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「あ」


2012年鑑賞作品

あゝ声なき友
1972年 105分 日本 カラー
監督:今井正 脚本:鈴木尚之
撮影:堂脇博 音楽:小室等
出演:渥美清 森次晃嗣 北村和夫 小川真由美 加藤嘉 倍賞千恵子 新克利 松村達雄 吉田日出子 志垣太郎 市原悦子 長山藍子 香山美子 田中邦衛 財津一郎 荒木道子 長門裕之 江原真二郎 金井大 春川ますみ 大滝秀治 織本順吉 田武謙三 北林谷栄 樹木希林


2012/3/2/金 劇場(銀座シネパトス/今井正監督特集)
渥美清がシリアスで押し通す、しかも彼の企画により製作された映画だと聞いたら、そりゃあ観たくなるに決まっている。そして確かに渥美清は素晴らしく、彼が役者として抜きん出た技量を持っていたからこそ、あの素晴らしい喜劇役者として、皆を魅了したのだとしみじみと思う。
寅さん以降はそのイメージを大事にしてそれ以外には出演しなかったという逸話は有名だけど、製作年度的に「男はつらいよ」にもほんのちょっとカブっていることを思うと、なんとも感慨深いものがある。それだけ、やりたかったんだよね、彼は、これを。

戦地へ送られる途中、髄膜炎(胸膜炎だったかなあ)にかかってしまったために、送り返されることになった民次(渥美清)は、分隊全員の遺書を密かに託された。
後に示されるところによると、その数年前に一度遺書を書かされたメンメンは、遺書さえも軍の検閲を受けてしまうことを知っていたから、彼に託したんである。

勿論、この戦地が自分たちの最期の場所になると覚悟してのこと、なのは、時期的にも敗戦は迫っていることを、現場にいる彼らが最も切実に予感していたのだろうと思う。
案の定、分隊は全滅したという風の噂が届いたのは、内地に帰れないまま病院のベッドの上にいた時だった。

実は、上手いこと伏線が張られてるんだよね。一度遺書を書かされていること、全滅したという話が“風の噂”だったこと。これが単なる戦争の哀しさを伝える美談的映画になっていないのは、こういうちょっとドキドキの、物語的エンタテインメントがしっかりしているからだと思われる。
さまざまな映画を撮りながらも、やはり戦争映画のイメージが一方で強い今井正監督の上手さは、一度戦意高揚映画に手を染めたことへの深い後悔から生まれた、戦争を単に活劇的に活写することない姿勢にこそ現われているように思う。
今回の二本立てには本当にそれを強く感じる。二本目なんかは特に……それを言い出すとキリがなくなるので。

遺書配達人の物語、なんてさ、もうわっかりやすく号泣モノになりやすそうじゃない。遺書を届けられた親族は一様に涙し、それに立ち会った民次もまた、生き残った申し訳なさをかみ締めながら涙する、観客は勿論号泣、みたいなさ。
しかしこうしたある種の期待は裏切られる、裏切られ続ける、んだよね。
空襲や疎開によって、遺書を届ける先もほとんどが不明になっている中、あて先を訪ね歩くだけでも一苦労という、そうした部分の方がむしろ映画的面白さになっているほどで。

だから届けられない人たちも多いし、数少なく手紙を届けられる先でも、まず感謝をしてくれる人さえ一握り。
厚くもてなしをしてくれる人はさらに絞られ、しまいには届けたことを怒られたり、怒られるならまだいい、完全に無関心、送り手の思いほど相手が思ってなかったりでポカン、みたいなあまりにも哀しい例もあって、号泣しようと思った観客の期待は裏切られ続ける訳なのだ。

そんなものなのかもしれない。人間なんて、生きるだけで精一杯、なんだもの。戦争をようやっと乗り越えて、これから生きていこうという時に、死者からの手紙なんぞというものは、はた迷惑なのかもしれない。そう思うとなんとも皮肉で、やけに哀しい。
でもそれこそが、人が希望に生きていくという証なのかもしれない。本作が作られたのが、そうした高度経済成長真っ只中なのだと思うと、更にそんな思いも強くなる。
民次は、あるいはその流れに取り残された、戦争の亡霊に翻弄され続けた男の象徴なのかもしれない。実に戦後10年以上かけて探し続けた遺書のあて先。その最後の届け先もまた、あまりにも、だったんだもの。

まあとにかく、それでも、一つ一つ見ていきたい。そう考えるとむしろ、彼が届ける先のドラマよりも、民次自身のドラマの方が重要だという気もする。
というのは、彼が復員してねんごろになった女が、遺書の届け先の一人だったから。ねんごろになった、なんて言い方はしちゃダメだな。だって民次は花子、いや本名は静代に本当にホレていたんだもの。
担ぎ屋と共に男に身体を売っている、それほどまでに性急にカネを稼ぎたがっている彼女にホレてしまった。それこそ最初こそは、彼女を商売女として抱いた。でもその最初だって、「口説いているつもり?それとも金を払うの?」と問われて、君が思う方でいい、と彼は答えたのだった。

そんな渥美清を初めて見たし、なんかそれだけでオオー!と思ったが、いわゆる渥美清へのイメージのギャップはこれ以降はすっかりなくなって、なんかね、一人の男の哀しさ切なさ孤独、それだけなんだよね。
彼女が身体を売ることに素直に怒りと悲しさをぶつけた日、二人は心を通わせた。同棲し始め、幸せを得たかに思ったんだけれど、民次が配達する遺書の一通が、自分の夫であることに気づいた彼女は、彼の前から姿を消してしまった……。

で、静代はクライマックスで再び登場するのだが、それはまずは置いといて。民次は腰をすえて遺書配達にいそしみ始める。
民次は板前の腕を持っていて、仲間とともに進駐軍の残飯を仕入れ、栄養シチューとして市で売り出すと大繁盛。
何が入ってるか判らない闇なべ状態のそのシチューから、使用済みと思しきコンドームが出てきてクレームをつけられるシーンだけでも爆笑だが、「ついてるね!それはなかなか出ないんだよ!」おいおいおいおい!戦後の民衆のたくましさを魅力的に活写したシーン。ある意味、数少ないコメディシーン。
あ、そういや、渥美清がそれに徹せられない訳でもないだろうが、担ぎ屋の元締めのパクさんとして出てくる田中邦衛も可笑しかったな!一応中国訛りなんだけど、めっちゃ田中邦衛なんだもん!

その仲間、辰一と金を貯めて料理屋をやろうという話になっていて、遺書配達に時間と金をとられる民次を辰一は心配し、今更一ヶ月二ヶ月遅らせたって変わらない、今は金を稼ぐことに専念すればいいじゃないか、と言う。
確かにそうなんだけど、そうなれば、店を持ち、それを運営し始めるとますます身動きが取れなくなるのは必定で……そうやって普通は、戦争を捨て去っていくのだろう。
でも、自分ひとり生き残った負い目のある民次はそれが出来ず、途中でそれまでの半分の稼ぎをもらって離脱、遺書配達の旅に出るんである。

最初の二件ぐらいまでは、まだしも良かった。なんとなく観客の期待にも応える部分があった。
息子からの遺書を携えてはるばる九州まで来た民次に老いた父親は感謝し、しかしこんな状態で、妻も臥せっているので、ゆっくり話を聞くことも出来ない、と民次をさっさと帰らせる。ちょっとこの時点で、あ、なんか、期待とは違う展開……とは思うんである。
遺書には、死ぬべきはお父さんだ。自分のような若い者が死ぬことには納得できない。自分はお父さんを憎む、と火のような言葉が書き連ねられていた。
この文面自体も予想外だし、例えそれが彼のまったき本心ではなかったにしても、悔し紛れにぶつけた言葉だとしても、何かこう、甘ったるいことを考えていた観客は頬をぶたれたような衝撃を覚えてしまう。

田舎で開業医をしている父親の元に届けた青年の遺書には、お父さんの期待に応えられなくてごめんなさい。でも弟がいるから良かった、と書かれていた。
貧しい患者たちであふれかえっている病院で穏やかに対応してくれたそのお父さんは、こんな状態ですから、貧しい患者たちをあくせく診て、忙しいばかりの私の後を継ぎたくなかったのでしょう、医者の学校には行ってくれたけれど、軍医は志望しなかったと言っていましたから……それでも穏やかな笑顔を絶やさずに言う。

青年の部屋に通してくれて、読みかけのまま開かれた本が置かれたままの引き出しまで開けてくれる。ゴメン、その読みかけのところ、かなり印象的な内容だったんだけど、忘れた(爆)。
青年が言及していたその弟もまた戦死してしまい、この優しそうなお父さんだけが、たった一人残されて、そのことを告げて民次の前で涙を流した。ある意味観客の期待に応える展開だけど、だからといって、どうすることも出来ないのだ……。

それ以降はね、遺書を届けて感謝されるなんてことがまず、ない。遺書を託す際、弟の話し相手になってくれ、と直接民次に思いを託した市原兵長のその弟は、引き取られた先の家でひどい虐待を受け、一家惨殺、死刑を下され、上告をかたくなに拒否し、民次がその海辺の田舎町にようよう訪ね当てた時には、既に処刑されてしまった後だった。
弁護士に話を聞きに行き、回想シーンで現われるその若き弟、くっきりとした眉のやけに美青年、見たことあるなと思ったら、初々しい志垣太郎!
民次が届ける筈だった手紙のその前の一通、あれは恐らく、その前に書かされた遺書、だろうな、そのひどく文学的な文面をすっかり覚えて、弁護士の前でそらんじる志垣太郎の、正義と憤りと、何より兄への熱い思慕がたまらなくて、兄を帰してくれと吠える彼の青臭さが胸に迫って、たまらなくなる。

届けることの出来ない二例は、いずれも女の強さが際立つ。しかしそれはひどく対照的な強さである。
松竹、渥美清という流れでの倍賞千恵子とはこれまた寅さんチックだなと思うが、朝鮮戦争で死んだ米兵の死に化粧の仕事をしている、その現場の生々しさなどは、当時の、日本はもう戦争から一見離れているけれども、なまなましく、残酷に続く戦争と、そしてそのことによって経済の花が咲き乱れている日本の皮肉を強烈に示しているのは、さすがだよなあ、と思う。

彼女は戦地に行った弟と約束している。生き延びて、疎開先と連絡がつかなかったら、博多駅で毎日昼の十二時(多分(爆))待ち合わせようと。
そのために、恋人から結婚して神戸(これまた多分(爆爆))に住もうと誘われても、その人が彼女の仕事のことを知っても軽蔑などせず、本当に彼女のことを愛していても、彼女だってそうであっても、それでも、離れられない。
弟はとうに死んでいるのに。民次がその遺書を届けられずにいるだけなのに……。

もう片方の女の強さは、倍賞千恵子の一途さとは違って、したたかなそれである。夫の遺書を届けようとした“町よしの”という女性とは知らず、温泉旅館であんまを頼んだ民次。
「ダンナさんの弟さんが今はダンナなんですよ。ダンナさんが戦死した時には10歳でも、10年経てば、ねえ。女は一度男を知るとなしじゃいられないっていうから」と下卑た話を嬉しそうに聞かせる樹木希林の下世話さ加減が最高!笑わせる場面が数少ないので、なんか妙にツボに入って笑っちゃう。

しかもこの町よしの、ダンナの弟を東京の大学に行かせて、言われるがままに送金しているという、女としての弱さと、そして強さがないまぜになっている感じ、演じているのがなんとなんと、市原悦子!樹木希林から「一度男を知ると……(ちょっと言い回し違ったかもしれないけど(爆)」、なんて言われるのが市原悦子!

ちょっと眠くて1エピソードぐらいすっ飛ばしてるかもしれない(爆)。今ふっと気づいた、どこに挟まってたかよく覚えていない、旅一座と同道することになるシークエンス。
板前の腕を披露し、舞台袖で太鼓まで叩く。別れ際には座長以下一座に本当に残念がられる上、看板娘にホレられて、「私、民次さんみたいな人と所帯を持ちたかった」と列車の見送りで言われる。
いつもフラれどうしの寅さんも、こんな台詞でつまり実質フラれるなんてことは数多くあったと思うけど、でも彼女は本気なんだもん。受ける民次、渥美清の表情も男そのもの!なんか新鮮!

更に後半には、先述した、彼と情を交わした静代との再会が。もう再会した時には今にも死にそうなの。どんな病気にかかってしまったのか、顔色も唇も真っ白で。
それでも彼女は最後に、最期に、民次に会いたいと思った。というのも……民次の元から持っていった、夫の遺書を、怖くて、読めなかったから、というのが切ないじゃないの……。
勿論民次と情を、愛を、交わしたからだけど、でも、夫の手紙を読んでほしいために、民次を、その行方を常に把握しつつ、呼び出した、なんてさ。

彼女が何を危惧していたのかは判らないけど、夫の遺書は優しさに満ちていた。自分に縛られずに、幸せになってほしいと綴られていた。
目じりから静かに涙の粒を走らせて、静代は息絶えた。静代としての彼女は結局、この夫だけの存在で、花子としての彼女しか知らなかった民次は、遺書配達人にしか過ぎなかった、のだ……。

後半は更に濃く、辛い展開が続く。板前としての民次の腕を惜しむ友人、辰一が太っ腹スポンサーの土建屋を紹介してくれる。その接待の席に居合わせた芸者の話で、遺書の送り先の一人であったことに気づいた民次は、それを伝えるも、彼女はへぇー、という程度の態度。
「九段の桜で会いましょう」という、当時恋人同士だった青年の、最初の遺書の言葉を、単なるデートの待ち合わせだとカン違いした笑い話を、彼女はそれ以上には受け取ってなかったのだ。

このエピソードを民次が回想するシーンで、メガネにヒビが入ったその青年は、恋人の可愛い勘違いも含めて、しみじみと、語ったものだった。
そしてこの時涙したのも、青年の方だけで、二通目の遺書さえ、彼女には何の感慨ももたらさなかった。しかもこの芸者に入れあげていた土建屋は、民次と彼女の仲を誤解して拗ねてしまい、彼の就職話もご破算になってしまう。

あ、このエピソードの前か。濃いシークエンス第一弾は。訪ねてみたら、その妻は再婚してた。しかしその夫に見覚えがある。かつての自分の上官だった。
民次は奥さんだけをそっと呼び出して遺書を渡すと、どうも様子がおかしい。彼女は夫が死んだ時期を、随分前だと思っていた。その遺書が書かれた時、本当に夫は、その時まで生きていたんですか、と民次に問いただす。
自分が同じ分隊だったんだから間違いないと民次が請け合うと、次第にほころびが明らかになってくる。その、数年前に書かされた、あの遺書である。
彼女の再婚相手、かつての上官、八木がその遺書を悪用して、その後二人の間で交わされるはずだった書簡をことごとく握りつぶしたのだった。だから、民次が届けた遺書には、そのことに対する不信が綴られていた。

ヒドイ!ヒドイ!!ヒドイ!!!民次が憤らなくても、観客が憤る!結局死んだんだから同じだと言いやがる八木にも腹が立つ!人間としてやっちゃいけないことだ!
民次は、八木を呼び出して糾弾する。殴りかかる。八木には本当に腹が立つ。でも、……部下の女房の写真に一目ぼれした彼の、そんな鬼畜な行いの先が……。
あのね、民次が最初に二人を目にした時、本当に穏やかで、八木は漆器職人になっていて、奥さんは彼のほころびた半纏をつくろおうと脱がせたりしている。確かに民次がこなければ、保たれていく筈だった穏やかな生活。
卑怯なふるまいをした八木は糾弾されてしかるべきだけれど、でも彼が、冷たい目をして夫を避ける妻に、惚れていたんだと、追いすがる桟橋の場面、それを、彼と殴り合いをした後に、遠く夕暮れのシルエットで眺める民次、というショットが、なんとも言えなくてさあ……。

そう、そうして、最後に届けた先も、そんな具合に、ちょっとしたありがた迷惑、なんである。
ようやく見つけたと思った未亡人は別人、なぜなら……妙に冷静な目で手紙に目を走らせ、ちょっと待ってくださいと下宿先の階段を上がっていった彼女、やりあう声がして階段を下りてきたのは、その遺書を書いた当人だったから!
ちょこっとね、ちょこっとだけふっと笑えるような展開なんだけど、ただ彼が、本当に届ける先であった筈の奥さんとは、復員後、別れたこと、その原因が、彼女が生活のためと言って身体を売っていたこと、しかしその再婚した相手が、パンパン上がりであったこと……。
という様々が、この作品に接した最初に予感した美談的展開をさまざまに覆した、その根本的な、あの静代とのエピソードを巻き込んでいることを思い、構成の巧みさと、戦争モノ、美談、涙、という単純な見方への見事なアンチテーゼになっていることに、驚嘆してしまうのだ。

せっかく生きて奥さんのもとに帰ったのに、奥さんが身を売っていたのも、彼との生活を保持するために他ならなかったのに。
そして新しい伴侶はパンパンあがりなのに。観客が当然抱く疑問を民次が直裁に投げかけると、彼はポツリと言った。「そんなことをする筈がないと思っている女がやっていたことと、それが当然の女がふっつりとやめたことと……」
つまりは、ギャップ、なのだ。どちらがほだされるか、なのだ。どっちも、彼のことを愛しているがためなのに。マイナスのギャップ、プラスのギャップ。男って、バカだ。女って、ソンだ。
彼の場合は、死んでたら確かに美談になったよ、バカヤロー、などと、言ってはいけないことを思ってしまう。でもつまり、そういうことなのだ。

でも彼だって、きっと、そんなこと全てを、判っているに違いない。民次をおでん酒屋に誘い、自分の遺書を10年経って自分で読む気持ちが判るか、と冗談めかして言う彼は、いつまでも遺書に、戦争にこだわり続ける民次を糾弾する。
そんな上品な言葉じゃないな、怒る。お前は判ってないんだと。忘れてしまえと。遺書なんか、焼いてしまえと。その方が、ずっと楽だと……。

まさかの、ここでの、エンド。あのね、私……私だけじゃない、ずっと言ってきたけれど、遺書配達人という要素、充分号泣映画作れると、観客は期待したと思う。でもはぐらかされ続けて、最後、まさに、突き放されてしまった。
民次は、私たち観客に近い立場にあったと思う。それはつまり、病気で戦線離脱した彼は、本当の意味での、戦争を、心理的な生々しさ、汚さも含めて、判ってなかったのかもしれない、ということ。
そしてそれを当然判った上でこの映画を企画した渥美清の志と真摯な演技に、ただただ、ただただ……心を打たれるばかり、だったのだ。★★★★☆


アーティスト/The Artist
2011年 101分 フランス カラー
監督:ミシェル・アザナビシウス 脚本:ミシェル・アザナビシウス
撮影:ギョーム・シフマン 音楽:ルドビック・ブールス
出演:ジャン・デュジャルダン ベレニス・ベジョ ジョン・グッドマン ジェームズ・クロムウェル ペネロープ・アン・ミラー マルコム・マクダウェル ミッシー・パイル ベス・グラント エド・ローター ジョエル・マーレイ ケン・ダビティアン

2012/4/15/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
この映画を観た日には、久しぶりにハリウッド映画を観たなどとブログに書いてしまったが、え?ハリウッド映画じゃ、ない?上映前のクレジットでフランス大使館後援とかなんとか出てきて、え?え?なんで?え?フランス映画?え?だってだって、めっちゃハリウッドのまんまの話じゃん!確かに主人公の男優さんも女優さんも観たことない……えー!フランス人ウッソー!
……すんません、単に権威に弱くて、オスカー受賞作だってだけで足運んじゃったから……。毎年この時期は割とこんな感じで(爆)。

いや、だけで、ではない。やはりあの予告編には心躍った。まあ予告編は魅力的な場面でつないでいるってことは判ってるし、実際観てみると、予告編の場面をひたすら待ちながら観ることになったりすることもままることも判ってる。
だけど子供の頃、映画が好きになりたての頃、出来たてのレンタルビデオシステムで、映画の始まりを見たくって借りたチャップリンやキートンやハロルド・ロイド……そのファッション、動き、それをモノクロをクリアな映像にしたってぐらいきっちり再現している世界観や、何より何より、二人のタップダンス!

