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「ひ」


2015年鑑賞作品

ピース オブ ケイク
2015年 121分 日本 カラー
監督:田口トモロヲ 脚本:向井康介
撮影:鍋島淳裕 音楽:大友良英
出演:多部未華子 綾野剛 松坂桃李 木村文乃 光宗薫 菅田将暉 柄本佑  峯田和伸 中村倫也 安藤玉恵 森岡龍 山田キヌヲ 宮藤官九郎 廣木隆一


2015/9/7/月 劇場(丸の内TOEIA)
題材もそうだが、原作も思いっきり20代女子ターゲットのコミックスだというので、えーっ、なんでトモロヲさんに監督の白羽がたったの??まさか彼自身が映画化を企画した訳じゃないでしょうね……と驚きつつ……。
まあ確かにそうではなかった、プロデューサーさんから田口監督に持ち込まれた形ではあったにしても、観てみればなるほど、トモロヲさんで判るような気がした。

インディーズを駆け抜けてきたトモロヲさんだけれどナチュラル東京出身、東京東京言わない、リアルな東京出身の根付き感というのは、これは意外にクリエイターにはなかなかいないタイプなんだよねと改めて気づく。
このお話はザ・東京で、例えば地方出身の女の子が肩ひじ張って東京で暮らしているとか、彼氏の方がそうだとか、そういうのが全然ない。かといって一昔前のオシャレな東京ドラマという訳でもなく、まさにリアルに彼らが暮らしているザ・東京の物語なのだ。
阿佐ヶ谷やら下北やらといった、地方人ならオシャレ系東京としてひとくくりにしてしまうエリアも、彼ならそこで過ごしてきたナマな感覚で切り取ることが出来る。

それに考えてみればトモロヲさんだって漫画家さんだったわけだし……。
更に、アングラ劇団というのもまさに彼のイメージ。
劇中出てくる小劇団、めばち娘という劇団名は、原作でもそうなのだろうか。それはまるで伝説の劇団、そとばこまちか、あるいはトモロヲさんの出自であるバンド、ばちかぶりを想起させる語呂で、まあ勝手に重ね合わせているだけだけど(爆)、それこそ勝手に嬉しくなっちゃうんである。だって劇団の描写はかなりリキ入ってたもん!!

トモロヲさん監督が第一の理由ではあるが、本作に足を運んだ理由はやはり多部ちゃんにほかならぬのであった。彼女がヒロインでなければ、こういうタイプの映画に足を運ぶ気にはなかなかならなかったであろう……実際なかなか足を運んでないし(爆)。
正直な第一声の感想は、「ああ、多部ちゃん、大人の女になってしまったのね……TT」ヤハリ、10代の頃にホレこんでしまうと、こーゆー時がやってくるってのは判っていても、ちょっとしたショックに近い感慨にふけってしまうもんなんである。
ああ、あの多部ちゃんが、あんなレロレロキッスを、しかも何回も、しかも複数人としてしまうなんて!!とね(爆)。
なんか年をとるごとに若い女の子が自分の子供のよーに感じてしまうという、この不毛な感覚。男の子に対してもそれなりには感じるけど、女の子に対してのショック度の方が大きいのは、なぜだろーか。まるで父親が娘に抱く感覚のようだよなあ(爆爆)。

そう、多部ちゃんも26歳なのね……ならばレロレロチューをしようが全然おかしくない年頃ではあるのだが、彼女ってそういうイメージ、ないじゃない??
いや、ドラマはなかなか観る機会がないのでアレなのだが、多部ちゃんは多部ちゃんと呼ばれるようなその親しみやすさで、ここまで来たように思う。清純派という訳ではない、フレキシブルな魅力はあったけど、やはりこういう、流されて関係を持っちゃうような女の子、というイメージはなかった。

原作では巨乳の女の子だというし、それで言えば多部ちゃんの感じとは違うんじゃないだろうか、ひょっとして多部ちゃんのイメージを突き破るための今回の挑戦なんじゃないだろうかとか勝手な想像をしてしまうけれど、でもやはりフレキシブルという点こそが彼女の魅力で、そんなつまんない理由ではないよな、という気がした。
これがトモロヲさんの持ち込み企画ならば、多部ちゃんに意外な役をやらせたい!というキャスティングかしらんという妄想も働くのだが……。とにかく、私は個人的に、娘を持ってかれちゃったような気がしたなあ(爆爆)。

告白されて流されるまま男と付き合い、その男に嫌われたくないために求められるままの女でいようとする、とか。この原作が同世代の女の子たちから圧倒的な支持を受けているとかゆー世評を聞きかじると、うーむ、そんなに世の女の子たちはモテモテなのかと、ふた昔後の、しかも不毛女は思ってしまったりする(爆)。
いや、今の女の子だって、こんな風に男の子と自然と成り行きでそうなれるようなタイプはそれほど多勢ではないと思うのだが……。こういう、「同世代から圧倒的共感」的な題材を前にすると、時としてホントかなあ、という思いに駆られる。
あの男はやめときな、男なんていくらでもいるじゃん、そうだよね、なんていう会話を本当に女の子同士はしているんだろうか、それも本気でしているんだろうか??……まあそこに疑問を持ってしまったら本作自体に向き合えなくなってしまうのだが……(爆)。

んでもって、多部ちゃん、いや、多部ちゃん扮する志乃が出会うのが、”30超えて脂がのっている”ビゲ店こと京志郎、扮するのが綾野剛。出まくりすぎ(爆)。
志乃ちゃん言うところの「一目見て、風を感じた」という、無邪気な笑顔そのままのまっすぐな優しさを出してくる像はこれまた、これまでの綾野君には得られなかった意外なキャラクターである。うーむ、本作は役者のカラを破らせるための作品なのだろーか……。
彼女がいるくせに思わせぶりな態度を、しかも無意識に発し、元カノに頼られるとイヤと言えず、今カノに激怒されるよーな、……正直女性向けコミックスにしか出てこなさそうな男。これをリアル男性が見てどう思うのかが気になる……。

それを言うと、志乃の親友役として出てくるオカマの天ちゃんもちょっと気になるんだよね。演じるのはこれまた、そういうタイプの役者ではなかったであろうトーリ君。
正直、いかにも女性向けコミックスに出てきそうなタイプの、「親友のヒロインの気持ちを百パーセント理解してくれているオカマちゃん」というキャラクターで、……まあ正直、これがコミックスの中に収まっている段階ならまだいいんだけど、現代社会の中に作品としてブチこんでくるとなると、今の時代ではちょっと、甘いかなあ、と思う。
オカマ役が一つの分岐点になる、程度でとらえられている気がどうしてもしてしまう。こういう性的アイデンティティの問題は、ただの面白キャラクターとして扱う時代では、今はなくなっていると思うからさあ。しかも彼は、志乃の一番の相談相手という訳でもないし……。

一番の相談相手は、志乃のフラフラな恋愛事情を心配している女子、何年か後の物語の最後には、女子の一つの到達点である妊娠したお腹を幸せそうにさすっているナナコが買って出ている。
扮する木村文乃はまあその、いかにもな感じである。こういう図式はかなりよく見る。ああ、いまだに、女子向けコミックスですら、ここのゴールが幸せってことなのかと思う。
ああでも仕方ないか。だってこれは恋愛映画なのだから……本人同士はまだそこまで至ってないのだから、こんなところでケチをつけても仕方ないのかあ。

うぅむ、トモロヲさんに対しては点が甘くなると思っていたのに、やはりフェミニズム野郎が爆発してしまう(爆)。いけないいけない。てゆーか、全然本題に行けてないし(爆爆)。
本題っていってもまあ、心理のやり取りになるから、大きな物語があるというタイプの作品ではないんだよね。そこが、男子コミックスと女子コミックスの大きな違いで、女子コミックス原作のそうした、物語ではない心理、感情、モヤモヤの部分をいかに表現できるかが、成功のカギになるんだと思う。

本作はさ、凄くキスが印象的なんだよね。これでもかと出てくる。先述したように、あの多部ちゃんががっつりやってくれるから、インパクトがある。カラミシーンは暗示程度で、おっぱいを出すというところまではいかないけど、キスって、エロいんだなあ……と十二分に感じさせてくれる(爆)。
志乃がね、バイト先の男子に言い寄られるがままにキスを許しちゃう。それがまたエロエロなキスである(爆)。そして志乃は「……気持ちいい」と声に出して本音を漏らしてしまうんである。

そう、キスは気持ちいいんである(爆)。セックスばかりが気持ちいいコトじゃないんである(爆爆)。
てゆーか、女子的にはキスの気持ちよさこそが、心をとろかす扉なんである。だってそこにはセックスにつながるセクシャルな気持ちよさと、恋心をとろかす乙女な気持ちよさが奇跡的にミクスチャーされてるからさ。でもそれを本当に判ってくれている男子がどれだけいるのかなあ、っていう話よ。

男女の違いが微妙なところはそこで、男子は女が浮気したことに単純に怒るけれども、キスをされただけでメロメロになっちゃう、この恋の疑似体験に堕ちがちな女子の気持ちを判っているのかなあと思う。
いや、私にとっては妄想疑似体験だけどね(爆爆)。と、とにかく(汗)、キッスな映画なのだ。キッスって(汗)。ああ、多部ちゃん、キッスしまくり!!(涙)

てゆーか、失恋したぐらいで仕事辞めるな(爆)。でもって、ビデオ屋に勤める。うーむ。自主映画にカネがかかって借金取りに追われているバイトの男の子とか出てくる。ヒゲ店はとにかく映画を完成させろ、とレジからお金をつかみ取って渡す。志乃はキャーとホレ込んでしまう。
ビデオ屋さんという舞台だけではなく、ここではトモロヲさんの映画愛も爆発しているんだろう、結構映画ネタが登場する。デートで映画しりとりをして、一条さゆり、濡れた欲情と答えた志乃に京志郎が爆笑するとかさ。
そうしたあたりに若干の危険さを感じつつ……。いやだってさ、結構そういうの、一般観客はそんな思わないのかもしれないけど、逆にそこそこの映画ファンであるこっちの方がヒヤッとしちゃう。ちょっと一般的な恋愛映画の要素から離れちゃう気がしちゃう。オタクな感じがしちゃう。いや、いいんだけど。

そもそも、引っ越した先の隣の男子に恋をしたら、それがバイト先の店長だった、なんていう偶然を許せるかどうかという問題にかかっているんだよな(爆)。いや、そこを突破できなければどーしよーもないんだけど(爆爆)。
正直、縁側で顔を合わせた時に、うぅ、この図はいかにも女子的運命の場面だなとヒヤリとしたし、バイトの面接で偶然だね!と言った時には更に鳥肌が(悪い意味で)立つ気がしちゃった(爆)。
いやいや、これこそがいい意味での女子的コミックスのロマンティシズムで、トモロヲさんだってとてもロマンチストだからとっても素敵に可愛らしく映画化しているとは思うのだけれど……。
私、ダメだな、つまりはこーゆー女子に共感するのが難しいからちょっといろいろ立ち止まってしまうのさ(爆爆)。

