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「せ」


2014年鑑賞作品

青天の霹靂
2014年 96分 日本 カラー
監督:劇団ひとり 脚本:劇団ひとり  橋部敦子
撮影:山田康介 音楽:佐藤直紀
出演:大泉洋 柴咲コウ 劇団ひとり 笹野高史 風間杜夫 柄本佑 前野朋哉 今井隆文 岩井秀人


2014/5/25/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
普段だと、簡単に芸人さんに映画監督のチャンスを与えてしまうことに苦々しく思っているところがあるんだけど、今回は結構素直に受け入れちゃう。
この人、劇団ひとりという人は確かに才能があると思う。繊細というセンスがあると思う。まあぶっちゃけこの物語はかなりベタに泣かせるタネと構成にはなっていると思うけれど、そこをギリギリベタにさせないのは、その繊細というセンスがあればこそと思う。

うーん、それとも人見知りの照れ屋さんだからかな。繊細というよりナイーブと言った方がよりしっくりくるのかな。
大泉先生は誰とでも仲良くなれるお人だけれど、こういう内省的な人と意外としっくりきて、深い絆が生まれるような感じがある。古くはヤスケン、最近の龍平君、松ケン、そういう二人の間に生まれる深い何かを見ることが出来るのは、なんとも楽しい。

しかも今回はそれが、監督と役者という、初の間柄でなんだから、余計に楽しい。初監督作品への参加は、ミスター以外では初ではなかろうか。
まあビッグネームではあるから、通常の青田買い的な初監督作品とはちょっと違うけど、でもやっぱり初監督作品は特別。そこは拾っておかなきゃいけない。
「陰日向に咲く」が映画化された時はちょっと気持ちは向いたんだけど、生来のオムニバス嫌いで結局スルーしてしまった。当然原作も読んでない……私にとって、初めてのミーツ劇団ひとり、なんである。

売れないマジシャン役、と聞いていたので、よーちゃんらしく結構笑わせる部分もあるのかと思ったら、頭からケツまでマジだったのでちょっとあれっと思うところがあった(爆)。
個人的にはやっぱりよーちゃんはよーちゃんなのだから、その魅力を最大限に発揮するのは、そういう人好きのするキャラだと思っちゃう。
だから「探偵はBARにいる」 には狂喜し、ついに現代の渥美清にならんとする!と思ったのだが、またしてもシリアスな役を振られてしまった(爆)。

うーん、私的にはこの役がよーちゃんである必要性は正直、あんまり感じないんだけどなあ(爆)。そりゃまあ役者さんだからどんな役が来てもいいし、きちんと上手いんだけど、なんだかやっぱりちょっと、違う気がする。涙よりも鼻水の方が流れやすいよーちゃんに、それを笑う空気でもないのがツラい(爆)。
本作中ずっと彼、目の下、というかもはや目の周りのくまが凄いけれども、それは役作りのメイク?それとも役へのプレッシャー?それともそれとも……。

本作は一応、よーちゃん主演という提示ではあるんだけれど、ほぼ両主演だよね。よーちゃん演じる売れないマジシャン、晴夫がタイムスリップして若き日の両親に出会う。
その父親、これまた売れないマジシャンの正太郎が、監督と役者を兼任する劇団ひとり。
役者としての劇団ひとりが何ともまあ、イイんだもの。そうか、確かに私、役者としての彼を今まで結構見ていたのに。かなりのヒット作品に、かなりの重要な役どころで出ている、今まである意味それが引っかからなかったのは、それだけ彼は芝居が上手いということなんだよね。

今回主演級で、メガホンと共に兼任した彼演じるダメダメ芸人、ショウちゃんは、そのダメっぷりが何とも愛しく色っぽく、女の心をかき乱して仕方ないんだもの!
あーヤバい、この人こんなに色っぽい人だっけ!いや意外に端正で甘い顔立ちだし、先述したようなナイーブさがにじみ出ていて、確かに確かに、女心、いやハッキリ言って母性をくすぐりまくるタイプなんだわな!正直、喰われましたよ、大泉先生……監督さんにさ!!

