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「な」


2013年鑑賞作品

嘆きのピエタ
2012年 104分 韓国 カラー
監督:キム・ギドク 脚本:キム・ギドク
撮影:チョ・ヨンジク 音楽:パク・イニョン
出演:チョ・ミンス/イ・ジョンジン/ウ・ギホン/カン・ウンジン/クォン・セイン/チョ・ジェリョン/イ・ミョンジャ/ホ・ジュンソク/ソン・ムンス/キム・ボムジュン/ソン・ジョンハク/チン・ヨンウク/ユ・ハボク/ソ・ジェギョン/キム・ジェロク/イ・ウォンジャン


2013/7/4/木 劇場(新宿武蔵野館)
ヴェネチア受賞効果もあってか、一般的評価は軒並み高いが、個人的には、んー、今一つピンと来ない、などと思うのは、映画祭受賞作に対するちょっとした構えや、アンチ的な気持ちがあるのかな。
そんなありがちなつまんない映画ファンにはなりたかねーと思うけど、そもそもギドク作品が“一般的評価が軒並み高い”などというのが何となく居心地が悪いのは、彼のファンだからこその、それこそアンチ的気持ちかしら。
嫉妬かもしれない。こんなものがギドク作品の魅力じゃないとか、生意気に思ってしまうのかもしれない。

いや、でもどうだろう……。彼の一気上映がなされた時の惹句“異常天才”が、ホントそうそうと思ったからさ。これほどまでの恐るべき映画作家が、まあそれなりに受賞歴はあるにしても、三大映画祭での最高賞が今回が初めてというのがあまりにも遅すぎて。
そして映画作家生命をおびやかすようなブランクがあったこともあって、これはそろそろあげとかないとヤバイでしょ、みたいな、業界内の空気があったんじゃないの、などとこれまたオタク的なうがった見方をしたくもなるんである。

そう、あまりにも遅すぎた……これまでだっていくらだって、恐るべきクオリティの作品はいくつもあったのに。
でもそれは確かに、それまでの映画技法と異なるギドク監督独自のものがゆえに、満場一致の評価を得られなかったと、そういうことなのかもしれない。
商業映画、興行成績、そうしたところからは確かに映画祭、特に三大映画祭は離れている、誇るべき位置にあると思うけど、でもそれでも……そこに当てはまるまでに時間がかかったのは、それだけ彼の天才ぶりが器を大きくはみ出していたのかもしれない、などと思う。

なんか奥歯に物が挟まったような言い方ばかりしてアレだけど、私ね……なんか普通にヒューマンドラマ、ギドク監督らしからぬ、などと思っちゃったんだよね。
もちろんどんでん返しはあるし、評価のポイントも、本作の魅力もそうした部分にあるんだろうと思う。
でもどんでん返しに驚かれる映画なんていくらだってあるし、それが評価の対象になるのなら、どんでん返しの映画ばかりが作られちゃう。

あ、そういう傾向、一時期あったような気がする……ラストは喋るなとか言われるヤツ。「ユージュアルサスペクツ」あたりから妙に流行ったような覚えがある。
最初は驚き、称賛するけど、段々とヘキエキしてしまった記憶がある。
どんでん返しありきの作劇は好きじゃない。その思いがあるから、ピンと来ないと思ったのかなあ。

それに、言うほどどんでん返しでもないし……。いや、私は推理苦手のアホだから、推測出来た訳じゃない、そうじゃない。大体、推測出来てたら、“普通のヒューマンドラマ”などと不満を漏らす訳もない。
普通のヒューマンドラマに見えたものが、あ、そういうことか……と思い、なるほどねえ、と思うけど、余計にそれで、えー……なんか、今まで圧倒的に魅了されてきたギドク作品じゃないな……と思ったことも事実。<p> あー、なんかヤだな、これって、明らかに、好きなクリエイターを型にはめるオタクファンの典型じゃん(爆)。

でもそう思っちゃったんだから、仕方ない。画家としてのキャリアを色濃く反映させてきた画作りの魅力も特に感じられず、印象としては何か……普通というか、いや、普通って何?とも思うけど。
画家云々を感じたのは、主人公がナイフを投げる、母を暗示していたのか、あるいは女性全体を嫌悪していたのか、とにかく上半身ヌードの女性画だけかなあ。

それともギドク監督は、そうした自身の殻を、世界中のファンから望まれていたものを、あのブランクを経て脱ぎ去ったのかもしれない。
奇をてらった“異常天才”と呼ばれる作風を脱ぎ捨てたかったのかもしれない。
それによって受賞を得るなんて何となく皮肉な気もしないでもないけど、彼自身がどう思っているのかは判らないけど。

と、なんか単にファンとしての不満をごたごた並べていて、どんな映画か判らないまま相変わらずの展開(爆)。
えーとね、主人公は暴利で金を貸し付ける借金取り立て屋の青年、ガンド。貧しい町工場を中心に金を貸し付け、払えないとなると身体障害者にさせて保険金を取り立てるという、血も涙もないヤツ。
死んだ方がマシだと泣き喚く相手には、死んだら保険金手続きが面倒だと、機械で指をつぶしたり、重しをつけて低めの建物から突き落としたりして、障害者……今は言えない昔風の言葉で言うなら“かたわ”にさせて、保険金を受け取る。

何かね、見ている時には、これは彼が独自に編み出した優しさというか、慈悲なのかなとも思ったのね。
こうした貧しい人々が借りてしまう暴利の借金ってのは、何度も繰り返し貸し付けて、骨の髄までしゃぶり尽くす。
まあ、彼らもそういう状況まで追い込まれているのかもしれないけど、印象としては命ある状態で解放してやる、みたいな気がしたのだ。

だって後にガンドが元締めに「障害者にしろなんて言ってない」と彼の勝手を叱り飛ばされるシーンがあるんだもの。
もし本当にガンドが慈悲の気持ちでそうしていたんだとすれば、その“慈悲をかけた”相手はそのほとんどが死んでしまうし、彼の考えが浅はかだったことが明らかになるんだけど、でもそれも含めて、なんだか彼が哀れというか……。
本当は優しいのに、こんな仕事しかできなくて、こんな中途半端な優しさしか見つけられなくて、さ。

ああ、だからかなあ。私ね、ガンドがまぶたの母(本当は違ったんだけど)に再会したら、まあ多少は疑って、突き放したりもしたけど、本当に母親なんだと信じた途端に甘えたさんになっちゃたから、えーっと思ったのね。
手編みのセーターにワクワクし、一緒にショッピングに行ってレトロな大きな伊達めがねを一緒に買って、バルーンアートに興じて……。
道行くカップルが、アイツ、ばかじゃねえのと嘲笑すると、母(ではなかったんだけど、とりあえず)は、私の息子をバカにするなと食ってかかった。

もちろんそれは演技で、その前に、ガンドの仕事についていって、かたわにされてしまった男の怪我した足を追いうちにグリグリ踏みつけるなんてことまでして、着々とガンドの母親であることを彼に信じ込ませていく訳だけど、着々と、ってあたりがあんまりピンと来なかったんだよなあ。
なんかいきなりガンドは、もう母親べったべたになっちゃう、みたいな。ベッドにもぐりこんじゃう、みたいな。えーっ、と思ったんだよね……。

親子関係の描写として、多分日本は、こんな風にはならないから余計に違和感があったんだと思う。
世界的には、こういうのに違和感を持つのって、日本ぐらいなのかなあ。特に欧米ではそんなに違和感ないのだろうか。
韓国における家族社会、親子関係はそんなに知らないけど、確かに日本と比べようもないぐらい絆が深くて、親子はこんな風にベッタベタなのかもしれない。ここで共感できなければキビしかったのかもしれないなあ、何か……。

で、この女はガンドの母親ではなかった。ちょっと推理モノに敏感な人ならば、恐らく見抜いただろうし、とりあえずその1のどんでん返しに驚いたりはしなかったんじゃなかろうかと思う。
だって冒頭に、車いすの青年が自ら作り出したと思しき“自殺装置”で命を絶つ場面が用意されているんだもの。上から降りてくるフックに首を巻き付け、車いすごと装置の上に乗り、ボタンを押すとぶら下がるという仕組み。

