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「ほ」


2012年鑑賞作品

僕達急行 A列車で行こう
2011年 117分 日本 カラー
監督:森田芳光 脚本:森田芳光
撮影:沖村志宏 音楽:大島ミチル
出演:松山ケンイチ 瑛太 貫地谷しほり 村川絵梨 ピエール瀧 星野知子 伊東ゆかり 笹野高史 伊武雅刀 西岡徳馬 松坂慶子 菅原大吉 三上市朗 松平千里


2012/4/12/木 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
本作がどうしても森田監督の遺作として語る形になるのが、ただひとつの作品として純粋に対峙できないのが何より残念だし、悔しいこと。
それは原田芳雄の遺作となってしまった「大鹿村騒動記」でも思ったことだけど、遺作だからと高い評価の対象としてしまうのはあまりにもあまりにも悔しいこと。

と、言うほど私は熱心な森田監督ファンという訳でもなく、その作風をどうこう言えるほど観てもいなかったけど。
ただ本作は、どこかから聞こえてきたように、監督がこれをシリーズ化したいと思っていたのならば、これは決して遺作とか集大成とか、すぐ言われるように最高傑作とかではなくって、監督が思い描いていた通過点、いやスタート地点だったのだと思うと、ますますもって悔しい。

そう、熱心なファンではなかったけれど、「間宮兄弟」なんかは大好きだった。「現代の映画監督を代表する存在」という意味には、いわゆる商業映画、ベストセラー小説を映画化するとか、過去の名作をリメイクするとか、そういうメッチャ王道なメイン路線をまあ言ってしまえば臆面もなく突き進んでいたという側面もあろうかと思うけれど、それこそ「間宮兄弟」あたりからふつふつと回帰してきた、監督の風味というものが、近年のオリジナル作品によって感じられていたから。

そう……私、本作には、本作の二人には「間宮兄弟」の香りをめっちゃ、感じたのね。確かに「間宮兄弟」もまた人気作家の原作ありきではあったけど、世に衝撃を与えたあの「家族ゲーム」の、とぼけた雰囲気を思い出したから。
とはいえ私は「家族ゲーム」観たかどうかさえ定かじゃないぐらい遠い記憶で、観た気になっているだけなのかもしれないけれど、とにかく、ああ、森田節ってこういう感じだよなあ、と思ったのだった。

ヒットした「武士の家計簿」もネタ元があるとはいえ、監督のオリジナル企画と言っていい作品だったし、充分に足元を固めて、自分のやりたいことをやり始めていた感が、こうして急逝してみると、そんな感じを受けたから。だから悔しい。
シリーズというのも、それ自体、実は本人、やってみたいことだったのかもしれない。映画黄金期は勿論、今じゃ山田洋次にしか許されないようなシリーズ。
だってね、私、本作はなんか寅さんみたいだなあ、と思ったんだもの。いや、最初は釣りバカみたいだなあ、と思った。趣味のためにあちこち行って、行った先でその趣味を上手く使って仕事を成功させて、なんてさ、釣りバカじゃん、と。

シリーズにしたいって、そういう含み?と思った途端、全国を回る男のシリーズ……寅さん、とパッと頭に浮かんだら、いやいや、寅さんじゃん!と思ったのだった。
寅さん、しかも寅さん二人。寅さんの“仕事”テキヤだって、寅さんはめっちゃ楽しそうにやってるし、趣味と言えないこともない。
何より寅さんと思うのは、この二人のオクテぶり。結構ツウな女子に好かれてるのにモテないと思い込み、好意を寄せられても上手く対処できず、果てはいい人過ぎるがゆえにフラれてしまう(このエピソードは瑛太君の方ね)なんて、メッチャ寅さんじゃん!

そして、全国各地に行ってひと仕事しても、帰ってくるのは東京の下町。瑛太君演じる小玉君が跡継ぎになる小さな工場は、世界に発信するだけの技術力を持ってはいるけど、でもやっぱり下町だし、松ケン演じる小町君は大手の不動産会社に勤めてるけど、高層マンションからの眺めよりも、目の前を走る電車の風景がお好き。
家族に戻ってくるというのも寅さん的。本作の段階ではそれは小玉君のみなんだけど、森田監督が本当にシリーズ化を思っていたなら、きっときっと、小町君側の家族だってさあ!
そう思えば小町君側のそうしたバックグラウンドって全然出てこなかった。つまりつまり、森田監督は本当に、マジでシリーズ化狙ってたんじゃないかと思うと、うう、ううううう!本当に悔しいのだ!!

遺作だから最高傑作なんて言いたくないとか言っちゃったけど、これがもしシリーズ化されるその最初だったならば(たらればは言うだけムダなのは判ってるけど……)、やっぱり最高傑作になったかもしれない要素はそこここにあるんだよね!
……なんかここに至るまで、いつものよーに全然どんな話やら言ってないけど(爆)。
まあざっくり言えば、鉄道オタクの青年二人が出会い、友人になり、仕事も絡んで更に絆を深め、お互い恋愛ベタでいい雰囲気になりそうになるもお互い破れ、ラストシーンでは次の旅を仲良く楽しみにしている、と。ざっくりしすぎだが(爆)。

でもなんたって本作の魅力は、松ケンと瑛太君のほのぼの鉄ちゃんのたたずまいで、その仲良さが見ててほっぺたが赤くなるぐらいの仲良さで。
何気に衣装もピンクとブルーのカーディガンでうっかりペアルック、テレた時に「いやあ」と後頭部をかくマンガチックなしぐさもソックリにシンクロ、だからね。
二人はそれぞれ仕事も違えば、同じく鉄道を愛する同士でもその愛し方も違うし、確かに違うキャラなんだけど、不思議なほどに、似てるんだよなあ。
似てる、っていうのはちょっと表現が違うかもしれない。仲がいいから、一緒にいる感じがしっくりとくるから、二人セットの微笑ましさ、なのかもしれない。

なんか「間宮兄弟」のことばかり言っちゃうけど、それこそ間宮兄弟は兄弟だったけど見た目は全然対照的で、でもなんたって兄弟だから、そして仲の良い兄弟だから、すんごくシンクロしてて、それがとても可愛くって、魅力的だったんだよね。
で、本作は他人だし、かたや一流企業のサラリーマン、かたや経営が傾きかけた町工場の跡継ぎで、全然違うんだけど、つまりこの違いが、間宮兄弟における外見の違いに相当してて、つまりつまり、大したことない、ってこと、なんだよね。
好きなこと、価値観が一緒、てなところも間宮兄弟をほうふつとさせるけれど、同じ鉄道好きでもその楽しみ方に違いがある、という方向を打ち出したのが、本作の魅力であって、そしてもし……もし……たらればは言っても仕方ないけど、本当にシリーズ化が叶ったならば、どれだけ広がっていっただろう、と胸ときめかせる要素な訳!