まあまあでも、大泉先生、頑張りました(ナニモノの上から目線(汗))。
冒頭、釘付けにさせる長回し。元の世界に戻ってくる直前には、燕尾服にビシッと身を包んで、顔も二枚目にキメキメで舞台に立ち、次々に見事なマジックを披露して拍手喝さいを浴びる。うーん、やっぱり彼のキャラじゃない(爆)。
現在の時間軸で売れない、というより重要なのは、マジックのテクニックは確かだけど、喋りが苦手で後輩に先を越されたというキャラであり、それが最もよーちゃんから遠くて、彼の芝居力うんぬんを別にして何ともツラい訳。

でもタイムスリップしてからは、まあ相変らずシリアスで通しはするんだけど、でも舞台に上がる時には、支配人の肝入り……いやテキトーの方が強いかな……で謎のインド人、ペペになる訳で、それはまさしくよーちゃんなんだよね。なんか見ててホッとしちゃう訳。
その相方となる、監督兼任劇団ひとりは、謎の中国人、チンさん。正直なことを言うと、このチンさんの方がキャラとして立ってるし、魅力的。
それは劇中の芸人としてのキャリアの差なのか、現実の、芸人と役者のキャリアの差なのか、どうなのだろう……。
つまりは私が個人的に、本作の役者としての劇団ひとりにマイッちまったということなのかもしれないけどさ(照)。

そしてもう一人の大メイン、ヒロインとなるのが柴咲コウ嬢。ビッグネームなのにそれほど出まくりじゃない女優さんなんで、どの作品を選んでくるのかがなかなかに興味がある。
彼女がね、監督としての劇団ひとりに、とにかく可愛くいてくれと言われて難しいと感じたというのを聞いてね、まあそれを聞いた周りは、実際可愛いんだから簡単じゃないかとか、ありがちなヨイショコメントをする訳だが、判るじゃん、判るじゃん。そーゆーことじゃないじゃん。
だって柴咲コウ嬢は、どっちかっつーとキレイ系、クール系、女豹系?キャラで、可愛い系じゃないもの。その難しさは汲んであげるべきだと思うなあ。

そう思えばこのキャスティングだって、よーちゃん以上に意外なものだったのかもしれない。
でも何より大事なのは、彼女が人生最大、というか最後の選択をしたことで、そのある意味、恐るべきと言うほどの強さは、甘くふんわりした可愛い系女優さんではダメ、いや、顔立ちだけでもね、説得力が違うもんだと思うのよ。

本作のキモもキモ、最大のキモである。何より晴夫が現実世界でクサっているのは、自分が家庭環境に恵まれなかったというトラウマを、いわば口実にしている部分もあるんである。
母親は父親の浮気が原因で、自分を産んですぐに出て行ってしまった。そんな、最初からダメダメ烙印の父親の職業は、ラブホの清掃員といううだつのあがらなさで、その父親とは18で家を出て以来、会っていないからどうしているのかも判らない。
それを聞いたマジックバーのアルバイト後輩は、「なかなかッスね」と笑う。それは、芸人としてはなかなかオイシイエピソードを持ってるじゃないですか、という意味だと思うけれど、この時点ではネガティブ一辺倒な晴夫は「なかなかだろ」と返す。彼自身が思っている意味合いは、絶対に違うだろーなー。

ほんっとうに、タイムスリップする前の晴夫の生活はヒドいの。マジックバーの後輩が、オネエキャラでテレビの人気者になってクサるというのはまあ、判る。それにしても柄本佑とはねと思うが!
今時あんなアパートあるのと思う、湿気バリバリありそうな中で、形そのまんまのパックごはんに、レトルトのカレーをむなしくかけて美味しくもなさそうにただ頬張るあの虚しさ。

水道管が破裂して、部屋じゅうびしょびしょになり、ただひとつ明るかった裸電球がバチバチッと切れた時の悲しさは、言い様がない。
今時、こんなに生きるのに不器用な人がいるのかと思っちゃう。いくら売れなくても、それなりの時間バイトすれば、もうちょっとマシなところに住めるだろと思っちゃう。

いや、思っちゃうと書いちゃったけれど、それは今こうして思い返しての後付けだった。そう、こういうあたりが、展開はベタなんだけど、そうは感じさせないという、監督自身の繊細なセンスというものなんであった。
素直にその惨めさに打ちのめされ、その流れでホームレスとなっていた父親の突然死を警察から告げられる。訳の分からぬまま骨壺を受け取り、父親が住んでいたブルーシートの住まいに這いつくばって入ってみると、大事にとっておかれていた、赤ちゃんの自分を抱いた父親の写真。
ろくでもない親のせいで自分は不幸になっていたと思っていた晴夫が複雑な思いでぐっと来た時、”青天の霹靂”が訪れ、40年前にタイムスリップする訳なんである。

