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わたしたちに許された特別な時間の終わり
2013年 119分 日本 カラー
監督:太田信吾 脚本:太田信吾
撮影:太田信吾 音楽:青葉市子
出演:増田壮太 冨永蔵人 平泉佑真 有田易弘 井出上誠
考えてみれば、彼がミュージシャンとして有名であろうとなかろうと、才能がありながら若い命を散らした一人の青年として作り上げられた、一本の映画として観るだけで充分だったのに。
その密着映像は充分に魅力的だったし、彼自身も映画の主人公として充分に魅力的だったから、本当に単純に、この構成に疑問を持ってしまったのだった。
なぜこの、誤解を恐れずに言えば映画を構成するのに十分すぎるほどに魅力的な素材をそのままに使って、……つまり純粋な、ただ見つめ続けるドキュメンタリーとして作り上げなかったのだろうかと、本当に不思議に思ったのだった。
無論、作り手側はそうした懐疑、賛否が起こることは充分承知の上に違いない。当たり前のことだけど、彼が死ぬことによって幕引きがされることなど考えてなどいなかったに違いないのだから、そもそも本作がどういう作品になる筈だったのか……。
それはドキュメンタリーという特性上、撮っていくうちに変っていく、あるいは撮りつづけた展開と結果こそがドキュメンタリーの着地点なのだから、そんなことを言うこと自体、ヤボなのかもしれないけれど。
ただ印象としてみれば、彼が死んだことでこの映画の製作が動き出した……つまり、撮り散らした映像素材は、彼が死ななければそのままお蔵入りになったんじゃないかという印象で。
でもならば、そここそを突き詰めた純粋なる、厳格なるドキュメンタリーを見たかった気がした。そしたら本当に、震えるほどの作品に出会えた気がした……。
なんてことは、受け手側の勝手な言い草。タラレバほど意味のないことはない。そう、先述したけど、こうした構成にしたことで賛否が起こることは、作り手側は充分に承知している筈なのだ。
結果的に死へと突き進んだ才能ある友人の最後の日々を、自殺とはなんぞや、自殺は自殺する才能がある人でなければなされちゃいけない、という大胆な視点で描く。つまり逆説的に生、人生、アイデンティティ等々をもがくように模索する。
それを死後の世界というフィクション部分で、“何となく自殺した”女の子を暴力的に糾弾する形で。
しかもそれを糾弾するのが、先にその世界に行ってしまった増田青年という形で、しかもそれを仮面をつけて演じるのが作り手である監督という形で。
更にそれを撮影している外側から疑似フィクションのように見せるやり方で……描く。
疑似フィクションと思ったけれど、ナメた演技してんじゃねえとばかりに追い詰める監督の姿は、これまたドキュメンタリーではないかと思われるほどの切羽詰まりようなんである。
正直言えば、かなり崩壊している印象なんだけど、監督自身の解説でその言葉が使われているということは、崩壊している着地点がもう最初から見えていたのだろうかと思ったりもする。どうなんだろう……。確かに、大団円で終われる映画ではないに決まっているのだが。
ただ、この監督さんの作風がもともと“リアルとフィクション入れ混じる構成”であるというのだから、じゃあこれは最初から予定通り??そうなるともう、好みの問題??などと、どうにも混乱に陥ってしまうんである。
勿論映画は、しかもドキュメンタリーとなると、どれだけ問題提起させるかが大事。本作はこういう形だしドキュメンタリーとかっちり言いきれないし、ドキュドラマというのとも違うし、確かにかなり特殊な形。
でも私は、あまり好きになれなかった、なあ……。こういう要素の作品に対して、言いづらいけど、やっぱりやっぱり、せっかくの魅力的な素材を殺してしまったように思った。
これだけ近い距離で撮れたのは友人ならではなのだから、それを100%活かして作り上げたものを見たい気がした。
でも、思いがけない自殺という結末が、確かにそれを難しくさせたのかなあ。友人としては、それへの決着がどうしても必要だったのかなあ。
後からオフィシャルサイトなんぞを眺めながら思い返すとね、増田君には青春の恋愛もあった訳だし、何より物語がスタートするのは、精神を病んで田舎に帰る増田君の姿からなのよね。
なんだけど、そうした、それこそ“映画的魅力”のある要素が、なにかと挿入されてくる、“自殺は才能”“何となく死ぬ若者”そしていのちの電話との空虚なやり取り、といった唐突に社会派的なフィクション断面によってぶった切られていっちゃう。
そんで、私みたいなアホな観客は、増田君を構成していたそういう重要な要素を、取りこぼしちゃう訳。
……そう、私がアホなだけ。そうなだけ。でも、やっぱり映画という一つの作品にするならば、主人公を語っていく、つないでいく、その流れる線が途切れないでほしいと思ってしまう。
