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「な」


2014年鑑賞作品

なにもこわいことはない
2013年 110分 日本 カラー
監督:斎藤久志 脚本:加瀬仁美
撮影:石井勲 音楽:小川洋
出演:高尾祥子 吉岡睦雄 岡部尚 山田キヌヲ 谷川昭一朗 柏原寛司 角替和枝 森岡龍 猫田直 鈴木元 長田青海 大島まり菜 柄本明


2014/1/14/火 劇場(新宿K’scinema)
寡作、そうだねえ、寡作だ……。前回斎藤監督の映画を観たのはいつだったのか、そしてその時どんな風に思ったのかもちょっと思い出せないぐらい、寡作。
劇中「三月のライオン」がヒロインの勤めているミニシアター(てか、まんまポレポレ東中野。ここで公開すればよかったのに……)でかかってて、「三月のライオン」は凄く印象深い作品だったから、あれっ、これって斎藤監督だったかしらん……などと考えてしまった。
勿論違う。矢崎仁司監督。でも本作の色合いというか風合いと似ている気もした。筋立てはあるけれども、まるで何も起こってないかのように見える感じというか。二人の男と女が、その関係性、距離をひたすら映し出している点というか。
その男と女はかの作品では兄と妹であり、本作では夫婦であるのだけれど、何も生み出さない、という点では似ているかもしれない。

何も生み出さない、などと言ってはさすがに語弊があるだろうか。でも兄と妹は禁断の関係であり、そこから何も生み出しちゃいけない。夫と妻は通常は子供という存在を生み出す関係性だけれど、この二人はそれをしない決断をしている。
そしてそのことが後に事件を起こす。その後も二人はそれ以前と同じように生活を続けるけれども、決して同じではない。同じではないのだ。

“通常は子供という存在を生み出す関係性”だなどと書いてしまった。こんなことは、私だって言いたくない。私だって、それが強要されたり、当然の価値観にされたりすること自体に激しい嫌悪感を感じるクチである。
てゆーか、そもそもチョンガーなんでアレですけども(爆)、まあここではよくそういう話題について書き散らしているので……。

基本フェミニストなんで、女は子供を産むべき、結婚したら子供が出来るのが当然、という見方には激しく拒絶感を覚える。
ただ……ここが難しいところなんだけれど、無理せず授かるならば、子供っていいんじゃないかなあ……と思う気持ちはあって。子供を作らない決断をする夫婦、というテーマには、微妙な心の揺れを感じるんである。

出来る身体を持っているのに、作らない決断をする夫婦。勿論、それも価値観の一つであって、特に現代だったら大いにあってしかるべき。
特に日本は子供を持った途端、女性が社会から弾かれる社会だもの。そこで無理してまで子供を持たなくてもいい、と、そんな風になんとかひねり出すのは、やはり私も古い考えを持っているのかなあ。

ただ、このヒロイン、夫と静かに二人暮らしをする恵理はそういう価値観じゃない、んだよね。
夫とどのように話し合って、というかもともとそういう価値観で意気投合したのかもしれないけど、子供を持たないという“決断”を下したのかは、見せないから判らない。
子供はまだなのと母親から聞かれて「ずっと夫と妻でいることにしたの」という言い方で子供を持たないことを説明する。母親は戸惑いながらも、一人娘の選択したことに理解を示す。というか、示そうとする。

……一人娘、だよね?特にそう説明した訳ではなかったけれど、実家に帰るシーンとかでもきょうだいがいる雰囲気は感じなかったし。
いや、一人っ子だからそういう、夫にべったりキャラだとか言い出したらそれはまた、あまりに単純すぎて違うと思うが、でも彼女が一人っ子であるというのは、やはり何か頭をよぎるものがあった。

ミニシアターに勤める恵理が、自分を含めて四人きりの、少ない人間関係の中で、「若い男の子とは仲良くなれるんだけど、おじさんとは仕事のこと以外の話が全くできないの」と寝物語に夫に悩み相談する。
夫は「いいんじゃないの。別に無理して仲良くしなくても」と言い、まあ確かにその通りなんだけど……。

同僚の同じ年頃の女性が、彼女とは逆におじさんと仲良く、というか上手くあしらえるタイプであるからこそ、恵理の、どこか潔癖というか、社会性の欠如……とまで言ったら言い過ぎだけど。
なんか自分をガードしてしまう、自分と同等か下の、あるいは弱い立場の人間にしかガードを緩められない、っていうのがね、そういう感じ、判らなくもないから、なんか痛ましくてさ……。

