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「に」


2012年鑑賞作品

ニーチェの馬/A Torinoi lo
2011年 154分 ハンガリー=フランス=スイス=ドイツ モノクロ
監督:タル・ベーラ 脚本:タル・ベーラ/クラスナホルカイ・ラースロー
撮影:フレッド・ケレメン 音楽:ビーグ・ミハーイ
出演:エリカ・ボーク/ヤーノシュ・デルジ


2012/2/14/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
やだ、やだ、やだ、大嫌い、こんな映画、私は大嫌い!すぐにでも家に飛んで帰って、暖かい部屋でのえち(愛猫)を抱っこしたい!と苛立ちなのか、焦燥なのか、怒りなのか、とにかくかき乱されながら家路を急いだ。

ああ、なんでこんな映画、観なきゃいけないのかとまで思った。上映が終わった後の、場内の呆然とした感、帰り道、同じ場内にいたカップルの女の子が、彼氏に向って「……私が何か足りないのかもしれないけどさあ……」と困惑気味に感想を述べているのがすれ違いざまちらと耳に入って、そうだそうだ、アナタは正しいよ、私だってそう思ったよ!激しく同意である。
そう、私に何か足りなくて、判んない、受け入れられない、つまらないのか。そんなバカみたいに言ってしまうのも怖いけど、とにかくひどく強いられて疲れ果ててしまって、意味判んないもん、どうしようもないもん、と思うばかりなんだもの。

これはカップルで、というか、誰かと観に行く映画じゃないよなあ……。片方はカンドーしてるかもしれないけど、両方カンドーしてる確率はかなり薄いと思うもん。何か、わざと観客をしんどいループに陥らせているような気がする。
何度も何度も繰り返される殆ど同じ描写、たとえば娘が身体の不自由な父親の着替えを手伝うところなんかが顕著なんだけど、それを三回も、しかもひとつも省くことなく連日繰り返して、この間目を閉じていても何も変わらないんじゃないかと思ってしまう。

判ってる、判ってるよ、それが意図的なことぐらい。この繰り返しが、ほとんど同じように見えて少しずつ追い詰められて、同じように見える日が少しずつ追い詰められてて、最後にはああなってしまうことぐらい、判ってるよ。
でも省略が映画のマジックのひとつであることに慣れきってしまったゆるい観客の私は、なんだかイジワルのように思えて、この描写に何の意味があるのかとかアホまるだしのことを考えて……。

むしろ観終わって、時間が経って色々考えると、確かに凄い映画だと思うんだけど、でも観ている時にはもうただ、疲れ果てるだけ、意味が判んないって思うだけ。

どうなんだろう、こういうのって。なんか、悩んでしまう。確かにさ、その場で観ている時には楽しくて、面白いと思う映画でも、後々忘れてしまうような、つまりは薄っぺらい映画もある。 対照的に、観ている時にはなんだか辛いけど、忘れがたくて、結局ベストムービーだと思う映画もある。
本作はタイプとしては確実に後者だろうけど、観ている時の、観客がしんどい思いにさらされる感があまりに強烈過ぎて、大嫌い、二度と見たくない、こんなの判りたくない、とまで思ってしまう。

タル・ベーラ監督はね、確かに一筋縄ではいかないことは判ってる。とか言いつつ、これでやっと観るのは三本目だけど、初体験だった「ヴェルクマイスター・ハーモニー」は、その作品のリズムについていけず、最初は拒否反応示したものの、なんだか気になってしまって、後にもう一度観に行ってすっかり魅了された、という強烈な印象がある。
まあつまり、一回目はモノクロで独特のリズムに寝不足気味だったもんでねむねむだったという、ツマンナイ理由だったんだけどさ(爆)。
でも、見直した時には、一回目、私は目覚めてなかった(寝不足という意味とはまた違ってね)のだと思った。目覚めながら、夢のようだと思った。

あの時の衝撃にくらべれば、次に観た「倫敦から来た男」は判りやすいとも言える感じがしたけど、その夢のようなマジックは変わらなかった。
そう、あの時には、いわゆる映画的マジック、観客に強いる感じはなかったんだよなあ。まだちゃんと(というのもヘンだが)、映画としての大前提のエンタテインメントが存在している気がした。
ただ私は、彼の代名詞であるらしい7時間の大作つーもんがどんなもんなのか知らんので、なんとも言えないところがあるのだが……。

何もこれを最後にすることないじゃん(泣)。まるで、挑戦状じゃん(泣泣)。
実際、そうかもしれない。確かにね、相変わらずのモノクロ美、禁欲的にもほどがある設定、拷問のように繰り返される描写と、何よりあのテーマ旋律の永遠のようなリフレインに気が狂いそうになり、それらのギリギリのテンションは、玄人筋が諸手をあげて傑作と言いそうだよな、という雰囲気がアリアリである。

でも、うう、でも、素人にはキツいよ。これが傑作だと感じたら、映画玄人だという試金石のようなイジワルささえ感じてしまう。
確かにさ、映画は時に、キチガイみたいなもんだと思う。腐りかけた果物が美味しいように、映画という魔物にとりつかれればとりつかれるほど、時には究極や、言ってしまえばキワモノに惹かれることもあるとは思う。
でも……芸術と言ってしまえば何でも通るようなことを、私は支持したくない。夢のようなタルベーラに心奪われていたから、余計に。

でも、それでも、自信ない。なんかこの映画の本題になかなか入れないけど、もうひとつだけ。
私ね、なんか本作にちょっと、新藤兼人監督の「裸の島」を、本当にちょっとだけ、思い出したのだ。
モノクロで、夫婦と父娘という違いはあれど家族の男女二人をひたすら見つめて、台詞が殆どない(ていうか、「裸の島」はホントに一言もなかったよね)というのも、キツイ生活状況を、延々と、それこそ同じ生活描写を繰り返し繰り返し示して、彼らと共にどんどん観客をも追い詰めていく、というのも。