しかもヒゲ店にはカノジョがいるしさ……。これまたドラマチックにミステリアスな彼女。ヒゲ店の弟(バーテンダー。演じているのは森岡龍君)言うところの、経歴も名前も詐称、北朝鮮のスパイじゃないの、というぐらいの。
このクールな彼女、あかりを演じる光宗薫嬢のことは私、知らなくて、AKB出身の子、そんな感じしないなあ!いやどんな感じと言われると困るのだが……なんか、アンダーグラウンド系、それこそトモロヲさんが好きそうな感じの女の子!それで言えば、多部ちゃんもまた、そうなんだけどね!!
後に、京志郎を志乃に取られた話を小説に仕立てて華々しくデビューする彼女に、二人は振り回されることになる。キーマン中のキーマン。うっかりすると多部ちゃんが負けちゃいそうな存在感。

だって、多部ちゃん扮する志乃が、私にはなかなか共感しづらいキャラだから仕方ない(爆)。トモロヲ監督はそのあたりを汲んでなのか、柄本佑君扮する元カレの幻影に彼女を罵倒させる場面を数多く挿入してくる。いや、これも原作にある展開なのかもしれんが……。
でも、「男なら誰でもいいんだろ」という自らのアイデンティティの不確かさに悩む志乃を、少しでも不毛女子に引き寄せるには必要な展開であったり。

ただ、全編多部ちゃんのナレーションで進行していくのが、どこか柔らかさを獲得することに大きく役立っていると思う。
クライマックスは志乃とヒゲ店の温泉旅行。そこで元カノと連絡を取り合っていたことを、しかもウソをついて合っていたことを知って志乃は激怒、男湯にまで乗り込んで泥沼を繰り広げる訳で。
これまたレロレロチューに次ぐ多部ちゃんの意外な姿。そんな女なんだよ!と吐き捨てる多部ちゃんなんて初お目見え。そして二人は別れ別れ、実に一年以上も音信不通になるんである。

その間に志乃は劇団の衣装の仕事から、その劇団の成長に従って他のメジャーな仕事も入るようになり、頼りない恋愛依存女から、キャリアウーマンの風格然としているんである。
物語の冒頭、恋人に言われるままにばっちりメイクに胸の谷間もあらわにした多部ちゃんはなんか似合わなくて、途中息ついてすっぴんになる彼女の方が数倍可愛いと思ったもんだが、そのラストに至るとあか抜けた、でも肩ひじ張らないナチュラルファッションとメイクが大人の女の美しさまんまで、とても素敵なの!いやー、女優さんだなあと思っちゃう!!

私的には四人目の男、劇団の演出役として登場する峯田氏扮する千葉の「第一印象から決めてました!」て土下座する姿に一番鷲掴みにされたけどね!!
てか、峯田氏がチャーミングすぎるんだもん!!てかてか、トモロヲ氏が峯田氏好きすぎるよね!絶対出してくる上に、絶対チャーミングな役なんだもん!
本作でも主人公二人が再会して追っかけっこをする最高のクライマックスに、彼のシャウトが超ドラマティックに盛り上げる。素敵!!

でも、いくら京志郎が志乃のことを想い続けていたとしても、一年半何のアプローチもせずに音信不通じゃあ、それはちょっと違うような気もしたけどな……。
奇跡の再会にクライマックスの追っかけっこは確かにキュンとしたし、志乃ちゃんがおいていったクワズイモを、彼女が忘れられないゆえに増やして増やしてジャングルみたいになっちゃった様を見せつけて、見事ハッピーエンド!!になったラストはキュンキュンキューン!!だったのだが……。
だったらこの一年半のうちに連絡とれよ……と思っちゃうのは、いけない??いやでもそれはお互いさま、意地の張り合いと意気地のなさはお互いさまということなのかなあ。

多部ちゃん自身のナレーションがほんと良かった。彼女の声はとても好きなの。少しかすれているんだけど、でもふわっと可愛くて。この声だから、共感しづらい志乃にもついていけた。
そしてその声で口ずさむ、そっと静寂の中での♪たやすいことよね、たやすいことよ こそが、オバチャンには共感しづらい中での、バッチリシンクロする諦念を感じさせて、凄く味わいがあった!
そして、劇中キャラでもめちゃめちゃ可愛くてカッコ良かった峯田氏、エンディングテーマの、峯田氏&加藤ミリヤもまた、メッチャカッコ良かったのだった!!★★★☆


人の望みの喜びよ
2014年 85分 日本 カラー
監督:杉田真一 脚本:杉田真一
撮影:北川喜雄 音楽:稲岡真吾
出演:大森絢音 大石稜久 大塲駿平 渡邉享介 河野律子 荒木宏志 吉本菜穂子 西興一朗

2015/3/29/日 劇場(テアトル新宿/モーニング)
とても美しいタイトル。でも美しいからこそ、このタイトルの意味がどう内容に反映されているのだろうかと、なにかとても気になってしまった。
言うまでもなくバッハの宗教曲からの引用。とても有名なタイトルだし美しい響きの言葉ではあるけれど、ならばどういう意味なのか、改めて考えてみると、判りかねる感じがした。その意味を探っているうちに、どんどん本作から遠のいてしまう気もした。

いや、もっと漠然と、いやいや、それはあまり良くない言い方(爆)、もっと精神的なコアな部分で感じればいいのかもしれない。と思いつつも、なんだか思い悩んでしまった。
そのままにとれば、神から与えられる幸せや喜び、敬虔な気持ち。でもこの二人にはどんな幸せや喜びが与えられているのか。
確かに神様の目線は感じる。不思議とあたたかなそれも感じる。でも二人にどんな幸せや喜びが与えられるのか。これから与えられていくのか。

主よ、という呼びかけが抜け落ちているそのことを、意味重くとらえればいいのかとか、それじゃあなんだかどんどん、違う方向へ進むばかりのように思うから、やっぱりやめておく。
二人は本当に幼くて、まだ生まれる前の世界に近い幼さ、特に弟の方は……だからこそ、神からのあたたかなまなざしが感じられるのだろう。この不思議な感覚はそうなのだろう。
勿論、巧みな演出、カメラワーク、映像の肌触りといったものも関係しているのだろう。そして何より作り手が、この子供たちを慈しんで撮っているということも。 でも、彼らにどんな、幸せや喜びが与えられるのか。

正直言って本作の構成というか、設定というか、に対しては、ちょっと単純すぎるかな、という気持ちもしていた。震災を絡めなければ、どこかで見聞きしたことのあるような話という気がした。
突然両親を亡くした姉弟。幼い弟は両親の死を知らず、いつか迎えに来てくれると思っている。親戚先の子供との軋轢。引き取ってくれた大人たちもストレスがたまって、二人はいたたまれずにその家を出てしまう……。

でも単純、ということが、世界映画祭での子供審査員の絶賛を引き出すことになったのかもしれないと思う。単純のどこがいけないのかと言われればそうかもしれないと思う。
よりシンプルに抽出された子供の魂の物語に、同じ子供がダイレクトにシンクロしたのだと考えれば、どんなにか大人は汚れまみれたのだろうとも思う。

でも……。

ここでは何度も言っちゃってるけど、震災バカな私は、震災からいろんな映画が出来ちゃう……いわゆる震災モノ、震災ジャンルが出来上がってしまっていることにいささかの苛立ちと、何より疲労を感じているもんだから、こんなシンプルで美しい(誤解を恐れずに言えば)物語にも震災を絡めなければいけないのかと、思ってしまう。
でも逆に言うと、震災を絡めなければ、それこそどこぞで見聞きした物語なのだ。正直それだけではオリジナリティとして成立しないような。言ってしまえば大昔少女漫画あたりで流行ったような設定なのだ。

……けんつく言い過ぎかしらん……。

でもね、例えば“施設なんか”と吐き捨てることとか、今の時代ではあまり言ってほしくないような気もした。勿論、愛情のある身内に引き取られるならそれが幸せと思うけれど、結果的に“愛情のある身内”というのが自意識過剰な認識だったのだとすれば、真摯に子供たちを引き受けている“施設”の方がいいんじゃないかという気もした。
“施設”に関するそうしたアレコレは、つい最近の某名子役のドラマでも論議されたところだけれど、つまり単純な物語というのは、それだけで罪を免れるという訳ではないと、言いたい訳なんである。

……まあそれこそ、重箱つつきな訳だけれど……。

この幼い姉弟が引き取られたのは、奥さんの方が「(施設に引き取らせるなんて)お姉ちゃんに顔向けできない!」と言ったぐらいだから、叔母夫婦のもと、ということなんだろう。
壊れた家の前で呆然と座っていた春奈を抱きしめて「はるちゃん!良かった!!」と抱きしめたぐらいなんだから、そりゃ姪っ子のことは見知っている。なのにイトコに当たるこの叔母夫婦の一人息子が、二人をすっかり初対面のように迎え入れるのがどうにも気になるんである。
一人息子の彼が、親の愛情を闖入者にとられてしまうかもしれない、と反発するという形に持っていくにはその方がやりやすいのかもしれないけど、それだけの理由のように思えてしまう。

痛々しいほどに、一生懸命に、姉弟をあたたかく迎え入れようとする叔母夫婦。でもその受け入れの最初の時点で、夫の方は、自分の家には子供もいるし……的に及び腰だったのが、いわば伏線的になっていて、一人息子の反発もあいまって、この叔母がキレちゃう。あなたは表面上取り繕って、仕事に行っちゃって、いいわよね!!みたいな。
でも、この家にはおじいちゃんもいて、このおじいちゃんが二人のことを「首を長くして待っていた」と言うんだし、つまりは孫でしょ?孫は子供より可愛いっていうじゃないさ……。あれ、違うか。夫の父親だったら孫じゃないのか、そうか……。

そのあたりのフクザツは、スルーするんだな……。見てる時にはさ、“首を長くして待っていたおじいちゃん”ってゆーから、すっかり叔母系列の孫だと思っていたが、よく考えればこの状況での同居じゃ、そりゃ夫側のおじいちゃんか……。
でもわざわざこんな風に愛情深く登場させて、お姉ちゃんにはランドセル買ってくれて、弟にはいちご狩りとかさせてるのに、結局二人の心の中には全然入ってこないってあたりが(爆)。
それがネライなのかとも思うが、なんかとりあえず置いてみたおじいちゃんというポジションのようにも感じちゃう(爆爆)。だってホントの孫であるこの叔母夫婦の一人息子に対しては何のコミュニケーションをとる場面もない、二人と仲良くしてやれよ、という通り一遍の言葉さえないもんなあ。あ、それは父親がやってたか……。

