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「ふ」


2011年鑑賞作品

フォーゴットン・ドリームス
2011年 73分 日本 カラー
監督:日向朝子 脚本:日向朝子
撮影:芦澤明子 音楽:野崎美波
出演:中村麻美 川岡大次郎 加藤貴宏 岸井ゆきの 篠崎美羽 古舘寛治


2011/12/15/木 劇場(銀座シネパトス)
女性監督三人による、ポルノチック企画。正直一本目に観た作品でどうしようかと思ったが(爆)、二本目の本作のクオリティの高さにホッと息をつく。
この三本の中で、唯一監督の名前と長編デビュー作をつながって覚えていた日向朝子監督。あのリリカルな「森崎書店の日々」を撮った彼女が、このプチエロ企画にどうやって臨むのか興味津々であった。

まあ正直、エロ部分はかなり控えめではあったけど、でも夫婦生活のすれ違いというファクターの中で描かれるそれとしては、説得力があったかもしれない。
物語の冒頭で、まぶしい朝日の中で、ソファからごろりとずり落ちる片パイの中村麻美、というのはなかなかにスリリングだったし、その後のひと時のまどろみ、ふと時間に気づいて、もう行かなきゃとキッチリとしたスーツに着替えるというシークエンスが、朝日の中のセックスとのギャップでドキドキとさせた。

そしてその幸せなセックスと対照的にさせる二度目のセックスシーン。
彼に対する拒否反応を示す彼女のゆがんだ表情、脱ぐことさえもせず、歯を食いしばって挿入に耐えているような感じが、そこまでに至る二人の気持ちのすれ違いを、冒頭に幸せなセックスを持ってきていたからこそ見事に表現されていた。

ざざざとキモまで喋ってしまったけど(爆)。んー、でもだからやっぱりエロは控えめだったかな、と思う。
別にそれでいいんだけどね、こういう企画なら。相変わらず何を私は期待してるのやら(爆)。
いや、だって、中村麻美が主演というのも意外だったんだもの。こういうエロものに出てくるというのがね。
まあ本作は、そういう意外さもウリのひとつなんだけれども。

しかしそうは言いながらも、私は彼女のこと、見たことある顔だよなあと思いながらも、見ている間は思い出せなかった。
スイマセン、監督の名前と共に興味を惹かれたのは、彼女の相手役である川岡大次郎君の方だったもんだから(汗)。

そうか、中村麻美かあ。なんか、すんごい久しぶりに見る感じがするのは気のせいだろうか。一時期はよく映画に出ていたと思うんだけど。
見ない間にやけにスレンダーになって、顔の輪郭もとんがっちゃって、つまり大人の女になってしまっていたから、全然気づかなかった。

そして彼女は、確かに若い頃も色々、気鋭の監督さんや作品に取り組んではいたけれど、エロのイメージは皆無だった。
清楚とまでは言わないにしても、そういうことに“挑戦”するイメージはなかったから意外だったけど、でもその意外さが、まさにこの企画にドンピシャリなのだろうな。
それにセックスは人間の、ことに恋人や夫婦の物語なら、避けて通れないものだもの。
むしろ一般映画やドラマでは、それを避けすぎて不自然になっているから、こういう企画が生きるんだし。

大人になった、といえば、この作品のお目当てであった川岡大次郎君、もう大次郎君などと言ってはいけないのかな、もなんかもう、セクシーな男になっちゃって、まぶしくって、正視できないほど(爆)。
いやあ、やっぱし彼はデビューの「タイムリープ」の、あの瞳の大きな美少年の姿がこびりついていたからさあ。彼がよーちゃんと共に「救命病棟24時」に抜擢された時にはメッチャ小躍りしたけど、それ以降あまり見る機会がなかった。
あ、それこそよーちゃんも出てた「龍馬伝」も出てたんだ……スンマセン、ドラマなかなか見ないもんで(爆)。

その、見る機会がない間にぐんと大人っぽくなっちゃって、私は中村麻美のエロの意外さより、彼のそれの方がずっと心にきちゃったよ。
いやー、つまり、なんか……大人になったのねえ、というオバチャン的な目線(爆)。彼もまた余分な贅肉のないスリムな身体になって、しかし脱ぐとあらら結構しっかり筋肉ついて、ふっくらとしていたお顔もりりしくそぎ落とされて。
しかしあの大きな瞳と、大きな瞳だからゆっくりとまばたきすると音がしそうな感じは変わってなくて、なんかそれがセクシーさにプラスされて、メッチャドキドキしてしまった。
「しようよ」と中村麻美を後ろから抱き寄せる、あの薄い腹部と筋肉質の腕から伸びる骨ばった大きな手。キャーキャーキャー!なぜ拒む中村麻美ッ。もったいねーっ!!!

……取り乱してしまいました。えーと、どういう話だかを言わなきゃそれこそ話にならない。
えーとね、彼らは夫婦なんだけど、一緒に過ごす時間が凄く短い訳。奥さんの衿の方は不動産屋会社に勤めている、というのは、彼女の仕事の様子はもっぱら、お客について部屋の下見に行く場面のみなもんで。
で、夫の裕介の方は、彼女が帰ってきて夕食を一緒してほどなくして、彼女からお弁当を渡されて出かける。ちらと会話に出てくる限りだけど、ホテルの受付を任されているらしい、夜勤の仕事である。

この夕食の時間と、朝、夜勤明けで帰ってくる彼と、彼女が出かけるまでのほんのひと時が、彼らが一緒に過ごせる時間である。
勿論休日は一緒に買い物に出かけたりもし、近所に柑橘系の実をいくつもつけている木を見上げて凄いね、なんて言い合ったり。
生活はすれ違ってるけど、通常仕事していたら一緒に過ごす時間の総数なんてこんなもんだと思うし、見てる限りでは何の問題もなさそうに見えた。
むしろある程度距離があるからこそ新鮮な気持ちを保てているとも思ったし、ちょっとうらやましいぐらいに思った。
本人たちも、問題があるなんて思ってなかったと思う。自分たちはお互いの生活を尊重して、理想的な夫婦生活を続けている、と。

しかし、裕介が失業してから、事態はじわじわと変わり始める。ていうか、裕介が派遣で、この不景気で真っ先に切られてしまうという事実が、この時点で明らかにされるんである。
まあ彼女の方はちゃんと?正社員だろうと思う。今の世の中、稼ぐのが男の方だなんて古い価値観だとは思うけど、まだまだ今の日本ではそういう感覚はあると思う。
彼女がそこまで思っていたかどうかは判らないけど、ただ夫の失業を知った時、そして派遣が真っ先に切られる苦悩を彼が吐露した時、「私、裕介のこと、全然知らなかったかも……」と彼には聞こえないつぶやきを漏らすんである。

衿が裕介に対して見せた苛立ちは、彼の失業以前からだったような気もする。雨が降りそうな夜、レインコートの置き場所について、ささやかな言い合いをした。それはほんの些細なすれ違いだった。
つまり、わずかな一緒にいられる時間に、夕食の手伝いを放り出してレインコートを真っ先に探し出した夫に、彼女がイラッとしたところから始まったのだ。
「少しは気遣いを見せてほしい」と彼女はつぶやいたけれど、私には何か、彼女が苛立ったのがちょっと唐突にも思えた。

いや、その後の彼らのすれ違いを思えばこれは確かに有効な布石なんだけど、それまでの彼らはゆるゆると上手くいっているように見えたから。
確かに一緒に過ごす時間は短かったけど、その一緒に過ごす時間は幸せそうに見えた。
でもそれも最後には、あくまで表面的なことだった、というタネ明かしのような断定がなされるから、ああ、そうだったのかなとは思うんだけど……。
でもお互い一人でいる時には相手がどう過ごしているのか想像(てか妄想みたいな気もする(爆))するし、ラブラブじゃんと思ったから、彼女の苛立ちに、どうした、何、突然?と思ったのだ。

まあでも、お互い相手のことを考えていた、ってことだって、その相手に言わなきゃ何にもならないんだ、ってことを最終的には示しているんだから、それこそ最終的にはふに落ちるんだけどね。
あ、でもそうか……無意識の間に、自分でも自覚していない間に、一緒にいられない寂しさや、お互いのことを判っていないことに対する焦りを、彼女の方が女のカン的なことで感じていた、ということなのかもしれない。

確かにそんな、布石はあった。彼女の実家からなのか、通販なのか、味噌が送られてきたよ、と裕介から言われ、あ、ゴメン、忘れてた……と衿は言う。いいよ、起きていたから、と裕介。
つまり、すれ違う時間、寝ていたのに迷惑かけちゃったかな、という、夫婦の間に寒々と流れる気遣い。割と前半に示されるコレが、かなり大きな意味合いを持っていたのかな、と思う。

失業してヒマになって、食事の用意を手伝う裕介が、冷蔵庫の中のどこに何が入っているのかイマイチ判らないことに、抑えようのない苛立ちを募らせる衿。
そりゃまあ、お互い同等の共働きだったのに、基本炊事が彼女の仕事だったと思えば、彼女の苛立ちは判る気がするし、まさにそれが、この現代日本ですら大きな問題であるとも思う。

まだそんな問題が表面化していなかった前半では、きちっと詰められた弁当箱を渡された裕介がハンカチで包み、ありがとう、と言うシークエンスを何気なく見ていたけど、思えばコレぐらい、彼が自分でやったっていい訳なんだよね。
食べて、対面キッチンの奥の彼女に洗い物を手渡したりして、それぐらい、彼がやったっていいんだよね。だって彼女は仕事から帰ってきて疲れているんだからさ……。

まあそこまで言及しているかどうかは判らない、単に超フェミニストの私が勝手に文句言ってるだけかもしれないけど(爆)、そう思えば、彼女が“突然苛立った”のも、そうか、うん、判る気が、するんだよなあ。

そんな気持ちの変化を、彼女自身だって上手く表現出来なかったに違いない。観客の私が突然と思ったぐらいだから、夫である裕介が戸惑って「衿が判らなくなった」と言うのもむべなるかなである。
それは、彼が、恐らく最近のよそよそしい関係修復を狙ってであろう、「久しぶりにしようよ」と洗い物をする彼女の後ろから抱き寄せたのを、ヤメてよ、と邪険に彼女が振り払った場面で発せられる言葉で、ああ、なんてもったいないことを!とついつい思ってしまうぐらい、大ちゃんはセクシー極まりないのだが(爆)。

