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夫婦フーフー日記
2015年 95分 日本 カラー
監督:前田弘二 脚本:林民夫 前田弘二
撮影:伊藤寛 音楽:きだしゅんすけ
出演:佐々木蔵之介 永作博美 佐藤仁美 高橋周平 並樹史朗 梅沢昌代 大石吾朗 吉本選江 宇野祥平 小市慢太郎 杉本哲太
で、その、文体が明るい、という、恐らくこれほど映像に転換した時に描き換えが難しい部分を、どうするのか、という部分であったろうと思う。映画の中にも出てくる夫婦漫才のような掛け合いも、ブログの中にはあったのかもしれない。
夫婦でやっていたブログなんだというんだから、夫だけが書いていた映画の設定とは違って、そんな掛け合いがブログの中に展開していたのかもしれない。何度も言うが未読だから憶測にすぎないけど。
確かにブログ、あるいはSNSの魅力というのはそこにあって、日常の会話のノリで活字が書ける、という部分にあると思う。でもそれを実際の夫婦の描写に、役者の芝居に移し込むって、こんなに難しいことなのかと、思った。
正直、過去時間の、恐らく大学生ぐらいの彼らをそのまんま二人にやらせた時点で肌が粟立ってしまった(爆)。
永作氏は見た目は全然違和感ない。佐々木氏はかなり違和感がある。そして見た目に違和感がない永作氏でも、男言葉でズケズケ言う様が、いかにも”男も女もないワイワイやってる仲間たち”の青臭さを感じさせて、そしてそれを、実際は20もサバ読んでる(という訳じゃないけれども)、充分にイイ女になってる永作氏がやっている、ということが、なんかどうしようもなくハズかしくてたまらなくなってしまう。
うーむ、これは私が彼女と近い年だから、勝手に身もだえしてしまうのだろーか。でもこのスタートなもんだから、基本的にはその”男言葉でズケズケ”が変わらない永作氏=ヨメが、なんかいつまでたっても少年のような女の子、なサバ読んでる女、に見えてしまってどうにも居心地が悪い。
幽霊になっても、そしてイイ女の年こいても、青臭かったあの頃と同じようにハンバーガーをウマそうに頬張っているのが、カワイイというより、イタくて見てられない(爆)。
そしてこの設定は、ど、どうなんだろう……。何度も言うようだがブログは未読だから何とも言えんが、”死んだはずのヨメがダンナの前に現れた”っつー、映画化に際して加えられた決定的な設定が、果たしてこのブログの、そもそも映画にしたいと思ったほどの題材を、表現する手段に本当になっていたのか。
いや、ね。予告編を見た時には、その設定こそに面白さを感じたし、掛け合い漫才のような面白さにも相当の期待を抱かせたんであった。
しかししかし、先述した、スタートが刷り込みを感じさせたのかなあ。私はなんか……ダメだった。”掛け合い漫才、面白いでしょ”みたいに感じてしまった(爆)。
”自分たちを俯瞰で見ている感じ”をそのまま、本当にまんまやるための設定、だったのかなあ。幽霊のヨメにかき回されるダンナ、というだけならアメリカンコメディあたりでありそうで、それこそ笑って泣けるドラマになりそうだが……。
ブログを本にするために、二人がまるで時空を駆けるように、エポックメイキングとなる場所、そしてそのエピソードを眺めている。まさに俯瞰、だが、”幽霊になったヨメに翻弄されるダンナ”で笑って泣かしたいのか、そもそもの二人が駆け抜けたドラマ、で笑って泣かしたいのか、判らなくなってくる。
……少なくとも、妙に用意されたボケツッコミの二人の会話は自己満足に近いものを感じて(爆。ゴメン!)笑えなかったし、後半は結局、ヨメのツラい闘病の重さに引きずられて、”笑って”の部分はかき消されてしまった。
そりゃ闘病モノなんだから仕方ない部分はあるとは思うけど、それならそもそも、そうしたあまたのカンドー映画とは一線を画したものを作ろうとした、立ち上がりがムダになってしまう気がする。
それに、ダンナだけに見えるヨメ、という、周囲がキョトンとしてしまう可笑しさが、せいぜい四十九日の場面ぐらいで終わってしまってるしね……。だってこの設定の面白さは、それを突き詰めることが大事なんじゃないの??しかもキョトンだけで終わっちゃって、あいつ、大丈夫か……みたいな、その先の面白さにまでいかない。だったらこの設定は一体なんだったの……。
