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「は」


2013年鑑賞作品

ハーメルン
2013年 132分 日本 カラー
監督:坪川拓史 脚本:坪川拓史
撮影:与那覇政之 音楽:関島岳郎
出演:西島秀俊 倍賞千恵子 坂本長利 守田比呂也 水橋研二 内田春菊 小松政夫 風見章子

2013/9/24/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
初めて見る名前の監督……とか思ってプロフィールを覗いてみたらどびっくり。初長編に9年もの歳月をかけて、それが海外映画祭で最優秀&観客賞のダブル受賞し、二作目も世界各国の映画祭に引っ張りだこだったという。
えー、知らない、知らなーい!9年て、なんなのその最初からの大物感は。二作品ともタイトルも聞いたことがなくって、えー、ホントに公開されてた??と、単に見逃してるだけなのに人のせいにしたくなってしまう……。 だってだって、そんな人なら気になるじゃない。
なるほどそういう経緯ならば、何年も口説かれ続けてデビュー作に出演したという小松政夫が、無条件での応援を口にする訳だ。本作での小松政夫と内田春菊の唐突感は、まあそんな経緯があったという訳で、この経歴ならば、確かに期待は否応なく盛り上がった訳なのだが……。

でも、こんな情報を最初に入れてた訳じゃない。本当に、まったくのサラの状態で、それこそ監督さんが誰かとかも確かめないままに足を運んだ。
西島秀俊だから、と思った訳はない訳じゃないが(爆)、でもやっぱり、本当に全く。信頼できる劇場と、日本映画の新作であること、行ける時間帯であること、それ位。
正直、予告編でのアーティスティックな雰囲気で、期待する部分も確かにあった。これはちょっと、ものすごく好きになっちゃう映画かもしれない、とも思った。
思ったんだけれども……。

ものすごい傑作になりそうな要素は、いっぱい詰まってる。映像は文句なく美しいし、これまた何年もかけて(かかって、と言った方がいいのか)撮影された四季折々の風景は、特にメインとなる秋の風景は、この映画はこの紅葉の美しさを見せたいがために作られたんじゃないかというほどの、燃え立つような、それでいて静かなパッチワーク。息をのむほどの紅葉なんて、実際は勿論、映像でだって、私は初めて見た気がする。
だからまあ、それを観られただけでも本作に足を運んでオッケーという感じもしなくもないけど、やたらめったら映像が美しい映画には、だからこそのギャップのような落とし穴というか、映像が完璧なだけに、小さなほころびさえも気になってしまうというか。

映像だけでなく、アイディアもいいんだよね。タイトルにもなってるハーメルンは、主人公が小学生時代に見た人形劇が投影されていて、フィルムでかたかた映し出されるこの人形劇が、ノスタルジック&ミステリアスでなんとも魅力的。それこそ、このフィルム映像を観られただけでも本作に足を運んでオッケーと、またも思ってしまうぐらいの魅力がある。
……とまあ、つまりは、そういうこと。そういう、映画的魅力のある要素にはすんごく力を入れてて、それはそれで確かに魅力的なんだけど、そこが総合芸術の難しさというか、全てが収斂されて、大きくなくていいからカタルシスが、静かなる感じでいいからあって、ラストには全ての思いを集約して観客を連れて行ってくれる……というまとめがないとナアと思う。

まあそれこそ、観客の得手勝手な言い様だとは思う。映画は受け手が自由に受け止めてナンボであって、ああしてほしい、こうしてほしいなんてのは、ナンセンスなんだもの。
でも、なんかこう、なんかこう……ところどころでゴムが伸びきってるところがある感じがするというか、浅い穴ぼこがあいてる感じがするというか、凄くもったいない気がしたんだよなあ。

単純なことを言っちゃうとまず、長い!30分詰めてよ、とか、これまたヒドいことを思ってしまう……。でもホント、生意気ながら、30分詰めたら、イイ感じになりそうな気もしないでもない(ホントに生意気だな……)。
撮影に何年もかかって、これだけ美しい風景が展開されているとそうそう切れないのかもしれないけど、間(ま)を大事にしたかったのかもしれないけど、でも、長いんだもおん。

ちょっとね、いちいち聞き返す感じの台詞のやりとりが気になったりした。それもただ一人、西島秀俊にだけ。彼にだけ、「え?」と聞き返させる、そういう会話の場面、何度もあった。
もちろん、相手の台詞が、その意図が一発で判らないという場面もある、観客もそう感じているんだから、彼も当然そうだろうということもある。
でも段々、いや、そこ、聞き返さずとも判るだろ、というやり取りが増えてくる。それがね、気になったんだよね……。
多分、その会話の内容を印象づけるために、つまり大切なことをこれから言い出しますよ、というきっかけづくりみたいな感じで西島氏に聞き返させる形にしているんだと思うんだけど、それがあまりに続くと、なんか彼がバカみたいに見えてきちゃうんだもん(いや!決してそうは見えないけど!でもね!!)。

……まあそんな些末なことばかり言ってても仕方ないから、とりあえず行こうか……。
そもそもこのタイトル自体に惹かれた部分はあった。ハーメルン。ハーメルンの笛吹き。そういえば、どういう話だろうと改めて考えてみると、ちっとも思い出せなくて、映画を観ても思い出せなくて、鑑賞後に思わず調べた。
……ええっ、こんな怖い話だったっけ……。笛吹き男が約束をほごにした村人たちに怒って、村の子供たちを皆連れ去って、自らともども洞窟に閉じこもって二度と出てこない。そんな話だったっけ……。

“そんな話”であることを、頭に置きながら見ていたら、ひょっとしたらちょっと感慨は違ったかもしれない。
以前は何百人も児童がいた小学校が、今は廃校になっている。そこのかつての教師だった綾子先生は今は恍惚の人となり、「子供たちはどこに行ったのかしら……」とつぶやく。
彼女が大事にしていた仕掛け時計には、ハーメルンの笛吹き男をほうふつとさせるおどけた、でもどこか寂しそうな人形が乗っている。

それだけじゃない。何より重要なエピソード、主人公、西島秀俊演じる博物館職員の野田がモノローグする人形劇。そこで印象的なテーマクラシック(あー、なんて曲だっけ!有名なのに!!)をきゃしゃな横笛で吹いているのは女の子。
瞳がきらり、ぬめりと光り、動くその表情は、時に本当に生きているかのようでドキリとさせる。しかもそれは、ひたすら、なつかしのかたかたフィルムの中の映像なんである。
分断されて続くこの人形劇、中盤、彼女は笛を吹く両手をもがれ、天使の羽を授けられる。でもその羽で空高く、自由に羽ばたいた後に、まっさかさまに落ちてしまう。笛をたずさえて離さないもがれた両腕、静かに横たわる少女。

ものすごく、ものすっごく魅力的なシークエンスではあるんだけど、だけど、何を意図していたのかと考えると、黙り込んでしまう。それこそもっともらしい解釈をつけるのはいくらだって可能だとは思うけど、それをした途端に、このミステリアスな魅力が失われてしまいそうな気もするし、でも放り投げたままだったら意味がないような気もするし……。
そもそもこの人形劇というのが、それこそ、そう、本質的な意味合いがあるのかと思って、ネタ明かしというか、オチというか、それをずっと待って見ていたんだよね。
だってこの人形劇団に、大事な仕掛け時計を綾子先生は提供していたということでしょ?当時の人形劇を映したフィルムの中に、恭しく映し出されるんだもの。
んでもって、人形劇団は、まあ人形劇なんだから当然だけど、黒子で、一切顔は映し出されず、ちょっとした不気味なものを感じさせる。
そしてその芝居を意味ありげな笑顔(に勝手に見えちゃったのよー)で鑑賞している、若き日の綾子先生。なんか、気になるじゃない!

……それこそ、うがち過ぎということだったのかな。ハーメルンの物語を、しっかり判った上で見ていたら、つまりは過疎となる村が、ハーメルンの笛吹きの男に子供たちを連れ去られた如く、子供たちがいなくなってしまうという、単にそれを予感させる、そういうきっかけめいたエピソードだと理解できたのかな。
野田はこの村を通る、川にかけられた美しい橋を渡っていく汽車の警笛が、いつも怖かったという。連れ去られてしまう気がして、そう言っていた。
それもまた、ハーメルンの物語を覚えていたなら、それを下敷きにしていると判っただろうけれど、単純に、ミステリアスなキーワードをばらまいているように受け取ってしまったから、結末を、待っちゃったんだよね。
でも本作はそういうことじゃなくって、相対的に大きく美しい作品、てこと。……でもそれだと、色々と物足りないんだけど……。

一応主人公は野田であり、演じる西島秀俊であり、なんだけど、結局は彼は客寄せパンダというか……この村の物語を動かすきっかけの、つまりは狂言回しだったのかなという気もしている。
主人公、というか、主人公たちは、この時間が止まったような場所で暮らしている老人たち。
今はもう廃墟となって、取り壊されるのを待つばかりの小学校の校舎で、かつて校長をしていた男。
祭りの練習のために、たびたび訪れてはへっぽこ演奏を繰り広げる三人の、これまた老いた男たち。

手作りのパンを持参し、大きな銀杏の木の下で、校長の入れたコーヒーをおいしそうにすすりながら、おしゃべりをしていく女性……は倍賞千恵子だから、老人などと言っては失礼かもしれないけど、まあでも、彼女ももう、そういう役回りになってきている。
ただこの“老人たち”のくくりの中では確かに若手。彼女の母親が、仕掛け時計を大事に持っていた、戦時中の大連から帰還する時、大事にかかえて持って帰ってきた、先述の綾子先生。

彼女の夫は今はもう閉館となった映画館の技師で、校長とは旧知の仲らしい。らしい、というのは、まあ、この校長は恐らく、多分、いや確実に、この綾子先生のことが好きだったに違いなく、残されたかたかたフィルムが、子供たちのことを映しながらも、何より綾子先生の美しい横顔をバッチリアップでとらえていることで判っちゃう。
一方の綾子先生の夫は、後にこの校長先生がからかい気味に述懐するところによると、“女をこさえて逃げた”らしく、それ以来娘のリツコ(倍賞千恵子)とは絶縁状態。奥さんである綾子先生とはどうだったのかは、判然としない。

恐らくこの村唯一であろうと思われる、一杯飲み屋を営んでいるリツコさん。演じる倍賞千恵子はステキだし、寅さんが終わって、解放された形の彼女を見るのは、それだけで何となく嬉しい。
クライマックス、雨に降られて校舎の中に移動して慎ましく行われた村祭りで、へっぽこ吹奏トリオの見事な演奏で、往年のノドをかろやかに聴かせる場面は、しつこいようだけど、これもまた、これを見る(聴く)だけでも、足を運ぶ意味はある、てなもんである。優しくて、のびやかで、実に素敵。癒される。

でもこれもねえ。あれだけへっぽこっぷりをしつこいぐらい示して、カノンなんて難しくて弾けない、とか言って、練習もダラダラで、しまいには卓球始める始末だったのにさ、ズルいぐらいにプロフェッショナルでさあ。
こういうの、お約束とは言い切れない、なんか悔しさを感じる。……別にこんなところに腹を立てることも、ないんだけど。

なんていうかさ、なんか……観客が見くびられている感じがしちゃった、なんていうのは、言い過ぎ&考え過ぎなのは判ってるけど。
この人たちはこういう人物、という気持ちで、つまり信頼して見てきてるんだもん。
展開はいいよ、作り手のものだと思う。掌の上で観客が転がされていいと思う。でも、人物においては……推理サスペンスの犯人じゃない限りさあ……。

綾子先生が、人形劇を観ながら意味ありげな微笑み、なあんていうのも、それこそ勝手な思い込み。この人形劇のフィルム映像があまりに魅力的で、それを回想し、フィルムの映像に涙する西島氏があまりに存在感あり過ぎるから、余計に肩透かしくった気分。
しかもね、本作、葬列のシーンから始まるじゃない。地方の風習にのっとった、野辺送り。これぞ、野辺送り。緑の深い狭い田舎道を、シャラン、シャランと鳴り物を静かに鳴らしながら、葬列は静かに進む。
後にこれが、時間軸を移動させた、綾子先生の夫の映写技師の葬列だと判る。
物語を印象的に進めるために、時間軸をいろいろと交錯させるのはよくあることだし、それがうまく作用すれば何の問題もないんだけど、……それ以外のいろんなことが気になってしまったせいか、これもまた、ちょーっとあざとかったかなあ、なんて思ってしまう。私が汲み取れないバカなだけなんだけどさっ。

凄く、色々と、思わせぶりに勝手に感じてしまったからいけないのかなあ。
綾子先生が大事にしていた仕掛け時計を勝手に持って行ってしまったのは、野田だった。綾子先生にとっての大事な思い出の品だと知った彼は、娘のリツコに告白し、頭を下げる。
「まだ持っているの?」と問われて、いえ……と濁した彼に、リツコは、そう……と動揺と落胆を隠せずに言った。
実はタイムカプセルに埋めたんだと野田は告白し、後にそれを掘り返そうとする場面も出てくる。でもそれは雪深い真冬で、リツコは「埋まっちゃうわよ。春まで待てば?」とほがらかに制し、結局物語の最後まで、タイムカプセルは現れることはない。

そもそもタイムカプセルの存在を覚えていたのは野田と校長だけで、町役場の仲丸は野田と同級生だったけど、覚えていなかった。
タイムカプセル、一体それは本当にあったのかさえ判然とせずに物語は終わってしまう。
喪服姿の西島秀俊は鼻血が出るほど素敵だったし、博物館職員という役、時を閉じ込めたものをひとつひとつ手に取っていく姿が萌え萌えすぎて、そりゃまあ堪能させていただきましたから、良かったんですけどねっ。

リコリスの花言葉、しかも三つもあるとか、っていかにも思わせぶりに披露するのも、最終的にはどれも特に残らなかったし、そもそもなんでリコリスを特定して、意味ありげにするのかも、ピンとこなかったしさ。
リコリス=彼岸花でしょ。まあ、死者を連想させる、あるいは悼む、そんな意味合いも含めているとは思うけど、確かに劇中、人は亡くなったにしても、それと結びつけるにはリコリスの花言葉情報が出てきたのは随分と先だし、なにも印象付けるものはなかった気がするんだけど……。
私にとってはリコリス をフューチャリングした大林映画が大好きなだけに、余計にイラッとする気持ちになったなあ……。

村の職員は、水橋研二だった。最初、野辺送りのシーンで葬列客と車の誘導をしていた場面で、その背格好の後姿で勝手に濱田岳と思い込んでて、同級生である野田と再会したシーンで、そう、同級生、と言うもんだから、えーっ、いくらなんでも年の差あり過ぎでしょ!と思っていたら、水橋研二だったんであった……。顔は全然似てないけど、背格好が似てる……。
大好きな俳優さんなんで、まあ出番は割とあるけど、物語に切り込むというまでの人物ではなかったのがなんか残念。
せっかく西島秀俊と同級生役だったのにっ。一緒に人形劇も見ていたに違いないのにっ。タイムカプセルも忘れてるしさあっ。