もう、弱いの。ダンスには。この時代じゃないけど、やはりやはりアステアやジーン・ケリー、私はジーン・ケリー派だから更に時代はもっと後半だが、あの頃のミュージカル映画にかなうミュージカル映画はやはりない、あんなにワクワクして映画を観たこと、まあビデオだったけど、それでも、ワクワクっていう感覚があんなにヴィヴィッドだったこと、なかったなあ、と。
だからタップのシーンで、それだけでこれは観なきゃ!と思っちゃったかも、しれない。ホントダンスに弱い。それだけの理由で「シカゴ」「ムーラン・ルージュ」「プロデューサーズ」も観に行っちゃったしなあ。

個人的なことばかりを書いてしまうのは、まあいつものことだから許して(爆)。でもその、これこそ待ちに待ちに待ち続けることになるタップのシーン、なんたってラストシーンなんだから。
でも途中で、というかかなり早い段階で、私はそのことをキレイに忘れ去っていた。ラストシーンであの心躍るタップシーンが出てきて、ハアハア言う二人の息切れにこの映画の全ての意味を感じて、ああ、これを私は待っていたんだとバッカーンと思い出したけれど、ホントにすっ飛んでた。それだけ、あの時代にタイムスリップしたような世界観に酔わされていたんだなあ。

でもね、いろいろ結構予測出来ちゃう。言ってしまえば、もう大きな結論、どんなにジョージが落ちぶれても、新進女優のぺピーがのし上がっても、これ以上ないすれ違いでも、それでもきっと、二人のハッピーエンドが待っていると、予測出来ちゃう。
と思っていたのは、これが“ハリウッド映画”だと思って観ていたからかもしれないけど、最近のハリウッド映画はヘタに知恵つけちゃって意外にハッピーエンドにならないかもしれない(思いっきり蔑視発言。ヒドい(爆))。
落ちぶれたジョージが解雇した運転手を雇ったのがぺピーなのも、ジョージの売り払った家財道具を買ったのがぺピーなのも、いろんなことが、予測できちゃう。
予測できる……わかり易いと言い換えた方がいいか。孤独なスターの看板をバックに、ジョージがしょんぼり歩いていく姿が重なったり、道行く人に踏まれるポスターが彼の凋落を示していたり。

一番予測出来たのは、サイレントにこだわる作りのいわゆる、“大オチ”。途中、ジョージがトーキー時代到来にショックを受ける場面で、彼の声だけが出なくて他の音が聞こえてくる“悪夢”も実に効果的だが、その場面があってもストイックにサイレント形式のまま進んでいく。
時代はトーキーに移り、ぺピーはトーキー女優としてのし上がっていっているのに。世の中には音があふれている筈なのに。あの当時のサイレント映画をほうふつとさせる、華やかなオーケストラ音楽のまま進んでいく。
ああ、きっと、最後の最後、ジョージの声(以外の全員の声だけど。でもやっぱりジョージの声、だよね)が発せられて、ジャン!と終わるんだろうな、っていう予測がキレイに叶えられて、きっと、観客の100パーセント予測してただろうから、こういうスッキリって、ホント近年なかったなあ、と。

でもこれが、フランス映画であり、フランスの監督が作ったとなると、もうそれもこれも、折り込み済みだったんだなあ、などと思うんだから随分と勝手だけど(爆)。
つまり、今のハリウッド映画が、やたら複雑なストーリーに固執して、シンプルな、まあ言ってしまえば単純なメロドラマを、かつてはそれで観客をとりこにしていたことを、自虐みたいに排除していることを逆手にとってる、って感じ?思いっきりなベタを確信を持ってやってるんだよね。

しかもスクリーンサイズもサイレント方式、だよね?久々にワイドスクリーンじゃないハリウッド映画……じゃなかったけど(爆)、とにかく、徹底してる、よね。
劇場によっては幕で調節するんだろうけど、私の観た劇場はまんま両側に黒味があって、余計にスクリーンサイズが際立ってて、面白かったなあ。
先述したように、サイレント映画特有の、切れ目のないオーケストラ音楽が流れ続ける。ラストクレジットの後に、本作の作曲家が「現代で最も古風な作曲家」としてオマージュがなされ、ええ!40代で亡くなってる……しかもこの快挙を知らずに!うう、切ない……。

うーん、いい加減本筋に行かなければ。いや、まあだからホントに筋は単純なのよ。サイレントからトーキーへと変遷する、映画というものがドラマティックに変わっていく時代を活写する。
サイレントのスター、ジョージ・ヴァレンティン、トーキー時代を駆け上がるペピー・ミラー。なんかそれぞれ、そんな名前のスターがいたような感じがする。男性の方だけ思い出した、ルドルフ・ヴァレンティノ!

ジョージのファンの群衆の中にペピーがいて、バッグを拾おうとかがんだ弾みに彼の前に飛び出してしまう。集まったマスコミ(あの当時の、バッ!バッ!と煙を吐く照明が雰囲気満点!)からあおられて、ジョージのほっぺたにキッスをするペピーの写真が翌日のゴシップ新聞の一面!
妻は拗ねるし、映画会社の社長は渋い顔をするけれど、エキストラとして来ていたペピーのタップダンスにジョージは意気投合。この場面、カキワリの下からのぞいているペピーの足のステップにジョージが合わせるワクワクがたまんない。
これも予告編で心ときめいたショット。このあたりまでは結構、予告編映像を待っていた感じがあったのだが。

ジョージは運転手のクリフトンに、妻をとりなす宝石を買うように指示したりしてるけど、もう最初から妻との冷ややかな関係は明らかである。
なんたってジョージはスターだから豪華な生活をしてるけれど、朝食のシーンばかりが繰り返されて、そのたびに妻もジョージもとりあえずカネはかかってそうな、違うカッコをしているのが、でも心は満たされてない、的なストレートなメッセージを感じる。

てゆーか、ジョージは妻より愛犬にべったりだからさ。劇中、名前を与えられることもなかった(サイレントだから、会話シーンがないと、犬の名前が出てくる余裕もまあ、ないわな)このワンちゃんは、劇中映画でも見事な演技を見せて、舞台挨拶に出た(今では考えられない、オペラハウスみたいな立派な劇場!)共演の女優をブンむくれさせるし。
撃たれてバーン!と倒れる芸は何度となくエピソードに絡んで和ませ、ていうかもう、彼の活躍なくしては、火事からジョージを救うことも、ペピーがジョージの家財道具のオークションで買いさらっていたことを彼が知ることもなかったワケだからさあ。
なんか犬のオスカーみたいなものももらったみたいだけど、なんかそんなの出来ちゃったら、それ狙いで犬ありきな映画ばっかり出来ちゃいそう(爆)。てゆーか、本作自体、かなりそういう感じがある気がする、かなりギリギリだよ(爆爆)。

で、まあワンちゃんの話でかなり脱線したが、えーと、なんだっけ。そうそう、エキストラに採用されたペピーはジョージの楽屋を訪ねる。
ここも予告編で印象的だった場面。かけてあったジョージの上着に右腕を通して、自分を抱きしめるようなマイムをするペピー、何か本当に、リアルに背広から手だけが出てきて彼女を官能的に抱きしめているみたいでドキドキ!
あくまでエキストラであるペピーとジョージがちょっとだけ邂逅するダンスルームのシーン、何度もテイクを重ねて、しまいにはなんか笑いあって、ちょっといい雰囲気になったりして。
後からこのシーンが実に上手く二人の気持ちを固めさせる伏線になっていることを思うと、まあそれもまたベタだけど、確信犯のベタだけど、や、ヤラれた!と。
やっぱ、ダンスなんだよね。ダンスは、身体も吐息も近くなるダンスは、これ以上気持ちを伝えるものはない。気持ちはやはり、身体が近くないと伝えられないんだもの。そして吐息、吐息も声、トーキーなの!

おっと、ちょっと先走っちゃったかな。修正。で、まあ、この時点ではまだまだジョージがスターよ。クリフトンが左手で(てゆーか、ジェームズ・クロムウェルはもともと左利きなのかな?)ジョージの代わりにブロマイドにサインを書いてる。たわむれに、ジョージが一緒に映ってるワンちゃんに、woof!と書いたりして。
でも、映画会社の社長がジョージに見せたいものがある、と試写室でトーキーのテストフィルムを見せたところから転がるように事態は変わっていく。

これは、サイレントだからさ、ストイックに、最後の直前までサイレントを貫くから、このテストフィルムもサイレントのままさ。
マイクの前で表情豊かに歌っている女優、歌声がスタジオの中に聞こえていると思われる、しかしジョージは失笑。こんなものはお遊びだと、まさに一笑に付す。
これには将来性があると口説こうとした社長の方がまさに正しかったんだけれど、ジョージは会社がいっせいにトーキーに傾いたことを知っても、そのフレッシュスターとして売り出す中にペピーがいるのを見ても、自分は真の芸術を作り続ける、と決別。自ら脚本、監督、主演、のサイレント映画製作に乗り出すんである。

しかしまあ、当然のごとくその映画は大コケ。こういう気合の入った映画、壮大なテーマに愛の涙とかなんとか、そんなタイトルもクサくて、もうコケる様アリアリ。
一方で同じ公開日にフレッシュスターとしてトーキーが公開されたペピーは、「つけぼくろ」というタイトルからしてフレッシュで……だけどそれはジョージが、女優は個性をつけなきゃと、手ずからペピーの唇の上に描いたほくろだったのに。
とにかく時代はトーキー、そしてキュートな“ハリウッドの恋人”ペピーに沸くことになったのだ。

ジョージのその大コケの映画が(ていうか、テイク重ねすぎの、小切手切り過ぎで、株価暴落なんだもん)、ラスト、流砂に飲み込まれるジョージ、てのがまるで自分から凋落を示したみたいで。
この映画の公開前、直前、ジョージはペピーと再会してる。その場面がね、映画的、これぞ、映画的。判りやすく、印象的で、なんか、ある種の美しさ。
階段、二階、三階までもを登っていくような、まるでフロアをすぱっと縦に切ったような階段。映画会社の一角なんだろう、上に上っていく人、下に上っていく人、実に忙しい。

ペピーは、上に上がっていく、ジョージは下に降りていく。ペピーが声をかける。会社と契約したの、これから一緒に仕事できるわね、と、ジョージへの感謝の言葉を口にして、連絡先を手渡す。
彼女の取り巻きの男の子たちをソデにして、ジョージにんーっ!と投げキスを送る。笑って受け止め、階段を下りていくジョージ。……気のせいかもしれないけど、降りていくのはくたびれたクビきり組、のように見えてしまう。

「つけぼくろ」公開前のペピーがね、レストランで取材を受けてるの。お定まりに、後ろの席にジョージがいる。
「観客は私の声を聞きたがっている。今までのサイレントスターの大げさな演技に飽き飽きしてるのよ。老兵は新進に道を譲らなきゃネ」と。うわあ、うわあ……。
ジョージは静かに席を立ち、ペピーに「譲ったよ」と囁いて店を後にする。うわあ、うわあ、うわあ……。

サイレントスターの大げさな演技、っていうのは、確かに判るのよ。それこそチャップリンやキートン、いわゆるマイムだよね。トーキーとサイレントの違いは、台詞が聞こえるか否かと思いがちだけど、実は、その違いがゆえの、芝居の方法論なんだよね。
でも、それを現代まで引っ張って考えてみると、じゃあ、台詞が聞こえているから観客に届く芝居が出来ているのかと、そんなシンラツなことも思ってしまう。
実際、これがフランス映画だということを考えると、かなりそんなシンラツなところをついている気がする、って、フランス映画にシニカルな先入観ありすぎ?でもそうだと思うなあ……。

まだこの時代には芝居のリアルさはそこまでは確立されていなくて、でも疑問を持ち始めた頃、みたいな感じがする。
ペピーが自暴自棄になって危うく死にそうになったジョージを救い出し、ラスト、思い出のタップでサイレントスターである彼をトーキーの魅力に引き出すのは、“大げさな芝居”とダンスがちょっとつながっているからであって。
でも映画はやっぱりあくまでフィクションでさ、観客は大げさなものが、観たいと思ってるんだよね、ある程度。
で、そのタップシーン、勿論映画の映像としてはにこやかに軽やかに踊っているんだけれど、その外ではにこやかな顔して、ゼイゼイ息切れしてる訳で。

その声を聞かせた時、おーっ!と思ったの。トーキーでも、ミュージカル映画はさ、声高らかに歌って、タップの靴音を軽やかに聞かせても、その息切れは当然、聞こえないじゃない。聞かせないじゃない。
それこそがいわゆる芝居のリアルなんだけど、ペピーが誇らしげに記者に語ったところなんだけど、でもやっぱり、見せないところは見せないんだよね。今の映画では見せすぎるほどに見せている、それへのちょっとした皮肉にも思えて、ああ、やはりフランス映画かも、と。

でもそんなムズカシイこと考えなくても、充分溜飲の下がるラスト。こんなに見事なタップを踊って見せて、社長も「パーフェクト!」と言いながら、もう一回!とリテイクを求める。
そう、この時からみんなの声が聞こえていてね。勿論!とリテイクに応じるジョージの声も聞こえてね、ああ、トーキー映画へのハッピーエンド、きっとジョージのように落ちぶれて、そのまま落ちぶれちゃったスターもいるんだろうにとも思うけれど。

要となるシーンが、まるで歌舞伎の見得のように見事にキマっているのが何よりの魅力かも。
ジョージとペピーの出会いのシーン、再会のシーン、ワンちゃんの活躍のシーンはどれもこれも捨てがたいが、やはり一番は、火事を知らせに路上のおまわりさんをつかまえるシーン。
ちょっと小太りのおまわりさんキャラといい、行ってあげなきゃと進言していると思しき(いや、サイレントだからさ)おばあさまの“マイム”といい、じっつにサイレント時代の風味をかもし出しているんだよなあ!
思えばワンちゃんってのはサイレントを思い出す時確かに欠かせない存在で、もうさ、チャップリンの「犬の生活」が大好きでさ!……うーむ、私は猫教信者の筈なのだが。猫は映画という、人間の文化には相容れないのかも?。★★★★☆


T'M FLASH!
2012年 91分 日本 カラー
監督:豊田利晃 脚本:豊田利晃
撮影:重森豊太郎 音楽:大野由美子 スガダイロー
出演:藤原竜也 松田龍平 水原希子 仲野茂 永山絢斗 板尾創路 原田麻由 北村有起哉 柄本佑 中村達也 大楠道代

2012/9/11/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
以前からそうだけど、考えればどこまでも深く、あるいはうがって考えられそうな豊田作品だけど、すっと受け止めてしまえばそれでいいのかなとも思う豊田作品なんである。
新興宗教なんてテーマを持ってきたのはちょっとビックリしたけど、この、ザ・新興宗教の世界観、つまり器、外側の作りこみに、どっちで行けばいいのかなあ、なんて考えた。
まぁ素人のうがちなんてどっちにしろあて外れなモンだろうけど、白い宗教服に金ぴか豪華な教団施設という作りこみ、しかも場所は沖縄で、青い空も青い海も完璧すぎてウソくさい感じが、そんな両極を選択肢として投げ出して監督がニヤニヤしているような気もした。

そう、あの白い宗教服なんてホント、ザ・新興宗教。新興宗教というとあのイメージだよね、あの新興宗教も、この新興宗教も、ああいう白い服着てる。なんでだろう、潔白、清廉、神の使い、そんなものをイメージしているんだろうか。
だけどその一方で金ぴか、これは仏教が原始的に近づけば近づくほどそうなる、発達すればするほど宗教が清貧になるのと真逆の矛盾で、いつだって宗教は矛盾だらけ。
新興宗教はその矛盾を真顔で、平気で説いている、カンタンに言うとそういうイメージを、実に判りやすくバン、と示している。

その新興宗教の、“イケメン教祖”のボディーガードにつく三人の殺し屋。イケメン教祖というのも、殺し屋というのも、まるで映画の中のことのようで、と書いてみてふと笑ってしまった。何を言ってる、映画じゃないの、これ、と。
監督がどこまで真摯なリアリティを追っているのか判らない、と書きかけてまたしても笑ってしまう。何を言ってる。この監督が真摯なリアリティなんて、それこそ“ウソくさい”ことを追究したことがあったかよ、と。
そんなところで勝負しているんじゃないと思いながらも、新興宗教というテーマはそれだけ、特にあの事件が起きて以降の日本には、色々と荷が重いのだ。

イケメン教祖、というのは、その荷の重い日本にちょっと投げかけてみるユーモラスな要素なのかもしれない。若くてイイ男のこんな教祖に、オレについてこいよと言われれば女の子はくらくらついてっちゃうかもしれない。
いや男だって、こういう男になりたかったと思う男だって、ついてっちゃうかもしれない、あるいは年配者だって、こういう未来ある指導者にならついて行きたいと思うかもしれない。

などと、自信満々に演じている藤原竜也を見ながら思う。いや、彼自身はこの撮影で相当苦しめられたというから、自信満々に見えるまでには相当なものがあったのだろうけれど、もともと彼、ちょっとナルシスティックな雰囲気のある役者さんだから(そんなこと言ったら怒られるかな……あくまで雰囲気がね)、確かにこのイケメン教祖にはピタリとくる。藤原竜也新興宗教がうさんくさいのは、その教祖がうさんくさいからに他ならず、確かにこのイケメン教祖もうさんくさいんだけど、若くて美形というだけで、力を持ってしまうのは、全世界共通のコトなもんで……。
物語の冒頭は、彼が飲酒運転で死亡事故を起こしたところから。轢き殺される役だけの柄本佑、こういうあたり、やけに豪華なキャスティングがちらほら。

藤原竜也演じるイケメン教祖、ルイは三代目。祖父の代で立ち上げた教団。男子に継承されていく、よくあるパターン。そして、三代目が会社をつぶすとよく言われるように、教団とて同じようなモンであろう。
ルイは死亡事故を起こす前からやる気がなかったのか、あるいは事故を起こして弱気になったのか、教祖をやめると言い出す。そもそも彼には兄がいて、女装趣味なのか性同一性障害なのかさだかではないドラァグクイーンな兄が「私がなれるわけないでしょ」という訳で、三代目に就任したんであった。
実際、実権を握っているのは母と姉で、まあそれもありがちではある。しかし、祖父のドクロにも父のドクロにも銃弾の穴があいている、という情報をルイにもたらしのはこの兄であった。

つまり、教祖とはルイが思っている以上にまつり上げられた飾り物であり、使えなくなったと知るや否や、女たちによって亡き者にされる。
教団の創始者は祖父だけれど、その祖父のドクロにさえ銃弾が貫かれているということは、そもそも創始者が祖父、という話自体もアヤしくなってくる。
結局最初から女たちがまつりあげているだけなんじゃないのか、この物語の趣旨は、新興宗教の恐ろしさだの、生と死のなんたるかではなく、女の恐ろしさを言いたいんじゃないのか。

そう考えるとしっくりくるかもしれない。このタイトル、どういう意味なのかなと思ってた。英語は苦手なので(爆)。単純に直訳すると、私は閃光。一瞬の光。
タイトルは冒頭には示されない。殺し屋との攻防で最後に散ったルイに向かって、松田龍平演じる殺し屋の一人、新野が「神様になった気分はどうだい」と問いかけ、全てが終わり、殺し屋たちに報酬が渡され、ブラックアウトしたそこに、白抜きで大きくタイトルが出る。まさに閃光のように、一瞬に。
教団の教えはちらちらと示されるけれど、一番判りやすく象徴的に語られるのは、死こそが救いだということ。それこそ新興宗教にはありがちな感じだけど、結構その説き方は巧みで、自分など最初からないのだと、それはうぬぼれだと。だから死は怖いものではなく、それこそが救いなのだと。

……なんか書いてると、そんなことを言っていたんじゃなかったような気がしてきたけど(爆)、まあとにかく、自己が失われることへの恐怖をツンデレ気味に実にうまくそそって、ああ、こういうのが教祖、宗教に人がおぼれていく部分なのかと、素直に感心したりした。
ちょっと心が弱っている時ならば、人間はカンタンに転んでしまう、かもしれない。騙されないぞと調べれば調べるほど、それは自分に都合いいようにリサーチするものだから。宗教ではなくても、多かれ少なかれ、人ってそういう経験してるから、なんとなくああ……って思うじゃん。

ルイ自身が、実はおぼれていたのかもしれない、なんて思う。彼は教団の教祖だけど世襲で、しかも兄が継がなかったからしぶしぶという形ではあったけど、彼自身がこの宗教自体を否定する場面は、実は、なかったことを思う。
運命を変える女、流美に問われて、宗教はもうかるからね、と悪びれなく返すものの、その宗教自体を否定する場面は、なかったんだよなあ……。

でもね、信者は全然、出てこない。ルイが死亡事故を起こしたことはスポーツ新聞やワイドショーでセンセーショナルに報道されるけれど、それに伴った信者へのインタビューもなければ、新興宗教にありがちな道場での修行場面などもない。
ワイドショーで流れる、信者に対して奇跡的な力を発揮するルイを映したプロモーションビデオは、ルイ自身が「CGだよ」と冷淡に吐き捨てるし、全く、まっさらに、信者が出てこないんだよね。

