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「ふ」


2007年鑑賞作品

不完全なふたり/UN COUPLE PARFAIT
2005年 108分 フランス=日本 カラー
監督:諏訪敦彦 構成:諏訪敦彦
撮影:キャロリーヌ・シャンプティエ 音楽:鈴木治行
出演:ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ/ブリュノ・トデスキーニ/ナタリー・ブトゥフ/ルイ=ドー・デ・ランクサン/ジョアナ・プレイス/ジャック・ドワイヨン/アレックス・デスカス/レア・ヴィアゼムスキー/マルク・シッティ/デルフィーヌ・シュイロット


2007/7/17/火 劇場(新宿武蔵野館)
うっ……久々、拷問かも。割と体調いい状態だったのに、恐ろしい睡魔に襲われた。上映終了後、女の子二人連れのうちの一人が苦笑しながら片方に「なんか、ごめんね」などと謝っていた。そ、それはあなたがウッカリこの作品に友達を誘ってしまったことを謝っているのか……そんな感じ。そんな、そんなあ。
「2/デュオ」「M/OTHER」で感嘆した、役者たちにシチュエイションだけを提供して即興演技をさせる演出法は、本作でも変わってない。オフィシャルサイトの役者たちへのインタビューでもそれは明らか。フランス語になってもそれは判る。空気は変わってない。諏訪監督の、あの投げやられた空気。それは同じだ。なのに、なんでこんなに拷問なの。
そういう、何が起こるか判らない、感情が磨り減ってピリピリと痛いような、残酷に心の奥底が剥き出しにされる諏訪作品が本当に好きなのに。

マリーとニコラの二人が、車で移動している場面から始まる。ずっと横移動で車中の二人を長まわしする。信号が赤なのに発進しちゃっただの、さっきのは濃い黄色だっただのと他愛もない会話をしている。この時点では二人の関係が崩壊しているだなんて思わない。というか、この二人が夫婦だという関係もまだ示されない。

しかしホテルについてみると、なんだか様子がおかしい。大きなベッドを二人で使わず、簡易ベッドが持ち込まれる。どちらが簡易ベッドの方を使うかで軽い問答がある。
ニコラの方が頑迷に狭い簡易ベッドの方を所有しようとするのが、気を使っているのがミエミエで、見ていられない痛さ。当然、このホテルを舞台に二人のとげとげしいやりとりが勃発する。
もう冷めているならお互いそれぞれの部屋に逃げ込んでじっと黙っていればいいはずなのに、なぜか仕掛けてしまう。なぜか?未練があるからに決まってる。
しかも仕掛ける方はいつも女。それが、あまりにも未練の構図で、見ていられない。既に車中での他愛ない雰囲気は失われている。「疲れたわ」そう言ってマリーはどこか投げやりに荷物を部屋に運び入れる。

そして、二人が別れに瀕している、と明らかになるのは、友人夫婦との食事の席。この場面で、二人が結婚式に出席しにパリに来ていることもようやく判る。
パリで仕事をしに二人で来ないか、との友人の誘いに、それは難しいな……とニコラは答える。僕たちはもうすぐ別れるのだから、と。
で……このあたりから拷問気分が始まる。この、諏訪監督独特の、恐らく「別れる」ことを告げること意外は決め込まなかったであろう、探り合いの会話場面、確かにこの何が起こるか判らない、真のスリリングが素晴らしい、ハズなのに。

これを言っちゃうとミもフタもないんだけれども、やっぱり言語が違うことが大きいのかなあ、と思ってしまう。日本人が日本語で演じている時と、明らかに言葉に対する反応のスピードも深さも違ってくる。
でもそんなこと言ったら、日本人俳優で作られた諏訪作品が外では通用しないなんていうバカな定義になってしまうんだから、まさにミもフタもないわけで、そんなことない筈なんだけど。大体今こうしてフランスで認められてフランスで撮って、本作がいい評価を得ているんだから、ホントそんな筈はないんだけれど。

でもきっと、フランス人の観客たちは日本で作られた諏訪作品を観た時よりも、ずっとスリリングで痛ましく、心がえぐられただろうと思うのだ。
だって、本当に何も変わらないんだもの。男と女が別れそうになってる、別れるかもしれない、別れないかもしれない、という状況での、二人の役者のせめぎあいというシチュエイション自体は、今までの諏訪作品とまったく同じ。
同じだからといって同じ作品が生まれるわけもなく、その男女が若いカップルだったり、男に子供がいたり、そして本作では既に夫婦で、別れはイコール離婚であったり、その程度の違いで、そして役者が違うとこれほど違う映画になるっていうことが、諏訪作品の凄いところなのだ。

同じ物語を外国に持っていってリメイクするのとは全然違う、リメイクはやはり基本は同じ映画として括られるけれど、諏訪作品の場合、ほんのひとつの要素、ほんの一人の役者が違うだけで全然変わってしまうのだ。
そういう意味では、役者冥利につきる監督に違いない。こうした恋愛心理劇に敏感なフランスが彼を受け入れたのは判り過ぎるほどに判る。嬉しいと思う。
それだけになんだか悔しい気持ちが大きくて……ああ、順序が逆だったのだ。言語が判る状態で観る諏訪作品が、やはり最上なのだ。だから、誇らしい気持ちとともに、フランスの観客がうらやましい。

マリーの方が、取り乱している。一応、どちらが先に別れを言い出したかは明確にはしていないんだけど、友人との食事の席でニコラがそれを打ち明け、それをマリーが「なぜ言ったの」と攻撃する場面があるせいか、受ける印象としては、ニコラの方からマリーに別れを切り出したように思える。
マリーは表面上冷静さを取り繕っているけれど、でもどこかで見透かされている。それが証拠に、この友人夫婦の妻の方にトイレで「大丈夫?」と心配されている。
ま、大丈夫ぐらいは社交辞令で言うだろうけれど、この女友達は二人の別れ話がジョークだと思ったぐらい、それぐらい、思いがけないことだったのだ。少なくとも客観的には上手くいっていたはずの二人だった、ハズなのだ。

マリーはニコラを攻撃する。あなたは俗物、それがガマンできない、と言う。そんな話題を振られもしないのに、なんだか唐突みたいに言うんである。しかもまるで気が触れたみたいに、笑いながら。
突然振られるもんだから、ニコラの方もマトモにリアクション出来ない。唐突に怒ることも出来ないし、そうだ、おれは俗物だよな、と受け止めることしか出来ないんである。
ここは演技合戦となっても、やはり男と女の資質が出ているような気がする。とにかく先に攻撃しないと負けてしまうと思う女。そして先にガンガン攻撃していくうちに、なんだか思ってもいないことまで言ってしまって、自分がミジメになって、攻撃すればするほど自分が負けていくのを感じて……。

私は女だから、この時ただただダンマリを決め込んでいる男の気持ちが、よく判らないのよ。ただ演技合戦に負けて、しまった、こんな追い込められて“台詞”として何を言うべきなのかと迷っているようにしか見えないの。なんだかそれも残念だったなあ。この場合は、この男優の男としてのあり方についての残念ってことになるけれど。
彼女が苦しんでいること、多分最後まで彼は(キャラとしての彼じゃなく、この役者の素の部分でね)判ってないんだもん。諏訪作品が何より凄いのは、役者が男として、あるいは女として生きている、アイデンティティの部分を掘り出させること。
そのことを本作の女優は判っていたけれど、男優は最後までこの役ならどう動くのかと考えて、だから固まってしまったように思えて仕方ないんだ。

結婚式に出席する朝、マリーは下着姿のままでのんびりとマニュキアなぞを塗っていた。ニコラだけが焦っていた。もう出かけなければならない時間。なのにマリーは「ネイルが乾くまで、リルケの詩を朗読してあげる」などと言い、更にニコラをイラつかせる。
この結婚式のために、マリーは青い靴を新調した。それがなぜか、片方しか見つからない。赤い靴でもいいだろ、とニコラは言い募る。マリーは結局はそれに妥協したけれど、だんだんと不機嫌になってくる。
この場面は、彼女は彼を試していたんだよね?無意味に見える二人だけのまったりとした時間を、こんな切羽つまった状況とはいえ、彼が大事にしてくれるのかを。

それが証拠に、結婚式から帰ると、もう彼女はひたすら不機嫌なんだもの。わざとらしいぐらいに。「疲れて、眠いの」とは言うけれど、半笑いがなんだかコワいし、言うことは支離滅裂だし、絶対に、ずーっと怒ってる。
ああ、そう考えるとやっぱり、判りやすい条件で場面を提示しているよな、と思う。
でもそれがイコール、二人の気持ちを判りやすく決着させることにはならないんだよな。それが人間の難しさ。

今までの諏訪作品とひとつ、ひとつだけ、明らかに違う部分がある。今まではホントに二人だけのシチュエイションで、観客とともに閉塞感に追いつめていく感じがあったけど、本作では第三者が割と関わってきている。
この友人夫婦もそうだし、後に彼らが出席する結婚式での描写も印象的。一対一の役者ではなく、10数人という人数が即興演技を繰り広げる様はスリリング。
「結婚式の後」という適度な疲れと馴れ合い感、そして同じ思い出を共有したという結束感、心地よいだるさの中で、お酒を飲んだり踊ったり、パートナーとキスをしたり。まったりと、自然な空気が流れてゆく。
だからこそその中で、マリーとニコラがかすかな異質感を持って浮かび上がる。

一緒にホテルに戻ると、また二人は言い合いを始める。というか、いつでもマリーが仕掛けている。この気まずい雰囲気を打破するかのように。
残れば良かったじゃないの、一緒に帰ってこなくても、と。それは言外に私といると気詰まりなんでしょ、という自嘲が含まれている。自嘲なのに、それを相手に怒りとしてぶつけるしかない哀しさ。

いたたまれなくなったニコラは、そのまま部屋を出て行く。カフェで一人飲んでいる。結婚式に出席していた女友達を呼び出す。どうやら建築科同士の仲間らしい。
ひとしきり仕事の話題などで談笑したあと、二人は夜のパリの街を歩く。酔った気安さでフラフラと。なんだか危ないな、と思う。彼女がマンションのドアを開けたら、そのまま彼も入ってしまうじゃないかと思った。
実際、シノプシスの段階では、この友人と寝てしまうことになっていたという。それを役者である彼は拒否した。
そうしてしまうと、ニコラは本当にクズ男になってしまうからだと。だってニコラとマリーはまだ愛し合っているんだからと。

それが正解だったのかどうか。いや、確かにこうした手法の映画に正解などあるわけない。人生が、偶然や個人の意思を積み重ねて出来るのと同じように、ここだけの奇蹟の化学変化が諏訪作品を生み出す。
でも……マリーを愛していても、今この状況で心が弱った男として、ウッカリ女友達と寝てしまうのも、男の弱さだと思う。だから、最初のシノプシスにはそれが設定されていたんじゃないの。それを拒否したのは彼の中に眠っていた強さだと定義されたら、何も言えなくなってしまうんだけど……。
でも、ただ、ならば、この場面は何のために存在したのかな。いや、そういう誘惑を断ち切れるほど、彼がマリーを愛しているという証拠になるってことなのかな。