うわっと思ったらそこでカットが変わり、冷血借金取りのガンドのお話になってくる。
しばらくは、あの青年は誰だったんだろう、何だったんだろうと気にしているんだけど、ガンドの母親を名乗る女が登場したりして、次第に気を取られて忘れてしまう。
のは、恐らくアホな私ぐらいで、ちょっと目利きできる人なら、頭の端にずっと置いて見ているんだるうと思う。

常にじわじわ涙を流しているこの女の造形も何となくうっとうしいし(爆)、それこそ、もう言いたくないし、言うほどにただのやっかいなオタクファンにしかならないのが判っていながら、ギドク作品らしからぬ……と思ってしまう。
つまり何か、ミステリとしての伏線張りまくり、なんだよね。周到な準備を重ねて、鬼の気持ちで近づいた女じゃない。まあだからこそ母親なのかもしれないけど……。

そう、冒頭に示された、自殺した青年の母親が彼女。ガンドの母親ではない。
普通に考えれば、ガンドに近づいて彼をブスリとやることが復讐と思うが、彼女の復讐はそこにとどまらず、自分のことを本当の母親だと思わせて、目の前で死んで見せて、目の前での肉親の死がいかに自分の心をずたずたにするか、という究極の復讐を胸に秘めていたんである。
しかし予想外なことに、彼女の心にガンドに対する哀れな感情が生まれ、それ以上に多分……息子同等の心が生まれ、本当の息子に心で詫びながら、目的を達成するんである。

女がガンドに哀れを感じたのは、彼が元締めの下で働いている、つまりこんな下層社会から抜け出せないでいる、それはみなしごとして一人はいつくばって生きていくしかなかったことを、彼の母親としてもぐりこむことで知ってしまったからに他ならない。
なんかあまりにも浪花節で、またしてもギドク監督らしからぬ……と思ってしまうんである(爆)。
彼女はこの元締めの元にも押しかけてひと暴れする訳だが、ここの描写の意味としては、元締めという言葉には似つかわしくない、現代的な雑居ビルの一室の小さな事務所であること、社会の隠れた悪が、合法的にしんねりと行われていることを描いているのかなあと思う。
が……それこそ、何となくありがちな社会派描写で……。

いやいや、そんなところにとらわれてはいけない。本作の魅力は、疑似親子が究極で親子として昇華したというところにある……のかもしれない。
ガンドが“慈悲をかけた”貸付相手は死を選んだ者も多く、そうじゃなくても間違いなく落ちぶれている。
それをガンドは、突然いなくなった母親を探すことによって知る。自分に恨みを持って母親を拉致したと思ったが、そんなことをする余裕すらなかったのだと。

そのうちの一人、息子がかたわになり、ガンドを殺そうと押しかけて逆にナイフで刺され、瀕死の状態で帰って、そして母親の腕の中で死んでしまった男。貧しい町工場を、愛する母親のためになんとか切り盛りしていた男。
その母親が、ガンドの母親を名乗った女の後をつけ、忍び寄り、ガンドの目の前で廃墟となったビルの上から飛び降りようという芝居をしている女を、後ろから突き落とそうとしている。
しかし、それをなす前に、女は本当に飛び降りてしまう。ガンドが獣のように泣き続けるのを、この老いた母親はあっけにとられたように見ている。

この町工場の男と母親の描写もね、めっちゃベッタリで、恋人同士でもこんなベッタリじゃないだろ、って感じで。
だからこれが韓国の普通の親子関係(ていうか、息子と母親がこうだっていうのがちょっと日本では考えられない)なんだろうけれど、これが最初に提示された時にかなり引いちゃってさあ(爆)。
だからもう、その時点で私は、ダメだったのかもしれないな……。

そういやあ、夫婦同士の関係ならば、なんかちょっと、相容れるものはあったように思う。新妻に子供が生まれて、愛する者のために笑顔で「さあ、障害者にしてくれ」と機械の上に手を置く青年。大好きなギターも弾けなくなるから、君にやるよと、まるで旧友のようにガンドに話しかけるんである。
最後に一度弾いてからと、つまびくのがあまりにヘタクソで衝撃(爆)。なんか、ミュージシャンになりたかったとか言ってなかったっけ(爆爆)。
結局ガンドは、この時“母親と再会”したこともあって、彼の取り立ても、保険金も投げ出して、もちろんギターも置いて黙って去ってしまうんである。

そして、最初の取り立ての場面で登場した夫婦。一週間待ってくれと、その代わりに私を好きにしていいからと妻が下着姿になったにもかかわらず、ガンドは冷たくはねのけて夫をかたわものにしてしまう。
そして後に、すっかりやさぐれ飲んだくれになってしまった夫は、妻の行商に食わせてもらっている。
母親を探してここも訪ねたガンドに、夫はおびえるばかりだけれど、気の強いヨメは、アンタを車で引きずって殺してやりたい、と息巻くんである。

で、それがラストになる。目の前で愛する“母親”に死なれたガンドは、自分が死んだらここに埋めてほしいと、ガンドに植えさせた松の木の根元を掘ってみると、そこに彼女の本当の息子がどす黒い顔で横たわっている。ガンドのために編んでいたと思っていたセーターを、彼が着ている。
そこに母親を横たえ、自分も横たわったから、ここで生き埋めになって死ぬのかと思ったら、まあ第三者がいなければそれは不可能だし。

って理由だったのかしらん。とにかく、ガンドが自分をどう死なせたかっていうと、この夫婦の、妻の願いを叶え、行商に行く軽トラの下にもぐりこんで自身を結わえ付け、田舎道をひたすらまっすぐ行くトラックが赤い線を引いていくのを引きのカメラでとらえてラスト、なんである。
ここだけは、ギドク監督らしい画だと思った。残酷なのにひどく美しく画になる、ああいう感じ。
あんな安全運転のトロトロじゃ、死ぬまでに大分時間かかりそうだけど(爆)。そういう意味では、それまでの判りやすい残酷暴力描写がフリで、ここが一番、痛ましい、それも“どんでん返し”になるのかなあ?

考えてみれば、自分を捨てた母親だと思っていた相手がそうじゃなく、つまりガンドは天涯孤独を再認識させられる訳で、確かにメッチャ残酷な仕打ちだわな、と思うんだけど、その点については特に言及されないし、判ってんのかな……と不安になるぐらいなんである。
つまり、ガンドにとっては、他人の親子愛を散々見せつけられる上に死ぬしかないなんて、彼は確かに“母親”が言うように可哀想な子かも……。

しかも、どー考えても“母親”が母親じゃなかったこと、あの、車いす青年の自殺の“現場”で寝ている?ガンドの耳元でささやいていたのが聞こえなかったはずもないし、松の根元からは息子が出てくる訳だしさ。
なのにガンドは……もうそんなことはどうでもいいと、彼女が母親で、彼が弟だぐらいな……いや、そんな馬鹿な。
ああ、ガンドはもう、彼はもう、狂気になっていたということなのかなあ。狂気になっていた……簡単だけど……。

鶏とかウナギとかウサギとか、ペットと食材の狭間の動物が、そういう意味合いで生々しく描写されるのが、ギドク作品らしさを刻んでいたかもと思う。
鶏はガンドと“母親”の出会いを演出し、丸ごとボイルして彼に食べられる。
ウナギは彼女の連絡先を首につけられ、しばらく水槽によって飼われるけれども、彼女が入り込んだとたんに、バツリと首を落とされ、朝食に供される(彼は食べないけれども)。

ウサギは……取り立て先が自殺していたからと、その老母の元を訪ねて、飼われていた。
“母親”が逃がすけれども、階下の道路で急ブレーキがかかり、降りてきた運転手が車の下をのぞき込んでいる。
そりゃそうだ。飼われてたウサギがそのまま放り出されて、飼い主の元に戻れる筈がない。それもまた放り出されてしまった子供の暗示?ベタに考え過ぎか……。

ところで、シャッターに厳重なカギをかけて、死んだ息子を倒れた冷蔵庫の中に隠していた彼女だけれど、倒れた冷蔵庫……電源が入っていたようには思えないし、入っていたとしても、2ドアの冷凍庫部分じゃなくて、下の冷蔵庫部分……いくらなんでも腐るよな……。
と思ったから、彼女が出来上がったセーターを手にそこを訪れてバコッと冷蔵庫を開ける時、腐った死体が出てくるんじゃないかと怯えてしまう。
結局その場面は彼女が泣き伏すだけでスルーされたけど、松の根元から出てくる息子の遺体も、顔がどす黒くなってるだけで特に……。
うーむ、ウチらは日本の優秀なホラー映画に教育され過ぎかなあ??

