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「せ」


2012年鑑賞作品

セイジ 陸の魚
2011年 108分 日本 カラー
監督:伊勢谷友介 脚本:龜石太夏匡 伊勢谷友介 石田基紀
撮影:板倉陽子 音楽:渋谷慶一郎
出演:西島秀俊 森山未來 裕木奈江 新井浩文 渋川清彦 滝藤賢一 二階堂智 津川雅彦


2012/3/9/金 劇場(シネ・リーブル池袋)
ああ、そうか、そういやあ、私は彼の第一回監督作品を観てないんだ……。結構話題になっていたのに、それこそ若い俳優が監督に挑戦、みたいなことへのトッショリのつまらない反発心がジャマしてしまっていたような(爆)。彼がその最初から映像作家志向なのは知っていたのにね。
今回、俳優としても男性としてもいい年齢の熟し具合になってきた彼が、“第二回監督作品”と聞いて、ふっとそんなことを思った。今回は、彼の俳優人生の中で培われたであろうキャスティング(だけではないだろうけど)も魅力だったし、彼自身から発せられるセンシティブな世界観を見たいと素直に思った。

原作があるんだね。ちょっと、意外な気がした。伊勢谷友介ならば、オリジナルにこだわるタイプかと思った、なあんて、勝手なイメージだろうか。
でも、原作ありきにどれだけ自分のセンスやスタイルで迫れるか、ということなのかもしれない。
バブル期の時代を思い出すスタイル、海辺のドライブインに集まる気のいい仲間たち、ミステリアスな店主とその雇い主の女性。ちょっとベタに描いてしまえば、ほろ苦い青春のドラマとしてもっともっとクサい映画になってしまう恐れもあったかもしれない。
でもちょっと、驚くほどスタイリッシュで、哀感と寂寥感に溢れてて、それを思い出す20年後の“僕”は、そこに置き去りにされた自分をこの20年間常に探していたんじゃないかという、気がした。

“僕”というよりは、“旅人”と呼んだ方がしっくりくる気がする。解説でも、恐らく原作でも“僕”、つまり劇中で彼は名前を明らかにされることはないんだけど(あ、でも内定通知書が映される場面で、名前が出てたかもしれない)、周囲からはとにかく“旅人”と呼ばれているから。
この感じも、ちょっと間違えればトレンディドラマ(という言い方も、この時代から更にさかのぼってしまってハズかしイ感覚だが)風になりそうなもんだけど、そうはならない。さらりと上手いなあ、と思う。

旅人君は、大学四年の夏休みに「自分探しなんてもんじゃない、気楽な一人旅」をしているんである。真夏の真白い日差しの中、自転車であてどなく走る一人旅。
後にくしゃくしゃの内定通知書が示されるように、内定をもらえることにさほどの喜びもない、こんなんでいいのかな、と思えるゼータクきわまりない、バブルの時代、である。
20年後の彼が、心の中に空虚さを抱えながらもそれなりにバリバリ仕事をして、それなりに実績を残してきたであろうあたりを見るにつけても、この時代にしか味わえないことだよなあ、という気がする。

……あのね、私はこのほんの3、4年後、って感じだったのだよ。大学三年の頃かなあ、父親の勤めていた企業が破綻した(爆)。結構それが、皮切りな感じだった。
三つ違いのねーちゃんは、恐らくこの旅人君と同世代。バブル終焉の足音は聞こえていただろうけれど、彼らのような若者には、こんな何となくの熱気がずっと続くんだろうとぼんやり思っていたであろう時代。

私の就職活動の年に、初めて就職氷河期と言われた。それ以降ずっと、超がつく氷河期が続く訳だけれど、私ら以降の年代にとっては、額に汗して、ちっとも実らないシューカツに絶望を抱きながら右往左往しているであろう大学四年の夏に、こんな経験をしているだなんて、結構ケッという感じというか(爆)、うらやましいというか(爆爆)、でも確かにこれが、青春の正しい形だよなとも思い……。
社会に出る前に、強制的に大人に、社会人にならなければならない前に、今までは親がかりで過ごしてきた自分が、こんな風に、人生の、社会の、やりきれなさを垣間見られる時間が、確かに、必要だと思う。
バブルという時代が残した何か大事なことがあるとすれば、それはこんな、意外にホントに大事なことだったかも、しれない。

なんか漠然としたことばかり言ってワケ判らんけど(爆)。そう、つまり、旅人君は、自転車の一人旅の途中に、足止めをくらうのね。テキトーに走ってた軽トラにバーン!とやられちゃう。
その軽トラの運転手は、もう、思いっきり判りやすくコワモテな新井浩文。ご丁寧に、しっかりリーゼントまでキメている。いくら20年前でもリーゼントはなかろうと思うが(爆)。
そのいでたちにすっかり怯えた旅人君は、警察なんていいですから、とすっかり飲み込まれ、彼、カズオに拉致同然につれてかれる。そこが、ドライブイン、house475。

もう開店時間過ぎてんだろと、カズオがチンピラよろしく何度もドアを叩いて、ようやく二階から顔を出したのがこの店のオーナー、翔子(裕木奈江)。献身的に旅人君のケガの手当てをしてくれて、なし崩し的に彼はこの店の手伝いをするようになる。
実は旅人君はこの時間軸の前に、この店の雇われ店長であるセイジと夜の街道で行き合っていて……向こうは気づかなかったし、旅人君があれがセイジだと判っていたのかどうか、この劇中の展開ではなんとなく微妙なんだけど。
道に飛び出して轢かれてしまったと思しきイノシシの死体を、セイジが軽トラに乗せて走り去っていくのを、旅人君は見ていたのね。

旅人君はあっという間に店の常連さんたちにも巻き込まれ、なんだか楽しくて、ここにいつくようになる。
メッチャ寡黙で近づきがたい雰囲気のセイジも、「(なんだか楽しかった)それはいいことだ」と静かな笑みを見せてくれた。
……という、ここまでのシークエンスが、後にもう一度繰り返されるのね。それもちょっと、唐突な感じに。

最初、時間軸が戻された時には、ちょっとの間、それに気づかなかった。それはかなり、ストイックな感じに思った。
旅人君の歓迎パーティーよろしく盛り上がった常連さんたちとの盛り上がり、旅人君に陽気に酒を促しながら、いきなり後ろ向きに倒れる翔子さん、彼女をおぶって送っていくのを見送る旅人君、ぽとりと落とされた華奢なサンダル……。

ぐーたらと店にい続けるカズオがやっと帰ろうと腰を上げた時、上着を忘れていると追いかけた旅人君、いきなり店の中ががらんどうになった。
セイジがこの店に訪れた時、それを迎えた、絶望のさなかにいた翔子さん、すべてが、まるで映画のように旅人君の目の前で展開された。
それはあくまで、常連客さんたちに聞いた話に過ぎなかった筈なのに。