そして、帰ってきたニコラと、またしてもマリーは激しい問答を繰り返す。マリーは眠れなかった。それは彼のせいだと言わんばかりの激しい攻撃だった。
いたたまれない気分にさせて追い出したのは、彼女の方なのに。いや、それが判っているからこそ、ここでもまた、自嘲が攻撃になるのか。
まんじりともしないまま、朝を迎える……。

マリーはパリに来て以来、毎日のようにロダン美術館に通い詰めていた。そこで思いがけず旧友と出会う。
彼は小さな男の子を連れていた。ふわふわの天パがベリーキュートな男の子は、美術館の床で無邪気に絵など描きはじめた。彼の奥さんは死んでしまったと聞き、マリーが突然泣き出したのは……今の状態で自分が死んでしまったらと考えたからなのかな、と思った。
今の状態で自分が死んでしまったら、ニコラは結局、何ひとつ自分のことを理解せずに終わってしまう。
私だったら、そう考えると思う。そしてたまらずに、泣くかもしれない。
そう、私だったらと考えていいのなら、ラストシーン、彼女が列車に乗らずに留まったのは、こんな判らずやの男に判らないまま15年間を終えられるなんてたまるもんかと、私なら、思う。もう、この後、ビシビシとスパルタ教育しちゃうよ。

おっと、いきなりオチを言ってしまった。その前にもうひとくさりある。マリーは突然、ホテルの部屋を引き払って別の部屋をとってしまう。戻ってきたニコラが彼女も彼女の荷物もないことに気づき、電灯をつけるのも忘れてフロントに問い合わせている、うす暗い場面は印象的。
しかし、離れたことで逆になんだか気持ちが近くなったのか……。
これも判りやすい条件ではあるけれど、確かにそういうことはある。亭主元気で留守がいい、みたいな?そんなベタな言葉を持ち出すのもなんだけど、でも、いつも一緒にいることでお互いうっとうしいと思ったり、離れた時間が会いたい気持ちを加速させたり。それは恋愛の絶対条件。
結婚すると、もはや恋愛じゃないみたいな空気になって、そういうことを忘れがちになることへの戒めなのかも。でも、フランスだとそういう部分もキビしそうだけど。

マリーが新しくとった部屋を訪れたニコラ、それまでのとげとげしい会話とはうってかわって、自然に夕食の話題など話し(ジャパニーズフードと言うあたりはご愛嬌)、そして、自然にセックスの雰囲気になる。
でもそれが、最後まで成就されないのは、やはりいくら判りやすい条件を提示してはいても、そこまでベタにするのはあんまりってこともあるだろうし……それにここでセックスしてしまったら、逆に二人は、気持ちが白けてしまって、もう永遠に別れちゃう気もするんだ。
そう考えると、恋愛というものはホンットに難しい。その時の、あるひとつのタイミングが全てを決してしまうのだ。
人生の運命を、決めてしまうのだ。

一緒には帰らない。あなたは一人で帰って、というマリーを、駅のホームまで見送りに来たニコラ。
二人、見つめ合ったまま立ち尽くす姿を、カメラもまた見つめ続ける。長回し、ということさえ忘れてしまうのは、二人にまったく動きがないから。まるで定点カメラのように、動かずに立ち尽くす二人の周りを、駅の係員や、列車に駆け込む人々が動いて行く。
そして列車までもが動き出す。この段になってようやく、え!?と我に返る。まるで景色を観ているような錯覚にとらわれていた。だからウッカリ寝入りそうになってた。ここがいかにスリリングかということさえ忘れて。そして画面がブラックアウトし、二人のクスクス笑いが聞こえてきた。
思えばこれまでも画面の転換点で、ブラックアウトが使われていたけれど、それはなんだかいたたまれない気分を断ち切るためのようなブラックアウトだった。それが、最後だけが違ってた。

割とはっきりと、ハッピーエンド、というか二人の気持ちの決着が見える形で示されたのは、諏訪作品では初めて見た。あ、でも私、「パリ、ジュテーム」のオムニバスも「H STORY」というのも(この作品に関しては、存在すら知らなかった!)観ていないんだよな……。
でも、そのあたりはやはり、欧米的なものに合わせたのかな、などと思う。この結末は、役者二人によって導き出されたものだというし、やはりそうだと思われる。価値観の違い、それを大きく感じる。それこそが、この演出法の旨みであり、面白さであることは判っているんだけれど。
日本で作られたニ作品は共に、この二人が今後どうなるのか、このまま別れるのか、それとも一緒にいるのか……っていうのは、観客の予想、というか期待にゆだねられるところがあったのね。でも本作では、この列車に乗ってしまえば恐らく二人は別れてしまうだろう、それがいわば駆け引きっていうか、せめぎあいみたいな部分があって、そういう条件としての場面が用意されるのも、やっぱり日本で作られる映画とはちょっと違うんだ……。

そうして考え直してみると、ハッキリと契約関係を結んでいる“夫婦”である二人が、別れるか否か、というシチュエイションなわけで、やっぱり「2/デュオ」や「M/OTHER」にはなかった明確な視点がここにはあるんだよね。
日本ではただ恋人同士であるだけだった、というのは、そう考えれば実に日本的であったと思う。ある契約関係が壊れるというシチュエイションは判りやすいけれど、感情はもっとモヤモヤとしたもので、それが壊れるからこそ、スリリングなのだと思うから……無意識に本作のシチュエイションがどこかステロタイプだと思ってしまっていたのかなあ。

だってやっぱり、感情って、しかも違う人間である二人が導き出す感情が出す答えって、そう明確なものになるはずがない。ハッピーエンドにしろアンハッピーエンドにしろ、いわゆる恋愛映画のようにはいかないのだ。
そのことをこそ、諏訪作品に教えられ、そのことこそが、衝撃だったのだ、と本作を見て思う。つまり、ここでどんな結論が出されようとも、二人で生きていくにしても、間断なくその答えを求められ続けるんだってことを、諏訪作品に教えられたのだ。
本作だって、そのことは充分に提示しているとは思う。でも、一度明確に決着を示してしまったことで、これがハッピーエンドだと解釈してしまう節がある。なんだかそれって、違う気がするのだ……。

そしてこうして結末が決め込まれてしまうと、それまでの諏訪作品では気にならなかったことも気になってしまう。なぜ二人は突然離婚しようと思ったのか。突然ではなかったのか。15年間連れ添って、子供が出来なかった(多分。明確にそうと示す台詞はなかったけど、そういう空気が全然なかったから。うがちすぎかな。相対するもう一人の夫婦にもその用意はなかったんだから)からなのか。
そういえば、と思い出す。あのロダン美術館。マリーがまるで見とれるように眺めていた手だけの彫刻。しなやかな女の手に重ねられた男の手。官能的であり、穏やかで幸福であり。それはまるで理想の結婚生活を端的に示しているようだった。
一方で、裸婦像の彫刻もあった。それは、実は妊娠していたモデルの体の変化を日々見つめ続けたものだった。どんどん身体が変化していく理由をロダンは尋ねることも出来ずに、ただその変化を石に刻み続けたのだという。ツアーの一団か、遠くで、そんな風に誰かが解説している。涙を流すマリー。
これはやはり、自分がなしえなかった、子供のことへの言及だったのかな……。

字幕の言葉を追ってしまうから、アドリブのスリリングを感じそこねてしまう。その字幕も、ストーリー映画より更に、拾いきってはいないのに。いややはり、まだまだ映画を感じることへの自分自身の未熟なのか。ついつい狭義でとらえてしまう。言語にしても、価値観にしても。でも……もういちど、日本で撮ってくれないかな……。★★★☆☆


復讐するは我にあり
1979年 140分 日本 カラー
監督:今村昌平 脚本:馬場当
撮影:姫田真佐久 音楽:池辺晋一郎
出演:緒形拳 三國連太郎 ミヤコ蝶々 倍賞美津子 小川真由美 清川虹子 殿山泰司 垂水悟郎 絵沢萠子 白川和子 浜田寅彦 フランキー堺 北村和夫 火野正平 根岸とし江 佐木隆三 梅津栄 河原崎長一郎 金内喜久夫 加藤嘉 小野進也 石堂淑朗

2007/5/30/水 東京国立近代美術館フィルムセンター
すげえ、すっげー、緒形拳!いやあ、アナーキーだ……まったくもってスゴすぎる。恨みも何もない5人もの人間を平然と殺した男なのに、何か、どこか魅力的で、目が離せなくなる。魅力的などと言っていいのだろうか……そういうのとも違う気はするんだけど、でも彼に溺れて、殺されるかもしれないと頭のすみっこで思っていながらも、どこかでそれを望んでいたかもしれないハルの気持ちがなんだか判るような気もしたり……。

というか、やっぱり今村昌平って監督が凄すぎるんだろうなあ……やはり私はこの時代に生きたかった気がする。こんなパワフルな映画が次々生まれてくる時代に生きたかった。この緒形拳、三國連太郎、倍賞美津子を今の時代には決して見ることは出来ない。大体、こんなガッツリエロな、身体ごとぶつかっていくようなカラミを、こんなスターたちがぞろ出演する映画で観ることなんて出来っこない。
いやあ、倍賞美津子の巨乳だよ。私ゃ感動した。彼女がこんな爆乳だってのも知らんかったし、その瑞々しいおっぱいを、そして肢体を拝めるなんて思ってもみなかった。しかも彼女は義父である三國連太郎の手を自らのその豊かな乳につかませ、手を重ねてもみしだかせるんだからもー、たまらん。いやあ、もうさあ……こんなシーンを観られただけでありがたやと思っちまうよ。

おおっとついつい暴走してしまった。しかし緒形拳と三國連太郎のガッツリ勝負というのも見ていて震えがくるんである。今はこんな豪華な画はなかなか見られないし、この鳥肌が立つような一触即発は、もう本当に……。
ラストでね、冷血な連続殺人犯である緒形拳演じる榎津厳が、父親である榎津鎮雄に言うわけよ。お前を殺すべきだった、ってね。
それは、巌が情を交わしたハルの母、ひさ乃に言われた台詞と呼応している。ひさ乃もまた戦後すぐに人を殺し、服役したことのある女。しかし彼女は、本当に殺したい相手だったから、殺った時には胸がすっとしたという。そして巌に言うのね。お前はウラミのないやつばかり殺してる。本当に殺したいヤツを殺せないいくじなしだ、って……。