……でもそう考えると、本当にタイムカプセル、あったんだろうかという気にもなってしまう。結局掘り返されることはなかったし、記憶も野田と校長と綾子先生にしかない。そしてミステリアスなハーメルンの笛吹き、なんだもの。
うー、でも、ハーメルンの物語を再確認せずに見てしまったのにこんなこと言うのもアレだけど、ハーメルン神話に引きずられてしまったような気もするなあ。何かがある、と思い込んで、信じ続けて見てしまった。
校長から託されたフィルムの映像に何かが隠されているかとも思ったが、ただただ、ノスタルジーだけだった。
そんな勝手な憤りのせいかもしれないけど、西島秀俊に涙を流させるのはねーっ。なんかさあ、なんかなんか……すんごくベタな感じがしちゃって、来るぞ来るぞ、って感じで、ヤだったなあ……。
彼の涙は、もっと切迫し、切実で、研ぎ澄まされたところで見たかった、なんてなんて、ホント勝手な言いぐさなんだけれども。

福島がロケ地なのは嬉しかったし、あんな美しい風景が、知らなかったってこともあって。
かつては正門前に見事な桜の木があった、っていうのは、この廃校の実際の歴史なのかもしれない。そういやあ、ご丁寧にも校長先生によって校歌まで歌われていたしなあ。
でもそういうのって、どうだろう。この世界だけで閉じられる映画という物語の中では、どうなんだろう。
いや、本当に、この映画の、この物語のためだけに作られた設定だったとしたらゴメンナサイなんだけど、ちょっとだけ、とってつけたような感じがしたから……。

綾子先生の夫が住んでいる、古い映画館。そこに娘のリツコが訪ねてきて、かつて自分のために買ってくれたピアノを、また弾きたくなったから店に置きたいと申し出る。でも音が……と気にする父親に、いいのいいの、調律はこっちでやるから、とひらひら手を振って、気まずかった久しぶりの対面をシャットアウトする。
場面が替わり、旧知の仲と思しき調律師さんに来てもらって、ピアノをみててもらっている。調律はこっちでやるから、と娘は言ったが、父親は娘に引き渡す前に、きちんと調律してやろうと思った。

……てな場面だけど、ピアノ、別の場所に運ぶんなら、調律はその運んだ先でやった方がいいに決まってるよね……??ただでさえデリケートな楽器、運んだだけで調子は狂うに決まってるんだし……なのに、このタイミングで調律。
うーむ、監督さんはそもそもはアコーディオン奏者、つまりプロミュージシャンなんだから、こんなことをツッコむこと自体が見当違いっぽくて恥ずかしいけど、なんかこういうの、気になるじゃん!
単に、ただ単純に、この場面で、リツコの父親が、ピアノの椅子を屋根裏に探しに行って転落して死んじゃう、っていうことを印象付けるため、ただそれだけなのかもしれないけど、だったら余計に、気になっちゃう。いいのかよ、それで、って思っちゃう!

それと、白く積もる雪の上に、雪の替わりにだんだんと紅葉したもみじ、それが次第に綾子先生が折っていたカラフルな折り鶴に替わっていくシーン。
ファンタジックで素敵と思えれば良かったけど、雪の上にどんどん積もって広がっていく折り鶴に、クリアな映像だからさあ、キレイという以上に、う、うう、ゴミだ、ゴミだ……掃除が大変……なんて思っちゃったらもうダメじゃん!

凄く好きになっちゃいそうな気もしてたから、勝手にガッカリしちゃったりして(爆)。意外にメロドラマな要素を組み込みながら、基本はアーティスティックに行こうとした摩擦かなあ。
アーティスティックならアーティスティックで、ムチャクチャに判らないぐらいがいいのよ、なんて投げっぱなしも過ぎるだろうか……んんー、でもなんか、残念!!次回作に期待したい!!。★★★☆☆


箱入り息子の恋
2013年 117分 日本 カラー
監督:市井昌秀 脚本:市井昌秀 田村孝裕
撮影:相馬大輔 音楽:高田漣
出演:星野源 夏帆 平泉成 森山良子 大杉漣 黒木瞳 穂のか 蜿r太郎 竹内都子 古舘寛治

2013/6/12/水 劇場(ヒューマントラストシネマ有楽町)
絶対に女子が好きそうなピュア系であることと、何といっても最近かなりお気に入り男子、星野源初主演!ということで、チラシをカレンダーに貼りつけとくぐらい(照。いや、チェックが甘いと、観たいと思っているものも見逃すことがあるからさっ(言い訳))。
いや、テアトル新宿単館だと思ってたから(結構な数で公開されてる!)。したら星野君は積極的に宣伝廻ってるし、テレビスポットまで流れてるから、ちょっと慌てて、公開一週目で足を運んじゃった。

まあそれだけ楽しみにしてた訳だが、監督さんにまでは思いが及んでなかった。まあ、基本的にミーハー優先だから珍しくもないが、この名前を見たとたんにピンと来てなかった。名前、憶えておかなかった!
「無防備」と聞いたとたんにみるみる記憶が蘇ってうわーっ!と思う。
「無防備」!監督さんが髭男爵の元メンバー、てのはまあどうでもいい!それも面白いと思ったけど、とにかくとにかく、この年の、私のベスト作品の中に入れたの、覚えてる、確か、5位ぐらいに入れたっ(すいません、なんか微妙で……)。

やー、なんか、嬉しい。その監督さんが、星野源の初主演映画を撮るだなんて。
しかもこんな、メッチャ私好き系。そう知るとなんか色々見方が甘くなる気もするけど、でもとにかく嬉しい。
そうか、「無防備」の監督さんかあ。そう聞けばドーンと思い切った引きの場面や、クライマックスの疾走にまでほうふつとさせるなんていうのは、こじつけ過ぎ?
でも、彼はこうした可愛らしい物語であっても、人間同士の密なやりとりを、ゼロから始まる積み重ねを、じっくり撮っていく監督さんなのね。

これ、原作として別クレジットがあったから、原作モノかあ、と思ったら、映画を前提とした“小説版”、言ってしまえばノベライズじゃん!
いや、わざわざ原作、とするからには、最初に小説版を作り上げておいた意味合いがあったのかもしれず、それもまた興味が惹かれるところではあるけど、何よりこの“原作”に、脚本も書いた監督さんが共著で名を連ねているのが嬉しかった!
だってつまり、これもまたオリジナル作品ってことでしょ。人気のある原作モノを映画化する商業映画に抜擢されるのも誇らしいことと思うけど、やっぱり映画オリジナルであってほしい、と思うのは、いつも原作に引け目を感じるヒクツな映画ファンの心の叫び(爆)。

女子が好きなピュア系、と言ったけれど、つまりそれだけ、言ってしまえば現実味も薄い。
いや、それは決して悪い意味ではなくてね。きっと監督さんは、そうしたこともちゃんと判った上で作劇しているんだと、思うんだよね。

主人公は年齢=彼女いない歴の冴えない青年。市役所の記録課勤め12年、その間昇進まったくナシ。
友人どころか同僚ともろくに話さず、昼食を実家に戻って食べるという徹底ぶり。

そう、もちろん実家暮らし。休みの日は家にこもってゲーム三昧。趣味と言えば、ペットの蛙をめでることぐらい。
後に知れるところによると、使い道のないお金は、「老後に困らないために」貯めている。
両親が心配する、たった一人になったらこの息子はどうなるのか、ということも、彼はちゃんと考えているんである。

で、タイトルロールであるのよね、つまり。言い得て妙なんだけど、実は彼が恋をする、恐らく初めての恋である、お相手の女の子こそが、リアルに箱入り娘、なんだよね。
盲目の女の子と超オクテの青年の恋は、清楚なたたずまいがとってもしっくりくる夏帆ちゃん(やっぱりいまだに「天然コケッコー」のイメージも残ってるしなあ)と、当て書きしたんじゃないかと思うぐらい、このオクテ青年にピッタリの星野源、だからさ!
心ときめく訳なんだけど、よーく考えてみると、色々と問題点はあるのよね。

その問題点は、先述したように、作り手側が判った上であると、思われる。だからこそ、どこかおとぎ話のように、いい時代の少女漫画のように、ワレら女子の心をときめかせる。
今ならね、盲目=障害を持っている=誰かのサポートがなければ生きられない、と、こう、ストレートには言わないし、言えないし、実際そうじゃない、んだよね。
本当に娘のことを思っているなら、自分たちふた親がいなくなった先のことを心配しているのなら、その配偶者を探すことよりも、彼女が一人で生きていけるためのスキルや、配偶者ではない人間関係、……福祉はもちろん、そこからつながるいろんな人たち……を心配する筈、なんだよね。

ただ、……こう言ってしまったら語弊がアリアリではあるんだけど……そうなると、この女子大好きピュアラブが成り立たない。つまりこれは、非現実的であることを前提の上で成り立ってるんじゃないかと思うのよね。
彼女の側の、非現実的なまでの人間関係の希薄さと呼応する形で、彼の側も希薄。ちょっと作劇に目くばせがきく人ならば、こうした“箱入り”な息子、娘にも、数少ない友人とか、幼馴染とか、なんかそういうことを配したくなると思う。
彼女の方なんて、仕事にもついてないし、外に出る時には必ず母親がついてるし、箱入り娘どころか、深窓の令嬢、なんだもの。

ちょっとうるさどころからならば、障害者に対するヘンケンうんぬんという話が出そうな感じもするし、実際出るかもしれない……。
ただ、この彼女の設定は、彼女の設定こそが、主人公である、タイトルロールである彼のそれと見事に呼応しているこそが大事なんだと思う。
両親同士の見合い、つまり子供の相手を探す目的のイベントによって引き合わされたこの縁。
盲目の彼女、奈穂子の両親、ていうか父親は、その相手の条件に厳しい。一枚の身上書から、すべてを断じて、娘にふさわしいかふさわしくないかと、冷たく断じる。
いかにも深窓の令嬢、だから、その学歴だの職業だのにこだわるのは当然なんだけれど、コイツは友達もいない、こんなヤツに娘を守れる訳がない、と彼、健太郎を断じるんである。

ここには二つの大きな要素があって……友達もいないのは奈穂子も同じであり、結婚というものが、男女の対等な関係ではなく、男が女を養い、守るものであるという、いつの時代よ、という価値観に、この父親が気づいてない……訳ではないのか……いや、気づいてないよな……ていう点、なんである。

後者の時代錯誤に関しては、まあ今の時代もそんな価値観はまだまだ横行しているからここで色々言っちゃうとキリがないんだけど、前者に関しては、きっと、恐らく、こここそ、意図的だよね、と思う。
登場人物のメインはこの一人娘と一人息子、それぞれの両親であり、サブキャラはすべて健太郎側に固まっていることをかんがみると、やはり意図的だよねと思わざるを得ないんである。

そう、35歳、年齢=彼女いない歴、実家暮らしで友人ゼロであっても、同僚とろくに話をしなくても、彼側には会社でヤリマンと影口叩かれてる女の子にムリヤリ飲みに付き合わされるシークエンスがあったり、奈穂子との交際に関して両親とぶつかって、昼食を吉野家の牛丼や公園で菓子パンになったり、外部とぶつかるほほえましい変化があるんだけど、彼女側には何も、ない。

言ってしまえばこの奈穂子のキャラクターは、純愛のために用意された、理想的な女の子だよねと思う。もっと言ってしまえば、モテない男子がこれならアリかもと思わせるような……。
しかもうっかり美少女であったりするのも、よーく考えると女子的にはズルイとも思っちゃう。つまり彼女側からは男子のサエなさは見えてなくって、男子は美しい彼女を手とり足とり。
それこそこんな設定、女をバカにしちゃる!と断じてしまうのなんてカンタンなんだけど……したっていいんだけど……。

人間関係をごくごくシンプルに、特に彼女側は極限までシンプルにしていることで、いい意味でのファンタジー感が漂うのよね。
彼女は深窓の令嬢、お姫様、王子様を待ってるシンデレラ。まあその王子様はちょっと、どころかかなり、頼りないけど、でも出発点がゼロだから、すべてが輝きに満ちているのだ。

彼にとっては初恋……かどうかは判らんが、まあとにかく、初カノジョ。でも彼女にとってはどうだったんだろう……。
健太郎と平日のランチデートで、吉牛や立ち食いそば体験などなど、初々しいデートを重ね、初めて休日、一日中一緒にいるとなった時のこと。
音楽好きの彼女のためにジャズライヴを聴いた後、彼女は「もっと健太郎さんを知りたい。手や声だけじゃなくて……」と控えめながらも大胆な提案をした。

この時、健太郎は経験がないこともあって上手くいかなかった(まあつまり、勃たなかった(爆))んだけど、その時の彼女の対応は「謝ることなんてない」と後ろから彼をそっと抱きしめるという、ちょいと手慣れたもので……。
でもね、クライマックスも大クライマックス、健太郎が奈穂子の家に、その二階に柱をよじ登ってバルコニーに忍んでいくという、ロミジュリの積極系!とも思うような場面。
そして彼らは、階下に彼女の両親がいるのにシーツをかぶって××××に及び、まあ結果、見つかっちゃうんだけど(見つかるだろ!もう、見てて、ハラハラしちゃったよ!!)。

その時、今回は上手く勃った彼に、二人顔を見合わせて笑い、これはイケると思ったのだが……「ごめんなさい、今度は私がダメみたい」痛がる彼女は、てことはやっぱり、彼女も経験ナシ??
いやそれがどれだけ重要かどうかは……いやでもやっぱり、それは重要だと思う!!
だって、外出するのはいつも母親の車で、健太郎とのデートも、送り迎えは理解ある彼女の母親によってだったんだもの。
そんな、まさに彼女こそが箱入り娘だった彼女が……いや、こだわりすぎかなあ??