だって、そりゃ思うよ。この二人だけでなく、数々出てくる鉄ちゃんたちが、皆ちょっとずつ、楽しみ方が違うんだもん。
小玉君はさすが仕事柄、パーツへの偏愛である。ある意味金属オタクとも言えそう。小町君は列車に乗りながら、車窓の風景とガタンゴトンのリズムと共に音楽を聴き、その相乗効果を楽しむ。
そして二人が出会う他の鉄ちゃんたち……トレインビュー(部屋からの電車の眺め)を至上の幸福とする人、電車模型を部屋中に走らせる人、と実に様々。
鉄ちゃんと言えば、新幹線の写真を熱心に撮ってる人ぐらいの偏った認識しかない外野の人間にとって、実に面白い描写なのよね。

無論、それは他の“趣味”にも言えることで、それこそ映画ファンにだって言えることで、凄くそれって、勇気と誇りを与えてくれること、なのよね!
きっと鉄道ファンもそうだと思うけど、どんなファンもそうだと思うけど、好きになり方、その方法論はそれぞれなのに、どこにだって重鎮やコアなお方がいて、自分の好きな気持ちになかなか自信が持てないんだもの。
松ケン、いや小町君がさ、音楽を聞きながら列車に乗ることを、小玉君のみならず、他の鉄ちゃんにも、えっ、て感じの反応されるじゃない。でも小町君はその反応も折り込み済みで、自分だけの違いを見つけたかった、っていうの、すんごく、判る!判るんだよなー!!
鉄道好きになったきっかけが「普通すぎて恥ずかしいけど、交通博物館なんです」と言う小町君の台詞も、その感じも、すんごくツボである。
私だってさ、トリュフォーがきっかけで、とか、黒澤が、とか言いたかったよ。でも結局、ジャッキー・チェンだもん。気持ち、すんごい、判る!

しかして、女子の鉄ちゃんは出てこない。あくまで本作では、である。……なんか私、シリーズという話に固執しているかもしれない。
本作に出てくる女の子たちもとても魅力的なのよ。最終的には小玉君や小町君をフる子達だけど。でも自然に、大丈夫、私鉄道好きになるから、と言う子もいて、確かに大丈夫な感じがしてた。
本作ではそこまでに至らず、「私、飛行機の方が好きみたい」と、北欧を転戦するボブスレー選手に乗り換えられたり(寒い街ばかりを例に挙げて「世界中行ける」なんて言う彼女がちょっと可笑しい)。手作り鉄道お弁当でラブラブ雰囲気になるも、先述したような「いい人過ぎる」理由でフラれたり。
なんか、このまま続いていけば、鉄子もあらわれそうなニュアンスを感じたんだよね。実際、小町君のことを「……ちょっと、好きです」とはにかんだように言う社長秘書の女の子なんてさ、いくらでも鉄子に変身していく気がしたんだよなあ。

最終的に小町君をフるにしても、貫地谷しほり嬢はとぼけた森田風味をバッチリ表現してて、良かった。
小町君との出会いは電車が止まってしまった某駅で、「ここからなら、世界のどこへでも行ける」北千住駅に歩いて案内してもらう。
この時の彼の興味は当然鉄道で、彼女の興味は商店街のお花屋さんのガーベラ。後に彼女が自分の気持ちを確かめに、九州に転勤になった小町君に会いに行くシーン、小さな駅で線路沿いのリンドウを目にしてほのぼのし、キスシーンまでこぎつけるものの、小町君はすぐに列車の音に反応してしまう、というところまできっちりつながっているあたりは、さすが!
それでもね、彼女が男のロマンを判ってない、とかいう感じにはなされないのが、イイのよ。凡百の映画では大抵そうされちゃうのが、ヤだからさ。
彼女はあくまで「私は飛行機の方が好きみたい」勿論それだけじゃないだろうけど、それだけで、いいのよ。

基本はほのぼの鉄道好きの青年二人の友情だが、小町君が松坂慶子扮する女社長に“ベンチャー能力”を見出されて、突然福岡に転勤になるシークエンスが起承転結の転であり、落ち着いて考えてみると様々ありえない偶然やつながりが、二人の仕事を成功させるんである。
小町君と小玉君の二人旅行の途中出会った、なぜかスプーンを曲げる??美女二人と旅行している壮年男性、見事な列車模型のジオラマを見せてくれて、電気系統の修理を小玉君が見事になしたことですっかり意気投合したのがピエール瀧で、九州事業の要となる大企業の社長。

そして、その企業の工場を建てるための最良の土地を持っているのに、さっぱり売る気のない、“スペインのサッカーチームのユニホームを着てジョギングをしている”ジジイ、伊武雅刀。
このジジイが小町君の見合い相手で、彼をいい人過ぎるから、とフッた女の子の祖父だってのは、縁とかいうにはあまりにも出来すぎだが……そう、しつこいぐらい言うけど、シリーズ化されればね、こういうお約束もチャラなんだけどさ。

とはいえ、松坂慶子も、ピエール瀧も、伊武雅刀も、さすがのチャーミングで圧倒。正直、彼らが出てくるだけで、今が旬の松ケンも瑛太君もかすんじゃうんだもん。
それこそ、松坂慶子があのかわいらしい声であらあ、と言うだけで、パンプス脱いでラジオ体操するだけでよ。やあーっぱ年の功って、スゴいね。
てゆーか、そう、会社の社長、つまりは釣りバカで言えばスーさん、今後ベンチャー能力のある小町君を全国様々飛ばしそうな雰囲気のある彼女は、その度ごと、今回のように自ら赴き、ふぐは食べれないの?とふぐ、の部分をその土地の名物に変えて言い、きっと毎回フラダンスを踊るんであろう!
だって実際、そんなニュアンスの台詞あったもん!(フラダンスは言ってないけど)あー!絶対、絶対!!シリーズ化する気マンマンだったんだよ!!

息抜き的に、コメディリリーフ的に(てか、みんなコメディリリーフか(爆))出てくる、小玉工場に勤めるレゲエ風二人の青年だってさ、小さな町工場が、しかし技術を誇りに思っている町工場が、なのに融資が下りない町工場が、それでも、彼らの国に技術を持ち帰ってもらって、発展してほしい、というのをきっちり描くのも泣かせるじゃん。笹野高史、町工場の悩める社長、リアリティありすぎ!
それだけに、やたらキャバレー好き、かつての同級生から想いを寄せられても、若い女の子好きを崩さないあたりはネタっつーか、この社長よりも監督のテレの方を感じちゃって、ちょこっとほほえましかったりして。

それにしても松ケンと瑛太君のコンビは良かった。見てる方がテレちゃうほどの仲の良さ、男同士なのに、キショくなくて、なんでこんなに可愛いの。
小玉君が冗談で言った“苺ミルクシェーク、練乳たっぷり”がさっと出てくるのが、ギャグじゃなく友情の証に見えるのがスゴい!
双方共に柔軟性のある役者で、誰とコンビを組んでも最強と思わせるが、それにしても、良かった。だからこそ、今後を、見たかった。

松ケンが先天的に、天才的に上手いのは先刻承知だけど、瑛太君は見るたび、育ったなあ、と思う。それも、素直に。これはきっと、彼の性格だね。本作は彼のその素直な気質が、最もてらいなく生かされていて殊更にほのぼのとする。
最初ハラハラ、イライラしながら(爆)見ていた役者さんが素直に、上手くなっていくのを目にすると、なんだか親のような気持ちになる(爆)。それこそ、映画ファンのひとつの嗜好、醍醐味。

“ここから世界のどこにでも行ける”それが北千住であったチャーミングと可能性、その二つの言葉をまんまたたえている松ケンと瑛太君という新鮮な顔合わせの素敵さ。
この先があった筈、絶対に、あった筈なのに。クヤシイ、クヤシイ!クヤシイ!!!

