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「よ」


2009年鑑賞作品

余命
2008年 131分 日本 カラー
監督:生野慈朗 脚本:河原れん 生野慈朗
撮影:佐光朗 音楽:富貴晴美
出演:松雪泰子 椎名桔平 林遣都 奥貫薫 市川実和子 二階堂智 かとうかず子 宮崎美子 橋爪功


2009/2/13/金 劇場(丸の内TOEIA)
この生野監督は「手紙('06)」で大号泣したので、とりあえず泣けるに違いない、ぐらいの思いで足を運んだ。まあ私は女だから、乳がんというテーマにはやはりアンテナがふれてしまう、というのも勿論あるけど、それでもホントにその程度の気持ちだったのだった。
しかし、最後まで、ドライアイかと思うぐらい、私の目は乾きっぱなしだったのだった……。
いや正直、予告編等でもう、彼女がどういう選択をするのかは判っていたから、そんな予感はしていたのだが……。
そりゃ、それぞれ人によって選択は違う、どれが正しいなんて言えないのかもしれないけど、少なくとも私は彼女の選択は絶対しないし、彼女の選択が正しいとか尊いとか、ましてや感動なんて絶対出来ないんだもの。
いや確かに、私は妊娠したこともなければ乳がんになったこともないんだから、“もし私だったら”などというのは典型的なタラレバではあるんだけど。
でもこれはそれこそ、そういう逃げ道を凄く作ってる気がした。自分のお腹に子供を宿した女にしか判らないとか、乳がんになった女にしか判らない、とかさ。

その彼女の選択とは、妊娠中に乳がんが再発してしまったヒロイン、滴が、自分の命を延ばすことよりも、赤ちゃんを産むことを決意する、というものなんである。
そりゃさ、そうして生まれてきた子供が育ってしまえば、きちんと人格を獲得してしまえば、そうした姿を見せてしまえば、それが間違った選択だなんて、言える訳がない。それがズルイというワケ。ましてや林遣都君がそれに扮していたりすれば余計にさあ。
でもそれこそ、タラレバなのだ。そうしてすくすくと育った子供を彼女は見ることは出来ないけれど、それを想像して、その子が自分の生きた証しだと信じて、命をかけて子供を生む、というのこそ、究極のタラレバじゃないかと思うのだ。
だって、もしかしたら生まれた途端死んでしまうかも?不幸な事故で幼くして死んでしまうかも?難病を抱えて苦しんだ結果死んでしまうかも?……私、ネガティブなことばかり考えてるけど、そういうことだって考えられるじゃない。ましてや末期ガンの彼女が産むんだから、赤ちゃんにだってどんなリスクがあるか判らない。
それでも、彼女はそれが正しい選択だったと思うのだろうか。

こんなこと言ったら非難ゴウゴウ言われそうだけど、私、滴の選択は凄い……偽善に思えたのだ。そりゃ、林遣都君のような美しく正しい男子に成長したんだから結果オーライかもしれないけど、結局彼女は「自分の生きている証しを残したい」から、夫の思いも友達や知人の心配もまるで見ないフリして、というか、見ようともしないで、突っ走ったんだもの。正直……そんな自分に酔っているようにさえ見えてしまう。
彼女を心配する親がいないという設定も、出来すぎだよね。唯一の肉親はイトコでさ、これも遠すぎてズルイ。
そりゃ、この妊娠している数ヶ月の間、自分ひとりで決めたコトを尋常じゃないほどの意志力で維持し続けたんだから、スゴイとは思うけど……でも、それは、同じ立場に立たされた女性に、逆の選択をすることを、女じゃないとか、わずかな命を延ばすためにひとつの命を犠牲にするのかとか、そんな勝手な非難を含んでいるような気がして、ゾッとしたのだ。

そう、確かに炎症性乳がんの再発である滴に、治る見込みはないのだろう。それは医者である彼女にこそ、充分過ぎるほどに判ってた。
結婚前に見つかった乳がんで右胸を全摘した彼女は、まさか子供を授かれるなんて思ってなかった。結婚10年にしてお腹に宿った子供、こんなに幸せでいいの?と、夫、良介の腕に優しく抱かれながら、そんな心配をするぐらいだった。
今まで辛かった分、この子が新しい人生を連れてきてくれるんだよ、と良介は優しく滴を抱きしめたものだった。
しかし、杞憂だと思われた滴の心配は、不幸にも現実のものになってしまったのだ。治る見込みがないのなら、余命が縮んでもこの子を産みたいと、彼女は愛する夫にも親友である医者の同僚にも黙って、時には彼らを遠ざけてまで赤ちゃんを産む準備を進めるのだが……。

ていう設定がね、“どうせ死ぬんだから、宿った命を殺すなんて罪だ”みたいな視線を感じるのも、ゾッとする一つなんだよね。もっと言っちゃうと“子供を産むのは女の責務なんだから、ちょっとぐらい余命が短くなっても産むべきだ”みたいなさ……。
いや、そりゃ考え過ぎだってのは判ってる。でもね、私は……この時点ではどうなるかも判らない、人格も形成されていない赤ちゃんのために、お母さんが命を諦めることが尊いこととして受け止められるのが、どうしても受け入れられなかったのだ。
そりゃ私は医者じゃないからなのかもしれない。根治はムリだと判ってるって言ったって、少しでも生き延びているうちに、何か方法があるかもしれない。もし生き延びられたら、また妊娠のチャンスだってあるかもしれない。最初の赤ちゃんにごめんなさいしたとしても。

