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「た」


2016年鑑賞作品

太陽
2016年 129分 日本 カラー
監督:入江悠 脚本:入江悠 前川知大
撮影:近藤龍人 音楽:林祐介
出演:神木隆之介 門脇麦 古川雄輝 綾田俊樹 水田航生 高橋和也 森口瑤子 村上淳 中村優子 鶴見辰吾 古舘寛治


2016/4/25/月 劇場(丸の内TOEIA)
原作が戯曲だと聞くと舞台→映画化にアレルギーを持つ向きとしてはチッとか思うし(爆)、ノクスだのキュリオだのというSFマニアっぽい語感にも少々の抵抗を感じるのだが、映画となることで、映像として、しかもスクリーンに映し出されることで、やはり映画だと、映画の力を感じる。それが嬉しいし、素晴らしいと思う。

太陽の光を浴びることが出来ないノクスの方が進化した人類、太陽の下で人間らしい暮らしを送れるキュリオがなぜ退化した人間と言われるのかといえば、人類のほとんどを死滅させたウィルスの抗体を持たないから、ただそれだけ。
それだけ、と言うのは確かにおかしい。それでほとんど人類は滅亡したのだから。抗体を持ち、ウィルスを克服したノクスがそれと引き換えに太陽を失った。しかしノクスは高い知識を持ち、故に貧しいキュリオたちを見下している。
いや、キュリオたちが貧しいのはノクスたちが経済封鎖しているから。そしてその発端は、キュリオの青年がノクスの駐在員を太陽の下にさらして、焼死させたから。

……若干、前のめりになってしまった。さすが傑作戯曲だと言われるだけある、だなんて、アレルギー症状をつい忘れてそう思う。
太陽の下で暮らす人間らしい生活、を「まるで原始時代だ」と唇をゆがめてあざ笑うノクスたちが“進化した人間”なのかと問う。一方でキュリオたちは、そんなノクスたちを憎みながらもいい暮らしがしたいと願い、裏切り者もでる。
この場合の裏切り者というのは、抗体の注入による“手術”でノクスとなること。主人公の一人、結(門脇麦)の母親は、まだ小さかった娘と夫を捨ててノクスとなるため出て行った。
そしてもう一人の主人公、鉄彦はノクスに恋い焦がれる。彼の叔父、つまり母の弟こそ、この貧しい生活を強いられる理由となった駐在員殺しをしでかした奥寺。演じるムラジュンがすさまじすぎるのだが、それはまた後述。

主人公の一人、鉄彦が神木君だと知って、もうそれだけで足を運ぶ理由としては充分だった。麦嬢は今が旬の女優なのでまあ当然としても、神木君の成長ぶり、というか男ぶりの上がりぶり、には目を見張るものがある最近。
線の細い美少年だった彼が、彼本来の明るさを役柄にも反映できるようになって、本作での彼は、その明るさ人懐こさと、心の中に鬱屈したものを持つアウトローさが表面に若い色気となってにじみ出ていて、貧しい暮らしの中でのぼろぼろの服と泥に汚れた顔とぐしゃぐしゃのくせっ毛(なのは彼自身ではなく役柄ということだろうが)がまたイイ感じで、ああ、彼、いい役者になったなあと思うんである。
こういう青臭いエネルギーを発散できる期間は限られている。それが出来る期間に、おしみなくどんどん発揮して、どんどんイイ男になってほしいなあと思うんである。

彼が友人となる、というか、狙い撃ちで友人になるノクスの駐在員、森繁役の古川君もまたイイ。一目見て「ライチ☆光クラブ」の子だと判った。珍しい、この私が(爆)。冷たい美貌のこの子はノクスだけれど、どこか不思議と感情がある。
いやその、ノクスが感情がないということではないんだけれども、いや、ノクスの描写に関しては凄く計算されているというか、気味の悪いというか、上から目線の居丈高にキュリオたちが嫌悪するのは当然のことながら、それ以上に何か……なんというのか、ヘンな感じなのだ。

まず、キュリオとの関係正常化に赴くノクスたちのトップ、鶴見辰吾がそれに代表されるのだが、「言葉は力を持っている。だから伝えなければいけない」という論理は判るけれど、感謝の言葉、ありがとうございます、を大きな声で!と何度も言わせる冒頭で、既にイラッと、じゃない、本当に薄気味悪さ、恐怖を感じるのだ。
高圧的なことへの単純な怒りや憎しみじゃない。こういう態度に出ることで相手がどう感じるか、という想像力が欠如していることへの恐怖。結の母親もまさにそんな感じで、年を取るのさえ遅い、若々しく美しいんだけれど、捨てた娘や夫がどう思っているのか、という想像力が決定的に欠如している。

それは、ノクスこそが進化した優秀な人種なのだ、と信じている、ということ以上に、そうプログラミングされているというか……喋り方から何から、ロボットみたいにわざとらしいのだ。
あの森口瑤子がこんなにダイコンなはずないよね、と思いながら見ていたけれど、ラストもラスト、娘の結がノクスになって、あの門脇麦嬢が、それまで泥だらけになりながら人間くさいキュリオの娘を熱演していたのが、突然バービー人形みたいにカッコも喋り方も表情もプラスチックみたいに“完璧”になったから、ああやっぱり、そういうことを言いたかったんだなあと思って……ちょっとベタで単純な感じはしたけど。

おっとおっと、おーっとっと、また先走っちゃったー!!てゆーか、森繁役の古川君の話だったのに!そう、そんなノクスたちの印象の中で、彼はなぜ、鉄彦に心を開き、キュリオの能力の高さを評価し、世界中を見たいと切望し、鉄彦にその旅行きを誘うまでになったのだろう??いや、勿論、鉄彦との触れ合いが彼のかたくなさを溶かしていったと考えるのがフツーだが、ちょっとこのあたりの描写は弱かった気がするのが本音かなあ。
そもそも鉄彦も、突然彼と友達になりたい!とか言うし、それは鬱屈した気持ちからノクスになりたいと思った彼の、いわばコネ作りだったのか、裏切り者の叔父を持つが故のハブられてる彼が、純粋に友人を欲しいと思ったのか。ちょっとそのあたりの経緯は甘かったような気もするし、一方の森繁も、なんか途中から突然、鉄彦に心を許したような唐突感があった。
まあ、いいんだけどね。だって結果的には鉄彦は森繁の命の恩人になり、キュリオであることにこそ誇りを見出して、二人はホントに旅に出るんだもの。太陽が出ている間、森繁は車のトランクにつめこまれて。

