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「み」


2013年鑑賞作品

みなさん、さようなら
2012年 120分 日本 カラー
監督:中村義洋 脚本:林民夫 中村義洋
撮影:小林元 音楽:安川午朗
出演:濱田岳 倉科カナ 永山絢斗 波瑠 田中圭 ベンガル 大塚寧々


2013/2/10/日 劇場 (テアトル新宿)
“団地映画”といえば「ニュータウンの青春」の団地の画も凄かったんだけど、本作の画も、相当に凄い。画だけで、感嘆してしまった。
劇中流れる“団地へのいざない”的なタイトルのキャンペーン映像はラストクレジットで資料映像として載っかってた、よね??てことは、ホントなの、あれ、コレ用に古っぽく作ったんじゃなくて??ビックリ!

いや、私何かカン違いしてるかもしれないけど、でも確かに団地ってさ、それが建ち始めた時は高度経済成長期の象徴で、その映像の中のこれまた古っぽい女性アナウンサーの声で「まるでヨーロッパの街並みみたい」というのは持ち上げではなく、きっと本当にそう思っていた、んだろうしさ。
本作に出てくるずらりと何棟も建ち並ぶ団地は、その消滅がCGで描かれたりもしているから、それなりに作られた映像である部分もあるんだろうけれど、俯瞰でとらえた団地とその外の世界はそのものだろうし、やっぱり日本のひとつの経過、ザ・団地、なんだよね。

それにしても“団地映画”立て続けである。団地映画、なんてジャンルがある訳じゃないけど、「ニュータウンの青春」に出くわす前に本作の予告を見てて、あらら、なんか重なるネと思っていたら、新人作家さんやインディーズ系の作品じゃなく、大手製作、草薙君主演でバーンと“団地映画”の予告をその翌日見ちゃったもんだから、ビックリした。い、一体何なの、この重なりっぷり。

それだけ、それだけ……“団地”というものの検証が、今大きな問題になり始めているのかもしれない。
私は転勤族で、それなりの集合住宅に住んでたことは多いけれども、こんなメッチャ団地は経験がないし、何よりここで産まれ、学生時代を過ごし、ウッカリ大人になっても住み続ける、なんて、経験がないから、ちょっと興味はあった。

本作の団地はメンテもされずに古びるばかりで、実際住人がどんどん減っていくに従って、棟も壊され、住人は寄せられ、つまり寂れていく。
というか、滅びていく、と言った方がいいかもしれない。だってここは、主人公の悟が「ここだけで生きていく」と決心したぐらいの、ひとつの街、だったんだもの。
街どころか、彼にとっては生きる全てだったんだから、世界と言っていいほどの場所。それなら寂れるという表現じゃ弱すぎる、滅びる、だろう。

でもね、本作は決して団地を否定している訳じゃない、ように、私には思えたんだよね。ていうか、「ニュータウンの青春」だってそうだった。やはりどこか自虐的ではあったけど、タイトルどおり“青春”だった。
今、団地で生まれ育った世代、つまり青春を送った世代が、クリエイターの年代になっているのだと思う。かつて華々しかった筈の団地が、彼らにとって青春だった場所が、何か否定的に語られだしたことに、そうじゃないんだと、ここで青春を、人生を送ったんだと、声を上げ始めたように思う。

だから、本作の“オチ”には、正直ちょっと、ガッカリしたような感じは、した。悟が団地から出ないと決めた理由は、出ないんじゃなくて、出られないという“オチ”には、それまで感じていた、決して団地を否定している訳じゃない、という感覚を裏切られた感じがした。
実際、つまりは、そうなのかもしれない。悟は物語の最後、団地を出て行くんだし、そういうことなのかもしれない。
でもこの期に及んでも、私は本作が団地を否定しているようにはやっぱり思えない、のは……なんかね、私は本作が、ちょっとファンタジーのように思ったから。

いや、実際、ファンタジーではあるのだろう。“オチ”によって現実的にはなったけど、団地から出ないで生きていくと決めた悟の存在そのものが充分ファンタジックなんだもの。
小学校卒業と同時に中学には進まず(団地の外にあるから)、実に30歳まで団地の構内で生き続けた悟を演じるのは、中村監督の相棒、濱田岳。
監督が、本作の企画をずっと温め続けていたと聞いて、それで濱田君をずっと手元に引っ張り続けてきたんじゃないの、なんて思った。
いや、彼がちっちゃいまんまなんて判ってた訳じゃないから、それはないか(爆)。だってさ、濱田君、12歳も30歳も、彼のまんまなんだもん。特に作ってないし、ムリもしてない。まさに、彼ならではである。
本作が原作ありきなのが不思議なぐらい、濱田君にあて書きしたみたい。ていうか、今の濱田君が実際の年齢に見るのが難しいぐらいだから(爆)、今の年齢に役が進んで近づいても、逆に自然にはならない、みたいな(爆爆)。