私はアホだから、かの作品と本作が、どう違うのか、上手く説明出来ない。ひとつだけ言えるのなら、「裸の島」には、無駄な描写がなかったと思う。
こう言っちゃったら語弊があるかな。さっき言った、娘が父親の着替えを手伝うシーンとか、あるいはクライマックス、この不毛の場所から出て行こうと思ったのに戻ってきて、荷をほどく描写も一から十まで見せ切るとかいうのが、そういうことは「裸の島」にはなかったからさ。
映画としての、まあ言ってしまえばアホな観客も飽きさせない、省略や想像を喚起させるという映画のマジックを使っての傑作、だった。
本作はこの世界を、この父と娘の道行きを、その数日間を、一から十まで見せる、つまり観客を道連れにするという点で、観客に対する最上のスタンスなのかもしれないけど、正直、うんざり(言っちゃった……)だ。勘弁してほしいと、思ってしまった。

ぐちぐち言ってても仕方ない。本筋に、行かなければ。でも、本作がどういう映画なのかというのは難しい。
モノクロ、やむことのない強風、ゆでたジャガイモだけを食べる毎日。
娘と父親が、吹きっさらしのあばら家に住んでいる。馬が一頭いる。右半身が若干不自由そうな父親の着替えを手伝い、食事にじゃがいもをゆで、向かい合って黙って食べる、それだけの日々。
外は耳をつんざくばかりの強風が吹き荒れ、風にあおられながら井戸に水を汲みに行く。
一体なぜ、ここに娘と父親二人だけなのか。仕事はないのか。外の世界はどうなっているのか、何も判らない。

ただ、冒頭は、父親がこの馬に引かせた粗末な馬車に乗って帰ってくるところから始まる。
タイトルである「ニーチェの馬」とは、人間に酷使されている馬の首をかき抱いて号泣し、そのまま発狂し、後は狂人として穏やかな人生を送った(という言い方もなんだかヘンだ……このあたりも本作のかもし出すアンビバレンツにつながってる気がする)、という哲学者、ニーチェの逸話からとられている。
ニーチェのその後は語られるが、その馬はどうなったか誰も知らない、と思わせぶりよろしく示されて、始まる物語、なんである。

冒頭、父親がどこから帰ってきたのか。その後はちっとも出かけようとしないのは何故なのか。
長いまつげにふちどられた思慮深い瞳で、頑迷に食事をとろうとしないこの利口そうな馬が、何を感じ取っているのか。
大体、終わることなく続くこの強風が、乾いた大地を、砂塵を巻き上げて吹き続けるこの風が、ひどく、非現実的である。
父と娘の生活が、シンプルすぎて、同じことがデジャヴのように繰り返されているから、余計にそう感じられるのかもしれない。
外界からの隔絶、どころか、現実世界からの隔絶、にさえ映る。

でもそんな思いはそう間違ってはいないんだろうと思う。彼らのイラつくほどに単調な生活をまず破ってくるのは、パーリンカ(焼酎)を分けてくれないかと訪ねてくる男。
近所……という訳ではないだろうな、見渡す限り家などないのだから。見知った相手のようであり、そうでないようでもあり。
彼は、街も全て風でやられたと言い、何かやたら、それこそ哲学的なことを喋りまくってたんだけど……なんだっけ、イマイチ覚えてない(爆)。
頭のいい人たちこそが、この事態を阻止しなければいけなかったのに、卑怯な破壊者たちが全てを奪っていったとか、なんかそんなニュアンスのことを(爆爆)。
神とか、宗教がらみで言ってたような気がするな……ここが一番重要なトコなのに、忘れてたらもうダメじゃん(爆)。つまり、やっぱり私がダメなんだ。もうヤだ。

まあつまりね……後に娘が、来訪者がもたらした書籍を繰ってみると、それは一見聖書のように見えたけれど、なんだろう、なんか、歴史書のような?
教会という神聖な場所が、あるいはそれは、教会に象徴される人間の神聖な世界が、踏みにじられ、世界は終わった、という含みだったのかもしれないけど、まあつまり、そんなことが綴られている訳。
娘は淡々と、それを口に出して朗読してみる。そんなことは先刻承知みたいな口ぶりでもある。

冒頭、父親が馬車を駆ってどこからか帰ってきた時から、もうそんなことは判っていたのかもしれない。
つまり世界は既に終わっていて、あるいは終わりを告げようとしていて、冬ごもりのためのような大量のジャガイモと井戸の水で二人はしずしずと、いつか来るであろう終焉をなんとなく待ち続けていたのか。
しかし、その乱暴な来訪者が井戸の水を荒らしたせいだったのか、ある日突然、水が枯れる。いくらジャガイモがあっても、薪があって火を焚けても(半身不自由なのに、薪は器用に割れるお父さんなんである)、水がなければどうしようもない。だから二人はこの地を離れる決心をするんだけれど……。

そもそも、あの来訪者たち、無頼のように見えた彼らは、なぜここを目指してきたのか。単純に、水を求めて来ていたのだろうか。
あの時、“若い女”である娘が誘われるままに彼らと共に父親を捨ててここを離れていたら、あるいは生きていく道があったのだろうか。

でも、彼らと同道していた老人が、あの、世界はもう終わっているんだということを示す本を彼女に手渡したのだ。
パーリンカを求めてやってきた男は街はもう壊滅していると言っていたし、馬を連れてどこからか帰ってきた父親はそれはもう、判っていたのか。