ほぼほぼ私と同じ年なんで、自分が産まれた時がこんなにザ・昔だったことにショックを受ける。いや確かに昭和昭和と思ってはいたが、凄い昭和だ(爆)。
まあ、産まれた時だから。物心ついた頃にはまた違ってるから(意味のない言い訳だ……)。当時のテレビ創成期、下町の舞台からテレビへとバクチを打つ。今よりもずっと、そのバクチには夢があり、純粋な成功神話に憧れ、その勇気に称賛を送った。

冒頭、後輩がテレビの人気者になった様を晴夫は、実際のキャラでもないオネエキャラで身を売った彼を、自分には出来ないことを含め、軽蔑の気持ちでいる訳なんだけど、そう、自分には出来ないことなのだ。
それを見抜かれているから、いつまでもくすぶっている自分を、この後輩はさげすんだ目で見る。佑君、オネエメイクよりも、このさげすんだ彼がコワすぎるよ!

タイムスリップした晴夫は、現実世界では出来なかったテレビの世界に、父親とのコンビで飛び込もうとする。本作のキモとなっている出生の秘密より、ひょっとしたらこっちの方が大事な出来事だったのかもしれない。
恋人が赤ちゃんを産むために死ぬかもしれないことを知った正太郎は、成功目前だったこの大勝負から降りることを選択する。
それこそが本作のキモ、大感動の号泣必至の部分だし、実際、晴夫は自分がみじめな人生を送っているのは、ロクでもない両親の元に生まれ落ちたせいだと思っているからこそ、それが前提にあるからこそのこの物語なんだけど、今書き進めていたら、そんな気がしてきたりして。

母親が自分を捨てて出て行ったんじゃなくて、命を懸けて自分を産んでくれたという号泣ポイントが見え始めたあたりで、ああそうか、これで泣かせるんだな、と思っちゃったのがいけなかったかもしれない。
そう考えると、泣かせるっていうのは案外難しいんだなと思う。ある程度、不意を突かせるのも必要なんだと思う。これで泣かせるんだと判っちゃうと、身構えちゃう。判ってて泣くもんかとか思っちゃう(素直じゃないなー)。

それにね、それ以上に……太宰の名言よ。子供より親が大事よ。この子を産んだら死んでしまうのがほぼ判っているなら、母の命を救うべき。救わなきゃいけない。ドライに優先順位は、今必死に生きている人にして!
いやだから、だから、この物語はズルいのよ。タイムスリップだからさ、今必死に生きている人が、その赤ちゃんの立場になっちゃうんだもん。

そりゃさ、言うよ、晴夫はさ。どうせ産まれるのはオレだ。ろくでもない人生なんだから、そんな子供のために、母さんが命を賭けることはないと。でも今ここに、そうして生まれた彼がいるんだもん。そのために、今まで彼は知らなかったけど、そのためにさ、命を落とした母親という事実が、何より自分が証拠としてここにあるんだもん。
やっぱりさ、劇団ひとりはマジメな人だからさ、タイムパラドックスはきちんと守るさ。未来から過去に来た人が起こしたことによって、過去が替わって未来がグチャグチャになって……みたいなホンは書かないさ。

だから、”号泣ポイントが見え始めちゃう”んだよね。いい意味でも悪い意味でも、どんでん返しはないだろうな、と思っちゃうから。
子供より親が大事、人生が始まっていない子供より、今生きている親を生かしてとどんなに思っても、母親は死んでしまう。
子供がこの世に誕生する身代りに死んでしまうのは、当然父親ではありえない。そういう、母親に課せられた、というか強制された責任が、いろんなシチュエイション、どんな時代にも存在しちゃうから、フェミニズム女の私は、ついつい言いたくなり、泣くもんかと思っちゃう訳(爆)。