ラストクレジット後の最後の最後、森田芳光、ありがとう、の自筆の文字はさ、彼は自分が死ぬことを予感していた訳じゃ、ないよね?このありがとうも、どっかから持ってきた文字だよね?
目にした時はえーっ!と思ったけど、本作には制作意欲を、未来への時間への疑いなさを絶対絶対、感じたんだもの。ヤだよ、こんな出来すぎた幕切れ! ★★★★☆


僕の中のオトコの娘
2012年 100分 日本 カラー
監督:窪田将治 脚本:窪田将治
撮影:根岸憲一 音楽:與語一平
出演:川野直輝 中村ゆり 草野康太 河合龍之介 内田朝陽 山田キヌヲ 馬場良馬 柳憂怜 木下ほうか ベンガル

2012/12/4/火 劇場(銀座シネパトス)
次の予定までの時間が合ってるだけで足を運んだので、まっとうに良い映画だったからちょっとビックリした。タイトルの感じとシネパトスという場所柄から、てっきりキワモノかと(爆)。
んでもって草野康太、彼をなかなか見る機会がなく(見てても気づいてないだけかもしれない(爆))キャストの名前に彼を見つけて、おー、久しぶりーとか思って、観てる間もどれが彼だか判らない(爆爆)。

観終わって、サイト覗いて、あのカレンさんだと知ってぶっ飛んだ(汗)。そ、そうか、そりゃまあキャストクレジットの重要度順でいきゃあ、そらまそうだよなあ。うわあ、ビックリした。
確かに彼は昔からデキる人ではあったが、なんか彼の年を重ねた姿をなかなか観る機会がなく(いやだから、気づいてないだけかもしれないんだけど(汗))、そしたらカレンさん、いやあ……ビックリした。

でもまあ、主人公はカレンさんではない。一人の引きこもりの若い男の子である。これまた私にとってはあまり見知らぬ……いやフィルモグラフィーを見る限りでは、ちょくちょく見かけてはいるらしい。またかよ(爆)。
年若いとはいってももう30か、「BECK」に出てるということは、あのヘンのイケメン軍団らへんの俳優さんなのね。名前も割と見るし、お顔もつるりとキレイ。今時のあの年頃の俳優さんという感じである。
正直ここからが、あの年頃の男優軍団は分かれ目という感じがしているので、小さな映画とはいえこの役柄は、彼の役者としての意地を感じるのであった。

とはいえ、最初から眉は細いしそれこそつるりとした、言ってしまえば女顔、いや、女の子顔だよなあと思っていたので、あんまり情報入れずに見た割には彼の先行きに、あ、やっぱりなんて気持も起きてしまった。ムリがない、違和感がない、自然な流れ、というか。
でも彼自身は大きく苦しんだ上での転機。物語の冒頭、新入社員と思しき彼、謙介は、“小学生がするようなミス”を何度も繰り返したと、ヒステリックな女性上司に叱責される。周囲も皆コソコソ、クスクスと失笑である。
正直、新入社員に上司が、いくら凡ミスを何度も繰り返したとはいえ、こんな風にヒステリックに怒るかなあという気もする。ヒステリックというのが女性上司だというあたりもなんか、気になる。

ハタから見てもひどい叱責の仕方なのに、先輩たち、同僚たちが彼をいかにもバカにしたようにクスクス笑うばかりなのもちょっと違和感がある。こーゆーヒステリック女史ならば、彼だけでなく、色んな人が順番に被害に遭ってそうなモンだが。
まあでもそこらへんは、追い詰められた謙介の妄想もちょっくら入ってきているのかもしれない。なんたってその後、思いつめた彼は自殺未遂をし、引きこもってしまうのだもの。

まー、こーゆー会社はそもそもマトモじゃないんだから、辞めて正解だよとオバサンになればそうも思うのだが、若い頃は自分こそがダメなんだと思いつめる、のも、判るから、本当にキノドクである。これは一概に、“今時のワカモン”が弱いと決めつける訳にはいかない。
どんな時代も、経験がないうちは臆するし、スタートで躓くと、やり直しはなかなか難しいンである。
しかもこんな具合に今は、センパイも上司も子供みたいなイジワルする時代なんだもの。今のワカモンはホント、気の毒なんである。

引きこもってしまった謙介を、姉と父はハレモノを扱うように接している。ドアの外に食事を置き、顔をあわせることもなく何年も経つ。姉と父が仕事に出て行った日中に二階から降りてきて冷蔵庫を物色する謙介は、二階のカーテンを閉め切った部屋から時々ちらりと姿を見せることから、近所の子供たちから“幽霊”と呼ばれている始末なんである。

その謙介の出会う転機がなんと、女装である。あ、その前にね、姉が働いている喫茶店で店長から、近々レストランを出店する予定だから、この店は君が店長をやってくれないか。弟さんに働いてもらえばいいんじゃないかと、ハタから見れば願ったりな提案をなされていたのね。
そう、観客的には、まあ紆余曲折がそれなりにあったとしても、ここでお姉ちゃんの下で少しずつ社会に出て行くのがいいんじゃないかと思えた。でもそれは、まさにシロート考え、こういう、“ニート”“引きこもり”の人たちを“心配”する人たちが考える“いい考え”だったんだなあ。

お姉ちゃんがなぜ店長の話を断ったのか……ていうか、いつの間にやら店をやめていたのか。それは本当に弟の女装のウワサのせいなのか、そうじゃないのかがハッキリしないままなのが気になった。
いや、まだメインの話に全然行ってないうちにこんなこと言うのアレなんだけど(爆)、このお姉ちゃん、やたら幸薄いって形容されるし、実際幸薄そうだし(爆)、理解ありそうに見える店長(柳憂怜、良き。)と何かあったんだろうか、なんて邪推のひとつもしたくなる。
いや、そんなことを思わせるカケラもないし、この店長の雰囲気なら、謙介の女装のことを知ったって大丈夫そうな感じがしただけにさ……。ここんところがアイマイにされているのはちょっと、気になったなあ。

と、まるでメインに行く前に急ぎすぎたか(爆)。そう、謙介が女装に目覚めることこそ、なんだもの。
とはいっても謙介はゲイという訳ではない。あるいは女の子願望がある訳でもない。ただ、純粋に、女装の世界に興味を持った。いやそんな弱いもんじゃない。強く惹かれた。それは彼の生き様そのものを変える、運命の出会い、だったのだ。

ゲイではないし、女の子願望がある訳でもない、から、謙介はそんな自分の思いに戸惑う。
最初はちょっと肌寒くて姉のダウンジャケットを羽織ったところからだった。別にヒラヒラのスカートって訳じゃない、単なるダウンジャケット。でもやっぱり腰がスッと細身に絞られたデザインはメンズとは違う。
ふと鏡を見た謙介は、その思いがどういうことなのか判らないまま、女装、で検索をかけた。言ってしまえばエゲツないセルフポートレートの数々に、彼の口元にだって失笑が浮かんでいたのに、中傷コメントを書き込むことはしなかった。
それどころか、堂々と女装ライフを謳歌しているカレンさんがどうしても気になり、直でメールを送り、やり取りが始まったのだった。

