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海炭市叙景
2010年 152分 日本 カラー
監督:熊切和嘉 脚本:宇治田隆史
撮影:近藤龍人 音楽:ジム・オルーク
出演:谷村美月 竹原ピストル 加瀬亮 三浦誠己 山中崇 南果歩 小林薫
熊切監督は、その最初のイメージをぬぐおうとしているかのように、どんどん様々な映画を撮り、そしてそのどれもが、ぬぐいきれない彼の深い才能によってえぐられるような印象を与える。そして彼が言うように、故郷に錦を飾った本作は、まさに転機になったのだろうと思う。
函館映画、というジャンルが作れるぐらいに、魅力的な作品群が並ぶ函館を舞台にした映画の中でも、本作はハッキリと印象を違えてきたから。それは、こんなふやけた気持ちで観に行った私にもハッキリと感じ取ることが出来た。
今まではね、私、辻仁成監督の函館映画も凄く好きだった。いや、今だって好きだ。彼はとても函館を大切に撮ってくれている。
でもそれは確かに、地元の人たちが「今までの函館を舞台にした映画は……」と語るように、それはただ舞台にして、ロケ地として選んでいるだけであって、そこに生きる市井の人々を描いては、確かにいなかったのかもしれない。
それでもね、あれは確か「ほとけ」を観た時だと思うけれど……函館の寂れ加減の描写ががあまりに寂しくて、ヤだなあ、と思ったのね。そのことを母親に言ったら、でも函館ってそうだよ、と言われた。
その時、ああ、私はやっぱり判ってないんだなあ、と思ったのだ。暮らしていない、外からしか見ていない、函館を、エキゾチックな街として観光ガイドで紹介している知識と大して変わらない。
それでも、それを感じていない訳じゃなかった。私の両親は函館で、親戚関係も函館に集まっているから、父親の転勤で転々としていながらも、夏休みに“帰る”のは函館だった。懐かしさと優しい記憶と共に、だからこその、寂しさはどこかで感じていた。
その後、旭川に住む経験を持つと、それはより強く感じていたような気がする。函館は、北海道だけど、函館というだけで、切り離されているように感じる。
それは、私が子供の頃、北海道に行くんじゃなくて、“函館に帰る”と思っていたせいもあるかもしれないけれど、それだけじゃないような気がする。
北海道の中で最も古い歴史を持つ函館は、他の、後に計画的に区画整理された地域とは明らかに異なっている気がする。
坂の多い、異国情緒に溢れた街並み、というのは、外からの文化でとりあえず作らざるを得なかった寂しさを感じさせもする。
そしてそれが、どんどん都市化される時代の波によって、さびついたそれへと変化していき、子供の頃の私でさえふと感じた、わびしさ寂しさにつながっていたように思う。
言葉も、東北北部のイントネーションを強く受け継いでいて、比較的キレイな発音の他の地域とはやっぱり違う。砂州でようやくつながれた函館という町は、実は北海道というアイデンティティからも危うくつながっているような場所なのかもしれない、などと思う。
恥ずかしながら知らなかった、函館出身の佐藤泰志氏という人が紡いだ掌編は、そんな気持ちを色濃く反映しているように思う。ごめんなさい、未読なんだけれど。
そしてここで持ち出してくるのは違うようにも思うんだけれど、太宰に接した時のようなアンビバレンツな魅力を凄く、感じた。
本作は、明らかに函館なんだけど、海炭市という架空の街が舞台である。街の大きな産業であった造船も不景気と地方の疲弊の波に飲み込まれ、大幅な削減に直面している。
それを前提とした物語は、まさに函館そのものではあるんだけれど、海炭市、という架空のフィルターをかぶせることで、逆にダイレクトに市井のリアリティに迫っていて、なんともそれが哀切で。
そして……こんなことを言うべきなのかどうか迷うのだけれど、チャーミングなのだ。架空であり、いい感じにウソをつくことによって、それが安心材料になって深く心の中に踏み込んでいける、という奇妙なアンビバレンツが、確かに自分や地元を描きながらも巧妙にウソをついていた太宰と重なったもんだから。
もちろん小説はフィクション、ウソである。本作だって、海炭市、と置き換えている以外は、誰が見たって(あるいは読んだって、と言うべきなのかもしれない)函館に他ならない。
函館山を臥牛山と言うのだって、臥牛山とも実際、言うんだもの。でもその、実際に言うけれども、ニュースでは確かに言わない。この言い換えは、函館山、というヨソユキの言い方ではなくって、臥牛山こそが彼らの言葉なのだという思いを強くする。
海炭市(この字の感じも、実に函館的だ)という“仮名”だからこそ、彼らは真の姿をさらせるのだと思う。
本作で何より感銘を受けたのは、市民キャストたちの素晴らしさで、観ている時もそのネイティブ函館弁っぷりで、恐らく地元の人なんだろうなとは思っていたけれど、本当に市民キャスト、つまりは素人なんだと後から確かめて知ると、もうただただ感嘆するしかないのだ。
だってだって、あの“ネコを抱いた婆さん”トキさんを演じる中里あきさんが、役者じゃないなんて、ナニゴトだよ!
そう、本作は、原作が掌編集だから、その中からいくつかをピックアップし、見事にひとつの世界にまとめ上げているんだけれど、その中のひとつ、掌編のタイトルからも、その話の主人公であることが示される、この“ネコを抱いた婆さん”を演じるトキさんの素晴らしさといったら、なかった。
市民活動で立ち上げた映画作りだから、プロの映画俳優で埋め切ることが難しく(ことに、掌編をいくつかとなると、余計にキャストも増えるし)、思い切って市民キャストをメインにも迎えることにしたんだというんだけれど、ほんっとに、素人なの?
やっぱりね、言葉がネイティブだから、あ、違うな、とは思うんだけど、だからこそ、呼ばれてきた役者より、素晴らしかった。
まあ、キャスティングの目の確かさや、監督の演出の力もあると思うけど、それにしても……。
だってさ、市民の手で映画を作る、というのは、他にもなくはない。ていうか、結構ある。まあ、エキストラや、ちょっと台詞があるぐらいの役は、市民キャストにも振られる。でもそれは、もう明らかに、そうだと判っちゃう。
大抵キャストは東京からお迎えした人たち、あるいは、地元出身のプロの役者にこだわるっていうのもあるけれど、ここまで市民キャストが、本職の役者以上に素晴らしい映画を、私は観たことがなかった。少なくとも日本映画では。
そうだ、恐らく、日本では、そういう意識は固まっているのかもしれない、と思う。ハリウッド式が長年の憧れだったのが、いまだにこびりついているのかもしれない、と思う。
広く世界を見てみると、実は意外に素人キャストを見事に使っている映画はあるものなあ、と思う。キアロスタミとかね。
この市民キャストたちは、この映画の中でこそ、その唯一の場所でこそ、たった一人の人として、市井の一人として光り輝いているからこそ素晴らしいのだ。“映画スター”を凌駕してしまうのはだからこそ、なんだよね。
こうした、一から市民が作り上げ、しかもその素晴らしい完成度を誇る映画が出来上がる、というのは……ふと、ミスター(鈴井さん)を思い出したりもしちゃう。
東京発ではなく、北海道で作り上げる映画をこだわっている彼がやりたい形は、まさにこういうものではなかったかと。でもやっぱりそれって……市民から起こった力によって作り上げられるそれには、かなわなかったんだなあ。
ミスターは地元では力のある人だからさ、それこそ、プロの俳優で全てのキャストを埋めることだって出来る。それだけのプロデューサーとしての力があることが、逆に地元の力を生かしきれなかったのかもしれないと思うと、皮肉に思えなくもないんである。
と、全然話に入っていけないけど(爆)。これはちょっとしたオムニバスの雰囲気もあるので、余計に時間がかかりそう(爆爆)。最初から、追っていこうと思う。
最初のエピソードで、全ての礎となるのが、海炭ドックという造船会社に勤める年若い兄妹の物語である。
兄と妹、二人きりで暮らしているというのも、どんよりと重く雲の垂れ込める、冬の暗く寒々しい風景や凍りついた道といい、古いタイプの石油ストーブといい、なんとももの悲しさを感じさせる。
原作小説の時代に合わせているのかもしれないんだけど、この暮らしぶりとかは……。でも、北海道の中でも、冬にからりと晴れない感じは、海を隔てた青森と似ていると思しき函館の、この寒い曇天の感じがなんとももの悲しく、それが全編をつらぬいているんである。
ドックが縮小となり、労働組合でストを決行するものの、上層部は会社との妥協案に屈し、早期退職や解雇を突きつけられる。
信頼していた上司が妥協案を受け入れたことで、兄妹の兄、颯太は絶望する。だって、この上司「君はまだ若いから」なんて言うんだもの。それって、それって、禁句じゃん!
颯太が「そういうことじゃねえだろう!」と殴りかかるのが、あまりにもその通りだからひどく虚しく痛くて、見ていられない。船が好きで、進水式で子供のようなくしゃくしゃの笑顔を見せていた彼を思うと……。
この颯太を演じる竹原ピストルは、いわば熊切監督の懐刀、あるいは切り札。それでも彼が出た熊切作品はちょっと難解な感じがしたこともあって、その存在感には大いに圧倒されていたんだけれど、本作でようやく?彼の魅力を素直に受け止めることが出来た(私、バカだから……)。
会社から解雇通告を受けて、大晦日の遅くに姿を消す彼、でも妹は判ってて、「ここだと思った」と兄を探し当てる。そこは、兄妹が幼い頃、いかだを作って無邪気に遊んだ場所なのだ。
妹の帆波を演じる谷村美月嬢が、とても素敵である。本作の彼女が私、今までで一番、好きだなあ。
この設定ってさ、今、兄と妹がこの寒々しい長屋で肩を寄せ合って暮らしている風情も、子供の頃の描写でも親とか全然出てこないところも、なんか、社会から、世界から切り離されたたった二人のきょうだい、みたいな、どこかファンタジックなところがあるんだけど、それがね、まさに、海炭市、という、ワンクッションおいたフィクションにピタリとあっているんだよね。
そして、何度も言っているけれど、このワンクッションこそが、遠慮なくリアリティに切り込む感じを、まさに彼らが体現しているんだよね。
だって、ロープウェイに乗る小銭すらない……。二人は、初日の出を観に函館山、じゃなくて、臥牛山に登るのだ。
その前に、妹が作った年越しそばを食べる。スーパーのお惣菜コーナーで買ったようなかき揚げを、しかも半分こにしておそばに乗せるというのがなんとも切ない。
食べ終わって、初日の出を見に行こうと出かける用意をする妹に、寒いからな、と手袋を差し出すお兄ちゃんがまた切ない。
臥牛山への坂道に向かって、ゆっくりと横切る路面電車を駆け足で横切る二人。この場面が、ラストで大きな感慨を持って繰り返されることを、この時には知る由もないのだ。
そう、この坂道。頂上の明かりがそのまま見上げられる臥牛山からまっすぐに下ろされた坂道に、路面電車の線路が垂直に横たわる場所を私も知っているから、すごく、もの凄く、心がぎゅっとつかまれた。
実は、函館の夜景がこんなにもちゃんと映画に映されるのって、意外になかった気がする。
夜景がきれいなぐらいだから、日の出まではまだまだ先、柵の先頭に陣取った妹にビールを買ってくるお兄ちゃん。渋る彼女に「お神酒だろ」と勧め、自らグイとあおる。彼女もおずおずと口にする。ゆっくりと、しらじらと、夜が明けてくる。
後から思えば、この時ビールにお金を使っちゃったことが、帰りのロープウェイ代が捻出できなかった原因かもしれないけれども、そんなことは承知の上だったのだろう。あるいは、その後の自身の運命も、承知の上で……?
あかあかと荘厳な初日の出に心を打たれた帆波が隣にいる兄の顔を見上げると、その顔は……再三に渡って、見切れた。
ようやく映し出された彼の顔は、泣いているように見えた。なにか、イヤな予感がした。いや、イヤな予感というか……運命を受け入れなければいけないような、予感を感じた。
妹だけの分しかロープウェイ代がないと言って、自分は遊歩道から降りるといって、慌ただしく乗り場で別れる場面。
「どっちが先に着くか競争だ」「普通に私が勝つって」おどけた言い様に見えるのに、……いや、兄の方は確かにおどけたような笑顔だった。でも妹は、その言葉とは裏腹に、この時が最後だと、とっさに予感したような不安に満ちた顔をしていた。
谷村美月と竹原ピストル、素晴らしかった。この一瞬。焼き着いた。
妹は、お土産売り場で待ち続けた。待てど来ない兄を。
ここで、タイトルがようやく出るんだよね。それが凄く凄く印象的で。
ここから始まる「海炭市叙景」
次のエピソード、「ネコを抱いた婆さん」が、先述の通り、最も印象的なんである。
最初のエピソードでね、兄が行方不明になってしまうじゃない。ラストまでその“結末”は明らかにされない。結果的に彼は山肌で遺体で見つかり、回収が難しいということから、船を待機させ、海へと落として回収する、という、あまりにも痛ましい方法がとられることがニュースで報じられているんである。
でもそこでも、「家族と初日の出に出かけた青年」としか報じられない。その“家族”がたった一人であることはもちろん、海炭ドックから解雇された青年であることも、無論、示されない。
で……だいぶ脱線しちゃったけれど、次のエピソードでも、老女が可愛がっていたネコが失踪するところで、このエピソードがいったん区切られてしまうんだよね。
それがね、青年が行方不明になるより、胸が痛く感じたと言ったら、やっぱり人でなしと言われてしまうだろうか(爆)。
でも今の私にとっては、やっぱりやっぱり、これ以上の痛さはないんだもの。私はいつも、私の大好きな野枝(愛猫)がもしいなくなっていまったら、ということを想像しては身悶えしている。今はこのお婆さんみたいな老年じゃないけど、このまま一人で生きて行くだろう、このまま一人のお婆さんになるだろうと思うと、このエピソードはあまりにあまりに胸に染みるのだもの。
で、このお婆さんが、さっきから何度も言っている、役者でないことが信じられない市民キャストの中里あきさん、なんである。
まったく、よくもまあ、こんな“役者”がいたもんだ!市場に出かけて店の前でタバコをふかしながら商売をしている(客は来ないが)場面はあるけれど、ほぼ、その後の場面での二人シーンが主となるんである。相手になるのはこちらはプロの役者、実力派の若手、山中崇。
素晴らしかったなあ。ほんとに、ほんとにプロじゃないの?彼女。信じられん。
山中氏演じる彼はね、市役所の人間で、トキ婆さんを幼い頃から知っているというゆえんで、説得に来たのだ。
説得、つまり、ここを市が商業団地に開発したいもんで、彼女だけがここに一人踏ん張っていることで困っているもんだから。
「ちゃんと、婆ちゃんの部屋も用意しているんだよ?」と彼が言ってもトキさんはのらりくらりで、オレが死ぬまで待ってろ、すぐだ、とかわす。
“オレの頼みを聞いてくれたら、話を聞いてやる”と言って雪かきをさせて、食事を供しながら、「話を聞くと言っただけだ。オレは来年も再来年もここにいる」としれりと言って、彼を困らせるのだ。
私はたばこは苦手なんだけど、トキさんの年季の入ったたばこのふかし方があまりに堂に入っていて、ついついカッコイイと思ってしまう。だって、タバコを指に挟んだまま猫をなでる様まで堂に入ってるんだもの。
ああ、こんな風に猫と暮らしたいと思う。私はまだまだ、修行が足りない。ただただベタベタして、猫を困らせてしまう。
トキさんは、さらりと猫を抱いてさらりと猫をなでる。さらりと猫と昼寝をし、外にも自然に出してやる。それで、行方不明になっちゃうんだけど……。
でも、この時はそこでカットアウトされて、トキさんが帰ってこない猫を探して雪の積もった外でしゃがれ声(これがまた、カッコイイんだよね……)で何度も何度も猫を呼ぶ、そこで終わっちゃうんだよね。
第一エピソードの喪失感が投げ出されたのを受け継ぐ感じだったから、本当に哀しくて、痛くて、たまらなかったんだけど、彼女(お腹に赤ちゃんを宿して帰ってくることで判明!)は全てが回りまわって、帰ってくる。
周りはもう、商業団地を目指してショベルカーが入り込んでいる。トキ婆さんは「生きてたのか」とこれまたさらりといい、あんなにも痛ましい声で探していたのに、こんなところまでサラリとカッコよくて。
でも、「腹ボテか、お前」と相変わらずタバコを吸ったまま抱き上げて、愛しそうに膨らんだお腹をなでながら、「大丈夫、大丈夫。オレが面倒みてやっから」とつぶやく。
その、しわだらけながらも、つやつやとした、人生を生きた美しい手がミルクティー色がまだらになったザ・雑種猫を愛しそうになでるのがアップにされると、うっとこみ上げてしまう……。
トキ婆さんは、演じる中里氏は、本当に市井のお婆さんで、いい感じのグレーな髪と、化粧なんてする訳ない、といった感じの、人生を刻んだオットコマエなお顔が素敵で、これは、プロの女優さんにはとても出せないと思ってしまう。
だって彼女は、確かに、そうして生きてきたんだもの。女優さんは確かにプロで、他の人生を演じるプロフェッショナルだけど、でも、本当にその人生を生きてきた人にかなう訳はないと、思っちゃう。
その土地で、市民が立ち上げる映画というのは、その大きな意味がやはり、あると思う。それがたとえ、予算不足でやむなく選択した上での思わぬ産物だとしても。
確かに映画は、商業として発展したからこそ、素晴らしい結果も生み出したけれど、そこに人が生きていることを映し出すのだという原点に、こんな風に時には立ち返らなければいけないのだと思う。
