home!

「く」


2015年鑑賞作品

グッド・ストライプス
2015年 119分 日本 カラー
監督:岨手由貴子 脚本:岨手由貴子
撮影:佐々木靖之 音楽:宮内優里
出演:菊池亜希子 中島歩 臼田あさ美 井端珠里 相楽樹 山本裕子 中村優子 杏子 うじきつよし


2015/6/7/日 劇場(新宿武蔵野館)
タイトルの意味が観終わってもなお判んなくてモンモンとしていたら、オフィシャルサイトを覗いたらすぐに掲げてあった。「素晴らしき平行線」えーっ!それを判ってて観たら、全然印象違ったに違いないのに!
そういうことだったのかと、二人の物語を後からつらつら思い出すにつけ納得はするけれど、それが観終わった後では、お、遅すぎる!えっ、私が気づいていないだけで、劇中でそんな示唆はあったっけ?いやいやいや……。
正直、オフィシャルサイトを覗かなければ永遠に気づきそうにないし、ちょっとタイクツな映画だったナ、という印象で終わってしまうところであった!いやいや、何とも失礼な言い方だが……。

でもね、二つ隣の席のオッサンが、後半になるとこれ見よがしのような音を立ててあくびを連発してて、イラッとはしたけれど、オッサンの気持ちも判らなくもないなあ、と思いながら見ていたから。
正直、この二人を描写して、何を言いたいのか判らなくて、見せられている感が強くなって、その気持ちがピークに達したあたりの、オッサンのあくび連発、だったんである。
私もオッサンも感受性がニブいということなのかもしれんが、このタイトルの意味をさりげなくでも示してくれてれば、本当に印象は違ったと思う。

素晴らしき平行線、そんな言葉があるのということ自体も新鮮なオドロキだし、それは確かに、現代社会のカップルにとてもよくあてはまる価値観だと思う。受動的で流されていく先に希望が見えるような、のらりくらりな二人にシニカルなユーモアだって感じられたと思う。そしてそこから先の日本に、この価値観がもっと能動的に魅力的に進化する予感も感じられたかもしれないと思う。
だってそれは、いまだに男女同権とは程遠い社会の中で、自分の生きたいように生きる、というシンプルな欲望で知らずにそれをつかみ取ろうとしている女の無意識の強さ、それが未来の日本の希望に思えるから。
だから、凄く、悔しい、ただのんのんと見てしまったことが!!

だってこの二人は、二人を演じる役者は、とても魅力的だから、だから足を運んだんだもの。
菊池亜希子と中島歩。菊池嬢は平凡すぎず、とんがりすぎずの風合いが案外得難い女優さんとしての好感。サブカル方面での人気があるらしいというのは、初めて知った。でもそれにはあんまり興味ない(爆)。だって映画の中で生きている彼女であることに、意味があるのだから。
うじきさん演じる真生(中島歩)の父親が言う、「可愛げがないところが、なかなか可愛い子じゃないか」というのがイイ感じにハマる。こういう女の子はかなり好きである。女くさくないところがイイ。
ただ、彼女に対比する形で、いかにも女くさい女を出してきたのにはちょっとナアと思いもしたけれど、それはまた後述。

中島歩氏は、出世作は朝ドラなのだろーが、私は見ていなかったので(爆)。ボーヨーとした感じが時にイラッとさせる、彼の母親言うところの、「自分だけが我慢している、という顔を見せられると傷つくのよね」という、優柔不断&優しさというものをはき違えているかもしれない草食男子。
おっと、うっかり草食男子と言ってしまったが(いやだって、オフィシャルサイトの解説に書いてるんだもん)、友人の結婚式で再会した女くさい女(ひょっとして元カノ?)の誘いにほいほい乗るんだから、フツーの肉欲男子だよなと思う。草食男子のように見せているのがタチ悪いかもしれない。
でも恐らく、緑(菊池嬢)はそれを知ったとしても、ああ男にはありがちね、と言うような気がする。嫉妬に狂うタイプじゃない。
それはまさに、現代の女の子で、確かにタイトル通り、グット・ストライプス、なのである。結局このお粗末な浮気は、バレる価値すら、ないのだし。

まあその、ちょっとよく判らなくなってきたのでざざっと概略申しますと、マンネリカップルがいまして、男子の方が長期出張、なんか雰囲気はもう別れる潮時、みたいな。
この冒頭のインド料理屋のシーン、彼氏が出張に行くのがインドだから、という理由であろう、「ムリして食べなくていいよ」と彼氏が言うのは、仏頂面したまま、大量の注文を黙々と彼女が食べているから。
「おいしそうに見えなくても、美味しいの」この彼女の台詞がやせ我慢とか、アテツケとかではないことが、この時点できちんと判れば、良かったナァと思う。後から彼氏の父親が言うところの「可愛げのないところが可愛い」とりつくろったり芝居したりしない、女の子なのだ。

後に彼が女くさい女と束の間の浮気をするところでよーく判るんだけど、流し目を送って、カノジョの留守にバーに呼び出して、「カノジョさんはどんな人なの」なんてしたり顔で聞くような女に、コロリと参ってしまうのが男、いや真生という男なのだ。
なんてゆーといかにも私ゃフェミニズム野郎だが、「イイ男(女に優しい男)に育てようと思ったのが失敗した」と母親が嘆息する、優柔不断な男、真生と、そんな彼にクールに切り返す緑は、その描き分けは、やはり女性クリエイターだからという気がする。

