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「す」


2006年鑑賞作品

好きだ、
2005年 104分 日本 カラー
監督:石川寛 脚本:石川寛
撮影:石川寛 尾道幸治 音楽:菅野よう子
出演:宮崎あおい 西島秀俊 永作博美 瑛太 小山田サユリ 野波麻帆 加瀬亮 大森南朋


2006/3/7/火 劇場(渋谷アミューズCQN)
石川監督の前作「tokyo.sora」は観てなくて。なぜってオムニバスっぽかったから(オムニバス苦手……)。なのでこの監督の作品は初見。本作は脚本も撮影(共同)も編集も手がけるという塚本晋也ばりの活躍で、というかこだわりで、挑んでいるんだけど、これが。
……うーん、それがちょっと……どうかな。
監督のこだわりの距離が近すぎて、目の前に迫りすぎて、見えなくなってしまうのだ。

好きだ、の読点の先には何があるんだろうと、考える。
その読点の前の、「好きだ」さえずっとずっと言えずに、17年後、ユウとヨースケは再会した。
そのたったひと言の、好きだ、を言うための映画。そのために17年かかる二人の映画。
まさか17年間、恋人もいなかったというわけではないだろう。そこまで人間はピュアにはなれないもの。
それなりの人生を経て、ひとまわりして彼らは再会した。お互い、酒だって飲めるようになってた。でもキスひとつが、抱き合うことが、あの頃と同じように上手くいかないのはなぜなんだろう。
そして、17年間、相手のことをずっと好きだったことに気づいた。あの頃封印してしまった気持ちに。

17年前、がやけに懐かしい。多分、私とおんなじ頃だもん。西島秀俊や永作博美の17年前、だったら。
ブレザーと、折り目が崩れやすいボックス型のスカート。生地の紺サージは重くて、でもその重さが、学生に課せられてる重さのようで、私は好きだった。
あおいちゃんは、こんな昔の制服でもよく似合うね。

制服が、セーラーかブレザーかと言い合うのもなんか、懐かしかったな。どっちにしたってやっぱり紺サージなんだけど。
ヨースケは、「お姉さんって、セーラーだった?ブレザーだった?」とユウに問うんである。
彼女は「何でそんなこと急に?」と笑う。
でも彼女の笑いには、やっぱり、みたいな空気感を感じたりする。
やっぱり、お姉ちゃんが好きなんでしょ、と。
彼女がなぜそう思ったのか、あるいは自分の彼への恋心が怖かったのか、とにかくお姉ちゃんを挟んで話をしたがる。
あの問いの翌日、彼女は学校に姉のセーラー服を着て現われた。「明日教えてやるよ。それまで悶々としてな」とからかうように言ったその翌日に。
このセーラー服姿に、自分とお姉ちゃん、どっちが見える?そんな気持ちだった、のかもしれない。

限りなく高く、限りなく広い空の見える土手で、いつも二人は出会っていた。会っていた、ではなくて。出会っていた。
ヨースケはヘタなギターを弾きながら彼女を待ってた。待ってた、と思う。心のどこかで。それは、いつでも偶然通りかかった彼女が彼の横に腰を下ろす、そんな風情ではあったけれど。
いつものように、お姉ちゃんを糸口に会話が始まる。
このお姉ちゃん、先だって大事な人を亡くしたばかりだった。ユウは妹として、そんな姉を気遣う気持ちだった、のは間違いない。しかしヨースケに引き合わせようとまでしたのは……。

ヨースケとお姉さんが、どんな話をしていたのかは判らない。だけど、お姉さんはいつも川辺で、今はいない恋人に話しかけてた。きっと二人でいつも過ごしていた場所だったんだろうと思う。ユウとヨースケのように。
ヨースケのギターは、いつも同じところばかり繰り返してた。だからユウはそのフレーズを覚えてしまった。家でいつも口ずさんでいたから、お姉さんもそれを覚えてしまった。
古ぼけた家の、隙間にはさまるようにして、姉の口ずさむメロディーに耳を傾けている。ユウから姉に渡ったメロディが、ほんの少し先に進んでいることに気づく。ユウは知らないメロディ。
それは、ユウが勘ぐるような関係だからではないよね、きっと。同じところで止まってたのは、多分、好きな彼女に一歩を踏み出せなかったから。
ヨースケとお姉さんは、特に話らしい話もしなかったのかもしれない、けれど、共に届かない相手に対する思いを持っている、同志みたいな気持ちを共有できたのかもしれない、と思う。

画面の、左下から右上にゆるやかな斜面を形成する土手を、二人は行ったりきたりする。
なんだか、まるで綱渡りのように見える。もちろん、そんなことに二人は気づいていない。
若さは、なんの不安もなく、大空にかけられた綱の上を自由に行き来できる。
そしてその綱で区切られた、画面いっぱいの空。刻々と色合いが変化してゆく空。
何でも叶えられそうな未来と、だけど絶え間ない不安を感じさせる空だ。
大人になったらどんな夢でも叶えられるなんて、ウソだと、一足先に人生を遮断されてしまった姉は、知っていた。

ヨースケは音楽で食べていきたいという。そんな“進路希望”を聞かされて、担任は困惑する。
誰がどう見たって、彼の夢は非現実的だ。でもそれを担任は即座に否定できない。
「やってみなくちゃ判らない」そんなヨースケの言葉に、大人になってしまった私たちは、やってみなくても判るよ、などとつぶやいてしまう。
そして大人になった彼は、17年前とはまるで違う、空の全然見えない都会で、息苦しくあがいているのだ。

ユウとヨースケは一度だけ、キスをした。
他のシーンにはかなりのもどかしさを感じるものの、このワンシーン・ワンカットは、そのもどかしさがピタリとはまる。とにかく宮アあおい嬢の、スーパーコンセントレーションが素晴らしい。
彼女ほど、“カメラの前”という条件だけで任せられる女優はいまい、と改めて感嘆する。
土手の傾斜を利用して、背比べをしてる。あるいは遠くをまっすぐに指差してみたりと、今までしたこともない、たあいのない遊びを繰り返す。
二人は、今日、今、何かが起こることが、判ってるのだ。判ってるのに。二人の距離がついたり離れたり、もどかしい時間が流れる。
ついに、彼女の方から仕掛ける。だって、今日起こることは決まってるんだ。