つーか、ね。馬こそが、そう、ニーチェの馬こそが、それを最もよく判っていたのだよね、きっと。
割と前半で、父親が馬に荷車を引かせて出かけようとしても、あんな穏やかな大人しそうな馬が、がんとして動こうとしなかった。
娘も最初から判っている風で、ムチをくれる父親を早々にいさめていた。
てことは、もう彼らは、馬も含めた二人一馬は、ここでしずしずと終焉を迎えることが判っていたのか。

何度も繰り返されてうんざりしていた(爆)ゆでじゃがいも一個ずつだけの食事シーンでもね、特に父親が、はふはふとがっつく割には大方残しちゃうのも気になっていたんだよね。
娘はゆっくり食べてるけど、彼女も結構残して、父親の残った分と合わせてざっとゴミ箱行きである。
こんな貧しい生活してるのに、食べ残しをあっさり捨てることに、やたら意味深なものを感じていた。

意図的に繰り返される着替えシーンも、日常をあえて続けながら終焉を待っているのかと、後になって思ったりもした。
けれども、水がなくなって、この地を辞する決意をした父親が娘に荷造りを指示したから、意外な気がしながらも、地平線を越えて終わりかなと思っていたら(つまり、もう早く終わってくれと、この長尺でこんな具合だからさ、そればかりを願ってた訳(爆))遠い地平線を越えたと思ったら、じっくり戻ってきやがる。
ああ、大ッ嫌い、こーゆーゲージュツ的な長回し(爆)。荷解きも完璧に見せるのもゲージュツなのか(爆爆)。

しかも、こっからがまた長い。また何事もなかったかのように日常が繰り返される。
それでも水がないからじゃがいもは生でかじるしかない。でも食事の用意のスタンスまではきっちり同じで、ただ娘がうつむいて、食べることをしないだけ。
この食事シーンも、あるいは訳もなくランプの火が消えるのをつけようとする描写含めて、まー、執拗に、しつこく、しつこく、長々回すもんだから。
モノクロからブラックアウトするまでにめっちゃじーっくり消えていく。丁寧と言ってしまえば確かにそうなんだけど、ここまでに、先述したように、とにかくしつこいからさ、ウンザリしちゃうんだよう(爆)。

……ホンットにこのあたりに至ると、帰りたくて帰りたくてしょうがなくなってしまった。
えー、私はアホですよ。しょうがないじゃん。だってこうなりゃ、もうこんな具合でフェイドアウトするのは判ってるんだもん。
ていうか、最初からなんかそれは察せられたから。人が、世界が、死に絶えるのを、じりじり見せ続けられている、共犯者にされている、そのことにカタルシスを感じることも出来たのかもしれない、頭のいい人なら(爆)。

でも私は、ダメだった。何より、あの執拗な繰り返し、描写もそうなんだけど、後半になっていくに従って、完ッ全に確信犯的に、ベタッとしたテーマ旋律を延々と、延々と、延々と繰り返すのには、本気で気が狂いそうになって、ヘキエキしてしまった。
人の気を狂わせるまでの力といえばそうかもしれない。確かに作品の力なのかもしれない。
……判るけど。世界観を作り出す玄人手段だって、判るけど。なんかね、なんか、人をひれ伏させるためなの、そりゃないだろ、って気がしちゃう。

ホント、今になって思えば、本作の中で一番、というか唯一異常なまでに饒舌だった、パーリンカを求めてやってきたあの男が何を言っていたのか、あの場面では、彼の言葉はひどく印象的に聞こえて、これが物語のカギになると思ったし、実際そうだったと思うんだけど、その後の超絶強いられ加減でもうすっかり飛んじゃって(爆)。
何かね、彼が言っていたのは、ずるくて卑怯で要領のいい、金儲け主義の人間たちが勝っていく世界、つまりはザ・人間社会が世界を滅ぼすように言っていた気がしてさ。
まあそれは確かに、人間社会から国際社会に広げて言えば確かにそうで、そしてそれが世界を蝕んでいるのも確かにそうで……。

でも、それを元に構築された宗教的世界、黙示録的世界だと考えると、ちょっと、高潔過ぎて、理想過ぎて、言っちゃえば説教過ぎて(爆)、ついていけない感じがしちゃう。
だって卑怯でずるくて要領のいい人間たちだけど、その上でのバランスを知っている、それなりに善も良心も不器用さも知っている人間だと、自負もあるからさ……。

つまり本作は、哲学であり、宗教美学であり、作家美学であり、そして、最後の作品だというんだから、何を言うべきでもないのかもしれない。
でもこれを最後、つまりタルベーラ集大成、タルベーラ完全体だという示唆、なのかなあ……アカン、やっぱり私はダメだ。いいよ、私はアホでいいのさ!! ★☆☆☆☆


NINIFUNI  FULL VOLUME ver.
2011年 42分 日本 カラー
監督:真利子哲也 脚本:真利子哲也 竹馬靖具
撮影:月永雄太 音楽:
出演:宮ア将 山中崇 百田夏菜子 玉井詩織 佐々木彩夏 有安杏果 高城れに 早見あかり

2012/2/11/土 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
監督が見たくて撮った1カットというのが知りたくて、ネットのインタビューをさまよっていたんだけれど、玄人のインタビュアーさんが、想起させる作品として色々有名なタイトルを持ち出してきているのを目にして、慌ててページを閉じた。
ダメダメ、私のようなダメ人間は、不勉強なこともあるし、そういうのにアッサリ影響されてしまう。一人の末端の観客として、本作に衝撃を受けた、その気持ちを素直に書くしかないじゃないの。