それにしてもガンドを演じる彼、妙にアイラインが気になるが、それともあれは地?いやいや……なんか見てる間中、吉川晃司……とか頭離れなくて、困った(爆)。
そういや、“母親”役の彼女もそうだったから、親子ってことなのかなあ、それともマジで両方、地??いやいやいや……。 ★★★☆☆


何故彼女等はそうなったか
1956年 81分 日本 モノクロ
監督:清水宏 脚本:清水宏
撮影:鈴木博 音楽:斎藤一郎
出演:香川京子 高橋豊子 池内淳子 三重明子 三ツ矢歌子 井波静子 藤木の実 高橋まゆみ 桂京子 中村雅子 田原知佐子 扇恵子 宇治みさ子 築地博 花岡菊子 杉寛 国友和歌 平沼徹 藤村昌子 浪花千栄子 若杉嘉津子 大原葉子

2013/8/7/水 京橋国立近代美術館フィルムセンター
清水宏監督特集、結局はほんの数本しか観れなかったけど、最終日に滑り込んだこれも凄い作品だった!
“問題のある女の子たち”非行に走る少女たちを収容する施設での物語は、時代的に戦争の影も色濃く引きずるに違いない。彼女たちの家庭環境は一様に貧しく、たまにそうではない子が入ってくると、「ちゃんとご両親もそろっているのにねえ」などと、そここそが珍しいように言われるあたりが、まさに時代。

なんだけれども……背中にゾッと氷を当てられたように冷たい態度をとる母親、逆に外見は娘にすまなそうに、悲しそうにしているのに、生活費という名の大金と引き換えに娘を売り飛ばす母親、そんな母親を見て見ぬふりをする父親……。
身内がそうなんだから他人だらけの社会は言うに及ばず。ああ、もう、なんてなんて、可哀想なの!

可哀想なんて、なんか凄い、上から目線だけど、もうそうとしか言いようがない。次々に披瀝される少女たちの辛い現実に、ただただ……。
この物語が実話を元にした、つまりは社会派実録派映画であり、物語の最後には、この子たちをあたたかく迎えてやってくださいと、まるで報道ドキュメンタリーのように観客に呼びかける。
それが、最初はそういう色合いがちょっとこちょばゆかったんだけど、最後にはもう、本当に、迎えてやってくださいよ!!と声を大にして言いたくなるのだ。

彼女たちをあたたかく見守り、指導する女教師、小田先生に、若き日の香川京子。輝くばかりに清楚な美しさだけど、なんだか今とちっとも変らない。昔が老け顔な訳ではなく、今だってちゃんと年相応なんだけど、奇跡的な横移動、なんである。
理想だなー、こういう年の取り方。無理が全然ない。香川京子のまんま。自然体で、凄く素敵なんである。

まるで彼女まんまの先生として慕うように、社会に出たらグレていた女の子たちが、猫のように慕いまくるのが判る気がする。
布団の中にまでもぐりこんでよしよしされる女の子が、他の女の子にガンつけられるというのも、つまり他の女の子たちも総じて、この聡明で優しく、全てに目の行き届いた先生が大好きだからなのだ。

だからといって、小田先生が彼女たちを救えるわけじゃない。この施設で“いい子になって”社会に出ても、そこに小田先生の手は届かない。必ずと言っていいほど、傷だらけになって帰ってくる。
それは、もう冒頭の小田先生自身のナレーションで予告されているのだ。この施設の中ではいい子になるのに、って。
最初はそれがね、ちょっとうがって見ていた。いい子になる、という表現が甘ったるく感じたから。この施設の中ではいい子ぶって成績上げて、早く外に出ようとしているんじゃないか、って。

でも細やかに描写していく“女の園”は、まるで女子校のように明るくさんざめき、女子校の様だから女同士の衝突も、グレ女子同士だから取っ組み合いやらなんやらもあるけれど、本当に、明るくいい子たちなの。
なぜ彼女たちがここに来なければならなかったのか、それともこれは時代の違いで、当時だからこの程度でもぶち込まれたのか、などと思いながら見ていた。親元に返される最初の例が現れるまでは。

そう、幾人かの女の子たちを提示しての、ちょっとしたオムニバスのような雰囲気なんだよね。
こーゆーの、ひとつひとつ書くのホントめんどくさくて(爆)苦手なんだけど、とても素敵な作品だから、頑張って書こうと思う。
最初のエピソードはね、その後に続く、ジャブというか、プロローグのようなものであると思われる。富裕な家庭で育った弘子が入所してきて、いかにもこの施設のドンて感じの女の子とひと悶着起こす。

弘子はすべてに恵まれていたけれど、実は自分が妾の子であり、実の母親のことを誰も教えてくれない、実の母親に会いたい、と小田先生の布団にもぐりこんだのは彼女なんである。
それから続々出てくる女の子たちの事情を思うと、彼女は全然恵まれていて……いや、実際の家庭の様子は描かれないからアレだけど、多分継母にだって大事に愛されていたことはさ、後にそうではない事例が現れてくることで察せられて、つまり彼女は呼び水としての存在なんだよね。

呼び水にしては、というか、だからこそというか、キョーレツなお嬢様キャラ。山のような荷物を女の子たちにアゴで指示して運ばせる。
それがボスキャラの米子のカンに障り、初日から取っ組み合いのケンカである。
その流れで米子が食べ残して隠しておいた夏みかんが押し入れの中から見つかる。モノクロだから(爆)何かの食べ残しだというのは判るんだけど、何なのかが判らず、しばらく意味をはかりかねる。

しかし小田先生が米子を呼んで優しく問いただした途端、判ってしまう……。しらを切り、その後山の中に分け入って、がけをよじ登っては飛び降り、倒れこみ、またほうほうの体でよじ登っては飛び降りる、その描写の生々しさに戦慄する。
それを、ケンカ相手のお嬢、弘子が見ていて、震えるように見ていて、足がすくんでしばらく動けない後に、皆を呼びに駆け出す。
荒々しく積まれた岩肌、引きの角度で飛び降りる様を見せるのはスタントかもしれないけど、かなりの高さで凄く生々しくてゾッとしてしまう。

と、いう結末がどうなったのかは、なんと、引っ張るんである!次は、「トミ子の場合」である。
成績が良く、家に帰れることになったトミ子はウキウキで、同級生たちにも明るく自慢しまくるんである。キャーキャーとさんざめく女の子たち。
……本当に、女子校みたい。でもその希望はたった一日、いや半日で破たんする。

これがね、先述した、ゾッとするほど冷たい、氷のような母親、なのよ。ていっても継母なんだけど。
プロローグの弘子が、自分がお妾さんの子であることで悩んでいたことなどを思うと、時代的にも家族関係が複雑にならざるを得なかった、決して珍しいことではなかったかと思う。
そしてそれがメロドラマを作りやすくしていた要素であり、漫画とかドラマとかそれこそ映画とかでも、好んで多用されていたであろうことも。

でもね、後半の例には実の母親のひどい仕打ちだって出てくるし、何よりトミ子の父親が、これは実の父親が、ダメダメなのよ、もう!
あれは尻に敷かれているなんていうなまっちょろいもんじゃない。娘が帰ってきたことにあからさまに迷惑顔をする後妻に一言も言えない、どころか、言う気もないとしか思えない!
一体この氷のように冷たい継母、「体裁が悪い」を何回言ったの。あの氷のような顔で。トミ子が買ってきたお土産も「つまらないもの買ってきて」と一瞥さえくれずに。

いや、もうその前からトミ子は針の筵だった。あれだけ実家に帰れるのを皆の前では喜んでいたのに、バスに乗り、故郷の町に着き、近所の人たちが現れてくると急に口をつぐむ。
成績が良く、“いい子になった”トミ子が、以前はどういう子だったのか、どういう状況に置かれていたのかが、生々しく目の前に現れてくる。

それでもトミ子は踏ん張って、小田先生が言った「トミちゃんがいい子にしていれば、きっとお母さんだって可愛がってくれるわ」という言葉を信じて、頭を下げてここに置いてくださいと言ったのに。
いや、ていうか!ここはトミ子の家なのに、なんでそんなことを彼女が言う必要があるの!!継母はさらに冷たく、体裁、体裁、と言い、そして父親はただ無言のまま。どうしてトミ子がこの家を飛び出すことを責められるの!!!

