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「た」


2013年鑑賞作品

大學の若旦那
1933年 85分 日本 モノクロ
監督:清水宏 脚本:荒田正男
撮影:青木勇 佐々木太郎 音楽:
出演:藤井貢 武田春郎 坪内美子 水久保澄子 坂本武 斎藤達雄 徳大寺伸 光川京子 若水絹子 大山健二 日守新一 山口勇 三井秀男 逢初夢子 吉川満子


2013/6/11/火 京橋国立近代美術館フィルムセンター
今んとこの私の生涯ベストワンは「幕末太陽傳」か、この清水宏監督の「小原庄助さん」か悩むところで、うーん、でもやっぱり、酒飲みとしては「小原庄助さん」かも!!と思い。
……でもその清水作品を、まあ清水作品に限らずだけど、とにかく全然観てない!てゆーか、私、認識しないままダラ観してるから、観てるのもあるんだろうけど、とにかく観てない!
今回の大特集の本数に既に怖気づいてしまった。通いたいけど、新作にフラフラしてなかなか行けないかなあ……。

などと最初から言い訳モード(爆)。でもこんな風に、この監督さんのなら足を運んでみたいと、作品の内容を特に気にせずに飛び込むと、ほおんとこんな風に面白い体験が出来る。
トーキーへの過渡期に、サイレントに効果音と音楽のみがつけられた「サウンド版」というバージョンが多く作られていたことなんて知らなかった。サイレントとトーキーはもうバキッと別れちゃってて、サイレントには弁士と演奏がつかなければとにかく無音だとばかり思ってた。

以前にさあ、このフィルムセンターでサイレントを本当に無音のままで上映してて、物音ひとつたてられなくて、ひえーっ、ヤメてよ!と思った思いがある……。
弁士はともかく演奏設備、音響設備がなかったところなんてあったのか、昔でもこんな上映の仕方あったんだろうか……。

それに、清水監督は、こんなサイレントからトーキーへと渡ってきた監督さんだったのね!まあそりゃあ、そんな監督さんは、現代に名匠として名を残す中にもいっぱいいるだろうけれど、その時代の息吹を感じる作品を観る機会はなかなか、ないんだなあ。
今回は清水宏監督生誕110年記念だという。最後まで現役だった新藤監督が100歳目前だったことを思うと、彼も新藤監督ばりに長生きしていたら……などと思ったりする(63歳没)。

本作には、時代小説でしかお目にかかれないような、老舗問屋の風景、帳場や、丁稚奉公や、番頭さん、女の子は10代でお嫁に行き、日本髪で畳にしゃなりと座っている、そんな時代。
まだまだおきゃんな妹はセーラー服だけど、学校を卒業したら若き番頭さんの忠一どんのお嫁さんになることが、親父さんの胸先三寸で決まってる。
そう、お姉さんみたいに日本髪を結って、華やかな反物で嫁入り衣装を作るのだ。それに対して彼女は何か含むものを持っていて……。

と、いうのを、現代的に思えば、まだ私はお嫁なんかに行かないモン!的なことになりそうなもんだが、そうではなくて、彼女にはすんごい女心があってね……という方向で行ってしまうと、もうどんどん軌道を外れてしまいそうだな。
でも確かに、主人公はあくまでタイトルロールの“若旦那”藤井実なんだけど、この物語中ずっと感じているのは、女心なの。
それもいろんな女の女心。清水監督は女心が判っているんだなあ、凄く、切ないのだ、もう、色々。

軌道外れるの承知でもうちょこっとだけ言っちゃうと、その番頭さんが思いを寄せているのが花街の芸妓さんでね、そうした花街の風情も、実にリアルな時代として描かれるんだよなあ。
それは後年、任侠映画とかでいわゆる時代物として描かれるのとは違って、まさに、この時代、って感じなの。先述の、老舗の問屋の様子や、お嫁入り事情とかもそうだしさあ。

でもあくまで主人公は、“大學の若旦那”、この老舗問屋の放蕩息子の藤井であり、大学生で、ラグビーの花形選手である、しかもおぼっちゃんであることも手伝って、花街の女たちにキャーキャー言われて扇子にサインをせがまれたりしてる。
挙句の果てには、ふとももあらわにラインダンスをきらびやかに披露したりするレビューに没頭(するのには、理由があるんだけどね)、そんな彼の享楽主義っぷりが“ジャーナリズムの格好の的になる”とか、今にも通じるような現代的な様相が描かれるのが、そのギャップがなんとも面白いんだよね。

この作品はハロルド・ロイド(ああ!あのロイド眼鏡の!)のカレッジものに影響を受けたというから、そのモダンな感じは当時の風俗にどれだけ即していたのかは、うーん、判らないけど、でも少なくともセーラー服女子や、花街の芸妓さんたちが存在していて、一方で現代風俗のセクシーなレビューもあって。
そうした女子風俗が新旧入り乱れて花開いているのなら、男子も頑張らなきゃね!
男子においては、新しい時代というのはやっぱり、大学、そしてそこでの居眠り(するだけの余裕?)、勉学よりもスポーツ(は、女の子にキャーキャー言われるためかも……少なくとも藤井は(爆))、だったのかも。
いつの時代も女子はイイ男にキャーキャー言うからね。ホント、もう、古の時代の光源氏からさぁ。

ラグビーが蹴球、とサイレント字幕されていたように思う。あれ?蹴球は、サッカーじゃなかったっけ……。でもじゃあ、ラグビーは何球かしらん??いや、サッカーが定着する前はラグビーが蹴球だったらしい。て、じゃあ今ラグビーは……まあいいか。
それはさておき、藤井君の熱中しているラグビーに親父さんは渋い顔で「西瓜取り」呼ばわり。西瓜とは形が大分違うけどなあ……。
まあ藤井君はラグビーに熱中しているというよりは、スター選手(プラス若旦那)であることでキャーキャー言われて、飲み歩いて、女子にちょっかい出して、なあんてことが好きなだけみたいで。

藤井君を演じる、これまた藤井の貢氏は、妙にまゆ毛を下げ気味に書いて、クマかと思うほどのアイメイクで、発光してんのかと思うほどの白いドーラン、正直、うえっと思うような作りなんだけど(爆)、これが当時の、その他大勢との差のつけ方かもしれんなあ。
もう一人のキーパーソン、若旦那に情人を取られてしまう、まっすぐ気質の若き番頭、忠どんの方はそのあたり少々控えめだが、でもやっぱりなんとなく白いし、まゆ毛もくっきり。で、注目度というか、重要度がだんだん下がっていくと、普通の青年になっていくというか(爆)。

藤井に心酔している後輩、北村は、きわめて普通の青年なんだよね。あるいは、コメディリリーフ(団体)として引っかきまわすバンカラ軍団、運動部の監視委員とかなんとか、なんかそんなこと言って、ラグビー部に乗り込んでは、「次の試合は勝てるか」「相手が弱ければ勝てる」と返されて呆然とするばかりのバカっつーか、純粋っつーか。
彼らに関していえば、なんかもう、こういう男の子たち、今でもいそう、みたいな親近感で、コメディリリーフであることも手伝って、なんだかホッとしてしまう。

飲み歩いて夜中に拍手や手拍子で盛り上がりまくるところ、まさにこれこそが“効果音”でさ。映像の手の動きとはちょっと、というか、かなりズレてるんだけど(爆)、盛り上がるんだよなあ。
この拍手の効果音は、後に享楽っぷりが過ぎて退部になってしまった藤井君が復帰するか否かを問う会議の時に、賛成の拍手と、男としての嫉妬が手伝って一人反対したバンカラのたった一人の拍手とで対比されたりして、上手いんだよね。笑っちゃうの。
正直、やっぱり時代が違うし、リズムも違うし、コメディタッチだと判っててもなかなかついていけなかったんだけど、ノレてくると、どんどん面白くなってくるんだよなあ。

そうそう、いかにも放蕩息子っぽいシークエンス、帳場の金をちょろまかすのに、階上から釣り糸を垂らし、その釣り糸の先には、オモチャなのか、剥製なのか、カブトムシだかなんだか、そんなもんがくっつけられてて、そのとげとげの足で見事紙幣を釣り上げる訳!
それを見上げて、若旦那に忠告のメモを挟んであげたりしている(笑)のが、くだんの番頭の忠一どんや、主人の肩たたきに居眠りして、こぶしと頭突きを同じリズムで繰り返す(笑。これいいなー)小僧さんだったり。

つまり、この若旦那はどーしよーもない放蕩息子ではあるけれど、何となく従業員からは好かれてる……まではいかないまでも、なんか、心配されている、というか。
謹慎を食らった若旦那が、ノンキに従業員たちと共に帳場に座っているシーンの、彼よりも周りの、あるいは来客のぎこちなさとかが、物語っているんだよなあ。

とはいえ、やっぱり本作は、女たちの物語だったように思う。番頭の忠一とめあわせられることを父親に決められている妹のみや子は、忠一の思い人が花街にいることを知っている。
その敵娼(だから、芸妓というより、遊女と言った方が正しいのかしらん)である星千代はしかし、ミーハーに若旦那にほれ込んでいるうちに、実際の彼に近づかれて、本気になってしまう。

……というあたり、時代だからそのものの場面は描かないまでも、後に星千代の先輩(であり、藤井君の義弟の敵娼)である芸妓さんに、アンタ、いい加減にしなさいよ、と酒乱気味にカラまれたところを見ると、そらー、双方ともにしっぽり、たっぷり、がっぷりよつ、だったんだろう。

そういうあたりの、見えない色気は、やっぱりこの時代、白黒の、もんわりした時代ならではだよなーっ、と思う。想像させちゃうんだもん。
それはね、後半戦のヒロイン、レビューガールのたき子が、そんなことは何もないと、「ただ真面目に藤井さんのことが好きなだけよ」というあたりと見事な対照を見せているんだよな。
実際、たき子の言うことは本当なんだろう。太ももあらわなレビューガール、見るからにセックスアピール、“ジャーナリズムの標的”にいかにもなりそうな関係、でも、何もないんだと。
藤井君だって、彼女には本気だったし、本気じゃない時には、遊びの時にはチョメチョメしちゃうのに、そうじゃないと、逆に出来ない、それが、この時代だと、余計に、やけにリアルに感じるのは、そういう、遊び場がしっかり機能していたからだろうなあ。いいのか悪いのか……。
しかもこの時代はそういうのもきっと過渡期で、プロの筈の女たちも、贔屓の相手が結婚したりすると、荒れまくる訳だからさあ。

忠一は星千代に本気だった訳だけれど、星千代はどうだったんだろう。
藤井君といちゃいちゃしたことで、彼が退部の憂き目にあう。その間のシークエンスは、妹のセーラー服で彼女に変装させたり、それをその妹に目撃されて逃げ回ったり、挙句の果てには男臭い更衣室のロッカーに彼女を隠したり、笑える要素満載なんだけどね。

でも、藤井君が“ジャーナリズム”の的になるほどの花形で、大学最後の試合に出してあげたいと、妹が星千代に、兄にもう近づかないでほしいと申し入れると、星千代は、私はどうせ浮気の世界の女だとぶんむくれるんだけどさ、でも妹から忠一の名前を出されると悲しげに顔をゆがめたりして、……なんか、何とも言えないんだよね。
「彼はあなたが可愛がってあげればいいじゃない」なんて、つまり、婚約者として据えられたみや子に嫉妬しているようにも思えたし。

でもそのみや子こそが、……彼女は口には決して出さなかったけど、彼女、絶対、忠どんが好きだったよ、ね??
好きだったからこそ、彼が他に思い人があることも知っていたし、主人に自分との縁組を言われていることへの苦悩が何より苦しかった訳でしょう??
ちょっとね、驚くほどに、女心、なのよ!!このみや子のお姉さんで、幸せに嫁いでいったはずのみな子だって、まじめそうに見えたダンナが放蕩弟と一発で気が合うほどの、つまりは遊び人でさ。

そうそう、婚礼の日に、もう窮屈で仕方ねえ、とばかりに、舅の挨拶が過ぎると懐から酒を出してあおり、袴をももまでまくってくつろぎまくるという、マジメそうに見えるのに、トンでもないこの義兄!
なじみの芸妓ともまだ切れておらず、つーか泣き落とされたらそのままズルズル。こりゃー、これも、画には出さないけど、しっぽりやってるに違いないぞ……。

でね。先述したけど、きっとしっぽりはやってないだろうと思われるのが、レビューガールのたき子なの。
このレビューというのも、老舗問屋や花街、あるいは“カレッジもの”である大学の描写とは違う、当時のリアルタイムで実に面白くて。まあ、股のくいこみ角度はやっぱり大人しいけど(爆)、羽だのスパンコールだの透け素材のフレアーだの、それで腿をあげてのラインダンスでしょ。まあ、膝が曲がっている子たちがかなりいるけれども、それも含めて生々しくて、結構エロいのよ。
それを、まるでクラシックコンサートでも鑑賞するがごとく、ホールのステージで繰り広げられるレビューを、満席の客席できちんと座って、微動だにせず“鑑賞”している。
に、日本人、やなー!!恐らく今でも、こういう感じ、大して変わんないよな(爆)。レビューガールと若旦那に純愛を持ってきたあたりも、そういう日本的流れだよなー。

で、なんでレビューガールだっていうのは、言ったっけ?(覚えてないあたり……)。そうそう、後輩のお姉ちゃん。やたら藤井を崇拝している後輩青年。
彼はお姉ちゃんがレビューガールで稼いでいるおかげで大学に行けていると感謝っぽく言うくせに、お姉ちゃんよりどうやら憧れの先輩、藤井の方が大事らしい。
放蕩ヤローの藤井だが、選手としては有能、彼にとっても学生最後の試合だし、復帰させようと思うが、そのままでは具合が悪い(てのは、あの嫉妬バリバリバンカラ男が一人だけ主張したことだが)、“友情と言う名の制裁”でもって、復帰を許そう、と可決されちゃう。

それを聞いた後輩青年は、自分の姉のせい、ていうか、本心は自分のせいだと思っていたと思うけど、なんたって藤井君は女たらしだし、なんかね、この後輩君は、憧れが過ぎて、え、ひょっとして、そっちかも?と思わせるぐらいの真剣度でさ。
女心がさまざま真剣だったのに、それを全部ひっくるめて太刀打ちできるぐらい、この後輩青年も真剣なの。ど、どーしよー(汗)。
憧れの藤井先輩をたぶらかしたぐらいに言われて、制裁されると知って、彼もう、動揺しちゃって、恩義ある、最愛の姉を、バンバンひっぱたいちゃうの!
おいおい、おいおいおいおいー!!それ、女子に男子がやっちゃ、ダメだろ!!!