このテーマ。ゲイでもなく、女の子願望がある訳でもなく、ただ女装がしてみたい、女装が趣味、趣味なんて軽いものじゃなくて、生き様そのもの、ということを取り上げたことこそ、驚嘆を覚える。
最初に書いちゃったように、キワモンと思って足を運ぶ人は少なからずいると思うもの。まあそれがツリで、こんな風に感銘を受ける訳だけどさ。
逆なら。女の子が男の子のカッコをするというのなら。ラフにすればそれだけでそんな感じだし、ボーイッシュだのマニッシュだのと言われてもてはやされる方向なのに、男の子が女の子となるとそうはいかない、のは何故か。

そう考えると、確かに理不尽、不公平な感じがしなくもない。その壁は、メイクの壁なのか、あるいは心理的な壁なのか。どちらもそうだろうけれど、意外に後者の方があるかもしれないなあと思うのは、女は、女の子は、メイクや可愛らしいカッコによってウソをつくから。
あのカッコは女の子にとっての武装であり、武器であり、純粋な女の子の柔らかな可愛らしさではないのだ。だから、時に、男の子が女の子になってしまう時、その純粋さにうろたえるんである。

まあそれはちょっと話が脱線する訳だけど……。謙介はゲイでもなく、女の子願望がある訳でもなく、女の子のカッコをしたいだけなんだから。
それがこれほどまでに、引きこもりを脱するほどに強い思いであるということには驚くけど、それだけに、世間的なイメージも強固である。即座にオカマと言われるし、理解を示してくれる好青年にホレられて危うく貞操を失いそうになる。

ここんところが難しいところで、この映画が作られたこと自体に対する驚嘆なのだが。この監督さん、私初見なんだけど、面白いテーマを見つけたと思う一方で、これは相当難しいよなとも思うんであった。
謙介に、親のすねかじりではなく、本当に自分のやりたいことなら、自分で稼いで、納得させなさいと、自分のスナックで働かせてくれる女装バーのママ。
演じるほうかさんが謙介に、純粋に女装を楽しんでいるのにオカマと言われてイヤじゃないかと問われて「だって、コレだもの」と手を広げて言うのには、なんたってほうかさんだから思わずふっと笑っちゃったけど、それだけの覚悟と、時には自嘲と、諦めが必要で、それを受け入れても女装が自分のアイデンティティだと、いうことなんだよね。

それに加えてカレンさんが、あれこれ悩む謙介に実に端的に説明する、「女装娘(ジョソコ)にも色々いるのよ。ほとんどニューハーフって子もいるし、家庭を持っている人もいる」。
ホントにその言葉一発なのが、凄く潔いなと思う一方で、それだけ繊細で深く、複雑な問題なのに、その言葉一発で済ませていいのかな……という気もした。
でもこれを、トランスジェンダーだの、セクシュアルマイノリティーだの、ドラァグクイーンだの、女装家だのという言葉を駆使してみればみるほど、私ら無知な大衆のイメージはそれこそ単なる“オカマ”に収束されていくような気もし、判ってくれる人は判ってくれる、判ってくれない人は、永遠に判ってくれないんだと、希望があるんだかないんだか判らない思いにとらわれたりも、するんである。

その思いを象徴する二人の人物が登場する。一人は先述した、一見理解ある、最初から謙介の女装姿、いや、女装前姿から目を奪われていた中村。
彼はゲイだと公言しているんだから、別に女装姿とか女装バーに執着しなくても良さそうなもんだ……と思うことこそ無知なのかもしれない。女の子のカッコをした、あるいは女の子っぽい男の子が好きなタイプのゲイというのがいるのかもしれない。
そういやあ、ネコとかタチとかは聞いたことはあれど、そこまで突っ込んでは知らない。結局興味本位な部分で誰もが止まっているのだ……。

もう一人は、女装バーの常連客である澤登。謙介の姉の同級生だといい、彼女にカンニングをバラされたんだとツマンナイ言いがかりをつける。
それは彼の憎しみにどこまでマジに関わってくるのか、謙介や姉、父にまで罵詈雑言を投げつけ、謙介に想いを寄せている中村がキレてしまって狭い店の中で大乱闘。自分が家族に迷惑をかけていると、謙介は女装を辞める決心までするのだが……。

澤登の存在は、謙介が女装バーで働き始めながらも自分を隠していること、つまりアイデンティティを卑下していることを示しているんだと思うんだけど、ことここに関しては、それまでは厳しかった師のカレンさんにしても、ママにしても、謙介のこと、かばうんだよね。人違いでしょ、しつこいわよ、ヤボだわよ、と。
あの厳しいママなら、自分自身をさらけ出して勝負しなさいぐらい言うのかと思ったが、やはりその辺は、女装娘のそれぞれの事情は、それだけ繊細だということなのかもしれない。謙介がそこで何をどう選択するのか、それがクライマックスにかかってくるんである。

母を亡くして父と姉弟で暮らすこの家族は、澤登の言うように、出世も望めないウダツの上がらぬ父親と、幸薄く結婚できそうもない姉と、引きこもりニートの弟、と世間的には見えているのだろう。そして実際、そうだった。今までは。
しかも引きこもりニートの弟は、“妹”になったと揶揄して、この澤登は単なる性格悪いヤツなのか、実はこの姉が好きなのか、どうもとにかく、イヤなことばかり言うヤツでね。ああでも、でもでもでも、こーゆーのを必要悪、とか言うのかもしれない。

父親の登場シーンは、ニットのベストを着て、新聞を読みながら朝食をとっているシーンのみ。あ、唯一、謙介が夜出て行くところに出くわして、見ないフリしてテレビを見ていたシーンもあったけど。
父親を演じるのはベンガル。間違いない。登場シーンがダイニングのみだって、さすが間違いないんである。息子が引きこもっている間は、娘に時々様子を聞くだけ、その息子が女装を始めたと聞くと、引きこもっていた方がマシだったと、ヒドいことを言う。

典型的な見ないフリの世間気にしぃの父親かと思っていたら、いたからこそ、謙介が女装を辞めると言い出した時に息子を叱責した言葉が、沁みた。
家族に迷惑をかけるから、女装をやめて、ちゃんとした仕事を見つける、そう言った息子を、叱り飛ばした。
それがお前の本心なのか。ウソつけ。誰が迷惑かけられて困ってると言った。誰でも他人に迷惑をかけて生きているもんなんだ。お前にとって女装はその程度のことだったのか。本当に自分がやりたいと思うことなら、貫け。

判りやすい、思いっきり判りやすい、日本のガンコオヤジが、自分の中で一生懸命咀嚼して、息子を信じて、理解しようと頑張って、たどり着いた台詞なんだけど、でもベンガルだからさあ、だからさあ、やっぱ、やーっぱグッと来ちゃう訳よ!
この時の、謙介を演じる河野君の、カワイくピンク女子の姿で、しかし男の子らしく涙をこらえながらウルウルくるキワキワなストイックな可愛らしさにもじーんとくる。
最初から最後までやたらと理解あるお姉ちゃんが優しく肩を抱く。なんてちょっとクサすような言い方しちゃったけど、弟を心配して女装バーまで後をつけ、事態を知ってうろたえながらも弟のためにラブリーな洋服を用意するお姉ちゃんは泣ける。