……あ、そうか、ここにもワナが張り巡らされているんだったわ。38歳である滴が「妊娠は最後のチャンス」と言っているんだっけ。
ううう、どこまでズルイんだ。赤ちゃんのために彼女が命を投げ出すためのワナ(としか思えない)が二重三重に張り巡らされているじゃないのお。
でもそれこそ、血のつながった赤ちゃんが自分の子供、っていう意識がいまだ根強いゆえにこうして女を苦しめている日本の土着的意識が、ある意味彼女の命を縮めたんだとも思うわ。
日本ほどに経済的にも文化的にも成熟した国家になったんだったら、いわゆる里子や養子制度ももっと進んでもいいと思うんだけどな。
なんてまあ……ここで言うべきことではないんだけど。
でも私はやはり(色んなトコで言ってるけど)子供より親が大事と言いたいのだ。太宰のようにね。彼だってもっともっと、複雑な思いを抱えてたに違いないけれど、でもその到達点は、自分を最も愛しているのは自分以外にない、という、いわば当たり前の自意識だったんじゃないのかなあ。

何より許せないのは、滴が自分の信念を信じるがゆえに、他人を全く信じないトコなんである。その他人の中に夫も含まれる。乳がんで手術した直後の自分にプロポーズしてくれた良介、お互いに信頼し、支え合っている筈の二人なのに。
途中、滴が自分を避けていることを察した彼が、「俺と別れて自分ひとりで産もうとしているんだろ!」と荒れるまでになるんである。
この夫に対して彼女がね……赤ちゃんが出来るまでは医者の道を捨ててカメラマンに転身した彼を精神的にも経済的にも支えていたのに、「こんな不安定な仕事で、父親として大丈夫なのかな」などと口にしたりして、「滴でもそんなこと思うんだ」と同僚の親友に驚かれたりするんである。
何かね、これも……凄い、ガッカリした。それは私の感覚の方が甘いのかもしれない。でも、女が男の経済力を条件にし出したら、おしまいだ。

勿論今までは、滴は医者なんだし、出産後も仕事を続けようと思っていた訳だから、何の問題もなかった。むしろ、自分より家事が得意な良介、夫と妻の役割が逆転しているような自分たちに、他人とは違うという誇りだってあったと思う。
自分が余命いくばくもないと知ってしまえば、それを心配するのは当然といえば当然なんだけど……なんかそんな、単純には聞こえなかったんだよね。
だって滴、「父親としてどうなのかな」と言ったんだもの。心の底では稼ぎが少なくて家事をマメにこなす夫のことを、ヒモぐらいに思ってたんじゃないのと、ついつい感じてしまうのだ。

それってさ、いわゆるもっとフツーの家庭……専業主婦とか、パート主婦とかに対する侮辱だよね。夫が稼いでるんだから、妻に好きなことをさせてあげてて、家事をカンペキにするのは当たり前、みたいなさ。
稼ぎにしても家事にしても、その分担のバランスはそれぞれの夫婦で千差万別、違ってくるのこそ理想というか、本来あるべき姿だと思う。
いや、やっぱり理想なのか……こんな、キャリアウーマンの滴までが、いくら自分の余命と赤ちゃんの行く末を心配したからって、稼ぎが少ない男をそれだけで頼りないと思うなんてさ。
大体、自分の決断を彼に相談しないままそんな風に思うなんて、あまりに勝手じゃん!

しかも良介は、そんな滴の気持ちを受けて、カメラマンを辞めてもう一度医者になる道を選ぶっつーのがさ……カメラマンはあんたの夢じゃなかったのか。
自分の病気がバレることを恐れた滴によって、出産の時期に長期の仕事に追い出された良介、そんな形ではあったにしても、そういう大きな仕事を任されるのは、嬉しいことだった筈だよね?
だって彼は、断わるつもりだったこの仕事を滴に話した時、「キャンプが出来るカメラマンだって」と、凄く嬉しそうに、自慢げに話していたじゃない。それが自分のところに来た話だってのが、嬉しそうだったじゃない。
それを滴は、その彼の気持ちを汲んだ訳じゃなくて、継続的に続く大きな仕事をやってもらいたいことと、出産の時期に自分から遠ざけたい理由で、彼をムリヤリ送り出したのだ……。

で、赤ちゃんを産んだ滴、その頃には帰って来る筈だったのに、当初の予定より遅れてなかなか戻ってこない良介に、赤ちゃんと二人閉じこもってノイローゼ気味になる。
そうなるといいかげん、親友や行きつけのレストランの仲良し夫婦も気付いて、彼女を叱咤する訳。親友は、このまま死なせる訳にはいかない!と言い、レストランの奥さんは、こんなあなたを見ているのは辛い。ダンナが良介君を迎えに島に船を出そうとも言っているの、もう意地を張るのはやめにしようよ、と諭すんである。
ホンットに、どこまで自分のワガママに気づかないんだか。膿の匂いの充満した部屋で(その部屋に踏み込んだ親友は、匂い一発で気づくんである)、赤ちゃんに病身のお乳を飲ませて閉じこもってるだなんて。
他人の心配も感じられず、自分だけが不幸の国に行っちゃって、バッカじゃないの、と思っちゃう。アンタはこの赤ちゃんのために命を投げ出す決意をしたんじゃないのか。それなのにしたたかにもなれずに、どん底に陥って皆に心配かけるなんて、カッコイイ女の風上にもおけないわ。