なんかね、妖精みたい、彼。いやそれは、ちょっと言い過ぎ?でもね、本作のファンタジックさは、なんていうのかな……私、この団地の中がひとつの世界、いや、それは先述した悟だけの世界じゃなくて、どこからも切り離されて浮き上がったワールド、一種のパラレルワールドみたいに感じながら見ていたのだ。
パラレルワールドってのは私、ちょっとフシギだと言いたがるんだけど(爆)、あまりにも濱田君がそのまんまなこと、団地の中だけで時間が止まっているように思えること、そしてそれが、あまり否定的に感じないこと、が、そんな感覚をもたらしていたのだ。

否定的に感じない、っていうのは、先述したように、オチによって崩壊してしまうんだけどね……。
そのオチはまあ後にとっておくとしてもね、本作の、俯瞰の画で見る街並み、まあ、よくまあ、こんな街を見つけたわ!と思う、ズラズラと並ぶ団地の外には、それこそヨーロッパの街並みのような可愛い三角屋根の一軒家が建ち並んでいるんだけど、それが揃いも揃っておんなじ形で、一軒家の形を借りた団地みたい、なんだよね!
これ、絶対、意図的だよね……団地と一緒に映ってる画、あったかなあ、別々だったかもしれない。こんなおあつらえ向きの画があるなんて、信じられないもの。
いつも小説原作がある場合って、原作に勝てない雰囲気があるんだけど、まあ本作の原作も未読だけど(爆)、これは、これぞ、映像の力だと思うなあ。団地の画の圧力、街の画の皮肉、それが凄いと思って。

なあんてことを、悟が考えていた訳じゃ、無論ない。悟は商店街も併設されたこの団地を愛していた。ここから一歩も出ないで生きていくと小学校卒業と同時に決めた。
……ていうのがね、濱田君のキャラの絶妙さと、何度も言って来たファンタジックさもあいまって、まあちょっとシュールなおとぎばなしっていうような魅力を感じていたのね。そのままその世界のまま、完結してほしい、と思っていたの。
いや、彼がこの団地から出て行くというラストは、うすうす予感していたかもしれない。でもそうだとしても、彼が団地を愛しているから、それまでは出て行かなかったんだという、純粋な理由にしてほしかった。

……でもこれは、ファンタジーなどではなく、マジにリアルな物語なのだった。正直、それなら、濱田君じゃ騙されたよ!と思うが、まあ騙されるのが、映画というものなのかもしれない……。
悟は小学校卒業直前、外から侵入してきた男子中学生が、友達を刺し殺すのを間近に見てしまった。そして悟は、団地の外には出ないで生きていく、と宣言した。
読み書き計算が出来れば生きていくには事足りる、友達も団地の中にいると、中学の先生が訪ねてきても突っぱねた。

朝早く起きて乾布摩擦、ラジオで英語を学び、団地内のランニングや筋トレで身体を鍛える。
かつての同級生たちとも仲良くやっていて、学校から帰って来た彼らを出迎え、時にはタイマンのケンカに協力を要請される。団地から出られない悟のためにわざわざ相手方を団地構内に呼び寄せて見事勝利。
幼い頃からお隣さんの女の子、松島とはベランダのおしゃべりから“B”の関係にまで発展。化粧がハデになり、クールに突き放す彼女は悟以外の男と“最後まで行った”と言い、大学進学を機に団地を出て行く。
それまでも、小学校までを共にした同級生たちが何人も出て行き、そのたびに残り人数が画面に告示されていくんである。

悟は16になったら働ける、その時には団地内のケーキ屋、タイジロンヌに就職するんだと決めていたんである。しかし常連とはいえ、そんな話を一度もしてなかったのに、16になった途端、雇ってよ、と言ってあっさり断られるあたり、あ、甘すぎる。
ボーゼンとした彼は、商店街の他の店を当たるが、全てダメ。そりゃそうだ……。母親からやんわりとたしなめられた彼は、初志貫徹だと、もう一度ぶつかってなんとか採用される。
それまでは客の立場、しかも子供。店主がいきなり厳しくなるのもむべなるかなだが、それにしてもこの店主、ベンガルの喰えなさは絶品!
団地の世界しか知らない悟は、店主が団地すべての情報に通じていること、客の好みや買う数まで把握していることに感嘆するが、それもまた伏線。
年のせいなのか、その計算が狂い始めたことに絶望した店主は、悟に全てを残すと書き置いて、姿を消してしまうんである……。