でも、この先が判る晴夫……そりゃ未来人なんだから……に母親が訪ねるシーンは、結構ぐっと来てしまう。いや、よーちゃんの鼻水泣きよりも、控えめな涙の柴咲嬢にである。
私はどういう母親になるのと、どこか覚悟して聞いた彼女、“自分の生きている理由”だと、逡巡して、悩んで、彼は言った。当然、どんな母親だったかと、母親として生きた経過を言うことなど出来ない。喋りヘタの晴夫だから。
ホントによーちゃんなら、いくらでも嘘八百重ねられそうだけど(爆。失礼!)自分が生きている理由、そのことに感謝している、今の自分のリアルに、今まだこの世に命をひねり出していない若き母親はたまらず涙を流した。

でももっともっと、いいシーンはやはりやはり、夕暮れの、若き父と、これから産まれるけれどももう父親の年を越してしまった息子とのシーンであろう。
芸人を辞めて選んだ仕事がラブホの清掃員なのは、「親は俺だけになるかもしれない。融通が利く仕事なら、なるだけ一緒にいられるから」
そして、「自分が産まれるのに死んじまったなんて、キツいだろうから、俺が浮気して、出て行ったことにする」
もうちょっとマシなウソがあるだろう、と晴夫は言う。そうだ、マトモに考えたら、こんなウソ、見抜けたかもしれないのに。子供だったから、そのまま信じて大人になっちゃったから。
晴夫という名前は、二人には言っていなかったのか。未来から来た戸惑いのまま、ペペという舞台上の名前のまま。

現実世界に帰って来て、死んだと思っていた父親が、生きていたことを知る。母さんのことを言っておきたくてな、と現れる父親に、あーあ、あんなこと言ってソンしたとごちる晴夫。
「もっと早く、いやもっと先に言っておかなきゃいけなかった」と過去と現在が同じ川の土手でシンクロする。「ありがとう」と。

過去にタイムスリップした晴夫を導いてくれた子供は、現実世界で晴夫が働いているマジックバーのマスターなんだよね??
ということは、事情を知って雇ってくれて、何くれと心配している(雰囲気があったような)ということなのかなあ。映画ではちょっとそのあたりの印象は薄かったけど、原作ではまた違うのかな??★★★☆☆


切腹
1962年 134分 日本 モノクロ
監督:小林正樹 脚本:橋本忍
撮影:宮島義勇 音楽:武満徹
出演:仲代達矢 岩下志麻 石浜朗 稲葉義男 三國連太郎 三島雅夫 丹波哲郎 中谷一郎 青木義朗 井川比佐志 小林昭二 武内亨 天津七三郎 安住譲 佐藤慶 松村達雄 林孝一 富田仲次郎 五味勝雄

2014/10/28/火 劇場(池袋 新・文芸坐)
サムライ好きの外国人あたりが喜びそうな、直球なタイトルだが、精神、武士道、愛、誇り、……すべてのあまりの奥深さにどんどん追い詰められるようだった。
中盤ぐらいまでは、ガラス玉のような瞳が死んだように光っている仲代達矢 (ヘンな表現だが、彼の瞳はどう表現していいのやら!)と、声と唇の変わらなさで認識できる、この頃はちょいと細面の三國連太郎の、この御大二人のバトルとも言いたいような攻防戦が、実にストイックで、モノクロの様式美も相まって、こらまたひょっとして、ゲージュツ的な前衛映画かしらんと思ったぐらいで。
しかし、過去回想を巧みに、本当に織物を織るように巧みに織り込ませ、老若の浪人二人の重なる台詞で、韻を踏む様に物語の核心へと迫っていくにつれ、深い深い人間の物語があらわになっていって……もう、凄いの!!!

井伊家の屋敷に髭を無造作に生やかした浪人、仲代先生扮する津雲半四郎が、訪いをいれてくる。この平安のご時世、侍は生きていく術がない。軒先をお借りして、腹を斬りたい、と言って。
奇妙なことにこの突拍子もない申し出を聞いた、三國連太郎扮する家老の斎藤勘解由は、「またか……」と苦笑気味に言い、この浪人を呼び寄せてある話をするんである。

この「またか……」にえ??と思い、思いのほかのんびりとした空気を漂わせるもんだから、何かついクスリと笑ってしまいそうになるんだけれど……。
いや実際、勘解由はそういう気持ちだったに違いない。懲りない奴がまた現れた。あの時の話をして怖気づかせて追い払ってやろう、と。

本当にね、この冒頭のあたりは、仲代先生と三國先生のやりとりが妙にのんびりとしているというか、微妙絶妙なテンポで、ししおどしがじりじりと水をためてはカーンと鳴らすような間合いで、これはひょっとしてコメディ??と思ってしまいそうになる。
でもそれにしては、仲代先生のガラス玉のような瞳はひたと勘解由を見据え、あの三國先生が段々と落ち着かなくなっていき……つまりはこの名優二人の、ああこんな場面を見ることができるなんて、なんと幸せなことか!
しかし、もう、ただならぬのよ、これはただの、スタイリッシュ前衛劇ではないと、段々と判ってくるのよ!!