その後ね、これはさすがにヤバかったかな、とばかり、彼女が彼の求めに応じるんだけど、それも先述した二度目のセックスシーンね、すんごい、ガマンしてる感じでさ、見てて痛々しくて……。彼がただ放射するだけ、そこまでガマンしてるだけでさ、こんな切ないセックスって、ないよね……。

時間のすれ違いの中で、衿の枕もとの大きな数字のデジタル時計が印象的に映し出される。彼女の起きる時間にアラームを鳴らすその時計は、彼女の就寝の時間や、ふと目覚める時にも傍らでひっそりと大きな数字を刻み続ける。
衿の就寝の時間が少しずつ遅くにずれていったりするのも象徴的だけど、彼女が起きるほんのちょっと前に見る、現実との境のないリアルな夢のかたわらにもその時計があるのが最も印象的。
さっきまで見ていたのに忘れてしまったその夢の中で、彼はいない。目覚めた時に彼はそばにいるのに、その空虚な感じが彼女の中で消えてない雰囲気なのが。

衿の仕事シーン、部屋を探している客に下見をさせるシーン、これもまた絶妙に彼ら夫婦関係を揺さぶる上手さである。
最も印象的なのは、彼女自身も裕介に話すぐらいだから印象的だったんだろう、一人で部屋を見に来ている中年男性。窓から見える方角を気にして、突然床に寝転がったりするもんだから、衿はビックリしてしまうんである。
しかもそこまでしてその時点では決めないから、衿も裕介に、こんなお客さんがいたんだよー、と話したりした訳なんだけど、次に彼が再び部屋を見に来た時には、裕介にそんな話をするような関係ではなくなっている。

けれども……この話は、後にしてほしいな。だってこの中年男性が寝転がったのは、恐らく彼はシングルファザー、一人娘が窓からお月様が見えるのかってことを気にしていたから。
だから次の下見には娘を連れてきた。一緒に横たわって、見えるよ、大丈夫だよ、と言った。
衿と裕介の間には子供はいないし、これから出来るとか、作るとか、ほしいねという会話すら出てこないけど、やっぱりなんか、意味深いものを感じるんである。だって、だってさ、セックスってつまりは最終目標?はそういうことじゃんよ。

下見の客はもう一組、これもちょっと印象的。まだ若いカップル。ラブラブで、こんなところに一緒に住めればいいネなどというモードになるもんだから、思わず衿は彼らから見えない場所に身を潜めるんである。
案の定、キスとかしだすコイツら(爆)。でも男性の携帯に電話がかかってきて、彼は彼女を置き去りにする。
ふわふわしたファッションの、いかにも恋愛にのめりこんでいる感じの女の子、憮然としている彼女と共に、その物件から静かに辞する衿。
これもまた、裕介とのすれ違いを示唆する描写だったんだろうなあ。

衿がふと思い直したきっかけはなんだったのか、そんなきっかけって、あっただろうか。あの、娘さんを連れてきた男性の存在だったのか。
衿は、休日裕介と歩いた、あの柑橘の木にジャンプして実をパクっちゃう。冷蔵庫をのぞいた裕介が、これ何?と聞き、衿は笑う。
夕食後、あそこからとってきたの?と驚き笑いながら、食べてみる裕介は、家庭の庭に無造作に生っていた実だからやっぱり「超すっぱい!」と叫ぶのだけれど、「でも、ハマるかも」と笑顔で食べ続ける。

衿は膝を抱えながら裕介に聞いてみる。通勤の時、どんなものを見ているのか、どんなことを考えているのか、と。
突然そんなことを聞いてきた衿に戸惑いながらも、裕介が考え考えしながらつむぎだした、彼だけが見ている情景は、とてもみずみずしくて、何か懐かしくて、一緒に見たいと思わせるものだった。
早朝のガソリンスタンドは、実はトラックなどがひっきりなしに訪れて忙しげなこと(私は判るもーん)。なぜか懐かしい匂いが漂う坂道。しんとした音のない早朝の静けさの中に、自転車のチェーンの音だけが響き、その音がとても好きなこと……。

一緒にいる時間が短くて、その中でも穏やかに会話を交わしていたし、それでコミュニケーションを取れていたと思っていたけど、お互いに起きていたこと、思っていたことをちゃんと聞いてはいなかった。
いや、彼の方は衿の客の話、あの中年男性の話を聞くシーンもあるし、彼女がそれに甘えて、彼のことを聞こうとしていなかった、ということなのかもしれない。

このシーンは本当に良くてね。何かまるで、台本がないかのようにナチュラルだった。
すっぱい柑橘の実にハマったとかぶりつきながら話す裕介、彼の話を聞きながら、時折それを口にしてすっぱい!と笑う衿。二人の間にあった氷が溶けていく様子が見えるようだった。
次のシーンでは、くっついたベッドで二人、自然に寝ている。自然に、っていうのはね、ベッドはくっついてたし、裕介の失業があってからは二人一緒の時間に寝てたりはしたけれど、不自然に距離があいていたから。

裕介の方はすれ違いの時間の時にも彼女のことを思い、彼女のベッドの方にもぐりこんで寝たりして、何かその感じが妙にエロで、セックスシーンよりエロで、あのカワイイ大ちゃんが、意外にすね毛で(爆)、彼女のベッドにじわじわ移動していく様子が妙にエロティックでドキドキしたんだけど、その間衿の方は心を離していく感じだったからさ。

で、一緒の時間に寝るようになって、彼の方は手をさしのべていたけど、彼女は身体を離していて……それが最後には、別にべったりくっつく訳じゃないけど、凄く自然に、いい距離感で隣同士で寝てて、ああ、いいなあ、と思った。
ベタに抱き合って寝てるとか、手をつなぎ合ってるとかじゃないのが逆にいいなあ、と。直前のあの会話シーンの心地よさがそのままつながってる気がして。

大ちゃんがすっかりセクシーになってたのにドキドキしちゃった(爆)。女の子の成長は何となく予測がつくけど、男の子は想定外(?)、うろたえちゃうわー。★★★★☆


ふゆの獣 Love Addiction
2010年 92分 日本 カラー
監督:内田伸輝 脚本:
撮影:内田伸輝 音楽:
出演:加藤めぐみ 佐藤博行 高木公介 前川桃子

2011/7/7/木 劇場(テアトル新宿/レイト)
うっわ、凄まじくうっとうしいと思い、決して好きになれない映画だなあと思いつつ、でもこれは傑作なのかもしれない、という印象は否めなかった。
ラストクレジットに示されたキャストダイヤローグという手法は諏訪監督をふと思い出し、確かにあの生々しい感情のやり取りは似てるかもとも思ったけれど、誤解を恐れずに言えば、もっとみっともなく、もっと泥臭く、もっと陳腐なんである。
全部、褒め言葉だと言って信じてもらえるだろうか……。

あのね、物語的には、本当に、陳腐と言ってもいいんじゃないかと思う。こんな完璧な四角関係ありえないだろ、という男女四人のもつれっぷり。
男1のあからさまな浮気やその言い訳を、突っ込めないほどホレている女1。
若い魅力でその男1と逢瀬している女2。
今時珍しいぐらい純朴で、優しくされるとすぐ女の子を好きになっちゃってこの泥沼にはまる男2。

彼らがありえないほどのタイミングで一堂に会した時や、男1の開き直るにもほどがある自己正当化に、劇場から半ば失笑にも似た笑いが漏れることすらあり、それはこの愚かな彼や彼女たちの感情の赤裸々さとはあまりにも真逆な陳腐さ、なのだよね。
でも、人間が、こんな陳腐なところに死ぬだ生きるだの大騒ぎをして、涙を流し、鼻水をたらし、過呼吸になって吐き、ついには包丁を持ち出し、その包丁が百均で売ってるような、切った野菜やなんかをはがれやすくする穴の開いたチャチなものだったりして……。
本当に、見るに耐えないんだけど、見るに耐えないほど愚かなのが人間で、そして、まだギリギリ青春や人間を信じていられるお年頃の彼らだから、その醜態を演じられる、って気がする。

……なんか、自分的には決して好きな映画じゃないから、凄い映画だと思ってるのは確かなのに、どうも言い様が難しい(爆)。
最初はね、ホント、どうしようかと思ったの。全編、状況を任された役者のアドリブであり、駅の構内などは人気がないとは言えどこかゲリラ撮影のような趣もあって、どんなにガランとしてても、騒音が耳について、ぼそぼそと喋る彼らの台詞が聞き取りづらいんだよね……。
そういうの、わっかりやすく苦手なんで(私のバカが丸出しだ……)、その時点でかなり拒否反応を示してしまったんだけど、ひょっとしたらそれさえも、計算ずくだったかもしれない。
懸命に耳を傾けているうちに、まだまだ全然本音を言わないでいた彼らが、どんどん本音を吐露し、涙を鼻水をたらし、転げまわって叫ぶようになるんだもの。どれどれと傾けていた耳がつんざかれるようになるんだもの。

ああ、確かに確かに、こんな風に、見えないフリをする、気づかないフリをする、傷ついていないフリをする。
女1が気づく男1の浮気はあまりにも明らか。どうせオカンからだからと電話に出ない、ガラクタが入っている物入れの中にデコネイルが紛れ込んでいる、放置された空き缶に口紅がついている。
……ね?私が陳腐だと言った意味が判ろうがね。こんなの今時、昼メロでもないワナ、というぐらい、ベタ過ぎる証拠。
だからついついこの時点で引いてしまって、そんな確固たる証拠を目にしても彼氏に突っ込めない彼女にもえーと思ったが、でも実は、現実ってのは、恐らくこの程度に……陳腐なものなんだよね。
だって確かに腐るほど聞くんだもん。腐るほどある例だってことなんだよね。
ああ、浮気するにしたって、もうちょっとスタイリッシュな方法を選べばいいのに!……って、その方法を選ぶために浮気をする訳じゃないから仕方ないかあ。

でも、その確固たる浮気の証拠を目にしながら、彼氏に突っ込めない彼女の歯がゆさこそが、一番、陳腐なのだろうと思う。
ちょっと心配になったからもう一度言うけど、この陳腐ってのは褒め言葉なのよ(爆)。だって、ものすごく完璧に陳腐なんだもん(……言えば言うほど褒め言葉じゃないような気がしてきた……)。
動揺する心を隠しながら、女1が他の話題を振ったつもりが、後ろ暗いところのある彼氏がさらにそこに墓穴を掘るように、支離滅裂な論を展開する。