別に問題はない。愛する夫、そして両親、同性である同僚の女性、年下の男の子、そこまでは心を開けて、おじさんにだけは身構えてしまうことぐらいどうってことない。
でも、そんな彼女が、夫と鼻突き合わせる生活で、子供を持たない選択をする、ということが、どういうことなのかと考える。どういうことなのだろう……。

なあんてことをシリアスに考える日常ではない。本当に淡々としているし、そしてお互いを思いやっているし、狭いベッドで自然に睦まれるセックスは、そう、本当に自然で、ああ、こんな夫婦生活だったらいいな、本当に自然だな、と思えた。
それこそ、子供が欲しくて義務的に行われる夫婦生活なんてものからはかけ離れた、自然の営みだった。

こういう場合、ちゃあんと女優さんはおっぱい出すのがやっぱ重要よねとかそーゆーヤボなことを言いたくなくなるぐらい(言ってるけど(爆)。ナチュラルな素敵なおっぱいだった)、本当に素敵だった。
でも、だからこそ、避妊はしてなかったんだよね、とも思った……。子供を持たない決断をしているなら当然の避妊をしている流れがなかったし(まあコンドームだけが避妊ではないけど)、実際赤ちゃんが出来ちゃった訳だし……。

おっと、重要なことをついつい言ってしまった。それはまた後に回すとして……。
この夫婦、恵理と史也はお互い仕事を持っている。恵理は先述したようにミニシアター勤め。史也の仕事がどんなものかは明確ではないけど、遅番とかもあって時間帯がまちまちで、どっちにしろ恵理とは寝る時間と起きる時間が逆に重なり合うような感じである。
まあ共働きの夫婦なんていうものは多かれ少なかれそんなもんだし、その中でも二人はその少ない時間を大事にして、夫は早めに起きて朝食を作って妻と共に食べてその後寝なおし、妻は遅い帰宅の夫のために夕食を整え、そして短い逢瀬のようにベッドの中で抱き合う、そんな日々なんであった。

充分、幸福な夫婦生活だ。恵理の母親が感嘆するように、家事は女の仕事だなんて思う世代じゃない、自然に生活をともにできる最高の相手だ。
でも、何かがヘンな感じなのだ……。ヘンというのは違うかもしれない、大げさかもしれない。
でもこの物音のしなさ。この家にはテレビもないのだろうか。通常の生活では何気なくつけるテレビ、食事の時なんかつけちゃうのが現代の生活では半ば当然のことなのだ。それがないのが、段々と奇妙に思えてくる。

最初は、この夫婦を見つめる描写としての方法で、そんなヤボなアイテムを排除しているだけなのかとも思っていた。
でも史也はビールを飲みながらパソコンのゲームなどしていて、「ホントゲーム好きだよね」と恵理は特に恨みがましいでもなく自然に言って、宮沢賢治の本を音読しだす。
すると彼はパソコンを閉じ、自然に彼女の横に寄り添っていく。それが、その“自然”が、段々と自然に思えなくなってきちゃったんだよね。

二人の目だけを見つめ合う、“夫と妻でいること”に忠実でいる生活を覗き見る不安感。外の世界、外の価値観が排除される不安感。
恵理は職場の人間関係を史也に相談し、彼はいいんじゃない、と妻をなあなあに肯定する。そして抱き合う。夫と妻でいることは、こんなことでしかないと、思ってしまう不安感。

恵理が熱心に何度も読み返しているのは、劇中では作者が明らかにされなかったけど、清冽な文章と会話の東北訛りで宮沢賢治に違いないと思ったらやはりアタリだった。
ていうか、恥ずかしくもこの作品のこと、知らなかった。断片的に耳にしただけでも、賢治らしい法華経のストイックと子供たちの透明さが昇華されていて、今すぐにでも手に取って読みたいと思った。

恵理は同僚の年下の男の子から借りたこの本がとても気に入って、声に出して読んだ。東北弁の語りのところは、いかにも彼女にとってはなじみのない訛りという感じのたどたどしい語りが、初々しいくらいだった。
でも、そうだ、子供たち、純粋な兄と弟の話なんだよね。子供を持たない決断をした恵理が、何度も何度も読むこの物語が……。
あるいはこのたった二人の兄弟、吹雪の中に取り残されて、お釈迦さま(多分)に導かれる、その崇高な“たった二人”に、夫との関係性を重ねたのかもしれない。