でね、お姉ちゃんもまた藤井君に本気だからさ、本気だからこそ、判った、もう会わない、そう涙ながらに言ってね、で、そこに藤井君が訪ねてきて、……この後輩青年とバトルになる。
もうバトルもバトル、この後輩青年、足をけがしてて、松葉づえ状態なのね。
そうそう、彼がケガしてお姉さんを呼んだ時、びっこにならなければいいが、いや、足が仕事になるあなたがケガしなくてよかった、なんてちょいとシャレた会話をしたぐらいだったんだけどさ。
とにかく、後輩青年はケガしてて、だから藤井君はなかなか本気になれないんだけど……。

でもさ、次第に後輩青年、沸騰してきてさ、部のみんながあなたを必要としているのに!とか、あんたが必要としてるんだろ!と突っ込みたくなるヤバい真剣さでさあ。
藤井君が、ここにも自分を待っている人がいる、とロマンチックなことを言って(キャー!!!)、たき子のもとに行こうとしても断乎として阻むの。
もう、しまいには、藤井君、後輩青年にドロップキック!えーっ!!ビックリした!!しかもちゃんと字幕で「これがドロップキックだ」なのよ!!
足が不自由な後輩にドロップキック!往時の映画は何しでかすか判んなーい!!

……つーか、この後輩、試合シーンでは問題なく走り回ってなかった??それともあれは人違い……??
まあいいや、ラスト前、クライマックスの試合シーンは、ちょっと驚いた。いやさ、やっぱりそれなりに昔だしさ、スポーツ映画っつっても、ねえ、とか思ってたんだけど、ここはかなり、かなーり本気で力入れてる。迫力!
まあでも、本気ならA大学対B大学なんて、テキトーすぎるのはどうかとも思うが(爆)、でもちょっと、ワクワクしちゃったなあ。

この試合シーンでようやく、藤井君が花形スター選手だということを実感できるわけで(爆)。でね、見事な逆転劇を繰り広げる。
コメディリリーフとして、西瓜取りだのと卑下していた親父さんも、ラジオをヘッドフォンで聞き入って、点数をそろばんで入れ(笑。カワイイーッ)、悦に入っている。
その間、電話が入ってくる弟を散々待たせて……。この弟、つまり藤井君の叔父さんは、遊び場で鉢合わせする、つまり遊び人で、藤井君の言い訳にいいように使われる愛すべき人物。
ハゲてるくせに髪をバーコード状になでつけているあたりの情けなさが、そのまんま今のオジサン風俗に通じているあたりも可笑しい。なんとも可愛らしいのよね、この叔父さんさあ。
やっぱり人間ってベースが変わらないからこそ、優れた作家の作品ならば、いつの時代になっても面白く見られるんだよなあ!

と、うっかりシメそうになったけど。ちょっとラストはしんみりなんだよね。
試合を見ていたたき子。他の家族たちはやんやの拍手で彼をたたえるのに、彼女は群衆に押される形で、姿を消す。
弟君が姉の手紙を藤井君に託す。東京を離れる旨が書かれていて、彼は涙を隠すために、泥だらけのユニフォームも脱がずにシャワーに打たれる……。
ようやく、このダメ男に女心を判ってもらえた気がしたけど、遅い、遅いよなー!!でもこのシーンは、悔しいけどグッときたなあ……。★★★★☆


体脂肪計タニタの社員食堂
2013年 100分 日本 カラー
監督:李闘士男 脚本:田中大祐
撮影:永森芳伸 音楽:小松亮太
出演:優香 浜野謙太 草刈正雄 宮崎吐夢 小林きな子 草野イニ 渡会久美子 藤本静 壇蜜 駒木根隆介 酒向芳

2013/6/14/金 劇場(角川シネマ有楽町)
体重計、じゃなくて体脂肪計、なんだよね。世界初の体脂肪計を作ったタニタ。薄々そうかなと思ってたけど、こういうスキマ技術、ユニーク技術で世界初、世界トップをとるのはいかにも日本らしくて嬉しくなる。
だから、このタイトルだけで“企業イメージ”はUPしている訳で、タニタ側からそれを求めるような言葉はなく、自由に作ってOKと出たというのもむべなるかな。

いや、ね、観ている時には、コミカルに作られてはいるけど、これってどこまでホントかなと思っていたのよ。
そこまで気になるほどの重要エピソードがあった訳じゃないけど(爆爆)、でもまんまタニタの名前を使ってるし(まあそうじゃなきゃ、意味ないけど)。

そうなると社長も谷田、そして二代目として副社長を務めているのがヒロインの高校時代の友人である谷田君。
しかしこの谷田君がとんでもなく情けない、何事にも中途半端で、ヒロインはもとより観客も相当イライラさせるというもんだから、うっ、これってウッカリ?事実だったらかなりシャレならんと思っちゃったからさー(汗)。
でも自由に作っていい、と言われて谷田の名前を冠してここまでやっちゃうのもさすがというか。ホンット、この谷田君にはイライラしちゃったもん!!

いや、イライラしたのは谷田君だけではなく、社外に向けたキャンペーンとして、肥満気味の社員を健康的にダイエットさせるために選ばれた体脂肪40パーセント超えの“ヒマン・スリー”と呼ばれるメンメンすべて、なんだけど(爆)。
やる気はあるようなないような。やる気を出しても長続きせず、お決まりに挫折を繰り返す。

まあそれだけリアリティがあるんだろうが、中盤、どころか後半までそれをぐだぐだと繰り返すので、イライラが次第にハラハラに変わっていってしまう。だ、大丈夫なの、本当にこれで……と。
なんか後半も後半、最後の1/4ぐらいでグワッと逆転させたみたいな感じで、キャンペーンやダイエットのカタルシスを感じるのにはムリがあったかなあ。でも、とにかくコミカルで押したから、いいのかな??

あんまり、ダイエット効果を感じるような、最終的におおー!と盛り上がるほどにはなかったような(汗汗)。
モニター期間終了とともに、金のマントをバッととった時には後姿のみで、あくまでウェブ画面のビフォー、アフターだけだったしさ。それも何となく微妙で……。

いや、実際に痩せた訳ではなく(二人は実際に相当痩せたということだけど!)太りメイクを脱ぎ捨てていくことによって、つまり実際のその人に近づいていくごとに“痩せていく”という手法を取らざるを得ないことについては、つい先ごろ整形美人映画(どんなカテゴリじゃ)「モンスター」で散々懐疑的に思ったことなんだけど。
まあ本作はかなりナンセンスも入ったコミカル映画なので、そこまでは深刻に感じないし、カタルシスが得られるほどに、つまり言ってしまえばワザとらしいほどにガリガリになる訳じゃないんで、ある意味ではリアリティはあるの、かな??

でも正直、太りメイクは、動きがまず不自然になってしまうんで、リアリティという面ではやっぱりなかったかな……なんか、着ぐるみで動いているような不自然さになってしまう。
いくら表面上は自然でも、あ、太りメイクだなと動きで判ってしまう。それを太っていると動作が鈍くなるとか、そういうことに転換してしまう訳でもないだろうけれど。
だってダイエット効果が示されても、そこまで目を見張るほど痩せた!という形ではないからさあ。だからこそ、いいんだけど。

このタニタの企業目的は、「肥満も飢餓もない世の中」ということで、健康や生命に危機を及ぼすほどの極端な肥満や飢餓(この場合きっと、過度なダイエットによる痩せすぎも広い意味で含まれるのだろう)をノーと言っているだけで、太っていることそのものを否定している訳じゃ、ないんだよね。
日本の、特に女性の痩せ型志向の価値観は、世界的に見てもきっとかなり異常だと思われ、身長だの体格だのを無視して、40キロ代でなくてはいけないとかムチャな理想がいまだに横行しているような現状でさ。

だから本作が、ダイエット、しかも肥満社員を強制的にダイエットさせるという大メインが掲げられていたから、ちょっと不安だったのよ。
もう、それこそよくあるさ、こんなに痩せました、別人―!!過去の私よさようなら!みたいなさ、太っている体型を悪だとまでいうようなことを、映画にしてまで言うのはイヤだと思ったの。

しかも、こんな健康機器メーカーの映画だから、すんごく、影響力あるじゃん。
なんかさ、「ハンサム★スーツ」の、ぶスーツに憤ったこととか思い出しちゃって。“ぶスーツ”姿の大島さんの方が、痩せた美人のオチ?よりずっとずっと可愛かったんだもん!!

……ちょっと力入っちゃいましたが。でも、そうじゃない、ダイエットの結果手に入れたのが、彼らに相応した体型、健康を維持できる範囲内の体型であったことが、嬉しかった。
ことに、「太ってるんじゃなくて、ぽっちゃりなんです!」と主張する女の子、福原さん。ぽっちゃり好きのイケメン君に恋していて、だけど行き過ぎた肥満で「……さすがに振り幅が」と言われてしまう。
痩せるために無理な絶食をして、精神がおかしくなって自殺未遂騒動を起こしてしまう。

栄養士の春野から、「今の20代の女性の摂取カロリーは、戦後の人たちより少ない」と、その異常なダイエット神話をやめるように諭される。つまり、痩せ型になる必要はないんだと。
福原を演じる小林きな子嬢は、実際にダイエットに挑んで、実に12キロの減量、体脂肪マイナス4パーセンに成功した、ということで、ラストに見せる、ぽっちゃりセクシー可愛い彼女は、振り幅云々で彼女をフッたイケメンをフり返すのに十分の魅力!これは、実に、いい価値観!!

……相変わらず、物語も何もかも無視してスイマセン。大体、主人公は優香嬢だっての。
かつて太っていたという過去を持つ彼女は、それこそザ・特殊メイクの太りっぷりを過去回想で見せ、見る影もなくスリムになった彼女に、高校時代はまだ普通体型だった谷田君は驚くんである。
一体どうして、どうやって痩せたの、という問いかけに対する彼女の答えは、大人になる過程では大なり小なり誰もが経験する、挫折と決意の結果。

食べることが好きで栄養士になった。だけど太っているから説得力がない。いくつもの就職試験に失敗し、入りたかった大手の食品会社の面接には、怖くて行くことさえ出来なかった。
そこから一念発起して痩せた、という彼女は、ワンマン社長の二代目、お気楽息子という地位に安穏としている谷田君にささやく。ダイエットの極意はね……と。

この極意が明かされるのは物語の後半、いや、クライマックスになってからで、正直観客であるこちとらはすっかり忘れてしまっていたんだけど(爆)、でもそれは案外簡単な、シンプルなことだった。
自分を嫌いにならないこと。ダイエットに限らずだけど、怠けてしまうと自分が嫌いになる。自分を嫌いにならないために、頑張るのだと。

これはそれこそダイエットに限らずのあらゆる成功への秘訣で、先述したけど谷田君、そしてヒマン・スリーのメンメンはもうその思想が欠けててさ(爆)。
だから、後から思うと、あれ?それ、春野はヒマン・スリー達に言っていたかなあ、と。それを言ってあげてたら、あんなイライラする挫折を繰り返さなかったんじゃないかなあと(爆爆)。

ヒマン・スリーにはそれぞれ、このダイエットを成功させて見せつけたい相手がある。
先述したように紅一点の福原は自分をフッたイケメン君。営業部の丸山は、離婚した妻に引き取られてめったに会えない愛娘の運動会……には間に合わなかったから、参観日に出席すること。開発部の太田は、春野さんに恋しちゃったから。

福原嬢はイケメン君をフリ返してやり、丸山はダイエットの経過を見守っていた娘が妻と共に結果発表会にも来てくれて、授業参観が実現。
しかし太田君だけは、告白する前に、春野さんは行きつけの居酒屋の大将とイイ仲になっちゃってて、玉砕!
しかもこの大将がぽっちゃり系だったもんだから、「えぇ!春野さんって、そうなの?」「うん、私、昔からぽっちゃりが好きなの!」
優香嬢が一人ビフォー、アフター状態だったのは気に入らなかったけど、つまりここで帳尻合わせ、なのかなあ。その他はポッチャリ礼賛って感じだもんね。

……どうも、大事なところが抜け落ちてるな。だから、主人公は優香嬢=春野さんなんだってば。
彼女は高校の駅弁同好会で一緒だった谷田君に頼まれて食堂統括として入ったけど、栄養士なのに不器用で、料理の手際が極めて悪い。
まあ、料理が出来ない訳じゃなくて、時間がかかるだけ、というのが本人の弁だが、食堂の仕事となるとそういう訳にもいかず、彼女の指揮下に入ることになるベテラン二人は明らかにイヤそうな顔をする。