旅人君が見た、セイジがイノシシの死体を丁寧に抱き上げてトラックに乗せていたあの夜、いつものように、元ダンナと姑に取り上げられた子供を思って酒を飲んでいた翔子さん。
血だらけのセイジに欲情した訳でもないだろうけれど、なんたってセイジは、ていうか、西島秀俊は、やたらイイ身体なもんだから、問答無用に押し倒しちゃう。
しかしセイジは涼しい顔、どころか冷たい無表情のまま、彼女の酒が過ぎるのをたしなめるだけ。
当り散らす翔子さん。でもそのまま二人が朝を迎えたのだとしたら、やはり……だろうなあ。

で、旅人君がカズオにはねられて、この店に連れてこられ、ガンガンドアを叩いて二階から顔を出した翔子さん。そばには、裸のままのセイジがすやすやと眠っていた、のだね。
そして歓迎パーティー、この日も夜の徘徊のようにトラックを走らせていたセイジが、酔いつぶれた翔子さんをおぶって往生していた常連客と行き会う。

そう、なんでだか、西島秀俊、やたらイイ身体なの。なんで?っていや、別にいいんだけどさ(爆)。
でも何となく……彼って凄く内省的なイメージだし、こんな腹筋もワレワレのイイ身体のイメージ、ないじゃない。このギャップはちょっと、ヤバいよね。いや、コーフンしてるわけじゃ……あるけど(爆)。
でもこの役柄だと、なんで?ともやっぱり、思うかなあ。ちょっと、怖い気がする。それがムダに間違った推測をさせてしまうことになってしまった気がする、って、人のせいにしてるけど。

いや、ね。本作では、とても重要なファクターがあるのよ。無差別連続殺人犯が、各地を転々としてて、どうやらこの土地のすぐ近くまで迫っていると、地元新聞を読んでカズオがこえーなー、と言ってる。
旅人君に対して、お前がそうじゃねーの、とかジャブをかましたりする。……こんな場面があったらさあ、伏線だと思うじゃん。過去も何も判らないセイジが、この連続殺人犯だとばかり、私は思ってた。

余計な言葉は一切発しない、店主と言いながら店に出る場面が全然ない、普段何やってんだか判らないセイジ=西島秀俊に、その無意味にイイ身体に、無意味じゃなく、殺人犯としての身体なのかとか思って、怯えていた。
……正直、この連続殺人犯、それも、無差別連続殺人犯の展開というのは、その犯人が実際にこの町を襲う段になってもフードで顔を隠したっきりで、新聞で容疑者の遺体が発見されたという記事が載って幕引きというのもあってさ。
正体も、犯行動機も全く判らないままという不気味さがあって、全てが終わって、セイジがそうじゃないと判ってても、何か……引きずっちゃうんだよね。私、だけかなあ?

実際はセイジは、そのミステリアスは、少年時代に親殺しの罪を犯していた、のだった。多くは語らなかったけど、恐らくヒドい親、愛する妹を守るために手を汚したのであろうことが推測された。
セイジが大切にしていた幼い妹の8ミリフィルム、「自分が少年院に入っている間に死んでしまった」というから、親に虐待されて死んでしまった訳ではないのかもしれないけど、恐らくそれが原因だったんであろうかと思われる……。

無差別殺人犯に突然押し入られ、両親を殺された幼いりつ子ちゃんは、自らの左腕もそいつに斬り落とされた。
彼女の祖父で目の不自由なゲン爺さんが店の常連で、普段は寡黙なセイジもりつ子ちゃんには笑顔を見せて、じゃれあって、とても仲良しだった。

事件以来、りつ子ちゃんは、左腕のみならず魂まで失われてしまった。ただただ、ぼんやりと布団の中に収まるばかりだった。
心配した常連客たちが着ぐるみ姿になって、しかしどうすることも出来ず彼女の枕もとで座り込んでいる様はなんとも可笑しく、いや、可笑しい状況じゃないんだけど、ふと可笑しくて笑ってしまう。
だってセイジが来てくれないんだもの。一番りつ子ちゃんが心を開いていたりつ子ちゃんが。

ゲン爺さんに扮する津川雅彦も相当の豪華キャスト。なんか彼、だんだん、お兄さんに似てきた気がする……。
基本、お兄さんに比べてくっきり美形の色男、だったじゃん。年をとってもそれなりにそうだったじゃん。だけど長門氏が亡くなってから、まるで彼の後を継ぐかのように、味わいのおじいちゃんの雰囲気をかもし出すようになった気がしてさ……。

いつもいつも孫娘に手を引かれて、小さな祠に手を合わせていた日々。でも神様はそんな自分たちをこんなひどい目に合わせた。
心を失った孫娘を哀しんで、祠に斧を何度も振り下ろすゲン爺さんが痛々しく、そしてこの斧は後に、更に壮絶な事態を引き起こすんである。

いくつか、印象的なエピソードがある。動物愛護団体が訪ねてくるシーン。宮川一郎太と奥貫薫はいかにもなわざとらしい笑みを貼り付けて、セイジや旅人君ならずともうさんくさく思う感じ満点だけれど、この問題はなかなか難しい、んだよね。
農作物を荒らすイノシシたちを駆除することに反対する彼らは、署名を集めるために町民たちを訪ねて回っているんだけれど、その、「人間のエゴのために殺される動物たちが可哀想」という、それこそエゴたっぷりの正義感は、今、鯨漁師さんたちが悩まされているシーシェパードの問題などを思い起こさせたりもしてね。

彼らに、増えすぎた人間こそが害なのだと、あんたの香水も、俺が転がす車もそうなんだと、本当にこの事態を救いたいんなら、あんたが首をくくれと、まー、キビしいことをビシッと言うセイジにふと溜飲が下がりもする。
けれど……そう、セイジ自身も、そして原作も、監督自身も判ってるんだよね。「彼女が間違ってる訳じゃない」と。
人間のために死んでしまったイノシシを黙って回収して、イノシシ鍋にして供したセイジは、彼が出来る動物たちに対する最上の敬いを示したけれど、結局それぐらいしか、出来ない、のか……。

常連客の中に、東京の支店長に抜擢されたと、この地を離れる男がいる。演じるのは大好きな渋川清彦。
地元でバンドのベースをやっていて、お前は音楽より出世を望むのかと、ジョーク半分本音半分でメンバーに揶揄される。このあたりも、なんとなくバブルの雰囲気を感じさせる。
実際に本作の音楽を担当しているバンドメンバーに混じってベースパフォーマンスを見せる渋川氏は相当にステキで、改めてホレなおしちゃう(照)。