そう……私、女は、それこそこんな無体な決断をする女なら、したたかに、カッコ良くなってくれなければとても共感なんて出来っこないんだもん。滴のした選択が受け入れられなくても、その選択をした彼女が凛としてカッコよかったら、カンドーしたのかなと思うんだけど、結局彼女、周囲の好意にズルズルベッタリなんだもん。
良介が夢だったカメラマンの道を捨てて医者に戻る決意をしたのは、……これもあまりに感傷的でヤだけど、彼女の替わりに人を救いたいと思ったからでしょ。
で、滴の故郷、奄美に帰ってさ、そりゃまあ、この地が彼も気に入ったからではあるけど、でもめちゃめちゃ、彼女の思い出に引きずられてるよね。
小さな診療所を立ち上げて、この十数年、住民みんなに頼られて、勿論新しい恋人なんていなくって、亡き妻を思いながら男手ひとつで一粒種の息子を育ててさ、あー、なんてベタなのかしら。正直それこそ有り得んて。

滴は恐らくそこまで“理想”として見越していたんだろうけど……自分の命の証しとして赤ちゃんを産むまではまだ許容(出来ないけど)範囲にしても、夫は自分が死んだ後も自分だけを愛し続けるってのが、それをマジで信じているのが、これはいくらなんでもジコマンではないか?
そういやあね、なぜ良介に黙っていたのか、自分ひとりで赤ちゃんを産む決断をしたのかを、長期の仕事から帰って来て病床の妻を見舞った彼に言ったのが、「あなたは絶対反対すると判ってたから。あなたは私が大好きだから」と涙ながらに言ったのもうわっと思ったんだよね。まあその台詞の後で「私もあなたが大好きだから」と続くにしても、なんでそんな自信満々で、しかも勝手な言い草なのかと思ってさ。
……いやそれこそ、夫婦生活を10年続けているなんて経験のない私が言えることじゃないにしても……。でもそれにしても、それが全ての言い訳になるか?てのも、とても承服できなかったし。

しかしこの夫は懐が大きすぎて、そんな滴を受け入れちゃうんである。んでもって、彼女が最も心休まる故郷、奄美に移住することを提案したりしてさ。
理解ありすぎだろ……彼女の選択の云々よりも、こんな理解ありすぎな夫がいなければそれが成立しないってトコが、ある意味問題だと思うけどなあ。
妊娠中に、滴は一人になりたくてこの故郷を一度訪れる。一人になりたかったのに良介もついてきて、その時に彼はスッカリこの島を気に入ってしまう。
まあ、滴に若い頃のぼせていたと思しき幼なじみに、相撲で投げ飛ばされたりキツイ洗礼を受けもするのだが。それが、末期の彼女をこの島で逝かせてあげよう、子供もここで育てようという選択肢になるわけだが……うーむ、仕事も含めて彼のアイデンティティはどこに行ったんだ。それになんで、あのカワイイ柴犬のアキオをおいていくのだ。連れてけよっ。

最後の蜜月を交わす海岸でのシーン、滴の、子供の誕生日や運動会にはいつでもいてあげてね、という長々とした“遺言”に良介は涙を流す。
一番の落涙ポイントだとは思われるのだが、何せ長すぎるし(それまでも結構そのケはあるのだが)、泣いているうちに桔平氏は太くて長い鼻水を垂らして、それを手のひらでずずいとふき取り、その手で彼女の肩を感動的に抱いたりするもんだから、「これで出会ってから何度目のキスかな」なんつー甘い台詞も、ああ、その鼻水の手で……と思っちゃうんである。
……普段なら鼻水なんて気にしないんだけど、このシーン、彼女の“遺言”の長さのみならず(それが一番ツライんだけど)、子供のことしか触れてなくて、一人だけメッチャ遠く見てるし、なんか……それまでのこともあって、引きまくっちゃう。

乳がんをテーマにした映画では、その病気を得ても生きていけるんだと、壮絶でリアルな心情を綴った「Mayu −ココロの星−」などもあっただけに、これにカンタンに感動するわけにはいかないんだよなあ。
乳がんは早期治療すれば治る病気。乳房の温存治療だって可能。それを前提にしてピンクリボンだって活動しているのに、これはズルイ条件を次々に提示して、その全てを否定している。新しい命のために死ぬことが美徳みたいに言われるなんて、解せないよ。

遣都君はやはり美しかったからなあ……父親から彼がカメラの夢を引き継ぐ。うう、美しすぎでありえん。★☆☆☆☆


余命1ヶ月の花嫁
2009年 129分 日本 カラー
監督:廣木隆一 脚本:斉藤ひろし
撮影:斉藤幸一 音楽:大橋好規
出演:榮倉奈々 瑛太 手塚理美 安田美沙子 大杉漣 津田寛治 田口トモロヲ 柄本明

2009/6/1/月 劇場(有楽町日劇)
ちょっと観るかどうか迷った一本。絵に描いた様なお涙頂戴メロドラマだしと思ったけど、そんなことを言っちゃいけない、だってこれは実話なんだし、ということと、こういう映画を撮るってこと自体が意外だった廣木監督作品だということに興味を惹かれたこと、そして近年活発になっているピンクリボン活動に沿った映画作品のひとつであることである。
二番目の理由については、彼の監督作だという味はことさらには感じなかったものの、かといってまさか“お涙頂戴メロドラマ”にするわけもなく、ストイックに二人を見つめ続けるのが、ノセられて泣いたという悔しさを感じずにすんだというか……涙腺弱いくせに、そーゆーところは負けず嫌いだったりするんだけど(爆)。若い役者の素直な演技に素直に感動したというか。