最終的に”自分が忘れない限り、ヨメは消えない”という、愛は永遠、みたいなことを言いたいがために??まさか!!それじゃ実在のダンナにいらんプレッシャーを与えるだけの気がするが……。
確かに、この言い分にはうなずける部分はある。私がこの場でよく引用する、「トーマの心臓」における名セリフ、人間に訪れる第二の死は、誰からも忘れられた時、という、アレである。
ダンナが忘れない限り、ヨメの第二の死は永遠に訪れない訳だが、それが、幽霊になって現れるという確実な証拠みたいなカタチだというのは、愛のように見えてかなりザンコクな気がする。
劇中、ダンナは義兄である鶴見辰吾に聞く訳。奥さんを忘れなくていいのか、って。彼は、自分の好きなようにすればいい、と彼の背中を押す。この義兄自身、先立たれた奥さんが好きだったカエルの置物に囲まれて、自分でも買い足しして、変わらぬ愛の中生きている。
この義兄はまだいいのさ。カエルの置物が奥さんに成り代わっている時点で昇華されているんだから。でも、ダンナが忘れない限り、ヨメの幽霊がそばに居続けるという含みを持たせたラストは……。ど、どうなんだろう……。ついつい日本人的に、成仏とかいうことを考えちゃう(汗)。
ダンナはそもそも物書きのはしくれで、夢は作家になること。そしてヨメは本が大好きで、ダンナが小説を応募しても応募しても落選するのを友達としてずっとそばで見てきた。とにかく書き続けろ、と背中を押し続けた。
長年の友人関係を経て、夫婦になった二人。あっという間の妊娠と、あっという間のガン発覚。その間に書かれたブログがヨメの死後、書籍化できるかもしれない、という段になって、親戚や友人各位は微妙な反応を示す。
そんなに早く、とヨメの親友は戸惑い、ブログをそのまま続ければいい、とヨメの弟は言う。ヨメは本が好きだったし、ブログではなく紙の本になったら喜んでくれると思う、とダンナは思っていたから、思いがけない周囲の反応に落ち込む。
そんなダンナを幽霊になったヨメは、そんなことで本を出す夢を諦めるのか、と叱り飛ばすんである。
ふと、違和感を感じたのはこの部分ででもある。確かにブログは活字で書かれた媒体には他ならない。そしてカン違いしやすいのもそこにある。
活字だから、劇中の彼が長年の夢として抱えていた書籍につながる、文章である、文学である、と思いがちなんだけど、やっぱり決定的に違う。そりゃ本になるブログはあるけれども、あくまで”本になるブログ”であって、劇中のヨメが愛した本、ではないような気がする。
ああでも……ひょっとしたら、あれが仕掛け、だったのかな。幽霊になったヨメが、ダンナの書いたブログを、ウソばかり書いてる、決定的なところを書いてない、とクサしながらも、でもそのウソを書くことであなたは救われていたんだね。私も救われていたよ、と、言うのだ。
ウソこそ、彼が抱いていた作家、そして本、というワンダーワールドであり、ブログの書籍化ではあるけれど、確かにヨメが愛した本である、という仕掛け、だったのかもしれない。
でも結局、少なくとも劇中ではその夢はとん挫してしまう。私の大好きな小市マン演じる編集長が相変わらず素敵なナイスミドルで、すまなそうにそれを告げるんである。つまりなんなんだ、と思わなくもない(爆)。
映画は映画として独立したものなのだから、ここに原作ブログの話を持ち込むのはお門違いかもしれないけれども、どーしても気になるのはヤハリ、”ウソばかり書いてる”本当にウソだったのだろーか、という部分である。
憶測の話ばかりで申し訳ないけど(だったら読めっつーの)、劇中に出てくるブログの文面は恐らく、実際のブログを反映していると思われる。
特に印象に残るのは、「私の最期の時には、ウソでもいいから、可愛いよ、大好きだよ、って本当に大事なもののように抱きしめてね」というあの台詞が、「こんなこと言ってねーし」と劇中ではヨメにクサされるのだが、原作ブログに実際にあるらしいということを考えると……なんとも気になる。
こんなこと言っちゃうとホントキチクなんだけど、あの「余命1ヶ月の花嫁」があったから、いわゆるメディアに乗っかった部分も似てるしなあ。いや、ブログで自己表現したこのフーフと一緒くたにするのはやはりちょっと違うか……でもそんなこと言っちゃったら、「余命……」の方をクサしてるみたいだし(爆)、難しいな!