それが、この宗教のツクリモノ感を大きく後押ししている。後押しという言い方もおかしいけれど……。ルイが、宗教は儲かると言い、確かに宗教って税金もかからないし、著作だなんだと出してればそのまんま利益だし、しかもその中身は空虚でも宗教というコロモがあれば成り立っちゃうし、それは経営的な生々しい話だけど、儲かる、という話に信者という形の生々しさが絡んでこないんだよね……。
それが本作のある意味での物足りなさでもあるけれど、でもそれを絡ませちゃったら、本作が本作たらしめないと思ったりもする。そうなったら、違う作品になっちゃう、とは思う。そんなのはそれこそ、オウム信者のドキュメンタリーとかで充分だ、と。

でもまあ、そういう要素が、なくはない。殺し屋のうちの一人、一番若い永山絢斗君なんか、ルイの著作にちょいと心酔しちゃって、彼の母親からルイの暗殺命令が出ても、「オレ、母一人子一人だったから……考えられない」と同情、アイツ悪いヤツじゃないよ、てなところまで行っちゃってさ。
母親や姉の思惑を察知していたルイから呼び出されて、一番無防備な彼が一番にルイに射殺された時、勿論この若く青臭い青年殺し屋を気の毒に思ったけど、ルイもまた、やっぱり気の毒なヤツなんだもの。

そう、運命を変える女、である。オフィシャルサイトの物語解説では愛する女、なんてしれっと書かれてたけど、うーん、随分テキトーだよなあ。
まあ最終的にはそういうことになるのかもしれんが、その日バーで知り合った女とヤル気満々でドライブに出ただけなのに、まあそう、最終的にはそう、なんだろうが。
流美を演じるのは水原希子嬢。女の私までどっかがウズウズしちゃうような(爆)魔力の持ち主。冒頭では彼女との関係は明確には示されなかったが、物語が進むに従って徐々に解明されていく。

確かに行きずりの女ではあるけれど、彼女の妹がルイの教団の信者であり、そして自殺した。彼女はルイにピストルを向け、しかしその行動とは裏腹に、あがいて生きて苦しめ、と言う。
そして自分を殺せと言う。死ぬことが救いなんでしょうと、私を救ってよと、さっきまでの恐ろしいほどのコケティッシュさはどこへやらで、子供のような泣き顔でそう言う。
物語の展開の中でいくつかに分断される中で、流美の印象はくるくると変わり、この死のドライブの恐怖の中で、超短縮型のストックホルム症候群のように、ルイは彼女にホレてしまったのだろうか。

ラスト近くになると、宗教的というより哲学的、恐らくこの“ライフイズビューティフル”(言い忘れてたけど、これが教団の名前ね)の教えではない、彼らの中の真理をやりとりするような、そんな会話の応酬が、猛スピードの車の中で交わされるんだけど、なんか台詞も聞き取りづらくてよく判んない(爆)。
ただ……一緒に死のうと思い定めた二人が、「死んで、俺の中に入れ」「あなたが私の中に入るのよ」という台詞だけは鮮やかにくっきりと浮かび上がる。
前半、「俺の女?名前も知らないよ」と冷たく言っていた彼が、何度となく彼女の病室を訪れ、何か言いたげな瞳で見下ろしていたのが、最後の最後になって判った気がしたというか。
ルイは植物状態となった流美が、死んで、自分の中に入ることを、待っていたのだろうか、って。

最終的には彼こそが死んだ。そう、もう、真っ青な沖縄の海の上での殺戮バトル、小型船を操ってひょうひょうと追いかけてきた新野にひょうひょうと殺され、「神様になった気分はどうだ」と。
血だらけになりながら新野に、ここに自分がいるとわざわざ知らせたルイは、この時には、自分こそが彼女の中に入ることを、ようやく、判っていたのかも、って。

それを待っていたかのように流美が目を覚ました。病室のブラインドから朝なのか夕方なのか判らない、天国からのような光を入れて、眺めた。
それこそ陳腐な解釈をしてしまえば、全ての男は皆、女から産まれてくるんであって、最初からこの結末など自明のことだったのかもしれないし、その自明があるからこそ、ルイの母や姉、もしかしたら祖母もそうだったかもしれないけれど、私たちが産み出した男なんて、どうしたっていい、なんていう考えが出てくるのかもしれない。
それこそ宗教にありがちな思想、選民思想にも通じる恐ろしさ。実は宗教の恐ろしさは女にある、と言われているみたいでちょいと納得いかないような気もしないでもない(爆)。

でもさ、教団の人間たち、特に板尾さん演じる、殺し屋たちを雇う男なんて特にそうだけど、教祖であるルイよりも、その母や姉の命令に従うじゃない。まあ、母に従うのは判るよ。実際の実権はまだ彼女が握ってるんだから。
でも、ルイのことは、ルイ様と一応は言うけれど、それ以上でもそれ以下でもないんだよね。彼のご主人様ではないのだけは確か。ワガママなお坊ちゃまに舌打ちしている感じ。
実はこのルイの孤独に唯一気づいていたのが、松田龍平扮する新野だったのかもしれないなあとも思う。ルイの著作に心酔していた若手の永山君や、永山君の死に「あの若いモンには可哀想なことをした」と、天国に行ったアイツと一杯やるよ、と報酬を受け取って新野と別れたベテラン殺し屋さんも、判っちゃいなかったのだ。

このベテランの言葉に新野は「神様信じちゃったよ」と苦笑い、というか、微笑ましい笑いを浮かべる。いやまあ、このおじさんの言う三途の川とか天国とかいうのは、日本人に基本的に備わった普遍的なイメージに過ぎないんだけど。
ただそれがあるからこそ新興宗教なんてものが存在出来ちゃうんだろうし、でもその中心にいたルイ、そして新野も、そういう普遍的イメージのない、数少ない日本人だったのだろう、と思う。それはいいのか悪いのか……。

新野だけが、この殺し屋三人の中でただ一人、バックボーンが全く語られなかったからさ。永山君は母親から死んでほしいと思われているルイに同情しておふくろさんの話をしたし、ベテランおじさんも家族を養わなきゃいけないからな、と言った。
一匹狼に見えた三人の集まりの中で、一番若手と一番ベテランが心を通わせ、龍平君演じる真ん中どころだけが取り残されて、いわば彼が、真の孤独を持つ同士としてルイの気持ちを汲んで、彼を“殺してあげた”“神様にしてあげた”のかなあ……なんて思ったりして。

本当に人の心を判ってあげられるなんてこと、そんなことは、宗教にも、誰にも、出来やしない。誰かを可哀想と、助けてあげたいと思った時点で、もうその相手とは永遠に通信などしあえないのだ。表面的に、“心の交流”なぞがなされたとしても。
そのジレンマを、大人になるほどに思う。それこそ、それこそ、死んで、その人の中に入ってしまわなければ、と。

まあでも、やっぱなんかよく判んなかったな……。 ★★☆☆☆


青い山脈
1949年 92分 日本 モノクロ
監督:今井正 脚本:小国英雄 今井正
撮影:中井朝一 音楽:服部良一
出演:原節子 杉葉子 龍崎一郎 池部良 赤木蘭子 若山セツ子 木暮実千代 山本和子  矢崎浩 永田清 飯野公子 薄田研二 藤原釜足

2012/4/6/金 劇場(銀座シネパトス/今井正監督特集)
その後何回も何回も繰り返し映像化されている作品の、なんたってオリジナル一発目だから、こりゃー観なきゃいかんわね、というぐらいの気持ちだったのだが、おーっと!これが池部良だったか!
そう言われればそんなことを聞いていたような気も!ラッキー、やっぱり池部良素敵、その独特の肩幅の狭さがたまらん!などとどーでもいいことに萌える。

しかししかしこれ、この日同時上映された「続・青い山脈」とで1セット、両方見なければ物語が片付かない、のね!それじゃあ続というより、前篇後篇じゃん、そうタイトルつけるべきじゃん!
いやあこの日、時間ギリギリで、続から観なくちゃいけなくなるところを何とか本作から間に合って、続から観てたらエライことになってたなあと。
いやさ、確かに続の冒頭では本作の概要をだだだっと示してはくれているけど、でもやっぱり逆から観ちゃったらメッチャつまんないもんなあ……。

続が、本作の公開一週間後に封切られたというのは、そりゃあ、あそこで終わっちゃ気になって仕方ないわ!
てゆーか、某データベースでは続との抱き合わせであらすじ解説しちゃってるんで、観てから時間が経つと、もう、物語1セットで記憶しちゃって、本作がどこまで進んでいたか、なんか定かじゃなくなっちゃう(爆)。頭悪い……。

それにしても、ほおんと、このタイトルづけはなあ。シネパトスみたいにちゃんと二本立てにして見せてくれればまだいいけど、フィルムセンターで観たやつ、なんだっけ忘れたけど(爆)、続に続く、とラスト出されてえええー!とのけぞり仰天!その特集上映のラインナップに続はナシ!そんなあ!みたいな。
続、っていうと、なんか違うじゃん。前篇、後篇にしてもらわないと、えええ!って思っちゃう。
でもそれも作戦かなあ、ヤハリ。これ観ちゃうと、続きの続を観ざるを得なくなるもんなあ。

なんかぶつぶつこれじゃグチだ(爆)。でもね、このオリジナル一発目があって、その後何度もリメイクされたのは、判るわー。だってめっちゃ、面白いんだもの!
青春の持つすがすがしさ、初々しさ、ドラマのスリリング、ロマンティック、とにかくワクワクさせるんだもの!
でもね、一方で、意外だった。だってこの世界観、戦後すぐ、一気に変わった価値観の中大人も子供も揺れていて、女学生たちが持つ、学校の風紀、学風や名誉を重んじている気持ち、それによって“自由奔放”な女生徒が吊るし上げをくらうというのは、この時代、リアルなオンタイムの世界観だからこそヴィヴィッドだと思ったからさ。

その後何度もリメイクされた時に、このテーマってどうしたって古いし、リアリティが失われていくじゃない。
いやつまり、私は多く作られたその後の「青い山脈」をちっとも観てないってこと、なんだけど(爆)。
でもそれだけ、本作の、つまりあの時代を記録する貴重な資料となりうるであろう、当時の日本人たちの気持ちというもののリアリティに、すんごく打たれちゃったから。

同級生たちに吊るしあげを食らうヒロイン、新子は現代の私たちの目から見たら、きわめて普通の女の子である。
まあ、池部良みたいなちょっと不良の(ていうのも死語かもしれんが)気楽な浪人生と親しくなれるなんて、やっぱり普通じゃないかも、ていうかただただうらやましいが(爆)。

彼女が学用品を買うためにと、駅前の金物屋に玉子を売りに来るシーンから始まるのね。
このシチュエイションからして実に時代だが、気楽に店番していた池部良演じる六助が、どこから盗んできたのかとか、それで遊ぶ金にするのかとかからかうのは、実にボーイ・ミーツ・ガールのトキメキである。
ごはんだけ炊いていて、おかずがない、その玉子でキミ、何か作ってくれないか、という展開になり、炊いてるごはんが焦げた匂いがしてくるというのはお約束だが、その釜といい、七輪といい、メッチャ時代!

新子が「料理は出来るけど、好きじゃない」と言うあたりにそこはかとなく新時代を感じ、その七輪でフライパンをあたため、玉子焼きを作る風情がなんともヴィヴィッドな時代!
何気にこのシークエンスのリアリティが好きなんだよね。その後の展開もロマンティックでドラマティックだけど、やっぱり出会いのシーンというのはなんともときめくのだもの!

きわめて普通の女の子、などと言ってしまったけど、彼女には「お母さんが二人いる」という。つまり、両親が離婚しているということである。
実際は、そんな複雑な家庭の事情をそれほど描写する訳ではなく、不満があるとするならその部分カナとも思うんだけど、戦後の新時代のひとつの象徴としての設定なのかもしれなくて。
それがつまり、この学校は私立で、なんかお嬢様学校みたいな雰囲気があるからさ、異邦人としての要素をそれだけで、持ってしまうのかもしれない。お母さんが二人、それだけで、ふしだらな血を持っている、みたいな。

新子はこの学校に転校してきて、その理由は、前の学校で恋愛騒動を起こしたからなのね。
それだけで、彼女のことを生徒のみならず、教師たちまでもそういう視線で見るんだけれど、実際は通学中に手紙を受け取っただけなんであった。でもこの時代はそれだけで充分騒動のタネになったんだな。

で、新子はこの学校でも手紙を受け取る。でもそれは、男性名だけれど、どうやら同級生の手によって書かれた手紙。
その内容の“有名”さは続に譲ることになるんだけど、そのニセ手紙で新子を呼び出して、笑いものにしようという悪意が満ち満ちていたんであった。

で、で!エライ時間かかったけど、つまり本作の主人公は原節子、新子からこの手紙の相談を持ちかけられる新任の教師、島崎先生なのよね。
“女子大出のエリート”として、封建的で保守的な田舎町にさっそうと現われた美人教師に、女生徒たちはキャーキャー言うけれども、同僚、ていうか男性同僚は苦々しげであるのが、特に続編にて色濃く描かれる。
正直、原節子がこんなに闘うキャリアウーマンやってるってのが、凄く意外な気がする。マニッシュなパンツスーツなど着こなすしさ。
彼女と対比されるのが芸者の梅太郎姐さん、小暮実千代で、まー、見事に色っぽいことこの上ないのだが、それにしても原節子が新時代の女性、なのね!

島崎先生の相手役となるのが、この女学校の校医である沼田である。梅太郎姐さんはこの「ぼーっと伸びてるたけのこ先生」にホレているから、まあいわゆる三角関係なんだけど、そうハッキリバトルになる訳じゃない。
てか、最初、島崎先生は沼田に反感を覚えている。だって彼ったら、臆面もなくこの封建的な地を肯定し、「土地の有力者の娘をもらって、キレイな看護婦に手をつけて家庭争議を起こし、囲い者がいるぐらいの、貫禄のある人間になりたい」なんて、言うんだもの!そりゃー、カチンと来た島崎先生に平手打ちされてもしょうがないわ!

まあ、沼田先生はライトな人格だし、後の言動を考えても、この時の言い様は軽いジョークも多分に入っていたとは思うんだけど、でもそれがつまり、この土地の、そしてこの時代の“普通”だった訳なんだよね。
男どもから、若いから理想ばかりに走って、エリートだからってナマイキだとクサされる島崎先生を、しかし女性教師たちは……若い教師は勿論、ベテランの教師も支持するのは、そんな世界に女性はウンザリしていたからに他ならない。
その封建的思想に女学生たちが染まっていることへの危惧も……おーっと、このあたりは続の方だったかな、違ったかな、とにかく、先送りしておこう(爆)。

島崎先生はこのからかいの手紙を重く見て、学級会議を開く。しかし学校の名誉のためだったのだとヒステリックに反応されて、事態は予想よりずっと紛糾してしまうんである。
この時にはまるでクラス全体が“自由奔放”な新子を糾弾しているような感じにも見えたけど、実は……おーっと、それも続の話だったかな、やりづらいな(爆)。

新子は六助とは単なる知り合いで、辻占に見てもらったのは相性なんぞではないし、と毅然とした態度をとる。
島崎先生も、手紙を出した生徒をいさめ、恋愛は決していけないものではないこと、同級生を貶めるような行為は今後慎むことと、厳重に言い渡すんだけれど、この生徒、浅子らグループは激怒。
なんたってお嬢様学校だから有力な理事長だのPTAを巻き込んで、島崎先生に謝罪を!と気炎を上げ、事態が収拾つかなくなっちゃう。

彼女らは、五年生、と言われるから、中高一貫、つまり高校二年生、というところなのだろうか。島崎先生を慕い、沼田先生とも姉である芸者、梅太郎を通じて親しい一年生、つまり中学一年生の和子が可愛くてね!
続の方では見事な間諜っぷりを示し、こまっしゃくれてはいるんだけど、見た目はピンとはねたおさげにのび太みたいな大きなまん丸めがねをかけて、ちょこまかとしてて、本当に可愛いの!

やっぱりお姉さんが芸者さんだけあって、大人の事情にも通じているマセ加減もイヤミじゃなくて可愛くてね、基本、島崎先生に子犬みたいになついてじゃれてキャーキャー言ってるのが、可愛いのよー。
五年生である新子たちのクラスも、島崎先生に対しては勿論そう。なんたって冒頭、大学でバスケットの選手だったという島崎先生と、活発に試合をしている場面から始まるんだから、女生徒たちに対する人気は、相当なんだよね。
でもだからこそ、新時代的なことを言い出す憧れの先生に対する反発が、大人の階段を上っている五年生の彼女たちは強くて、これだけこじれちゃうあたりが鮮烈なんだよなあ。

そう、和子はまだ、そういう気持ちを持つまでには達していないからさ。時代が変わった戸惑いについていけない領域では、ないからさ。
島崎先生は大人だし、戦争が押し付けた思想に対して、あるいはこの地方の封建的なことに対しても大人の気持ちを持って対処できるんだろうと思う。
でも彼女たちは……柔らかな人格形成のうちにあるひとつの思想を植えつけられて大人への階段を上り始めた彼女たちは……このリアリティはこの時代でなきゃ、やっぱり難しい。

新子は、二人の母親を持つような境遇で、いわゆるイジメの風にもさらされて、大人、なんだよね。
六助やその友人たちともこだわりなく付き合う。六助たちと沼田先生は先輩後輩同士らしく、彼女のことを「最ものびのびと成長する肉体」とか、校医らしいちょいとエロな発言をする沼田先生は、「テニスをやらせてみろ」と進言、見事なプレイに男どもが翻弄されるシーン、大好き!ほおんと、新子、演じる杉葉子が見事なプレイなんだもの!

六助たちの下宿(部室?)に案内され、カンパで集めた怪しげなつまみに大笑いし、すっかり彼らのマドンナになる新子。
彼女はとてもイヤミなく素敵だけど、この描写で、なあんとなく、新子が浅子たちグループに嫌われるのが判る気もする(爆)。だって、浅子たち、私にも出来ないことなんだもの(爆爆)。

六助たちと歩いていると浅子たちに遭遇、一触即発、あのニセラブレターの話になり「だって、あなた、ああいう手紙もらうの、大好きなんでしょ」と言い放つ浅子の憎たッッらしい顔!!!キー!!!
新子が彼女のほっぺたをバチンと平手打ちし、道端の石まで手にするのにはおおー!!と胸がすいたが、でもちょっとだけ、浅子の気持ちも判る気がしたかもしれない……。

で、まあ、理事会での対決っつーことになって、島崎先生、沼田先生、新子と六助、六助の友人のガンちゃんたちは作戦を練る。
何となくイイ雰囲気になってきた島崎先生と沼田先生、新子と六助の気持ちはいまだイマイチ確定されないし、沼田先生はナゾの刺客に狙われてボコボコにされるし、そんなモヤモヤの中で終了!えええ!マジでかい!
二本目の続、というのがそういう意味合いであることをここでやっと知る。タイトル、ズル過ぎるっての!