ああ、また前のめり!!いっぱいすごい展開をすっ飛ばしてる!!ところでね、このノクスの造形って、判り易くヴァンパイアだよね。太陽の下に出られず、いつまでも若々しい。美しく神秘的なヴァンパイアに、確かに人間たちはそれが想像の世界のキャラクターと判っていても、憧れがあった。
古川君の幸薄そうな美貌はまさにそんな神秘さにピッタリで、そんな美貌は神木君もそうだからさ、このあやうくも初々しい友情が、このままのんびりと成就される訳はないと思いながらも、ハラハラしながらも、凄く見守っててさ……。

ムラジュンが、再登場しちゃうのさ。冒頭で、ノクスの駐在員を縛り上げて暴行を加えて、太陽の光を浴びさせて殺しちゃった奥寺が。突然四国から帰ってきて、最初からもう傍若無人を筆書きでおっきく書初めしたような傍若無人で、森繁の手を柵に手錠でつなげちゃって、そのカギをぽーんと川に投げ入れてしまう!
戯れのようだが、シャレにならない。だって日が昇ったら、森繁は焼かれて燃えて、断末魔の苦しみの中死んでしまうのだ!!

このムラジュンの登場から、空気が一気に変わる。それまでも勿論、ノクスとキュリオの確執や、未成年者にノクスになる“チャンス”が与えられることがキュリオ間の溝を深めたり、ノクスの支配下から逃れてキュリオの楽園だった筈の四国が惨状になっていることが発覚したり、じわじわとイヤな蓄積はなされてはいた。
ノクスは子供が出来にくい。正直SF設定ではよくあるかなと思う。進化した人間の苦悩。そして原始的な、つまり生命力を持った人間たちから養子をもらい、と言ったら体裁がいいが、さらってくる、いやさ、人身売買をして、もうどう言ってもヒドい訳だが、養子縁組ってことで、キュリオの子供たちをノクスに仕立て上げる。
卑下し、見下していた相手なのに、である。いや、だからこそ、奴隷みたいに平気で拉致できるのか。

そんな状況である。若い役者たちも充分に頑張っていたんだけれど、正直、ムラジュンの再登場までは、爆発する機会を待っているような感じだった。
ムラジュン扮する奥寺は本当にヒドイ奴、というよりただのバカでアホでクズ、なんだけど、彼が咆えるノクス憎しはまるで、右翼みたいに単純(言い様がヤバイかな)なんだけど、彼がキュリオの住民たちにぶち殺されるのも判る……と一瞬思ってしまって、やばっ!と思ってしまうんである。

彼のような“野蛮”な思想を持っていることこそが、ノクスたちにとってはキュリオそのものであり、つまりそれは、彼がどんなにヒドいやつであったって、罪として裁くものである筈で、キュリオとして否定すべきではないのだ。
彼を制裁してしまった仲間のキュリオたちは、そのことで自分たちを否定してしまったということなのだ。
一瞬、彼が仲間たちに殺されても仕方ない、という考えが頭に浮かんだ時に、まるでバチッと電気が通るみたいにそんな簡単な重要な回路がつながって、でも人間って、そうやって踏み外してしまうのかもしれないと、思ってしまう。

それにしてもムラジュンは凄かった。ぶち殺されるだけの悪徳と、でもそうなればそうでの、哀れさがあった。
何より凄かったのは、ちらっと先述したけれど、柵につながれてしまった森繁を救出しようと必死になる神木君&麦嬢、いやなんといっても当然神木君。
防御シートの中に完全に隠れるために、自分の手首を切り落としてほしい、という驚愕の申し出をする森繁に、そんなこと出来ないと言いながらもう究極の事態に追い込まれて、これ以上ない絶叫をとどろかせて、親友の手首にオノを振りおろす鉄彦、いやさ神木君の、彼はこの場面で確かに何か、大きなものを得た、と思うすさまじさが、素晴らしいんである。
こんなん、特撮だかCGだかと判ってても切り落とされる手首を正視できないし、正直じゃあ、友達のためにそこまで出来るのかと、日の出のカウントダウンが刻々と迫るこの怖すぎるスリリングをぞわりと思い返してしまうのだ。

個人的には、古館寛治が一番、本当に素晴らしかったと思う。麦ちゃん演じる結の父親。妻に出て行かれてから男手一つで娘を育てて、当然ノクスを憎んでいる。でも、娘に可能性を持たせたくて、ノクス手術の抽選に申し込んでしまうんである。
彼はそれを、結局後悔しなかったんだろうか。娘は最後まで抵抗していた。ノクスになんてなりたくないと。自分を裏切った母親のことが一番の原因だと判っていたから、その母親、つまり自分の元妻が娘に会いに来た時に彼は激昂した。いや、正確には狼狽した、ということなのかもしれない。
奥寺が舞い戻って、仲間であるキュリオたちに惨殺されて、そのシーンを目の当たりにして、結はあんなに嫌がっていたノクス手術に臨んだ。紫の血が入り込み血管が浮き上がり、ひどく苦しむ手術シーンは、ハッキリとこの価値観を否定している、のに。

