home!

「も」


2017年鑑賞作品

もうろうをいきる
2017年 91分 日本 カラー
監督:西原孝至 脚本:
撮影:加藤孝信 山本大輔 音楽:柳下美恵
出演:


2017/8/30/水 劇場(ポレポレ東中野/モーニング)
以前から、このもうろうという世界に凄く、興味があった。そんな言い方はいけないだろうか。いや、知りたいと思う気持ちがなければ始まらないと思うのだ。
劇中にも出てくるもうろう者の世界を広めるパイオニア、福島智氏も言っていた。まず知られていないことが問題だと。知ってもらうためにいくら活動に力を入れても、知りたいと思う受け皿がなければ、素通りしてしまう。

そしてきっとそこには、日本に根強く存在する、障害者=可哀想、触れない方がいい、じろじろ見るなんて失礼、あれこれ聞くなんて失礼、みたいなね、ことなかれ主義&健常の優越感が働いているんだと思うのだ。興味がある。そう言ってしまっていいと、言ってもらえたら嬉しいのだけど。
だって想像もつかないこの世界、何がどんなふうに起こっているか、凄く凄く興味があるんだもの。

その最初は、もうろう同士の夫婦を追ったNHKの番組だった。あれはハートネットTVだったか、きらっと生きるだったか。見えず聞こえずという状態を想像した時、私はその時は単純に絶望を感じた。自分がそうなったら、生きていける自信がないと思った。
重複障害という発想がなかった。その発想がなかった自分の知識と想像力の貧困さに腹が立った。ヘレン・ケラーは、特別な人だと思っていたのだ。なんてバカなのと自分に腹が立った。

でも、そんな私の稚拙な想いをぶっ飛んで、その夫婦はやたらめったらラブラブで、やたらめったら楽しそうで、やたらめったら幸せそうなことに衝撃を受けたのだった。
まさにあれは、衝撃だった。野球ファンで球場まで応援に出かけるということ、サポートは最低限で、炊事洗濯問題なくこなしていること、そして何より、コミュニケーションは凡百の夫婦よりも親密。その“会話”が忙しく触れ合い続ける指で行われること、触れ続けるというその親密さに、私はノックアウトされたのであった。
ああ、なんということ。手話だって凄いと思っちゃうのに、両手の指に触れるそのバリエーションで会話しちゃうなんて、なんてなんて、凄いの。私の知らない深い愛の世界がそこにあると、本当に衝撃を受けたのだった。

そして本作の劇中にも出てくる、もうろう者で初めて大学に入学したという福島氏も、NHKの対談番組「SWITCH」で観て、強い印象を刻んだ。きっと日本は遅れているに違いない。そもそも一つの障害があるだけで、いまだに大学進学が難しい現状なのだから。
だから今までは、視覚障害、聴覚障害、大学進学して、バリアがいっぱいあって、日本はダメだなー、とかのんきに構えていたのだが、先進国などと言っている以上、そんなところにとどまっていてはいけないのだ。重複障害。障害そのものに理解がない日本で、一体この理解が十分に深まるのがいつになるのか。

撮影中に、あの相模原の事件が起きたのだという。重度障害者は生きている意味がない、そうあの殺人者はぬかした。その考えが判らぬでもない、みたいな風潮がじわりと世間に広がっていて、ゾッとした。
そこには確実に、優越感があったのだ。世間に迷惑をかけずに生きる、というその“標準”は、日本社会で静かに侵食されている。かつての自己責任論も間違いなくそこにあてはまる。排除の社会。標準から漏れる人たちを排除する社会。

あらゆるタイプのもうろう者たちが登場する。障害の程度も、さまざまである。もうろうと聞いて、想像力の貧困な健常者が想像する、完全に光が閉ざされ、完全に静寂に支配される、という人ばかりではない。弱視や視覚狭窄でも拡大マシンを使って事務仕事を難なくこなしていたり、難聴を補聴器でカバーして、普通に聞こえているかのように会話をしていたりする。そんなことも、私たちはほとんど知らない。
あの衝撃傑作ドキュメンタリー「FAKE」で描かれた、聴覚障害への無知と無理解からくる冷たい差別を思い出す。視覚障害なら見えないんだろ、聴覚障害なら聞こえないんだろ、見えているのに、聞こえているのに、ウソを言っているのか、騙しているのか、そんな言い様さえ聞こえてくるような。

最初に登場する女性は、もともとろう者で、40も間近になって病気によって目の光を失われた。親子で死のうとまで思い詰めたエピソードは胸に迫る。
もともとろう者である、という人たちは、その後も幾人か出てくる。もともと盲者で後からろうも発生した、という人は、不思議と出てこない。先天性のものはろうの方が多いのかな、と思ったりする。

そういえば、ろう文化、というのは劇中にも出てきて、ろうの人たちがそのことに誇りを持ち、ろうに生まれて良かったという人たちの方が多い、というエピソードが出てくる。確かにろうをテーマにした映画を何本か観た中でも、そうした意識は強く感じることがあった。でも、本作の中に登場する若いもうろうの女の子は、生まれ変わったら、私は聞こえる人になりたいと明確に言い、虚を突かれた通訳の人が思わず泣いてしまって、インタビューが途絶えてしまう、なんていう事態にも陥るのだ。
どこかで、そうか、ろうの人たちは誇りを持っているんだな、強いんだな、素敵だな、とかいう気持ちに逃げてしまって、ひとくくりにして片付けてしまっていたことに、気持ちをすくいとろうとしていなかったことに、彼女は気づいたんだろうと思い、観客である私たちも気づかされたのだ。