そう、ピンクリボン映画ともいうべき乳がんをテーマにした近年の作品の中での位置づけを、位置づけを考えてしまう。
本当は、「死」という要素自体で泣きを誘発するものだから、それを持ってきちゃうのはズルいと思うし、ピンクリボン活動にのっとっているなら、乳がんは決して不治の病ではない、早期に発見してきちんと治して長生きしよう、という趣旨こそが正解だと思う。だからこそ「余命」には超イラッとしてしまったわけなんだよね……。
ただ若年層に発症率は低いとはいうものの、若い人はやはり進行が早いし、本作の彼女のように非業の結末を迎えてしまうケースもあるわけで……ただ本作で彼女が「もうちょっと早く病院に行っていれば……」という台詞があって、その点はキチンと抑えていたように思う。

そうそう、私が超イラッときた「余命」と本作は、結構重なるところはあるんだよなあ。パートナーが彼女の病気を知っても別れないこと、別れないどころかそばに居続けること、そして……こんなところに着目するのはちょっとヘンかもしれないけど、彼女の死の悲しみに鼻水たらして号泣するところ、それをこぶしでぐしっとぬぐった後は垂らさないように気をつけている感じまでが、あー、同じ同じと思ってしまったのは良くないかなあ(爆)。
でもね、この鼻水に引くか引かないかが分かれ目だと思うのよ。私はまだまだ古い人間かもしれない……日本男子たるもの、たとえ愛する人の死に際しても鼻水垂らして泣くな、なんてね。
でも本作の瑛太君の鼻水には、なんか素直にカンドーしちゃったのよね。まあ彼の方が「余命」の椎名氏よりぐっと若くて素直な男の子って感じだっていうのも大きかったかもしれないけど、でもこの作品、というよりこの物語のえぐみのなさ、素直さがすんなり心に入ってきたせいなのかな、と思う。

まあそれも、実話であると思っているせいもあるのかなあ。でもこの話はもう既に非常に有名で知られた話。テレビの報道番組で追いかけていたから。
私はそれを見てなかった。話には聞いていたけど、正直エグイと思ってて……うん、今となってはそんなことを思っていたことは素直に、申し訳ない。
見てなかったから、だけど、彼女の気持ちが判らなかったんだよね。見てなかったから、これが彼女からの申し出による取材だということも知らなかった。死も商売にするマスコミのエグさ、みたいに勝手に想像していたから、そんなこと、思いも寄らなかった。

余命一ヶ月でウエディングドレスを着て結婚式をあげる、なんて、いかにもマスコミが喜びそうなネタだわなんて思ってて……でも実際、「余命1ヶ月の花嫁」という言葉だけが有名になって、報道を見ていない私のような人たちは沢山いたと思う。
映画にすれば、それは半永久的に残る。まさしく千恵さんの思い……若い人が乳がんになった時の情報の少なさ、少しでも早期発見してほしい、そして同じ病気を持っている人に励ましを与えたい、という願いがかなったと思う。
確かにそうかもしれない。発症例が少ないから、若い人が乳がんになった時の情報が少ない。千恵さんは最初から自分の意志で動いて、最後までとてもクレバーだったけれど、若くしての不治の病の死は、それこそマスコミや社会の食い物にされかねない。

物語は、千恵さんが生涯のパートナー、太郎ちゃんと出会うところから始まる。商品説明会のコンパニオンとして、間違って隣の会場のコンパニオンである彼女が遅刻スレスレに飛び込んできた。お互い上司にこっぴどく怒られて、そして帰りのバスで偶然一緒になった。「怒られたでしょ」と同時に言い、笑いあった二人は自然の流れで付き合うようになる。
それでも、最初のデートで「俺たち、きちんと付き合おうよ」と言われた千恵は、とっさに言葉につまってちゃんとした言葉が返せなかった。
でも彼のことが好きだから、一緒に暮らし始めて……でもほどなくして判ってしまう。大量に抜けた髪の毛を見て彼が顔色を変えた。千恵は自分が乳がんであることを告白し、さよならを切り出す。納得出来ない太郎を振り切って、何も言わずに部屋を後にして連絡を断った。

ただ、乳がんであるだけなら、その経過がまだ示されないなら、千恵の行動はちょっと感傷的に過ぎたような気はするけど……ただ、結果論として彼女は結局再発に倒れてしまったことを考えるとそんなこと言っちゃいけないんだけど……でも、社会的に、一般的に、そういうもんなのかなあ、健康体でなければ恋も出来ないのだろうか……哀しすぎる。
かといって、病気が進行して、もう余命いくばくもないと判った時点なら別れた方がいいのかとかいうと、それは更に悲しすぎるのだけれど。
それをまさに示している場面があったんだよね。それこそベタベタに。
余命一ヶ月もたないと宣告された千恵のそばにいてやりたい、と決心した太郎が自分の両親に打ち明けるシーン。彼の父親は「ボランティアか」といきなりデリカシーのないことを言って太郎を憤慨させた。そして太郎の決心が続かないと断定し「その時傷つくのは彼女の方なんだぞ」としたり顔でたしなめた。
……いかにもベタベタな要素、なんだけど、実際、そんなしたり顔な理由で恋人と別れて、傷ついたまま最期を迎える人がいるんだとしたら……そんな理不尽なことって、ない。