ただ、本作はそんなところが重要じゃないんで、形式上は一応、春野の頑張りが二人のベテランを認めさせていく、という形ではあるものの、オバチャンのイヤミも春野は軽―くスルーするし、そんなところで余計なドロドロは見せないんだよね。
まあそれで正解だったとは思う。こうした関係性だとドロドロするのが当然、それが解消されることこそがカタルシスだというお約束もあるんだけど、それをやっちゃあ、それこそ、本作の本来のテーマが失われてしまうもんね。

ただ……だったらわざわざ、こんなドロドロが起こりそうな配置を用意しなくても、とも思ったけど(爆)。
単純に重きを置く場所を別に設置しているんなら、観客を不用意に期待させるような配置にしなくても、とも思った(爆爆)。
かといって、ダイエットに挑むメンメンや、何より一番人間関係、どころかこれまでの人間形成に悩む谷田君が充実した?ドロドロをみせてくれる訳でも、ないんだけど。

いや、谷田君はその点ではまあ、あったかなあ。彼の父親であるワンマン社長が草刈正雄、キャリアのある美壮年の凄味。
頼りない息子にため息をつくばかりの日々、業績の上がらない中、突然倒れてしまって、入院中もやきもきし、病身をおして会議に出たりする。

非現実的に色っぽいナースに檀蜜嬢を配し、ミニ丈ピンクのナース服に、白いストッキングはバックライン入りという徹底ぶりで、しかしそれが檀蜜嬢だとコスプレに見えない(つまりリアルに見える!)のが凄い。うーむ、つまりそれは希望的妄想ということだろーか(爆)。
でも、ミニ丈とかバックラインとか、ありえない要素が、コスプレ的にならないのは、丁寧に作られた衣装であるとともに、彼女自身がそれにリアリティを持たせちゃうということなんだろーなー。

んでもってお相手が草刈氏だから、余計に似合いすぎる!そうか、檀蜜ヴァーサス草刈正雄だからこそのこの奇跡か!
ここでちゃっかり彼女を会社に“お持ち帰り”した社長、秘書として息子の谷田君と再会し、驚いた息子に対して「転んでもただじゃ起きないよ……」とミョーに色っぽい声でキメてみせる草刈氏、サイコー!
正直、息子の一世一代の逆転劇に涙を見せるシーンより、素敵だったよ!!

そうそう、それで思い出した(爆)。谷田君の一世一代の逆転劇。
それまでは無能な副社長、問題点を投げかけられても口ごもることしかできなかった彼が、何回目かの春野の叱咤、これが最後の叱咤に、仲間たちのヒマン・スリーの後押しもあって、奮い立つ。
その大きなよりどころは、春野が託してくれたダイエットのための、低カロリーだけど美味しいランチメニューのレシピと、その“タニタ食堂”に通ってくれた社員たちのアンケート、生の声、声、声、なんである。

とにかく絶食するとか、何か特定のものだけ食べておなかを満たすとか、そんな流行り廃りのダイエットに真っ向から勝負するタニタの社員食堂。
こうした健康的なダイエット、ていうか健康的な食生活の指南は、それこそ不健康なダイエットが流行るたびに繰り返し説かれてきたことなんだけど、それがこんなにも、社会現象となるほどに、受け入れられたのは、詳細なレシピの提示による、おいしそう、やってみたい、という現実感と、何よりそれが実際になされたことだという説得力。
そしてそして、実際の有名な健康器具メーカーによる、しかも個人ではなく、社員全体を変えちゃった!という、リアルさと説得力の積み重ねによるのだろうと思う。

映画化において、実際のレシピも有名フードコーディネーターによって彩り豊かに整えられたんだろうけれど、こうして500キロカロリー台の様々なレシピを見て思うのは、日本の家庭料理の驚くべき多彩さ、という点でもあるんである。
ついこないださ、NHKの「クールジャパン}で日本の家庭料理というお題でやっててさ、やっぱりそうなのねと思ったんだよね。

世界各国の料理を取り入れ、調味料も多彩に取り入れ、基本は食材そのものの風味を生かし、品数を多いからカロリーが低くても満足感が得られ、何よりその多彩さや品数といった目を楽しませる点において、満足度が高い日本の家庭料理。
ここは食堂というカテゴリではあるけど、基本は家庭料理の魅力にある、よね。

谷田君を動かした社員のアンケートだって、心を込めて作られている、家庭で食べているような温かさ、そんな言葉の数々だったんだもの。
丁寧にだしをとって作られるお味噌汁と炊き立ての白いごはんだけだって、それは充分伝わる。
妄想ベリーダンスなんて場面があったり、かなりかなーりコメディに仕立て上げられてはいるけど、これって長寿国日本を示すための、実にいいテキストとして世界に発信できるだけのものがあるんじゃない??

うーん、でも、カレーを「ルーは油の塊、ご飯もいっぱい食べちゃうし」とダイエットの敵としたり(その後、工夫して食堂のメニューには加えるけれど)、女子が大好きスイーツも基本は敵、ベテラン同僚がこさえてくれた100キロカロリーのミルクティープリンはおいしそうだけど、それだけじゃ女子の欲望は抑えられない!!などとも思うし……。
特にスイーツはね!あんな風に大きなミルフィーユどーんと「みんなで食べてください!」なんて置かねーって!切り分けるのが大変だから、個包装のお菓子にするように女子なんかは特に心がけるもんだからねっ(そーゆーところ、男子は気にしないから、配る方としてはホント、メンドクサイのっ)。
……スイマセン、これはコメディだもんね、コメディだからっ(と自分に言い聞かせる……)。

お酒を飲むと何故太るのか。総カロリーはそうでもないのに、という長年の謎が解けたことに、個人的には衝撃。
肝臓でアルコールを分解する方にエネルギーが使われて、カロリーは燃焼されることなく蓄えられてしまう!
そうか、そういうことだったのか……誰も教えてくれなかったよ、キーッ知りたくなかったーっ(ダメじゃん!)。★★★☆☆


だいじょうぶ3組
2013年 118分 日本 カラー
監督:廣木隆一 脚本:加藤正人
撮影:清久素延 音楽:世武裕子
出演:国分太一 乙武洋匡 榮倉奈々 三宅弘城 安藤玉恵 渡辺真起子 木下ほうか 根岸季衣 田口トモロヲ 余貴美子 田辺桃子 石井杏奈 川西美妃 三谷愛華 吉川日菜子 朝田帆香 伊藤桃香 平祐奈 遠藤由実 矢野里奈 うらん 竹内海羽 上白石萌音 日向ななみ 有馬レオン 三船海斗 住本英優 菊地時音 鷲田詩音 谷口優人 飯島幸大 藤崎太一 遠藤温仁 畠山紫音 関ファイト 中野澪 河口瑛将 村田義仁

2013/3/26/火 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
あっ……これって乙武さんが主人公じゃないんだ……という戸惑いがまずあって。主演は彼を補助する友人でもある教師、国分君。そ、そうなんだ……。当然、乙武さんが主人公、主役、主演であると思ったから、なんでなんだろうと……。
普段はプロダクションノートとかチェックしないんだけど(心弱いんでメッチャ左右されちゃうからさ)、それがどうしても気になって覗いてみたら、劇映画として作るスタンスだと、乙武さんを主人公にしてしまうとドキュメンタリーの側面が強くなる、だから補助の教師を主役にした、と。

えーっ……そうかなあ、そんなことないんじゃないのかなあ。だって彼以外はプロの役者を使うんだし、まあ、子供たちには新鮮なリアクションを与えるために様々な工夫をしたらしいけど、それだって、やっぱり“演出”じゃん。劇映画の中で本当らしく見せるための手段でしょ。
だったら乙武さんを主役として迎えて、きちんと演出をつければ何の問題もなかったんじゃないかと思えて仕方なくて。

と思っちゃうのは、当事者の目線で切り開いていく物語を勝手に期待していたから、やっぱりなんだか……物足りなく思っちゃったんである。
勿論客観的な視線から物語を眺めた時、多面的に見えてくる効力というのはあると思う。でも本作にそれがあったかどうかは、……うーん、私、やっぱり乙武さん主演で見たかったと思っちゃう。
何気にキャリアと実力を重ねてる国分君はこの役にピタリだし、それに不満がある訳じゃないんだけど、果たして彼の目を通して乙武さん扮する赤尾先生の人となり、考え、奮闘がだからこそ描けたのかと言われると、なんか、なんか……。

というのも、国分君演じる白石先生には恋人がいて、榮倉奈々ちゃんが演じてるんだけど、この設定とか、いらないんじゃないかとか思っちゃって。赤尾先生にかかりっきりになるあまりにカノジョをないがしろにする、だなんて、えーっ、こんな陳腐な設定持ってくるの、と思った。
しかもそれに彼女がブンむくれるのだってあまりといえばあまりにベタな展開で、演じる彼女が気の毒になるぐらいだった。「ウチのこととか、相談したかったのに」という、それがどの程度のことか判らないけど、なんかその程度でスルーされてしまう。
正直、ね、この物語を、そういう適当なサイドストーリーで色づかせるなんてこと、してほしくなかった。それだったら、この当時もう乙武さんには家庭があったんだから、彼をばっつり主演にして、そんな問題にだって深く切り込んでほしかったよ。

それとも何かね。乙武さんの演技力に不安があったとか?あるいは商業的な問題があったとか??国分君と奈々ちゃんの中途半端さには、そんな思いを抱えずにはいられない……。

なんて言ったらホント彼らに申し訳ないし、ウワサに聞いてる乙武さんの教師時代のエピソードは感動的、と単純に言ってしまうにはもったいない、数々の教訓があって、この映画が作られたことの意義は充分すぎるほどではあるんだけど。
乙武さん演じる生まれつき四肢欠損である赤尾先生は、生徒たちに自己紹介した後、先生はこういう身体だから、出来ないことも沢山ある。だから先生が困ってるな、と思ったら助けてほしいと開口一番口にする。
そのことをまず学年主任の青柳先生(安藤玉恵嬢のカンの強い感じがピタシ!)に叱責される。教師は子供たちを監督する立場なのだと。教師としての自覚を持てと。

私はね、赤尾先生、つまりは乙武さんが教師となったことの意義、この映画が作られた意義は、ここが一番の重要だと思ってる。
そりゃまあ、後に赤尾先生、白石先生が友人同士として飲み交わす時に、自分たちが子供の頃には先生はもっと威厳があった、怖い先生が沢山いた、と述懐する、それもひとつの“いい時代”だし、確かにどんどん先生がトモダチ感覚になってしまうことへの憂いはある。

でも、教師も一人の人間、そしてそれ以上に、日本の社会は障害者を目にする機会が極端に少なく、それだけ区別(差別とは言いたくないが……それもきっと……ある……)され、線引きされ、見えないところに追いやられる。
乙武さんが主張し、主張するまでもない当然のこと、障害を持つ人たちも、普通の生きている、普通に悩み、楽しみ、生活している人たちなのだということを、今の日本社会がいまだにイマイチ理解していないこと。手足のない先生がいたって普通であるべき社会を作ること。

普通、というのは、後半、かなりのクライマックスとして子供たちと一緒に議論されるところでもある。メインとなる女の子、アヤノがダウン症のお姉ちゃんのことを悩んでいるというのは、……原作を未読だからアレだけど……映画に際するフィクションじゃないだろうかという気もしている。
どっちにしろこのエピソードはとても重要で、普通とはどういうことなのか、あるいはヘンだと思うことはどういうことなのか、ヘンは悪いことなのか、そもそも自分がどういう人間なのかと考えた時に、普通というくくりの中で埋没してしまうんじゃないか……ということを、金子みすずの詩をモティーフにして子供たちに考えさせ、ここ一番の感動的なシーンに出来上がっている。

……とまあ、思いつくまま書いちゃって今更最初からいくのもアレなんだけど。まあ最初からっていうかさ、一年を通した赤尾先生と補助の白石先生の奮闘、私も耳にしたことがある数々のエピソードが語られる。
子供たちの前に初めて現われた赤尾先生、出席簿を見ずに、子供たち一人一人の名前を呼びかけたこと。上履きが隠された事件は、後に心に闇を抱えていた先述のアヤノちゃんの仕業と判り、運動会ではそれまで駿足を誇っていたコウヘイが転入生によってトップを奪われる。
この運動会のエピソードは、NHKかなんかのトーク番組で乙武さんが話していたのは、本当に各チームの全勝を達成して約束として坊主になったんだと言っていた記憶があるから、劇映画として作られた部分なのかなと思う。

まさにコウヘイは劇映画の、フィクションとしての魅力があり、クラスに一人はいる、ちょっとクールで、でも内側にはアツいものを秘めている。夏休みが終わった後なんて、真っ黒く日焼けしている感じがまた良くてさ、なんかあの当時の女子的気持を思い出してキューンとしてしまう訳!
本作では色恋系は排除されていたけれど、5年生といやー、もうそういうキュンキュンの年頃に違いなく、彼なんてもうもうもう、女子的にはかなーりターゲットにされるでしょ!と……。うーむ、萌えすぎかなあ。

でもね、この運動会のエピソードはね、それこそなんとなく、消化不良だった。「赤尾先生も練習に出るっていうんだから」とこのクールコウヘイを練習に引きずり出すために言われる台詞があるんだけど、その直後のクラス全員が参加する特訓に、赤尾先生の姿はなく、白石先生が熱血指導。な、な、ナゼ!?
しかもその後、大舞台の運動会で、やっぱり転入生に敗れちゃって、最後の最後、皆が勝った後だから余計にコウヘイはもう悔し涙にあふれて、赤尾先生がよく頑張ったと声をかけても首を振るばかりで。