……最初からトバしてしまった。最後まで行きつけるか不安になってきた(爆)。
次は……ゴメン、名前が判らない。とにかく、成績の良い一番はトミ子だけれど、再び家を飛び出して保護されて、なんてことになってしまったから、二番目と三番目に成績が良い女の子。
うちわ製造工場の社長さんが、人手が足りないからと施設を訪れ、女の子たちはもうキャーキャー喜ぶ。この二人が先陣隊として上手く行けば、その後どんどん使ってもらえる。責任重要よ、と小田先生は笑顔で二人を引率していくんである。

社長さんはこだわらないいい人だったけど、女性ばかりが働く、そこの従業員たちはそうはいかなかった。
最初はね、「そんな人たちと一緒に働くなんてゴメンですよ」と有志の代表として噛みつくオバチャンにイラッとしたけど、でも、黙って作業を続ける一人一人に声をかけても、目をそらして、黙って立ち去っていくばかりなのだ。その女たちの方がよっぽど卑怯だし、女の子たちの心をズタズタに傷つけるのだ。
……このエピソードは、一時の、青春の道草が、社会に出るのにこれだけ邪魔になるという恐ろしさを覚えるし、意気揚々と引率してきただけに、とぼとぼと二人を連れて帰る小田先生が「社会なんてこんなものよ。でもこんなことに負けちゃいけないのよ」と彼女たちにとも自分自身にともつかずに言い聞かせるのが辛くてさあ……。
だって、負けちゃいけない、闘うことを強いられているなんて、最初から不公平じゃん。あんなに傷ついても、闘わなければいけないなんて……。

その後、住み込みで働く話が来ても、誰も手を上げない。以前ならここから出ていくこと、働いて自活することをあれだけ焦がれていた少女たちが、そしてあれだけふてぶてしく見えていた彼女たちが、しり込みをする。
表向きは、私なら受けるのに、もったいなーい!とかさんざめきながら、彼女たちが深く傷ついているのが判るし、その時に誰かがふともらした「お嫁さんだったら、すぐにでもなってここを出ていくのにな!」という言葉に、皆ドッとわくんである。
赤ちゃんは幾人欲しいとか、男の子か女の子か、なんて話で盛り上がるのもいかにも女の子で、なんだか胸が熱くなってしまう。

と、いうのには、あのプロローグの米子の、重大なエピソード、ある意味一つのクライマックスとも言える出来事があるからであって。
夏みかんを食べたがり、がけをよじ登っては何度も飛び降りた米子は、そう、身重であり、そのおなかの子供は順調に育って、ある日、夕食の後に突然姿を消した米子を皆が探し回ると、納屋の中で呻いているのであった。

荷物も履物もそのままに姿を消したというあたりから、観客にはそれと察せられるんだけど、劇中の女の子たち、先生たちまでもそのことを判って探しているようには見えないあたりが、逆にリアリティがあるというか……。
女の子たちはもちろん、きっと先生たちにとっても初めての経験だったのだ。施設長はキャリア充分て感じの年配だけれど、なんか雰囲気ハイミスって感じだし(爆)、小田先生はまだまだ若く、それどころかこの施設での女の子たちを守ること一直線!て感じで、ウッカリ生娘かもと思うぐらいの清楚さ、なんだもの。
急ぎ産婆さんは呼ぶけれど、結局間に合うことはなく、米子は男気ある二人の女の子(女の子に男気はヘンかな?でもそんな感じなんだもの)に手を握られ、「しっかりするのよ!」しか言えない小田先生と、とにかくハラを決めた施設長のサポートの元、無事赤ちゃんを出産。

この出産シーンを、一歩引いた女の子たちがこわごわ、というより恐怖の表情で、まさに鈴なりになって眺めている場面、暗闇に浮かび上がる、緊張にこわばった少女たちの顔、顔、顔……を横移動で映し出すスリリングが凄い臨場感で。
米子のうめき声と、彼女のそばについている二人の女子、先生二人ももちろん緊張感にあふれているんだけど、びっしり鈴なりに埋め尽くしている女の子たちのすっぴんの顔が、迫りくるものがあるんだよね。
オギャーオギャーという声が聞こえ、飛び上がってバンザイして抱き合って喜ぶ女の子たちは、きっと今も昔も変わらないと思い、それはとても感動的、まずここで涙してしまうんだけど、あの顔、顔、顔……のシーンがあったからこそ、だよなあ。

米子は急に母親の顔になる。あんなにズベ公(弘子が米子に言った台詞。時代だよなー……)だったのに、ミシンをかけているのは、赤ちゃんの産着だと思われる。
それだけじゃなく、女の子たちみんなが気にかけて、靴下を編んであげたり(不器用で大きさがかたちんばなのがほほえましい)皆であやしてあげたり。女の子、いや、母親予備軍の女たち、なんだよね……。

で、それは米子こそがまさにそうで、あんなズベ公だったのに(爆。ゴメン!だって堂に入っていたんだもん……)、赤ちゃんが乳児院に引き取られるかもしれないと知って、顔面蒼白で小田先生の元に飛び込む。
私から赤ちゃんを取り上げないで、私がちゃんと育てますからと言い、涙をぽろぽろこぼす。
そんな彼女を見て小田先生もまた涙を流す、のを見なくたって、もうこのシーンは女子としては(いや、男子もそうであってほしいが)すっかり涙してしまうんである。

「あなたがそんな風に思ったのが先生、嬉しいの」そうよ、あの米子がねえ、ということなんだけど、それともう一つ重要なのは、この赤ちゃんの父親が誰かってことがちっとも言及されないことでさ。
それは“ズベ公”だから特に言及することもないということなのかもしれんが(爆。いやそれはいくらなんでもヒドいが……でもそういう雰囲気、あるんだもおん)、でもきっと、女を尊重してくれているんだと思う、思いたい。
赤ちゃんの責任はほとんどが女に取らされがちだが、つまりそれは、身体と心が同時に母親になる女は、やはり神秘なのだよね……経験ないから判らないけど(爆)。
でもこれは、あくまでこの時代だから。充分感動的だけど、そうではない進化をとげていっていると、思いたい。

米子が無事赤ちゃんを取り上げられずに済んだのか、言及しないままなのがかなーりモヤッとしてるんだけど!まあいいや、次に行く。
その“次”はちょっと、ちょっとどころかの軽めのエピソード、なんだよね。うちわ工場の出来事があって、古株新米、ここを出ていく術を話していた中で、引き取り手、つまり身内の保証人がいなければここを出て行けないことを知った一人の女の子が、かつて働いていたオミズなお店の女将さんに手紙を出して、叔母さんだと言って迎えに来てくれないかと頼む。
女将さんはさすが百戦錬磨で、見事な芝居でこの子を“引き取り”、きっとまた元の場所で、彼女は生きていくのだろう。
元の場所でもなんでも、彼女がそこで不幸ではなく、犯罪に手を染めず、意志に反する生き方でなかったらもちろんいいんだけれど。
舞台となるこの施設が、小田先生に扮する香川京子の雰囲気が最たる原因だと思われるんだけど、とにかく清廉潔白だからなあ……。

まあ、前述のエピソードは息抜き。でもこれはつなぎであり、その後に続く、つまりクライマックスに見事に橋渡しをしてるんだよね。
母親からの迎えに本当に嬉しそうに帰っていった千代。女の子たちも笑顔で手を振り、その中の一人が、「先生から」と、彼女たちが作業していた内職の手仕事、おかめの面を千代に手渡す。
いっちゃん最初に言及した、すまなそう、悲しそうにしながら、娘を苦界に売り飛ばす、その売り飛ばされるのが千代ちゃんなんである。
冒頭から再三、彼女に幼い弟妹がいるのは観客にも伝えられていたけれど、千代ちゃんの言う通り、家に戻ってそこから通いの仕事を見つけられれば、私が家族を養っていける、と言うのにもうなずけたんである。