その台詞と呼応しての、最後の最後、父親にぶつけるこの台詞、受ける父親の三國連太郎も、お前のことを憎んでいたとハッキリ言い渡し、もう本当に……凄い場面だった。それまでの、巌の冷血な人殺しの場面よりよっぽど怖かった。
息子に対して憎しみの感情しかない父親と、その父親を殺したいのに殺せなかった息子。連続殺人犯である巌のことを、観客がなぜか憎みきれない原因がここにある気がした。自分の嫁の心を奪いとった父親を殺したいのに殺せない。そこには彼流の、愛があるんじゃないかと。
愛なんて言葉、あまりにも甘くてこんなところに使うのもはばかられる気持ちなんだけれど、でもそうとしか思えない。それがなぜか嫁である加津子に対するものだと思えないのは、ちょっと不思議でもあるんだけど、でも嫁に対する愛情があったならば、彼は躊躇なく父親を殺しただろうと思うもの。

ああ、だから暴走してワケ判らんってば。まあ、この作品自体、結構時間は前後した構成になっているのだけれど……巌が殺人を犯す場面、警察が追っている場面、遡って、巌の元に彼の子供を宿した加津子が押しかけてくる場面、巌に愛想をつかして離婚し、寂れた温泉地で働いていた加津子を巌の父、鎮雄が復縁を頼みにやってくる場面と、二人お互いの気持ちを探りあいながら背中を流し合う、あの緊迫の場面、そして更に更に遡って、巌が父にゲンメツした幼き日の記憶……キリシタンである榎津家が差別され、船をムリヤリ軍にとられた戦時中の記憶。ここが巌の父への、宗教への、社会への反発が始まった原点だったと思われる。

巌は神の教えに背くような、つまりは不良な行いばかりしたロクデナシだったけれど、最後まで彼は神を信じていたように思ってしまうのはなぜだろうか。
そりゃ信者としては、このストイックな父の方が模範的に決まってる。もちろん人殺しなどしないし、争いごともしない。息子が邪推するような嫁との関係だってないし、このどーしよーもない息子のために加津子に復縁を頼み込んだ。
でもそれは、彼は自分の中に全てウソをついてのことだったのだ。本当は加津子の誘いに揺れ、惹かれているのに、神の教えに背くからと彼女の思いに報いることをせず、息子のためと言いながら、そして孫にそばにいて欲しいからなどともっともらしいことを言いながら、実際は自分が加津子に側にいてほしいってこと、自分にさえウソをつき、そして……本当に殺したいと思っているのは、息子ではなく父親である彼の方に決まっているのに、それを息子に言わせるのだ。自分は、憎んでいた、と言うにとどまるのだ。ズルいのだ。

最後の面会の日、父親は巌に母が死んだこと、そして、息子の巌が破門されたこと、そして自分も破門にしてもらったことを告げた。自分も破門になったことをまるで苦しげに言うけれども、それで自分は解放されたんじゃないか。これでいくらでも、加津子を抱けるではないか。
それでも彼は、神への畏怖を忘れないと言うだろうけれど、でもそんなの、関係ない。一方の巌は、自分の破門に「今頃か」と笑い飛ばしたけれど、破門にはなりたくなかったんじゃないのかなあ……。
彼が一番神を信じて、というか愛していたように思う。神を試していたように思う。愛しているからこそ、ここまでしても、こんなことをしても神は本当に無償の愛を下さるのかと、模範的な父親はその神の教えに苦しめられているのにと。

なんてことは後から思ったことで、観ている時は巌の、いわばアッケラカンとした放浪殺人鬼っぷりにアゼンとするばかりなんである。
ことに一番尺を割かれるのは、浜松の“女の子を呼べる宿屋”の女将、ハルとの関係である。このハルという女を小川真由美がやっているのだけれど、こんなちょっと無知系の(!)可愛らしくも哀しい女のイメージが全然なかったんで、あとでキャストクレジットを見て大いに驚くんである。

彼女は富裕な男のお妾さんとして囲われていて、その男にいいようにあしらわれることと、ちょっとイイ仲だった若い男に去られたこともあって、巌の手管にアッサリ乗っちゃうのよね。しかしこの時の巌のニセ大学教授っぷりはサイコーで、自分は京大から静大に(この略名称で言うあたりが、小憎らしい)講義に来たんだとかテキトーなことを言い、静大からの問い合わせの電話を鼻をつまんで一人二役で演じるという徹底ぶりなんである。
んでもって玄人の女の子を「センセイ、朝までずっとなんだもん」と疲れ果てさせるほどの絶倫っぷりで、ハルもまたその手に落ちてしまうんだけど、緒形拳 &小川真由美、おおおー、結構濃厚にやってくれちゃいまして、緒形拳のそういうシーンって初めて見たからドキドキする。顔はしれっと大学教授(あるいは後に弁護士)、しかしその腕の筋肉はやけに盛り上がっていたりなんかして、この腕でがしっと囲われた日にゃ、そりゃどっぷりはまるのもムリないかも……などと思ったりして。

でもハルは判っていたんだと思う。それは彼が殺人鬼であるということを知る前から、どことなく、なんとなく、女のカン的なもので気づいていたと思う。
彼女が厳の正体を知るのは、彼に呼び出された池袋でのデート、映画館での警察からのお知らせ映像でだった。ポプコーンを片手に、スクリーンに釘付けになっているハルの隣で、横で顔を隠す巌の意味のなさがおかしくてさあ……。
ハルの母親のひさ乃を演じる清川虹子がすっごい、イイの。人殺しのムショ帰り、競艇狂いで宿屋ではセックスを覗くのが趣味というこの母親、つまはじきもんなんだけど、カッコイイんだよね。
つまりは人殺しにおいては巌より先輩。しかも、巌には出来なかった、本当に殺したいヤツをブチ殺してスッキリしたという過去を持つ。それによって娘の人生が狂わされたとしても、巌にとっては敵わない相手なんである。

最終的に巌はこの母子も殺してしまい、この二人を殺したのだけは、自分でも何でだったのか判らないと語っていたように、彼女たちは巌を恐れながらも心配していたし、好きだったのに、彼女たちを殺してしまったのは……自分には敵わない母親ひさ乃の存在があったからじゃないかと、やはり思うのだ。
競艇からの帰り道、一度巌はひさ乃を殺そうと、彼女の背後でひもをかまえた。しかしそれを彼女は察知し、私を殺すな、と言った。凄く、冷静に。そしてあの台詞を言ったのだ。お前はウラミのない人間ばかりを殺している。本当に殺したい相手を殺せない、と。
これが、引き金になったようにも、思うのだ。

表面的には、巌と激しいセックスをしたハルが、あんたの子供が欲しいと、今きっと、入った、と言った翌朝だったから、そのことが理由だったのかな、とも思った。だってハルを殺す場面は、本当にあまりにも唐突で、思いつきみたいで、漬け物を漬けているハルに、朝の迎え酒でビールを飲ませて、なんかふと思いついたみたいに、彼女の首をしめて……本当に、何の脈略もなかった。幸福な朝の風景としか見えなかったのに。
そしてその夜、帰ってきたひさ乃の首もしめ、宿屋の荷物を全て質に引き取らせてカネを作り、巌はこの地を離れた。まったく、何の後悔も戸惑いもない顔をして。

巌がニセ弁護士になって法廷に出現し、裁判の被告人ばかりかその担当弁護士まで騙くらかすシーンも痛快である。ある程度の知識は得てハッタリをかましているんだろうけれど、憎々しいくらい堂々として、「保釈金を替わりに納めてくるから」と哀れな母親からまんまと大金を持ち逃げするんである。
更に、タクシーに相乗りしたホンモノの弁護士と近づきになった……と思いきや、次のシーンではこの弁護士は既に小さく二つ折りになって衣装ダンスに収められているってな有り様なんである。うう、コワすぎる……何度締めても開いてしまうタンスに、目を見開いたまま膝を抱えた格好で押し込めれられている初老の彼がああ。

結局さあ、巌は女に翻弄されただけだったのかもしれないね。「センセイとならきっと子供が出来る。今、中でセメントみたいに固まった」なんてイイカゲンな言葉を鵜呑みにして「お腹の子供も含めて三人殺した」と言った巌、彼女はゾッコンホレこんだ彼に殺されてもいいと言葉だけじゃなく、恐らく半ば本気で思っていたんだろうし、その願いをつまりは彼は叶えてしまった形になるのだ。
そして、本当に殺したい唯一の人間だったはずの父親を殺せなかったのは、嫁の父親への気持ちを判ってしまったからである。それもまた、繊細な感情の持ち主でなければ、そんなことに傷つくわけもない筈。
加津子は本当に最後まで押せ押せで、息子の骨壷を持ってロープウェイに乗る義父にぴったりとくっついて寄り添って、罪の意識を感じるなんていう、そういうお義父さんが私は好きなんです、と臆面もなく言ってのけて、彼を絶句させるんである。
思えば、彼は加津子に再婚を再三勧めつつも自分からそれを斡旋することはないし、そんな義父の言葉も加津子はあっさりと一蹴するし、お互いの気持ちが判ってて猿芝居をしているようにしか見えないのだ。ならば、一体誰のための芝居?それを考えると本当にバカバカしいんだけど、やはり神様に見せるための芝居かなあ……。

父と息子、お互い破門して墓に入れなくなったから、死刑執行された巌の遺骨を山のてっぺんからばらまくべく、ロープウェイに二人は乗るんだけど、反対側から来てすれ違う車両にお遍路さんの団体がぎっしりと埋め尽くされて、同じ方向を向いて二人を見ているのがね、すっごい怖いのだ。
このお義父さんが信じてきた宗教とはまったく違う神様を訪ね歩いている人たちなのに、だからこそなのか、ここ日本に土着している本当の神様は見ているんだよ、みたいなオーラを感じて……。

しかも、ばらまかれた遺骨は、空中でピタリと止まる。それが単なるシーンのストップモーションという演出上の効果ってんじゃなくて、まるでその奇異の現象を二人して目にしたみたいに怪訝な顔をして、何度も何度も遺骨を投げ上げるんである。しかし、一気に放り出された遺骨は、やはり空中でぴたりと止まる。
まるで二人を、見てんだぞ、って言っているみたいに。

巌の出身である五島、そしてハルのいる浜松の遠州弁、西の言葉の情深さが実に滋味というか妙味というか、を誘う。
緒形拳、こんなにチャーミングに連続殺人犯を演じてしまうこと、しかしその底に潜む、底知れない不気味さとそして寂しさ哀しさを感じさせてしまうことの凄まじさ。
そして息子を憎むことを大前提としながら、様々な世間的要因で苦しむ三國連太郎。そしてそして、そんな男どもの思惑など知ったことかとばかり、豊かな乳房と熟れた美貌で義父を翻弄しまくる倍賞美津子。
殺されちゃうのにミジメさはなく、ただただ可愛くて切ない小川真由美。同じく殺されちゃうのに自分の信念を貫いたカッコ良さに見惚れた、こんな女として死んで行きたいと思った清川虹子……ああ、ああ、ああ……日本映画、そしてその役者、やはりなんと素晴らしいことだろう。
いやそれ以前に、大前提に、この恐ろしい今村昌平!★★★★★