つまり私ら無責任な観客はヤハリ、真実の物語かどうか、というのがとても重要な部分なのだ。これまであった病気モノの映画とは違う、笑って泣けるんだ、というコンセプトは結局、作り手側の、他とは違う映画を作るんだというプライドだけで、そんなことは観客にとってはそう重要なものではないのだ。
これが全くのオリジナルであったならば、ひょっとしたらそんなに引っかからなかったのかもしれない、ブログに書かれた言葉がウソなのかどうか、そんなところで引っかかってしまって笑うとか泣ける以前に立ち止ってしまうのは、真実の物語を追い求めてしまうからに他ならない。
死んでしまったヨメは、死んでしまったのだ。幽霊としてよみがえらせた時点で、もう真実は失われてしまう。個人的にはこの一点に尽きる気がしてならない。
この物語が真実であるという魅力が、映画として魅力的な設定である筈のこの一点で、結局は決定的に失われてしまったように思う。
彼らがそこそこ私と同年代のせいかなあ、当時のサブカル(オザケンとか)をアツく語るシーンとか、マジにカユくて仕方ない(爆)。
その価値観の共有で、長年の友人からある一点で一足飛びに結婚になった二人。それはまるで、「恋人たちの予感」のサリーとハリーのようでこれまた同年代のサブカルなもんで、カユさが増すんである(爆爆)。
私たちの年代にとってそれは、一番まぶしく、理想的な関係だった。運命の出会いからの、胸焦がれる大恋愛の果ての結婚、てのをオエッと感じる年代なのだった。
でも逆説的に、そんなラブに憧れている年代でもあることを自覚しているから、この二人がとても素敵な夫婦だと判っていても、なにか懐かしさゆえの面映ゆさを感じてしまうんである。
正直な感想としては、映画化できるネタを探して行き着いて、作ってみたけど……みたいな感じがあった。
だってきっと、形になるものがあったということであって、彼ら以外にもいろんな運命を受け入れている夫婦たちが当然、いるハズである訳なんだもの。そんなこと考えるの、ヤだけどさ。だからこそ、たった一つの珠玉の物語にしてほしかった。
ヨメの最期の言葉(というか、メモ)、「皆に会えてよかった(よかったにバツして)よい。」が実際どおりであるということは確認した。
だってそれが、一番素敵だと思ったから、それだけは確認したかったのだった。
NHKでドキュメンタリードラマになってたって?そっちこそ観てみたいなあ!★☆☆☆☆
そしてぽっきりと折れるように戦争に突入して、風変わりな画家先生といえど、パリ時代の前衛的な洒落っ気は遠く遠くどこかにいった、完全に別人のようなフジタ。
対照という点では見事だけれど、その日本部分はフツーに日本の戦争映画、小栗監督が描く戦争映画、という見え方がしなくもなかった。そうとらえると、前半部分のパリ篇がいささか一生懸命に見える、という気もしてくるんである。
日本人は確かにフジタを知らない。改めて探ってみるとこんなドラマチックな面白い人はいないのに、信じられないぐらい。
それこそ今まで彼を題材にした映像作品が作られなかったことが本当に不思議なぐらい(作られてないよね?少なくともウィキで調べる限り(爆))。その人生をフツーにドラマにしただけで、相当面白い連ドラが作れると思うのに(爆爆)。一年間かけて大河でだってイケるんじゃないの。一応時代モノだから(?)。
そう、なんでこんなにも、こんなに面白い人物に映像クリエイターたちは手を付けなかったんだろう。んでもって小栗監督に手を付けられてしまった(爆)。いやその(爆爆)。