真生が浮気相手のセックスの途中でハタと動きを止め「いやなんか……動物みたいだな、と思って」と正直に言っちまって女から猛反発を食らうのは当たり前なのだが、このシーンに関してだけは、作り手の優しさを感じた、ように、思う。
この台詞は相手に対してなのか、自分に対してなのか、明確に示されてはいないのだけれど、女は自分に対してだと思ったに違いなく、それは彼女自身が自覚しているからこそ、なのだ。

彼は自分自身がそうだと思ったのかもしれないんだけれど……こういう風に、無意識に女を傷つけるところなんか、ちっとも優しくなんかなくて、それこそが彼の母親が嘆息するところ、形だけの優しさを教えてしまって、自分勝手になってしまった、というところなんだろう。
そしてそれこそが、現代の女たちが現代の男たちにイラッとするところであり、だから、女性クリエイターの描き方だなァ、などと勝手に推測して共感を深めてしまうんであった。

緑の方だって、言ってしまえば自分勝手で仕事に本腰入れないからバイトのまま昇格出来なくて、ていうようなキャラは用意されているんだけれども、それは彼と対比する形での、若干の判り易さに過ぎないような気もしている。
それになんたって彼女はまず、妊娠してしまった!というところから始まるのだし……。何よりイイのは、授かった命だからとか、そういう人道的な理由じゃなく、産むことや結婚を流れで決める二人、という点なんである。

五か月にもなってしまったからもう堕ろせないよ、結婚……する……よね?みたいな。なんて言い方したら、それこそ人道的に問題アリだけれども(爆)。
もう堕ろせないよ、というのはそれこそ話の流れで言ったにすぎず、緑も真生も、そして現代社会の男と女は、深刻そうにはハタからは見えないかもしれないけれども、それなりに深刻な判断を流れの中で徐々に決意を固めていくというスタイルでやっているということなんだろうと思う。
その場で決意や表明を固めることを望まれる、彼らの親たち世代にはなかなかに判ってもらいにくいこの感覚。その価値観はある意味体育会系であり、緑が文化系女子と設定されている(でもこれも、オフィシャルサイトを覗いてそうなのかと思ったぐらいなんだけど(爆))、ことはそういう意味合いがあったのかもしれない、と思う。

グッド・ストライプス、な展開は、これまで4年も付き合ってきたのに、お互いがお互いの境遇をちっとも知らなかったことを、家族へのあいさつやらなんやらで、知ることになる、ってコトなんである。
でもそれは、話していなかった、とも言いきれない。真生は劇中でも緑から「妹は花火師」と聞いているのに、いざその妹からそれを聞かされると「聞いてないよ、何、花火師って!」と驚くんである。
会話の流れ的に、話を盛り上げるためとも思われないリアクションであって、それこそが真生であり、真生と緑の関係であり、現代カップルの姿であるように思う。いい意味で、ね。悪い意味でもかもしれないけど(爆)。

結婚となると途端に家族間の問題となるのが、確かに今までの日本の文化だった。今でもそうかもしれない。本作で描かれる、結婚が決まって急にお互いの家族やこれまでの生い立ちを知る、というのは、まさしく、結婚=家族という意味合いなのかもしれない。
そこを作り手側が明確にどう考えているのかは、正直ちょっと、判りかねるところはある。タイトルの価値観は尊重すべきものなのか、アンチなことなのか。お互いを知らなければ何も始まらないという逆説的テーマだったのか。
マンネリカップルが結婚からロマンスが始まる、という、お互いが知らないことがどんどん出てくるスリリング、ということだったのか。

宣材写真は、幸せそうな笑顔で神前結婚式に臨む、はかま姿の真生と白無垢に華やかな髪飾りをつけた緑、のアップの写真だった。
それは、緑の妊娠が発覚してからの半年近くの、二人の冷めたやりとりからはイメージしにくい、まるでラブラブカップルの結婚話のような一枚であり、でもそれをこの映画の一枚とするならば、そういうことなのか、と思った。ここから始まるのだ、二人の物語は、という。

真生側は、幼い頃に両親が離婚して、ずっと会っていなかった写真家の父親とのエピソードが基本となる。久しぶりに会ったら若い恋人がやはり妊娠中で、ラスト、結婚式にはちょうど出産をひかえて出席できない。
長いこと会っていなかったのに、この身重の恋人が彼に「私のしてみたいと思うことを何でも叶えてくれる。真生君もそうだったんでしょ」と言うもんだから、ウッとつまって、荒れちゃうんである。なんという幸せなおぼっちゃまである。確かに彼のお母さん言うところの、育て方を失敗した、てなところである。

ところでこのお母さん、女医として緑の妊娠も診るお母さんを演じるのがなんとビックリ、杏子様。杏子様的独特の節回しに結構ドキドキする(爆)。
そして、別れたダンナがうじきさんで、久しぶりのダンナとの再会にまるで時間を感じさせずに屈託なくしゃべっている様子が、杏子さんとうじきさん!!というカンドーもあいまって何ともじーんとするんである。