で、そう、古館寛治よ。結がノクスになるという噂を聞いて逆上した、彼女に懸想している青年がレイプしちゃう、彼のことはボコボコにするけれども、住人たちに詰問されると、当然娘の辱めをさらすことになるから(ってことだよね?青年の名誉なんて守る必要ないもんっ)貝のように黙る。卑怯なのはそれに甘んじて何も言わないこの青年であって、ああだから、娘はノクスになろうと、……色んな意味で思ったのかなあ。
ノクスになった娘に再会するシーン。当然、夜。雪が舞っている。娘の寒さを思って、マフラーを手にしている。でも娘はすっかり裕福さを身に着けていて、洒落たファッション、整ったヘアスタイル、人形のように笑って、「なぜ悩んでいたのかしら。もっと早くノクスになればよかった。」と屈託なく言ってのけるのだ。
お父さん、なんで泣いてるの、と聞かれたって、父親は答えられない。彼女には判るまい。それは、世間的によくあるドラマのように、幸せになった娘に寂しさを覚える、なんて単純なことではないのだ。
父親が持参したマフラーを差し出すと、娘は可愛らしく結ばれたマフラーを指さして笑って首を振る。そういうことなのだ。寒いだろうと持参した父親の気持ちを、この一瞬のしぐさがどれだけ傷つけるのかさえ、もう判らなくなってしまったノクスなのだ。古館寛治のいろんなことをめちゃくちゃ内包しているむせび泣きに、もうなんか、胸がいっぱいになってしまうのだ。

娘は旅立てば、自分のものではなくなってしまう。でもこれは、でもこれは……。

ところで、森繁が運び込まれてから奥寺と、その姉の死とか、キュリオたちのなぶり殺しとか、凄いシーンが続出だったんで、すっかりひん死の森繁がほっとかれた感があったんだけど(爆)。あまりにほっとかれたんで、死んだんじゃないかってホントに心配したよーっ。
しかし次の登場では「事故扱いにしてもらえました」と包帯を巻かれた手は、手……手!!切り落としたはずの手!しかも動いてる!……進化した人間はそーゆーシステムあるのかい。もう、心配してソンしたっ。★★★★☆


だれかの木琴
2016年 112分 日本 カラー
監督:東陽一 脚本:東陽一
撮影:辻智彦 音楽:
出演:常盤貴子 池松壮亮 佐津川愛美 勝村政信 山田真歩 岸井ゆきの 木村美言 小市慢太郎 細山田隆人 河井青葉 螢雪次朗

2016/9/11/日 劇場(有楽町スバル座)
無知でごめんなさいなんだけど、井上荒野が直木賞作家、というのは何か意外な感じがした。彼女の文章の独特な手触りは、直木賞というより芥川賞の方が近いような気がしたから。本作の原作は未読だけれど、原作者が井上氏だと知った時、なんとはなしに納得するものを感じた。

ざっくり言うと、専業主婦の小夜子が引っ越し先で初めて訪れた美容院の若い美容師さんにビビッと来て、営業メールに大量の返信メールを送り、自宅に押し掛け、彼の恋人の店にまで押しかけ、家庭を崩壊させる物語。ミもフタもない。それこそ昼メロっぽいドロドロドラマにだって充分なりうるストーカー物語。

ストーカー、ということは、佐津川愛美嬢演じる、海斗の恋人が堪忍袋の緒が切れて発した言葉で初めて表面化するのだが、私はそこでハッとして、ああ、そうか、ストーカーだ、確かにストーカーに違いないのに、どうしてその言葉が出てこなかったんだろう、と思った。
それは、解説でもっともらしく語られるような、「誰にでも、普通の人にでも起こりうる」恐怖などというものではなく、この井上荒野氏が紡ぎ出す不思議な違和感とでもいったようなものを、作り手も、そして勿論演じる常盤貴子氏も体現しているんではないかと思ったんである。

何かね、それこそ解説でもっともらしく語られる、「現代のSNSで私たちは同じことをしているのでは」なんてことじゃなくてね、そんなこと言っちゃうと、なんか陳腐というか、この独特の世界を平凡な俗世に引きずり下ろしてしまう気がするんだよね。
彼氏がストーキングされている女の子は、そりゃそう思うだろう。その気味の悪さを肌で感じるだろう。だけどストーキングされている海斗、演じる池松君は、そこまでの露骨な芝居をしてないんだよね。

まあ彼はそういうアプローチをする役者さん、という気もしないでもないけど、そこんところが、決して現代のSNSだの、ストーキングの恐怖だのといったところにとどまっていない、井上荒野氏が醸す独特の男女の空気感な気がして……。
いやいや、読んでもないのに。それに書籍の解説でもはっきり、サスペンス的な要素を指摘されているのだから、私の感覚はまるっきり見当違いなのかもしれないけれども。

小夜子は、常に親海小夜子です、とフルネームで言う。オヨミ、と読むこの珍しい苗字がひどく印象的で、平凡な苗字にしなかった原作者の意図をついつい深読みしたくなってしまう。
専業主婦、という、今の時代では珍しい……と思い込んでしまうことが、実は珍しくもない専業主婦たちを追い込んでいるのかもしれない、とか色々考えが堂々巡り。

専業主婦でなくても、母であり妻であることを先に強要されるいまだ古臭い日本社会が、ダレダレさんのママ、ダレダレさんの奥さん、と言われるってことはよく言われる社会問題である。
つまり、苗字だけ言えば彼女のアイデンティティは失われてしまうが、かといって下の名前だけ言うのは水商売みたいだし。親海小夜子、と常にフルネームで言う彼女の心情が、何か複雑にモザイクする気がして。

でもね、私、最初彼女が専業主婦っていうのが、なんかピンと来ていなかった。てゆーか、普通の家庭のように見えなかった。契約家族のような感じがずーっとしてて、どこでそのシステムが暴かれるんだろうと、待ち続けていた。
それこそが、井上荒野っぽい、と思った一番なのだが、それは作り手側は意識していたのか、私が勝手に勘繰りすぎていたのか。いや、あの違和感は絶対に、意識していなければ作り出せないものよね、と思うのだが。

小夜子の夫は、セキュリティシステムの会社に勤めている、ということなのだろう。後々から考えれば。一般家庭に取り付けられるにはちょっと大げさすぎるような、外出、帰宅のたびに解除と警戒を切り替えなければいけないセキュリティシステム。
冒頭、小夜子は解除して自宅に戻ってくる。そこにすんなりと入ってくる夫。夫なのだし解除しているのだから当然なのだが、何かドキリとするのは、小夜子が妙に他人行儀な言葉遣いをするからである。

