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2013年鑑賞作品

ペコロスの母に会いに行く
2013年 113分 日本 カラー
監督:森崎東 脚本:阿久根知昭
撮影:浜田毅 音楽:星勝 林有三
出演:岩松了 赤木春恵 原田貴和子 加瀬亮 竹中直人 大和田健介 松本若菜 原田知世 宇崎竜童 温水洋一 穂積隆信 渋谷天外 春風ひとみ 根岸季衣 長澤奈央 大門正明 佐々木すみ江 正司照枝 島かおり 今井ゆうぞう 長内美那子 志茂田景樹


2013/11/27/ 劇場(新宿武蔵野館)
岩松了は実際はハゲてないよね……(笑)などと思って思わず画像を探しちゃったりしたのは、ラストクレジットの後に出る、ご本人のペコロスさんとそのお母さんの写真が、とってもじーんとするものだったから。
本作の宣材写真でも、赤木春恵と岩松了で再現されている、おでことおでこをくっつけあっている二人の横顔のアップ。やっぱりね、本物は、そのハートが伝わる感動があるんだよ、なんていうか……。

なんたって本物のハゲだから(爆)。いやでもそれって案外、ホントに、重要なことかもしれない、って思ったの。
岩松さんは本当はハゲてないから(しつこいが)、周りに残った髪が黒くて太そうで不自然だなと思ったり、ハゲ部分もなんか粘土質みたいでごわごわしてる感じがして、彼のハゲがハゲとして重要な部分になればなるほど、本物のハゲじゃないんだもんなあ……と思ってしまう。

いやあ、これはやはりさ、ペコロスがペコロスであることが重要事項だからさ、なかなか難しいなあ、と思ってしまった。
そりゃ岩松氏は素敵な役者さんだし、自然ハゲ以外はこのペコロスさんにピタリだと思う。年恰好、キャラクター、音楽や漫画も堪能そうな雰囲気とか、ピタリだと思う。
でもハゲじゃない。ハゲハゲ言ってて私もヘンな気がしてくるが(爆)、本作中にずっともやもや感じていたことが、ラストクレジット後の“本物のハゲ”のペコロスさんとお母さんの写真でバチッとつながったから、やはりそうかあ、と思ったのだった。

それにしても赤木春恵大ベテランは、しかしなんと初主演!なんですかあ!!ウソみたい。こんなにベテランなのに。
若い時からワキを固めるタイプだったのかあ。ぼけてどんどん可愛らしくなっていくこのお母さんに、渡鬼のイメージがこびりつくこっちとしては結構ビックリしたりするんである。
なあんて、渡鬼、見てた訳でもないんだけどさ、ホラなんか、イメージで(爆)。

ぼけて、なんて言うべきではないのかもしれない。認知症、きちんとそう言うべきなのだろう。
でもさ、それこそ一昔、ふた昔、私が子供の頃はカンタンに、ぼけちゃった、って言ってたじゃない。
今から考えると当時はそこにマイナスのイメージしかなかった。苦労、絶望、悲嘆、ヒドいところになると、蔑視的なところも含まれた。
ああなってしまってはオシマイ。家族に迷惑かけるだけ。そう言いつつも、施設だのと言うと、姥捨て山の昔語りが頭をかすめる。
ただ抱えこんでしまって、息をひそめて、そんなイメージ。そういえばあの当時話題になった「恍惚の人」はどんな映画だったっけか……。

今でも結構、そういうイメージは引きずってる。介護といえばの苦労話、そのネタは尽きることはない。
もちろん大変なことだろうと思う。まだ経験してないワカゾー(この点に関してはワカゾーと言えるっ)には、何を言う資格もない。だからその苦労話にただただ恐れ入るしかない。

でも、本作のような、その原作になるような“ネタ”が出てきたんだ、と思った。
認知症、と症状、病状としてしっかり認定され、高齢化社会になって、ご近所に迷惑をかけるとか特別な事態ではなくなって、どこの家庭も、誰でもかれでも、直面する、つまりは、“日常”になった。

そうだ、これは日常の物語なのだ。誰かに迷惑かけるとか、自分の生活の負担になるとか、仕事にさしさわりがあるとか……いうことも、本作の中にも出てくるけれども、それもまた、日常の中のひとつとして片付くのだ。
坂の多い、いつも日光がさんさんと当たっている長崎の街で、可愛らしく“ぼけて”いくお母さんは、誰も眉をひそめないし、その中に溶け込んでいる。