緑側は、決定的な決別という訳ではないものの、なんとなく相容れない家族との関係、という感じである。
同じく上京している妹とは仲良くやっているものの、家に残っている姉のことは「デブ」と吐き捨て、ガンコそうな父親に対しては「仕事の話は聞かないで」と真生にクギを指す。加えて母親は、「長いこと働いているんだから、正社員にはなれないの……?でも、(真生に)貰ってもらえるんなら、ねぇ」と、女の甘さと弱さ全開の台詞をまるで無意識に発する。

フィーチャーされるのはキャラの立ったデブ姉ではあるが、案外この母親こそが、最も緑をいら立たせていたんではないかと思ったりもする。そう明確には示されていないけどね……。
客人である真生に、「まず仏壇に挨拶して」と指示するあたり、家父長制度を疑問なく受け入れている女、という感じがアリアリだしさ……あれ、またフェミニズム野郎になってるなあ。

デブ姉は判り易く“ムカツク”姉である。稼業が傾きかけた実家を公務員である自分が支えているんだと公言し、好き勝手生きてきた妹たちをねちっこい言い方で罵倒する。
一番許せないのは、妹の青春のかけらを勝手に掘り出して真生に公開するシークエンス……好きな洋楽のサビばかりを集めたり、ラジオDJに扮して録音したカセットテープ(判るー!!)、イキがってた金髪派手メイク口ピアスの写真……。

でもつまり、それだけ、お姉ちゃんは妹のことをつぶさに知っている訳であり、無関心とか興味ないとかじゃなかった、ってことなんだよね。それこそ愛憎、というヤツなのだろうが……。
ああ、きょうだいって、そこをうまくはき違えなければ、きっとうまくいく、それだけの単純なことなんだろうなあ……判る気がする。

犬とカメ、そう、犬とカメ!緑はカメを飼ってて、真生は犬、フレンチブルドッグを飼っている。
画的チャーミング度からすれば圧倒的に犬のチセに軍配が上がってしまうので、なんかズルい!犬の活発さのイメージとは程遠く、のてっとして、猫のように抱かれ、階段も降りられないから抱き上げられるあたりが(涙)。
でもでも、ストーリーとして起伏を与えるのはカメ君の方よね。このカメ、カシオペアを愛するあまり緑は腕にタトゥーを彫っていて、真生のお父さんをビックリさせるんだもの!だって、クールな緑の風情からは、確かに想像しにくいからさ!

そして、なあんとなく二人の関係がゆるやかにまとまったある事件、真生のお父さんに会いに行った和歌山で、ちょっと親子げんかがあって、ぷいと出ていった真生を追っかけて犬の散歩がてら真っ暗な夜道を出掛けた緑が、まるで魔法のように瞬間に姿を消しちゃう、側溝に落ちちゃう。たまたまカギのかかってなかった柵から魔法のように落ちちゃう。
その描写の鮮烈さにも目を奪われたけど、目の前に現れたカメと目が合って、くしゃみするカメに思わず微笑んだ緑、そして落っこった緑を真生が発見して……。

なんか本当に魔法のように、硬かった真生との関係がゆるやかに穏やかになって、結婚式のラストシーンへとつながってゆくのが、本当に魔法のようでさ。これは犬では確かにできない。カメでだよね、と思ってさ。
で、ほどなくして死んでしまったカシオペアのために、緑の妹が弔いの花火をあげるシーン、決して暗くはなく、穏やかさがあって、イイんだよね。

そう、こうしてひとつひとつエピソードを思い出してみると、魅力的なだけに、さ!緑の勤務先のカフェの同僚、臼田あさ美嬢との、友達としての亀裂が入る何とも言えないエピソードも凄く良かったし……。
彼女がキーボードとして参加しているバンドのライブシーンがふと和ませ、一方で展開のキーポイントにもなるという……。ライブの予定を教えたかどうかで、もめる訳よ、この同僚同士が。

特に女子って、恋人とか結婚とか、何より妊娠とか絡むと、会う約束とかがどうしても上手くいかなくなってしまう。
緑は妊娠での体調のせいもあってか、記憶力も散漫になってこの同僚と気まずくなるんだけれども、それを妊娠のせいにされたくないという苛立ちこそが、今、自分の生き方を、その価値観を通して生きていけてる筈の女子が実はしがらみを抱えているという、過渡期の状態にあるんだと思う。
それを判ってあげたいのに、妊娠の経験がないから判ってあげられない、なんていうこれまたジレンマに陥る未婚女子、みたいなさ……。うぅ、結局フェミニズム野郎の論述になってしまった、ゴメン!!★★★☆☆


海月姫
2014年 107分 日本 カラー
監督:川村泰祐 脚本: 大野敏哉 川村泰祐
撮影:福本淳 音楽:前山田健一
出演: 能年玲奈 菅田将暉 長谷川博己 池脇千鶴 馬場園梓 太田莉菜 篠原ともえ 片瀬那奈 速水もこみち 平泉成 内野謙太

2015/1/11/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
本作のことを「単館公開にしたら成功したかもしれなかった」などと、ありがちなことを言っている記事をどこかで目にしたが、まあ私も同じことを言ったかもしれない。
つまりそれだけ、”あの能年玲奈の主演作”としては興行収入的にコケてしまったらしく、でもまさにそれは、大規模公開にしてしまったからこその、動員比率の問題であって、スターになってしまった役者さんの作品というのはただ作りゃいいってもんじゃないらしいあたりが難しいのだなあ。
まあでも、観客にとってはそんなことは全く関係のないことであるからなあ。