展開してみればそれは彼女のもともとの言葉遣いで、時に娘にさえ敬語めいた言い回しをしたりするんだけれど、この妙に他人行儀な感じや、挑みかかるセックスにも事務的に対応する感じや、その後、娘に対してもお母さん、という雰囲気があまり感じず、まるで、妻と母の契約をしてここにいるように思っちゃって、ずっとその解明を待ち続けてしまった、のだ。

そんなことって、おかしいよね。そんな特殊な設定なんてそれこそカチリと観客に示してなければおかしいのに。でもそう思えて仕方なかった。それが、先述した、凡百のストーカー物語とは思えない理由、圧倒的に違った。
彼女は妻や母としての雰囲気がまるでないのだ。かの常盤貴子が、それを演じられない訳がない。小夜子がまるで異邦人、いや異星人のように見えるのは、彼女が確かにそうだからに違いなく、専業主婦の寂しさやイライラからストーカーに走ったなどとゆー、ツマラナイ理由ではないのだ。そもそもストーカーという言葉自体、この世界観にあてはまるのかどうか。

まぁ確かにストーカーなんだけど(爆)。ただ、こんな風に、小夜子の家族がひどく、人工的に見えるもんだからさ……。
いや、理想的な家族には違いない。夫は今でも妻を女として欲求する。中学生の一人娘はひざ下のセーラー服に白ソックスという奇跡のような優良学生。さすが女同士、母の異様を察知し苦悩するも、それをすぐに父親に進言出来るという、思春期の一人娘には信じられないデキの良さなんである。

あまりにも信じられないので、後々彼女が本性を出すとか、実は本当の娘ではないとか、凄く待ったけど、最後まで信じられないほどイイ娘のままだったんである。
いやその、勝手に妄想していただけなのだが(爆)、でもね、この疑似家族の感覚は最後まで付きまとっていた……それだけ小夜子の空虚感が強かったということなんだろうけれど、なんか小夜子がこの娘を育てた、という感覚がどうしても、しなかったのだ。同時に、この夫の妻である、という感覚さえ。

それが、最も恐ろしかった。作り手や演じ手自身がそのあたりどうアプローチをしたのかは、判らない。
まあ私の勝手な思い込みであるのだろうとは思う。だって、こういう設定なら、それまで主婦や奥さんとして押し込められてきた女が、タガがはずれて、みたいな感じじゃない??確かにその通りなんだけど、そうは見えなかったのだ。

真新しい家の片づけをし、キレイすぎるキッチンを汚すこともなくレストランみたいな完璧な食事を用意し、冷蔵庫にはストック食材をタッパーに入れて積み重ねる。
家政婦……とも思ったが、まず美容室に行ったり、何より家族めいたふるまいをすることで、あれ、と思った。そうか本当にこの人は主婦で奥さんで妻なのだと。

主婦で奥さんで妻以外ではない、ということなのかもしれない、いや、そうなんだろう。なんか契約関係みたい、と思ったのは、冒頭、昼間に突然家に寄った夫とのシークエンスだった。
お互いヘンに他人行儀で、特に小夜子が敬語のままだったりし、「コーヒー飲みますか」「いや、さっき飲んできたからいい」「じゃあ、淹れておくだけ」コトが終わると、「やっぱりコーヒーは飲まないんですか」……まるで、シニア向けのデリヘルみたいじゃないの(なにか表現おかしい?)。
とにかく、彼女が夫なり娘なりに心を砕く、という感覚がゼロだった。それはストーキングする海斗にのめりこんだから、というんじゃなくて、最初からまるで他人のようで、それが最後までそうだった、のが、凄く恐ろしいと、思ったのだ。

娘が同じ美容室に予約を入れたのは、本当に偶然だったのかなあ、と思ったが、そういうあたりは解明されなかった。解明、だなんて。あまりに疑いすぎかなとも思うが、あまりにもこの娘が純真すぎるんだもの(爆)。
夫役は勝村政信。結果的には(というのもナンだが)家族思いのイイ夫だが、昼間立ち寄ってサクッと妻を抱く冒頭のシークエンスから始まり、いかにもそれなりに理想的な夫であり父親、という雰囲気を醸し出すのが、冒頭から感じていたロボット的な契約関係をどうしても感じさせて、なかなか信じきれなくて困った(爆)。

この新居、キレイだけれど人の匂いのしない新居、夫とセックスする前に、ベッドメイクした写真を小夜子は海斗に送る。営業メールに返信する形、つまりは赤の他人にベッドの写真送るかな、と海斗は首をひねり、海斗のカノジョは当然、その時点で警戒感を募らせる。
小夜子のエロ的妄想シーンはそれなりに挿入されるけれど、海斗とのそれはなくて、夫との願望的妄想が描かれることを考えると、なぁんだ、ラブラブじゃんとも思い、ちょっと作劇的には残念かなぁとも思ったり。

海斗の彼女はロリータファッションのショップに勤めている。そこに小夜子は訪れ、フリフリの白いドレスをカード一括で買って帰る。
そりゃあ、試着なんてしないよ。サイズが気になるのは店員なら当然だが、さすがに常盤貴子のフリフリ真っ白ロリータは、どんなに美しい女優さんであっても、同じ年齢の女子として見るのはツラかったからな(爆)。

小夜子は着ることは当然できず、夫にも見つかり、深夜、海斗の部屋のドアノブに引っ掛けてきてしまう。
そもそもその前、美容室の休日に海斗の家に押しかけ、……何を期待していたのかはアレだけど、その期待していたコトをしていたであろう彼女と一緒にいた部屋に上げられ、三人の気まずいシーンときたら、ないんである。

この時、小夜子は「そんなつもりじゃなかった」と言った。実際、戸惑った表情も見せたけど、ご丁寧にこのシークエンスは訪ねた小夜子側からと、訪ねられた海斗側からと、時間差で描きなおしている。
最初、勇気を振り絞った形でピンポンした小夜子は確かに「そんなつもりじゃなかった」風に見えたが、それを迎える海斗側からのシーンで繰り返されると、控えめを装いながら、期待に満ちた瞳を見開いた笑顔で、彼の次の言葉を待っている小夜子=常盤貴子に戦慄するんである。ああ、なんて恐ろしい、女はなんて恐ろしいの。きっとそのことに自覚がないんだから!!