というところまで行き着くにはかなりの時間経過があるんだけど。でも、全てが揃っていた、そう、悟が16歳になった時にケーキ屋さんに断られて順繰りにまわった商店街、その“就職活動は一時間で終わった”けれども、一時間かかるほどには、店々は機能していた、のだ。
でも次第に、団地の住人が減るにしたがって、商店街もシャッターが下り始める。その最後が、このケーキ屋で、任された悟は、こちらはイジメで不登校になった薗田と共同経営することになる。この薗田君、高校に行けなくなったけど頑張って大検通って簿記の資格を取ったから、と、嬉しげに協力を快諾する。「働くなんて、初めてだ」と。

薗田を演じる永山君は、近年なんとも瞠目する役者さん。なんか、さりげなく、凄いことやってのけるんだよね、彼。
彼がイジめられていた時、オカマとかなんとか、そんなことを言われていたらしいんだけど、実際、薗田君が悟をちょっと好きだったのかどうなのか……そこらへんは微妙なところで。
薗田君はその繊細な心持ゆえ、精神を病んでしまって、入院という形でこの団地を出て行ってしまう。

悟が、それでも生きる道を模索して、“流しのケーキ教室”を始めるのはなんとも泣けるものがある。
いや、ね。それまでは悟は、やっぱり人のおかげで生きているようなところが、あったじゃない。ケーキ屋のおやっさんに雇ってもらって、おやっさんがいなくなって店を任されても、薗田君に食品衛生責任者の講習を受けてもらえたから、店を続けられた。
この時、初めて一人になったんだよね。と、思ったのは、後になってから。お母さんが死んでしまってから。
……おっと、もうそこまで行ってしまうのか。かなり大メインの、ヒロイン、倉科カナ嬢との恋模様にまだ行ってないのに。

団地の中だけで生きていくと決めても、恋は出来るしこの彼女、早紀と婚約まで至ることが出来るんである!!……でも、でもでも、彼女もまた、“外に行きたい”と、悟のもとを離れて行った。
出会いは同窓会。団地の外に出られない悟のために、同窓生たちは団地内の集会所で企画してくれた。その時には悟は愛されてるんだなあと思ったけど、後に示されたあのオチを思うと、なんとなくやるせない気分にもなった。
このシーンの時には判らなかったけど、早紀もまた、悟のことを少し、同情の目で見ていたのかもしれない。
彼女も団地内の保育園に就職を決め、私も団地大好き、と笑って見せて、悟は恋に落ちちゃったんであった。
早紀もその思いに応えたし、早紀のために団地の外に出ようと、構内と外へつながれた長い長い階段をぶるぶる震えながら渡ろうとする悟の手をぎゅっと握りしめて、一歩、一歩、外へといざなおうとしてくれた。なのに。

そう、なのに。結局この時悟は外に出られないし、つまりそれが、早紀に彼を見限らせる決定的要因になった、のだと、思う。
倉科カナだからさ。メッチャ女の子女の子していて、悟がイロイロ教わった幼馴染のお隣さん、松島のクールさとは対照的、なんだよね。
結果的に二人とも団地を出て行くんだけれど、最初から団地だけを自分の世界にしてしまっている悟をたしなめている松島と、結局はうわべだけで彼に同調して、勝手に幻滅して捨ててしまう早紀とは、もう、許せないぐらい、違うんだよなあ……。

結果的には、悟は団地を出て行くし、外の世界で生きていくことになるんだと思う。でもそれでも、それでもそれでも、その結末に至っても、やっぱり団地を否定しているようには思えない、感じがする。
悟が団地を出て行くことになるのは、ていうか、あれだけ足がすくんでいたのに、団地の外に出られるのは、母親が死んでしまったから。

……あ!その前にめっちゃ大きなシークエンスがあったんだった!……あーもう、結構内容大きいのよ。
こうなったらサラッと行くけど(爆)、さびれかけた団地の建て直しのために住居条件の規制緩和が行われ、その結果、外国人居住者が多くなる。そのひとつの家族と悟は行き遭うんである。
ていうか、一人の少女。構内のグラウンドで一人、サッカーをしているブラジル系と思しき女の子。コミュニケーションを図ろうとする悟に「ヘンタイ」と最初から遠ざけるところから、彼女がどうやらそうしたハラスメントにあっているらしいことが即座に判る。
義父の立場となるその男は田中圭。まさかのキャスティング!だが、それだけにギャップが恐ろしい。
悟が長年、憧れの空手の師範のビデオや本を熱心に勉強して特訓していたのが、見事に実践が成功してこの義父をアッサリ倒しちゃうのが、可笑しく嬉しく、なぜか切ない。
ほんの短い期間、心の交流を図り、この恐ろしい経験に二人してモラしちゃって(笑)、秘密にしようと誓い合ったマブダチは、母親と妹と共に、団地を出て行った。