ぼける、そう、ぼける、ってさ、それこそその一昔、ふた昔前は、かなりなマイナスイメージがあった。もう、ぼけちゃってさ、大変だよ、おしまいだね、みたいなさ。
でもかえって今は、認知症、などと明確に、重々しく言うよりも、状況によっては気軽く、深刻にならなくてすむ感覚もあるような気がする。
この“ぼけちゃった”みつえさんに会いに来る妹二人も相応に年を取っていて、キャアキャアとかまびすしい叔母二人のトンチンカンな会話に、「この人たちもキテるな」とペコロスさんがつぶやくのには思わず笑っちゃうんである。
ぼける、って今はそんなに悪い言葉じゃないかもしれないって気がする。イメージやニュアンスが変わっていっている気がする。

みつえさんは息子と孫と暮らしていて、あちこちに張り紙がしてあって、受話器は必ず戻すとか、ここは触らん、とか、そう、この長崎弁のままに注意書きしているのも可愛くてさ。
でもその注意書きも、もはやみつえさんには効いていない様子で、オレオレ詐欺の電話がかかってきて、観客が緊張するも、「おばあちゃんが出したる!」と返事して別の部屋で泣きむせんで、それでもう、電話が来たこと自体忘れちゃってる。
受話器がそのままだと息子のペコロスに注意されても、「いつも悪もんにされる」と可愛らしくむくれる。オレオレ詐欺も効果なしな突き抜けた無邪気さ。

いつもいつも「ゆういち、ゆういち」と愛しげに呼びかけて、駐車場で暗くなるまで座り込んで待っているなんて、まるで恋人みたい!
でもおばばだから、その様子が近所の女子高生に、老婆の妖怪とそれを迎える子泣きじじい、とうわさされるのには爆笑!そんなこんなが、何とも可愛いんだよなあ。

そう、きっと、原作自体が、こんな風に、……実際はホントに凄く、大変なんだろうけれど……などとついつい考えてしまうのが日本人のイケナイところなんだろうけど(爆)、ほんわかした愛しさに満ちているから、いいんだろうなあ。
介護の大変さよりも、ていうか、実家で暮らしている時点では、介護という意味合いは意識して持たせていないと思う。
認知症を患い始めている母親との生活のあれこれ、つまり日常。そのおかしみを、愛しさとユーモアでつづっている。

ある意味、彼は介護をする前に決断して、母親をグループホームへ託す訳であり、介護という意味での苦労はしていないのかもしれない。
それは、それこそ劇中の彼が、行きつけの喫茶店のマスターに「親を捨てるのか」と言われるように、いまだに日本社会では家族が面倒みるべきだみたいな風潮があるけれども、実はそれでは、家族どころか本人こそが辛くなるということが、ようやく、だんだん、判ってきたわけじゃない?

それを、「そっちは嫁さんがいるから……」とペコロスさんが言うのが物語るように、彼は“男やもめ”だから決断出来た訳で、こーゆー場合、苦労するのは嫁であり、だからこそ問題は更に大きくこじれるんである。
実の親でもこじれるのに……という部分を掘り下げちゃうとまた違ってきちゃうから、ここではガマンガマン。

でもね、ホント、その意味でも大きく提示してるよね。今はそうした施設の空き自体がないことも問題になっているが、まあそれこそそこも掘り下げちゃうとタイヘンだからおいといて……。
本作は、みつえさん自身の人生も同時に回想していく趣向になっている。なんたってここは長崎、みつえさんは離れた市にいたけれども、幼馴染の親友が暮らす長崎市のキノコ雲を、遠くから眺めて震えた。
その幼馴染は、その後、赤線の娼婦に身をやつし、ピカドンの後遺症によって若くして亡くなってしまう。

若き日のみつえさんを演じるのが原田貴和子で、娼婦になった幼馴染を演じるのが原田知世、だなんて!何何、そのイリュージョン的な?ドッペル的な??感じ!(なんかどんどん意味不明……)
みつえさんの亭主となるのは加瀬亮で、仏壇に飾られている、おでこ出して苦虫噛み潰したような顔している写真が加瀬亮だと気づくのには、その若き日の描写が出てくるまでかかった、というのは、私の顔認識、ヒドすぎるだろ(爆)。
いや、だってさー、そりゃ加瀬亮はそんなにこやかな方じゃないけど、この苦虫顔、なぜかホンジャマカの恵さんかと(いや、恵さんは苦虫顔じゃないんだけどさ!!)。