更に声をかけようとした赤尾先生を制して、白石先生がコウヘイの肩を抱き、よく頑張ったよ、と耳元でささやく、のは、そりゃないよなーっ!と思ってしまった。
何、これって、障害のある先生は練習もロクに付き合えないし、コウヘイの気持にホントに入っていくことは出来ないし、それこそ肩も抱けないし、ってことな訳!?
いや、シビアに考えれば、そういうことも描写としては必要なのかもしれんが、この場面に関しては正直、そこまでの考えがあってのこととも思えず、追いやられてピントがボカされた赤尾先生=乙武さんがあまりに切なくて……。

まあ、ね。その後、アヤノのエピソードもあるし。アヤノの母親として登場する渡辺真起子は、もう今や現代の母親を演じさせたら、それがどういうタイプであってもほおんと、彼女の右に出るものはいないんじゃないかしらん、と思うリアリティ、生きている、生活している女の、母親の、リアリティ、なんだよね。
動物園で象さんのマネをしていたお姉ちゃん、それが引きこもって学校に来なくなった原因だと、ただひと言、そうだと思いますと母親である彼女が言うだけで、グッとくる。

障害を持った自分を見ることでアヤノが辛くなり、追い詰められたことを悟った赤尾先生、そしてあの、金子みすずの感動の道徳授業、そしてそして、遠足の登山に赤尾先生が参加できないことを知った生徒たちが頭をひねり、親を巻き込み、嘆願書にハンコを押させて職員室に押しかける大感動のシーンへとつながっていく。
この遠足のエピソードは、それこそ冒頭の「先生が困っていると思った時には助けてください」を最大限に表現した素晴らしいシークエンス。

車いすに綱を結び、子供たちがうんせうんせと山道を運ぶ、それでもどうしても遅れてしまって、赤尾先生が、もうここまででいいよ、先生はここで待ってると言うと、じゃあここで僕たちも先生とお弁当食べる!と言う。
頂上の素晴らしい景色を見せてあげられなかった、自分のせいだと落ち込む赤尾先生に、白石先生はあの楽しそうな様子を見ろよ、と言う。3組は3組にしか出来ない遠足を自分たちで作り、自分たちにしか見えない景色を見たのだ。

こうして数々のエピソードを思い浮かべてみると、赤尾先生の教え、そして存在そのものが、子供たちが自分で考える力を育て、自主性を促したことが判るんだけど、見ている時にはやっぱり、白石先生主導の展開がどうにも解せなくて(爆)。
何よりもったいなかったのは、こんな程度の使われ方をした榮倉奈々ちゃんだよなあ。「余命1ヶ月の花嫁」での信頼があってのキャスティングだとは思うが、それにしても……。

いい感じに古びた校舎、教室の趣、貼られている子供たちの書いた習字が毎回同じ題目なのに、夏休みの後だけアイスだの花火だのとバラバラに、恐らくそれぞれのチョイスで書かれているのが楽しい。
尺的問題もあるんだろうけど、親御さんたちが嘆願書に快くハンコを押してくれるだけの登場なのはもったいなかった。学校、教師たちだけでなく、親たちとの衝突だって実際には絶対にあったハズだもの。
白石先生が過去に体験したモンスターペアレンツのエピソードが最小限、それを埋める形として示されていたってことなのかなあ。“現代の問題”としてのあまりにもベタだけど……。

個人的には、赤尾先生、白石先生、他の教師たち、親御さんたちへの対応も均等に考えつつ、クールな判断を示しつつ、それは素敵、でもじゃあここまで、と温情と切り替えを絶妙に示す校長先生が素敵だった。だって余貴美子様だものー、それこそ、本当にピッタリ。
彼女はきっと、赤尾先生、白石先生のやり方をもろ手を上げて賛成する気持ちもあったと思う。でも自身の責任、状況、周囲の立場、すべてをかんがみて、それでいてパシッと、双方の傷やプライドを最小限に抑えて決断を下す。水戸黄門より素晴らしい。
桜の木の下での授業を、他のクラス、親御さんからウチもやりたいと言われたら困るから、コレっきりにしてくださいね、とひと言だけ念押ししつつ、「でもホント、気持良さそうね」とニコニコ窓から眺める。そーゆーことなのよ!!★★★☆☆


抱寝の長脇差
1960年 75分 日本 モノクロ
監督:大曾根辰保 脚本:鈴木兵吾 本山大生
撮影:倉持友一 音楽:加藤三雄
出演:高田浩吉 田村高廣 瑳峨三智子 小笠原省吾 青山京子 須賀不二男 山路義人 山茶花究 天王寺虎之助 田端義夫 大友富右衛門 澤村國太郎 永田光男 中田耕二 宮嶋安芸男 滝沢ノボル 幾野道子 乃木年雄 滝川美津枝 滝裕児 安田昌平 川本治正 成田舟一郎 南泰介 山内八郎 高屋ほがら 大下耕二 竹内信三 松原広一

2013/9/4/水 劇場(池袋新文芸坐)
名画座プログラムをやってくれていたなじみのところが、次から次へと姿を消してしまうので、テリトリー外の文芸坐に足を運んでみたりもする。うう、なんとも敷居が高いぜ。なんか観客も一味違うし、私みたいなモーローもんが来ちゃいけない雰囲気(爆)。
今回の特集、原作者の長谷川伸というお人はそんなモーローもんにとっては名前を聞いたことあるようなないようなという程度で(爆)、股旅ものと言われてもなんとなくのイメージの、もうホント、こんなとこ来るなという観客(爆裂)。
でもでも、そういう自分にとっての新ジャンルがまたしても開けるのって楽しいじゃないっ(開き直り)。

主演の高田浩吉は私、多分初だなあ。名前は知ってる……高田美和&大浦龍宇一(爆)。
なんかねえ、彼がピンと来なかったのか、単に作品自体がピンと来なかったのか、ちょっとね(汗)。
この日の二本目と三年しか違わないのに、こっちがやたら古く感じるのは、モノクロとカラーの差だけじゃない気がするなあ。

まあその上、フィルムの状態が悪く、ピントが合わない、画面が揺れる、音飛び等々、あんまりひどいもんだからそれを事前に告知して観客に了承を得ていたぐらい。そのせいもあるにしても、なんかね、ツッコミどころが満載って感じで。
戦前、同じ原作で山中貞雄が監督デビュー作を撮ってるって??私でさえ名前だけは知ってる山中貞雄、そっちの方が観たかったなあ(爆)。

まあそれはおいといて……。高田浩吉がね、特に殺陣がね、なんかお粗末というか(爆)。
いやあれが様式美というものなのかもしれない。彼はもう、突っ立って、エイヤアとやってるんだけど、その周りを斬られ役の者どもがええい、ヤラれたっ、と見事にトンボを切ったりする。なんつーか、歌舞伎みたいな。いや、それじゃ歌舞伎をバカにしてるみたいだけど(爆)。
なんかただ単に彼が身体が動かないから、周りの殺陣のプロが斬られてござい、みたいに見えちゃう。
ここをお約束として飲み込んでしまえばいいのかもしれないけど、なんせ二本目の橋幸夫がもう若さピチピチあふれて、躍動感にあふれて超絶魅力的だったんだもの。ついつい……。

まあとにかく、最初から行こう。高田氏演じる源太は料亭、茗荷屋お抱えの板前料理人だったんだけど、ふんぞり返って料理にケチをつけた代官に腹を立てて、包丁でブスリとやってしまう。
そんでもってそのままトンズラ。数年たって帰ってきた源太はすっかりヤクザもんの風体。
廃墟となった茗荷屋を見てアゼン。叔父の家に寄ってみると、お前があんな沙汰を起こしたから茗荷屋は闕所、ご主人と娘は江戸処払いとあいなり、その後、ご主人は亡くなったという。
ますます呆然とする源太。「そんなことになってるとは、夢にも思わなかった」

……もうここまでで、ツッコミどころ満載じゃないのお。大体いい年こいた板前が田舎侍(と言ったのは確か、源太自身だったと思うけど)にケチつけられたぐらいで、まあ怒るのは当然としても、包丁でブスリとは。
だって包丁って、板前にとって命よりも大事なものなんじゃないの。それこそ侍にとっての刀のようなもんでさ!
なんかこのプロローグで既に私の心は離れてしまった(爆)。いやそれじゃ、それこそ原作者の長谷川伸にケチつけるようなもんだけど、包丁を人の血で汚すなんて、板前の矜持もあったもんじゃない、もうこの前提でついてけないと思っちゃったんだもんなあ。

まあだから、源太は包丁を捨て、渡世人になったということも出来るけど、そう都合よく納得してしまうのもなあ……。
大体、「そんなことになってるとは夢にも思わなかった」って、ど、どうなの。そんなこと、容易に想像できるだろ、こんなことをしでかしたんだからさ!
……もうここでつまずいちゃったら、どうにもこうにもこの主人公に共感するのは難しくて……。

てゆーか、こういう単純さは彼だけじゃないのよ。本作の中で無知な私が数少なく名前が判った田村高廣、キャストクレジットにオッと思ったが、若すぎて顔が定まってない(爆)。
定まってないのは顔だけじゃなくて、このキャラクターそのものが……てのは、彼のせいじゃないが。
素直といえばそれまでだが、源太を疑うのも単純なら、その誤解が解ける方があまりに単純!素直すぎるだろ!!……いやそれは後の話なのだが……。

という訳でとにかく進むが。源太はこの叔父に、その娘さんを幸せにすることが、お前のやるべきことだ、と言われて深くうなずき、旅の空へと出るんである。
渡世人稼業をしてきた彼はまず、世話になった矢切の伝右衛門一家を訪れる。しかし世話になった親分さんは既に亡く、新興の宮久保一家に激しく揺さぶりをかけられている。

しかもこの宮久保のトップ、長次郎は金ずくでお上と癒着してて、思いっきり優位な立場な訳よ。
この、長次郎とお偉いさんとの対面場面、「おぬしもワルよのお」って台詞がマジで出てくるんじゃないかと思って、なんか違う意味でぞぞっとしちゃった!違う意味って、どんな意味(汗)。

いやそれぐらいなんか、パッケージ化された画づらだったというか……もう、二人とも思いっきり、悪人ヅラなんだもん。
それもね、育ちのいい悪人ヅラのお偉いさん側と、泥にまみれた悪人ヅラの長次郎側。いやー、ある意味画になるが(爆)。
でもね、この二人とも、あばかれるとあまりにもあっさり単純すぎて……まあそれも後の話なんだけど。

源太はこの地の居酒屋で、茗荷屋の娘、お露に再会する。この偶然だけでもありえねーっ、てトコだが、それを言っちゃうとどーしよーもないから、まあガマンしとく(爆)。
お露は矢切の副大将、弥吉に口説かれていて、お前さんがカタギになるんならいいよ、とまあ営業トーク半分で(酌婦だからね)言っていたんだけど、その弥吉が長次郎一団に殺されてしまう訳。
それはつまり、矢切の娘と結婚して跡目を継ぐことになっていた勘太郎より、弥吉の方が矢切のトップにふさわしいということを暗に意味していると思うんだけど……源太が跡目の話を聞いた時も、そんなそぶりをしていたし。
てあたりが、源太もデリカシーないけど(爆)。でもそれだけ、弥吉はお露にホレていて、足を洗うために矢切の一家から離れようと思っていた訳でさ。
それなのに、いわば主人公とヒロインをくっつけさせるためにあっさり弥吉を死なす(爆)。そりゃねーよ!!

……いや……作劇上の必然であったんだろうとは思うけど、正直、そんな風に見えちゃうんだもん。
源太が現れてからはお露さんは気もそぞろで、本気の弥吉につれなくしどおしだし。源太もさ、弥吉とお露を添わせることでお露さんが幸せになるのならとか言っておきながら、弥吉が殺されてからは下手人として疑われた自分の保身に徹しているようにしか見えないし。
しかもあっさり(そう見えちゃう)、その後お露さんと明るい未来という名の旅の空へ出かけちゃうんだもの!!……なあんか、さ。もう弥吉が浮かばれんよ(爆)。
いや決してね、弥吉のキャラ設定がおざなりだということではないんだとは思う。でも運び方というかさ、流れが……。
弥吉に推されて次の頭となった勘太郎がアホすぎる(爆)のがまた大きな原因で。うー、だからこれが田村高廣なのよ。上等兵どのがアホなんてある筈ないのに!!

