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「ふ」


2016年鑑賞作品

FAKE
2016年 109分 日本 カラー
監督:森達也 脚本:
撮影:森達也 山崎裕 音楽:
出演:佐村河内守

2016/6/20/月 劇場(渋谷ユーロスペース)
どうしよう、観ている時にもずーっと心臓がドキドキしていたけれど、今でもそれが収まらない。感想を書きだすに至って……不遜だけれど、なんというか、武者震い。
不思議な笑いに満ちた映画でもあった。そして信頼と愛の映画でもあった。でも最終的には……監督は、イジワルだ。
いや、それこそが真の人間の姿。黒か白かで決めようとするから、ねじれてしまう。それこそ佐村河内氏の耳の中で聞こえているようなねじれなのかもしれない。
曖昧な自分を説明しようとする時に、きっと自分だって口ごもるだろう。就活のマニュアル通りのアピールようには、きっといかない。
そんな、愛すべき人間の物語、とするのには、きれいごとすぎるだろうか。

そもそもあの森達也監督が、あの佐村河内守(あの、の二段活用)を被写体に迎えるという時点で、ザ・ペテン師としての肩書が定着してしまった佐村河内氏に対するイメージが100%覆るだろうという確信はあった。だからむしろ観る前から、……このあたりが自分としてもズルいんだけど、努めて冷静にあの騒動を思い返し、そういえばおかしかったよね、などと“予習”という名の身構えをもって見た。
それはきっと少なからず、押し寄せた観客の中にあった感情だったんじゃないかと思う。森達也というドキュメンタリー作家が、信頼しうる人であること、一面的なイメージを公平で冷静な目によって覆す人、という思いが、マスコミや、いやもっと広く世間というものに受け流されて生きている自分に対する後悔や、いや違うな、その前にガードして、いや、本当はそう思っていたんだよ、だけどネ、みたいな、卑怯なガードを作らせていたんだと思う。

本作は、ある意味でその通りでもあったし、でも、そうでもなかったとも言える。本作に比して言えば、あの衝撃の「「A」」「「A2」」 の方が、そうしたある種単純な図式にのっとった……末端の信者の愚直なまでの信仰、をあらわしていたように思える。
本作がそれと違うのは、当事者となる彼らが信仰者ではなく、ごく一般の社会に生きている人間だったということなのかもしれないと思う。それは佐村河内氏も、新垣氏も。
白か黒か、ハッキリ区別しながら生きられる人間なんていない。それは冷静に考えれば、同じ社会に生きる人間である私たちだってそうだと、判ることなのに。

周知の事実ではあるけれど、あの騒動の概略を述べてみると、でも実は、本当に単純なことだった、と思う。佐村河内守という難聴の作曲家にアシスタントがいた、ということだけ。
アシスタントなのか、共作者なのか、というあたりの曖昧さ(さあ、もうこの言葉が出てきた。この後一体、何回使うのか……)が一つの、いや、最も大きなファクターであったことが、今になると判る。

言い訳のようだけれど、最初にあの騒動を耳にした時のことを思い出すと、共作、って言わなかったことがマズかったんじゃないの、と、ただそれだけをシンプルに思っていたのだ、確かに。だって耳が聞こえにくくて、楽譜を書く手段を持たないタイプの作曲家なら、手助けとしての共作者は必要だよね。それを最初から言わなかったことがいけなかっただけじゃないの、と。
実際、新垣氏が暴露した最初のニュアンスは、そんな感じが強かった気がする。気がする、だなんて。そうやって、努めて思い出すようにしなければ、思い出せない、次々出てくる情報に流されまくってしまうのが、人間なのだ。

その後、佐村河内氏は正式に謝罪の場を設けるけれど、その時点で既にイメージが作り上げられてしまった彼に対する風当たりは強まるばかりで、そして新垣氏がブレイクしちゃったもんだから、彼の言葉が更に積み重ねられ、……それこそ後から考えると、あれ、最初はそんなこと言っていなかったよネ、ということがどんどん出てくる。
聞こえないと思ったことは一度もなかった。普通に聞こえていると思っていた。楽器も出来なかった。弾けるというレベルではなかった。エトセトラエトセトラ……。あふれ出る情報に流されるままだったこちらは、そうなんだ、とぼんやり受け止めるばかりで、最初にそんなこと言ってたっけ?と立ち返ることさえ、出来なかった。
佐村河内守=クロ、新垣隆=シロという図式がハッキリと出来上がってしまっていた。実に、判り易く。

そうした渦中に、既に森監督は入り込んでいたことになる。実に曝露から9ヶ月の時点で。恐らく接触したのは騒がれ始めてからほどない頃と思われ……だって、信頼を得なければこんな、密着ドキュメンタリーなど可能である筈はないんだもの。
公開が今の時期になったのは恐らく……ワレラ民衆側が、こんな風に落ち着いて、あれが決して平静な状態ではない、狂乱の報道の嵐だったということを、遠く見つめることが出来るという時期を、狙っていたんじゃないかと思う。
そういう意味で言えば、かの森監督だって渦中に飛び込んで、信じていなければ撮れませんよと言いながら、実は実は、彼だって人間だから、そこまで確信していた訳ではなかったのかもしれない……だなんて、それこそ不遜なことを思う。でもだからこそ、ひどく臨場感があるのだ。

佐村河内氏=クロで新垣氏=シロというのは、新垣氏が暴いた側ということもあるけれど、彼らの経歴や見た目のイメージもとても大きかった。佐村河内氏は現代のベートーベン持ち上げられる、のは耳の問題だけではなく、威圧するようなガタイの良さと長髪とひげとサングラスのイメージも大きかった。
一方で新垣氏は典型的マジメな日本人サラリーマンのような印象……きちんとひげをあたり、髪も短髪にととのえ、細身で押し出しの弱そうな……。ずっと利用されてきたことを勇気を振り絞って告白する、という姿に、判官びいきの日本人があっさりと傾いてしまった。