めっちゃ大きなシークエンスをさらりと流しちゃってアレだったけど……。そう、悟が出て行けたのは、そのキッカケは、母親の死。
母親が脳梗塞で倒れたと連絡が入ったのは、団地の奥様方にすっかり浸透した雰囲気の流しのケーキ教室のさなか。病院からの電話に、すぐ行きます!とガチャンと切って、すぐとか言っちゃってー、と思ったら、本当だった。
早紀に手を引かれても渡れなかった階段をあっさりと駆け抜けて、あっと言う間にその下の道路を走っていった。見ている観客がアゼンとするばかりのアッサリさだった。
その後、カットが替わって写真とお骨になってしまった母親、その展開の早さにもアゼンとしたけど、自分が外に出て行けたことに悟がまったく頓着していないことにこそ、オドロキ、以上の戦慄にも似た思いを感じた。

悟は母親の残した、息子である自分への思いを綴った日記に涙し、彼女の願いどおりお骨を故郷の海に流すことをかなえてやるためだろう、団地から出るんである。
最後の一人のカウントがゼロになる時が、こんなにアッサリとしているなんて、彼を心配し、愛したほかの誰もがなしえなかったことが、こんなにもアッサリとなしえるなんて。
……これを、感動的だとそれこそアッサリとは思えない、のは、この描写そのものが、監督が皮肉に示しているのかとも思うけど。
でも、田中圭の存在もあって、皮肉どころかメッチャ肯定的なのかもって。
男子にとって、母親は絶対。どんな信念にも、愛する彼女にも、抗えない煩悩にも、純粋な友情にも、勝てないの……なんという、なんという!!

それでも、それでも。最初から言ってるように、団地を否定しているようには、思えないの。なぜだか……。
あのね、小学校時代の友人が、肩で風切って団地を出て行く、俳優になると言って、必ず成功すると言ってさ。
確かに彼はテレビドラマで役を得た。それを悟はご飯を食べながら見つけてアイツー!と笑った。
その笑いは祝いのようにも見え、皮肉のようにも思えた、のは、あの時代の、奥に出っ張った形のブラウン管のテレビ、ソレはまさにちいさな箱の中で、団地を思わせて、その中の彼は、悟が笑ってしまったように、不自然にぱちぱちまばたきが止まらず、その間台詞がひとつもない、ただ映っているだけの、役だったんだもの。
それでも、その役を得るまでは大変なことには違いない。それは、無論だ。でも、でも……。

あるいはね、早紀が、同じ団地の中で育って、同じようでも、電車の音の聞こえ方がこんなに違うんだね、って言うじゃない。それに対して悟が、そう、こんな風に同じに見えても感じてることや考えてることが違うんだ、だからそれを知りたいんだと応える。
この小さな世界の中で、全ての世界がある、とも思えるシーンだけれど、でも、その違いは、特に早紀の感じる違いはあまりにも小さすぎて、そこに世界の違いを見出すことへの切なさを感じずにはいられない。
悟が感じる違いは、大きな違いへの一歩であり、決して小さくはないけれど、でもやっぱり、小さいのだ。
隣の松島さんとの逢瀬は、そのくぎられた一角に訪ねる感じが、まるでミニチュアの遊郭の街のようだし、すべてが、小さく、全てを兼ね備えているけれど、小さく、それが、やるせなさを感じて、仕方ないのだ。

濱田君が、その小柄さ、子供の頃から変わらない童顔さのまま演じているのが、一見コミカルなんだけど、ひどく深刻に思えるのはそのせいで。
彼は団地を、あるいはその外まで団地めいたこの街を出て行くけれど、その先が見えないのが、恐ろしいのね。
テレビの中のチョイ役の同級生のように、結局どこに出て行っても、大して変わらない、そんな風に結論がついたようにも思えた、のは、充分コミカルな本作の世界に、絶望を付与しすぎだろうか。
でもこのタイトルも、あくまで小学校の最後のあいさつが元になっているけれど、でも団地の中の友達がどんどんいなくなる、それはきっとこの後一生会えなくなるぐらいの深刻さがあるし、このタイトルの語感そのものがそれを感じさせて、なんだか、なんだか……さあ。★★★☆☆


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