その1カットはあの1カットだろうな、という思いはある。でもそれが間違っていたら恥ずかしいなんて思ったり。でもでも、やっぱりあの1カット、だよね?どこかで監督はそのことを言っているのだろうか……。
最初にその言葉を聞いた時。その1カットを撮りたくて作品を撮った、というのが「月光ノ仮面」の板尾監督もそう言っていたからさ、そこに向かって思わせぶりばかりで構成されたかの作品にえーと思った記憶がまだ鮮明だったから、ちょっとイヤな予感がしなくもなかった。
勿論そんなことが杞憂だってのは判ってたんだけど。だって、真利子監督なんだもの。

本作に惹かれたのは何より「イエローキッド」の真利子監督だからこそ。本作は中篇三本上映の企画の一本として、去年既にお披露目されていたけれど、観に行けなかった。ただでさえ市場の仕事をしているとレイトはキツいけど、真利子監督だということ、チェック出来てなかったから。
今回、この作品だけが切り離されてロードショー公開されるということに、やはり彼は才人なのだと思った。でもそれでも、かの「イエローキッド」でも、アホな私には解けない謎が残されて呆然とした思いがあったんで、ちょっと身構えてた。

その危惧が、最初は的中したかと思った。妙に揺れるカメラが二人の青年を背後から追っていく。大きな工業道路、行き交うのは大型トラックも多くて、びゅんびゅんと経済に向かって行過ぎてゆく。
歩道を歩いているのなんて、彼らだけ。道沿いに建っているのは、車で来ることを想定した、平たく大きな店ばかり。
そう、一握りの大都会やホントに小さな田舎町以外は、日本の街ってのは大抵こんな感じの、殺伐とした風景。

彼らはレンタルビデオ&ファーストフードとか書かれた、一階建ての平たい建物の駐車場に滑り込んだ車を追いかけていく。事務所に入ろうとした男性に襲いかかり、羽交い絞めにし、事務所に引きずり込む。ドキュメンタリータッチに揺れ続けるカメラに酔いそうになる。
さぞやそこからバイオレンスな展開が待っているのかと思いきや……そこから突然、青年一人きりになるのだ。
襲い掛かった二人組のうちの一人。ひっきりなしに車が行きかう道路を横切り、止めてあった車に乗り込み、冷めたフライドポテトを口に放り込み、ひと時何か思いにふけるそぶりを見せたりして、結局その車で一人、走り出す。

え、え?あの強盗の二人のうちの一人だよね?その結果はどうなったの?共犯のうちの一人は?奪った金品とかを持っている様子もなかったから、混乱に陥ってしまう。ひょっとしてぼーっとしていた私のカン違いで、彼は強盗のうちの一人ではなかったのか……とか。
カメラは一言も喋らない彼の横顔をひたすら見つめ続け、行く当てもなく走り続ける彼を追い続ける。その中に何かヒントがあるんじゃないかと思って、ひどく緊張して彼を追い続けてしまう。
そして焦る。このまま終わってしまったらどうしよう、私は何か、重要なことを見逃してしまっていたんじゃないだろうか、と。

そんなことを思ったのは、ホントにそんな感じで終わってしまうような作品が、なくもないから。いわゆる、才能があり気な雰囲気の画作りは上手いんだけど、それだけで、結局なんだったの?みたいに終わっちゃう作品って、割とあるから。
……それは単に、私がバカで理解できてないだけなのかもしれないけど、画作りにおいては技術的にも何にしても、いくらでもお手本がある昨今だからさ。

でもホントに、杞憂極まりなかったのだ。まさにその通りのことだけを、提示しているし、彼は彼としてこの道行きを行っている。
後に、共犯者が捕まったりといったことが事務的に示されはするし、犯行後別れたんだろうなと説明するだけの親切さはありはする。
でも彼がなぜその後、自殺するに至ったのか、そもそもなぜ強盗なんかしたのか……誘った相手は借金があったから乗ったということだけど、彼自身は分け前を持っている様子もなかったし、ただ呆然と暗い目をして、死に場所に向うだけだった。

そういう意味では全くもって、説明も何もなかった。彼に何が起こったのか、死にたい理由はなんだったのか、説明のない映画に苛立つこともあるんだけど、それは、必要のある説明か、そうでないかということなのだろうと思う。
ここで、彼の死にたい理由は、説明の必要はないし、してしまったら、この衝撃は得られない。省くべきものの取捨選択のセンスも、才能の有り無しだよなあ、とホント思う。

この、中盤まで彼だけをカメラが見つめ続ける、その青年が宮ア将である。本当に寡作で、それは多作すぎる、そしてスター過ぎる妹に比べて心配になるほどなんだけど。
彼ら兄妹が出てきた時には、あおいちゃんにだってこんな、暗いオーラがあったのに、彼女はスター街道を選んで、今は妙に口当たりのいい作品ばかりに出て稼いじゃっているのが、なんとももったいないと思っていたからさ……。

それにしたってお兄ちゃん寡作すぎるけど、その理由がなぜなのか、彼ならばいくらだって声がかかると思うのに、でもぽつぽつと彼を見るといつでも、その暗いオーラを失わずに彼はそこにいるんだよね。
この物語の尺の半分をずっぱり任される彼は、観客が心のどこかで、どうなるか予測出来ているんだけど、でも凄くはらはらしながら見守ってる。彼が海岸に車を止め、窓を目張りした時、ああ、やっぱりそうなのか、と思って……。

でもそこからもかなりの逡巡があって、その間の宮ア将の控えめなテンションの中の惑いと、静かに思いを定めて、練炭に火をつけ、その火のほのかな明かりが彼の横顔を照らし出すショットに至ると、ここまで彼一人で観客を引っ張ってきたことに改めてはたと思い当たる。
そしていつしか、なぜ、なぜと思っていた気持ちが消えていることにも思い当たり、ただ静かに、痛ましい気持ちで、彼の最期を見守るばかりなんである。

カットが替わり、ある意味待ち続けていた展開の変化が来る。それはあまりにも、ドギモを抜く変化である。
心のどこかで、ももクロが一体どう関わってくるのか、本人役とは聞いていたけど、この雰囲気にどうやって?と思っていた。
朝になって、苦虫を噛み潰したような困った顔で車を降りた山中崇は、刑事なのかと最初、思った。
海岸に放置された車の中に自殺した青年がいるのを困った顔で確認した彼は、色々と携帯で連絡を取っていたけれど、特にそれをどうすることもなく、やってきたのは“週末アイドル”ももいろクローバー!!