でもこーゆー“良識”(良識とは決して思わないが……)って結構、横行してるよね。それを思ったからこそ千恵も自ら身を引こうとした訳だけど、でもそんなに人間って信用できないものだろうか。
しかも自分の息子であり、そして恋人である。まあ、千恵に関して言えば自分の病気に巻き込みたくないというしおらしい気持ちが働いたにしても、親が自分の息子を信じないようなこんな発言はしちゃいけないよね。それこそ「お前はまだ若いから……」的なベタな態度でさ。
でもそれってホント、日本的だと思う。日本って、家族の愛情や絆は深いけど、でも子供はいつまでたっても子供で、あんなこともそんなこともまだまだ出来る訳がない、だって子供なんだから、って意識がいつまでも働いているように思う。
自分がその子供の年齢だった時のことを思い出せば、容易に察せられることだと思うんだけど……それは太郎のような青年に限らず、もっと若い、ティーンエイジャー、いやもっと言ってしまえば小学生のような子供に対してだって、日本の親は自分の庇護の元におきたがりすぎだよね。自分が子供の頃のことを思い出せば、大人以上のアイデンティティがあることぐらい、判るはずなのに……。

スイマセン、話がズレましたが。まあ、最終的には太郎ちゃんの両親も二人の結婚式に駆けつけて、涙腺大全開の場面になるからまあ、いいんだけどさ。
本作がピンクリボン映画、ひいては難病モノ映画として個性を確立している点は、やはり病気を支え続けるのが家族ではなく、恋人だという点にあると思う。
外国ならばそういうのもアリそうな気はするけれど、日本はとにかく、病気を支え続けるのは家族、だよね。あのイラついた「余命」にしたって、パートナーといえども夫という家族に他ならなかった。家族だからこそ最期まで看取り、運命を共にする、みたいな意識がまだまだ日本にはある。だからこそ太郎ちゃんの純粋な決意がアッサリ両親にぶったぎられそうになる訳だし、千恵の父親にも何度も拒否され続けるのは、その点にあると思う。

結局太郎ちゃんが最後まで恋人であり続けたのは、その点で非常に大きな問題を投げかけたんじゃないかと思うんだよね。結局千恵は最後まで長島千恵のままだったし、太郎ちゃんと結婚式は挙げたけど、入籍した訳じゃなかった。それが日本の家族の問題や夫婦の問題を、図らずも痛烈に指摘していたように思うのだ。
海外、特に欧米においてはさ、夫婦関係って必ずしも入籍を重要視しないじゃない。個人主義が発達していることもあるけど、一緒にいればそれが家族、みたいなニュートラルな感覚が発達している。
でも日本は、まず形式を重んじる。そりゃ内縁の妻なんていう言葉はあるけど、その言葉自体、すんごく陰惨というか(爆)湿っぽいというか、非常になんつーか、ネガティブだよね。影の存在、みたいなさ。
千恵と太郎の場合、こんなことになって、わざわざ入籍までしてたらちょっとあざといし、実際二人にはそんな余裕も考えも及ばなかったに違いないんだけど、でもそこで「ウエディングドレス」「結婚式」という気持ちが出たのは、やっぱりそうだよなあ、って気がしたんだよな。
そこにはやっぱり、オトメの憧れ以上の、夫婦や家族といった、“形式的”な絆への思いがあったに違いないし、だってなんたって千恵は、幼い頃に母親を亡くしてずっと父一人子一人で暮らしてきて、家の中で主婦をやってきたから、そういう“形式的”な思いは強かったに違いないんだもの。

この、千恵の家族形態っていうのは、物語の中で非常に重要度がある。母親を幼い頃に亡くした千恵は、自ら主婦役を買って出て、父親曰く「ウインナー炒めばかり」の食事で千恵はどんどん太り、オレはどんどん痩せていったと、笑い話まじりに語る。
千恵が最後に実家に一時帰宅した時、幼い頃のホームビデオを引っ張り出してきて太郎と共に見る。父親は耐え切れずにその場を辞する(お供する従順な白犬がカワイイ)。
スラリとスレンダーな今と対照的な、幼い頃のオデブな自分を、「やだ、私、ブス」と笑いながら(子役の子がちと不憫だが……)見る千恵は、衰弱してはいるもののそんな、やせ衰えているという訳でもなくて、若い輝きはそのままで、だからこそ彼女が死に行くのが凄く辛いんだよね……。

進行が早い若い人の乳がんは実際、こんな風に、やせ衰える期間もないままなのだろうと思う……ていうのは、榮倉奈々ちゃんは特に役作りで絞った風はなかったからさ(爆)。
太郎ちゃんに残すラストメッセージのビデオなんて、演技自体はワンカットで(多分。映画の中では瑛太君の泣き顔が何度も挿入されちゃうからさあ)泣かせるけど、画面の榮倉奈々ちゃんはほっぺもぱっつんぱっつんで(アングルのせいもあるけど)若干二重アゴなんだもん(爆爆)。
まあ、ワザとらしい衰弱メイクをされるよりはマシだけど……でも多分、ホントに、これが若い人のガンであっという間に進行してしまうのをリアルに示しているんだということだと思うんだよなあ。今にも起きそうなのに、なんで死んでるの?みたいなさ……。実際の千恵さんの映像でも、彼女はふっくらとした頬のまま、まさに若い輝きのままだった。

印象的だったのは、千恵が手術後屋久島を訪れるシークエンス。彼女を追いかけてきた太郎(結局、父親が居場所をバラしちゃったのか?)が、千恵の左胸が無残に跡形もない手術後を見せられて嗚咽しながら「おっぱいがなくても、千恵は千恵だ。変わらない。オレも変わらない約束する」と彼女を抱き締める。
まあ、実際ねー、おっぱいがないぐらいでオンナを見限られちゃ困るんだよなと思いつつ、でもやっぱりそういうもんなんだろうなと思うし、自分のこのささやかなおっぱいもなくなってしまったらと想像すれば、やっぱり胸がふさがれる。
手術後、心配する父親に気丈に振る舞いながらも一人病室に残された千恵がむせび泣くシーンは、やはり女としては胸に迫ったもんなあ。