一瞬の、キス。でも、まるで永遠の時間。
他のシーンでは、やけに計算高い監督の美意識が見え隠れしていたんだけれど、ここではその計算もピタリとはまってる。
フレームの距離と位置を変えずに、その中を揺れる彼らが出たり入ったり。見切れた彼に彼女がついっと進んでキスをする。この流れのスリリングがたまらない。
彼が去る。足だけが映ってる。もどかしい気持ちがフレームからあふれる。

大人になったヨースケはつぶやいていた。「ユウと初めてキスした時、どうして俺は逃げ出してしまったんだろう」
好きだ、と言うチャンスだったのに。結局、二人とも言えなかった。
そして、ヨースケはユウにうながされて、またお姉さんと会うことになった。でも彼が指定した日時、お姉さんはヨースケとの待ち合わせ場所に行く途中、事故に遭った。川辺に愛しい恋人の姿を見て、ふいに道路を横切ったのだ。
その日から、ユウとヨースケは会わなくなって、17年が過ぎた。

17年前のシーンでもアップは多用されていたんだけれど、17年後ではその接写の度合いがさらに増す。
その、ものすごい接写は、確かに印象的な画は作り出すけれど、ペットボトルの水の接写を繰り返したりとか、ちょっとネラいすぎにも思えるというか……。
接写は、それを表現する役者に対する信頼は感じるし、さすが役者たちはそれに応えるけれど、ちょっとやりすぎというか、息苦しくなる。でも、17年前の開放感と比して、今の彼らの抱えたものの重さや息苦しさを感じさせてるというのなら、成功してるのかなあ。

なんかの媒体で読んだ西島氏のインタビューによると、17年前のシーンでもそうだったのかは判らないけど、少なくとも17年後のシーンでは、役者にアドリブで会話を任せたという。
それって、諏訪監督が得意としてる手法だな、と即座に思って……なもんで、諏訪監督のスリリングな演出とどうしても比べてしまう。それに西島氏は、諏訪監督の「2/デュオ 」によって花開いたと私は勝手に思ってるしさ。
もちろん、それは手段に過ぎないんだから、その先どうやって表現するかは違うわけだし、比べること自体がナンセンスではあるんだけど。

この作品では、沈黙の作り出す間も、微妙に変化する表情をとらえながら、ずっとずっと辛抱強く待つ。
辛抱強く、と見えもするけれど、演出が練られてなくて、こっちが待たされている感もある。
押しつけられてる感じがするというか。監督の思いは凄く伝わるけど、距離が近すぎて時々見えなくなるのだ。
メインであるユウとヨースケ、二人のシーンならそれは確かに有効だけど、ヨースケが酔っぱらいの女性のサイフを盗もうとした青年(加瀬亮)とにらみ合う場面や、その後、目覚めた彼女と会話する場面で、その手法とあの長さが果たして必要なんだろうかと思っちゃうのだ。そのあたりの緩急がほしい、などと思ったりして。
確かにそうした寄り道のシーンも、素晴らしいリアルを獲得しているんだけど、気がそれてしまうというか、正直ダレてしまう。

17年後、ヨースケはレコーディングスタジオにいた。でもブースの中でギターを演奏しているのは彼じゃない。彼はその外側で、その演奏をイイね、とか他のスタッフと言い合っている。レコード制作会社の営業という立場で。
それでも、音楽で食っていけてると言えるかな、などと彼は自分につぶやいてみたりしてる。
そのスタジオに入ってきたのがユウだった。彼女はすぐに彼に気づいた。ギターを抱えてブースに入った彼女に、彼女の方こそがミュージシャンになったのかと、一瞬私たちは驚くけれど、そのつま弾くギターは、お世辞にも上手いとは言えない。
素人っぽい音がほしい、ということで、呼ばれてきたんだという。彼女もまた音楽系の小さな会社の事務員をしていた。

彼女はブースの中で、あのフレーズを弾く。何度も何度もここだけしか聞いたことがなかったヨースケの曲。
いつか、出来上がったら聞かせてね、そう言ったあの雨の日以来、二人は17年間会っていなかった。
そのフレーズを聞いて、ヨースケは顔をあげる。声の届かないブースの中の彼女と目が合う。
その晩、二人は一晩中、酒を酌み交わす。

17年前のように、お姉さんのことをダシにしなくても、会話が出来るぐらいには大人になっている。
一軒目の飲み屋で、ひとまわりして日本酒になった、なんてユウが言う。俺はまだ半周ぐらいだな、とヨースケが返す。
あのもどかしい関係から17年たって、酒も飲めない若さだったのに、今や会った途端、普通に酒を酌み交わせるなんて、大人ってそこだけは素敵だと思う。
けれど、あのもどかしい関係はまだ決着がついてなかった。二人は二軒目に移動、と思いきや、そこはヨースケがこれから引っ越そうとしているガランとしたアパートの一室。ろうそくに明かりを点して、酒をロックであおる二人。

「思い出した。エッチな本(自販機で)買ってたでしょ。コソコソ、ギー、ガシャン、かっこわるー」
「思い出した。あれ、お前がセーラー服着てきた前日だ」
とたんに、沈黙が二人を支配する。
お姉さんはどうしてるの。その言葉に、ユウは、笑ってくれるよ、と繰り返す。会いに行くと、笑ってくれる、と。
今度はヨースケから仕掛けたキスに、彼女は彼とそっと抱き合いながらも、ふいに溢れ出した涙を止められない。
夜が明ける。二人外を歩きながら、ユウは言う。お姉ちゃんはあれからずっと眠り続けているの、と。

ヨースケは、これもまた17年ぶりの再会となる、ユウのお姉さんの病室へと赴く。
17年前と同じまま、眠り続けるお姉さん。
帰り道、彼は「お姉さんは自分で、眠りたいから眠ってるんじゃないかと思ったんだ……ごめん、勝手なこと言って」とユウに言う。黙り込む彼女。
あの時、きっといつも会っていたであろう川辺に、お姉さんは死んだ恋人を見ていた。
呼ばれたのかもしれない。そして今はきっと、愛しい人と毎日会ってるんだ。遠くに妹の声を時々聞きながら。
そして今日は、久しぶりのヨースケの声が、きっと聞こえていたに違いない。

別れ際、ユウの会社の名前を聞くヨースケに、電車の窓の向こう側から答える彼女。その口の動きで、彼女の会社を見事突き止めた彼は電話をし、もう一度ちゃんと会いたい、と言う。
何度も繰り返し弾いていたあのフレーズのその先、彼女のために作った曲を、17年たって聴かせたいと思ったのだ。ギターを引っ張り出すヨースケ。
しかし、待ち合わせの場所に行こうとしたヨースケは、あの時、酔っぱらいの女性のサイフを盗もうとしていた青年によって、暗闇で刺されてしまう。
待てど暮らせど来ないヨースケを、待ち続けるユウ。
一方、倒れてうめいているヨースケの眉あたりの接写。こんなところにまで接写を使う必要があるのかなあ……ちょっとゲージュツ意識しすぎじゃない?