てゆーか、大分トバしちゃったが。二人が恋をはぐくむシークエンス、まんますっ飛ばしちゃったし(爆)。
でもね、二人は、両親による代理見合いでの顔合わせが最初じゃないのよ。
その前に、ある雨の日、まさに健太郎が一目ぼれ状態で、奈穂子に傘を差し出してる。その時の声を奈穂子も覚えている。
几帳面な性格の健太郎は、いつも持ち歩いている折り畳み傘にも、きちんとプリントした名前シールを貼ってあって、それが偶然、代理見合いで身上書を交換し合った一人、父親は「一番ナシだな」と却下中の却下だった天雫(あまのしずく)健太郎だったんであった。

この、健太郎の几帳面、というより神経質、潔癖症ともいえる性質、職場のデスクの上の文房具の置き方や、使い方、翌日の準備……。
道具はすべて平行、そして90度に置き、場を離れる時にはきちんとキーボードにカバーを、しかも大きさに合わせて畳んで覆い、鉛筆は懐かしの手動鉛筆削りでとがらせ、翌日のために鉛筆立てに置く、といった具合。

昼食のために家に帰ると、まず真っ先に石鹸で丁寧に、爪の先まで洗う。……この冒頭の、彼の人となりを示すシークエンスで、これは相当な潔癖症、これを壊しての、つまりギャップの展開があるんだろうと予期、というか期待、してたんだけど、それはイマイチ感じられなくて残念だったかなあ。
この性格ゆえに女子が近づかないというんでもなく、彼が言うには、この外見とあがり症で喋れないからだ、というんだもの。

この潔癖な性格が彼女に猪突猛進で恋してしまった時に打ち破る壁として、明確に感じられなかったのは、なんとも惜しい。それは、多分、あったとは思うんだけど。
奈穂子の母親の肝いりで健太郎が選ばれて、本人プラス両親の初顔合わせで、彼女の父親からくそみそに言われて帰ってきた場面、部屋に入った健太郎は、荒れに荒れて、部屋中をひっくり返して、暴れまわった。

でもこの初顔合わせこそが、健太郎の最初の、そして一番の見せ場であり、奈穂子や彼女の母親、そして健太郎の両親も、そしてそして何より、観客の心をつかんだんであった。
娘を守れる男を探している父親は、一つ一つ具体的に例を挙げて、健太郎を罵倒する。それに激昂するのは彼の両親、特に母親の方はもう怒って怒って帰ろうとする。

でも、健太郎は冷静に、その相手を論破してみせるんである。彼女の父親が、娘を障害者として囲い込んでいること。彼女の気持ちよりも、同情がほしいのかと。
怒った父親が障害者と接した経験があるのかと吠えると、健太郎はないです、と率直に言い、そして自分のことを語り始める。
「欠点なら、山ほどあります」疎まれ続けた自分の人生。そう、彼女いない歴どころか、“友人もいない”これまでの人生が、切々と感じ取れるような。

危険では、あるんだよね。欠点と障害は違う、簡単に語るなと言われればそれまで。でもそうして壁を作り、差別とは言われたくないから区別という名の線引きをするのが、日本という国の社会、なんである。
健太郎が言うように、健常者という線引きのこちら側に位置づけされてしまうと、障害者と位置づけられるあちら側と接点を持つのがビックリするほど難しい。街中で障害者と出会うことが少ないほどに、隔離される。それが、日本という国の、社会。

本作が、障害を純愛のファンタジーに貶めていると言われかねない危険性を持ちながらも、捨てきれない魅力を持っているのは、その境界線を主人公である健太郎が、まず最初に踏み込んだ発言を、しかも明確にしているから。

健常者から障害者への線引きは、あくまで医学的なことに過ぎない。健太郎の言う“山ほどある欠点”からゆるやかに積み重ねられる軽度→重度の障害。
それは認められることさえ困難な知的、精神障害も含め、まさに、“山ほど”あってさ、どこかで線引きされてしまうことで、安堵するある一方がいて、苦しめられるある一方がいる。

それはどちらかが過半数を超えているかどうかもあやしい。健太郎の発言は、甘いと言われればそれまでだけど、でもそういうことだよね、という視点がなければ、変わらないと思う。
それが本作の、大きな意味合いだと思うんだよなあ。

そしてそれは、まさにこんな風に、身内からは得られないという指摘でもある。
奈穂子の父親は、もちろん娘を愛しているし、彼女の先行きを思うからこそ、最善の男を、と代理見合いに足を運んでいる訳でさ。
でも先述したように、やっぱり偏見もあるし、何より、“娘にとって父親が判ずる最善の男”だからダメなのよね。“娘が思う、最上の男”でなければ!!

本作は最終結果にまでは、いかない。彼らの純愛が嵐のように行き来し、健太郎なんて二度も死にそうな目にあって、ヒヤヒヤさせるのね。
本当、死んじゃうのかと、思った!二度とも、思った!!だって、一度目の、こっそり付き合いを重ねていたことが彼女の父親にバレた時、家族ケンカと化したところに車が突っ込んできて、奈穂子を助けるために健太郎がはねられる。頭から血が出てるんだもの!

んでもって、健太郎の母親が、愛する息子をこんな目に合わせて、と奈穂子とその両親を突っぱねる。「お引き取りください。聞こえないの?あなた、耳まで悪いの?」
う、うう、健太郎の母親が、こんなヒドいこと言うの、この場面だけだけど、だけど、それにしても、ヒドイ、ヒドイー!!
結局健太郎はアッサリ退院したから、なあんだ、重篤なのかもと思ったのに、とホッとする。
で、この母親、父親から「お前が子離れできていないんだ!」と怒鳴られて、子供のような半べそ顔を見せるのね。森山良子が実にその辺、上手いんだよなあ。

で、どうやらここで、健太郎側の両親は腹をくくったらしく、二度目の、死んだんじゃねーかとヒヤリとした場面の後には、夫婦二人してノンキにテレビゲームにいそしんでいる。
そして、ロミジュリのバルコニーから突き落とされた健太郎は、またしても全身包帯だらけになりながら、今度は、全然、落ち込まずに、前向きりんりん、奈穂子に点字のラブレターをしたためているのだ!

この“オチ”はグッときたなあ。声と握った手の感触から、もっと知りたいと、セックスしたいと願った二人は、そのチャンスを二回とも叶えられなかった。

この純愛ストーリーで、初々しい二人で、割と突っ込んだそんな場面が描かれたことにドキドキし、でもそれが最後まで果たされないことにハラハラし、やっぱ純愛かぁと思った気持ちを、一方で裏切り、そして完全に叶えてくれたのが、嬉しい。
障害者と接したことがないことを、その一点でとにかく認められなかった健太郎が、ぐるぐる回って、もう、メッチャ大変な思いをして、その意味でのゼロスタートに立ったのだ。

彼女の父親に認められるために昇進試験を受けるよりも、会えない彼女と気持ちをつなげるために点字を勉強し、やり取りすることの方が、何倍も、何十倍も、何百倍も大事で素敵!こういうことなのだよね、こういうこと。
恋という最大に盛り上がる感情は、自然に答えを教えてくれる。人間同士がどう関わり合えばいいのかを。

会えない彼女にガマン限界、いつも無言で生真面目な健太郎が、職場で突然絶叫、震える声で上司に「どうしても大事な用事が出来た」と、今まで、12年間、無遅刻無欠勤だったけれど、とわざわざ前置きするあたりがアレだけれど、でも、割と、素直に感動したなあ。
ヤリマン同僚として登場、この純愛モノを引っ掻き回すのかとちょっと心配だった穂のかちゃんが、意外にいいコ、この場面でもガンバレガッツポーズを示して背中を押してくれるきっぷのいい女子だったのが良かったなあ!

健太郎君の愛するペットがカエルで、彼の職場のアイテムもカエルで揃えられているのが、カエル苦手な私としてはなかなか苦しかった(爆)。
ロミジュリクライマックスで発揮されるのが、彼のカエルの鳴き声(しかも子ガエル含む!)で、めっちゃチャーミングだから、これは否定も出来ず……。

うう、でもこのカエル君、後姿はちょっと、可愛かった。耳(じゃないな、目か?)の三角シルエットからつながる哀愁の背中がなんとも。うー、でもちょっと、どうしようって感じで(爆)。
水槽のふたが微妙に開いてて、そこに向かってまったりとよじ登るぺったり感に、これが超絶重要な場面だったらどうしようと本気で焦った(爆)。彼?が逃げ出して、皆で捜索するとかなんとか……。
これは“よじ登る”ってことと、開いてるところから出る、この世界からの脱出、彼女との関係のカラを破るとかという含みを示していたのかな。ああ、もう、カエルはいろいろトラウマがあるんだよー!!

健太郎がロミジュリバルコニー転落、その場面で、それまでもよくよく聞こえてきた観客のオッチャンの笑い声がながーく響いて、なんか気に障っちゃったよ。これで彼がホントに死んでたらどうするんだよ!!とか思っちゃって……。
つまり私はまだまだ尻が青いね。死んでるわけじゃないじゃんと、オッチャンは思ったのか……。

うう、でもでもさー、私昔、あったのよ。「七小福」だったと思うけど(ちょっと自信ない)、ナツメを口いっぱいに頬張った少年の様子に思わず笑っちゃったら、その直後、彼は自殺した。
凍り付いたよ……つまり彼は、死ぬ前に、好物のナツメを詰め込めるだけ詰め込んだんだって、後で判って、笑ってしまった自分の首こそ、絞めたいと思った。
あれ以来、きわどい場面では、笑えるのかと思っても、すんごく考えてしまう……。

そもそものこの設定、親同士の代理見合いって、なんか昔々の、周りが縁談を持ち込んでくる日本伝統の風習が変化したものって感じだよね。だから、それほど日本人としては違和感がないのかもしれない。
彼も彼女もそれなりに両親に反発する場面はあるけれど、基本的には両親を大事に思ってるし、愛してるし、傷つけたくないと思ってる。

それを優先して自分の気持ちを抑え込んじゃうのかもとヒヤヒヤしたし、そういう事例は時代小説でもよく読んでて、つまり時代的にはそんなことはいくらもあったんだろうと思い……。
この物語は、遅れているように見えながら、実は一歩踏み込んでいるのかな。時代物から抜け出せない男の子、女の子は、想像するより沢山いてるのかもしれない。★★★★☆


はじまりのみち
2013年 95分 日本 カラー
監督:原恵一 脚本:原恵一
撮影:池内義浩 音楽:富貴晴美
出演:加瀬亮 田中裕子 濱田岳 ユースケ・サンタマリア 斉木しげる 光石研 濱田マリ 山下リオ 藤村聖子 松岡茉優 相楽樹 大杉漣 宮アあおい

2013/6/2/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
途中からなんとなくそんな予感はしてきたが、えーっ、本当にそうなの、このエピソードだけで終わり??
……これじゃいいも悪いも言いようがないよ。材料がなさすぎる。なぜ……。

原監督が木下恵介フリークだというのは知らなかったし、それでこそお声がかかったらしいというのは、実写映画進出としてこんな幸福なこともないとは思うけど、大ファンだからこそのこのストイックなんだろうか。
終戦直前、疎開先に脳溢血で半身不随の母をリヤカーに乗せて大切に運んでいくワンエピソードのみ。確かに感動的だけれど、ここからは、この母親が彼に盲目的な愛情を注いだなんてことはピンとこないし……。

このタイトル通り、一度は戦争ゆえに表現の自由を絶たれた彼が、この出来事をきっかけにたちなおり、真の“はじまりのみち”となったということだろうけれど、正直正直、ストイックに過ぎる。
ていうか、半分ぐらいは木下作品の断片的紹介で埋められている印象で……。
そんなにはなかったのかもしれないけど、印象としてはそんな風に感じるほど、ワンエピソードがワンエピソード過ぎて、で、それが過ぎるともうだーっと次々と、代表作の紹介フィルムでしょ。

年配の人なら感涙するんだろうか……。いや、私だって少ないながらも木下作品を観てその面白さに打たれた、イチファンではあるさ。
でもこのやり方が、木下監督へのオマージュとか、木下作品に若い世代を誘うきっかけになるとは思えない。
確かに木下恵介監督は、同時代の黒澤明と比べて世界的評価においては知られていないのだろうと思う。でもそれはもちろん才能の差ではない。むしろ、幅広いジャンルのどれにもハズレのない木下監督の方が、映画を作る才能という点においては優れているのかもしれないと思う。

ただ、だからこそ、一見して、あ、これは木下監督だな、と判るような個性があるタイプではなくて、その意味で黒澤監督やあるいは小津安二郎の方が世界に認知されているんじゃないかとも思う。
もっと言ってしまえば、黒澤のいた東宝は今も昔も世界に映画を発信する気合充分だし、小津や成瀬はパッと見ただけで判るような日本的特異性で目をつけられるような感がある。

でも木下作品は……。なんかさ、彼が骨をうずめた松竹は、今も昔もその中に囲い込んでしまう印象があるんだよな。
いや別に、日本の映画なんだから日本の観客に向けてていいんだけど、彼がそのクオリティに比して、同期の黒澤やら他の監督さんと比べて外からの認知度が少ないのは……そして世界の評価にヨワい日本がそれを逆輸入する形で木下監督の認知度が低いままここまできているのは……そういう松竹の体質のゆえのように思うんだよなあ。

いやいや知りもしないのに、単に推測だけでこんなとこでぐだぐだ言っても仕方ないけど(爆)。
でもこの、木下監督生誕百年記念だという作品を、アニメでキャリアはあっても実写は初挑戦、いわばいいように使える監督に撮らせている感が、何となく、あったんだよなあ……。
この構成はホントに原監督の意向なの?最初から、こういう作りにしてくれと、ふんだんに木下作品のオマージュ映像を入れてくれということだったんではないの?
こういう記念作品なのにさあ、オフィシャルサイトのプロダクションノートんとこが、いまだにCOMING SOONなのにもガッカリしたよ。もう公開中なのに。全然やる気ないじゃん、と……。
いや、そういう情報は普段入れないけど、この構成になったのはなんでとか、判るかなと思ったからさ……。

原監督がさ実写撮るって知って、本当に嬉しかったんだもの。しかもこの題材でしょ、ヤッター!!と思ったよ。
クレしんの「オトナ帝国」を観た時のことは、忘れられない。子供たちを連れてきていた親御さん、あるいは祖父母さんたちもきっといただろう、上映後、拍手が沸き起こったあの時のこと、忘れられない。
号泣し、嗚咽をこらえながら走って帰って、パソコン開いて一気に感想を書きなぐったなんて、後にも先にもあの時が初めてだった。

それを思うと、その後はずっと、「オトナ帝国」を超える原作品を、とついつい思ってしまっていた部分はあったかもしれない。それが何となくモヤモヤしたまま来た、今回の実写進出だった。
メッチャ嬉しかったし、素敵なキャスティングで、……これをね、このエピソードそのままの尺で、中篇映画とか、そんな感じで作られていたら、また違ったかもしれないとは思った、けれども、なんとも釈然としない気分は残った、のね。

そう、中篇映画として、本当に彼の木下監督への愛だけを感じて作られたものだったら、違ったかもしれない。
本作が、露骨に松竹の息がかかりすぎていると思うのは考えすぎ?それが、先述したような、世界に売り出せないのに、内側に示すやり方もなんかこせこせしているように感じるのも……?