でもホントアホなんだもん……。いや、というか、源太もアホだけど(爆)。
襲われた弥吉を助けるのに立ち回った源太、最後に逃げる男だけをなぜか斬りつける。
ヤクザども大勢に囲まれて立ち回っても、「安心しろ、峰打ちだ。首はつながってるぞ」とかんらかんらと高笑ってたのに(それが先述した様式美あふれる棒立ち殺陣でね(爆))、この時だけ、しかも最後の最後になぜついでみたいに斬りつける(爆)。
血の付いた刀を下げて弥吉のそばにいた源太を勘太郎が疑うのもまあ、無理なきことでさ……。

無理なきことでも、その思いが固められるのが、あからさまな証拠、もう思いっきり、判りやすく仕組まれた証拠だってのがさ!
弥吉がお露に、一緒になる約束にと欲しがっていたかんざしが、いつのまにやら源太の着物の中に。
あの感覚の鋭そうなお露さんが、しかも女の命の髪に刺さっている大事なかんざしをこっそり抜かれて気づいていないというのもなんだが、まあこの時には状況も状況だったから……。

ただ、それを抜いて隠しておいたのが、いかにも無能そうなタヌキヅラの、実際後にも先にも無能しか示していない宮久保の子分でさ。
それを突き止めた源太がコイツを責め立てて着物を自ら脱がせ、自ら帯で足を縛り上げ、というのを、このタヌキ野郎が泣きべそ顔で従うというのは多分、コミカル場面として用意されているんだろうけれど、ここまで無能なヤツが、なんでそんなうまい具合にかんざしを盗み、それを源太の着物に忍ばせられたのかっていうのが疑問だし。
それはつまり、源太自身が、それまでなんとなーく感じていたところなんだけど、観客にとってはイマイチ、デキた男には思えないってあたりがね、あるからさあ。

そんでこの流れでタヌキ野郎はその上の悪であるお偉いさんの寝所にまで連れていかれて、お偉いさん、あっさり観念、源太の言うまま誓約書にサインしちゃう。綿密にあくどい計画を立てていたんじゃないんだ、このあっさり感(爆)。
源太の権幕に、はい、書きます書きます、みたいな、妙に現代っぽいノリが可笑しくて、観客からも思わず笑いがこぼれた。そこは確かにちょっと面白かったなあ。

そうそう、コメディリリーフ的な二人組も出てくるんだけどね、これまたなんとも、中途半端で(爆)。
源太が江戸に帰った時からつけねらっているという、最初は剣呑な雰囲気を醸し出していた二人が、実際はどこ筋からの刺客だったのか、音声が悪いせいか、私が眠かったせいか、よく判らん(スマン!……ねむねむだったのにインネンつけてるサイテーなヤツ……)。
とにかくこの二人は見た目的にも判りやすくコメディリリーフで、全然腕もなくて、最初からアッサリ源太に小川に投げ込まれちゃうしさ。てかこの最初のシーンから、相手に全然触れていない棒立ち殺陣がミエミエなんだけど(汗)。
このお二人さん、ご苦労にもお江戸を離れる源太についていって、同じ旅籠に泊まり、危ない場面にいつでも遭遇して、部屋にへたりこんだまま、敵の振り回す武器におおっとお、みたいにのけぞったりしてさ。
可笑しい要素は満載のハズなのだが、どうも……ピントがずれてる……のは、きっと、このフィルムの状態が悪いせいなのよ、きっとそうよ!!

弥吉の仇、と源太を討とうとした勘太郎、しかし卑怯な源太は誤解だ、の一言であっさり逃亡、その間に先述の、諸悪の根源のお偉いさんをこれまたあっさりと成敗し、さらにその間に、お露さんが源太の置手紙を弥吉に見せて、誤解を解く。
あ、あ、あ、ありえないぐらい、都合良し(爆)。意地悪く考えれば、源太がこの短い時間にあんなきっちりとした毛筆の書き物を用意できる時間がどこにあったのかとか言いたくなるし、その内容も特に物的証拠的なものがある訳じゃないしさ。
それだけで勘太郎が、彼への誤解をあっさり解くのはあまりにも単純……素直なのはいいが、なぜ最初に思ったことを捨てて、源太の方を信じるのさ。信念がなさすぎる。

そう、素直なのはいいけれど、新しい事実(というか、事実と彼が信じちゃうブツ)が出てくるたびに信じちゃってたら、単なるバカじゃんー。
だって弥吉が殺された後、源太とお露さんがひと気のない神社か何かで(すいません、記憶がおぼろげで……)意味ありげに寄り添ってるところを目撃するなんていう、それこそわっかりやすい、二時間ドラマチックな場面さえ用意しといてさあ、そりゃないんじゃないの。
まあそれは、お露さんが積年の思いをぶちまけたという、乙女チックシーンにすぎない訳だけど……。でもさでもさ、あらたな証拠が出てきたら、過去の記憶はあっさり消失かい(爆)あんたの自我はどこにあるんじゃーっ。

と、田村高廣様に対して思ってしまうなんて、悲しすぎる(爆)。
ううー、結果的には大団円で、全ての善良な人が幸福になって、勘太郎と矢切の娘の仲睦まじいお披露目もそこそこに、源太とお露さんが未来の希望あふれる旅の空に出る、その彼の懐には、捨てた筈の包丁がある、なんて、すっげえハッピーな筈なんだけどさ!
なんか、なんか解せないっ。大体、どんだけの思いで包丁を捨てたか自体アヤしかったところに、それを取り戻すのもアッサリすぎる!!周囲は源太を信頼しすぎだよーっ!……それがこういう、ヒーローもののゆえんかもしれんが……。

タイトルは脇差なのかあ、結局は彼にとって包丁と脇差はどっちが大事なのだ……。そんな根源的なこと、こんな娯楽モノで言っちゃいけない?★★★☆☆


ただいま、ジャクリーン
2013年 40分 日本 カラー
監督:大九明子 脚本:村越繁 高橋洋
撮影:大沢佳子 音楽:江口拓人
出演:染谷将太 趣里 高木煌大 菊地麻衣 西村凪 西村颯 江原由夏 中原三千代 いっこく堂 夏目凛子(声)

2013/4/10/水 劇場(オーディトリウム渋谷)
残った上映期間は一週間で、しかも13時からの一回だけ、水曜休みはダラダラしたいと思っていたのに、どうしてもどうしてもどーうしても気になって足を運んだ。
だってあのポスター。女の子の腹話術人形と染谷君がおんなじようなポーカーフェイスで、並んで座っているあのポスター!気にならずにはいられないじゃないの!他の映画を観に階上の別の映画館に来ていて……という流れは「あれから」と同じ。うぅむ、恐るべしオーディトリウム渋谷。

ほんの40分の掌編。ポスター一発で判る“登場人物”から繰り広げられる物語は、いい意味で予想の範囲に収まっていた。ヘンな冒険や破綻がなく、心地よくハートフルでウルウル来てしまう。
ああ、予想の範囲内っていうのも時としてはイイもんなんだなと、まるでけなしてるみたいに聞こえるかもしれんが、決してそうじゃない!のよ。

でも、染谷君演じる悟、そして幼なじみの女の子、恵美がこんなシビアな状況で孤児になってしまったとか、悟がずっと抱えているトラウマだとか、それは予想の範囲外では、あったんだけど。私はただただ腹話術人形と男の子が繰り広げる、ちょっと不思議なハートフルストーリーぐらいに思っていたから。
でもこの“範囲外”は思ったよりはドラマチック度をやたら押そうとするような、ありがちな破綻を起こさずに、基本はちょっとシュールさも加味されたハートフル物語だから、イイ感じで見ていられるのよね。

そう、悟と恵美は、いきなり孤児になってしまった。バスの転落事故。物語の冒頭は、うっそうと繁る森の中にひっそりとしつらえられた慰霊の祭壇にやってくる幼い悟と恵美。付き添いの、児童施設の女性二人、施設長の澄子とスタッフの久美(あ!あの「夢売るふたり」のウェイトリフティング選手!!)がつきそっている。
線香をあげた悟が何かに気付いたように歩を進め、空を見上げる。そこには、枝に引っかかったままの腹話術人形が、まるで空を飛んだまま静止したような状態でじっと悟を見下ろしていた。それが腹話術人形、ジャクリーンと悟との出会い。

この出会いのシーンがなんとも鮮烈で。何度も言ってるけど、フツーにハートフル物語だと思っていたから、結構この冒頭にひそやかに緊張していたし、ヘンにシリアスだったらどうしよう……とか思ってた。
で、このシーンから連なる、ジャクリーンと共に過ごす幼き日の悟の日々は、確かにシリアスと言えないこともなく、施設のわんぱくな双子の男の子にジャクリーンをとりあげられたりという嫌がらせも受けるしさ。
でも、二人の出会いのシーンが、空から悟を見下ろしていたジャクリーンの、腹話術人形特有の大きな瞳と長すぎるまつげで見開かれているのが、木漏れ日がジャクリーンを通して悟に降り注いでいて、それが本当に鮮烈だったから……。

でもね、結構コミカルなのよ。いや、ユーモラスと言った方がいいかな。なんといってもこのジャクリーンのモノローグ。“彼女”は人格を持ち、観客にしか聞こえないモノローグで悟や恵美にツッコミを入れる。
最初、この新たな相棒になった悟のことを「頼りない相棒だけど、よろしくな」と男気あふれる言い様で迎え入れる。バス事故で亡くなった持ち主の師匠に当たる人物が現われ、一時はヒヤリとするが、いっこく堂演じるこの師匠はひと目見て、悟、そして恵美がジャクリーンを大切にしている、いや、もっと言ってしまえば必要としている。更に言ってしまえば、ジャクリーンこそが悟を、そしてこの環境を必要としている、ことを見てとったのだと思う。

きっと、彼には、観客だけにしか聞こえていなかったジャクリーンの声が聞こえていたんじゃないかなあ。「ジャクリーンに聞いてみよう」なんていう、いかにも子供向けのパフォーマンスだけど、本当に聞こえていたんじゃないのかなあ。
演じるのがいっこく堂だから、なんだかそれがすんごく、説得力がある訳!ニッコリと笑って川沿いを去っていくいっこく堂の後姿、メチャカッコイイわ!!

かくしてジャクリーンは悟の相棒となった。施設のイベントでジャクリーンと共に漫談を繰り広げ、皆を笑わせるシーンは実にほのぼのとしていた。
しかしその後、時間は飛ぶ。18歳になった悟が染谷君である。施設を出る年齢になったのだろう。引っ越したばかりの部屋はまだダンボールがそのまま放置されていて、ジャクリーンも放り出されるように座っているだけ。
そんな彼の元に、一緒に施設で過ごした恵美がやってくる。今年の施設のイベントの実行委員を任された。ついては悟に出し物をやってほしい。それはあの、ジャクリーンとのアレですよ!てことである。

放り出されたジャクリーンを恵美が抱き上げた時から、ジャクリーンは再びイキイキと喋りだす。「キラキラするな」と恵美に毒づくジャクリーンのその言葉の意味が最初判らなかったんだけど、キラキラの目で悟を見る恵美がとにかく気に入らないらしい。
つまりジャクリーンは女として、恵美に嫉妬してるんである。と、いう設定がバシッと決まると、その後の展開がいちいち効いてくる。
恵美がジャクリーンを「じゃくりこさん」と呼ぶのを「片栗粉みたいに呼ぶな」と毒づき、ことあるごとに「だからいちいちキラキラするなって」と言い募る可愛らしい嫉妬にいちいち噴き出しちゃう。しかもこのジャクリーンの声がイイ感じにドスが効いてるのもサイコーなんである。

ジャクリーンはいつも詳細な日時を提示する。何年と何ヶ月と何日ぶりだと、それはほんのささいなことも含めているんだけれど、18歳になった悟に至るまでに、ジャクリーンがほっておかれ、散々待たされたことをユーモラスにもいちいち感じられてくる。
ジャクリーンがどんなに、悟が自分のことを思い出してくれること、そして自分自身と真に向き合うことを待ち続けてきたことをじわじわと思わせて、クライマックスでは泣けてしまうんである。
そう、そのクラマックス、悟とステージを共にするまで待たされた期間。

と、と、かなり先走ってしまったのでちょっと後戻りしてみると……。何より本作のチャームは、恵美に言われて悟がジャクリーンと稽古をし出す、まさにその夫婦漫才よろしいおとぼけな可笑しさにあるんだよなあ!
とりあえずネタを作り、ジャクリーンとのやりとりを見せるも、悟の口がメッチャ動いてて、腹話術どころじゃない。恵美は「……とりあえず、高い声が出せるのは判ったから、もうちょっと練習してから見せて」と慌しく座を立つ。
その時の、あが、と口を開ける、悟とジャクリーン、双方、よ!それはつまり、悟がジャクリーンをそう操作している訳なんだけど、後の、特にあのクライマックスを思うと、やっぱりこれは、ジャクリーン自身がそう表情を作ったように思えてさあ……。

そんな、ユーモラスが絶妙なの。自分の操作が上手くいってないのにジャクリーンのおでこをパシンとツッコミよろしく叩き、ジャクリーンが「えぇ……?」みたいな、心外な声をもらすカットとかもう、爆笑しちゃった。
腹話術技術を放棄して、クチビルの絵を棒の先につけて、ジャクリーンの台詞の時に隠してみせるシーンなんかさ、恵美が「何という大胆な」と言ってみせなくても、染谷君のあの調子のポーカーフェイスでしれっとやってみせるのが最高だしさあ。
しかもね、ジャクリーン自身がそれに耐えられなくて、お願いだ、お願いだからヤめてくれ、と観客にだけ聞こえる声で懇願するのがね、もう、最高なの!!

そうこうしているうちに、何気に腹話術の技術をなんとなーく身につけた悟は、本番に臨む。
何より彼がこの話にのったのは、お世話になった施設長の澄子さんの体調が良くないと聞いたからだった。そのことを聞いて、ジャクリーンこそがショックを受けていた。
そして本番、悟はあの事故の記憶をよみがえらせてしまう。何度も何度も夢に出てきたあの場面。あちこち血だらけの惨状の現場、幼かった悟が救い出された時、詰めていた記者たちのフラッシュ、怒号、心無い質問攻め。
何より悟を怯えさせたのは、カメラマンたちの、ファインダーを無表情に確認する目の恐ろしさ。ステージに立って、多くの人たちの“期待に満ちた目”が“好奇に満ちた目”に見えてしまった。

今思い返しても、この時のジャクリーンの……何て言ったらいいのかな、逆襲でもないけど、そう言いたいぐらいの……。
「12年と1ヶ月と5日ぶり」と言ったのは、練習を始めた日だっただろうか、とにかくとにかく、ジャクリーンが待って待って待ち続けたその思いを、いまだぬぐえぬトラウマでステージを降りようとした悟にさ、そのフニャフニャとした手をぶん回して、ぼこぼこぼこぼこ、悟を殴る訳!