この老浪人(この時の仲代先生は充分に若かったと思うけれど、この時代に照らし合わせればやはりもう、老境ということなのか)に家老が語り聞かせる形で回想が織り込まれる、それが、半四郎とソックリ同じ口上で井伊家の軒先に立った若者の話で、藩の名前も同じ。
勘解由は最初こそ、この二人になにがしかの関係ありとみて探るも、この平安の世で、この手のゆすりたかり……元々は捨て身の浪人が試みて、重役へと取り立てられたという成功物語があったから……が半ばハヤリのようにもなっていたから、あの「またか……」があったんであって、つまり家老は油断したのだ。
いくらハヤリがあったからって、同じ藩から、まったく同じ、一文字一句、なぞるように同じことを言っておとないを入れるなんて、おかしいではないか。

いや、確かにおかしい。半四郎は、娘婿である千々岩求女がこんな行動をしていたなんて夢にも思っていなかったんだから、その台詞を一文字一句たがわずにそらんじられる訳がない。
でもそこは、この深い深い物語である。どこか半四郎は、求女が乗り移ったかのように、同じ言葉を言ってのける。

求女は腰抜け侍なんかではなかったと。切腹の場が用意されて一両日の猶予を申し出たのは、死を恐れたのではなかったのだと。
武士の魂、刀をまで質に入れるほどに困窮していた求女は、竹光をあざ笑われながら、追い込まれた形ではあれ、その竹光で見事に腹かっさばいて見せた。
竹光では死にきれなくて舌を噛み切らねばならなかったことを、見苦しいと嗤うことが、なぜ出来ようか!!

……つい、熱くなってしまった。ああ、だってだって、求女の死に様は、まだなんにも事情が明かされないうちで描写されたとはいえ、あまりにもむごかったんだもの。
目鼻の整った美青年で(すみません、演じる石浜朗って私、知らなかった!!)、その彼が白装束を用意されて、一両日待ってくれという言い様も、慇懃無礼な冷笑の元に却下されて。
そう、慇懃無礼なのだ、井伊家側は、今のこの世に見上げた侍魂、とばかりに持ち上げて、凄んで、この実直な青年を死に追いやった。

世間に流行していた恥知らずの浪人の行為には、半四郎のする世間話に応じる形で、求女だって眉をひそめていたのだ。
半四郎にとって親友の忘れ形見……それも、お上からの冷酷なお達しで腹を召さなければならなくなった主に先んじて準ずる形で死んだ、そんな生真面目な親友。
共に妻に先だたれた同志で、息子と娘が幼馴染で仲が良かった。ていうか、幼い頃から想いを通じ合わせていた。
半四郎の目の前で腹を召した主も言ったのだ。親友が託した思い、子供たちのためにも、お前が死ぬことはならぬと。

だから、半四郎は、最後まで死ななかった。いや、逆に言えば、最後の最後に、死んだ。親友が死に、娘婿が死に、孫が死に、愛娘が死んだ後で。
たった一人きりになって、愛する彼らのために、精一杯の意趣返しをして、死んだ。
そう、本当に、あの時、軒先にふらりと現れたガラス玉の瞳をした仲代先生は、失うものなど何もなかった。その先の死など、当然の結末として受け入れていた。
どころか、早く愛する者たちの待つ場所へ行きたかった。そのためには、そのためには、のうのうと死ぬ訳にはいかない。せめてもの手土産が必要だったのだ。

ああ、こんな風に書いていくと、なんだか涙が出てくる。最初はあんなにも、スタイリッシュな映画かもと思っていたぐらい、名優二人が相対する構図やカメラワークに酔っていたのに。
だってもう、最初から半四郎は、全てを飲み込んで来ているのだ。その懐に、仇の髷を忍ばせているのだ。
あとは、畳の上でのうのうとふんぞり返っていた家老にぶちまけるだけ。所詮はイチ浪人の身勝手な話だと一蹴されるのが判っていながら。