だから、屋久島よ、屋久島。ここはね、確かに太郎ちゃんとの絆を再確認する重要なシーンではあるんだけど、それ以上にヤハリ、屋久島、であることが重要だと思うんだよなあ。
何千年も前からこの地に息づいてきた屋久杉、その悠久を太郎に聞かされて、千恵は行きたいと思った。そして向かった先に太郎がいて……そこで彼からプロポーズにも近い言葉を聞かされたら、そりゃあ落ちない訳にはいかないじゃない。
もう一つ、千恵がここで三味線の腕を披露するのも印象的。それ以前に太郎ちゃんが彼女の父親に挨拶しに実家を訪れた時、父親とのセッションを聞かせる場面はあったけど、そこでは千恵は技を見せるって感じじゃないから、単なる吹き替えかと思ってたら、実際榮倉奈々ちゃんは尋常じゃない三味線と民謡の遣い手だと知ってビックリ。
更に言えばなんと千恵さん自身もほんとに三味線が上手くて、お父さんも三味線の先生だというんだから二度ビックリ。これは運命的だわね。それならもっと奈々ちゃんの腕前を見せてくれても良かったのになあ。

千恵たちを励ましに、様々な友人たちが病室を訪れる。ネイリストやら何やらと、結構華やかな友人たちなんだよね。
実際の彼女の友人のこんな話が、印象的だった。「明るい話題を持っていかなくちゃ、といつも「今日は何の話をしよう」と、病室に入る前で一度深呼吸して頭を整理してから入るようにしていました」んだと。
その感じが実に、出てるんだよね。それでもふと千恵が死を口にすると、「死ぬとか言わないの!」と本気で怒る。すると千恵はニコリと笑って「例え話だよ」……。
太郎ちゃんの提案を受けて、千恵のウェディングドレスの夢をかなえるために動いたのも、友人たちだった。
「それ、千恵の憧れですよ。来月まで間に合ったら、ジューンブライドですね」と言う友人に太郎ちゃんが「いやそれじゃ、間に合わない」と返されて、友人は言葉につまった。もうカウントダウンが始まっていた……。

ラストビデオで千恵は、太郎ちゃんの幸せを、ずっと見守っているよ、とメッセージを送る。それを聞いて彼は当然、鼻水垂らして号泣する。
そして最後の最後、数年たったとおぼしきラスト、彼はあの時と同じように商品説明の会場にいて、あの時と同じように遅刻したコンパニオンを待っている……一瞬、千恵の姿と声が彼の耳と目をかすめる。けれど当然、それは彼女じゃなくて……彼の切ない笑顔と歩いていく後ろ姿でカットアウトとなるんである。

結婚式の場面はもちろん涙涙だったけど、一番の号泣ポイントは柄本明演じる千恵の寡黙な父親が、太郎ちゃんに「ありがとう!」とふりしぼって泣きむせぶシーン……そのたった一言が、何より重かった。★★★☆☆


夜の影
2009年 77分 日本 モノクロ(一部カラー)
監督:田中冬星 脚本:田中冬星 鈴木章浩 中村慶子
撮影:辻智彦 音楽:北野雄二
出演:星乃舞 岡島博徳 田中冬星

2009/11/17/火 劇場(UPLINK X)
この作品については、感想を書かないでおこうかとかなり迷う。というのも、どう考えても私からは否定的な言葉しか出てこないんだもの。もう、思いっきりこき下ろしてしまうのが判っていたから、書くのが憂鬱だった。
いや、そんなことは今までにも何度もあったけれども、今回殊更に気が引けたのは……この監督さんが余命いくばくもない、ということを知ってしまったからに他ならないんである。
そりゃあ、こんな日本の片隅の私ごときバカのたわ言なんてどうでもいいだろうけれど、やはり寝覚めが悪いというか……。
でも、この77分間が、私の人生の切れ端でもあったと思えば、やはり書き残さないことの方が出来なかった。

この、イメージを膨らませる哲学的なタイトルに心惹かれて、モノクロのスチールにも期待が膨らんだけれど、しかし「長年の夢であった映画製作」という解説にイヤな予感がしていたことは確かだった。
それってね、確実につまんない映画だって示唆しているんだもん。少なくとも私にとって、そういう風に映画を撮った人たちの作品で当たったことがなかった。
長年の思いが溜まりすぎて、よく言えば少年のように映画の中に遊び、悪く言えば観客の存在を忘れ果ててしまう。

昨今ね、観客におもねる判りやすい映画への批判的な傾向と、それに伴う判りにくい映画への賛美をよく聞くんだよね。確かに私はバカなので判りやすい映画の方が好きだし、そうした傾向にコンワクしている向きはある。
でも(こんな風に括っちゃうのもアレなんだけど)“判りにくい映画”であっても、それが自分の心のどこかに響くことはあって、それは確かに説明のつかないもので、それこそが作品の持つ力だったり、作家の力量だったりするんだと思ったりもする。
少なくともそんな“判りにくい映画”であっても、スクリーンのこちらに観客がいることは想定しているべきだし、想定している作品でなければ、“判りにく”くたって、心のどこかを響かせることなんて出来ないのだ。