と言う訳で続に続く……あー、書きづらい。なんか主人公の島崎先生=原節子のことほとんど書いてないし(爆)。とにかく、続にて! ★★★★☆


続・青い山脈
1949年 91分 日本 モノクロ
監督:今井正 脚本:小国英雄 今井正
撮影:中井朝一 音楽:服部良一
出演:原節子 杉葉子 龍崎一郎 池部良 赤木蘭子 若山セツ子 木暮実千代 伊豆肇 山本和子  矢崎浩 永田清 飯野公子 薄田研二 藤原釜足

2012/4/6/金 劇場(銀座シネパトス/今井正監督特集)
さて、続編ですが。ていうかもう、この作品に対する思いが前篇である「青い山脈」の方でバーッと書いちゃったんでかなり力尽きてる感じですが(爆)。
でも物語に起承転結があるならば、この続の方はまさに転から始まる、言っちゃえばこっちを観なきゃ意味がない、メインもメイン、大メインな訳だが。
“「青い山脈」といえば”ラブレターの“変しい変しい”“脳ましい”やら、海に向って好きだー!という要素は、観てない私でも、それを聞くとああ、聞いたこと、あるある!と思うから。
つまり「青い山脈」の「青い山脈」たる部分は、大きにこちらにある訳なのよね。

一番の盛り上がりは、学校の名誉を訴えた女子生徒たちか島崎先生か、どちらを正とするかの理事会のシーンにあり、まさにそこで読み上げられる“重要書類”のラブレターが“変しい変しい”“脳ましい”な訳なんだが、まあとりあえずそれはおいとく。
本編の前に、前篇を見逃した方のために、という感じでまるで予告編のように前篇のハイライトが流される。今回は運良く前篇から観ることが出来たけど、うっかりしたらこっちを先に観て、ほおぉ、こんな話、とか思っていたかもしれない。

忘れないうちに書いとく。前篇観てた時に既にオッと思ってはいたが、ハイライト映像の中にもしっかと出てくる、新子が六助に自己紹介する場面。
「160cm、56キロ、視力は2コンマゼロ」おー、やったー!私新子より背が高くて、体重ないぞ!(それぞれちょっとずつだけど!)視力は10分の一以下だけど(爆)。
いやー、それでも?彼女すらりとして見えるじゃないの。いや、後の水着シーンを見たら、おっぱいがおっきいからそこでウェイトとられてるのか(爆爆)。

てか、この水着、パット入ってないでしょ、乳首くっきりなんですけど!おいおいおいー、誰か気づいてよ、てか当時はそれが普通!?衝撃!!
ってそんなことじゃなくて!いや、それもかなり書いておきたいことだったけど!!
……とにかく、なんか単純にこの身長と体重、嬉しかった、私、バカ(爆)。
てかさー、現代は理想体重軽くしすぎだよ、10キロは下においてるよ、やせすぎだよ!こんぐらいがいいのよ、というのが、今まではやせ我慢に思っていたけど、明確に示されて、ほらあ!と思う。
いやつまり、私の価値観が50年前(爆)。でもそれが健全だと思うけどなあ。

えー、全然作品と関係ない部分でかなり脱線しましたが(爆)。ところで、そう、前篇は、まあそれなりにスリリングなところで、えー!どうなるの?みたいなところで終わってはいるのよね。
沼田先生の病院で、理事会に向けた作戦を練っているところに、やたら遠いところから往診を頼まれ、その夜道の途中で無頼漢たちに襲われるという……。
で、それこそ予告編よろしく、沼田先生はどうなったのか?新子と六助は、梅太郎と和子は、とサスペンス映画かってぐらい、やたらあおって後篇にいざなって終わる訳。
んで一週間後に公開だったんでしょ。メッチャビジネス(爆)。まあいいけど。

で、沼田先生どうなったの!?と心配してたら、のんびり平和に看護婦さんに包帯巻かれて、キミ巻き方がヘタだよ、とか言ってるノンキさ。おいおい、あれだけあおっといて、ナンだよ(爆)。
理事会に出席できないほどのケガでもなく、襲われたことに怯えて理事会に出席できなくなるタマでもなく、い、意味ない(汗)。
前篇からのつなぎだけのような気もするなあ。

ま、いいか。この事件によって、沼田先生にホレてる芸者の梅太郎と、島崎先生が相対する場面が生まれるんだから。
沼田先生は適度に遊び慣れてて、芸者の梅太郎ともキレイな遊び方をしているんだけど、梅太郎の方はマジに沼田先生にホレてる。
表面上は、芸者としての付き合いを通してても、ね。そのあたりの女の切なさ。演じる木暮実千代が、玄人の芸者の色っぽさと粋さが完璧だから、余計に切ないんだよね。

沼田先生を見舞ってくる場面で遭遇する二人、梅太郎は妹の和子も一緒で、和子はなんたって、美人な島崎先生にベッタリだからさ。梅太郎はもう、一目見ただけで、島崎先生に完敗した、と思っちゃったんだろうなあ。
その前にね、和子が「白粉気もないのに、とってもきれいなの」と言うんだけど、まあ確かに島崎先生はそういう設定なんだろうけど、あれでスッピンだったら、こ、コワイだろ。だってまつげなんてお蝶夫人なみにくるっくるだべさ(爆)。
まあ、ね、梅太郎が粋な芸者の風情だから、パンツルックでマニッシュな島崎先生とは対照的だけどね。

で、きれいで、さっぱりしてて、感じのいい島崎先生に、負けた、と梅太郎が思ってしまうのが……そして、どうやら沼田先生が島崎先生にホレてるらしいことを、これまでの経過も合わせてここで決定的に判っちゃうのが、切ない、んだよなあ。
梅太郎との会話の途中で寝入ってしまう沼田先生は、それだけ彼女に対して気を許してるってことなんだけど、でもそれと恋愛の感情は、別、なんだよね。
なんたって沼田先生は、島崎先生の信念のために梅太郎も含めたいろんな人を巻き込んで、大勝負を打とうってんだもの。

私はね、梅太郎は、六助の友人のガンちゃんといい感じになるのかと思ったの。
ガンちゃんは六助の若干ちゃらんぽらんな感じとは違って、ちょっと哲学青年な雰囲気。同級生からのつるし上げにあっている新子が毅然とした態度をとっているのに感心し、六助が彼女に思いを寄せていることを、六助自身より先に察知する、イイ友人である。
その頭の良さを買われて、沼田先生から理事会で小難しいことを言って場をかきまわせと命じられ、半分は功を奏したけれども、ニセモノが入り込んでいるとバレかけて……てのはまあまた後の話なんだけどね。

いやさ、年恰好的にもさ、梅太郎の方が年上だろうけど、まさかおしゃまな妹、和子とはないだろうと思ったんだけど……だって多分、和子は一年生、13、4てトコでしょ。
でもラストシークエンスでは、沼田先生と島崎先生、六助と新子の流れで、ハタチ前後とおぼしきガンちゃんと和子がイイ感じに……ヤバくなーい!キャー!!

……そこで喜んでどうする。てか、メインにまだ行ってないっつーの。
そう、理事会である。PTAまで根回ししたあの浅子は、仲間と共にすっかり勝利を確信している。
前篇ではクラス全体が浅子たちの論に同調している感があったのに、この段階に至っては「やりすぎよね。島崎先生、お気の毒よ」てなクラスの雰囲気。
いや、ひょっとしたら最初から騒いでいるのは一部で、それに飲み込まれていただけだったのかもしれない、と後篇に至って思わせるのは、上手い。
梅太郎の妹分の芸者を、散々もてあそんではらませたらポイ捨てした町の有力者が、新聞社に“女教師、生徒自治を弾圧”てな、全く真逆のデマ記事を書かせるなんて汚いマネまでするのに、実際の理事会では大してそれが役立ってないんだけど(爆)。

てか、この記事に関しては、あのカワイイ間諜、和子がどんな手を使ったのか、翌日の新聞のゲラ的なものをかっさらってくるってーのがスゴいんだけど。
和子は本当に可愛くてね、理事会直前でナーバスになっているであろう島崎先生に、廊下ですれ違いざま手紙をポケットに入れて、和子は最後まで島崎先生の味方よ、なんてさ、もう、可愛くて泣けちゃう。
……この可愛い可愛い和子を演じた若山セツ子の実人生のあまりにも哀しい結末を知って、……ああ、これをここで言うのはやめよう。

理事会ではなんたって、藤原釜足だと思う!変しい、変しい、愛しい変人、脳ましいと読み上げた岡本先生。
重要書類だからと、原文ママにこだわるのも可笑しいが、つまりどういう意味かと列席者から読み説きを促され、「つまりラブしている。ついては談合致そうではないか」なんて、現代的なんだか古風なんだかワケ判らん解説を至極マジメに唱えるのには爆笑!だ、談合って!!

彼は実にこの後篇において重要なキャラ。理事会において、中庸な立場にいて、どっちに肩入れしている訳でもなく、こんなマジメな顔してるのも可笑しいけど、この理事会が島崎先生の劇的勝利に終わり(すいません、いろいろ重要な要素すっ飛ばしたけど……梅太郎とかガンちゃんとか色々頑張ったんだけど、藤原釜足があまりに強烈なんだもん!)、大重要要素、浅子と新子、当事者である女生徒たちの関わりにおいても、実に素敵なんだもん!

こうなったらそりゃあ、浅子はいたたまれない。どうなるのかなと思ったら、あの“変しい、変しい”のラブレターを取り返したいと校長室に忍び込んだところを、岡本先生に見つかってしまう。
後に浅子に問うたところによると、岡本先生は学校で一番おじいちゃんだから、宿直に入っていても大丈夫だと思った、と(爆)。ひ、ヒドい、浅子(爆爆)。

でもこのシーンね、宿直の岡本先生は、“いつものように”奥さんにお弁当を届けてもらい、“いつものように”元先生だった奥さんはオルガンを弾き、用務員さんもまったりとし、何とも穏やかで、優しい時間が流れるのよ。
この岡本先生だからこそ、ただただ中立に、変しい変しい愛しい変人、新子様。脳ましい……とマジメに読み上げられたんだなあと、なんか、あったかい気持ちになっちゃう。
この作品には沢山のラブがあるけれど、それはドキドキのラブであり、こんな風に、静かに流れ続けているラブが、なんとも素敵なの!

新子と浅子の仲直り、新子が浅子を殴ったことのお返しに、目をつぶった浅子に柱を殴らせるフリして自分を殴らせる、という青春そのものの場面は、まあそんなとこかな。実際の青春はそれほどまでに単純でもないとは思うけど、まあ、まあ。
やっぱりドキドキは、全てが収束して、沼田先生と島崎先生、六助と新子、ガンちゃんと和子が海岸に集結している場面。

あ、そういやあ、かなり重要な場面をすっ飛ばした。六助と新子が海辺でデートしてるところに、沼田先生を襲ったゴロツキたちにからまれる場面。
ゴロツキに馬乗りになって殴りつける六助を、なぜか察知して駆けつけたガンちゃんが、とにかく暴力を制してもうやめろ!と言う。 我にかえった六助は、顔を覆い、新子に「帰ってくれ!」と血を吐くような痛ましさで叫ぶ。
……私ね、なんでそんなに六助がこのことに苦しむのか、あんまりよく判らなかった。だって襲われたんだもの、正当防衛じゃん、むしろケンカ強くてカッコいいじゃん、と思ったんだけど、哲学青年のガンちゃんといい、何か暴力に対しての特別な否定的主義が??
苦しみ、顔を覆う六助に、私、六助さんが好きだわ、好きだわ!好きなんだわ!!と三連続で叫ぶ新子のシークエンスを引き出すための描写だったのかしらん。

だからね、そう、ラストシークエンスで、ふつー、プロポーズは二人きりの場面で、などと思うところを見事にぶっ飛ばして、こんなみんなの前で、ボクはキミを愛している。結婚してくれ、とまー、もうー、もーうー、沼田先生ったら、もう!
息を呑んで見守る周囲に、お受けしてもいいとかなんとか、この時代らしい返事をする島崎先生、すっかり盛り上がるその他のメンメン。
六助が新子の手をつかんで海岸に駆けていく。私は三度も六助さんが好きだって叫んだわね、と言われ、じゃあボクも言えばいいんだろ、と、両手を広げて、好きだー、好きだー!!と叫ぶ六助!
あー、もうー、もおおおー、池部良ったらったらっ!ほっぺたが赤くなっちゃう!!

……力尽きてる筈だったのに、力入れちゃって、本当に力尽きちゃった、疲れた(爆)。
でも力尽きるだけ力入れちゃうだけの愛しい映画なんだから、仕方なし! ★★★★☆


アナザー  Another
2012年 109分 日本 カラー
監督:古澤健 脚本:古澤健 田中幸子
撮影:喜久村徳章 音楽:安川午朗
出演:山崎賢人 橋本愛 袴田吉彦 加藤あい 秋月三佳 宇治清高 井之脇海 脇卓史  岡野真也 正名僕蔵 銀粉蝶 つみきみほ 佐藤寛子 三浦誠己 

2012/9/2/日 劇場(渋谷HUMAXシネマ)
予告編の方が怖がらせる映像としてはよく出来ている、というのは、何となく皮肉な感じがする。
本作は原作ありきで、コミックスやアニメ化もされたというのだから、映画の尺で感じる以上の、ある程度の長さがあったと思われ、その中でじわじわと怖さが積み上げられて、最後にナゾが解ける、みたいな感じだったのかなと思う。

予告編ではね、主人公、榊原恒一がクラスメイトに対して感じる不穏さ、美少女、見崎鳴(みさきめい。難しい読み方だ……)の、美しいけれど不気味な怖さを、凄く端的に、上手く示してたんだよね。
転入初日の恒一を上目遣いに見つめる三白眼のクラスメイトたち、肩をとん、と叩いて振り向く彼の目に飛び込んでくる能面のように据わった表情の男子生徒、そして眼帯の下にはサファイアのような青い瞳を隠している、つややかな黒髪がそれこそ人形を思わせる美少女、何とも何とも不穏な空気を漂わせていて、こ、これは……!と思わせた。

んだけど……実際に本作の中で、予告編に使われているシーンに対峙してみると、予告編ではフラッシュバックのトラウマのように脳裏に刻み込まれる不穏な生徒たちの表情も、なんか普通につながれてしまって、印象が薄まるんだよね……。
実際、彼らは榊原に対して不穏な存在などではなく、それどころか怯えに怯えて、パニックの集団心理に陥っている。それが割と早い段階、どころかもう最初から判っちゃう。
まあそりゃ本作のホラーたる要素は不穏なクラスメイトにある訳ではなく、死者が紛れ込み、その怨念のせいなのか、死の連鎖が繰り返されるという点にあるんだけど、その部分が謎解きとして処理されている感が強いもんだから、余計にホラー感が薄れてしまう。

宣材写真にも印象的に使われ、その凛とした美少女っぷりが眼帯萌え向きにも充分に納得させ、ボブというよりおかっぱと言いたい、肩でばさりと切りそろえられた黒髪が美しい鳴を演じる橋本愛。
実際の主人公は、誰からも何の説明も受けないまま、恐怖の3年3組に放り入れられてしまった恒一であるんだけど、そのキーマンとなるのが鳴であり、何より主人公の彼よりネームバリューがあるもんだからさ(爆)。
確かに存在感デカい。「告白」で名を売った……ああそうか。つい最近観た「桐島、部活やめるってよ」でも、一番ぐらいに存在感があった彼女。天性のオーラがある。単なる美少女ではない得がたさのある女の子。

恒一は父の海外転勤によって、一年間だけ田舎の祖母に引き取られることになるのね。
そう、父子家庭であり、母の死こそが本作の重要な要素となるんだけど、まさかよもや、叔母の死までもそうだとは、うーん、私は恒一こそがと思っていたんだけどねえ。

てあたりがミステリ素人の愚かなところか……つーか、もう、謎解き話の映画はメンドくさいからいつものよーに最初からオチバレだけど(爆)。
3年3組に紛れ込んだ死者は、この叔母さん。考えてみりゃー、祖母に引き取られる、ということだけでそこに母の妹がいることには最初触れていなかったし、食事シーンは彼一人分しか用意されていないし、娘に対して祖母は話しかけないし……でもほんの短いシーンだから上手くスルーしちゃうんだよね。
まあそのあたりはホラー映画の常道なんだけど、なんか上手く騙されちゃったのがクヤしい。

それというのも、恒一が物語始まって早々に気胸の発作なんつーものを起こし、夢うつつの中で写真でしか知らない死んだ母親と出会い、そこから引き戻してくれたのが眼帯の美少女、鳴でさ。
その病院の中で鳴と出会うのよ。しかも彼女は地下の霊安室に入っていく……こりゃあ、死者は、鳴でなければ(鳴はいかにもオトリっぽいキャラだからさあ……まあそれでも、最初は彼女かなと思ったけど)恒一なんではないかと思うではないか。

実は鳴が霊安室に入っていくシークエンスは、こうして思い返すまで忘れてたていたらくである(爆)。
見終ってしまうと、鳴は、まあ、超常的能力は持ち合わせているけれど、ちょっと人付き合いの苦手な女の子ってなキャラに過ぎず、それが判明してしまうとかなりガクッときたりはしたのだが……。
恥ずかしながらその時には、冒頭のこのシークエンスはすっかりと忘れ果てていた。一体彼女はなぜ霊安室に入っていったの?誰の死がそこにあったの?
この時にはまだクラスの死の連鎖は始まっていなかった。恒一が鳴に話しかけようとするたびに彼女は「もう始まっているかもしれない」と言った。かも、であり、まだ始まってなかったよなあ。よく判んないけど。

鳴に関してはもうひとつ、思わせぶりな描写がある。彼女と一緒に暮らしている人形作家、霧果(きりか)さんである。
演じるつみきみほ、彼女はなんか、あまり見なくなっちゃったけど、こんな風に時々目にすると、ひどく印象深い女優さん。もったいないなあ、もっと活躍してほしい。
鳴は霧果さん、と妙によそよそしく言い、その霧果さんは「あなたのことは私が一番よく知っている。友達なんか必要ないでしょ」と、“珍しく連れてきた友達”である恒一の前で言い放つんである。
霧果さんの作る人形はまるで生きているようなのにひどくまがまがしく美しく、つやつやと美しい表情は能面のまま、ゴシック、アンティークな棺に収まっていたりする。

彼女たちの関係が一体何なのか。鳴は恒一に「本当のお母さんではない」という言い方をする。
そして、そもそもこの死の連鎖が始まった発端となった、ミサキという女の子が死んだ後に、クラスメイトたちが彼女の身代わりとして席に置いた人形が、霧果さんが作ったこのまがまがしく美しい、片目が青い人形なんである。
つまり、鳴はミサキの生まれ変わりのような位置づけのようにも思えるし、霧果さんの年恰好からしたらひょっとしたら、この発端のミサキと係わり合いがあるのかもしれないとも思うけれど、思わせぶりな要素が散りばめられはするけれど、この点に関しては特に謎解きはされないんだよね。

それが良かったのかどうなのか……。霧果さんを演じるつみきみほが鳴に対する粘着質の執着が、ほんの短いエピソードの中にもかなり印象的だったんで期待度が高かったんだけど、そのままスルーされた感じだったのが惜しい気がして。
何かね、この、自分の人形そのままに美しい庇護する者に対しての、セクシャルな欲望を彼女に感じなくもなかったというか、さ。
だって人形そのままの、青い目を、はめ込んだのは霧果さんなんだもの。そして発端のミサキの身代わりの人形もまた……。
でもそこらへんは全然、ほったらかしにされるんだよなあ。なんか、ワクワクしたのに。年齢差レズの萌えがありそうでさ(爆)。

で、まあ謎解き、だよね。発端となった事件、ミサキという人気のある女の子が死んでしまった事実を受け容れられなかったクラスメイトたちは、人形を身代わりにおいて、彼女が生きているかのように振舞った。
でも、卒業式の日、皆の記念写真を撮る段になったら「もう卒業だからいいじゃん」と。そしてその写真には、ブレたようなミサキの影が映しこまれた。

その後、三年三組になった生徒たち、あるいはその家族たちが次々と不慮の事故によって死んでしまう恐怖の連鎖が始まる。
その死の連鎖を止めるには、クラス内に「いない者」を作って、いるのにいないように振舞えば、死者が出ない。その代わり、そのルールを破ると、死の連鎖が始まる、という言い伝えが守られてきた。
……正直、学校内でそんな確立されてんなら、だって次々死んじゃうなんてタイヘンなんだからさ、三年三組を作らなきゃいいんじゃないの、とか、すごーく単純なことを思っちゃったりして(爆)。それを言っちゃったらオシマイなんだけど(爆爆)。

恒一は転入直前に発作を起こしてしまい、一ヶ月遅れてクラスに入った。まあこの小細工が(爆)、恒一こそが死者ではないかと観客に思わせ、彼自身もそうではないかと怯えることとなるんだけど……。
あ、死者というのはね、恒一が鳴と共にこの死の連鎖のナゾを突き止めた際に判ったこと。
立ち入り禁止の旧校舎で荒々しく物色していたOB、それは彼自身が残した幻の殺人の告白テープ、つまり紛れ込んだ死者を殺してしまった、元々死んでいる死者だから、殺したその死体は忽然と消えてしまい、その不可思議な体験と殺人を犯したトラウマから彼は苦しみ続けている。

しかしなぜ突然、告白テープを回収しようと思ったのか、それは恒一が言うように、この死の連鎖を止めるための後輩たちへのメッセージだった筈なのに。
ていうか、それだけ強烈なトラウマなのに隠し場所を忘れているというのも解せないし……いや、死者がいたという記憶は改ざんされると千曳先生が言っていたから、そのトラウマだけが残って彼もまた忘れていたのか。
……ん?あれ?千曳先生が“紛れ込んだ死者”のことを恒一たちに語ったのってどの時点だっけ。この告白テープを発見してからだっけ、後だったっけ。うっわ、忘れた(爆)。

この死の連鎖が、発端となった事件、つまりミサキを生きているままのように扱ったことが原因だったんではないかと自責の念に駆られている当時の担任教師、千曳先生は、その後3年3組には死者が紛れ込んでくる、そのことがこの恐怖の連鎖を引き起こしているらしい、ことまでは、突き止めていたんだよね。
でもその死者をもう一度殺す、つまり真の死に落とすことが決定的方法であることまでは突き止めていなかったし、何よりなぜ死者が3年3組に紛れ込んでしまうのかまでは……それはこの物語自体もなんでかねー、というだけで終わってしまう。
死者を突き止め、もう一度殺す以外の方法を後輩たちに見つけてほしい、という、実に楽観的なじわーっとした終わり方で、終わってしまう。

いない者に話しかけてしまうルール違反が、死の連鎖を始めさせたと、クラスメイトたちがパニックに陥る。ホラー映画っぽい、実に様々な死に様が用意される。
焼却物の中のビンが破裂、ガラスを直撃、驚いた女子生徒が雨漏りで濡れた床ですべり、乾かしてあった傘の突端に首を突き刺されて絶命などという、ご丁寧にも程がある死に様から始まり、舫ってあったボートが川に滑り出し、ピンと張ったワイヤーロープに全速力で駆けてきた女子の首がすっ飛ばされる、とかね。

おいー、なんか女の子ばかりがバラエティに飛んだ死に方してねえか。最初の死の連鎖のシークエンスで、体育館のステージで、どうやったらあんな具合になるの、なんかワイヤーに吊り下げられて死んじゃってたのもさあ。
あれ?そういやああの時、その死体を冷酷な顔で見下ろしていたのも千曳先生だったような……あれ?時空を超えてる?あれあれ?もう、なんか判らん!
最後の最後の、いわば恐怖のシメで、10何年も経って死者として3年3組に入り込んでくるのが、この物語の時間軸で死んでしまった千曳先生であり、それはこの物語の中で最もゾゾーとさせる、なかなか上手いラストシーンなんだけど、彼は自分が死者であると判ってて、ここにいる、の??