友達が鍵をなくして、その恋人がプリプリ怒りながらも遠い距離を、合鍵を届けに来てくれた話。
男1は、夜中に鍵を届けるハメになりたくないから、合鍵を返すよ、と女1に言う。えええ!何それ!凡百の恋愛映画なら、核心の浮気にたどり着く前に、そのあまりといえばあまりの冷たい言い様に女の子が激怒するところだろうが、女1はそれもしない。
惚れた弱みか、嫌われたくないのか、あいまいな笑みを浮かべて「ええー?」みたいに受け流す。
しかも男1は、女1が持ってる自分の合鍵も返してくれという。後から思えば、ていうか、この浮気の証拠を見れば、そっちこそが彼の本音だったことはそれこそ陳腐なまでに明らかである。
苦しすぎるさっきと同じ理由を申し立てるも、当然了承しない彼女に、「すぐ合鍵作って渡すから」「私のマスターキーじゃないよ。じゃあ私が今から作ってきてあげるから」「いや、遠いから」とかなんとか、つじつまも理屈もこれほど合ってない会話はないってぐらいである。

浮気がバレたくない彼氏は必死なんだろうが、客観的……いや、もう一度言うけど、彼女にだってあまりにもあまりにもそれは明らかに判るのに、そう思うとこの男1って、最後までジャイアンばりにオレ様だけど一番バカなのに、なのに、女1は言えないの。
「怒ってる?怒ってるじゃん」などと、これまた陳腐な恋愛映画にありがちな、男1のゴマカシ台詞に、これまたお約束に「怒ってないよ」と言う女1。
確かに怒ってる顔ではない。ただ、不自然なまでに真顔である。真顔が限界なのだ。そして笑顔を作る。これまた真顔からだから、やけに歯をむき出して不自然なのだ……。

閑話休題。キャスト四人、皆血を吐くような内臓を見せ合うようなすさまじい演技。自主映画界では揃って名を上げている人達だという。
こういうのを見ると、演劇の、映画の、芝居の、役者の世界は本当に奥深いと思う。
あ、女2の、サエコを演じているコは「キミ/ハミング/コーヒー」の女の子!そう言われれば、そうだわ!

息遣いはもちろん、毛穴どころか内臓まで見えそうな超クロースショットでえぐりとる手法は、ベテラン役者だって、いやベテラン役者であればあるほど、こんなことは出来ないんじゃないかと思う。
だって、何度も言うけどやっぱり陳腐だし(爆)、浮気性の男に何も言えず、悩みを聞いてくれた後輩の男の子とウッカリ寝ちゃった女、なんてさ。
それを、もう余命いくばくもないほどにぜーはーぜーはー言って髪振り乱して、まるで地の果てでもう一度出会いなおした、みたいな雰囲気を臆面もなく作り出すなんて、やっぱりちょっと、難しいだろうなと思うもん。

……だーかーらー。なんか私、“好きになれないけど、傑作かもしれない”アンビバレンツに翻弄されすぎだろ(爆)。
多分、十分判ってやってることだろうけど、ツッコミどころは満載なんだもん。いや、単に、私が勝手に違和感を感じているだけかもしれないけど……。
たった四人の登場人物、皆が同じ職場の同僚なんだけど、ほんっとに、見事に、四人だけしか出てこない。
彼らの職場として出てくるのは、休憩にあがる屋上だけ。
屋上というのもなんか都合よさげにマンガチックだし、彼らが働いている場面が状況説明的にでも一切出てこないのは、ある意味潔いと思えるぐらいなのだが……。

何かね、ここまでありえないぐらい徹底していると、御伽噺のようにも思えてきちゃうんだよな。
いや、ちょっと逸脱するとすぐ御伽噺と言いたがるのは私の悪いクセだが(爆)、でもここはあくまでいい意味で、ね。
だってクライマックスで彼らがさまよう冬の枯れ果てた荒地は、何かそんな、現実離れしたものを感じるのだもの。

ちょっと先走りすぎた。男2と女2の話もまたあるのだった。
女2は男1と関係を持っているから、ある意味男2が一人、孤独であるような気がする。
男2は女2にフラれているのだが、それは実に判りやすく、恋愛にオクテな男2は親しく話してくれる女2にすぐに気を許してしまうが、はたから見たって同僚の域を出ないんであった。

いやいや、そうでもないか。どちらを基準にするかの話であり、男2のオクテは決して天然記念物ってワケじゃない。むしろ女2の方が男慣れしている。
つまり、異性と普通に親しく出来る。それが普通ではない人たちも相当数世の中にいるということを、彼女は判ってない。てか、それが判ってしまう方の私が虚しい(爆)。
男2がお互いの傷をなめあう形で女1と関係を持ってしまって、彼女を好きになってしまった、というか、好きになってしまったと思ってしまった、として、何の罪悪があろうか。

実際、物語も冒頭の方だし、なんといっても一番さらけだしまくるヒロイン、女1との緊迫感あふれる会話パートなので、強い印象に残るんだよね。
明らかに浮気している、しかもその“恋人”は自分に付き合っている、と一度も言ったことがない、つまり誰かにとっての浮気相手は私の方かもしれない……。
日本人女子にありがちなネガティブにどんどん落ち込み、夏場の犬みたいにゼーハー言いながら「あの人はきっと私だけだと思う、私だけだと思う」と、ぜってー違うに決まってることを繰り返す女1のやりきれなさと言ったらなく、女1、ユカコを演じる加藤めぐみ嬢の悲観的なコケティッシュさ(ヘンな言い方だけど、そんな感じ)が壮絶なまでに素晴らしくてさあ。

彼女が、男2、ノボル(こうして役名しるすなら最初からそうしろよって感じだが)と寝た後、会社の屋上で、だからかなり時間が経っているのに、そこでいきなりハンカチをミネラルウォーターで濡らして急いたように身体を拭きだすのがなんか妙に……エロくてさあ。
ポスターの彼女もそうなんだけど、無意味なほどに(爆)振り乱した前髪と、ぼってりと重たい唇、出気味の歯さえもへんにエロいのよね。
カラミシーンがある訳でもない。それで言ったら、女2のサエコを演じる前川桃子嬢と男1のシゲヒサ(だから最初から名前で記せって……)とはキスシーンも、背中だけのハダカとはいえカラミ風のシーンもあるんだけど。

いや、逆に、ないからかなあ。女1が「彼は私と付き合っていると言ったことがない」と言う台詞、実際、当たり障りのない会話ばかり、ピザを頼むのにチラシがあるかとか、そんなことばかりで、キスどころか手を触れ合うことすらしないことが、女1が彼の浮気を疑い、その悩みを打ち明けた男2とウッカリ寝てしまったことで、まるで彼女の欲求不満を……それはつまり、心身ともに、ってことなんだけど、を、示しているようでさあ。

先述したけど、四人が一同に会する場面は、彼らが必死なだけに、時々あまりの理不尽さ、矛盾さに、観客がクスリとしてしまうという、だけどまったくコミカルなんぞを狙ってなどいない、超真剣、という、なんとも不思議な化学反応が、スクリーンと観客席に起こっていたんであった。
アホらしいまでに理不尽な言い訳を自信満々に展開する男1が論が立つということ自体、多分設定のひとつだったんだろうなあ。
だって男2は口下手で、言いたいことの半分も言えなくて、男1のヘンテコな論理に押されてしまうけど、彼が必死に搾り出す「僕は間違ってない!」と言う方が確かに正解なんだもの。
もし男2のノボルを演じている高木君が実際は弁の立つ子だったらさ、絶対言い返したくなるよなあ。だって男1は笑っちゃうぐらい自己弁護に論を費やすんだもん。

そう、先述したけど、そもそもこの四人がココに会すること自体が……。
浮気相手の女2とセックスしているところに女1が訪ねてきて……そう、あの心配していた合鍵でよ。なんでかこの男1は双方を引き止める。なんで(爆)。引き止めてどうするつもりなの(爆爆)。
しかも、なんで帰るの、と、まるでこの場が何もおかしくないみたいな態度で(爆爆爆)。女たちの取り乱しこそがおかしいみたいな態度で(爆爆爆爆)。もう爆も使い果たしたわ。

なんかここからコミカルが始まるんじゃないかと思うほど男1の開き直りっぷりは可笑しくてさ。女二人がこんなおかしな引止めにずるずる応じてとどまるのも、男2が包丁を出したのにビビッて、男1がベランダから外に逃げ出す情けなさも、何より女1が結局彼の元に戻ることを示唆するようなラストも……。
別れた方がいいに決まってるって!と声を大にして言いたいんだけど、なんか可笑しくて、だからまあいいや、こんな男でも誰か一人は支えてくれる女が必要かも、なんて思ったりして……。ああ、それが、女の弱さなんだろうけどさあ(爆)。

ずっと閉塞感があったから、いかに笑っちゃったとしても、男1が逃げ出してから、冬枯れた戸外へ四人が飛び出してからは、寒々しくも、妙に開放感がある。
それを示すかのように、若い二人、男2と女2はどこか吹っ切れたように笑顔で対峙するも、男1と女1はまだ闇の中である。
妙にだだっ広い、荒れ果てた畑のような場所で、壊れかけた小屋のような場所で途方にくれた男1は携帯をかける。
この期に及んでコイツは、しかもどっちにかけるんだと思ったら……女1の方だった。

これもまたいい意味での陳腐な結末だったのかもしれない。客観的に見れば、そう、それこそ“私ならこんな男、絶対に別れる”と観てる女性は誰しもが思うであろうが、でもそんな女の子たちも、きっと同じ結末を迎えるんである。
自分に電話をかけてきてくれたこと、助けを求めてくれたことを喜び、当てもなく、まるで当てもなく恋人を探す。
ただひとつ。あの時、浮気されていることを年下の男2に泣きながら打ち明けた時、女1は言ったのだ。
つきあってるのに、彼の顔が思い出せないんだって。プレゼントを買おうとしても、顔が思い出せなくて、似合うものが選べない、って。

何か、この台詞は妙に、響いた。好きだと思っている相手、だから浮気されていると思っても顔を見て問いただすことも出来ず、恋人の“ような”雰囲気を保つためだけに腐心し、彼の顔が、いや、そもそも彼がどんな人間なのかも、判らなくなっていく。
このラスト、女1が男1に、いや、ユカコがシゲヒサに「(顔を)覚えた」と言ってブラックアウトした幕切れから、二人は始まるのだ。まだ二人は出会ったばかりに等しい、のだ、ろうと、思う。