東京の支店長、出世街道への限りない欲望、送り出すハデなパーティー、旅人君が気乗りしていない内定通知書と、バブル真っ只中な気分を出しながらも、このほんの数年後にはあっという間になだれのように崩れ去ることを思うと、それが判っている後の世代だからこそ、何か、もう、本当に、なんとも言えない。
実家の酒屋をつぐのかどうなのかテキトーなままのカズオが「自分だけが置いてかれた」と、マジ惚れしていたホステスにフラれた時、ふとそんな気持ちに直面するのはなんとも愛しいが、でも、地元に残って、実家を継ぐ彼の方が実はずっとずっと現実的だというのが、後の私たちには判るからさ……何かさ……。

大分脱線したけど。大事なエピソードに戻ると……。ずっとりつ子ちゃんを避け続けていたセイジ、しかし旅人君もこのままじゃいけないと思って、というのも、セイジの過去を、妹のために親を殺した過去を聞いてしまったせいだとも思うけれど、なかば騙しうちのような状態で、セイジをりつ子ちゃんの元に連れて行く。
セイジを見てもぼんやりとした表情を変えないりつ子ちゃんに、ゲン爺さんがまき割りに使っていた斧を持ち出して、何食わぬ顔で部屋に入っていく。
奇妙に思いながらも、誰もが、そんなこと、思いもしなかった。笑顔でセイジが斧を振り下ろした先は、自分の左腕!

その後はまるで、夢のようなスローモーション、りつ子ちゃんの顔に飛び散る血さえも、スローモーション。
左手首から血を滴らせながら、りつ子ちゃんに笑顔を見せるセイジ、泡くって彼を抱きとめる友人たち、手を拾う友人……。

そのカットのすぐ後、旅人君がりつ子ちゃんの部屋を覗き込み、慌てたように彼女に駆け寄るシーンが、りつ子ちゃん側のカメラでとらえられていたのが、一体何があったのか気になったのだけど……このシーンの謎解きは、なかったよねえ?

子供を奪い取られた翔子さん、妹のために親を殺したのに妹を失ったセイジ、共々、この時代の、バブルなんてことからは全く無縁で、時間が止まってしまったようで。
でも何かその、それが許されてしまう、それでも生きていけてしまう、ある種の、なんて言うべきなのかなあ、望んでもいない豊かな感じの空しさが、あるというか。
翔子さんがセイジを評して言う、「あの人は陸の魚なの」という言い方、特に詳細に解説することもなかったのもストイックだったけど……。陸では息が出来ない魚。生きているのに死んでいるようなことを、自ら望んで陸に上がっている魚、何か、そんな、人間が勝手に作り上げた空しくも美しく哀しい詩情を、感じた。

20年後にこの地を訪ねる旅人君に、この20年間、何がしかの空しさがあったとするならば、そういう部分にあったのかもしれない。
左手の薬指に指輪が光り、奥さんとの会話も豊かな経済状態を思わせる旅人君は、バブル後の厳しい経済社会を乗り切った成功者、なのだろう。でも……。
彼が「気になっている企画」だとして訪ねる先がこの20年前の思い出の地だったのか、そこで出会う、りつ子ちゃんの20年後が、企画書の送り主だったのか、正直、見てる感じではピンと来なかったけど。

店は廃屋となり、翔子さんもセイジの姿もなくて、麦藁帽子をかぶったりつ子ちゃんだけが笑顔で出てくるラストシーン。
この20年は幸福だったんだね、と旅人君が語りかけるラストシーンは、何だろう……りつ子ちゃんは、この店を、皆が去ってしまったこの店を、どうにかするつもりで、企画を送ったのかな。ちょっとそのあたりの詳細があいまいであるウラミはあるかなあ。

翔子さんとセイジのその後が描かれないのは、ストイックだけど、ちょっと見たかった気がする。
旅人を演じる森山未來君の20年後は違う役者に託されているけれど、裕木奈江と西島秀俊なら、そのまま出来た気もするから……。
でもそれこそ、バブル期の残した夢のような現実、だからかな。二人はきっと、この日、この場所にしかいない大人たちだったんだよね、きっと。 ★★★☆☆


青春の蹉跌
1974年 85分 日本 カラー
監督:神代辰巳 脚本:長谷川和彦
撮影:姫田真佐久 音楽:井上尭之
出演:萩原健一 桃井かおり 檀ふみ 河原崎建三 赤座美代子 荒木道子 高橋昌也 上月左知子 森本レオ 泉晶子 くま由真 中島葵 渥美國泰 北浦昭義 山口哲也 加藤和夫 下川辰平 久米明 歌川千恵 中島久之 芹明香 堀川直義 守田比呂也

2012/1/11/水 劇場(銀座シネパトス/萩原健一特集)
神代監督はなかなか観る機会がなくて、とかく玄人筋に人気の高い監督さんだから臆する向きもあったんだけど、今回はショーケン映画祭ということで神代作品だということも知らずにノンキに足を運んだんであった。そもそもショーケンの映画もあまり観たことなかったなあ。
玄人筋が苦手な私でも、本作が傑作と呼ばれるのは判る気がした。というか、まだ10代の頃に「太陽がいっぱい」を観た時の衝撃を思い出したりもした。
別に全然内容違うけど(爆)。あ、船乗ったりするのは……でも全然違うけど(爆爆)。でも野心から破滅にいく若さの恐ろしさというのは共通するかなあ。

そもそも蹉跌って意味が判らなくて(爆)。思わず調べてしまった。挫折、失敗、なるほどなあ。でも青春の挫折、や青春の失敗、じゃやっぱり傑作の匂いはしないよな。
青春の蹉跌。原作は石川達三。いくつもの傑作映画の原作者として名前を覚えている人。小説自体は読んだことないけど(爆)。
あの時代にしか書けない、感じられない、熱みたいなものを感じる。青春って、一方で普遍的なものであるとも思うけど、その時代にしかない青春もやっぱりあるなあと思うのは、良きにつけ悪きにつけ、学生運動というファクターがあり、野心を叶えるだけの経済社会の隆盛があった時代と今とでは、青年のあり方はやっぱり違うかもなあ、と思うから。

で、で。ショーケンである。私あんまり彼を知らなくて(爆)。なんか最近じゃあ、あんまりいいイメージないじゃない?(汗)。
でもさすが、こうして特集を組まれ、語り継がれ、いまだに人気のあるスターなんだなあ、と思った。
やけに人懐っこい笑顔と、対照的にたくましい体躯とワルい雰囲気。このギャップにどんだけ当時の、いや今でも女子がヤラれているのだろうか。
いやむしろ、彼は同性に人気があるのかもしれない。相当モテそうなのに、どちらかというと男の友情を大切にしそうで(というのは、今回の二本立てどちらでもそんなキャラだったからかなあ)、不器用で、みたいなさ。確かに不世出のスターだったに違いない。

彼、賢一郎は大学でフットボールをしてるのね。男友達との挨拶も、フットボールで身体をぶつけあう様である。それも女の話をしながら、男同士、右に左に肩をぶつけあう。
男同士の熱い友情は、時にセクシャルなそれにも感じてドキドキする。ことに今回の二本目の田中邦衛とのそれはヤバかったからなあ……て、それはまた別の話で。