結局は愛情ではなく、同情しかなかったから上手くいかなかった、という結論に思えなくもない、んだけど、でも最初から愛情なんて、そりゃムリだと思う。そこに、ついこだわってしまう単純さを感じる。
恐らく最初から愛情、愛情、とこだわっていたのが叔母であり、特に弟、翔太に対する、まるでマニュアル化した幼稚園の先生のようなはしゃぎっぷりで、だからこその崩壊、だったと思うんだけれど、そんな彼女の、同情だけだからダメだったんだ、といううっすらとした認識を感じるからこそ、この物語をすっくりと受け入れられないんだと思う。

思い出したのだ。それこそ、敬虔な神が宿る作品の中の台詞を。映画じゃなくて、漫画だけど。
萩尾望都の名作、「トーマの心臓」。「僕、同情されるのって、好きだよ。だってその感情って、とても優しいもの」初めて触れた時も衝撃だったが、何度思い返しても、この言葉の深い意味を何度もなぞらずにいられないんである。
それこそ震災という大きな悲劇の中で、同情という感情をこんな風にピュアに、それこそ主が我らに与えるように敬虔に受け取らなければ、どうしようも前になど進めないではないか。

そう、もう重箱つつきばかりになっちゃうけど、事前に自分の子供に全くの説明ナシって雰囲気だしさ。しっかり説明してから迎えろよ!と言っちゃったら、このシンプルな物語世界が成り立たないのかもしれないが、単純、シンプルということをそーゆー風に言い訳してほしくないのが正直な気持ちなのだ。
それこそ、実子である子供は、同情という名のたっぷりの愛情を注がれる新しく入ってきた子供に対して嫉妬はするさと思う。でもそれをこんなダイレクトに描写するなんて、お互いのコミュニケーションもろくろくないままそうだなんて、あまりにも古臭いし、何より子供たちを信じていないと思う。
シンプルな美しさが確かにあると思いながらも、それだけでいいのかとどうしても思ってしまうそこここが、ある。それはないものねだりなだけなのかもしれないのだけれど。

大人たちのいさかいの声に耐えかねて、姉弟はこの家を出る。故郷からはどれだけ離れていたのだろうか。船で渡ってきたこの地は離島だったのだろうか。幼い二人がこの船賃をどこで手に入れたのかとか、気になっちゃいけないだろうか……。
そうそう、幼い弟が両親が恋しくて、いつか迎えに来てくれると信じて、朝から晩まで船着き場で待ち続ける、それを姉がいたたまれなく付き添っている、というシークエンスもある。
ついイジワル言っちゃえば、これもまたどこかで見たような、という感じがする。映像、カメラワーク、悄然とそこにいるしかない姉弟のたたずまいはなんとも言えず画になり、確かにとても、映画的美しさではあるんだけれど、ツッコミどころは結構、あるんだよなあ。

ラストシーンのために、ここまでのすべてがあったような気もしている。愛情までは育たなくても、優しい同情はたっぷりあった筈の叔母夫婦の家を出る二人。
まあ確かに、同情だけでは自分たちの気持ちを理解してもらうことは難しいが、でもそれを言ったら、愛情だけだってさ……という話になると、またややこしくなるからやめとく。
ひとつだけ。どうも叔母を演じる吉本菜穂子氏の甲高いアニメのような声が気になってしまう……ウソ寒くて(ゴメン!!)。芝居は良いのだけれど。

なんか、断崖絶壁に行く訳。そしてお姉ちゃんは、弟に懺悔する訳。ウソをついてたと。お父さんとお母さんは死んじゃったんだと。ごめんね、と。
この、“子役号泣天才演技”を見せるためのクライマックスかしらんとか、ついついイジワルなことを思ったりもしつつ……。
彼らがこの幼い弟に両親の死を隠し続けていたのは、両親の死にショックを受けることを心配した、というニュアンスでここまで来たんだけれど、この幼い弟が果たして、死というものを理解するだけのキャパシティを持ち合わせていたんだろうか、とも思う訳なんである。

年齢的には微妙なトコではあるんだけれど、勿論それを理解しているお姉ちゃん、そして叔母夫婦が、その微妙なトコをスルーして、死んじゃったとはとても言えないよネ、という共通認識でいるのが、……うーむ、と思わなくもないというか。
こういう、いわばツメの甘さがいろいろ気になってしまって、とても真摯な作品だとは思うんだけど……。

でさ、お姉ちゃん、手にしていた両親が映った写真が突風にさらわれて、それをとろうとして、絶壁から海に落ちちゃう。ええーっ!と思う。まさかまさか、このままお姉ちゃん死んじゃうんじゃないでしょうね!と思ったらさすがにそれはなく、波打ち際に打ち寄せられたお姉ちゃんに幼い弟が、その頬に手を触れて、お姉ちゃん……と呼びかける。
しかしてこれが、希望的結末なんだろうかとも思う。だって二人はこれから一体、どこへ行くの?お姉ちゃんは、どうやったらお父さんとお母さんにもう一度会えるの?とつぶやいてた。そして落っこっちゃったから、これはもう、天国に召されるのかと(爆)。

え?まさかあのラストは天国じゃないでしょ??そんな訳ない。未来ある子供たちのラストは、どんな苦境にあったって、うんざりするほど残されている残りの人生が、いくらだって幸せに出来ることを示すべきだし、本作のラストだって、そういうことだった、よね?でしょ??

それに子供って、辛いことだけに一日中を悩まされている訳じゃないと思う。と思っちゃうのは私にとっての子供映画のバイブル「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」を思い出してしまうからであろうと思う。
楽しいことには心浮き立ち、その心のすみわけが不思議と出来ている。大人になると段々できなくなるそのことこそが、子供の可能性、未来というものだと思う。
そういう意味でも、大人が考える“可哀想な子供”の造形だったように思えてしまったのも、モヤモヤしたひとつの要因だったかもしれない。 )★★☆☆☆


ひとまずすすめ
2014年 30分 日本 カラー
監督:柴田啓佑 脚本:小森まき
撮影:佃友和 音楽:中野哲郎
出演:斉藤夏美 木村知貴 山田雅人 小林優斗 矢崎初音 玉川佐知 赤間麻里子 木下あかり 藤代太一 池浪玄八

2015/6/11/木 劇場(テアトル新宿/レイト)
新しい才能との出会い。始発で仕事に行く身としては一週間のみのレイトはキツく、水曜休市前の火曜に行こうとしたら、なんか出会い系イベント抱き合わせの日で断念し、うーむ、どうしよう、と思ったが、新しい才能には出会っておきたい欲求に勝てずに足を運ぶ。
トークイベント中、すっかり寝てしまってスイマセン(爆)。いつもなら遅くなるからと、上映後のトークは飛ばして帰ってしまうのだが、その日は、トークの後に更にスピンオフ作品の上映があるというので、そ、そんなあと思いながら最後まで観た。
つまりこの日は同時上映の短編含め三本もの作品を観られた訳で、しかも新しい才能との出会い、やっぱり行っておいて良かった、ワケ。

そう、スピンオフ作品、これがあったのは結果的に大きかった。というか、本編となる本作に広がりを与えた。一週間の上映期間中、色んなイベントが催されていたらしい本作、私が諦めた火曜は短編の上映はなかったようだけれど、このスピンオフは毎回上映されていたんだろうか??
スピンオフ、というからには勿論、本作はひとつの作品として独立している筈であって。その中で彼女の物語は一つの完結をみているということであって。それによって導かれる印象や彼女の物語が、スピンオフの存在によってかなりの変化を見せ、それが面白いなあ、と思う。

本作は映画祭で多くのファンを獲得したということだけれど、このスピンオフは合わせて上映されたんだろうか??そういうことも気になる。だって、本作のヒロインに共感した、というのなら、その先のスピンオフは、彼女が今までの自分を捨てて……まではいかないにしても、タイトル通り“ひとまずすすんで”つかんだ幸せの予感、なのだもの。
本作自体のラストはどこかほろ苦く、ふっと自嘲してしまうような空気で終わっており、つかめなかった恋だけれど、彼女自身は“ひとまずすすんだ”という、未来への展望をはらんで終わっていた訳だからさ。

などとだらだら言っていてもしょうがない。短い尺の物語だし、ざっと物語を並べますと……。地方都市、てゆーかまんま群馬県藤岡市、が舞台。主人公、美幸は市役所の戸籍係として働くアラサー女子。日々、結婚だ離婚だという市民の人生のピークとどん底を見つめ続けている。
演じる斉藤夏美嬢は、予告編で一目見た時から、その独特の風貌が、大久保佳代子さんみたいと思っていた、から、なんかコミカルな展開を勝手に予想していた(爆)。でも基本シリアスだった、ゴメン(爆)。
集めの唇がエロティックより残念さを思わせる稀なケース(爆)。いやそれは、彼女の演技力ということなのだろう!!

加えていえば実家暮らしで、5年も彼氏がいなくて、アイドルヲタで、友人のバツイチ子持ちだけど華やか女子、香里に言わせると、「……枯れてるねー」
この友人からの強引な誘いに乗る形で、街コンイベントに参加、ちょいとイイ男子に出会う。

一方で、弟が身重のカノジョを連れて実家に帰ってくる。今までは勝手してゴメン、これからは姉貴は好きなことをしていいんだよ、と言われ、美幸は激昂。
あんたは好き勝手に出て行って、だから私は地元で就職したのに、お父さんも何とか言ってよ!!と。でもその父はぽつりと、俺はそれでいいと思う、と。既に弟の頬は父親から殴られた跡で赤く腫れ上がっていた。

つまり、長いことの父子家庭。父親の面倒を見るために、自分はガマンして地元に残った、という図式。彼女の苛立ちは判るが、そうか、未だにこういう設定が成立するのか……というちょっとした驚き。
いやでも確かに根っこの部分で日本社会というのは変わっていなくって、長男よりも年が上なら長女の方が、親の面倒を見なければと責任をかぶってしまうとか、弟もまたそういう価値観でいるからこそ、俺たち夫婦がオヤジの面倒見るからさ、と言うとか、なんか言われているお父さんの方がミジメに思えてしまう、などと思ってしまうのは、私自身が無責任な子供だからなのだろーか?
お気楽に、そうなった時に考えればいいや!みたいな……。こういう考え方って、親たちのアイデンティティを奪っていると思っちゃうのこそが、甘いのだろーか??