次の「黒い森」が、一番役者のギャラが高そう、なんて(爆)。小林薫と南果歩が夫婦。男はさびれたプラネタリウムの技師。その稼ぎだけでは足りないのか、妻は厚化粧をして、夜の商売に出かけていく。
夫婦の間には寒々とした空気が横たわり、もはや一緒に食事をとることもない。お店からかかってくる携帯電話には2オクターブは高い声で出るのに、夫に対してはドスのきいた声。
そして一人息子も……これは、思春期だからしょうがないような気もするけれど「何」「関係ないから」とにべもない。
こんな夫婦、あるいは家庭は、それこそ函館、いや海炭市でなくても、非常に現代を象徴している、言ってしまえば平凡な風景のようにも思う。
でも、それが“平凡”になってしまうほどに、こんな寒々とした地方都市にまで蔓延している寂しさを思う。
だって、都会でのそれと違って、“ダンナの稼ぎの薄さ”のリアリティはハンパないし、寒々としているが故に、うそ寒く盛り上げる酒場の虚しさもハンパないし、外の寒さと、あかあかと灯るストーブに比した息子の寒々しさの赤裸々さも、ハンパないんだもの。
クリームシチューかなんかのCMみたいな風景を、北国の家族には思い浮かべがちだけれど、他に紛らせられる都会じゃない分、この寂しさ虚しさは身にこたえる気がしてならない。
夫は、「酔いつぶれた女の子を送った」と外泊が多くなる妻を疑い、携帯電話を見せろと言う。それにしたって、彼にとっては決死の覚悟だったに違いない。
冷笑を浮かべられ、キレられ、夫婦の溝は決定的になってしまったように思った。実際、このエピソードはいったん、妻のタクシーを追いかけきれないところで途切れてしまう。他のエピソードと同じように、ぽかりと喪失感を味あわせて途切れてしまうのだ。
でも……。
このエピソードにはもうひとつ、重要な項目がある。次のエピソードにつながる人物が出てくること。最終的に、全てのエピソードの人物は、ひとつの路面電車に乗り合わせ、その路面電車が通り過ぎる前に横切るあの兄妹がいる、といったように、映画的幸福の邂逅を見せるのだけれど、人物が連関するのは、ここが最初だったように思う。
夫が勤めるプラネタリウムに日参する男の子。男の子、なんだ、とちょっと驚いてしまった。中性的な繊細さが、彼が直面している現実をこの時からうっすらと浮かび上がらせている。たった一人、いつもプラネタリウムに来ている小学生、というだけで、事情があるに違いないんだもの。
妻から「いつもニセモノの星ばかり見ているから」と突きつけられた夫は、この子に星座早見を差し出した。ホンモノの空も見ろよ、と言って。
そして、次のエピソードに続く。「避けた爪」この子、アキラの父親役の加瀬亮が、強烈な存在感を残す。
思えば彼を最初に強く印象づけられたのは、熊切監督が撮った加瀬氏の初主演作「アンテナ」だったことを思い出す。
どちらかといえば朴訥系の役が多かった彼が、ここでは代替わりした途端にワンマンを振りかざす若社長であり、再婚した妻に暴力を含めて冷酷に当たり散らすという人物だというのが、実はそんなのも似合うお顔立ちだったりするので(爆)、もちろん、彼の芝居力もあいまって背筋が凍る思いがするんである。
しかし、彼は連れ子であるアキラには甘い。甘甘な父親である。仕事が忙しいから、夜のほんの少しの時間しか相対できないけれど、子供のようにじゃれかかって、息子を溺愛しているのがよく判る。
それだけに、「アキラくん」と他人行儀な妻に、それだけが理由で辛くあたる。一体、なぜ彼女と結婚したのか、そもそもなぜ先妻と離婚して子供を引き取ることになったのか、それとも死別なのか、何気に気になるところなんだけれど。
しかも彼は、この妻と共に同級生である女性と浮気までしているんである。
アキラもそうだし、この妻もまた、市民キャストであることに、またしても驚く。あの加瀬亮に暴力をふるわれるという厳しい役どころを見事なテンションでやってのける彼女が一般市民であるというのも信じがたいが、この憂いのあるアキラを演じる子がいわゆる子役ではないというのも驚く。
いや、確かにそんな子役臭さはない、このしんしんとした寒さの中に孤独を立ち上らせる透明感が確かに素晴らしい。本当に、映画って、役者って、なんだろうと思ってしまう。
その次のエピソードも、キャストがつながっている。加瀬亮の演じた小さなガス会社の社長に、地域の信頼を利用して浄水器を売らせようとしている東京からの営業マンである。
一台四万円もして場所もとる浄水器は、そう簡単には売れない。社員に売上目標を押し付けてまで売らせる社長を、父親と思しき引退した先代がたしなめる。今は俺の会社だ、という社長を叱責する。水道水をコップに注いで飲んでみろと言う。
そうなの、函館の水に浄水器なんて必要ないよ。何年前だったかなあ、私がもう進学で上京してて、墓参りか何の用事か忘れたけれど、久しぶりに函館を訪れた時、何より驚いたのが水の美味しさだったんだよね。
東京に出る前に、他の地方にも住んでいたし、その時々の里帰りもしていた筈なのに、そんなにも水のおいしさに驚いたことなんて、なかった。なんであんなに美味しかったんだろう……いや、なんでってこともないけど(爆)。
でも、これってつまりはさ、自分の足元をちゃんと見ていないってことに他ならないよね。本作のテーマは確かに、そういうことに陥りがちというか、なかなか展望を見い出せない地方都市の悲哀といったものが大前提にあるから、ある意味当然なんだけど……水の美味しさ、なんて、確かにささやかなことなのかもしれない。
でも、素晴らしい価値じゃない、と思う。でもそれは、確かにあまりにささやか過ぎるのかもしれない。確かに、外から言ってもなかなか通じないことなのかもしれない。
それはね、まさにこのエピソードの主人公にそのまま通じるのだ。東京から来た浄水器の営業マン、だけど実は、この町の出身者。
路面電車の運転手である彼の父親は、故郷を飛び出していったきりの息子が道路を横切るのを運転席から見つけ出す。
きっと、大見得を切って出ていったんであろう息子。営業先のガス会社で、社長より大きな顔をして営業目標を唱えている彼は、しかし、疎まれている。誰からも尊敬されていない。
ホステスの誘いに乗って、寂れたスナックで酒を傾ける。東京から来たんだと言うと、一時華やぐけれど、実はこの近くの出身なんだと、この辺は変わらない、パッとしないな、と言う彼に、カウンターの後ろから聞くともなしに聞いていたママが冷たく言い放つ。「つまんない男だね。あんたみたいな男、ザラにいるよ」
このひと言で、彼が黙り込んでしまう程の凄みがあった。このエピソードでは、営業マンを演じる三浦誠己と、ゲスト出演的なムラジュンぐらいしか知られた役者がいなくって、このママも恐らく市民キャストなんだけど、ほんっと、リアリティあって素晴らしいんだよなあ……。
本作は、作品の魅力、完成度はもちろんそうなんだけれど、市民キャストの素晴らしさの点でまさに記憶に残ると思う。全然、クサさがないんだもの。それも、監督がまさに監督としての力量を発揮した“転機”だったのだろう、と思う。
言ってみれば、この路面電車の運転手さん、営業マンの父親役の彼が、一番、いい意味で素人くさかった。
墓地で息子とバッタリ会ったのは、恐らく彼の妻であり、息子の母親の墓なんだろうな。
一緒にバスに乗って「家に寄らないのか」「また来るから」と言う、ほんとうに短い会話の中に、だけど、お互い意地を張ってきたのをギリギリ、最大限、親子の気持ちを通じ合わせた、このひとことずつに感じて、じわりと来た。
多分、このタイミングしか、なかったのだ。息子も意地を張るには疲れるぐらい都会で時を過ごし、父親も同様に老いて。そのすりあわせが、なんともじわりと来たんだよなあ……。
そして、全てのエピソードの人物たちが、ささやかな救いをその手にする。
いや、ただひと組、救いを得られなかったのは、冷たく死んでしまったあのお兄ちゃんだけれど、初日の出を見に行くために出かけた彼らが、路面電車が通過する前に、横切った、その電車に、すれ違うばかりだったプラネタリウムの技師夫婦も、義母に暴力をふるわれていた息子とそのことにようやく気付いて連れ出した父親も、乗り合わせている。
なんだか不思議で、現実味がなくて、銀河鉄道の夜みたいだ、と思った。
ただ現実味があったのは、猫のグレが戻ってきたあのシャガレ声がカッコイイおばあちゃん。商業団地の工事は始まっていた。
腹ボテのグレをなでながら、オレが面倒見てやっから、とおばあちゃんはつぶやいた。それはどこか、泰然としたグレにこそ、おばあちゃんが寄りかかっているようにも思えたけれど。
寂しいようにも、寒々しいようにも、痛々しいようにも見えるのに、なぜだかとても、とてもとてもとても、幸福な後味だった。映画の神様が、確かに宿っているように思えた。★★★★★
家族の物語。家族、というか、これを家族と言っていいのかというぐらい、崩壊寸前どころか完全に崩壊してしまっているような家族の物語。
夫、妻、一人息子のザ・核家族。三人はろくに会話もせず、共有する時間もなく、ただの同居人だってもうちょっと和気あいあいとするだろうというぐらい、冷たく通り過ぎていく。
正直言えば、こういう現代社会にありそうな家族の姿は、近年の映画の中で何度も見かけていた。だからちょっと、ありきたりな気がしたくらいだった。
しかも若い作家さん、こんな年からこういう作風じゃ、先がつまっちゃうんじゃないの、などといらぬ老婆心を起こしたりもし……でも、これは、今まで散々見てきていそうで、実はなかったのかもしれない。
と思うのは、大抵そうした家族が出てくる物語は、そこを基点として何か希望的(絶望的な場合もあるかも)展開が劇的に起こったりして、つまりは、その家族のどうしようもない崩壊状態だけを見つめるなんていうことは実はしてなかったのかもしれない、と思ったから。
だってそれじゃ、……こんなことを言ってしまったら本作に対して否定的な響きに聞こえる語弊があるかもしれないけど、それじゃ何にもならないじゃん、という感覚が、今まではあったような気がして。
こういう家族は現代にはありがち。でもそこから這い出してくる誰かがいて(まあ大抵は子供かな)、一人で成し遂げたような顔をして大きく羽ばたく、みたいな。
でも実は、現実の現実は、そうじゃない。こんな風に、そのまま、何の展望もなく、ただただ追い詰められていくだけで、それを、それだけをじっくり見つめる映画は、実はなかったのかもしれない、と思った。
とはいえ、ラストにはかすかな希望が見える。もしかしたらそこが、ある意味本作の甘さだったのかもしれないと思う。ここまで徹底して崩壊した現代家族を描いているのに、希望を与えるんだ、なんて、イジワルなことを思う。
でも監督さんが、その瞬間をこそとらえたかったのだと言うのならば、それは確かに正解なのだろう。……ていうか、いったい私は、何を見たいと思ってるのか。なんか人の破滅を見たがっているみたいで、我ながらヤな感じ。
でも、映画に対する対峙の仕方のひとつとして、それはあると思う。他人の不幸を見たいというような。……なんかどんどん自分で自分を追い詰めているような気がする(爆)。
でもね、確かに本作は、最初からどん底、陰陰滅滅だったから、最後にはどういう方向ででも爆発するしかないな、と思ってた。そのために周到に完璧に三人の家族のキャラクターが徹底してて、ちょっとズルいな、と思うぐらいだったのだ。
専業主婦で子供と夫の世話だけに明け暮れる妻。会社でリストラ寸前、家に帰るのが気詰まりで、忙しいフリしてコーヒーショップで時間をつぶす夫。就職出来ずにフリーターになり、黙って部屋に上がってしまう息子。
そう、正直三人が三人とも、先述したように、これまでどこかの映画で散々見たよな、というタイプのキャラだったのだ。それの平均値、集大成、みたいな。
でも、特に本当に現代では、主人公の彼女のように、完全なる専業主婦ってかなり珍しいんではないかな、と思う。
それでなくても完璧なキャラ設定だからそうなんだけど、彼女の立ち位置が一番、現代においては現実的ではなくて、何か……20年前ぐらいの主婦象を見ているような気がした。
それでいて社会は、夫や子供の造形はまさに現代だから、まるでタイムスリップ状態の彼女だけが取り残されているような……。
いや勿論、今の世の中だって専業主婦は沢山いるだろうし、こんな風に壮絶な孤独にさいなまれている女性も多いだろうとは思うんだけど、でも、専業主婦礼賛の時代は過ぎ、クリーニング代が劇的に安くなった今は、夫のワイシャツを洗濯してアイロンをかけるなんて主婦がどの程度いるのか。……ワイシャツにアイロンかけるのって、結構大変なんだよね……。
確かに夫はリストラ寸前の憂き目にあっているけれど、閑静な住宅街でそれほど不自由のない暮らしをしているような感じの彼女が、ワイシャツにアイロンをかけるのが、なにか怨念がこもっているようでコワいんである。
それは実はネライかもしれない。翌日のワイシャツをハンガーにつるして壁にかけておくのが彼女の日課だったのが、ある日夫が朝帰りした時、そのハンガーにはネクタイしかぶら下がっていなかったのだから、つまりそこに至るためには必要な描写だったのかもしれない。
でもそうやって考えるとこのヒロインの描写って、今の時代を辛らつに描いていそうで、実は実は……ちょっとモンスターチックな描写なのかもしれない、と思っちゃう。
いや、すいません、私は安穏と暮らしているから、現実の厳しさを判ってないのだろうけれど。でも気持ちとしては、現代の女性が、夫と息子のために、自分を一切殺してここまで女がガマンしてるかな、などと思ってしまう。
まあ彼女がご近所さんに家庭の恥ずかしい事情を知られたくないみたいな描写もあって、それこそ現代社会の病んだ部分なのかもしれないけど、そんなに女は弱くないよと思っちゃう。
確かに男性は追い詰められやすいけど(爆)。だからトモロヲさんの描写は結構うんうんと思っちゃうけど(爆爆)。
……そんな風に思うのは、私が恵まれているからだろうとは思う。でも、病んだ女が映画に出てくるたびに、ふとこんな風に反発心を起こしてしまう。これを映画的要素としていつまでもとりあげてほしくない、なんてね。
まあでも、もうそれはいいや。そんなことを言っていてはきりがないもの。
考えてみれば彼女のキャラとして、かなり潔癖症というか神経質な感じが最初から提示されていたから、私がこんなぐだぐだ言うことなんか、もうそれでアッサリかわされてしまうのかもしれないよな。
夫も子供も一緒に食卓を囲むこともないのに、作った食事をあたためて(てことすら、しないよな)食べるだけなのに、彼女はテーブルの上のランチョンマットを直角に配置し、キレイに拭き清める。
そう、作り立てを食べてもらえることはまずないのに、毎日毎日、ちゃんときっちり、食事を作るのだ。
どのあたりからか、それが崩れてくる。きっかけはやはり、ウォーターサーバーを入れたあたりからだと思う。
息子が幼馴染のご近所の奥さん、その奥さんの息子は、そのウォーターサーバーを供する会社に首尾よく就職したんである。
私ね、主人公の彼女が結構ミネラルウォーターを飲む描写もあるし、この奥さんに「いいなあ」と漏らす言葉は本心かと思ったんだよね。確かに水を買ってくるの重いじゃん、と。
でもウォーターサーバーを入れると、まず息子からクサされる。「こんなのどうすんの。どうせ断れなかったんでしょ。」
息子のこの言葉がなければ、彼女は特にわだかまりもなくウォーターサーバーを使ったかもしれない。
でもさ、彼女がミネラルウォーターを飲んでいるのって、薬を飲むため、なんだよね。ひょっとして既に心療内科とかに通っているんだろうかとも思われ……。
このウォーターサーバーこそが、そんな彼女の心象風景を映し出す。確かに彼女がこのサーバーから水を飲むシーンはないんである。
ただ一度、夫が試しに、という感じに飲んでみるだけである。ごぼごぼ、と生き物のようにサーバーが空気をかき混ぜる。
その後、彼女がどんどん追い詰められていき、手つかずのままのサーバーが、まるでよどんだ沼のように、腐った水草のような黒いゆらゆらを、ごぼごぼ、とかき混ぜる様が、背後にひっそり描写される。
サーバーを設置しに来た息子の幼馴染が、故障とかをほっとくと水が腐っちゃうから、と言っていたのが伏線にもなっているんだけれど、それというよりは、それ以上に、彼女の病んでいく心象風景を示しているんだろうと思う。
だって、食べてんのか食べてないのか判らないような夫と息子のために、それなりに手の込んだ食事を用意する毎日、あれ?この野菜なかったっけ、という感じで冷蔵庫の野菜室をチェックしては買い物をしていた彼女が、もうやんなってきちゃって、自分の分は弁当、惣菜コーナーで大量に買ってきちゃってばくばく食って、ふと野菜室を開けてみると皆真っ黒に腐っている、みたいな……。
スーパーで惣菜や弁当を買うなんて、今時別に恥ずかしくもないことを、周囲をきょろきょろ見回しながら、やたら大量に買って、狂ったように食べあさる彼女の描写は、……なんかやっぱりちょっと、古い価値観のように思えてしまう。
病んだ女が映画で重宝されるのは確かにある傾向ではあるけれど。そして、こういう描写、10年、いや20年前なら結構リアリティもあった気がするけれど。
それとも今でも男の人は、女性には家庭に入ってもらって、夫と子供のために家事だけをして“引きこもり”、出来合いのものを買うなんてとんでもない不義理だ、と思っているんだろうか……?