フットボールしてるし、ガタイもいいし、色男だし、あんまり頭良さそうには見えないのに(ゴメン!)彼は司法試験を目指しているという。
しかも後に一発合格する。しかし彼は法学部、なの?援助を受けてる伯父から「合格しても、シガクブじゃどうにもならんぞ」という台詞があったと思うんだけど……シガクブ、は史学部?私の聞き間違いかしらん。まあ、いいか。

司法試験ってのは、わっかりやすい成功への道、だよね。賢一郎が学生運動をやっていたのは高校生の時だったんだろうか。
彼を育てたんだと言ってはばからない、こちらもおじさんと呼ばれる森本レオ扮する精二郎は、三回の司法試験に落ちていて、ついに賢一郎に抜かれてしまい、妻子と共に田舎に帰る。

彼がいまだ情熱を傾けている学生運動は(もはや彼は学生ではなかろうから……何か空しいが)、これぞ時代、だよなあ。
田中角栄の政権に対する批判のデモとか、生々しい映像が挿入されて、だからこそこういうの、今の時代には作れないよなあ、と思う。
作れないのが幸せなのか不幸なのか。少なくとも反・韓流デモの方が空しいよなあ、なんて(爆)。

まあそれはおいといて。後の時代を考えれば、賢一郎が学生運動から脱却したのは確かに賢かったのかもしれない。他の要素でちっとも賢くなかったけど。
彼の友人で、学生運動のリーダーの元恋人にホレてしまった青年のエピソードもまた興味深いんだよね。結局そのリーダーは獄中から出てこないし、その友人は仲間内の混乱で襲撃にあって重傷を負ったりもするんだけど。
それでも、彼女とそのリーダーとの間の赤ちゃんと共に、参ったヨという顔をしながら幸せそうにしているのを見ると、そこんところで、賢一郎は失敗してしまった、というところなんだろうか。

そう、子供。赤ちゃん。未来への希望の筈の。賢一郎が家庭教師のバイトをしていた教え子にウッカリ種つけちゃった赤ちゃん。
赤ちゃんに関しては、くだんのおじさん、精二郎のところにも幼い二人の子供がいる。
精二郎は子供に全く目線も向けずに熱く活動を語っていたけれど、最終的には父親らしく子供を抱き上げて、田舎への列車に乗り込んだ。
賢一郎はその一部始終を見ていたのに。なのに。

その教え子ってのが、桃井かおりで。桃井かおりは若い頃は更に桃井かおりなのね。あの特徴的な声と喋り方も、この頃の方が強烈に響く。
いやでも、作品のせいかな。この日、二本目にも彼女は出ていたけど、ほとんど同じ時期の製作なのに、一方は高校生から短大生、一方はおミズなベテラン女、という、全く違うキャラで、本作の桃井かおりはその舌ったらずが、すんごいねっとりとからみついたなあ。

登場シーンからドキドキさせる。まあ桃井かおりだから最終的には脱いでくれるだろうとは思いつつも、むっちりとした身体にブラジャーを食い込ませてセンセーを待っている様子はヤバすぎるんである。
「しようって、……そうか、勉強か」とつぶやき、素肌にセーターをかぶる、ぼってりと重い黒髪が時代を感じさせつつも蠱惑的な桃井かおりは、主人公のショーケンをしのぐ強烈な存在感を発揮し続けるんである。

そんな具合だから、彼女はセンセーを好きだった、のだろうけれど、何か、ここで経験しときたい、という思いを感じなくもない。
無事合格した彼女、登美子は、仲間と一緒だからとウソついて、賢一郎をスキーに誘い出す。
滑れないのか、用具を持ってきてないからか、賢一郎を背負って滑る登美子。誰もいないゲレンデ自体、非現実的だということに気づくのは、こうして書いている今かも(爆)。

こんなムチャなスタイルだから、やたら転んで、雪山を二人して転げる。これもまた、壮絶なクライマックスにつながっていく。
しかしこの時点ではラブラブである。彼はふと何かに気づいて、斜面を歩いていく。ぽっかりとあいた洞穴のようなところに、雪に大切に包まれるように、男女が眠るように、死んでいた。

「女がスキーを流されたんだな。女を置いていけば、助かっただろうに。いい気なもんだぜ」

聞き間違ったのかと、思った。いい気なもんだぜ、なんて。確認できるはずもないと思ったら、ご丁寧にもこのシーンは気まぐれみたいに繰り返された。
それは、登美子との心中まがいのクライマックスに寄せているのは当然だろうけれど、野心にまかせて、まあキライでもない、それなりに魅力的な相手だからと、伯父さんの娘と婚約した自分に対する揶揄だろうとも思う。
けれども……最初にこのシーンが来た時には、やや遠めに、男女が、男性の方が女性を背中から抱くようにしている様が何か、こう言ったらなんだけど……幸せそうだったから。
雪の中で、しんとしてて、状況をつかむのに一瞬間があって、なんかうろたえちゃったから、だから……。

この日の夜、賢一郎と登美子は当然のように宿で関係を持つ。あの場面を見た後の二人と思うとなんとも言えない虚無感があるし、最終的なオチ(と言うのもアレだけれども)を考えると、更に胸苦しい気持ちになる。
桃井かおりの若い女の子特有のむっちりした身体が生命力タップリで、その身体に赤ちゃんを宿し、慈しみ、けれど共々死んでしまうことを思うと、たまらない、なんて単純な言葉も使いたくない。

かおりさんを見ていると、やあっぱり女優は躊躇なく脱がなきゃねと思うが、彼女と対照的な存在として出てくる、ザ・お嬢様の康子(あの、援助を受けてる伯父さんの娘ね)を演じる壇ふみを見ると、一方で決して脱がない女優もいるからこそ成立するのかもしれない、とも思う。
このお嬢様役に壇ふみはまさにピッタリである。「泳げないの」とか言いながら、船から見事にダイブして「いらっしゃいよ」と誘い、「今まで何があってもいいの。これからは私一人にしてくれない」なんてタフさがあるあたりも小憎らしい。

あ、そうそう、彼女がヒッピー?に絡まれるシーンがすんごい強烈な印象なんだよなあ。ていうか、「お金くれない。100円でええねん」と誰彼かまわず絡んでくる女(ラリってるんだろうな)がいるんだけど、コイツが康子のツレの男にやたらしつこく、もう足に腕回して、地面這いずり回って、まるで貞子みたいに離れないのが恐ろしくてさあ。