腑抜けども、悲しみの愛を見せろ
2007年 112分 日本 カラー
監督:吉田大八 脚本:吉田大八
撮影:阿藤正一 音楽:鈴木惣一朗
出演:佐藤江梨子 佐津川愛美 永瀬正敏 永作博美 上田耕一 土佐信道 山本浩司 谷川昭一朗 吉本菜穂子 湯澤幸一郎 米村亮太朗 ノゾエ征爾

2007/7/24/火 劇場(渋谷シネマライズ)
このインパクトのあるタイトルにまず圧倒され、それが実はベストセラーなのだと知り、芥川賞の候補なんかにもなった新進気鋭の作家なのだと知り、更に更に今注目の劇作家であり、またも更に、若くして自身の名前を関した劇団を主宰して引っ張ってきている人だということも知る。
つまり、とにかく話題の若き女性なのである。そんな具合に、とにかくとにかく原作者の名前ばかりが聞こえてくるのが、映画として対峙する場合にはちょっと気になったりして。
だって、この監督さんだって今回デビューなのに、すっかりその中に埋もれちゃってるんだもん。

しかし映画となった時の、ビジュアルとしてのこの圧倒的な作品力は、小説でも舞台でも実現できないものだと、観た後そのパワーにすっかり疲れて呆けたようになった私は、その事実になんだか嬉しくなっちゃうんであった。
だって、妹の描くおどろおどろしいマンガから始まって、回想シーンの冷たい空気の流れるセピアな色合いや、そしてなんといっても、「村中圏外」であるうっそうと山と霧に囲まれたこの超田舎のロケーションは、絶対に映画でなければ獲得できないものだもの。

あ、更に言えばもうひとつある。キャスト陣。このヒロインのために生まれてきたようなサトエリの、圧倒的な素晴らしさ。いやいやいや、彼女は「キューティーハニー」で超フィクションのヒロインを、これ以上ないぐらいキュートに体現して私のハートを破壊粉砕したお人だから、この超バカ女を演じるためだけの女優であるわけはないのだけれど。
そう考えると……超フィクションのキャラクターをつま先までそのものとして演じる女優として、彼女の右に出る者はいないということを確信する。ああ、サトエリ!あなたは想像以上に素晴らしい人だった!

冒頭、広い広い道路に、一匹の猫が佇んでいる。トラックの破壊音。カットが切り替わって少女が呆然と眺めていたのは、大破したトラックのタイヤの二つの轍が、べっとりと引きずった太い血のり。
そして葬儀の場面になる。死んでしまったのは老いた両親。奥さんの方は後妻で、父方の息子である長男と、母方の姉妹二人に血のつながりはない。
長男の嫁がかいがいしく、葬儀に集まった人々の間を忙しく立ち働いている。
事故を目の当たりにしてしまった妹の清深が喘息の発作にあえいでいるところへ、数年ぶりに姉の澄伽が帰ってきた。リアルな猫のぬいぐるみを妹へのお土産にして。
こっそり注意する嫁の待子に、彼女の夫であり姉妹の兄の宍道は言った。「澄伽は判ってるよ。俺たち兄妹の間に口出しをするな」
このよーに、この男は嫁にひどく冷たいんである。嫁が虐待さながらに冷たくされる場面は再三あり、それはどれもこのよーにどこかコミカルな描写に満ちてはいるのだが、そして観客は割と笑っているのだが……うう、私はなんか笑えない。
だって、演じる永瀬正敏が100%シリアスなんだもおん。

そうなのだ。キャスト全員が狂った先の可笑しさ、とでもいったものを獲得している中で、永瀬正敏だけが100%シリアスなのがなんだか彼らしく、そしてだからこそ悲しく見える。
思えば、彼だけがこの中にたった一人取り残された男なのだ。男は狂った先の可笑しさに救いを求めることも出来ず、ただ狂ってしまったこの事態を呆然と眺めていることしか出来ないでいる。

で、この澄伽という女である。今まで映画の中で色んなトンでもない女に遭遇してきたけれど、その中でも自分勝手度とワガママ度と非常識度ではかなりのトップクラスに行く女である。
この度の不幸で働き手が一気に半分に減ってしまい、しかもしがない炭焼きの稼業と嫁の農作業の手伝いぐらいでは、とてもこれまで通りの仕送りは出来ない、と言い渡す宍道に、澄伽は厳然と言い放つんである。
「仕送りもしてもらえないで、バイトバイトに明け暮れて苦労してもいいっていうのね」
つーか、それが普通だろう……。大体この年で学生でもないのに仕送りを受けてること自体に呆然とする。仕送りが当然で、バイトなんて考えもしない、バイト=苦労で、なんで自分がそんなことをやらなきゃいけないのかと考えてる人間がこの世にいるのか……。

本当に真剣に女優になりたいと思ったら、仕送りなんか当てにしないで飛び出すだろうし、石にかじりついてでも、朝から晩まで働いても、夢をかなえようとするだろう。
まっ、なあんて真っ当な女がヒロインだったら、こんな狂った話なぞ出来上がるはずもないし、妹が「やっぱりお姉ちゃんは最高に面白いよ」などと言うわけもないのだ。おっと、これはオチバレになるけれども。
確かに最高に面白い、のかもしれない。たかが仕送りをしてもらえないことをこの世の最高の不幸みたいに咆哮し、たかが仕送りをしてもらえないことで親に刃を向け、兄の顔を切り裂き、たかが仕送りをしてもらえないことで兄と関係を持ち、まるで催眠術にかけるがごとく兄を自分だけに縛りつけようとする、だなんて。

そう、澄伽はこの家を飛び出す時も、仕送りをしてくれるか否かでそんなひと悶着があったんであった。そしてその時も、妹の清深はそれをこっそりと覗き見ていた。しかも姉は上京資金をためるためにと、クラスメイトを家に引き込んで身体を売り始めた。それも妹は見ていたし、味方に引き込んだ兄と寝ているのも知っていた。
彼女はそれを漫画に描く。口元に笑みを浮かべて、どんどん姉の姿がバケモノの姿に変わってゆく。しかし確かにそこには、この極端な姉の痕跡がある。中学生とは思えない、素晴らしい画力で彼女が描いた漫画が雑誌で賞をとってしまったことで、この家族は、というか澄伽は村中から後ろ指をさされるようになる。

清深の描くホラー漫画の、おどろおどろしい迫力。手足の長いサトエリの美しいスタイルが、蜘蛛のような不気味さに早変わりし、その長い黒髪が怨念のように画面に絡みつく。
一方の、観察者である清深は、卑屈なまでに簡略化され、おかっぱ頭にメガネ姿で、姉に湯船に沈められたり、姉のセックスを戸の隙間から覗き見ていたりしている。
実はその、「ウォーリーを探せ」ばりな小さな妹の視線こそが、最も怖かったりする。ナイフを握りしめて血だらけになって「私は絶対女優になるのよ!」と言っている姉よりも。

かくして、妹を絶対に許さない姉という図式は揺るぎないものになったわけだけれど、どう考えても妹に非はないのだよな……。
とかノンキに思っていた観客の思いが、アッサリはるかかなたに裏切られるラストには、だからもう、驚愕するしかないのであった。
大体、こんなキョーレツな表現を獲得している清深が、その中に自分を卑屈化出来る強さを持っている清深が、ただただ姉の理不尽に耐え忍ぶだけの存在であるハズがなかったのだ。なぜそれに気付かなかったんだろう。
姉にひたすらイジメぬかれ、「お姉ちゃんのいいところを100個書いて歌にしなきゃいけないの」とか、その歌を近所の人の前で披露させられ、姉から「全然100個ないじゃない。スタイルがいいとスラッとしてるも、同じ意味でしょ。やり直し。ただし今回と同じ言葉は使っちゃダメよ」だなんて、女子中学生のイジメより陰湿だよ……。しかもオメーのどこに100個もいいところがあるんだ。
この場面も、「わーごうすみかはゴージャスで……」などと震えながら歌う清深が、なんか残酷ながらも可笑しくて、そのコミカルさが実に恐ろしい。

当然といえば当然ながら、こんな性格の澄伽は所属事務所から解雇を言い渡されているのであった。しかも想像はつくけれど、バイトなんて考えもせずこんなハデなカッコをしている彼女は、勝手に事務所名義で方々から借金を作っている始末なんである。
彼女の借金を取り戻しに、東京から事務所の人間がやってくる。
にっちもさっちも行かなくなった彼女は、かつて上京資金を作るために寝た文房具屋のクラスメイトを再び呼び出し、100万の借金を分割で払うと提案する。もちろん、身体で。

「50回でどう」「80回なら」「なんで下がるのよ!」「だってお前、もう女子高生じゃないじゃん」この会話も可笑しいし、ちゃんと契約書と80回分のスタンプを作ってくるこの男も可笑しいのだが、大体彼女が80回もセックスすると、本気で思っていたんだろうか……もうその一回目で騙されたと知るんだもん。
その事務所の人間が美人局よろしく乗り込んで、彼をボコボコにし、女を寝取られた慰謝料と称して(気分としては彼の方が慰謝料もらいたいぐらいだろうが……)用意していた100万を持っていってしまう。
もちろん澄伽も加担していたんだけれど、彼女はまさか全額持っていかれるとは思っておらず、くってかかる。つまり、このクラスメイトに対しては借金より水増しした金額を言っていたわけだ……オイオイ、どこまでも自分勝手な女……。しかし事務所の男は「ここまでの交通費、ガソリン代、それに手数料だな」と彼女をソデにする。まあ、当然といえば当然……。

一方で澄伽は、新進気鋭の映画監督に手紙を出していた。そのレターセットを買ったのがこのクラスメイトがノンビリ店番をしている文房具屋で、あ、そうそうインターネットも村でこの店でしか使えないのだった。しかもセコいというかショボいことに、30分1000円。高い……。
「10分だといくら?」と交渉する澄伽もセコイが、それに対して「300円」って、計算がおかしいって……普通長く使うとオトクにするよなー。
で、ネットでこの映画監督の連絡先を調べた彼女は彼に手紙を出し、首尾よく返事をもらえ、文通がスタート、そして彼の新作への出演依頼をもらった、と思っていた。
まさかまさか、ここに恐ろしいワナがあるなどと、このバカ女は考えてもみなかったのだ。