そして今まではカリスマ的な魅力のある佐村河内氏のそうした表面的な要素が、全く逆転した、うさん臭さとなって受け取られてしまったのは、それこそ今冷静に考えると、その表面的なものから勝手にカリスマのイメージを作り上げたのはこちら側だったのに、と思い当たるのだ。
だから佐村河内氏がひげをあたり、髪を切り、サングラスも外して謝罪会見に現れると、ほーら正体見せやがった、と思ってしまった訳である。なんと勝手な。今思うと本当に、なんて勝手な……。

本作で、日常の姿を見せる佐村河内氏は、元のイメージの姿に戻っている。髪は伸び、ひげも生え、サングラスもしている。時々外からの取材の人間が訪れる。最初は普通のメガネ姿だが、奥さんに電気をつけるよう頼んだ後は、サングラス姿に戻る。
劇中、光の強さが目から入ってねじれの音が聞こえてくるみたいな、そうした弊害があるからサングラス、と言っていたように思う。……当然、通常会話で進んでいくドキュメンタリーなので、すいません、うろ覚えなんだけど(爆)。
つまり彼にとって必要な姿が、外の人間に対して余計な、マイナスのイメージを与えるということであり……。毎日出勤するサラリーマンでもないなら、常にきちんと髪を短く切りそろえることも、ひげをあたることも確かに必要ないのだ。

それをきっと普段からやっていて、今もそのイメージを崩さない新垣氏は……佐村河内氏いわくの、「とても優秀な技術者というイメージ」と言われるとなるほどナァと思うんである。
新垣氏が関ジャニの仕分け番組に出ていた時、彼の弾くピアノは実に正確なんだけどそれだけで、その後登場したピアニストの清塚信也氏の鮮やかなピアノの音の感動にひどく見劣りしたことをふと思い出したのであった。
その時は、まあこれがプロのピアニストとの違いなのね、と思ったぐらいだったし、清塚氏が彼のことを自分の学校の先生だから……と持ち上げたりしていたこともあって、それほどピンとは来ていなかったんだけど、佐村河内氏の言葉にハタと膝をうったんである。技術者であって、音楽家ではない、ということなのかもしれない、と。

あの騒動の後、新垣氏が作曲の仕事も得たりしたことに、あら、良かったじゃない、と単純に思っていた自分に戦慄する。新垣氏は確かに、後になればなるほど、自分だけが作曲していた。彼は楽器も弾けない。音楽なんかできない、みたいな態度にどんどん傾いていった。
でも、本当はどうだったのか。それは二人の間でしか判らず、佐村河内氏も新垣氏も、お互いにウソをついているんだと主張しているのだ。
後から感じる印象としては、ブレイクしてしまった新垣氏が、ウソをついているという意識さえなく、周囲に押し流される感じでどんどん盛って行ってしまった、という風でもあるのだが。そもそも本作を新垣氏は観るのだろうか……。

本作はあくまで佐村河内氏側についた、まぁ単純に言えば判官びいきのようなスタイルで撮られたものだから、佐村河内氏の主張を“信じる”方向で進んでいく。
物語も後半に至って森監督は佐村河内氏に、「僕のことを何パーセントぐらい信じていますか。僕だって裏切るかもしれない」と問う。佐村河内氏は、「100%信じています。信じる時はそうすることにしたんです」と言う。
それはひどく感動的な言葉で、この一発で観客を味方にしちゃうぐらいの愛の言葉なのだが、森監督側はひょっとしてひょっとしたらそうじゃないのかもしれない、という感覚はもやもやと残っているんである。

信じてなければ撮れない、それは事実だろうけれど、劇中、いわば敵側、新垣氏や記事を書いたジャーナリスト側にもちゃんと接触を試みている。ただ、ことごとく拒否されてしまうんである。
拒否ということ自体が真実を物語っていないってことじゃん、と言うのはカンタンではある。森達也という強力なバックが佐村河内氏についたことで、おじけづいたかと。
実際、森監督は強力なバックになりうるドキュメンタリー作家で、彼がついただけで佐村河内氏に光が当たることを、新垣氏はともかくジャーナリストである神山氏は絶対に判っていただろうと思う。

劇中、森監督は新垣氏の演奏会に出かけて著書にサインをもらったり、それ以上に凄いのは、神山氏の授賞式のプレゼンターを務めたりしちゃうもんだからなんだか笑っちゃう。
本作を見てしまうと、本人に一切直接取材をしない記事や著作がジャーナリスト賞を獲ったりしちゃうことに本当に驚くし、それがますます書かれた側を追い詰めることに戦慄を覚える。佐村河内氏の父親は、立派な賞をとったのだからアレが真実なのだろうと言われて「最後の親友も失った」と意気消沈する。

アメリカのアカデミー賞を獲った「ザ・コーヴ」を思い出した。日本側から見ればあまりに稚拙なドキュメンタリーだったけれど、著名な賞を獲ってしまうと、それが権威になり、そしてドキュメンタリーとなると当然その中身こそが真実だと決定づけられてしまう。
でも真実というのは心的影響を受ける……つまり主観的なものであり、受け止める側の数だけあるのだろう。でも事実は?

新垣氏は突撃されて苦笑という感じだったけど、神山氏に関しては、授賞式を欠席しているのは……プレゼンターが森監督だったからじゃないのと勝手な想像をしてしまうのだ。
そうした森監督の強心臓に思わず観客から笑いが漏れたりするんだけれど、よく考えてみれば恐ろしいことだ。森監督は佐村河内氏を100%信じてないからこそ、敵方にも接触を試みている訳で、それは勿論逆に言えば、とれる限りの情報を得ないと、100%信じることなんてできない、というジャーナリストとしての真摯なスタイルに他ならないんだけれど……。
だから、もし、新垣氏なり、神山氏なりを題材にしていたら、と考えると本当に恐ろしいんである。誰かが言っていたけれど、続・FAKEを逆側から撮ったら一体どうなるのかと。