なにかこう、なにかこう、上手く言い表せず。
華やかに活躍してメシが食えているスターの映画ばかり観ている途中にうっかりこんな映画に立ち寄ると、なんかこう、なんかこう、自分が凄く、楽でいられる場所にとどまって、身のうちから腐っていたことに、急に気づいたような気分になる。
なにかなにか、何て言ったらいいのだろう。好きな映画じゃないのに、決して好きな映画じゃないのに。★★★☆☆


ブラック・スワン
2010年 108分 アメリカ カラー
監督:ダーレン・アロノフスキー 脚本:マーク・ヘイマン/アンドレス・ハインツ/ジョン・マクローリン
撮影:マシュー・リバティーク 音楽:クリント・マンセル
出演:ナタリー・ポートマン/バンサン・カッセル/ミラ・クニス/バーバラ・ハーシー/ウィノナ・ライダー

2011/6/21/火 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
まさにこの「ブラック・スワン」一本かぶり状態で、こうも大ヒットしてるとヒネクレ者はふん、観たいもんか、などとうそぶいてみたりするのだが、「ブラック・スワン」は観た?観るの?などと誰かれなしに聞かれるとううむ、と。昨今こんな一本かぶりも珍しいんじゃないのかなあ。
くっそーと思いつつ少しでも落ち着くのを待ち、待ったつもりでもやっぱり劇場はコミコミ。コミコミの劇場で観る悔しさ(なぜだ……)にまたしてもくっそーと思いつつ、しかしやはりちょっとドキドキしてみる。

あれ?
これを観てなんで「女って怖いなと……」などという感想が出るん?
いやいや、それはあのテレビスポットである。映画がヒットすると配給会社が意気揚揚と出してくる、鑑賞後の観客の感想を臨場感たっぷりに畳み掛けるアレ。
その最後には「ただの映画だと思ってるとヤケドします」だなどと、どっかで聞いたような台詞を妙にドラマチックに言ったりしてケッと思う一方、確かにそれにワクワクして観に来ている私が(汗)。
しかししかし、なぜこれを観て「女って怖いな」と思うの?あの女の子は本当にこの映画を観た後であの感想を言ったの?……なんてトンでもない気持ちまで浮かんでくる。

だって、だってさ……。あんな感想聞けば、もう即座に、バレリーナ同士の蹴落としあい、役の奪い合い、イジメとかイヤガラセとか、役を奪うためには演出家やスポンサーに身体をゆだねたりとか(まあそんな匂わせもなくもなかったけど)ドロドロを予想するじゃん。
しかも舞台は女ばかりのバレエ団。いやいや男も勿論いるけど(爆)。
女の子にとってバレリーナってのはヤハリ永遠の憧れだからさ、バレエといえば女の園みたいなイメージもあるしさ、だからこそ女のドロドロが怖い!そういう話なんだ、やっぱりねー!みたいな期待があんな感想聞いちゃったら、膨らむじゃない。
え?それともそれって私が単純でベタすぎる?そうかもしれんが……。

でもさ、でもでもでも、なんであんな感想が出たんだろう。だってそんな、私が単純に想像したようなことはひとっつも、出てこなかった。
いや、それはちょっと語弊があるかな。少なくともヒロインのニナはそう思っていたかもしれない。それで苦しんでいたかもしれない。
でもそれは徹頭徹尾、妄想で、そんなことは何もないの。それどころかニナを心配して愛している人ばかりなの。
いやいや、それも言い過ぎかな。でも少なくともニナが恐れている妄想の相手の真の姿はそうなのだもの。
……真の姿……?ひょっとして私も騙されているんだろうか。何か言っているうちに、私もまた、何も見えていない気がしてきた。

ここで脱線するのはまだ早いから、気を強く持って(爆)続けるとね、ニナはまあ、ありていに言えば、精神疾患の持ち主、なんだよね。
彼女が見る幻覚や幻聴は最初の段階から明確に示されるし、その原因となったであろう母親の異常なまでの愛情と期待も、判りやすすぎるぐらいに判りやすく描かれる。
母親を演じるバーバラ・ハーシーの外見からかもし出す神経質さといい、彼女だけはニナの妄想なのか実際に偏執的な母親なのか、ちょっと見分けがつきにくいぐらい。
あるいはこの母親が、そうしたカラクリのキーワードだったのか。

って!また脱線しそうになった。まだ早い、まだ早い。
だからね、本作は女が女を蹴落とすとか、醜いライバル争いとかそんなんじゃなくて、妄想に悩まされるニナの精神の病みの壮絶なる葛藤の物語なんだよね。誤解を恐れずに言ってしまえば……一人の精神病患者のプロファイル。
でも、逆に、うがった見方はいくらでも出来る。だってニナの妄想は徹頭徹尾だけど、全部妄想だと解説される訳では勿論、ないからさ。

しかも彼女が主役に抜擢された白鳥の湖は、ホワイトスワン、ブラックスワンの二面性を演じなければいけない難役。
二面性が二重人格、つまり解離性同一性障害とイメージされるのは実にたやすく、実際、ニナの中には官能的で心に闇を抱えたブラックスワンがいたからこそ、演出家は彼女を主役に抜擢したに違いない。

心の闇というキーワードもまた、闇、病みという、まあこの場合は日本語的なシャレのようなもんだけど、でも彼女の抱える精神的疾患が役をつかむということに作用すると考えられなくもない。
全てが妄想だと思えたいくつかはひょっとしたら現実なのかもしれない、とか考え出すと、それこそかなり多面的な物語になるのだろうが、でもその線引きをするのはかなり難しい気がする。それが本作を好きになるかどうかの境目のような気もする。

私ね、この直前に「ダンシング・チャップリン」を観ててさ、で、本作を観るって話をある人にした時に、ある程度バレエ映画だと思って観たらちょっと失望してしまった、みたいな話を聞いて、そして実際に観て、ああ……なるほどな、と思ったんだよね。
「ダンシング・チャップリン」でホンモノのバレエを観てしまっていたから、余計にね。
ダンスシーンはナタリー・ポートマンの顔がアップになるいわゆるバストショットがやはり半数を超えるのは、そりゃ致し方ない。
そして全身が映るショットではいきなり顔の判別が出来ないぐらいの引きになって、ああ、やっぱりそういうことだよね、と思う。彼女の顔が判別できる程度のダンスシーンはやっぱり、それなりだし……。
「ダンシング……」観る前だったら違ったかなあ。やっぱり圧倒的なんだもの、ホンモノの、全身の芸術のバレエは……。

まあだから、本作はバレエ映画ではないのよね。そこに舞台を借りているだけで、確かに、クラシックで華やかで、トウシューズという、見た目は桜色で可憐なのに、実は拷問みたいな道具にきゃしゃな足を痛々しく押し込めるなんて世界は、そうした心の闇を描くのにはピッタリで。
白塗りのメイクや、ブラックスワンに身も心も侵食されていく様の、ここぞと使うCGといい、上手い!と思うけど、決してバレエ映画じゃない。

精神を蝕まれた女の話。映画の王道ともいえる、病める女の話。
……正直、狂っていく女を映画で見るのは、もう見過ぎて、そろそろアナクロニズムな気もしてあまり好きじゃないんだけど、でもこれはいわゆる“白痴美”ではなく(それが一番キライ!)ハッキリと自我を持ったまま追いつめられていく女の話であって……。

私ね、ラストクレジットで初めて、これがアロノフスキー監督だって、知ったのよ。遅っ。
いやだってさあ、もうオスカーも席巻して、すっかりハリウッドの大メジャー!なんたってナタリー・ポートマンだし!みたいな気分で観ちゃったからさあ。暗黒映画作家の彼だって知ってれば、こんなつまんない葛藤に悩まされずに済んだのに。
いやまあ、そんな言うほどちゃんと彼の作品をチェックしているワケじゃないけど(爆)でも、最初の「π」の衝撃がいまだに尾を引いているからさあ。

そう、ナタリー・ポートマン。本作で見事オスカーをゲットした彼女。ヤハリ私ら世代にとっては「レオン」の少女だからさあ。
勿論その後も順調に活躍して、あまり外国映画を見ない私でもちょいちょい目にしてはいたけど、でもやっぱりちょっと、ビックリした。
いや、キャラのイメージとしては、そんなにはビックリしない。やっぱり少女時代のインパクトが強いから、清純でマジメで、振付師がホワイトスワンだけなら君にピッタリなんだが……と、最初はヒロインを他の、いかにもコケティッシュなダンサーに振ろうとしたのもさもありなん、と思わせる。

決死の思いで慣れない真っ赤な口紅を差して振付家に談判に行き、しかしもう決めたから、と言われるとアッサリ諦める彼女に、彼はいきなり濃厚なキスをする。
思わず彼の唇(舌?)を噛んだニナに驚いた彼は、直前でヒロインをニナに変更するんである。
いや、本当にこれが理由だったのか、最初からニナのつもりだったのかは判らない。最初から彼はニナの二面性を見抜いていたのかもしれないけど……。

で、まあ、ビックリしたとは言ったが。この後、ちょこっと自慰シーンやヤクで自身を失った中でウッカリ男とヤッちゃったり、妄想(かどうかも、もはやこうなると判然としない)の中で、同僚ダンサーの女の子と愛し合う場面なぞもあるけど、確かにそのどれもがナタリー・ポートマンがねえ!と思わせるものではあるんだけど……。
お前は深津絵里か!なんでそんな執拗におっぱいはガードするんだよ!いやいやいや、おっぱいを出す一点が重要じゃないけど、それにしても不自然なほどに隠しとおすよな……。
レッスンコスチュームで乳首はくっきり出てるのにさ(爆)。てか、彼女、ちょっとビックリするほどおっぱいないのね……いや別にいいけど(爆爆)。

てかね。彼女演じるニナって、もう終始ビクビクしてて、オドオドしてて、涙っぽくて、正直、イラッとする訳(爆)。
彼女はどんどん妄想に侵されていくんだけど、どんどん、っていうか、最初からなんかいちいちビクついてるし、泣き顔だし、いい年してとか(爆)思っちゃって、ぜえんぜん、彼女を応援する気にはなれない。
ていうかね、ホント、こんなコならそりゃあ不安、疑心暗鬼、被害妄想にかられて心も病むわな、誰もあんたを助けたいとか思わないよ、などとイジワルなことを思っちゃう(爆爆)。
つまり彼女って、同性に嫌われるタイプっていうかさ……レッスン着もオトメチックなピンクカラーで統一していたりするのも微妙にイラッと来るのよね。