そこなんだよね。実際、恒一が遭遇した死の連鎖の中での死者は、彼自身も亡くなっていたことを当然知っていた筈の、叔母さんである怜子。つまり、母の妹。
怜子は3年3組の死の連鎖に巻き込まれ、その家族である恒一の母もまた、巻き込まれたということなんである。
怜子が死者として甥っ子のクラスの副担任という、まあ幻の存在として紛れ込んできたことを、彼女自身が知っていたかどうかが、凄く気になるところなんだけど、それ自体は明らかにされないんだよね。
彼女は恒一に、知るにもタイミングがあるからと、3年3組の秘密を明かさないんだけど、でもそれは、クラス全体で決めたことでもあるし……。

正直、それもなんでなのかちょっと解せないんだよなあ。だってフツーの感覚なら、そこにいるクラスメイトがいないようにふるまってたら、疑問に思うか、恐怖に思うか、とにかく真相を知りたいと思って何らかの行動はそりゃ起こすじゃん。
それに対してクラスメイトたちは、黙って従え、空気読めというだけで、コトが起これば、従わず空気読まなかったオメーのせいだ、と。そりゃないわあ。
本当に死にたくなかったら、詳細に説明して、協力を請うのが当然じゃないの。「どういう生徒か見極めてから……」なんてぬるいこと言ってる場合じゃないじゃん。なんか、フツーに突っ込みたくなっちゃう。

怜子自身が自分が死者かどうか知っていたかどうかと書いたけど、彼女が昔の写真を見つけ出して、記憶にない合宿写真、その後からは死の連鎖が起こってない例外だと見つけ出したんだから、やっぱり判ってなかったのか……そう考えると切ないけど、でもそう考えると、なぜ死者が3年3組に紛れ込むかというナゾはテキトーに処理されたままの……ような……。
しかもこの合宿で結局バンバン死んじゃうし(爆)。クライマックスで高校生たちがいろんな死に方をするスリリングを示したかっただけでは(爆)。
暴風雨で切れた電線、窓から転落した男子生徒がそれにからめとられてバチバチ、白目むいて感電死なんて、ちょっとマンガチック過ぎないか……先述したワイヤーで首チョンパもそうだけど、ここまでくるとモハヤ怖さは薄れまくってしまうんだよなあ。

主人公の恒一君の演技が初々しすぎたせいかもしれないけど(爆)、高校生たちより、大人役者、教師二人が凄く良かった。
キーマンとなる加藤あいは、いい意味でフラットな芝居を続け、死ぬ間際まで自分が死者だということに気づかないような感じが、哀しみを漂わせていた。
だからこそ、彼女が死者だったということを、恒一の記憶を辿る形で示した時、彼女の登場シーンを繰り返し、足にパンダウンしてみたらはだしで泥だらけ、というワンショットにドキーッ!!とした。
実際は、恒一はそれを見ていた筈なのに、記憶が改ざんされているのだ、というシーンを、一発で示して、シーン一発でドキッとさせる、それはこけおどしとしてじゃなくて、というのが凄く効いてて頭にこびりつく名シーン。

そして千曳先生を演じる、袴田吉彦。いつのまにやらイイ感じで大人の男になってた。恒一たちの時間軸では、自分が原因を作ったかもしれない、若き日の記憶に苦しみ続けている、そこそこに年を重ねている男。もう教師をやるのはツラいのか、図書室の司書に納まっている。
パーマなどかけて、人生投げ出して枯れた様子が何とも色っぽくて、こんな彼を見たことがなかったんで、ちょっとビックリした。
過去の、発端となった事件が起こった、若く情熱にあふれていた頃の彼も示され、そのギャップがあるからこそのこの枯れた色っぽさだったから、最後の最後、ラストシーンに、若く情熱にあふれた若き日の彼が、死者として、ハツラツと生徒に挨拶するシーンに、はだしが泥だらけだった加藤あいと同じぐらいのショックを覚える。うわあ、そんなの、見たくない、と。

そう、ホラー映画って、こういう要素こそなんだよね。それまでの積み上げてきたものが崩される恐怖。それはあったと思うけど、もうひとつ、じわじわと押し寄せる恐怖はちょっと薄かった気がする。
いかにも恐怖の象徴のように示されていた鳴、橋本愛嬢が、結局は普通の女の子(死の色が見えるという特殊能力はそなえていても)であったこと、淡い気持ちをやりとりした恒一が東京に戻ることになる別れのシーンなんて、いつの時代の純愛青春映画よ、ってウブさだしさ。
それはそれで魅力的ではあったけど、ことホラー映画としては……どうだろう。

うん、でも、大人役者が魅力的だったと思うのは、私が彼らの年に近いから、なのかな。そうかもしれない。それはそれで、嬉しいんだけどね。★★★☆☆


あなたへ
2012年 111分 日本 カラー
監督:降旗康男 脚本:青島武
撮影:林淳一郎 音楽:林祐介
出演:高倉健 田中裕子 佐藤浩市 草g剛 余貴美子 綾瀬はるか 三浦貴大 大滝秀治 長塚京三 原田美枝子 浅野忠信  ビートたけし 岡村隆史

2012/9/7/金 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
正直なことを言うと、前の主演作「単騎、千里を走る。」で、もう高倉健のマジックは効かなくなっている気がして、本作はちょっと観る気持ちがあまりわいていなかった。
それでも、その“高倉健のマジック”が奇跡のように大燃焼した「鉄道員」「ホタル」連作の記憶が忘れられず、降旗監督と再びタッグを組んだ本作、大好きな田中裕子がお相手だしというのもあって足を運んだのだが……。

感じたのは「単騎……」と同じ思い。高倉健が高倉健のまま、しわだらけのお顔をスクリーンに大写しにされても、発音がふがふが気味になっている台詞も、高倉健が高倉健のまま単調に喋られても、どうしても、心に響いてこなかった、のは、うう、きっと、私だけだよな、ああ、なんてキチク、こんな大スターに向かって。

でも、そうか、「単騎……」も降旗監督だったのかと思うと、さらにガクリとくる思い。「単騎」も本作も、めっちゃ高倉健ありきの映画なんだよね。そしてここまで高倉健ありきの映画ともなると、なんか両者が寄りかかっているようにさえ思えてしまう、なんてまで言ってしまったら、モハヤこれは非国民だろうか(汗)。
そりゃ人間、年をとればしわもよるし、台詞だってふがふがになるさ。それを恐れて女優ライトあててハレーション気味の大女優の不気味さを思えば、こんなナチュラルなことはないのだ。

でも、高倉健は、年をとった高倉健ではなくて、ただ、高倉健のまま、なんだもの。というか、それ以前に高倉健でしかないというのが、彼は役者ではなく、高倉健以上でも以下でもないというのが、このお年になってくるとさすがにキツくなってくる。
三國連太郎や仲代達矢が同じようによれよれにフガフガに年をとっても、スクリーンにきらめいているのは、彼らは役者だからなのだ、よね。……そんなことを言っては、いけないだろうか。

お相手が田中裕子。何か、「極妻」で相手がどんどん若くなっていった岩下志麻のことなぞ思い出してしまう。まあ高倉健の場合は男一匹の物語も多く、夫婦の物語自体がそれほどないけれど、それにしても田中裕子か、と思う。
それならば年の離れた夫婦の話かと思ってみると、なんかその辺が微妙というか、一体彼らはいくつといくつで出会って、奥さんが亡くなったのは53とか言っていたけれど、その時彼はいくつだったのか。今の時間軸の高倉健の実年齢からさかのぼると、どうにもムリというかほころびを感じてしまう。

オフィシャルサイトではありきたりに“長年つれそった夫婦”なんて書いてるけど、違うよね。せいぜい10数年あまり。
50いくつで亡くなった奥さんが結婚した時は30代?田中裕子も高倉健もどの時間軸もそのまんまなので、どうも読み取りづらい。「子供も作らず」なんて言われても、それは彼女が物理的にムリだっただけでは……などと思ってしまう(爆)。
いやいや、この高度医療時代にそんなことをさらりと思ってしまってはいけないが、でも童謡歌手として慰問に訪れる彼女は、回想的シーンとはいえ、そんな若い感じには殊更演出してないしなあ。

“若い感じに殊更演出してない”のは、勿論、高倉健の方が顕著である。この人には制服着せときゃいいと思ってないー?確かに「鉄道員」の時のロングコートはしびれたが。
まあ本作の刑務官のピシリとしたカッコも良く似合ってるけど、でもやはり“老刑務官”という感じは否めない。冒頭から、風鈴だの花瓶だのだけを部分カラーにするというカユイ乙女チックな描写で夫婦のラブラブっぷりが描かれるのだが、刑務官と慰問に来た童謡歌手としての二人は、そのまんま年をとっているようにしか見えない。
とてもそこから結婚し、10数年一緒に暮らし、奥さんが亡くなってから更にいくばくかの時が経っているようには見えない。
もう、胸のうちでなんども、足し算引き算して、彼らはその時いくつだったの??と思ってしまうんである。

高倉健が夫婦のラブラブな芝居をするめいかなんてこと自体が想定外(予想外よりキツい(爆))だったもんで、なかなか心が整えられないことも大きかったかもしれない。
奥さんが風鈴をふーふーと吹いて、リンリンと鳴る。高倉健がとってつけたように「いい音!」……この人にはこんなシチュエイションはどーしても似合わない……。

病気になってしまった奥さんに自作のキャンピングカーの図面を見せて「だから早く良くなってよー」と、台詞だけ見れば甘えたように見えるが、これまたかなりのとってつけぶりで、冷や汗が出てしまう(爆)。
まあそこはお相手がラブリーな田中裕子だからやわらかく受け流してくれるけど、ちょっと、キビしいんだよなあ。
彼女との回想シーン以外は、もうこれしかできないザ・高倉健で押し通すから、安心するけれど、でも先述のようにそのマジックも……ね。

つまり、もう周りで盛り上げるしかない訳。高倉健演じる倉島は、奥さんがNPO法人を通じて時間差で送りつけてきた遺言に従って、遺骨を彼女の故郷に散骨する旅に出かける。
ご丁寧にも、最初に渡された絵手紙はその散骨のことを頼む内容で留まり、そして二通目はその当地に着いて局留めにされたものを受け取れというんである。

結局、そんな思わせぶりにされた二通目の手紙も、さようならと書いていただけだし、その計画に“加担”した倉島の同僚の奥さん(原田美枝子。倉島の同僚は長塚京三。いくら後輩でもこの年の差はやっぱりなんか不自然だよなー)が言うには、奥さんは楽しそうに笑っていたという。
夫をまごまごさせるちょっとしたお遊びだったのかもしれないとも思う。倉島は、なんたって高倉健らしく重々しい結論を導き出すけれど。

で、そう、周りで盛り上げるしかない。絵を描くのが好きな奥さんと日本中を旅する筈だった、キャンピングカー仕様に改造したワゴンで倉島は出発する。
局留め郵便の受け取りまでは10日。たった10日間とは信じられない出会いの数々である。
普通こういう旅の場合、主人公側が大きく開いていないと、つまり彼の方から話しかけたりなんだり、出会いを求めていかないと、普通はこんな出会いは生まれはしないのだ。

それが倉島、イコール高倉健の魅力と位置づけてしまえばそれまでだけど、二度に渡って絡んでくる(という言い方はおかしいけど、結果的にそうかも……)たけしさん演じる哲学的な車上荒らしの男も、「この人なら助けてくれると思った」とあっけらかんと強引に自分の仕事に巻き込んでくる、草g君演じるイカメシ移動販売の青年も、このしわだらけでフガフガ発音のおじいちゃんをそこまで信頼するのは、いくら高倉健でもちょーっとムリがあるんだよなあ。

いくら高倉健でも、と思ってしまうのが、いけないのか。でもやっぱり高倉健なんだもんな……。
ザ・地味な老人スタイルを再現するかのごとくの、黒のキャップにクリーム色のウインドブレーカー、高倉氏、なんか目の色が薄くなっているような感じで、目力もちょっと……。
この人に積極的に声をかけたり、巻き込んだりするかなあと単純に思っちゃう(爆)。そう、だから、高倉健マジックがね、その効能がね……。

それでも物語はドラマチックに進む。散骨のためには船をチャーターして、迷惑のかからないような海の真ん中でまかなければいけない。
イカメシ移動販売の草g君の、年上の部下である従業員、この人がキーマンでない筈がない佐藤浩市が、船に困ったらこの人に頼んでみてください、釣りの時に知り合ったので……と差し出した連絡先のメモ。
食事をするために立ち寄った食堂で、そのメモを見せた青年が「俺のじいちゃんです」という偶然はいくらなんでもないだろと思ったが、まあそこは、それこそ映画のマジックだとガマンして。しかし、そのメモの筆跡を見て顔色を変えた、食堂の女将さんの余さんで、彼女と佐藤浩市の年恰好の合致で、えーっ、そんな陳腐な設定なの、とガクリ。

そういう男女の機微にはニブそうな高倉健……もとい倉島が、しっかり判ってて、散骨と共に海で死んだダンナに届けてくれと渡された、娘と幼馴染である婚約者の、ウェディングドレスの衣装合わせの写真を、しっかと佐藤浩市に渡す。
うーむ、出来過ぎすぎてガックリとか言っちゃダメだろーか(爆)。

海難事故に遭って行方不明になって、漂流しているうちに魔が差した的な。多額の借金を生命保険で返すことが出来て、妻と子供に迷惑をかけずに“死ぬ”ことが出来る、と、なんか火曜か水曜のサスペンスドラマの設定みたい、なんて言っちゃダメだろーか(爆爆)。
有名な森駅のイカメシ販売の従業員に、そんな偽名の、身元がアヤフヤな人が勤められるとかしちゃっていいのだろーか、とつまんないことを思っちゃう。
しかも草g君、倉島を誘って居酒屋でイカ刺し頼んで「ぶっちゃけ、刺身の方がウマイでしょ」と。そ、それは、それは、それは、個人の好みもあるでしょ!イカメシ押し的に、それはいいわけ??

食堂の娘に、綾瀬はるか嬢。チャンスがあるうちに、巨匠や黄金スターと仕事しておくのは確かにいいと思う。彼女はぶっ飛んだところが魅力だが、こういう、いわゆるフツーの女の子を演じさせても意外にソツなく、チャーミングにこなす。いや、単に私が、彼女がシリアス演技をしている作品を見る機会がないままなんだろうけれど。
佐藤浩市が倉島に紹介した老船頭が大滝秀治。こういう年のとりかたをしてほしい(爆)。彼の孫に任せっぱなしで、倉島自身がちゃんと頼み込んでいなかったこと、それを倉島は「自分が迷っていたのを見抜かれた」という言い方をしたけど、単にぼーっと後ろで突っ立ってただけだからだろ(爆)。

まあとにかく、倉島は、嵐の収まった坂の多い港町を歩いて回ってね、古い写真館に飾られていた、奥さんの幼い頃と思しき、のど自慢的なステージでの写真を見つけるんである。
……これもまた、ちょいと微妙である。まあそりゃ、実際の田中裕子の幼い頃の写真な訳もないから、そういう設定、というだけだから。
実際にそうなら、見てる観客もあ!と思う面影とか、そういうんで倉島=高倉健と共に感動できる場面なんだけど、これちょっと、微妙、だよなあ……。だって違う子かもしれないじゃん(爆)。
段差に片足をかけて写真を眺め「……ありがとう」とつぶやく場面は予告編に使われているぐらい、ザ・高倉健的カッコ良さだが、あ、でもこのポーズって、港の船止めの上に足を乗っけてる裕ちゃんか小林アキラチックだよなあ(爆)。

奥さんには過去があるんだよね。さらりと流されるけど、結構ディープな過去、だと思う。
慰問に来ていたのは、歌っていたのは、受刑者みんなに向けてじゃなかった。たった一人のために歌っていたのだと、彼女は最初に倉島と会話した時に告白した。だからもう、慰問には来られないのだと。
突然来なくなったのは、そのたった一人の受刑者が死んでしまったから。彼の部屋には彼女が送った絵手紙が沢山残されていた。
彼が鉄柵越しに餌付けしていた雀に、彼女は自分を託していた。そしてその雀を、その後伴侶となった倉島への遺言にも描いた。故郷に散骨してほしい、と灯台を見つめるふくよかな雀、そして局留めの絵手紙には、飛び立つ雀にさようならのひとことだけ。

これってさ、よーく考え……てみなくても、相当残酷、てか、ありえないんではなかろーかと思う。だって彼女はずっとこの、“たったひとり”に餌付けされていた雀だった、と言っているようなもんじゃん。
で、明確にはされないけど、この“たった一人”は、同じ故郷の出身とかじゃないの?そこに散骨してほしい、とじっと待ってる雀の絵。
そして、その続きがなんなのか、せく気持ちで局留めの二通目を受け取ってみれば、「さようなら」の一言のみで、飛び立つ雀。
これじゃ、倉島には気持ちのひとつも残ってないって言ってるも同然じゃん……。

私ね、倉島が灯台を眺めやリながら、二通の絵手紙を海に向かって投げ捨てた時、えーっ!?と思ったんだよね。えーっ!そりゃないよ、これって、彼女が残した最後の手紙、しかも絵手紙、心をこめてしたためた手紙じゃん、と。
でも、こうしてつらつら経緯を考えてみると、結構ヒドい手紙であり……。ただ、それを倉島、つーか高倉健が感じてたかどーかは思いっきり、ひどく、疑問、なのだが……。

倉島自身はどうか知らんが、それを演じる高倉健は、つまり、高倉健>倉島は、明らかに判ってない、よな、と思う。
妻は、そこで時間を止めるなと、そこから流れる自分自身の時間を生きろと言っているんだと佐藤浩市に語る。
その時に、ものすごく唐突な結論のような感触があって、はぁーっ?と思いつつも、その時には雀の意味合いのこともなかば忘れてたもんだから(爆。スンマセン、ボンヤリ観てたからさあ)、そういうもんなのかなあとも思ったけど……。
こんな風に結論づける高倉健>倉島は幸せなのか、どうなんだろう……奥さんがずっとずっと、たった一人の雀であったとは考えないのか、なあ……。

どっちの結論にしろ、遺言の、こんな手の込んだ渡し方をした遺言の絵手紙を海に放り飛ばした時点で、私は完璧に気持ちが離れてしまった(爆)。
それがたとえ裏切りの表明でも、奥さんがそれをしてほしかったとは思わないなあ。骨を海にまいた代わりにと、その絵手紙を抱いて眠ってほしい、などと考える私こそが、オトメチックなのだろうか??★★☆☆☆


アフリカの光
1975年 95分 日本 カラー
監督:神代辰巳 脚本:中島丈博
撮影:姫田真佐久 音楽:井上尭之
出演:萩原健一 田中邦衛 桃井かおり 高橋洋子 藤竜也 絵沢萠子 吉田義夫 小池朝雄 峰岸徹 丘奈保美 河原崎長一郎 藤原釜足

2012/1/11/水 劇場(銀座シネパトス/萩原健一特集)
ショーケン映画祭二本立の二本目。しかしこれはショーケンというより田中邦衛の、いや、“ショーケンと田中邦衛”のコンビの圧倒的さ。
一体、何。彼らはまるで恋人。いや、恋人以上。もともと男同士の友情にはかなわないものがあるとは思うけど、それが一対一に100パーセント凝縮されると、恋人も恋人以上もそんな言葉も届かないほどになるのか。

時折見ていられないほどにイチャイチャする二人。イチャイチャとしか言い様がない。銭湯で当然ハダカで、じゃれまくる二人、ショーケンが駅弁スタイルで田中邦衛を抱き上げたりして。
腰にひとつ巻いているのはさすがに映画だからマズいと思ったゆえか、でもそれすらも妙にアレでもうなんかなんか、どうしよう、と思った。

二人とも女好きで、田中邦衛が貪欲に桃井かおりに襲いかかる場面もあるし、しかしそのそばでショーケンが所在なげにし、“次の番”を、オレはいいよ、また今度で、などと妙に拗ねていたり。
あるいは、ショーケンが田中邦衛のことがしんどくなった、とふと桃井かおりに漏らしちゃったのを聞いちゃって、俺を捨てる気だろう!(いや、そんな言い方はしてなかったか……)と、まさに嫉妬の嵐で荒れまくったりとか。
なんかもうもうもう、何この二人のラブラブっぷりは!しかもこの男くささの二人がガツンとぶつかり合うからそりゃあもう、そりゃあもう……こんなん、初めて見た!