……またついついイヤな方向に行ってしまった。多分、逆だよね。意外に、結婚したらこういう風に夫と子供に尽くさなければいけないと考えている女性が、私が思うよりもいまだに結構いるということなんだろうと思う。
腐った野菜も、腐ったウォーターサーバーも、彼女の病んだ心象風景。野菜室に関しては掃除したのかなと思ったけど、ボコリと腐った黒い水がかき回されていたウォーターサーバーは、次のシーン、夫が帰ってきたバックでは、キレイな水のままそこにあるんだもの。
主人公は主婦である妻だし、どうしても彼女の方にウェイトを置いて見ちゃうけど、夫も息子もそれぞれに丁寧に尺を割いている。
ていうか、監督さんが夫と息子に対して理解ある視線を感じる、のは、やはり同じ男性だからか、なんてついついひがんだことを思っちゃうなあ。
パソコンなんかちっとも判らないのに、なんか指導的立場におかれているらしい夫のトモロヲさんが、うっかりトンでもなさそうなエラーを起こしてしまったりするシーン。
会社のゴミ捨て場に置かれたパソコンを持ち帰って練習してみたり、本屋でマニュアル本を買ってコーヒーショップで熟読してみたり、涙ぐましい努力を重ねるも、会社の全体会議の呼びかけに出席しなくても誰も気にしなかったり、明らかに窓際に追いやられている。
……ていうか、彼は会社のこと、仕事のことにいっぱいいっぱいで、家はちっとも安住の場所じゃないし、奥さんもそんな悩みの話し相手ではなく、子供のことは考えてもいない感じで、家に帰るのがイヤで、残業のフリしてコーヒーショップで時間をつぶしている毎日なんである。
なんかね、なんとなく、ね。監督さんはこの夫に同情しているような視線を感じたんだよな。それは後述する息子に対してもそうだし。
奥さんが主人公で、追い詰められる彼女を描きながらも、何か彼女に対してはあまりあたたかい視線を感じなかった。
いや、責めているという訳じゃなくて、彼女を追い詰めたのは夫であり息子なのに、彼らにはよんどころない事情があって、仕方なかった。彼女がむしろ気にしすぎたんだ、みたいな風にも感じて。
なんせ病んだ女は映画的には魅力的な題材だからさ……なんか突き放された感じがして。
それはやっぱり、私が女だからそう思うのかなあ?確かに彼女はここまで追い詰められて、家を飛び出さなければ、その先の光明は見えなかったと思う。
でも、夫が似たり寄ったりな寂しい境遇の同僚と、カプセルホテルで一杯やったりさ。
息子も、まあそれまではいかにも社会経験のないフリーターの彼に現場のおっちゃんが冷たく当たったりもしたけれど、ムラジュン扮する運送トラックのあんちゃんがいい人で、真っ先に手を上げてくれてサンキュ、てきぱき動いてくれて助かった、なんて言ってさ。現場では結構厳しくあれこれ言ってたのに、そんな風に優しくてさ。
……つまり、外に仕事を持つ男たちは、どんなに厳しい状況でも、やっぱりなんか、救いがある訳よ。
でも彼女には救いがない。そのことを、監督さんがどう考えて描写しているのかな、という気はした。
先述したように、今はこれほど完璧な専業主婦ってあんまりいない。彼らのように核家族になると、それを求める風潮(姑さんとかね)もいなくなるし、子供が幼くて専業主婦にならざるを得ない期間ならまだしも、それを過ぎればそう……彼女のように、するべき目的を失って追い詰められてしまうから。
まあ、だから、そんな過程を経て追い詰められる彼女のような人もいるのだろう。そういう意味で作っているんだろうとは思うけど、やっぱりちょっと、古臭い気はしたかなあ。
夫と息子のためにロールキャベツを作っている最中にギャー!と壊れ、ロールキャベツを握りつぶし、整然と並べていた食器を投げつけて粉々に壊し、スリッパのまま外に飛び出す。
私ね、夫と息子がようやく異変を察知して彼女を探しに行って、夫が彼女を見つけ出してさ、早朝車に乗せて家に帰る途中、自転車で探していた息子を追い越すスローなしんねりとしたシーンがラストっていうのがね、確かに希望の光明がともったラストなんだけど、なんだかやっぱり……そんなに女は弱いの??と思っちゃったなあ。
なんかやっぱりこれって、男によって助け出される女、の図式じゃない。今までぜえんぜん、彼女の異変に気づかなかったくせに。自分のことでいっぱいいっぱいだったくせに。
私だったらこんな近場に潜伏せずに、完全に逃亡するもの。だってこんなの、夫に、息子に、つまりは世話してきたのにちっとも省みない男たちに、私はこんなにあなたたちに苦しめられてきたのよ、ようやく気づいたの?って恨みがましく訴えて、迎えを待ってる状態じゃん。
よしよし、僕らが悪かったよ、機嫌なおして帰ろうね、みたいな。そんな恥ずかしいこと、私なら耐えられないなあ……。
なんか私、鉄の女的フェミニズム(爆)。でもそれだけ、女のアイデンティティの問題っていうのは、いまだに難しいものだと判ってほしい。
エプロンしてワイシャツにアイロンかける主婦が出てくるだけでカチンときちゃう、そーゆーことをやりたくないから逆ギレする私のような、お気楽に文句言う女がいる訳よ(爆)。
それこそ、3.11以降、判ったと思う。破綻する家族は破綻するし、しない家族は破綻しない。こんな救いは、そんな究極な状況じゃ、残酷だけど意味ないんだよ。
3.11がもたらしたあらゆる価値意識の“仕分け”は良かったのか悪かったのか、私には判らない。3.11がなければ、本作のような光明を迎えられたパターンはたくさんあったと思う。でもそれは……運命としか、言い様がない。
あー……破綻しちゃった。映像やストイックな世界観はとても美しかったから、こんなつまんないこと言うべきじゃないと思いつつ……。
私みたいな独女が勝手なこと言ったら、それこそ頑張ってる女性たちに怒られるだろうと思いつつ……。
それこそやはり、3.11があったせいもあるだろうけれど、抑える気持ちだったのに、やっぱりダメだったなあ……。だってやっぱり、そんな簡単なことじゃ、ないんだもん。★★☆☆☆
だって私、ほんっと恥ずかしいんだけど、こういうことにホンットに疎いんだもの。まさに平和ボケと言われても仕方ない、甘んじて受けるどころではない、もうその通りです、ごめんなさい、と言うしかないような。
映画が社会を映す鏡だということは重々承知しているし、そうした社会派で重厚な作品を使命を持って作っている人たちのことは本当に尊敬してはいるのだが、自分的には避けてしまう。
うう、情けない、やはり私はどこかで、映画には現実逃避を求めてて、せめて映画の中では現実のことを考えていたくない、という気持ちがあるんだろうと思う。なんて言って、日本みたいに平和な国にいて何生ぬるいこと言ってんだという話になるんだけど……。
なもんで、私のような人間がこの映画を観て何かを言うと、もうそこここから無知を突っ込まれそうで非常に恐ろしいんだけど、でも、逆に言えば、もう開き直れば、私のような人間が観て“しまった”からこそ、こうした映画は価値があるのだという気持ちも、そんなに開き直らなくても思ったりもするんである。
だって、やっぱり、過酷な現実はあまりにも沢山ありすぎて、過酷な現実のその表層しかニュースには流れない。いわゆる文字知識でしか流れない。
映像だって、そのほとんどが文字知識を表層的に煽り立てるしか出来なくて、ジャーナリズムにはおのずから限界がある。そして私みたいに、その表層すら避けて通る無責任な輩がいて、世界は成り立ってしまってる。
その、ひとつ。あらゆるうちのひとつ。そこで何が起こってたのか。彼らは何を考えてたのか。それがニュースとしての“表層”にのぼってくるまでの間に何があったのか。
映画的フィクションがたっぷりと加えられているとしても、その当事者の一部がまだ存命であるうちに作られた、この“トゥルーストーリー”はやはり、大きな意味があって……そして私のような人間がウッカリ迷い込んだように、確かにそこには、宗教的な、非現実的な、自己犠牲的な、美しさがあるのだ。
激しい内戦の続くアルジェリアの小さな山村にひっそりと立つ修道院。そこには、地域の人たちと長年の信頼をつなぎながら、厳格な戒律を守って暮らしているフランスの修道士たちが暮らしている。
“表層的”に言えば、これは1996年に実際に起きた、この修道士たちが武装イスラム集団に誘拐されて殺害されたテロ事件を元にしている。
武装イスラム集団、微妙に違う言い回しも含めて、実によく聞く言葉、なんだよね。でもそれがなんなのか、どうしてそんな集団が存在するのか。
そもそも彼らはイスラム教徒であり、信徒ということは、宗教を信じているということは、平和を愛しているということではないのかと……そういうシンプルな疑問が出てもおかしくないんだけど、不思議とそういうことを今まで考えなかった気がする。
武装イスラム集団、イスラム過激派、そうした言葉で報道されるたび、彼らは選民主義に犯されたオレオレ集団で、世界のヤッカイモノだ、ぐらいにしか思ってなかった。
それは……こんな責任のなすりつけはサイテーだけど、“表層”しか報じない、ニュースのせいだと思ったりした。ジャーナリズムなんてこんなもんか、と。
でも、“表層”しか報じる余裕がないほど、世界にはここと同じような事態が存在してて……そして同じようだけど、きっとそれぞれ違ってて……。
同じ“武装イスラム集団”でも、この物語はアルジェリアの小さな山村。アルジェリアという国がたどってきた独立運動と、それに理想を燃やした敬虔なイスラム教徒たちがいて。
そして……世の常で、公平だの正義だのがアッサリ裏切られ、純粋に理想に燃えていただけに、一部の信徒たちが落胆して暴走し、そんな繰り返しの歴史の中で、もはや何に対して怒っているのか、指導者や敵対勢力に対してのテロだったのが、外国人や、ましてや同胞である市民への無差別テロに発展していく。
本当に現時点での“武装イスラム集団”が、最初の理想を理解しているのかさえアヤしくなっているような感じで、だから国際社会にも眉をひそめられる。
……という経緯が、本作の舞台となる場所でも展開されているのに、世界各地で起こっているそれぞれの事情を皆が共有することは、そりゃあムリかもしれない、などと思うのは、やはり逃げなのだろうか?
……うーむ、言い訳かもしれないね、確かに。でも、こんな私と同じように、その、現時点での、いや、少なくとも本作の中の“武装イスラム集団”の彼らの全ては、これまでの経緯をちゃんと判ってないのかもしれない、などと思ったんだよね。
今自分たちがやっていることこそが正義だと、ただやみくもに突っ走っている彼らはとても……可哀想なんじゃないか、って。
勿論本当に可哀想なのは、可哀想なんて生ぬるい言葉を使うべきじゃなく悲惨なのは、そうしたテロで命を落とす、同胞である筈の罪なき市民であり、確かにそこを、ジャーナリズムは報道すべきなのは判ってる。
でもだから、そもそもなぜ……という根源の部分が遠く追いやられ、ただそこに、悪役だけがいるという印象になってしまう気がする。自分に対する言い訳だと判ってても、そんな気持ちがしてしまう。
……で、随分と言い訳が過ぎたけれど(爆)。そのひとつの地域の、更に田舎の、しかも15年も前に起こった事件なんである。
先述のように、アルジェリアの小さな山村にある修道院、そこの修道士たちが誘拐、殺害されたテロ事件。
殺害されてしまったんだから、連れ去られてからの経緯は想像にしか過ぎないのかもしれないけれど、そこからの尺はほんの少しで、本作が大きく尺を割き、何より静かに訴えかけるのは、人々との絆と、自らの信念である。
絆と信念。さらりと言ってしまえばひどく使い古された言葉。自分だってそれを持っていると思ってた。けど、それを、本当の意味で行使しているなんて……言えなくなってしまった。
村人たちと働き、病んだり怪我をした人たちを診療する。朝に夕に賛美歌を歌い、粛々した、ひどく厳格で質素な暮らし。
しかし、無差別テロも辞さない武装したイスラム過激派と軍との対立による内戦は激化の一途を辿り、こんなのどかな村にもその波が押し寄せてきている。
ある日、クロアチア人労働者が、過激派集団によって惨殺された。このシーンは本当に恐ろしくて……イスラム過激派を単純に悪として憎むのに充分な素材だった。
後から思うと、それこそが本作の製作陣の覚悟だったように思った。
修道士たちは、彼らを単純悪として排斥しない。話し合える余地なんかある筈ない。このままでは襲撃され、死ぬだけだと、苦悩し、逃げることも考えるけれど、カトリックで説かれているのは、イスラム教徒は理解し合える隣人であると、必死に説得する。
そして驚いたことに、彼らは、というか、リーダーの男はこの説得に応じて、襲撃の場から退くんである。
本作はなんたって映画作品なんだから、そして判らない部分もいっぱいあるんだから、どこまでホントかなんて判りっこないんだけど、ただ、修道士たちの全てが殺されたのではなく、奇跡的に見つからずに生き残った二人がいて、ということは、彼らから聞いた話や、記録や書簡などもあるだろうし、きっとこのエピソードは本当だろうと思われるんである。
だってさ、だって、だって……確かに宗教間の争いは人間の争いの最も原始的な部分であり、それはとても哀しいことなんだけど、でもどの宗教も突き詰めて突き詰めて突き詰めれば、きっと全てが同じことを言ってるんだもの。
人と人との友愛、愛し、慈しみ、尊敬し合うこと。きっと、全ての宗教は同じことを言ってる筈だもの。
同じ宗教間で殺し合いに発展するまで理解し合えず、なのに他の宗教と手をつなぎあえるなんて、なんて皮肉なのと思うけど、それってそういう……シンプルなことを確認し合えるのは、他の宗教を通してだからだったのかなと思うのだ。
違う宗教だという意識さえもはやないぐらいに、村人たちとの長年の信頼を深めている修道士たちの姿が、村人たちをも標的にする過激派の青年たちとのやり取りで端的に表わされるというのは本当に皮肉すぎるほどに皮肉だけれど……でもやっぱりそういうことなんだよね、きっと……。
しかし勿論、修道士たちは苦悩しまくる。本作はそここそがメインの要素であると言ってもいいぐらいである。
生きるために修道士になったのだ、死ぬためではない、とある修道士は言う。もっともなことである。
リーダーであるクリスチャンは、この修道院が村と共に生きてきたこと、何より修道士としての使命を感じているから、村人たちを見捨ててここを去りたくはない。しかし命あってのモノダネと言えばそりゃそうである。
加えて政府からも帰国命令が出る。君たちがいると標的になる、と苛立たしげに大使館員に言われる。逃げることは卑怯なことではないのだと。
それはそうだ。そうでなければ、それを言っておかなければ、色々と支障は出る……でも彼らは修道士であり……。
ううん、私は、やっぱりちゃんと、判ってはいない。修道士、ことに厳格なカトリックのそれである彼らが、そんなにも自己犠牲を強いられていることを、判りようもない。
彼らは家族を持つことを自ら捨て、神に仕えることを選んでここにいる。その覚悟の有り様を真に理解することなんて、出来っこない。
それでも、そんな一般市民的私たちの気持ちを代弁するような修道士もいる。結婚したり子供を作ったりはしなくても、親や兄弟という家族はいる。
老いた母親の誕生日の時の話をする、こちらも充分老いている修道士は、家族への思慕を控えめに口にする。神よりも、家族が大事、だなんて、そんなこと当然のことなのに。
退去すべきか、否か。そうしたやり取りが行なわれるのは、長テーブルであり、それはいかにも、いかにも……あるひとつの宗教画を思わせる。
つまり、なんとなくイヤな予感はしていたのだ。元ネタを知らずに見ていたから結末は知らなかった。けど、この並び、あまりにも見たことのある構図だった。
確かにそこにはキリストはいなかった。弟子たちだけで、去るべきか、残るべきか、何度も挙手して話し合った。
最終的に、彼らは残ることを決断した。ちょっとビックリしたのが、そのうちの一人、医者であるリュックが「私は自由人だから」と軽やかに口にしたことだった。それは神からさえも自由であると言っているように聞こえた。
あのね、ここに至るまでの経緯で最も印象的なのは、過激派グループが負傷した仲間を診療所に連れてくるシークエンスなのね。
その前に彼らは修道院を襲い、薬と医者のリュックを力づくで持っていこうとした。
でもそこをクリスチャンが決死の思いで、診療所に来れば誰でも分け隔てなく診るからと説き伏せて、先述の様に、私たちは隣人なのだからと、言ったのだ。彼らはそれに、ちゃんと従ったんである。
でも、この武装集団自体が抗争の中で倒れ、クリスチャンは遺体を確認して言葉を失う。ハッキリと明言する訳じゃないけど、本作の中での敵役、悪役として明確に定義されているのは、イスラム過激派ではなく、軍隊、つまり政府側、なんだよね。
これは、今、現代の情勢では、なかなかに思い切っている気もして……いやだから、私はホント、判らんヤツなんだけど(爆)。
でも“過激派武装集団”を悪にしちゃえば、話はカンタンだし、今聞こえてくる“表層”なニュースって、そんな感じじゃない?