娘が苦悩したり、夫が海斗の恋人のケンマクを撃退したり、後半は妙に家族愛な感じに収束し、夫婦がお互い隣に座っているのに、メールのやりとりでお互いを判り合ったりと、あれれれ、なに、今までのプラスティックっぽい感じから転換するにはちょっとムリがあるんですけどーっと思ったが、結局はなんかそのまま……。
ご丁寧にも娘から海斗への丁重なお手紙あり、しかもその後、偶然コンビニで行き合い、「海斗さんは素晴らしい美容師さんだと思います。私が大人になったら、髪を切りに行きます」と言われ、「……参ったな」と苦笑したり。その後ろに控えていた小夜子と久しぶりに再会し、お互い深々と頭を下げたり。

うーん、なんかキレイにまとまりすぎのような!!まあ、小夜子が夫の部下からの社交辞令メールに、これまた社交辞令のテイを装って返信、ああ、海斗との関係の開始と同じだ……と思わせるラストはコワいのかもしれないけど、そこまでの小夜子の造形もストーカーとしての怖さを追究してた訳じゃないからあんまり、ね。どうですかね。

当然、池松君が常盤氏の髪を触る場面は、常盤氏と同い年としてはメッチャドキドキしたけど!!(爆)劇中の、女性美容師に髪を触られたい放火魔の男、のエピソードは「きっちり3ミリ」に笑わせられたが、つまりは小夜子と紙一重、同じ狂気を持ち合わせているという点で重要だったのだろうな。
個人的には海斗カップルが根城にしているダイニングバー、なんてオシャレな言い方よりずっとフランクな感じがステキな「ふくろう」なるお店のマスター、小市さんにテンション上がりまくる!!素敵すぎる!!
ああ相変わらず素敵すぎる!!バーのマスター似合い過ぎる!!今世界一、バーのマスター似合う役者!!この店行って小市さんと乾杯したいよーっ!!!!!★★★☆☆


断食芸人
2015年 104分 日本 カラー
監督:足立正生 脚本:足立正生
撮影:山崎裕 音楽:大友良英
出演:山本浩司 桜井大造 流山児祥 本多章一 伊藤弘子 愛奏 岩間天嗣 井端珠里 安部田宇観 和田周 川本三吉 吉増剛造

2016/3/7/月 劇場(ユーロスペース/レイト)
原作は短編。そしてカフカという不条理作家の作品。それを104分という尺の映画にするということは、肉付けの分がそのまま作り手の言葉ということになる。
てゆーか、恐らくカフカという作家そのものが、そうしたタイプの作家なのだろうと思う。まぁあの、ほっとんど読んだことはないんだけど(爆)。

だってこの作品、ざっと原作の概略を読むと、つまりそれが何を意味しているのか、というか、何を訴えているのか、即座に判りにくい、というか、判らない。行間を読む、とはよく言うが、行間どころではなく、ここから何を読み取るかは、まさに読み手の解釈、いやセンス、いやいや、懐の豊かさにかかっているのだ。
そしてこーゆー作品っつーのは、批評家やら哲学者やらが喜んで飛びつくタイプのものであって、どれだけ難しくこねくり回して解釈するかで自分の力量を試しているようなところがある、などと思うのはおばかさんのひがみだろーか(爆)。
カフカ自身がひそかに思っていた“解釈”を聞いてみたい、と思ったりする。案外ととてもシンプルなものなのかもしれないと。

などとぐちぐち言ってしまったのは、恐らくとっても短いこの短編を104分にした、この映画の長さにかなりヘキエキしてしまったからなんである。映画としては短い部類の尺なのだが、レイトということもあって睡魔との闘いであった。
……いや、レイトだから睡魔と闘ったのではない。ハッキリ言っちゃえば、つまんなかったのだ。いやいや、こーゆータイプの作品をつまるとかつまらないとかで分けるべきではないのだろうとは思うが、でも映画はつまんなければ眠くなっちゃうんだもん(爆)。

肉付けがそのまま作り手の言葉、それはホントに、まさに足立監督、という感じで……いや、そんな判ってる訳でもないんだけど、なんとなくイメージというか先入観というか。
日の丸と旭日旗を立てかけられた時には、うわー!、足立監督っぽいけど、これはヤメてよ!!と叫び出しそうになった……。ほら、今はいろいろ、旭日旗だけで敏感に反応されるご時世だからさあ。

断食芸人、というのが、実際にかの地にはあったのだという。というのは原作の話。本作でもまことしやかにそう描かれるけれど、まぁ、日本ではないよね、と思う。
それに芸人、という言葉の印象は、日本ではお笑い芸人を暗黙に意図するところがある。勿論、本来の意味合いでは様々な、まさにプロフェッショナルな芸を持つ芸人さんたちがいる訳なんだけれど、それにしたってヤハリ、イメージとしては舞台に上がって客を沸かせるという意味での、芸人、である。

カフカが書いた断食芸人は、見世物芸としてのそれであって、言ってみれば動物園の動物を見物するのとさほど変わらない印象である。つまり、断食の生態を見る訳である。
実際、原作は、断食芸人の死後、折の仲には生命力あふれるヒョウが入れられたというオチが用意されているという。断食芸人は死にゆく(手前までの)様を見せ、動物は生きている様を見せるのだ。

この、日本における芸人という言葉のイメージの差異が、ちょっと引っかかったかなあ、という気がしている。いや、本来の原作の意味合いを知った時、だったら余計に、芸人という言葉のイメージを逆に使っちゃったら面白そうなのになあ、という気がしたんである。
いわゆるお笑い芸人が断食行をする、その先の不条理、みたいな。実際、タイトルを聞いた時にはそんなことをぼんやり思い浮かべていた。勝手な妄想だけど。
でも実際は、断食芸人、という原作における意味合いは忠実に再現しつつ、そこから生み出される様々なことにこそ、足立監督の肉付けはなされていくんである。