でもこれは、佐村河内氏に密着したドキュメンタリーなのだから……。私は単純観客なので、結構アッサリ彼に対する自分の思い込みに首を垂れたくなるんである。加えてそれだけではない、いくつかの興味深い問題が本作には点在していて、そんなところにとどまっているのはもったいないのだ。
一つはこの騒動の中で誰もが思ったであろう、耳の聞こえない人にとっての音楽とは何ぞや、という部分。奇しくもつい最近、まさにそのことに迫ったドキュメンタリー映画を観たばかりで、でもその作品はかなり視覚的イメージを重要視していたものだったから、なんだか余計にもやもやとしていたのだよね。

それにここは間違っちゃいけない部分なんだけど、佐村河内氏は難聴者であって、完全失聴者ではなく、先天性ではなく、中途障害者である、ということなんである。このそれぞれの要素も、彼らにとっての音楽とは何ぞや、という点で非常に興味深く、そして誤解や差別を、まさにこの騒動のように招きやすいのだと思われるんである。
現代のベートーベンとして持ち上げられた……まあ商品パッケージとして……佐村河内氏は、しかしそれがウソだったと、つまり完全失聴者ではなく、再診断の上、障害者手帳も“取り上げられた”と、そして新垣氏が「普通に聞こえていたと思っている。聞こえていないと思ったことは一度もない」と発言したことが更に拍車をかけて、ペテン師のレッテルがべったりと貼られてしまった。

新垣氏の発言に対して佐村河内氏は、なぜそんなウソを言うのか、彼はほとんどしゃべらなかったし、筆談でコミュニケーションを取ったりもしていたのに、と憤る。
この点に関しては、このドキュメンタリーが佐村河内氏側である以上、彼の言葉を信頼するしかないし、どちらがウソを言っているか、という議論は不毛というか……ただの泥沼になってしまうのでここでは追わない。聞こえない、と聞こえづらい、の区別が認識さえされていない日本では、それこそ議論にすらなれない。

そう、そこなのよ、問題なのは。難聴や完全失聴というレベルの段階が無数にあることに対する世間の認識のあまりの薄さと、そこからくる、口話が出来るんだから聞こえるんだろうという単純な理解、つまりは無理解の部分。
そして私たち健常者にはなかなか判りにくい、聞こえない人々、あるいは聞こえづらい人々にとっての音楽とは何ぞや、という点、なんである。

先述した別のドキュメンタリー作品では、完全失聴者に絞っているイメージが強く、彼らの中で鳴り響いている音楽を上手く想像することが出来なかった。むしろ、彼らの中の音楽は視覚的イメージなのかなと。
しかし佐村河内氏は中途障害者であり、小さなころから音楽が好きで、オーケストラの音の構成も何もかもが刷り込まれているという。だからこそ、作曲が出来るんだと。
細かい指示書や独特の構成図を“証拠”として見せるが、それこそ健常者である側はなかなか理解が出来ず、決定的な証拠が欲しい、あなたが音を生み出すところを撮りたい、と海外から来た取材陣などは言い募るんだけれども。

……というところに入り込むとまた大きく脱線しそうなので。バリア、そしてバリアフリーという点での大きな問題提起になっている部分こそを言いたいのだ。
佐村河内氏はメンタル医師、前川氏に会いに行く。自身も聴覚障害者であり、聴覚障害者へのメンタルサポートを行っているという人である。
彼はごくごく幼い頃……赤ちゃんぐらいの時に聴覚を失っており、そういう意味では私たち健聴者にとって“音楽が聞こえているのか、いやそもそも音楽という概念が理解できているのか”などと単純かつ失礼極まりないことを思ってしまうような人物である。

しかし彼は、通常補聴器のほかに、音楽を聴くための特別補聴器を重ね付けして、iPhoneで音楽を楽しんでいる。森監督からの質問に、「(音楽が)判ります」と言う。バイオリンの高い音が聞こえないですね、と言う。それはきっと、実際に弾いているのを見て、でもその音が聞こえない、という確証を積み重ねていることだろうと思う。
音楽が判るとか聞こえるというのが、どこからどこまでのレベルで判定されるのだろう。だって、耳の良し悪しなんて、聴覚障害者じゃなくったってあるし、高齢者になったりしたらまた、あるじゃない。絶対音感を持っている人とそうじゃない人の違いから、もう違う。そもそもそんな条件を設けることさえおかしいということなのだ、きっと。自分に聞こえる音楽があれば、それは音楽なのだ。

佐村河内氏は、自分が聴覚障害者たちを傷つけた、聴覚障害の子供たちが誤解されていじめられているんじゃないかと苦悩している心の内を打ち明ける。
すると前川氏は、あの謝罪会見で、本当は聞こえているんだろう的な態度で割り込んだ先述の神山氏を例に出して、聴覚障害者の人たちはあの会見で佐村河内氏が聞こえているなんて思わない、見れば判る。皆判っているから、と言うんである。

なんというか……じーんとしてしまうんである。あの時世間の誰もが佐村河内氏を嘘つきだと思い、聞こえていると思い、その中で、そうではないことが実感として判っていた人たちがいたんだと、それこそが同じバリアを抱えた人たちだったんだということが、胸にしみるのだ。それが一番の、本作の結論だったんじゃないかとさえ……。
バリアやバリアフリーということに関しての日本の無理解に、今までも強い不信感を持ってはいたくせに、あの騒動にあっさり流されていた自分を、本当に情けなく思ってしまうんである。

そしてバリアという意味では、アカデミックというか、学歴重視社会という部分でも。音楽家を名乗るのは、誰でもできる。なんだって肩書は何でも名乗れるけれど、こと芸術の分野においてはそれは一番自由度が高い。高いからこそ、こうした騒動が起きた時に翻って叩かれるスピードも速い。
佐村河内氏は正式に音楽の勉強をしていない。楽譜も書けない。つまりはそれが、新垣氏のようなサポートが必要だったという判り易い図式である。やっかいなのは佐村河内氏が聴覚障害者であったということと、一番の原因は、二人の間に信頼関係がなかったことであろうと思われる。
こんなことは、単純な仕事の取引なら問題なかった。つまり、ギャラが解決すると。佐村河内氏はそう思っていたんだろう。それが命取りとなった。