でもやっぱり、でもやっぱり、ちがうんだよなあ。彼らだって市民で、元々は善良だったかもしれない市民で、国とか政府に守られるべき存在だったのに。
国とか政府と闘わなければ理想を得られないなんて、それが過酷なゆえにどんどん行っちゃいけない方向に行くのを止められなかったなんて、やっぱりやっぱり、平和ボケな国にぼんやり暮らしてる私には、リアルに理解出来る訳ないよ。
んな感じで、キッツいなあ……と思いながら見てたけど、でもキツい中でも“映画的現実逃避”に逃げられるクライマックスがあった。
いや、これを現実逃避と言ってしまうのはアレなのだが、そう言ってしまいたいほど、美しくて、救われて……神様が、慈悲を与えてくださっていると、本当に思った。
ここがホントのシークエンスなら、二人生き残ったのは、それを語るためだったんじゃないのと思うほどだった。
必要物資を調達に出かけた修道士が、ささやかな物資を携えて帰って来る。祭礼用のパンや手紙、そしてチーズやワインもあった。
ワイン。最後の晩餐で、キリストが自分の血として使徒たちに分け与えたワイン。
食堂のテーブルにずらりと並んだ彼らがワインを手にするだけで、“最後の晩餐”を思わずにはいられなくてドキリとしたけど、そして確かにそれはホントだったんだけど、でもそこに音楽が流れるとは思わなかった。
だって、最後の晩餐って、聖書のエピソードか宗教画のイメージ。つまり静寂、サイレント、なんだもの。
そこに、ラジオをカチリと入れる一人の修道士。てか、あれは、カセットテープだったのかもしれない。
流れてくるのは白鳥の湖。真っ先に目を真っ赤にさせて涙をこぼしたのは、クリスチャンだった。
超クロースで次々と修道士たちが瞳を潤ませる。声をあげて泣くことはない。
ただ……目を真っ赤にし、時には口元に笑みを浮かべ、悲しみや虚しさよりも……万感の思いが溢れてて、ああ、これがフィクションでもいいや、だってこんなの、言葉に出来ないもの、こんなの、映画でしか、映画としての映像でしか説明出来ないもん。
いや、説明ですらない、説明なんかやっぱり出来ないもの、と思ってさ……。
なんだろう、あえて“説明”するとしたらどう言ったらいいんだろう。少なくとも彼らは、心のどこかでこれが“最後の晩餐”だと判っていたと思う。ていうか、そうとしか思えない画だ。何の前触れがあった訳じゃないんだけど……。
“白鳥の湖”にさしたる意味があったのかなかったのか、芸術に触れる機会のないまま、つまりそれだけ厳格な戒律の中、しかも芸術なんていう“娯楽”を許されていないのは、彼らと共に生きてきたアルジェリアの村民の方でさ、でも修道士たちは祖国でそんな豊かな芸術を見知っていた訳でさ。
何かもう、何かもう、それが……。判っちゃうもの、判っちゃう、これが最後の晩餐ってことが。
彼らを誘拐し、殺害したのが、どういう思想や経緯を持った“過激派イスラム武装集団”だったのか、あるいは実は軍隊だったのかとか、それすら謎だということが、その前提で本作が作られているということこそが、大きな、大きな、意味を持つことなのではないかと思う。
私は、何も判らない、本当にバカだけどさ、でもバカが何かを感じ取れることこそが、一番重要なことなんだと思う、ホントに。言い訳じゃなくてさ。
そしてそんなことを思わせるほど、天上から降ってくる天使の賛美歌のように、老いた修道士の彼らは、悩んだ末の彼らは、ひどく透明で、崇高で、美しかった。★★★☆☆
えーとね、これは、東京芸大の大学院の学生さんの制作だという。いや別にそんなことは知らずに足を運んだし、そんなことはどうでもいいことなのだが。
岸田國士の戯曲を映画化したんだという。それもまあ……まあ、いい。岸田國士はああ、文学の講義で聞いた名前だなあ。テストにも出たような気がする、と文学部出身にしてはあまりに情けない程度の知識(爆)。
現代にも充分通じる普遍性があるという。そうなのか……でもそんなこともどうでもいい。映画自体が古い時代に作られたものでも現代でも、一本の映画としてしか対峙しないから。
だから、決して先入観があった筈はないんだけれども、なんか、なんか凄く……古くさい気がして仕方なかった。
なんか時には観てられなくてさ。この四本の短篇が全部違うスタッフによって作られたというのが意外なほど、その古くささの印象は共通してた。
そしてこれも共通していたのは……かなりイイ役者を揃えているのに、なんか総じてお芝居がヘタクソに見えてしまったことだった(爆)。うぅ、ゴメンなさい、素晴らしい役者さんたちに対してなんてこと(爆爆)。
オープニングを飾る寿々花嬢なんて、あれ、寿々花嬢のお顔だけど、本当に彼女かしらと思ったほどに、なんかどうにもワザとらしく感じてしまった。
……気のせいだったのだろうか、ヤハリ。それともこれが、脚本とか演出が関係してくるものなのだろうか、ヤハリ。
……などということをぐだぐだ言ってると、それこそちっとも進まなくてメンどくさくなるからとっとと行こう。
まずは一本目、「あの星はいつ現はれるか−」
物語をざざっと説明すると、こうである。小さな頃から一緒の幼なじみの女の子と男の子。今日も今日とて彼女、絵ノ葉は彼、大隈にケツキック、大隈は絵ノ葉に紙パックのジュースを投げつけ、子犬みたいにじゃれあいながら一緒に塾へと向かう。
彼は彼女の翻訳家である父親の大ファン、今は近所ではないのに、お父さんに直接著作を渡してもらいたくて、いそいそとついてくる。
父親は年頃の娘にいつまでもくっついている幼なじみの男に「お前に気があるから調子のイイコトを言っているんだ!」とヤキモキ、母親の方は「あの子は出来た男の子。気遣いが出来るイイ子だから、あんたを好きな訳じゃない。カン違いしちゃダメよ」と釘をさす。
近頃どうにも大隈が気になって仕方ない絵ノ葉は、全く逆のことを言う両親の言葉に大いに揺れるのだが……。
娘が大隈に無造作にリップクリームを貸そうとするのに父親が「私のリップクリームを使え。ペパーミントの優しい香りだぞ」と大隈にグリグリ迫るシーンは、光石氏の可愛らしさもあいまってオッと思ったが、そこまでだった。
母親役の富田靖子が娘が恋しているらしいのを察して妙にウキウキはしゃいで飛び回り、ホイッスルなんぞを鳴らす時点でかなりドッと疲れてしまう。富田靖子にこんな芝居をしてほしくないなあ……。
このホイッスルというのは、絵ノ葉がバスケットボール部に所属していた3年間の思い出の品らしく、母親からムキになって取り上げようとする。
んでもってこのホイッスルを絵ノ葉も多用するんである。つまり、クライマックス、大隈に実ぅーに婉曲に告白(……まではいかないか、あれは……)するシーンで。
友人か何かの例え話に紛らせて、自分の思いを伝えようとする、父親はこう言っていて、母親はこう言っている。彼女はどうすればいいと思う?みたいな。
くだらない部分をついてまぜっかえす大隈に、あのホイッスルをピー!と鳴らすのよ。なぁんか、ね。そういうの、30年前ぐらいの少女マンガにはありそうだよなあ、などと思い……。
正直それまでも、彼女のふるまいに、なあんかそういう古さをどうしても感じてしまってね。青春の淡い、好きとも定義できないようなモヤモヤした気分というのは、確かに普遍的なものに違いないんだけれど、なんでだかそれが伝わってこない。
七夕祭り、浴衣を着てジャズを聞かせるお店なんていうオシャレなアイテムが用意されていても、それもとってつけたように感じて、なんかダメなの。
絵ノ葉が大隈に告白未遂するそのクライマックスでありラストシーンは、夕闇の海岸でキャッチボールだの、波打ち際で突き飛ばしあって、ビショヌレになって笑いあうだの、これって一歩間違えればメッチャベタで、ハズかしくて、で……一歩間違っちゃってる気がしてならないんだな。
普遍的なものって、本当に難しいんだと思う。リップクリームもホイッスルも絵ノ葉の唇を手で触るクセも、そしてこの江ノ電のロケーションも、その一歩間違うか間違わないかの境界線の上にあって、素敵になればきっと素敵なんだろうと思うのだけれど……。
ああ、一本目からぐだぐだ長くなっちゃった。二本目。「命を弄ぶ男ふたり」
大好きな役者、水橋研二がその二人の男のうちの一人である。高校教師。そしてもう一人はその教え子。
冒頭は、教師が教え子のタバコを咎める場面から始まる。身体に悪いとかいうことじゃなくて、学校のルールを守れ、と興ざめなことを言う。つまりそれは、問題を起こされると教師の立場として面倒だから、という意識がアリアリである。
実は本作、そういう教師の態度、あり方に関していえばかなり興味深く面白く、その点は本当に、最後まで面白かったなとは思う。演じる水橋研二はそのあたりはさすがだったしね。
本作に関してはもうただ一点、そのもてあそぶ命である、女の子が見てられないことに尽きるんである。
と、言ってしまって、あとからキャストクレジットを見て、またしても仰天する。うぅ、佐津川愛美嬢じゃないのお。彼女に対してそんなこと思いたくなかったよぉ。
いやいやいや、きっとこれはキャラのせいだ。彼女の特徴的な高い声が、白痴的に聞こえてしまうようなキャラで、白痴的な女というだけで正直古い感じがするのに、麦藁帽子をかぶってケンケンパなんて、いつの時代の映画にオマージュ捧げてんの、などとイラッとしてしまった。
うぅぅ、愛美嬢にウラミはないのよ、ある訳がない。おっかしいなあ。彼女もとってもいい女優さんのハズなのに……。
オリジナルは未読だから何とも言えないけど、この映画化に際して四本とも現代に即して脚色されている訳で、殊に本作は、もてあそぶ命はもともとの原作は二人の男自身だったという解説があったんで、この女の子は完全にオリジナルな訳よね。それが、“現代に即して”なのかは大いに疑問なのだけれど……。
彼女はいわゆるファム・ファタル。高校時代に、教師と同級生の二人にカマをかけた。
教師に対しては飛び降り自殺をするかと見せかけて抱きつき、私が死んだら悲しい?と囁いた。同級生に対しては、彼が気にしている頬のアザにそっと触ってキスをした。
それだけで、二人の男はメロメロになり、四年ぶりの逢瀬に胸をときめかせて二人、待ち合わせ場所に現われたんである。
夜の校舎、はしゃぐ女と男二人。ふっと屋上から下のプールへ飛び降りてしまう女。彼女が何を思っていたのか判らない。本当に死にたかったのか、それとも……。
二人は慌てて彼女を引き上げるけれども、ここで救急車を呼んだらマズいことになる、というところから、お互いどちらも彼女に惹かれていたこと、執着していたこと、しかしそれを肯定したり否定したりして、だんだん彼女を生かすことに対する執着がなくなる。このままだと死ぬよ、と言いながら、もう死体として扱ってる。
そうして森の中の線路まで来る。自殺に見せかけようと。彼女を真ん中にして三人、川の字になって線路の上に横たわってみたりする。
そして彼女を置いて男二人は歩き出す。深い緑の森の中、長い長い夜が明ける。
「海にでも行きましょうか」「何言ってんだよ」最初は冗談で言っていたのが、死んだと思っていた女が、乗り込もうとした江ノ電に乗っている。固まる男二人。プシューと電車のドアが閉まる。「海に行くか」今度は教師の方が言う。
この彼女が一人線路に残されて、横たわっている場面にね、紙風船が無数に吹き寄せてくるのよ。四本のオムニバスではあるけれど、それぞれにつながりはなく、このメインタイトルは四本目のタイトルであるに過ぎない(もちろん内容的にもね)、と思うんだけど、ここで紙風船が出てくるのが、だからよく判らなくて……メインタイトルにつなげているのだとしたら、他の作品もそれをやらなきゃ意味ないしさ。
まあ、いいや、次に行く。三本目、「秘密の代償」
正直なところ、これが一番イライラした。一番、全然現代に即してないし、違和感ありまくりじゃん、と思った作品。まあそれは、私が超庶民で、そうした世界が今の時代でもあるかもしれないことを知らないだけなのかもしれないけどさ。
なんか鹿鳴館チックな(という表現もよく判らんが)、貴族めいた豪奢なおうちと、そこのハウスキーパー。てか、ハウスキーパーというと確かに現代的だが、なんか見るからに、判りやすく、お手伝いさん、女中さん、である。
あ、女中って、今言っちゃいけないんだよね。でもソレぐらい、なんか古い印象である。
このお手伝いさんである美和は突然、仕事を辞めたいと言い出す。高慢そうながらも美和を重宝していた風の奥方は、なぜと問い詰める。
だってその直前に、彼女を気に入ってる奥方は、着なくなったドレスやアクセサリーをプレゼントしているぐらいなんだもの。
しかし美和は他の宝石をこっそり盗んだ上で、息子さんやだんなさんと問題がある、とありもしないことをまことしやかにならべたてて辞意を固く伝えるもんだから、息子はともかくだんなと何か!?と思ったキツそうな奥方は逆上、事態をハッキリさせるために、美和に二人を呼び出すように命令する……。
この奥方を演じる吉行由美、うう、彼女だってこんないかにもな演技をする人じゃない筈なのにい。それこそザ・舞台を見てる感じで、映像としてはかなりキツい感じがする。
裕福な家、宝石をたくさんつけた奥方、ドレスをぽんとお手伝いさんにあげるとかももちろんそうなんだけど、極めつけは……これはきっと原作がそうだと思うんだけど、奥方が皆をダンスホールに呼びつける場面。
い、いや、そりゃこーゆー場所が現代でもないとは言わんが、社交ダンスクラブてなおじさまおばさまがハデハデドレスで踊っている様も、奥方と美和が言い合いをする場面でジャッとステージのカーテンが開いてバンドがにぎにぎしく演奏して二人の会話もいがみあいもかき消すのなんてめっちゃネラってて、なんかもう、なんかもう……見てられない。
悲しいなあ。だって、美和を演じる高橋真唯嬢、私めっちゃ好きなのにさ。稀代の美少女だと思ってた。なのに、なのに……ここではね、なんか、貧相に見えてしまう。
劇中ではね、あんなキレイなお手伝いさんはもう二度と来ないだろうみたいな、本当に何かがあった訳ではない息子だって、ちょっと惜しげにそんなことを言うぐらい、彼女の美貌をとにかく賞賛しているんだけど、確かに彼女はソレぐらいキレイな女の子だった“ハズ”なんだけど……。
おっかしいなあ、なんでそう見えないんだろう。いや、多分、こういう場合のキレイとは種類が違うんだろうと思うのね。彼女はロリ系の美少女だから、こういう秘密を抱えた“美しいお手伝いさん”とは違う気がする……。
てか、秘密を抱えた、ってあたりもどうだったのか。タイトルが「秘密の代償」なんだから、確かに秘密はある筈なのだが、ちっとも判らない。
いやそれはそもそもないのかもしれないし、観る人の想像に任せる、といった趣なのかもしれない。でもそれならば、美和自身にそんな秘密を抱えるだけの謎めいた雰囲気が必要だと思うんだけど、そんな具合にひたすら非現実的と言うか、非現代的な展開なもんだから、ただ彼女がぶすっとしてて、今の事態が気に入らないだけのようにしか見えない。
もしかしたら秘密ってのはそんなに深く考えることもなくって、美和が宝石を盗んだり、だんなさんのお金をすりとろうとした、そんな性根の部分なだけなのかもしれないけど。
いやー、それにしてもさあ、それこそ鹿鳴館チックなドレスに身を包んで現代風なクラブに紛れ込むのもなんか見てられなくて、それはその後のダンスホールに比するための描写だろうとは思うんだけど、“現代風なクラブ”ってのもあまりにいかにもだし、こんな場所に慣れてない(のもホントかどうかは判らんが)彼女に遊び人風の男(て言い方が出ちゃうのも、なんか古い)が声をかけるとかいうのも、なんとも使い古された描写でさあ……。
最後に、性根がバレて飛び出した彼女が、次のカモと思しき男の車にするりと乗り込むのもね、これが鮮烈に見えれば勝利だったと思うんだけど、キレイなオチ、なんだよね。
でもって、このシーンでもそうだけど、息子の車に乗り込むシーンでも、揺らした車をカメラが真正面から撮る、セット撮りアリアリなのも興をそがれてしまう。雨を降らせたりするのが、逆に本格的にやってるだろ、て見えてしまう。……言い過ぎだろうか……。
四本目。これがメインタイトルでもある「紙風船」
これはね、これは……舞台だよ、舞台でやればいいじゃん、と思ってしまう。二人きりの会話劇。マンションの一室……ではない、二室+キッチン+ベランダ、ぐらいの構成ではあるけど、密室劇であることには変わりないし、これが舞台で上演されている様を容易に想像されてしまうほどに、正直この映像化に関して言えば、わざわざ映像に、映画にする意味を感じることは、出来なかったなあ……。
もともとの岸田氏の原作がどれほど優れていたかは判んないけど、映像化に際して書き直されたこの脚本でも、舞台劇を映像で見ている印象を出なかった。
ただ、それまでの三作品よりちょっと安心して見ていられたのは、バランスのいい中堅どころの役者二人の芝居が、ほどよいところに落ち着いていたからだろうか。
仲村トオルと緒川たまき。二人とも好きな役者である。仲村氏は独特の演技スタイルが、抑制のあるキャラの時には色気ムンムンでドキドキするし、緒川たまきの奇跡のような透明感は、そう、まさに奇跡である。
二人は倦怠期の夫婦、って感じだろうか。切り取るのはある日曜日。なんか二人、コミュニケーションをとるには手持ち無沙汰で、それが段々、プチ妄想にまでエスカレートする様を描いている。
確かに年齢的には倦怠期を迎えてもおかしくなさそうな感じではあるけれども、特に緒川たまきの、年齢を超越した浮き世離れしているような雰囲気に、結婚間もないのに倦怠期を迎えちゃった、みたいな雰囲気も感じ、なんとも不思議である。
だってなんか、部屋の感じとかも、倦怠着を迎えるほど垢じみてないというか……それは二人に子供がいる雰囲気がない(てか、確実にいない)、なんたって倦怠期だから、という以上にセックスレスな雰囲気もあるからなのかもしれないが、そこまで作りこめなかったのかも、という単純さも感じたりする(爆)。
日曜日に妻とデートするなんてことも考えず、家事を手伝うなんてことも当然考えず、この当然というあたりは、いかにも伝統的な日本男児で、それは原作である当時をよく考えもせずに継承したようにも思えるのだが(いや、原作知らんから判らんけど)。
彼女の言い分をろくに聞きもせず、女のたわごとだとでも言うように、話の核心にも届かない前に、判った判ったとさえぎる夫は確かに……夫に限らずこういう男は確かに……現代にもいるよな、と思う。
そう、四段目に至ってようやく、現代に通じる普遍性を感じることが出来たのだが、そして確かにそんな夫に何も言えずに口をつぐんでしまう女も現代の大多数ではあると思うのだが……。
「判ってねえやね、聞けやオラァ!」と現代の女になら言わせたいよね、ヤハリ。ていうのはやっぱりさ、いくらそういうのが現代でも大多数ではあっても、そこで口をつぐませちゃったら、やっぱり現代じゃ、ないんだもの。その表現に留まったらやっぱり現代じゃないんだもの。現実がそうではなくても。
と思うのは、大元の原作が昔々と知った上なんだから、卑怯なのは百も承知なんだけどさ。現代だってさして変わってないのは、判ってるんだけどさ。
すれ違いを何とか埋めようと、二人はいつしか妄想旅を始める。じゃあ、散歩に出かけようか、などとおざなりに言っていた当初はぶつかりあっていたのに、ふと妄想旅に入ると、ひどくイキイキとしてくる。
行き先は鎌倉。電車の中で食べるおやつや駅弁まで細密に再現し、タクシーの運ちゃんやホテルの従業員とのやり取りさえも作劇する。
そう、作劇、なのよね。運ちゃんにはキレイな奥さんと言わせ、従業員にはハンサムなだんなさんと言わせる。
レストランに入った場面で、シェフ役に回ってキッチンに入った彼に“季節野菜のパスタ”の作り方を伝授する彼女。
もちろん全てがエチュードのような形態の芝居なので、列車の様子も運ちゃんや従業員との会話、ホテルの部屋に入ってステキー!と声をあげるのも全てがパントマイムである訳で……。
それだけに、なんか、虚しいよな、楽しく“演じて”いるだけに……と感じていたところで、彼がふと本気になって、“スイートルーム”に案内された彼女をその気になって押し倒しちゃう。
最初からはぐらかしモードで一貫していた彼女はうろたえて、……ゴメン、と言う。そう言われちゃったらもうどうしようもなく、彼は彼女から身体をはなす。
これは相当深刻な事態と思うんだけど、そのまま展開は静かに進み、彼の携帯が鳴り、彼女がちょっと頑なになる場面もあり。
タイトルの紙風船を、見えない紙風船を、彼が退屈しのぎに新聞のクロスワードパズルで解いていた答えの“懐かしいオモチャ”の紙風船を、それこそパントマイムでぽわん、ぽわん、とパスしあう場面で終わるんだよね。
正直、いいんだろうか、これで……と思ってしまう。作りとしては確かに魅力的だと思う。女として、彼女の気持ちが判る部分もいっぱいある。
でも……と思う。原作を元にしているからっていうこともあると思うけど、彼女はあまりに踏み込まなさ過ぎるし、それはきっと彼もそうだろし、紙風船で大団円みたいにされてもなあ、などと思ってしまう。しかもエチュード、パントマイムだしさ。
……四作、スタッフも違うんだし、こんないっしょくたにクサすのは間違ってるとは思うんだけれど、でも、でも、でも……。
最初でくじかれたせいなのか、こんなに一貫して苦手だなあ、と思ってしまうのは。学生さんだから、若い才能だから、何もかもを飛び越えた新鮮さがきっとあると思ったのだけれど。
なにか、なにか、それこそ東京芸大なんていうメッチャエリートなレーベルを後からでも知ってしまうと、そのせいなのかなァ、やっぱり庶民とは違うのかなァ、などとくだらねーことを思ったりもしてしまう。
なんかね、こんなハッキリ言ってしまうのはアレなんだけど、単純に……つまんなかったんだもん。★☆☆☆☆
複数の女の子とつきあうのは、彼女たちの作るカレーが食べたいがため。そしてカレーの後にはセックスしてバイバイ。彼の望まないカレーや、大嫌いなトマトを出してくる女には即サヨナラ。
そんな、不誠実極まりない男が主人公。設定的にも展開的にもナンセンスなコメディ感は満載なのだが、“女の子に食事を作ってもらう”という感覚を当然のように出してくる、マッチョな精神の男にアレルギー的拒否反応を示してしまうもんで、割とマジにムカついていたりした(爆)。
ああ、なんて子供っぽく、かつ情けない私(爆爆)。自分がこんな風に作ってあげるとかがメンドクサイだけだろ(爆爆爆)。
うー、でも、確かにそれはある。あのね、彼が付き合っている中に一人、人妻がいて、そういうスタンスだから彼女は彼に必要以上に執着していないのね。
ほかの誰より本格的なカレーを作ってはいるものの、カレー以外のものを作ってと頼まれると「カレーぐらいなら簡単だからいいけど、煮物とか、手間なのよね」と言って、カレーの用意も途中で投げ出し、笑顔でバイバーイ、と彼の元を去るのだ。
彼女の気持ちが、考え方が、私は一番判る気がしたなあ。正直、なんでこんな男に女の子たちは皆カレーを作って(あるいはバイト先のカレーショップのカレーを持って)来るんだ、そんなにその後のセックスがテクニシャンなのかッ?(バカ)などとほんっと、大人気なく憤っていたんだけれど、カレー程度だから、なんだよね。
だって確かに簡単だもん。彼はなんか、判ったようなウンチク並べてるけど、彼が一番好きなのはバーモントだこくまろだと、至極一般的な有名メーカーのルーを使った、つまり野菜や肉を炒めてルーを溶かしただけのカレーなんだもん。
それを作る女の子が「メーカーは牛肉を使用しているけれど、このルーには鶏肉が一番合うと思う」「(同前)あえて豚肉を使ってみた」などと言うのはいわばサービストークであり、彼はそんなの殆んど聞いてない風だし(爆)。
つまり彼って、保守的なんだよな、思いっきり。家庭的なカレーが食べたいのだ。それは、ここにはオカンがいないから、女の子が作ってくれなければならない。
私ね、そんなにカレーが食いたいなら自分で作って食べろや!と、何度心の中で叫んだかしれないんだもん。
なかなかカレーを作ってくれない彼女の、そのカレーを食べるまではガマン!とか言っている彼が、店で食べるなんてことはもちろん御法度、トイレに流した自分の排泄物にまでフラフラとスプーンを持っていこうとするぐらいの飢餓状態に陥って、そこであの人妻を呼んだんだよね。
なぜだ。それぐらいなら自分で作ればいいじゃん、と思っちゃったんだもんさ……。それともその後のセックスがセット?まあこのシリーズはエロが前提だものなあ、とはいえ……。
でもね、冒頭、タイトルの前に、彼が一人でカレーを食べている画では、そばには女の子はいないし、ホントに一人で堪能している風だったからさあ……あれはあくまでタイトルのパッケージとしての画だったのかな?