そもそもなぜ断食をしているのか、と人々は疑問を持つ。この始まりこそが、原作から180度転換した部分だろうと思われる。断食芸人が実際に存在した時代なら、そんな疑問は持たない、当然。
世の中に何かを訴えているのか、ならばそのハンストの自由を彼から奪ってはならない。生命の危機があるからといって、ムリヤリ入院させたりするのは表現の自由を奪っている、などなど、人々は勝手に言い募る。マスコミが押し寄せ、彼のハンストに共鳴して共に座り込む人々まで現れるんである。

結果として、本当に、実際に、彼はなぜ断食をしていたのかしらん、と思う。オチの台詞「食べたいと思うものが見つからなかった」というのはそのまま使われ、自らの尻からブリッと出された、結石のようなものを口にして「それが見つかった」と不敵な笑いを見せるんである。
それまでずっとずっと無言のままだったから、まあきっと最後の最後に喋るんだろう、「HANABI」みたいにネ、と思っていたら案の定で、予想通り過ぎて若干ガクッときた思いがしたりして。

これが、原作のように、40日の断食を成功させることではなく、断食そのものの行為に意味を感じている男がその台詞を口にして息絶えるのは判るし、どこか崇高な響きさえも感じさせるんだけれど、彼はそうじゃないでしょ??
そもそも断食芸人、ではなく、断食芸人と勝手に規定されて、勝手に興行主と契約を交わされたんであって、彼自身が断食をしているといった訳じゃない。ただ、道端に座り込んで、何をするでもなくそのままいただけ。
何も食べていない、というのは観察していなければ判らない筈なのに、ただ座っているだけの彼に小学生が寄ってきて、ネットに投稿してそんな展開になる、っていうのがね……。

それに全然げっそりしないし、髪も伸びないし、ひげも伸びないし。無精ひげぐらいで止まってる。そこまでリアリティを追求しなくても別にいいのか?どうなんだろう……。
ラストに声を出すんだろうと思っていると、それまで彼が何もしない、見事に何もしないことが、逆に気になってくる。外見も全然変わらない、40日も断食してて、そんなのありえない、髪も伸びるだけじゃなく、べたべたしてくるはずなのに、サラサラのまま。ううう、これが寓話だと判っていても、ガックリきちゃうんだよう!

彼自身はただただ座り続けるだけだけれど、周囲は慌ただしく変化していく。マスコミやら野次馬やらが押し寄せるのは判り易い。彼を金づるにしようとする見世物興行主やらなんやらもまた、判り易い。
よく判らんのは、白装束でハラキリパフォーマンスをする集団である。最初はホントにただのパフォーマンスだったのだが、私が睡魔と闘っている間に再度現れ、はっと目覚めたらホントに腹切って皆死んじゃってた(爆爆)。あうぅ、あれは一体、なんだったの(爆爆爆)。いや、そんなことを言ったら、全てのことに説明などつかないのだが……。

つまり、この断食男が周囲の価値観を狂わせていく、ということなのだろーが、この描写は旭日旗もあいまって、いかにも足立監督っぽくって、結構ドン引きしてしまう。
なんというのか……足立監督の中では、なにか一つの時計が、止まってしまっているように思われてならないのだ。殺伐とした社会を写すための記号のように、荒くれ者どもによるレイプシーンが挿入されるのも、その残酷さより、何か古めかしさを感じてしまう。だって、“荒くれ者ども”って感じなんだもの、文字通り。凄く作られた感じがしてしまう。

この、レイプされる女の子は、断食男に共鳴してここに座り込んでいるんである。彼女の隣に、同じように座り込んでいる同年代の男の子もいる。
荒くれ者どもに連れ去られてレイプされても、この男の子は非力で助けることが出来ない。ただコトが終わって彼女の肩を抱いて帰ってくることしか出来ない。

そしてこの男の子は、断食芸人の見張りの自衛隊員のような迷彩服の男に殺されてしまうんである。このあたりもかなり睡魔と闘っていたので(厳しい闘いだった……)、なんでそんな事態になったのか、よく覚えてないんだけど(爆爆)。
なんとなく同志のようなイイ雰囲気だった二人が、こんな哀しい結末になってしまう。しかも、人ひとりが殺されたというのに、証拠は隠滅され、ただ彼女だけが嘆き悲しむことしか出来ない。

これは、現代日本ではないということなのだろうか。それとも、現代日本も、人を一人ブチ殺したぐらいでは、簡単に証拠隠滅できるということなのだろうか??足立監督の描く世界は寓話なのか、現代日本社会への痛烈な批判なのか、正直よく判らない。
この二人のほかに、いかにも修行僧と思しき壮年の僧と若き僧の二人組が、般若心経を唱えながらずっと座り込んでいる。彼らは、断食の末に悟りを開いた過去のカリスマたちの再来を期待して待っているんである。
40日を超えた時、過去のカリスマたちは悟りを開いたのだと。しかし、断食男はその記録を超えても悟りを開くことはない、ただそこを通過するだけ。彼らは落胆する。

ふと、矛盾を感じる。カリスマではない普通の男が40日間の断食が出来るなら、それがもしかしたら悟りを導くのなら、おめーら自分でやれよ、ということなのだ。誰かにそれを期待して、勝手に失望するぐらいなら、自分がやれよと。
でも、皆カリスマを求めているんであって、自分がカリスマになりたい訳じゃないのだ。誰かをあがめている方がラクだもの。誰かを信仰し、敬虔な信徒だと言われる方が。

あれれれ、私までなんか解釈女になってしまった。いけないいけない。でもさ、そんな風に受け手に対するワナがそこここにかけられているんだもの。
それは本作に肉付けをした足立監督のワナであり、私はそれに引っかかりたくないのだ。それに引っかかってしまったら、本当の私の言葉はきっと、出なくなってしまう。時に、原作を“解釈”した映画にはそういう落とし穴がある。