妹の清深は毎日アルバイトに通っていた。どこでバイトをしているか、彼女は言わなかった。
なんとまあ、姉の出した赤い手紙は、すべて、郵便局でバイトしていた妹によって止められてた。そして、ということは、監督からの返事も……!!!
「最近、返事来なかったでしょ。私、郵便局でバイトしてたんだ。ゴメンね、お姉ちゃん」
澄伽が夢想していた監督の顔と重なる。絶叫。
そりゃ、あの監督からの返事の内容はおかしいと思った。今度は家族のことを書いてください、とかさ。そこで澄伽が、自分以外の家族はみんなおかしいとか、自分だけが特別なんだと思っていることが明らかになるわけで。何かからくりがあるなとは思ったけど、まさか妹が書いてるだなんて思いもしなかった。
ワープロ文書も、忙しい監督がさらっと思いもしないことを書いて返事をして、本気にした澄伽が後で傷つく、ってな具合なのかと思ってた。
まさかまさか、こんな満塁逆転ホームランが待っているとは。

ちょっとオチ行くの早すぎたかな……その前に。兄の宍道と関係をもった澄伽はその後、ひたすら彼を縛りつけるんである。自分以外の女とは寝ないことを厳命して旅立った。
「待子さんと寝たでしょ。ウソツキ。私だけが必要だって言ったわよね」とナイフをむける澄伽。
自分は散々他の男と寝ているくせに……。
でも、悲しい。必要だってことが、イコール身体が必要だってことになるだなんて。それで心を支配していると思っているなんて。そして他の女(つーか、奥さんだっての)と寝ただけで、それが危うくなると思ってるだなんて。
とんでもないバカ女で、誰からも好かれるはずもない、妹から彼女が受けた仕打ちがどんなにヒドいものでも、それが当然の報いであるようにさえ思う女、なのに、こんなところに彼女の悲しさを感じてしまうなんて。
でも、それをこのバカ女が自身で気づいていないのが憎たらしくも、更に悲しい。

それに、妹の清深に対してもそうだよね。妹がどんなにヘンなマンガを描こうと、澄伽自身に確固たる意志と実力があれば、女優になる道は何の問題もないはずなのだ。なのに澄伽は「あんたがあんなヘンなマンガ描いたから、私は演技に集中できなくて、実力を発揮できないのよ」と言い募るのだもの。
んなアホな。
澄伽は上手く行かないことを全て他人のせいに出来る、言ってみれば幸せな人。いや、他人のせい、ではない。家族のせい。つまりは案外と臆病者。他人の目は気にしてるってことだもの。そういやあ、妹の漫画で冷たい視線にさらされた時、彼女はえらく傷ついた顔をしていたっけ。この倣岸不遜な外見からは思いもつかないけど。
仕送りを強要するのも、結局家族から離れられないからだよね。あれだけ田舎をバカにしていながら、自分の力だけで東京で暮らせない。そしてそんな自分を助けてくれるのは家族しかいないのだ。それを彼女自身が判っててやってるわけじゃないってところが、憎たらしいんだけど。

だから、妹がラストさっそうと、「私、東京に行って漫画家になる。もうここには戻ってこないから」と言い放つのは実に爽快だった。マンガ賞のグランプリをとり、100万円を得た彼女はそのお金で東京での地盤を作り、そしてもう連載の話も来ているんだというんだもの。
でも、と考える。思えばこの妹だって、今までただただ、お姉ちゃんをヒロインとした家族のネタしか描いてこなかったじゃないかと。つまり作家としてお姉ちゃんの素材にホレていた彼女は、お姉ちゃんが理不尽になればなるほど嬉しくて仕方なくて、彼女の存在がなければ、漫画家としてデビューすることだってきっと出来なかったのだ。
それでも清深は、ギリギリ我慢していると言った。それはお姉ちゃんからの理不尽な仕打ちのことなのかと思いきや、なんと、両親が無残に死んだその描写をマンガにするのはさすがにはばかられるから、どんなに魅力的な題材だと思ってもガマンした、というのだ。
ゾッとする。
でもこれが、真の表現者ということなのか。
更にゾッとする。
いかに澄伽が女優なんて表現者になりうるべくもない、この妹の足元にも及ばないことが判る。

だからこそ、ラスト、一人で東京に出て行くはずだった清深は、追ってきたお姉ちゃんを振り切ることが出来なかったのだ。それどころか、あんなに颯爽と出てきたのにおびえて、こっち来ないで、とあとずさって、乗っていたバスから逃げて、ボコボコに取っ組み合いして、バカ女!とまで言って、それでも……お姉ちゃんの「私を描くなら最後まで描きなさいよ」という言葉にあらがえなかったんだ。
それをステップに、お姉ちゃんはもしかしたら、また首尾よく女優になりあがるのかもしれない。そして妹は、そんな姉がいなければネタに困るのかもしれない。
この場合、やっぱり妹が負けてしまったことになるのだろうか。いや、お互いがやはり依存しなければ生きていけない、それが姉妹の絆だとしたら……うーん、彼女たちにとっては幸福、なのかもしれない……。

だってこの時点で、お兄ちゃんははじき出されてしまっているんだものね。
嫁の待子とようやく夫婦の肉体関係を持ち、それを澄伽にきつく責められ、そして彼は炭焼きの工場で寝入ってしまって、火事で焼け死んでしまった。
呆然と取り残される待子だけれど、でも存外とシッカリしている。
そう、この待子を演じる永作博美。彼女はホンット、イイ仕事してるよなー。
孤児として育ち、結婚相談所で結婚相手を決めるまで、30まで処女できてしまった待子という女。
サトエリがバービー人形を拡大したようなスタイルで、んでもって娼婦まがいのことをやってるわけだから、対象として小柄でベビーフェイスの彼女が、そういうオクテの女性としておかれるのは、ビッタシ合うのよね。

待子はもう、ひたすら理不尽な目に遭う。清深よりも更にヒドイ目に遭う。だって夫であるこの家のお兄ちゃん、彼女に対してヒドいんだもの。妹たちを気遣って意見すると、「俺たち兄妹のことに口出すな」だし、妹の喘息に気付かなかったのか!とぶっ飛ばされてゴロゴロゴロッ!と廊下をボールみたいに転がっちゃう。ひ、ヒドイ……。
「おいしいから」と待子が薬味のゴマを入れたそばつゆを彼女に向かってバーン!とひっくり返し、そばもひっくり返し、「オレはそばはそのまま食うのが好きなんじゃ!」いくらそうでも、ひ、ヒドイ……。
そのせいでコンタクトレンズの間にそばつゆが入って、悶絶した待子、あわや失明の危機にまでになる。しかもダンナは、「あいつ、コンタクトしてたのか……」とそのことすら、知らなかったのだ。

待子が大人しくて従順に従うから嫁に迎えたって、趣。それはあながち外れてもいないだろう。でも、この嫁、確かに従順だけど、思った以上に打たれ強く、そして思いがけない反撃に出るのだ。
恐る恐るといった格好ながら、「怒らないでくださいね。どうして澄伽さんをそんなに怖がっているんですか」とズバリと核心に問いかけ、「もう寝る」と逃げようとするダンナをタックルがごとく逃がさず、どうして私を抱かないんだと、もう逆強姦みたいな感じで決死の覚悟で挑む。彼はくだんの事情があるから、待子を抱くわけにはいかないんだけど……気圧される感じで、抱いてしまう。
翌朝、待子が、体中打ち身やら擦り傷だらけながら、まだ昨夜の余韻を引きずって、朝ごはんを作りながらぼーっとしているのが、なんか生々しくて笑っちゃう。
処女だったんだもの。そりゃ衝撃の体験に違いないのだ。

彼女は澄伽に、夫と夫婦の関係がないことや、自分がまだ処女であることを相談し、そして昼メロのクサいラブシーンに釘付けになってた。たとえそれを「なんでこんなヘタな役者が主役張れるのよ」と澄伽が毒舌を吐いても、「毎日見てますけど……」とそんな澄伽を無視するように釘付けになってた。
待子が実は一番、強い人間だったんだろうな。結局処女喪失を勝ち取り、そのことで家庭を崩壊させ、この家から誰一人いなくなっても、決して悲壮感がない。壊れた扇風機を「ハアー!」と気功で直そうとする彼女は可愛くも可笑しく、こういう人が力強く世の中を生きて行くのか、と思う。
しかし彼女の趣味がキテレツな、なんか呪術的な人形作りで、見るからにキモチワルイし、しかも作りながら歌ってる鼻歌もヘンだし、「澄伽さんも一緒に作りましょうよおおー」とひたすら誘いをかける待子は……うーん……やっぱちょっと病んでるかも……。

これは皮肉なのか、なんなのか。演技もロクに出来ないのに性格悪い女、を演じているサトエリが、「キューティーハニー」の白痴系ファニーな魅力から一転、これほどまでにイヤな女を貫禄タップリに演じるとは、こんな凄い映画女優もないではないか!
イヤー、「キューティーハニー」の時にひたすらノックダウンしたから今回も素直に期待してたけど、やはりサトエリ!タダモンじゃない。この振幅の大きさ、いや、その極端さこそがサトエリの魅力なのだ。
彼女が、妹からぶちまけられた、結局一通も届いていなかった赤い手紙をひたすらちぎり、それを見て手伝って嬉しそうにちぎっている待子さんがちょっと可笑しいんだけど、その赤い細切れが扇風機の風にあおられて花吹雪のように舞うシーン、一瞬、美しい……と思ったのもつかの間、扇風機に向かって鬼の形相でグワッと叫ぶサトエリのストップモーションに、い、いいの、こんな顔見せちゃって、す、すげえ……と呆然と開いた口を閉じるのを忘れてしまう。
いやあ……姐さん素晴らしい。

彼女はとにかく、絵になるんだよな。まあこの素晴らしいスタイルの良さだからってのもそうなんだけど、だからこそこの超ド級の田舎にこのゴージャス美女がいるのがもの凄い違和感があって、その長過ぎるほどに長い美脚でママチャリ乗って、坂をうんしょこうんしょこ登っていたりするのが、ほんっとうに、違和感の力、とでも言うのだろーか。まるでそう、異邦人なのだよなあ。
女優となるべく、私なりに努力しているよ!と言ったカットのあとに、彼女の本棚が映し出され、「ガラスの仮面」でマンガかよ!つーか、マンガ読んでるじゃん!とまず脱力、しかもあの長編の、数冊しかないってな描写も映画ならでは。笑った。なんてテキトー……。

私のお姉ちゃんはこんな女じゃなくて良かった……(笑)。★★★★☆


フリージア
2006年 103分 日本 カラー
監督:熊切和嘉 脚本:宇治田隆史
撮影:猪本雅三 音楽:赤犬/松本章
出演:玉山鉄二 西島秀俊 つぐみ 三浦誠己 柄本佑 嶋田久作 竹原ピストル 鴻上尚史 坂井真紀 大口広司 すまけい

2007/2/22/木 劇場(渋谷アミューズCQN)
熊切監督は、前作でもう観るのヤメようかと思ったぐらいついていけなかったけど、今回はキャラに反発心がわかないし、展開にムリがないのでスムーズに追っていける。
近未来モノだし、荒唐無稽ではあるんだけど、荒唐無稽と思わせないほど冷静に語っていくから、これがまるで今現在の物語だと錯覚してしまいそう。

