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「り」


2015年鑑賞作品

龍三と七人の子分たち
2015年 111分 日本 カラー
監督:北野武 脚本:北野武
撮影:柳島克己 音楽:鈴木慶一
出演:藤竜也 近藤正臣 中尾彬 品川徹 樋浦勉 伊藤幸純 吉澤健 小野寺昭 安田顕 矢島健一 下條アトム 勝村政信 萬田久子 ビートたけし 清水富美加 山崎樹範


2015/5/10/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
随分と長いこと、北野作品からは足が遠のいてしまっていた。その理由はただひとつ。私の大好きな座頭市を金髪ミュージカルにして、それを世界に出しちゃって、座頭市はコレってことにしたことが許せなーい!!という、本当にただ一点であった。
しかもあまりに頭にきてそれ観てないし(爆)、それ以降も一切観てないし(爆爆)。映画愛ってのは、そーゆーことじゃないだろ、とあの時思ったものだが、そんな私の映画愛も得手勝手だとは、今にしてみれば思うけれども。

で、ほんっとうに久しぶりに観る北野映画。なぜ足を運んだかも理由はただひとつ。予告編でヤスケンがめっちゃキーマンでばーん!と出てきたことに、飛び上がったからであった。
そりゃあ昨今の彼の活躍は判っていたつもり。もうよーちゃんの親友という立場からすっかり離れて、イイ役者として使われていることも判っていたつもり、だったがそれでもヤハリどこか、いまだに身内びいきかも……(身内じゃないけど)と思う気持ちがあったものだから、北野映画にヤスケン!!しかもメッチャイイ役で!(と、この時点では予告編なのだから、推測だったのだが)と飛び上がったんであった。

すごーい、すごーい、北野映画にヤスケンがっ、とそれまで避けまくっていたくせに、こーゆーところは長いものに巻かれまくっているんである(爆)。
でもさ、北野監督は、自分の映画は大手の映画と比べて差別されている、とか不満を述べている訳だから、一応はインディペンデントな気持ちでいる訳でしょ。まあだったら、長いものに巻かれている訳ではないかも。うーん、よくわからないリクツだけど。

その前に見た映画もヤスケンがとても良かったので、今年はこの盛り上がりで賞のひとつもとるんじゃないかと期待してみたり……。と思うぐらい、確かに本作のヤスケンの印象は、予告編からの期待にたがわず強烈で、まさに現代のニューヤクザといったらコレでしょう!というクールな悪辣さを、ビシッと決めたスーツ姿もスラリと決めて、キラリと光る銀縁眼鏡もスタイリッシュにキメてくれるんである。
その下に従えるのが暴走族あがりのヤンキーがムダに年取ったようなチンピラたち、元ヤクザのジジイにちょっと脅されただけで震えあがるようなワカゾーたちという底の浅さで、それがうまいことこのニューヤクザの底の浅さを描出していて、いやあ、素晴らしいのよ、ヤスケン(涙)。

そうなの、”ちょっと脅されただけで”なんだよね。正直な印象でいえば、そうとしか見えない。もちろんこの七人プラス親分の、八人の元ヤクザのジジイたちは昔取った杵柄の迫力で、非道な詐欺を繰り返すこのニューヤクザたちを蹴散らす、という趣なんだけど、趣……って感じなんだよなあ。
なんかね、昭和なコントに見えちゃう。いやもちろん、これはコメディ、北野武がビートたけしであるが故の、意外に今までやってこなかったザ・コメディなんだから、それでいいのかもしれない。
でも、笑えなかったなあ。カミソリのなんとかとか、雷のなんたらとか、いかにもな通称名を披露する時点で、それってヤクザ映画のオマージュというよりヘタクソなマンガチックって感じ……と思ってしまう。

ヤクザ映画のオマージュ、なのかなあ……。この通称名はどっちかっつーと時代劇テレビドラマな感じがする。風車の弥七とかさ。違うか(爆)。
とにかくなんかねえ……コメディにするだけのヤクザ映画への愛を感じないのよ。いや、北野監督自身アウトレイジなんていうニューヤクザ映画を当てたんだから(まあ、観てないけど(爆))愛はあるんだろうとは思うんだけれど……。

まあ一口にヤクザ映画と言ってもいろんなケースがある。ここでの彼らはいい意味でも悪い意味でも、いろんなジャンルのヤクザ映画ごちゃまぜな感じ。
見事な刺青を誇る龍三や若頭のマサは東映系の王道ヤクザ映画と思わせ、スティーブ・マックイーンにあこがれるマックのいでたちなんぞは、東宝アクション系をほうふつとさせる。そしてもちろん、仕込み杖のイチゾウは東宝のこれぞ座頭市。