そう、そこで既にバンと示されているんだけれど、彼の理想とする、本当にごくごく普通の、家庭で出されるカレーが示される。
ごはんが片側、ルーが反対側の黄金率。まっ、私はご飯の上に100パーセントでかけるどんぶり形式が絶対だけどねっ。
で、ナチュラルな色の福神漬けがちょろっとと、水をさしたコップに突っ込んだスプーン。あの人妻やカレーショップのバイトの子以外は、冒頭、彼が一人で食べている画も含めてこの形を崩さないんだけど、これがあまり美味しそうじゃない(爆)。
いや実は、人妻やカレーショップの本格的なカレーもあまり美味しそうに思わなかったのは、なんか冷め切った感じが画面に出ちゃってたからかなあー。
いや、そういうのは予算上も含めてナカナカ難しいのかもしれないけど、それこそ半分ごはんが露出している王道の盛り方だから、ごはんが乾いているのが判っちゃうんだもん(爆)。ならやっぱり、私の好きなどんぶり系のルーのかけ方がいいのに(爆爆)。
クライマックス、本命の彼女が彼に逆襲する場面なんて、乾いている通り越してご飯が固まっちゃってるし(爆爆)。
カレーが畳み掛けるように出てくる本作は、カレーを食べたくなる……気持ちが湧きそうで湧かない、なかなか難しい気持ちにさせる映画なのだった。
この日ね、上映後のトークショーがあって、本作の監督の山口氏とゲストに篠原哲雄監督が来てて、その時の話で、私のそんなくだらないモヤモヤもちょっと解消されるような話もいくつか出てたんだよね。
何人もの女の子と付き合っているんだから、違うタイプのカレーを出した方が面白かったのに、という篠原監督に答えて、もともとは、彼が7人の女の子の元にカレーを食べに行く(曜日ごとの恋人か!それは面白そう)という企画だったが予算上ポシャって、人数も限られ、彼の家に来るという形になった。
その場合、女の子たちは彼の流儀に合わせるだろうと。それがあの、同じカレーの形なのだと。ナルホドなあ、と思った。
だからこそタイトル前に、まず彼がお気に入りのカレーを一人で食べている画があるわけだ。
人妻のカレーが一味違ったのは、彼女は彼におもねることのない自分自身を持った大人の女性だったからだろうな。
もう一人、店の本格カレーを持ってくる女の子は、自分で作っていないというのもそうだけど、ひとこともしゃべらないんだよね。
私は思わず、外国人留学生なのかとか、あるいは聾の女の子なのかとか色々想像したがそうしたハッキリとしたことは示されず、つまり彼女はいかにもこの自分勝手な男にカレー(とほんのちょっとはセックス)のためだけに利用されているという存在だったのだろう、なあ……。
彼女に関しては「先にシャワー浴びてきたら」という彼に恥じらいながら服を脱ぐシーンだけで濡れ場もないし、しかもなんか意図的と思えるぐらい、髪型といい表情といい幼い感じがあって、なんか……痛々しいんだよね。
彼女だけが自前のカレーを作っていない、というのも、彼に軽くあしらわれる要素になっていたのかもしれない。
本命の女の子が来ていた時にバッティングしてしまった彼女は、無言で拒否する彼に哀しそうな顔をして背中を向ける。可哀想過ぎる……。
そうそう、ここまで話しちゃって遅すぎるんだけどさ、彼は、不動産屋さんに勤めている。あ、ちなみに、ここに至って名前を言うのも遅すぎるが、藤瀬君という。
登場シーン、カレーのいい匂いに陶然となって、半目にチロリと舌を唇にはわせたりするのがウザくてたまらん(爆)。
いやあ、だって、女の子をカレーのためにとはいえとっかえひっかえするようなイイ男じゃない(爆)。いや、これは決して予算のためではないと思う(爆爆)。
口元とかなんかネプチューンの名倉みたいだし。いや、名倉さんは割と男前かな?ま、どーでもいいのだが。
だってさー、彼が最初に引っ掛ける(日常付き合っている女の子以外でね)のが不動産屋さんに部屋を探しにきた女の子なんだけど、最初のツカミとはいえ、彼女に対する仕打ちが最悪なんだもん。
彼女が作ったカレーはごく平凡な感じで、彼のリアクションも、「ウマイ!」とは言ったけど、雰囲気としてはまあこんなもんか……という風だった。正直、彼の「ウマイ!」のバリエーションもそれほど豊富じゃないけどさ(爆)。
で、彼女が彼のウマイ!に安心して、野菜も取らなきゃね、とサラダを出してきたところで彼の態度が一変。俺はカレーだけが食べたいんだよ。なんで女はサラダをつけたがるんだよ。それに俺はトマトが大嫌いなんだよ。と、まさに、吐き捨てるように言うのだ。
彼女は、思わぬ彼の豹変に、ごめんね、とうろたえるけれど、あーたが謝る必要なんて全ッ然ナイッ!
大体彼が彼女にモーションをかけたのは、「使いやすいキッチンですよね。彼のために料理を作ったり……」「えー!彼氏なんていないですよぉ」という会話から彼女がフリーだと判ったからだけど、でもフリーだろうとフリーじゃなかろうと、カレーが食べたかっただけなんだもん。
ただ、彼女とのシーンだけは、カレーを食べる前にセックス(いやあれは未遂かな?)の場面がある。カレーがぐつぐつ煮えていて、彼女が、ホラ、出来たから……と焦って身を起こす。
あ、あ、あ、ありえん。カレーなんて特にメッチャ焦げ付きやすいのに、ルーを入れてからの時点でなべから離れて乳繰り合っているなんて、ありえん。なんて妙にリアルなこと言っても仕方ないかー。
ホント彼女は可哀想だった。なんでこんな男にあんなミジメな思いをさせられなきゃいけないんだと思った。
まあもちろん、これはメインがあるからこその前フリなのだが、先述の様に私は大人気ないアホだから、マジに腹立ってしまって(爆)。
でもここで、彼の手口が全部明らかにされるんだよね。部屋を案内する時、一人者の女性に案内する部屋がいつも同じというのもアレだけどさ。
「電車の音がうるさいけど駅が近いから」「日当たりも結構いいんで」「(クライアントが風呂場のドアを開けると同時に)あ、ユニットバスですね」「(同、キッチンの流しの下の収納を開けると同時に)使いやすそうなキッチンですよね」ぜーんぶ同じ台詞。
で、キッチンにかこつけて、彼氏の有無を確かめるのも同じ。部屋を決めかねているのならいつでも私の携帯に電話ください、とうまいこと連絡先を教えて、この時点で彼の思惑に気付いた冒頭の女の子なんかはアッサリエジキになってしまったんであった。
思えば、これほど女の子が暮らす部屋が再三出てくるのに、実際に彼と女の子たちが関係するのは彼の部屋だと言うのは、まー、予算上の問題もあったのかもしれないけど、ちょっと象徴的な気もしないでもない。
彼が本気で惚れちゃった巨乳の女の子(またしても客流れ)はこの部屋に決めて、彼の持ち込んだ布団と彼女の寝袋とで甘い夜を過ごすけれども、寝袋で生活しているぐらい家財道具がなーんにもない彼女。
同棲していた元カレに振られて追い出され、しかし最後には元サヤに戻ることを考えると、殺風景なこの部屋は、彼女の仮の宿に過ぎない。
んで、彼女自身はカレーが嫌いだから、なかなかカレーを作らなかったんだけど、藤瀬君がカレーが好きなら、と本格的に本を買って、トマトを使ったカレーを作り、自分の部屋に彼を呼んで食べてもらったら……トマト嫌いの彼は吐いてしまった。
で、トマトが入っていることを知ると「なんでそんな中途半端なことするんだよ。カレーのことが全然判ってない。俺がトマト嫌いなの知ってるだろ!」とキレる。
この時彼女は泣きながら「そんなの知らない!」と言ったし、トマト嫌いを告げてなかったのは彼のカン違いだろうなあ……。
それこそ、冒頭の女の子のエピソードに重なる。オレが好きな女は、オレがトマト嫌いなことぐらい知ってる筈、みたいな……うっわ、サイテー!
しかも中途半端て!料理の本を見ながら、メッチャ本格的に作ったカレーは、物語の最後、元サヤに戻った前の彼氏や大家さん、藤瀬君の後輩たちにはとても好評だった。
つまり……藤瀬君はホント、おこちゃまだったってことだよなあ。オカンの作るカレーの味が好きなのだ、とここでも確信する。だから自分でも作らないし、バーモントやこくまろで作る一番単純な恋人その1のカレーが一番好きなのだ。
本気で好きになってしまったこの巨乳の彼女の登場で、この恋人その1もあっけなくフラれるんだけれど、この時藤瀬君が言う台詞がまたサイテーの上塗りなんである。
「でもオレ、お前が作るカレー好きだし、これからも友達としてお前が作るカレーが食べたいなって……」そりゃ殴られるに決まってるわな。判ってないこと自体が信じられない……。
で、まあ。なんか先んじて結論は結構言っちゃってるけど、つまり藤瀬君は最終的にフラれるんだな。
しかも彼、その最後に結構醜態もさらす。みんなが美味しい美味しいと言って食べている彼女のトマトカレーを彼女の元カレの手前もあって、他の人の食べかけをムリヤリかっこんで、驚いた周囲に押さえ込まれながら咆哮を響かせる。
それを見て彼女はしてやったりの笑顔を見せる。最初は彼にウザい、ヤダヤダと思っていたし、巨乳の彼女がドンドコドンドコと扇情的な音楽と照明と共に彼の妄想に出てくるのもどーしたらいーのかしらん、という戸惑いの気持ちで見ていたんだけど、知らぬ間に、この彼女がここまでしてやったり!のところまで引きずり込まれてしまった。
カレーをなかなか作ってくれない彼女に操を立てて、カレーのない生活にどんどん憔悴していく藤瀬君が可笑しかった。
巨漢の後輩が外でカレーを食べてきた、その余韻の匂いをくんくんかいで色っぽい雰囲気になったり、この後輩のカレーの匂いにガマン出来なくなってケリを入れたりまではお約束っぽかったが、本当に生気がなくなっていくのが可笑しくてさ。
なんかの番組で、インド人がカレー(というのは料理名としては実際は正しくないそうだが。この場合、スパイスを使った料理)を食べないまま過ごすと、明らかに元気がなくなり、体調を崩し、病院で検査すると実質的な数値にまで現われるというのを検証したのを思い出したりした。
それにさ、最初にカレーというテーマを聞き、これが青春Hシリーズだという認識があったから、カレー(スパイス)とセックスって、生命力とか媚薬とか蠱惑とか、とにかくすんごい結びつくなあ、って。ただ、食事という以上に結びつくなあと思ったから……それがこんな切ない結末になるとは思いもよらなかったけど(爆)。
まあでも、また最後に部屋を案内する女性に「カレー好きなんですか?」と言われてラストだから、希望はあるのかなあ。
でもそれも、思いっきり未練タップリの「なんか、カレーの匂いがしませんか?」という、この部屋を案内する時、今まではすべて同じ台詞だったのに、これだけが違ったことを考えると、やっぱりやっぱり、切ないかなあ。★★★☆☆
普段かなりテキトーにしか情報収集してないので、本作に関しては本当にウッカリ見つけてしまったという感じだったのね。
平田オリザという名前をうっかり見つけ、でも彼は美術監督??監督さんも役者さんも知らない名前ばかり。
いや、実際に観てみると、そこここに知った顔はいるのだが、名前と一致してない、つまり私がちゃんと認識できていない人ばかり。
キーパーソンの、加川役のひげもじゃさんがその最たるもので、このアヤシイ人、絶対知ってるのに!と思ったら、そうか「南極料理人」のアノ人か!彼はもう一見してアヤしすぎで、本作にピタリ過ぎでコワい!
もっとも驚いたのはヒロインの杉野希妃嬢がプロデューサーにも名を連ねていることで、プロフィルを見るとなんとギドク監督の「絶対の愛」で私、見てる!?えええ、ななな、なんで!?いや、なんでってこともないが……。
彼女の初主演映画の篠原作品は完全に見逃していて、今更ながら歯噛みする思い。大体、プロデューサー業を兼ねるこんな若い美人女優さんってどーゆーことだー!
うぅむ、日本映画界は知らない間にスゴイことになっているのかも……。
などと言っているとちっとも進まないから(爆)。冒頭、いきなり思いっきり見覚えのある風景。だって私この日、ここから半蔵門線に乗って渋谷まで出たよ(爆)。
そう、あまりになじみの深い錦糸町。私の住んでいるすぐ近くの街もそうだけど、小さな町工場がたくさん残るエリア、なんだよね。
舞台となる印刷所はいかにも家内制手工業で地味に続いてきたという印象の、路地の片隅にひっそりと建つ住居とくっついた工場。若い嫁さんや出戻りの妹がいるというだけで近所の噂好きのオバサンたちの格好の的になるぐらい、狭いコミュニティ。
そうなの、東京なんてコンクリートジャングルで(という言い方も古いが)、隣同士気にしない冷たい社会だと思われてるかもしれないけど、こうしたうっとうしいほどの(この場合はね)コミュニティが厳然と残っている場所は確かにあって、その場所に選ばれたのが錦糸町っていうのが、実に絶妙だなあと思ってさあ。
だって錦糸町エリアって、駅周辺だけでいえば本当に栄えていて都会だし、沿線はどこまで行っても東京、を象徴するような場所なんだけど、ふと外れると確かにこんなんなんだもん。
古くからの伝統やつながりがあるのは東京では得難いことなんだけど、それがふとすると息苦しくなる。それがゆえに仮面をかぶるハメにもなる。
そしてそこにつけこむ異邦人がやってくると……こんな風にあっという間に崩壊してしまう、のかもしれない。
いや、崩壊?なんだろうか。これって雨降って地固まる、を物語にしたような映画かもしれない、とこう書いてきてふと思った。だって引っ掻き回された当の本人である幹夫は、その加川のことを友達だと言ったのだもの。
……あー、どうしてもハズれてしまう(爆)。えーとね、だからなんだっけ。そう、若い妻と出戻りの妹よ。そんでもって前妻との間の幼い娘。
いかにも火種を抱えていそうだけど、一見して穏やかに暮らしている。でもね、若い妻、夏希と出戻りの妹、清子はお互いに距離感はアリアリである。
いやね、そりゃあ“一見して”問題はないわよ。でも、仲良くもないの。にこやかだけど、距離がある。
娘、エリコの世話を頼む夏希に清子が「いいわよ、この家でヒマなのは私だけだからね」とさらりと返したりね、勿論お互いがいないところで悪口……まではいかない微妙な言い回しをする、なんていうのはお決まりである。微妙だから、キツいんだよね。
清子は兄の幹夫に「知らない間に女を連れ込んで」「私の部屋も夏希ちゃんの部屋になってるし」と、あからさまに攻撃するでもなく、さりげなくなんだけど、だからこそじくじくと痛い攻撃を仕掛けてくる。
夏希の方はなんたって立場が弱いということもあるから、夫に小姑の悪口を言うなんてことはないんだけど、加川という闖入者が現われて引っ掻き回され、その妻であるアナベルが現われたことですっかりコンランした彼女は、どこか誘導されるように、留学熱を高めている清子に「逃げてるだけなんですよ。バッカみたい」とついに本音が出てしまうんである。
ねちねちと根回しをするように兄に夏希のことを言う清子に対して、たった一度ながらも夏希の言いようはズバッとキツいけれど、考えてみれば彼女はこの家の中で縁故がいないただ一人きりであり、彼女の立場を考えたら確かに相当辛いんだよなあ。
正直彼女は加川という闖入者に救われたのかもしれない、なんてことさえ思ってしまう。
……なんか微妙に先走ってるよな。えーとね、また軌道を戻しますと……そもそもこの物語が、この家の父親の三回忌から始まっているというのが印象的なのね。
喪服の家族たちが炎天下の中歩いてくる。近所のおばちゃんに、もう2年も経ったのねと声をかけられる。二階の洗濯物を取り込む夏希とおばちゃんの会話は微妙にぎこちない。微妙な間があく。
夏希はエリコと共に、いなくなってしまったインコのポスターを貼りに出かける。そのポスターをべりりとはがした男が店にやってくる。
いや、見つけた訳じゃないんですけどネという時点であまりにも怪しいこの加川という男は、まあその名前も今から思えば偽名だったんだろうな。
だって、その名前は、この工場を融資したという人の息子というんで名乗ったんだもの。それで幹夫はアッサリ騙されてしまうし。
そうして住み込みとして働き始めてしまった加川は、彼らの弱みをどんどん握りまくって、もうどんどん、我が物顔になって、どんどんなんだか得体の知れない人たちを引っ張ってきて、この下町の小さな工場は大騒動になるんだもの!
でもね、そう、その火種は最初からこの場所にあったのだ。今から思えば加川の目的がなんだったのか、さっぱり判らない。
不法滞在の外国人の斡旋に手を染めていた、という話が後にささやかれるけれど、その片鱗が垣間見えるのは最後の一晩の狂乱だけで(まあ、彼の“妻”のアナベルもそうではあるけどね)、あの一晩が何だったのかさえ、今となってはまるで判らないんだもの。
ただ、この小林印刷所には確かにくすぶっていた火種がそこここにあった。大体、幹夫が加川に前妻のことを聞かれた時「いや、病気でね……」と言葉を濁したあたりから、この夫婦、いや家族は完全に信頼しあってはいないんだな、と感じた。家族の間でそのことに対するわだかまりがなければ、他人にだって正直に言える筈だもの。
案の定、幹夫と夏希とエリコとが買い物に出たところで前妻に行き会い、しかも彼女は生まれたばかりの子供を連れていたりし、エリコはしかし元ママとの再会に大喜びで、一緒に昼食を食べに行ってしまう。
夏希はぼおっとしている幹夫を置いて先に帰ってしまう。慌てて追ってくる幹夫。
もうこの時点で二人が腹を割っていないのはアリアリだけど、彼らの間にはまだまだ秘密が残されていたのだ。
そもそも夏希がエリコから、ママではなく先生と呼ばれているのも大問題である。夏希がエリコに英語を教えているからなのね。
でもそれもアナベルの登場でアッサリ崩壊。てか大体アナベルの登場もあまりにイカしすぎてる。
幹夫と夏希が帰ったらシャワーを浴びてる人がいる。出てきたらなんと金髪美人!加川がデリヘルを呼んだんじゃないかと邪推するあたりも可笑しいんだけど、妻です、と紹介された二人が固まるのは更に大爆笑!