求女のような青年が、なぜそんな行為に出たか、つーことが、仲代先生がたっぷりと間合いを取って、切腹場というぎりぎりのシチュエイションで、身の上話として語るんである。
介錯を頼みたいと名を上げた三人が、いずれも病欠で出仕しておらず、その間合いを詰めるために。
その三人の髷が半四郎の懐に入っている訳で、そんな事とは知らない家老たちは、ようやく、これはおかしい、やはりあの同じ藩の、切腹に追い込んだ青年と関係があるのだと気づくのだが、それでもまだどこか、ナメている。

求女のことを、なにがしかの金をゆするために軒先に立った情けない浪人、それをまんまと成敗してやった、と思っている気持ちがまだ残ってるから。 そのかたき討ちで来た老浪人なのかとぼんやりと推測が出来かけても、求女に対するあざけりの気持ちが抜けていないから。
それは恐らく、それ以前に世に横行していた同様の、例の浪人たちをあざける気持ちであり、太平の世に、名ばかりの侍としてふんぞり返っていられる、数少ない存在である自分たちを誇っているからに他ならないんである。

幼馴染同士で思いを寄せ合う求女と半四郎の娘の美保は、半四郎が望んで持ちかけた形で夫婦になったけれど、この世情と、美保の蒲柳の体質が、悲劇を呼んだ。
まず、美保が血を吐いて倒れた。貧しい家庭は彼女の内職によってようよう成り立っていたから、幼子が熱を出したら、もう……ダメなのだ。
医者さえ呼べないのだ。なぜ医者を呼ばぬのだと、半四郎から言われても、夫婦はただ黙ってうなだれるしかないのだ。なぜ、なぜ……。

仲代先生がこの孫を、まさに目の中に入れても痛くないという描写はこのことだ、っていう具合に可愛がる様子がね、凄く凄く微笑ましかったから、幸せな家族の画そのものだったから、それがこの若夫婦を追い詰めた、だなんて、考えたくないけど、結局はそういうことになっちゃうんだもん!!
求女は、高利だが、金を貸してくれる当てがある、と出て行った。それがウソだったのか、その当てが外れたから井伊家の軒先に行ったのか、判らない。

ただ、求女は本当に誠実な男で、半四郎が想像する以上にギリギリまで妻子のために頑張ってたのだ。日雇いに並んでも、町人だってキュウキュウなのに、お侍さんに並ばれちゃかなわねえ、と言われる。
もっともだ、もっともなだけに……、半四郎も求女も、武士は食わねど高楊枝、なんてタチじゃないのに。ただただ家族を愛して、慎ましい生活をしたいだ、なのに。

美保に扮するのは岩下志麻。!!オープニングのキャストクレジットでは見ていたが、全然!若すぎて!!判んなかった!!……だって岩下志麻といやー、私の時代にはもうすっかり極妻姐さん、白塗りすぎてハレーション起こしてる、て感じだからさ(爆)。
まるでスッピン、若妻になってからは眉をつぶしておはぐろで、しかしやつれて血を吐いて、無念の屍の夫にむしゃぶりついて号泣、だなんて、岩下志麻姐さんの面影も何もあったもんじゃないんだもん!!

男優陣はそれぞれ、くっきりと彼自身を刻んで年を取っているからさあ……。そうそう、丹波先生なんてホント、まんまだもん。まんまだけど、やっぱりシャープでニヒルでカッコイイけど(いや、なんか語弊のある言い方だが(爆))、やっぱり丹波先生、だもんね。
求女を寄ってたかって切腹に追い込んだ中心人物。井伊家の威光のため、戒めのため、正当なプライドのように追い詰めた。

言ってみれば家老の右腕的人物。後の二人は言ってみれば腰ぎんちゃくのようなもので、ガキ大将のそばでやんやとはやしているような存在。
丹波先生扮する彦九郎だけは、それなりに剣の腕に覚えがあり、半四郎が勘解由に“身の上話”という形で披瀝する中で唯一、一対一の剣士の闘い、といった描写になる。
……この身の上話の中で語られる仇討シーンも、こう言っちゃなんだけど、ひどく美しく、それはこのモノクロの様式美もあるだろうし、計算され尽くした、ドライブナビゲーションらなぬ、剣劇ナビゲーションのように、路地、砂ぼこり、不意打ち、カメラの切り替えし、全てが美しいのだ。