このエピソードは確かに素敵だと思う。絞られたキャストで、固く締まった、純粋な鉱石のような美しさがある。
現在の時間軸では、脳溢血の後遺症のために上手く言葉も喋れない母親を演じる田中裕子を、息子の木下恵介=加瀬亮、そして彼のお兄ちゃん=ユースケ・サンタマリアが慈しみ、このリヤカーの旅を黙々と進む。

この長距離のとんでもない旅を言い出したのは木下恵介=正吉=加瀬亮で、そのとんでもない提案に父親をはじめ、ムチャだと反対するんだけど、彼は頑固に聞き入れない。その頑固さこそが木下正吉=木下恵介の強さだということを、しずしずと示す。
荷物を運ぶために雇った便利屋は何度も音を上げるけれど、彼の頑張りについていかざるを得ず、お兄ちゃんも、充分彼だって我慢強いと思うけど、雨の峠で無言で止まっちゃって、後ろを押していた弟に代わってもらう。
正吉は一見して、この便利屋さんから「映画館勤めの(と誤解されたのだ)青瓢箪」と陰口叩かれるんだけど、その無言の頑張りで、口の減らない便利屋さんからも一目置かれることになるのだ。

ワンエピソードだから、全体から見れば物足りなさは感じつつも、やぱり気合は入ってて、だからこそここだけで見たかったな、とも思う訳。
この調子のいい便利屋さんは若き怪優、濱田岳。散々ブータレてたくせに、宿泊先の宿屋の若い姉妹に目じりを下げて、尻を追っかけまくる可笑しさ。
しかも彼が、正吉の母親以上に、彼の背中を押したとも言えるのだ。「映画館に勤めていたんだったら、「陸軍」は見たか?」それは正吉=木下恵介が“最後”に撮った作品。
戦意高揚映画として作られたのに、ラストの、母親が戦地に行く息子の行進を見送るシーンが女々しいと、お国のために死んで来いという態度じゃないと、戦意高揚にはならないとイチャモンつけられて、次回作の企画がボツになり、彼は松竹に辞表をたたきつけて飛び出したんであった。

この便利屋さん、そのラストシーンのことを口にする。ここが長々とした木下映画オマージュの始まりである。
でも確かに、ここは必要だったとは思うけど……。木下恵介監督が戦意高揚映画を作っていたことは、知ってたような知らなかったような……でもその作ってた作品が、こんな、少なくともラストシーンだけでも、こんな、エモーショナルとは。そりゃ、目ぇつけられる、かみつかれる、わなあ!

こんなに、ラストシーンに尺さいてると思わなかったの。行進のラッパの音に矢も楯もたまらず飛び出し、行進の中に息子を探して群衆をかき分け、走り、……そのスピード感と焦燥感とがたまらないの!
えーっ……この時田中絹代って、そんな大きな息子のいるような歳だっけ、と思ったら、確かにそうで、改めて田中絹代って、凄い時代を駆け抜けた女優(そして監督!)だったんだなあ、と思う。

便利屋さんがこの田中絹代に「いやあ、泣いたなあ」というのはホント、判る。特に、当時、明日にも赤紙が来るかもしれないという彼らにとっては、そうだろう。
正吉は既に戦地を経験していて、だからこそのこのシーンだった。便利屋さんに、自身がその監督だとは伏せて、そのことを語った。
あんな映画がまた観たいよ、と言われて、更に正吉は涙を流して、便利屋さんを驚かせる。そんなに俺、真に迫ってた?あんた、本当、変わってるね、と。

でも濱田岳の演じる便利屋さんは、このシーンの前でも、戦争が終わったら食べたいのはカレーライス、そうそう、白魚のかき揚げもいいね、まずビールをこうキューっと飲んでさ……というそのパントマイムさながらの再現が、特に正吉のお兄ちゃん=ユースケ・サンタマリアののどをゴクリと鳴らせちゃう訳!
思えばさ、あのユースケさんさえシリアスに徹しさせて、濱田君だけがコメディリリーフで、いわばやりたい放題(爆)、もうけ役にもほどがないっていうか(爆爆)。面白かったけどさあ。

それでいうなら、双方大好きな役者さん、主人公である加瀬亮、そしてその母親の田中裕子、その二人こそが、だから、えーっ、この程度で終わっちゃうの、っていう……。
長い道のりを歩いて歩いて、へとへとになって宿場町について、病人連れだから方々に断られて、やっと一軒の宿屋に、しかも快く受け入れられる。

彼ら宿屋の人たちも魅入られてしまった、正吉が雨の泥水に汚れた母親の顔を絞った手拭いで丁寧にふき取り、そればかりでなく、乱れた髪をたもとから櫛を取り出して丁寧に整える、その様。
その場面だけでも、この映画に足を運んだ甲斐があったと思えるような、なんか、なんて言ったらいいのだろう、神々しいような、心ふるえる聖なる場面だった。
宿屋の主人夫婦としてチョイ出演の光石研&濱田マリ夫婦がその様子に目を奪われ、心を突かれる、その一瞬の表情にも心打たれ、それだけで、このシーンに更なる意味と価値が確実にされ、やあっぱ、役者さんって、すげーなーと思う。

病に倒れて、こんな風に運ばれてきている母親だけれど、決して誇りを失ってなかったし、だからといって傲慢とか高慢とかじゃなくて。
息子に顔をふいてもらって、髪を整えてもらっている母親=田中裕子の姿は、……なんていうのかな、ああ、きっと、そうだ、この息子を誇りに思ってるから、だから恥じることも何もない、きっとそういうことなんだと、思う。

と、こう考えてくると、確かにこのストイックなワンエピソードにとどめたのは意味があったのかもしれない、正解だったのかもしれない。けれども……。
このワンエピソードにとどめているせいもあってか、感動要素を凝縮しているからさ、加瀬亮はやたらに泣く訳よ。
で、彼、本気泣きだからだと思うけど、涙より鼻水の方が出るタイプで(爆)。めっちゃ、気になっちゃう。ああ、鼻水出てる出てる、とか思って。うぅ、私、サイアク。

それでもね、加瀬氏は、凄くイイんだよね。木下監督の外見とか知らなかったけど、似てる……訳でもないけど、やっぱここは加瀬氏の役者としての寄り添い方かなあ、ああ、ここに木下恵介、というか、この場合は、やはり、木下正吉が生きている、という感じがする。
だからね、だから、なんかなんかなんか……こんなに不満に思ってるのって、おかしい?私がバカだから一人でガーガー言ってる??
でも、映画って、いつだって、何もない、サラの状態で、そう、例えば、今日初めて映画を観る中学生とかにだって、訴える、これを見て、木下作品を観たいと、思わせなきゃ意味ない訳じゃない?
それが出来たのか、ラストにただただ流される紹介映像垂れ流しで、そう思わせられるのか。
あるいは、これを、日本じゃなくて、海外に出した場合だったら余計だと思う。なんかそんなことを思うと、先述したけど、やっぱり松竹っぽい気がして……さあ。

ついでに言うと、ナレーションの宮アあおい嬢。実際の出演は正吉がふと目にした、出征する兵士を見送りに行く途中の幼い生徒たちと年若い女先生。正吉が映画のカットを見るように、右目に丸めた手を当てて、遠くの彼女を眺める。ふと視線が合う。
……映画好きには抒情的ないいシーンだし、木下監督の代表作の一つ、二十四の瞳をほうふつとさせるシーンでもあり、そういう思惑は当然、あるんだろうとは思うが……。

正直、あおいちゃんにはちょっと食傷気味で(爆)。ゴメン、でも、だって、こういう、毒にも薬にもならない、でもなんかもうけ役的な、ネームバリューがあってこそ出来る登場の仕方って、あんまり好きじゃないし。彼女のナレーションって、他でも聞いた覚えあるけど、正直そんな心地いい声でもないし(爆)、言ってしまえばこの年になっても妙に少女っぽい声で居心地悪いというか(爆爆)。
なんかさあ、いかにもネームバリューで呼ばれました、って感じで、印象良くなかったなあ……。彼女がばっつりこの作品に、身も心もぶつけて関わっているんならいいけど、……とにかく、色々、すっきりしないばかりで……。★☆☆☆☆☆


ばしゃ馬さんとビッグマウス
2013年 119分 日本 カラー
監督:吉田恵輔 脚本:吉田恵輔 仁志原了
撮影:志田貴之 音楽:かみむら周平
出演:麻生久美子 安田章大 岡田義徳 山田真歩 清水優 秋野暢子 松金よね子 井上順

2013/11/19/火 劇場(丸の内TOEIA)
毎回抜群のオリジナルストーリーを届けてくれる吉田監督は実に頼もしく、しかしそろそろザ・商業映画に呼ばれたりするのかな、などと勝手に寂しく思ったりする。
今回は何か、監督自身が分身の、つまりひとつの集大成のように思ったから、余計そんなことを考えたのかもしれない。
職業監督として大成しても、オリジナルは作り続けてほしい!!だってザ・監督になった途端に、オリジナルを手放す人って結構いるんだもの……。

ま、それはともかく。本作が監督自身を投影させているというのは、へえーっ、と思った。
脚本家と映画監督という違いはあれど、脚本を書く、という点では同じだからか、とも思ったが、……麻生久美子自身、監督から書けないエピソードの数々を伝授されたと言っていたし……、でも、やっぱりちょっと、違うよね。脚本家、だけでとどまると、それは誰か他人に採用されなければその先にいけないんだもの。

劇中ずっと思っていたのは、だったら自分で映画を作っちゃえばいいのに、と。ていうか、脚本やって監督する人たちって、そういうことだと思うからさ。
監督自身の投影という点に関しては、映画監督としての夢が10年間なかなか叶わなかった、という部分であり、書いても書いても落選する脚本、という要素とはやっぱりちょっと、違うと思う。

そりゃね、自分で作ればいいじゃん、なんてカンタンではないことぐらい、判ってる。
でもそうやって作られれば途端に“映画作品”になって、インディーズでも何でも、何とか世に出てしまったりする。それが時に、見るにたえない愚作だとしても(爆。いや、人の好みや価値観は千差万別、そんなことを言っちゃいけないんだけどね!!)。
そこをぱしっと切って、他人に評価されなければ夢として叶わない、脚本家、というところに絞ったのは、ちょっとした意味を感じちゃったんだよなあ。

私が、映画、ということに限って考えちゃうから、作ればいいじゃんなどとテキトーなことを言う訳だけど、もちろんシナリオというだけなら映画もあればドラマもあり、ラジオもあれば舞台もある訳で。
シナリオに特化した専門家を目指すなら、というかどんな職業も一応建前としては、誰か他人に認められて、合格のハンを押されなければ、プロになれない。
……と考えると、“作ればいいじゃん”な映画監督は、だからこそピンからキリまでいるのかしらん、などと更に失礼なことを思ったりする(爆爆)。

でもそう、いつでも人間は、他人の評価によってでしか、上に引き上げられないんだよね。どんなに成り上がり人生を標榜している人だって、多かれ少なかれ、そう。
そしてそれがエンタテインメントという場となると、才能だの天才だの凡人だのという、それこそ凡人には判らない感覚の部分で引き上げられたり、突き落とされたり。

34歳になっても脚本家の夢をあきらめられない“ばしゃ馬さん”馬淵みち代は、コンクールに落選続き。大賞を獲ったのが22歳だと知って激怒しまくる。
その作品自体もクサしまくるんだけど、激怒しているのは、22歳という部分が大きいような気がする。

後にシナリオスクールで出会う“ビックマウス”天童義美もまた、その大賞作品をみち代と同じようにクサしまくるんだけど、その時彼女は素直に彼に賛同できない、のね。
素直に、などと思うのは後々になってからで、しばらくは観客もまた、書きもしないくせにデカい口ばかり叩く、まさにビックマウスなこの天童君にイラつくばかりなんだけど。

考えてみれば最初にみち代がクサしていたおんなじことを天童君も同じようにクサしている訳で。
だったらなぜ彼らがこの22歳に負けるのかと言ったら、彼らが言うように、審査員の頭がカタいだけではなく、言葉では説明しようのない、感性、というものがあるのだろうと思う。
そしてそれはきっと……シナリオスクールに10年通っても得られないものなのだ。

本作のテーマが、夢を叶えられる人がいる一方で、叶えられない人の方がごまんといるんだという、判っちゃいるけど今まで目を背けてきた点にある訳で。
夢は見続けていれば絶対に叶う、なんていう言葉を、いまだにスターさんは口にするけれど、あんたは叶ったから言えるだけでしょ、と残り何億人が思う訳であり。
努力をすれば叶うと言われると更に落ち込む。つまりあんたは叶えられなかった人たち以上に努力したから叶ったと言いたいのか、と。
その努力の度合いはどう測るのか、と。叶えられないうちは努力していることにならないのか、と。

……とまあ、なんかベタに言っちゃったけど、でもそういうことだよね。いまだに映画に夢を託すとかいう傾向にあるもんだから、こんな、誰もが思っていることを、まっすぐに題材にするなんて、出会えなかった。
結果的には吉田監督は才能を開花させた訳だし、ある意味この、夢を叶えられた側からの物言いであると言えなくもない。
けれど、そんな風には……うん、感じなかったなあ。夢を叶えられない人たちに、その懸命さに対する愛を感じた。

ビックマウス、天童君が馬淵さんに言うシンラツな言葉は、結構鋭いトコをついていたりもするんだよね。馬淵さん自身がそれを認める場面もあるし。
つまり馬淵さんは芽の出ないこの10年間、自分の感性で勝負出来ないなら“あえて”シナリオスクールに通って、王道や判りやすさも学んで取り入れ、そしてスクールに通うのは、“監督やプロデューサーと会える”コネ作りであったりして。

もう彼女は充分、自分自身に才能がないのは判ってる。後に彼女自身が言うように、諦めるタイミングや方法が判らないだけ。
一生懸命、がむしゃらに頑張る“才能”だけは身についているもんだから、それでここまで突っ走ってきてしまったのだ。

シナリオスクールに一緒に巻き込んだ友人の方が才能が開花してしまう、というのは皮肉だが、それこそアイドルのオーディションじゃないけど、こういう話はよく聞くんである。
友人の名前はマツモトキヨコ。天童君からは即座にマツキヨ、と呼ばれる。天童君だって、テンドウヨシミじゃんかと(笑)。
こういうちょこっとしたところで笑わせるのこそ、“シナリオの才能”なんだろうなあ。吉田監督のオリジナル脚本は、本当に面白いんだもの。

しかし、天童君の方は、本当のところはどうなんだろう……本当の、才能という部分では。
子供の頃の、学芸会の台本に映画パクりまくりで書いて大ウケしたという動機は、でも馬淵さんの、あの世界に入りたいと思った、という動機とさして変わらぬ、子供の心のままの純粋さである。
大きなことばかり言って全っ然書いてこない天童君を、馬淵さんは罵倒する。

天童君、近所の旅館にカンヅメしてもエロビデオばっかり見て結局書けず、パソコンの画面には、テーマは神の領域だとか、大言壮語だけで止まってて、思わず笑ってしまう。
でも結果的には天童君、馬淵さんを思わず驚かすほどのシナリオを書いてくるんだし、実際才能はあるのかもしれない……でも二人仲良くコンクールに落選しちゃうんだけどさ。

馬淵さんを演じているのは麻生久美子。まあこのくらいのキャラはさらりと朝飯前だが、「本当は美人なのに。メイクとか服とかもうちょっと考えればいいのに」と周囲から言われるとかゆーのは、元から平均以下の女子たちにとっては若干イラッとする気持ちがないでもないが、そこは映画のヒロインだから仕方ないか……。

だって、年下の男の子に一目ぼれされて「シナリオの参考に聞きたいんだけど……俺が付き合いたいって言ったらどうする??」なんてさー!ただ一生懸命に夢に向かってがむしゃらなだけの女子に、夢より奇跡の出来事だよ!!……とそんなところで怒っちゃいけない(爆)。
まあ、年下……いくらビックマウスで生意気でも年下の男の子は可愛いし(爆)。