てか、落ち着け、私。興奮しすぎ(爆)。大体、ショーケンと田中邦衛と桃井かおりで話を進めてたら判らなすぎ(爆爆)。
ショーケンは順、田中邦衛は勝弘。二人して寒々しい雪原を肩をすぼめて歩いてる。
タイトルがアフリカの光、だからアフリカがどこで出てくるのと思ったが、アフリカとは正反対のこの最北の港町から出ることはない。

いや、まるで資料映像のように、二人の憧れの脳内映像のように、サバンナの中を駆け巡る動物たちの映像が時折挿入されもする。でも挿入されるほどに、非現実度が増すばかりである。
つまり、二人が夢見るアフリカが遠のくばかり。そこに描かれるのは、彼らの、あるいは私たちが単純にイメージするアフリカ。そこに人間の姿もないしさ。

そもそもなぜアフリカなのか。彼らがなぜそんなにアフリカに恋焦がれているのか。
例えば彼らがこの舞台となっている北の地(羅臼なの?そんなこと、言ってたかな)の生まれで、対照的なアフリカに憧れた、というのなら判るけれども、彼らの故郷は別にある。

劇中、勝弘が肋膜炎を患い、この寒い気候が何より毒だということで彼らの故郷に帰ることになる。土地の名前、言っていたようにも思うけど、カマタとか言ってたかなあ、ちょっと聞き取れなかった(爆)。
ホントに蒲田なら、バリバリ都会の二人、だよな。そんな彼らがアフリカに憧れ、ひょっとしたら最北の地にも憧れて、この寒々しい漁港に降り立ったのかと思うと何か切ない気分になる。
都会人で、若くて、遠いアフリカに憧れる、そんな自分さえもちょっと誇らしいような、ザ・男の子。

でも、男の子っていう年でもないよね。そこらへんも何か、切ない。それでも20代であろう。30代になればさすがに、分別もついてくる。いや、出来れば20代でついてほしいけど(爆)。
えっ、でも二人は実際はかなり年が離れてる。田中邦衛はこの時40越えてるのか!そんな感じには見えない……。

彼らがどういう出自なのか、友達だけどどこからの友達なのか、アフリカに対するつながりだけなのか、幼馴染なのか。
例えば親を厭って飛び出したという風にも見えなくて、この重くどんよりとした、いかにも寒そうな雪の舞い散る北の漁港に突然、背の高い世間知らずの青年二人が舞い降りたような、なんとも非現実的な感覚がある。それこそ、アフリカぐらいに、非現実的。
だから、彼らがアフリカに行ける日が来るなんてとても思えないし、実際、劇中では二人のそんな夢はまさに夢、御伽噺で、そんな雰囲気は毛ほども感じさせないのだ。

でも、物語の最後に、順の方が、ここから何百日後にアフリカに渡った、みたいにクレジットされるんだけど、でもその道行に勝弘がいたかどうかも示されないし、なんか最後までどうにもこうにも切ないんだよね……。

順と勝弘が、この漁港はアフリカへの船が出るとかぎつけて、どこか雇ってくれないかと、場末の飲み屋で実に軽々しく聞き歩いている。
彼らの態度は、当然のことながら地元の血気盛んな若者たちを激昂させるに充分である。
金がないくせに飲みには出かけ、飲み席で赤裸々に春を売っている女に高飛車に出られて腹を立て、暴れたりするあたりはいかにも無鉄砲なワカモンである。

しかしその後、そのホステスの女に充分な金を握らせてよろしく請うあたりは、都会で育った青年の如才なさかもしれない。けど、結局はそれが彼らの首を絞めるんだよね。
女たちはそれでホクホクとし、桃井かおり演じるふじ子は彼らに気前よく身体を提供したりもするけれども、でも彼女が紹介した博打場の見張り役の仕事が順と勝弘の鉄壁だった筈の絆をゆるめてしまうし。
この仕事を引き受けた順は港の男たちの嫌われ者になって、殺されそうなリンチにもあうし。

ふじ子。桃井かおりである。この日の一本目でもショーケンの運命を狂わせる女として強烈な存在感だった彼女。
ほとんど同じ製作年度なのに、女子高生から短大生で、家庭教師の彼をセンセーと慕う乳臭さがその舌足らずを強調させていた一本目と、海千山千の百戦錬磨のホステス、新進気鋭のヤクザの女なのに、順にも色目を投げかけるプロの女である本作では、彼女特有のその口調も抑え目で、この二本、まるで別人のよう。
いや、確かに双方桃井かおりの魅力なんだけど、何か改めて、彼女の凄さに思い至った気がする。

勝弘は反対した賭場の見張り役、順は過酷な釣り船での仕事を嫌がって引き受けてしまう。
その賭場を仕切っている新進気鋭のヤクザ、穴吹を演じている藤竜也、ちょっと太ってた時期?でもそれすらも妙に色っぽくて、オーラがハンパない。
賭場では負けが込んだ客とのトラブルがしょっちゅうで、だからこそ見張り役に過ぎない順も逆恨みされてしまうんだけど、確かに順は若くて青い、んだよな。荒れる客に尊大な態度なんかとってしまうから、穴吹からたしなめられるのだ。

穴吹はひたすら平身低頭、客からボコボコにされて血まみれになっても、平身低頭。その我慢強さで、急激にこの地で勢力を伸ばしてきた。
……ひょっとしたら、順の青臭さが、単なる見張り役なのにでしゃばってしまったことが、手入れにつながって、穴吹の努力を水泡に帰してしまったの、かなあ……。

そうかもしれない。確かにそうかもしれない。でもそんな雰囲気はにじませず、藤竜也はそれっきり出てこない。そのあたりは実にストイックである。
ていうか、物語の主題は順と勝弘のラブラブだから。って、いや違う!なんかどうも私、萌え方向に走りたがってるな。危ない危ない。

ふじ子は穴吹のヒモだった筈なのに、彼が捕まると、あっさりと順と逃げようと言う。
ていうか、じゃなくて!その前にちょっと先述した、勝弘の病気と故郷への帰還があったんだっけ。
そう、ここはひとつのクライマックス。だってさ、勝弘は自分が病気であることをとにかく認めたがらなくて、着替えさせるのも、体温を測るのも一苦労。体温計を口にくわえるか、ケツに差し込むぞ、というショーケンとのやりとりに萌え萌え(爆)。
もう治った、治った!と言い張って銭湯に出かけ、これも先述したけどハダカでやたらめったらイチャイチャ抱きあって、他の客たちに冷ややかに見られるとか、なんかもう、あてられちゃって(爆)。

ショーケンが田中邦衛を抱きかかえて、銭湯の窓を開けると、寒風が白い霧のように吹き込んでくる。
それまでも散々、この北の地の冬の厳しさは示されているけれど、この場面では彼らがやたらラブラブしているせいもあって、遠くに煙る海がやたら遠く見えて、何か妙に印象的なんだよね……。

そういやー、女は桃井かおりだけじゃない。順はちょいと若い子に言い寄られるんだよね。
村の漁師の娘、サヨ子。いかにもおぼこ娘といった風情だけど、母親が、夫が遠洋漁業に行っている間に若い漁師をくわえこんでいるのをこっそり除き見て、あの感じはひょっとして……コイてる?(うわー、ゲスな言い方(爆))。

まあつまり彼女は、色ボケした親に対しての苦々しい思いを抱えていても、自分自身の中に芽生え始めた本能に割と素直に反応してるのね。それに対して特に悩んだりもしてないし(爆)。
付きまとわれて閉口した順から強姦するぞと牽制されても、してよとばかりに自ら服を脱ぎにかかる大胆さ。……恐らく彼女はまだ、ゴーカンという意味が判ってない、んだろうなあ……。

何より何より切ないのは、順が勝弘を故郷に送り出す場面である。
小さな田舎の駅。窓口で切符を買う。餞別をやろうとする順を勝弘が執拗に拒否する意地の切なさ。
いつか一緒にアフリカに行くんだから、絶対に帰ってこいよ、順は何度もそう言った。戻ってこいよ、だったかな。とにかく、彼らの居場所は故郷ではなくここなんだと、勝弘の返事が欲しいようでもあった。
勝弘は……明確にウンとは言わなかった気がする。それが、最終的にとても気になる。最後のクレジットで、順は何百日後かにアフリカに行ったと言っていたけれど、勝弘は一緒していたのだろうかと。

順が勝弘のことを疎ましいとふじ子に言ったと勝弘は嫉妬して、順は自分ではなくふじ子を取ったんだとそりゃあ思ってさ、あの時のオトコとオトコの身体ぶつけ合いの場面は、もうねっとりラブシーンとしか思えなくてさ。
その誤解、ていうか、実際順は、女に対してのリップサービスだったのか、そんな風に言っちゃってたんだから、なんか、二人のわだかまりはとけなくて。

でも結局、最終的にふじ子もいなくなるし、サヨ子がいっとき順の癒しになりかけもしたけれど、賭場での逆恨みから、漁船の同僚たちから殺されそうなぐらいひどい目にあってさ。
この場面、本当に怖かった。冬の冷たい海にギリギリに押し込まれて、このままドボンとされちゃったら、もういっぺんで凍死。
順はアフリカ行きの資金を工面するために、勝弘が戻ってくることも信じてこの漁船に乗り込んだんだけど、彼らは口調は冗談を装ってるけど、あれは完ッ全に本気だった、よなあ……。
映画だ、フィクションだと判ってはいても、背筋がゾゾッとするこのシーンの臨場感、ショーケンがマストに逃げ登ったのが本気な気がしちゃう。
それまで何度となく勝弘に不器用な手紙を書いていた順、返事が返ってくる気配がないのが、まるで片思いみたいで、うっかりトキメキそうになる(爆)。

リンチ野郎たちに右手を怪我させられて、左手で不器用に書き綴った手紙で、あいつらを絶対に殺してやる、と息巻いていた、から、うっわ、ここからまた修羅場?と思ったら、そこでじんわりとラスト。
勝弘は戻らず、順は復讐もせず、ただ、「彼がアフリカに渡ったのは、ここからウン百日後」と示されるだけ。

ショーケンと田中邦衛のラブラブに動悸が収まらず、それがトラウマ的に刻み込まれて、どんな物語なのかもあっちゅー間に忘れそう(爆)。
女子は男同士の友情に本能的に憧れがあるからさ、それにしてもこんな究極に、キョーレツに示されると、もう、ホント、トラウマかも(爆)。 ★★★★☆


アフロ田中
2012年 114分 日本 カラー
監督:松居大悟 脚本:西田征史
撮影:小林元 音楽:笹井章
出演:松田翔太 佐々木希 堤下敦 田中圭 遠藤要 駒木根隆介 原幹恵 美波 吹越満 皆川猿時 辺見えみり リリー・フランキー  長塚圭史 井村空美 波瑠 米村亮太朗 あやまんJAPAN 武田修宏 佐藤二朗 前野朋哉

2012/2/28/火 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
確かに“松田翔太が嬉々として演じている”……。でも中身が松田翔太だと思ってしまうとヤハリ、彼女いない歴=年齢であるイケてない青年というのはうーむと思ってしまう。
まあそのう、イケメン俳優さんというのはこういう役をやりたがるもんだよナ、などとついイジワルなことを思ってしまう。

だって、どんなに強烈なアフロでも、ダサさ満点のファッションでも、マンガそのもののへン顔を一生懸命(ここは嬉々としてというよりは、一生懸命へン顔作ってるように見えちゃう……)作り上げても、素の顔は美しい松田翔太のお顔なのだもの。
逆にお兄ちゃんの龍平君の方が似合うような。ま、年は合わないけど。
んん?なんで?いや、なんか龍平君って、ちょっと天然の可愛らしい可笑しさがあるじゃない。そのぼーっとした感じでこれやったら、なんか面白そうな気がしちゃって。
なんとなく弟君の方は、正統派というかしっかりしてそうな感じがするんだよな。いや、これは単に私の勝手なイメージだけど。

監督さんは、初めて見る名前。続々若い監督さんが出てくるのが頼もしい昨今、このお人もまた、飛びぬけてお若い。
映像を撮る、ということが、恐らく子供の頃から普通に身近な世代なのだなあ、としみじみと感じる今日この頃(爆)。
お写真を見ると、彼こそがアフロ……ではないけど、くるくるパーマが似合うキュートなお人である。

いっそのこと、彼自身が演じてみたら良かったんじゃないかと思うほどである。いや、実際、似あっている気がする。
コミックス原作の本作が、どこまで原作を踏襲しているのかは知らないけど、今も連載中というなら、その中のどこかを切り取って映画に仕立てた訳だからさ、きっと監督自身の思い入れに合致するところが抑えられているだろうからさ。

それともあれかな?ずーっと田中君はこんな感じなのかな?ずーっと、いつまでもいつまでも、年齢=彼女いない歴の切なさのまま続くのかな?そうかもしれない……。
タイトルどおり、本作の、原作もきっと、その魅力の大いなるところは、画としてのインパクトと可笑しさであり、大きなアフロ頭の田中君がフツーに生活している画だけで、可笑しいのよ。
私ね、この設定、ていうか、タイトルとか予告編の画とかを見た時に、とにかくこのアフロにこだわって、突っ込んで展開するのかと思ったの。でも、誰一人、その髪型の異様さに突っ込まないことに驚嘆した。

いや、唯一、冒頭だけ、幼き頃の田中君に対してだけ。フツーに可愛らしい天然パーマだった幼少時代、しかし天パは子供にとって充分にイジメの対象になる。
悩んだ田中少年は、思い切って二倍もの大きさに膨らんだアフロ頭にして登場、いじめっ子たちは怯えて逃げ惑う。
「この時が人生のピークだった」と田中君は述懐する。そう、この時だけ。彼のアフロ頭に、そして彼自身に、存在価値(?かなあ……)を見出してもらえたのは。

そうそう、こんな具合に、田中君=翔太君のモノローグにて進行していくんだよね。
まあ全般的にアホさ満点で、それこそが魅力ではあるんだけれど、後半になってくるに従って、彼女がいない、素敵な女の子がいる、あんな子を彼女に出来る訳ない、でも好きにならずにいられない、ウオー!!!みたいな、遅れてきた青春期真っ只中(いやだって、もう20代半ばも来てる訳だからさ)になってくると、多分に普遍的になってゆく。

友情物語なんかも色濃くなるし。……難しいところなんだよなあ。アフロ一発の画で可笑しい、誰も突っ込まないことも可笑しい、友人たちも髪型以外は田中君と似たりよったりで連れてくる彼女がいちいちヤバイ感じも可笑しい。
何よりいちいち自分の中でモノローグしてる田中君(そうなの、田中君のモノローグは、映画を進行させるためのそれじゃなくて、自分自身の独り言、つまり妄想系なんだよね)が可笑しい、んだけど……ギャグ映画になりきる訳でもないし、かといって恋愛一途な映画でもないし、何より翔太君がアフロ田中の造形にやる気マンマンだし(爆)。

まあその、万年童貞君みたいな切なさがそこここにちりばめられているのは確かに魅力的でね。
高校生時代、イケてない友達同士、デブの友人の豊かなおっぱいにブラジャーをつけさせて擬似モミモミでコーフンしたり、ローカル列車の向かい座席に居眠りしている女子のミニスカの太ももの奥に生唾を飲み込んだり。
モテない、どころか縁すらない男子の青春の甘酸っぱさが可愛くて、それは、こんなギャグ仕様じゃなくても全然成立しちゃうからなあ。

田中君と高校時代つるんでいた、他四人の仲間たちは、総じて魅力的である。
遠藤要、田中圭と、かなーりお気に入りの役者も入ってるし♪
遠藤要はともかく(ゴメン!いやさ、優しい笑顔はステキだけど、コワモテ作ると怖いじゃん……)、田中圭がモテない男子グループに入ってるのはムリがあるよなあ。めっちゃ女の子にモテる可愛い顔してるのに!
あ、そうか、だから手練な女の子にアッサリ騙されてしまったのかあ?

物語の主軸となっているのは、高校時代の悪友五人組が、最初に結婚したヤツの式には、それぞれカノジョを連れて行こうぜ!という、その時点では途方もない夢に思えた約束なんである。
田中君はノリで高校を中退、それなら生活費を毎月3万入れろ!と母親に言われて、庭にプレハブを建てちゃう。毎月の生活費よりこっちの方がオトクだろうと。
……生活費は家賃というよりは、食事とか洗濯とかの意味合いだろうと女子ならすんなり判るのに、男子は、ていうか田中君は、いややっぱり男子はバカ(爆)なんである。
実際、プレハブ建てたって、そこに母親が食事に呼びに来る始末なんだから。

それ以上に自由になりたい、と、田中君はいきなり上京しちゃう。工務店に勤めて現場に通い、ボロアパートながらも自由な生活はなかなか楽しそうである。
しかも、隣にむっちゃ可愛い女の子、亜矢が越してきた!いくらカノジョを渇望している田中君でも「いやいや……あんなのどうこう出来る訳ないだろ。身の丈を考えねば」

どんなにときめいても、しかも亜矢の方からどんなに好ましい接触を図られても、他のイケイケ女子(合コンにおけるね。だってあやまんJAPANなんだもん(爆))に対するようには欲望をあらわに出来ない。
むしろ修行僧のように、禁欲的に対応する。そりゃあ、亜矢はますます田中君に対して好感を持つに至る訳なんである。

亜矢はお隣さんになる前から、田中君を見初めていた。野良猫に缶詰をあげている姿を見かけていたから。
彼自身は、自分より弱い立場の野良猫にほどこしを与えることに、ミジメな自分を慰める意味合いもあったんだけれど、そもそも女子は猫に弱いし、亜矢の職業がトリマーだということもあって、田中君に好感を持つのは自然の流れだったのだろう。

しかし、しかーし、ここがまさに、本作の潜在的な可笑しさなんだけど、あの異様におっきいアフロ頭には、亜矢は最後まで触れないんだよね。まるで見えてないみたいに(爆)。
越してくる前に、元カレに浮気されて傷ついていた亜矢は、でも気になる人がいるの、と同僚に話しながら、彼女が担当しているのは、まさに田中君を思わせるふわっふわのマルチーズ……じゃなくて、なんですかねあれは?
ここぐらいかなあ、田中君のアフロに対して、いわば“ツッコんだ”場面って。

だってさあ、だってさあ、田中君のアフロって、すんごく触ってみたい魅力があるじゃん。観ている間中、触ってみたい、触ってみたいー!!と心の中で叫び続けていたもん。
現場の田中君がさ、ヘルメットに押さえつけられたアフロが窮屈にはみ出しているのとかも、なんともチャーミングでさ!