それこそこういう価値観の違いって、地域環境とか、育ち方の違いによってかなり差が出てくるように思う。本作の舞台となる地方は、典型的な、地方。田舎過ぎず、かといって都会でもない、それなりに若い人はいるけれど、残された若い人たち、という感じ。
だからこそ街コンなんていうイベントも成り立つ。妙齢の男女がホンキで相手のいないことに焦ってる。そして、結婚こそが幸せのゴールであると、その価値観が真の意味で成り立つ、きっと幸せな環境。

あらら、妙にシニカルな言い方しちゃった。地域環境とか育ち方の違い、などと言ってしまったのは、私自身が転勤族の子供で、いわゆる地元愛やアイデンティティが薄いことにコンプレックスを持っているから。加えて言えば年齢的価値観にも執着がない。いやそれは、単に言い訳かもしれないんだけど(爆)。
故郷をこうした地方都市に持ち、彼女のように長女だったりすると、こういう葛藤が生まれるのかもしれない、とぼんやりと思う。スピンオフまで含めて見てみれば、その先に彼女自身の、純粋な恋のときめき、そしてその先に首尾よくつながってくれれば嬉しい幸せへの希求、があるんだと思う。

それはまるで、乙女のように純粋な心持であると思う。自分自身から一回り若いせいもあるけれど、どこか懐かしく感じて、若いな、可愛いなあ、と思う。
そんなこと言っちゃえば、いつでも一回り若い世代にそんな上から目線になるのかって話だけど。
でもさ、なんか懐かしい感じがしたんだよなあ。30周辺の、妙な焦り。30ってのは、凄く大きな壁だった。十代から二十歳になる時のワクワクはなく、30代から40になる、もはや横滑りのような諦念にも達せず、オバチャンになる!!という焦り。

三十路、というハッキリとした揶揄の言葉がそれを助長した。思えばそれって、男子にはあんまり、どころかほとんど使われないよね。むしろ男子は30代、40代になってこそ、みたいなさ。
それはそれで、いつまでも一人前扱いされないジレンマが男子にはあるのかもしれないけど、早々に賞味期限が切れるみたいに言われる女子に比べれば贅沢な悩みよのう。

おっと、過去の感慨にふけってしまった(爆)。つまり女の人生は、アラサーの時にどういう価値観、どういう選択をするかで決まるんだということを改めて思ったりする。
本作自体のラストは、悩みに悩んだ末に街コンで出会ったガラス職人の男子に連絡を取ろうとしたら、名刺が突風にあおられて飛んで行ってしまう、というものであり、つまり、ひとまずすすむ決意をしたけれども……いや、決意だけでもひとまずすすんだのだ、というほろ苦いユーモアを含んだ結末に思えた。
弟夫婦のもたらした新しい命、それによって子供から大人になった弟の成長や、お嫁さんのまっすぐに幸せを希求する姿に、美幸は、父親の世話で犠牲になっていた自分、というネガティブな図式を見直さざるを得なくなる訳でさ。

でもスピンオフで、連絡の手段が途絶えた筈のガラス職人とそれなりにコンタクトを取り続けて、イイ雰囲気になるところまで行っている、というトコを見せられるから、あれぇ、と思っちゃう訳(爆)。いや、ヒガミじゃありません(爆爆)。
美幸の“枯れた”要素として友人が付け加える、“アイドルヲタ”がその時の言葉と部屋に貼られたポスターのみ(それも控えめに貼られているだけで、アイドルヲタなんて激しさには見えないし)なのが、凄くもったいなかったと思う。
予告編で既にこの台詞に接していたからさ、それが街コンで出会った男子との恋物語にどう作用するのかって、当然期待していたから、美幸のアイデンティティを構築するものとしてさえ描写されなかったから、かなーり、残念だった。

結局、つまりは、美幸は、父親に縛られて(てゆーか、自分で勝手に縛って)地元に残った。自由を謳歌した弟を呪った。アイドルヲタっていうのは、地方から都会を眺める時に特別な作用をもたらすと思うからさ……。
簡単に憧れられる存在としては全国共通だけど、都会においてはその限りではない可能性がある訳じゃない。それはこの尺では難しいということだったのかなあ??

でもまあ、その男子、男子というにはちゃんと大人、ガラス職人男子は妙に色っぽかった。ホントにこんな男にカノジョがいなくて街コンに参加するのかよ、と……。
その妙な色っぽさは、本作でもスピンオフでもお約束のようにアクシデントでずぶぬれになるからかもしれない。
スピンオフでは美幸と共に鯉の泳ぐ池に落ちる。本作では彼だけが噴水の水でずぶぬれになることを考えると、最初から本編とスピンオフは一つながりとして考えられていたように思う。
そういやー、無料コミックのことも「より世界が広がる」って宣伝してたもんなあ。ならば本編のみならば理解が不十分と言われている気がしてアレだけれども(爆)、と最初の感慨に戻ったり……。

スピンオフ「ひとまずすすんだ、そのあとに」のタイトルはまんま、ももクロちゃんの、「幕が上がる」のドキュ「幕が上がるその前に」のもじりではないの??そう考えると、このスピンオフの存在はどの時点からなんだろう??いや、こっちが先かもしれないけど!!★★★☆☆


人も歩けば
1960年 99分 日本 モノクロ
監督:川島雄三 脚本:川島雄三
撮影:岡崎宏三 音楽:真鍋理一郎
出演:フランキー堺 沢村いき雄 沢村貞子 横山通乃 小林千登勢 桂小金治 春川ますみ 森川信 淡路恵子 前田純子 加東大介 三遊亭小円馬 奥村恵津子 藤木悠 立岡光 ロイ・ジェームス 八波むと志 南利明 由利徹 若水ヤエ子 瀬良明 稲吉靖 永井柳太郎 武知杜代子 越智令子 織田照子 西原純 田中章三

2015/7/2/木 劇場(池袋文芸坐)
すっかり大好きな川島雄三監督だが、まだまだほんの少ししか巡り会っていない。これからの出会いが本当に楽しみ!!今回は大傑作「幕末太陽傳」での出会いですっかりトリコとなったフランキー堺とのタッグの二本立て。東宝喜劇ならではの軽妙洒脱にまたしてもすっかりトリコになる。
それにしてもこのフランキー堺という人はなんでこんなにフットワークがいいの!フットワークがよさそうな体型じゃないのに(爆)。やはりそこは、ジャズドラマーだからなのかしらん。
てこともなんとなく聞いたことがあるような気はしたが、お初に聞きましたけれども!!進駐軍で演奏、だから通りを良くするためにフランキーという芸名、なあるほど!
てゆーか、本名が堺正俊とゆーのにもビックリだけれども!いや、字は違うけど……面白い偶然!

で、そうそう、ジャズドラマーだったのね!原作モノではあるけれど、このあたりは彼のそもそものキャラクターが生かされているのかしらん。
でも「ドラマー稼業から足を洗ってムコ養子」という流れだけで、彼のその腕前を披露しないのかしらんと思っていたら、まさかの夢オチの先にラストで披露!
おっと、いつも以上にひどいオチバレ(爆)。うーむ、でも今までの中でも1、2を争うそりゃないだろの夢オチだったもんだから(爆)。でも喜劇とゆーものは、そんなもんかもしれんなあ。

タイトルが出てくるまでに、フランキー氏自身(だよね?)の軽妙なナレーションでことの始まりが語られ、これが結構長いんだけど、本当に軽妙で、そのバックでまるでナレーションに操られるように次々と展開していくこの早とちりでおっちょこちょいの桂馬の様子に目が釘づけになって、すっかりツカミはOK状態なんである。
だって質屋に出入りしてて婿養子のクチをかけられ、美人の娘さんに目を奪われてOKしたらその子じゃなくてちょっとトウの立ったもう一人で、茫然とするまま華燭の典、誘った義父はぽっくり昇天、がめつい姑と嫁にがみがみ言われ、彼自身も質屋の才もなく主人の座を下ろされサラリーマン生活になり、邪魔者扱いされる日々、そんな彼に探偵が張り付いていて……てなところまでざざーっとナレーションでとんとん進んじゃうんだもの、アゼンよ!
これがでも、すんごく面白いの。かなりな冒険だと思うなあ。確かにその後の展開を考えればほんの序の口入り口なんだけど、ここまでをナレーションと無音の芝居でスピーディーに展開させるなんてさ!

でも確かにとんとん進むスピーディーさは、この時代の映画の非常に良質なる特徴ではある。だってこんな詰め込まれた物語をたったの100分足らずよ、信じられない!
ざっと言っちゃえばこう……冒頭の後は、桂馬は姑と妻と大喧嘩して家出して、ベッドハウスという名ばかりはハイカラな木賃宿で寝泊まりする日々。
飲み屋で出会った、趣味で占いやってる風呂屋の主人の予言は家出することと億万長者になること。買ってあった宝くじが当たるのかと思いきや、たったの2000円ぽっきり。しかしウラでは彼に転がり込む9000万円の遺産話(この当時の9000万よ!)。受け取る期限が一か月ということもあって、追い出した筈の姑と嫁は血眼になって彼を探し出そうと四苦八苦。

ところで桂馬が最初に一目ぼれしていたのはこの質屋に引き取られている親戚の娘、清子であり、その名の通り清らかな心の彼女は桂馬に同情し、嫁姑の思惑とは別に、なんとか彼を探し出したいと思う。
そこに清子に岡惚れしている二人の男、古道具屋の藤兵衛と姑たちにやとわれたキザな探偵、金田一小五郎(なんと安直なネーミング!逆に可笑しい!!)が加わり……。

当の桂馬はベッドハウスの主人や寝泊まりする仲間、風呂屋の主人や彼と出会ったおでん屋の色っぽい女主人なんかとのエピソードが満載。ヤクザに憧れる押しかけ弟子やら、その弟子を追いかけてくる安っぽいサングラス三バカヤクザ(由利徹やらのゴーカなメンメンよ!)とのまるでチャップリンのような早送りアクションに爆笑して、休む間もない!!

てか、この風呂屋の主人が一番のガンで、手相だけじゃ飽き足らず足相を見出してついには新興宗教を立ち上げようとし、おでん屋の女将を教祖様にと思ったところで断られて、桂馬にその任を担わせようとするんだもの。
確かにその時の桂馬は、追手から逃げるために安っぽい変装をしていて、でも耳に引っ掛ける付け髭にアフロかつらよ!この状態でお互い変装(というか、コスプレだよな、これじゃ)してる探偵とすれ違っても気づかないんだもの。探偵の方は坊さんスタイル。逆に目立って見ちゃうわ!!