冒頭で示される、敵討ち法とフェンリル計画の解説。まずは、そのフェンリル計画の顛末が提示される。生物の細胞を一瞬にして凍結させる爆弾が、戦災孤児を実験台にして落とされた。一瞬にして凍りつく大地と、その中で生き残った女の子と少年兵。
そして時は経ち、敵討法が成立した世の中が描写される。
これがまた、詳細かつやけにリアルなのが、非常に面白い。申し立てをした被害者(主に被害者遺族)と、その対象者、執行代理人、執行事務官、と事務的にきっちりと決まっている。
細かい書類が次々にやり取りされる。使用武器は登録されたもののみ。弾切れに注意、などと、条件を淡々と読み上げる執行事務官の奇妙な落ち着き。……この執行事務官であるヒグチが、あの時生き残った女の子なのだ。
そして彼女にスカウトされた叶ヒロシが、子供たちを助けようとして凍結爆弾に巻き込まれた少年兵。

「これから、敵討ち法に基づく執行が行なわれます。くれぐれも外に出ないように……」まるでちり紙交換みたいに、町内にアナウンスされる。町には人っ子一人出てこないけれど、皆、二階の窓やベランダから興味津々に眺めてる。
対象者の居住区に乗り込む、執行者の三人。
対象者は、一応警護人に守られてはいるものの、「だから借金してでも腕利きの警護人を雇えばよかったんだよ!」の台詞からも判るように、このやる気のない警護人は国選である。現代の、容疑者に対する弁護士のシステムと似ていて、このあたりの細かい設定が凄くリアルなのね。
そして終われば、「ご協力ありがとうございました」とまた間延びしたアナウンス。運び込まれる遺体を見物しようと、わらわらと出てくるヤジ馬たち。
対象者や執行にもいろいろあって、ヤクザがその対象者になった時なんかは、脅しやコネで逃げられるのを防ぐために、強制執行という形で決められた場所に迅速に移送されることもある。逆上したヤクザから頬を張られても、淡々と執行の条件を読み上げるヒグチ。

執行代理事務所に雇われてる執行代理人の中にも、色んなタイプがいる。法のもとでの公正な執行に忠実な者、銃をぶっ放すことに喜びを感じているようなナルシスト、そしてヒロシは……一切の感情も感覚も感じずに、正確に弾を打ち込む。それだけ。
ヒロシを演じる玉山鉄二は、ちょっと意外なぐらい入り込んでる。凍結爆弾の後遺症なのか、時折り流す氷の涙が美しく、印象に残る。少年兵の面影をそのまま留めたメガネ姿が、自ら感情を押し殺しているような切なさを思わせる。
ヒロシが見せる、最小限の動きに留められたガンアクションが怖い。それは監督がリアリティのあるガンアクションをと、最初から狙っていたものだという。ガンアクションがカッコイイアクションではなく、日常にフツーに使われている、いわばノーリアクションの恐怖。
撃ってる、撃たれてる、双方ともに、大げささがあまりにないために、逆に、凄く怖い。
静かで、冷たくて。

この設定がそれほど荒唐無稽に感じないのは、敵討法、そんな法律があればいいと思ってしまうような世の中になってしまったからだよね。
どんなにヒドい犯罪が行われても、そして犯人が死刑になったとしても、死刑執行は長々と引き伸ばされるし、苦痛が最小限に配慮される。
無残に、あるいは屈辱を味合わされて死んでいった被害者にくらべ、なぜ加害者の死が優遇されるのかという疑問が、当事者でなくてもわきあがるような世の中に、なってしまった。公正さや慈悲を語るのが難しい世の中なんて、なんという哀しさだろうか。
とにかく当事者である被害者、あるいは被害者の家族は、その手で加害者に同等の苦しみを味あわせてやりたいと、どの時代だって思っているはずなのだ。

でも、どんな形であれ、人の死や苦しみを願うのは哀しいことだと、いけないことだと思う人間の、日本人の気持ちがそれにセーブをかけてきた。だから犯罪者の人権という価値観も生まれた。
でも、今はそんな考えが甘っちょろいとされるぐらい、情状酌量の出来ない無慈悲な事件が多すぎる。
はるか昔、敵討ちが正当に保護されていた時代は、野蛮に見えても、それは逆に、ある意味人権に配慮された時代だったのだ。
でもその昔々の義侠心が通用しないぐらいに、複雑で残忍な世の中になってしまったけれど。それがこうしてエンタテインメントの要素として成立してしまうなんて、なんと皮肉なんだろう。
単純に、面白いと思ってしまうんだもん。

ヒグチが勤めている執行代理人事務所の描写が面白い。「敵討ち代行します!」なんてポスターや小さなのぼりがあちこちに貼られてる。なんかね、まるで「お気軽に法律相談にのります!」みたいなノリなんだよね。丸っこい書体にポップなデザインでさ。
そういう職業が成立するほどに、敵討ちしたいと思うほどの強い思いを味あわせられる人たちが後をたたない世の中を予言しているんだけど、いや、予言どころかもう今の段階でそうなのかもしれない。

仕事を終えるとヒロシは喫茶店に入る。いつもの、と言って出てくるのはナポリタン。さっきまでの血みどろの銃撃戦を思い出させるような、真っ赤にあえられたナポリタンをつつくヒロシ。
ガラス張りの喫茶店から見える外では、反戦デモが繰り広げられている。警官隊と衝突して、これまた血みどろのデモ隊がなだれ込んでガラスに激突する。それを引いたカメラが一切動かずに定点でじっと見つめ続ける。ヒロシも身じろぎもせずにナポリタンを食べ続ける。ピーマンとたまねぎをきっちりとよけて。
このナポリタンを「好きだった」という表現をするヒロシ。その過去形はどういう意味だったのか。やはりこのナポリタンの赤い色に、いつしか血をイメージしてしまうようになったということなのか。

敵討ち法と同時進行で描かれる、兵器実験のために、戦災孤児が虐殺された過去。いや、いわばこっちの方がメインであるともいえる。
戦災孤児、つまり戦時下というものがあった。そうした大型戦争に再び日本が参加する予言もまた、示唆されている。
ヒグチが書類を偽装してまで敵討ちしたかったのは、トシオだった。彼は、少年兵だったヒロシの上官で、子供たちを爆弾が投下される場所に連れて行った人物。

そして、その作戦を指揮したのが、トシオの父、岩崎大佐だった。彼が戦犯として詰問されているビデオを、ヒグチが食い入るように見つめている場面も出てくる。岩崎大佐ほどの大物だと、彼を守るために腕利きの警護人、“幽霊”がつく可能性がある。それを阻止するため、ヤクザの警護人に“幽霊”をあっせんし、ヒロシと対決させた。
ヒグチはヒロシなら“幽霊”に勝てる、と踏んでいたから。
なぜそれほどまでに信頼していたのか。でもギリギリの対決で、ケガをしたヒロシを慌ててヒグチは迎えに行ったではないか。
氷の大地でたった一人生き残った彼女を迎えに来てくれた時から、彼のことが好きだったんじゃないのか。

敵討法のあらましと執行代理人や事務官の人間関係を紹介するように、二件の執行をざっと流した前半部分がいわば長い前フリだったように思えるほど、トシオを演じる西島秀俊が登場してからの後半は、まさに本番である。
いつも冷静なヒグチ、そして表情を変えないヒロシ。それには理由があった。ヒグチは標的として兵器の犠牲になる孤児の一人、ヒロシはその孤児たちを引率する少年兵。生き残った彼女と様子を見に行った彼は、一瞬にして凍りついた大地の後遺症で、感覚と感情が失われてしまった。

敵討ちの代行事務所のスタッフとしてコワいヤクザ者と相対しても泰然としているヒグチと、キズを受けても痛みを感じないから、恐怖も感じず、そして相手の恐怖も理解できないから冷たく銃を向けることが出来るヒロシ。
感情がない、と自ら言う二人だけど、本当に感情がないならば、そのことを哀しく思うこともないし、そもそも彼女が彼を引き入れることだってなかっただろうと思う。だからそのあたりがかなり、微妙なのだ。
二人は、自分の中にかすかに残る感情に気づいていたんじゃないか、いや、おびえていたんじゃないか。
ある時ヒロシは、「どうして僕を雇ったんですか」と問うてみる。するとヒグチは「あなたが必要だから。それだけじゃいけませんか」と応える。
自分が必要とされることを知りたいと思う“感情”それを知られたくないと思う“感情”。
そして、ヒグチがヒロシをトシオと対決させる“感情”は、これ以上ない複雑なものではないか。
だって、ヒロシはかつて、トシオを上官として尊敬していた。でも最後の価値観を共有できなかったために、ヒロシはこの後遺症に悩んでいるのだもの。

それが決定的になるのが、対象者となったトシオを執行代理人として追うヒロシが、振り返った彼の涙を目にして、引き金が引けなかった場面である。
感情がないならば、その涙に揺さぶられるはずがない。
ひるんだように、立ち尽くしてしまう。
自動車整備工として働いているトシオは、心から慕ってくれる後輩が自分を守るためにと殺されてしまったことで、逆上した。

対象者であることを告げられた時には、トシオはそれを当然のことだと、不満など全然ないと受け止めてた。その押し殺した表情はまさに、見知っている西島秀俊の顔だった。自分は罪を受けるべき人間だと観念していたところがあったけれど、その自分のために無垢な彼が殺されてしまったことが、本当に本当にやりきれなかった。
彼を追うヒロシに向けられた、ギリギリと睨む厳しい瞳に涙をためて、全身からやりきれない怒りのオーラが発散している表情に現われてる。ゾクッとくる。西島秀俊は素晴らしい役者だって知ってるけど、どっちかっていうと飄々としててクールで、こんな風に感情爆発のギリ手前の表情を見せることなんて、なかなかないから。

トシオが感情を爆発させることとなる後輩役の竹原ピストル、前作では話が話だったんでどうにも受け入れがたいものがあったんだけど、今回は彼の一途さが素直にキャラにハマって実にピタリである。うー、いいな、西島秀俊が自分のためにこれほどに逆上するなんて。
彼がトシオを守るためにと不用意に外に出て、ナルシス系執行代理人に銃殺されてしまうシーン、撃ちぬかれた頭からは脳味噌と思しきでろでろが飛び出していたりして、なんか「鬼畜大宴会」を思い出しちゃう。
血の匂いやとび出た脳みその生暖かさが感じられるぐらいなのに、それを一定の距離から眺め続ける冷静さ、冷徹さは、ホントに「鬼畜大宴会」の頃から変わっていない、と思う。