先述した、彼に聞こえている音の問題プラス、楽譜が書けない、楽器も弾けない(というのは、新垣氏の主張だけだが)ことが、そんなことが出来なくても音楽は出来るし作曲も出来ることは、世界中のミュージシャンを見れば判ることなのに、見た目もマジメそうな、音楽大学をきちんと出た新垣氏が暴露したことで、そうしたアカデミック差別が一気に噴出してしまった、んである。
音大も出てなくて、楽譜も書けなくて、そして耳が聞こえなくて、作曲などが出来る筈がないと。つまり作曲どころか音楽に何の造詣もない、現代のベートーベンというキャラクターを作り上げるために何もかもをねつ造した、と。
なんだか最終的にはそんなイメージにまで膨らんでいった。

劇中、新垣氏が様々な媒体に出ているのを、佐村河内氏夫妻が哀しそうに眺めているシーンが多く挿入される。バラエティ番組でイジられたり、メンズ雑誌でおしゃれおじさんとして映る新垣氏は失礼ながらかなり滑稽で、こちら側の観客であるワレワレは思わず噴き出してしまう。
しかし当然、そこで語られているのは、佐村河内氏ネタオンリーであり、最後には、いつか一緒に謝りたい、などというコメントと共にオシャレなマフラーを巻いてカメラに向かってポーズをキメているんである。

一番キツかったのは、大晦日の特番への出演依頼に来たフジテレビ責任者のメンメン。タレントたちにイジられることは必須。最後にはすべてを忘れて笑い飛ばそうという趣旨。
フジのメンメンは、決して佐村河内さんを揶揄するようなことはしない。きちんと話を聞いて、これから先の未来を展望するような内容。最高責任者もここには来ている。私たちを信じてほしい、と言うんである。

佐村河内氏は悩んで、結果的にはその話は断る。すると、代わりの出演者はなんと新垣氏。あの聞き慣れた、佐村河内氏のネタ、いかに彼がウソつきでペテン師で楽器も弾けなくて……という話を披露し、パネラーのタレントたちは、えー!!と改めて驚きの声をあげ、声が小さいとイジられ、声が小さいから佐村河内さんに聞こえなかったんじゃないのとツッコまれ、大久保さんに壁ドンやり(爆)、大いに盛り上がるんである。
これはあんまりというか、スゴいというか、マスコミってやっぱり恐ろしいというか。まあ判ってはいたけどボーゼンどころではなくって。

だって森監督がドキュメンタリーを撮っているといって同席していたことに、彼らは全く問題ない態度をとってて、撮られる側は慣れませんネなどと照れていたぐらいでさ。
なのになのに……いや、こんなことは当然だ。意気消沈する佐村河内夫妻に森監督が言う、彼らはそんなことは何も考えていない。出演した誰かが面白くイジられることしか考えていない。だから逆に言えば、守さんが出ていれば何かが変わったかもしれない、という言葉はまさにそのとおりで……。
出演してもらうためならどんな言葉も言うし、それが彼らの仕事であり、それが詐欺だとかまっとうじゃないとか、そんなことを言っていたら世の中のビジネスは成立しない、のかもしれない。そんな青臭いことを言ってられない、のかもしれない。でも、森監督は?あなたはどうなの?と。

そこが面白いところで。森監督は守さんを信じていると。そうでなければ撮れないと言って、でも彼もジャーナリストだから、マスコミの一員だから、それは……やっぱりビジネス言葉であるに違いないのだ。だってそうじゃなかったら、佐村河内氏側のプロパガンダでしかならなくなるもの。それこそがドキュメンタリー作家として最も避けたいところであるに違いないのだから。
実際、森監督が回すカメラは佐村河内氏、あるいはその奥さんに対して一定の距離でひょうひょうと言える雰囲気で回り続ける。

豆乳が大好きなんです、と満タンのコップをぐびぐび飲む佐村河内氏に、その意表を突かれる姿に思わず観客から笑いが起きる。取材などのお客が来るたびに、あるいはそうでない時でも、ケーキを用意している。佐村河内氏はケーキが好きらしい。なんだか妙に、いじらしいというか、愛らしいというか、そんなところがチャーミングなんである。
「達也さん」と声をかけて連れタバコにベランダに一緒に出る、なんてところもなんだか可愛らしくって、普通の人間だなあ、などと当たり前のことを思ったりするんである。

最初に書いたけれど、森監督の描き方は最後まで案外、イジワルである。衝撃の12分、という宣伝は、キーボードすら「部屋が狭いから」と捨ててしまったという向きに対する鮮やかな逆転劇。でもその後のひとことが、ね。
執拗な質問を繰り出す海外メディアのインタビューに、こんな、来訪してただただ質問ばかりを浴びせても本当の姿は浮かび上がらない、森監督を見なさいよ、とか思いながら、でも実はこれが確かに、私たちが一番感じていた疑問だったのだよな……作曲しているという姿が見られれば、それが一番の“証拠”になると。

それまでに、いわゆる客観的な公的事実……弁護士側では、新垣氏は糾弾はするけれど話し合いの場には出てこない。著作権も佐村河内氏にあるという点では納得し、合意している。佐村河内氏が作曲の指示のために作ったデモテープの存在を確認しているが、オリジナルテープが新垣氏の方にあるものは出してきてもらえない、等々が明らかになる。
佐村河内氏が名誉を回復したいと思っても相手側が応じない、そりゃそうだ、もう彼らは世間に認められる立場を得て、今更それをほじくり返したら自分にとってソンにしかならない、かもしれないのだから……ということは示される。

それでも、それでもあの取材陣のイヤーな執拗さは、結局は私たちの望む、明らかな証拠の提出という点では同じであった。
森監督から「守さんの頭の中には音楽があふれている筈だ」アツく言われて(後から思えば、それも森監督のイジワルな芝居のように思えるのだが)、シンセを新たに購入し、佐村河内氏は作曲を開始する。

操作マニュアルを熟読するところから始まるのが可愛くも可笑しく、そして少々の不安をかき立てる。楽器が弾けないとか、そもそも音楽に造詣があるなんてのも本当にウソなんじゃないかと不安になってしまう。
しかし佐村河内氏はまるで初めて与えられたおもちゃに夢中になる子供のように、没頭していく。初めて与えられた、というのは別にイジワルな見方じゃない(爆)。奥さんがしみじみと、やっぱり好きなんですよね、というもらす言葉になんか胸を打たれてしまうんである。