一瞬、暗い予感がよぎるも、ヨースケは病院のベッドで目覚めた。
お姉さんと同じように、点滴がゆっくりと落ちている。
ここはひたすらユウの、永作博美の接写に、すべてがこめられる。本当に、なんともいえない、目覚めてくれてよかったという気持ちと、17年間、ここまでかかったという気持ちと、でも17年後の今なのだと、あの時、初めてキスをした時もそうだった、今日、今、それを言う時なんだという、そんないろんな思いが彼女のあの表情に込められてる。
「好きだ」彼女が言う。ふいに言われたから、彼、聞き返す。すると今度は、あの電車のドアのあちら側で言ったみたいに、唇だけで、ゆっくりと、ス、キ、ダ。
ヨースケは、あの時みたいに逃げたりしない。
「俺も」

ラストシーンは、多分、あの土手。でも真っ白な、雪の傾斜である。画面の左下から右やや上ぐらいの、ゆるい綱渡りの傾斜。
あの頃の記憶はいつも、懐かしげな初秋の風景だった。夏のような景色にも見えるけれど、きっとあれは秋。ガクランにブレザーの制服。トンボが飛んでて、川風が常に彼女の髪を揺らしていた。
二人、あの頃と同じように、抜きつ抜かれつしてはしゃぎながら、雪の傾斜をゆく。

ちょっとだけ思ったのは、姉の事故の責任を感じるのは、彼の方なんじゃないのかしらん。あの時ヨースケはユウに、「お前が責任感じるなよ」なんて言ったけど、日時と場所を指定したのは彼の方じゃん……で、17年間、あの時のお姉さんがどうなったのか、まるで気にしてない、って感じなのも、どうなのかなー。

宮アあおいが成長したら、確かに永作博美のようになるかも。少女の面影を残して、ざっくばらんな人なつっこさの。
瑛太君だけが、雑誌の取材や舞台挨拶でハズされているとファンの子がBBSで訴えてたけど、なんか判る気が……彼、別に悪くはないけど、というかフツーというか、メインの他の三人に比べたら、正直、レベルの差は歴然なんだもん。
それがキャストクレジットの順にもハッキリ現われてて、なんかちょっとザンコク。

接写も、間も、ちょっとフランス映画みたいと思ったりする。なるほど、クロード・ルルーシュ監督が惹かれたのも判る気がするな。★★★☆☆


スクールデイズ school daze
2005年 102分 日本 カラー
監督:守屋健太郎 脚本:守屋健太郎 柿本流
撮影:鯵坂輝国 音楽:オヤユウスケ
出演:森山未來 金井勇太 忍成修吾 山本太郎 市川由衣 鶴見辰吾 いとうまい子 田口トモロヲ 松尾スズキ 田辺誠一

2006/1/27/金 劇場(テアトル新宿/レイト)
あれ?なんか予想してたのと……違うなあ。予告編ではとにかくはっちゃけてて、こんなシリアスモードになるなんて思わなかった。ま、シリアスってほどじゃないけど……うーん、なんていうのかな、哲学的?
思いっきりバカバカしく、くだらねーっ!て笑わせてくれると思ったんだよね。予告編で田辺誠一が飛ばしまくってるし。いや彼は本編でも充分飛ばしまくっているんだけど。
だって彼ったら、現実と虚構の区別がつかなくなった主人公の行く先々にまで、ドラマの中の先生そのままの姿……寸詰まりの小豆色のジャージにゲタ姿で現われて、クサい台詞を吐くんだもん。
でもそれはあくまでテレビドラマの中のキャラクターで、演じている俳優としての赤井の姿は寡黙で努力家、というのが一方で描かれる。あ、なんだ、マジに見せちゃうんだ、などと思い、そうか想像してたのと違うんだあ……みたいな。

主人公の晴生はかつて天才子役と呼ばれていた。いやそれどころか、赤ちゃんの頃からベビドルだった。
母親は息子の才能を信じて、というか世の中のあおりにのぼせ上がって、学校をやめさせて彼を役者一本に進ませようとするんだけど、父親はまあまともな常識人で、学校には行かせなければならない、と。両親のケンアクな仲が世間にも知れてマスコミが騒ぎはじめ、子供ながらも苦しんだ晴生は、二人を離婚をさせないために役者を辞めた。なのにそれ以来10年間、家庭崩壊状態なんである。
壊れてしまった母親は117(時報)に電話をかけて、「あの子ったら役に没頭して3才でノイローゼになったのよ!」と晴生の自慢話をずーっと話し続ける。しかも豆腐健康法とやらで、豆腐ばかり食べ続ける。味覚がおかしくなっているのか、無意識のイヤガラセなのか、家族への食事は生肉だったりする。
父親はそんな家庭に嫌気がさしたのか、外でせっせと浮気に励んでいる。
もはや、この家の中自体がツクリモノ、演技で出来上がってしまっている。この家庭こそが虚像なのだ。
現実が虚像である晴生にとって、その外の学校生活も、更にその外である学園ドラマも、現実と虚構の差なんて最初からなかったのかもしれない。

晴生が実に10年ぶりに芸能界復帰を目指したのは、友達である佐治の勧めがあったということだけど、でもかつて自分が主人公でいられた世界に戻りたかったのかもしれない。
だって、学校生活の晴生は、実にポップにいじめられているんである。しかもこのたった一人の友達の佐治とともに。
10年ぶりに復帰したのは16年前から続く伝説の学園ドラマ、「はみだしスクール・デイズ」 俳優、赤井がこの教師役だけに入れ込み、16年前から鴻ノ池先生を演じ続けている。
髪型とジャージだけが変わってゆく、と16年前からの映像をパッ、パッと見せてゆく。これが実に上手く出来てて、いかにも過去映像っぽくて、いかにも昔の、ほら、「夕陽丘の総理大臣」とかそんな雰囲気もあって。しかもアフロだなんだとすさまじい髪形でゾクゾク出てくる田辺誠一のキメキメの笑顔に思わず吹き出す。
しかし……田辺誠一はせっかくこんな美しい役者なのに、それをそのまま出す作品がないよなあ……なんかこういうオチャメ路線にいくことが最近多いような。ま、美しい役者だからこんなキャラを演じると可笑しいわけだけどさ。もったいないな。