ヒロシはトシオを逃がしてしまった。そしてあのナルシス系執行代理人がヒロシに撃たれたことで逆上して、救急隊員や一般人を巻き込んで銃をぶっ放しまくり、一転してそこは惨劇となった。今までは法の元に許された殺人が、まるで町内の行事みたいに行なわれていたことが、こういう可能性があるんだと、異常なことなんだと、示唆しているようでもあった。
そのナルシスを苦々しく思っていた正義感、公平感の強い執行代理人……今回は相手方の警護人に当たっていた彼(柄本佑)がコイツを撃ち殺した。彼はどの立場でも変わらなかった。対象者を、守る。ただそれだけが自分の使命で、袖の下は死んでも受けとらなかった。

その惨状に立ち尽くしたヒグチ。今までただただ事務処理してきたことが、こういうことだったのかとガクゼンとしているように、見えた。
そして、書類偽造を犯したことで、ヒグチ自身が追われるはめになり、彼女を見つけ出したヒロシは、「あなたに射殺命令が出ました」といつものように淡々と告げる。
そんな時でも、冷静な態度を崩さないヒグチ。実際、自分が死ぬことにはそれほど恐怖は感じていないのかもしれない。ただ彼女が恐れているのは、やっと見つけた同胞、ヒロシを失うことだったんだろうと思う。
豪雨の中、ヒグチの元に差し向けられたヒットマンをあっという間に全滅させるヒロシ。さすがヒグチが見込んだ男だ。

しかし雨の中、ヒグチは震えるように怯えている。……感情を失っていたのではなかったのか。そして一緒に逃げてくれたヒロシがふいに姿を消した時、彼女は戸惑い、怯える。彼の携帯に電話をかけ、帰ってきてほしいと懇願する。
ドライブインの中のレストランで、ピーマンとたまねぎを器用にどかしてナポリタンを食べる彼に、ヒグチは微笑を浮かべてた。
感情を失った人間が、そんな微細なところに気づくだろうか。
その直後、ヒロシは姿を消した。

ヒロシはトシオを追っていたのだ。雪深い片田舎に、彼の姿はあった。
通信記録から、トシオが頻繁にメールのやり取りをしていた相手の住む場所である。
どういう相手なのかは、一切明かされない。ただあまりにも孤独なトシオに送っていた、他愛ないメールが幾度か挿入されるだけ。雪だるまの添付写真に、トシオはかすかな笑みをもらしてた。
彼女の住んでいると思しきアパートの前に、その雪だるまがちょこんと立っていた。落ちていた人参を鼻の位置に戻してやるトシオ。
それを実際に、見たかっただけなのか、彼は。
ヒロシがその背後に立っている。気づいたトシオはうろたえることもなく、彼に言った。
「すまない。ここではやめてほしい」
彼女に会うこともせずに、それだけを頼んで場所を移動してもらうトシオ。「会わなくていいんですか」と思わず聞くヒロシ。感情がなければ、そんなこと、聞かない、思いつかないよ。

どうしても、ヒロシやヒグチが感情を失ったなんて、思えないんだ。あまりにも哀しい、辛い思いをしたから、感情を失えば、それから逃れられると思ったんじゃないのかって。
ヒロシはトシオに、弾を渡す。「知っていたのか」とつぶやくトシオ。涙をためたトシオがヒロシに銃を向けたあの場面で、既に弾がないことをヒロシは知っていたのに、彼を逃がしたのだ。
なくなった弾を供給するのは、公平の論理である。それは「感情を失った人間」の演出のようにも思える。でも、ヒロシはトシオとサシで戦いたかっただけじゃないかとも思う。まるでそれは……お互い等分でぶつかりあいたい、恋愛関係みたいに。

互いに構え、火を噴く拳銃。闇に染まりきれない純白の雪に飛び散る血。その中に血まみれでバタリと倒れこむ西島秀俊。あまりにも映えて、美しい構図を、ストイックに引いたままのカメラが身じろぎもせずに映し出す。
ヒロシも致命傷を負った。でも痛みを感じないから、首から吹き出る血を抑えながら車に乗り込む。ヒグチの元に向かう……。

この一騎打ちの場面も美しいんだけど、その前段階、ヒロシがトシオの執行代理人となったことを告げに行く場面が、非常に美しく心に残る。
あの少年兵時代から実に10数年ぶりに対峙する二人。
感情をなくしたはずのヒロシが、上官と戦うことになることにかすかな戸惑いを感じさせる場面だ。そんな彼の頬を張って、痛くないはずの頬を張って、トシオはヒロシを叱咤する。手加減をするな、本気でやれ、と。
深い闇が隙間なく降りている川辺でのワンカットワンシーン、遠く引いた画面で、二人は限りなくシルエットに近く、その表情も見えず、台詞が遠くから聞こえてくる感じ。それが凄くストイックで美しいのね。
失われたはずの感情をトシオにぶつけているヒロシが、その冷静な顔が見えないことで、逆にその感情が見えてくる気がして。

それにしても、なんでフリージアなの?同タイトルの映画が以前、あったよね。内容は違うけど、やっぱりこういうバイオレンス系だった。なんか意味があるのかなあ。★★★☆☆


ブレイブ ワン/THE BRAVE ONE
2007年 122分 アメリカ カラー
監督:ニール・ジョーダン 脚本:ニール・ジョーダン/ロデリック・テイラー/ブルース・A・テイラー/シンシア・モート
撮影:フィリップ・ルースロ 音楽:ダリオ・マリアネッリ
出演:ジョディ・フォスター/ナビーン・アンドリュース/テレンス・ハワード/メアリー・スティーンバージェン/ニッキー・カット

2007/10/27/土 劇場(有楽町サロンパスルーブル丸の内)
前知識も何もなく、あ、ジョディ・フォスターだ、と思って飛び込んだ。なんか彼女、久しぶりのような気がしたけど、そうでもないのよね、「フライトプラン」とかで観てるし。ここ最近決定打がなかったせいでそう思うのかしら、などと思い。
惹句になってた、「許せますか、彼女の選択」という意味が、許せますかというより、この映画自体は許してるじゃん、というのが、複雑というかショックというか、何となくやりきれない気がした。
これがジョディ・フォスターじゃなかったら。あるいはニール・ジョーダンが演出じゃなかったら、実にアメリカらしい報復譚、傷ついた人の正当な権利だとか、身を守るためだけじゃなくて、復讐を遂げるために銃が存在することも、美談めいた意味合いを持ってしまったかもしれない。そして私はまたそれに苦々しい思いを抱き、じゃあ何のために法があるんだとか、人間の理性や、罪を憎んで人を憎まずという精神があるんだと思って、憤ったかもしれない。

いや、確かに今は、「罪を憎んで人を憎まず」なんて甘っちょろいことが成立しない、あまりにも殺伐とした時代になっていることは判っている。残酷なだけではなく、あまりにも理不尽で意味のない殺人事件が立て続けに起きる、この日本ですら、という状態ならば、いわゆる善良な市民が、もしかしたら殺人者の方を擁護してしまうかもしれない法を信じられなくなるのもムリはない。刺し違える覚悟で復讐を考えるのもムリはない。
昔は、その“いわゆる善良な市民”がふとしたことで足を踏み外して犯罪に加担してしまうとか、そういう色合いが強く、だから罪を憎んで人を憎まず、が成立したのだ。でも今は違う。人が血を流してのた打ち回って死ぬのを笑って眺めている殺人者が、昔ならば恐るべき狂人とされるべき殺人者が、普通の顔して紛れ込むようになってしまった。

しかしこれが、その殺人者に対して、愛する婚約者を虫けらのように笑いながら殴り殺した殺人者に対してだけ彼女の銃口が向けられるのなら、それこそ浪花節なだけの話なんである。言ってしまえば、そんな映画はこれまでゴロゴロ生まれている。
しかし彼女は、その最後の花道をギリギリまでとっておく。いわばその前に予行演習してしまうんである。それが、衝撃なのだ。
これは彼女の“選択”なのか?ただ破滅へと突き進む“転落”なのではないか?そう、これこそが、足を踏み外すということなのだ。

ジョディ・フォスター演じるエリカ・ベインは、街の声を伝え続けるラジオのパーソナリティー。セクシーな恋人、デイビッドと結婚を控えて、幸せいっぱいだった。招待状の色は何にする?クリーム色?いえ、これはバニラ色っていうんだって……などと電話でやり取りしたり、憎たらしくなるほど、ラブラブで。
その夜、事件は起こる。愛犬とともに夜の散歩に出かけた二人は、ふと唇を交わした間にごろつきに犬を捕らえられ、それをネタにゆすりをかけられた。
いや、ゆすりというか、彼ら三人の目的はただこの弱者を殴り、蹴り、のた打ち回る様を面白がるだけだった。ビデオで撮影し、「ハリウッド大作だ!」などと哄笑した。エリカの目の前で、デイビッドが地面に叩きつけられる。悲痛な叫びをあげる彼女自身も、次の瞬間には気を失っていた。
どれぐらい意識を失っていたのか……生死の境をさまよった彼女がようやく目覚めた時、デイビッドはこの世にはいなかった。

その時には本当に、ただただショックで、犯人の顔もおぼろげで、フラフラと一人部屋に帰る彼女は、この記憶から逃れたがっているようにさえ見えた。
何がきっかけだったんだろう。銃を欲したのもなぜだったんだろう。彼女が捜査の進展を聞きに再び警察を訪れた時、受付の警官が事務的に事件番号を聞き、訪れる女たちに全く同じ悔やみの言葉を同じ調子でかけ、待たされ続けるのが……地獄の底に落とされるような経験をした女たちが、こんな風に何人も並んでいるのが、耐えられなかったのか。
そこんところは、正直、判然としない。
ただ、順番を待つことなくエリカは外へと逃れた。

最初こそは、ほんの偶然だった。エリカが銃を手に入れたのは、しかも許可の下りる一ヶ月を待てずに不正に手に入れたのは、今すぐにでもソイツをぶっ殺したかったからに他ならない。
しかし、彼女が最初に引き金を引いたのは、その相手ではなかった。それどころか、ほんのハズミで引いてしまった。夜のコンビニ、客は彼女一人だけ。突然大声をあげて入ってきた男は、レジの奥の女に子供に会わせろと言った。拒否した女に容赦なく銃弾を浴びせた。驚いて店の奥で固まったエリカの携帯が鳴った。ふとこちらを向いた男に、商品棚越しからとっさに引き金を引いていた。三発。一発が命中した。
確かにこの男は、クズだったのだろう。出所していきなり妻を殺した男。こんな男には、確かに生きていてほしくない。死んだ方が世の中がキレイになる。などと思ってしまうことにゾッとしてしまうけれど……心の片隅に、少しだけ引っかかるものはあった。彼が子供に会いたがっていたこと。
死んで当然と思う一方で、苦さがこみ上げてしまう。