このシーンはまさに……長回しだろうな。長回し苦手なんだけど、長回しだったかもしれない、と後で気づいたぐらい、ひどく緊迫してて、この女が気持ち悪くて、トラウマになりそうな場面だった。
本作の展開事態にはそれほど関係ないのかもしれないけど、なんか頭から離れなくて。
あ、でも康子がこの時のツレにプロポーズされていたと言ったこと、お互いツレがいたこのシークエンスで、お互いのツレをブッチして逃げ出したことを考えると、確かにキーポイントになる場面だったのかもしれない。
それにしてもあの「100円でええねん。くれるって、言ったやんか」の恨めしいトーンの連呼は、思い出すだに怖すぎる……。

登美子は妊娠していた。賢一郎は堕ろしてこいとにべもなく言い渡すけれど、登美子は口ではそうしたとか言いながら、出来ずにいる。
いや、そもそも堕ろす気はなかったんじゃないかな。経験がないから判んないけど……お腹の中に赤ちゃんを宿したら、どんなに事情が許さなくても女は本能的に殺すことなど出来ないと思う。と、思いたい。
産む前に殺してしまうんではなく、産んだ後のそれの方が罪になってしまう……そんな本能がなかったら、そんな“罪”は生まれないかもしれないのに。

おっと、脱線してしまった。とにかく、もう堕胎するには遅いところまで来てしまうのね。それでも賢一郎は彼女を病院に連れて行く。
冷たい男、とも思うけど、彼はその冷たさ、冷酷さに一貫性を保つことが出来なくて、堕ろさずにいた彼女を突き放すことも出来ないし、それどころか愛しげに愛撫をしてしまう。
傍目には、人目もはばからずイチャイチャするワカモン、ぐらいなラブラブぶりで。

ずるい、いや違う、彼はまだまだ未熟で、野心があるとか言いながらも、その野心を遂行するための本当の心構えなんて出来てなくて。
確かに、登美子と久しぶりに会ってセックスした日、彼女に別れを告げる気だった。ていうか、別れを告げた。婚約したから、もう会えないと。
子供を堕ろせと言った時、すぐに結婚なんて出来ないから、と説き伏せた彼、あまりな言い分だと思った。でも登美子はまるで予期していたかのように、ふーん、そうなんだ、という雰囲気。
実は子供を堕ろしてないことだって、そもそも言う気じゃなかったのかもしれない。たわむれに賢一郎が彼女の腹を蹴ろうとして、「やめて、死んじゃう!」と思わず叫んでしまったことから、発覚したんだもの。

賢一郎はどういうつもりで、登美子をあのゲレンデに連れ出したんだろう。雪原を行く列車とバスは、最初に彼らが行った時より、はるかに寒々しく見えた。
彼が何のつもりか判らず、いやどこかで感じながら登美子はついていく、ように見えた。一方で、賢一郎自身にはどうする気持ちも自身で判ってないように見えた。
ただ、あのトラウマのようにフラッシュバックされる洞穴の中の男女の凍死体。静寂の中、詩のように美しくかったあの画。多分、きっと、確実に、賢一郎はあの画が浮かんでいたに違いない。

でも、実際登美子から一緒に死のうと言われると、怖気づく。おあつらえ向きの、滝がごうごうと落ちるところまで彼女をいざなってきたくせに。そして彼女もそんな彼の気持ちを汲んでくれたんじゃないの?
そんな気持ちがまだまだ固まらない時点で、二人がこんな凍るような寒さの雪原の中、裸身になって求め合うシーンがあるんだけど……まさにそれが彼に足をつけてしまうんだけど、

二人が滝に向って雪原の斜面をゴロゴロゴロゴロ転がり落ちる場面、本当に怖かった。本当にそのまま、滝に落ちてしまうのかと思った。その方が、幸せな気がした。
結局賢一郎が、最終的には死んでしまうんなら。いやあのオチは、刑事が彼を確保しにフットボールの試合会場に現われた場面、やけくそに駆け回ってタックルの下でゴキリと音を立てて白目をむいた賢一郎でカットアウトは、死んだ、ってことなのならそうだけれど。
でもそれも、あんまりな、気がする。しかも、彼が残した体液(精子、だよな……)と彼女のお腹の中で死んでしまった赤ちゃんとは、組み合わせが一致しない!うそぉ、ショック……。いや確かに女はしたたかなモンだけど……。

ちょっと、せいてしまった。ゴロゴロ転がりながら、一緒に死のうとか言いながら、なんかやりあっちゃって、賢一郎は登美子を絞め殺してしまって、雪原の中にテキトーに埋めて(これが意図的だったようにも……思えなくもない)何食わぬ体で戻ってくる。
伯父さんの娘との盛大な婚約パーティー。この伯父さんは相当尊大で、司法試験なんてハナにもかけてなくて、オレの会社を継がせてやるんだから、みたいな態度でさ、ほんっとハラ立つし、なるほど、精二郎が毛嫌いするのも判るヤツなんだよね。

賢一郎は学生運動の純粋なる正義と、経済成長期の中でなし得る事が出来るかもしれない成功への野心との間で、自分ではクールに道を選んだように思っていながら、実は信念がないからさ、こんなことになってしまった、のだろうなあ。
それを揺り動かすのが女、あるいは子供を孕んだ女、というのはあんまり好きな構図じゃない、けれども……。

だから今は、こういう世界にリアルを持たせられないし、リアルを持たせられる女優もいないし、だからこういう映画を作れないのかもしれない。
それはかつてよりも女の立場を良くしているのかもしれない、幸せになれる可能性があるのかもしれない。
けれども、時代が穏やかに幸せになることが、映画、ひいては芸術を生ぬるくさせるということなのかもしれないなあ、と思うと、人間が繰り返し、不幸の輪廻に飛び込んでしまうのは、それこそ本能なのかも、などと、なんかやけにとんでもねー締めくくりになってしまった。

いや、これを締めくくりにするのは、ヤだな。きっと賢一郎の造形は、懐古、いや理想主義的、かもしれない。
あの時、あの時代、彼が立ち回った方法は確かに正解だったかもしれない。たったひとつの、それも重大な誤算があったにしても。
でもそれも、タイトルのひとつである青春として考えれば当然の帰結で、だからこそ、“青春の蹉跌”なのだろう。“人生の蹉跌”ではなく。

学生運動の正義に身を捧げて、その正義を貫く手段として司法試験に挑戦し続けたのに、結局負けてしまう精二郎。賢一郎と同じく司法試験に一発合格しつつ、コブ付き女への純粋な恋心にこそに人生を捧げて瀕死の重傷さえ負ってしまう友人。
一見負け犬に見えた彼らが、最終的には今後の世の中をしぶとく、いやしぶとくなんて本人たちは思うこともなく、それなりに幸せに生きていくであろうことが、この映画の時代から40年近くたった今なら判るからさ……。★★★★☆


先生を流産させる会
2011年 62分 日本 カラー
監督:内藤瑛亮 脚本:内藤瑛亮
撮影:穴原浩祐 音楽:有田尚史
出演:宮田亜紀 小林香織 高良弥夢 竹森菜々瀬 相場涼乃 室賀砂和希 大沼百合子

2012/6/16/土 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
この作品を傑作と言ってしまうのは、さすがにめちゃめちゃ抵抗があるんだけど、でも言ってしまわずにはいられない。このまがまがしさ、恐るべき純度の高い残酷さ。純度の高い残酷は、そのまま純粋と言い換えられてしまう恐ろしさ。見てる間、恐ろしくて息の仕方を忘れてしまったかのように、苦しかった。なんという、なんという!