だって私、あんまり小栗監督得意じゃないんだもの……。フジタは確かに画家だから芸術な訳なんだけど、その人生は人間くさすぎるドラマに満ちている。
これは芸術映画、なんだよね。そうするとつまんない気がしたのだ……しかも、パリで時代を謳歌したフジタと、戦争の闇に苦しんだフジタ、という対照にこそ力を注いでいる。
そうなると、その意味合いだけで、ちょっと教育的になるのよ。請われて戦争画を描いたフジタ、それが傑作になっちゃう、そういうところに社会的主張が見え隠れしちゃうのよ。
勿論それはあって当然なんだけれど、後半が日本パートになるだけに、その印象が強くなってしまった気がする。
だってそれこそウィキってみれば、何度も結婚を繰り返し、それも日本人フランス人、不倫に愛人、オイシすぎる要素いっぱいよ。オトモダチだって、モジリアニにピカソだよ。でもそういう、ここでしょ!!というところは小栗先生はあっさりとスルーしちゃうんだよなあ。
ゲージュツカですから、って感じ??まあ、小栗康平が監督すればそうなるだろ……それを期待するだけヤボだろ……とは思うんだけれど、一体だったら小栗監督は、フジタの人間としての何を、活写しようとしたのかなあ??というソボクな疑問がもたげてしまうのである。
彼は絵とパリと女を愛した。ちょっと俗っぽい言い方だけど、そういうことだろうと思う。小栗監督の描写するその“愛した”感じは、絵画だからという訳でもないだろうが、なにか、スケッチ風である。こじゃれたホテルや、バレエのバーのある瀟洒な家や、パリならではのカフェーで、女たちとたわむれる。
絵のモデルとなる女たちは当然躊躇なく脱ぎ捨てる。モデルじゃなくてもバーで話のネタに躊躇なく脱ぎ捨て、おっぱい丸出しにしてダンスしたりする。
……でもそういう、ワクワクするような俗っぽさは、小栗監督!!というゲージュツの中に埋没されてしまうように感じる。オシャレな会話、エネルギッシュなパリジャン、パリジェンヌたち、酒を飲み、踊り出し、……みたいなモデルケースを、日本のゲージュツ監督がやってる、って感じ。
人間が見たいから、さ。俗な興味と思われても、数々の女たちとの修羅場や、画壇との衝突や、生活の困窮や、そんな人間フジタが見たい訳よ。
少なくともパリ篇では、おかっぱでちょび髭で鮮烈な印象の、フジタという時代のスター、としか見えなかった。女たちとの邂逅は織り込まれているものの、私にはキキもユキもフェルナンドもさらさらと流れて行って区別さえよくつかない(爆)。
セックスぐらいがっつりさせてほしかったと思う(爆爆)。そーゆーところが、小栗ゲージュツ監督さんなんだよなあ。
だからきっと、日本篇にこそ力を注いだんじゃないかという気がしてしまう。パリ篇のフジタは、ザ・時代の寵児だった。それでしかなかった。オダジョーのフランス語に感心することしか出来なかった。
日本篇になると、フジタは藤田、になるんだよね。日本人になっちゃう。なっちゃう、ってヘンだけど。でも後に彼がレオナール・フジタというフランス人になってしまうことを考えると、このザ・日本人な描写は、それも意図的だったのかな、という気もする。
でもそれなら、戦後、再びフランスに戻って、フランス人になった、つまり日本を見限った、二度と日本の地は踏まなかったことこそを、描くべきだ、と思ったんだよね。そのことはうっすらと知っていたから、最後までその展開を待ち続けた。なのに、日本篇で終わってしまった。これではまるで、フジタは日本でその生涯を終えたみたいじゃないのお。