ところで、そう、桂馬、将棋の名手。冒頭でドラマー稼業の彼がシンバルを質草に入れてくるその足で、母屋の方に向かい、主人と将棋をさす訳。それですっかり仲良くなって婿入り話を持ち掛けられる。
そしてこの家を出てからも、ベッドハウスの主人をコテンパンに負かしたりして、コミュニケーションツールとしてうまい具合に使っていく訳なんである。

それにしてもベッドハウスというのがね!二段ベッドがカーテンで仕切られている、うなぎの寝床かハチの巣か、という感じなんだけど、今でも日本ではそんなにお目にはかかれないけど、外国にはよくあるという話の簡易宿、日本では「Youは何しに日本へ?」でようやっとお目にかかれるような感じの??スイマセン、視野が狭いもんですから、この程度の知識しかなくて……。

でもね、これがすんごく興味深い。時は東京オリンピックの直前。このご主人は、奥さんがオリンピックに合わせて豪華ホテルを建設しようというのに反発している。自分はこういう簡易なベッドハウスを大々的に展開したいんだと。でも別の店でしっかり経営者となっている奥さんに押し切られてる。
桂馬はオリンピックでホテル、という壮大さに驚き、ご主人に怒られる。君は東京オリンピックに賛成なのかと。オリンピックより住宅事情の改善が大事だと。
桂馬が婿養子の口に飛び込んだのも、まあ確かに可愛いお嬢さんに目を奪われたヨコシマな理由はあったにしても、食えないドラマー生活に見切りをつけたかったからであった。

恐らくこの当時の日本は、そうした問題がリアルに浮上していたんだろうと思われる。まったく偶然ではあるけれど、今もまた東京オリンピックが決まり、オリンピックより大事なことがあるだろうという議論はこの数年少なからず行われており、それに最も犠牲となったのは築地の魚河岸だという思いがあるから、個人的にこのシークエンスはなんとも心揺さぶられるものがあるんだよなあ。
正直、かつての東京オリンピックは高度経済成長の象徴、日本の戦後復興を世界に知らしめた、みたいな、先人たちの誇らしい気持ちのイメージしかなかったから……まあそれは、単に私が不勉強だっただけだろうけれど(爆)、なんか今と重ね合わせて、感慨深いものがあったんだよなあ。

それでも、このホテル建設予定地のだだっ広い、言ってしまえば寂寥感漂う場所で、ヤクザの三バカとのスラップスティック追っかけっこには存分に笑わせてもらえるんだけどね!
本当に、チャップリンやキートンもかくやと思う。フランキー堺がこんなにも素晴らしいサイレントコメディアンであったことに驚愕を覚える。身体一つで笑わせられるということが、今の日本のコメディアンに出来るだろうかと思う。
それには相手となる三バカ、由利徹、八波むと志、南利明の素晴らしさが言わずもがなな訳だけど!

ところでタイトル、なのよね。冒頭、かるたをぱっと示して、ありがたいお言葉が並ぶけれども、いまいち意味が分からないものもある、みたいな結構凄いことをさらっと言って、そんなあっけらかんさにもビックリするんだけど、確かにこのタイトルの元となる「犬も歩けば……」の意味が現代に浸透しているかと言われればかなり疑問。
意味を調べてみればああ、と思うんだけど、この当時ですらこんな風にネタにして物語を作り出すぐらいなんだから、こんなかるたみたいなもので子供にムリヤリ覚えさせることわざとか、そういう死んだ言葉に対する結構シンラツな意識を感じたりして、へぇーっと思ったりするんである。
でもちゃんと、その意味にのっとっての「人も歩けば」の本作の物語であるのが、素晴らしいんだけどね!

男どもがみんな思いを寄せる質屋の清らかな居候、清子ちゃんを演じるのは小林千登勢!そ、そうか!!めっちゃカワイイ!
彼女に目を奪われたのに、トウのたったヨメをもらうことになる訳だが、、こっちも十分に美女、横山道代。彼女のガメツぶりも楽しいのだが、その基本となるのがなんといってもの姑の姑役、沢村貞子で、このガメツイ姑が素晴らしすぎて困る!!そのお名前から名女優という知識だけは持っていたが、いやきっと他でも見ているに違いないのだが(爆)、こーゆー、明確な素晴らしさを見せつけられると、もう恐れ入るしかない!

使いっぱしりに引き入れた桂小金治演じる藤兵衛と帳場ですき焼きをつつく場面は、その手狭な場所のシュールさといい、その場所で大喧嘩となるフランキー堺とのバトルといい、もう最高!
桂小金治が帳場の仕切りを破って外に吹っ飛ぶトコは、お約束だと思いつつも、気持ちよく爆笑。こういうタイミングって、ホント、今はお目にかかれないなあと思う。これもまた日本の重要な伝統文化だと思うのにさ!

すみれのマダム、淡路恵子の色っぽさも当たり前のことだけど言いたいし、もういろんなキャラが面白すぎて、言い足りない!
金田一探偵に結婚を迫るズーズー弁のマダム(ゴメン、私知らない女優さん……若水ヤエ子というお人らしい)も最高に可笑しかったし、とにかく詰め込まれ過ぎなの!

で、ラストが夢オチでしょ、信じらんない!夢から目が覚めてみれば、彼はまだ質屋の常連客のまま、主人と将棋をさしている仲のまま、ご主人は生きてるし、奥さんも、劇中ヨメとなる娘も信じられないほどにこやかなの!
狐につままれた面持ちで桂馬は職場、クラブに向かう。かっこよくドラムを叩く。ボーカルはあの色っぽいおでん屋の女将!トロンボーンにベッドハウスのご主人!多分他にもいろいろ!(爆)。

ここで桂馬、いやさフランキー堺は見事なドラムを披露し、ああ、ここに帰ってくるためだったんだなあと、冒頭ちらっと感じた疑問が解けるのを感じるんである。
んでもって、あの清らかなお清ちゃんはと言うと……街頭で見かけたテレビの中でにこやかに笑っている。な、なんということ……。
これってつまり、理想の清らかな女性は手の届かないところにいるってことなのかなあ。いや、あんなにイジワルだった姑や嫁が全く別人格のように彼に接していたりするし……あれれぇ、これは男の単なる妄想??

当時、犬を飼うのが流行っていたのかなあ。今見る以上に様々な犬種の散歩シーンが出てくる。しかもタイトルに引っ掛けてるだけで、展開には何の関係もないのに(爆)。
今品種改良して人気のプードルから始まって、グレートデン、ブルドッグ、チワワといった、いわゆる洋犬を、舞台となる質屋がある花の銀座で、いかにも裕福そうなマダムたちが散歩させている、というのは、当時の世相を反映していたのかもしれない。そこに若干の皮肉を感じなくもないけど(爆)。
桂馬が世話になるベッドハウスにいた犬は、なかば番犬的で、うるさい!!とか叱られていたもんなあ。そういう感じが当時の普通であって、つまりいわゆるペット犬ブームに揶揄する形だったのかもしれない、このタイトル、そして原作も、そうだったのかもしれない。★★★★ ☆


ひばり捕物帖 かんざし小判
1958年 85分 日本 カラー
監督:沢島忠 脚本:中田竜雄 瀬戸口寅雄
撮影:松井鴻 音楽:高橋半
出演:美空ひばり 堺駿二 松風利栄子 星十郎 尾上鯉之助 杉狂児 山口勇 富久井一郎 熊谷武 岡島艶子 中島栄子 中村時之介 薄田研二 円山栄子 里見浩太郎 那阿部九州男 遠山恭二 中野文男 東日出男 伊東亮英 竹原秀子 北村曙美 沢村宗之助 七條友里子 藤木錦之助 石井麗子 吉本清子 月山路子 西辻利々子 海野治子 寺前貞子 山本鳥古 横田真佐子 加藤れい子 野崎邦江 若水美子 東千代之介

2015/1/11/日 劇場(神保町シアター)
あれ?ひょっとしてひばりさんの映画を観るのは私、初かしらん……とかまた不用意に言うと忘れているだけかもしれないので(爆)。
でもあんまり覚えがないなあ。東千代之介氏も最近、恐らく初見だったんだよね。あれれ、その時こんなに濃いお顔だと思ったかしらん(爆爆)。
きれいなお顔だとは思ったような……濃いというのも違うかしらん、表情が凄く豊かで、ギャグかってほどの豪快キャラがそうさせるのか。
まあこの当時のこの手の映画(という言い方はちょいと不遜だが)はツッコミどころも満載で、そこがまた楽しく、その中でキャラが立つにはここまでしないとそりゃムリってもんかもしれない。

ひばりさんは、実は由緒正しきお姫様。しかしそんな堅苦しい暮らしを嫌って町民として暮らし、それどころか十手を預かって阿部川町のお七と名乗り、切ったはったの生活を楽しんでいる。
つーのも、妹にあまあまの理解あるお兄さまがいるからに他ならず、そのお兄さまはちゃーんと腹心を隠密として妹のおそばにおいているんである。

……てあたりはラストにならなければ明かされないから、それまでは随分とムチャな、いくらチャンバラエンタメでも、お兄ちゃん、のんきに構えすぎだよな、だって殺人事件に首を突っ込んでんだよ!と思う訳。
でもそのネタを明かされても、それはちょいと淡い恋心の相手が、汚い素浪人じゃなくて自分を守ってくれる、民を守ってくれる立派な男、という、ちょっと少女漫画的なトキメキオチである訳で、やーっぱ、どこもかしこもツッコミどころ満載なことは変わりないかもしれない。

なんてことは、勿論面白がってるから言うんだけどね!ツッコミどころの最初が、お七が美人番付に出てて、そのぶっちぎりトップでやんやの喝さい、ってあたりが、うーん、ひばりさんは素晴らしい歌姫だけど、凄い美人、っていう訳でもないような気がする、などと言ったらヒドいかしら!!
いや充分おきれいだけど(……なんか段々、お前が言うなという声が天から聞こえてくる気がする……)、美人っていう部分での魅力では思ってなかったから、なんかしっくりこなくって(爆)。

だってひばりさんの魅力はそんなところでは当然ない訳で、もちろん歌の魅力は言わずもがなだけど、それこそこのお七のキャラに通じるきっぷの良さとか、男まさりの感じとか、なんだもの。
おきゃんで無鉄砲で、でも男気あふれる正義漢、だからこそ恋しちゃうとカワイイ、そこに美人番付ナンバーワンの称号は逆にジャマな気がしちゃうんだもん。

まあ、あくまでこの物語のとっかかりだから、そんなところでぐちゃぐちゃ言ってても仕方ないのだが。
このイベントの勝者の美人たちが練り歩くパレードで、お籠の先頭にいた小町娘が殺され、そのかんざしが盗まれた。かんざしが盗まれたと気づいたのはお七だけで、町方は次にも美人小町が狙われる連続殺人事件の始まりだというセンで動き始めるんである。
まあここも、ツッコミどころその2、かなあ。さっとお七がその傷口にかんざしを当てたように、明らかに二つの穴が開いている傷口、なのに、刀でひと突き、のセンでしか町方が見ていないだなんて、む、無能すぎる。これはお七の有能を描写するっていうには、浅はかすぎる……。

まあいいわ。確かに見るからに、町方として登場する親分さんは鼻先がなぜか犬のように黒くて(笑)いかにも無能そうであり、お七がひたすら真実に向かって突き進んでいるという感なんだもの。
その真実とは、三つの簪が揃った時に、藩の埋蔵金のありかが判る、という、ミステリファンには垂涎の展開なのだが、ちょっと先走って言っちゃうと、三本目の簪が見つかって、それが揃った時にありかが判った、その謎解きの部分はあっさり投げられちゃうのよ。

三本目が揃って、悪人が御用、というところで大団円が敷かれちゃって、三本の簪が揃って謎がどう解かれるのか、ツッコミどころがどんなに満載でも、その点が残されているからこそ頑張って(爆)見続けていた観客を膝カックンさせちゃうの!「見つかった埋蔵金は貧民に分け与える」と。いやいや、落としどころはそこじゃないだろ!!