そりゃさ、昨今、いくらだって残酷映画はあるさ。その残酷度で争っているような部分はある。でも、本当に、心の底の底が震えるほどに残酷だと思うこんな映画、ここ最近、あまり記憶がない。どんなにビジュアル的に残酷でも、彼らの心根のどこかに逃げ道があって、救いがあって、観客はホッとするのだ。
そういう意味で昨今の映画はやはり、どこか、勇気がなかった気がする。ビジュアルでいくらでも残酷に出来るから、そこにカタルシスを感じて落ち着いてしまっていた気がする。こんなまがまがしさを感じる映画、一体、いつ以来だろう。

そのまがまがしさを、映画的エンタテインメントと言い換えてしまうことこそにさすがに抵抗があるんだけど、ここまでその完成度が高いと、やはりそうとしか言い様がないんである。
本作の元になる事件が実際にあったと後に知って、そりゃまあ現代事情ならありそうだとも思うけど、でもちょっと意外な気もした。それぐらい、確かに今の子ならやりそうと思いつつ、そんな“映画的エンタテインメント”の完成度が、フィクションとしての魅力が(それがどんなに生々しく、リアリティがあっても、それとは別にね)あったから。

でも実際の事件では男の子たちだと知り、更に意外さと、本作の完成度の高さを確信する。男の子が先生の妊娠に嫌悪するっていうの、私が女だからかもしれないけど、あんまりピンとこないのよ。
中学一年生の男の子がそこまで生々しいこと考えるのかと。考えるのかもしれない、もう私にとっては中一の男の子なんてカワイイばかりだから、全然ピンとこないだけで。

でもこれを女の子に置き換えると、一気に近寄ってくる。その気持ち、判る……かもしれない……と。いや、実際は、中学生の頃の私は彼女たちほどセンシティブではなく、妊娠からそこまで想像してしまうようなある種のクレバーさは持ち合わせてなくてぼーっとしたままの子供だったからアレだけど。
ただ、セックスとはなんぞや、それこそ、子供がどうやって出来るのかということを初めて知った時のショックは鮮明に覚えてて……それは即座に両親のその画を思い浮かべたからなんだけど(爆)、そこから先にはいかなかったなあ。

でも、だから、判る、かもしれない、と、思うんである。判るかもしれない、と思うから、恐ろしくて息が出来なくなる。
でも、信じたくないのよ、思いたくないのよ。基本、中学生の女の子なんて、カワイイばかりでさ、ちょっと前に姪っ子のバレーの試合を見に行ったりしてさ、そのピチピチの中学生の女の子たちの純粋な可愛さ美しさいい匂い(爆)、もう、ヤラれまくった訳よ、私(爆爆)。

だから、こんなまがまがしさを彼女たちが内に隠し持っているなんて、信じたくない、信じられない、だけど、自分の中学生の頃を思えば、その無垢という名の無知さゆえに、剣呑な妄想を無限にためこんでいた。
忘れていたけど……なんで忘れていたんだろうと思うほど、あの頃は真剣だったのに。行動に移す勇気はなくとも、その思いは、大人になった自分では考えられないほどそれこそ純度が高く、何の介入も許さないことだった。

そう、行動に移す勇気はなくとも、なんである。それを行動に移す移さないは、実は紙一重なのかもしれない、と思う。
妊娠した先生に対する「キモイ」という気持ち。それが実は、同じ女である自分たちに跳ね返ってくることだと無意識に思っているから、なんだけど、本人たちがそんなことを自覚している訳もないし、そう言われたって認める訳もない。
いや、でもそれも違うかな。同属嫌悪を感じていたのはリーダーであるミヅキだけだったかもしれない。
他の女の子たちは風貌からしてもまだまだ子供っぽかった。ミヅキだけが、顔立ちも整って大人びていて、劇中、水泳の授業のシーンで生理になってしまって立ち尽くす場面まで用意されていて、息をのんだ。
はっきりと示されはしなかったけど、初潮だったんじゃないかと思う。嫌悪していた大人の女になってしまった瞬間。

なんか、支離滅裂なまま進んでるな、どうしよう(爆)。まあいいや、もうこのまま(爆爆)。
女子中学生を演じている彼女たち、本当に怖くてドキドキする。先生を流産させることも、その前段階でウサギの赤ちゃんを投げ殺したりするのもアハハハ、と笑顔なんだもの。
いや、それこそミヅキだけが、笑顔じゃなかった。他の女の子たちは、やっぱり事態を判ってない、罪の意識の希薄さなんていう難しい定義より、本能としての嫌悪に素直に従って、純粋に楽しんでいる、そんな、恐ろしさ。
でもミヅキだけは、ウサギの赤ちゃんを投げ殺した時も、虫がわいてるスズメの死骸をつつく時も、ただ無言で、仏頂面のまま。仏頂面、っていうとまだ感覚がある気がする。能面のような顔のまま。

ミヅキだけが、家庭環境が見えない。他の四人の女の子たちは、ザ・モンスターペアレントな母親を持つ子を含め、サワコ先生が“問題を起こした”となると即座に母親たちが集結してくる。
「この子は優しい子なのよ!」と、子供を育てた経験がないということだけを糾弾のネタにしてサワコ先生を鬼のように責める。それほど我が子を判っているのかアヤしいモンスターペアレント。
でも確かに優しい子なのだろう。それがくるりとひるがえるだけの自覚のなさが、未熟さが、怖いのだ。

実際、このモンスターペアレントな母親は、怖い。実際に我が子が、ミヅキに“そそのかされた”(だけではないけど……)にしても、先生を流産させようとしたと判っても「そんなことはどうでもいいけど、私の子を巻き込まないで!」と凄い台詞を吐くんだもの。
怖い!怖い!怖い!!!つまりサワコ先生には、そしてミヅキにも、味方など誰もいないのだ。そう、ミヅキにも……。

最終的に、ミヅキ以外の女の子たちは、怖気づいたり、イケメン先生の手伝いに流れたり、何より目的意識をはっきりと見出せなくなって離れていくんだけど、ミヅキだけが執念と言えるほどの意志を持って、“一人先生を流産させる会”を継続していく。
そして、まさかまさか、本当にサワコ先生を流産させてしまうほど強烈な嫌悪感、憎悪を保ち続けたミヅキと他の女の子たちははっきりと違うんだよね。それがね、上手いなあと思って……。
だってさ、これって、設定的には逃げ、じゃん。彼女にはそんな、ヒネくれるだけの家庭環境があった、カワイソウな子なんだ、みたいなさ。