ことあるごとに近未来風空虚な建物、石膏でかたどったマスクをかぶった男(フィクションとしての増田君であり、監督)が登場して、ドキュメンタリーパートの増田君の流れを無視する形で主張していくもんだから、バカな私はその流れを忘れちゃう(爆)。
後から思えば、増田君はどんどん追い詰められていく、ストイックでプロ志向が強いから、どんどん追い詰められていく、のに、その流れが見えなくなってしまう。
一人、大事な人物がいるのね。いわばもう一人の主人公と言ってもいいぐらいの。増田君と共に音楽活動をしている、後輩の蔵人君。
先輩の才能にはホレこんでいるけれど、プロ志向ということはマーケット志向、純粋に自らの音楽の才能を信じてやっている訳ではない。
何かというとお金を気にする増田先輩に疑問を感じ、同感を求めるようにカメラを構える監督に愚痴ったりもする。
解説においては単純に、“趣味として音楽活動をしている”蔵人君と、そうではない増田君との溝、と記されていたけれど、まあそれは確かにそうなのかもしれないけれど、増田君が、音楽、音楽と言うたびに、そのあまりに狭まったイメージに、そんな日本の“音楽業界”こそが彼を追い詰めたんじゃないかと暗澹となり、その部分が掘り下げられたらナアと思ったりもしたんであった。
こういう、単純に言っちゃえばバンドモノの“音楽”物語は、奇妙なほどに、彼らは、自分たちのやっていることを、“音楽”と単純かつ神格化された物言いで言うでしょ。
音楽って、ジャンルなんて言い方さえしたくないぐらい、ものすっごく、広く、深いものの筈なのに。芸術の原点なのに。
バンド形式で自分たちがやっているものだけを、“音楽”と言いたがることに対して、以前からなんとも居心地の悪い思いを感じていて、それは日本のみならず、世界のポップミュージックシーンにおける、ミュージシャンをアンビバレンツに追い込む、悪しき構図だと思った。
増田君は蔵人君の“趣味で音楽をする”姿勢とたもとを分かつ訳だけど、音楽は作り上げるものじゃなくていつもそこにあって、満ちているものであって、与えるものではなくて、共有するものではないの??
……なーんていうとエセ宗教的な話になり、増田君の言いたい、プロを目指す人たちの言いたい、“音楽でメシを食う”というところからハズれてしまうことになるんだけど……。
ただ、蔵人君という存在が、見事に、その音楽の原点である価値観とリンクした生活、人生の選択になっていくから、余計に増田君が痛々しくて。
いや、だからこそ、か。増田君はプロ志向じゃない蔵人君と価値観を分けたけれども、蔵人君が“音楽修行”という形で転居した温泉街で、まさに音楽の原点を見出したことに嫉妬したのか。
不思議なほどにね、このあたりは凄くドラマティックなのよ。ドキュメンタリー映像とは思えないほどなの。
いや、割とそういう傾向は最初からあったかもしれない。何よりこの増田壮太という青年は、まず顔立ちもいいし、作品の中に断片的に紹介される、そしてラストクレジットにフルで流れる音源は、確かにひどく魅力的なのだ。
こんな風に、マーケットの波に乗れない“あふれる才能”はきっとたくさんいるんだろうとは思いながらも、やはりその才能が失われたことを惜しまずにはいられないのだ。
そんな彼がまずクスリにやられ、地元に帰り、ライブ活動をしても哀しいほどに人が集まらず、路上ライブは警察に取り締まられる。
ただ一つ盛況だったのは、自分の絵画と共にライブを行ったイベントだったが、それは彼に絵の才能もある、なるほど芸術の才能のある人だ!と思わせはするけれど、明らかに“うつ病から立ち直った青年の展覧会”の域を出なくて、客層もまさにそんな感じ……つまり、彼の立ち直った痕跡を見に来たんであって、音楽を聞きに来たんじゃない、ってのがまる判りなのだ。
そんな具合に、冷酷なまでにドラマティックで、この“展覧会”のくだりは、恐らく監督自身も、増田君のそんな思いを感じ取っていたのか、自殺して死後の世界に行った女の子が美大生だという設定にしてたんだけど、そ、それはどうなんだろう……。
“自殺の才能”というキーワードを、美術、芸術に携わる若者に絡めて、お前はその程度か、みたいに糾弾するのは、そ、それはあまりにも……。
ドキュメンタリーってさ、突き詰めて言えば、その素材オンリーだけで成立する、成立させるべきじゃないかと思うことがある。
勿論、その素材の取捨選択やつなぎ方、順序などに作り手の意志が入り込まざるを得ないけれども、それは、膨大な素材が何を言いたいかに耳を傾けた結果の、つまりどれだけ作り手が、耳がいいか、聞けているか、ということなんじゃないかと思う……。
ことあるごとに入り込んでくるフィクション要素は、作り手の切羽詰まった真剣さがとてもよく判るだけに、素材が発する声がかき消される気がしてならないのよ。
百歩譲って、死んでしまった増田君は、もうその真意を尋ねることは出来ない。それは仕方ない、どうしようもない。