確かに、シネクイントにかかりそうな映画だなぁ、とは思った。なぜピンポイント(汗)。でもこのカラフルな感じとか、世界が絞られている感じとか、カルチャーな感じとか、なんともシネクイント的、なんだよなあ、と思う。
壁ドンばやりの青春恋愛映画(去年はホント多かったね。ひとつも観なかったが(爆))と一線を画すことは確かなことであり、公開形態や興行収入なんぞで女優の才能や存在をクサすなんてこと、してほしくないんだけれども……。

でも、じゃあだからといって、本作にもろ手をあげて賛成出来たと言えるのかは、ちょっと難しい(爆)。本作の原作がコミックスで、アニメでも人気を博したと聞くと、やはり、そちらでならば成功したであろうと思う。
あるいは本作の監督さんが、のだめを手掛けたお人であると知ればなおさらなことである。
コミックスの最大の魅力は、主演以外にも魅力的な登場人物が多数いて、それぞれのエピソードが少なからず用意されていて、それらが絡み合って進んでいく面白さに他ならないんだもの。

つまり、やはりキャラクター文化なんだよね。物語は彼らがいてこそ紡ぎだされるもの、そういう文化。それが2時間前後という尺が決まっている映画となると、本当に難しいと思う。
表面上はハチャメチャ、ポップ、ドラマ性もあるけれど、それぞれのキャラクターが深く掘り下げられることは不可能に近く、なんか見た目、ディープそうなオタクさんたちという、なんとなくの面白さのままでしかない、んだよね。
それは、あれだけドラマで大盛り上がりしたのだめが、そのシメという形であっても劇場版ではやたらと筋だけを追う急いた印象で終わってしまったことを考えると、やはりなあ、と思うんである。

本作はその中でも、きちんとヒロインと彼女を取り巻く二人の男に焦点を当てる形で、決して物語がボケている訳ではないけれども。
そのヒロイン、月海は古びたアパートの天水館、そしてそこで共同生活をしている様々なオタクさんたち、通称”尼〜ず”と過ごす日々こそが居心地よく、大切なアイデンティティ。だったらその世界が一番にクリアに描かれないと、やっぱり厳しいものがあると思う。

いや、天水館のビジュアルはとても魅力的だし、共同生活している彼女たちの風情……男は人生に必要ない、オシャレ人間たちは敵!という愛しいかたくなさは、私自身、かなりしっくりくるものがあるのだが(爆)、でも、一人一人が、み、見えない、見えにくい!!
ただ一人明確に判るのは、和物オタクの千絵子さんに扮するアジアンの馬場園さんだけで、私の愛するちーちゃんが鉄道オタクのばんばさんだったことを、ラストのキャストクレジットで知って衝撃を受けるんである。

しのらーが枯れ専のジジ様だってことは、彼女が「今やってる映画で能年ちゃんと一緒なんですよー♪」とPON!で言ってたから(爆)、判ってたぐらいで、それでも目を凝らして見なければしのらーなんて判らない。
ちーちゃんと、そして三国志オタクのまややを演じる太田莉菜嬢は目が隠されているからホント、キビしいんだよね。それでもまややはクライマックスのファッションショーでお顔もばっちりさらされるけど、ちーちゃんは最後までアフロで目が隠されたまま。判んないよー(泣)。

目が隠されているから判んないだけじゃなくて、キャラ的にもそれぞれのオタク分野は、最初の説明と、会話の時にそれなりに滑り込ませるそれぞれの嗜好に匂わせるぐらいで、彼女たち一人一人のオタク愛を堪能できるまでにはとてもとても至らない。
だってそうよ、前述のように、それには尺がとても足りないんだもの!!しかも本作は、彼女たちのオタク愛を描く物語ではなくって、皆で作り上げるファッションブランド、それが再開発事業でぶっ壊されしまいそうになるこの地区を救うことになる、という大きな展開になっていく訳で。

”クラゲのドレス作り”が出てきたらもはや、それまでもかなり薄かったオタクさんたちの専門分野は、彼女たちの外見上にのみとどまるしかない。
あとは彼女たちはドレス作りと、それが地域を救うという大きな展開にのみ込まれていく訳で、……オタクである必要はどの程度あったのかしらん……などと思っちまうんである。

いやさ勿論、彼女たちがオタクであり続けるために、この天水館の存在は絶対必要だったからこそ、蔵之介にそそのかされる形ではあっても、結束した訳なんだけど、ちょっとそれが見えにくいんだよね。
なんでだろ……ヤハリ、どうしてもヒロイン、月海の話に特化してしまうからであり、しかも月海に関してはオタク愛と共に恋愛感情(恐らく彼女初の)も絡んでいく訳だから、しかもしかも、これぞモテ期というヤツであろう、イケメン兄弟両方から思いを寄せられる訳なんだからさ、そりゃ薄れるよね、っての!!

……相変わらずよく内容が見えないので、最低限の概要だけでも示そうかしらん。
月海はクラゲオタク。クラゲの絵ばかり描いていて、イラストレーターになるのが夢。クラゲの絵だけではイラストレーターにはなれなかろうが、それをツッコむ前に、運命の男子が、これをドレスに仕立て上げようと提案してきた。

男子、でも最初は女の子だと思ってた。女装が趣味の蔵之介。いわゆる男の娘 ってヤツであろう。それで言えば彼だってオタクの一員なんだよね、考えてみれば。だからこそ家族からは異端児扱いされている訳だし。
でも、彼はあくまで政治家の息子、もっと言ってしまえばメカケの子、という立ち位置こそがこの物語の中では重要視され、てか、それ以外には見られず、すんごくもったいない気がする!!んだよね!!