最近のアイドル事情には疎いので、関ジャニの名前は知っていても、個々のメンバーは、それこそ映画に出てくれている錦戸君や横山君ぐらいしか判らない(爆)。
今回の安田章大君は、私にとって全くのノーマーク男子。近年はホント、ジャニーズもただイケメンだけではなくなってきたのは知っていたが(爆)、それにしても面白いキャスティング。吉田監督作品は、思い返せば最初から、いつでも面白いキャスティングだったもんなあ。
最終的に、彼もまた挫折を味わってビックマウスを閉じる訳だけど、そこまでの言動には、何かを評価する才能としては鋭いものを感じるし、かれが馬淵さんを尊敬しつつもこれまで通り自分の感性を信じて、妥協せずに書いていけば、いつか夢は叶う、んだろうか。そういう含みなんだろうか……。

馬淵さんに関しては、凄く重要なシークエンスがあるのね。シナリオスクールに講義に来ていた映画監督さんに話したシナリオの企画、いいじゃないと持ち上げられて、書いたら読ませてよ、と言われて、もう馬淵さんは舞い上がった。
誰がどう贔屓目に見たって、酒の席のリップサービスなのに。大体、この酒の席だって、馬淵さんが意を決して誘ったのに、この監督さんが気軽に周囲に声をかけて、スクール生全員ぞろぞろついてきちゃったのに。
結果、この場にいたプロデューサーから声をかけられた友人のマツキヨが、映画の話をもらいかけたりしたのに。

そう、もらいかけた。結果的にマツキヨちゃんも、いろんな注文をさばいて書いたボーイズラブの脚本、その映画の製作は資金が集まらないまま頓挫した。
彼女はその悔しさをバネに、次のコンクールで見事大賞を獲ったのだった。そのコンクールには馬淵さんも天童君も応募してたけど、双方落選。これが最後と決めていた馬淵さんは、夢をあきらめて実家に帰ることになる。

あら、なんか流れで“すごく大事なシークエンス”を言い落してしまった。結局はボツになってしまったシナリオの企画は、福祉の介護士のお話だった。ちゃんと取材をして書いてみなよ、と監督から言われた馬淵さんはもう舞い上がる気持ちで、取材の場に降り立った。
その時点で観客の側にはイヤな予感がひた走る。しかも、その取材に協力してくれたのが、元カレだっていうんだから、なおさらである。
今もなお脚本家の夢を追いかけている馬淵さんを彼はにこやかに応援し、かつて役者を目指していた彼の、その才能を惜しむ彼女に、今はもう、未練はない。この仕事にやりがいを持ってるから、という。

彼が言うように、本当に大変な仕事。それは馬淵さんだって判っていた筈だし、ただ話し相手になるだけ、と放り出された現場で、立ちすくむばかりだった。
でも、やっぱり彼女は判ってなかったのだ……「やっぱり松尾君は凄いよ」とその仕事ぶりをたたえる一方で、「でももう、役者に未練はないの?私、松尾君の芝居、凄く好きだったのに……」とか言いやがる。
後に、ひとくさりもふたくさりもあった後で松尾君が、本当は未練たっぷりだと、今からでも可能性があるんじゃないかとか思うことがあると、告白する。
でもだからこその彼の決意は、既にもうここにいる時点から固くって、馬淵さんがここまで出来なかった、諦めることの方が大変、ということを、彼は乗り越えているんだよね……。

馬淵さんのようにシナリオライターとか、まあ判りやすくアイドルとか歌手とか役者とか、それこそ映画監督とか。エンタテインメントというのは夢に見やすい。
最初から、あまり知られてない職業……知られてないから例に挙げるのも難しいけど、まあ、あるじゃない?そういうの……ていうのを、夢に見るのは難しい。

馬淵さんが、取材のために介護施設でボランティアをする。表面上は、彼が事前に忠告したように、大変さを“実感”出来ていると思う。
でもそれを本当に痛感するのは、徹夜で脚本を書き進めた寝不足の状態でボランティアしてて、居眠りしてしまって、トラブルに気づかなかったこと。
汚物をまき散らしてとりみだしているおばあちゃんを必死になだめている、元カレ含むスタッフたちに、彼女は何もできなかった。
その前までは、それこそ天童君から言われた台詞の受け売りのように「シナリオの参考にしたいから……」なあんて、やけぼっくいに火がつくかもなんて勢いで元カレに迫ったりしてたのに、こんなことになってしまった。

それよりなにより、元カレが放った言葉がシンラツ極まりなかった。馬淵さんが書いたシナリオを、……きっとこんなことがなければ、それなりに面白かったとか、良く書けてたとか言って、頑張ってね、ぐらいに収めていたんだと思う。
でも、本音が出ちゃったんだ。きれいごとばかりだと。現実はこれだと。お前は上っ面しか見てない、と。

このシナリオを持ち込んだ監督さんにも、介護士としてのリアルが描けてない、ただの恋愛物語、とハッキリと指摘されてた。
大体、暗いよね、と言われた馬淵さんが、だから恋愛の要素を押し出してみたんですけど……と弱々しくも反論する時点で、全てが露呈していた。
彼女は脚本家になりたいという夢のために、取材の結果をリアルに描き出すことよりも、脚本のセオリーを大事にしたのだと。
逆に言っちゃえば、そのセオリーがまず彼女の頭にあって、取材の経験は何一つ彼女の糧にはなってなかった、と。

キツい言い方だけど、元カレが怒ったのは、馬淵さんがシナリオ執筆のために寝不足で居眠りしていたことではなく、その本質の部分にあったから、なんだよね。
馬淵さんは彼に本当にすまなく思って、再三再度、謝罪に訪れる。最初の時はもう本当に落ち込んで、グエグエ泣き出しちゃって、もうそれは、自分の自己嫌悪、10年かかっても脚本家になれない自分への呪詛に近いものがあって。

その中で彼女が言う、「いつもこうやって松尾君に頼っちゃうよね。だからイヤになって別れたんだよね」というのはまあ……真実だろうし、それだけに見ててハラハラする。
そのハラハラが現実になって、泣きじゃくる馬淵さんについ同情心以上のムラムラが起きたのか、馬淵さんを抱きすくめ、キスし、押し倒し、おっぱいをもみ、シャツをたくし上げようとする段に至って、「(……ぐすぐす)いいの?また好きになっちゃうよ」。
この馬淵さんの台詞にまさに我に返った松尾君が、そろそろと(これがまた、傷つくのよ!!)身を離すのが、女としては、つ、辛い、ツラいよう!!

まあでもそれは、女が傷ついたら男に守ってもらえばいいや、なんていう価値観が、信じられないほどいまだに、結構横行していることに対する、鮮やかなリターンエースだったのかもしれない。
馬淵さんのがんばりや気持ちは凄く良く判るけど、同性としては結構、うーん……と思っちゃうのは、彼女が自分の弱いところを見ようとしてなくて、なのにそれが見えちゃった時には男にグエグエ泣いてすがっちゃうからかもしれない(爆)。
しかも、普段カッコとか気にしてないくせに実は美人とかいうのもさ(爆。まだ言うかっ)。

ちょっと面白かったのは、天童君のバックグラウンド。おっきな口ばっかり叩いてる彼に腹立たしくなった馬淵さんが、実はマザコンなんでしょ、とテキトーに言うと、彼は、母親はソープ嬢、今は使い物にならなくなって受付やってる、と言う。
思わずひるんだ馬淵さんに、ギャグやて、信じたん、と笑って彼女を怒らせるけど、実はそれが、本当だった、という……。
ほんのちょっとの出番だけど、一瞬にしてその経歴を観客に感じさせちゃうオカン=秋野暢子師匠は、さすがさすがの素晴らしさ。

で、天童君も、馬淵さんも、双方そんな、今まで語らなかった、見栄っ張りで強がりだから語れなかった自分自身をさらけ出した脚本を書き出す。
このシークエンスは、お互いがお互いの脚本を読み合い、指摘しあい、なんていうのをラブロマンスのようなカッティングで点描して、ないよなと思いながら胸ときめいちゃったんだけど、そりゃ、ないよな、だったんだよな……。

自分自身をさらけ出せば、上手くいくとか成功するとか、それもよく言われることだけど、ナイ!んだよね。結局はナイ!のだ。残酷だけど、結局は努力ではなく才能だし、傷つかないような言い方で言えば、運、なのだ……。
最初からそれは、明らかだった。たった22歳の若さで大賞を獲った子を馬淵さんも天童君もクサすけど、でもそれはやっぱり、才能か運か、あるいはどちらかが勝ったのだ。
この彼だか彼女だかが、その後成功していくかどうかになれば、才能か運かプラス、努力とかいうものも加味していくかもしれないけれど、でも、やっぱり見出される人は、何かを持っているのだ。

友人の大賞授賞式を見届けて、田舎に帰る馬淵さんに、彼女にホレてしまった天童君が、シナリオの参考にかこつけて、いつかビッグになって迎えに行く、的な発言に、アハハと笑って背を向けて歩き出す馬淵さん。
馬淵さんの決断以上に、天童君の、あまりにも確信が持てない、でも斬って捨てるには忍びない夢と愛の入り混じった言葉に、なんか……もう過ぎ去ってしまった年代の私はなんか……。

夢を持つことが大事とか、夢を叶えられたら素敵とか、なんかそういう押しつけの教育が、きっといまだになされててさ。
私なんかはさ、穏やかに、美味しいもの食べて、楽しい気分で生きていきたいとか、ホントに子供の頃からそう思ってたから、この夢プレッシャーには、それこそ子供の頃から苦しめられたクチだからさ(爆)。

加えて言えば、劇中、友人の結婚式で故郷に帰った馬淵さんが苦しめられるように、結婚願望がない、とかいうのも、本当にそう思ってても、“結婚適齢期”をしかも過ぎちゃった女がそう口に出した途端、勝手にイタく受け取られちゃうし。
女は、ツラいんだよう。こーゆーことがジャマして、素直に恋愛できない、なんて言っちゃったらそれこそ言い訳だと、ホラまた、セルフフォローしてるし(爆爆)。

見てる時はそれなりに楽しく見てたと思っていたのに、年なりの思いを吐露しちゃうようになるのは、それもまた、映画を観る醍醐味なのかなあ……だとしたらツラいけど(涙)。
でも、脚本と言うものが作用する場面は数々あれど、なんか私は、やっぱり、映画のそれとして、見てしまった。それが映画ファンとしての、私の人生だったし、頑張ってこれたと思うから、さ!! ★★★☆☆


ハナ 奇跡の46日間/Korea
2012年 127分 韓国 カラー
監督:ムン・ヒョンソン 脚本:ユ・ヨンア/コン・ソンフィ
撮影:イ・ドゥマン 音楽:キム・テソン
出演:ハ・ジウォン/ペ・ドゥナ/チェ・ユニョン/ハン・イェリ/イ・ジョンソク/パク・チョルミン/キム・ウンス

2013/5/7/火 劇場(オーディトリウム渋谷)
号泣。信じらんない、信じらんない。なんでこれがこんな小さな公開形態なの!たったひとつの劇場(と思っていたらムービーウォーカーに載ってないだけで、もうひとつ新しい劇場でもかかってた!なんじゃそりゃーっ!)かかる時間も少なく、そもそもあまりチェックしな劇場なんで、普通ならスルーしてたよ!
いや、そりゃペ・ドゥナは好きさ。彼女の登場はキム・ギドク監督と共に一時、私の韓国映画熱を一気にあげたビッグネームさ。でもそれこそギドク監督もそうなように、彼女もあまり映画界で名前を聞かなくなってしまった。
韓流ブームなどというものの線上にあるドラマや、映画さえも、どうも肌に合わず、しばらく韓国映画から遠ざかっていた。

本当は国で分けることなんてしたくない。まあそりゃ、普段は日本映画ばかし観てはいるけれど、ある作品を観たいと思う欲求は私の場合、そして多くの一般的映画ファンの場合単純にミーハーなもんである。
それがいつのまにか、ね。だからペ・ドゥナの名前を聞いたら即座に飛びつきそうなもんではあったが、そんなツマンナイジャンル意識が私の中にもちょいと芽生えちゃってたから、そう、たとえペ・ドゥナであっても足を運ばなかったかもしれない。
だってスポーツ根性の感動モノ自体、超文科系人間としてはちょっと腰が引けるんだもの……。

ここまでで大分前置きが長くなっちゃったけど(爆)そんな私の重い腰を上げさせたのは、何を隠そう、隠すつもりもないが、ウッチャン、内村光良氏なのであった。
某深夜番組の前トークで語ってたのよ。飛行機の中で見た本作に号泣したって。しかも「帰りも見て、また号泣してしまいました!」ヒロインの、ハ・ジウォン、ペ・ドゥナの二人が素晴らしいと。
思わず腰を浮かせてしまった。え!ペ・ドゥナ!と。これから公開だと聞いて、これは覚えておかなきゃいかんと思った、のは何か月前だったかなあ。まさかこんな小さな公開形態だなんて思いもしなかった……。

で、再び前置きが更に長くなっちゃったが(進まないなー)、とにかく号泣必至だと聞いて若干の腰の引け加減もあって(あ、どうやらまた前置きが続きそう……)、先述した、韓流という名の韓国映画から離れていたのは、もう思いっきり、泣かそう!って意識、ていうか、劇中の人物が、一緒に泣けとばかりにダーダーと泣いてるウザったさ、時にその泣かすための要素がゴリ押し過ぎて不自然ですらあること……等々があってなあんとなく遠ざかっていたんだよね。
実はね、本作に関しても中盤ぐらいまでは不安があった。まず冒頭にこれは、事実を元にしたフィクションだと提示があり、実話をもとにしてるんだ、と期待が高まる一方で、“それを元にしたフィクション”とわざわざ銘打っているのが何となく気にもなっていた。

そう、それこそ中盤ぐらいまでは、私がちょっと離れてしまった時期の、どっかコテコテのメロドラマで、この調子で泣かせにくるんなら、感情制御しててでも私ゃぜってー泣かねーぞ!と心に決めたぐらいだった。
でも後から思えばこのコテコテ、懐かしいような青春、メロドラマ調も計算だったんではと思わせちゃう。つまりは気に入った作品に関しては贔屓目の解釈しちゃうってことなんだけど。

懐かしいような青春、てのは、そりゃそうだ、この時代設定が1991年なのだから。
当時の日本のアイドルドラマを観るような、気恥しいような懐かしさ。ブリブリのファッションや、あっけらかんとした“男女交際”(こういう言葉自体、今使わないよなー)さえも。
でもそこで描かれているのは、歴史的重大な、というか、画期的な、というか、あの時から今を思えば、どうしてこう後退しているの、と思ってしまう、南北朝鮮の統一チームの実話なのだった。

これは卓球の話で、しかも世界選手権一回こっきりのお話。南北統一チームといえば、サッカーでもあったと思うが(……スミマセン、こういうの、興味を持っとかなきゃいけないと思うんだけど、どうもスポーツ苦手が先に立っちゃって……)、こんなドラマティックな素材を映画にしたのを見るのは初めて。
なんてもったいない!いや過去にもあったのかもしれないけど、無知ならゴメン(爆)。

ハ・ジウォン演じるジョンファの方が韓国側。ペ・ドゥナ演じるリ・プニは北朝鮮側。物語の冒頭は、二人がアジア大会の準決勝であいまみえるところから。
プニが負けジョンファは決勝に進むけれども、今も昔も厚い中国の壁に阻まれて、何度目かの銀メダルに沈む。