「よしなに……」と古い言葉で頭を下げるアナベルも可笑しいが、迷惑はかけないからと言いながら、さっそくその夜から隣でギッコンバッコン!
何より夏希がその気になった幹夫をヤメテ!と強烈に拒否したのが超絶気まずくって、隣の声もやんじゃう(爆笑!)でもこの拒否がなんとも切なくてさあ……。
て、またしても脱線しまくり(爆)。で、そう、アナベルがエリコに英語を教えちゃうのよ。もう、本場の発音だから、夏希は引き下がるしかないのよ。
しかしアナベルは出身はブラジルだと言っていたのに(これを夏希が通訳すると幹夫が「それぐらい判るよ」とむくれるのが可笑しい)取引先の営業マンが声をかけると「ボスニア」と……アヤしすぎる!
この時点で加川の妻って話もアヤしいなあと思ったけど、でも意外にその点に関してはホントだったのかもしれない。
いや、エッチしてただけだけど、でもそれも声だけだったのかも(爆)。最終的にアナベルは加川のことを、カガワサン!と呼んでいたしなあ。
で、なんだっけ(爆)。そうそう、アナベルがエリコに英語を教えたり、加川も仕事をどんどん仕切っていったりして、幹夫も夏希もどこか肩身が狭くなる、ていうのもおかしいんだけさ。
でもそもそも加川が住み込みで入り込んだのは従業員が倒れて入院してしまったからなんだけど、まるでそれを見越していたようなのもコワいしさあ。
そして、幹夫や夏希の秘密が明らかになってくる。いや、幹夫に関しては、加川の送り込んだ“刺客”アナベルに陥落されてしまったというのが正しいトコで、夏希に超絶拒否された未遂場面を見るにつけても、どうやらそーゆー雰囲気には長いことなってなかった風でもあるしさ。まあ出戻り妹もいるし……。
夏希はもっと、重大な秘密を抱えてた。割と前半の方で、彼女は2階から下の路地にいる、いかにも風采のあがらなそうな青年を冷たく見下ろしていた。
その青年は夏希を手招きした。もう、いかにも世間から見放されているような青年(爆)。
だからね、彼と夏希がウワキ的な仲にあるとかは、もうこの一場面からないなとは思ってた。何か事情があるんだろうなとは思ったけど、そーゆー関係ではなかろうな、と。
むしろ夏希には同郷の男の子との淡いロマンスがあり、彼女を自分のライブに誘ったその青年は、バイクに乗ってギターを背負って、いかにもラブアフェアを起こしそうな男の子で、実際夏希はいろいろとストレスがたまっていたこともあって彼と一夜の過ちを犯してしまうんだけど……。
てのは、まあ、実は大した事件ではないのよ。これが大した事件じゃないんだから、本作はホント、凄い展開なのよ(爆)。
あの、風采の上がらない青年の方ね、夏希を手招きしていた青年。
加川が夏希をのらりくらりと問い詰めるんである。もういきなりズバリと切り込むのが、会社の金を横領しているでしょう、ということ。
観客であるこっちは、幹夫の知らない男の子が二人も出てきているから、なんかのっぴきならない状況にはなるなとは思っていたけど、こうした展開は予期していなかったからビックリ仰天!てか、それをこのひげもじゃ無礼な加川から言われるから更にビックリなの!
毎月10万ずつの“横領”はカワイイもんだとも言えるけど、なんたってこんな小さな町工場だし、妻に一切の経理を任せている幹夫が何も知らないのは確かに大問題である。
しかもその話をしながら高性能望遠鏡で加川が見つめた工場の2階の部屋で、アナベルと幹夫がズッコンバッコンやってる!!もー、何なの、この展開!
いや、ここで驚いていてはいけないのだ。加川はそれにはなぜか全く動揺せず、それどころかしてやったりみたいなニンマリを見せて、夏希に見ますか、と勧めたりなんぞするんである!!
そこはまあ、スルーされるんだけど、ここで見てたらどうなったんだろ……。
加川はね、夏希が金を渡しているあの青年のことを問いただし、それが婦女暴行事件を起こした腹違いの兄であること、ずっと離れて暮らしていた兄だけれど、恥だから幹夫には話せず、兄からせびられるまま金を渡していたことを白状してしまう。
加川はね、私が何とかしましょう、というのだ。実際困っていた夏希は兄を呼び出し、これからの援助を断わるとゴネる兄に加川が登場、ここからは私がナシつけますよ、というんで任せて帰ったんだけれど……ちょっとは予測ついていたかもしれない。
加川は生活のアテのないこの兄を小林印刷に連れて帰り、働かせるように幹夫に説き伏せてしまうんである。アゼン!!
……それというのも、幹夫がアナベルとズッコンバッコンやっていたのを加川が見ちゃったから、ていうか、最初から加川はそう画策してたんだろうなあ……夏希に偽装結婚なんですよ、いや冗談、冗談、て言ったのは、今から思えばやっぱり冗談なんかじゃなかったのか!
それにしてもアナベルは強烈で、いきなりぱんついっちょで二階からぼんやり外を見ていたりするしさ。でも今から思えばそれも、彼女の心の内を思うと深いことだったりするのかもしれない。
でさ、でさ、もう最後はなんなの??て感じなのよ。いや、その前になんかもう、小林夫妻、小林家は崩壊寸前でさ、なんか知らんが妹は酔っぱらって正体不明、夏希がイヤイヤ行った町内会は“不法滞在外国人”“ホームレス”への嫌悪への一致団結で終始し、ただでさえコミュニティになじめないままの夏希はとぼとぼと帰路につく。
途中で、あの郷里の友達のライブチケットを思い出して出かける。帰り、彼のオートバイにまたがって送ってもらうはずが、帰ったのは午前様。
でもその朝は二人、黙ったまま歯磨きするばかりで何の会話も、言い訳も、追究もしないのよ。
そうこうしているうちに、加川が「そろそろだな」と言う。それを聞いたアナベルがニッコリとしたアップでブラックアウト。
何、何、と思っていたら、もう次々と、加川が外国人を招きいれるのよ。最初は、アナベルの親戚が旅行に来たのだと言った。そ、そうか、……と戸惑いながら迎える加川だけど、どんどんどんどん、どんどんどんどん、増えてくる。
明らかにアナベルの親戚じゃねえだろ!という風貌の来るもんだから幹夫が問いただすと、いや俺も判らないと。判らないじゃねえだろ!もう、呆然とするしかないのだ。
加川夫婦に提供した部屋は、おしくらまんじゅうどころじゃない外国人たちでひしめきあってて、障子を恐る恐る開けてその状況を目の当たりにする幹夫、その非現実的な画には思わず爆笑!
トイレに行列を作る場面にはそれ以上に大爆笑したなあ……だって皆苦しそうにガマンした顔してんだもん!
幹夫が加川に、明日だけは何とかしてくれないか、夏希の誕生日なんだ、と請うも、ムリだな、とにべもない加川。
おいおいおいおい、お前、何様だよっ、と噴き出しつつも呆れていたら、外国人皆でせっせと工場で働き始めた。
それにもアゼンとして、追い出された幹夫と加川が2階の部屋で何をするでもなくぼおっとしていたら、突然工場の音がやむ。
何ごとかと思って下に下りて行くとね、彼らがマジな顔して黙ってるから、更に何ごとかと思ったらね、パーン!とクラッカーが鳴らされて、アナベルがケーキを夏希に手渡してさ、ハッピーバースデー!!
それからはもう、どんちゃん騒ぎよ。意外なことに清子がスッカリこの状況になじんじゃってさ、いそいそとお惣菜を運んだり、イケメン外国人とダンスしたり。
最初のうちは圧倒されっぱなしだった幹夫と夏希も、皆に促がされて踊り出す。ジェンカよろしく肩を組んで狭い住居から暗い外へと飛び出す。
その間に通報されてたんだなー。でもね、それこそその間にさ、夏希は一夜のウワキを告白し、幹夫に殴られる。夏希も万感の想いを思いっきり込めて彼を殴り返す。
何とも言えない空気が漂う中、アナベルが澄んだ歌声で聞かせる、どういう歌だかは判らんが、とにかくその歌声がいいのよ。すべてを、どうでもよくさせる。
で、それを切り裂くように、警察が現われる。どうやら不法滞在外国人ばかりだったらしく、加川が吐きそうになってる男を抱えて出る、という芝居を打ったのを皮切りに、どんどんどんどん、逃げていくのよ。
勿論、加川もアナベルもよ。すっかりガラーンとなった部屋に呆然と残される幹夫と夏希。
そして場面が変わって、事情聴取から解放された幹夫が帰ってくる。ヒソヒソと噂話をしていたおばちゃん連中がタイヘンだったわね、と声をかけると、お騒がせしましたと言いつつも「友達の悪口はやめてください」と幹夫は穏やかながらも言い放った。
これにはハッとしたなあ……。メーワクしかかけられなかった加川に、騙されまくった加川に幹夫がそう言ったのがさ。
つまり、全てをさらけ出した人間って、幹夫にとって加川だけだったんだろうなあ、と思って……。
アナベルとの浮気のこと、夏希に言わないでくれと懇願した幹夫、それを弱みに握られてこんなことになったけど、夏希から告白されたことで、隠していることが幸せにはならない、って、判ったんだろうなあ……。とはいえ、彼がそのことを夏希に今後告白するかどうかは判んないけど……。
とりあえず、全てが終わって帰ってきて、彼を迎えに行ってすれ違い、遅れて家に帰り着いた夏希とほおっと一息つく。エリコは?と聞くと、疲れて寝ている、と夏希が答える。
ずっと空だった鳥かごの中にインコがピーピーと鳴いている。見つかったのか、と幹夫が言うと、同じ色のを買ってきたのよ、と夏希が言う。
いいのか、と幹夫が言う。いいのよ、すぐに忘れるわよ、と夏希が言った。
つまり、つまり……エリコはこのインコに騙されるってことじゃなくって、全部判ってて、受け入れている、エリコのような幼い女の子もそうなんだから、みんなそうなんだよ、ってことなんだろうなあ。
ぐうっときたなあ。だって幹夫も夏希も、秘密や本心を隠したままいけるなら、それで平穏に暮らしていけるならいいじゃない、と思っていたと思う。
まあこのインコのくだりは、それをエリコも踏襲するであろう、みたいな含みも一方では感じるけど、なんかそれだけじゃない気がするんだ。
全てを判った上での相手に対する優しさ。この小林家に存在していた秘密は、そうした日本的優しさがあったことは確かだったんだもの。
でも、それも歯がゆいことだよな、と思いながら、それでもこのラストは幸福だと思う。
じゃ、片付けるか、とクラッカーのテープ屑や空き缶をゆるゆると片付け始める、この年の離れた夫婦はきっと、これからきっと、なんだかんだありながらも、一緒に年を重ねて行けると思うんだ。
静かな中にオドロキの展開が次々と挟まれて、安心したところに驚かされて、とにかくタダモノではないこの映画、日本的な狭量へのへの容赦ない糾弾と、でもそれは必ずしも悪しきものではない、という優しい視線。
かつて数多く作られていたホームドラマの中に、地味ながらもひっそりと息づく秀作に連なる風格と、国際性、現代性を鮮やかに切り取った手法にとにかく感服。★★★★★
本作は二宮君と松ケンの二人が両主人公という趣ではあるものの、なんとなく印象としては二宮君の方がメインであるような気がする。だって、物語を牽引するモノローグが彼だし、何より松ケンは本作の最後で死んじゃうし!
聞いてないよー!!(そりゃ聞いてないに決まってるんだが……)などと思ってしまった。いや、死んじゃう、という表現も語弊があるっちゃあるのだが……だって元から彼らは死んでるんだし……。
と、いうのが本作のキモで、後篇には驚くべき展開が待っている、らしい。行くのか?私、後篇にも行っちゃうのかッ!?
正直、前篇である本作を観ている間も、同じシチュエイションの繰り返しが多いせいか、なんかこれって、この事態の説明的な構成だなあ、などと思っていた。
それは、前編終了後に後篇の予告編を見て、どうやら前篇とはまったく違った物語が展開することを知り、なんか騙されたような、これじゃまるで前篇が前座みたいじゃん、というような、何とも言えない気分にさせられたのだが……。
まあそもそも、最初から二部作になっている以上、第一部だけの時点ではいわば未完成品なんであり、そんなこと言っても仕方ないんだけど。
でも、そう、正直、前篇である本作に限っては、何か、オチどころのない堂々巡りのような感じはしていた。
もちろんどんどんスケールアップもしていくし、人間ドラマも色濃くなっていきはするんだけれど、やはりそれは、クライマックスを残す後篇への布石にしか過ぎない、と、後篇を見ていないのに既にそんな気がしてしまった。
でも、もともとのコミックスはまさしくそうなんだろうな。だって、映画版後篇に描かれる結末は映画オリジナルのものだそうだし、ということは、原作では恐らく、この“オチどころのない堂々巡り”が延々と繰り返されていくんだろうと思うんだもの。実に10年以上、30巻もの長きに渡って連載されているというしさ。
そういう原作の場合、本当に映画化には苦慮すると思う。結局観なかったけれど、あの「20世紀少年」だって、結局は結末に映画オリジナルを用意してしなあ。評価の程は知らないけど、恐らく原作ファンは、かなりゴウゴウと意見しただろうと思う。
そして本作もそれは間違いなく……まあ、まだ終わっていない原作なんだからしょうがないにしても、原作にはないオチを映画オリジナルで作るというのは、それが長年続いた原作であればある程、冒涜にも近いものであろうと思うしさ。
そしてそれがあると、原作は全然知らないし、ただ映画が好きで映画として足を運ぶしかない輩にとってはどうにも、相対しにくいんだよね。
原作に忠実ならいいのか、映画は映画と割り切るべきなのか、それならば、二部作にしてまで、つまりある程度は原作を尊重する部分をおそらく前篇には盛り込んでいるであろう、というのが、ホント、原作から切り離された一般観客にとっては、どうにも歯がゆいんである。
などということばかり言っていてもしょうがないんだけど。でも確かに、映像化には魅力的な題材には違いない。
「映像化は不可能」という言葉はあまりに常套句だけれど、それはテクノロジーが恐るべきスピードで加速している現代において、既に陳腐になりかけている。
どんなに映像化が不可能だと思われるものも、アッサリとそれが成し得てしまう時代に突入してしまったことは、幸か不幸かと考えてしまう。
いや、幸に違いない。これからはそれだけに慢心しない、そこから先を深めた作品がもっともっと出てくるに違いないから。
確かになあ、CGに踊り浮かれていたちょっと前は、それだけって感じの作品は多かったように思う。それはずっと昔の、いわゆる特撮モノが出始めた頃もきっと似ていたんじゃないかと思う。
特撮も時代が成熟してくると、ドラマとしての内容も成熟してくる。私は頭がカタいから、結構CGを毛嫌いするところがあるんだけれど、CG映像の時代も、そうしたところに来ていると思う。
だから本作は、おお、こんなにリアルに、スタイリッシュに、迫力満点に原作世界を再現したなあ!てところじゃないと思うんだよね、
感心するべきどころは。まあ、黒一色のぴたっとした革スーツのセクシーさには男女問わずドキドキするが(トモロヲさんのお腹がチャーミングに出ているのも好きさっ)、今更“リアルなCG”には感心しないじゃない。だからこそ力量を問われる時代に突入したと思うんだよね。
正直、本作を監督したお方の名前を見て、意外な気がした。いや、あ、この人、とピンときた訳じゃなくて、こういう、SF系コミックの映画化ときたら、結構即座に思いつく監督さんって、いるじゃない。庵野監督とか、樋口監督とかさ。
でも、違った。ちらりとフィルモグラフィを見て、ああ……「LOVE SONG」は観てる、と思い、……あ!「正門前行」この人!すっごいチャーミングな映画だったこと覚えてる!とか思って、今更ながら記憶がつながって、妙に感慨深かったのだけれど、余計に、本作への抜擢が不思議な気がした。
のだけど、でも、本作が、“映像化が不可能”だと思われた部分が魅力なのではなく、あくまでダークな人間関係や心理描写にあるのならば、そうか、とも思ったのだ。
なんかね、着るだけで超人的な身体能力が身につけられるスーツとか、なんか判らんけど邪悪なものと闘うとか、見え方はアメコミみたい、とも思ったんだよね。
実際、二宮君演じる玄野はその魅力にハマり、現実世界でもそのスーツを普段着の中に着込んで、高い階段からジャンプしたりして悦に入っているしさ。
そういやあ、この場面だけ、確信犯的に“CG臭い”のだ。なんか、マンガチックにびよーんと飛ぶ。他のシーンでの、痛々しいほどのリアリスティック、シリアスと、明らかに違う。
玄野は自分でも正義の味方なのだと口走り、そういやあ小学生の時からいじめられっ子を守っていたんだと、なんか憑かれたように言うもんだから、彼に恋するオクテな女子学生はふと恐怖を覚えたりするんである。
恐らく玄野の中では、それこそアメコミチックな正義のヒーローなんだろうけれど、その“正義”って凄く押し付けがましいもので、ていうか、そもそも人から与えられての“正義”であり、それに操られて、“弱ぇおめーらを俺が守ってやる”てな傲慢さが芽生える訳でさ。
そういう展開って、そういう暗く重い心理テーマって、いかにも日本的、だよね。なるほど、アメコミを日本風に解釈するとそうなるのかもしれない、なんて。
思えばガンツ=重くて黒い球の不気味さ、あるいはその中に言葉も発せずに植物人間みたいにうずくまっている全裸の青年とかも、やたら意味深長だもの。
単純に考えても、心の中の闇を、具現化したらこんな表現になるんじゃないかと思う造形なんだもの。
てか、またしても訳判らん(爆)。一応筋をひもといてみると……めんどくさいんで、某解説を引用(爆)。
幼馴染みの就職活動中の大学生・玄野計と正義感の強い加藤勝の2人は、ある日電車に轢かれて命を落とす。死んだはずの2人が、黒い謎の球体「GANTZ」に呼び出され、異形の星人たちとの戦いを強いられる。血で血を洗う戦いを、加藤は嫌悪するが、玄野は、戦いを通じて明らかになる自分の秘められた力に自分の存在を見出す。
と、こんな感じ。そうそう、異星人との戦い、なんだよね。これこそ後篇を観ないと(あるいは原作を読まないと)判らないことだけど、この異星人が本当に悪いヤツなのかさえ、判らない、というか、ガンツに命じられて闘わされているだけだから。
とはいうものの、闘わなければ殺されてしまうから。いや、死んでるんだけど、闘いぶりで採点され、100点になったら生き返るチャンスをガンツから与えられているからさ。
でも、これって……その条件さえなければ、ていうか、条件があるからふと見過ごしそうだけど、桃太郎の鬼退治、だよなあ。鬼ケ島まで乗り込んでまで、鬼を退治する桃太郎。鬼は責め込んできた訳でもなく、鬼が島で鬼だけで平和に暮らしていたのに、って。
これまた後篇を待たなければ判らないことなんだけど、そもそも玄野と加藤が“死んだ”場面、線路に落ちた酔っ払いを助けた加藤を玄野が引っ張り上げようとした時、明らかに加藤が玄野を引きずり下ろしたように見えたんだよね。
力の作用がさ、どうにもそう見えて仕方なくて。単なる錯覚だったのかもしれないけど、観ている間中、気になって仕方なかった。
玄野は就活中とはいえ、基本的にノンキな大学生だが、加藤は幼い弟を守るために飲んだくれの父親をぶっ殺して少年院に入った過去をもち、今は清掃の仕事をしながら、その弟と細々と暮らしている。