大体、この立ち位置、”政治家の息子、もっと言ってしまえばメカケの子”って、昭和かよ!っていう……今時こんなん言うか!っていう……まあ今時こんなことも言うのが政治の世界ってヤツなのかもしれんが、それこそマンガの世界でマンガチックに描くのなら、キャラのアクの強さだけでも面白かったと思うんだけどねー。うーん、難しい。
正直なことを言えば、女装男子、男の娘もオタク分野のひとつ、彼もまた、尼〜ずの中に入りうるべきオタクなのだということを、誇りをもって示してほしかったと思う。

そう、誇りをもって、よ。オタクの世界を描くなら、オタクであることを誇りをもって示してくれなければ、という思いがある。仲間意識、それこそこれぞハヤリ言葉である”絆”の世界は張り切って描かれていたけれども、それって昨今ありがちな、とりあえず”泣ける映画”になれば成功、という感じもして、あんまり好きじゃない。
彼女たちが自嘲気味ではあるにしても、アイデンティティとして決して譲れない筈のオタク分野が、正直全然見えなかったし、そこに入り込んできた、彼だってオタクである蔵之介も、彼女たちのそうしたアイデンティティを尊重するって部分が見えなかった、てのが更に、キツかったかな、と思って……。

いや、蔵之介に関しては、オタクである部分ではなく、それを含めての、ろ過しての、彼女たちの個性、得意分野、オタクであることだけでは示せなかった、社会との接点というもの……を見出した、ということなのかもしれない。それは自分自身も含めて、ね。
でも、だとしても、それはやっぱり、彼女たちの”好き”の部分を充分に咀嚼し、尊重してからにしてほしかったと思う。だってそうでなければ、全然一人一人が見えてこないんだもん。

……うーむ、概要を示すとか言って、結局やっぱり立ち止まっちゃうなあ。いや、だって、この尼〜ずの中に入り込んでくる"男の娘"である菅田将暉が、いわば彼がヒロインと言いたいぐらい、華やかで、だけどその裏には暗いバックボーンがあって、だからこそのアイデンティティがあって、だから、それを彼女たちと真の意味で共有してほしかったんだもの。
確かに彼女たちをリードはするけれど、それが、同じ魂を持った同志である、ってことまでには至らなかったのが、もったいない気がするんだもの!!

”男の娘”というのはそれこそ私も後で気づいたが(爆)、劇中では、そんな風に特化されたオタクのひとつの分野であることさえ、明示されなかったし。
ただ、離れ離れの母親がファッションデザイナーであり、その血を受け継いでいるという程度の、いわば表向きなこぎれいな理由。それじゃ、彼女たちの中に入り込んでいく意味がないんだよ!!

……うがちすぎかなあ。でも、彼女たちのアイデンティティを守るための、この地域の再開発を守るためのファッションショー、なんだからさ!
……そのことばかりに気を取られてると、もう一人の重要なイケメンを言い落しそうになる(爆)。イケメンという言葉はキライだが、そして判り易いイケメンでは決してない、そんなことでは図れない魅力のあるお人だとは思うが、ヤハリドキドキしちゃった長谷川博己!!

彼は、蔵之介と違って堂々と表向きの正式な血筋の、政治家の長男。しかしそれゆえにか、純潔育ちの世間知らずのせいでか、30も越える年でいまだに童貞。
てことをバラすのは、幼馴染で親友なのに、高級車に目がなくてこのネタをバラしてしまったってゆー、サイテーだけど思いっきりマンガチックなキャラを見事に演じてくれるから憎めないもこみち君。
彼や、野心バリバリのデベロッパー社員、片瀬那奈は、文句なく完璧なマンガチックキャラ、いや、これだとネガティブな響きだな、コミックスならではの冴えを見せる立ったキャラで、凄く納得できるんだよね。

それは本作のすべての登場人物がそうである筈、なんだけど、重点が再開発事業、それを取りやめさせるために立ち上がる天水館のメンメン、という展開になっていくもんだから、もこみち君や那奈さんのキャラは、純粋に立っちゃうんだけど、尼〜ずのメンメンは……。
キャラクターってのは、展開のためにある、のかもしれない。尼〜ずたちのキャラクターは、展開のためではなく、彼女たち自身のためにあるから、展開こそが大事な映画という尺では、生きてこないのよ。そしてそれが、本作にとって最も大きな損失な訳!!

