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「へ」


2017年鑑賞作品

変魚路
2016年 82分 日本 カラー
監督:高嶺剛 脚本:高嶺剛
撮影:高木駿一 平田守 音楽:坂田明 ヨハン・バットリング ポール・ニルセン・ラブ 大城美佐子 大工哲弘 嘉手苅林昌 CONDITION GREEN 北村三郎
出演:平良進 北村三郎 大城美佐子 川満勝弘 糸数育美 河野知美 山城芽 西村綾乃 親泊仲眞 内田周作 花井玲子 石川竜一

2017/2/13/月 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム/レイト)
うおー、判んねぇ、判んねぇ、わっかんねえ!本気で観たことを後悔し、観たこと自体をなかったことにしようかとマジに思ったが、それも悔しいのでなんとかトライしてみる。
こんなに意味が判らんかったことは初めて。それも、意味判らん!!というのがクサす意味で使うんじゃなくって、本当にリアルに判らないっていうのが。
つまりはこれは前衛芸術だと思えば、納得も出来るし、そうなのかなとは思う。これが海辺かなんかで開催されている白塗りさんたちのお芝居だと思えば、って言ったらなんか、偏見チックアリアリだけど、でもホント、そういう感じなんだもの。

正直、オフィシャルサイトのイントロダクション見てビックリしたくらい。こんな、いわゆる導入、物語があったの??だったら教えてよ!!いや、きっと言っていたんだろうとは思うが、観てる限りでは全然判んなかったよ!
いわく、「島ぷしゅー」から幾年かたって、幽霊か自殺志願者ばかりがウロウロしているパタイ村で、生き直し事業を営んでいるタルガニとパパジョーの物語だという。
その骨格が頭に入っていればまだこんなに悩まずに済んだのかもしれない……いや、やっぱり判んなかっただろーなー。

「島ぷしゅー」というのは劇中なんども繰り返される言葉ではある。沖縄の言葉は当然全く聞き取れず、映画は全編字幕入りという親切さだが、それでも何が起こっているのか判らないってんだから、この“芸術”は相当なモンである。
タルガニとパパジョーに扮するのが、ああ、「ナビィの恋」のサンラーさん、と涙が出そうになる平良進とこちらはお初の北村三郎。

パパジョーは映画整形研究所とかなんとか、なんか珍妙な施設を立ち上げている。そこでやっていることは、正直よく判らない。映画と芝居の融合とか言って、囲碁盤を前に白塗り時代劇を披露したりする。その映写のスクリーンの前で、羽帽子をかぶったおじさんが嬉しそうに踊ったりする。
繰り返し語られる「島ぷしゅー」がなんだかよく判らないが、それに関連しているのか、謎の液体の袋に管を通した何か判らん装置が、ゆらゆらといつもそこに設置してある。
私は、「島ぷしゅー」がこの何か判らん装置が起こすものなのかしらんと思っていたが、そーゆー訳ではなかったらしい。そもそも「島ぷしゅー」とは一体何だったのか??

映画整形研究所、ってのがとにかく奇妙なのだ。それでなくても実にレトロな手法で写真や映像の重ね合わせが行われ、何か、昭和の見世物小屋はこんな感じだったんじゃないかしらん、とかいった、奇妙なデジャブ感に襲われる。
この研究所で施術を行ったらしい男性は、その顔に、明らかに彼の顔とは違う顔が、映像の貼り付けを施されている。妙になまめかしくサンシンを引きならしながら歌う女性の横では、全裸の青年がおっぱい丸出しにしたふくよかな女性の腕に石膏を塗り付けている。
「そのまま石膏を塗ったら、はがす時に皮がはがれないのか?」「生皮がはがれる感じが気持ちいいのよ」判らーん!!