この奥さんが素晴らしく、彼女はこの騒動で夫から別れた方がいいんじゃないかと言われたけれど、当たり前のようにそれまでと同じように一緒に居続けた人。付き合っている途中から聴覚障害が出始めた彼の手話通訳をかって出ていて、声に出しながら、手話を見せるスタイル。
でもそれが最初のイメージがこびりついている間は、実際は聞こえているのに手話通訳の芝居をやってるんじゃないかとか、ふっと思ってしまっていたのは、観客のみならず劇中に登場する取材陣もきっとそうであったと思われる。だから、フジのスタッフたちは、番組を佐村河内氏が見ることを充分想定しながら、新垣氏をピンチヒッターにするなんてことも出来ちゃうんだろうと思う。

しかしこの最後の12分、その近辺からじわじわと、佐村河内氏が本気モードになったことに自然に呼応するように、奥さんが手話をしながら同時にそれを声に出して言わなくなる。手話だけで彼に伝え、彼はそれに時には声を出して答える。
つまり観客には守氏の返答や、時にはその表情だけで会話を推測することしか出来なくなり、そしてそれが……読み取れるのだ。こまかい言葉が判るってことじゃなくって、彼らの間の会話が、キザないい方をすれば、音楽になって聞こえてくるような。

最後の12分間、楽器が弾けない筈の佐村河内氏が、充分なテクニックを見せて作り上げた、ラストクレジットにもかかる形で通される、まごうことなきオリジナル音楽は、シンセであることがもったいない、オーケストラにしてみたい素晴らしいもので、それをマンションの狭い一室で、じっと三人、こうべを垂れて聞いている奥さんをメインにしながら静かに映し出していくのが、これが本当の答えだと思って。
森監督は言った。奥さんがこの場面にいてくれてよかったと。二人を撮りたかったんだと。つまりこれは何が真実かなんてことじゃなくって、愛と信頼の物語なのだよね。

と、思ったのだが、イジワル森監督は、ラストクレジットも終わった最後の最後に佐村河内氏にこう語りかける。「最後に聞きます。僕に隠していることはないですか?」こともあろうに!
佐村河内氏はうーんと考え込む。これもまたこともあろうに!である。でもこのイジワルな最後の挿入に、どこまでがウソでどこからが真実か、などというわっかりやすい惹句をさしはさむ気にはなれない。

冒頭に言ったけれども、シロとクロがハッキリと別れる価値観なんてない。そもそも100%真実に生きている人間なんていなくて、障害というファクターを挟むと、理解し合おうという意識が働かなければそのパーセンテージは劇的に急落してしまうものなのだから。
私は、うーんと考え込んだことにこそ佐村河内氏の正直さを買いたいし、それは彼自身、上手く言葉にできない様々なことなんだろうと思う。ていうか、見ている側が何かの決着をつけなければ、本作、あるいは人間なんてとても語れないもの。
障害を持ちながら頑張っている人=当然正直で善意の人=ウソなんかつかない筈の人=普通社会では生きられない人=つまり可哀相な人、にしたがる世間への見事なアンチテーゼにもなっていた。24時間テレビ的なね!

猫が一番、真実が見えていたのかもしれないなあ。猫がいるのよ。めっちゃでっかい、でもとっても美しく可愛い猫が。じっと、聞いてるのよ、かすかに首を振り向けながら。ホントに、聞いてるって感じ。
彼(彼女?)には判ってる感じなの。同じ猫飼いとしてはたまんなかったなあ。たとえ森監督が完全に彼の信頼者じゃなくったって、信じている人間がいなくたって、信じている猫がいれば、私はそれでいいと思っちゃった。★★★★★


ふきげんな過去
2016年 120分 日本 カラー
監督:前田司郎 脚本:前田司郎
撮影:佐々木靖之 音楽:岡田徹
出演:小泉今日子 二階堂ふみ 高良健吾 山田望叶 兵藤公美 山田裕貴 児玉貴志 大竹まこと きたろう 斉木しげる 黒川芽以 梅沢昌代 板尾創路

2016/7/3/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
主人公は二人。ダブルヒロイン。小泉今日子と二階堂ふみ。これだけで興味はかなりそそられる。二人は実の親子だけれど、小泉今日子扮する未来子は死んだことになっている。
二階堂ふみ扮する果子は、ワニが潜んでいるという運河と、謎めいた男が出没する喫茶店を往復する退屈な日々。果子の両親は豆料理がメインの居酒屋を営み、未来子の妹が今は果子の母で、乳飲み子を抱えている。まだ名前が付けられていない。
ある日突然帰ってきた、死んだはずの未来子。警察だけでなく、ヤバい筋からも追われているらしい??

とかいう話。いや、話自体はどうでもいい。これはもう、好き嫌いとしか言いようがないんだけど、私はちょっと、あまり、うーん、好きになれないなあ、と思った。
なんていうか、舞台くさい。なんとなくちらりと劇団の人、という情報を目にしてしまったせいかもしれないが、いや、でも何とも言えぬ舞台臭を全編に感じてしまって、どうしようもなかった。
そらー確かに私はちーとばかし舞台アレルギーがあるが、別に舞台そのものを嫌悪している訳じゃない。機会があれば観たいと思うし、楽しめる。でもアレとコレはやっぱり全然、違うものなのよね……。

舞台作品を映画にしたから、舞台くささが出るという訳でもない。実際、これは映画のためのオリジナルストーリーなのだし。
なんだろなあ。私が一番気になったのは言葉、だった。脚本と言い換えるべきか。
脚本の力、言葉の力を凄く信じている感じがした。それはいい方向に転がればとってもイイことであると思うんだけど……。俺の言葉を聞いてくれ、って感じに聞こえちゃう。