玄野の一人暮らしの部屋や、加藤の記憶をたどって小学校の卒業アルバムを探しに戻る実家の様子から見ても、二人の育った環境には雲泥の差がある。
加藤は最初から最後まで玄野のことを、小学生の頃自分を救ってくれたヒーローだと崇めているけれど、加藤と再会してからの玄野の態度から見ても、この環境の違いから、玄野が明らかに加藤を下に見ているのがミエミエなのが痛々しい。
ガンツの元で出会った巨乳美少女、岸本が、加藤が少年院に入った事実を玄野が知ったとたん、そういやああいつの父親は酒飲みで……と、いかにもさもありなんと語り出したのにあからさまに嫌悪感を示したのが、凄く象徴的なんだよね。玄野がイソイソとコンドームを用意していたのにムダになったのが、また(笑)。
そういう意味でいえば、加藤は聖人すぎるのかもしれないなあ、と思う。ガンツの元に集められた皆が生き残れるように一致団結を図る彼に、お前が弟の元に戻りたいだけだろ、偽善者、と玄野から言われて、そうかもしれない、と苦悩するあたり、ほんっと、純粋すぎるし。
しかも前篇の最後に本当に死んでしまうあたりも、自分に思いを寄せる岸本や、何より自分のヒーローの玄野を助けるためだったんだからさ。
でもまあ……予告編で彼、ピンピンして歩いてるし、何より玄野と対決するらしいしさあ、ホントこのあたり、前篇だけ観ての感想が言い辛いったらありゃしなくてさ(爆)。
でも、そう、聖人過ぎるからこそ、不自然なほどだからこそ、後篇が待たれるのか。ううう、なら、私はやっぱり観るのか(爆)。
いや、実際ね、この二人、二役、逆だったらどうだろうかと、思った。少なくとも前篇だけで言えば、逆の方が面白いような気がした。
いや……勿論後篇があって、全てが完結した上でのキャスティングなのだろうから、そんなことを言ったって何にもならないんだけど、ただ、複雑さや暗さの深度で言えば、松ケンの方が深い気がしたからさ。
そりゃあ、二宮君もどちらかといえばネガの方の人だし(嵐だけど(爆))、そういう点、凄く上手いっていうのも判ってはいるけど……でも、彼が正義の味方に目覚めた後ろに見え隠れする傲慢さっていうのが、正直ちょっと物足りない感じもし、これを松ケンで観たかった気もしたから……。
前篇ではとにかく、存在感がないとばかり言われていたトモロヲさんが、後篇で活躍するのかも気になるから、やっぱり後篇も観ちゃうかもしれないなあ……。
トモロヲさん、確かに最初にガンツの元に、一室に集められた時には、しばらく彼の存在に気付かなくて、あれ?ひょっとしてトモロヲさん、いる?と思ったのはかなり後になってからで……というのも、まあ、最初に集められたメンツは、最初のミッションで命を落とす、つまり脇役さんたちが数多くいたからさ。
そう、そうして“ミッション”を思い返してみると、そもそも原作者が創作の最初からイメージとして掲げていた「夜にみんなで集まって殺しに行く」ていうのが、それこそこれこそが、映像化において魅力的な部分じゃないかと思い、実際、とても印象的である。
そうなの、ガンツのメタリックな形状や、徐々に身体が溶けていくように空間移動する描写、異星人の造形やありえないアクションといった、いかにもなCGなんてのは、加速度的に進歩したCGの世界を、リアルタイムで見続けている世代にとって、そんなに驚くべきことじゃないんだもの。
そりゃあ、原作が発表された当時は、とても映像化は出来ないと思われていたのかもしれないが、幸か不幸か、時代は進歩しているワケで……。
だからね、本当に、至極単純な、真夜中の、人っ子一人いない街での殺戮、という、現実の中のささやかな非現実といった風味こそが、映像化の醍醐味だと、思うんだよなあ。
そこは普通の街、実際にある街、現実世界に戻された玄野が、あれは本当の出来事だったのかと、覚えていた住所に行ってみる場面もある程の、普通の街。
しかしそこで、“くちい”(もちろん、くさい、の誤字)ねぎ星人だの、“さわやかな”田中星人(モデルは田中星児なんだ……)だのといった奇妙な異星人たちと、身体がグシャグシャにぶっ潰されるような血なまぐさいったらありゃしない殺戮を繰り広げること事態、非現実的極まりないんだけれど、でも実はリアルに非現実的なのは、いくら真夜中とはいえ、郊外とはいえ、東京であり、いや、東京じゃなくても、これほどまでに人っ子一人歩いてなくて、コンクリがどっしゃんどっしゃん破壊されるようなバトルを繰り広げても、誰一人、姿を表わさないことなのだ。
まあ、こういう設定なら、時間が止まってるとかなんとか、そういうことっぽいよな、とも思うが、でもやっぱりそれが不気味で、それが魅力で、それこそが、映像化の意味があったんだろうと思う、のだよな。
私は、パラレルワールドってのが大好きだから、もうこういうのを見ると、即座にパラレルワールド!と思っちゃう。まあ違うんだろうけど(爆)。
CGをやたら否定的に言っちゃったけど(爆)、妙に気に入ったのは、クライマックスの巨大大仏。まあ、言ってみれば、それまでの対決相手は予想の範囲内を越えなかったっていうか。
金剛力士像が動き出すのなんて、なんかジュラシックパークみたい(と思う方がおかしいな……)などと感心して見ていたり、千手観音が、その千の手に武器を持って振り回す、悟りの無表情が変わらないままなのが、なんかセクシーかも、などと思ったりしていたのだが……。
その千手観音の手の中に守られていた小さな仏像がどんどんどんどん巨大化し、最大の敵となる訳なんだよね。
だけどね、その仏像さんが……やけに人間的な表情をするんだよな。最後、やられた時なんか、やられたー!!!みたいな。あの、絶対に動かしてほしくない立てた手だって、欲望のままに動かすし(爆)。
ちょっと、笑ってしまった。笑ってしまったのが、正解だったのかどうかは……うーん、難しいな。意外にシリアスだったのかも……。
玄野が就活マニュアル本から目を上げて気をとられた、駅のホームのポスター、セミヌードの伊藤歩は、その後に全裸で一室に現われた岸本につながる意味もあったかもしれないけど、ここだけでは終わらない、よね?
それだけじゃ、伊藤歩はもったいなさすぎだろ!それに、かなり本気撮りのポスターだったし……。
何より、予告編でいっちゃんに出てきて、うわあ、彼が出るなら観るしかないのかよ!とガックリ?きてしまった、山田孝之。うーむ、うーむ、うーむ……やはり、前篇は前座だった気がしてならない……。しかし前篇も長いと思ったのに、後篇は更に長くて160分以上!キツいなあ……。★★★☆☆
由美香さんの死後は、彼女を敬愛する松江監督の「あんにょん由美香」などもあって、ゆるゆるとその収束がなされた気分もしていたけれど、それじゃやっぱり、収まらなかった、と思ったのは、本作を見てしまえばそう思う。
私のような、彼女を知っていることで誇らしく思う向きもあるから、知っている人は知っている女優、みたいなことでは、終わってほしくなかった気持ちはあった。
平野監督が語る彼女の映画は、そういう意味ではまさにうってつけの登場だった。だからこそ、壮絶になることは予測したし、覚悟もしていた筈だった。
でも、その予測を大きく超えたのは、やはりあの要素だった。まさかのこの作品の切り札。切り札などと言ってはいけないことは判っていてもそう言わずにはいられない切り札。
劇場を後にして、凄まじい暴風雨に吹かれながら、それだけではなく身が震えた。穏やかな天候の日じゃなくて良かったと思った。こんな血の出るような映画を、穏やかな天候の日に観てしまったら、どうしていいか判らなくなってしまう。
あの要素。
私、由美香さんの死を発見した“仕事の関係者”が平野監督だなんて知らなかった。まさかだった。
私が知らなかっただけだろうか……いや、公表はされてなかったと思う。訃報を知らせる記事では、仕事に来ない彼女を心配して母親と共にマンションを訪ねた仕事の関係者、としか書かれてなかった。それが、まさかまさか、平野監督だったなんて……。
前年、由美香さんがピンク女優賞を受賞した授賞式、この日だけたまたま行けなくて、その後由美香さんは死んでしまい、翌年、特別賞を受けた由美香さん、そのママが壇上に立った。
どうしてどうしてと吠えるように娘の死を悲しんだママに胸がつまった。くしくも由美香さん特集号になってしまったピンク冊子、PGに、当然寄稿してしかるべし平野監督の言葉がなかったことに、その時になぜ気づかなかったのか。
平野監督が、由美香さんの変わり果てた姿を見つけた。連絡して合鍵を持ってきたのはママだった。部屋の中ではキャンキャンと犬が吠えている。怖くて部屋に入れないというママの代わりに平野監督が部屋に入った。そして……。
平野監督の撮影スタイル、そしてこの時にもAV史ドキュメンタリーを作るという経過での由美香さんとの仕事だったから、ずっとカメラを回し続けていた。玄関に置かれたままのビデオが、その様をずっと記録し続けていた。
どうして。せっかく幸せになりかけていたのに。幸せになる筈だったのに。何があったんだよ。どうしてママに言わなかった。いつだって助けに行ったのに。いつだって助けに行ったじゃないか。どうして、どうして、どうして……。
こうやって文字に起こすと、そんなドラマや映画の場面はいくらだって思いつくぐらい、ありがちな言葉なのかもしれない。こうして文字に起こしてみるとそう思う。
でも、役者は演じられない。こんな場面を演じた記憶のある役者は、打ちのめされるだろうと思う。
そういう意味でも、本作は残酷なほど映画として、あえて言ってしまえばエンタメとしても完璧なのだ……。いや、それはやはり言ってはいけないのか……。
ていうか、こんな場面の“本物”を見るだなんて、そんな“機会”はありえなかった。どんなにまことしやかにスナッフフィルムなんて惹句が語られても、所詮はつくりごと。
こんな映像は、ありうべくもない、あっても世の中に出回るべきではない、というのが当然と言えば当然の論調。
テロ組織の殺人映像がネットで出回ることがあっても、キワモノとして抹殺されるのも当然だった。人が本当にそこに死んでいる映像だなんて。ママがその後、平野監督に疑惑を抱き、この映像が当然封印され、平野監督が監督として“死んだ”のは無理もない。その5年間。
この作品は当然、この映像、この要素が切り札になっている作品。でもそれは観客にドギモを抜かせるという、切り札的要素のみならない。それどころか、この映画の本質に見事に波及している。
愛。使い古された言葉。でも愛。私は初めて本当の愛を見たと思った。
ママと平野監督が育んだ、痛みと悲しみの愛は、悲しく痛いけれども、確かに本物の愛だった。
そしてこの作品自体が、平野監督の由美香さんへの思いに貫かれているとしても、不思議なことに、家族とその愛という着地点に落ち着いている。それは他人である筈のママと平野監督の間でさえ、そう。
この作品は、平野監督の最高傑作となるだろうと思う。皮肉なことだけど、彼はそれを手にした。
「由美香」でいわゆる一般の映画ファンにも認知された傑作を作った彼が、常に由美香さんの存在なくしてはいられず、彼女の死によって5年間の監督としての死をも経験しながら、彼女の死によって最高傑作を作り上げることになったとは、皮肉なのだろうか。
いや、やはりそれも運命なのだ。あの場にカメラがあったこと。壮絶なあの映像を封印され、ママが使っていいよと言ったこと。そこまでに勝ち取った信頼と愛。そのすべてが。
でもそれでも。
由美香さん、あなたはなぜ死んでしまったの?
……という、要素だけでは無論、ない。ていうかこんな衝撃の“要素”から着地点に行くだなんて予想もしていないから、前半は割とノンビリと見ていた。
あの傑作、「由美香」をなぞっていく展開は、由美香さんを知らなかったり「由美香」を観ていない観客にとってどうなんだろうというつまらない心配なぞもした。
だって本作は六本木のシネコンなんて場所にかかってて、呼び文句は“庵野秀明実写初プロデュース作品”
音楽と主題歌に矢野顕子まで持ってきて、やけに商品パッケージが固められている気がしていた。大丈夫なの、と。
こんなことを言ってしまったら怒られるかもしれないけど、由美香さん、そして平野監督もいわばアンダーグラウンドな存在。由美香さんが“AV女優”“アダルト女優”と説明されることで、興味本位な観客層になってしまうことへの危惧もあった。
なんて、ね。私だってちゃんと彼女の軌跡を辿っている訳じゃない。ちょいちょい見たことがあるだけで、単なるサブカルつまみと言われても仕方ないかもしれない。
でも由美香さんはそんな観客に橋渡しする存在でもあった。気負いがなく、フレキシブルで、それこそ女優賞をとった「たまもの」で、一般的評価も得て本格的に進出してくるかという矢先だったけれども、本人はそんなこともきっと考えてなくて、相変わらず好奇心と、人と人との信頼の上で仕事をこなしているんだろうと思った。
年を経るごとに可愛らしさからきっぷのいい、イイ女に変貌していく由美香さんは本当にカッコ良くて、憧れだった。
……どうも、脱線してしまう。由美香さんへの思いを語ってたらキリがない。本作のことを書かなければ。
そう、前半は、あの傑作「由美香」を辿っていく。エンタテインメントとして非常に優れていて、何度も大笑いしたあの「由美香」が、ひどくしっとりと、由美香さんとの愛と葛藤の日々を綴るという趣になっていることに驚いた。
映画で使っている部分も、使っていない部分もある。映画では笑いのツッコミを入れている場面も、ただ由美香さんに対する追慕の想いで見詰めている。
平野監督には奥さんがいたし、しかもその奥さんとはラブラブだし、この映画の後に二人は別れてしまうんだけれど、平野監督にとっては由美香さんは永遠の恋人という存在だったんだと思う。
で、由美香さんがどうかというと、“過去の男”。そういう表現はそこここで聞いた覚えがあったし、“長続きしない”ことがナヤミである恋多き女性は、最終目的である“平和で穏やかな家庭を築く”ためには、不倫である平野監督とはそりゃあ長続きする訳がなかった。
ただ、彼女が凄いのは、素晴らしいのは、その後、その“過去の男”たちと深い信頼関係を築いていることで、ここで平野監督とのそれがつぶさに描かれているけど、彼だけじゃなく、もう一人大きく取り上げられているカンパニー松尾氏も、彼女の棺を担いだ男たちも、恐らく皆そうだったろうと思う。
ほら、よく言われるじゃない。別れた男(女)と連絡を取り合い続けるなんて言語道断、思い出の品とか写真とか、とっとくなんてありえないとかさ。
まあ由美香さんは仕事場で関係が続くというのもあったとは思うけど、でもさらりとこう言ったのがすんごいかっこよくて、感動的だったのだ。
平野さんには恋愛のこととか凄く相談に乗ってもらってる。かつて愛し合ったし、信頼できる相手。過去の男ってありがたいよね、と。
由美香さんの口から聞くと、これが普遍的な価値観と思えるから不思議、というか、ホントこれは理想じゃないかなあ……。
でもある意味、だからこそ彼女を愛した男たちは、特に平野監督は彼女の死からなかなか立ち直れなかったのかもしれないけど、でも立ち直れないことがネガティブともこうなると思えないんだよね。
その立ち直れないことも、彼女が彼らに与えた愛の試練であり、特に平野監督に関しては本当に……運命的とも言える試練だったのだ。
前半の「由美香」のくだりが終わると、20代の愛らしい由美香さんから、平野監督との恋愛関係が終わって、由美香さんを引きずりまくる平野監督を尻目にどんどん仕事をこなし、30代のイイ女になった由美香さんが現われる。
実際はその途上も見かけているこっちとしても、こんな風に描かれると、そのさっとうとした変貌に驚かずにはいられない。
あの「由美香」のことを、私の数あるネタ帳の中で最高のネタと笑い飛ばす由美香さんはとても素敵で、その後、旅に魅了され、由美香さんを引きずりまくって、相棒に女性監督を選び、それに失敗して今度は一人で冬の北海道に旅立った“自転車三部作”を作り上げた平野監督との男と女の違いを感じたりするんである。
そういやあ私はね、平野監督の初見はその三部作目の「白 THE WHITE」だったのよ。今から思えばなんと無謀なと思うが、そうした経過を知らずとも、ものすごいストイックで圧倒された印象が今でもありありと浮かぶ。
二作目の「流れ者図鑑」は観てないんだけど、その相棒の女性監督にモザイクがかけられていることにかなりのショックを受ける。だってそれって、彼女が今その過去を抹殺したいと思ってるってことやんか……。
平野監督の由美香さんへの思いをこうして見てしまうとそれも致し方ないような気はするけど、まあ実際はどういう理由だったのかは……。
でもその「白 THE WHITE」でのハニー(奥さん)への信頼関係が既に冒頭で示されていたから、それを見ると由美香さんが「由美香」後に彼と早々に別れたことはむべなるかなというか。
だって由美香さんはずっと、幸せな結婚が夢だったんだもの。平野監督との恋愛関係の時も、奥さんから奪おうとまではしなかったのは、彼が子供が嫌いで、奥さんとの間でも作ろうとしていなかったからだった。
結婚して、子供を作る。本作でもさらりと語られる、決して幸福とは言えなかった家庭の事情。ママは二度結婚に失敗し、タネ違いの弟がいる。
一度父親に引き取られたものの父親の再婚等々色々あって飛び出し、ヤクザとのつながりもあり、処女を「50万で売るつもりが騙されて20万」で捨て、おミズをしていた時に得たアダルトな仕事からつながっていく伝説の女優への道。
まるで見た目男性のようなママは、「由美香」でも強烈なインパクトを与えている。厳しく、マジメなママ。
こんな複雑な家庭環境とアダルト女優という仕事は、長らく由美香さんとママとの間で溝を作っていたけれど、「由美香」の時点で信頼関係を取り戻している。
その母と娘の絆は、娘が天国に旅立ってしまった時点、そしてその旅立った経過を記録してしまった本作においても濃厚に描かれていて、ただただ、愛を、愛とはこれだということを、感じずにはいられないのだ。
愛してる。そう電話で言い合っていた由美香とママ。パパみたいなママ。
人気ラーメン店を経営する男まさりのママは、キュートな由美香さんとは正反対に見えた。でも先述したように30代に入ってカッコイイ女に変貌した由美香さんを見ると、実はその可愛い容貌に隠されていただけで、由美香さんも最初から、ママゆずりのカッコよさがあったのだと気づいた。
北海道までの自転車走破の旅を、恋人である平野監督への愛ではなく、「面白そうだから」という興味、何より仕事としての興味として挑戦した由美香さん。
AV作品のカテゴリで作られたとは思えない傑作を生み出したのは、彼女のこの気持ちひとつだった。
プライベートも撮っていい、作品が面白くなるならと言う由美香さんのことを、恋人時代には、あるいは彼女が死ぬまで、平野監督はそのプロ意識を判っていなかったのかもしれない。だって彼は由美香さんがただただ好きだったのだもの。