それにしてもこのドラマ、もうまんま、思いっきり、思いっきり金八先生、である。シリーズ1を再現したオープニング映像で、土手を歩く先生の前を、自転車に乗ったおまわりさんがコケるなんていうのまで用意されている。俯瞰の画で「はみだしー!」と先生が叫ぶと、周りから生徒たちが駆け寄ってきて押し合いへしあいしながら「スクールデイズー!」と叫ぶトコなんて、ホントに、ホントに、まんまだもん。キャラは金八センセというよりは、それこそ中村雅俊か村野武憲風だけど。

金八先生をパロってる、と考えると、皮肉な部分はたくさんある。この鴻ノ池先生はまさに金八先生そのままに、人間的な説教で生徒の心をつかんでくんだよね。そう例えば、あきらめるのは簡単だ、簡単すぎてつまらねー!とか、間違ったことをしたら心から悔いて謝って償えばいい、とか。はては、よーし!俺たちのクラスの歌を歌うぞ!なんてさ。でも先生がいい話をしたくらいで、生徒が心を入れ替えるなんてことは実際はほとんどないんだよね……それに標語みたいなその言葉は、実際にリアルに心に届くかといったら難しいものがある。
晴生が実際に通っている高校のセンセイは確かにヒドい。演じるのが松尾スズキだから!?その卑怯さがじっつにムカっ腹が立つんである。晴生がいじめられているの、明らかに判ってるのに、いじめている生徒たちがかなりのコワモテだからなのか、あからさまに見て見ぬふりをしている。そして晴生がドラマ撮影を理由に学校に来なくなると、「お前が学校に来ないとノルマに響くんだよ」なんて言うんである。一瞬ムカッとくるんだけど、……こんな風に自分をあからさまにさらけだしている人間臭い先生だといえるのかもしれない、と思うのね。

晴生は生まれたての赤ん坊の頃、この「はみだしスクールデイズ」に出演していた。
ううっ、まさしく、鶴見辰吾&杉田かおるの「15歳の春」じゃないのお!……ま、こっちは高校生だけど。
晴生はドラマの世界でも、いじめられている設定にされてしまう。もちろんそれは偶然なんだけど……復帰した子役ということで役名までもが晴生にさせられ、彼の中で現実とドラマとがめまぐるしくスイッチしだすんである。

このドラマの現場でさまざまな役者に彼は出会うんだけど、その中でも真摯に役に取り組んでいる柏木(忍成修吾)に学校でもいじめられていることを見抜かれてしまう。
「リアルなんだよね。役に深みがあるっていうか。うらやましいよ。平凡な人生なんて役者にとってマイナスだよ」
多分ずっと、いじめられていた学校生活も、家庭の虚構の延長線上で、そのポップな演出そのままに晴生自身がリアルだと感じていたわけではなかったと思う。いじめっこはやけにいい発音で「パイナポージュース買ってこいよ」なーんて言うし。ま、それは関係ないけど。そんなことがリアルなんだと、うらやましいと言われ、晴生はこのドラマの世界でかつての自分のように自らをスターに押し上げるために、ことさらにリアルであることを重要視するようになる。彼にとって今までの世界の全てが虚構だったから、その上のリアルを追及しようとすると、自分自身を傷つけることにしかならない。彼は自ら階段落ちを志願してアバラにヒビが入り、更にナイフを手でつかむシーンでホンモノを使わせてほしいと執拗に監督に迫りさえする。

自分自身で納得して傷つけることが快感に思えたのかな……。だってそれまでは、学校生活でのイジメも学園ドラマの中でのイジメも、そういう設定を人に作られたものだった。他人が彼に対してそうしたいという欲求から作られた虚構は、現実世界もドラマも同じ。赤ちゃんの頃からずっとその世界にいたから、ドラマの虚構も現実の虚構も、最初から彼の中で区別はなかったのかもしれない。
彼の演技があまりにリアルにいいもんだから、ノった製作サイドが彼に同級生へのレイプのエピソードを課したのも、彼がヤバい方向に没頭し出すのを手助けしてしまう。
晴生はひどくリアルに演じ、撮影を見守るスタッフやキャストは戦慄しながら見守っている。相手役はまるで本当にレイプを受けたかのようにショックを隠せない。

「強いものに決して屈せず立ち向かう。それだけの勇気があればなんだって乗り越えられる」そう鴻ノ池先生は繰り返し言ってた。
それは確かに正論。カッコイイ言葉だと思う。でも現実世界はそう上手くはいかない。
でも鴻ノ池先生を、そして役者としての赤井を信奉する晴生は、それをまっすぐ目指そうとして、どこかでカーブを切ってしまう。
確かに強い者に立ち向かったはず、いじめっ子に立ち向かったはず、なのに、隣の弱い者を傷つけてしまった。

というのはね、現実世界でたった一人晴生と友達で、一緒にいじめられていた佐治がキッカケになるんだよね。
一緒にいじめられていた友達は、だからこそ晴生を仲間だと思ってた。でもドラマの中でリアルという目的を見出だした晴生が現実にアイソをつかすと、一緒に現実を戦ってきたと思っていた佐治は失望してしまう。
ドラマの世界で頑張っている晴生を後押ししてきたと思ったのに。その代わりに二人で受けていたイジメを自分ひとりで負うようになったのに。鴻ノ池センセに感化された晴生はカンタンに、いともカンタンに、「お前まだそんなこと(いじめっこのリクエストに答えてジュース作ってる)してるのかよ」なんていうから……誰のためだと、お前が逃げたんじゃないかと……までは言わなかったけど、多分そう、言いたかったんだと思うのね、佐治は。
ドラマの世界では立ち向かっていても、現実世界では逃げている形になっていた、ことを、晴生は気づいていただろうか。