……というのも勿論、計算、だよね。だって母親と二人暮しの彼女の自室は、淡いパステルカラーのぬいぐるみだのなんだのに囲まれてて、母親が寝かしつけるのは、陶器のバレリーナがくるくると踊る意匠のオルゴール。流れるのはエンドレスの白鳥の湖。
母親からの携帯の着メロも白鳥の湖。オルゴールの意匠なんか特に、「赤い靴」の、死ぬまで踊り続ける運命に縛られたバレリーナをふと想像してしまう。
母親に縛り付けられ、死ぬまで、倒れるまで踊り続けることを運命付けられたバレリーナ。まさにその通り、なのだもの……。

母親に反発する形で、ちょっとやさぐれた同僚のリリーに誘われて夜の町に繰り出すニナ。
このリリーは、……後半はニナの妄想も激しくなってくるので、なかなか判断しづらいんだけど、私は素直に、彼女は本当にニナの才能を尊んでて、本当に仲良くなりたいと思って近づいたんだと思いたいなあ。
控えの代役となったリリーに役を取られるとニナが恐れたことで、衝撃のラストが引き起こされるんだけれど、でもそれだけリリーを恐れたのは、ニナが憧れるだけの魅力がリリーにあったからなんだよね。

だってリリーはまさに、黒鳥の、コケティッシュで妖しい魅力を持っていたんだもの。逆に言えばリリーには、ニナが誰もに認められている純白の清純さは持ってなくて、ホワイトスワンに関してはちょっとどうかなと思わせる部分があって……。
でもそれを、ニナがちらとも考えないあたりが、やぱり彼女はもう、被害妄想に思い込んじゃってる訳だからさ。その得手勝手な悲壮さがイラッと来る訳なんだけど(いやいや!)。
でも実は、このリリー以上の暗黒をニナも抱えてて、それを彼女は最後の最後に獲得したのだ。だけどそれと引き換えに……。

おおーっと!その前に。あのね、ニナが憧れてやまないカリスマバレリーナとしてウィノナ・ライダーが出てくるのよ。
ウィノナ・ライダー!!!いや、登場した時に、あれ?ひょっとして……とは思ったけど、リリー以上にやさぐれまくった、もうだって、あのくだんの女好きの振付家によって勝手に引退の引導を渡されちゃった、なんて役でさ。
なんか若い頃よりアゴが張ってるような気がして(爆。いや、確かにもとからアゴは張っていたが……)あの美女の代名詞のウィノナ??となんとなくショック……。
いや、久しぶりに、しかもこんな大きな役で見られたのは嬉しかったが(私が見てないだけで、ちゃんと活躍してるんだろうけどさ)、なんか……切なかったなあ。

でもね、でもねでもねでもね、それこそ「ダンシング・チャップリン」を観た直後だったでしょ、振付家や演出家やスポンサーに性的なコビを売るとか、単純に年齢だけで引導を渡されて、若いスターをチヤホヤするとかさ、そんなつまんない描写ヤメてよ、と思ったりもしちゃったかなあ……。
才能と努力と意志、そして何よりプライド、それは志の高い、透明な、崇高なプライド。
バレエの世界、クラシックであればあるほど、きっとそれが厳然とあるんだと、ボニーノや草刈さんを見て思えたからさ、なんか、だから、さ……。まあそりゃあ、実際にもそういう汚さもあるんだろうけれど……。

もうすっかり妄想に侵食されちゃって、プレッシャーに負けると掻きむしっていた背中の傷も、なんかどんどんブツブツ度を増しちゃって、見るからにゾゾ気が立つような状態になってる。
この皮膚が侵食される感じは、展開を追うごとにいや増していって、舞台で踊っている時も、エアパッキンみたいなプツプツが肌をさらりと覆っているのが見え、あれ?目の錯覚?などと思っているうちにそれが更に更に侵食され、最後には全身トゲトゲ、黒い羽毛が生え始め、まさに全身黒鳥になるという、CGはこういう風に使わなきゃね!などとミョーに感心するクライマックスが待っているんである。
なんかちょっと、この黒いのに侵食される感じ、「鉄男」チック?アロノフスキー監督も確か塚本シンパだったもんなあ。

それまではね、その直前まではね、もうニナは追いつめられて追いつめられて、あの憧れのプリマ、ベスを見舞いに行くと激しい自傷行為に遭遇し、しかしハッと我に帰るとそのナイフをニナ自信が持っていたりして、もう何もかもが判らなくなってるのさ。
で、公演の直前には最高潮に錯乱、なんでか知らんが、自分の足がバキバキと折れたようになってギャー!みたいな!?思わず、なんじゃそりゃ!?と松田優作のように叫んでしまったよ(爆)。

確かに最初から最後まで、ニナが明らかに病気であること、精神疾患を抱えていることは、明確に示されてはいたんだけど、でもなんせ、ここまで彼女を追いつめた母親もまた偏執的だったから、ちょっと自信が持てないところがあってさあ……。
この母親も、バレエに人生を捧げた人だったらしい。で、ニナを身籠ってその夢を断念した、らしい。
女好きの振付家との関係を心配する母親と口論になった時、私もそれで夢を諦めたから……と母親は禁句を口にする。
ハッとして、あなたを産んだことを後悔してないとかなんとか取り繕うけど、母親が自分の夢を娘に丸投げしているのは明らかだし、だからニナは苦しんでいる訳だし。
でも、母親がニナを妊娠したのは28の時、しかも群舞で終わったことを知っているニナは、母親の自分に対する思いを恩着せがましく思ったのか、ついに言ってはいけない一言を……おおぅ!

バレリーナの寿命が短いこと、でも才能あるダンサーは50代まで踊っていたと言いながら、それにはまだ早いベスが引導を渡されていること、そしてニナ自身が、バレリーナは若さが命だと思っていること、だからセックスの駆け引きなどが頭をよぎること……。
こうして考えると、全てをニナの妄想、ニナの精神疾患だとしてしまうのは確かにツマラナイ気もし、でも逆に、そんなバレリーナ伝説を引くのは更に古くさい気もして。
やっぱりやっぱり、これは暗黒心理作家、アロノフスキー作品だと思ってしまえば、単純に、そして深く、収束してしまう気もするのだよな。

本当は親友になれたかもしれなかったリリーと殺し合いをした妄想、実は刺したのは自分自身で、瀕死の白鳥を演じた後、ハッピーエンドかもしれない死を迎えるラスト。
後半からしきりに見えていた、セックスし、口論し、ケンカし、殺し合う相手が自分自身に見えていた妄想は、しかし常に一瞬だったからさ、あれ?あれはニナ自身、つまり分身を見ているんだよね?と、だって一瞬だしメイクも似てる外国人だし(爆。うっわ、最低!)、なんか自信持てなくってさー。

でも、ニナにとって最初で最後の晴れ舞台で、彼女はようやく、分身として見え隠れしていたもう一人の自分に出会えて、ようやく完全になれて、そして、白鳥の湖のヒロインと共に、死を迎えた。
純白の衣装に鮮やかなバラのように染まる深紅の血。これが幸せ、とするのは、あまりに御伽噺のように、心理説話のように美しすぎて、それこそアロノフスキーさんらしくない、などと判ったようなことを言うのはいけないだろうか?

リリーの背中のイレズミ。夜の街、いかがわしい世界に、マジメなニナを誘う彼女のキャラや、黒鳥、あるいは心の闇、あるいはそこから想起される悪魔的なイメージもあるのだろうけど、バレエダンサーがあんな目立つとこにイレズミ……ニナだって背中の傷を気にしてたのになあ。うう、つまんないこと言ってるな、私。★★★☆☆


プリンセス トヨトミ
2011年 119分 日本 カラー
監督:鈴木雅之 脚本:相沢友子
撮影:佐光朗 音楽:佐橋俊彦
出演:堤真一 綾瀬はるか 岡田将生 沢木ルカ 森永悠希 和久井映見 中井貴一 宇梶剛士 甲本雅裕 合田雅吏 村松利史 おかやまはじめ ト字たかお 菊池桃子 平田満 江守徹 宅間孝行 玉木宏

2011/6/11/土 劇場(有楽座)
なんだかここんところ地方(ロケ)映画で魅力的なものがどんどん出てきたなあ、という思いはあったけど、その流れとも言え、その流れからは独立しているとも言える、“大阪映画”である。
独立していると感じるのは、無論、大阪が東京と並ぶとも劣らぬ大都会であるということもそうだが、それ以上に、これほどに自我の強い場所もなかろうと思われるから。
その点に関しては、いわゆる首都の地位に甘んじている東京では決して感じられない強烈なプライドである。

住んだことがなくても、行ったことすらなくても、誰しもが感じる、その強烈なプライドは、どこか自嘲気味になることが故郷へのねじれた愛のような態度をとりがちな、他の地方民には決してないことであり、もとよりそんな感覚の薄い東京では更に、である。
いや、まあ、私がいる職場も住んでるところも、いい感じに古くからの江戸っ子が集まっているところなんで、それなりの江戸っ子の気質やプライドを感じもするけれど、それさえも、見栄っ張りの彼らは表に出そうとしない。
粋であることを重んじて、こんなあけっぴろげな土地への執着を表に出さない。

なあんて言うと、オオサカ人が泥臭いまでの愛国心を持っていると言ってるみたいだけど、でもまったく、その通り!意識せずして“愛国心”と言ってしまったが、まさに本作は、大阪国への愛国心を剥き出しにする男たちの物語なんである。
そう、男たち、なんだよね。男たちにだけトヨトミの末裔を守るという使命が下され、父親から息子へその使命が語り継がれ、女たちに課せられるのはそんな男たちを送り出すことである、というあたり、古い家父長制度を思わせなくもない。