加瀬亮が酒乱だっていうのも、ピンと来ないなあ……。実際、劇中では、確かに酔いつぶれる場面は出てくるけど、暴れる場面では、その大半は声だけで見切れさせて、怯える子供のゆういち、という図式なんだもの。
後に、グループホームで出会った、入所者の息子という同じ立場の竹中直人と、お互いの母親がどうしようもない父親に苦労させられていた、でも、お互い、父親のことは大好きだった、という点で意気投合する。
そこで明確だけど、本作は、あるいは原作も、“夫に苦労させられた母親”そこから派生する、日本社会の夫婦、あるいは男と女のあり方、なんてところは、その問題があることは判っていながらも、そこはこの物語のテーマではないから掘り下げないんだよね。
苦労させられてはいても、そんな夫を愛していた、というスタンス。

みつえさんもそうだし、竹中直人の母親も、そう。ペコロスさんのことを、女学校時代の憧れの先生だと思い込んでいるこの彼女、施設の中では委員長だった当時の自分なんである。
竹中直人は、母親がホームの中に好きな人が出来たんじゃないか、ペコロスさんにそれを探ってほしいと頼む。もうこの時点で竹中直人は母親に、息子と認識されなくなっている。
結果的にはこの母親が好きだったのは同級生、結婚前の夫であることが明らかになり、まあまあ、少女漫画みたいやね、と思うのだが、竹中直人がハゲデビューした途端に、ペコロスさんが担っていた憧れの先生の立場もまた、息子にシフトしたんであった。思わず落胆の色を見せるペコロスさん(笑)。

でも彼は後に知ることに痛感することになるのだ。竹中直人が、母親に自分が息子だと判らなくなった絶望から、憧れの先生だと思ってもらえるようになった、妥協というにはあまりに深く切なすぎる思いを。
ペコロスさんもまた、母親が自分を判らなくなって、ひどく落胆する。それまでは帽子を脱いでハゲさえ見せれば「ああ、ゆういち」と判ってもらえていた。いわばそれが切り札で、満足していた。なのに母親はハゲを見ても判らなくなってゆく。

竹中直人だからさ。当然、ハゲの前の髪はヅラで、まるで彼のコントを見ているみたいで、ヅラを直すたび、観客から笑いを引き出す。
それは喫茶店のマスター、温水さんもそうである。コペン“ハーゲ”ン、なんて言葉にまで過剰反応するあたりは、竹中直人の独壇場である。
二人が“本物のハゲ”だから、余計に岩松了氏のニセモン感が強まるのはツラいところである。
でもそれと並行して、ハゲすらも息子認識の切り札にならなくなったんだから、妙に説得力があるというか……。

本作のクライマックスは、長崎のランタン祭りフェスティバル。かつて幼い孫息子が迷子になった思い出のパンフを、みつえさんは引き出しの、汚れた下着山盛りの下に、写真と一緒に大事にしまっていた。
……“汚れた下着山盛り”、認知症に特徴的な行動だという。息子と孫が廊下まで吹っ飛んでドン引きまくるのには、女としては笑いきれないものがあるのだが、こういうの、自分がそうなる前に知っておいた方がいいんだろうなあ……。

で、まあ、思わず暗くなっちゃいましたが(爆)、異国情緒たっぷりのランタンフェスタ、その中でみつえさんは迷子になっちゃう。
このシークエンスに至るまで、みつえさんの人生がたっぷりと示される。たっぷり過ぎて、認知症の母親とそのハゲ息子の日常、という基本テーマを忘れそうになるぐらいなんである(爆)。
岩松さんも長崎だし、原田姉妹ももちろん長崎。幼馴染が赤線に身を落としていた。なんとまあ、贅沢な姉妹共演!
結婚して、子供を抱えて、ダンナと一緒で、踏み入れた赤線地帯で、幼馴染と再会して、でもみつえさんからの再三の手紙にも一度も返事をくれないまま……最後の返事を残して、この幼馴染は人知れず、ひっそりと、死んでしまう。
原爆も、結婚も、仕事も、すべてが違う方向に行った二人。愛らしさは同じ二人の女の子が、運命をたがえた。