いや、ちゃんと映画の最後に彼の手掛けた作品、教会全体に細密に描かれた宗教画がパリの片隅にあって、その中におかっぱちょび髭のフジタ自身がこっそりと紛れ込んでいる、といういわばオチが用意されているのだから、それはそれでOKなのかもしれんが、でもねえ……。
このラストシークエンスだけ、まるでNHKドキュメンタリーの付けたしみたいに感じてしまって、違和感があった。それまでの、小栗印のゲージュツ映画からいきなり乖離したような気がしてしまったのだ。
対照の違和感がありつつも、どちらかというと、私はパリ篇の方が好きだった。パリのショーウインドーに飾られたフジタのマネキン、というのは、むしろこの映画の、象徴化されたフジタを皮肉にもあらわにしている感じがして、なんともいえなかったけれども(爆)。
まだまだ日本という国がザ・異国であった時代の、フジタの扱われ方、あるいは彼自身もそのことをよく判っていて、高下駄の花魁をパーティーでやらせたりとか、大きな招き猫のオブジェとか、面白いんだけど、置くだけでスルーするよねー、みたいな。
まあ仕方ない、フジタも芸術家なら、小栗監督もゲージュツカだから(爆)。そこに設置するだけでOKなのであろう。
日本篇になると、ホントフツーの戦争映画なんだもん(爆)。そしてパリ篇では次々出てきたフジタのラヴァーズも、ここではたった一人だけ。そんで彼女が最後まで連れ添ったとゆーことを言いたいならば、ただ単に日本人メロドラマなだけじゃんと思う(爆)。
それに先述したが、パリ篇のラヴァーズたちは特段にエピソードを残すこともなく、愛憎ドラマを繰り広げることもなく、ただにぎやかしで過ぎ去るだけだし……。
この最後の妻、は、中谷美紀。最後まで連れ添った妻というのなら、パリにも一緒に戻ったのかなあと思うのだが、そーゆー、俗世間、俗民の興味はゲージュツ監督さんはスルーしちゃうから(爆爆)。
だって中谷美紀、おフランスとお着物と言ったら中谷美紀じゃーん。その後の展開を描かないとはもったいなさすぎる!!……と思うのが、俗世間の一般ピープルのたわごとなのさぁ(自虐)。
ホント、日本篇は小栗映画、って感じなのよね。照明が暗くって、オダジョーだか誰だか判らない(爆)。軍の息のかかった美術協会との会議とか、スリリングな場面はたくさんあるんだけど、小栗映画だから盛り上げない(爆)。
加瀬亮が疎開先の学校の先生として出てきて、ちょっと印象的。赤紙が来て、校舎の廊下でぼーっとしているところに、児童たちが小さな頭をちょこ、ちょことのぞかせて、先生何してんの、みたいな雰囲気を醸し出すとこは、好きだった。数少ない好きな場面(爆)。
彼の家に間借りする形でフジタ夫婦は暮らしていて、招集が決まったこの若い先生から、この地に伝えられる狐の伝説を教えられるんである。
このエピソードが実際にあったものなのかは判らないけれど、日本篇が小栗映画、と思うのは、このくだりがあるからこそ、でもあるんである。
狐に化かされた話が口伝えにこの集落に広がっている。幻の列車の挿話は、突っ込んだ運転士の勇気と引き換えに、轢死した狐たちの犠牲があって、可笑しくも哀しい口伝え、なんである。
若き先生、この列車の話が一番好きなんだと言う。それはまるで、これから先の彼の運命を先んじて言っているようにも思える。
その後、いかにもCGくさい狐が宵闇深い雪道をホイホイ飛び跳ねて横切るシーンで結ぶのには、えーーーっ!!と思ってしまった。
だってここまで顔が判別できないぐらい照明を落とすほどに、リアリスティックと芸術の融合を目指してきたのに、CG狐かよ!!おめーらのプライドはどこにあるのじゃーっ!!