最後までミヅキは自分の罪の意識が希薄で、というかドンカンな感じで、ぼーっとしたまま児童相談所に入れられているのがまた怖いんだけど……。
児童相談所に入れられたってさ、もともと彼女にはちっとも親の影がなかったんだから、環境が変わった訳でもなく、ミヅキが更生してゆくネタが見つからないのが、怖いんだけど……。

でも、そんな“逃げ”がありながらも、見ている時にはそんなこと思わないの。ただただ、常識や良識など通用しない、まっすぐな嫌悪感、憎悪、ある種の使命感をまがまがしく、ひたすらまがまがしく感じる恐ろしさだけなのだ。
彼女たちはいまどきのオシャレ女子なんかじゃないの。確かにミヅキはハッとするほどの美少女だけど、彼女も含めて、今の子風にメイクをするとかネイルをするとかなんてこともなく、スカートの丈も標準で、髪も真っ黒で重たくて、ちょっと野暮ったいぐらいの女の子たちなの。

なのに、万引きだの幼い子にカートをぶつけようとしたりだの、ビックリするほど悪事をアッサリと、しかも実に楽しそうにやるのだ。
その前半の、印象付けのいくつかのエピソードシーンでもうこちらを縮こまらせてしまった。ああ、この子たちには何を言ってもムダかもしれない、と。

こんなこと言うと本当に、語弊があるというか、誤解を招きそうだけど、そんな、1ミリも躊躇のないまがまがしさが、彼女たちを美しく、魅力的に見せている、見せてしまっている。ああ、こんなこと、言ってしまっていいの。

彼女たちがね、サワコ先生を流産させることで結束する言葉、「キモイ」という言葉。それを先導したミヅキは普通?に「キモチワルイ」と言ったような気もするんだけど、それを受けた子は「確かに、キモイね」と言った。
ミヅキはセックスに対してそう言って、勿論他の女の子たちもそれゆえに同調したけれど、ミヅキの家庭環境を考えると、自分の理解の範疇を超える、生まれ来る生き物、あるいは死にゆくものも含め……のような気がする。

そんな風に言ってしまうのは、それこそ判りやすい着地点に収めてしまって、このまがまがしさの魅力を押し込めてしまうことだというのは判っているんだけれど。
でもそんな具合に上手いんだよね。きちんとキャラクター、構成としての“逃げ”が作ってあって、でも、そんなことは関係なく、この少女たちの、理不尽な残酷さこそが、困ったことに、映画的魅力に満ち満ちているのだ。

で、ちょっと脱線したけど……キモイという言葉。セックスや妊娠に対してこの年頃の女の子たちが思うこういう気持ちは、それこそ年代を超えて普遍だと思う。
だからこそ、実際の事件では男の子たちだったというのが意外だった。現実的で、大人で、だけど意外に乙女で、何より潔癖で、それが侵されると躊躇なくそれを排除しようとする、それがとてつもない残虐性につながる女の子だからこそだと思ったから。

で、かつてなら、「不潔」という言葉が使われたと思うんだな。よくあったもん、少女マンガや青春ドラマで、「不潔よ!」て台詞さ。その時女の子たちが抱えている気持ちは、同じだと思う。
でも発する表現が違うと、そこから生じる感情の変化も変わってくる、と、思う。「不潔よ」って言葉、その当時も実に可愛らしい言葉であったと思う。そう感じる女の子たちの思いを周囲の大人が受け止めてあげられる隙間のある言葉だった。

でも「キモイ」は……もう、隙間なんかない、ギッチギチに、彼女たちにとって「キモイ」のだ。「不潔」が嫌悪の段階で留まっているとするならば、「キモイ」にはその次の段階の憎悪が色濃く迫っている。
憎悪は、その対象物を罪となし、断罪する感情が生まれてる。もはやそれは、彼女たちにとっての正義で、正当化されている。

だから、楽しげなのだ。理科の実験でかすめとった化学物をサワコ先生の給食に混ぜて彼女が嘔吐しても、椅子のねじをゆるめて、後ろ向きに見事にひっくり返らせても、楽しそうに、実に楽しそうに笑うのだ。
うわ、うわ、うわー!寒気が、鳥肌が!!本当に楽しそうに、楽しそうに、笑うんだもの!!
しかもね、給食の場面でなんか、その行為を隠そうともしないの。同級生たちの目の前で堂々と異物を混入させる。戸惑い気味に眺めている同級生たちに逆にガン飛ばす勢いである。
サワコ先生は強い女だから、目撃者の証言でグループを割り出す。そしてそこから闘いが繰り広げられるんである。

嘔吐して保健室に運ばれたサワコ先生の膨らんだ腹をなでながら、いつから人間になるんですか、と保健室の先生に聞いたミヅキ。
お腹の赤ちゃんを殺された女がどうするかと問われて、他の女の子たちがおずおずと、訴える、とありがちな答えをしたのに対し「生まれる前に死んだんなら、いなかったのと同じでしょ」と、台詞は挑戦的だけど、まるで能面のように淡々と言うミヅキ。
それこそ何度も言っちゃうけど“逃げ”的にはさ、ミヅキはまさに、生まれて今中学生まで育ったけど、恐らく、生まれる前に死んでいなくなっていたのと同じと思われるような環境なのだろう。ひょっとしたら、今死んでも、そう思われるかもしれない、みたいな。

……あのね、本作で、二つ、意外なところがあったのだ。それは、ええ、えええ!本当に流産しちゃうの!させられちゃうの!!という衝撃と、あの時、赤ちゃんを殺された女がどうするかと彼女たちに聞いたサワコ先生が、「私は殺すよ。殺した人間を、殺す」と凄みのある表情で、恐らく本気でそう言ったのに、流産させたミヅキを、他の女の子の母親、あのザ・モンスターペアレントから身体を張って守ったこと。

正直、さすがにマジに流産させないでしょう、とも思ったし、最終的にはサワコ先生のお腹に懇親の力を込めて武器を振り下ろして死なせたミヅキを、サワコ先生は許さない、本当に殺してしまう、と思ったの。
それこそ、エンタメ的にね。救いようがないけど、それこそカタルシスだと思ったの。まさか、股の間から死んだ赤ちゃんの血を流しながら、スカートを真っ赤にしながら、ミヅキをかばうなんて、思いもしなかった。

それは、展開的にはかなりお涙頂戴、通常なら、ありえん!と思うところだけど、それまでのまがまがしさがマジにハンパなかったし、何よりサワコ先生がさあ……。
この強すぎる女教師のキャラ造形こそが、最も意外、だったかもしれない。こういう展開、こういう設定ならさ、だって相手は子供といえど複数、しかも100パーセント悪意に満ち満ちていて、確実に殺意があるのに!!
こういう設定なら、もうキャーキャー言って逃げ惑って、それなら、こんな恐ろしい女子中学生に殴り倒されて流産してしまったら、展開的には納得……というか、まあ、ホラー映画としてはアリじゃない。ヒロインはひたすら逃げ惑うものであり。