心の中では納得しないままでも、お姉ちゃんだから、というのが、納得した上でなければダメな父親と違い、それはまさに男と女の違いで、どっちがどうとも言えないんだけど、どちらもいるからこそ、救いがある。
「私の服、勝手に着たでしょ(んでもって、背中のファスナー壊した(笑)」と言いつつ、弟に、見てないから、と背中を向けて着替えさせて、姿見に映して、似合うね、と微笑む。
メイクもしてないけど彼はなんたってつるりと女の子顔で、似合うのさ。まるで姉妹のシーンみたいに、しっくりとジンとするんだよなあ。

まあでも、謙介はやはり男の子であり、あんなに優しく理解ある好青年の中村の想いにも応えられないんであり……。そこがもっと切なく見えたら、というか、萌え好きとしてはそこを突っ込んでほしかったと(爆)。
謙介が、あくまで性としては男の子で、女装は趣味、以上だな、アイデンティティとしてのものであるのならば、カレンさんが示唆したように、その中で様々な性的志向、アイデンティティの違いがあるのならば、謙介にもその部分を作ってほしかった気もしたなあ。
そう、ベタに恋人がいるとか、好きな女の子に責められるとか……。謙介のキャラを就職の失敗、社会への適応能力に悩むそれとしたのが、この場合選択としてどうだったのか……。
ただ、今の時代だと、そっちの方が切実だし、恋愛に淡白な男子の方が多いっていうからね。でも、それだとまさにゲイだと誤解されやすい。うーむ。

なんかかんか言いつつ、いつも着替えて家に帰っていた謙介が、風呂場でスネを綺麗にそりあげて、キラキラの女の子のカッコで、しかし勇ましく自転車にまたがり“ご出勤”するラストシーンは爽快!ありそうでなかった、そして深いテーマの、なかなかの拾い物かも。 ★★★☆☆


ぼくらの季節
1983年 60分 日本 カラー
監督:広木隆一 脚本:望月六郎
撮影:遠藤政史 音楽:PINK BOX
出演:中根徹 佐藤靖 池島豊 大杉漣 星野まゆみ

2012/5/25/金 劇場(銀座シネパトス/PINK FILM CHRONICLE 1962-2012/レイト)
ゲイカップルに女一人が加わって、赤ちゃんを得て共に育てる夢を見る。即座に「ハッシュ!」を思い出し、ひょっとして橋口監督は本作を観ていたのかもしれない、などと思う。あるいは「トーチソング・トリロジー」という名作もあるし、やはりゲイカップルが子供を持ちたいと願うのは、昔からずっと続いているテーマだということなのかもしれない。

ピンク映画ではあるけれど、なんて言うと貶めているみたいだけど(爆)でも、あえてそう言いたい、ピンク映画ではあるけれど、こうした名作たちに並べてほしい秀作。
いやピンク映画、あるいはその中のゲイムービーというジャンルであるからこそ、より彼らの心情の真実味は大きい、のかどうかは、実際のゲイの人たちがどう思うかは判らないけど、少なくともボーイズラブなんていうジャンルにファンタジーにされちゃうより、ずっとずっと、大きな意味を持つと思う。

確かに本作の彼らも若く、少なくとも片方は割とイケメンだし(もう片方は、コント赤信号の小宮さんみたいな感じ(爆))、美しい青年同士の愛と思えなくもない。赤ちゃんが欲しいと望む彼らの思いも切ないしね。
でもそれでもやはり、これは彼らの人生で、凄く赤裸々で、辛くて、彼らはここで、自分たちだけの赤ちゃんを得ることは結局出来なかった。女はやはり母性を感じ、そして恋人を父親にしたいと願い、子供を連れて行った。
いくら、みんなの子供なんだと言っても、そうであってほしいと願っても、それなりに大団円の結末でも、やはり彼らの子供には、ならないんだ……。

おっとっと、またしても一気に結末に。いけないいけない。ところでね、私、本作で初めてピンク時代の大杉漣を見た。クレジットに名前があったから、主役級だと思って、カップルのうちのどっちだろうと目を凝らしても、どーしても大杉漣の面影はなく、うーんと思っていたら、彼らの父親の一人だった。
ち、父親。この時点でそんな年??まあそれはいいけど、もう片方の父親とかつてカップルであったという設定。大杉氏は口ひげをたくわえてダンディズムにキメ、その過去の回想がまるでオールドハリウッドムービーかのごとき雰囲気で描かれる。
なんとお相手はミスターピンク、今や名監督の池島豊(現ゆたか)氏!ビックリ!後にヨリを戻した彼らのカラミもガッツリ!!

ゲイカップルの父親同士もゲイカップル、うーん、どうやって子供を得たのだろう、などというのは、それこそ本作のテーマそのものであるんだよね。
彼らは彼らで、息子たちとは違う苦労があったのだろう。実はバイセクシャルで奥さんを得ていたのか、養子だったのか、あるいは……。
これがゲイムービーということもあるんだろうけれど、じゃあ彼らの奥さん、つまり主人公カップルのお母さんはどうだとかいうところまでは突っ込んでいかないし、そんなことを気にすることもないんだろうけれど、ふっと気になってしまう。
だってなんたって、彼ら息子たちは、自分たちの子供がほしいと熱望していて、でもそんなことは無理だと諦めかけてて、しかしそれが叶うかもしれない事態が目の前に出来して、舞い上がりまくるんだもの。特にトシヤの方が。

主人公カップルはトシヤとジュンペイ。トシヤはメガネでコント赤信号の小宮さん風の方(爆)。ジュンペイは男前。
でもキモが座ってるのはトシヤの方で、もはや冒頭で、輸血をしなきゃいけなくなる場面、ジュンペイが「刺すのはいいけど、刺されるのはダメ」とビビリまくっている。そ、その台詞が(爆)。
後に、トシヤがママね、と赤ちゃんに対する役割が、まあそんなこと言われなくても見てて判るけど、つまりタチがジュンペイ、ネコがトシヤ。
二人とも自分たちの赤ちゃんが欲しいと思っているけれど、その気持ちがより強いのはトシヤの方で、クライマックス、赤ちゃんを連れて姿をくらますのも彼の方。なんたって、ママだから。

赤ちゃんを連れて姿をくらます、「八日目の蝉」まで思い出すのはいささか行き過ぎ??でもひょっとしたら、「八日目の蝉」のあのヒロインと同じぐらい、ひょっとしたらひょっとしたらもっともっと、辛いことかもしれない、と思う。
いや、どうだろう。赤ちゃんが産める身体を持って生まれてきたのに産めなくなったことと、最初から赤ちゃんが産めないことと、どっちが辛いか、なんて、判らない。
ゲイカップルにとって、赤ちゃんを得るなんて夢どころじゃなく幻。それがひょっとしたら叶うかもしれない、いや、叶った!と思わされてしまったことこそが、あまりにも切ない。