生活感があふれていて、非力なダンナはあけられない立てつけの悪い戸を、嫁入りの振袖をからげて、ふん!とばかりに引き開けちゃうすっぴんほつれ髪のみつえさんと、真っ赤な口紅と派手な柄の着物、パーマネントをあてたと思しき当世風の髪型で、みつえとの再会に気まずげに姿を消した幼馴染。
これを姉妹で演じているというのが、なんともはや深いんだなあ。

迷子になったみつえさんを、ペコロスさん、孫息子、のんきに肉まんほおばって先にはぐれてた叔母二人、ついてきてくれた美人介護士さん、が探しまくる。
結果的に見つけたのはペコロスさんで、母親にしか見えていない筈の、亡くなったダンナ、幼馴染、そして小さな自分が見えている。
孫息子も見えていたんだろうか。それまで必死におばあちゃんを探していたのに、彼自らデジカメを向ける。ばあちゃん、良かったな、と言いながら、涙目である。

……お迎えが近いから、そばにいる一足早く行っている“先輩”も見える、とか、言っちゃえばホントありがちでアレなんだけど、なんかね、年くうごとに、そういうのってきっとあるんじゃないか、って気がしてくるんである。
特別な才能でもなければ、皆に訪れる自然現象でもない、ある人にはある、見える人には見える。そういうのを信じられるようになった、というよりも、信じたくなったのかもしれないな……。
先に行ってしまった家族と共に撮った眼鏡橋でのショットが、“現実”の目線では、“常識的”にみつえさんオンリーショットだったことに、ホッとしたのとガッカリとを半々に感じたり、するんである。

天国とか地獄とか、魂とか霊とか、普段はそんな、信じてる方でもないんだけどね。
だって死んでも魂が残るとか言われると、それってどこまで残るのかとか、未練があると残るのかとか、成仏してないのならさせるべきなのかとか、ヘンに現実的なこと考えちゃう。
もし残れるなら、精神的に健康な自分で残したいじゃない?……なんて考えるのはサイテーなんだろうな……。
でも、こうした“日常介護”映画が出来たのなら、これから先、タブーだの不文律だの、そういった“聖域”を暴くものが数々出てくるんじゃないかと思う。

とりあえず本作は、本当のハゲを持ってきた方が良かった、って、しつこくそこかい!でもホントにホントに、それってマジにシリアスに、大事なことだと思ったんだよう。
一見コメディリリーフの温水さんや竹中さんが、結果的にはシリアスキャラで落ち着いたから、ニセモノハゲな岩松さんが、ますます気になるんだよう(涙)。 ★★★☆☆


ペタル ダンス
2012年 90分 日本 カラー
監督:石川寛 脚本:石川寛
撮影:長野陽一 音楽:菅野よう子
出演:宮崎あおい 忽那汐里 安藤サクラ 吹石一恵 風間俊介 後藤まりこ 韓英恵 高橋努 野村麻純 安藤政信

2013/4/22/月 劇場(新宿武蔵野館)
それこそ映像は奇跡のように美しくて、どこを切り取っても画になって、まるで映像そのものが誌のようで、もうそれだけで充分なんだけど、なんか、「好きだ、」の印象がそっくりそのまま繰り返されているような気がして、お、なんだ、これってデジャヴ??なんて思っちゃった。
言ってみれば、それは作家性が貫かれているということなのかもしれない、そうなんだろう。でも、なんだろう……彼このままじゃネタ切れしないだろうか、などといらん心配をしてしまう。
というか、「好きだ、」からもう6年も経っているということに驚いてしまう。つまりは彼は本職が映画監督じゃないから、これでいいのか、などとイジワルなことを思ってしまう。たまに映画を作ってそれがおんなじ感じでも、もう飽きたとまでは思われないからいいのか、とか(爆)。