でもサワコ先生は逃げないの。アホか!ってぐらい、立ち向かう。フツーに考えれば、妊娠してて、生徒が明らかに流産させようとしていることを感じれば、なんかかんか理由つけて、いや何より妊娠してるんだから、長期休暇とるよなあ。
つまり逃げるにしても逃げないにしても、このシチュエイションは非現実的、つまりやっぱりフィクション、映画、なんだよね。それが最大の“逃げ”であり、この上なく、上手いんだよなあ。

ほんっと、男は頼りになんないの。私の聞き違いでなければ(爆)、劇中ナンパな感じの男子教師がサワコ先生の相手らしいんだけど、結婚してないし。あの男子教師と、女の子たちに人気がある体育教師は同じ人物だった……?ゴメン、ちょっと自信なくて(爆)。
で、あの先述した、ミヅキが生理の血を流したプールシーン、ミヅキは特に美少女で大人っぽかったから余計に、そのスクール水着のまるでふくらみのないうすっぺたい胸が急に幼さを提示してきていて、見てるこっちがうろたえてしまうんである。
しかも、彼女たちが実にやる気がなさそうに準備体操しているのが、いかにもそれこそが自己主張だと言いたいお年頃の女子中学生、でさあ……。

で、一人、モンスターペアレントである母親がガーガー言って来たことで、ミヅキの第一子分的な女の子がまず戦線を離脱する。そこにつけこんで、サワコ先生が、このイケメン教師の手伝いをするよう他の女の子に耳打ちをするシーンもブルッとくるんである!
そう、ホント、サワコ先生の強さは、こんなしたたかさもしっかり持ってて、子供たちの怖さだけじゃないのが、ホントに凄い!だって本当にそれで、彼女たちの絆はあっさりと崩壊してしまうんだもん。
勿論、残忍な計画を強引におし進めるミヅキへの戸惑いもあったにしても、それは少なくとも表面上には現れてなかった。表面上では、ノリに乗ってしまう女の子の残酷さがあらわれてた。
でも、積み上げた石がひとつ抜けると……それにセックスが未知のものでも、優しいイケメン教師にはときめくんだもの。たとえそのイケメン教師が、生徒たちを叱ることを一切せず、キャーキャー言われるだけのいいとこどり、だったとしても。

で。まあ、あちこち脱線、すっ飛ばしたけど、グループの女の子を閉じ込めて化学物質を発生させて危ない目にあわせたりして、ここまでにすっかりミヅキは孤立無援になってしまう。
しかし、ここまでの学校のアイテム……理科室、アルコールランプ、茶色の瓶に手書きのラベルの劇薬、給食係の配膳の描写とか、なんかいちいち、キュンときてしまって、それがまがまがしいこんな映画に使われてもやっぱり……。

あと、これは逃せない。「先生を流産させる会」を結成した彼女たちが、万引きした指輪を、幼い、ぽちゃぽちゃした左手の薬指にはめて、ろうそくの上に手をかざして絆を交し合うの。赤い口紅で壁に「先生を流産させる会」と書いてさ。うわー、うわー、うわー……こういう感じ、昔から、変わんないんだね、女の子の心理って……。
この指輪に最後まで執着しているのがミヅキ。さっさと捨て去るほかの女の子たちを、だからこそ軽蔑し、殺すぐらいの目にも合わせる。
先生からそれを取り上げられた時のミヅキの……こんな残虐な子なのに、なんて乙女なの、どうしてそんな、小さな輪っか、しかも万引きしたものなのに、永遠みたいな価値があるみたいな、そんな目で見るの!!

だから、だから、サワコ先生がミヅキをかばって、殺された子供のお骨を抱えて児童相談所の彼女を訪ねて、共に墓を掘って、なんて、次第に非現実度がクレシェンドしてきても、飲み込めてしまうのかも、と思う。
本当なら、これが本当なら、現実の出来事なら、女なら、母なら、絶対に、許さない。あの時、サワコ先生がミヅキに向って言い放ったように。絶対に。
でも、これはあくまでフィクションなのだ、映画なのだ。元になった事件があったとしたって。本当に先生が流産してしまうの、させてしまうの、と驚いたのは、その生々しいまがまがしさにすっかりヤラれて、これが映画だということをふと、忘れてしまったから。

実際に、産まれてこなかった赤ちゃんのお骨を墓石もなしに埋められるあんな場所があるとは思えない……あったらゴメン。あったらゴメンだけど。
とにかくラストシーン、喪服姿でミヅキを訪ねたサワコ先生、「親族は掘れないの」とミヅキに墓穴を掘ってもらって、小さな小さな棺をそっと沈める。

「いなかったことになんて、出来ないの」とミヅキに対して言ったその語調は、それまで彼女たちに対して言い放っていたそれと変わらない、クールさと激しさが行き過ぎないブレンド加減で、サワコ先生は最後までまるでブレずに、こんな事態になっても狂気に陥ることさえなく(映画ではホンット簡単に女は狂うからねえ)ミヅキに言った。
でも、ミヅキは……最後まであの無表情のままなの。そのまま、呆けたように、中空を見つめてる。そして、お腹の中の赤ちゃんを殺しても、殺人罪にはならない……。

正直、ミヅキがサワコ先生の腹を殴りつけ、赤ちゃんを殴り殺した時は、もう後戻り出来ない、明確な理由付けももう出来ないけど、止まれないの!みたいな、一瞬、青春映画の理由付けかと思ってしまうような加速がつけられてた。
ある意味、あの時のミヅキが一番生き生きしていた。それこそ、映画的教訓、教育的教訓で言えば、生まれてこなければ良かった自分だなどと、ミヅキが自分自身を殺すことに嬉々としているような……なんていってしまえば、この映画のすべてが台無しになってしまうかもだけど(爆)。

心のどこかで、容赦ないキチガイ映画を見たいと思う気持ちがあって、本作はそれを満たしてくれそうな感じがあって、でも、心のどこかでそう思っていても、本当にキチガイなだけの映画じゃあ、やっぱりダメなんだよね。
何度も書いた“逃げ”という部分が、いかにウソくさく、説教臭く、しらじらしくならないか、ふと思い返した時にふと心にすとんと落ちてくるか、そこがしっかりしているから、本作のまがまがしさがキラキラと生きてくるんだと思う。
残酷さを印象付けるショット……ウサギの赤ちゃんを放り投げたり、虫がわいたスズメの死骸や、ひからびかけた昆虫の死骸のクロースショット等々も実に見事。しかもこの尺での完成度の高さ!ヤバいな、この作品を絶賛するのは。★★★★★


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