彼らは一緒にオシャレなバーを経営している。その資金元である父親同士がややモメて、物語にいろどりを添えるけれど、メインはあくまで若いカップルである彼らの愛と、何より赤ちゃんの物語である。
冒頭、店の前に倒れている女。赤ちゃん、赤ちゃん……とつぶやいてる時点で彼女が妊娠しているのは明らかだけど、彼らは聞こえてなかったのか。運び込んだ病院で、医者からどっちがダンナだと糾弾されるのもだからなのに、彼らがちっとも気づいていないのは超ドンカン。
その後、この彼女、マミがお礼を言いに店に訪ねてくる。そして持ちかけるのだ。赤ちゃんが欲しいなら、私、女だもの、バンバン産めるよ、と。

彼らはゲイだから、女相手には勃起しないから、直前まで二人でカラミあって、勃ったところで目をつぶってマミに挿入する、というシークエンスがしんねりと描かれるのが、じっつにリアルで生々しい。
「ハッシュ!」で、同じ問題を抱え、スポイトでやろうと思う、と片岡礼子が提案したのに比べれば、それもまた違う意味での生々しさはあったけど、こっちの方がより現実性が高い。実際、見事に二人ともマミの中で果てる訳だしね。
ハダカになって準備万端のマミが男二人にちっともかまってもらえなくて(まあ、当然だけど)タイクツ気に、ねえ、まだぁ?などとウロウロしているのが可笑しく、そう、ゲイムービーといえど、一応ピンクのカテゴリだからさ、女優が義務みたいにハダカになるのかなあ、なんて(爆)。

マミはこの時既に妊娠してた訳で、この行為は明らかに偽装でさあ。「妊娠したみたい」とマミがこれぞ女のカン、てな感じで高らかに宣言するのが「そんなに早く判るの」と男どもが感心したように顔を見合わせるのは可笑しいけど、なんかザンコクだよね……。
産まれてきた赤ちゃんの血液型から、どうやら自分たちの子供ではないらしいことを二人とも察してたけど、赤ちゃんが産まれた時、あんなにあんなに、二人とも、僕らの子供だ!!と大喜びしていたのに……。

でも、自分たちの子供、自分たちの血を受け継ぐ子供にこだわるのは、やはり日本的だと思う。いやまあ、勿論基本的にはそうだけどさ、勿論。養子制度が発達しているアメリカでのあの名作、「トーチソング……」を思い出すと、やはり……ね。
勿論、自分たちの血が受け継がれてなくても、マミのウソを察していても、彼らは「マミ」と名づけた赤ちゃんをこれ以上なく慈しんでいたし、自分たちの子供として育てていく幸せを感じていた。だけどさ、だけどさ……。

思えばマミが出産するまで、彼らが考えていたのは男の名前ばっかだったよな、と思う。出てくる女はマミしかいないし、マミとは運命共同体だったけど、でもやっぱりなんだか、違った。
そりゃマミは彼らに、産まれた子供を引き渡す約束をしていたけど、三人でベビー洋服を買いに行って、彼女そっちのけで盛り上がっている二人に、取り残されたような顔をしてた。
この場合、母性とか簡単には言いたくない。だってそう言ってしまえば、トシヤとジュンペイの赤ちゃんへの思いを否定してしまうことになるもの。だから、私は、私は、トシヤとジュンペイに、この赤ちゃんを育ててほしかったんだ……。

ちょっと、閑話休題。トシヤとジュンペイの父親たち、かつては恋人同士だったけど、片方が仕事の夢を叶えるために外国に行ってしまったことで、離れ離れ、どころか、ケンアクにまでなってしまった父親たち。
何とか二人の仲をとりもどそうと、息子たちはかつてのダンディ衣装を父親たちに着せて、デート場所に誘い出す。息子たちの画策したクサい設定に憤然とする父親たち。
だけどね、トシヤが野外ステージに立って、絶叫するのだ。僕はジュンペイを愛してる。これからも愛し続ける。ジュンペイが他の若い男と浮気したとしても、って。

男同士の間にだって永遠はあるんだ。若くて美しい時間を共に過ごしたのならと。若くて美しい時間を通り過ぎたらどーすりゃいいのと一瞬思ったが(爆)、“美しい”の形容詞は、容貌ではなく、時間の方にかかるのよね、きっと(爆爆)。
でもね、トシヤのこのパフォーマンスはちょっと、ヤラレちゃう。だってやっぱ、ジュンペイの方がイケメンだし、捨てられるとしたらトシヤの可能性の方が大きそうだし(爆爆)。でも気持ちが強いのはトシヤの方なんだよね。だからあのクライマックスがあるのだ……。

で、まあ父親たちも無事?ヨリを戻し、「ボクラ、セイコウス。キミタチノミセモセイコウスルコトヲイノル」なんていうエロダジャレ手紙をよこしてくる始末。オイオイ!
大杉漣は確かに、今はおんなじような役ばっかりでツマンナイかもしれない(爆)、いや、ピンク大賞のステージで、50年の節目の年で、まあなんか、ピンクからメジャーな役者に行ったっきりの大杉氏に対して、ちらと誰かが言っていたコメント(爆)。それを聞いた時は、いやー、それはさ……と思ったけど、本作を見ると確かにそれは、思うかも(爆)。
まあ今は、ピンクも一般映画もインディーズも柔軟に行き来している役者さんもいるし、そういう土壌が出来ている、というか、出来ざるを得ない製作環境というのもあるけど。今まで見たどの大杉漣よりヴィヴィッドで可笑しくてキュートで、強烈な印象があったもんなあ。

で、まあちょいと脱線したけど。そう、マミが別れていた恋人、赤ちゃんの父親である相手と和解し、赤ちゃんは本当の親に育てられた方がいいと、相談されたトシヤとジュンペイの父親ズも納得し、二人に説得する段になる。
“赤ちゃんは本当の親に育てられた方がいい”という点に関しては、この当時はそう言い切れる“ファンタジー”も成立していたのかもしれんけど、今はヤハリ、考えてほしいと思う。
それこそ、ゲイカップルの夫婦制や、彼らが育てる子供のことを、考えてほしいと思う。当時からも全然変わっていない今の日本、一体いつ、マイノリティ、そして子供たちの幸せが全うされるんだろうか。

ベビーマミを連れ出したトシヤだけど、“旅先”から電話をかけてくる。今の居場所も告げる。ジュンペイ、マミが車で急ぎ向う。
海沿いを走る小さな列車のドアのところにいるトシヤを見つけ、ジュンペイとマミが大きく手を振る。トシヤも笑顔で手を振る。なぜか?佐野元春のサムデイがかかる。
愛は受け継がれていくんだと、月に一度は僕らの店に赤ちゃんを連れて遊びに来いと、マミは殊勝にうんうんと頷き、皆の赤ちゃんだと、大団円的に〆られても、やっぱり彼らの切なさが色濃く残ってしまう。

それはね、「ぼくらの季節はもう終わったのかもしれない」これを言ったの、誰だっけ。ジュンペイだったか、父親のどちらかだったか……この台詞を聞いた時、ドキリとした。
あの、若く美しい時間を共に過ごしたっていう台詞、あったじゃない。つまりそれがもう終わってしまった、そういう意味なのかと思って……。
“愛の結晶”などという言葉は、こうしたゲイカップルのことがなくったって、今はおいそれと使えないけど、そう、今だから、今だから、なんか余計に、痛くて。