でも何よりこの引用文学が重要なのは、タイトルにもなっている「なにもこわいことはない」という言葉。
と、こうして書いてみたけれど、タイトルになっているんだから重要と思ったけれど、正直なところ自分的には上手く意味づけ出来ないでいる。
この言葉が、恵理にどう作用しているのか。判んないものだからついオフィシャルサイトの監督の言葉なんぞを読みかけたが、そのまま固まってしまうような感じがして途中で目をそらしてしまった。

なにもこわいことはない、なにもこわいことはない……恵理にとってこわいことって、なんだったんだろう。単純に、ストレートに、純粋に考えて、愛する夫、史也との関係が壊れること……?
そうかもしれない。子供を持たない決断を、恐らく夫以上に殊更にこだわって、授かった命を彼に告げもせずに堕ろしてしまった時点で、それは決定的に思えた。
その事実を知って激しく動揺する夫に「だって子供は持たないって決めたじゃない。どうして?子供、欲しかった?」と恵理はつめよるでもなく淡々と言う。

夫を演じる吉岡睦雄のニュートラルな魅力が本作でも際立っていて、このシークエンスでの、彼の静かな動揺と逡巡が、本作の最も大きな地点であり、忘れられない。
このシークエンスには、観客は皆、史也と同じ動揺を感じただろうと思う。夫と妻でいるために子供を持たない選択、そこまでは判る、理解できる。問題はないと思う。
でも授かった子供をパートナーに告げないまま、その選択をしたからと妻が殺してしまうのは、その事実を告げないという時点でもう、起こった出来事を相手が承服しないかもしれないから報告しない、という亀裂が生じてることが明らかで……。

だって、だってさ、職場の些細な人間関係も寝物語に相談していたのに、なぜこんな、決定的な体の変化を言えないの。風邪で体調を崩したと、もうウソまでついちゃってるじゃないの。
そう、そうだよ。恵理は、子供が出来たと史也が知ったら、今までの生活のようにさらりと穏やかに済まないことが判っていたから、言わなかった、言えなかったんだ。
産む選択でも堕ろす選択でも、……恐らく後者の方を夫から言い渡されることが傷つくから、子供を持たないと決めていたからこそそれを恐れたんだ。

そんな風に思うのは、あまりにもメロドラマ過ぎ?同じ女だから判るとか言ったら、それこそサイアク?
でもさ、でもさ……そう思っちゃうよ。それこそベタだけど、かきだされるあの直前に流した彼女の涙を信じたいと思っちゃうよ。
日本的丁寧親切な婦人科クリニック、股を広げられるあの器具のショッキングを緩和するためなのか、足袋なんてあるのね……知らなかった……。
子供は、せめて授かった子供は、殺さないでほしい。フェミニストでも、フェミニストだからこそ、そう思う。無責任と思っても、思ってしまう。

そうそう、んで、すっかり脱線しちゃったけど、「なにもこわいことはない」っていうのは、その引用はどういうことだったのか……。
本の中の純粋な兄弟のように夫を愛して信じてついていったって、彼女はたった一人で婦人科クリニックの器具の上で股を広げた。あんなこわいことはない。涙を流した。
そして、おじさんとは仲良く出来ないけど年下の男の子とは仲良く出来た、その男の子が突然自殺によってこの世を去った。
そんな雰囲気はまるでなかった。この年頃の男の子よろしく、栄養ゼリーが今日一日の食事だなんて言って、恵理が持参した手作り弁当、スパム握りに枝豆を分けてもらって、「なんですかこれ。すげえウマイ」とかぶりつく、可愛い年下の男の子だったのだ。
でも彼は、「恵理さん、元気ない時に弁当持ってきますよね」なんだか妙に、鋭かったのだ。

料理は恵理と史也夫婦をつなぐ大切なツールだということは、テレビさえもつけない(ていうか、テレビがあるのかどうかさえ……)このストイックな夫婦にとって、必要必要、メチャクチャ必要なアイテムだ。
朝のなんてことないトーストに乗せたレタスチーズマヨネーズetc&と、ポコポコ音を立てて入れたコーヒーから香りが漂ってきそうな場面から、完璧すぎるんだもの。
わざわざ史也が美味しいと言わなくても、そりゃ美味しいでしょうと思う、料理番組に出そうな料理が、しかしそうはベタに示さず、遠目に置かれる。