フランス語を習得したことで、ホメられちゃかなわないと思うのよね、オダジョーも。
いや。私がくさくさ言うだけで、これは傑作なのかもしれない、いや、そうなのだろう。私はタイクツだったけど(爆爆)。★★☆☆☆
……いや、いつだって映画は出会った時が、その時の運命なのさ……そう思ってもう、開き直ることにする。
と、いう訳で私にとっては新鮮な初見の監督さん。“映画好きの俳優たちを唸らせた”という、「やくたたず」という作品も、しっかり公開されている“商業映画”(殊更にこういう言い方をするのは好きじゃないけど……)、それも勿論未見な訳。
なもんで、ただただ本作に対して、本当に、何の前知識も予感もなく、対峙したってことは、そういうのこそ、一番理想的な映画との出会いかもしれないと思う。しかもこんな、映画的映画との出会いとしては、本当に。
映画的、だなんていう言葉は久しぶりに使ったような気がする。若い時の方がしきりに使いたがっていた気もする。
時空を超えるという手法は、小説なんかでも出来ない訳じゃないけど、やはり映像の専売特許だと思うし、一回の尺の中でそれが反復し、記憶や人物が洗い出され、不可思議な収斂へと向かっていく、この魅力はやはり、分断されるドラマではなかなか出来ないことだと思う。
モノクローム、時空超えでついつい「転校生」を思い出すのはいかにも古い映画ファン的甘い追想ではあるけれど、正確な記録媒体として今でもモノクロームが採用されることを思えば(色彩にはいつだって、先入観や主観性が入り込むものだから)、実はこれは、とてもストイックな“映画的映画”なのかもしれない。
先述のように、予測外ではあったにしても2012年に作られた映画を、新作として見たことで、不思議に若いムラジュンに、そうした不思議ギャップを感じるのも面白い現象だったかもしれない。
いや、実を言えば別に、若いなと思った訳ではない(爆)。ただ劇中、人生に、俳優人生というムラジュン自身を投影したような部分も含めて行き詰っている主人公に、そういうことに悩む感じって、ちょっと若いな、と思ったもんだから。
いやそれは、本作が純然たる新作ではないと知った上での後付けかもしれない、そう言われても仕方ない(爆)。ほんの2、3年前で何が変わるのかと言われれば何も言えない(爆爆)。
でも……確かに40を超えてしまえば10代、20代の頃のような意識変化の速さはないけれども、でもそれでも、ある程度の年齢を経て確かに感じていた人生への行き詰まり感が、そう感じていた時を抜け出してみると、てゆーか、年を取ることに自然に対峙するようになると、たった2、3年前でも、若かったな、と感じるような気がして。
これが、20代の若い監督さんが作ったから、というんじゃないのよ。そうじゃなくて、きっとこの時のムラジュンは彼自身をきちんと投影していたと思う。それはこの年ならではの青臭さがあったと思う。
でもきっと、今のムラジュンにはそれはないよねと思う。同じ年代だから、なんかそういうのを感じる。それがね、面白いと思った。今私は、時空を旅した同級生の記録を、彼と一緒に見ている、そんな感じがしたのだ。
でも、時空を旅していた、のだろうか??正直なことを言うと、本作に対する感想は「何が起こってたのかよく判んない」バカ丸出し(爆)。