ミックスの面白さと言えば言えるのかもしれないけど、やたら拳銃ぶっぱなすマックなんぞは仲間たちがヘキエキする前に、観てるこっちが興ざめしてしまう。拳銃本体だけなら当時から持っていたと思えばともかく、弾丸はどこから調達するんだよ……だって劇中で、シリンダー一回分は撃ち終ってるじゃん……。
そーゆーところをツッコんだらよろしくないのかもしれないけど、ツッコむヒマも与えないほどの面白さにしてほしいと思っちゃうもんなあ。

でもこのノリに笑えないのはただ単に、私自身がノレないからなんだろうか??北野映画からしばらく離れて、そしてビートたけしとしての彼をチョイスして観ることもなかったから、なのだろうか??
これはジェネレーションギャップのコメディなんだよね。それを元ヤクザとその子供たち世代が市井の人々になり、それだけでも十分なジェネレーションギャップ、カルチャーギャップ。
そこに現代のヤクザという形で、オレオレ詐欺から布団売りつけ詐欺、借金を返しても返しても取り立てにきたり、とにかく悪辣非道な暴走族上がりの”企業”をぶつけてきて、いわば勧善懲悪といった形でこの悪ガキども(いや十分、大人なんだけど。だからこそタチが悪いんだけど)を成敗するという図式。

現代の社会問題を描写している、ということなんだろうなあ……判るんだけど、なんでこうサムいんだろう……。それは、このヤクザたちが現役だった頃に、じゃあ彼らが仁義に篤い”仕事”をしてきたのかと、結局は同じようなことをしてアガリを稼いできたんじゃないかという疑問が頭をもたげるからさ。
だってこの悪ガキたちを成敗するためにと、ジジイたちは組を結成する訳なんだけど、その悪ガキたちの商売のやり方に乗っかって、カネを稼ごうとする訳でしょ。結局は人情にほだされて踵を返すにしても、そうしようとする訳でしょ。
小さなスナックを渡り歩いて、なけなしのショバ代をせしめる場面だってさ、それが「年寄りだから憐れんでこずかいをくれた」というオチになっているとしたって、現役のころはそのコワモテでそーゆー稼ぎをしてきた訳でしょ。

かつての仁義はなくなった、などと嘆息する彼らに全然共感できないのはそこなのよ。かつての仁義を感じさせるものが何も、ないんだもの。
ジジイたちが回想するのはかつて斬ったはったの命の取り合いをしていた、まさに「仁義なき戦い」のオマージュのような場面。そうだよ、仁義なき戦い。仁義なんてなかったじゃないのよ。

このタイトルからも容易に想像できるように、時代劇にはこんな風に何人のナニナニってのがよくあって、つまりはやはり、オマージュに他ならないのだが、それを劇中の会話でまんまされちゃうとそれもなんか、ガックリきちゃうんだよなあ……。そーゆーのは観客に自然と感じさせるのが粋ってもんじゃないの??
そういやー、七人目の子分は途中参加。龍三の息子の会社が食品偽装をして、そのデモの中に一人、的外れな右翼スタイルで紛れ込んでいるんである。
このシークエンス、この事態を収束させましょうとニューヤクザが噛んでくるのを龍三が横取りする形で格安サービス、しかし十分に大金をぶんどるってあたりも、やってることがどれだけ違うの、ヤクザの昔も結局やってること同じでしょ……と思っちゃう。

だからこそのコメディだということは判ってるんだけど、競馬の大穴ネラってスッちゃうとか、もうあまりにも予想出来すぎなオチをつけたりして、笑えないんだもん。
馬券を指示した手が小指と薬指をツメてるから、五じゃなくて三だと思った、だなんてブラックジョークにもならない。ちゃんと手を開いてたら、そんなこと思わないでしょ。龍三が指を詰めてることは、旧知の中で知らない筈はないんだもん。
だなんて、まっとうなツッコミがヤボだってことは判ってるんだけど、競馬でスる、というのがあまりにもあまりにベタでもうやんなっちゃうから、このボケを優しく受け止められないんだよう。

サウナのマッサージでこの指ツメを隠したサックが取れておばちゃんが絶叫したり、蕎麦屋で客の注文を賭けて、「天ざる食わせてヤろうと思ってんのか」とインネンつけたり。
笑わせようという場面だということは判っていても、どうも笑えない、のは、”仁義ある時代のヤクザ”だと豪語してはばからない彼らが、この年になって市井の人々にくだらないことでインネンつけて、つまはじきにされている、というのがね、全然仁義あるヤクザじゃないじゃん……と思うから、なんだよね。