こーゆーあたりが上手いっつーか、歯がゆいっつーか。美味しい日常の食事=幸せな夫婦生活だっていうんなら、こんな冷静な画では示さないと思うもん。
それこそベタにカット寄って、カメラ寄って、美味しそうな料理に寄りに寄って、おいしーい!!と言う夫の表情と嬉しそうな妻の表情に寄りに寄って。
……うーむ、さすがにそこまでアホな演出はしないだろうが……とにかく、二人は、なんだか、違うの。演じていると言っちゃうまでではないってあたりが絶妙というか、微妙というか……。

そんな微妙な夫婦関係を無意識に指摘しちゃった、この後輩の男の子、もしかしたら、いやきっと、彼は恵理のことが好きだったんじゃないかと思う。
もう一人の先輩女子が先導してやたら飲みだのカラオケだのに連れ出され、しぶしぶついてきたのは、きっときっと恵理がいたからだと思う。
彼が死ぬ直前のシークエンス、夜中ひっそりと開いている園芸店のシーンが忘れられない。
なんてことはない。恵理が「今年こそはグリーンカーテンに挑戦しようかな」と、ゴーヤと朝顔の鉢を二つずつ買うだけ。それだけ。
鉢が出しっぱなしになっていて開いているとも知れない店のガラス戸をほとほとと叩き、買い求め、「今度は昼間に来てね」と店主の柄本明に言われるだけ。
なのにそれが、この青年の死の直前だからこそなのか、忘れられなくて仕方ないんだ……。

何故彼が死んでしまったかなんて、判らない。それこそ人間は一人一人で生きていて、この物語は恵理の視点、そして愛する夫との生活、それのみでしか描いていない。
つまり恵理は、仲良く出来ていたと思っていた同僚の男の子が、実は死ぬほどの思いを抱えていたなんてことを知る由もないのだ。<br> 彼の死に同僚の女子は、それこそ女子らしく涙を流すけれど、恵理はそれすら出来ない。
お疲れ様と夫に迎えられ、彼に借りていた本を、どうしようと言う恵理、恵理が持ってていいんじゃないと返す夫、そうかな、なんて会話を交わして、夫の買ってきたおっきくてみずみずしい西瓜にかぶりつく。それだけ。

それだけ、だなんて……。正直、どっちの“女子”の反応が正解かなんて、判らないよ。
ただ一つ判るのは、かなしい、切ないことだけど、この青年を真に理解する人はこの職場にはいなかったってこと。それだけだ。
でもだからといって、同僚女子、あるいは恵理だって、この職場のみならず、理解してくれる人がいる場所があるのか。赤ちゃんの一件で、夫との関係性は崩壊してしまったと、外野は思ってしまう。そうじゃないのか。

そうじゃないのか、なあ……。本作はあまりに淡々としているんで、上手く決着がつけられない。
ちょっとね、本作に設定とかが似てる作品があったなあ、と思い出したりもしたのね。二人きりの夫婦、仕事の時間帯ですれ違いの夫婦。重なる時間帯でセックスをし、手料理や手作りの弁当によってお互いの絆をとりもとうとするんだけど、どうしようもなくすれ違っていく……。
「フォーゴットン・ドリームス」がまんまそうだったのよ。でもその二人の間には、それこそ子供の影は露ほども見えなくて、それ以前に破綻してしまいそうな夫婦だった。
この二人は子供が云々ということを決めていたんだろうかと思い、授かったらその時、どういう選択をするのだろうかと思った。
ああ、愛しているだけでただ一緒にいられたらどんなにいいか。それが本作のテーマだったのかなあ……。

同僚の男の子のお葬式、帰ってきた恵理が喪服を脱ぎ捨てると、その下のブラもショーツもしっかり黒。彼女が脱ぎ捨てる場面は何度もあるだけに、この妙なストイックにヘンに目が行ってしまった。
喪服の下なんて、透けもしないし普段の下着でいいのに、めっちゃオソロな感じの絹チックな光沢。妙にエロティックで、……それこそ妙に意味づけしたくなってしまう。喪服って、意味ありげなんだもの。★★★☆☆


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