けれども……。

ほっぺたや口の周りを汚した、幼い弟妹達を、まるで暑い国の貧困の子供たちのように映し出す。まさにそんな具合に表情までうつろなんである。
私ね、最初のエピソードの、氷のように冷たい継母にすんごい怒っていたけれど、タチ悪いのはこの、千代ちゃんの母親の方かもと感じ始めた。
幼い弟妹達のために、と無言のプレッシャーを与え、自分自身は“苦労して、どうしようもない”ところに逃げ込む。
依頼心が強く、欲深なくせに小心者だから、嫌われるのが怖いんだろう、こういう人は。私がそうだから、よく判る(爆爆。)

幸せになれると思って送り出した千代ちゃんが、おしろいを塗り、城下町をそぞろ歩いているところを、小田先生に見つかってしまう。
いや正しくは、同僚?である女の子に。課外実習か修学旅行なのか、わやわやと生徒たちとある街を訪ねる。橋の上に地元の学生と思しき紺サージ団体が鈴なりになって見ているのが引きの画面で表され、すっごいこれが、見てるこっちにも辛い。まるで動物園のサルみたい。
やがて彼女たちの一人が千代ちゃんをみかけ、小田先生に進言し、小田先生が駈けつける訳だけど、どうにもならない。
だってもうお金が動いてて、意に染まずにも、千代ちゃんは飲み込んで来ているんだもの。
……先生に顔を見られたくなくて、隠すおかめのお面が、施設の内職でずっと作り続けていたもので、それは、先生たちの親心で、辛いことがあっても笑顔でいられるように、って含みだったのに……。

先生の前でお面をかぶり、どうしようもなく先生が去って行ったあと、泣き伏す千代ちゃんは、その拍子にお面を押し砕いてしまっているのを、自身気づいているのか、いないのか……。
気づいていない風なのが余計哀れを感じさせ、それは彼女の哀れと自分の非力もあいまって、生徒たちを引率しながら涙が止まらない先生よりも……。
先生=香川京子がメッチャ美しかったけど……、本当に美しくて。
お面で顔が見えなくて、何かこう、悲しい中で大人の階段一歩登った、いや、無理やり登らされた、そしてこれから彼女は転落の一途なのだとしたら、それはあんまりだと、あんまりだと……。砕かれたおかめのお面が辛すぎて……。

最初はね、今回の特集で見た、子供たちの施設の少女版かな、なんて思っていたのね。施設の作りも、まるで焼き直しのようによく似ていたし、冒頭のコミカルな感じとか、確かに良く似ていたんだもの。
でもそれどこじゃなかった。子供たちも哀れだったけれど、彼らが無力である分、どこかに救いがあった。矛盾しているようだけれど、確かにそうだった。
少女たちは、少女と言えどもう体つきもしっかり大人で、その証拠として赤ちゃんを産み落としたりも出来るし、そこから母親の感情が芽生えたりもする。
でも、いやだからこそ、彼女らが見落とされるエアポケットのようなところにいて、この時代だから余計に女が社会で受け入られられない厳しさがあって、それは現代ですらそうだから余計に、余計にそうで、……もう本当に、ただ、ただただ、悔しいばかりなのだ。

苦界に沈んだお千代ちゃんをどうすることも出来なくて、嗚咽をこらえて悔し涙を流す小田先生の画に、先述した、彼女たちをあたたかく迎えてやってほしいと、半ば呪詛のようにつぶやかれるナレーション。
今も大して変わらない女子の現状にゾッとしつつ、この救いのないラストにゾッとしつつ、おかめの面を粉々にして泣き伏した千代ちゃんを思い……それでも大丈夫と思う。思いたい。思うしかない。
女は強く、男にも社会にも何にも誰にも負けないと、信じるしかない。 ★★★★★


夏がはじまる
2012年 55分 日本 カラー
監督:冨樫森 脚本:松本めぐみ
撮影:音楽:
出演:齊藤絵美 佐久間利彦 菅原比路美 朝倉亮子 橋本せつ 梨乃 穂上まどか

2013/7/21/日 劇場(K’scinema/モーニング)
冨樫監督の新作!ということでタイトルさえろくろく確かめずに足を運んだんで、いきなり始まってタイトルが出てこないことに妙にざわざわと不安のような、胸騒ぎのようなものを抱えながら見ていた。
それはヒロインの女の子、いやもう女の子なんていう年ではない、ハタチも過ぎた彼女、ななえの、そんなもやもやにひょっとしたらシンクロしてたかもしれない。と思うのは、最後にタイトル、「夏がはじまる」と出た途端、さあっと視界が開けたような感じがしたから。

それまで正直、ななえの、家庭環境の事情はあるにしろ大人になり切れないイヤイヤ加減がなんとも共感できないというか、ついていけない感があったんだけど、それも含めて、夏がはじまる、そこで本当に、カーテンが開いたようなそんな気がした。
それまでのななえのもやもや、それはきっと彼女自身にさえ説明がうまくつかなかったこと、が、本当に、霧が晴れたようにさあっと。

でも不思議。普通なら、春が明るい季節の始まりなのに。本作のタイトルは最初、「春、庭に咲く」という仮タイトルがついていたと知り、なんだか不思議に面白い。
単に撮影時期の事情だったのかもしれないけど(爆)、春に入ってさえもやもやとしていた女の子が、夏の到来の、日差しを浴びて、扉を開ける、松田聖子じゃないけど(笑)、なんかそんな、キラキラ感があって。

しかし展開自体はキラキラ感どころではない。重くて、じめっとしてる。
主人公のななえは父親と二人暮らしで、最近祖母が施設に入ったばかりらしい。父親から着替えなどの荷物を届けるように言われて、軽くイラッとする。「いいから。みほも帰ってくるから、一緒に行け」と言われてぶんむくれる。
この、お腹の大きい姉のみほともあまり上手くはいってない……というか、ななえの方が一方的につっけんどんな感じ、は、父親やみほに限らず、全ての周囲に対してななえはそんな感じなんである。

そんな妹を姉のみほはまったくしょうがないわネ、という感じで見ているけれど、父親が、自分の母親である祖母のところに行きたがらないのを「逃げてるんだよ」という点では姉妹は一致している。
この祖母は彼らの離婚の原因……つまりは嫁姑関係。それは幼い長男が階段から転落して死んでしまったという最悪の事態が絡んで、ノイローゼになった母親は家を出ていったんであった。

と、いうのが明かされるのは徐々にであって、この冒頭当たりでは、離婚の事情も、ななえが祖母を嫌っているのも、父親に反発しているのも、なかなか判らない。
というか、割と最後まで、ななえの遅く来た反抗期ってな感覚が上手く理解できないウラミはあったりする。
本作はまあ恐らくそんなに予算もなさそうだし(爆)、尺も短く、例えば出てきそうな姉のダンナとか(お腹が大きいというだけで嫁いだことを示唆してるけど、そっち方面の話は全然しないから、シングルマザーなのかとか、勘ぐってしまう……)、友人とか、近所の人とか、出てこないんだよね。
祖母の施設のスタッフぐらいかなあ、いわゆる第三者的に関わってくるのは。父親の果樹園の土地を仲介するJAスタッフなんかも、冒頭は意味ありげに出てくるけど、それはつまり、この家の状況を説明する形ってことだし。

それだけこの家族に詰めて描いているとも言えるんだけど……。少しツライものがあったのは正直なところかなあ。それはなかなかこの家庭の事情が判ってこないから、判ってくると段々と入り込んでいくんである。
長男の事故死、その後に生まれたななえは、自分が身代わりにもなれないことを非常な疎外感に感じてる。長男がいない、ということは、この地方都市にとっては一般的な感覚以上に大きいのだと思う。

そう、舞台は山形なのね。冨樫監督が山形出身だというのを、今更ながら初めて知った。「ごめん」があまりに印象的だったから、勝手に関西方面の人かなとか(アホだな……原作が関西なのよね)。
父親とかがめっちゃ方言バリバリなのに、ななえは標準語、というか、若い子、いやそれだけじゃなく母親だってそうだ……女たちは皆、訛ってないのは何でかなあ。
なんか、もったいない気がする。せっかくこの地を舞台にしているのに。なぜおじさんたちばかりが訛っているのだろう(爆)。
ななえがどこかやみくもに東京に出ることを憧れてる、それをその手の雑誌一発で示し、地方出身者としてはそういう感覚、なんか判るだけに、惜しい気がする。