……あまりの衝撃のツッコミどころに、つい先走っちゃったけど、いやいやいや、これはひばりさんの映画なんだからね!
てゆーか、私的に盛り上がったのは、彼女の手下の五郎八。さ、堺駿二−ッ。伝説の喜劇俳優のおひとり。なかなか観る機会がないから、この遭遇が嬉しいの!このより目気味の感じがなんとも!

彼のエピソードに関してもかなりのツッコミどころが(爆)。いや、このツッコミどころは、五郎八というよりは、ひばりさん演じるお七の方にあるよなあ。
メッチャシリアスな部分にまで切り込んでいったのに、「後は五郎八が追っていきました」「なーんだ、それを早く言ってよ」おいおいおいおい!いつだっておっちょこちょいの五郎八にアンタ自身が突っ込んでたじゃないの!それでなんでここでその場を任せてしまう!しかも兵馬と酒を飲みに行ってしまうのよーッ!!

あ、兵馬っつーのが、そのトキメキオチの隠密、表面上はただの飲んだくれの素浪人、けんか仲裁で生計を立てている、というタテマエの男なのね。
でも彼のそばで何かと聞き耳を立てている、表向きは中間のような柔らかさの、あんまの風貌の盲人が、この人は実はお身分の高い人なんだから、てなことを何度も”ついつい言いかけ”るもんだから、まあ、かなーりオチバレは早かったんだけどさ。そーゆーこと言わなければフツーにネタあかしに驚けたのなあ。

で、まあ、そう。あっさり飲みに行っちまうお七だよ。つーか、この場面、簪の秘密に関わっている、盗賊の一味で島流しになっていた男、源次が、悪党軍団の、藩の家老である志垣がカクレミノとしている道場に拉致される。
お七がそこに剣士としてもぐりこみ、彼からかんざしを持っている親分の娘の居所を聞き出すんだけど、道場にもぐりこむとか、それまでの手筈はメッチャ完璧で、疑われている部分なんて露ほどもなかったのに、この会話、あっさり聞かれてるし!な、なんでよ!!
不注意な感じとか全然なかったのに、ここだけ相手の方がウワテだったとか、展開上のご都合主義すぎるでしょ!もうビックリ!!

で、これってすんごいシリアスな展開じゃん。だって源次はその前に妹を殺されているんだよ?いわば自分たち強盗のせいでよ。
そのことにショックを受ける間もなく、親分の娘が危機にあっていることに、「お嬢さんは何も知らないんですよ!」とお七に、彼女を救い出してくれと懇願。お七も胸を叩いてそれを約束した。そして源次は無残に殺されてしまい……。

なのに、「五郎八が先にいって、逐一報告してくれる」「あーら、それを先に言ってよ!」で兵馬と飲みに行くか!?信じらんない!!
……兵馬と飲みに行く場面は、ひばり映画ならではのミュージカル的場面なのだからハズせないのだろーけれど、そ、それにしてもこれはないんじゃないの。妹を案じながらなぶり殺された彼がむ、無念すぎる……。

うーむ、だからこれは、そーゆーところをマジにとらえちゃいけないんだろーなー。それをマジにとらえてしまったら、ネタあかしにもなる大クライマックス、三本目の簪を持っている花形女歌舞伎スターになりかわってお七、いやさひばりさんが成り変わる、とーぜん何のリハーサルもすることなく、そんな時間がある筈もないんだから、なのにカンペキに舞台を勤め上げちゃって観客拍手喝采、疑いもなく悪役一味が乗り込んでくる、なんて場面はツッコミどころ、どころじゃなくなるもん!
それこそこれぞ、歌手であるだけではなく、舞台人、エンタテインメントのスターであるひばりさんの、みせどころ中のみせどころであり、ここがツッコミどころ、だなんて言ってしまったら、この作品の企画自体が成り立たなくなっちゃうもんなあ……でもかなりビックリしたけど!!

そうそう、ツッコミどころばかりに気を取られて、シリアスパート、これはホントにマジな部分、をスルーしそうになる(爆)。
この悪役一味、ホンットに、家老の志垣役、薄田研二氏の悪役顔がキョーレツで、私、きっと彼は初見(多分!)、まだまだ、本当にまだまだ、私の知らないスゴい役者が沢山いるんだということに、衝撃を受ける。

彼は埋蔵金に目がくらみ、そのありかを解く簪を盗んだ強盗に家族を殺された青年を、お家再興のためにと言葉巧みに誘い込み、娘が彼と恋仲になっているのを知って、それをも利用して、散々手を汚させた上に、ぶっ殺そうとするという、キチクもキチクな輩なんである。
そうとする、、そう……兵馬に助けられちゃう。なんでこのタイミングを判ったんだと、もうそういうことを言い出したらキリがない(爆)。
正直、父親の悪心を気づいた恋人に諭されても、そんなバカなとか聞く耳持たなかった青二才を救うよりも(爆)、妹が殺されたことに衝撃を受けつつも、親分の娘の命を心配しながら殺されてしまった源次にこそ、そらーシンパシイ感じてしまうよなあ……。

うーむ、なかなか難しいぜ(爆)。ひばり音楽チャンバラ映画として見るには色々とシリアスすぎると思ったけど、それを額面通りシリアスにとらえるからいけないのか??
でも勿論、ひばり音楽映画初体験のワクワクはあるんだけれどもね!それに女子的には、男装の麗人ってのは、それだけでキャーキャーもの!

野性味あふれるのんだくれ素浪人とのコラボは、なんか衆道的アヤしさをついつい感じちゃって喜んでたのに(爆)。
ずっと男姿で通してたのに女の子として彼にトキメいちゃうと小町姿で、しかも夜中に会いに行っちゃうお七ってトコは、そうかあ……確かに少女的な恋愛のドキドキを感じつつ、うーむ、やはりフツーの男女の恋愛かぁ、などとちょっと残念に思っちゃうのは、やはりクサれか??★★★☆☆


百円の恋
2014年 113分 日本 カラー
監督:武正晴 脚本:足立紳
撮影:西村博光 音楽:海田庄吾
出演:安藤サクラ 新井浩文 稲川実代子 早織 宇野祥平 坂田聡 沖田裕樹 吉村界人 松浦慎一郎 伊藤洋三郎 重松収 根岸季衣

2015/1/20/火 劇場(テアトル新宿)
劇場を出たら、後ろから歩いてきた4人組くらいの男の子たちの会話が耳に入る。「役者の力だけで勝負してほしいよなー」
ほほぉ。ネットや批評家さんのレビューは何かと偏りを感じるんだけど、こういう風に観たばかりの一般観客からぽろりと出る言葉って、面白いところをついていることがあって、ちょっと耳をそばだててしまうのだ。

その後の会話は残念ながら上手く聞き取れなかったから、彼らの言うところがつまりはどういう意味合いだったのかは判らないけど(割と、その言葉から続いて盛り上がっていた様子)、かなり興味深い言葉だと思ったんだよね。
若い男の子たちだし、何かちょっと、純粋なものをストイックに信じているようなところも感じて面映ゆさもあったけれど、それだけに真実の部分があるような気がした。

私なんかはさ、ボクシングに没頭してどんどん見るからに体を絞り、顔つきも締まり、ってなっていく安藤サクラ嬢に心底感心して、これこそ役者の力じゃないのと思ったんだけど、そう言われると、ボクシングに現実に没頭することで、肉体的にも精神的にもガチで改造されていくってことは、役者の仕事、芝居、という点では確かにある意味”役者の力だけ”ではないのかもしれない。そういうことなのかもしれない。

デ・ニーロアプローチが有名になってから、そうしたことが出来る役者こそが、それこそデキる役者なのだと思われるフシがあるけれど、考えてみれば確かにそれはおかしいのかもしれない、のだよね。その役に見合った俳優をキャスティングせず、太ったりやせたりしてその役に近づく、というやり方は。
まあ、本作に関しては、あるいはデ・ニーロアプローチにしたって、その作品の中で変化を遂げることこそが、その人物を体現する”役者の仕事”なのだとも言えるのだから、そんな風に言うのも違うのだろうけれども。

なあんて。彼らが言っていたことは、全然違う意味だったかもしれない。でもそこから糸がほぐれるように、私自身の印象はクリアになっていったような気がする。
女デ・ニーロと呼びたいほどに安藤サクラ嬢は素晴らしかったし、不毛な独女という存在は、パラサイトという部分を覗いては共感出来る部分も多くあったように思う。

でも、ボクシングというものを得てから、彼女が変化していったのはボクシングなのか、それに導いた一人の男の存在だったのかが、ボクシングのガチさに引きずられて、まるでそこからボクシングに挑戦する安藤サクラになることによって、見えにくくなってしまったかもしれない、と思う。
本当に本当に、みるみる身体つき顔つきが変わっていく、リズミカルなフットワークやシャドウボクシングも見事に見せる安藤サクラには口アングリなぐらい、感嘆するのだけれど。

まあ、いい加減、最初から行こうか。安藤サクラ演じる一子は32歳。いわゆるパラサイト女。稼業の弁当屋の手伝いもせず、毎日ぐーたらと垂れたお腹(衝撃!)を掻いているような毎日。
子連れの妹が出戻ってからはしょっちゅう衝突して、ついには家を飛び出してしまう。
この子連れの妹、二三子はちゃんと店を手伝っているし、一子にイライラするのも判るんだけど、「子供の面倒ぐらい見てくれたっていいでしょ」という物言いは、お姉ちゃんは店も手伝わないんだから、という思いが透けて見えて、一子が「見てるでしょ」と言っても、ゲームばかりやって、スナック食べさせて、と文句ばかり。

離婚しても実家に帰れば家賃も食費もタダ、こういう立場の女が仕事を得ること自体難しいところに、家業という名の仕事がぶら下がっている訳で。
そう考えると一子に対して大きな顔をするこの妹だって、よーく考えてみればどうかと思う。よーく考えてみれば、というのは、一子の存在があるからこそ、妹がマシな人間に見えるから、というカラクリであり、一子にとっては、今までと同じ生活をして、いわんや子供の面倒まで見てるのに、という思いがあったに違いない。それを責める資格が、誰にあるというのだろうか。

まあ、ね。結果的に一子は一人暮らしをし、食い扶持は働いて稼ぎ、そうした人間らしい生活を得ると恋までもが転がり込んで来て、ボクシングに出会ってからは、今まで仏頂面だった表情までもが豊かに変わり、口数も増え、迎えに来た役立たずの父親に「お前、変わったな」と言わしめるほどになるんだから、それまでの一子は確かにクズ、だったのだろう。
うーん、でも、彼女にとってボクシングって結局、なんだったんだろう。ボクシングを得てからの一子、いやさ安藤サクラはみるみる変わっていく。それは最初、自分の元から去って行ってしまった男の後を追いかける形でのボクシング、だった訳なんだけど、ほどなくして、というかもうかなり早い段階で、ただただボクシングに没頭する、夢中になっている感じ、だよね?