それでも、心に入り込んでくれるのなら、いいのだけれど。いや、というか、なぜ私はどうも距離をおいて観てしまうんだろう。
決して、嫌いな世界じゃない。映像は美しいに越したことはないし、実力派の四人の女優さんたちはその中でとてもナチュラルで、特に安藤サクラなんて、彼の映画でなければ、こんなそよぐようなナチュラル感のある彼女を見ることなんて出来ないに違いない。
吹きすさぶモノトーンの風景なのに、生成りの風合いの彼女たちはとても美しくて、なんというか、……こんなことを言ってしまうと語弊があるかもしれないけど、女じゃないみたい、なのだ。生々しく生きてる感じがしない。

かといって、それが本作に対してマイナスに働いているということでも、ないんだよね。本作は生々しい女の話じゃないし、それどころか、生と死の間を縫うような、はかない手触りの物語。いや、物語ですらないのかもしれない。
彼女たちのモノローグ、彼女たちの感情のそよぎ、それは直線状にある物語という形ではなく、空間上に広がる、そうそれこそ、劇中で言われているような「風も見えるじゃん」てな風合いで、それは確かに魅力的、なのだ。

なのに私はなぜ、どうにも物足りない、とも違う……なんだろう、心に入ってきてくれない感じ、というか、そんなことを感じてしまうんだろう。
思えば「好きだ、」でも、上手く説明は出来ないけれど、そんなことを感じていたように思う。凄く、手触りはいいの。本当に、そう、生成りの風合いというのがピタリとくる、手触りと言いたくなる世界観。
どんなに寒風が吹きすさんでいても、肌がガサガサするような寒さは感じない。それはまるで無印良品かなんかのCMみたいに、北欧の街に住みたいわあ、みたいなナチュラルな魅力、なんである。そーいやー、彼の“本職”はCMディレクターなんだっけ。

……ヤだな。なんで私、こんなイジワルなことばかり言っているんだろう。でもね、なんかね、突っ込んでいかない感じがしちゃったんだもの。
四人の女優さんたちのカッコが、ぶつからない、揃えてスタイリングしたかのようなまとまり感も、気になってしまった。画がキレイ過ぎて、ドラマの、感情の息吹が薄まってしまう気がした。でもそれは、私の想像力が足りないせいなんだろうか……。

確か「好きだ、」でもそうだったと思うんだけど、恐らくかなり役者にアドリブ、というか、状況を与えて会話を展開させるやり方をしていると思うんだけど……まあそれは予測なんだけど、あくまでそう見えるだけで、それこそが役者の演技力の高さなのかもしれないけど、多分、そうじゃないかなあ。

それは確かにスリリングな側面はある。あるけれども……突っ込んだ中身にまで入っていかない。いや、入っていく必要がないといえばそうかもしれない。人の気持なんて、結局はお互い判りっこない。深いところでは判り合えない。そういうことかもしれない。
特にこのアドリブを感じさせるやりとりは、自殺未遂をした友達に会いに行くあおい嬢とサクラ嬢の間で交わされるんだけど、会いに行って無事を確かめたいのは、ミキのためじゃなくて、自分のためじゃないかとか、まあ判るけれどかなり青臭いやりとりをうーん、うーん、とうなりながら繰り返し、これだけ悩んでスリリングな会話を見せたんだから、その当のミキが返すものがどうなるのか、と思ったら、まあそれは……。
それがリアリスティックということなのかもしれないけど、しんみりと展開される、“内容”のクライマックスに対する収束がこれだと、なんかイメージビデオを見せられているような気もしてきてさあ……。

……なんか言えば言うほど、ヒドいな、私。しかもどんな話だかも判らないし(爆爆)。
でもまあ、どんな話もないと言っちゃ、ないのよね。吹石嬢扮するミキが海に飛び込んで自殺未遂をおかしたと知って、大学以来疎遠気味だった友人二人、あおい嬢扮するジンコとサクラ嬢扮する素子が会いに行こう、ということになる。
物語の冒頭はジンコが年下の恋人、いや、恋人未満の男の子に「……はしょったね」と牽制する近い芝居から始まり、彼との微妙な関係は、ミキに会いに行った先で、携帯電話からの告白によって少女マンガのようなハッピーエンドを迎えたりする。

この冒頭のシーンは、それこそ「好きだ、」のあおいちゃんと瑛太君のスリリングな距離感を感じたりもするけれど、しかし、さあ一体、このシークエンスがこの物語にどんな意味を与えたのか、正直ピンと来ない。
自殺未遂を犯したミキがその原因がなんだったのか、もし恋愛関係のナヤミだったのなら、彼からの電話にウキウキ出ちゃうジンコは考えものじゃないだろーか。電源切っとけよ、とか思っちゃう。

