましをちらりと探ったら、まあ、情報としてだけとはいえ、映画の印象とはだいぶ違っていた。ジャンルが“猟奇、ホラー”になっていたしなあ。
確かにそのあらましだけ見ると、映画より人がバンバン死ぬ印象……いや、単に映画では尺の関係上、その殺される人物が掘り下げられないからなのかもしれないけど。

実際、原作では、現状において横行している連続殺人事件の方の掘り下げもかなりあるらしいんだけど、映画では単に、その殺人事件の犯人はこの人でした、その犯人にはこうした過去があり、だからトラウマというか、心の傷があって……といった、まあオチ的な部分だけで終わるだけだし。

そりゃあ、原作は11巻もあるってんだから、どこかに焦点を絞らないと映画なんて作れないだろうからなあ。
原作においては本物のみーくんだった(オチを伏せると話が進まないから、最初からバンバンネタバレ(爆))菅原道真(小説のキャラとはいえ、凄い名前だ)や、その同級生たちが殺されるキャンパスライフ(こう書いてみると凄すぎるが)にこそ掘り下げが行なわれているかもしれない。

いや、というか、意外だったのは、映画では現在起こっている連続殺人犯は菅原だけなのに、原作では違うのね!(菅原も勿論そのメインではあるみたいだけれど)
てか、映画では僕、いや、もうめんどくさいや、みーくんが本物のみーくんである菅原(ややこしいな)と対峙し、殺すか殺されるかみたいなバトルを繰り広げるんだけれど、原作ではそこに加わったまーちゃんが、菅原を殺す!?うっそお!

なんかかなり映画とは印象が違うのかもしれない……いくら尺の問題はあるにしても。
まあ原作原作いうのもナンだし、普段から原作と映画はベツモノだと言っているくせに、しかも原作を読んでもいないくせにアレなんだけど、そんなことがいちいち気になるのは……映画作品となった本作が、なあんか、緩慢な感じがしたから、かなあ……。
映画化に際して焦点を絞ったのなら、もっと濃密になっても良かった気がするのだけれど。

いや、映画に際してのコンセプトがどこか、ポップなラブストーリーという趣(あくまで印象だけだけど)だったのが、そう感じた要因なんだろうか。実際は、彼らは8年前の誘拐事件のトラウマを抱えている訳だし、なんたってタイトルが示すとおり、二人の心の傷はいまだ癒えていないのだし。

でもそこんところがね……特に、“壊れたまーちゃん”は、さほど壊れているようには見えなかったんだよなあ。
みーくん、みーくんとベタベタする女子高生的な感じはあれど、それが、みーくんという存在に依存している、とまでは見えなかった。
だっているじゃん、こういう、彼氏にベタベタする女の子(爆)。まあ、彼に接する以外は思いっきりクールであるというギャップでそこを表現させていたのかもしれないけど、その点に関してだって、そういう女の子はザラにいるしなあ(爆爆)。
彼女は顔も端正だし、発音もキレイでとても素敵な女の子だとは思うけれど、もっともっと“壊れたまーちゃん”を見たかった気はしたかなあ。

対するみーくん、いや、本当はみーくんじゃないんだけど。てか、本当のみーくんはまーちゃんが認めてがゆえだから、やっぱり本当のみーくんかな?
というややこしさ、つまり複雑な内面性を持つ“僕”を演じるのは、彼はホント、若いのに何気に難しい役柄をさらりとこなしてみせる染谷君で、本作に足を運んだ期待度は、彼に対してこそ大きかったかもしれない。

正直、中盤ぐらいまでは、いちいちカメラ目線で「嘘だけど」という台詞をつける彼が若干うっとうしく、なぜそんなことをいちいち言うのかも、なんたってオチが判ってないから理解できず、この描写こそが妙に緩慢な感じがして多少イライラとしたのだが。
なるほど、“嘘つき”ってのはそういうことかと判ると、緩慢と思われた描写(てか、この場合はやはり演出かな……)も次第に密になってきて、彼の苦しんだ記憶にグッとくるんだよね。