山中氏はももクロのPVのプロデューサーなんである。現場に到着してキャピキャピと挨拶するももクロメンバーのテンションに絶妙に合わせながら、何食わぬ顔で段取りを始める。
青年の死体が収まった車の存在を知らせたのは、先に場所を確認したスタッフなのか、撮影の間ずっと、ここに近づかせまいと、車が隠れた茂みの前にさりげなく立ち続けている。

誰もいない海、なんて南沙織の歌じゃないけれど、そんなロマンチックなイメージじゃない。アイドルのPV撮影も容易に出来るような、誰も来ない海岸だ。
そこにけばけばしいハリボテの背景が設置される。ももクロの五人のカラーをイメージさせる、原色のハリボテ。
そこに、さむーい!とベンチコートを着て震えながらも全開の笑顔の彼女たちは、PVのカメラが回っている以外でも、もう現場に着いた時から、いやきっとロケ車の中から、あるいはもう、朝起きた時から100パーセントももいろクローバーとして全開なんじゃないかと思わせる素晴らしいテンションなんである。

この、虚構性。死体が遠くにあり、誰も来ない海であり、工業道路にトラックがひっきりなしに走って、工場からは白煙がもくもく立ち上っているような場所で、5色の特撮風アイドルコスチュームを身にまとい、見事な側転などかましながら歌い踊るももクロのシュールさときたら!
あの“1カットを撮りたい”ための、現実感を超越したアイドルグループの存在が不可欠だったとしても、そこにももクロという奇跡がいたことには、なにか鳥肌が立つような、まさに奇跡を覚えずにはいられないのだ。

これは今をときめくAKB48ですら、その意味合いの完璧さはこなせない。ももクロの虚構性は、あらゆる意味で本作の衝撃性を完璧に成し遂げている。
一体彼女たちが、あの“1カット”から見えていることを承知で本作に参加していたのか、あるいは彼女たちを目的に本作に足を運んだももクロファンだって絶対にいる筈だから、彼らがあの“1カット”をどう思うのか、凄い気になる。

その“1カット”、目張りした車の中で、眠るように静かに死んでいる青年を後方からナメて、彼がぼんやり見つめているように見える角度で、遠く海岸に豆粒サイズのももクロたちが歌い踊っている、という図なんである。
撮影も押してきて、次第に夕闇が近づいている。ピンク色にたなびく雲が、その前の晩にさんざん悩み尽くしてようやっと練炭に火をともした彼の、あの詩的な横顔は夜の深い闇の中に映し出されたそれだったことを思うと……。

朝には発見されている筈なのに、そのままももクロのPV撮影が終わるまで放っておかれ、もう息のない彼が、ぴくりとも動かない彼が、夕闇の中、豆粒のように歌い踊るももクロを、実際のPVの中では可愛く賑々しい彼女たちが、寒空の中“仕事”している“虚構”と対比されているのを目の当たりにすると……。
そして海岸の外には、工業道路にトラックがびゅんびゅん走ってて、人が歩いている、そんな基本形がないほどに人の生きている息吹がないことを思うと……。

それこそさ、今やゆるぎないナンバーワンアイドル、AKBがさ、その裏ではこんな苦労が、みたいなドキュメンタリー映画を作ってたりするのを思うと、ももクロの、メイキング含めみたいなこの体裁の中でも、まったくももクロであることから外れることのない、寒さにキャピキャピすることさえ、ももクロそのものであるこの完璧さが、何か、怖いの。
人生に負けてしまった結果であろう、誰の悲しみも慈しみからも離れて、セミの抜け殻のように死んでいる彼をなめる形で示される豆粒のももクロが、怖いの。

思い切りうがって見れば、彼女たちだって、自我を捨てている彼女たちだって、彼のように死んでいるかもしれない、とだって言えるかもしれないの。でも彼女たちはきっとそれも判ってて、週末アイドル、特撮系アイドルを“生きて”いるのだ。
そしてそれは、特別なことではなくて、実は人間みんな、本当の自分が多少死んでいても、表の自分をゾンビのようにフィクショナルに生き返らせて、日々なんとか暮らしているのかもしれない。

なんて、ね。そんなことまで言っちゃえば、プロフェッショナルアイドル、ももクロに失礼極まりないかもしれない。でも超絶プロフェッショナルアイドルだからこそ、やっぱりこの衝撃の対照が際立つのだもの。
ひょっとしたら彼女たちは、明確にそれを意識していないのかもしれない。プロフェッショナルの意識はあっても、それが自我というものに対してどう作用するかまでは。
でもさ、これってやっぱり……女の子の強さかもしれない、って思うのだ。明確に意識してなくても、無意識に意識している。女の子アイドルと男の子アイドルの差や、その後の人生を思うと、そんな気がしてしまう。それが幸せなのかどうかまでは、判らないけど。