サクラ嬢扮する素子は、バツイチである、というのは、この旅のために借りた車の持ち主が、元ダンナであることから知れる。
ほおんと、なかなか顔を見ることのない安藤政信である。たまに見るもんだから、いきなりシャープで枯れた魅力をたたえててビックリする。もったいないなあ、このやる気のなさ(爆)。この間のグラデーションも見たかったのに。

彼もまた、ミキのことを知っている様子である。いや、そう思ったのは気のせいかな……判らない。とにかく会話の断片から推測するしかないから。
会いに行ってやれば喜ぶよ。と、思うよ、みたいな、奥歯にものが挟まったような言い方。
元妻にこんな形で再会したことを、「嬉しいよ」というのがイヤミにならない。“外国製”の言い訳で、ワイパーの動かし方もままならないポンコツ車に乗って、女三人、北の街に旅に出る。

そう、女三人、である。もう一人、いる。そのもう一人はモノローグ担当で、つまりいわば、この物語のけん引役なんである。
ただ一人若い忽那汐里嬢。このメンツの中に放り込まれるのはナカナカ厳しそうだが、彼女のドスのきいた地声で見事に切り抜いてる。

いや、でも、見た目とはギャップのあるそのドス声は、あんまり感じられないんだよな。石川監督特有の透明感のある詩的な映像の中では、可愛い顔してドス効いた声、のギャップの楽しさは薄められちゃってる。
この映像の中では基本、ささやき系。特にキモとなる、風に乗って飛んでいくものに願いごとをすると叶うんだ、という、実に、実に美しい映像、曇り空を切り裂いていくグライダー、風に翼を預けて飛んでいくカモメ、そのはるかなる姿に、祈るように、ささやく。
「何ぶつぶつ言ってたの」とハタからは突っ込まれるけれど、映像的には、美少女の祈りのつぶやき、の画、なんである。

汐里嬢ふんする原木だけが、他の三人と年恰好が違う。のはそりゃあ当たり前で、彼女はひょんなことからジンコと知り合い、この旅に運転手として同行。
いや、ひょんなことどころじゃない。ジンコは原木がホームで、妙に体勢つけていたもんだから飛び込むんじゃないかと心配して飛びつき、指の骨を折ってしまった。
原木は「失業しちゃったから、気合を入れていたんです。走り幅跳びの姿勢で」と言い、それは特に疑念がある訳でもなかったんだけど、でもどうだったんだろうと、思う。

原木もまた、気にかけていた友人がいた。「私なんかいなくなればいいのに」とひっそりとつぶやいて、それ以降姿を消した。
その聞き捨てならない台詞に、原木は笑いにごまかして、友人の気持を聞きだすことが出来なかった。どうか生きていますように、そう原木は、風に乗って舞うものを見かけるたびにつぶやく。彼女がそうしていたように。

このタイトルこそがそれを示してて、これってどういう意味なのと思い、劇中でも特に解説されることもなかったもんだからなんとも困っていたんだけれど、風に漂う花びら、といったような意味らしい。花びらは出てこない。なんたって雪に覆われた冬まっさかりだから。

そういやあ、彼女たちがミキが入院している病院に向かい、北へ北へと向かうのね。始点がどこなのか、終点がどこなのか、具体的には示されないけれど、車を使っての泊りがけの旅程、そして何より、「あ、雪……え、違う?」「ホントだ、雪だ……」という瞬間を捉えたスリリングが、私的に本作の最も好きなところであった。
まあ正直、彼女たちがいる元の街でも、向かう北の街でも、色合いの印象は変わらないもんだから、この雪を挟むシークエンスでなんとなく、「凄く時間がかかった」と旅程を説明し、そして病院の受付の女性がまるまる東北訛りであったことでそれと知れる訳だが。

でもそうならば、彼女たちが、どこを始点として来たかは知らないけど、そうそう東京チックな都会でもなさそうだし、スッキリキレイな東京言葉なのは気に入らないけどねえ。
うーん、でもこのやり取りを東北訛りでやったらアレかもしれんが(いやそれも素敵だと思うけど!!)、だったら北の果てに来た、ってことを示す為だけに、訛りを聞かすのは、ど、どうなの。