ならば女はどこでその使命を知るのか、あるいは私生児(という言い方もいかにも古いが)で男の子を産んだら、その子はこの使命を受け継ぐことは出来ないのか、いやいやその場合は事態を汲んでお祖父さんが教えるのかも?などと、なんかどーでもいいかもしれないことが気になったりもする。
それは原作ではクリアされていることなのかもしれないけど、やっぱりちょっと、女が置き去りにされている感は感じるなあ。
いや、それでもこれがここ“大阪国”で成立してしまうのは、男たちの考えていることなんて百も承知で、尻を叩いて送り出してしまうパワフルなおばちゃんたちが跋扈する土地柄であり、外野がそんなツマンナイ心配する必要なんてないんだろうな、と思わせるところが、さすが大阪の凄いところだな、と思うんである。

そうなの、これは確かに奇想天外な物語。奇想天外と言って即座に名前が上がるのであろう、この今をときめく小説家の手による物語の映像化は三回目で、映画になった「鴨川ホルモー」は観たけど、画的(CGのね)なファンタジックさに少々鼻白んだのは正直なところ否めなかったりもし、ドラマになった「鹿男あをによし」は観てなかったのでアレなのだが。

まあとにかく、本作に関しては、大阪ということと、「鴨川ホルモー」の印象で、少々腰が引けていた感は正直、あったかなあ。
監督がテレビドラマの演出家さんだということも、うがちたがりたい映画ファンとしては何となくうーんとも思わせたが、そんなつまんない先入観をカッ飛ばしてくれる快作!
いやある意味、これはドラマ的なテクニック……観客をあざといまでに右往左往させるテクニックが確かにこの世界に合っていると思わせ、映画とドラマを何のこだわりもなく行き来するメインキャストの颯爽とした魅力もあいまって、あっさりと陥落してしまった。

ことに、はるか嬢は予想以上に良かったなあ。彼女が世間的にも知られてしまっている天然な魅力を、“ミラクルを起こす女”としてさらりとキャラに転化しているのがとてもチャーミングで、「ハッピーフライト」でもそんなかわゆさがスクリーンにはじけていたし、それがこだわり無くドラマでも発揮されている彼女は、ほおんと得がたい女優さんだと思う。
これが意外に今までいそうでいないタイプだったんじゃないか、などと、彼女を見る度にその評価はうなぎのぼり。

岡田君は年若いのに、ここまでいろいろと重要な役を任される、ラッキーな若手。正直彼の実力は未知数だが、チャンスも実力というところかなあ。
今回の役どころ、会計検査院ってのが本当にあるのね、とちょっと驚いたのは、彼がドラマでやってた役にソックリだからだったんであった。あれは架空の機関ということだったからさ……。
よーちゃん目当てで見ていたものの、途中で挫折してしまったあのドラマ、なんか設定が、かぶるなあ、と思って(爆)。
日仏ハーフのゲーンズブール旭、という役は、最終的に大きな物語のカギを握ることになる。彼がいつも曖昧な笑みを浮かべていたのはそういうことだったのか、と得心が行くんである。

ところでところで。大阪国、なんである。この設定、密かに国からも承認され、古くは明治維新の時から認められている独立国で、国から多額の補助金をもらっているという設定は、確かに奇想天外ながらも、大阪ならあるかも……と思わせてしまう。
それは先述した大阪の強烈なプライドが、ひとつの地方としてはあまりに強大過ぎ、なるほど、一つの国の国民と言ったらしっくりくるかも、などとマジメに思ってしまうところでもある。

ただそれは、今までは、どこか吉本とか松竹歌劇的な、笑いのめす方向であったように思う。
実際、大阪大統領などという設定のナンセンスコメディが、吉本布陣で作られていた記憶もある。未見のままだけど。
でも本作はその点、大真面目であり、実はそこが一番、新鮮なのではないかという気がする。
大阪国に切り込む会計検査院の超エリートが堤真一であり、それを迎え撃つ大阪国大統領が中井貴一、マジ過ぎるではないか。3の倍数でアホになるお方とは違うんである(ゴメン!いや、確か彼が大統領役だったんだよね?)。

太閤秀吉への強い思慕、大阪城を建てたのは歴史的認識では彼だけれど、今建っているのは徳川の時代になっての力の誇示として再建したから違うんだという強烈な自負。
そのアンビバレンツな思いを抱える城の地下に密かに建築された、国会議事堂によく似た広間。そこに通じる秘密の長い長い廊下……。
大阪国としての立地条件は、トヨトミの末裔を守ること。夏の陣によって全滅させられたと伝えられてはいるけれど、実はたった一人生き残っているのだと。
その末裔が生きているということが、太閤秀吉を思慕する大阪の民に大いなる勇気を与えたのだということ。

そしてそこまでは明言しないけど、この大阪という“国”の強烈なプライドはそこから来ているのだとさえ、本作は言っているように思うのだ。

秘密の廊下を建物の奥に隠している財団法人OJOが、今回大阪出張で調査するうちのひとつに入っていて、当初は問題なく調査を終えた会計検査院の三人。
しかし、忘れた携帯を取りに行った、鬼の松平と呼ばれるリーダーの松平元(堤真一)が、異変を嗅ぎとる。迎え入れてくれた経理の長宗我部も、さっきまで粛々と仕事をしていたスタッフも姿を消し、電話はつながっておらず、机の中身もカラッポ。まるでバミューダトライアングルに消えた船のような有り様。
翌日改めて訪れると、スタッフも机の中身も復活していたものの、まるで動じずに応対する長宗我部に逆に不信感を募らせたのか、あるいはこれは鬼の松平のカンなのか、彼はOJOへの徹底捜査をはじめる。
それは、実はこの場にいざなった若手調査官、ゲーンズブールの策略なんであった……。

実は大阪国国民であったゲーンズブールの、大阪国を正式に、公けに独立させたい、という若き野心と、大阪国国民になり損ねた、幼い頃別離した父親を袖にし続けた松平、そして彼らと対峙する一見地味だけれど、ひと筋縄では行かない強い意志力を持つ大阪国大統領、真田といった男臭い関係性からぽーんと抜け出て自由奔放に動き回るのが、綾瀬はるか嬢演じるミラクル鳥居である。
彼女は一見、本作のメインストリームにはまるで関係なさそうな、中学生のイジメの現場に首を突っ込み、松平やゲーンズブールを呆れさせる(ていうか、呆れているのはゲーンズブールだけで、松平はどーでもいい、という雰囲気なのだが)。しかし彼女が首を突っ込んだ問題は、見事にメインストリームにつながっていく。
いじめられていた、“女の子になりたい”大輔は総理大臣の息子で、大阪の男たちが担う、トヨトミの末裔である王女を守る一番の先鋒にいるし、その大輔を実に“男らしく”守ろうとしている幼なじみの女の子、茶子が、そのプリンセス、なんである。

本作の宣伝展開で最も印象深く示される、“大阪全停止”と、街中から人々の姿が消え、車も電車も走っていないという、ハリウッド映画の何かで見たような場面は、プリンセスが会計検査院によってさらわれた、という緊急事態に大統領が動いたからなんだけど、後に説明されるところでは、この秘密を共有しているのは“父親を失った男子”だけの筈であり、実際、大統領の元に駆けつける男たちは平均40代以上の壮年の男たちなのに、街中から誰一人、子供も学生といった若者や女性もいなくなるというのは???
いやいや……これも原作を読めばクリアする問題なのかもしれず、こんな映画的魅力溢れる場面にケチつけること事態ヤボなのは判ってるのだが、かなり心動かされちゃっただけに、気になっちゃうんだよなあ。

鳥居がプリンセス、いやさ茶子ちゃんを“拉致”したのは、いじめられていた大輔が乗り込むかもしれないと危惧して、イジメっ子であるヤクザの息子、蜂須賀の、そのヤクザ事務所に彼女が乗り込もうとしたからなんであった。
ナップサックからすらりと金属バットを取り出す茶子は、剣客のような凄みがあって、おっとこ前でホレボレしてしまう。
この茶子を演じる沢木ルカ嬢の面構えは実に素晴らしく、野性味のある内田 有紀、といった感じである。タイトルロールを担うプリンセスにぴったり。

そのプリンセスを先頭切って守る運命にある大輔を演じる森永君もいいんだよなあ。「しゃべれども しゃべれども」かあ、見覚えあるような気がしたのは。
女の子の心を持ちながら、男としてプリンセスを守る運命にあるという面白さ。
しかもこのマッチョな大阪国という社会で、息子の自由な生き方を認めながら、それと矛盾しない形で息子にそれを説く中井貴一のカッコ良さにもブルッときたが、それを坊主頭のセーラー服姿で素直に受け入れる大輔の純真さにも琴線触れまくり。

暴走しそうな茶子をかくまっている鳥居が、幼なじみの大輔への彼女の想いを知って、大輔君のこと、好きなんだね、と言うと、彼女はそんなんじゃない、幼なじみで、男とか女とか関係なしに、大事なんだと。きょうだいって、そんなん関係なしにそうやろ?と言う。
その瞳も口調もまっすぐで、鳥居は自身のヤボな言い様を引っ込めるけれども、でもちょっとは、やっぱり、茶子はそういう思いは持っているだろうな……と思うのは、ヤハリ大人の、いやオバチャンのうがちだろうかね?