うーむ、脱線ばかりしている。長谷川博己のステキさを言おうと思っていたのに(爆)。
彼のキャラは、30すぎて童貞というそれなりのくくりはあるにしても、まー、それってそれほど珍しいこと?あるいは重要なこと?という気持ちもあるし、他のメンメンがオタクという、つまりはアイデンティティを持っていることに比すれば、彼だけが、それを持っていない、とも言える訳でさ。
片瀬那奈嬢なんかは、実はアイデンティティという点では一番持っていないのかもしれないけれど、それに一生気づかないでいられる、いわば幸せな人なのかもしれない訳でさ。

で、長谷川博己演じる政治家の長男、つまりボンボンの修は、月海に恋しちゃう訳。
でもその時、月海は蔵之介によってオシャレ女子に仕立て上げられているもんだから、次に再開発の説明会でオタク姿の彼女に会った時は気づかない。でも、更に次に会った時……その横顔、クラゲにキラキラした瞳を注いでいる、それでハッとして、ますます好きになっちゃう。結婚を前提に、とまで言い出しちゃう。

お互いドキドキの初デート、着物姿の能年ちゃんもカワイイが、なんでもないスーツ姿の長谷川博己にめっちゃめっちゃ、死にそうにドキドキしちまうんである!!
展開的には、月海はじめ、尼〜ずの全てを判ってくれる蔵之介こそが運命の相手なんだと判っていても、うう、ううー、だって普段、スーツ姿の男子に接する機会がないんだもん!(爆)

美しい女の子だと思っていたのが実は男子だったことを知った場面が最も象徴的な、オタク女子、月海の石化の場面は、ピュアがゆえの彼女たちの可愛らしさを示す形でそこここに現れる。
それだけ蔵之介のことを”蔵子”とゆー女子だと信じきっていたのに、実は男子だったことが、それもテレビのニュースで明かされても、全然動揺していない、どころか、それですら気づいていないのでは??まさか……と思われるほどのスルーっぷりがちょこっと気になる……。

彼女たちにとって、だって尼〜ずと自称するぐらいなんだから、オトコというのは本当に鬼門だった筈なのだが……勿論、”蔵子”が彼女たちの中にしっかと入り込んだということなんだろうけれど、「男の子だったんだね」という一言も何もナシだと、さすがに気になるんだよね……。
だってこの乗り越えは、彼女たちが、いわば”尼〜ず”であることを乗り越えることであると思うからさ……。なんかそーゆー、少しずつの場面が、どうしても捨て置けなく気になるんだよう!

それでもクライマックスのファッションショーのシーンは圧巻だったし、感動もしたんだけどね……。最後のドレスをうっかり汚してしまって、急ぎ洗って乾かそうとして、だれもドライヤーを持っていない、というまさしくオタク女子!というコミカルな危機を乗り越える場面も可愛かったが、しかし一人は和物オタク……たった一人、外見のオシャレをしっかとしている千絵子さんさえ、ドライヤーを持っていないというのは??
いや、そうか……和装、古のファッション、当時ドライヤーなぞある筈ない、という流れ、なのか?そこまで親切に考えなきゃいけないのか……?? ★★★☆☆


鞍馬天狗
1959年 87分 日本 カラー
監督:マキノ雅弘 脚本:結束信二
撮影:三木滋人 音楽:鈴木靜一
出演:)東千代之介 美空ひばり 丘さとみ 月形龍之介 円山栄子 原健策 千秋実 片岡栄二郎 吉田義夫 沢村國太郎

2015/4/9/木 京橋国立近代美術館フィルムセンター
まず私が日本史にまったく疎く(学生時代の授業は100%爆睡)、勤王だの佐幕だのと言われた途端にフリーズしてしまうので、観てる間はそのことはスルーして、今思わずいろいろと探るとますますフリーズして、もう投げ出したくなった(泣)。
おいおいおい、鞍馬天狗なんつー、痛快時代劇の代名詞的な作品を見てそんなところで立ち止まってちゃー、どーしよーもないじゃないの。いやさ実際、私の勝手なイメージでは、モノクロのもんのすごい古いカシャカシャ映画で、バッタバッタと悪党を切り倒すような、そんな感じで思っていたのだが……。

“モノクロの……”てあたりはアラカンあたりの知識をぼんやりと持っていたせいだと思われ、東千代之介が演じる本作は、そういう意味では最も新しい部類に入ることを今更ながら知るんである。
美空ひばりだもの、私だって同時代をすれ違ったスターだもの、新しい部類、なんだよね。そしてマキノ監督となれば、バッタバッタの痛快時代劇というだけじゃなくて、この驚異的に短い尺の中に、舞台となる時代を深く掘り下げて、いわば社会的に問いかけることさえ、しているのだ。そして私のよーなバカな無知女はおろおろするんである(爆)。

新撰組ってのが、現代では人気スターの印象があるからさあ、往時の時代劇に遭遇するたびに、新撰組が疑いようもなく悪党であることに、毎回驚いてしまうんである。それこそ当時は、新撰組の認識はこうだったんじゃないかと思う。それほどに、遭遇するたびに、悪党集団、なんだもの。
一体いつからこんなに新選組がアイドルスター並みの人気になったのか、そしてその理由は何故なのか。だって当然、本作はタイトルロールの鞍馬天狗こそがスターであり正義。彼が倒すべき敵、つまり悪党が、まっすぐ、新撰組、なのだもの。驚いてしまう。

だからこそ、名局長、近藤勇も、薄幸の美剣士、沖田総司もここでは、祇園の料亭で人気芸妓の小染に鼻の下を伸ばしている自意識過剰の天狗に過ぎない……。
なあんて、ウマイこと言ったとか、思ってない思ってない!その天狗を鞍馬天狗が倒すんだから、だなんて、言わない言わない!(言ってるけど!)
とにかく、この元々の構成からして、私には敷居が高く、おどおどしてしまったんだよなあ……。