……ああ、そうか。私がイラッとしていたのは、そういうことなのかもしれないなあ。彼女たちがどこから来たのかは知らないけど、北の果てに終点を置いているのに、どこの住人か判んないような浮世離れな美しさなの。
……勿論、それがひとつの世界観だってことは、判ってる。今の女の子が暮らす、無機質の世界観。でもそれを対照とするために、受付ナースだけに訛りを言わせるのって、ど、どうなの。

あるいは彼女たちが昼食に立ち寄る、大きな窓の外に日本海がざっぷーんと打ち寄せる食堂だったり、これは同じ場所なのかなあ、宿をとる場所もそんな感じだよね。
ミキの反応に三人、なんかどっぷりしちゃって、部屋の電気もつけずにまんじりとしている。ジンコがふっと蛍光灯をつけても、画面上でも大して明るさは変わらず、なんか妙に社交的にお茶なんかいれたりしてみる。この、気まずさ。

原木だけが、他の三人といわば関係なくって、そして物語の進行役だから、凄く重要な立ち位置、なんだよね。
そんでもって彼女が回想する、「私なんか消えてしまえばいいのに」と密かにつぶやいて、本当に姿を消してし合った友人、キョウコこそが、もの凄い存在感、どころか、重圧感をもって迫って来る。

正直、彼女が最も大きく、重い存在感だった。原木が語り部となって進行していくから、このキョウコが、ジンコたちが会いに行くミキなのかと思ってしまったぐらいだった。
でも年が明らかに違うし……でもでも、 韓英恵嬢の消えいきそうな、見ているだけでなんだか判んないんだけど涙がにじんでしまうような、その雰囲気が、超越して、ミキに結びついた感じがした、んだよね……。

そのミキを演じる吹石嬢も、なんかもう、“そんな感じ”(??……語弊がありまくるかしら……)の美しさが凄まじくって、ああ、彼女、ここまで辿り着くのにかかったなあ!もちろん“それなり”のキャリアは充分、積んでるんだけどさ!!

旅の途上で何度もゆったり立ち止まり、“風の形をした”木が「ミキみたい」と同じポーズをしてみたり、突然文房具店に立ち寄ってみたり、いろいろイラッとする(爆)場面はあるんだけど、その文房具から連なるシークエンスが、魅力的に昇華しそうで、なんかキレイなまま終わっちゃったのが、一番アレだったかなあ……。
いや、それこそ、このシークエンスはそれぞれで想像力を働かせるべきだし、それは判ってる、判ってる……判ってないかも!!

……いや、ね。この場面を、もっと丁寧に、まさに見つめる、見届けるように示してくれたら。もう風がびゅうびゅうで、石で紙を押さえて、その中で女優たちが必死に何気ない“ナチュラル”な演技を成立させようと努力している気がして、仕方ないのよ。
ロケーションは確かに素晴らしいと思う。紙に石を置くのだって、かすかな海風程度なら、画になったと思う。
でもこんなびゅうびゅう状態じゃ、いくら女優たちが芝居作っても、見てる方が落ち着かない。上に、この“ゲーム”を仕掛けたジンコが、「見えるもの=名詞を100個書いて、その最後の三個で出来るだけリアルな絵を描いて」というのが、その結果が一体なんだったのか。

それについてはそれこそ素子が「え、これで終わり?」とサクラ嬢そのものの率直さでツッコむし、それで納得はするけれども、でも、やっぱり、何だったの、あそこまでやって何だったの??と思わざるを得ない、よなあ……。
映画も芸術、絵画も芸術、それならばその奇跡をコラボ出来たかもしれないけど、あんな風びゅうびゅうの中での、正直汐里嬢のヘタウマ画では……いやきちんとテーマとらえてて、上手いんだけど、使い方が、上手くないの!

本作は、正直そうしたツメの甘さをどうしても感じてしまうと思うんだ。最後まで突っ込んでくれれば、魅力を感じたかもしれないのに、「それぞれで感じてください」的に放置される、っていうか……。
そんなことを求めること自体がバカっぽいし、実際そこまで提示されたら、また逆にヤボだとか思うのかもしれない。ホントにこのバランスは難しい。雰囲気かしら。 ★★☆☆☆


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