あの運命の1カットが終わり、死んだ青年が“地元の住民”によって通報されたのは夕方の時間、つまりPV撮影が終わった後ということになる。
防犯カメラが解析され、無機質に繰り返される不明瞭な映像。共犯の青年が捕まり、裁判が行われ、何となく事件の全貌が明らかにされても、自殺した彼が、なぜ自殺したのか、そもそもなぜ強盗したのか、それになぜ友人を誘ったのか、判らない。判らないけれど、カメラが追い続けるその横顔、宮ア将のたたずまい一発でもう、さあ……。

彼は、いつも暗いオーラをたたえ続けてるから、それが魅力的だから余計に、なんだか心配になってしまう。幸せになることを神様から拒否されているようなたたずまいを漂わせているから、だから……。

やっぱり、凄い。やっぱり、ヤラレてしまった真利子作品。才能あり気な監督が跋扈する中、本当の才能のある監督だと思うから!そのためには観客もちゃんといろいろ鍛えて待機していなければ! ★★★★☆


ニュータウンの青春
2011年 95分 日本 カラー
監督:森岡龍 脚本:森岡龍
撮影:古屋幸一 音楽:チエコ・スポーツ/アロハボーイズ
出演:島村和秀 飯田芳 嶺豪一 河井青葉 吉谷彩子 十河佑美 今村左悶 池田将 宇野祥平 松本花奈 前野朋哉 佐藤あい子 中野碧 大迫茂生 青木佳文 市川祐太郎 高木健 深沢友貴 馬渡亮剛 とんとろとん 渡辺大知 橋本一郎 光石研

2012/11/23/金・祝 劇場 (渋谷ユーロスペース/レイト)
最終日が込むことは判ってはいたものの、30分近く前に行ってもはや立ち見で驚く。身内、内輪コミという感じもして、それは常々嫌悪するところではあるんだけど、それでも夜にここまで出張ってきたことへの悔しさもあって、立ち見(実際は通路座り出来て感謝。お尻痛いけど)にて観賞。
いや、それでも何かピンと来るものがなければ、立ち見と聞いたら悔しくても帰ってしまっていたかもしれない。ほんの数日前に本作の存在を知って、その週で終わってしまうのを知って、なんかどうしても見逃せない気がした。
まあ別に私の直感はそうそうあてにならず、そうやって見た作品の中で、これまで何度となくガックリ来たことはあったんだけど、本作はホント、知って良かった、帰らなくて良かった。

森岡龍、という役者さんの名前は、何度となく目にしており、しかし若手の俳優さんという認識程度で、名前と顔がイマイチ一致していない。フィルモグラフィーを眺めてみればあぁ、と思うんだけど。
やっぱり私は映画ファン失格。脇役の認識にヨワいなんて、映画ファンとして最悪(爆)。

言い訳として言わせてもらえば、本作で彼の演出の才能に驚嘆し、だったら彼は監督として生きていく人なのかも、だからさ、などとサイテーの言い訳をするのであったが(爆爆)、でもそれぐらい、ビックリしたなあ。
役者さんが監督、最近は若い人でも結構あるけれど、本当に才能のある人にはなかなかめぐり合えない。彼の場合は役者としての経験も勿論活かされているだろうけれど、それ以上にしっかりとした下地と、画作りのセンス、若い人が陥りがちな人生哲学や私小説的な青臭さ、胡散臭さ(ヒドイこと言ってるな私……)を感じない。
ていうか、そこに陥る危険を判っているような感じもする。多摩美の卒業制作なのかあ。下地のしっかりした感じはそこから来るのかな。でもそれが逆効果になる例も某芸大生制作の映画で感じていたから(爆)、やはりこれは才能に違いない。

ところで彼は、ウィキやあらゆるデータベースでは北海道出身になってるけど、本作の解説では東京出身の浦安育ち。本当のところはどっちなの?いや、この場合、それがどーでもいいことと片付けることはとても出来ない。だってこれは、観ている側としては勝手に、監督自身を投影した、分身としての映画と見えてしまうんだもの。本作の監督のプロフィルの、東京出身、浦安育ちはまんま、そうなんだもの。
メイン三人のうち、一人一応ピンの主役といえるカズカズ、モノローグも担当しているんだから、まさに彼が主役であろう、彼は学生時代から8ミリを片手に周囲のいろんなものを撮っていて、高校卒業後はその道の学校に進み、彼の制作した青春時代の断片が学生たちに披露されているところで終わるのだから、そりゃあ、監督自身が投影されていると思うじゃないの。

しかも主演の三人は、それぞれ自身の名前がそのまま役名として登場する。投影しまくりである。でもちょっと、驚いた。まさか多摩美の同級生たちとは思わなかった。演劇学科なのだから役者のタマゴたち(いやもう、巣立っているけれど)とはいえ、あまりにも魅力的で、ビックリした。
特に飯田センパイは見たことあるような気がしてたまらず、実際「東京プレイボーイクラブ」で見てるんだろうけれど、まるでメイン級、クセあるサブ級をバンバンやってるほどの個性派である。
カズカズ役の島村君も見たことある気がしたけど、気のせいかなあ。あまりにもカズカズとして素晴らしいので、しっかり地に足の着いた役者さんだとばかり思った。

彼らは野球部の先輩後輩同士。過去回想で出てくるのが、周りはその年相応の少年たちなんで、彼らだけがそのまま年食ってるのがなんともおかしい。その頃からどーしよーもない先輩だった飯田センパイをマジメな先輩たちからかばう形で、三人はつるむようになった。
飯田センパイはどーしよーもないウソをつくのがクセで、笑うと太ももをバンバン叩くもんだからそこにヘンな毛が生えている。そういうエピソードとか、街に出没する、いろんなものを白く塗ってしまうホワイトマンなる、ちょっと知的障害っぽい男の子とか、こういうのもちょっと踏み外せば、若い人の考えがちな(どーもオバサンくさい発言ばかりしてるな、ヤダな……)飾り要素なんだけど、その処理の仕方もさらりとしてて、上手いんだよね。ホワイトマンなんか最終的なオチとして……って、それはまだまだ先の話!