ドラマの世界の鴻ノ池先生に後押しされる形で、捉えられた佐治を助けに向かうけれど……そこで彼は、ずっと憧れていた夏美(水川あさみ)がイジメッ子、間山の彼女だったことを知る。佐治が晴生のためにとコッソリ彼女の写真を撮っていたことがバレたのだ。晴生はナイフを手に、間山に迫る。佐治がフレッシュジュースを作らされている時に使ってた果物ナイフだ。そして、「暴力をふるわれると、人の痛みが判る。人の痛みは自分の痛みなんだ」という鴻ノ池先生の決め台詞を武器に、彼にじりじりと迫る。つまり、つまり……だからお前も人の痛みを知れと。晴生は勝手に解釈の垣根を乗り越えてしまった。
重要なのはその続きで、だからこそ、人を傷つけてはいけない、人の痛みが判る人間は強いんだ、ということなんだけど、晴生は人の痛みを判らせようと、本人ならともかくこの彼女を刺す。
崩れ落ちる彼女。一体なぜ彼女を刺したのか。この期に及んで、「強いものに立ち向かう」勇気がそれてしまったというなら、なんという皮肉なのか。
それとも自分が憧れていたマドンナが、こんなヒドい男の彼女だということを知ってゲンメツしたのか。

ここにも、彼女に対して作り上げていた虚構が見え隠れする。

晴生が捕まり、ドラマの中ではレイプをした自分を恥じて自殺、という設定で葬られた彼は、つまり虚構の世界で一度死んでしまったわけで。
あの時、現実でもいじめられてるから、リアルな芝居が出来る晴生がうらやましいと、平凡な人生を呪うようなことを言っていた柏木が、取材に対してオフレコだと言いながらも、「役者は虚構の中で生きているといっても、現実に帰れば家族がいたり、彼女がいたりするわけじゃないですか。その区別がつかなくなるなんて、役者として失格ですよね」などとしれっと言うのには、さ、さすがザ・芸能界!なんである。
しかも柏木はちゃっかり、このドラマのヒロイン(つまり晴生がレイプした相手役)をカノジョにしちゃってるし。 演じる忍成修吾ははひとすじなわではいかない役ばかりきっちり手に入れるね。

いい演技をした役者には無言で肩を叩く鴻ノ池先生役の赤井は、16年前赤ちゃんの彼と共演したことを知って知らずか、晴生の肩も叩いていた。それはあの饒舌で熱血な鴻ノ池センセイとはまるで違う、役者、赤井であり、虚構と現実を学ぶなら、彼のその姿勢を学ぶべきだったのだ。
晴生は両方の彼に憧れていたはずなのに、いつしか虚構の鴻ノ池先生に収斂されてしまうというのは、やはり彼にとって虚構の方がキモチよかったからなのか。
でも、多分、そうだよね。だって虚構は所詮虚構だ、と思える逃げ道があるんだもの。現実の中で行き詰まると、もう逃げ場がない。だからどこまでいっても、これは虚構なんだ、と思えば気が楽だけど、そうしてどんどん引き返せない虚構の闇の中に入ってしまった結果が多分、これなんだ。

虚構の象徴といやあ、このドラマで出会った、“クラスのお調子者”という役を与えられるも、台詞がほとんどない高井戸(山本太郎)である。
役者生活ウン年にしてようやくつかんだレギュラー、実年齢は30手前で奥さんが妊娠中だという。
彼は虚構の何たるかを最も認識していて、高校生役というのを裏切らないためにタバコもやめ(秀才役でキャスティングされていた水野は現場で堂々と吸っていて降板させられた)、鼻毛の手入れもマメにしたりして。
そうか。現実と離れていればいるほど、虚構をスイスイ生きて、戻ってこられるのかもね。
晴生は、イジメも、そして役名も本名と同じで、逃げ場がなかったんだもん。

ドラマの監督(田口トモロヲ)である坂田は「逆にね、逆に」が口癖である。
これって、ただ単にギョーカイ人っぽく聞こえもするけど、現実と虚構、というのが逆、ということを考えると、結構シニカルなんだよな。

間山の彼女を刺した晴生が少年院から出てくる時、あの見ないフリばかりしてきた俵先生が迎えにきてくれてる。
まあ、ただそれだけといえばそうなんだけど……なんか結構グッときちゃうんだよな。
だって、友達だったはずの佐治はその頃、週刊誌に自分の撮った晴生の写真を売りまくってウハウハしてんだもん。
晴生が久しぶりに家に戻ると、お母さんが走って出てきて……というのはドアの影で描かれるんだけど、お父さんも待ってて「お母さん、はりきってご馳走作ったんだぞ」なんて言ってる。
久しぶりの、本当に久しぶりの家族の食卓。晴生とお父さんが口に入れてぐっ……という顔をしたのは、またしても生焼けだったのか、それとも久しぶりにマトモに美味しかったのか。
まさにティーンの頃、ともに虚像を演じていた鶴見辰吾といとうまい子が、前半はそれが崩壊したような生々しさで、しかしラスト、穏やかに収斂し、ようやく現実を一から積み上げ始めた、という趣がステキである。

それにしても森山君、映画デビューはセカチュウで、それ以来なのか!あの彼があまりに良かったので、それ以前も以後ももう何本も映画に出ているような錯覚してた。ダンスからはじまり、舞台で鍛えられたというちょっと変わり種の彼は、真の実力派かもしれんなあ。いやいや、成長が楽しみだわ。★★★☆☆


ストロベリーショートケイクス
2006年 127分 日本 カラー
監督:矢崎仁司 脚本:狗飼恭子
撮影:石井勲 音楽:虹釜太郎
出演:池脇千鶴 中越典子 中村優子 岩瀬塔子 加瀬亮 安藤政信 趙和 奥村公延 中原ひとみ

2006/10/12/木 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
本当はこういう「女の子を描くならテーマは恋愛」的なのってあまり好きじゃない。この中に出てくる四人の女の子、どの子とも近い感覚は起こらないし。
でも本作に足を運んだ大きな理由が、矢崎監督だから、というのがあったから、やはりその見え方は凡百の女の子映画とは違ってた。この人はこういう風に、なんで判るのというぐらい、男のフィルターの入らない女の子、を描くのが上手い。
傷も、ズルさも、もちろん可愛いさも。
セックスシーンも、エロさやエグさではなく、女の子からの見え方や感じ方が描写されているっていうか。
女の子がね、さらりと裸になるんだけど、それがとてもリアルなのだ。エロやセクシャルじゃなくて、生活の中でさらりと。リラックスするために脱いでる。それだけとっても、他の映画には決してない。
まあだから、中越典子には、おめー、脱げよなー!と思ったりもするのだが。
一番脱がねばならぬ場面を与えられてんのにさ!