いや、それも作品に騙されているのかもしれない。クリエイターとしての平野監督に騙されているのかもしれない。
だって「由美香」から始まる自転車三部作、そして本作で、平野監督は彼自身を確立させたんだもの。
……でも、そんな風に言うのはやはり残酷かな。彼は長らく、肝心なところでカメラを回すことが出来なかったのだから。
そう、“作品が面白くなるならプライベートを撮ってもいい”と由美香さんに言われて、ラブラブな場面は赤裸々に撮ったりしていたのに、ケンカシーンは撮れなかったりして、それを由美香さんから怒られたりしていた。
でもさ、そりゃあ、一般的な感覚、素人の感覚としては、ケンカシーンなんて撮れないよね。何撮ってんの、て激怒されちゃうもん。
そうした経験が平野監督には当然あって、躊躇していたと言うと、由美香さんはさらりと言う。なんで撮らないの、撮っていいよと。
これは「由美香」には使われていなかったと思うんだけど、旅が終わってフェリーで戻る時、二人がケンカして、それでも必死にカメラを回し続ける平野監督に、メイクする手を休めずにつっけんどんに応じる由美香さんの頬を平野監督が叩いちゃうのね。
それはしっかとカメラに収められている。先に、旅を終えた由美香さんに他の関係者がそのことを聞くシーンがあってね。
ケンカしちゃったんだと。でもそれは映像に残ってるよと、彼女が嬉しそうに言うのが凄く印象的でね。ああ、やっぱりプロだなあと。
でも「由美香」自体にそれが収められていないのが、やっぱりその時点では、平野監督は彼女ほどのプロ意識はなかったのかな、それだけ由美香さんを私的に(というのもヘンな言い方だけど)好きだったのかな、と思うのだ。
だから……あの衝撃の“要素”と、こんなシーンを足された本作が、平野監督の集大成であり最高傑作になったのが、それも由美香さんの死が運命的であった、なんて言ってしまうのはいけないけど、イヤだけど、辛いけど、でも……そう思わずにはいられない。
いつでもプライベートでもケンカしててもカメラ回していいよ、ていうか、プロなら、そうすべきだと由美香さんは言ってた。
その時点では平野監督はあくまでAV監督としての立ち位置だったけど、彼がその後歩んでいくドキュメンタリストとしての道(でも今の時点ではすべてが由美香さん絡みだが……)を思えば、これ以上ないアドヴァイスであり、そして、“あの要素”が撮られた経緯を思うと、運命的としか思えないではないか。
そんなこと、簡単には言いたくない。だってそれじゃ、由美香さんの不慮の死を肯定してしまうことになるから……それでも、それでも、そう思わずにはいられない。
そして、娘の不慮の死を受け入れられず(当然だよね……)その場面を撮られていたことに疑惑を抱き(そりゃ当然かも……)映像を封印させ、平野監督と関係断絶……かと思いきや、ママはその後、監督に電話をしては愚痴をし、それを監督が聞き続け、その最後にママは必ずありがとね、と言った。
それは、男関係に悩んでいた由美香さんがいつもいつも平野監督に相談のメールを送り、Re.がいくつつくのかってぐらいのやりとりをした後、残した言葉と一緒だった。
そのメールの画面、何より「かつて愛し合ったから」信頼出来ると言った由美香さんの言葉とその表情。
あの辛い5年間をママと共有しあった平野監督の5年間が、そのままお互い同じ愛しき相手につながることへの、大きな大きな愛に、打たれずにはいられなかった。
ママが、5年を経て、あの辛い辛い映像を「使っていいよ」と言ったこと。
あの映像は確かに扇情的だと思う。切り札と言ってしまったほどに。でもそれが、こんなにも大きな愛に着地点を生み出すなんて、思いもしなかった。
ママを訪ねると白い犬が迎えるのね。それはあの由美香さんの愛犬。あの辛い辛い映像にも映し出される、ドアを開けると一目散に飛び出してくるあの白くて可愛い犬。
由美香さんの愛犬があの辛い二日間ずっとそばにいたこと、ドアの前まで来た平野監督に知らせようと吠えていたこと、そして現在の時間軸で寄り添うようにママの元にいること……。
そりゃあね、平野監督はそれだけじゃすまない。もう冒頭で示されているんだけれど、彼自身の中で消化、昇華かな、仕切れないものがありすぎて。
由美香さんとの出発点である自転車に乗るべく、ていうのが示されるんだけど、ぎっくり腰なの、いきなり。
それでも彼は乗ろうとする。乗らなきゃと思う。由美香さんが亡くなった時、彼女の“一番弟子”の女の子が、「由美香」で由美香さんが乗っていた自転車を直して、それに乗って通夜に行った。
その時、平野監督が由美香さんの第一発見者であったことを知った。由美香号を直したんですよ、と言っても、彼は当然まだまだまだ……その好意を受け止め切れなかった。
5年が経って、ママからの承諾を得て、作品を作り上げる、それに際して彼の中で整理しきれない思いを乗せて、彼はぎっくり腰を押して自転車に乗る。
葬儀でも涙が出なかった自分。ようやく気づいた。自分は由美香とお別れしたくなかったんだと。初めて号泣し、そしてそれを……カメラに収めた。
由美香さんとケンカして、泣きながら謝ったことを、カメラに収められなかったことを、彼女から怒られていた。平野さんの泣き顔、見たかったナとカメラに向かって言う時は、由美香さんは女優としてのキュートな顔、プロだった。
そう、今までだったら、絶対に出来なかったこと。由美香さんが死ななければ、出来なかったこと……。
平野監督が何度、何度考えても、ラストはこれしか思い浮かばなかったという、カメラを、つまり彼を眠そうに、幸せそうに見つめて、そっと目を閉じる由美香さんは、でもやっぱり過去だし、しかも幼さの残る20代の、彼と恋愛関係にあった彼女だったのだ。
ラストは、本当のラストは、平野監督が由美香さんを振り切る。
人生の、クリエイターとしての曲がり角にもいつも由美香さんがいた。そういう運命なんだと、由美香はあなたに貼り付いているんだねとママは言ってくれた。
でも本当は、本当は……「俺が由美香に貼り付いていたんだ」行ってしまえ!行ってしまえ!!ぎっくり腰を抱えて街中を自転車で疾走しながら、彼は叫んだ。
叫んで、叫んで、叫んで、獣のように叫んで……。そしてタイトル「監督失格」由美香さんの名前がトップに出るラストクレジット。
由美香さんを知らない観客にとってはどうなんだろう、などと思っていた最初の気持ちは消し飛んでいた。
これは大きな大きな愛の、恋人への、家族への、家族じゃなくても家族以上の、関わる人たちへの、人生で出会う人たちへの、大きな愛の物語。
それを由美香さんがくれた。その使者に選ばれたのが、平野監督だったのだと思う。
彼が今後クリエイターとしてどう進んでいくのか、天国の由美香さんと共に、見守りたいと思う。★★★★★
あの未曾有の災害、しかも目に見えない放射能の脅威の中に足を踏み入れた本作は、テレビのニュースが扇情的に伝える痛々しい被災地の様子や、疲弊した被災者の声に、なんということでしょう、みたいに嘆いてみせる繰り返しにウンザリしていたところに、彼らのひとつの日常をそんな演出なしに映し出してみせたことが、大きな大きな収穫であっただろうと思う。
フラガールという、映画として大ヒットした要素がドキュメンタリーを作る上で商業的なカギにもなっただろうし、見た目も華やかな彼女たちが、こんな辛苦にあえいでいるというのは、それこそ悪い言い方だけれど、確かに映画的に客を呼ぶだろう。
だからこそ、足を踏み入れた日常の中の、フラガールではない人たちの声に監督がよろめくのが、そうだろうと思うし、生々しいし、確かにこれが、あるひとつの、被災地の、日常であると思うんである。
やっぱりさ、津波でさらわれた土地なんかを映し出せば、言っちゃえば画になっちゃうんだよね。だからテレビのニュースはそれを映し出すことに腐心する。
実はいわきだって同じく甚大な津波の影響にさらされて、カメラが踏み込めば、同じように全部津波が街をさらっていってしまった様子が映し出されるんだけど、原発があるから、マスコミはやってこない。わざわざ放射能がコワイところに行かなくても津波の被災地は映せるから。
そうなると、福島のイメージはどんどん、見えない放射能の悪魔的イメージで膨れ上がっていってしまって、実は、地震が起きた当時よりも、事態は深刻になっているような気がしてならないんだよね……。
映し出されない被災地、福島。いつもカメラは遠くから原発の施設を映し出すだけ。
私ね、最近某役者さんが声高に反原発を叫んだりするのも、正直、凄く、イヤなのだ。そういう著名人が半ばヒステリックに言えば言うほど、福島は汚れた土地だと喧伝されているような気がして……。
彼は真摯に原発の怖さを言ってくれているんだろうけれど、原発を、まあ今から思えば洗脳のように教育された、子供時代福島で過ごした当方としては、なんかどうしていいか、判らなくなってしまう。
子供時代、原発の安全性なんていうのは、もう前提だよって感じで、考えもしなかった。そうじゃなくて、福島の原発が東京の電気を支えているってことが、誇りのように教え込まれた。地元産業の大きな核なのだと。
劇中、双葉町出身で原発に程近いところに住んでいたフラガールのサブリーダーが、子供の頃はよく遊びに行ってエンピツなんかもらっていた、とお姉さんと笑いながら話しているのを見て、そうそう、そういう感覚だったんだよね、と思った。
震災が起きてね、ちょっと原発のことを言ったら、なんか矢のように攻撃されて、凄いショックだったのだ。確かに私は、原発の怖さを判ってなかったのだろう。洗脳されていたのだろう。でもどこかで、原発は怖いという意識と、ふるさとのひとつ、福島の原発は分けて考えていた。つまりそれが洗脳ということだったのだろうけれど……。
でも、それはあの土地に住んだことがなければ判らないことだし、それは他の、原発がある土地に住む人たちにも言えることだと思うし……。
なんかね、福島に住んでること、原発の恩恵を受けてきたことを非難されている感じがして、それが他の被災地と違う気がして、なんかとても、戸惑いと居心地の悪さを感じてるのだ……。
今は凄く考えるし、反省もしてる。考えなしだったと思う。それは本当なのだけれど。
かなり作品から脱線したけど……すみません。子供の頃の数年住んだことがあるだけで今は離れているのに。でも両親は今福島に根を下ろしたもんで、やはり人ごとじゃないんだもの。
お子さんがいるお母さんは子供を連れて西に逃げるとか、もはや福島の食料品(どころか東日本とまで言う人もいる)は食べれないとか、生産すべきじゃないとか、やっぱりやっぱり、人ごとなんだなあ、と思う。震災が過ぎ去れば、放射能が怖ければ、そうなんだなあ、と思う。
それこそ福島以外、東日本以外に住んでる人にとっては、そこで子供を育てるなんてもってのほか、とか思う親御さんも多いんだろう。それを非難することは出来ないけど、福島がふるさとで、そこで生活し、子育てをする人たちを非難する方向には言ってほしくない。今はそれが凄く怖い。
本作が、ここで子供を育てていくファイアーダンサーの男性のシーンで終わったのが、そんな私のもやもやを代弁してくれた気がして、ぐっと来てしまった。
……スイマセン、なんか超絶逸脱してしまった。自分の気持ちを言わずにいられなかったから……。作品に、戻ります。
そう、ちょっと、驚いたのね。映画作品としては、一番早く乗り込んだんじゃないかと思う。そしてやはり、映画作品であるというのは意味がある。
テレビのドキュメンタリーも優れたものはいっぱいあるけど、ソフトとして残っていく可能性があるのはやっぱりやっぱり、映画作品だから……。
どの時点で企画が持ち上がったのか、監督さんがフラガールに密着した実績があったかららしいんだけど。でも本作は本当に、大きな意味合いがあったと思う。
フラガールの中でも原発に程近い双葉町に住むサブリーダーの大森さんを主軸に、物語が展開していく。
勿論、スパリゾートハワイアンズが受けた甚大な被害を前に呆然とするスタッフたち、再開までに避難所として機能し、原発近くの住人を心を込めて迎え入れる様子(生活のための機能がないから大変、というのはこういう作品でしか知ることが出来ない)。
そして何より、私たちも目にした、フラガールの全国キャラバンは、スパリゾートハワイアンズが休業していて踊る場所がないという物理的な理由は勿論あるけれども、こんなことがあってもフラガールであることをやめない、戻ってくるんだという彼女達の思いを感じて涙が止まらないし、一見、この物語の一番の柱のようにも見えるんだけど……。
外側にいる私たちにとっては、そこからスパリゾートハワイアンズの再開に向けての流れが主軸であることの方がすんなりとした物語なんだけど、やっぱりそうじゃないんだよね。
そう、主軸は一人のフラガール、大森さんである。それも、終わってみればそうだったなという感じもし、先述したような、どうしても、こんな現実の中じゃ、いろんな人の事情にゆらめいてしまう監督さんの視点の定まらなさはあるんだけど、でもやっぱり、大森さんなんである。
カメラは二度、防護服を着て家に必要なものを取りにいく場面に同行する。防護服がワークマンで買い揃えた自前だとか、テレビではめちゃめちゃ完全防備だけど意外にマスク以外の顔の他の部分は結構さらしているのねとか、なんかやっぱり、テレビの報道が過剰な緊迫感を伝えてくるのとは違う、まあいい意味でも悪い意味でも“日常”を知って結構驚く部分も多いんである。
人気のまったくない、閑散どころか音のまったくない街に、やせこけた黒牛……までならそれこそテレビでも見たけど、ダチョウがゆらゆらと歩いているのにはドギモを抜かれる。
だってあまりにも非日常である。危ないから、とカメラが緊張する。確かにあの大きさなら相当危険。でもそれよりも、彼(?彼女?)がゆらゆらとこちらに向かってくるのが、何か本当に人恋しい感じで、それがにじみ出ていて。彼の先行きを考えると……でも助けてあげることも出来なくて。
大森さんが家に戻って取ってくるのが、貴重品とかじゃなくて、アルバムとか、親友にもらったぬいぐるみとかなのがね……。
それこそドラマみたいだけど、でもぬいぐるみに関しては、「今の私にとってはこれが必用なんだと思う」と言う台詞が、役者が言うのとではやっぱり、違うからさ……。
しかも大森さん、めっちゃ笑顔でそれを言うんだもん。笑顔過ぎて、その三日月のような瞳から涙がこぼれているように見えて、思わずスクリーンを覗き込んでしまった。
彼女に関しては、まだあるのだ。まだどころか、特に私にとってはこのシークエンスがメインと言っていいほど心に染みる。
ワンちゃんと猫ちゃんを飼っていた彼女、震災の時行方不明になってしまった彼らは、無事ボランティア団体によって保護された。
メインに据えられるのはワンちゃんのチョコで、彼?が保護されているセンターにヒマを見つけては通い、散歩するのが大森さんの重要な癒しのひと時である。
私にとってはやはり猫ちゃんの方が気になってしまって、ことに三匹のうちの一匹、片方の猫のママが劇中まだ行方不明で、後半になって保護されたという展開に、どーんとなってしまった。
だってだってだって、あれから一体何ヶ月経ってるのよ。そんなにも行方不明で、大森さん自体ももう半ば諦めていると言って、それでも、見つかったのだ。一体、どうやって?
いや、人懐こい犬と違って猫って、危機からとにかく去ろう、去ろうとするじゃない。もう山奥深く逃げ込んでしまって、見つからないイメージがあったから……。
ケージの中の猫ちゃんをなでながら「もっと灰色だったんだけど、なんか白っぽくなっちゃった」と大森さん、私もう、のえち(私の愛猫)を思ってたまらんかったよ……。
大森さん一家は庭付きの一軒家を借りて、どうやらチョコは迎え入れることが出来そうだけど、猫ちゃんたちはどうだろうか……。
うう、ついつい猫たちに気を取られてしまった。なんといってもクライマックスは、スパリゾートハワイアンズの再開である。
本作の製作段階ではまだ一部オープン、今現在でもまだ全面オープンには至っていないけれど、やはりそれに向けての盛り上がりは、涙なくしては見られない。
ていうか、ね。冒頭でも言ったけれど、監督のよろめきの一要素、フラガールではなく、ファイアーナイフダンサーである男性三人がね、一部オープンの段階でもまだ彼らの演技、火のついたナイフをスリリングにアクロバティックに見せるショーは出来なくてさ、それは消防法とか色々絡んでて、全国キャラバンでも彼らは出番がなくて、掃除だのセッティングだのという裏方に徹してる訳なんだよね。
スパリゾートハワイアンズが一時閉鎖の憂き目にあった時、契約社員は一時解雇せざるを得なくなったけど、れきとした正社員で、フラガールに負けず劣らずの花形である彼らは、出番がないながらも場所を見つけてはトレーニングを続け、屋外でアルミシートの上で寝てこんがり日焼けも怠らない。
特に後者は何かノンビリとした風情も感じられて、ジェイク・シマブクロの穏やかなハワイアンミュージックと、三人仲良く並んで日焼けしている様子が妙にのどかでふと微笑んでしまうんだけど、勿論、彼らにとっては深刻極まりないわけで。
実は監督さんは、撮っているうちに、フラガールよりもファイアーナイフダンサーの彼らにこそシンクロし、彼らを撮りたいという気持ちになったんじゃないかなあ、なんて思っちゃう。
だって彼ら三人、完璧な肉体、お顔もなかなかイケメンで、なんか目が行っちゃうんだもん。いやそれじゃ、監督さんがソッチ系みたいだけどさ(爆)。
でも確かに、映画のヒットで全国的にも有名になったフラガールだけに注目させるにはいかにも勿体無い!と思わせるだけのファイアーナイフダンスのカッコ良さがあるから、それがフラガール以上に封印されている悲哀があるから……。
そして、おお、このイケメン、お子が二人もいて、その幼い息子はお父さんのファイアーナイフダンスを、特撮ヒーローなんかよりも、真似したがる。
そんな、海岸の親子三人水入らずのシーンがラスト。画になるし、先述した、福島は汚れた土地だ、東日本からは離れて子育てするべきだ、なんて哀しすぎる視線を強靭なふるさとへの愛と精神力で迎え撃ってくれて、凄く凄く、……なんて言ったらいいのか。
勿論、まだ何も解決していないし、これから何年も何十年も、……ひょっとしたらもっともっと長い間、解決なんて出来ないことだけれど。
でもね、私、……私はほんの数年いただけの土地で、流浪の民で、どこにも根を張れない寂しさがあったけど、でも今、悔しいし、福島が愛しいと思う。子ども時代の、自分を形成した場所だからなのだろうと思う。
頑張れと言うのもキツイことだと言うけど、福島なら頑張れると思う。穏やかで優しいばかりと思っていたけど、やっぱり東北の粘りのある、意地のあるところだと、今本当に実感している。
フクシマじゃなくて福島として。タイトルは片仮名のフクシマだったけど、それってもう放射能にまみれた言葉になってしまってる気がして、ヤなんだ。負けない福島として。美しい福島として。帰る場所の、福島として。★★★★☆