でも半四郎と彦九郎の一騎打ちとなると、また一段と格が上がる。まず、彦九郎が半四郎のあばら家に悠然と訪ねてくるところからして違う。
傘張の内職、という落ちぶれ浪人のお約束の姿は、もはや今の半四郎にとってはおざなりでしかない。もう死ぬ気でいるのだから。

びゅうびゅうと風が吹き抜ける原っぱに、彼をいざなう彦九郎。二人の一騎打ちを、二人の男の胸から上をななめの画角に切り取って、風がびゅうびゅうと吹き抜ける、このシークエンスは、まさにまさに、冒頭にも言ったような、サムライ好きの外国人が喜びそうなシーンで(爆)。
そういう王道な美しさも備えながら、でも、人間の、武士の、精神の、愛の、深い深い物語なのだもの!

そうしたサムライ的クライマックスも、十二分の凄まじさである。勘解由は半四郎の“身の上話”に頬をぴくぴくと震わせ(このあたりは三國先生の真骨頂!)、井伊家の名誉を守るために、この不埒な浪人を斬って捨てよと申し伝える。
でも、老いたるとは言え、もう死ぬ覚悟が出来ている、てか、死ぬことしか考えていない剣の達人に、命令されただけの、この平安の世に実践もままならぬ藩士たちが、ぐるりと取り囲んだところで何になろうか……。
いや、でもこのクライマックスシーンはね、えーっ、マジですか、真剣で撮った、って!いやいやいや、そんなムチャな!!マジで死ぬでしょ、だってメッチャガッキガッキやってたやんか!危なすぎるだろ!!

その間、勘解由、いや……この場合は三國連太郎と言いたい、家老は、ひっそりと奥の間に坐している。
なんで三國連太郎と言いたいのかしら……何か、うん、役者三國連太郎を最も感じたからかもしれない。
何も言わず、屈辱とプライドに支えられながら、何も言わずに、半四郎が我が家臣たちを恐らく斬りつけまくってる、殺しまくっているのを、ただ音だけで聞いている。その屈辱と、そしてプライドとが、役者三國連太郎。

髷を切り取られるという不名誉に、切腹で応じたのは彦四郎だけだった。後の二人に厳しく切腹を申付け、しかし家臣たちはすべて病死、半四郎だけを切腹としておさめよと、苦々しげに勘解由は言うのだ。
そして締めは、この出来事さえ井伊家の威光を示すような報告になって、半四郎が勘解由に何度も何度も言った、武士とはうわべだけのつくろいだというのを裏付けるような格好になるんだけれども。

でもね、勘解由は、気狂いと言いつつも、半四郎は切腹、としたのだ。家臣たちをすべて病死、つまり侍としての立派な最後と認めたのは半四郎だけ、だったんだよね。
実際は、勘解由の家臣たちを相当に斬りつけて、自らも致命的な手傷を負っての、最期だったのに、勘解由は、半四郎に武士しての誇りを与えたのだよね。

でもそれを思うとさ、半四郎が刀だけは売れなかったことを恥じていたシークエンスを思い出すのよ。娘婿の求女が妻子のために刀や脇差まで質に売り払って、だからこそ勘解由たちに嘲笑される、竹光での最期になった。
むごたらしい求女の遺骸が彦四郎たちによって、嘲笑と共に、そう、本当に嘲り笑いながら届けられた時、その憤りよりも、竹光によって絶命した娘婿のこと、自分は、こんな困窮に陥りながら、刀だけはと、しがみついていたことに半四郎は愕然としてさ。
もうそのシーンの仲代先生ときたらさ、本当に死んでしまうんじゃないかと心配になるぐらい……いやいまだご存命だからそんな筈はないのだが(爆)そんなことを思ってしまうぐらい、サムライのくだらないプライドを責めて責めて責めて……。

何度もいうが、タイトルからしてもなんにしても、本作はサムライ好きな外国人あたりをちょっと惹きつける要素がある。だからこそ、こうした深さが素晴らしくて、彼等にも、そして勿論、時代劇から離れがちな今の日本のワカモンにも見てほしいと、思う!
いやそういう私も時代劇はあまり得意じゃないが……それは私が歴史が苦手なバカなだけなの(爆)。本作は歴史は関係ない時代劇だからさ! ★★★★★


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