あ、その前に、まず、えーかげんにせーよお前!みたいに、まず悟の頭にツッコミの一発を食らわしたんだった!それにハッとした。観客も、そしてこのイベントの観客も!
それは先述した、練習し始めた悟が上手くいかない練習のツッコミよろしく、ぺん、とジャクリーンを叩いたあの感じに似てはいるけど、その100倍ぐらいの威力があった。
そしてぼこぼこぼこぼこ叩き続けるから悟よりも観客がアゼン。澄子さんがいち早く反応して、「いいぞ悟、ツカミはOK!」と叫び、観衆はドッとわいた。
悟は我にかえり、「ただいま、ジャクリーン」から始まる日常コントを軽快に繰り広げる。「一緒にいただきますは、言えないよ」のシークエンスは、ネタなのにジャクリーンの気持を思うと、なんともグッとくるんである。

後に澄子さんは「あんなに大声出したの久しぶり」と笑顔を見せる。大きな酸素ボンベを引きずってきた澄子さんは悟、恵美のみならず、ジャクリーンにとってこそ、彼らと共に施設に快く迎え入れくれた大恩人であったのだろう。
また来てね、と悟に向かって澄子さんは言ったのだけれど、男の子の不器用な無愛想さの対応を歯がゆがるように、ジャクリーンは、悟にスポーツバッグへとしまわれながら、「澄子が言うならいつだって来るよ」と言った。しまわれながら、あおむけの見開いた目でそう言うジャクリーンに、めっちゃグッと来た。

だってさ、恵美がじゃくりこさんと呼ぶのには「片栗粉みたいに言うな」なんて毒づいていたのに、澄子さんがジャッキーと呼びかけるのには、そう呼ばれるのは久しぶりだと、それこそ詳細な何ヶ月何日ぶりだと示して、猫が目を細めて甘えるがごとく……な訳もないんだけど、そんな様子が見えるがごとく、なんだもの。

ラストシーンは、家に帰ってきた悟とジャクリーン、悟がジャクリーンに、いてくれてありがとうと言ってね、悟、自分こそそれを言いたかったとジャクリーンが言ってね、それは無論悟には聞こえないことなんだけど、めちゃめちゃ、ロマンス!!と思ってさあ!!
で、それまで片付けていない荷物の棚の下に無造作に置いていたジャクリーンを、丁寧に座らせる。でも悟が自分の寝床を用意、それは床にじかに敷かれたお布団という、実に男の子っぽいシンプルさ、無造作さで、着てるカッコもグレーのスウェット上下、でもね、なのにね!……。

ジャクリーンがことりと傾いた、のは、悟からの愛の言葉を受けて、自分こそと返した直後だった。え、ジャクリーン、死んじゃった?って、人形なんだから死んじゃうも何もないんだけど、なんたってこのジャクリーンだから、そんな風にヒヤリとした。
でも悟は傾いたジャクリーンに気付いて抱き上げ、久しぶりにこれを読もうかと、彼女が寄りかかった引越しの段ボール箱の中からピノキオの童話本を取り出した。
人形が人間になりたいと願う話。この本を読んで聞かせてくれるのも、何年何ヶ月何日ぶりだと、ジャクリーンはつぶやく。直敷きされたお布団に、お互い壁にもたれて悟はピノキオを読み、ジャクリーンはまっすぐ前を見据えてそれを聞く。

ジャクリーンは人形だし、だからピノキオなんだけど、人間になりたい、そしてジャクリーンは女の子だから、人魚姫を思い出しちゃったなあ。そんでもって、腹話術を介した切ない恋物語は、「言い出しかねて」を思い出しもした。
バス事故で破損したジャクリーンは幼い悟と恵美によってばんそうこうで補修されてるんだけど、この時、悟は10数年ぶりに、ジャクリーンの手の傷跡に気付いて、あらたに絆創膏をそっと貼るのね。そして、いてくれてありがとう、って言う。ヤバい、これは女子的にマジヤバイ!

不自然なほどにまつげの長い染谷君は、そしてそのまつげの長さを殊更に映し出すカットが多いのも、やっぱそうだよなーっ、と思う。
ジャクリーンの、人形にしたって不自然極まりないまつげの長さに負けないほどの長さって、尋常じゃないわな!小さな掌編だけど、なんか染谷君が出会うべくして出会った役と作品って、思っちゃうんだなあ。

監督さんは、商業的にも話題になってて気になってる作品が数々あるのに、観る機会を逸しまくっていた。この作品が初見であることを、ちょっと嬉しく思っちゃう。どの画を切り取ってもイイ。これ、めちゃ大好き。★★★★★


旅立ちの島唄 〜十五の春〜
2012年 114分 日本 カラー
監督:吉田康弘 脚本:吉田康弘
撮影:木村信也 音楽:きだしゅんすけ
出演:三吉彩花 大竹しのぶ 小林薫 早織 立石涼子 山本舞子 照喜名星那 上原宗司 手島隆寛 小久保寿人 日向丈 松浦祐也 若葉竜也 ひーぷー 普久原明

2013/7/14/日 劇場(シネスイッチ銀座/モーニング)
この日は湿疹のかゆみに耐えかねて……という書き出しはあまりにもあまりだが、しかしそうなの、映画観る前にかゆみ止めの薬を飲んだら、もうちょうどクライマックスシーンで猛烈に眠くて眠くて、ホント私、サイアクだと思った(爆)。
うーん、でも、そのクライマックス、つまりボロジノ娘が島を旅立つ別れの唄を歌う最後のステージ、つまりここは、いわゆる一つの泣き所、だと思うんだけど、レスタミン錠を飲んでいなくても私、感動していたかしら(爆)。
確かにこのヒロイン、優奈は民謡を教えてくれている先生から、これは泣いて歌ってはダメだと。泣かずに最後まで歌いきりなさいと粛々と教えられ、その通り、一滴の涙もこぼさずに、朗々と歌い上げ、客席の両親たちこそが涙を流す訳なんだけど、まさにそれが正しい形なんだけど……。

優奈を演じる三吉彩花嬢はクールで、お芝居の中で笑ったり泣いたりしていてあまりその波が感じられないタイプというか。
それは彼女を初めて見た「グッモーエビアン!」でも思っていたことなんだけど……可愛いし、喜怒哀楽を演じてはいるんだけど何かそれが、一生懸命、喜怒哀楽、に見えてしまうの。
彼女の良さはむしろ、そうしたことをムリクリ出さない自然さにあるんじゃないかと思う。だからこそ、グッモーでも、本作でも、何となく、今一つピンとこない。何か彼女が作品に、出会えてない気がするんだよなあ。

確かに彼女のクールさは、家族に言いたいことを言えないままここまで来てしまった、思春期の少女に良く似合っている。クールというより、上手く表に出せない不器用さと言った方が似合っていて、それこそが彼女の魅力だと思う。
本作には、こんな純情、今でもオッケーなのと思わず心配になってしまうほどの、隣の島の男の子との、もどかしいほどの、そして思いだけが突っ走って未遂に終わるのも切ない、まさにこれこそが恋、初恋、10代の恋、が描かれ、そのシークエンスの彩花嬢は、相対する男の子、健斗(手島隆寛)と共に、おばちゃんたちの心もかきむしるんである。

でも、彼女一人だけに大筋をずっと任せていくのがなんか段々辛くなってきて……。ああ、なんか思い出した。それはまるで、「がんばっていきまっしょい」の頃の、田中麗奈嬢みたい!
少女の季節の不器用さ、不機嫌さ、そうしたものはひしひしと伝わってくるんだけど、一本の作品をすべて任されるとなると、観客に何とも言えない不安が広がってしまう。
この先輩の後の活躍を思えば、つまりこれは、決して悪いことではないとは思うんだけど……。

南大東島には高校がなく、中学を卒業すれば、皆が島を出なければならない。子供に母親がついて島を出るケースも多く、優奈の家庭のようにそのまま母親が帰ってこないケースも多いんだろう。
昔はいざ知らず、今は母親が家庭を守ることが美徳として推奨される時代じゃない。あるいは、仕事は家族を養うためではなく、まず自分の誇りのために行うことである時代。

ただ……家族を持てば、その優先順位の何番目かには、かなり上位には、家族を養うため、も入ってこざるを得ず、それに父親の仕事が該当させられがちな事実もあり、だからこそ女の仕事が甘く見られがちで。
あるいは母子家庭となると、甘く見られがちの上に、必要以上に努力を強いられ、それを頑張ってるお母さん、と賛美する三重苦。
日本の社会はまだまだ未熟で、ことに都市部を離れるごとに家父長制度は……特に離島などは根強く深く残っている気がする。

と、思うのは、イナカモンのくせに、都市部に出てきてしまった独女のたわごとだろうか(爆)。
でも本作の大きな問題点はここにある訳であり、もちろん子供にとっては、自分たち子供の進学のせいで家族がバラバラになったという負い目がある訳で、やっぱり大きな問題、なんだよね。

南大東島に高校がない、という要素から始まるこの一つの社会問題は、確かに映画にしたくなる大きな魅力であり、思春期の子供たちを描くには格好の題材である、んだけど……。
正直な感覚で言えば、そこから派生するあらゆる要素があまりに魅力的過ぎて、この映画の尺では収まり切れない、描き切れない気持ちがしてる。

もちろん、子供の立場としてはさ、家族がバラバラになっているのはさみしいし、おかあが帰ってこない本当の理由を薄々感じていながらも(田舎の小さなコミュニティは口さがないから)、直面したくないし、結婚して子供を得た姉が離婚問題をはらんで子連れで帰ってきているのだって、正直言って見たくない。
だって彼女は、まだ初恋さえもままならぬ(対象年齢の相手が、皆幼馴染なもんだから)、隣の島の男の子と携帯さえ持たない遠距離恋愛に胸ときめかせる中学生なんだもの。

でも観客は。というか、観客の多くはさ、大人だからさ。もちろん、優奈の気持ちは、子供時代の気持ちを振り返って想像するも痛々しいし、あるいは子供を持っている人たちならば、そうした立場に思いを置いて見るだろうと思う。
でもそうなると、だからこそ、そうなると、何か描き切らない気がしてしまう。
子供と共に渡った先で見つけた仕事や恋人の存在に、自らのアイデンティティを見つめなおしてしまった母親を一概に責められるのか、というまでの問題提起にはいささか材料が薄すぎて、いかに大女優、大竹しのぶといえど、この問題で議論させられるだけの掘り下げには足りない気がする。

あるいは父親側にしたって、いっかな帰ってこない女房が、その帰ってこない理由が子供のためだけではない、仕事のためだけではない、……と加算されていくのを知っていた筈なのに黙って見過ごしていた、という点もさらりと流され、それが糾弾されるべきなのは、見過ごした夫なのか否か、という議論に到達するにはあまりにも材料が少なすぎて、単純にどちらかに加担することさえ出来ない。
あるいはそんなこと、ざっくりスルーして、大人の都合で翻弄された子供たちだけに感情移入が出来ればいいんだけど、そのあたりは、こんな具合にそれなりの事情、いかにも現代的な、考えさせられる事情をちりばめちゃったりするもんだから、そうそうざっくりスルーも出来ない訳。

彼らの子供である優奈が、そうした大人の事情なんて汲み取れないような幼い子供だったら、それこそ単純に、シンプルに、翻弄される子供に対して可哀想にと、大人は勝手だよねと、同情の涙を流すことも出来ただろうけれど、彼女は15歳で、しかもただの15歳ではない、一人で島を出ていかなければいけない15歳、大人になることを強いられる15歳、なんだもの。
このシチュエイションは確かにメッチャ魅力的だが、それだけで成立しそうなもんだが、実際にはこんなに難しい!!子供と大人のはざまで揺れる女の子、ってすっごく魅力的だけど、こんなにも難しい!!