でも合わせ鏡のような存在の、蔵人君。なぜかジャパニーズイングリッシュで会話し、スキンヘッドは怖さよりも農家の青年のような素朴さを醸し出し、一念発起して田舎に移住しようとしても、虫だらけの家に怖気づいて心ある住民たちから一喝されてケチョンとなる可愛らしさ。
彼にだったらいくらだって、聞けた気がする。いや、聞いてるんだけど。確かに聞いてるんだけど。
この妙にスタイリッシュなフィクション部分も、蔵人君自身も切羽詰まった名演技で登場しているんだから、彼もまた監督さんと同じ気持ちで参加しているのかもしれないけど。でも、そうかなあ……。
この映画を完成させるために、ナレーションを依頼するために、蔵人君と久々の再会を果たした監督さん。今、只今、嫁さんが出産、音楽よりも子供のために何か買ってやりたいと、てらいなく言い放つ蔵人君は、このナレーションにも難色を示す。
彼の気持ちを推測しての台本に、大きく外れてはいないながらも、「でもさあ、音楽をやりに来て、子供を作ったなんて、その子供が聞いたらさあ」
思わず微笑しながらも、それってなんて素敵なことと思うし、出産に立ち会うシーンを見事におさめたことに、ああ、良かったとは思うんだけど、だからと言って、このシーンが大きな結末、という雰囲気は、ないんだよね……。
そりゃまあ、そうしてしまったら、蔵人君の物語になってしまう。遺書に、「映画を完成させてほしい。出来ればハッピーエンドで」と書き残した増田君の意図は、そりゃ判らないけど、作り手としては、増田君のハッピーエンドとして終わりたいと思うのがまあ普通だと思うから、難しかったんだろう、なあ……。
この遺書の言葉があったからこその、迷走だったのだろうか、なんて言ってしまったらあんまりか。
増田君も、蔵人君も、そして二人が仕組んだ、包丁突き立てるドッキリで涙を流すなんていうシークエンスが用意されている監督さんも、みんなみんな、見事にキャラが立っているから、なんでこの素材以外必要あるのと思ってしまうんだよ。
だって、亡くなっている姿さえ収めるだけの度胸があるのにさ。死に顔って、役者が目を閉じている顔とは明らかに違うからさ……そんな素材さえあるのにさ!
それがクリエイターのサガと言うものなのかもしれないけれども……もったいないよ!!
肉親へのインタビューも、この“自殺の才能”の定義に寄り添った形に思えてしまって。
自殺を止められなかったのかという周囲、そして自問に対して、妙に穏やかに話すご両親、という構成に、これもまたドキュメンタリー素材に違いないのに、フィクション素材からのつながりに思えてしまうのが、なんか、なんか居心地が良くないの!
まあでも、こうして書き起こしてみると、私、すごくありがちな価値観で見たがってるなと思い、それこそ、何が真実かなんて、今はもう死んでしまった彼しか判らない訳でさ……。
誰かのために何かを残すということの難しさを何より感じ、そんなこと、よほど信頼関係がなければ出来ないと感じ……。
それを遺書で友人に託した増田君は、そして友人の監督さん、蔵人君は、なんて幸せな友情を交わした三人なんだろうと、思う。それだけは、確かなこととして。★★★☆☆
脱げる脱げると言ったが、実際彼女が本作で“ちゃんと”脱いだかどうかはちょっと微妙なのかもしれないとは思う。後から考えると。
ちらと乳首も見えた気もしたが、熊切監督はそこんところ優しく避けていたような気もする。そんなことばかり気になる自分が相変らずイヤだが(爆)、そこはヤハリ、彼女と対立する存在である大人の女、河合青葉氏がしっかりと役割を果たしているだけに気になるところでもある。
ただやはりやはり、実は男女の最大のラブ&エロはキスではないかと常々思っているところを、ふみ嬢は軽々と踏み越えて、まさしく衝撃のキスシーンを何度となく、しかもあの浅野忠信とやってのけたのであった。
ふみ嬢の独特の舌足らずなエロキューションも相まって、そう、それは必要以上に彼女を幼く見せるのだ……、禁断の、などという使い古された言葉を久々にひしひしとリアルに感じてしまったのであった。
いや、彼女が社会人となり、つまりちゃんとした大人の女となる第二章では、その舌足らずさは影を潜めている感もあり、そこら辺はやはりやはり、この女優の計算なのかもしれない。
雪の中、ねこの形をしたふわふわの耳当てをし、古臭くやぼったい紺サージのセーラーをまとった彼女は、そのヤボ臭さのまま、淳悟の恋人である小町に接近する。
「花ちゃんにはまだ早いかな。だってほら、産毛」と鼻の下を指さされる前半のシーンは、この大人の女にすっかり負けている印象がしたもんだが、それも後から考えれば、そんな何の飾りもない私が愛されているのだという布石だったのかもしれない。
口の中に隠されたピアスのなまめかしさ。愛されているという自信は、なんと危険なものなのだろう!!