おっと、脱線してしまった。最初に登場する女性よ。彼女は、本作の核になる人だと思う。なんていうか、シャイな感じ。自分から積極的に発信するという感じがないだけ、赤裸々な感じがする。
彼女の後に出てくる人たちは、かなり積極的に発言する(発声が出来たり、手話で発したり)するんだけれど、彼女は、そこはかなり控えめというか……ちょいと内気な感じなんである。

もうろう者たちをサポートする通訳さんたちは、これ以降もいろんな人たちが登場するんだけれど、彼女につく女性がやはり、核になる人という感じがする。同い年だということもあって支援につくことになったという彼女は、「日本ではまだまだボランティアという意識があって……」と核心をついた発言を物語の冒頭から投げ込んでくれるんである。
対等に生きる社会を作るために、それではいけないのだと。してもらってる、してあげてる、感動ポルノという言葉も言われるようになった、ようやく。一緒に生きている、同じ地平にいる人間という意識がないのだと。

震災のこともやはり、語られる。宮城で被災した男性は、彼はかなり発信力のある人で、発声も出来ることもあって、もうろうどころか、障害をほとんど感じさせないんである。
でも、だからこそ、なのだと思う。見えにくい、聞こえにくい、その片方だけでもなかなか分かってもらえない、その両方があるということを。歩きなれた、生活しなれた環境というものというものがなくなってしまったことが困難だという言葉は、故郷が失われたとか、そんな言ってしまえば甘やかな言葉よりずっと切実さと真実味を持つ。
乱暴に言ってしまえば、故郷が失われても、健常者ならばそれを心に持って生きてはいける。でも触れた感覚を第一に生きている人にとっては、もうそこは、何の手がかりもない、きっとそういうことなのかもしれない。

でもやっぱりやっぱり、ね!女子的には、恋愛や結婚や夫婦のことが気になるさ!幼い頃からもうろうの状態に陥り、弟と意思の疎通ができないことに悩んでいたお姉ちゃんは、だから触手話を学んだといい、自分の子供たちにもそれを受け継いでほしいという。
まだやわやわな赤ちゃんを抱きながら大家族でそんな会話をしているのは、ああなんか感動っぽい、とか思うのだが、その当人である彼は、まあそういうナヤミも勿論あるだろうが、何よりの悩みは恋愛が出来ていないことであり、いずれは結婚したいんであり、そのために作業所ではなく“普通”にお勤めをしたいのだと語るんである。

まず恋愛、と迷いなく、開口一番言ってくれちゃったことに、そうだよねー!!と思わず口元がほころび、ろう学校時代の失恋話に更に口元ほころびまくる。作業所でも触手話で女の子と結構親密なやりとりなんかしたりして、見てて照れちゃったりする。
でも彼の言う、作業所ではなく、というところに、複雑なようなもどかしいような気持ちを感じたりする。作業所にはあらゆる障害を持った人たちが同時に集う。言いにくいことだが、彼にとっては、もうろうだけれど、それだけだと、それ以外の部分はすべてが正常だと、なんだって出来るんだと、言いたいのだろうと思う。
それ以外、というのが、なかなかに言いにくい……それこそ、相模原を肯定してしまいかねない。本作が少し甘いなと思うのは……こういう部分かもしれないなあ。

夫を早くに亡くし、夫の両親の介護もつとめあげて今は一人暮らしの女性、先述した、生まれ変わったら聞こえる人になりたいと言ったちょいと可愛い、社会人として自立して暮らしている女性、それぞれのサポートの人たち、もうろう者たちが集う大きな大会、会議、イベント……興味ある場面は続々あるが、ヤハリもうろう者同士の夫婦に心惹かれるんである。
もうろう者大会で知り合ったという二人、第一印象はどうだったの、と奥さんに聞かれて、「見えないから判らないけど」と躊躇なく旦那さん答えるもんだからドキッとしたりして、でも即座に、メールやチャットで文章のきれいな人だなと思って、惹かれた、と答えたことにズキューン!!ときちゃうんである。現代の、ネットで出会っての恋愛がどうこう言われるよりも、もっとずっと先の先駆者がいるじゃないの、って!
見た目っていうのはね、もうどうしようも対処のしようがない訳。考えてみれば、こんな差別的価値観はないと思う。声がいい、っていうのは私も結構言いがちだけど(爆)それも実は同じことなんだということに、今更ながら気づくんである。

福島教授がね、こうした映画を作っても、視覚と聴覚で作られている映画というメディアは、その当事者は見られないというジレンマがある、って、もうその通りだからさ、映画ファンとしては、ああもう、絶望的な気持ちになってしまったりしてさ。
でもこんな素敵なラブを伝えるすべとして存在できるなら、イイのかもしれないと思うし、なんとかして、映画という魅力を伝える術もきっとあると思うし。
手で触れあいながら、テレビつけたよ、斉藤由貴さんを見たかったのに間に合わなかった、大根サラダ美味しいね、なんていう会話を、なんてことない会話を続ける二人に、それはまずお互いの手を探すところから始まるところに、ああ、これが基本なのかも、愛の基本なのかも、コミュニケーションの基本なのかもーっ!!と思わず盛り上がってしまう私(爆)。

やっぱりね、凄い世界だよ。今の私には体験できない世界に、興味がある、凄いと思うのはとても純粋な気持ち。そこから始まるのだと信じたいのだ。いや、絶対にそうだよ。★★★★☆


トップに戻る