本作の冒頭、英文がずらずらずらーっと並び、何かの文章を引用しているようなんだけど、日本語字幕も何もつけられないでそのまま本編に突入したもんだからアゼンとしてしまった。“イヤな予感”が早々に確信に変わってしまった瞬間だった。
そりゃあ、英語も判らないような日本人である私が、ハズかしいのかもしれない。常識外なのかもしれない。でもここで(こんなこと言いたくないけど)何スカしてんの、という気持ちを抑えることが出来なかった。
そして、本編中、台詞らしい台詞は数えるほどなんだけれども、そんなつぶやきのような単純な台詞に、ご丁寧に英語字幕をつけるのを目にしてしまったら、一体この作り手は誰に向かって撮っているのか、ベタな日本人には判らなくていいとでも思ってるのか、と……なんかひどく憤ってしまったのだ。

ていうかさ、この作品自体がベタすぎて、見てられないぐらいだっていうのが正直なところなんだもの。
冒頭の、日本語訳も何もない英文の引用から始まって、それこそ劇中の主人公の男性が読んでいる本も横文字で、思わせぶりに表紙を大写しにされたって、何も解説されなきゃそれが何を示しているのか、浪花節が好きな超日本人の私は判んないよ。
いや、それだけではない。というより、この作品全てが「長年の夢であった映画制作」をベタベタに示す、クサいアイコンで埋め尽くされているもんだから、たった77分が苦痛でたまらないのだ。

麻薬、拳銃、コンパーチブルの車、しかもその車は炎上、バサバサと投げ出される札束、飛び出しナイフ、血まみれの謎の男……もう出てくるたんびにうっわと思うほどの、“ノワール映画”のアイテム。そうなると、モノクロで撮っているのも、かの映画へのアコガレが即座に想起されて、ちょっとゾッとしてしまうんである。
その中で、パートカラーになって二人の男の確執の過去が描かれ、しかもそれが思わせぶりな外国(ベルリン)の繁華街で、やたらブレブレでピントの合わない映像だったりして、そこにまた思わせぶりに乾いた拳銃の音なんぞが鳴り響いたりしてさ。
メインのクリアなモノクロと対照にさせているんだろうけれど、キザな思い入れにちょっとぞっとしてしまう気持ちが否めなくて……。

ああ、だからさ、こんなこと言うと、ホント、人でなしみたいでヤなんだけど!
でもあまりに記号的なんだもの。記号的な割に、ちっともストーリーが見えてこない。オフィシャルサイトの物語解説を読んで、ええ?こんな話だったの?と驚いたぐらい。麻薬だの過去の因縁の男だのは何となく判ったまでも、それ以外は全然判らない。
何より判らないのは、売人の男が囲っている女に対して、「お前は変わったんだな!」と言うクサ過ぎる芝居である。
正直、彼女がそんな違いを醸し出した感慨さえ起こらなかったし、この彼女に初めて名前を呼びかけた、その名前が「マリア……」だったことに、ゾワッと寒気が走ってしまった。マリアて!そりゃ、日本人にない名前ではないけれど……。

しかもご丁寧に、彼女が悠然と去った後(だから、彼女がそんな“変わった”様子は観客(少なくとも私)にはちっとも伝わらなかったけどさ)、彼はガックリと膝を折って顔を覆うんである。
……作り手としては、彼の手の内にあった彼女が、誰か他の男のモノになってしまったということを示唆したかったんだろうけれど、それは観終わって、そしてオフィシャルサイトとか色々見て推察できることで、観てる時はガクリと膝を折って顔を覆うキザな男にサムい気持ちしか起こらないんだよなあ。
しかも……この“マリア”が心を移した男もまた、キザな設定なんだもん……。

そもそも私は、こういう女の造形は、一番キライなのだ。殊更に、ワザとらしいまでに台詞がないというのは、彼女のキャラが最も反映されていたんだろう。
麻薬売人である彼をチラチラと気にして、隠れてクスリを吸う彼女を、彼が打ち据える。その場所が、洋酒の瓶がズラリと並べられているバーのような場所。
後にシブいジャズなど聞かせて、これまた思わせぶりなカネの受け渡しをするセクシーな女なんぞも登場する場面があったりして、これもひたすらベタなんだよなー、だってバービー人形みたいな付けまつ毛に網タイツだよ?

こういうのが映画的だと思っているのかもしれないけど……正直古いというか、いや、古いというならその時代の映画は成り立たない。つまり……なんかやりたいことを提示しているだけに見えちゃうんだよね。
それに、台詞が少ないというのは、ストイックとかそういうんじゃないのだ。だって、結局伝わらない。脚本力がないとしか思えないんだもの。

でね、ちょっと話がズレちゃったけど、このマリアという女の子である。
ヤクを隠れて吸っているのを発見されて、引きずり出されて殴られるシーン、明らかに殴ってねーだろという、往年の東映映画でも、もうちょっと上手く撮るよというカットバックでいきなり興醒めさせられ、しかもヒクヒクと泣き出した(この泣き方もイラッとくるのよ)彼女をいとおしげにキスでなだめるシーンでやめてくれよと思い……。

その気持ちがなんとか収まったあたりで、廃墟で瀕死の状態の男(!)を彼女が見つけ、しかもその瀕死の男はやたらストイックで(!!)献身的な彼女の救いの手を神経質に断わり(!!!)しかし彼女は、自分が救い出すことが出来た男、ということに手ごたえを得たのか、彼を囲い続けて、自ら衣服を脱ぎ捨てて彼を慰め(!!!!……ていうか……(嘆息))
明らかに変わった彼女に気付いた売人の男に、女としての本能が目覚めたのか(……だからさ、こーゆーマッチョな視点がホンットにヤなのよ)、今度は自分から主導権を握るべく、自ら衣服を脱いで誘いこんで、彼もまた取り込んでしまうんである。