……ふみ嬢の凄さに引きずられて、すっかり最初の問題提議から脱線しまくってしまった。
そう、条件が揃わなければということよ。浅野忠信はハマっていたし、ふみ嬢と浅野忠信が××××!というコーフンはたまらぬものがあるし、彼もまたそうだと言いたいところはあるのだが、彼に関してはこの年頃の他の役者でもあり得る部分はあると思ってしまう。それだけふみ嬢の、この年頃の女優の、彼女の唯一無二があるということなのだが。
そして監督。なんかいつの間にか、こういうキリキリとした男女の感情を描くドラマの、そしてそのバックグラウンドの自然の厳しさや美しさを緻密に描き出すことに定評がある、なんていう立ち位置に立っている熊切監督である。
いまがまさに、年齢的にもキャリア的にも脂がのっている時期であろうと思う。本作は、過激なテーマはふみ嬢の出現によってキャスト面はクリアしたけれども、流氷の上での撮影が不可欠ということが、これまた聞き慣れてしまった“映像化不可能”という中で取り置かれてきたんだという。
熊切監督に関しては「海炭市叙景」があったから、冬の北海道の自然を映し出すことに関しては期待できるところはある。でも函館とオホーツクでは……。
流氷上でのふみ嬢と藤竜也のシーンは本当にハラハラして、まあ藤竜也がふみ嬢に蹴り出されて流氷に乗って遠くへ遠くへと流れて行ってしまう場面は多少、アラを探したくなる気持ちにならなくもなかったけど(爆)、でもあれもちゃんと撮ったのかなあ……。
流氷っていうのは世界にだって発信したい北海道の、日本の美しき自然現象なのに、それを知らせる最大のメディアである映画でそれが描かれてこなかったよねと思うと、本作の、このシーンは実に大きな意義があると思う。
たとえそこが、閉鎖的なコミュニティの、かなり暗めな物語であったとしても。
どうも脱線しがちだな(爆)。だからね、熊切監督という才能の熟成も、本作の成立に大きな意味をもたらしていると思ったのよ。原作者も監督のファンだというし……などと、ついつい、原作者のコメントを覗き見てしまった(爆)。
いやあ、現代小説にはとんと無知な私だが、この原作者、桜庭氏はつい最近知って、現代文学に造詣の深い友人からも話を聞いたりして、作品を読んでみようかなあと思っていた矢先だったりするからさ(つまりまだ読んでない訳だが(爆))。
そう、コメントを読んでしまった……かなり無難な言葉を選びながら、原作とは違うアプローチ、客観的視点、という言い方をしていることに、そうなんだ……とついつい気になってしまったりするんであった。
映画を観ている限りでは、客観的視点なんてことは全然感じず、感情のまま猪突猛進が似た者親子である花と淳悟の破滅的ラブストーリー、という、主観的な感じの方がしたからさ……。
つまり原作はより、主観的であるということなのだろうか。そういやあ、本作でかなりキーマンとして立っていて、言ってしまえば社会的常識的立場で彼らに接する、北海道篇の藤竜也、東京篇の高良健吾という二人がいて、それは確かに、客観的視点、観客側への橋渡しのようにも思える。
特に、人間として、社会常識としてやっちゃいけないことを花に諭したが故に、「氷の上でカチンカチンになって発見された」藤竜也演じる大塩は顕著であり、その彼がかつては「愛のコリーダ」で社会に反したカップルを演じていたことを思うと、更に感慨深いものを感じるんである。
なあんて、ね。ホントはそんな遠い遠い過去を言うつもりはなかった。それでなくても充分キャリアを積んでるベテランの藤氏に対して失礼だと思ったし、彼のそれこそ可愛らしいエロキューション、ヘヘ、と笑う、あの笑い声のテレくさそうな感じとか凄く好きなんだもの。