彼がここまで言い続けてきた「嘘だけど」は、全部、嘘じゃない、ぜえんぶ本気だったと、オチが判ってしまうと、思う。
まーちゃんを世界で一番愛している、という一番の「嘘だけど」を頂点として、細かい「嘘だけど」の全てが本気だったのだと。
だって、彼の「嘘だけど」は、彼が実はみーくんではなかったから、みーくんであることが「嘘だけど」だったからなんだもの。
彼がみーくんならば、本物のみーくんならば、その全てが嘘ではなくなるだろう。いや……本物のみーくんならば、そもそも今、ここに、まーちゃんのそばにいないだろうか??

なんかいよいよ、相変わらず訳が判らなくなってきたので(爆)、ざっとさらうとですね、二人は8年前に子供が失踪した事件の、その当事者だったんである。
同じ時期にその街では連続殺人事件も起きていて、その犯人がみーくん(本物の、ではなくて、今まーちゃんと一緒にいる“僕”ね)の父親だったんである。
まーちゃんと一緒に監禁されていて、途中までは彼女と同志として結ばれて、心の支えになっていたのが“本物のみーくん”、後にそれが明らかになる、まーちゃんのクラスメイトである菅原道真。

しかし彼は途中逃亡に成功、まーちゃんを救い出そうとはしたけれど失敗、そこで入れ替わるように現われるのが、物語のラストで新たに本物のみーくんとして認められる“僕”。
犯人の息子であった“僕”は、まーちゃんを助けるために父親に切りつけ、そして……まーちゃんはこの犯人、つまりみーくんの父親を刺し殺してしまうんである。

みーくんはこの時、狂った父親によって母親も殺されているし、この事件によって両親を失って、その心の傷はまーちゃんに負けず劣らずだと思われる。
実際、8年経ってまーちゃんの元に突然現われた彼は、ずっとかかっていた精神病院を抜け出したらしいことが明らかになる。
まーちゃんの方ももちろん、なんたってこんな幼い子供がせっぱ詰まったとはいえ、大きな大人の男を殺したのだから、その心の傷は相当である。

ていうか……相当であるから、彼女は自分が殺人を犯したことを覚えていない。覚えていないけれど、人殺しを忌み嫌う。まあ誰だって忌み嫌うけれど、彼女はまず、人の好悪を判断する材料がコレらしいんである。
人殺しの経験を聞かれたみーくんが、もちろんそんなことしたことない、と言い、しかしすぐにあのカメラ目線で「嘘だけど」と言ったから、何も事情を知らないうちの観客はえぇ?とちょっとビックリしてしまう、のね。

でもさあ、みーくんは、みーくん自身は人を殺していない、よね?あ、そうか……この時点では、みーくんはみーくんではない(またしてもややこしいが)、まーちゃんの心の支えになるために、あの8年前からかりそめのみーくんを演じ続けているから、みーくんとして、「嘘だけど」と言ったのかなあ。
ていうことは、この時点で彼は、本物のみーくんである菅原が今起こっている連続殺人犯であることを知っているということなのか。どうもややこしいけれど……。

実際、ね。私はこの“僕”がまーちゃんの前に現われて、「僕だよ、まーちゃん」と言っただけで、名乗った訳ではなかったし、その後も名前が全然出てこないから、彼が本当にみーくんなのか、何か全然、別人であり、そこにストーリーのカラクリがあるのかとは思ったんだよね。
まあそれは、当たらずとも遠からずといったところか……いや、私はホンット、ホンットに、全っ然関係ないところから現われた男の子だと思っていたから、その8年前の事件にそれだけがっつり関わり、まあある意味みーくんでもあるみーくん(あー、ややこしい!)であるとまでは思わなかったからアレなんだけど。