と、まあそれは後述。四人の女の子はそれぞれ、絡み合うという展開ではない。というか、二人ずつは同居人だったり仕事場で一緒だったりで絡むんだけど、その二組のそれぞれの女の子も違う場所で不思議に近づいたりし、そして最終的には収斂されてゆく。

時間軸で語るとごちゃごちゃになっちゃいそうなので、一人ずつ。まずはこの四人の中でメインの視点を与えられている、つまり主役が池脇千鶴嬢演じる里子である。
丸っこい原チャリに「オートバイ少女」みたいなクラシックなヘルメットが、実に可愛く似合っている。
ところでさ、今更だけど、アサヤンが素晴らしかったのはモー娘。の輩出ではなく、池脇千鶴を見い出したことだったのだなあ。
新人賞をとった女優が、その後賞取りの女優になるようなパターンはあまりないけど、彼女ならいずれやりそう。

冒頭、いきなり彼女が「私は男にひきずられたことがある」とナレーションして始まる。パンクな男の足にしがみついた彼女、かまわずその男が歩くもんだから、ズルズルと衆目の中引きずられる。
「お願い、好きになってもらえるように努力するから」そう懇願し続けながらパジャマのままズルズルと引きずられる里子。
ぴたりと止まるその男。許してくれたかと思い笑顔を上げると、吐き捨てるように「うっせえ!」
そして彼女を往来にぶっ飛ばしたまま、彼は去ってしまうのである。
死んでやる、と思った。でもふと思いなおした。こんな最悪な経験を乗り越えたなら、なんだって出来る、と。
さっきまであんなにアワレに泣いていたのに、すっと立ち上がって何事もなかったように反対側へと帰っていく里子。

彼女は強いのかもしれないし、あるいはまだ本当の恋をしていないのかもしれない。激しい恋が終わったようにも見えるけれども、彼女の気持ちがあまりにも一方通行だったようにも見えるもの。
彼女はデリヘルの電話番の仕事を始める。
地電話じゃなくて、携帯電話で受けるのは、摘発とかを恐れているからなのだろうか。何気に勉強になったりして。
店長から、「そろそろお前もウリやるか」などと誘われるのだが、「私、ブスですから」何い!「ブス専っていうのもあるぞ」おいおい!ちーちゃんがブスなら世界中の女の子がドブスだ!
「声には自信がありますから、そっちで頑張ります」
うん、確かにそうなのよね。耳に心地よいマシュマロボイスが実に良いのだよなあ。

里子は道で拾った変わった形をした石になぜか神様を感じて、毎日願掛けをしている。
「恋がしたいです。スペシャルな人の、スペシャルな女になりたいです」
果たしてその願いが聞き届けられたのか、この店のキモチワルイ店長(ゴメン!)から色目をつけられるんである。動揺した彼女、
「別に誰でもいいって訳じゃなくて、誰かを好きになって、その相手も奇跡的に私を好きになるっていうか」
うん、やっぱり、彼女の恋に対する思いはどこかまだホンモノじゃない。彼女がこの四人の中で、そういう意味で、最も女の子度が高い。

さて、そろそろ次の女の子に行っとこうか。里子の働く店で、デリヘル嬢として働く秋代である。
恐らく彼女が最も、女の子の切ない気持ちを担っている。
彼女は、あれ?ホントに同じコ?と一瞬思うほど、デリヘル嬢である時と、好きな男の子と会う時と、メイクからファッションから雰囲気まで印象を違えてくる。
デリヘル嬢をしている時はどこか退廃的な、セクシーなお姉さま。同僚のキャピキャピしたデリヘル嬢とは全く違う。そうしたキャピ嬢がイヤがるキモチワルイ客なんかをチェンジして行ってあげると、必ず彼女の手に落ちてしまうので、キャピ嬢たちは、「一体どんな手を使ってんだろうね」」「年の功?」「そんなにお金がほしいのかな」などと陰口を叩く。

そんな秋代になぜか、どこかシンパシィを感じるのか、里子は何くれと気を使って話しかける。
彼女の話など聞いているのかいないのか、まるでひとり言のように番う応えを返す秋代。
「1人用の、5階以上のマンションを買うの。そして年をとって自分が判らなくなったら、飛び降りる。5階以上じゃないと、飛び降りても確実に死ねないんだって」
金を貯める理由と、その先の人生をそんな風に決めていることを、秋代はなぜ里子に話したのだろうか。
誰かに言いたかったのかもしれない。どうしても叶わない恋をしている、その恋を貫こうとしているから、一人で生きていく覚悟を決めていること。

秋代は専門学校時代の同級生である菊地という青年を、たびたび呼び出す。
「実家から野菜たくさん送ってきたから」それが事実なのかどうかも疑わしい。ただ単に、彼を呼び出す口実に過ぎないのではないかと思う。
菊地と会う時は、すっぴんに近いナチュラルメイクにダメダメ君風眼鏡、デリヘル嬢の時にはドレッシーに巻いていた髪を無造作にまとめ、TシャツにGパン、更に自転車を駆って行くのだ。
本当に別人みたいで、女の子って外見で決まるんだなと今更ながら思ったりする。
行きつけの居酒屋で、どこかのんびり青年の菊地の尻を叩くアネゴ肌で、まるで男の子同士がサッパリ飲んでいるという感じ。菊地も、彼女といるととてもリラックスしているように見える。

秋代は知っているんだ。菊地は自分のことをとても大事な気の合う友達だとは、思ってくれてる。それはとても嬉しいことだけど、異性として好きになってくれることは、絶対にないのだ。
彼女がこんな、サバサバしたカッコとキャラで菊地に相対しているのは、そのせい。素のように見えるけれど、これも決して彼女の素ではない。彼女の素はもっと寂しくて、デリヘルしている時よりも灰色に退廃している。
彼女はどこで手に入れたんだか、木の棺おけを寝床にしている。毎朝目覚ましがなると、顔の観音開きがカチャリと開き、そこから手が伸びてきて目覚ましを止め、更にカチッとライターがつけられる音がして、その観音開きから紫煙がゆっくりと昇ってゆく。
そんな寂しい部屋の中に、デリヘル嬢ならではのカラフルでセクシーな下着が無造作に干してあるのが、だから逆に虚しさを感じさせる。
そして彼女は、大きなガラスの水槽の中に、一匹だけ金魚を飼っている。それは尾が長く美しい金魚で、いつもゆらゆらと、寂しそうに、泳いでいる。まるで彼女みたいに。
やがてその金魚が、だんだんと泳ぐ力を失い、ついには水槽の底で動かなくなってしまった時、彼女はある決断をする……。