実際ね、女子は意外にこーゆーのに弱いかもしれない。男子は視覚的、女子は触覚、嗅覚で異性に魅力を感じるという記事を最近読んで、そうかもしれないー!と思ったのね。
まさに男子はわっかりやすく可愛い女の子が好きさ。あるいはおっぱいがデカいとかね。もうその時点でダメさ(爆)。
でも女子は、そういうフェチ的なところがあるよね。アフロに触ってみたい、それできゅんとくることって、あると思うなあ。
あれだけ合コンシーンでエロエロあやまんJAPANを出してきたんだから、なんかそういう、女子的満足も欲しかった、かも。

おっと、なんか結構脱線しちゃったかな(爆)。えーと、で、なんだっけ。
そうそう、亜矢とお隣さんとしての前提で、イイ感じに仲良くなるのね。ゴキブリが出て飛び出してきた彼女にお茶を振舞ったり、外で食事をしてみたりとか。
その間、結構田舎にも帰っている。田舎って言っても、東京からすんなり帰れる、いわば関東近郊。
でもそれだけに余計にイナカモンを感じるのかも、ってことは、上京してから、それこそ関東近郊に住んでみてから、初めて知ったこと。

悪友たちは首尾よくカノジョを作っていて、しかしその誰もが、前髪ダラリの暗そうな子や、ムチムチ系のブチャ子や、電車で黒人と手をつないで股広げて眠りこけてたと思いきや、路上で他の男と「ちゅっこらちゅっこら」(田中君曰く)やってた子やら、とにかく、いいのか、そんな子で?と田中君は軒並み思うのね。
……ウワキ女はともかく、それ以外は、それこそ単なる外見だけの話だから、この時点ではかなりイラッとくるのだが。

この五人の中では1、2を争うモテなさ加減と思われる、堤下氏演じるインスタントラーメンの屋台をやってる(……そんなの、成立するんだろうか……)大沢みきお(……なんちゅー役名だ……)のカノジョが、元AV嬢だったというくだりはちょいと感動させたんだけどなあ。

そんな過去なんかどうでもいい!とか言ってくれるのかと思ったら、「俺は毎週一本見てる!」「AVは日本の経済を支えてる!」「AV嬢は人を幸せにする仕事だ!」いや、確かに、こっちの台詞の方が、過去を気にしないと言うよりは感動的だわね!
で、感動したのに、AVに戻ったとしても、君を愛しているから問題ない、と、それこそ映画のように抱き合ったのに、「AVに戻ったら、そのまま戻ってこなくなった」……そして、結婚した井上君以外は全員、カノジョと別れてしまったんであった。

と、いうのが判明するのは約束の、井上の結婚式なんだけど、その前に大きな、最も重要なひとくさりがあってね。
合コン必勝法だのを「上司に聞かれた」と言い訳して聞いてくる田中は、どうやらカノジョナシだぞと悪友たちは察して、クリスマスのサプライズを仕掛けるんである。
それもね、最初に遊びに行くことを約束してドタキャン、その後にサプライズで訪れるなんて趣向にしたもんだから、悲劇的な結末になっちゃうの。

久しぶりに友達たちと、しかも自分のところに来てくれることにテンションあがった田中君が、折り紙で作ったくさり飾り(なつかしー)だの、人数分の円錐帽だの用意しているのがあまりにも涙ぐましくてさあ。
ドタキャンを申し入れられて、かわいそうなぐらい意気消沈している田中君のもとに、思いがけず亜矢から「友達にドタキャンされて……」とお誘いが!
無論亜矢は、彼にアタックするためのウソだろうけど、それだけに観客の期待は高まるんである!

でも、案の定というべきか、「なんか飲み足りないね……じゃあ、ウチ飲みでも」というところに、ひそんでいた悪友たちが爆裂しちゃって、しかもそのタイミングがサイアクなの。
気にしすぎの田中君が、ムーディーな音楽やら(たまたまつけたラジオから流れてくる!)万年床の枕もとのティッシュやら(なんとか遠ざけようとしたのに、つかんだところで振り向かれた!)、「亜矢さんはバッグが好きなんですか?」「ば、バック!?」「かばんです。いつもオシャレなのを持ってるから……。」なんていう、ベタなやりとりやら、とにかくいっちばんヤバイところに、押入れに潜んでいた悪友たちがたまらずに落下!
しかもその手には、田中君のリアクションを見たいがためのビデオカメラ構えてて、亜矢は「ハメ撮り……?」とつぶやいて、もうホンットに最悪!
いやしかし、亜矢もちょっと想像が飛躍しすぎだけど……てゆーか、この台詞を今をときめく佐々木希に言わせたことこそが、大金星?

なんかこの時点ですっかり疲れ果てちゃってるけど(爆)。盛り上がりはもうひとつ、ふたつ、あるのよね。
この場面ですっかり亜矢から誤解されてしまった田中君は、悪友たちに八つ当たり(ていうか……まあ確かに彼らのせいだもんな)して、岡本君のカノジョがウワキ女であることを暴露して、すっかりその場を冷めさせてしまう。
「田中、お前なんか……変わったな」と、村田(遠藤要)からお決まりの台詞を言われ、しかしフォローすることも出来ない。

当然亜矢とはその後断絶状態、悪友たちとも関係修復できないまま、井上の結婚式とあいなる。
そうそう、田中は友人代表のスピーチも頼まれていたのだ。それをあのゴキブリ騒ぎで一気に距離が縮まった亜矢に添削してもらって、バカまるだしの文章が洗練されていた。
思えば、この悪友の中でスピーチを頼むんだから、田中君は、友人として、凄く重要な位置にいたんだよなあ……。

ふっと、あ、忘れてたことがあったと気づいた(爆)。田中君の職場の話。
やたら合コン好きのテキトーな職場に見えるが、田中君が、この青春のナヤミで一度無断欠勤しちゃってさ、亜矢にうながされて、社長以下、上司たちに謝りに、飲み屋に入っていくシーン。

田中君は、釣りをしていた、ただ事実はそれだけだ、というだけで、何か言うことがあるんじゃないかと促す上司の望む言葉を一向に口にしないので、見てるこっちがハラハラする。
「でも、反省する気持ちはあるんだろ」とついに先んじて言ってしまう社長に、「それはもちろんです!」とここぞときっぱり言い放つ田中君は、これで終わったとばかりに、さっそうと店を出て行く……。

「モヤモヤするな」というリリー・フランキーの台詞を聞かずとも、これはモヤモヤどころか、田中君って、実は凄い計算づくで、ズルいヤツなんじゃないのお!?と疑っちゃう!
この時の田中君に感じ入った亜矢が、元カレとの関係を清算しに行ったという後のエピソードは、結果的に田中君に悲劇をもたらしたし、ど、どうなの、と思うのだが……。

最終的な感動クライマックスは、井上の結婚式。サプライズパーティーの気まずさを解消できないまま迎えた式に、友人たちもカノジョを連れてきてないし、ヤケになった田中はへべれけになってスピーチに向うし、ど、どうなっちゃうの、とヒヤリとしつつ。
これはかなりベタに、青春時代のくっだらなくもかけがえのない思い出の時間を、中退しなければ良かった、一緒に卒業したかった、今この日が、卒業の日ですと、へべれけとは思えない出来たスピーチで、会場感動。井上号泣。

「結婚は希望ではなく、辛抱です!」と亜矢に教えられた決め台詞を逆にかまして、シーンとなるも、悪友たちが真っ先に爆笑してへべれけの田中を迎え入れる。ひな壇の井上、さらに号泣。
この後に亜矢にフラれる場面を入れなくても、ここで終わっても良かったと思える、だって、これって、モテない男のトホホなお話というよりは、モテなくても男同士の友情があればオッケーでしょ!て体裁なんだもん。

五人のうち実に四人がカノジョ(田中君に関してはそれ未満の、好きな人)にフラれても、大してショック受けてないんだもん。
男同士の友情があればオッケーと思ってるんだもん。カーッ!ムカつく!!トシヨリになっても精子が生きてる男はいいよね!(オイ……)。

田中が亜矢への思いを断ち切れないことを知って、悪友たちが必勝デートを伝授し、それは時にはかなーりどうなの、と思う要素もあるんだけど(女の問いかけに三回同意すればOKとか。メッチャバカにされてる気がする……)、かなりイイ雰囲気にはなるのだ。
亜矢が、元カレから呼び出されて会って、ヨリ戻そうと言われたけど断ったとかさ、妄想気味の田中君でなくても、これは!!と思わせるの。

でも、ダメなのだ。……正直、亜矢が言う、田中君がダメな理由、田中君のこと一時はアプローチしたぐらい好きだし、今だって好きだけど、彼女の断る理由は、元カレから呼び出されて、それに応じてしまったこと、なのだというのがね、なんだそりゃ!っていう……。
つまり、呼び出された時点では亜矢は元カレに未練があって、そんな気持ちで会いに行った自分が許せないっていうんだけど、それと田中君への気持ちと何の関係があるの……?
亜矢が、ていうか、佐々木希嬢が「自分が許せないの!」と連呼するたびに、メッチャ、ウソくさい……と思ってしまうのがツラいんだよなあ……。

結局、田中君はジョークのように、高校生の時のように、亜矢のおっぱいをヘーイ、とタッチし、サイテー!と見事なハイキックをほっぺたにお見舞いされる。
うおー、うおー、と泣きじゃくっていた田中君だけど、次の瞬間には真顔の真声で悪友と電話してる。……男性にとっては救いのラストかもしれんが、なんかこの瞬間、女との立場としては、メッチャヒヤリと傷ついた気がした……かも……。

なんつーか、あらゆる点で、微妙。画としての面白さを、ギャグ映画としての面白さをもっと追求してほしかった、とも思う。
まあ、あるんだけどね。童貞卒業未遂の田中君が見ている、ラブホのテレビの料理番組のくだりとかはちょっと好きだったし。下ごしらえするビニール袋がやぶけないのかとか、コショウが“少しずつでいい”のに“どうしよう、(フタがとれて)一気に出ちゃいました!”とか、エッチな暗示がふんだんに入ってるくだらなさとか、無性に好きだった。

キャストとしては最もゴーカであろう、武田修宏氏が、「イケる!」妄想のためだけに、メチャクチャ多重状態で登場するのなんてサイコーだったしさ。
武田氏というのがまず絶妙で可笑しいし、シュートも、ゴールを割られるキーパーも、とにかくサッカープレイヤー全部を武田氏がやってるってのが!ちょっと、これは、不覚にも?笑ってしまった。でも田中君はそんな風に恋のシュートを決められなかったんだけれど……。

勿論、青年、友情の甘やかさ、ダメさの愛しさはステキなんだけど、そもそもの前提が、イマイチ活かされてないというか、難しいよね。
受け手が何を見たいかの問題と言われたら、私だけのたわごとになっちゃうしさあ……。 ★★★☆☆


アリラン/Arirang
2011年 100分 韓国 カラー
監督:キム・ギドク 脚本:キム・ギドク
撮影:キム・ギドク 音楽:
出演:キム・ギドク

2012/3/13/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
今、世界で一番の天才監督は誰かと問われたらキム・ギドクと答えるだろうし、新作が待ち遠しい一番の人も、勿論、一番大好きな監督は誰かと問われても、きっと私はそう答えるだろうと思う。
そう、思っていたのに、彼が新作を撮らずに3年も経っていたことに気づかずにいた自分にまず驚いてしまうし、つまり私はその間……彼のことを忘れていたのだ。

未公開作品の特集上映に狂ったように足を運び、こんなに畏怖するほどその才能にひれ伏したのに、あっさりと、すっかりと、忘れていたのだ。 映画監督が新作を撮らないということは、そういうことなのだ。観客というものは、それほど勝手なものなのだ。
新作を撮れば思い出したようにファンなのだと吹聴し、撮らない間はあっさりと忘れていられる。なんて、残酷なのだろう。

ギドク監督が、この類稀なる才能を持ちながら、意外なことに多作であったことも、その傾向に拍車をかけていたかもしれない。
毎年のように映画を撮り続けていた彼が、ふっつりと3年いなくなっていることにどこかで気づいていたとしても、まあ、そろそろ製作スパンを長くしているのかもネ、ハリウッドに呼ばれてるのかも、などと、なんかノンキなことを思っていたかもしれない。
まさか、その3年の間、消息不明になっているだなんて、そんなこと、思いもしなかった。
韓国国内では有名な話だったんだろうか。山奥に入って廃人になったとか書き立てられたと本人がモノローグするんだから、そうなんだろう。
日本でもそんなニュースは囁かれていたんだろうか。それでなくても私は情報にうといもんだから、ちっとも知らなかった。

いや、知らなかったのは、それだけじゃない。彼が隠遁生活を送った理由、いくつかあるけれど、そのメインに据えられているのが、「悲夢」での、あわやの事故。
女優の自殺シーンで、あわや本当に首吊り状態になってしまったという。それを危機一髪で救い出したのは監督自身だったけれど、彼はまさにそのトラウマにさいなまれた。
もし、彼女が死んでしまっていたら。映画の撮影によって人が死んでしまうなんてことはあってはならないことだ。
ましてや自分は全責任を負う監督という立場。それでなくても、リアリティを追求するタイプの自分は、これまでにも何度も危ない橋を渡ってきた。それがここで……大きな発端だった。

「悲夢」!「悲夢」!!オダジョーじゃないの!この作品の公開時、当然そんな話は何もなされなかった。知る由もなかった。
でも、オダジョーは知っていたの?知らない筈ないよね?ギドク監督がその後ふっつり消息を断ったことも、その理由も、きっと彼は、知っていたよね?<p> 「悲夢」の前に、「ブレス」があって、その更に前の作品でギドク監督はいったん引退宣言をしていたから、何がしかの思いはあったのかな、とは思った。

そして撮られた「ブレス」で初めて外国人俳優を起用して、それがなんかクヤシイ、と思っていたら、「悲夢」でオダジョーを起用してくれたから、すんごく嬉しかったこと、覚えてる。
まさか、よもや、その「悲夢」で。……ていうか、引退宣言をした直後に外国人俳優を起用したというのが、何か彼の中で、大きな葛藤があったのかな、とは思ってた。いや、本作の中でそのことに関して語られることはないから、判らないけど、ただ……。

勿論、あわやの事故は、大きなショックで、彼の隠遁生活の引き金にはなっただろうけれど、このセルフドキュメンタリーで語りつくす彼の話を聞いていると、実はもっと、根が深い、んだよね。

一番の根っこは、国家、だろうか……。

私ね、ギドク監督は、一番そんなところから外れている人だと思ってた。
勿論、自国が舞台、自国俳優で撮り続けてはいたけれど、韓国映画界ではハブられているとまことしやかに語られていたし、その作家性の強い作品は、それこそ当時、日本でも大人気だったメロドラマ系の韓国の映画やドラマとはあまりにも異なっていたから、さもありなん、と思ってた。

だから、いくらギドク監督が国際映画祭で評価を得て、世界中に熱狂的ファンを持っても、韓国国内では評価されない状態が続いている、と勝手に思ってたんだよね。
それはちょっと……勝手に、韓国の観客を見下していたかもしれない、という反省もある。

実際は、判らないけど……、ただ、ギドク監督は本作の中で、国際映画祭で評価を得たことで、大統領から勲章を得た、というエピソードを披露する。
つまり、国威を発揚したと、いう評価。勲章を得たということも、国威を発揚したという表現も、日本ではあまりに予想外な発想なもんだから、ただただビックリするばかりである。

日本じゃ、国際映画祭でグランプリをとったって、勲章だの、ましてや国威を発揚したなんて表現、出ないよね。
勲章ってこと自体があまりに予想外だ。文化勲章とか国民栄誉賞とかはあるけど、こと映画に関しては、散々映画を撮って巨匠と呼ばれて死にでもしなきゃなっかなか得られるもんじゃないし。
得られたとしたってそんな……春の宴のようにのんびりとしたもんであって、国威を発揚なんて発想は、どう間違っても、出っこない。

それは、国家として、映画人として、幸せなことなんだろうか?どうなんだろう……。ふと、思ってしまった。
確かに日本の映画人たちは、一般的に、社会的に、評価されなさ過ぎることに対しての憤りはあった。
でも、かのキム・ギドクが、あの孤高の天才が、その才能を国際的に評価されたことを、「国威を発揚した」と大統領から表彰され、ヘタしたら年金ももらえて老後は安泰、なんてことになるとしたら、それはなんか違う、なんか違う!!

……なんて思ってしまうのは、勝手なことなんだろうか。いや、そんな愚直な問題ではない。彼が悩んでいるのは、そもそも自身の映画が国威を発揚しているのかということ。
国際的に評価されて、ならばと観てみたら、国や人民を貶めていると取られる内容でもある、実際、国内の評価も真っ二つ、それでも国際的に評価を受ければ、国威を発揚したと思われる……云々。

あの、ギドクが。韓国とか、そもそも映画というカテゴリーからも飛びぬけた、芸術家の枠の中でさえも鬼っ子であるギドクが、そんな、言ってしまえばベタなナヤミに突き落とされているというのが、凄い驚きで。
でも、あんだけとんがりまくった作品を撮っているからこそ、驚くほど繊細なのだということが、本作を通してしみじみと感じることではあるんだけど、ただそれも、本当に全部ホント?と次第に疑いたくなってくるんである。

本作は、そんなギドクの辛く苦しい3年間を赤裸々に喝破するドキュメンタリーではあるんだけど……ドキュメンタリーが100パーセント真実ではないことは、それこそ映画ファンなら先刻承知である。
それでも、やっぱりそういう先入観はある。ことに本作に関しては、そう思わせるディープな要素に満ち満ちている。
撮影中のあわやの事故、長期の隠遁生活、彼の元に集った映画人たちが、商業映画界に引き抜かれていった“裏切り行為”。
外側から見た、まあ言ってしまえば“客観的”要素としては、これらは確かに真実なのだろう。だからこそ、本作は面白いんだけど……。

そう、面白い、面白くなる、判ってるから、ギドクは散々、演出してるんじゃないかと、いや、ラストを見ればメッチャ演出しているというのは明らかなんだけど、それがどこからなのか、ひょっとしたら最初からなのか。
もうそうなると、この隠遁生活さえ、本作のためなんじゃないか、韓国映画界を糾弾するためとか?なんてことまで、思ってしまうんである。

そう、きっかけがあの事故なら、もうひとつのメインは、商業主義に流れていった彼の弟子たち、つまり、裏切り行為ということになり、そう言われれば「映画は映画だ」はキム・ギドク脚本という触れ込みで観に行ったっけ、と思い出し、今予告がかかってる作品だって脚本、製作がギドク、あれ、なんで彼自身が撮らないの?と思ってた。
その“弟子”は高く評価され、国内のメジャーから引き抜きがかかる。ギドクを慕って弟子入りした後輩たちが、金と名誉の欲に負けて去っていく。傷つくギドク。

まあ、仕方ないよね、と思う一方、確かにそういうことも事実としてあったんだろうけれど、物語としては随分ベタな気がするな、という気もしてくる。
まあそれは、ギドクという異才もこんな人情系の中を通ってきてるのネなどという気持ちなワケだが。
なんたってギドクだから、このセルフドキュメンタリーが、セルフだから、それこそ劇映画よりも思いっきり演出かけているから、もうそれをあからさまに見せて、最終的には面白がっているのが判るから、一体どこからがホント?
この現状を、韓国映画界とか、あるいは世界の映画事情に対してかもしれない、最初から皮肉るために本作を作ってるんじゃないの、って思っちゃうから。

足首の靴擦れの痕と、1年ぐらいほっとかれた鏡餅みたいに黒くひび割れたかかとのアップでさえ、こうなるとホントー??などと思ってしまうのは、いくらなんでもうがちすぎか。
山小屋の中に更にテントを張っているのは寒さしのぎだと言い、実際そうだろうけれど、何か殊更に、閉じこもってる感を“演出”しているようにも思える。
唯一の相棒は彼のごはんを当てにしている野良猫一匹。猫というだけで私はキューンとなってしまうが、この猫はまさにごはんだけを当てにしていて、彼をゴロニャンとなぐさめることもない。

ストーブの上でかぼちゃやらトマトやらを焼いてはかぶりつき、ごはんとキムチだけですませることもあり、インスタントラーメンは当然鍋からすする。
きちんと処理した魚(イワシ?サンマ?)をじっくり焼いて食べ、骨付きの食べ残しを猫ちゃんにやることもある。
大きな魚(シャケ?)の半生な干物を、その獰猛な頭を眺めながら、少しずつ削り取って食べたり、雑ながらも時に豪快で、そんなに寂しい感じは与えない。
雪を採集して湯を沸かし(あのサラサラの雪、つまり相当寒いってことだよなあ……)、メカニックの強さを生かして自前のエスプレッソマシン(これがまた、実にクリエイティビティなの!)で淹れたコーヒーで一服、なんか意外に、充実しているように見えるのよね。

でも、それはあくまで、断片的な描写であり、メインはあくまで、彼の中の苦しさを吐露する場面である。
でもね、冒頭にかなり、この隠遁生活の日常生活をじっくり活写していて、ウッカリこのまま終わったらどうしようと思うぐらいでね(爆)。
その後、彼は手を変え品を変え、これまでの思いを語り始める。ただカメラに向うばかりだったのが、インタビューする自分を据えてみたり、そのやりとりを編集のために見ながら「泣くのかよ」とツッコミ入れてみたり、インタビューする自分をシルエット、つまり影の自分、ネガとしての自分として陰と陽の形を作ってみたり。
最初のうちはね、その赤裸々で辛い独白にドギモを抜かれていたんだけど、次第にその、客観性を増していく手法に、あ、騙されちゃいかん、ギドク監督は、もうすっかり、立ち直ってる、どころか、もうすっかり、彼自身だよ、と、こっちも対戦してやるって気持ちになるんである。