正直、母親が娘の優奈に、前触れもなくいきなり恋人を紹介するとか、そんな無神経なことするかなあとか、違和感を感じるところが結構、あるんだよね。
あの大竹しのぶだって、その荒業を乗り越えるのは難しい訳(爆)。しかもその恋人とはあっさり別れてしまうし……別れてしまうくせに、夫とも離婚してしまうし……。

優奈が本島の高校に進学することになって、父親が一人になってしまうことを思って、面接官の前で涙を流すシーンも本作の見どころの一つだし、優奈が「私は一人で大丈夫だから、おかあは島に帰って」という提案に、実はおとうとおかあは離婚することになった、と告げられて、優奈のみならず観客も、ええっ、と思う訳。
まあそりゃあ、恋人の存在だけが、母親が島に帰らなかった理由ではない、とは思うものの、何か優奈が感じる以上の釈然としない気持ちが残るんである。
優奈の夢見る、家族全員、姉の夫や子供も含めての大家族で住めたらいい、というのは確かに理想だ。理想だけど出来なくもないよ、という、これが子供じみたことだとは言ってほしくない気持ちがあった。
100パーセント不可能だとは、言いたくなかった。たとえ限りなく100パーセントに近かったとしても。

だったら母親の恋人の存在なんか、入れてこないでほしい気持ちもある。だってこれって思いっきり、女って感じの描写じゃん。
父親の小林薫が、ストイックに家を守っているからこそ、なんかズルイと思っちゃう。しかも子供も絡めて、なんて……。
島の人たちに冷ややかに見られているこの母親の存在を、より一層女くさくさせて、冷ややかに見られるのも仕方ないでしょ、みたいな、女は母親であることをあっさり捨てて女になる生きものなんだとか、そんな意地悪な視線を感じてしまう。

それは、優奈が若き激情をぶつけてくる恋人に抵抗して、操を守った(この言い方からして、何とも古い……)から、余計である。
嵐で船が出ないもんだから、漁師の青年に頼んで、北大東島に向かう。最近手紙の返事もぱたりとやんでしまった、恋人に会いに行くんである。
この漁師の青年、優奈にとっては大分お兄ちゃんにあたる青年が、優奈と俺だけの秘密か、いいね、とニッコリ送り出すのがイイんである。でもあっさりバレて、帰りには父親が迎えに来てるんだけどね。

恋人との逢瀬で、離れ島同士、しかも彼は高校に進学せずに島で漁師を継ぐことになって、もう会えないだろうと思った彼は、背の高いサトウキビ畑の中で彼女と思いを遂げようとした。
しかし優奈は拒否する。なぜもう会えないなんて言うのか、私は平気だよ、と。
判ってないのは優奈の方、それはそうなんだけど……男の方が、現状を打ち破る勇気がないのは、優奈の両親を見ればまさに、如実に、判るんだけど。
でもその比較対象というよりは、優奈と彼氏はそこだけで切なく完結、両親は両親で完結、そんな風に見えちゃって、それももったいない、気がするんだよなあ。

冒頭、優奈は先輩からボロジノ娘のリーダーを引き継いだ。涙を浮かべてその大役を引き継いだ。
そして1年が経って、優奈もまた、次のリーダーに同じ台詞を言っている。今度からはあんたがリーダーだからね、しっかりね、頼んだよ、と。
このバトンリレーもまた、凄く魅力的な場面なんだけど、正直、冒頭でこれは予測出来ちゃったのもツラかったかなあ。

それでいけば、ラストシーンの船での別れもまんま踏襲。冒頭ではそれなりに衝撃だった、まるで動物園の動物を運搬するかのような、鉄格子の箱に乗ってクレーンで船の上に運ばれる乗船の仕方も、これが繰り返されるのが予測できるから、インパクトはまずなくなっちゃうし、別れの描写もまあ、同じだからさ……。
涙のない、紙テープの舞う、前途洋洋とした船での別れは、素敵ではあるんだけど、浪花節日本人は、もうここで号泣出来てることを勝手に夢想しちゃっているからなあ……。

個人的にはヤハリ、未遂に終わるのが切なすぎる隣島の男の子との、恋愛ともいえない関係がいいかなあ。むしろこれだけで見たいような気も。
それでいえば、お姉ちゃんの離婚か否かの話や、お父さんのやもめ同然の寂しさや、お母さんの、家族がいるのに自分の人生を見つけてしまった苦悩や、もちろん優奈の青春の懊悩も含めて、それぞれがメインでありすぎるのよ。
優奈側から見ての、大人たちの勝手な行動、と斬り捨てて見られたら、違ったんじゃないかと思う、のは、ついつい大人側に加担してしまう、大人になってしまった観客のつまらなさ、だろうか。

伝統が息づく祭りのシーンとか、北大東島と張り合う親善大会で、おとうが腰を痛めちゃう相撲とか、リアルとフィクションを上手く織り交ぜてくる、が、これもいくつもある、ありすぎる要素の一つで、南大東島の良さを入れ込むことまで義務だったら、もうどうしようもないよ。
作劇としては、おとうが相撲で腰を痛めるとか、上手いこと入り込めている感じはあるけど、全体に見るとやはりそれぞれが散漫に見えてしまう印象。

彩花嬢が操るお国ことばは柔らかく可愛く、ふっくらとした桜色の頬にいまどき珍しいえくぼのチャーミング。持て余し気味の手足の長さをもっともっと少女の、自身でも説明のつかないもどかしさ、不機嫌さに映してほしかったと思う。
ありていに言えば、聞き分けが良すぎる。少女はもっと反発して、その反発が自分でも説明がつかない、そんな普遍の、不変の、少女の季節を見たいと思う。

それにしても、優奈が歌う最後のソロ、「アバヨーイ」は眠くない時に聞きたかったとは思うけど……やっぱりあのシーン、長かったよなあ……(爆)。★★★☆☆


だれかのまなざし
2013年 7分 日本 カラー
監督:新海誠 脚本:新海誠
撮影:三木陽子 尾身千寛 新海誠 音楽:松浦晃久
声の出演:花村怜美 小川真司 遠藤璃菜 下崎紘史 石嶋久仁子 藤原由林 平野文

2013/6/4/火 劇場(TOHOシネマズ渋谷)
メイン作品におまけみたいにつけられた、7分あまりの作品だけれど、新海監督の作品だと思うとスルーする訳にもいかない。
野村不動産の何か、イベント的なものに際して作られた作品ということなんで、まあコマーシャル的な意味合いもあるんだろうし、そうした出来具合としてもさすが完成度が高いんだけど、でもやっぱり新海作品の一つとして、素晴らしかった。

それでも、今まで観てきた新海作品にしては、ヒロインの表情がよりアニメチック、言ってみればアニメ表現としての一般性を意識しているのかな、という気もした。
それはメイン作品の方が、まるで役者が演じているかのような、アニメとしてのキャラクターじゃない、人間の存在感があったから、余計に対比して感じられたのかもしれない。
でもそう感じたのはほんのちょっと。この数分の物語の中でも、彼らは生活を生きているし、それは私たち現代人にしんしんと共感できる数々なんである。

でも、ちょっと近未来な趣もある。いや、ほんのちょっと先にはこんな風になるかな、という絶妙の近未来。
文化住宅のような古びたアパートにさえ認証コードで入り、部屋の中にかかってきた電話のアイコンが浮かぶ。その他は本当に私たちと同じ、都会の雑踏なのだから、何とも不思議な感じがする。

登場人物はたった二人。お父さんと、娘。お母さんもいるんだけど、並行して描かれる彼らのこれまでにおいて、お母さんの仕事が地方を飛び回る忙しさで、早いうちからお父さんと娘の二人暮らしだった。
先の近未来的表現といい、男女逆転した単身赴任といい(そう、あくまで今の感覚では、男女逆転と言ってしまうよね、やっぱり)、この作品が不動産会社の、つまりその先の、どんな風にも変化する未来にも住宅=家族やその絆を支えてますよ、というコマーシャリズムをさりげなく提示する。でもあくまでさりげなく、なあたりがやはり上手いと思う。

この物語の冒頭が、仕事に疲弊しきった娘が、「命綱のように電車のつり革を握り」、手が真っ赤になり、もう片方の手に替え、次は両手で握り、うなだれる。
「どこか自慢げな知り合いの近況をネットでチェックする気にもなれず」というモノローグにドキリとする。
時と場合によっては、それは私にも覚えがなくはない。でもブログなりツイッターなり、判んないけどフェイスブックなりやってる人たちには、皆に覚えがあるんじゃないかなあ。
だって言ってしまえばそうやって自分の精神バランスをとっているようなところ、あるもの。しかも少しだけウソも交えたりして。いや、演出であり、ちょっと“盛ってる”っていうことよ、あくまで。

ちょっと、脱線しちゃった。でもそんな、現代の先の物語。今ならば、この家庭はもう離婚して父子家庭かもなんて思っちゃうけど、物語を最後まで見るとそうじゃないことも判り、ああ、こんな家庭もきっと、普通になっていく、女が、主婦が、母が、縛られることはないんだと思いつつ、いろんな思いをかみしめて見守る。
この物語にはね、天の声みたいなナレーションがついてて、あなたたちをずっと昔から見守っているのヨ、みたいな雰囲気な訳。

私ね、それ、最初は、この物語の中で、父と娘が久しぶりに再会することになる悲しいきっかけ……父子家庭の寂しさをつないでくれた老猫の死があったから、その猫なのかと思ったの。でもなんか、違うっぽい。もっと、大きな、高みの、存在のような感じ。
この老猫の存在は、母親の単身赴任によって寂しくなった娘に父親が連れてきた“新しい家族”として加わり、だけど娘は年頃になり、就職し、この家を出て行って、最終的には父親と猫の二人きり。 猫は老いて寝てばかりいるし、父親が叱責される上司は、後姿だけだけど彼より若い女性のように見える。寂しい父親。

父親は“近くまで来た”ことを口実に、娘に電話をかける。久しぶりに一緒にメシでも食わないかと。
受けた娘もまた上司に叱責されて、泣きむせんでベッドに顔をうずめていたところである。
「もう、父親と一緒に食事をするのが嬉しい年じゃない」というモノローグが寂しく響く。
実は豪華なお弁当を買って娘のアパートの近くから電話していた父親が、寂しく帰っていく後姿が後に示される。

後から考えると、この7分あまりの中に、なんという濃密さ、と思う。夕暮れの中、すし弁当の紙袋を下げてとぼとぼと帰っていく父親の後姿に、これを見ていたら娘は!と、同じ娘の立場の自分としては、思わず自分の父親にだぶらせて思ってしまう。
二人が再会するのはあの老猫の死によってであり、父親は「……家族が死んでもこんなに落ち込まないと思う。それはヘンかな」と娘に吐露する。
「ヘンじゃないよ。だって家族だったもの」もちろん、今はもう、そうした価値観が確立されてはいるけれど、更に一歩踏み込んでいるように思う。

母親が離れた娘のために、迎え入れた子猫は、すぐに彼女の親友になった。でも、年頃の娘らしく父親に嫌悪感を持ち、それは仕事で他人にペコペコしている姿だったりして、でもでもそれは、後に自分も体験することなのだ。
今の時間軸では、老いて寝てばかりいる猫が、7分余りの作品の中で、幼い娘と一緒に駆け回り、思春期を迎えた娘は外に楽しみを見出して猫も置いていかれ、猫の、その後姿一発で、父親同様、娘からおいていかれる寂しさを示すのはさすがだと思う。のは、私が猫好きだからかな、そう思うのは。

ラストは、「お父さんの新しい彼女を見に来た」と、子猫を迎え入れたところに娘がやってきて、そこに、忙しいお母さんも合流する手前でエンド。
控えめで少しずつだけど、男は女はこうあるべき、父親は母親はこうあるべき、ペットなんて女子供のなぐさみもの(なんていうのは言い過ぎかな?でもそういう意識は、根強く日本社会にあると思う)といった価値観を未来に向けて変えていく。
不動産会社のコンセプトということもあろうが、そうしたことを見事にちょっとずつ先取りして、そして新海監督のセンシティブな湿度。

やはり、猫好きとしては猫なのよね。猫の後姿にあんなに意味を持たせてくれたことにジーンとする。
猫の後姿は本当に……凄く語っててね、日々、そう思ってるから。もう酔っぱらってる時なんか、うっかりすると後姿だけで泣きそうになるもん(爆)。★★★★☆


探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点
2013年 119分 日本 カラー
監督:橋本一 脚本:古沢良太 須藤泰司
撮影:田中一成 音楽:池頼広
出演:大泉洋 松田龍平 尾野真千子 ゴリ 渡部篤郎 田口トモロヲ 篠井英介 波岡一喜 近藤公園 筒井真理子 矢島健一 松重豊 マギー 池内万作 安藤玉恵 佐藤かよ 麻美ゆま 桝田徳寿 冨田佳輔 徳井優 片桐竜次

2013/5/19/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
私がシリーズものを観るなんて本当に珍しくて。もちろん大泉先生だから、なんだけど、でもそうじゃなくても、きっと足を運んだだろうと思う。
いや、その前提自体がおかしいかな。だってこの探偵は、もう彼以外にはありえない。大泉先生が演じるからこその探偵であり、好評を得てのシリーズ。

無論、相棒の松田龍平も!あるいは探偵以上に好きかもしれない、この相棒!
とにかく、大泉先生も松田龍平も、この作品に、この役に出会ってしまった、そんな気がしてならない。第一作以上に、そう思う。

もう思いっきり持ち上げちゃうと、寅さんが渥美清が旅立ったことで終焉を迎えたように、このシリーズもまた、大泉先生が降りた時がその終焉だろう。
てか、それが本当に来てほしくない。1が好評だったから2を作りました、なんてありがちなことにはしてほしくない。
いや、もう、2年待たされたのも長かった、正直。それこそ寅さんみたいに、毎年作ってほしいぐらいなのだが、やはりそこはクオリティの問題もあるだろうし、難しいんだろう。
てゆーか、大泉先生は渥美清のように寅さんだけには生きられない人気者だしっ。

……思い入れが強すぎるのは問題かもしれない。映画だのドラマだのの度に、宣伝という名のバラエティ活動をしまくる大泉先生に、今回は本の出版も重なったせいで、いくらなんでも出過ぎでないの、と、ファンでも少々うっとうしいぐらい(爆)だったのだが……。
だってさ、普段は情報を入れない私でも、彼が出てればやっぱり見ちゃうし(爆)、サラの状態で向かい合えないじゃない。
期待がふくらむと、やっぱりハードルが高くなる。今回はそうでもなかったナとか思っちゃうんじゃないかっていうのが、凄い不安で。

でもまさに、それはまさに杞憂というモンなんであった!いやー、つーかさ、二作目ですでにこんなに安心感があっていいのかと思っちゃう。
今思えば一作目で既に、その安定感は、タイクツというんじゃなくて、もうこれが、この世界が、この人物たちが、ハードボイルドでユーモラスで、シリアスでハートフルで、……な時間をずっと続けてきている、まるでずっとずっとその世界を、それこそ寅さんのように見続けてきたような、そんな安定感があったからさ。

もちろん探偵モノだし、なんたって大泉先生だし、ワクワクは満載なんだけど、探偵さんが生活し、ダベり、酔っ払い、エッチなことをし、……ていうのをね、ずっと見続けてきたような錯覚に陥るのよ。
それはつまり、それだけの親密感が画面にあふれ出ていて、そして1でどっさり獲得したファンによって、その思いによって、映画世界が完成されたってことなんじゃないかなあ。
そういうのって、そういう幸せな映画って、なかなか、ないと思う!