でもその笑い声を聞いて、まさに「愛のコリーダ」の彼を思い出してしまったもんだから、そして解説読むとやっぱり「愛のコリーダ」の藤竜也、だからさ。
それは本作だからこその、その肩書だと思うんだ。愛のコリーダの彼ならば、この禁断の愛にナンクセつけることはなかったろうと思う。
縁戚関係として向こう見ずな淳悟を心配し、地震による津波で家族を失って一人きりになった花を心配するこのおじさん、大塩は、確かに心優しきおじさんだが、二人にとっては余計なお世話の部分の方が多々ある訳で。
彼が花とのいさかいの末に流氷に乗って蹴り出されて、カチンカチンになって死んでしまったその葬式で、誰もが世話になったと悼まれる彼は、誰もが世話になった……誰もに慕われていたとウッカリ思いそうになるけれど、花や淳悟のような存在を見れば判る。それが余計なお世話だと思う人間もいるのだ。
こんな極端な結果にならずとも、こういうタイプの人間は、少なからず一方で疎ましがられている可能性は大きいのだ。……と、恐らくその“一方”に収まりそうなクラい人間の私は思ったりする……。
いつもながら概略を言ってないなと思ったが、何となく、それなりに言ったかもしれない(爆)。
そう、地震による津波の犠牲で孤児になった花。あの時、花を見つけた途端に、もう直感していたように淳悟は見えた。家族はどこ?と聞かれて、遺体が並べられた向こうを花が指さして、それを確信に変えたようだったけれど、劇中描写では花の身元を明確に確認する感じが正直、なかったし、それが割と後々まで気になっていた部分でもあった。
縁戚関係だということが、花を見つけ出した淳悟と、救助、救護の応援に来ていた大塩じいさんによって何となく察せられもしたが、この幼い女の子を娘として育てようとする淳悟に、確かにいきなりだけどそれ以上の戸惑いを見せる大塩じいさんの態度は、後々になって判明することになる。
つまり、淳悟がまだ年若い頃にもうけた子供であったこと。縁戚だということは、この時点でもう血の誤りを犯していたということなのか(すいません、詳しい系図は観てる限りではよく判らなかった(爆))。
花の成長に従って、先にその異変に気付いたのは、淳悟の恋人である小町、実は大塩じいさんの娘。
いくら血がつながらないとはいえ、親子というにはあまりに親密な関係、指をなめ合ってフフフと笑い合う二人に、特に挑発する花の視線に小町は凍り付いた。
小町は淳悟が花に用意した可憐なピアスに逆上して、それを捨ててしまったのだから。それ以来、彼からは疎遠にされてしまったのだから。
それ以来、小町がこの街を出て行って、大塩じいさんの葬式にわっかりやすいはすっぱな赤いパーマ姿で貧乏くさい目つきになっているのはあーあ、と思ってしまったりもする。
そんな判りやすい図式なの、とも思うが、それ以降の花と淳悟が過酷すぎるから……。
朝からの××××を大塩じいさんに見られてしまったところから転落した。
このシーンは、スネた花をなだめる淳悟が口についたジャムを指でぬぐってなめるところから始まって、制服の白くてかたいカッターシャツの上からおっぱいもみもみ、湿度たっぷりのちゅーを繰り返し、しまいにはフィクション味たっぷりの、血がしたたり落ちる貧乏アパートの一室で濃厚に愛し合う場面に至る。
これは、マジにヤバいと思った。これを見ちゃったらこんな秘密を知っちゃったら、流氷に乗って死んでもしょうがないかなと思うぐらい。
こんな秘密を、単純に道徳的に処理して、「旭川に里子に出す」なんてことで解決できる訳ない、愛のコリーダの藤竜也ならそれは判る筈でしょ!!!