そして次の女の子。イラストレーターの塔子。演じる岩瀬塔子が非常に印象的で、見いだされたという点では彼女が一番だと思われる。ボーイッシュでアーティスティックでカッコイイけど、ずーっと一人でいることも手伝って精神的にモロイ。彼女の中に抱えている複雑なものが、同居人の要素を上手く使って丁寧に表現されている。
その同居人というのが、最後にご登場願う四人目の女の子、ちひろで、演じるのは中越典子。まずは彼女の方から行こうかな。

制服着た事務系のOLで、思いっきり恋愛体質な女の子。加えて自分勝手で、気まぐれ。こんなこと言っちゃワルイかもしれないけど、中越典子のキャラにピッタリ。制服も似合ってるし。
自分で飼い出したハムスターを恋愛に夢中になってほっといちゃってついに死んでも、その後始末を同居人の塔子にやらせるようなヤツなんである。やらせているという意識もないんだろうけど。
ちひろが始末しないから、塔子が「後始末ぐらい自分でやれよ」とつぶやきながら公園に埋めてやる。ホントだよなー。こういう、恋をしてなきゃダメって子、生理的に苦手。塔子も恐らくそう感じている風である。二人は地元時代からの友達なんだけど、そのキャラはあまりにも対照的。

ちひろはある日、浮かれ気分で帰ってくる。「取引先の男の人に告られちゃった」彼女にとってそれはイコール、カレが出来たということなんである。彼女もまたそういう意味では、本当の恋をしていないのかもしれない。自分を好きになってくれる人なら、問題なく恋人に出来る。そういう感覚。
しかし彼女の恋人としてのアプローチは、女の目から見てもかなりうっとうしい。「彼氏の家でごはんを作る」ことと「セックスをすること」の2点さえクリアしていればオッケーという感じで、彼が残業で遅くなって帰ってくるとぼんやりドアの前で待っていたりするんだから、そりゃ確かにかなりキツイのだ。
それでも男だからセックスはする。でも彼女、「恥ずかしいから」と言って、コトの終わった後、身体を隠しながら服を着だすんである。アホか……大体それ以前に、掛布をかぶってのセックスシーンなんて、往年のトレンディードラマじゃあるまいし、今時あるか!オメーが脱げないだけだろ!

と、ついついイカってしまうのは、岩瀬塔子や中村優子がさらりと脱いでくれるからさあ。特に岩瀬塔子なんて、セックスシーンでもないのに、生活の中でのヌードをさらりと見せてくれるのがとても印象的なんだもの。
セックスの後、彼の衣服をかいがいしく畳むちひろを見て、彼はぽつりと言う。
「ちひろちゃんって、結婚向きの女の子だよね」
「ホント?嬉しい」
いやそれ、褒めてないと思うよ……。結婚向きかもしれないけど、恋人としてはうっとうしいと、彼はこの時、無意識かもしれないけど思ってるんだよ。
確かにこの男は、かなり冷たいのかもしれない。彼女が用意してきた食材で食事を作ろうとすると、「それより電車の時間はいいの?俺、送っていってあげられないから」とさえぎる。
彼女は当然、泊まるつもりであったに違いない。歯ブラシも買ってきていた。でもそう言われてしまったら帰るしかない。そんな彼女に更に追い打ちをかける。「あ、それも持って帰ってくれる?俺自炊とかしないから」「……」

そのちひろと対照的な塔子。彼女には一見して恋愛の陰は見えない。名前が売れ始めたイラストレーターの彼女は、一心不乱に仕事をしている。
納得のいく、あるいはOKの出る作品がなかなか描けなくて、自身かなりイライラとしているんだけれど、同居人のちひろには決してそんな姿は見せない。けれど一人でいる時には、食べ吐きを繰り返しているのだ。
ある日、恋人に冷たくされてちょっとヤケになってたちひろとケンカもしてしまう。つっても、ちひろがただ単に自分勝手に言ってるって感じだけど。
だってまず、こうよ、ちひろってばさ。「私、こういう誰にでも出来る仕事、向いてないのかもしれない。もっと責任のある仕事とかさ」アホか……その誰にでも出来る仕事ですら、合い間にメイク直したりして全然真剣じゃなかったじゃん。自分に何かが出来ると思っている女ほど、何の努力もしてこなかったヤツなのよ。
「塔子はいいよね。芸術的っていうの?皆に認められて、お金もあって」
「私、ちひろが思うほど上手くいってるわけじゃないよ」
「私のこと、見下してるんでしょ」
「見下してないよ。そう思う方がいけないんじゃない」
「……高飛車」

そんなやりとりがあった後、なんとか仕上げた塔子の絵が、取りにきた編集部の女の子によって紛失されてしまう。
紛失されたことより、自分の絵を大事にされていないことが「またチャッチャッと描いてくれればいいでしょ」という横柄な態度にモロに現われている編集長に(もちろんこの女の子にも)怒りを抑えつつ「描きます」と言いながらも、「でも、ちゃんと謝ってくれませんか」としぼり出す塔子。
そこに立ち尽くしていた女の子、思ってもみないことを言われたみたいな顔で、目が泳ぎながら、「……すいませんでした」と頭をちょっとななめに動かしただけ。
「エラくなったもんだよな」そんな陰口を浴びせられながら編集部を出た塔子、外に出たとたん、倒れてしまう。
ほうほうの体で帰ってきて、コンビニで買った弁当やらお菓子やらを大量に食べ散らかし、何度も何度ものどの奥に指を突っ込んで吐きながら、「違うんだよ。そんなんじゃないんだよ。私の絵を大切に思ってくれるんなら、何百枚だって描いてやるよ」そう言って、何度も、何度も吐くのだ。
その後ろに、呆然と立っているちひろ。こんな時間にいるはずじゃないのに。彼女は自分から恋人と別れてきたのだ。
「あっちに行って。お願いだから」そう繰り返す塔子に、「ずっと、そうだったの」呆然と言うちひろ。そしてふいに塔子を抱きしめる。

結局二人とも、お互いのことを、信頼してなかったんだよね。塔子の方がそれは強かったかもしれない。ちひろがカンタンに「ちょっとお金貸して」と言うのだって、返ってこないと思って貸してる感じがアリアリだった。
それは塔子のかつての恋人から、結婚の知らせと共に以前貸した金が返ってくる場面と印象的に重ねあわされるんだけど……ここは唯一、塔子の恋愛が語られるシーン。半年前に別れたばかりの元カレからの結婚の知らせに、塔子はショックを受けている様子もなく笑い飛ばすのだけれど、その後、貸した金が現金書留で送られてきたことに憮然とするんである。
金を返すという意味以上に、もうこれで縁は切ったと。お前とは関係ないんだとという意味こそが強く打ち出される。更に更に、孤独に突き落とされる。