誤解を恐れずに言えば、舞台と映画の違いはそこにもあると思う。良かれ悪かれ、カメラが接近する映画は役者の、人間そのものが出てしまう。いくら役に憑依していたとしても、いや、役に憑依すればするほど、その役の人間が出てくる。そこで生きてる人間になる。
でも舞台はやっぱり、板の上で演じている役者、なのだよね。役者だから台詞を喋る。なんか……そんな感じに思えちゃう。

劇中、二階堂ふみ嬢が何度も何度もなーんども、なんで、何それ、を繰り返す。これがうざったくて仕方ない。その質問の先には必ず答えがある。明確であったりよく判らなかったりするにしても、用意された台詞があるのだ。
そのサイクルにだんだんと疲れてくる。小さな子供じゃないんだから、なんでなんでとばかり聞くなと言いたくなる。何か……そんな問答に付き合わされている気がしてくるのだ。

もう一つは、“個性的なキャラクター”ってヤツである。最も端的なのは、失踪した姉の未来子と入れ替わりのように現れ、つぶれかけた蕎麦屋を豆料理屋に生まれ変わらせたノムラさんである。イスラム系(?)、豆料理、ノムラさんという名前に“ちゃんと日本国籍もあるのよ。手作りだけど”という台詞に至るまで、面白いでしょ、と言わんばかりの配置にぞわぞわする。
他にも片足がないのは鮫に食われたと言ってるけど実は……、な漁師やら、そういう、エピソード付きの人間がぞろぞろ出てくる。こういう、エピソードを語りたがる人物像が、私はあまり好きじゃないのかもしれない。エピソードで人間を作り出そうとするのが、好きじゃないのかもしれない。
そんなこと言ったら、主人公の一人、小泉今日子演じる未来子さんはエピソードで成り立っているような人なんだけど……。

あとね、キーワードというか、キーパーソンじゃなくて、キーアニマルというか、あの、ワニね。運河に生息しているという伝説というか、そういう存在ね。ある意味このワニが物語を引っ張る役割をしているんだけれど、これがまた、いかにもっつーか、この思わせぶりな感じ。
主人公のもう一人、ふみ嬢演じる果子は運河にワニを探しに来る、いや、いないことを確認しに来る、のが日課である。いないのは判ってる。いないことを確認しているんだ、と。
見えているものを見たってしょうがないじゃない、と。こーゆー感じの台詞、言葉が、私がゾワゾワきちゃうとこなんである。そーゆーことは舞台か小説でやってほしいと思っちゃう。

ふみ嬢はタイトルロール、だろうな、これは、最初から最後までその不機嫌さを隠さない。最後の最後に笑顔を見せるのがちょっと読めちゃうぐらい、ずーっと仏頂面である。
だから凄く単調に見えちゃうし、不機嫌で仏頂面のくせに、なんでと何それを繰り返す饒舌さに、不機嫌な割によく喋るわね……などと思ってしまう。

で、ちょいと脱線したが、このワニがね、この近辺のちょっとした騒動に関係しているのね。赤ちゃんがいなくなったのはワニに食われたんだと、“モリの本田の奥さん”は言い募り、いつもいつも運河にモリを携えて見張っている。
この、“モリの本田の奥さん”という人名を、代名詞を一切使わずいちいち繰り返すのにも、舞台ウケっぽい雰囲気を感じてイラッとする。

誰もがこの“モリの本田の奥さん”こそが(ああ、こうして書いてみてもイラッとする!!)自分で赤ちゃんをどうにかしたか、あるいは狂っていると思っているんだけれど、果子は、“モリの本田の奥さん”(ああ、イライラする……)が正しくて、他が間違っているのかもしれないじゃん、と言う。
その割には、ワニがいないのは判ってる、とか言うし、よく判らない。とにかくひっきりなしに喋らせるためだけで、彼女自身の考えや意思はあまり見えてこない気がする。

ワニは、最後の最後に、現れる。死骸となって。引き引きの画で、細部がよく見えないのがこれもイラッとする。なんでブルーシートをかけられているの、と問う。プライバシーを配慮しているんじゃないの、と返す。誰のプライバシー?と問う。黙り込む。
……こーゆーところに上手さを見せるぐらいなら、他にやることがあるような気がする。確かに皮肉な切り返しだけど、それが作品の何か大事な要素になっているとは思われない。
そもそもこの引きの画面もそうだけど、特に必要ないんじゃないと思われるところでの長々としたワンシーンワンカットにもかなりヘキエキするものを感じる。そもそも最初に120分という尺を見た時、この尺を見せ切るのは、実力がないと出来ないぞ……と思ったが案の定の冗長さでさ。

果子の妹となる赤ちゃんが、まるっきり人形使ってるってのが、これがまた興ざめで。これをジョークにするならいいんだけど、「ぐったりしてるのは、ウチの家系なのよ」と言い、動かない赤ちゃん人形をさも生きているかのように扱う芝居に、戸惑うしかないんである。
当然、顔は見事なまでに、見せない。カットバックすら、ない。え?これはホントに舞台手法?ジョークじゃなくて?人形じゃん!みたいなジョークじゃなくて??
……これなら、リアルにぐったりしている(てか大人しい)赤ちゃんを用意してくれた方が笑えるんですけど……。引きのワニと同じだなあ。ホント舞台くさい。

爆弾、というアイテムもちょっとね、そんな匂いがする。爆弾で世界を変える、と言い換えれば、更に古臭さも増す。
未来子が前科者となったのが、自作の爆弾でヤクザ事務所を吹っ飛ばしたから。その前に果子の父親の指も吹っ飛ばしているんだけど。

そのなくした指は、旅に出ている気がする、と未来子の“命日”に果子の父親は言う。演じるのが板尾さんだからそれなりに重厚感はあるが、ない指を見せるのが、明らかにただ中指と薬指を折り曲げてるだけ……フォー!!ってやるの?とツッコミたくなっちゃう、のは、ネラいなの?折り曲げてるだけやん!って言わせたいの?
……そうは思えないのよね、マジにしか見せないから、ツラい。うーむ、これは舞台ならアリなのかなぁ、いやイジワルじゃなしに、そう思っちゃう。