タイトル通りなのだ。全てを失った花を引き取った車の中で、俺はお前のものだと、その時にはどこまでの意味合いをもって淳悟は言ったのか。
幼い手を大きな大人の男の手に絡めて、つぶらな黒い瞳を大きく見開いていた花は泣くのをやめたのだ。
そして、大塩のじいさんに叫ぶ。あの人は私のすべてだと。こんな陳腐な台詞がこんなに痛烈に胸に迫るとは。
東京、というか川崎に流れ着いても試練は続く。凍り付いた北の大地と比べ物にならない、熱く雑多な関東近辺。
弁当の卵焼きを、腐っていたのかげえと吐き出す淳悟は、タクシーの運転手になっている。
粗末なアパートに訪ねてきたのは田舎の警官。大塩のじいさんを殺したのが花である証拠をつかんでやってきた彼を、発作的な衝動で淳悟は殺してしまう。
……あれ、かなり重要な場面なのに、なんか私、そろそろ疲れてきたかもしれない(爆)。どーでもいいところに心血注ぎ過ぎたか……。
でね、これでもう二人はお縄で終わりかと思ったら、すんなり花は社会人になるのだ。
企業の受付に座って、チャラい男に誘われて四人での合コン。あれ、あの煮えたぎったシチューを浴びせて、めった刺しにして殺した男の死体はどうしたのかしらんと思うのだが、それについては特に示されず、しかしこの最下層の貧民窟(は言い過ぎだが……)ならば、それも割とカンタンに隠せるのかも、などと……。
この合コンの片方の男、チャラい先輩にダシとして連れてこられた青年が高良健吾で、そらまあ先輩が言うようにウケはいいだろうが、ダシにされるにしてもレベルが高すぎて……。
この時点ではもはや淳悟は、ていうかあの、自らが手を下した殺人の時からすっかりオレはもうだめだオーラに包まれていて(爆)、あのシュッとした浅野忠信がすっかりよれよれじじい状態なの(爆)。
花をタクシーで送ってきてくれたこの青年に、絡む。てか、その前に、迎えに出てきた彼は花と明らかにこれ見よがしにベタベタして(まあそれは彼女の方もだけど)、話には聞いていたにしても、青年をすっかり鼻白ませるのだ。
上半身裸にさせ、あちこち匂いを嗅ぎまくったこの父親が言うのは、お前ではムリだ、と。匂いは、セックスの匂い。それも彼ら以上の濃厚な匂いがそこに残っていないかを、淳悟は確認したのだろうよね。
でもここからも場面が飛んで、もういきなり花の結婚話で、銀座の高そうなレストランに呼ばれた淳悟、「明日の結婚式の練習ですか?」と花の相手から言われたように、見た目は一見イイ感じだが、微妙にネクタイはよれてるし、足元は素足にサンダル履き。
お前にはムリだよ、とここでも彼はつぶやくけれど、もはやそれは効力を失っている。
花の結婚相手は戸惑い顔を作りながらも適当なメニューを注文し、その間、照明が落ちる。映画なのに、舞台じゃないのに、現実を模写している筈なのに、舞台のようにフィクショナルに照明が落ちる。
照らし出された花と淳悟、淳悟が言うように、花は、華やかなアイメイクで鈴の張ったような美しい瞳を見開き、まさに花のように美しくなり、鼻の下に産毛を生やしていた幼さは別人のように遠い。
対する淳悟は、すっかりよれよれのしおれたおじさんである。ラストは新郎に知られずにテーブルの下で花の足が淳悟の足を愛撫するのだが、まあこれはちっと形式張り過ぎたかなあ。★★★★☆
それにしても不思議な物語だ……。何が不思議って、本当にキヨシはあけみの弟だったのかしらんと、観ている間中、思っていた。どこかで否定しそうな気がした。キヨシがあけみの弟であるかどうかは、凄く重要な気がした。
本当に弟でありながら、最初からセックスの対象としてあけみが見ているのか、あるいは姉弟を装って暮らしていて、牽制をしあっているのか。
装っているのなら、なぜ装っているのか。彼は彼女を、彼女は彼を、好きなのか。ただ単に、セックスの対象としての相手なのか。
キヨシはあけみの弟だと、最後までその設定は変わらなかったけれど、私にはどうしてもそう見えなかったんだよね……。いつもお世話になっているデータベースでははっきりと弟、と書かれているけれど、物語の展開も結末もだいぶ違っている。
このデータベースではよくあることで、初稿から変わったのかなとも思うけれど、変わったのだとしたら、弟という設定も変わったのかもしれないと思う。
”姉”に対して、浪人して予備校通いをしている風を装っている”弟”。ホラ、出た、”装ってる”だよ。何か本作の隠されたキーワードのように感じるんだもの。
赤本なんて、あまりにも記号的過ぎる。それを”姉”のあけみが蹴散らすのがそのことを証明している気がして。