そう、彼は自分がみーくんだと、言わなかった。ただまーちゃん、と呼びかけただけで、彼女が「……みーくん?」と瞳を見開いたのだ。
ずっとずっと会いたくて会いたくて待ち続けていたみーくんと再会して、もうまーちゃんは夢見心地で、ずっと一緒だよね、と、強引に同棲状態に持ち込むのだけれど。
でもさ……本当のみーくんはクラスメイトだったのに。あの時、彼女を置き去りにして自分だけ逃げた(と言ってしまうのはちょいと気の毒だが)みーくんは、ずっとすぐそばにいたのに。

あのね、もうひとつ重要なファクターがあってね。まーちゃんは二人の幼い兄妹をさらって自分の部屋に監禁しているんである。
監禁っつっても手首を結んでいる縄跳びのビニール縄や電気コードはゆるゆるで、つながれた重しは扇風機や大きなぬいぐるみで、子供の手で楽に移動できるようなシロモノ。
実際、監禁されている子供たちもちっとも怖がっていなくて、手首を結ばれたままオモチャで遊んだり、勉強をしたり。

いや、でもそれも、みーくんがまーちゃんと再会して、彼女と同棲状態に入ってからだったかなあ。それまでは、特にしっかりしたお姉ちゃんの方が、まーちゃんが作った焼きそばなんかにも絶対に手をつけようとしなくって、空腹と恐怖に耐えていた。
でもみーくんが自ら食べてみせて、そして、確かに壊れ気味のまーちゃんから子供たちを守ってみせるようになると、子供たちはまず彼に心を開く。
そして、子供の鋭敏な感性でまーちゃんの心の傷を感じ取ったのか、彼女に対してもそろそろと心を寄せるようになるんである。

そもそもなぜまーちゃんがこの兄妹を誘拐したのか、いや、別に金銭を要求しているワケじゃないから、単にさらっただけだけれども、なぜそんなことをしたのか。
巷に連続殺人事件がおきたことで、過去、それと同時進行に拉致された過去の自分たちを思い出したのか。

ただ、この幼い兄妹がね、解放されて警察に保護された時、女性刑事に、両親から暴力を受けたことがあるかと聞かれてうつむく場面があるんだよね。結局その一瞬だけなんだけど、それが、まーちゃんがこの二人をさらった理由なのか、そこまで知っていてさらったのか。
それとも、同じくさらわれた過去のあるまーちゃんは、自分ならそんなひどい目には合わせないと、自分肯定の気持ちが大きく働いたのだろうか……?などと、色々とうがった気持ちが沸き起こるんである。

まーちゃんはあの事件の時、娘を探しに訪れたことで両親がとらわれ、悪魔のような犯人に、自分が助かるために親を殺してしまえ、と指図されて、握った刃物でみーくんの父親を刺した。
なんかよく覚えてないんだけど(爆)、結局両親もこの犯人に殺されちゃったんだよね?いや、やっぱりまーちゃんが自分の両親を殺してしまったんだっけ……(爆爆。なぜ覚えてないんだろう……彼女が両親を殺したと思いたくなかったからかも……)。

で、まーちゃんは今、一人暮らし状態、みーくんにそれを問われると「ちょっと前までおじいちゃん(多分。おばあちゃんだったかな)が来てたけど……」と言葉を濁すんである。
つまり二人とも大人から見放された未熟な子供同士、ある意味それは、8年前と変わっていないようにも思う。

いやでも。二人を心配する精神科医の存在もいるし。演じる鈴木京香が、今風の黒縁の小さなめがねをかけて、みーくんとのやり取りなんかまるで漫才みたいに当意即妙で、なんとも独特の雰囲気をかもし出している。確かに彼女はみーくんのみならず、まーちゃんのことも深く心配しているんだよね。
なんたって本作はポップに仕上げられているからさ。みーくんに対する独占欲(というよりは依存か)が強すぎるが故に、女刑事と会っていただけで激しくくってかかるまーちゃんとの言い合いの果てに、みーくんが高層建物の上から飛び降りる、なんてシーンも用意されているのだが……。