そう、爆弾。未来子は帰ってきてからも爆弾を作ろうとして、果子を誘うんである。そこは、かつて集落のあった場所。しゅうらく?と果子が聞き返すのも当然だよ。集落だなんて、古代歴史にしか出てこない言葉じゃん。何か、ピンと来ないのよね。
ナントカ君事件、というのが昔々、この地域を騒がせたが、誰一人その詳細を覚えていない。誘拐されて、で、犯人は捕まったのか、ナントカ君は殺されたのか、どこか遠いところに連れ去られたのか、誰も覚えていない。果子がその事件のことを知ろうと手近な人に聞くも、こんな有様である。

……こーゆー展開もかすかにイラッとする。あーだっけ、こーだっけ、あれは違う事件だっけ、と周囲をぐるぐるしてやり取りする感じがこれまたいかにも舞台くさく、……そう、舞台ではウケるのかもしれないけれど、それは板の上だからであって、生きている人間が生きている世界を模擬ながらも作り上げている映画の世界では、現代では、やっぱりムリがあるよ。
ネットで調べろ、とか思っちゃうもん。家にないなら図書館でもなんでも。そういうシーンは舞台では確かに難しいと思う。
こうして考えると舞台は台詞で展開していく世界であり、映画はシーンで展開していく世界なのだ。そこに人間がどう関わっていくか。実は人間ありきではないのだ。どちらも。

で、まぁ脱線したけど、そのナントカ君家族が住んでいて、誘拐事件があって、集落が失われた場所に、爆弾の原料、硝石を採りに行く。未来子はその事件に関わっていたのか、人さらいというのが現実にいたのか、よく判らないままで……。
未来子が突然帰ってきてから、それまで平穏だった果子の周囲は動き出した。未来子の妹は果子の母親にしては確かにちょっと若かったし、年の離れた妹が今産まれてくるというタイミングも、未来子の失踪のタイミングも、どんだけニブい子だってそりゃあ、未来子が自分の母親だろうと思ったに違いないさ。
だからその辺の、実は私がね……、あ、やっぱり、みたいなやり取りは、ウケないのよね。そういう、ウケるだろう、みたいに用意されているのがミエミエなところが結構あって、ツラいんだよなあ……。

カコとミキコってのは、未来子は字がまんまだし、果子はそのぶーたれ具合でタイトルロール、つまり過去は果子とのかぶりよね、というのが判ってしまう。未来子の字がまんま、というのは、見ている時には判んないんだけど、でも果子が過去、っていう図式なら当然、頭に浮かんじゃう。
カラキタミキさんという転校生が、ミライカラキタ転校生だった、という子供の頃読んだジュニア小説を思い出してしまう。というのも、未来子を連れてくる高良君が、彼はどこか異次元の匂いのする美青年だから、時をかける少女に出てくる一夫をダイレクトに想起させるもんだからさ。

ホント、未来人、って感じ!!だって、高い屋上に死神みたいにシルエットだけ見せて、ひらりと飛び降りたり、するんだもの!
未来子は失踪した時間の分、きちんと年を取って現れる訳だけど、でもやっぱり、未来から唐突に現れるような雰囲気はあるんだよなあ。それは、小泉今日子という存在自体が、そうなのかもしれない。

果子が未来子に傘をぶっ刺して殺しかけてしまって、えんえん泣きながら「私、犬のウンチを先に塗りたくっちゃったから」と告白し、それまで彼女をなだめていた未来子が「……なんでそんなことすんのよー!!」と絶叫。
大オチだろうし、そこそこ笑えるとも思ったが、それまでのネライ過ぎが頭に浮かんで、微妙に笑えず。
最初から果子の持っているビニール傘が、いかにも置きっぱなしの置き傘で妙にサビが浮いているのがリアルさなのかなんなのか気になっていたが、こーゆーところにつなげているの??……あまり意味はないような気もするけど。

姉の未来子に対して、私、勝ったよね、と妹は言い、姉はずっと勝ってるよ、と言う。これもあんまり好きじゃない。いい子に過ごし、姉が捨てた男を夫にし、家族を持ち、家族を支えた女が、勝ったことになるのなら。
そりゃ未来子はトンデモ女だが、でも結局夫は、未来子のことを忘れられなかった訳でさ。自由に生きていた訳でさ。勝ってない、決して勝ってない。哀れだよ。いつだってこうして女の価値は内向きにとらえられる。古き悪しき日本、って感じ!!

なんで?何それ?と言って通るのは、子供だけ。だから、おしゃまでイイ感じにブスっ子で、だから可愛いイトコのカナを演じる山田望叶ちゃんが一人気を吐いていて、とっても良かった。彼女を発見する価値は、ある。★☆☆☆☆


淵に立つ
2016年 119分 日本 カラー
監督:深田晃司 脚本:深田晃司
撮影:根岸憲一 音楽:小野川浩幸
出演:浅野忠信 筒井真理子 古舘寛治 太賀 篠川桃音 三浦貴大 真広佳奈

2016/10/16/日 劇場(有楽町スバル座)
「家族とは不条理です……」という監督のコメントから、ああ、これはやはり、家族ドラマとみるべきではないんだなあ、と思った。
ここだけ切り取るとかなり語弊があるけど、こと日本という国は確かに、家族という概念、いや単なる言葉に縛られすぎている。それ自体が世界中で一番大切な価値観とでも言いたげに振り回し、だからこそそれを持たなかったり特に重きを置かなかったりする人間を、必要以上に罵倒したりすらする。

でも確かにそうなのだ。最初の一歩は他人同士。それが生殖という“血のつながり”と言葉の魔法で置き換えられるものによって、単なる人間同士がそうじゃないかのようにされる。
考えてみれば不思議だ。時にクソみたいな親なら捨ててもいいし、逆にクソみたいな子供なら捨ててもいい。だってこの言葉の魔法は途端に“責任”という言葉にすり替わって私たちを責め立てる。

と、いう話という訳ではない。全然違う。むしろ、そんな単純な話だったらラクだったかもしれない。
苦しむのは家族であるということより、他人同士、いや、家族も含めた人間同士の信頼関係の話なのかもしれない。いやいやいや、そんな言葉もやっぱりちょっと、柔らかすぎる気がする。これは一体、なんなんだろう。