で、そう。ななえはまあつまり、ヒネてるのよ。母親が出ていったのは祖母にいじめられたからだと、それは家族の共通認識なんだけど、どこかで、自分じゃお兄ちゃんの身代わりになれなかったからじゃないかと、思ってるんだよね。
クライマックスで、ななえを産むことを祖母から反対されたけれど、お父さんとお母さんで必死に説得したのよ、と母親から明かされて、身代わりなんかじゃないんだと、望まれて産まれてきたんだと知って、涙するななえ。
……でもおばあちゃんはなんで産むことに反対したんだろう。長男が事故死した後だから、それこそ身代わりで産むのは良くないとか、そういうことを言ったんだろうか。単に経済的なことだろうか。ここはちょっと、気になったかなあ。

なんか色々すっ飛ばしてるけど(爆)。そうそう、ななえは東京に出る夢は漠然と持っている程度って感じで、地元の漬物工場でアルバイトしてる。
しかしこれが、もう冒頭から描写されるんだけど、やる気ゼロって感じのダラダラ加減で、そりゃー同僚からも疎まれる。
ていうか、あまり彼女自身なじもうという感じはなく、休憩場面で、転職しようかなー、などとおしゃべりしていた女子たちに、「判ります。自分がいる場所は他にある、自分が自分じゃないっていうか」などと“マジレス”して、彼女たちに引き気味に失笑される。この場面一発で、普段交わってない感がバッチリ出るんである。
……こういうの、割と身につまされるトコあるんで、見ててヒヤヒヤする。「ななえちゃんは、すぐにでも東京に出ると思ってた」と言われて「もうすぐ出るよ」ととりあえずの笑顔で返すななえに、そのココロってつまり、この、生まれ育った土地でなじめてないことを突きつけられてるみたいで、本当にヒヤヒヤしてしまう。

きっとななえは母親のことが大好きで、母親が出ていったのが、大きな理由としては嫁姑の確執にあったとしても、その大きな事件となった長男の死、その事件の時には生まれてもいなかった自分、関われなかった自分、そして生まれて、代わりにもなれなかった自分、という、何重ものアイデンティティの否定があって……その最重要項目が、大好きな母親が家を出ていったことに、あったんだろうな……。
でもそこが、やっぱりななえはまだ子供で、見ていてモヤモヤ、イライラ、なかなかシンクロ出来ないところはそこであって。

ななえがね、お腹の大きい姉に「妊婦がそんなにエライのかよ」と毒づく場面とか、ホント如実なんだもの。お姉ちゃんはそんな子供っぽい妹を叱った、ただそれだけなのに。
この場面はさ、自分はまだ結婚も出来ないとか、子供を持ててないとか、そんなレベルにさえ至ってないのよ。つまり、女以前、ホント女の子、それに毛が生えた程度なの。
ななえを見ていてなんともモヤモヤするのは、彼女がもういい年こいてるのになんだかなんだか……まだ、幼子のように、さまよっているのが、見てられなくて……。

本作のクライマックスはでも、主人公たるななえからは離れたところにある、離れてはいないのかもだけどとにかく……彼女にはあずかり知らぬ、母親の苦悩の過去にあったというところがミソである。
施設を抜け出して行方不明になった祖母を捜索する場面、お地蔵さん、とつぶやいていたことをななえが思い出して、発見に至る。

母親が、ごめんなさい、お義母さん、と言いだすもんだから、ななえは驚く。謝るのはおばあちゃんの方でしょ、と。
黙ってなさい、とピシャリと母親から言われるもんだから、更に驚くななえ。
私はあなたが憎かった。でも、言ってはいけないことを言ってしまった、と。
このおばあちゃんがずっと大切に、施設の個室にも持ち込んで手元に置いていたのが、この母親が長男のために作った人形で、もうくたびれちゃってヘロヘロになってて。
それを見て、母親は、娘の前だということも捨て置いて、いや、だからこその告白をした。

何を言ったのか、それは母親ではなく、おばあちゃんの口から明かされた。
おばあちゃんはもう、すっかり認知症が進んでて、家族の顔も判らなくなっていた、のに、そう、血を分けた肉親の認識も出来なくなっていた、のに、血のつながらない、いわば他人の、だからこそ永遠に解決されない嫁姑という関係なのに、はっきりと、言ったのだ。
母親の名前、ユキを名指しして、その通り、私は人殺しだと。
姑の膝元に崩れ落ちるように泣き伏す母親と、立ち尽くすななえ。遠くに見える、寄せては返す海の白波。

もう次のシークエンスではね、祖母の葬式になってるし、離婚した妻である母親のユキは参列していないし、遺影を持ったななえと喪主である父親だけ。
あれ、お姉ちゃんは?と思ったら、ななえの携帯が鳴る。母親からの電話には出ようとしなかった場面で観客の記憶に刻まれた、こだわりもない内蔵された着メロ。
おいおい、葬式の時には電源切っとけよ、と思ったのもつかの間、ななえが父親や、参列客に見せたのは、みほが無事出産した赤ちゃんの写メール。
初孫だね!と、お葬式なのにみんなから拍手喝さいが起こる。生まれ変わりだなんて、ベタなことを言わないで良かった。おばあちゃんは天寿を全うし、今新しい命が産まれる。拍手喝采、だ。

さくらんぼが実をつけるビニールハウスの中、父親と娘は対峙する。自分のことは気にせず、東京でもなんでも好きなところに出て行っていいんだぞ、と言う父親に、もう少しここにいてもいい?とななえ。
好きなようにしろ、と言う父親の声は心なしか弾んでいて、ななえも、今までになかったような穏やかな笑顔を見せる。そして、「夏がはじまる」

ななえを演じる齊藤絵美はじめ、ほとんどが地元在住の素人さん、なんだよね?ナントカ市在住、って書き方だもの。
今はほんとに、いろんな映画製作のあり方があって、様々なアイディアを駆使した企画の元に、作品が作られてる。職業役者が必要とされない作品のありようは、特にこうした、地方製作、地方企画の映画において説得力がある。
とても追いきれない作品数に、玉石混合、どころか石々度合いが深まる実感あれど(爆)、いつでも映画は奇跡を起こせるから。 ★★★☆☆


夏の終り
2012年 114分 日本 カラー
監督:熊切和嘉 脚本:宇治田隆史
撮影:近藤龍人 音楽:ジム・オルーク
出演:満島ひかり 綾野剛 小林薫 赤沼夢羅 安部聡子 小市慢太郎

2013/9/10/火 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
原作は、もう50年も前、まさに半世紀前の、瀬戸内寂聴の小説。ずっとロングセラーだったというのだから、これが彼女の自伝的小説だというのは周知の事実だったんだろうけれど、無知な私はさ、さすが瀬戸内寂聴!とのけぞってしまう。
本作に寄せた彼女の長い文章は、「自分が一番好きな作品」であることへの愛と誇り、そしてその原作を「最も近い形」で映画化した監督への賛辞を、余計な装飾なしに寄せていて、ああ、彼女は本作に、本当に満足しているんだなと思った。

小説の映画化は難しい。文学は文字の中に気持ちをいくらでも織り込めるけど、映画となると、どんな名優でも100パーセント伝えきるのは難しい。
その上に日本文学は、行間なんぞという更に難しいものも存在してくる。映画は原作とは別物という、どちらかというと悪い意味の方で使われるその言葉は、文学者が映像化作品に信頼を置いていないことをまっすぐに伝えてくる。

原作にはないエピソードや登場人物、結末さえも変えてくる場合だってあるんだからむべなるかなである。
だから、彼女のこの長いけれどシンプルな文章からは、本当の意味での本作への賛辞が感じられた。
原作に近いということは、演じる人物の役への寄り添い方、気持ちの揺れ動きも“近い”ということだろうと思う。きっと。

満島ひかり嬢、そして綾野剛君はもういかにも、今の売れっ子スターの起用という感じで、実力があるのは判っていながらも、正直ちょっとどうなの……という思いはあった。なんかホント、いかにも企画を通すためのキャスティングって感じがしなくもなかったから。
だけどホント、杞憂だったなあ。素晴らしかった。ひかり嬢が昭和の女がこれほど似合うと思わなかった。
いや、朝ドラとかでやってはいるけど、お妾さんというのは、やはり独特の空気が必要になる。それなりにただれた感じ、でもなぜだか純粋な感じ。だって結婚という制度を捨てても、その人と一緒にいたいということなんだもの。