そう、こういうマッチョで、弱い女が性欲に目覚めるってな設定が、いかに女にとって屈辱か、判ってほしいのだ。何でって、こんな安っぽい発想って、ないから。安っぽく見られているという、この悔しさ。
この、唯一の女性キャラであるマリアが、ホンット、この名前自体屈辱的だしさ。彼女が敬虔なキリスト教徒で、イエス様に手を合わせてるシーンで、あまりにも目薬な涙を流すのにもヘキエキしてしまう。
それとも彼女が傷ついた男に自らの身を差し出すのは、貼り付けのキリストへ捧げる行為なのか?……そう見えなくもないだけに、返ってイラッとしてしまうんだよね。
そう……キリスト教は実は家父長的なんだもん。マリアはセックス(女の喜び……これもどうかと思うけどさあ)も知らずにイエスをもうけ、神の母親としてあがめたてまつられる。ああ、ここから女の出産マシン伝説は始まったのだ。

……そう、この彼女が失語症だか吃音症だか判んないけど、無言のシークエンスが過ぎた後、たどたどしく言葉を綴って男に身を差し出したのが一番イラッとしたんだよな……。
こう断じちゃ女のヒステリーと言われるんだろうけど……余計なことを言わず、傷ついた男を心配してくれて、ついでに自ら腰を振ってくれる女なんてさ、そりゃー、理想だろうってさ。

女の騒々しさを男性はよく言うけど……腕力、社会的地位、そして歴史を思えば……女はせめて声をあげなきゃ、人間としての地位さえ確保できない。
正直、このマリアという女は、現代に必死に生きている女から見ればサイアクだ。
ヤクに溺れ、その原因である男に甘いキスで守られているように錯覚させられ、女の武器は身体(セックス)しかないとこれまた錯覚させられ、最終的に男の子映画のソエモノとしての印象しか残せないなんて。

ベルリンで殺しそこねた相手とかどうとか、思わせぶりにブレブレの映像で正直ウンザリしていたし。
二人の男が運命の再会をして、拳銃とジャックナイフ、そして彼女の「ヤ・メ・テー!」というたどたどしい叫び声という、どこを切っても古くさいカットバックで。
その末に、こんなの、往年の東映映画(また……)とかで見た気がするってな、首筋から霧のような血が噴き出す場面で決着がつく段に至っては、うっわ、最後までまるで計算されたように超ベタなもんだから、これは笑ってもいいのかしらん、と思ってしまうぐらいだったが……しかしまあ、さすがに笑えなかったけどさあ。

ほおんと、全てがベタなんだもん。これぞ映画的って画が、これでもかと出てくる。ロケハンしている時点で盛りあがっちゃったのかなあ、って憶測されるような画が満載。
例えば、最初から提示されちゃう道路。行き止まりな感じ。もうここで、奥から走ってくる、あのキザっ他らしいコンパーチブルがユーターンするのが丸わかり。

思わせぶりに何度も森の奥へと誘導する「LAND FOR SALE」の看板(しかし、tsuboいくらってな表示もあるあたりがおまぬけだし)やら、ヒロインがタンポポ畑の中で気持ち良さげに横たわって、かたわらのタンポポを鼻に持って来るシーンの、半世紀前の少女マンガで見たような画に、ひえーと思ってしまう。
いや、このシーンが、彼女の心理を観客に伝える力があるならいいけど……先述のような、勝手に男が頭を抱えているシーンの後だからさあ。
まあたしかに、そう考えてつなげれば推測できなくもないけど、女はそんな思考回路は持ってないよ。

一番キビしかったのはひょっとしたら、あまりにテキトーな音楽だったかもしれない。音楽をハズして考えれば、結構気を使って映像を紡いでいたのかもしれないとさえ思うほど……ビックリするほど、カラリとした80年代ぽい(というのはまだ言い訳である)、安っぽい、もっと言ってしまえばテキトーな音楽が採用されているもんだから、ビックリであった。音楽担当の方は他の映画でも聞いたことあったハズだが、そんなことは思わなかったのに。
……ジャズバーのシーンではそれなり(というかありがち)のスタンダードジャズが気だるげに、オシャレっぽく流れているのが唯一救いだけど、そこで登場するヤクの仲介人の女がこれまた信じがたいほどのアリガチでさ……まあ、さっき言ったけど、ミニスカから覗くのはミツバチの巣を思わせるような超スタンダードなアミタイツに、60年代かってな付けまつ毛なんだもん。
……ああ、やっぱり私は優しくなれない。

ならば、映画をどう作ればいいんだろうとも思う。
今はさ、誰もが、映画ならずとも、すべてのものが作れる時代だから。
でも、万人に公開できる方法があるのは、結局は映画だけなんだよね。テレビ作品も小説も美術作品も、それなりの方法はあれど、一回こっきりだったり、すべての人の目に触れる機会がなかったりする。
映画は何気に古いメディアだと言われているけれど、ネットとの関係も深かったりし、意外にそうでもなく。
でも……それがいいことだと言い切れるものでもなく。

私は……結局は、最終的に、何と言っていいのか判らないのだ。
だって私はそんな言う才覚も資格も権利も義務も……何も何も、何もかもないのだから。
何もない私と違って、それを持つ人たちは、表現を示し、公開する義務も権利もある。
そんな才能のない私は、ただそれを、よだれをたらして眺めているだけだった、のだけれど……。★☆☆☆☆


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