もう一足先に卒業して、しかしブラブラしてる飯田センパイ、稼業のスナック「霊界」を切り盛りしている同級生の豪一、そしてカズカズ。
舞台となるニュータウンは日本の高度経済成長のあかしであると同時に残骸とも言え、効率だけが優先されたこんなレゴブロックみたいな集合住宅が林立する街を、いくら効率がいいとはいえ、その当時だってよくまあ通っちゃったよなと思うほどの空虚さである。
しかしその街で生まれ育ったカズカズたちにしてみれば、こここそが故郷であり、青春であるというのが、画一発で示されるのが、胸をしめつける。

いや、本人たちはそんなことは微塵も思ってなくって、気楽に原付につかまってラクチン自転車走行したりして、そんなことが出来るぐらい道路もムダにだだっ広くてシーンとしてて、それがハタから見ればひどく寂しいってこと、彼らはここで生まれ育っているから判らない。
都会の異常な渋滞や喧騒、地方の絵葉書のような外国のようなはるかな景色も確かに非日常感タップリだけれど。そう、どちらがどうだなんて、言えないんだけれど。

彼らがたむろする“富永公園”は、実際はそんな名前じゃない。集合住宅の前にある、小さな児童公園である。そんな場所はここにはそこかしこにあり、名前さえもついていないかもしれない。富永公園、と彼らが名前をつけなければ、ここだって他と区別もつかない。
その高層に住む一人の美女に、彼らは恋していた。いや、恋していたのは実際は飯田センパイただ一人。他の二人は、こんな場所には相応しくないマドンナとして、その姿を眺めることを、いや、その姿を気の合う仲間たちと眺めることを楽しみにしていたに過ぎない、よね。
だってカズカズにも豪一にも恋してる相手が別にいたんだもの。飯田センパイだってノリとしては同じようなモンだったと思っていたのに。
彼らが彼女とウッカリ近づきになって、ストーカー野郎から救ってあげたと思いきや、その相手は彼女と思いを残して別れた元恋人で、ヨリを戻してしまった。その時飯田センパイがひどく落ち込んで、その後暴挙に出たことに、ビックリしたのだ。

かなりハショッちゃったけれども(爆)。まあそれは後述としても、でも飯田センパイはやっぱりやっぱり、なんだかウブいんだよね。恋未満の感じがある。
センパイだし、後輩二人を巻き込むオーラがあるけど、ひょっとしたらドーテーなんじゃないかと思うほどのバカなウブさがある。それがたまらないんだよなあ。

カズカズは同級生の、女優志望で雑誌モデルの仕事をしている女の子に恋をしていて、いずれ一緒に仕事が出来るかもネ、なんていい雰囲気だったのに、カレシがいることを知って玉砕。豪一はスナックで働くホステスに告白するも、彼女がシングルマザーだと知り、固まってしまう。
それぞれに、それなりに、ハードな恋愛事情(というか、片思い事情というか(爆))なのに、飯田センパイだけ、相手の懐にも入ってないのに、恋未満で破れるこのウブさがさあ。

そこに至るまでの、まさに本作のメインとも言える展開が、まさにまさに、青春、なんである。ストーカー被害に悩む富永さんから、思いがけず相談を受けたことで、三人、いや、飯田センパイが奮起、スペルの違ったスリーサンダースなる缶バッチまで作って(sじゃなくてthだとチュになるだろうとか、バカすぎるのが愛しい)、メリケンサックにバリバリ言う護身の、あれなんだっけ、手榴弾の形をした音を発するのとか、微妙にバカな感じのものを用意して、富永さんの周囲を警護して回る。
手榴弾グッズがいつまでも音がやまなくて、女子高生に不審そうにガン見され、富永さんにまで「……それ、止まる?大丈夫?」などと心配されて、ついに公園の砂に埋めちゃうとか、そういうおバカな描写を丁寧に活写してて、なんとも愛しい。

そうなの、彼らの行き過ぎた警護は管理人に見咎められて、彼らの警護は空中分解してしまう。でもその間、カズカズが富永さんの手料理を御馳走になってしまったり、それを抜け駆けだと気に病んだ彼がエビフライだけポッケに入れて飯田センパイのために持って帰ったり、カズカズの誕生日のサプライズを仕掛けた二人にその抜け駆けが発覚して気まずくなったり、もう見逃せない気恥ずかしく青臭く、愛しいエピソードが満載なんだよなあ!
そうそう、サプライズパーティーに参画した豪一の妹が、「私のせい?出るタイミング間違えた?」とメッチャ気にしてるのも可愛くてさあ。
きっと彼女はカズカズのことがちょっと好きなんじゃないかしらん。そんなことは別に示されないんだけど、そんな気がしちゃう。女子だからさ、そういうの、お兄ちゃんの友達とか、そういうの、気になっちゃう(照)。

ストーカーを捕まえて、富永さんに鼻高々な筈だったのに、それが元カレでヨリを戻しちゃって、そこで苦く終わるのかと思いきや、まさかの展開。
飯田センパイが、自分たちが富永さんのストーカーになれば、あの男がストーカーじゃなかったことになる。つまり、あんな男は頼りにならないんだとかムチャクチャな論理を持ち出して、それに二人が乗せられてしまうのは、決してこの飯田センパイに強要された訳じゃなくて、かといってノリノリだった訳でもなくて、なんていうのかな……何か、ただ、切ないのだ。
この決起の場面は水門のある、あれは川なのかダムなのか海なのか、飯田センパイは更にその上のセンパイにアヤしげな商売に誘われて、それに二人を巻き込もうとしていた。