理由なんてない、彼女が夢中になるものに出会ってしまったというだけかもしれない。それがステキなことなのかもしれない。
そうとも思うけど、でもタイトルからも、その後の展開からも、ヤハリこれは純愛ストーリーな訳で、一度は去った男が、様変わりした女の元に帰ってくる、それはボクシングを経ての、変身した彼女、なのだから、彼女の台詞からも彼への思いは変わらないのだから、ボクシングと彼は常に結びついていた筈。
でもメッチャデ・ニーロアプローチだから、なんか判んなくなっちゃう(爆)。途中からふと、ドキュメンタリーを観ているような錯覚に陥っちゃう。役を生きているというより、安藤サクラのドキュメンタリーに見えてきちゃう。

うーむ、これは明らかに言いがかりだわな(爆)。それをすべて、あの男の子たちのつぶやきのせいにするのはあまりにタチが悪いかも(爆)。
で、まあ相変らずかなり脱線している。どこまで行ったんだっけ。そうそう、一子が家を飛び出して……随分脱線したな(爆)。
彼女が得た職は、100円ショップの店員。100円ショップというより、見た目はコンビニって感じ。ローソンストア100みたいな感じ……いや、地方にやさぐれてある感じの、100円ショップとコンビニのあいのこみたいな感じ。
それまでいつも、客としてスナック菓子なんかを買いに行っていた店。働きづめでぼうっとしている店長、おしゃべりばかりでちっとも仕事をしない中年男、期限切れの弁当を漁りにやってくる元店員の女。

そんないかにもダラリとした職場にやってくる男、新井浩文。安藤サクラと新井浩文は何か、ここ10年ほどのトンがった映画をけん引してきた役者の男女の双璧、という感じがして、がっつり相対の共演、というのがなんかドキドキしてしまう。
後にベロベロチューのサクラ嬢のおっぱい丸出しの(まあ彼女はそれぐらいは全然平気な女優さんだけど!)そーゆーシーンがあったりもし、なんか照れそう……と勝手な心配をしてしまう(爆)。

新井浩文演じる狩野は、一子の通う道筋にあるボクシングジムの選手。でももう”定年の36歳”で、最後の試合のチケットを一子の店に来て会計がわりに手渡し、その試合で惨敗、引退してしまう。
てか、彼はその前に一子をデートに誘う訳。動物園に行くんだけれど、まるで無口なデート。どうして自分を誘ったのかと問うと、断られない気がしたから、と彼。

しっつれいな物言いだけど、その後も狩野は百円ショップにやってくる。いつもバナナばかりを大量に買うから、バナナマンと呼ばれている。
最後の試合の後、一緒に観戦していた同僚の中年男にホテルに連れ込まれ、ヤラれてしまう一子。
「いったああああいい!!」と絶叫し、レイプされたと通報するのには快哉を叫びたい気持ち!大抵こーゆー描写の場合って、そのまま泣き寝入りなんだもの。怪しげな歩き方で帰ってくる一子が生々しすぎる(爆)。

一子はそれまで処女だった、んだよね。それまでの自堕落で引きこもりな生活がそれを匂わせてはいるけれど、一発目がレイプで、その後好きな男とだとしたって、いきなりヨロコビを感じるのは難しそうだなあ……いや、それは人それぞれ、女それぞれ、かしらん(爆)。
土砂降り、ずぶぬれで風邪をひいた男を連れ帰って看病……というにはリンゴのすりおろしのみというのが、それまでの彼女の不毛な生活をあまりにも明確に示してる。風邪にリンゴのすりおろしって、昭和かよ(爆)。

いや、女だから料理が出来て当たり前とか、男の胃袋をつかめ、とかいう考えはフェミニズム野郎の私の最も嫌うところで、だったらこの描写に爽快感を感じても良さそうなところなんだけど、リンゴのすりおろし、というのが、前時代的なことを記号的に示しているだけのような気もして……そういうフェミニズム論を論じられるところじゃない気がして……うーむうーむ、フェミニズム女はめんどくさいのう!

狩野の風邪をうつされてしまった一子がぶっ倒れた時、彼が台所に立っていたから、これは男の方が料理が出来るといういかにもな展開かしらん……と思ったら、でっかい肉をただ焼いただけで、どうにもこうにも噛み切れない一子、それに思わず笑ってしまう、というのは、ちょっと可愛いかもしれん、と思った。
風邪で弱っている人にでっかい肉を焼く、スタミナがつくだろ、という発想というのが、……可愛いと思ったけど、こうして書くとそれもまた、ちょっと古臭いかなあ。
いくら何もできない男でも、いまどきこんな発想……いやするか、男なら(フェミニズム女!!)。

狩野が一子の部屋にいたのはほんの一時。仕事を得るために、という名目で、豆腐売りの女のケツを追って出て行ってしまった。
「女房気取りかよ」つまり、一度ヤッたぐらいで、ということだろう……劇中では”一度”だったと思うけど、何度かはヤッたのかな??いや知らない(爆)。

一子の職場ではレイプヤローが失踪、店長が鬱で退職、本部の人間がやってきて、アイソのない一子に厳しい叱責をくらわし、期限切れ弁当を元店員の女が来てもやるなとこれまた厳しく言い渡す。
一子がそれに対して、無表情ながらもあくまで従わないのは、そんな信念がイマイチ見えないあたりはちょっとツラい。
「この焼うどんは、モンドセレクション銅賞なのよ!」銅賞ってあたりの微妙さ、いや銅賞でもこの100円ショップの焼うどんはさすがに獲得しないんじゃないの……ヘンケンか……とにかくとにかくそんなあたりでビミョーに笑いをとろうとしているのか、でも、ビミョー!

この、賞味期限切れ焼うどんを毎日かすめとるオバサン、根岸季衣はインパクト最高だったが、一子が彼女にシンクロしていたかどうかが今一つ判らない。
そりゃあ、期限切れなんだから、どうせ捨てるんだから、自己責任で持っていく人に(自己責任という言葉はこういう場合にこそ、使ってほしい)あげればいいじゃん、と思っちゃう。
規則規則と言って大量に捨てる消費社会はおかしいと思うが、だからといって本作の描写がそれをシニカルに描いているのかと言われると、根岸季衣のインパクトのみで終わっているような気がしないでもない。

ヤハリそれは、このシークエンスでの一子の気持ち、特にこのオバサンに対する共感の度合いが見えてこないのが一番だと思うけれど、加えてこのオバサンが、なぜか急に強盗してレジの金を奪って逃走、という、インパクトは確かに重ねられたけど、逆に言えばインパクトのみを加速させただけ、という感が、あるかなあ。

まあでも、なんといってもボクシング、である。どんどん研ぎ澄まされていく一子=安藤サクラに呆然と見入り、最後の試合シーンは、まあそりゃ一発だけはくらわす、という部分は演出がなければ描けないけれど、逆に言えばそう思うほどに、この試合自体、完全にガチだよね!という迫力が、本作の一番の魅力、なんである。
いや、一番の魅力だからこそ、先述した、役者の仕事というもの云々、といったことが去来するのだろうとは思うのだけれど。

確かにそれは思う。コレを出してしまえば、コレだけで本作は語られてしまう。本気の試合をして、ボコボコにされて、口からダラダラ血を流して、何度も倒れて、泣きながら何度も立ち上がった安藤サクラとして語られてしまう。
いや、それでいい、それだけの価値は確かにあったもの、それでいいと思う、喝采を送りたいと思う一方、こうしたシークエンスを入れ込む、本作だけでなく、これまでの、これからの映画はやはりそうしたリスクにさらされてきた、さらされるのだ、と思う。

映画がフィクションである限り、その中でリアルを追求する限り、ドキュドラマという手法を使ってでも、そのリスクにはさらされる。単純にリアルな魅力と言うだけにはいかないんだと。

それに、タイトルにもなっている百円、という価値観は、それこそボクシングが登場してからはスッカリかき消されてしまった気がする。試合の登場シーンにこのショップのBGM、100円はお得ですよ、的な音楽を流すんだけど、ちょっととってつけた印象だったなあ。
タイトルにもなってるし、実際彼女が働く場所で、社会の吹き溜まりみたいな感は確かにあったから、百円、たった百円、それだけの価値、というのが、タイトルロールなほどには物語に影響を与えていなかったのが、結局は一番の問題だったようにも思えて……。

でもね、ラストシーンは、とても好きだった。一生懸命なヤツを見るのはイヤだとか言いながら、狩野は見に来てくれた。倒れた一子に立て、立て!と叫んでくれた。ボロ負けした一子が出てくるのを、もうすっかり闇に染まった会場外で待っていてくれた。
勝ちたかった、勝ちたかった!と子供のようにしゃくりあげて泣く一子の手をしっかりと、しっかりどころじゃない、ガッチリ、まるで拉致するかのように握り、握りしめて、メシを食いに行こうと、そんな用事には見えないぐらいにガッチリと引きずって行く。
泣きじゃくり続ける一子を慰めることさえしないままなのが、でも子供のように泣きじゃくり、引きずられていく一子は、まるで父親に甘えているようにも見えて、これが純愛ということなのかもしれない、と思う。

いや、セックスはしてるけど!いやいや(汗)。つまりね、つまり、ハヤリの壁ドンより、やっぱりやっぱり、ベタでも単純でも、手をつなぐ、いや、手を向こうからつないでくる、いやいや、握る、握りしめる、っていうのは、基本で最重要事項なんだよ!
握って握りしめて、そしてずんずん歩いていく。いかなフェミニズム野郎も、これはやられたい訳(爆)。抱きしめるのと同じで、ぎゅっと、しめる、というのは、重要なんだよ。放さないで、ってことよ(大照)オイオイ、どこがフェミニズム野郎だよ!!(恥)★★★☆☆


映画 ビリギャル
2015年 117分 日本 カラー
監督:土井裕泰 脚本:橋本裕志
撮影:花村也寸志 音楽:瀬川英史
出演:有村架純 伊藤淳史 野村周平 大内田悠平 奥田こころ あがた森魚 安田顕 松井愛莉 阿部菜渚美 山田望叶 矢島健一 中村靖日 峯村リエ 吉田羊 田中哲司 蔵下穂波

2015/5/7/木 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
うーん……素直にカンドーすればいいんだけど、これに素直にカンドーしちゃったらいけない気がする。彼女の努力は素晴らしいし、導いた先生も素晴らしいし、素敵な物語だとは思うんだけど。
でもこれを肯定しちゃったら、私がいつも疑問に思ってる、いまだに変わらない日本の学歴への価値観や、小さな大学だったけどとてもいい学校で、まさに豊かな学生生活を送ったと自負できる私の母校と、そこを出た私の人生を否定しちゃう気がするんだもん。

そーゆーことを言いだしたらキリがないことは判ってる。努力して偏差値あげていい大学行った、凄いじゃない、でいいとは思う。
努力して偏差値が上がったということは、彼女自身元々”やれば出来る子”だったということなんだろう。この台詞は劇中で印象的に使われる。「やれば出来る子とは言わない方がいい。出来なかった時に、子供がショックを受けるから」
つまり、やっても出来ない子ってのはいるってことなんだよね。努力したって、ダメな子は、いるってことなんだよね。それはつまり、いわゆる偏差値を上げるという点での潜在能力に限界があるって、ことなんだよね。