その後、次々とエリカが血祭りにあげていくヤツらは、確かに死んで当然のゴロツキたちなのだ。地下鉄で弱そうな白人青年にカラんでアイポッドを奪ったブラックの若者二人。車両の隅で静かに経緯を見守っていたエリカ。ここにもカモがいた、とばかりに彼女に矛先を向けた彼らに、容赦なく銃弾を打ち込む。初体験だったコンビニの時とは違い、彼女の放った銃弾は正確に二人を撃ち抜いていた。
こういう、いわば町のゴミみたいな存在を、わっかりやすい若い黒人の若者に仕立て上げるのも危険な気がする一方で、それも確信犯的なのかな、と思う。彼女の“選択”があまりに一面的過ぎること。

ただそこは、演じるのが何たってジョディ・フォスターだから、その震えるような全身の演技が、あまりに説得力があり過ぎるのだ。それはいいのか悪いのか。
だって、この若者たちは、いわばアイポッドを奪っただけなんである。それにこの白人青年はただ弱々しいだけに見えたけれど、実は親の権威をかさにきたボンボンで、結構イケすかないヤツなのだ。
つまり、外見だけで判断し、ブラックの二人が、まあ殺されてもしょうがないか、などと一瞬でも思ってしまったこっちを皮肉る設定が用意されているのだ。

捜査の最初のうち、犯人は男だと思われていた。この映画の企画に関して監督が、“一般的に女性は、見知らぬ人を殺さない”と、それが覆される時の面白さが出発点になったと言っていた。
例えその先に、本当にぶっ殺したいヤツがいたとしても、いや、その存在があるからこそ、このキャラが女性でも成立するということなのかもしれないけれど、確かに監督の言は的を射ているかもしれない。
しかし電車でのこの青年の証言、「奥に女が座っていた」ということが、捜査の方向を変えさせる。「イイ身体してた。胸も小ぶりだけど形がよくて、ケイト・モスみたいな」とスケベ心まるだしでアホなことを言うこの白人青年に、コイツもぶっ殺された二人と似たり寄ったりのアホタレだな、と思い、なんとなくイヤな気分になる。

ソイツに描かせた似顔絵はジェニファー・アニストンそっくりに仕上がって、まるで役に立たなかったけれど、少しずつ捜査の手はエリカに近づいていた。
というのも、事件のあった直後、刑事のマーサーはエリカの姿を現場近くで見ていたから。彼は彼女に見覚えがあった。エリカが生死の境をさまよっていた頃、その病室を見舞っていた。
しかも、彼はエリカのラジオ番組のファンだったのだ。後に一対一で相対する時、「声(のイメージ)よりもずっとスリムで美人だ」とマーサーはエリカに言う。既にこの時、うっすらと彼女に対する疑念は頭をもたげていたけれど、クールでクレバーな彼女に、親友になれるような近しさも感じていた。

エリカは、現場にいたことをごまかすために、とっさにマーサーへのインタビューを試みる。人を撃ったことはあるのか、その時、手は震えなかったか……。マーサーは首を振る。私は法を守る側の人間だから、と。エリカはふと黙り込む。
彼との邂逅が、エリカの番組の方向性を変えさせる。それまでは抽象的な街の声を拾っていくだけで、個人的なことなど口にしなかった。しかし復帰して言葉に詰まったエリカが語りだしたのは、あの事件以降のニューヨークへの恐怖だった。
「今まで、世界一安全な都市、ニューヨークが怖いだなんて思ったことはありませんでした」世界一安全な都市……?なんかその定義自体違和感があるけどなあ。

ディレクターはAMラジオの人生相談じゃあるまいし、と異議を唱えるんだけれど、予想に反してリスナーからの反響が多く届いた。その頃世間ではエリカの起こした事件が“処刑人”などと大きく話題をさらっていて、この事件のことをどう思うか、リスナーからの生の声を聞いてみる。
殺人者の本人が、電話でそれを受けるだなんていうひどくシュールな場面。「自分たちの代弁者だ」「いや、彼(男だと思われてるから)に何の権利があるのか」「単なる人殺しだ」「もっと続けて街を掃除してくれ」「彼とセックスしたい、凄く興奮する」なんて言い出す女も現われた。しまいには、自分こそがその殺人者であると宣言するバカまで。
エリカの意識は一体どこに近いのか、いやどこにもない。ただ彼女の恐怖が武装に変わり、怒りに変わり、正義と似たものになっただけ。でもそれは多分、決して正義ではないのだ。

それでも世間では、街のゴミを掃除するかのごとき“処刑人”を持ち上げる風潮に傾いてゆく。それは、こうした判りやすい“悪人”を排除すれば、世の中が平和になる、という理論を単純に信じきっていて、犯罪者の心理が単純化しているだけでなく、人間自体の心理があまりに単純化していることに、脅威を感じるのだ。
ここまでは一応、偶然遭遇した悪人に銃をぶっ放すという構図だったのが、その次の殺人では、エリカはハッキリと目標を定めている。マーサーが三年も追いかけ続けている男。いつも法の網をかいくぐって好き勝手しているソイツは闇世界に暗躍し、それを申告しようとした妻を自殺に見せかけて殺した、許すべからざる男。捕まえて審議なんかしなくても、その悪事は様々に明白な男。

それをマーサーの口から聞いた時なのか、そしてテレビに映ったソイツの顔を見た時なのか、あるいはマーサーに近しい思いを抱いたせいなのか、それとも、マーサーがどうやら自分が一連の犯人だと気づいているのを感じとり、マーサーのためにひとつ“仕事”をしてから、彼の手によって捕まえてもらおうと思ったのか……定かではない。
エリカは“仕事”の前に、眠れないと言ってマーサーの携帯に電話をかけた。その時まさにソイツを殺そうと、エレベーターに乗り込む時だった。チン、というエレベーター到着の音をマーサーは聞き……それが決定打となった。

エリカはたかが女、と隙を見せたソイツを、屋上から蹴落として殺す。今までの手口とは違ったから、同一犯という決め手には欠けていたけれど、既にエリカを疑い始めていたマーサーの中ではひとつのパズルが出来上がった。
随一の悪人が死んで、警察内部である種の安堵感が広がったのも事実だろう。それと共に、何年も追い続けていた彼をさらわれたことへの失望感、というか空虚感も。

その彼を率先して追っていたマーサーは、でも、こうなることをどこかで予期していた。同時に関わったエリカにこの話を漏らした時から、いや、その前から、彼女がただ被害者なだけではないことを敏感に察知していたから。
それはやはり、長年の刑事のカンというヤツなのだろうか。
いかにも優しげで、ダンディーな黒人刑事のテレンス・ハワード。ザ・白人であるジョディー・フォスターと対峙する彼が黒人であるということは、そりゃ勿論計算の行き届いていることなんである。
それはやはり、あの地下鉄の青年二人組に対比させているんだろうと思う。多分、まだまだ黒人というだけで差別のあるアメリカ、だけど刑事という職についていれば、尊敬さえされる。それは歪んでいるのか、正当な社会なのか。ひどく皮肉さを感じずにはいられない。

マーサーが、エリカの罪を許してしまうんである。こんなせっぱ詰まった状況で出会った男と女であり、お互いに尊敬していると言い合う間柄なんだから、恋愛の匂いがない訳はない……普通は。でも、この二人の間にはそれはない。やっぱりそれは、あまりに禁欲的なジョディ・フォスターの男前ぶりにあると思われ。
だって、ジョディ・フォスター、あまりにも鉄の女なんだもん。「フライトプラン」もひたすら孤独に闘う女だったし、近年そのイメージが増幅されたような気がする。

彼女が鬼になったのは愛する婚約者が殺されたからであり、つまり冒頭はエキゾチックな恋人とのラブラブな描写が描かれはするんだけど、どうも違和感があるっつーか……なんか、ジョディー・フォスターが恋愛を演じる、どうしようもなく恋人を愛するってのが、どうにもピンとこないのよね。前半部分、恋人との場面ではメイクもバッチリで女っぽいんだけど、それを超えるとノーメイク風でやたら凛々しく、むしろこっちの彼女の方が見慣れているもんだから、前半がちょっとワザとらしくも思えちゃう。
だから、エリカがデイビッドとのラブラブや、彼が死んでしまったことに深く沈みこんでいる前半の描写が終わるまで、ちょっとハラハラとしてしまうのよね。で、中盤、最初のうちは動揺しながらも、拳銃を自分のものにしていく“鉄の女”の冷たく燃える青い瞳についついホッとしてしまう。

エリカがこれぞ本来の目的である復讐へと向かった場所に、マーサーもギリギリで到着した。愛する婚約者を殴り殺した少年グループをブチ殺し、今までの一連の殺しも、死人に口なしってことで彼らにかぶせることにしてしまう。それをどの時点でマーサーは決断したのか。
エリカがにっくき犯人グループの居場所を突き止めたのは、マーサーから、容疑者を拘束したから面通ししてほしいと連絡があったから。あの時奪われた指輪が質屋から出てきたのだ。その少年の恋人が持ち込んだものだった。
絶対に犯人に違いない男とマジックミラー越しで面通しして、この中に犯人はいない、と強く言い切ったエリカに、それまでの事件も恐らく彼女がやったんだろうと目星をつけていたマーサーは、やはり予感を感じたのか。

エリカは指輪が持ち込まれた質屋を突き止め、住所を聞き出し、銃を携えて最後の“仕事”へと向かった。そこへマーサーも駆けつけ、最後の一人をブチ殺す時、こともあろうに自分の拳銃を渡したのだ。
でも、このあまりにあまりの決断、結末が良かっただなんて、やっぱり思えない。マーサーは、彼女に自分の拳銃を渡して共犯になり、彼女が罪人として出頭しようとすることを押し留めた。ボクを巻き添えにするな、と。
警察の拳銃を使わせることで、“もみあいになって撃たれ、最後の一人は自分が殺した”という画を作り上げ、そのためにエリカに自分の肩を撃たせることまでする。そして、6人もの人間を銃殺したエリカの罪を、デイビッド一人だけを殺した三人の罪にかぶせた。

そりゃまあ、数の論理だけで物事は図れない。なんたってエリカは世間からちょいと感謝されているくらいなんだもの。
でもそれが、釈然としないのだ。怖いのだ。
それは勿論、作り手も、そして演じたジョディ・フォスターも判ってる。その結末を下したマーサーが判ってるかどうかは微妙だけど。これからエリカは一生苦しんで、悪夢にさいなまれ続けて生きていくのだ。

「今の自分は見知らぬ自分」「今までの私とは違ってしまった」そんな台詞が何度も挿入される。銃を手にしたその時から、それを覚悟していたのだ。むしろ、生き長らえさせられることの方が、辛いと思っているんじゃないかと思う。
犯人たちに捕らえられ続けていた愛犬が、以前と同じように彼女になついてくれるのが、辛いと思っているように感じられる、寂寥感漂うラストが、なんだか不思議と、救われる。★★★☆☆


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