その一方でそのただれた&純粋な感じを、別の男にも振り向けるという難役。この役はこの年齢の、本当に短い期間しか出来ない役だと思うし、何を振っても大丈夫という、ある程度の修羅場を潜り抜けた女優さんじゃなきゃダメだし。
そういう意味では、確かに売れっ子とはいえ、満島ひかり嬢の今にしか出会えない役だったのだと思う。

その意味では綾野君もそうだが、彼はそれこそ朝ドラの印象から入った私なんぞは、いやあ、昭和がしっくりくる男だよね、などと思うんである。
彼は最終的にはひかり嬢、小林薫の関係に負ける形ではじき出され、尺的には彼だけちょっと短いんだけど、やっぱ若い恋の情熱だから、彼のあの、怨念がこもっているような暗く光る眼が最後まで忘れられない。

それにしても、そう。自伝的小説。親子ほども年が違うと思われる(小林薫と満島ひかり嬢の実際の年齢から考えただけだけど……その辺、原作ではどうなのだろうか……)、作家崩れの小杉慎吾と、彼が飲み屋の客として、店員だった相澤知子は出会った。
……というのはかなり後になってから明かされる。三人の出会い、関係性は、かなり時間軸を交錯させながら描かれるので、私なんてホント頭悪いからさ、ヒヤヒヤしながら見てたところある(爆)。

最終的に整理すれば、知子は地元にいた時に結婚して子供もいたのに、綾野剛君演じる木下涼太と再会(つまりなんか、同級生とかそういうことだと思うんだけど、そのあたりは判然としない。言ってたっけ??)し、激しく恋に落ちる。
地元の政治家の選挙活動に参加し、選挙カーの上で重なり合う手とか、そこに降り注ぐ田舎の強烈な太陽、にじみ出る汗、なんとも生々しいんである。

そう結婚していたんだよね、知子は。なんとまあその夫君がマイラブ小市慢太郎様!
ああ、でも笑わない小市さんはちょっと怖くて、そりゃそうだ、妻から突然、好きな人が出来たからあなたにはついていけないとか言われちゃうんだもの。しかも子供までもおいて!
小市さんが冷酷な顔して妻の知子にビンタをくらわすのが、か、悲しいよー!!周りがのどかな田園風景だから余計に……。
「だって好きなのよ!!」と地団太踏んだ子供のように叫ぶ妻に振り向きもせず、幼い娘を抱いて去る夫……そりゃそうだよな……。

この「だって好きなのよ!」とひかり嬢が叫ぶシーンが予告編で使われていたから、私はてっきり、小林薫に向かって若い恋人が出来たからというシークエンスなのだとばっかり思っていたから、ちょっとビックリした。
それどころかさ、慎吾は涼太の存在をもうすっかり認識しているんだもん。で、そう、これが自伝的小説ってのが、夫のみならず子供までも捨てて恋する相手と駆け落ちしたってあたりもそうなのかしらんと思うと、さ、さすが瀬戸内女史!などと思ったり……。
この辺は、原作では、あるいは事実とはどうなのだろうとか思うのはホント、げすの勘ぐりだよなー。

そう、慎吾は涼太の存在をすっかり認識している。冒頭は、もういきなり、涼太が知子を訪ねてくる場面からなんである。
知子はその時在宅してなくて、慎吾が知子に報告するんである。「涼太君が来たよ。すぐに判った」含み笑いをするように、自分じゃ信用ならないと思ったのかな、と彼の対応をくすくすと笑う。
この時点では観客には何も知らされていないから、そもそも慎吾と知子の関係も判らないし、涼太とは何者なのかも判らないし。

この家に訪ねてくる、慎吾を「先生」と呼ぶ女子学生が、なんとなく知子に対しては一枚薄皮を隔てたような反応をする理由も判らない。
……この女子学生はそのあたり実に絶妙で、別にあからさまに軽蔑のまなざしを向けるとかじゃないし、表面上はほがらかに知子にも接するんだけど、知子がみかんをあげようとすると寝そべって本を読みながら……という無邪気さを演出しながらも「どうぞお構いなく」、先生がいない間に駆け込んでくると、知子には型どおりに挨拶するものの、さっそく先生の持ち物をあさりまくる。
知子がお妾さんであり、しかし別の男、涼太への思いを抑えきれないこと、知子自身の、芸術家であるアイデンティティが段々と明かされるに至って、こうした、世間の目を象徴的に示す女子学生の存在が、知子の自我をじわじわと崩していく様が見事なんである。

で、そう、最初は全然、関係性が判らないんだよね。「涼太君、すぐに判ったよ」という慎吾の意味深な言い様も、そう、あの人来たの、とかわしながら、涼太が仕事に難儀していることを口にのぼせて、地元にいれば良かったのに……と世間知らずのように彼を断じる。
そんな建前の中に、案ずる気持ち、何より自分のそばに来てくれた喜びの気持ち、思い出話として慎吾に話していたのが、現実の彼としてやってきた戸惑いの気持ち……と、もう、実に綾なす複雑さなのだもの。
その複雑さは後になって判ることとなるんだけど、この時から、まだ何一つ関係性が観客に提示されていないこの時から、もうそれが匂わされているのは凄い、さすがだと思う。

お妾さんシステムってさ、日本において連綿と続いていたものだし、それは女性の立場がはっきりと下に置かれていた時代においては、女性としての一つのサクセス例であってさ、割り切っていれば成立しちゃうんだよね。
だからこそ、連綿と続いてきたんだと思う。ちょっと言い過ぎかもしれないけど、まあ一つの文化よ。
でも時代が進んでくると……それこそ寂聴さんが実地で体験した時代となると、女はアイデンティティを獲得してくる。ていうか、もともと女という生きものは男よりもその意識が強いと思う。
人間の女として生まれた最初の歴史からずっと、下に置かれてきた歴史が、本能的にそれを強くしてきた、なんて言ってしまったら大げさだろうか。無論、もっと生々しいオンナとしてのものもあるだろうし。

で、お妾さんシステムがまだギリギリ機能していたけれど、もう崩壊しかけていた時代、だと思うんだよね。寂聴さんの自伝的小説、その彼女の時代には……。
職業婦人、しかも知子は染物作家としてしっかりと生計を立てている、ことは、彼女が仕事でどうやら洋行していたのか、横浜の港に慎吾と涼太、二人の恋人を迎えに呼びつける場面で察せられるんである。
じっくり作業している場面も何度となく示されるし、その精緻な作業、神経を集中する世界に息をのむ。
彼女は決して、恋に溺れるオトメではなく、ひょっとしたら夫と子供を捨てて出てきたのも、芸術をやりたいという自身の中のふつふつとした思いも手伝っていたのかもしれないのだ。寂聴さんなんだから……きっとそうなのかもしれないのだ。

それって、自伝的小説とはいえ、このお妾さんシステムに対する大いなる疑問を投げかけている要素なんじゃないかと思う。
最終的には、知子は慎吾とも涼太とも別れ、一人最初から生き直す決断をする。それは本当のお妾さん(という言い方はアレだけども)では出来ない芸当である。

そうそう、お妾さんシステムと共に頭に浮かんでいたのは、愛人、という言葉であった。
知子はここまでうだうだ言ってきたとおり、きっと、決して、お妾さんではない。ならば愛人、という言葉は浮かぶんだけれど、性質的にはそうなのかもしれないけど、なんかそう言い切れないんだよね。
知子はその狭間で揺れ動いている気がする。時代もあるし、彼女自身がそうさせているんだと思う。

慎吾は知子の存在を奥さんに明かしていて、その上で行ったり来たりをしている。その点で言えば、まさにお妾さんだと思われる。
でもそれを涼太が「奥さんにも納得させた」と殊更に強調して……侮蔑と共に若干の驚きを含んだ尊敬をこめて言うあたりに、微妙なバランスを崩してくる。
本来ならお妾さんを囲うようなぼんぼんではないのだ。慎吾は奥さんに、好きな女の元に通いたいと、そう奥さんを説得したということなのだ。