しかしこの時、まーちゃんはみーくんのこんな事態にまったく関心を示さず、だからみーくんは飛び降りながらもしばし空中をさまよい(こういうあたりがポップなのだが、シュールといえないこともなく……なんともアイマイである)、気付くとベッドの上で、その精神科医がかたわらにいるワケなんだよね。
アインシュタインの写真なんか掲げて、みーくんと丁々発止のようなやり取りを繰り広げ、自殺未遂を犯した少年と医者という雰囲気は皆無なんだけど……。
でもさ、彼の「嘘だけど」が嘘じゃない事を最も見抜いているのが彼女であり、支えになっているのが、傷ついた少年少女ばかりの物語の中で、実に支え、なんだよなあ。

もう一人、印象的な大人が、連続殺人犯がみーくんなのではないかと目星をつける女刑事であり、演じる田畑智子がこれまた、相変わらずのチャーミングさ。
一見普通に見えるみーくんこそが、まーちゃんよりもずっとずっと心に傷を負っているであろうことを、彼女が一番身にしみて判っているからこそ、そうした哀しい目星をつけてしまったりもするのだが。
そう。前半部分では、やたらカメラ目線で「嘘だけど」を繰り返すのが正直ウザかったみーくんが、しかしその過去が明かされ、この女刑事が保護された当時の彼の話を聞いていたんだよね。
カメラ目線どこじゃない。そんな余裕なんてある筈ない。「嘘だけど」「嘘だけど」「嘘だけど」……あまた繰り返す、彼の心の底からの怯え、深い深い傷に、ただこの女刑事は言葉を失うばかりで……。

だからこそ、その衝撃があったからこそ、今起こっている連続殺人事件が、幼い頃に心を深く病んだ彼の仕業だと思った。
でも彼はまーちゃんを守るという深い使命が、まさにこの頃からあって、そしてそれをようやく遂行できるほどに育った。
だからだから、どんなに心の傷があり、まだそれが完全には癒えていなくても、そんなことを、する筈はないのだ。

まーちゃんによって捕らえられていた幼い兄妹を、自分の判断で解放するみーくん。そして、“本物のみーくん”をいわばおとり捜査のような感じでおびき寄せ、兄妹に襲いかかったところで飛びかかり、対峙する。
菅原に刺され、瀕死の状態で横たわったところにまーちゃんが寄り添ったのは夢だったのか。それとも……。

ラストシーンは、もう自分を認識していないかもしれないまーちゃんに、街中で恐る恐る声をかけるみーくん。
いや、彼は、もうニセのみーくんを演じることはやめた、と精神科医と刑事に宣言しているし、なにより自分がみーくんではないことをまーちゃんは判っているから……と怖じ気づき、それでも、まーちゃん、と呼びかける。
振り向くんだよね、まーちゃんは。そして、みーくん、と。みーくんになったのだ、彼は。真の、みーくんに。
そして道路の真ん中で、何台もの車がクラクションを鳴らす中でキス!これまでの経過が信じられないぐらい、甘い甘いハッピーエンド。

ハッピーエンド、なのかなあ、悩むところだけど、ま、いっか!
てか、本作は彼らが子供の頃の誘拐事件、いつ殺されるか、という恐ろしさの描写こそがメインであると思われる。
表向き優しそうな夫に、ビクビクしている妻(これは実は義母らしい……原作に準じてはね)、という画でまず不穏を感じさせる。

この夫を演じる、確かに一見穏やかさ満点の鈴木卓爾の、その表情は変わらないままに、なんかほこりまみれになって、妙に顔がギトギトして、さび着いたオノやらなんか判らん刃物を振り下ろす恐ろしさがどーしょーもないんである。
コワッ!鈴木卓爾!!草食系な風貌の人がこういうの演ると、本当に、本ッ当にコワいよなあ。
しかもハッキリとは示さなかったけど、幼いまーちゃんを抱えてどこかに連れて行く描写、あれは多分、いや、恐らく、絶対…………いやいやいやいや、考えたくない!!!!!★★★☆☆


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