ムラジュン扮する主人公、ハジは俳優。冒頭、中国語吹き替えのアフレコに苦戦し、監督から罵倒されまくっている。
この状況は時空を超えるスタンスに伴って何度か繰り返される。なぜ中国語吹き替えを日本人の彼がやって、そりゃ当然、監督から罵倒されるよな、なぜこのキャスティングとか、そーゆー疑問を持ってはいけないんだろうか、などと冒頭からふと不安になったりする。
モノクロという美学を突きつけられたこともあって、ちょっと及び腰になっていたことは否めない。情けない私(涙)。
これはキーパーソンであろう、後から結び合わせると、どうやら彼を役者への道に導いたのはこの人だろうと思わせる。堂々たる存在感、つーか、ちょっとヤクザにしか見えない菅田俊(ゴメン!)。
遠藤、という苗字が同じだと、高校生であったハジと思わぬ意気投合をしたというつながり。てことは、ハジというのはファーストネームなのか。
てゆーか、ハジが遠藤という苗字だってことは、その出会いでしか描かれず、そもそも回想ですらない時空の旅で彼の道行きを示していく訳だから、どこまでがホントでどこまでがウソなのか、ウソというのはアレだけれど、でもすべてがホントじゃない気すらするというか……本当に不可思議なんだもの。
だってこの遠藤が、ホントにちゃんとしたプロデューサーなのか、ハジが言うように「昔からそんなことばかり言ってる」口だけのヤツなのか、あるいはもっと極端に言うと、本当に存在する人物なのかどうかさえ、アヤしいのだもの。
ハジが迷い込む、というか自分から入り込んだような感もある、過去への旅は、現在の彼の年齢そのままの姿のままであり、同じ道行きをする当時の同級生たちも今の年齢の姿であり、そしてその旅の先の登場人物……当時の先生とかも、その事情を知っているテイで動いているんである。
今の時間を生きている彼らが、ある程度過去に飛んでやり直しをし、「そろそろ帰ろうぜ」と戻り、また旅に戻る、そんな繰り返し。
でもだからといって誰も、これが過去に戻ってやり直しているんだ、ということを口にする訳じゃない、高校生のままと言えば高校生のままかもしれない、同級生の結婚式に出ているその当時のままといえば、そうかもしれない。
そしてそのエピソードを少しずつズラして、繰り返し、現実に戻ってくる時には、何かが、確実に、変わっているんである。
少しずつズラして、と言ったけど、少しどころではないかもしれない。そもそもこの旅に誘ったのは、病院で出会った同級生だった。演じる三浦誠己の妙に蒼白な雰囲気とスーツ姿が、異世界への扉をすんなりと開ける。
彼との“再会”にハジは、「ああ、お前か、ああ、今日か」と思い出したような雰囲気で答えたけれど、車というタイムマシンで時空を超えてからも、どことなくぼんやりとして、事態が判ってない風である。
この三浦誠己のゆらゆらとした雰囲気が、後に意味があることだったんだと判る。二度目、過去への旅を同じく反復する時、シークエンスも会話もすべて同じなのに、彼だけがいない。時にシーンをリードするように動き、台詞を発していた彼なのに、まるですっぽりと、ブラックホールに落ちたように、いなくなる。
この過去への旅の紅一点、河井青葉なぞはこの彼とちょっとイチャイチャするような雰囲気さえ見せていたのに、まるで、まるで記念写真に確かに写っていた顔がすっと消えるように、いなくなっているのだ!!