でも、どうだろう。慎吾はその点、男だから、いわば男は古くてズルいから、お妾さんとして知子を認めてほしいと言ったのかもしれない。だからこそ、奥さんは強気なのかもしれない。
強気?……それはあくまで知子側から見るからそう思えること。堂々と“相澤様方”と夫に手紙を出してきて、無邪気にお土産の無心をしたりして知子をかき乱すけれど、奥さん側から見ればきっと、恐らく、絶対……。

奥さんさあ、登場した?私、声だけだった気がしたんだけれど。
キャストクレジットで安部聡子の名前があって、ああ、市川監督に愛された、あの可愛い安部聡子だっ!と思って、でも彼女、どこに出てた?と思い……。
でもこのキャストの順番なら絶対に重要な役、それなら慎吾の奥さん役しか考えられない、と……。
でも、そんな逡巡は後付けで、あの声とキャストクレジットで、彼女だ!とは思ってた。ただ、きちんとキャストクレジットされてたからあれ?と不安になって、ひょっとしてお姿を見逃していたかな、と……。

そう、声だけ、声だけだったよね!なんとまあ、熊切監督、自信満々やないの!
でも安部聡子の声だけ使いたくなる気持ちはわかる。正直、今回の彼女の声は、可愛いだけに凄くイヤな気持ちを知子に与える効果を持っていて、てらいがないだけに、ゾッとした。
私、長廻しは苦手だけど、知子の家に電話交換を挟んでかけてくる奥さんの電話、小杉はいませんでしょうか、ならばこれこれを伝えてください、あの人はアレ(ずぼらとかそういうことだろうな)なんで、メモして頂けるかしら??なんてさ、もう、ゾワゾワしたよ!

牽制してるんだけど、彼女の可愛い声だとそう聞こえないの。そんでもってそれを受ける知子=ひかり嬢だけの定位置カメラでとらえる訳でしょ。余裕こいてる(訳じゃないんだけどね、だから……)奥さんに、こわばりながら受話器を握りしめているひかり嬢!
「……聞こえてます?」なんて向こうからのジャブも効かせつつの、この“間”の恐ろしさの嵐!!
やっぱりそうだったんだ、実際に違う場所からの電話をさせてたんだ。これは本当に怖い。怖い怖い!!

知子は、慎吾に対する思いを愛だと言って、最終的にはすげなく涼太を振り切る。あれだけ情熱的に求めていたのに。
豪雨の中、涼太の、いかにも独身男の住むきったない下宿を訪ねてくるシークエンスは、まあある意味ベタではあるんだけど、女の子的には(年齢は限りなし!)とってもぐっとくるものがあった。
だからこそ涼太は知子を自分だけのものにしたいと気をもむ訳なんだけど、結局、知子は慎吾を選ぶ。……てことなんだよね?少なくともこの時点では……。

慎吾は、凄くズルい男。知子と奥さんを等分に愛し、知子の過去の男……から現在の男にもなっちゃう涼太とさえ、仲良くなっちゃう。
そう、仲良くなっちゃうの。そもそも涼太が今の時間軸で訪ねてきた時に、彼が過去の男であるというスタートの遅れがあったにしても、それにしても、慎吾がこの年若く情熱的な“過去の男”を寛容に受け入れちゃうあたりが、ズルいんである。
結局は嫉妬する癖に、鷹揚に受け入れ、ちょっとした友情まではぐくんじゃう。
奥さんと知子に対しても同様である。追い詰められれば困ったような顔をして謝るしかないこの男、すんごいすんごい卑怯なのに、どうしてみんな、捨てきれないの。

原作の力ももちろんあるだろうけれど、やはりそれは、確かにそれは、小林薫大ベテラン、だからだろうなあ……。憎たらしいほど、この慎吾にドンピシャ。
文学青年がそのまま中年、どころじゃない、初老になってしまったような男。書きかけの原稿用紙、編集者には軽くあしらわれるありさま。
奥さんに嫉妬して知子が彼の家を訪れるというルール違反をした時でさえ、困ったような顔をしながら、招き入れる(たまたま家族が留守だったってあたり……)。
その彼の“ホーム”には、知子の家に来てくれる時に見覚えのある、小鉢のサボテンの大きいバージョンなんぞが置いてあったりして、それって、それって、キツい!知子の家は、自分の家のミニチュア版ってことを示してるようなもんじゃないの!!

しかも猫よ。猫猫猫!!慎吾は知子の家にいる時、半ノラ状態で子猫を飼っている、というか、この状態だと手なづけていると言った方がいいか。
この、黒に白がちょこっと混じっている子猫が悶絶するほど可愛くてさあ!
これがまた、上手い具合に?小林薫の腕の中で無邪気にもんどりうって、和服のソデかなんかでじゃれじゃれして、もう、お前殺す気かーっ!!!と叫びたいほどめんこいの!
凄いよ、最高のタイミングで最高のパフォーマンス、信じられない!!昭和の、和服の、妾の家での、腕の中の子猫。完璧すぎるだろ!!

しかしこれが、困ったことに、小杉の本当の家(という言い方をしなければならないのが悲しいが……)でも、彼は猫をめでているんである。こっちはトラの成猫。これまたぐるぐるとなついている。
うー、うー、うー……犬好きには悪い人はいないとはよく言われるところだが、だからこそか、映画の中に猫が出てくると、結構ソイツら多かれ少なかれ悪人だったりするもんだからさあ(爆)。猫好きには結構ワルい奴もいる……イヤー!!!

でもさ、ホント、もう反映されてるんだもの。子猫なのにすっかりなついてじゃれてる知子んちの子猫、すっかり定位置を確保しているかのような小杉家の成猫。
もともとは人に慣れた老猫を使おうとしてたなんて監督の弁が信じられない。猫だけでお妾さんと正妻の立ち位置を示しちゃうなんて、偶然だとしたらあまりに出来過ぎじゃん!!

後半、あれだけ情熱的に恋していた涼太がすっかり出なくなって。知子と涼太が逢瀬の行き返りに何度となく通る、二股に分かれ、なおかつ高低差まであるという、実にご丁寧に別れを演出する場所が効果的に使われる。
そんなこんなもあって、涼太が、後から考えれば割と尺もないし、知子と慎吾の愛の絆にはじかれた哀しさがあるんだけど、やっぱり強い印象を残すんだよなあ。
誤解を恐れずに言ってしまえば、健全な恋愛。しがらみのない、肉と情だけの。
でも知子が涼太から再三責められるごとに、慎吾の存在をきっと愛だ、いや愛に他ならないと、図らずも彼からの責め問いによって明らかにしていくのが、スリリングというか、哀しいというか、いやいっそ、むなしいのか。

だって知子は、ていうか慎吾も、涼太さえも判っていた。慎吾は奥さんと別れる気はない。家族を崩壊させたくないとか、単に勇気がないとかじゃなくて、認めたくないけど、信じられないとか言いたいけど、慎吾は奥さんのことを知子と同等に愛しているのだ。
それを信じられない、だから男はと糾弾したいところだけれど、その時知子も、慎吾と涼太を等分に愛していたのだ。
でも崩れたのは知子の方だった。愛するのはどちらか一人でなくてはならないと、そうであるべきだと、そうでなければ人間ではない、犬畜生だと、そう責め立てられて、男から、世間から責め立てられて、無理無理選び取った。

でもそれは、何より大事な自分自身、何より大事だということをこの時代もあって気づけなかった自分自身、アイデンティティを失わせることだと気づいた。
だから別れた。一人で生きて行こうと思った。……そんなあっさりと結論付けるべきじゃないかなあ、ヤハリ。私としての理想論かもしれない、あくまで。

ラストでは、知子は一人、凛として暮らし始めるけれど、慎吾からの電話は受けるし、小田原に用があるの、会いましょうよと待ち合わせる場面で終わるという艶っぽさである。
全てを払しょくしたうえで、新しい関係として慎吾に会う、ということならばカッコイイけれど、そう思えるほどすがすがしさはあるけれど、どこか不安を、というか余韻を残すラスト。
この時には涼太が全く、みじんも、存在がないのが哀れというか……でも素晴らしい役、言っちゃえばもうけ役ではあったけど!★★★★☆


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