この若いカップルだけのお話にしちゃったら、確かにそんな辛さが目立ってしまったかもしれない。父親たちのエピソードは、つまりはコメディリリーフの要素が大きかったんだね。
「ここからの風景はマンハッタンにソックリなんだ」なんて気取る父親に「あっそ」と興味なさげに返してチュッ!として、じゃあね!なんていう前半のシーンなんて、洒落っ気のある可笑しみで、とても好きだ。

でも女としては、ゲイカップルに割り込んでくる女一人、三人の友情が感じられたら、嬉しかった。勝手だけど、それが理想だった。
ここでは元カレは戻ってきてくれるけど、大体はそうはならない。女は、こういう場合の女は特に、友人を、親友を、共犯者を、求めてる。でもそれこそ、都合のいいリクツだという結果が、これなのかもしれない。★★★★☆


映画 ホタルノヒカリ
2012年 110分 日本 カラー
監督:吉野洋 脚本:水橋文美江
撮影:長嶋秀文 音楽:菅野祐悟
出演:綾瀬はるか 藤木直人 手越祐也 板谷由夏 安田顕 松雪泰子

2012/7/10/火 劇場(有楽町 TOHOシネマズ日劇)
2まで作られた人気ドラマ、ホタヒカは、私も、まあ最初こそはヤスケン目当てで見始めたが、それとは関係なくすっかりファンになってしまった作品。原作コミックスも気になるところだったけど、はるか嬢が少女マンガの、それも現代少女マンガのヒロインをとってもチャーミングに体現してくれたので、ドラマだけですっかり満足してしまったんであった。
映画化の話にはちょっと不安を覚えたものの、あの蛍にもう一度会えるのならとすんなりと期待したんだけど……。

人気ドラマの劇場版の難しさを、全てしょいこんでしまったような気がする……。

なんだろう、この違和感、不発感。特にゲストの松雪嬢や手越君にそれを感じてしまったから、おなじみのキャストに異物感が混じったせいなのかもとも思ったが、ドラマでだって2の時に新入りキャストが入っても、ホタヒカの魅力は失われなかったしなあ……。

ぶっちゃけていうと、まずローマがキツい。やっぱりやっぱりホタヒカは、あの縁側のある一軒家に帰っていく安心感、蛍とぶちょおがありのままの二人である場所がなければ、なんとも落ち着かない。
いや勿論、物語の最初、彼らはちゃあんとあの縁側でゴロゴロして、そしてローマから帰ってきてちゃあんと縁側でビールとミネラルウォーター(新婚さんのお決まりの大団円!)で乾杯するんだけど。
つまり大きな意味で言えば確かに、出かけて帰ってくる場所として同じく機能してるんだけど……でもその出かける先がローマで、ずーっとローマで、蛍じゃなくても見てる方も落ち着かない。ホタヒカの世界じゃないみたいで。

そして先に言っちゃったけど……松雪嬢と手越君、特に松雪嬢の違和感がどうしても気になりまくる。「ローマにも干物女がいた!」と、蛍がまるで湖面に映った自分を見たかのように驚愕するキャラクター。
つまり、勿論スッピン、前髪をゴムでくくり、上下ジャージ姿までソックリといういでたちで現れるのだが……最後までしっくりこないの。

松雪嬢扮する莉央がなぜ干物女になったか……ていうか、なぜ干物女になったかっていう前提からして、干物女ではないってことなんだけどさ。
だって蛍は言ってしまえば、きっと生まれた時から(爆)干物女。外ではきちっと頑張るけれども、ウチではゴロゴロしてたい、これって生まれ持った性格というかキャラクターでしょ。
それが二面性にならずにチャーミングな魅力になるあたりが蛍の凄いところであり、勿論、演じるはるか嬢の素晴らしいところであり、人気が出た部分である訳でさ。

でも莉央は違うんだもの。つまり彼女は干物女じゃないのよ。エセなのよ。彼女は恐らく、愛する夫と子供を亡くすまでは、プライベートな時だって蛍のようなカッコはしてなかったと思う。
もう全てを投げ捨てたという意思表示としての、つまり言っちゃえばコスプレとしての干物女のカッコだから。
でもね、それもこうして書いてみて、そうかなと思っただけで、劇中でそんなうがったことを言う訳じゃない。ただ違和感を感じるだけ。
蛍が干物女のカッコ、というかキャラに心底、居心地良さげに収まっているからこその、松雪嬢に対する違和感からムリクリ導き出しただけのことかもしれなくて。

正直、こういうシリアスな展開を持ってこられるのもホタヒカらしからぬ、とも思う。とか言いつつ、それなりにドラマでだってシリアスな展開はあったけど、やっぱりワンクールの中で描くのと、それがメインとしてどっしりおかれちゃう映画の尺とでは印象度が違うもの。
そりゃね、ホタヒカの魅力を描くべく、蛍とぶちょおは奮闘してるさ。予告編でも使われてた「世界をまたにかけてイチャイチャしようとしてるのか!」「そのとおりでごわす!」と返す、はるか嬢のてへっ、みたいな表情、芸人さんみたいに可笑しいのに、たまらなく可愛いしさ!

ふじっきーはドラマの時からこのぶちょお役、正直苦戦しているような印象をちょこっと受けてて、映画版のコレでもそれ以上にその印象が強まっている感じがするんだけど……それでもそれでも、やっぱりぶちょおは彼以外には考えられないしさ!
でもそう思うと、コメディってホント難しいよね。イケメンさんがコメディをやるだけでギャップの可笑しさがあるとは言いつつ、ふじっきーの戸惑いがなあんとなく感じとれてちょっとハラハラしちゃう(爆)。そう思うと、はるか嬢はやあっぱり、素晴らしいんだなあ。

で、まあ、そう、松雪嬢だってコメディ作品の経験はあるし、なんたって素晴らしい女優さんなんだけど、こと本作に関しては違和感ばかりを感じる。彼女の秘密が明かされるクライマックスでようやくホッとするのは、シリアスでしっくり来るのを待っていたような気がする。
その細眉が神経質にゆがめられ、雪肌の白さ、くっきりとした二重まぶたの目がしんしんと潤んでいる様だけで、干物女のカッコが似合わなすぎる(爆)。
いやー、はるか嬢だってカワイイのに、なんで彼女の方はこんなに干物女が似合うのか(爆爆)。

莉央が弟の来訪に動揺しつつ、次のカットではさらりとドレスアップして現われ、一気にホッとする。だってしっくりくるんだもん、そのカッコが。
しかもね、干物女の時の莉央は男言葉を操るんだけど、これまたなんともとってつけたようにしか感じないの。干物女の鎧をかぶってる……ならいいんだけど、それなら最後、蛍とぶちょおを送り出す時には普通の言葉に戻ってても良さそうだしさ。
とにかくとにかく、なんかメッチャ、似合ってないんだよー!それこそマンガじゃないけど、吹き出しの中の台詞を喋ってるみたい。

それで言ったらこの物語の世界観自体、その台詞の全てがそうなんだけど、やっぱりはるか嬢は素晴らしいんだよなあ、そのあたり。
ふじっきーにハラハラするのもその難しさがあるからなのかもしれない、と思う。てゆーか、てゆーか!!またなんか思いのまま書いてしまった(爆)。せめて最低限の情報だけは、と。