そう……同級生の結婚式で、確かに二人並んで、よりそうようにして映っていたのに、そのシーンあたりからアヤしくなるのが、非常にドラマチックである。
彼の存在がとても強烈だったから、見てる時にはハジ含め、だーい好きな渋川清彦も河井青葉も、みんなみんな、死んでんじゃないかと思った。実際、途中から……というか二度目の繰り返しでは三浦誠己はいなくなっちゃう訳なんだもの。
彼がなぜ存在を消したのかは何も説明されないけれど、そもそも先生の墓参りには彼が先導した感があるし、妙に死の匂いをまき散らすんである。
この先生ってのは恐らく、大人になった彼らが学生のカッコで当時の学校に戻っていくあの場面で、妙にイイ女として現れる、タイトスカートにハイヒールをかつんと鳴らす、あの女教師に違いない。
「最後の方は見舞いに来なくていいって言われたの」「そんなの、オレだって言われたよ」そう、あんな、男子生徒の妄想の渦に叩き込みそうな女教師が、死に際を見られたくないと思うような最期だったことを思わせる。
当時の彼らにとっては、それは新鮮とも言える死の匂いな訳なんだけど、もう40の坂を越えようとしている彼らにとっては、それは自然に、身近な死の感覚にすんなりと変わっていて……でもそれでも、40の坂を“越えよう”としている時点、だったんだよね、当時は。
先述したけど、この2、3年の差は、やはり興味深い差であったように思うんだよなあ。40を越えるか越えないか、ていうのはさ……。
ムラジュンはほぼほぼ私と同じ年。彼の方がひとつ若いのかな?つまり本作はリアルに、40手前、40を越えることへの未知への不安と葛藤があったと思う。それこそ人生においても、仕事においても。
この若い監督さんは、それこそをすくい取って、本作を作り上げたと思う。彼らの後輩役としての河井青葉嬢は、実際は後輩どころではなくずっと若くって、勿論劇中ではそんな実年齢のことなどは関係なく、渋川清彦の妹、としてちゃんと役を演じているんだけれど、そういう年齢のギャップさえも、ついついうがって見てしまう。
だって彼女が、三浦誠己の次ぐらいに、生きてるのか死んでるのか判らないような、ふわふわとした頼りなさがあったんだもの。
自分の子供のお遊戯会のビデオを親バカ丸出しで見ている場面が二度繰り返された時、一度目にも既に感じていた、リアルな子供を愛でるのではなく、画面越しの子供を愛でるそれが、まるで死んだ子供の年を数えているみたい……いや、彼女自身が死んでいるのかもしれない、という、奇妙な異世界感覚にとらえられてしまった。
画面のこちらとあちら、そもそもこのシークエンスが現実年齢のまま時空を超えていること、なのに彼女だけが実年齢も若いこと……何もかもが不可思議で。
ギリギリまでルールを守っていたのに。あの時代を共にした仲間しかその世界には入っていけなかったハズなのに。
いつもいつもフラフラといなくなってしまうハジを心配したマネージャーだか後輩だか、小林ユウキチ扮する青年さえも、この時空にハマリ込んでしまう。「探しましたよ、もう」と軽く憤りすら浮かべて、何の疑問もなく、他の同級生たちと共にすんなり車に乗り込んでしまう。
そもそもここに至るまでに何度か繰り返される、スケートボードが、独特の時代錯誤感覚を充満させる、なあんて言ったら怒られちゃうだろうか。ちゃんと?現代の少年たちも見事なスケートボードさばきを披露しているのだから……。
しかしムラジュンが、恐らく昔取った杵柄でスケボーを乗りこなし、そして繁みに突っ込むことで現代と過去とをつなぐ、というのが、象徴、いやもっと言ってしまえば、本作のキーワードであるかもしれない、とさえ思うのよね。
だってこの場面、遠く引いた画で、冒頭で既に示されていた。繁みに突っ込んだ男の足を発見する少年。正直この引きの画はあまりにもいかにもな”映画的”で、うっわ、クロートくさっ、くさくさっ、と腰がどーんと引けちゃって、その思いをずーっと最後まで引きずりながら観ちゃったかもしれないんだけどね(爆)。
「男は皆、母親に似た女を選ぶんだよ」と言ってその通り、母親とハジの元嫁を二役で渡辺真起子が演じる。彼女は大好きな女優さんだし、どちらを演じる彼女も彼女の通り、カッコ良くて素敵だったけど、この図式はあまりに図式すぎて、ここまで不可思議の魅力で、表面張力のギリギリに膨らんでいた水面が、崩壊してしまったような気もする。
この、使い古された定説をここに持って来て、せっかく作り上げた世界観を壊してしまった意味を、知りたい。それともそれは、男子としてはどうしても言っておきたい真理なのだろうか?だとしたら相当ガッカリだけれど……。★★★☆☆