ボロいアパートなのよ。二人が住んでいるのは。古くて。そしてその窓を見上げている、いかにも悪相の男。見ただけでヤクザと判るような男。
キヨシはこの男、隼人の使いっ走りをしている。友人の雅美(男ね)と一緒に。雅美は突然腹が痛いと言って昏倒してしまう。
キヨシが電話をかけたのは、あけみの勤務先の病院。あけみは結構大きな病院の採血係。朝から晩まで、ナンバリングされた患者の腕に注射器を刺して、血を採っている。看護婦でもなければ、こんな美人なら採用されそうな受付でもなく、ただ淡々と、延々と、血を採取し続ける。
”弟”からの電話に、「私はただの採血係よ」と言うものの、こんな美人の彼女に目をかけている医者は当然いて、便宜を図って入院させてくれる。
もう手遅れだというこの雅美という男の子は、身内も来ない。友人のキヨシだけが彼のそばにいる。
看護婦に裸体を重ねて見せるとか、そんな心理描写を重ね撮りのようなショットで連ねる実験的映像が現れる。文学的な香りさえも持つような気がするのが不思議である。
キヨシは後にこの看護婦に脅迫めいた無理強いで、その通り裸にさせて、そのおっぱいを雅美にもませてやり、雅美のモノをしゃぶらせてやる。
そうして雅美はまさに成仏したのであろうと思う。男の友情というヤツは、こんなロマポルでしかリアルには描けないのかもしれないと思う。
雅美はひょっとしたら童貞だったのかもしれない、などとも思う。そしてもしかしてキヨシも……。
で、そのキヨシが使いっ走りをやってるヤクザ、ヤクザ、なのかなあ、チンピラ止まりのような気もしないでもない。ヤクザという組織めいたものも特に見えてこない。
のちにあけみに娼婦の仕事を紹介する男。娼婦、というか、もっとインスタントなデリヘル的イメージだし、現代(当時のね)の都会の片隅で生きている男たちと女たちの哀しさ、な気がする。
組織で動けた華やかな時代はもう過ぎてるし、あけみに娼婦の仕事を紹介するのも、そう、紹介、という感じなのだ……一見すると、勝手に押し付けたセックス写真をあけみが見たことを脅しているようにも見えるけれど、いずれ寝ることになるこの二人の、心理的前戯のような気がする。
本作の中で、一番最初に、これはタダモノな映画ではない、と思わせるのが、二人がマトモに顔を合わせる最初の場面、隼人が写真のことをネタに、あけみに娼婦の仕事を紹介する場面、なんである。
大きな建物の解体現場。鉄球がドーン、ドーンと轟音を立てて、粉じんを上げながら壊していく。
その轟音の中で、二人は話している。鉄球の衝撃は凄い筈なのに、古いコンクリの建物はなかなか気持ちよく壊れないもどかしさ。
そしてこの轟音。なんとも落ち着かない感じの中での、男と女の、本心が、本音が、ずっとずっと先にある奇妙な駆け引きをしているこの感じが!
この解体現場のタイミングがなければ撮れない筈のシーンであり、製作期間が短く、低予算で、フットワークが軽いロマポルでなければなしえない場面!!
その前に、あけみの元に「弟さんに渡してくれ」と封筒に入った写真を届けに来る場面で顔を合わせてはいるけれど、ドアごしで、チェーンをかけた陰から覗くだけで、でもあけみはその時、下はショーツにストッキングというあられもない姿で。
どうせ顔だけのぞかせるだけだからということだけれど、もうこの時点で、ガードが固そうに見えて奇妙にゆるんでいる、このあけみという女の不可思議さを印象付けるんである。
まあー……フツーに考えると、ねぇよ、と思わなくもないが、これぞロマポル的ファンタジーというものなのかもしれない。
そうそうそう、ここまでメッチャ重要な人物のことを言いそびれていた。隼人がヒモになっているストリッパーの女。ストリッパーというのも、後で解説読んで、そうなんだ……と思った。そんなこと劇中で言ってたかなあ。
隼人が大損した穴埋めに「ショータイムを頼む」という言い方で彼女を送り出しはしたけれど、それこそ男と寝てもらってチャラにしてもらうという、ありがちなヒモの解決法かと思っていたが(爆)。
寝入りばなの隼人から起こされて、不満げに煙草をふかす彼女、リリィという名前も、言っていたかなあ。おっぱいも小さいし、はすっぱな感じがアリアリで、なんか、彼女が何か幸福をつかんで、年を取っていく姿が想像できないんだよね……。
不思議とあけみは、どこかでかしこく人生をリセットしそうな気がするんだけど、このリリィはその感じが、ないのだ。おっぱいは小さいけど、妙に感度が良さそうな小粒な乳首、なんだろ、それが薄幸の条件のような気がしちゃう。なんでだろ。