プリンセスが拉致されたということで、一時は一触即発になりそうだった。空撮でとらえた無数の男たちは、ある程度CGを使っていると思っても鳥肌が立った。
「嘘をつかない男は強い」と、松平がその真摯さを恐れた大統領、中井貴一は、普段はお好み焼き屋の亭主として黙然としている様からは想像もつかない圧倒的なカリスマ性で、暴走しそうな無数の群集を静かに従えていた。

松平が、嘘をつかない男は……と言ったのは、彼を浅く見るゲーンズブールに対してである。ゲーンズブールが信念を持っていたとはいえ、いわば嘘を持ってここまでの事態を招いたことと、松平が、自分を武装するために嘘で固めた人生を送ってきたこととがそれに対比される。
松平が大阪生まれであること、父親は亡くなっていることを知ると大統領も、群集もどよめく。側近の長宗我部はなんてことだ、と天を仰ぐ。
つまり、松平は大阪国民の資格を持つべき男であった訳で、お父様は死ぬ前にあなたに何かを言おうとしていなかったか、と大統領は必死にかきくどく。
そして松平は、ずっと自分の恥だと思っていた、幼い頃に別れたっきりのごんたくれの父親の、その死に際からの電話を思い出すんである……。

そこからは、大輔の舞台への乱入や、群集の誰かが松平に拳銃をぶっ放すなんていう実に映画的な混乱もありつつ、恐らく父親を回想した時点で答えは出ていたであろう松平の降伏宣言によって、事態は急速に収束するんである。
鳥居が、あるいはプリンセスである茶子がちゃんとこの事態を説明されたかどうかさえ明確じゃないし、大阪城が赤く燃えたように光っていたことや、鳥居が小さな頃新幹線から目撃したという富士のふもとに林立する白い十字架、それを帰りの新幹線で松平が目撃したことがどういうことなのか、なんかモヤモヤと不気味な不条理を残しつつも……それもまた原作ではクリアされているのかなあ?って、そればっかし。

たった一人残されたトヨトミの末裔、国松を逃がしたの、あれ愛しの菊池桃子だったんだね、ヤハリ!
真田の女房が和久井映見だったり、基本的に外に置かれている女たちが印象的で、とてもチャーミング。

いややはり、はるか嬢か。何にも動じず、しかし妙に正義感あふれ、だけどやっぱりマイペース、何よりまあよく食べるのが凄いカワイイ!
どんどん頼んでぱくぱく食べて、ゲーンズブールを呆れ顔にするお好み焼きのなんとおいしそうなこと。
見張りを頼まれたお好み焼き屋で、何もそれは最初から最後まで食べ続けなければいけない訳じゃないのに、へこたれそうになりながら食べ続けるのがたまらなくカワイイ!!!★★★★☆


不惑のアダージョ
2009年 70分 日本 カラー
監督:井上都紀 脚本:井上都紀
撮影:大森洋介 音楽:柴草玲
出演:柴草玲 千葉ペイトン 渋谷拓生 橘るみ 西島千博

2011/12/8/木 劇場(渋谷ユーロスペース)
傑作の予感がするものというのはやはりあって、予告編でその静謐な映像を見た時から、ざわざわと心が波打つ気がしていた。
いや、映像、ですらなかったかもしれない。絵。何百年も昔から名画と称えられているようなひっそりとした絵。
修道女、という日本ではなかなかなじみのない存在のひそやかさも、そんな遠い彼方を思い出したのだろうか。ひっそりと、何百年も昔の、どこか遠い地の。

でも、これはまさに正しく、今の、日本の、女の、物語なのだ。
ひっそりと息づいている“名画”の女たちも、こんな風に千々に思い悩んでいたのだろうかと、思った。心の中で千々に思い悩みながらも、表は静謐に、ひっそりと、たたずんでいたのだろうかと。

ありていに言ってしまえば、更年期を迎える頃の、一人身の女のもやもやとした思いである。
そんな風に言ってしまえばミもフタもないんである。それこそ同じことを扱って、もっともっとゲスな映画だって作れただろうと思う。
それこそそれこそ、この映画の中にも登場するおしゃべりなおばさまたちは……それも多分に“一般的な”おばさまよりずっと上品だけれど……あけっぴろげに更年期の話をし、おばさんになった証だと笑い飛ばす。
更年期なんて言葉は、一般社会においてはある種のギャグでさえある。コーネンキじゃないの、と。

そのことに本気で傷つき、落ち込み、一人身の女なんてどれほど価値のないことなのかと悩む。程度の差こそあれ、独女の道を進んでいる人には身にしみる。
だから“あけっぴろげ”にし、“ギャグ”にしてしまうのだ。家族を持たず、子供も産まない女に価値があるのかと、お前は世間の役立たずなんだと言われるのが怖くて、だから、殊更に、オバサンだと自嘲して、笑い飛ばす。

でも本当はそんなこと、したくないんだ。心は乙女なんて恥ずかしくて言えないけど、でもそんな気持ちもあるんだ。
結婚すれば、子供を産めば、女は強くなると言われる。ならば、結婚せず、子供を持たない女は世間知らずで、身勝手で、結局は弱いのかと。

……うっ、なんか乱れてしまった。この作品の惹句が「まるでそれは、わたしの物語。」というのって、なんとまあ、的を射ているもんだと思った。
逆に、結婚をし、子供を持って、立派にお役目を果たしている女性はどう思うのだろうかという気持ちもあるけれど、でもきっとそんな女性たちも、女性として感じるこの独特のもやもやは皆が判るだろうとも思った。

シスター、なんである。修道女。なくはないけれど、確かに日本で常に見かける存在ではない。その生態?も判らない。
だけに、ミステリアスである。劇中、彼女に相談を持ちかけてくるちょっとキモいタイプの男性も、そんな憧れがあったのかと彼女がつい思い込んでしまったのも、無理からぬことである。それもまた、見事な伏線というか、展開が待っているのだけれど。

シスターは名前で呼ばれたこと、あっただろうか。オフィシャルサイトの解説では真梨子と名前が示されていたけれど、いつでもシスター、だった気がする。それも何か……なんとも言えないな。女、って感じがする。

冒頭、彼女が白いユリの花のおしべを丁寧に取り除いている場面から始まる。これが美しくて印象的で、でも何故なの、と思っていた。花粉が落ちるから、汚れるからかな、と思った。
確かにおしべを取り除いておけば、ユリは真っ白なまま、清楚な姿がより映える。だけど物語が進行して、幼い女の子が生理を迎えたエピソードと、シスターがこれまでどうやら処女だったらしいことが示唆される段に至って、あっ、と思った。
シスターにとって、受粉されることはありうべからざることだったのだ。
黙っておしべを取り除いている彼女の横顔は何か、何かの使命を果たすかのような顔のようにも見え、一方で淡々と取り除いている無防備な顔のようにも見えた。だから、やけに印象的だったのかもしれない。

実はこの横顔、というのが本作の中で何度も何度も、心の中に落ちてくるのね。横顔が、どんどん変わっていく気がした。
もともと、横顔の美しい女性なんだろうと思う。正面からのイメージと違う。横顔になると、いきなり深い思慮や静謐が漂いだす。
本作の音楽も手がけていて、ピアノの演奏シーンのクライマックスに心震える彼女、柴草玲氏のこと、知らなかったけど、本当に凄いキャスティングだと思う。

それで言えば、彼女が心を寄せるバレエダンサーの西島氏にしたってそう。彼はちゃんと?有名な人だけれど、まるで夢のように美しくて。
シスターが心をざわめかせ、別れの時に「……握手していただけますか」とおずおずと手を差し出したシーン、これまで見たどんな名シーンよりも美しくて、何か、呆然としてしまった。

……てな訳で、いつものように先走ってしまう。えーと、修正。どこから行けばいいんだろうか。
シスターは更年期に悩んでる。うん、それは何かしずしずと示される。
おばさま方の合唱団の練習を欠席してしまったこと。おばさまがたの世間話の更年期症状の話題を気にすること。
……だけどこの世間話は、娘がどうの、孫がどうのという、おばさまがたの幸せの象徴がちりばめれていて、いや、この時点ではシスターの思い悩みはまだ判らなかったんだけど、後から思うと結構これって、キツいな、と思う。

そのおばさまの一人から、姪の通っているバレエ教室のレッスンピアニストになってくれないか、と打診を受ける。新しい人が来るまでのつなぎでいいから、と。
実はこの後段の方が、独女にとっては結構キツいところなんである。誰でも代わりがいる。自分でなくてもいい。
実際、シスターが新しい人が見つかったと聞いた時の隠しようのない消沈は、彼女がそのバレエ教室で教えている麗しき男性ダンサーに憧れを抱いていたからだとは思うけれど、でもやっぱり、そういう気持ちは絶対あるよね、と思う。

外に出られるのは、神父様からの用事に限られている、と渋っていたシスターが、でも実際にその教室に向う描写は、まるで、とらわれの身の小鳥が飛んで出て行くかのようである。
教会の外の掲示板に貼られたチラシをピッと剥がして、小走りに歩いていく。

それまでに彼女にとって気の重い出来事がいくつかあって……。ひとつは神父様から託された、年配の女性、かつての信者だったんだろうか……の病状が思わしくなく、そのことをたった一人の身内である息子さんに伝える為に、その女性の手紙を届けに行くこと。
植木職人であるこの息子さんは、シスターの言うことなんてちっとも聞いてくれず、無言のまま彼女の足元にはさみを投げつけたりする。
事情のある母子だったんだろうけれど、シスターはなすすべもなく、ただ通い続けることしか出来ない。

もうひとつは、教会では新顔である、シスターと同い年であるという男性が、やたらと話がしたいとつきまとってくること。
シスターが不信げに彼を避けるのは、更年期障害で体調が思わしくないこともあるけれど、彼が自分に好意を寄せているんじゃないかと思って、わずらわしく、ひょっとしたら怖く思っていたふしもあるんじゃないかと思った。
実際彼は、今僕はいい年して恋をしているんです、と頬を上気させて言っていたし。
その時シスターが、バレエダンサーに、恐らく恋をしていたことも手伝って、余計に、わずらわしく、感じたのだろうと思う。

この二人の男性、植木職人の村岡と、相談したがってる立本は、見事に観客の、そしてこのシスターの予測を裏切る形で彼女に関わってくる。
静謐な、美しい、詩のような、印象派の名画のような映画なのに、実はそんな、ドラマティックな要素がきっちりとなされていることに、後から思い至って驚嘆したりする。
でも見ている時は、ほんとに、ほんっとに、静かなのだ。静謐で、ことりと音が立つぐらいな印象なのだ。

いや、そう言ってしまったら、やっぱり違うかもしれない。だってまず、教会に集まった人々が賛美歌を歌い、シスターは荘厳なオルガンを聞かせる。
そしてレッスンピアニストとして呼ばれていく先では、見事にきっちりとした仕事を見せる。

そう、きっちりとしている。一目見てぼうっとなってしまった男性ダンサーに声をかけられ、皆さんについていくだけで精一杯だと、ご迷惑をかけていないかと、いかにもな返答をする彼女に、彼は言った。
あなたは譜面どおり、忠実に弾いてます。もっと気持ちを入れてほしいと思う。僕たちの踊りを見て……、と。

神に捧げる生活をしてきた彼女が、“気持ちを入れる”ことが、そのたがを外すことであることに、気づかなかった訳はない。
気持ちを入れる、ですか……と復唱した彼女は、その気持ちを入れることが、彼への恋心に他ならないことだって、判っていたに違いない。

恋心、というにはストイックすぎる、プラトニックすぎると思ったけれど、そう思ってしまうこちとらの気持ちを見事に制してくる。
そう、もうひとりの男、である。シスターが再三手紙を届けに足を運んで、無視され続けていた植木職人の村岡。