ペ・ドゥナは相変わらずかわゆく、あのかわゆいかわゆい、まばたきするたび音がしてそうな大きな瞳にホレボレとする。
あぁんなにかわゆいペ・ドゥナが北朝鮮のイメージを体現する冷ややかな女子選手だなんて、と思うが、だからこそ後半に行くに従ってあらゆる側面で崩れていく(崩れていくという言い方は適切じゃないかもしれんが……)のに萌えまくる。
正直、彼女ほど韓流というイメージから遠い役者もないと思うのだが、だからこそ絶妙、なのだよね。

だって、それに相対するもう一人のヒロイン、ハ・ジウォンの方は、スミマセン、そんな具合でちょっと知らないんですけど、そうした韓流イメージを上手いこと引きずって……じゃない、つなげているんだもの。
まあそれは、先述もしたように、ちょっと気恥ずかしい懐かしさの年代だからかもしれないんだけど。
1991年、90年代ではあるけれど、なんか80年代的懐かしさを引きずってる。
彼女の太めのまゆ毛や、ラフにはおって腕まくりするダンガリーシャツ、そして顔の両サイドを微妙にブローする感じ、あれが究極にいくと聖子ちゃんカットになる訳で。
まあ日本ではないんだからそんなことは関係ないんだろうけど、なんか、何とも懐かしいんだよなあ。

つまりそれだけ、韓国は豊かな文化水準を得て、時代を映す生活をしている訳である。ペ・ドゥナが仏頂面でも可愛いペ・ドゥナのまんまなのは、あの頃も今も、北朝鮮が変わっていないから。
北朝鮮訛りをマスターしたという彼女の喋りが、さぞかし当地のファンを萌えさせたに違いない。ああうらやましい。

でもね、正直ね、本当はどうなのか、彼らがそこまで、言ってしまえば洗脳レベルに意識を囲い込まれているのか、あるいはそうしていなければ身が危ないからなのかは、本作を見る限りでは判然としないところだし、知りたいところでもある。
そりゃまあ後半に至ってくればお互い打ち解け、なんたってもともとは同胞なんだから奥底まで理解しあい、別れは涙涙、知らぬ異国の人間であるこっちも号泣とあいなる訳だが、本当の、彼らの底の心はどうなのか。

自由と民主主義を手に入れ、高い文化水準を謳歌している韓国側からしてみれば、祖は同じくしても、私たち外野から感じるように、冷たく、何を考えているかわからない、指導者だけを崇め奉っている、と見えているのかもしれない、いや、そうだろう。
だからこその、南北統一チームの違和感と、亀裂である。それが氷解していくのが、人と人の心、そして、明示はしないまでも、同じ民族としての心、なのならば。

……まあ確かにそれで充分感動したんだけどさ、でも言ってみればこれはただ感動、で片づけられない問題を抱えているじゃない。
人と人が交流して、別れる辛さ、だけじゃないじゃない。それだけなら、会おうと思えば会えるし、手紙も電話も出来る。
でも出来ないから、そんなことも出来ないから、そう吐露してジョンファは泣きながらプニに抱きついたんじゃない。

……どうにも脱線してしまう。どこから始めればいいのか。まあとにかく、南北統一チーム、ね。
その中の女子団体で、強豪中国チームを破って悲願の優勝を成し遂げたところが最大のクライマックスとして描かれる本作。
てことは、総合団体とか、シングルス、ダブルス、色々なカテゴリがある中で、女子団体が快挙を成し遂げた。

その舞台は驚くべきことに、日本!試合はもちろん、その前の強化合宿から泊まり込むホテルはガチ感アリアリ!
絶対このホテルで、歓迎の垂れ幕とかもこんな感じだったんだろうと思わせる。
試合会場の幕張の、日本企業の広告の微妙なズラし加減とかさ、こりゃあ日本側の製作協力相当あるだろうと思ったら、それどころじゃなく、オフィシャルサイトを覗いてみると、そもそもこの南北統一チーム、あるいは卓球における国際交流に尽力した日本の卓球人の存在があった、らしい。
こんな人知らんかったし、劇中でも全然触れられないし、なんか、なんとも、もったいないなあ!

ちょっと話を戻すと、韓流チックな軽めのメロドラマな感じ、まあロマンティックコメディみたいな感じ、はね、特に韓国側の女の子、ジョンファのダブルスのパートナーであるヨンジュンが、北朝鮮側の男子選手、もう、それこそいかにもザ・北朝鮮、首領様に命捧げます!みたいな、まゆ毛まで一直線のギョンソプ君に一目ぼれしちゃって、押し押しで押しまくるところに顕著なのよね。
腰が引けた彼から「祖国に妻がいる」と言われショックでホテルのベッドにもぐりこんで泣き明かすシーンは、慰めるジョンファに八つ当たりする風体で顔をあげてみると、泣き顔と泣き声は舞台並みだけど、全然涙が出ていない(爆)。

うっわ、これはそれこそ80年代的聖子ちゃん泣きだよと思って、彼女の短絡さも含めて、これはあくまでロマコメ部分だと思いながらも引いちゃってたんだけれど、後から思えば、そう、後から思えば、これもまた見事な伏線……ではないかな、対照というべきか。とにかく決勝戦からこっち、ぼろぼろぼろぼろ泣きっぱなしなの!

そう、決勝戦、それも女子団体のみ。それまではやはり彼らの間には亀裂がある。
長年組んできたダブルスをいきなり南北チームにしろと言われても出来ないし、実力は申し分なくても国際経験がない北朝鮮側の女子選手はプレッシャーに負けて初戦を落としてしまったり。
そうそう、この女の子、スンボクがね、いいのよ。プニの、つまりペ・ドゥナの後輩役。
初めて国から出るといった趣、ガチガチに硬い様子は、ペ・ドゥナの表現する冷たさとは違うかたくなさで、韓国側のジョンファたちから見る“北朝鮮選手”のイメージに塗り込められている。
一重の細い目の顔立ちや、オン・ザまゆ毛のイケてないヘアスタイルもまたそれを加速する。もうやたら、同志、同志、だし。

でも実際は、とても素直で繊細で心優しい、いい子なの。南北の彼らが仲良くなる様子は、大ゲンカ、取っ組み合い、そのあと急速に、みたいな感じで正直ツナギに欠ける気もするんだけど(それも同胞感情なら判るのかなあ)、でも彼女の存在一発で、なんか色々つながっちゃうんだよね。
男子側におけるそうした存在のギョンソプに恋したヨンジュンが、スンボクと理屈も何もなくいつの間にやら仲良くなっているのが、おいおい、いつの間にやらだよ!と思うんだけど、なんか判っちゃう。

オシャレも何もかもにうといスンボクにバスの中で口紅塗ってあげたりする一瞬のシーンで、女の子の友情の愛しさを感じてキューンときちゃう。
ギョンソプとはかない恋をしながら、純朴スンボクと友情をかわすヨンジュン役のチェ・ユニョン嬢が判りやすいアイドル顔ではあるもののそれが判りやすく可愛い。
どっかアイドリング!!!の菊池亜美嬢のような、親しみやすい、したたかささえも憎めない可愛さを感じる。

でもホント、このスンボクが涙腺をまず掻き切ったよなあ……。北朝鮮顔などと思っていたから、あなどっていた(ゴメン、ってどこをどう謝っていいのやら……)。
緊張でプニとのダブルスの試合を落とした彼女は責任を感じて、実力のツートップ、プニとジョンファがペアを組んでほしいと言う。
思えば同じく、長くジョンファとペアを組んできたのがヨンジュンだったのだから、相方同士の思いを組んで二人が親しくなったのは、それこそ理由などいらなかったのかもしれない。

なんたってヒロイン同志だし、彼女たちが最後の涙を盛り上げるのは当然。なんたってあの強豪、中国に競り勝つ最高のクライマックスが用意されているんだし!
でも、後から思っても、やっぱりスンボクが良かった……。彼女のことは、覚えておかなくちゃ。やはり(やはり!)演技派として注目株みたいだし!

ああもう、いつになったら終わるのだろーか(爆)。で、ね。そう、最終的には中国ペアに競り勝って、南北統一女子チームは悲願の優勝を飾る。
ヒロイン二人の展開になってからは、プニの肝炎やら、ジョンファの病気のお父さんやら、まあなんつーか、このあたりが“事実を元にしたフィクション”なんかな、という気もしないでもなく、当然そうしたベタなフィクション的伏線(ホントのことだったらゴメン(汗))はラストの大号泣につながる訳なんだけどさ。

決勝の前のひと悶着は、ホントのことだったのかなあ。フランスチームのコーチになった韓国の女性指導者が、あくまで才能あるイチ選手としてのギョンソプに名刺を渡したことが、亡命の恐れありと警備員(という名の監視員)からトップにチクられて、準決勝に出られなくなっちゃったの。
それだけじゃなく、“友情の証”として仲良くなった韓国選手側から何気なしにプレゼントされたものまで、ザラザラと白日の下にさらされる。

……日本で暮らしていれば、はぁ?て考えられないことだし、それは同じく民主主義の道を歩んできた韓国もそうなんだけど、やはり彼らの中では引き裂かれたもう一方の同胞の現状はなんとなくやっぱり、あって、一方では理解し難いとからかったりしつつも、こういう場面ではやっぱり、さ。仲良くなったというのもあるけど……凄く、凄く……。

再び南北統一チームでとの思いを胸に、ヨンジュンは足をぐねりながら(てあたりが若干、ベタなのよねー)決勝進出。
出発の朝、雨の中、ジョンファから始まって選手、コーチみんなが座り込んで呼びかける。
韓国側のコーチはいわばコメディリリーフ、自分が総監督の筈だったのにと北朝鮮側の監督にゴネて、自分が酒に溺れるシーンは可愛らしく、男の友情がこれで単純に結ばれちゃうのが、彼のチャームであっけらかんと明示されちゃうのが凄いと思う。

もうさ、もうさ、もう、さ。試合のシーンになったら、理屈抜きじゃん。理屈抜きに泣いちゃうところ、あるじゃん。
でもその中でも、最大のクライマックスの最後の試合、ヒロイン二人のダブルスを差し置いて涙ダー!だったのは、やはりあのスンボクだったのだよ。
最後の二人のダブルスに引き渡すには、彼女がシングルスで勝つしかない。ヨンジュンの足ぐねりがここで効かされるのか、クソー!!
涙目で、負けてごめんねと言うヨンジュンに、謝らないでとスンボクは言い、それまでも何度も克服しようと頑張ってはくじけていたのに、ここでは、ここでは……。
ズルイ、ズルーイ!!この泣き顔でこぶし突き上げられたら泣くしかないじゃん、で、ここで水道管破裂したら、もう復旧不可能じゃん、クソー!!!

……正直、決勝戦てのは無条件に泣けるだろうし、あんな、それこそ「ピンポン」的にアニメチックなことしなくてもいいんじゃないかとも思ったの。
プニのサーブトスが再三スピンボールだって言われて審判と一触即発になったのはホントかもしれないけど、それまでの色々含めてフィクションかもなあと思って割り引いて見てしまったウラミはちょっと残ったりもした。
プニが隠してる肝炎のために体調崩しちゃうだけで、盛り上がりとしては充分じゃないの、なんてさ。

でも、実は号泣ポイントはここではなかったのだ。悲願の優勝、各国のアナウンス席で、ライバル国の中国や開催国の日本のみならず、となりあわせた西欧国のブースも巻き込んで盛り上がりと感動とユーモアを巧みに見せたこの試合シーンが、最大のクライマックスと思っていたのに、そうじゃなかった、のだ!!
祝勝会のためにべったりメイクしているヨンジュンを呆れ顔で見ているジョンファ、そこに、祝勝会の前に北朝鮮チームが急ぎ帰国してしまうという。慌てて駆けつける面々。
もうそこからは、いちいち言わずとも、言わずとも、でしょ!!まあ何気になんとなく先述もしたし、さ!

でもね、……正直、ヒロイン二人の、クライマックスもクライマックス、一度はクールに握手をかわすのみで別れたのに、報道陣が詰めかける中、バスに乗り込む直前のプニにドラマチックに抱き着いて号泣、走り出すバスの窓を開けさせてお父さんからもらった大事な指輪を手渡して、お互い涙、涙、なのは、どうなのと、思ったのは、こうして改めて思い返してから。
その時は、ウエッ、ウエッと声が出るぐらい号泣してた(爆)。非常―に気持ちよく。いやー、素直に泣くのって気持ちいいね。その時はそう思ってたから、こんなヒネクる感じで思い出すのはヤなんだけどさ、まあしょうがないじゃん(爆)。

でもそれは、やっぱり、同じ民族が、しかも同じ半島続きなのに分断されているという感覚が、それもずーっと、ずーーーーっとで、同じ民族の筈なのに気持ちが判らなくて、でもこうして出会ってみると、当然言葉も同じで、気持ちも通じ合えて、っていう感覚ってさ、想像の範囲外じゃない、完全に。
だから、気持ちよく泣けばいいんだよね。でもそれは、凡百の感動ヒューマンドラマじゃないのだ。これは本当にあった出来事で、それこそ本当に最後の最後、実際の報道写真で示されて本当の号泣が訪れる。
映画としてのラスト、もう二度と会えないかもしれないと思ったあの別れから、国際大会の決勝で二人が、そしてコーチや同行した選手たちがあいまみえるさわやかさも最高だが、やはりこれが真実の物語であるという、あの写真のリアリティにはかなわない。

号泣し、飛びつき、情熱的にかき抱きあう映画とは違い、実際の写真の中では慎ましやかにハンカチで目元を抑え、抱き合うのも肩を寄せ合う程度。
この慎ましやかなリアリティにこそ衝撃を受ける。この後、彼らは会うことはないのだ。このヒロイン二人の試合での邂逅はあったかもしれない、あっただろう。
でもその先は……長く続いて現在に、現実につながってる。幸か不幸か、こんな作品を作れない日本は……いや、幸、に、違いないんだけど。

ちょっと大げさだろと思えるぐらいの汗で“水も滴るいい女”を演出するいい意味でのワザとらしさ。
いやー、それにしてもそれにしても、ペ・ドゥナはまったく変わらず可愛いっつーの!いくつよ!!