しかも、鞍馬天狗を演じる東千代之介のアイラインが妙に気になったり(爆)。今で言えばキャットメイク?みたいな??ヒロインの小染を演じるひばりさんより色っぽい目つき(爆)。
白馬にまたがりさっそうと現れるだなんて、まさに白馬に乗った王子様の原点だよ!マスク姿が遠き西洋の怪傑ゾロを思わせたりする。ゾロも馬に乗ってたよね!でも黒馬だった気がする……。白馬というのが、やはり清廉さを思わせる。マスク姿が共通しててもさ。

マスク、とゆーか、正しくは頭巾姿、か。その姿は、鞍馬天狗の敵となる新撰組が、勤王党に化けて押し込み強盗、どころか殺人さえもしている(これこそが史実なんだよね……)、黒頭巾姿とリンクするのが、上手い描き方だと思う。
一見して、正義の味方、鞍馬天狗も、敵方に偽装して悪事を働くという卑怯なことをする新撰組が、見た目はよく似ている黒頭巾姿だというのがね、凄いなと思うのよ。なんか、観客を試されているような気さえする。ていうか、私がバカだから(爆)。

でも、バカな私もね、歴史苦手だからもう苦手!と言いそうになるところがね、踏みとどまった、どころか、もうすっかりきゅーんと、じーんとしちゃったのは、ひばりさんなのよ。
ああ、ひばりさん!いやもう、ひばりちゃんと、呼びたい。彼女がこんなに可愛かったなんて、知らなかったなどと言ったら、怒られるかしらん(爆)。
私のイメージは、極端なのよ。東京キッドを歌っていた天才少女歌手のモノクロ映像と、後に小林幸子がイミテーションしたような(爆)おっきな頭飾りでNHKの歌番組かなんかでろうろうと歌っている美空ひばりか、なのよ。

最近ようやく映画時代のひばりさんに触れる機会があり(すみません、今更ながら、遅まきながら、ようやく!!)、それでも、きっぷのいい、男勝りなひばりさん、のイメージが足されたぐらいだった。
こんな、恋する乙女、いやそこから一歩踏み込んで、好きな男になかなか会えない一人の女、そのはざまみたいな、初恋を知ってしまった初々しい少女みたいな愛らしさと、ただ一人の運命の男に出会ってしまった女の昂揚と苦悩、みたいなさ!
とにかくとにかく、何かもう、この一瞬の奇跡、言い様もなく可愛らしく、清廉な色気があって、もう私は、ひばりさんに釘付けなの!!いやもう、やはりひばりちゃんと言いたい。凄く凄く、可愛いんだもの!!

言ってしまえばひばりさん、いやさ小染は、鞍馬天狗の間諜、なんだよね。新撰組が出入りする料亭の売れっ子芸妓。彼らのヒミツの話に耳をそばだて、その情報を愛するダンナに耳打ちする。
小染を引き上げてくれた正式なダンナなのだから、その立場に遠慮することはないのに、本気で恋しちゃってるから、小染は苦悩しちゃう訳。

正義のために闘っている鞍馬天狗は、なかなか彼女の前に現れてくれない。いつだって秘密の場所の木に結びつけた文で連絡を取り合うだけ。たまに現れても、彼女の情報を聞き出せば、飛んで出ていってしまう。
売れっ子芸妓の小染だから、掴む情報も確かなだけに、小染は言い渋っちゃうのだ。だって、自分の情報を渡せば、恋する彼は飛んでいってしまうんだもの、まさしく天狗のように。

天狗のように、だよね。一体彼は、ナニモノ、なんだろう??少なくとも本作の中ではすっきりとは明らかにされなかった。ただ、くすぶった世の中を変えるために、全国の同志に声をかけて、今、新撰組を倒す時だと、機会をうかがっている。
クライマックスは、鞍馬の聖祭。京の人たちが雪崩を打って、山を目指す。ゆるやかな、しかし長い長い山道を群衆が鎖のようにつながって歩いていくさまを俯瞰でとらえるショットは、ツカミとして充分OK!であり、その後の、火祭りの勇壮さ、新撰組対勤王の志士たち、そしてそこに躍り込む鞍馬天狗!という、もう最高のクライマックス!!

しかし……お互いに一騎打ちを望んでいた近藤勇と鞍馬天狗は、新撰組側が近藤の意志を阻む形で、彼を羽交い絞めにして皆で撤退するという、かなり予想外な結末にあいなる。
ここまで来たら絶対に、近藤勇と鞍馬天狗のドラマティックな一騎打ちが見られると思ったのになあ。

でもヤハリその辺は、史実がある以上、ここで近藤勇を死なす訳にはいかんとゆーことで仕方ない部分があるのかもしれない……。
それに私がときめきまくったのは、なんたってひばりちゃん、いやさ、小染ちゃん、なのだもの!!私にとってね、本作は鞍馬天狗でも新撰組でもなく、痛快時代劇ではなくって、ラブの物語だった、のでした。だからホントに、正直ビックリしたのさ……。

天狗のように、というところで、別の話題に脱線したけど、そう、彼は天狗のように現れて、天狗のように消えてしまう訳。出自がどこなのか知らんが、軽業師のごとくに身が軽く、玄関から入るより、屋根伝いとかの方が、ヘーキな訳。
売れっ子芸妓の小染ちゃんが、新撰組のお座敷を蹴散らして約束の刻限に待ちわびるも、お目当ての彼は来てないわよ、と女将さんが言う。本当に約束してたの?などとおはぐろがコワい(いや、そこは別にいいんだけど)女将さん。
悄然と三味線をつまびく小染ちゃんの背後から、「そのまま続けたらいい」と声をかける鞍馬天狗。驚きもせずに、満面の笑顔の小染ちゃんは、こういう出現にこそ、キュンと来てるに違いない!!