ピカソという通貨だとか、換金出来るけど施設でも使えるとか、なんか聞いたことのあるアヤしさ万点の商売。流れに乗ることが重要だとか、そんなアイマイで漠然とした、しかし力強く言われると弱い人間はつい巻き込まれてしまう話に飯田センパイがのまれていたから、うっわ、そういう方向かよ、と思ったら、後輩二人の冷たい視線にセンパイはあっさりとその安っぽい商品を水面に投げ捨てた。
この時ね、このセンパイ、いかにもバカそうだけど、実はそうじゃないのかもしれない、と思った。その後決行したことはバカ丸出しだったけど、でも、でもそれが恋、ってこと、だったのかなあ、と思うと、胸がキュン、どころかギューンと、痛いのだ……。

自分たちこそストーカー。うんこだのなんだのといった小学生かよっていうオバカ丸出しの嫌がらせをファックスで流し、奇声のイタ電を留守電に残す。こうしたことに対して富永さんがどこまでダメージを受けていたのか判らない。それは示されない。
三人はついに、ロープ伝いに富永さんの部屋のベランダに降り立ち、窓ガラスにガムテープを貼ってライターであぶり、パリンと破って鍵を開け、侵入。その手口の確かさに思わずヒヤリとする。
でもその後が、その後が……。立ちすくむ二人の後輩とホントは同じ気持だろうに、飯田センパイが自身を奮い立たせて部屋を荒らし始める。
でも、なんか止まっちゃってさ、後輩二人が、部屋にかけてある洋服を物色して、これ好きだった、これ最近あまり着てない、懐かしいよな、やっぱりテッパンはコレでしょ、とワンピースやらカーディガンやら、“テッパン”のデニムの超ミニ丈短パンやらを取り出して盛り上がる。

その間、飯田センパイがね、飯田センパイが、ただただ涙を流してるのよ。声もなく、声もなく、滂沱の涙を流してるの!それがさあ、それがさあ!
このシーン、どこからかカットを割ってなくて、さらりとワンカットで長く撮ってる、それがわざとらしくなくて、まさにここはワンカットだっていう、意味があって、長回し嫌いの私が思わず唸っちゃう場面で、ヤラれた!と思った。飯田センパイの無言の涙、ほんっとうにたまらんかったよ。
その後、富永さんと恋人に見つかって、パンツいっちょで顔にトイレットペーパーをまいて逃げ出した飯田センパイ、富永さんのたばこの火が燃え移ってあちちち、と見つかっちゃう情けなさで笑わせるんだけど、あのシーンが脳裏に焼きついててさあ……。
しかも彼は後輩を逃がすためにこんな道化を演じた訳だし、なんかもう、なんかもう、愛しすぎるのさあ!

時間が経過し、カズカズは進学して作品が上映されてて、豪一はそのまま稼業のスナックを継いで、バツイチのホステスさんの幼い娘とも仲良くなってイイ感じで、つまりそれぞれ一段階大人になった様子が示される。
そう、豪一に関してはなかなか言及出来なかったけど、彼も難しい漢字も判らないバカで(知ってる中で一番難しい漢字を書いてみてと言われて、發と書き(マージャンじゃん!)失笑されてしまう愛しさよ!)でも凄く凄く、真面目で一生懸命なんだよね。
結局はさ、こういう人がいいんだよなあ、と素直に思う。バツイチで娘がいると聞いて、一瞬ひるんでしまうことさえ素直さであり、そこで取り繕うことが出来る頭の良さよりも、時間をかけて自分の気持の確かさを自分自身と相手に納得させる真面目さと素直さこそが。女としては、ホント豪一は理想なんだよなあ!

あの事件から飯田センパイは失踪、カズカズが進学し、豪一は稼業を継ぎ、ひと段落過ぎた頃、飯田センパイが突然二人の前に現われる。
かつてのようにがしっと二人を抱き寄せ、ジーパンのポケットから“武器”を取り出させるも、それはジョーク。明らかにチンピラにへこへこして去っていくセンパイをぼんやりと見つめる二人。
カズカズはモノローグで「あの人のことだから、楽しくやっているんだろう」と言い、その通りだとは思うけど、なんとも切ない幕切れ。死んだ訳じゃないけど、飯田センパイのあの後姿は、もう一生彼と会えないような、そんな刹那感があった。

浦安のニュータウン。橋をへだてて学区が異なるものの、中学では一緒になる。林立する集合住宅をノンビリ駆け抜けていく自転車のカズカズ。その彼のモノローグ。
浦安といえば、一般的に皆が思い浮かべるディズニーランドのことを、そういえばひとことも言っていなかった。浦安に、浦安のニュータウンに生まれ育った彼らにとって、ディズニーランドは浦安ではない、ということなのかもしれない。

物語の最後は、あのホワイトマンが登場する。飯田センパイが、アイツは宇宙と交信しているんだと言った。
いつもの彼のウソだと聞き流していたけれど、ホワイトマンは粗大ゴミを白く塗った後、意思を持った目で空を見上げていた。そこにはマンガみたいに無数のUFO!カズカズは8ミリをかざす。でもフィルムには映っていなかった。

青春ならではの数々の妄想が、単なるいろどりと言い切れない魅力を残す。カズカズのアフロが巨大になり、その中に小鳥が迷い込み、恋する女子がカワイイーと取り出す場面とか、可愛すぎて涙出ちゃったもん、もう。★★★★☆


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