ところでどうして"ハナ"なんだろう……。 ★★★★★


母の唄がきこえる
2013年 95分 日本 カラー
監督:大谷康之 脚本:松下隆一
撮影:岡田賢三 音楽:
出演:菅田俊 菜葉菜 大島葉子 笠原のあ 中村陽香 河野魁人 牧藍人

2013/5/9/木 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
ああこれ……最初からモノローグのみの構成って明らかにしてあるんだ……。いやさ、そりゃないだろ、と思ったのがそこだったからさ。
それともそれを知っていたら私は足を運ばなかっただろうかというと、逆に興味を惹かれたかもしれない。そこは判らない。そしてその上で観たらどう思ったかも判らない。
でも基本、情報は入れないし(ものぐさだから)ていうか、普通作品に対峙する場合ってそうであるべきじゃない?だからこその驚きや感動がある筈だもの。

いくらなんでもまさか、全編モノローグとは思わなかった、といえばウソになるかも。それはあくまで希望的観測だった。
最初に「姉」と出たじゃない。うっ、これはまさか私の大苦手のオムニバス、と身構えたら、延々と終わりなきモノローグが始まった。
そんなこととは知らないから、最初のうちだけの解説的モノローグなのかと思ったのさ。しかしこれが延々と、延々と、続く。

“姉”はちっとも喋らない。こ、これはヤバイぞ、これが「姉」篇ということはだ。そのモノローグで事細かに説明してくださることによるとだ。妹がいて、父がいる。これは絶対、妹も全編モノローグに決まってる。
この時にはまさか父までとは思わなかった、のはやはり希望的観測だったに違いない。心のどこかで、そこまではいくらなんでもヤメてくれと思ったからかもしれない。
でもまさかの父までも。救いは死んでしまった母親のモノローグはさすがになかったことぐらいか。

全編モノローグというのが、そう言うと一見斬新に見えながら、観客側に早い段階で予測させてしまう、予測させて、ウンザリさせてしまうというのが、“そりゃねーだろ”なのよ。
いや、この“大胆な手法”を使ってみたい気持ちは、判る気はする。クリエイターとしてのひとつの野望のような気がする。
でもそれを見せ切るには……やっぱりよほどの切り札か、見せ切る剛腕か、とにかくそのまんまじゃ、やっぱり観客はタイクツするよ。

だって(特に私のような)凡百の映画ファンは、役者の芝居が見たくて足を運んでるんだもん。沈黙での芝居を求められる役者さんにとっては有意義なチャレンジかもしれないけど、悪いけどそんなこと、受け手にとっては何にも関係ない。
これがね、沈黙の芝居でも、モノローグさえなければ、その芝居だけで見せるものなら、それこそチャレンジングだと思う。
そういう作品は、それこそクリエイター魂を刺激するのか時々出てはくるけれど、必ずしもすべてが成功しているとも言えないけれど、でもそこには潔さがあると思う。

モノローグ、じゃねえ……。確かにそれで物語(ていうか、この場合は家族関係のみだけど)は判るさ。でもそれが逃げになっててるのが、余計にタイクツを誘う要因になっているように思う。
沈黙の芝居なら、その状況を、物語を、魂を伝えるために、やっぱり腐心すると思う。
正直、姉も妹も父でさえも、画になる顔をこさえて、ただでさえ画になる真白な雪景色の中を、“雰囲気タップリ”に右往左往するばかりなんだもの。
三人が三人とも、スクリーンから見切れるドアップを意味ありげに各々挿入するのもなんかイラッとしちゃう。アクセントだろ、って感じがして。

……一人でイライラしてても仕方ないので。基本情報は入れなければ。
そもそもこれは、廃線になってしまったローカル線、長野電鉄屋代線がテーマ、というか、ある意味主人公、いや、主人公になるべきだった訳で。
……正直見終っても、この屋代線の魅力はイマイチ伝わってこなかった。別にそれが伝える目的ではないのかもしれない。ただその屋代線をネタに(イヤな言い方だけど)人間模様を描きたいと思ったのならば。
でもここまでぐだぐだ言ってきたように、それがどうにも感じられなかったからなあ……。

姉妹が幼い頃に、母親を病気で亡くした。父親は無骨な鉄道整備工。
後に妹のモノローグで「学歴もない父親を軽蔑していた」などとあるが、学歴至上主義のちょっと昔ならいざ知らず、最高学府であるはずの大学が飽和状態で学生を取り合いし、大学出ても就職に苦労するような昨今、なんだかずいぶんと古臭い感覚だなあ、と思う。

しかもそう言う妹は大学に行っている訳でもなくて、高校を卒業したらイナカを息苦しく思って家出同然に飛び出したという、あまりといえばあまりの定番で、学歴を云々言うにはよけいに不自然に思う。
“家出同然に”とか、“居場所は東京しかないと思った”とか、なんかどうも、なんだか……ちょっと古いんだよね。
もちろん今の時間軸じゃなくて、今はもう30を越してしまった妹の高校生時代の話ではあるんだけど、でもやっぱり、作り手の価値観が色濃く出ちゃってる感じがしてる。
ミニスカ制服も違和感なくイケてる菜葉菜ちゃんは素敵なのだが……。

そう、菜葉菜ちゃん。インディーズ作品のスター女優。彼女はやっぱり喋らせなければ、その魅力はイマイチ出切らないように思う。
正直、ただの仏頂面の女の子である(爆)。いや、その仏頂面こそが素敵な魅力の女の子なのだが、ちょっとここでは……。
お姉さんを演じる大島葉子と対照的なキャラを設定されてはいるんだけれど、そんな具合に考えが古いからさあ。

まずはお姉さんからいこうか。過去回想でお父さんから結婚を約束した男性を全否定された様子が描かれ、身ごもっていたのにその彼から捨てられた。
屋代線の廃線を機に、疎遠だったふるさと、そして父のもとに帰ってくる。

別れたのは父親が相手を拒絶したせいではないと彼女は言うし、彼女自身のモノローグでも、「彼は何も言わなかったけど、私には判っていた」みたいな言い方でとどまっていて、結局何よ、と思う。
どう考えても父親のせいだろとしか思えないが、そうじゃないというのなら、それだけの理由を後から説明されるのかと思いきや、そういうこともない。

なんか、納得いかないというか、テキトーすぎる気がする。どんな理由があるにしろ、一人で子供を産んで育てていこうと決心した女が、「東京で息子を育てながら暮らしていることに息苦しさを感じて」とか言って、屋代線が廃線になることで里心がつくっていうのが、なんか、なーんか弱い設定のように思えてしまう。
なんか、決め手に思えないんだよね。廃線、故郷、家族の断絶と修復というテーマなのだから仕方ないと言っていいのか……。

ていうか、なんかいちいち古臭いように思っちゃうんだよなあ。一応、今、故郷に帰ってくる彼女たちが現在の時間軸でしょ?それで卵焼きに感動したり、♪カチューシャかわいや、が母の思い出だったりするかなあ……。
いや、カチューシャかわいや、はね、この地出身のスター、松井須磨子の持ち歌。姉妹の母親がいつも口ずさんでいたと紹介される。……この年頃の姉妹の母親が、いくら地元スターとはいえ、口ずさむかあ?と思う。
父親の名前が勘助、というのも地元の有名な戦国武将からとっていて、一応は設定として彼のそのまた父親が山本勘助を好きだったから、とされるのだが、まあ、地元映画色を出すための手法、アリアリだよね。

別にアリアリでもいいのさ。そういう趣旨で作られた映画なんだから。実家に帰りづらい姉妹が寄り道をする形で、松井須磨子や山本勘助の墓参りをするシーンなんか、墓石もクリアにカメラに収めて、まるで観光ガイド映画みたいだな、と苦笑しても、別にいい。
逆に、「カンスケと聞くと、有名な武将より父を思い出す」なあんてわざわざモノローグにして聞く方が気恥ずかしいぐらい。
でも、一番大事、というか、魅力的な要素がさらりとスルーと思うぐらいの扱いだったのが、ええっ、と思って……。

それは、解説、あるいは大前提となる映画紹介のトップにも掲げられていた、“特急ガール”の存在である。
電車大好きな父親、それ以外に趣味もなく(ていうか、それで充分だと思うけど……それを仕事に出来たんだから更にさ!)、電車一筋にきた父親が、子供の頃にカルチャーショックを受けたのが、特急、そしてそこに乗っていた特急ガールだった。
というのは、情報を入れないと言いながら、タイムテーブルを見ていた時にちらりと目に入ってしまった惹句で、それこそが魅力的だったから、私は足を運んだのかもしれない。

でもね、それこそノスタルジックな写真一発、まあ二発か三発程度で終わってしまうのよ。
まあさ、まあさ、まあさあ、この特急ガールと恋をして、それが姉妹の母親とか、考えてた私がそれこそベタベタなのかもしれんさ。それは単純極まりなかったのかもしれんさ。
でもさ、少年時代の、くりくりボーズ頭とブカブカのセーターを着た、少年時代の父親の回想シーンが用意されているなら、電車を追っかけて喜んでるぐらいじゃなくて、やっぱりやっぱり、スラリとキレイな特急ガールにぽおっとするぐらいの、“ベタな”シーンを期待するじゃんか。

正直、この特急ガールのネタを持ってきたのがなんのためだったのかと理解に苦しむぐらい、モノローグの言葉の一つでスルーされてしまい、えーっ、このネタを使わないなんて、信じらんない!と唖然としてしまった。
……あのね、こんなこと言ったらそれこそ古臭いフェミニズムかもしれんけど、若くして死んでしまった母親の記憶が、おいしい卵焼きのみにとどまっている、つまり、おいしいお弁当を作ってくれたお母さん、的なさ、それがさ、この特急ガールの“不採用”とあいまって、なんか、なんか、納得いかんのよ!!

卵焼き一発で美しい記憶のお母さん、「お母さんが死にさえしなければ」と愚痴ったのは判りやすくグレた妹の方の言葉だったと思うが、卵焼きの記憶しか観客に提示されない母親がそこまでの存在だったとは、どうもピンとこない。
気難しい父親と年頃の娘の間をつないでいた、心優しく料理上手な母親、みたいなビジョンがあまり丁寧でなく設定されるのが、なんか納得いかんのだ。

最終的に、父親の菅田俊のモノローグが、いわば満を持して登場するのだが、正直、うわ、やっぱり父親もあるの、と腰が引けてしまった(爆)。
この地から出ていった姉妹の物語。東京という大都会、人間関係に疲れて、この地に戻ってきた二人の女というんなら、多少の古臭さ、いまどきないだろっていう女の弱さを感じはしても、まあいいかとも思ってた。

でも父親の登場とあいまっては……。ていうか、結果的には彼こそがメイン、彼こそがクライマックス、彼こそが主人公なんだよね。
消えゆく屋代線、同時に定年を迎える自分、伴侶に先だたれて呆然とし、娘二人の子育ても上手くいかず(と彼は述懐するが、決してそんなことはない。良く出来た方だ)、今はひっそりと一人暮らしている。そこに思いがけず娘二人が帰ってくる……。

娘二人が帰ってくるために、彼が何をした訳でもないし、屋代線の廃線がきっかけというのも、見ている限りでは理由としては薄い、というのが正直な感慨。
大メインとしてクライマックスに持ってこられた父親のモノローグは、最初に言ったように、全編モノローグの予測が当たってしまって、ここまでくるとうんざり感が正直あって。
しかも女の子の声ならまだ耳に優しく聞き続けられたけど、個性派俳優菅田俊のシブイ声となると……芝居で聞いてる分には何の問題もないんだけど、数十分のモノローグを延々聞かされるのは、姉妹以上にキツい。
しかもここまででモノローグにすっかり疲れ切っているから余計に……。

長女の息子のためにひそかに用意していた自転車やら、“家出同然”に飛び出した次女にあてた無骨な手紙やら、涙腺を緩ませそうなアイテムは用意されているんだけど、微妙に軌道をずれてしまう。
あの自転車を父親はいつ用意したのか。帰ってくるなんて知らなかった筈なのに、今の年頃の孫にピッタリサイズ、しかも子供自転車らしいアンパンマンだのなんだのじゃなくて、なんか高そうな外国ブランドっぽいのが、凄い引いちゃう。
いや別に、イナカなのにと思う訳ではないが、うう、でもそれも若干あるかな(汗)。
だってこんなのどかな田園、果樹園風景の中にはそぐわないオシャレ自転車だし、電車一徹の父親がこんなシャレた自転車を買うって、どうにも解せないんだもの。

そしてあの、因縁の卵焼きさあ。妹の遠足の日、姉が熱を出して弁当を作れなくて、父親が早起きして作る。
でも焦げ焦げでいかにもまずそうで、「友達に見せるのが恥ずかしい」と妹は手を付けずに持ち帰る。
これ見よがしに置いておいたその弁当を、父親はいつもの晩酌のおかずにたいらげる……。

まあ、いいんだけど。いいんだけどさ。焦げ焦げでいかにもまずそうな卵焼きを作る父親の姿を、わっかりやすく描写することに、そんなところにまでイラッとしちゃうのは、もう私、ホント重箱オンナだな……。
でもね、なんか、やっぱりちょっとずつ、古い気がするの。それこそ私の世代の父親なら、判る気がした。私が父親にこんなことされたら、判る気がした。

……と思って、あれ?菜葉菜ちゃんはまだ若いけど、お姉ちゃん役の大島葉子様は……、う、うう、年齢非公表って(爆)。そういうの、こーゆー時ホント困る(爆爆)。
役者は年齢も含めてすべてが商売道具じゃないのお。こういうちょっとした年代的価値観が気になる時、ほんの数年の差さえ、重要になってくるのになあ。

ま、それはおいといて……。上京した妹にあてたという古い手紙もね……。
「自立したんだから金は送らないが、米なら送れる」農家でもないのになんで米なら送れるのかが、判らん。
……それって、重箱の隅つつきすぎ?でもさ、こーゆーのって、安易に考えがちな、上京した子供に対する田舎の親の考えだよね、と思っちゃう。
無骨と米がイメージで直結したような単純さを感じてしまう。イナカモンのひがみ?