もう、時間がない。手紙を受け取ってくれないなら、読み上げるしかない、と判断して、シスターは彼に向って母親からの手紙を読み上げ、立ち去った。
その後、母親の葬儀の後と思しき彼と再会した。自分を捨てた母親の死、あの手紙、そんな複雑な思いの中に彼はいた。
黙って彼のかたわらでアコーディオンを奏でるシスターに、彼の気持ちを慮って俗っぽい歌謡曲調の曲を弾いてみたりするシスターに、彼は心を許したのか、心が弱ってしまったのか、抱きつき、倒れ、そのまま……。
カットが替わると、彼が恐れたような声を上げて、慌てて逃げ去っていく。シスターのペティコートには血がついていた。

後にちらりと補足的な回想シーンが挿入され、シスターの手がアコーディオンの鍵盤に触れたまま、かすかに前後に揺らされている。
そんな補足がなくとも何があったかは知れるけれども、ただ、その補足の前、彼女が謝罪のために訪ねてきた村岡に、ドア越しに、全て私が望んだことなんです、と言った時、うわっ、と思った。
この台詞の、言葉だけ、字面だけ見たら、気に病んでる相手を慰める常套句のようにも思えたかもしれない。でもこの言葉を、ガチで、マジにとらえるならば……彼女が、望んだことだったのだ。

その前に、彼女の心を震わせた、美しきバレエダンサーとの別れがあった。このシーンは本当に美しくて……。
このダンサーが一人レッスン場で練習しているところにシスターがそっと入っていって、彼から言われたこと、気持ちを入れて弾くこと、を、この場面でまさに、やり遂げるのだ。
この時には演じる彼女自身がピアニストであり、実際に演奏し、音楽担当であることも知らないので、鍵盤を滑る、色白の手の柔らかな純粋さに、それ自体に重い意味を感じてしまった。
だってめちゃめちゃ、乙女な手だったんだもの。ピアニストって厳しい手をしてそうだけど、実は意外と、こんな風に優しく、柔らかい手をしていて、だからこそ人の心に響く旋律を奏でられるのかもしれないなあ。

で、ちょっくら話が脱線したけれど……その、いわば恋が、ただただ純粋なまま見事に完結する。彼女のピアノに合わせて踊る西島氏の即興バレエはまさに夢のようで、その先に、あのおずおずとした握手があって、そこまでがひとつの作品のようで。
窓から差し込む、どの時間帯か判らない、まるで天国から差し込む光のような非現実的な荘厳さもあいまって、もうここで全部終わっちゃってもいいぐらいな気がしたぐらいで。

西島氏、実際はこのシスターとおんなじような年なのに、ダンサーだからなのか若く見える、というより、年齢を超越した奇跡のように見えちゃって。
それは、あの、シスターにつきまとってきていた立本という男が、あなたと同い年なんですよ、とか言いながら、若ハゲで、オタクっぽいなりも含めて妙にオッサンに見えてさ。
でもそれは、シスターもそうだったんだよね。本作のひとつの驚きは、地味で沈んで見えたシスターが、まあ更年期のこともあったんだろうけれど、その“横顔”がどんどんと美しくなることなんである。

本作は全篇、秋の装いで、それでなくても現代日本とは思われない様々がある上に、見事な紅葉が慎ましい教会を埋もれさせたりするもんだから、余計に現代日本の世俗とは離れている感じがするんである。
でも、その中でシスターは更年期に悩んでいるし、初潮にショックを受けた女の子がやってきたりする。

シスターは、女の子に赤く染まった落ち葉を一枚一枚渡しながら、神様が月々くれる切符なの。その切符を使ってお母さんはあなたを産んだ。あなたもいつかその切符を使ってお母さんになるのよ、と言う。
シスターのたたずまい、大人の階段を上るにはまだ幼い女の子の戸惑い、赤と黄色で彩られた秋の風情、なんともなんとも美しいシーンで、なんだかぼうっと見入ってしまう。
でもそれ以上に胸に迫ったのは、シスターが、私は使わないまま、全て神様にお返ししてしまったけれども、と言った後に、女の子が言った台詞だった。「違うよ。シスターは皆に配る役割なんだよ」と。

こんな幼い女の子が、随分とませたことを言う、シスターを救うための役割なんじゃないの、と一瞬思ったが、でも女の子って、そう、生理を迎えて、お母さんになれる権利をもらった女の子は、これぐらいのことは言うかもしれない。
権利、世間的には義務かもしれないから、シスターはそのことに不惑に至って思い悩み、恋さえ知らなかったから、それが身体にいきなり直結してモヤモヤしてる。
そんなことさえ、何か漠然と、この幼い女の子が、お母さんになる権利、あるいは義務を与えられてしまったからこそ、何となく判ってしまっているような気がして。

そうなんだよね……シスターには、乙女のような恋と、セックスとが、一緒に来てしまった。こんなに端的な経験はないからアレだけど、判る気がする(なんかビミョーに危ないこと言ってる気がする……)。
恋心と身体の本能がクロスするのって、いつだろう、どこだろう。それは人それぞれ違うだろうし、男と女では決定的に違うだろうとも思う。
ただ、このシスターの立ち位置を「判る判る」と思ってしまうような独女が増えた今、そのクロスに自分の人生や人間性をも絡めて思い悩んでしまうケースは、少なからずあると思う。
シスターの、「私が望んだことなんです」という台詞はだからこそ生々しかったし、彼女がここからの人生を歩む重要な起点であったと、素直に思えるのだ。

村岡に処女を破られ、立本の死が新聞で報じられ。立本はシスターが好きだった訳じゃなくて、本当に相談を持ち掛けたかっただけで。
というのは、立本は女子高生に恋をしちゃって、ストーカー行為を繰り返したあげく、事故とも自殺ともつかない、列車事故で命を落とした。
上品なおばさまがたが、上品ながらも口さがなくシスターに報告申し上げる。
自分のことを好きだった、自分にこそストーカーしていた、と思っていたかもしれない(いや、なんせ静謐な映画だから、シスターがそう吐露する訳でもなし、断定出来ないんだけどさ)相手が、そんなのは自分のうぬぼれだった、想いの届かない相手に熱烈に恋をして、散ってしまったことを知ると、シスターは……。
実際は何を思っていたのかは判らない。でも、実はあなたは同志だったんだネぐらいに思ったような気がするなあ。その新聞記事を切り抜いて、フォトフレームに入れて、飾るのだもの。

シスターのもとに届いている母親からの手紙はなんとも意味ありげで、村岡と同じように彼女も、親との軋轢を抱えたままここまで来たように思われた。だからこそ、村岡にそんなことを許したのだろうとも思った。

ラストのラストはね、シスターはなんともすがすがしい顔をしているのよ。あの横顔が、美しい横顔が、どんどん美しくなって、最後の最後には、シスターとしてじゃなくて、女として輝いている。
あのね、その前に、そう……村岡との一件があった後、シスターが私服でいるシーンが続くのよ。いやそりゃ、シスターだって教会以外は自分の生活をしているんだから、私服でいるぐらいはあるんだろうけれど。
ただ、前半までは、食事を用意するために米を研ぎ、朝食を食べるシーンでも、きっちりシスターのカッコだったのだ。マリア様の絵に手を合わせて黙想する儀式までもパッケージになっているような。
そうだ、そうだ……立本の新聞記事がフォトフレームに飾られているその隣に、シスターがいつも黙想しているマリア様がいたのだ。なんとまあ、なんとまあ……。

私服になったからさ、何か不安になってしまったのだ。操が破られてしまったら、もうシスターではいられないのだろうか、って。処女が、シスターの条件なのだろうか、って。
そりゃそんなことは黙っていれば判らないし、今時そんなかび臭いことも言わないだろうとも思ったけど、シスターが年若い時から修行を重ねていること(は、あの立本との会話で知れる)を思えば、そんな示唆があったのかもしれない、なんてね、思ったりして。
でもシスターは心身ともに悩み苦しんだ末に、戻ってきた。こちらがたじろぐほどに、美しく、キラキラと輝く、若やいだ横顔で。
シスターのコスチュームが禁欲的ではなく、彼女自身がそのまま現れているかのように、美しくしっくりと似合っていた。

でもね、それは、あの私服のシークエンスがあったからだと、思うんだ。あれは絶対、意味があったよね?
勿論、公的な場所ではなく、きっちりドアが閉じられた自分の自室の空間だけ。それだけに……そこにまでシスターを持ち込んでいた以前の彼女だっただけに、凄く意味深に感じてしまったのだ。
米を研ぐだけの場面でも、シスターのカッコの前段と、私服の後段では、気持ちの起伏も明らかに違って描写されててドキリとしてしまう。
苛立った気持ちを外に出してはいけないと思っていた彼女が私服になると、もうコスチュームではいられなくなると、感情が爆発する。
でもそれを見ている人は誰もいないんだ……そう思うと……。

初潮を迎えて、母親とも離れて暮らしていて、その不安を抱えていたあの幼い女の子のために、シスターは赤飯を炊く。
このシーン以外でもそうだけど、およそ現代の日本とは思われないような、使い込まれた鉄の鍋をガスコンロに乗せ、研いだもち米に小豆を散らし、手馴れた様子で赤飯をも炊き上げる。
この時には、ニブい私は、なんでシスターが赤飯を炊いているのか、ピンと来なかった。このシーンの直前に、40年経って彼女の処女膜が破られて、もんもんとした自室のシーンが続いたから。

んでもって、自身に初潮が来た時を思い出し、その時の母親の台詞がモノローグされ、炊き上がった赤飯に涙をぽろぽろこぼす、なんて流れだったから、アホな私は、彼女が神様からの切符を使わないまま返上し、返上した後に処女膜破られ、そんな哀しい記念日のために赤飯炊いたのかとか思って(爆)。バカ(爆爆)。
でもそんな気持ちだって、ウッカリあるかもなのよ、独女にはさあ。

シスターがね、最初はおどおどながらバレエ教室に通い始めるんだけど、もうその次には自転車を勇ましく駆っていくのが凄く可愛いんだよね。
で、これは演出だろうなあ、坂の頂上から彼女の後ろについて、まるでバックダンサーのように自転車ランナーたちがついてくる(笑)。
ひょっとしてこれって、ちょっとしたユーモアシーン、ギャグシーンだったのかもしれない、と思うとほわっと心が温まる。★★★★☆


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