……もう判らんから、さっさと済まそうと思うが。でもその中でも判らないながらも魅力的だなと思ったのは、ビジューと呼ばれていたかなあ(もう、こんな最低限の情報すら出てこない(涙))、髪から一枚きりの薄手のワンピースからいつもそぼ濡れている女たち。四人はいたかな。同じようで違う女たち。

彼女たちが一体どういう存在だったのか。どうやらもう生きてはいないことは明らかなようだが、それは彼女たちだけじゃなくて、牛やら羊やらを連れた彼だけは内地の言葉を喋る青年やら、ザ・前衛芸術っぽく裸でパフォーマンスをする剃髪の男やら、みんなみんな、生きてないだろ、というオーラマンマンではあるんだけれど、その中で彼女たちが一番、その感が強い。
何も喋らないし、まるで操り人形のようにタルガニとパパジョーをしとめるべくついてくるんだけれど、妙に色っぽく、生きてない感が強いのに艶めいていて、ひどく印象に残る。

そもそも誰に命じられて二人を追っているのか、劇中言っていたような気はするんだけれど、もう疲れ果てて忘れたが(爆)、その命令に絶対的に従ってきているのに、どこか迷いを感じる風も妙にオンナな感じで、不思議に魅力的。
ああ、でもでも、そう感じるのは、よーく考えなおしてみると、この訳判らん映画の中で、数少ない女性で、そしてビジュアル的になんとなくいろいろ想像しやすい、意味をつけやすい存在だったからなのかなあ!!

彼らは「島袋商店」からメリケン粉に紛れて隠されたナントカいう媚薬(なんだっけ……こーゆー基本的な情報も全然出てこない)を盗み出した嫌疑で追われているんである。とゆーのも、後にオフィシャルサイトをたどって知るんである。
そーゆーことなのかと。メリケン粉ってのもなんともはやレトロだが、その袋のデザインがエロっぽいけど安っぽい女性のデザインだったり、媚薬には“淫”のスタンプが赤字の手書きで書かれていたり、なんかもー、ツッコむべきなのかどうなのかさえ、悩んでしまう(爆)。
「このメリケン粉は全然粘り気がないなあ」とか言いながらクレープ状の料理を作っているタルガニ。うーむ、気づけ気づけっ。

パパジョーの映画整形研究所では、古いフィルムが保管されていたりする。黒人兵士が和やかに笑っているフィルムは、ひどく劣化している。それを「イラブー汁につけて補修してみたが」とかよく判らんことを言ってる。もう、そーゆーことを気にしていたら、楽しめないのかもしれない!!
でも、まあ、その、映画的観点で言えば、ボロボロに劣化した(勿論、そう加工しているということだろうが)フィルムのノスタルジックと共に感じるどことない残酷さや、重ね合わされる顔の合成に、何かこう……アイデンティティというか、この沖縄がたどってきた言い表せない歴史というものが、暗示されているのかなと思う。

こう言ってみると凄く単純な見方な気がして汗が出るけど(爆)、でも写真が凄く、印象的に使われているからさ……タルガニが、ふと立ち止まって手にする少年の写真とか、金髪だったりするのに「これは自分の子供の頃だ」とか言ったり。
昭和チックなノスタルジーを感じさせる子供の写真が出てきても何か……、やっぱりここでは違う気がするのは、沖縄の歴史に対して無知だという恐れと構えがあるからだろうか。

で、結果的にはどーゆー風に落ち着いたのか。落ち着く筈ないか、とも思うが。前述したけど、人物を小さくして配置したりするのも含めた、凄くアナログチックな合成重ね合わせが、ホント見世物小屋的な魅力で、そこを単純に楽しめば良かったのかなあ。
ホンットに、この作品に対する正解が判んないの。やっぱり観なかったことにすれば、良かったかもしれない(爆)。うーん、これはやっぱり、映像芸術だという観方をすれば、悩むことはなかったのか??
でも、タルガニとパパジョーを演じるお二人はしっかと芝居をしていたしなあ、もう、判んない!!正直もうホントに、早く終わってくれと念じ続けていた、拷問の時間だったもん!!★☆☆☆☆


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