実は国境なき医師団だというエロエロ女医だの、なんかネラってくる感がザワザワするんだよね。夢だか妄想だかの中で、鎖でよつんばいにされたり、それこそ見世物小屋の中で座り込むさまを見せたりさ。
正直、こういう妄想描写とか夢オチにされてしまったら、全てがそれで説明されてしまうっていう、一番やっちゃいけないズルだもん。その危険をひしひしと感じていたし、結果的にはそのニュアンスをどっぷり感じて終わった、気がしたなあ。★☆☆☆☆


団地
2016年 103分 日本 カラー
監督:阪本順治 脚本:阪本順治 
撮影:大塚亮 音楽:安川午朗
出演:藤山直美 岸部一徳 大楠道代 石橋蓮司 斎藤工 冨浦智嗣 竹内都子 濱田マリ 原田麻由 滝裕可里 宅間孝行 三浦誠己 麿赤兒 中山卓也 堀口ひかる 川屋せっちん 小笠原弘

2016/6/6/月 劇場(有楽町スバル座)
藤山直美×阪本順治監督の再タッグにキャーッ!と思って足を運んだが、なんか突拍子もないオチにあれれれ、と。いや、最後まで書き込まれた社会派人間ドラマだと勝手に期待していたもんだからさ。
そうと言えないこともないけど、SFっつーのは……って思いっきりネタバレだけど。本質はそこではないんだろうけれど。
どうせオチバレだから言っちゃうけど、相手の過失での交通事故で息子を亡くした初老の夫婦は、別の世界にいる息子に会いたいと、異星人の青年の手引きでこの世を、てか地球を捨てる。何の未練もないと言って。

てゆーのはオチであって、内容、というかメインはタイトルの示す通り、日本の不思議な社会、むしろここまで来たら文化と言っていいかもしれない“団地”でのおかしな人間模様、悲喜こもごも、なのだが、オチがここに用意されているもんだから最終的には、団地の話はあんまり重要じゃないっつーか、カモフラージュだったんじゃないかしらん……とまで思ってしまうんである。
とゆーのも近年、団地、というよりニュータウンものの佳作が立て続けに現れていることもあって、それもみんな新進気鋭の若手作家だったりするので、後発に現れた本作がちょっと遅れた感、というか……。

確かに団地とニュータウンは違う。団地はもっと古いイメージ。ニュータウンという希望にあふれた結果の急落とはちょっと違う、とりあえず人口過密解消、それが徐々に徐々にさびれていくうら寂しさ、といった雰囲気がある。
そういう意味では藤山直美であり岸部一徳であり、作り手が阪本順治というのはピタリとはまるし、期待を抱かせるのだ。

でも彼らは、それまでは商店街で代々漢方薬店を営んできた、つまりは団地の社会を知らない人たちであり、団地そのものの魅力を彼らから取り込むことは出来ない。
無論、彼らが傍観者というか、当事者だけど第三者となって、団地の様々なおかしさをあぶりだしていくという図式だと思うし、それを期待もするのだが、先述の通り彼ら自身が息子の死とそれに伴う商売や生活への情熱を喪失しているので、好奇心いっぱいに彼らを見守る団地のメンメンに対してフラット以下の対応しかできていない、という印象なのよね。

さびれていく団地、と言えども団地のメンメンは別にみんな老人という訳でもなく、一癖ある若い夫婦やエネルギーいっぱいの中年主婦たち、それよりは若いけれども腰が低いかと思いきや好奇心は人一倍の30代あたりの奥さんとか、団地というイメージに収まらないバラエティ豊かなメンメンなんである。
しかしやはりトップを握るのはもう仕事は引退、悠々自適なんだけれど名誉欲や性欲にも生臭い年代、なんである。自治会長の石橋蓮司、その妻の大楠道代。共に、特に大楠氏の方は阪本作品といえば!という役者である。

自治会長は住民を適当になだめることしかしないで大した仕事もしていないし、もうやめたいとか言ってたくせに、奥さんが次期自治会長に清治(岸部一徳)を推薦すると、結局それまでの実績を武器に留任しちゃう。
緑地化や高齢者への声掛け、団地住民同士の交流を具体的に計画していた清治に悪かったな、と悪びれない声をかけ、清治は落ち込み、更に自分に人望がなかったという声に更に傷ついて床下に閉じこもってしまうんである。

おっと、なんかさらさらっと行っちゃったけど(爆)。つまり、団地の騒動のきっかけは清治が床下に引きこもってしまったゆえの“失踪事件”な訳だが、ずっと床下に引きこもっていられる訳もなく、来客が来た時だけそこに隠れるってだけで、つまりはなんつーか、ネタの粋を出ない訳。
だってもう店も引き払って、細々となら生活できる二人。奥さんはパートに出てはいるけれど、まあ食い扶持をつなぐ程度といったところだろう。
それまでだって清治は特に活動的だった訳ではなく、団地の裏の林に散歩に出かけるのをたまに住民に目撃されている程度であり、それが“見かけなくなった”すわ失踪、殺人、バラバラ事件に発展するというのが、まあ大阪っぽいけど……ちょっとムリあるなあと。

加えて言えば清治が引きこもるようになった理由も、ちょっとムリがありすぎる気がする。その前の描写も後の描写も、穏やかな人柄で奥さんへの気遣いも出来て、そんなプライドで閉じこもるようには思えない。
いや、人間とは簡単には判らない生き物で、だからこそこうした意外性が面白いということなのだろうが、団地の噂話、展開としての可笑しさやインパクト、以上のことを出ない気がどうしてもしてしまう。

確かに面白いよ、自治会長の奥さんが訪ねてきてさ、トイレに行きたいのに出るに出れない夫を座った椅子でガタン!と閉じ込めて何食わぬ顔をしている妻、ヒナ子、っていうのはさ。だったら話を引き延ばさずに帰らせろよとかまともに思っちゃう。
時々こういう、コメディだからという言い訳のもとに首をひねるような描写をするのを見かけることがあるのが、凄く残念だと思っちゃうのよね。