時代に取り残されたヤクザの悲哀を面白おかしく見せる、ということなんだろうけれど、なんか、違う気がする……。時代に取り残されたヤクザ、というほどにポリシーを持ったそれじゃない、よね。
判ってる、判ってるさ。引退しちまえば何の役にもたたない元ヤクザ、仲間たちの中には、タクシー代を貸してくれというチンケな詐欺で小金を稼いでいる者がいるくらい。もうヤクザの誇りも魂も、二束三文で売っぱらっちまった、ということなんだろう。
でもその過程がすっ飛ばされて、黄金期を過ごしたヤクザも、やめちまえばこんなもん、としか映らないのがさ……。プライドあるヤクザなら、蕎麦屋の賭けで、思った通りの注文をしなかった市井の人を脅したりなんかする訳ないじゃん……。

まあそれだけ、もともとチンケなチンピラ程度だったのかもしれんが、それも推測にすぎなくて、結局同レベルじゃん……と思っちゃうのがツラいんだよね。
心優しい、仁義の判る元ヤクザとして、クスリと笑えるエピソードを作ってほしかったと思うのは、それをビートたけしに望むこと自体が、間違っているということなんだろうか??

途中はさまれるキャバクラエピソードも重要性がよく判んない。ジジイたちの一人の孫娘が、そのクソジジイを食わせるために水商売の世界に入り、そしてまさしくそのクソジジイのために悪徳ニューヤクザにヒドイめに合わされそうになり、ついにはそのクソジジイが撲殺されてしまう。
よく判んないなどと言ったが、まぁ確かに重要なエピソードか(爆)。でも、このキャバクラのママが萬田久子で、「龍三さんに憧れていた」という理由だけで彼をマンションに誘う、というくだりがどうもすんなりと呑み込めない。
龍三がこの美人ママにノせられて、ぱんついっちょになったところでニューヤクザ、ヤスケンが子分従えて呑みに来るじゃない。いつでも突然とは言うものの、映画の中のこのタイミングなら、意味があると思うじゃない。フツーに美人局とかさ。

だって萬田さんは確かに美人だけど、ヤスケンとそういう関係を結んでいると考えると、やはり年の差がありすぎる。クヤしいけど、これが逆の年の差だったら何の問題もないんだけどさぁ。
結局、藤竜也をブリーフいっちょにさせて、赤いミニミニのキャミソールとシャワーキャップさせることだけが目的だったんじゃないかと思っちゃうさ。
でもキャミまではよかったけど、シャワーキャップってのが、昭和の古さなんだよね。シマを荒らすな、ってオカマさんたちに凄まれるのも、二人がマンションへの道行でこの飲み屋街を通った時点で予測出来ちゃったかなあ。

クライマックスは、撲殺された仲間の弔い合戦。なのだが、まずあのハンパ右翼ヤローが相手のビルに突っ込む筈が操縦士としての血が騒いで、海が見たいだの言いだし、ついにはアメリカの航空母艦に突っ込む……じゃなくて、安全に着陸しちゃう。笑えたハズだがこれも難しい。なぜだろう……。
空に出たら神風特攻隊志願兵だった少年の頃を思い出してしまって、目の色を変えてしまうジジイ、というのが、ホンットに、マジに見えたら、良かったのかもと思った。結局は笑わせようというのがすべてに見えちゃって、それがツラい。
この場面が一番、如実に感じてキツかった。微妙な合成加減(ハッキリワザとらしい方が、まだ良かった)がコント臭をぷんぷんとさせてしまう。だからクライマックスのバスジャックのカーチェイスがどんなに凄くても、結局はコレありきのジャブだったのかと思っちゃうからさ……。

それまでは元ヤクザのジジイたちと持ちつ持たれつだった老刑事(ビート氏)が、いきなり百パーセント正義の側について、「全員逮捕!!」と声を張り上げ、「お前もだ!」とヤスケンをぶん殴る段に至っては、ああ、コレが描きたかったんだってことなんだろうな、と思ってしまった。
ビートたけしにぶん殴られるヤスケン、ってだけで、ワクワク度は十分だったけどね!

それでも劇場内はそれなりに笑いも起きていた、から、やっぱり私がダメなんだよね、きっと。だってナンクセしかつけてないもん。やっぱりブランクの問題かなあ……。★☆☆☆☆


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