あけみの方はね、巨乳まではいかないけど、きれいな形のいい感じの大きさのおっぱいで、ふわっと優しい柔らかさの乳首なの。
なに、この乳首解説(爆)。でも妙に対照的で、あけみは案外したたかにこの先を渡っていきそうな気がしたんだよなあ。あんな幕切れでも。
あんな幕切れ。隼人とリリィとあけみが3Pで乳繰り合う先の幕切れ。いや(汗)。その前にも色々あるさ。3Pなら、その前に経験済みだもの。
あけみはせっかく贔屓の客がついたのに「同じ相手はイヤ」と言ったばかりに、ヘンタイ客に往生させられるハメになる訳。
まあでもこのあたりは、ロマポル、アダルトのコンテンツとしてのソレかなとも思う。金持ちの社長と、あの若い社員は社長の愛人??いや、男性ですよ。だってだって、3Pだけど、この男の子が社長をバックからバコバコやるんだもん(爆)。
結局あけみは挿入まではされてなかったんじゃない?彼におしっこをかけてやってほしい、と言われてヘキエキして逃げ出そうとしたけれど叶わず、漏らす形で……ううむううむ、スカトロってヤツですかあ??まあでもそれの中では上品な方か……。
ていうかさ、リリィはすんごい隼人にホレてるんだよね。ヒモってのはさ、男をヒモに持ってる女ってのはさ、そういう立場だと思う。
……あれ?そういやー、ヒモだとはっきり定義してた訳じゃなかったような気もするし、隼人はそんな、ヒモ的ダメ男のような風でもないんだけれど、リリィの方の意識が、ホレた弱みでそうなってる感じがする。
リリィはキヨシに色目使ったりもするけど、それも失敗する、のは、お互い好きな人を純粋に恋しているからだと思う。それがなんとも、切ないのだ……。
隼人はリリィとのセックス写真を商売のネタにしているし、あけみとヤッてるところにリリィが踏み込んでも、リリィが泣いて泣いて「ねぇ、あんた、ヤメてよ」と言っても、彼女にカメラを渡して「撮れよ」という。
つまりこれは仕事なんだとごまかされる形で、でもそれは、リリィとのセックスも仕事だと断じているようなもんでさ、女としては、男にどうしようもなくホレてる女としては、あまりにも、哀しいの!!
全然関係ない家具とか、天井とか撮った写真はまさにリリィの女心で、それを正確にくみ取ってくれたのか否か、隼人はクスクス笑いだし、リリィも笑いだし、そしてなぜかあけみを交えた3Pに突入。
妙に凝りまくった、三人の位置関係がパズルのように入れ替わるカメラワークで、あの、社長と青年社員との3Pとの違いが、……こちらにはかりそめではあるけれど愛があるような気もして。……でもそれは、どんな愛なんだろう……。
あけみは、病院に出入りしている仕出し屋の社長に見初められていて、それは決して悪い話じゃなかったと思うけど、それは進展しない。
最愛の弟が出て行った後も、採血係を続け、そしてそこに、隼人からの電話がかかってくるのは、”お仕事”の電話なんだろうな、と思わせる。
これって、アレかな、表向き的には貞淑そうに見えても、セックスしたくてしたくてたまらない女、的な、それこそ弟相手にも、的な、感じなのかな??
でも、彼女が幸せにセックスした場面て、あったのかな……。あれだけ薄幸そうなリリィだって、冒頭、隼人に抱かれている場面はとても幸せそうなセックスだった。
だってきっと、いや絶対、確実に、あけみが好きなのはキヨシなんだもん。本当に弟だったとしても、違ったとしても、どっちにしてもあけみのアプローチに応えることなく、キヨシは去った。それが、姉弟の関係だからという正当な理由だったのか、それとも……。
そしてあけみが娼婦の仕事を引き受けたのも、キヨシとセックス出来ないからという諦めの気持ちではなかったのか。
キヨシは何か、奇妙な潔癖さがあった。友達のために看護婦に強要した性は、性そのものでしかなくって、恋の先のセックスとは、違ってた。
何かね、何か、キヨシはとても純粋で、ウブで、自分の中の、男の本能として求めるセックスを、あけみがあけすけにぶつけてくるそれと合致させてしまえば、それは本当にただの本能で、だから拒否反応をしていたように思っちゃうのだ。
それは女の願望なのだろうか?恋心をウブにストイックに持っているのが男の子で、恋心をセックスに早々と転換しているのが女、だなんて。だからこそ破綻してしまうだなんて。本当は思い合っている筈なのに、って。
どっちにしても、好きな男と、あけみはセックス出来ずに今日もまた、血を採取し続ける。他人の身体の中の血を。欲しくもない身体の中の液を。
ねえ、これが恋心の物語だと思うのは、間違っているのだろうか??でもロマポルでも、男性のために作られた映画でも、脚本を書いたのは、女性、なのだもの!★★★☆☆