団地の無責任な噂話を、なんたって世捨て人なんだから二人は気にせず、奥さんは隠れたがる夫の心情を理解して矢面に立ち、マスコミの取材にも(つっても、カメラマンとインタビュアーが一人きりのショボさだけど)高笑いを見せる。
でもねぇ、そもそもそんな夫をあきれ顔で見ていたのは奥さん自身だったし、先述した通りネタ以上の説得力ないし、なぜ私が守り切るワ、なんて心情に至ったのか、いまいち理解できないのよね……。
てゆーか、まあこのメインの部分は結局はコメディとして観客を笑わせる部分に過ぎず、作家が描きたかったのは私がボーゼンとしたオチの部分にこそあった筈な訳で。

その登場から穏やかな笑みを浮かべてはいるし、優雅な身のこなしなんだけど、妙に熱のこもらない言葉遣いや、間違いまくる言い回し、つまらないギャグを「この土地の言い方ですから」と淡々と繰り出す感じとか、異星人っぷりをいかんなく発揮する斎藤工氏を、相変わらず唇が厚すぎるな、とか思いながら見ている……(爆)。
清治の作る漢方薬が、彼自身のみならず“郷土の人間たち”にとって欠かせないのだという。化学療法は体質に合わず、本場中国の漢方薬は虚弱体質の彼らにとって強すぎるのだと。

そして、5000人分の漢方薬を依頼しに来る。廃業して小さな依頼にこたえるための手持ちしか持っていなかった清治は断ろうとするが、必要な材料は既に揃えられているとまで言い、頼まれると断れない清治はその依頼を引き受けるんである。
ある条件と引き換えに。そしてそのために、青年たち“郷土の人間たち”の秘密も知ることになるんである。

進化しすぎて退化した身体を持つ、というあたりとか、社会派の片りんをのぞかせるものがある。
それとこの展開とは直接関係ないんだけど、義父から虐待を受けている中学生男子、というキャラクターが出てきて、若干このあたりにわざとらしいというか、作り手側の社会派に対する目配せを感じてしまってちょっとなあとも思った。
この子に対して団地の人間たちが気づいていながらも何も出来ない、ということは仕方ないと思う。仕方ないっていうのもアレだけれども(爆)、少なくとも糾弾はするし、児童保護施設に通達もするし、見かけて叱責もしても、それ以上どうすることも出来ない。

つまりこれは、未だ解決できない社会問題なのだという定義であり、その定義しか出来ないものを示すというのが……社会派映画でござい、という目配せに思えてちょっとイヤな気持ちがするのだ。
おばちゃん、何も出来なくてごめんね、とヒナ子は言う。そんなことない、あの時声かけてくれたからそれ以上殴られなくて済んだもの、と男の子は言う。ヒナ子はその子を抱きしめる。

……こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど、この程度の描写しか出来ないんだったら、入れ込まないでほしい、と思ってしまう。息子を亡くしたこの夫婦にとって、ある程度の思い入れはあったに違ないのだが、結局は「あの子は強いよ」と清治が言うにとどまり、結果的にこの世ではない、死んだ訳ではないけど、地上からすれば死んだに等しい世界に行ってしまった訳でしょ。
彼の言葉尻から察すると、本当のお父さんに会いに行くということは、本当のお父さんは死んでしまったということなのだろう。これは何?自殺をする人たちに対しての、彼らは弱くない、死んで不幸じゃない、違う世界で幸福に暮らしているんだという理論なの??何、これ、宗教?怖いし、納得できないよ!!

理不尽に我が子を奪われた夫婦の気持ちは計り知れないし、この夫婦に共感するような立場の人たちもきっといるのだろうと思う。でもコメディ仕立てにしているから逆に……逆になんかしっくりこないんだよ。死ねばいいじゃんって言っている訳ではないと思うんだけど……。
息子のことを共通の悲しみとしながらも、それ以来この夫婦は心から話し合っては来れなかったのだろう。表面上はとても穏やかに暮らしている。
自治会長になったら、なんて妄想の住民たちの集いを話し合って、フォークダンスで踊り、じゃあ私は歌っていい??なんてはしゃぐヒナ子は、みゆきさんの「時代」をしゃもじをマイク代わりにして歌って……泣き崩れるのだ。

この妄想シーンは阪本監督と藤山直美らしい、生真面目な可笑しさに満ちていて素敵なんだけれど、泣き崩れて本当のことが浮き彫りになることによって、団地での平和な生活なんて虚像だと、辛辣に糾弾する側にすり替わってしまうのだ。
生まれ変わって巡り合うよ、その言葉に涙した訳だけど、生まれ変わりではないけれど、本当に巡り会うことなんて、この時には考えられるはずもなかった。
異星人青年に頼まれて共に大量の漢方薬を作るシークエンスは、初めて見る漢方薬の手作りの様子への興味はもとより、それに一心不乱になる、つまりなんかラブラブな感じ、二人の絆が取り戻された熱に満ちていていいシーンだったけど、つまりあれは、息子に会いに行くためにこの世におさらばする、つまり、死ぬための懸命さだった、のか。

結局はさ、何だったのかなあ。彼らは本当にこの世からおさらばしたの??そのあたりも実は、判然としなかった。
息子と巡り合えるためのアイテム、へその緒をお約束通り忘れ、なんとかしてくれないかと異星人青年に泣きつき、時空を戻してくれることになった。
それまでの間に、林の中の交信スポットで、大声で会話し合う清治とヒナ子、自治会長夫妻のシーンはいかにもオオサカってなユーモラスさ。

ちょっと笑っちゃったけど、でも結局は戻ってきたの??時空を超えたということは、異星人との取引云々の記憶もない訳でしょ??つまり、二人のこの世へのおさらばもなくなったということ?つまりそれが、生への希望??
当然のように帰ってきた一瞬の息子は、あそこだけの奇跡?それとも本当によみがえった??ならばならば、最初から異星人の船に乗り込んで、ようこそ、と迎え入れたイジメられていた少年は?彼はあのままこの世とおさらばしてしまったの?

なんか、ちょっと、いろいろ、ねえ。死生観とコメディを共存させるってのは、相当の高度技術なんだと改めて思った。そういう佳作秀作は数々あれど……あんまり飛び道具は使うべきじゃない気がする、真っ向勝負、してほしい。★★☆☆☆


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