貸した金が返ってくるという反復は、しかし全く違った意味で提示される。ちひろは結局、田舎に帰ることにした。それを見送る塔子が、彼女に弁当を買ってやる。サイフを取り出したちひろに、いいよと言う塔子。「違う、この間借りたお金」
ここで二人はようやく、真に対等になるんだよね。清算して縁を切ったんじゃなくて、友達として、女として、さ。
「私、塔子のことキライだった」
「私も」
握手をした手を、どちらも離せない。ベルがなる。そのままウッカリ、塔子はちひろの帰郷する列車にそのまま乗っていってしまうのだ。

さて、ここらで一旦、中断した秋代と里子の話に戻る。
里子は秋代を、自分の母親に引き合わせる。今は施設で暮らしている。「私、母親が50の時の子供なんです」周囲はだから、彼女がおばあちゃんに面会に来ていると思ってる。しかも施設で一緒にいるおじいちゃんは、恋人!
皆で野菜をとったり、食事をしたり。このおじいちゃんは美しく孤独な秋代に興味シンシンの様子。ちょっと手を握ってみたりさえする。
「そんなに堅苦しく考えることはないよ」
家まで送っていく、という里子を制し、秋代は一人、もらったトマトを携えて帰ってゆく。
トマト。菊地にいつも「おすそわけ」していたトマト。
見上げた菊地の部屋の窓から、コトの後だと思われる菊池と彼女が夜空を見上げているのを見てしまう。
路上に無残に落とされたトマトが、まるで血のよう。

秋代はいつものように、電話で菊地を呼び出す。いつものように呑む。明るく。「俺、今日金ないよ」「じゃあ菊地の家で呑もうよ。その方がお金かからないし。私、おごるから」
彼女はいつからか、その機会を狙っていたのか。
でもそれは、最後の手段。彼との別れを意味する、最後の望み。
「一回でいいからエッチしよっか」「……いや、俺彼女いるし」「一回でいいから。私あんたのことなんて全然好きじゃないから」
彼女はこの直前に、他のデリヘル嬢に「秋代はナマでヤラせてくれる」と吹聴された客から、縛られてバックから突っ込まれて、中が炎症を起こしてしまってた。
彼女は菊地によって、その事実を消してしまいたい思いもあったのかもしれない。

ここで描かれるセックスもムダにエロくなく、女の子からの視界が見えている感じで、だからやけに切ない。菊地を演じる安藤政信の身体がやけに大きくて、男の子で、だからやけにやけに切ない。
秋代、シーツの出血を見て、「……処女みたい」ぽつりとつぶやく。菊地がまるで初めての男みたいな錯覚。でも一方で、あの忌まわしい客を思い出させもし。
寝ていたと思っていた菊地、背中を向けたまま、「……ごめん」と言う。秋代、ことさらにいつものように明るく、「何マジになってんの。たかがセックスじゃない」そしてドアを閉めて「ごめんなんて、ズルい」とつぶやくのだ。
ごめん、て言われたら、せっかくの幸福な思い出が、間違いを犯したものとして、否定されてしまうじゃない。
一番、言ってほしくなかった台詞。でもそれは、自分が菊地にちゃんと思いを告げなかったから。ずっと逃げていたからいけなかったんだ。

秋代は後日、菊地を呼び出す。「どうしても今日会って」。今までは、こんな真剣な声で呼び出したことなんて、なかった。
「私、菊地のことがずっと好きだった」うん、うん、と言葉もなくうなづくしかない菊地に秋代は最後にこう言う。「ありがとう、菊地」
それは、「ごめん」と言った菊地に対する仕返しのようにも聞こえたけど……菊地がくれた命のことだったのだろう、やはり。
秋代のお腹には新しい命が宿った。
でも、でもね。それが菊地の子供だという保証はないんだよ。だってその前にあのお客にナマでヤラれてるんでしょ。そしてこの後に「もう誰にもこの身体を触らせない」とお客を殴って騒動を起こしてる。最初からそう思っているんなら客なんてとるはずもなく、ということはまたナマでヤラれそうになったのかもしれない。いや、ヤラれたのかもしれない。シャワー室に立てこもった彼女、その身体を必死に洗ったのかもしれない。

ということは、本当に判らないじゃない。
でも、「言い出しかねて」の女の子も同じだったんだけど、その彼女自身がそう思っていれば、信じていればそれでいいのだ。秋代は生涯たった一人の、大好きな人の子供を得た。それで生きていこうと思った。デリヘル嬢はローンを組めないから、なんて理由でもなんでも、5階以上のマンションを買ってボケたら飛び降り自殺するつもりだったのが、郊外の一戸建てを買った。「ここは海が近いから」つまり、この子と一緒に生きていこうと決心したのだ。
きっと、菊地とはもう二度と会わない。

この時の秋代は、デリヘル嬢の時の妖艶さとも、菊池と会っている時のボーイッシュさとも違う、自然体の美しさを見せている。里子が餞別にくれた“神様”の石も「必要ない」と海に投げ捨てるほどの強さを得ている。
この、第三の秋代こそがホンモノ。どちらの秋代も武装だったのだ。前者は女として生きていくための武装、後者は友達以上になれない菊地に、女を思わせてその地位さえも失う恐怖からくる武装。
演じる中村優子は本当にイイ。「火垂」のヒロインっていうのは、忘れてた。だって、あの作品があまりにキライだったもんだから……。でも「血と骨」での愛人!ああそうか、彼女だったのか。確かにバツグンに良かったよなあ。
彼女には脱ぐ意味を感じる。単に度胸とかではなくて、役者として脱ぐ意味。
本作では彼女が一番。3パターンの顔をキッチリと見せてくれるから。

店長が死んでしまうエピソードとか、ラーメン屋の李君(「三月のライオン」の趙方豪の息子さんとは!)のこととかも印象深いのだが、もう追いきれないのでこの辺でやめておく。
それにしても思ったのは、女の子、の定義が高年齢化していること。20代でも女の子なんだよね。ある程度の年になったら結婚しなければならない、という枷からは解放された分、悩んだり不安だったりする期間は延長される。女の子はいくつになっても大変なのだ。★★★☆☆


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