でもそれでも。やっぱり……。あのね、アリラン、だよね。タイトルにもなっている、韓国の代表的な民謡。
曲のタイトルとしてじゃなくても、この言葉自体、とても耳なじみがあるけど、実際、どういう意味なのか、その歌は何を語っているのか、知らなかった。
ただ何か、国民的、国家、国歌的、なものなのかな、ぐらいな印象だった。
だった、ていうか、今の時点でもちっとも判っちゃいないんだけど、だからこそ、自国民の人たちが、ギドク監督が慟哭しながら、音痴まるだしに熱唱するアリランを、どう思うんだろう、って。

そもそも彼は、映画畑が出自の人じゃないし、言ってしまえば特に映画が好きだとか、思い入れがある訳じゃない人だというのが、凄く特殊で。
後の彼の葛藤は、ひょっとしたらその辺にあるのかなという気もしている、なんて思うのは、映画が好きでもただの映画ファンにしかなれない大多数のやっかみ、だろうか……。
でも彼がね、まあ、その、勲章を受けたりなんだり、国威を発揚とかそういう渦中に巻き込まれたからこそだろうけれど、三大映画祭で評価されてもそれは監督賞であり、自身の映画もそうだけど、韓国映画がトップを獲れない、と。
ここで引き合いに出すのが、日本映画は獲れているのに、と言うもんだから、え、ええーっ、と。あっ……やっぱり、そういうの、ギドク監督でも思うんだ、と。

いや、それこそ勲章だの国威発揚だのってことがなければ、彼は思わなかったかもしれない。そんな彼を慕ってきた筈の弟子の裏切り行為がなければ、思わなかったかもしれない。
何かね、哀しいの。だって、日本映画が獲っていたって、……日本映画に限らず、作品賞なんて、それは時代の上滑りと言ったら言い過ぎかもしれないけど、まあその、一過性のものじゃない。
監督賞、監督として認められることの方が、凄いと思うのに。それが、国威発揚、国に対するプレッシャー、なのか。
でも、勿論、彼だって判ってる。判ってるからこそ、本作を作ってる。真剣に見えて、実は自嘲という名のシニカルなユーモアなんだよね。

だってさ、思いがけないラストなんだもん。エスプレッソマシンを作る延長線上みたいに、彼はさらりと拳銃を作るのよ。
本当に、その延長線上って感じよ。トンテンカンと作って、弾を込めて、美しい銀色の拳銃。
それは、これまでの彼の過程を示す映画のポスターや、画家としての技量を示す数々の絵画の延長線上、って感じ。
あ、でも、ポスターはともかく、その絵画は何か全て……鎖だの有刺鉄線だので縛り付けられてて、やっぱりいかにも、閉じ込められてる。
でもそれは、彼は最初からそうだったのかもしれないという示唆なのかも。だって、手首をつながれたまま海底に沈むカップルの画が印象的な「鰐 〜ワニ〜」のポスターが繰り返し映し出されるんだもの。

ずっと山奥に閉じこもっていたギドクは、その美しい銀色の銃を持って、車を走らせる。
雪景色を突破し、駐車場やら、どこかのオフィスやら、よく判んないけど、あちこち迷いなく突進して、カットはそこまで追うこともなく、ただその中で彼が銃をぶっ放した音だけが響き渡る。
無差別殺人?とも思うけど、何の騒ぎも起きず、まるで花火の音のように、銃声だけが響き渡り、ランチを終えてきただけとでもいうように、何食わぬ顔をして車に戻ってきて、また移動する。
無差別殺人と思えば衝撃的だけど、そうじゃなければ何かコミカルでもある。
ギドクがぶっ放しているのは、今まで彼自身にインタビューしてきた自分自身……時に判ったような顔をし、時にシルエットとして分身然として、つまり追い詰め続けた、自分自身、ってことじゃないの。それこそベタベタだけど。

いくら時間をかけてもいい、どうでもいいところから出発してもいい、確かに姿をくらましている間は、観客は勝手だから忘れてるけど、でも、それでもいいから(勝手だな)、ギドク作品が観たい。ただただ、観たい。それだけだ。
本作は確かに刺激的だし、ギドク監督を理解するために(ツマンナイ言い方だけど)必要な作品だと思う。でもやっぱり、それじゃないんだ、そうじゃないんだ。ああ、なんて、観客は勝手なんだろう!! ★★★☆☆


ある日わたしは
1959年 104分 日本 カラー
監督:岡本喜八 脚本:岡田達門 井手俊郎
撮影:飯村正 音楽:佐藤勝
出演:上原美佐 宮口精二 三宅邦子 手塚茂夫 星由里子 宝田明 上原謙 沢村貞子 田村まゆみ 山田真二 水野久美 横山道代 長岡輝子 本間文子 上田吉二郎 田島義文

2012/11/8/木 劇場(銀座シネパトス/岡本喜八監督特集)
うっかり宝田明二本立ての二本目。おっと、うっかりうっかり書くのが大分あいてしまって記憶が自信ない(汗)。
というか、なんかこの時代にはやたら見る石坂洋次郎原作。ホンット、よく見るこの名前。「青い山脈」が有名なのは言わずもがなだが、そこら周辺のこの時代の原作でやたらやたら見る。ホンットに売れっ子作家さんだったのだなあと思う。
んでもって、映画化作品が多いのはヤハリ、その当時の若者の気持や風俗をよく映しているからだろうな。その法則は現代でだって当てはまるもの。

その時の流行作家が、後の世にまで影響を与えるか否かがビミョーであるのはその辺が引っかかってくる、よね。んー、だって、それこそあの時代の青春映画の代表作と言える石坂氏原作の「青い山脈」が、今のワカモンに訴えるもんがあるかどうかはなかなかビミョーだもん。
いや、青春映画の傑作だし、若者としてのコアな部分で共通するところは勿論あるし、池部良ラブな私は大好きだが、でもね、難しいよね。
いやいや、「青い山脈」は多分、そのあたりはまだ?大丈夫なのさ。学生が権威に対して一致団結して闘う、しかも女生徒が、ってあたりは充分通じるもの。

でも本作は、“恋人同士になったそのそれぞれの父と母が、元々恋人同士だった”ことが足かせになるってこと自体、現代においちゃ、えーっ、それって何か問題?そんなに問題??とまあ……ストレートに思っちゃうもんなあ……。
いやさ、そらまあさ、気まずいトコはあるだろうさよ。でもあんな、運命が二人を分かつ、みたいにまで思い詰められるほどのことかと、現代じゃ思っちゃうじゃんか。
もう死の床に伏すところまでこなければ、その事実を娘に言い出せないなんて、そ、そんなに大層なことかいな、と思っちゃうやんか。

うーん、うーむ。そんなことも気にならなくなるほど、誰と付き合おうが、誰と寝ようが大した問題じゃなくなってしまった現代こそがビョーキなのかもしれんと、確かにちょっとそれは、思うかも。
ヒロイン、ゆり子の母親とその恋人、大助の父親が、若かりし頃、恋人同士だった。……というより、もっと重要なのは、少なくとも本人たちの認識で重要なのは、肉体関係を伴った恋人だった、という部分、なのよね。現代においちゃ、それがないのは恋人同士と言えるのかみたいな議論になってきちゃうからさぁ。

確かに確かに、それはあまりに即物的で哀しいことなのかもしれん。肉体関係を持ったことで、それが罪悪のように彼らが、いや、特にゆり子の母親が、それこそ死を引き寄せたんじゃないかと思うほどに思い悩むことがね、あまりにもその“謎”を引っ張るもんだから、なんかそれ以上の、大きな秘密が隠されているのかと……。
例えば実はゆり子と大助は、彼らの子供で血がつながっているとか……なんていう昼メロのような憶測をしてしまうぐらいだったのだが、結局はただ、恋人同士だった、だけなんだもん。

この物語のヤマをいきなりなーんだ、とクサしてしまっては、前に進めないじゃないの(爆)。最初からいかないと。
だってさ、最初はまだ、ゆり子と大助は出会っていない。ゆり子は洋裁の学校に通うために地方から出てきた女の子。その下宿先には幼馴染の“ケンちゃん”が入り浸っている。
見るからにケンちゃんはゆり子に気があるのだが、ていうか、田舎にいた頃から彼女のことがずーっと好きでここまで来たことがアリアリなのだが、ゆり子は彼を友達のケンちゃんとしてしか見ていない。

まー、ゆり子のイラッとするのはここんとこである。彼女は「男と女は友達にはなれないの?」と問い、大助から即座に否定される。多分、セクシーな友人、秀子からも否定されていたような。
現代の感覚、そして私自身の信念からすりゃ、男女だって友達になれるよ!少なくとも、女の方にはその度量があるよ!と思うのだが、ゆり子はまあ……なれないだろうなと思っちゃう。
ヒロインに対してこんなことを言うのは申し訳ないけど、ホンット、キライなタイプ。自分に思いを寄せているのを絶対判ってるくせに、トモダチ扱いして部屋に上げるなんて親しげな態度を崩さず、なのに彼が他に恋人を作って関係を持つと「不潔よ!」……オーイ、オメーがそれを許さねーからだろー。
つまりさ、彼女はケンちゃんを恋人としては見られないくせに、その手から離れると今まで自分が所有してきたのに、みたいな屈辱を覚えるワケなのだ。サイアク。

そのことを、大助も秀子も結構直裁にゆり子に進言するけど、彼女自身がどこまで判っていたかどうか……。
そう。大助を演じる宝田明は、近代文明の自由を謳歌しているといった感じの学生。ゆり子と出会ったのはいかにも古いつながりを重視する県人会で、これまたいかにもな、地元出身の代議士の選挙をもくろんだパフォーマンスがあり、彼はそれに真っ向反発して演説をぶち、お抱えの学生たちから狙われるなんていうアクティブなことになったんであった。
ことなかれ主義のケンちゃんとはまるで違うタイプ、ゆり子が彼に惹かれたのもむべなるかな。その日のうちにビアホールなぞに繰り出し、おお、なんかアルゼンチンタンゴの生演奏!スゲー、ちゃんと?バンドネオン奏者までいるっ!そこに感動してもしょうがない?

いやいや、結構感動。アルゼンチンタンゴは、ケンちゃんがモヤモヤしてる時にラジオから流れてきたりするんだもん。きっと青春のモヤモヤの(まあ言っちゃえばエッチな(爆))暗喩的表現なのかも?
でね、そう。大助は結構ハッキリと、男と女はセックスによって関係されるとか何とか、なんかそんなようなことを(すんません、時間経ってるからうろ覚えで(汗))ストレートに言ってゆり子を驚かせる訳。つまり男女の友情はあり得ないと。
そしてゆり子のセクシー友人秀子も、似たようなことを言っていたか、言っていなくとも、スタンスはそうだったよな。秀子はゆり子が、ケンちゃんの気持を判っていながら生殺しにしていることを非難して、あなたにその気持がないなら私がもらうわヨ、という、ファムファタル全開。

秀子がやたら色っぽいから、なんか彼女が悪女のように見えるけど、実際この時代にはそういうスタンスだったんだろうけど、全然、彼女の認識の方が常識的だよなーっ、と思う。
本当に悪女なのはゆり子だよね、っていう……自覚してない分、余計タチが悪いタイプ。そんで秀子に“寝取られる”と、不潔よ!だもん。サイアクー。
でも劇中では「接吻した」と言うにとどまってるんだよね。ぜーったいセックスしたハズで、だからこそその後秀子は彼の子を妊娠しちゃった訳だし。
そうだそうだ!妊娠しちゃって、でも秀子は彼を縛りたくない、自由にさせたいと、何も言わずに処置してしまった。医学生のタマゴである大助の手を借りて。

そういう経過を見ると、よっぽど秀子の方が古風な女なんだよな……。しかし見た目はホント、セクシーな悪女って感じなの。本作での秀子のスタンスはそこからはみ出すことはない。
今、こうして見ると、秀子ってけなげな女だよなと思うんだけど、本作が作られた過程でそういうニュアンスがあったとは到底思われない。なんかそれがはがゆい。

だって、だーって、ゆり子は絶対好きになれないもん(爆)。友達になりたくないなあ、コイツ、って感じ(爆爆)。
そう、友達……大助と秀子は、それこそ男女だけど友達だったよね。秀子は男の気持ち、ちゃんと理解していたしさ……。だからこそ、女として幸福になれない感じが切ないのかもしれんなあ。

で、まあ、クライマックスは散々言っていた通り、彼ら両親の秘密なんであるが、お互いが引っ張りまくるから、ヘンにミステリアス(汗)。
大助の父親の方がもっとコワいかも。突然ゆり子の一人暮らしの部屋に、しかも彼女がアルバイトの洋裁を終えて散らかった部屋でひとり居眠りしている間に入り込んで、「ひとつだけ確認したい。大助とは寝たのかい?」ス、ストレートーッ。
寝てないですとゆり子が返すと、えっらく回りくどい言い方で、寝ない方がいいだろうということを、この先何があるか判らないからとか、なんか宇宙的な回りくどさで、表面上は理解ある風だから余計に回りくどく、言う訳。しかもおでこにキッス。何故(汗)。
でもって、そのことを後からゆり子から聞いた母親が、「寝たのか」という言葉に過剰に反応して、狂ったように笑い出す、笑う、笑う、涙を浮かべて爆笑である。全てが判ってから思うと、この母親の反応は、かなりコワい……。

地元では高名な医者である大助の父親は、風貌も泰然自若としているがゆえに、昔の恋人同士の子供同士が、なんてことをここまで回りくどく気にするタイプには見えず、だから先述のようなミョーな思い込みをしちゃうのよね。
実際は実に単純で、気にするほどのことでもないのに(爆)。いやー、まあ……この時代は確かに、これっておおごとだったのかなあ。
大助の母親がしかめつらしい女性で、これまたやたらミステリアス&高圧的にゆり子に忠告する場面もコワかったし。
その時人払いされた、大助の妹だって、彼女は事情が判ってたとは思わないけど、ムジャキな女学生の顔をしながら、小姑の要素充分でさ、「気に入らなかったら、思いっきりイジワルしちゃおうって思ってた」的なコトを言う訳!こ、コワー!いくら最終的には大団円でも、こんなとこに絶対嫁ぎたくないっ。

大病院の大助の家とは対照的に、ゆり子の家は、穏やかである。でもゆり子の父親は弁護士で、大助の家の土地問題の訴訟に関わっていたりしたんだから、穏やかとは言えなかったハズなのだが……。
そうそう、この問題があったから、そのことでドロドロするのかと思いきや全然で、一体あのフリは何だったのと(爆)。それもあったから、やたらミステリ憶測しちゃったんだよなあ。

ゆり子の父親は、全てを判ってたんだよね。いや、それを言えば、大助の母親だって同じように全てを判ってたんだよね。
連れ合いは自分の過去のことを知らないと思い込んでいたのは、とんだうぬぼれというものでさ。

実際さ、ゆり子の父親が女房の過去を知らなかったなんて思うこと自体が、おかしいよね。ゆり子の母親が語るところを聞くと、もともと親同士が幼い頃から決めていた間柄、しかしそれは長い間放って置かれてて、その間に彼女は大助の父親と恋に落ちた。
その時に、まるで唐突に、ゆり子の父親から結婚の申し込みを受けた。女心の何が働いたのか、彼女は「可哀想になってしまった」なんて言い方をしていたけれど、それは自分のことをずっと思い続けていた彼のことを、判ってたからじゃないの。
そして、彼は恐らく、いや、絶対、彼女に肉体も許した恋人がいたことは判ってた筈。判ってたからこそ、イチかバチかで、ここでダメならと体当たりしたんじゃないの。誰が考えたってフツー、そうでしょ。

気持の恋と、肉体が交わる恋、それが本作の描きたいところだったのかなあ。主人公同士がその苦悩にさいなまれず、周囲の、友人、何より親がそれにさいなまれ、主人公二人はその彼らが経験した思いを、理想のように託されて結ばれるってのが、当時はどうなのか判らんけど、今は、今の私は、素直に受け容れられないーっ。とてもムリーッ。
だってさ、ラストで、秀子とケンちゃんがさ、あれだけいろいろ聞かされて、ゆり子に未練残して、秀子は彼の子供を堕ろすなんてことまでするドロドロだったのに、何事もなかったように、ゆり子と大助を呼びに来るのよ。海に泳ぎに行こうよ!みたいな。あ、ありえなーい。

この場面はね、ゆり子の母親が娘の幸福を願って息を引き取り、ゆり子が呼んだ大助親子も間に合わず、涙にくれる。
そんでもって、ゆり子は大助と別れようと思っていたんだけど、ゆり子の父親、大助の母親、つまり全てを飲み込んで伴侶を得た二人が「古いやり方しか判らないから」と、二人の前でこれ見よがしに、親同士で約定を交わす。その後の、場面、なんである。

この二人が、一番グッと来たなあ。つまり彼らは、古い時代と新しい時代のかけはしで、それこそがグッと来ちゃうってことは、新しい時代にはまだ慣れきってないってことね、つまり(爆)。
でもこの二人はホント、良かったなあ。あからさまな家父長制、御主人様か、ご長男か、あるいはその下の男系の子息か、とにかく男に従うしきたりで生きてきた大助の母親。ぴくりとも笑顔を見せないまま、その事実をゆり子にも告げた彼女が、ゆり子の母親の墓参りにゆり子家族と共に訪れた時に、「こういうことは、親同士がまず決めてから」とこのゴタゴタで大助と別れようと思っていたゆり子を強引に押す形で婚約させるのが、泣かせるの!

そんでもって、ゆり子の父親はさ、絶対、ぜーったい、奥さんの過去は判ってたんだもん。なんでそれを当事者が判ってなかったのと、そこらへんのドンカンさは、ゆり子に受け継がれてるでしょ、と思うぐらいでさ。
全てを判ってて、妻の苦悩を同じ苦悩として抱えて受け入れていたこのお父さん、泣けるの!娘と一緒に酒を飲む、ささやかな場面に、ハッキリとは言葉では示されないまでも、お母さんのこと、判ってあげなさいとか、そういうちょっと遠まわしな感じでさ、たまらなく優しくて、ああー、もう、なんでこんないいダンナを愛しきってあげなかったのさ!!

うーむ、どうまとめていいのか判らなくなっちゃった(爆)。まあ、そのうー、最もイラッときたのは、親たちの過去の秘密を知ってしまったゆり子が、大助と別れようと彼と連絡を断ち、それだけでもイラッとするのに、そのことによって母親が最後に願った娘の幸福の願いをないがしろにし、なんかギリギリになって思いついたように大助父子を呼んだが間に合わない。
つまり、かつて情熱を燃やした恋人、そして今、子供たちを巻き込んで苦悩している、その相手に、命が尽きる最後に会わせてあげられない、このオトメな感慨に身内をホンローしてるのが、本気で許せない(爆)。

このヤボな心の狭さが自分でモ許せない(爆爆)。うー、でも、ゆり子に「忘れることはない」と別れ際熱い思いを伝えたのに、「私はきっと、忘れてしまう」と言われたあまりにカワイソーなケンちゃん、そしてそのケンちゃんを猛烈に愛しながらも、彼のゆり子への思いを抱えて、表面上はイケてる女を保ちながらも実はケナゲな秀子、それ以外にも色々、色々、この表面ピュアガールにホンローされる人たちのことを考えるとっ。……ヒロインに共感できないってのは、キビしいよなあ……。

だってさ、そもそも、ゆり子は洋裁なんていう、当時としては恐らく女子の最先端で地方から出てきてさ、部屋にはオシャレなワンピースがマネキンにかけてあったりして、女がひとり立ちする気持がマンマンなのかと思ったのに。
彼との結婚話が進むと、「僕の素敵な奥さんに」的な大助の言葉にニッコリ、先述したように思いっきり男系家系に、“素敵な奥さん”として、地方からわざわざ上京して勉強していたことも捨ててすっきり収まってしまう。
これは、これは、現代じゃとてもとても美しいハッピーエンドとして受け取れないよなあ……。彼女の友人の秀子が、ただ“女子大生”としてそれだけで奔放な魔性の女的な描き方をされ、しかし結局相手の男を自由にしてあげたいために堕胎し、そのことを彼が知ってるかどうかも判らないまま、無邪気な恋人同士としてラスト登場してくるんだもの。現代じゃ、現代じゃさあ、キビしいよ、これは……。

当世風俗が色濃く反映されるタイプの映画って、その時思っている以上に、難しいのかもしれない。今作られている映画も、……そうかもなあ。 ★★☆☆☆


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