だから、彼女はもともと頭のいい子だった、という結論なら、別にいいのかもしれない。でも本作は、そーゆーことを言っている訳じゃない。あくまで、クズと呼ばれるほどの底辺学生だった女の子が、努力だけを武器にして偏差値を上げて有名私立大に合格した、という話でしょ。
やっぱり、引っかかるんだよ。ある意味作品の中でその区分けはきちんと言っている。そう、この熱血塾講師は一方では「やれば出来る」の区分けをなしているのだ。
でもそれを示しているようで、示してない。示す気がないのか、巧妙に隠しているのか、そこが気になる。

私はね、その人に合った学校に行けばいいと思ってる。これだけ大学と生徒の数バランスが崩れている今だったら、大学に行くことが夢だった時代とは違って、無理しなくたってそれが可能なんだもの。まあもちろん、そのことで、大学生のレベルが下がったという社会問題は出てきたけれども。
でもさ、その学校で何を学ぶのか、どんな学生生活を送るのか、それが問題な筈じゃない。
この何十年もの間、ちっとも変わらない日本の学校システム、とにかく入ることが大事だと。有名大学にとにかく入る。そこがゴール。よっぽどのことがなければ、その大学を卒業できないなんてことがないという、ユルいシステム。
だからこそ、こうした受験テクニックを教える塾が花盛りになり、学校の価値が押し下げられる。

本作にうっかりカンドーしてしまうのは、スポコンの体裁になっているからだよ。頑張って頑張って、血のにじむ努力をして、ついに勝利というゴールを成し遂げる。一緒に頑張ってきた仲間と、涙ながらに勝利を喜び合う。そして、それで終わり。
スポーツならば、確かにそこが終わりだ。勝利こそがゴールで、その先はないのだ。
本作の中でも、受験が終わったら思いっきり遊ぼうね、と理解ある友達と約束する場面があり、そんな気分をますます後押ししてしまう。受験が終わったら、慶應に合格したら、すべてが終わりなのだ。
でも考えてみれば当然だ。これはその塾講師が書いた原作、彼にとって生徒を合格させることが仕事、まさしくゴールなんだもの。

素直にカンドーしたくてもふと引っかかるのは、その点こそなのかもしれない。劇中、彼女を合格させるためには、もっと受講コマ数を増やさなければダメだと、塾講師が母親を呼び出して進言する場面がある。彼女には可能性があるし、とても頑張っている。でもいかんせんスタートが遅すぎたんだと。
正直この台詞は、直前のシーンで学校の教師が指摘したように、結局は商売でしょ、と思わなくもなかった。
母親が夜のパートを増やし、親戚に頭を下げて借りたという札束を見せられた時、その現ナマに娘が心打たれて、といういいシーンではあるんだけれど、意識的なのか、無意識なのか、汚い部分を見ちゃったな、という気がした。

もちろん、汚い部分というのは、それこそが真実な部分。それが学校の教師と真剣度が違うという部分ではあるんだろう。
でも、演じる伊藤淳史君のキャラは、どちらかというと学校の先生に似合いそうな無償の精神キャラだから、この現ナマとの違和感がどうしても付きまとった。学校の先生の必要以上、意味不明なほどの冷たさが、彼の熱血と対比させる形にしか見えなくなってしまった。

でも、この学校の先生、ヤスケンこそを見たくて足を運んだんだけどね。全然観る気なかったんだけど、たまたま昼休憩で王様のブランチ観てて、同世代の谷原氏がヤスケンのことを言ってくれていたから嬉しくて、足を運んだ。
今年はいろいろいい役に恵まれているスタート、賞関係に絡んでくれるんじゃないかと、期待してるんだけど!!
本作ではその細い眉が元ヤンみたいで妙にコワい先生役。冷たい印象だけれど、教師としての彼の言うことはいちいち理にかなっているのだ。

先述の、結局商売としてやってるんでしょ、という台詞に塾講師の伊藤君は悔しげにうなだれるんだけれど、そしてそれを盗み見ている言われている当人の有村架純嬢とツレの野村君も唇を噛むんだけれども、だってその通りだもの。
塾と自宅で必死に勉強して、学校の授業ではぐーすか寝ているさやか(あ、これが主人公ね)を、母親までもが「学校でしか寝る時間がないんです!!」と弁護し、教師がため息をついてそれを受け入れるという図式。高校を卒業できなければ、大学には行けない。だからお願いします、という訳。

吉田羊のマジ演技に流されそうになったけど、でもさすがに踏みとどまって、はぁぁ?と思っちゃうよね、そりゃ。そんな理不尽なことを言われて苦々しく受け止める教師がヤスケンなんだけど、彼はその理不尽を確かにその表情に滲み出させていたと思う。
高校卒業資格を得るために、ただ寝るためだけに学校に行くことを許してほしいと、この母親、そして娘は主張してるんだよ??さすがに引くよ……。

潔く中退して、高卒認定試験をまず突破して、そして大学合格すればいいでしょと思っちゃう。筋が違う、仁義がない。教師から商売だって言われたって仕方ないじゃん。
あんなクズが慶應に受かる訳ないと言われて、それを見返すために、受講コマを増やさせて、つまりはカネを引き出させて、てんじゃ、感動物語ではないよね……。
まあもちろん、それで合格できなければそうやって貶めることが可能だったんだけど、合格しちゃったから。でも結局は、もらっただけの仕事はしますよ、ということになっちゃっただけのような気もするしなあ。

しかも、受かったのが”記念受験”の学部、小論文が重視されるという、その人自身のパーソナリティが試される学部というのが……。
勿論それに対する特訓もしていたけど、よく新聞を読んで社会情勢に敏感になること、本を読むこと、という曖昧な感じで成果が感じられにくい。
そして何よりテクニックとしての、反対意見を想定した主張になること、というのが、画面上では見えてこない、例えばディスカッションの特訓とか、彼女自身の論破力がどれだけ深まっているのか、というのが、見えてきてない。

だって当然だよね、偏差値を劇的にあげることこそが、本作のメインテーマなんだから。でもその結果が明確に判る、模試での合格確率が良かった学部ではなくて、成果が見えにくい、つまりそれだけの材料を作品中で示してこなかった学部に合格したっていうのが、正直なんだかなあ、と思う。
そもそももともとのレベルが低いと、まあとりあえず文学部なら、という学部差別もホントヤだな、と思うし、小論文は人の深さが出るから、というなんかイイ感じの結末に持っていって、つまり彼女は人として成長したから、みたいなさ。
じゃあ今までの、偏差値あげるための努力はなんだったのと。しかもこっちの方がレベル高い学部ということで、なんかうまくかわされちゃったような気がしてさぁ。

そもそもウリである金髪は、入塾の時のほんの一瞬。ギャルの形状も、塾講師との勝負に一つ一つ負けていくことで、つけまつげを返上したりという面白さはあるけど、かなり早い段階で有村架純その人、つまり現代に生きる、素直な若い女の子のそのものでしかない、という気がしていた。
さやかの努力は見て取れても、もともとはどーしよーもないバカな女の子、という実感は正直得られなかった。ギャル特有のアクセントで創意あふれる持論を展開するさやかは、一つのギャルキャラにしかすぎないような気がした。
そして、どんどん努力して、どんどん偏差値を上げてくるにしたがって、その作り上げられたギャルキャラの方が個性あふれてて面白かったな……と思えてしまった。

それじゃダメじゃん、ダメじゃんダメじゃん!!大学に入るために個の面白さを消しちゃうなんてさ!!でも人間って確かにそういうもんだ。常識を身につければ身に着けるほど、自由な発想がなくなっていく、狭められてしまう。
一瞬だけ金髪ギャルだったさやかが、どんどんフツーの女の子になっていくのが、なんだかひどく、痛ましい気がしたのだ……。

さやかは母親と一緒に、志望する慶應義塾大学を下見しに行く。母親は「みんな生き生きしている。さやかにもそんな人になってほしい」と言う。
吉田羊のしんみり演技にダマされそうになるけど、なんて曖昧模糊としたイメージ!!生き生きするために大学に行くわけじゃないでしょ……。
正直ここで、私の疑問に対する答えも露呈しちゃった気がするなあ。何がしたくて、何を学びたくて、何を突き止めたくて大学に行くの。
そりゃもちろん、そういう目標がハッキリせずに大学に行く人が大半だと思う。別にそれが悪いとは思わない。それこそ、彼女が弟に言うように、それをいずれ見つければいいのだ。

いやでも!野球進学したものの挫折し、人生の目標を見失っている弟に言う台詞だろうか。だって彼女の目標は、言ってしまえばただ大学合格することだけ、だよ?甲子園にいってプロになる、という、人生につながる目標があった弟に対しての言葉ではないと思う。
でもそれがウッカリ成立しちゃう、日本の社会なのだ。目標は慶應義塾大学合格です!それが、人生の先まで見据えた野球進学と同等に語られちゃう、それが何十年も変わらない、日本の社会なのだ。

さやかの家族のダークサイドは、原作にあったことなのだろうか……?いかにも日本的メロドラマで、本作に対する疑問を打ち消すために、つまり、偏差値あげて大学合格というテーマを美しくするために作られた設定のように思えてしまう。
自分は叶えられなかった甲子園、そしてプロへの道を息子に託して、娘二人は妻に任せっぱなし。そして息子は挫折を味わい、娘と母親から反発を食らう、何か前時代的な、昔ながらの父親。

やたら物わかりのいい妹という存在がなければ、この危ういバランスは保てなかっただろうと思う。娘二人の存在すら目に入っていないかのようなこの父親が、女子たちからの反発にあって目が覚めるという、めっちゃありがちな展開。
娘が毛嫌いしていた父親だけれど、困った人を見過ごせない、という良点があり、結局その一点で娘は心を溶かしてしまう。あ、甘い(爆)。しかも描写(雪にはまった車を助け出す)もクサすぎる(爆爆)。
「ママの言うとおりだ。いいとこあんじゃん」そして受験会場に走り出すさやか。寒すぎるぜよ……。

さやかは難関の慶應義塾大学を突破、東京へと旅立つ。あ、ちなみにここは、のどかな田園風景が広がる、静岡と思しきある小さな都市。劇中に展開するお国ことばが楽しい。
東京という大都会へのそれなりのアクセスの良さが、本作を成立足らしめていると思う。やっぱりなんだか甘いと思う。ツッコミどころがありすぎるのだ。
慶應じゃなきゃダメだというハッキリとした思いも明確に伝わってこなかった。だって私学だよ、いくら父親に反発していたからって、塾とは違って授業料を母親に頼むという訳にはいかない。
それなりの大金が発生する進学という意味を、本作のテーマならば観客に納得させるだけのことはしてほしかった。★★☆☆☆


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