結婚した蛍とぶちょおは新婚旅行にローマを企画。だけど仕事の忙しさからかめんどくささからか、蛍はなかなか腰を上げない。
業を煮やしたぶちょおは出張のために一人でローマに行くことにする。「君が行く気持ちになるまで、何年も何十年も待つよ」この台詞がイヤミにならないあたりがぶちょおである。
一気にぶちょおラブ!が盛り上がった蛍は、切れてたパスポートをいそぎ“干物女バージョン”写真で更新、パリの空の下へと旅立つ。

急ぎだったもんだから飛行機の座席は離れ離れ。そこで蛍と隣同士になった青年は、後に莉央の弟、優君として再会。
莉央はm蛍たちが宿泊しているホテルに住み着いているナゾの女性。ぶちょおがひたかくしにするスーツケースの中にはあやしげな白い粉!?なんて騒動がある中、ぶちょおの誘拐事件勃発!?
折りしも、ぶちょおの出張した見本市での、日本人誘拐事件が起きていた矢先。二ツ木夫妻からそのことを聞き、フタちゃん(ヤスケン♪)が「あいつ、何か様子おかしくなかった?……人には誰しも二面性があるから……」なんて思わせぶりなことを言われて、蛍はあの白い粉のことを思い出して一気に動揺。

でもその粉は優が訪れ、スーツケースを取り違えたことが判って一気に解決。その白い粉を蛍が、莉央が探していた家族写真と共にベッドの下に隠しちゃったら、部屋係に捨てられちゃってこれまた大騒動。
無事帰ってきたぶちょおと探しに行くと、その白い粉「なんでこんなところに白玉粉が」とぶちょお。

……なーんか、ツッコミどころが点在。ぶちょおの誘拐事件は、彼の部下からかかってきた電話を、言葉が判らない蛍が莉央に聞いてもらって、莉央がイジワル心から誘拐されたとつい言っちゃっただけのこと。
でも、日本人誘拐事件がそのリアリティを増してしまったのは事実で、その日本人誘拐事件がどうなったのか、まあリアリティのためだけの設定とはいえ、それだけのための要素としてはちょっとシリアス過ぎて、シャレにならんというか……。

だって莉央がイジワル心とはいえ、ローマでは身代金がマフィアに渡るのを防ぐ方を優先する。つまり、警察に頼るなってことよ、なんてまことしやかに言うからさ。
だって松雪嬢にそんなこと言われたら、リアリティアリアリやないの!ニュースになった、つまり警察に頼ったその誘拐された日本人がどうなったのか、気になるよ!

ゴミ捨て場から出てきた粉を、ぶちょおがなぜすぐに白玉粉だと判ったのかもナゾで、まあ、その、なんでよ!というあたりこそがコミカルだってことなんだろうけど、そう、コメディは難しいの……そう思わせること自体が、難しいのよ!
ふじっきーにその芝居力がなかった、とまでは言わないけど、でも、……そうかなあ……(爆)。なんで白玉粉よ!と心の中で突っ込ませるような可笑しさがほしかった。

なぜ白玉粉なのか、というのは、優が子供の頃に自分を慰めるためにお姉ちゃんが作ってくれた白玉のことを思い出して持ってきた、ということなんだが、あんなパッキングされたビニールに入った、業務用みたいな白玉粉って、あ、ありえん……。そのありえんところを突っ込む感じもないままスルーするのもキツい……。
お姉ちゃんが作ってくれた白玉が粘土みたいにまずかったことや、優が作ったソレもおなじくまずいことさえ、ギャグにする気あんのか!ってぐらいにオールスルー。い、居心地悪い……。

てか、この物語の、というか映画のクライマックスは、誘拐されたぶちょおを、莉央の懺悔でそうじゃないと判ってからも、ぶちょおに会いたいから!とウェディングドレス姿で追いかけるシークエンスこそ、なんだけど……。
そう、誘拐なんかじゃない。ローマに到着した時からぶちょおに色目?使ってた当地の取引先の黒マッチョな男性、強引に連れ出して何をするのかと思ったら、ぶちょおにドレスを着せてダンス!?

後から事情を聞くと「出て行った女房にソックリ」なんだとかで、彼女を取り戻すために愛のダンスを思い出す、ってナンダソリャ!?そのナンダソリャの可笑しさを感じとれないってコトが、まさしく本作の不発のひとつの象徴なんだけどねえ……。
ぶちょおが学生時代を回想し、女子全員俺のことを好きだったが、男子も何人か好きだった。つまり俺は男女兼用だ、と言い放つのもね、ふじっきーだと優しすぎて、そのオレサマな可笑しさが出ないんだよなあ。笑うというよりぽかーんと聞いちゃう。難しいよなあ、と思う。ホントに。

画的にはね、ぶちょおがこっそり持ってきたウェディングドレスに涙した蛍、それを着て決意を固めるあの凛とした美しさ、それが走っていくうちに、車のドアにはさまれて裾がビリビリになるわ、水たまりに突っ込んでドロドロになるわ、もうお決まりにヒドイことになって。
それでもそれでも、ぶちょおー!!!と万里の長城みたいな高い高い崖のような山の上に駆けていく様は映画的に、魅力的ではあるんだが……。

たださ、そう純粋に没頭できないのは、蛍にナイショにして、このローマで二人きりの結婚式をあげようと画策していたそのウェディングドレスが、ビリビリのドロドロ……。
いや、これがロマンティックラブストーリーなら、単純に男子はヒロインの一途な思いに感動して抱きしめてレロレロチューあたりかもしれんが(爆)、これはロマンティックコメディ、どころかコメディ中のコメディな訳だからさ!
「俺がせっかく用意したウェディングドレスが!いくらしたと思ってんだ!!」ド突いて、ギャボー、ぐらいのシーンはほしかったなあ。おっと、ギャボーじゃ、それじゃのだめか(爆)。

莉央の家族写真を雨の中、池の中から拾い出し、その幸せな記憶に涙を流す莉央にもらい泣きする蛍、ぶちょおのツッコミ的モノローグがなくても、もらい泣きで声を上げて号泣する蛍=はるか嬢の、そのガマンしてる顔のブチャ可愛さからもう、きゅーんと来る。
そう、蛍は百パーセント蛍、アホミヤなんだけどね!ラストに、「忘れてた!」と帰り道すがら寄った教会で急ぎ結婚式を、私服で済ませる二人。素敵なシーンだけど、蛍はともかく、あんなウェディングドレスを用意してたぶちょおが忘れるかなあ。

個人的には、ヤスケン好きということをはぶいても、ちょこちょこナビゲート的に入ってくるラブラブ二ツ木夫妻が良い。落ち着いてるのにラブラブ、その感じがたまらなく良いのだ。
板谷由夏姐さんとヤスケン、ドラマの時からめっちゃ似合ってる、しっくり来る。ふたちゃん、と板谷姐さんがヤスケンに呼びかける、そのしっくり感、ラブさにきゅーんと来ちゃう。この二人が主人公の番外編とか見たい、マジで!★★☆☆☆


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