なんか内容行かないまま終わりそうな気がしてきた(爆)。でもさ、こういうお話、探偵もの、ミステリの場合、ここで書いちゃっても書かなくても、あんまり意味ないというか……(爆)まあ、私は記憶力がないんで書きますけど(爆爆)。

ミステリはとにかく慣れてないんで、私の中にあるのは、怪しそうな人物はクロじゃない。怪しくない人物こそがクロだが、まさかこの人物が、というほどの単純さでは見抜かれてしまう。
ならば誰だ……てぐらいのトコで、まあその法則通りの犯人ではあったんだけど、そうなると、真犯人が誰かっていうことは、最終的にはあまり、というか全然重要じゃなくなってくるんだよね。

いや、ここまで真犯人が明らかになって、……マジでどーでもよかった、と思ったのは初めてだった。
いやもちろん、真犯人が明らかになることで感じるやるせなさ、そこまでにあぶりだされたさまざまな“真実”の方がよっぽどキラキラと宝石のように、あるいは涙のように、彼らの、そして観客の心に照り返すのだという、この切なさともやりきれなさとも何とも言い難い感情の濃厚さ。
1作目でもそれはあったけど、そうか、この原作者さんの描き出すものは、一見したライトなユーモラスさとびっくりするぐらい対照的な、湿度1000パーセントの人間模様だったりするのだ……。

だーかーらー。ホント何の話だかわかんないんだってば!真犯人、真犯人って言って、そもそもどんな事件かすら書いてないし(爆)。
事件は、殺人事件。殺されたのは探偵さんの友人、おかまバーの売れっ子ホステス、マサコちゃん。マジックの腕を磨いた彼女はテレビの大会で優勝し、その直後撲殺されてしまった。

で、先述したように真犯人ってのはあまりにも意外な人物。やりきれないほど、単純な人物。
ススキノの繁華街をプラカード持って呼び込みしている“学生”と呼ばれるとっぽいオッチャンで、なぜマサコちゃんを殺したかっていう動機は単なる嫉妬。
同じ底辺の人間、いやそれどころかあいつらオカマだろ、っていう……。

政治家が絡み、陣営が十重二十重に絡み、探偵に無数の刺客が襲い掛かってきた、ハデなアクション満載の結果がこれ。
脱力し、やるせなく、しかも探偵さんに責め立てられて飛び出した彼は車にひかれて即死!

えーっと思うんだけど、思えばしずしずと伏線は敷かれてて……。
温厚そうに見える彼が、「妻をピンサロで働かせて、子供には暴力」な人物であること。でもそれは、このススキノで何とか生きている人間は、色々いるさ、みたいな風情を上手く絡ませて観客に納得させてしまう。
オカマさんへの侮蔑を最初から示しているし、探偵さんもそれを最初から咎めているんだけど、観客に対してはそれが、政治家がらみのヤバいヤマであるから彼は恐れているんだ、と思わせるうまい構図に落ち着いてる。

後から思えばほおんと、上手い、上手いんだよな。まさかの人物が真犯人だろうぐらいは思っても、こんなちょっとしか出てこないいわば底辺の人物(と観客に思わせるところも、上手いんだよなー)だとは思わないじゃない。

てか、そうそうそう!ここまでオノマチちゃんを出してこないでどうする!!
今回のヒロイン、ヒロインはつまりは依頼人、てか今回は、マサコちゃん殺しに鼻をつっこんでくるジャジャ馬に探偵さんが業を煮やして、だったらアンタ、依頼人になれよ。
でもって、金だけ出して口を出すな、……とまでは言わなかったけど、とにかく、プロの俺たちに任せろ、と諭したのだった。

この北海道の住人たちの中で(役者自身の出身地はともかく、キャラ的にはみんな北海道人の中で)、オノマチちゃん演じる“美人バイオリニスト”だけがコテコテの大阪人。
探偵さん行きつけの喫茶店、ムダにセクシーなウェイトレスが目当てなだけで、マズいことが前提のナポリタンを、うどんでもすするようにずるずる平らげ、「ホンマにうまいな」とにんまり。
探偵さんと相棒の高田は、CDジャケットの麗しさとは似ても似つかないこの“美人バイオリニスト”に思わず顔を見合わせる。

マサコちゃんが大ファンだったというこのバイオリニスト、河島弓子、そして彼女自身もマサコちゃんは大切なファンであり、「一人のファンに支えられてきた。そういうことがあるのよ」と言う。
自由奔放な彼女はマスコミの格好のえじきで、「あることないこと言われるのは慣れてる」という彼女が、たった一人のファンに支えられてきた、というのがうまいこと納得させられるんである。

いやそれは別にウソではなかったんだけど……。ていうか、“真実”は、なんとなく、予測出来ないでもなかったような気がした。いや、うっすら思っていただけで、予測できてた訳じゃ、なかったんだけど(爆)。
でもオノマチちゃんが、弓子が、真犯人じゃなければいいな、とは思ってた。
物語の展開としては、マサコちゃんを殺したのはかつてのパートナー、バイであることを世間に知られたら困る、人気政治家、あるいはその陣営である、というもので、探偵さんはその陣営はもちろん、反陣営からも、名前を挙げたいフリーからも狙われて、一作目とは比べ物にならないぐらいの大アクションを繰り広げる。

実際にメインで手こずらされたのは、その政治家、橡脇の反原発運動を支持する有志の市民団体だった。
というのが、今の時代に即しており、探偵さんも彼らや橡脇の思いに屈する形になってしまうのだけれど……。
私はなんとも、言えない気持ちになってしまった。反原発、脱原発は判りやすい正義だというスタンス、その側にすんなりつけたらホント楽なんだけど……って。

て、方向に行ってしまうとかなり間違ってしまうので(爆)、今回はそこは目をつぶる。
正直、この問題をこうしたエンタメに組み込んでほしくはない気持ちはあったが、しょうがない、これが時代を映す鏡である映画なのだから。
で、軌道修正、軌道修正。オノマチちゃんよ。彼女が演じるバイオリニストよ。
マサコちゃんを殺したのは橡脇、あるいはその周辺、とにかくとにかくそんな政治家の思惑がどす黒くうずまいているんだという展開であった。

でもミステリの基本は、絶対そうだと思わせる筋から離れたところに真犯人や真実があること。
となると、アヤしいと思わせるのは当然、オノマチちゃん演じる河島弓子である訳で……。
ただ、でも、これも「大事なファンを殺した犯人を挙げる」という熱意は判るにしても、彼女の行動があまりにも思い切り過ぎてて、探偵さんや相棒の高田はそのたび危険な目にさらされ、まあ彼女の思惑は的確で、着実に真実に迫ってはいくんだけど(真犯人の真実ではなかったけど……)。
とにかくぶっ飛んでるから、これは、真犯人っていうスタンスではないな、と。
だからちょこっとだけ、身内ちゃうの、ひょっとして、という薄い予感が浮かんだ訳だが、まあマグレっつーか、薄く浮かんだだけだし、本作の“真実”はそこじゃなかったと思うしさ。

一家離散したマサコちゃん一家、離れ離れに引き取られたバイオリンの才能ある妹に、仕送りを送り続けた。
マサコちゃんがマジックの腕を磨いてテレビの大会に出る時に「迷惑かけちゃう人がいる」と言ったのは、かつての恋人、橡脇ではなく、苦労して有名バイオリニストになった妹だったんであった。

橡脇が真犯人だと思い込んだ弓子が、群衆の中、決意で握りしめた包丁を探偵さんが受け止め、「酔っぱらって毛ガニを食べようとして自分の腹を刺した」なんていう戯言が受け入れられる程度に済む。

そうしてすべてが終わり、大恩人のお兄ちゃんの存在を、結局は隠したまま来てしまった弓子は涙をボロボロ流して後悔する。
探偵さんはぐっと心を動かされながらも、うぬぼれるな。マサコちゃんはここで仲間たちに囲まれて幸せだったんだ。幸せな人生だったんだ。
あんたは元の世界に戻った方がいい。そのことをマサコちゃんも一番望んでいる筈だ、と諭す。
そして立派なホールで見事なバイオリンを聞かせる弓子を、彼女にホレかけてた探偵さんはしみじみと眺めるんである。

あれ、あれれ、なんかスルッとはしょってしまったような。
第一作のかなりメインを担ってた記者のトモロヲさんが、今回も重要なネタ元で登場したことに、彼もまたレギュラーだったのね、と凄く嬉しい。
ネタ元といえばこれ以上のネタ元はない、ヤクザの松重さんとのセクシーサウナシーンは今回も健在で、これは絶対レギュラーシーンということだよね!!
大泉さんも大変だが、今後、松重さんも年齢との闘いに……いやいや(爆)。

冒頭のツカミともいえる、このヤクザ組織から情報を得ようとして誤解が生じ、大倉山のジャンプ台から“うっかり”ジャンプさせられるのには爆笑!
まだまだ、まだまだまだ、北海道(ていうか、札幌)ネタで遊べるわな!
それこそスキージャンプなんて冬のスポーツなのに、緑の中をリフトが動いてて、ジャンプするってのも新鮮だしさ。

そうそう、第一作はそれこそ、冬だったじゃん。札幌、北海道、そうしたことを充分に意識したことはやっぱり、あったと思う。 雪に埋められ、スノーモービルでのアクションもあり。

今回は最後に冬が来るんだよね。雪が降り始めて、ついに冬が来たか、と探偵さんがごちて、相棒の高田がのほほんと笑う。
今回は札幌から室蘭に向かうとき、山の紅葉がきれいに見えたりして、そうした季節感はまあ、あったけど、北海道が舞台だから、という、いわば気合の雪景色であった前作とは違って、そうした肩に力が入るようなところが、いい意味でなかったんじゃないかと思う。
最北の大都市、そう解説されるのは同じだけど、北海道の都市だから雪だとか、そういうんじゃなくて、ある意味普遍的な大都市の魅力もありつつ、北海道、札幌、ススキノ、としぼっていく個性の魅力もありつつ。

大物ゆえに、ヘアセット時間を言い出せず、つながらなかったなんていういかにもバラエティ向きのエピソードを言ってた、確かにまさかの大物、渡部篤郎!
……最近は彼のモノマネ芸人さんが多くて、独特のウィスパーボイスに、それをどうしても思い出しちゃって、困っちゃう。
でも、限りなく疑わしかった人物なのに、それだけ闇の濃い政治家という側面も充分見せつつ、マサコちゃんに対しても、支持者に対しても、驚くほど純粋な気持ちを見せる。

だからこそ、政治家であるそのギャップに苦悩する様子が素晴らしく、二世議員ということも、若さゆえのカリスマであることも承知の上という二重三重の構造をきっちり内包しているのが本当に素晴らしく、さすが、さっすが渡部篤郎!と思う。
ヘタすると彼にすべてを食われかねないほどの存在感。いやさ、この人物は大メインだし、彼に引きずられるんならいくらだって引きずられまくれるよ、危ないもの!

個人的に好きなのはマズいナポリタンを供する喫茶店のセクシーウェイトレス、安藤玉恵。いまだに因縁のあるヤクザ?の波岡一喜の再登場にもワクワク。
でもでもやっぱり、高田だよ。松田龍平の可愛らしさに、ノックアウトだよ!!
大泉先生は共演した誰もとも仲良くなれる人で、何か作品が出来るたんびに共演者を親友親友言ってて、それってどうなの……と思っていたんだけど、この作品、そして松田龍平君はちょっと、特別だと思う、思いたい。

龍平君がね、本当にまっすぐに、大泉先生のことを大好きな人だって、言ってくれてるのが、なんか涙が出るほど嬉しかったなあ。
今回は前作以上に、高田の登場シーンが、ただいること、つまり龍平君自身にどうあるかとゆだねられるシーンが多かったという。
大泉先生は時に「ここで彼、本当に笑っちゃってるから」なんてからかってたけど、つまりはそれこそが高田で、龍平君自身がそうなってて、ホント、主演の大泉先生以上にこの作品の立役者、功労者は龍平君なんじゃないかって、思っちゃう。

この高田には「探偵以外に友達がいない」設定。そ、そうだっけ。確かに第一作の時にそんなこと言っていたような……。
彼が役作りの面でこのことをきっちりと上げていたことが、高田という人物の可愛らしさ、のみならず、ペーソスになっていたんだと思うと、なんかグッときちゃう。
だってね、それこそ大泉先生そのもののように、友達満載、言い寄るセクシー女満載(本作ではそれでこっぴどく捨てられるエロエロエピソードもあるのだがっ)だけど、それってつまり、誰とでも仲良しってことは、誰とも……みたいな含みもあるじゃない。
今回の物語は、離れ離れになった事情のあるきょうだいということもあって、よりそうした含みは感じたなあ。★★★★☆


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