妹が送ろうとして結局はやめたバンドのファーストライブのチケット、バンド名が配給会社の名前と同じだったような……。そうだとしたら、安易すぎる……。

多分私の中に、ちらりと見た要素、特急ガールへの期待が大きすぎたんだと思う。
でもやっぱりそれはもったいなかったと思うよ。ロケ地への義理はあっても、松井須磨子じゃないでしょ、やっぱり! ★☆☆☆☆☆


母を求める子ら
1956年 88分 日本 白黒
監督:清水宏 脚本:清水宏 岸松雄
撮影:高橋通夫 音楽:斎藤一郎
出演:三益愛子 小山栄治 品川隆二 三宅邦子 川上康子 八潮悠子 浦辺粂子 宮島健一 穂高のり子 太田八郎 坂木田三恵子 竹里光子 大沢幸浩 広田栄二 松井裕江 服部博光 町田博子 田中春男 丸山修 阿部直 酒井三郎 杉森麟 河原侃二 志賀暁子 耕田久鯉子 青山敬二 月島小夜子 美川陽子 西川紀久子

2013/7/27/土 京橋国立近代美術館フィルムセンター
私にとってはどうしたって「小原庄助さん」の清水監督だが、今回の機会を得て、子供映画のマエストロであるということを知ることになる。
実際、戦災孤児らを引き取って共同生活を送り、彼らと共に独立プロを作って映画製作という道筋をたどったというのも興味深く、今回はちょっとそのあたりの作品群を観る時間がとれなさそうなのは残念なんだけど……。

でも本作で、その力のほどを充分に見ることができる。てゆーか、泣ける、泣いちゃう、これ。
泣ける、という今日風の言い方はあんまり好きじゃないし、そうした泣かせの映画というよりは、本作はリアリズムを追求した社会派映画なんではないかとさえ思われるんである。
無論、母ものというジャンルに位置するんだろうし、当時母ものに多く主演したという三益愛子はさすがなのだけれど、それはフィクションとしての泣かせというより、リアリズムを感じさせるんだよね。

というのも、特に当時は、女優さんといえばさ、やはりキレイどころ、あるいはこうした親子愛とか言っても、ステロタイプに型にはまった、おふくろさんといったイメージが、無勉強な私にはやっぱりあってさ。
でも彼女は、この年頃の、しわも相応に刻んだ、でもまだ母性本能があふれて持て余してるぐらいの、中年にさしかかったぐらいの、そんな絶妙のリアリティ、この年頃の、幼子を持った女性の、母親のリアリティがあるんだよな。

それはその、幼きいとし子を、行方不明という形で失ってしまったということ、そしてもう夫も亡くなり、自分の支えはその幼子しかないとなると、失われた子への行きどころのない母性と、職業を得て生きていかなければいけない女としてのたたずまいとが彼女の中で渾然一体となって、なんとも、リアリティ、なのよ。
低めのヒールの靴を履いて、細身のツーピースは職業婦人ぽくもあるんだけど、どこか悲哀なの。それが何とも言えないのよ……。

つい先日「恋も忘れて」で、愛するわが子が死んでしまうという、信っじられない残酷なラストを経験していたもんだから、ちょっと最初からイヤーな予感はしてたんだよね。
行方不明になった子供を探す母親、その結末がハッピーになるようには……そのトラウマ?があるからとても思えなかった。
だから、彼女にはツラいかもしれないけど、このまま見つからずに、わが子への思いを孤児たちに与えながら生きていく、そういう展開の方を期待したんだけど……。

と、いうのはそれこそラストの話になるので。って、これじゃオチバレも同然だが(爆)。
社会派、リアリズムと言ったけど、それは確かにその通りだったんだろう。だって、当時の新聞企画、「親さがし運動」がネタ元だというんだもの。
その新聞記事がオープニングタイトルのバックをいろどり、主人公の山本あきも、その新聞記事を片手に、方々の養育院を訪ねて回る。
どこも空振りで、時に旅中に編みかけのセーターをそれと思っていた子供に渡してくれと置いていくこともある。その子供さんなら先日親御さんが見つかって引き取っていかれましたよと言われて、目頭を押さえることもある。
「ごめんなさい、泣いたりして……。私と武夫だけが取り残されているような気がして」
養育院のスタッフたちは誰もが彼女の気持ちを汲んで優しく接してくれ、何か情報があったら必ず知らせると約束してくれる。つまりそれが、最終的には功を奏した訳なんだけれど……。

この新聞企画を最初に聞いた時、それこそ、てっきり戦争孤児かと思いきや、そうじゃなかった。あきの愛児、武夫は迷子の末に恐らく旅芸人一家に拾われた(誘拐された?)のだろうし、その他にも色々な事情で、一人取り残されて養育院に引き取られる子供たちが沢山いる。
そのいくつかのエピソードを丁寧に活写し、そのエピソードには漏れている子供たちも、自分を訪ねてくることは決してない(もう死んでしまっていることが明らかな子もいるから)親たちを恋うて、遠く仲間たちを見つめてる。その素朴な表情がたまらなくてさあ……。

そうなんだよね。子供たちが素晴らしいんだけど、それは本当に、素朴なの。ウマい!と膝を打つような“子役”ではないのよ。無表情にも見えるうつろな表情の奥に、戸惑いと哀しみを表現するすべを持たなく隠し持ってる、そんな感じなの。
あきが居つくことになる、長野の養育院で暮らす利男との出会いが始まりだった。いや、その前からかな。
武夫を探して全国をまわって、わが子に似た子に面会して、声をかける。「お母さんに会いたい?」黙り込むしかない幼子に、バカなことを聞いてしまったと謝るあき。悲しさ、寂しさを、言葉にするすべを持たないのだ、子供は……。

そう、その利男。後にお母さんが見つかって、義父となるその連れ合いの人も意外にいい人で、引き取られていくその子は、前々から自分のお母さんがこの地にいることを知っていて、お母さんを一目見たくて、養育院を抜け出してはバスに無賃乗車を繰り返していた。
あきが、この養育院には武夫はいないと判って、また何度目かの失望を抱えて去ろうとした時に、利男があきに声をかけた。
さようなら!また来てね!建物の影に隠れながら、恥ずかしがり屋の風なのに、声をかけるたびに、奥から出てくる子供たちの数が増えてくる。その描写につい笑ってしまいながらも、あきと共に胸が熱くなってしまう。
また来てね!今度はいつ来るの?この言葉が、決め手だっただろうなあ。あきのモノローグでそうと言わなくても、そりゃあ彼女はここにとどまるだろうと思った。もともと故郷で代用教員をしていたんだから、その素養はあっただろうし。

あきがこの養育院に来たことが展開の始まりだから、最後は去るところが終わりというのは、なんとなく予想されるところではあった。それがハッピーエンドとして終われば良かったと思うけれど……おっと、また先に行きそうになっちゃった(爆)。
職を得たこの養育院はね、とてもイイ感じなのよ。院長は女医のキャリアがあり、過去、幼児を誤った診療結果によって死なせてしまった過去があって、この養育院を設立した。

後半、親類にも置き去りにされてしまった幼子とその妹のまだ赤ちゃんを「ウチにも余裕はないけど、それじゃまるで捨て子じゃないの、かわいそうに。迎えに行ってあげて」と即答するような、優しさと信念を持った素晴らしい人。
その一人娘の美佐子も心優しい保母さんで、どこにいるとも知れぬ母親に手紙を出そうとする男の子に涙を流し、親なし子と子供たちが学校でいじめられると知ると憤然と乗り込む。

この小学校の先生と恋仲なんだけど、それをベテラン保母さんのおばちゃん以外には秘密にしているいじらしさ&かわいらしさ。このベテランおばちゃんはあき曰く「突然突拍子もない冗談を言う、面白い人」で、その雰囲気は劇中存分に発揮され、ともすると重くなりがちの作品を、このアッケラカンとしたおばちゃんに大分救われるんである。
しかしこのおばちゃんも戦争で一人息子を亡くしていて、「フィリピンが陸続きだったら、私だって歩いてでも行って、あの子の血がしみ込んだ土でも持って帰りたい」と何気なく、いつものアッケラカンとした調子で言うのに、ハッとさせられるのだ。

そしてもう一人の若い保母さんは、この孤児院で育った女の子で、あき曰く「それなのに、とても明るい娘さん」なんである。
「お母さんの夢は当然見るわ。(幼い頃別れたから顔は覚えてないけど)不思議なことに、その顔は院長先生だったり、おばちゃんだったりするのよ」
それを受けておばちゃんが、あらあ、だったら私もせいぜいおめかししてキレイにしとかなくちゃ悪いわネ、なんて絶妙に軽口叩くもんだから、ともすると重くなりがちな方向を、やあだ、と女たちは思わずコロコロと笑い転げちゃうんである。
こういうのが、ところどころで凄く救われて……それがなかったら、ホントに、重いんだもの。

先述の利男君、彼は怖がっていた建具屋のご主人(お母さんが後添えに入った人)が、実は道理の判るまっとうな人で(職人って感じよね)、「コブつきの自分に来てくれて、子供たちの面倒をよく見てくれる。こいつの子供なら、自分の息子だ。」と言ってくれるんである。
正直、ハラハラしてたからさあ。この義父にいじめられるんじゃないかとか(爆)。それこそ現代の感覚だよな、そんな風に思うのは……。

先の手紙のエピソードは、娘の居所を突き止めたけれど、事情があって(恐らく金銭的なことだろうな……)すぐには迎えに行けない母親からの手紙を受け取った女の子に嫉妬した男の子のもの。
そしてお父さんが迎えに来たけれど、そのお父さんに含むところがあって、すねて会おうとせず、とぼとぼお父さんが帰ってしまうというエピソードもイイ。
何よりこれは、あき自身の経験に基づく言葉が、この少年の心を動かすから。

なぜお父さんに会おうとしなかったのか。そもそもなぜ彼がこの養育院にいるのかというのは、妻子をほっぽって女におぼれ、その女に捨てられた時にはもう女房は死んでしまって、息子はどこに行ったかわからない、という情けないことこの上ない状況だったから。
そらムリなかんべなと思うが、それこそこの状況一発で一本の映画が作れそうなぐらいだが、いまだいとし子に会えないあきが諭すんである。
自分の息子も行方不明だけれど、会えた時にそんな風にされたら、悲しい。今度お父さんに会う時は、大きく手を広げて、しがみつきなさいね、と。

彼はそれを聞いて、はじかれたように飛び出す。方向も判らないように玄関を求めて行きつ戻りつして、ついにははだしのまま柵を乗り越えて行くんである。
お父さんの乗ったバスを遠くに発見し、声をからすも、届かない。川を越え(石が痛そう……)、草むらを越え、マジにぶっ転び(あれ、マジに見えた……膝小僧のすりむけが痛そうで……)、遠くに小さくなっていくバスに、お父さーん!!と叫ぶ、そのてらいのない行動がたまらないの。
でね、彼を追って、靴を持って、子供たちが駈けてくるのがまた、さあ……。

それは、あの、お母さんが迎えに来た利男君がね、恥ずかしがって逃げ回るのを、こちょこちょついて回る子供たちが、先生の一声で、胴上げよろしく四肢を持ち上げて連れてくる場面とか……。
いわゆる子役のプロ演技じゃないんだけど、そういうてらいのない、素朴な、子供たちの、なんていうのかなあ、上手く言えないんだけど、ウロウロする感じの可愛さが、なんかもう、それがもう、たまらなくて、泣けちゃうのよ。

で、まあここまででバレバレだとは思うんだけども(爆)、方々に声をかけていたのがようやく実を結び、武夫の居所が知れるんである。
しかしもう、病気で重体という状況、この時点で既に、先述したように清水監督たら、結構ザンコクなことやってのけるからなと覚悟したら案の定、なんである。
着いたとたん、応対したスタッフたちのおろおろした感じでもう確信したけど、あきが通りがかった子供に何気なく聞いて返ってきた「武夫君、死んじゃったよ」の、あまりにもシンプルに、躊躇もなく答えられる、その調子があまりにもあまりにも……。

武夫が姿を消したのは、旅芸人一座に拾われ(さらわれたんじゃないのかなあ……)、芝居をさせられ、だから養育院に保護された時も、ずっと芸名を使ってて、だからせっかくあきが問い合わせしてたのに引っかからなくてさ。
彼が重い病の床についた時に、ようやく自分の本名を口にして、お母さんに会いたいと言った、というのが、あまりにもあまりにも可哀想で。
何でもっと早く、そう言わなかったの。それってつまりさ、一座の中の子役として働くことを、強要されていたんじゃないの。
それってそれってつまり、この養育院でも芝居を見せて人気者だったっていうけど、生きていくために、自分を守るために、鎧をまとい続けていたってことじゃないの。
養育院に保護されたんなら、そんな必要なかったのに。そうしていれば、すぐにお母さんに会えたのに!!

「お母さん、早くきて」死の床で、紙に大きく書いて、彼は力尽きた。もう小さな骨壺の中に収まってしまった息子の前で、行方が知れない間よりも、もっとずっと遠くに行ってしまった……とただただ泣きむせぶことしかできないあきに、なんでなんで、こんなシンラツな展開を持ってくるの!!と清水監督にウラミごとを言いたくなる。あんまりだよ、あんまりだよ!!

……だからさ、あきがこの出来事に大きなショックを受けて、縁あって勤めていた長野の養育院も去ることにして、武夫の墓の元でひっそり暮らすというラストなら、仕方ないかなとも思った。
こんな残酷な展開を持ってきた清水監督をウラミながらも、先述したように、あきがこの養育院を訪れ、勤め始めたところから展開するなら、彼女がそこを何らかの事情で去るところで終わるのは、最初から構成されたものかなと思いもした。

でも、違ったのだ。“最初から構成された”というのは本当だった。でもそれは、私が考えていたような浅はかなものじゃなかった。
この養育院に勤めるきっかけとなった出来事、ほんのひと時袖すり合っただけの男の子、利男が、辞するあきに何度も繰り返しさよならと手を振り、そのたびごとに引き連れて一緒に手を振る子供たちの数が増え、次はいつ来るの?と問いかけた、あの場面こそだったのだ!!

ああ、なんと私はあさはかに、判ったように、構成のありがちなどを知った風に予測していたんだろう!あの時、あきが利男の言葉に心揺さぶられた、その時の気持ちを思い出すことを、なぜ予測できなかったんだろう!!
それは……それはやっぱり、実際の親子こそが重要だという価値観を強要する日本社会の現実。そんな現実、実子主義にこだわる日本社会に嫌悪感を感じていたくせに、そしてこの、親に死なれ、親に捨てられ、あるいはそんな事情すら判然としない子供たちに悲哀を感じていたくせに、どうして気づかなかったの!!

ここではもう、いくつもいくつも先取りしていたじゃないの。もちろん、不幸にして子供と離れ、会いたいと願っていた親と再会できるのなら重畳。でもそれを価値観の第一としたら、そうではない子供は存在する価値すらないのか。
明確に言葉にはしていないけれど、いやだからこそ、本作はそれを明確に否定してる。始まりと終わりの二段活用であきがこの養育院に出会い、居つき、戻ってきて、きっともうここで生涯、“子供たちの母親”として暮らす、それを強烈に、彼女自身の言葉として、あなたたちの母親はここにいるじゃないの、という明確な言葉として言ってのけたのだから。

先述もしたけど、日本の実子にこだわる価値観が、私、すんごいヤなの。それって、今の事情に照らし合わせると不幸しか生み出さないと思うし、人間が人間として培ってきたこれまでを否定するように思うし、何より……その本人自身を否定するだけのことだと、思ったのね。
言ってしまえば、幸福な家庭環境に生まれ育った人間に対してだって、当てはまることだもの。それはこの事情に照らし合わすには、人生のギャップが深すぎるけど、それを恐れずに言えば、そういうことだもの。

あきが、皆の母親になる、と宣言して、子供たちが取り囲んでヤッター!というラストは、確かにあまりにも大団円すぎるのかもしれない。
ただ……それを理想形のラストにしたからこそ、あんな重すぎるクライマックス。やっとわが子を探し当てたと思ったら、「お母さん、早くきて」なんて辛すぎるメッセージが、しかも届かなかったなんていう展開があったのかもと思うと……。
そう思うとやり過ぎかもとも思うけど、現代の様々な家庭事情、子供事情を思うと、清水監督が、先行きを見据えていたようにさえ思えてしまって。

今回の特集もなかなか足を運べなかったけど、私の大好きな「小原庄助さん」を切り口に入ってみたら、あるいは恋愛ドロドロもの、あるいは胸痛む母もの、当時の文化を切り取る学生もの、そしてどうやら彼の真骨頂は子供たちの生き生きとした活写、演出を感じさせない素朴きわまりない愛しさこそが素晴らしくて。もう、どうしよう、とてもとても追いきれないまま終わっちゃうよ!!★★★★★


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