もうね、小染ちゃん、いやさひばりちゃん(どっちだよ!)の京ことばがイイのよ。もう、安田美沙子なんて足元にも及ばないよ!て、あれ?ひばりさんは京女じゃないのに……でもたまらなく可愛いの、この京ことばが!!はんなりという表現がひばりさんに適用するだなんて思ってもみなかった(失礼!)。
こちらは恐らくネイティブの妹分たちが、いやあ、おねえはん、という感じでまとわりつくのも可愛いが、その妹分たちに、着物は数段上の粋な着こなしをしながら(襟元の朱とか、小豆色の濃淡をハッキリと半分の身ごろに分けるとか、とにかくステキなの!!)、好きな人を待ちわびる様で先輩の風格を示しつつ、恋する女の可愛さで充満しているのが、たまらんの!
それが、まるで、片想いみたいに、なかなか会えない、想いが通じてるのかどうか確信が持てない相手だから、余計に、さあ……。

映画的には、あのどうもスッキリしなかった、祭りの中での新撰組との対峙の場面がクライマックスなのかもしれんが、私的には絶対に、ぜえっっったいに、鞍馬天狗と小染の最後の逢瀬の場面、小染が彼を行かせまいとして決死の覚悟で挑む場面が、もう、乙女の涙が出ちゃう、名場面なのであった。
ひばりさんはね、決して出番が多い訳じゃないの。やっぱり鞍馬天狗だし、新撰組なのよ。いわば女スパイに過ぎない出番の尺なの。
これまでのいきさつは判らんけど、鞍馬天狗はスパイとしての有能さから彼女を買ったに違いない部分はあると思う。それはどうしようもなく存在する、小染と彼との温度差にあると思う。

小染は鞍馬天狗にホレきっているんだもの。鞍馬天狗の方だって、憎からず思っているけれど、結局はその程度の感じだったと思う。あのクライマックスまでは……。
小染はさ、情報を出し渋るのさ、いつでも。だってそれを出しちゃえば、彼はさっといなくなってしまうんだもの。まさしく天狗のように、空を駆けて。だから、恋する女心で、じらそうとする。
でもいつもうまくいかない。だって、鞍馬天狗が、その情報を生死をかけて欲しがっているのが判るから。でもだからこそ、あのクライマックスでは、可愛らしくじらすだけにもいかなかった。だって恋する彼を死なせたくない、死なせるにはいかないんだもの。

鞍馬天狗の必勝飛び道具、短銃を奪い、彼に向ける。そもそもこの飛び道具が時代的に卑怯チックだよなと思って見てたのに、それを女に奪われてるあたり……ダメじゃん……。
「近藤さんに殺されるぐらいなら、私が殺す。同じ死ぬなら、私が殺してあげる」……まあ、恐らくニュアンスは違うと思うけど(爆)、でもそういうことなのよ、痛いぐらいに、女心が突き刺さったのよ。

だってだって、いつだって鞍馬天狗は彼女のそばにいない。来る時は、情報を得る時だけ。生きる死ぬの場面は、自分から遠いところにいる。そんな大事な場面を、自分に預けてくれない。つまり自分と関係ないところで生きてる、命かけてる。
それがどれだけ、辛いことかを、まるで判ってない、それが一番、彼女にとって辛いこと、そういう気持ちがもう、ぎゅーっと凝縮されて、大好きな彼に、銃を向けながら、必死に必死に訴える小染ちゃん、ひばりちゃんに、もう胸がつまってしまって、たまらないの!!
この時の鞍馬天狗=東千代之介もイイの!彼女に殺されてもいいというぐらいの対応の仕方で、そして愛しい彼女をついにつかまえる。抱きしめる。……もういいよ……もうズルいとか、言わない。しょうがない。こんな男を好きになっちゃったんだもの!!

ラブにすっかり気を取られて、もうひとつ大事なシークエンスを忘れてた。鞍馬天狗を観に行く、って言った時にね、上司に言われたのが、杉作っていう子供が印象的だった、って。往年の時代劇映画ファンさ、先輩さ(汗汗)。
正直、めんどくせーなー、と思っていたが、この杉作がイイ子で、泣けた(爆)。当時の子役にしては(?)演技も達者だし。曲芸師一味で、姉さん役の丘さとみこそが歌も歌うし客引きなんだろうけれど、彼がさらっちゃったもんね。

この幼い子が、あのおじさんはきっと鞍馬天狗だ!とつい口に出しちゃうのは仕方ないところだが、兄さん格の子が、それを得意満面に雇主にバラしちゃうあたりが、お約束にしてもオイー!!ていう感じで、まあ可愛らしいからいいんだけどさ(苦笑)。
でも時代劇にはありがちなそういうお約束なユルさが、思い返してみればそれ以外は全然なかったんだよね。本当にストイックで、ラブで、ぎゅっと詰まっていた。
興味ない部分は言い落してるけど(爆)、ひそかに連絡を取り合っていた同志とのシークエンスとかもあるしさ。往年の時代劇ってのは、本当に優れまくりすぎる!!★★★★★


トップに戻る