トップは浅野忠信だけれど、スリートップのように思う。むしろ浅野忠信はキーマンであり、狂言回しであり、姿を消してからの方が物語に重くのしかかる。こういう役は、役者冥利に尽きるということなのだと思う。
だから最初から最後まで苦しみぬくのは、夫婦という、それこそ不条理なつながりの二人。監督の絶対の信頼を受ける古舘寛治と、それまではピンと来なかった女優さんだったのが(ゴメン!)今回めちゃくちゃ圧倒されまくった筒井真理子。

古い金属加工工場を営む、利雄と妻の章江、そして小学校に通う一人娘の蛍。そこにふっと沸いて出たように現れた、八坂という男。夫は何も言わずに彼を短期間だからと雇い入れる。古い友達だとしか言わない。
八坂は穏やかな男で、最初章江は不振がるものの、娘の蛍がオルガンを教えてもらったりとなついてきたこともあって、次第に親しく口を利くようになる。

決定的だったのは、矢坂の告白。自分は人を殺めて服役していたんだと。間違った価値観にとらわれていたんだとまっすぐに告白する八坂に、クリスチャンである章江は、心を動かされてしまう。
何も言わなかった夫に「あの人こそ神の許しが必要なのに。私が嫌がるとでも思った?見くびらないでよ。」とまで言い放つ。利雄はやっぱり何も言わない……。

社員家族も交えたピクニックで、ふと八坂と章江は心を通わす。というか、章江の欲望を見つけ出されたというか。最初のキスは、アンテナがつながったような、甘やかなロマンティックさがあったが、もうそうなると、大人の男と女なんて、ということである。
章江の思うとおりの男だったら、そもそもそんなことなんてしないでしょ、ということに彼女が気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、それがすごく怖いし、なんたって浅野忠信なんだから、このままで済む筈はない。
夫がとにかく押し黙っているのだって、何か秘密があるからぐらい、容易に想像できるのだから。だから、だから、何かが起こるのを、怯えながら待っているような感じ。

だから八坂が、そのピクニックの最中、その穏やかな笑みは崩さずに、「おめぇは本当にちいせぇ男だな」と利雄に向かって叩きつけたのにも、それほどまでには驚かなかった。ああ、やっぱりそういうことなのか、と思った。
八坂はこんな場面にまで、白シャツに黒ズボン、革靴を履いている。出所後であり、とにかく真面目な態度を崩さず、被害者家族に丁寧な手紙を書いていたりすることもあって、そんな彼を許す気マンマンで章江なぞは見ているのだが、落ち着いて考えてみると、こんなカッチリとした武装は演技以外の何物でもない。なんて人間は簡単に騙されてしまうのか。

いや、勿論利雄はずっと緊張状態にあった。八坂が「服役していた時のクセで」みたいに敬語を使うのも、笑いながらもやめろよ、と言ったのは、彼が自分を恨んでいるのを……そんな優しげな言葉じゃ追いつかない、軽蔑、もっとか、汚れ物を見るような目で、クサしているのを、知っているからなのだ。
利雄はその殺人の共犯者だった。どういう事情だったのかは、最後まで明らかにされない。しかしそのことを言いださず、八坂も言わず、八坂だけが服役し、10年以上の月日が経った。その間利雄は結婚し、子供をもうけた。当然そんな事情を妻子には打ち明けてはいない。そんな彼のもとに、出所した八坂がやってきたのだ。

妻と子供がクリスチャンだというのが、殊更に言う訳じゃないんだけれど、やはり重くのしかかる。
食事の席で妻と娘は祈りを捧げる。いや、日常の延長線上のような感じで、特に重たい訳じゃないけれど、でも、それを待たずに利雄はもう食べ始めている。
八坂は妻子の日曜礼拝に付き添う。妻は八坂を、神に許されるべき人だという。……結果的には彼女は絶対にそうは思わなかっただろうが。共犯者という立場なら、利雄だって形だけでも神にすがったっておかしくなかったけれど、まるで何もなかったように淡々と人生を進めていた。

八坂は、自分が刑務所に入っている間に、女を作ってセックスして、子供を作って結婚して、何もなかったように暮らしている、ことにイラついていたようなことを言っていたけれど、実際は、許しを得ることさえ頭にも上らずに生きていたことがカンに触ったのか。
いやいや、そんなタマではない。確かに彼は、女とセックスも出来ずに、義理も守って黙秘したまま日々を過ごしていたのに、それをしれりと幸福を手にしていた利雄にイラッときていたのだ。いやでも、でもでも、そんな風に言うのも単純すぎるのか。

だって、怖いんだもの。浅野忠信だから。彼は最初からここに復讐しに来たのか、それとも来てみて、利雄のそんなズルさに触れてカチンときたからしてやったのか、判らない。
いや、人間なんて、そんな風にカチリと分けて感情や行動をコントロールできないことぐらいわかってる。でも浅野忠信だから……それまでの、白い作業着(作業着ですら、白なのだ!!)を脱ぎ捨てると真っ赤なTシャツで、これがまた全然似合わなくて、だって浅野忠信だから、これがドレッシーなカッコイイ赤いシャツとかなら違うのかもしれないけど、ただ赤いだけのTシャツ、それが怖くて。

奥さんとのラブアフェアも、結局は彼女の自制心が勝ってしまって最後まで行かなかった。それに苛立ったのか、最初からそのつもりだったのか、彼はなついていた娘を連れだした。
娘はオルガンの発表会のために、母親お手製の赤いドレスを着ていた。帰ってこない娘を心配することも出来ないほど、章江はぐったりとソファにくずおれていた。
夫が帰ってくる。妻はそんなだし、娘もいない。探しに出る。小さな公園。八坂の後ろ姿。倒れている娘。むき出しになった太もも、頭から流れ出ている血。

!!!

これは、これはどう判断したらいいの。当然とっさに思い浮かんだのは、この幼い女の子をレイプしたんじゃないかということだった。むき出しになった太ももは、それだけのことを充分示唆して余りあるものだった。
頭から出た血で、これは殺されたのかと思い、ブラックアウトしてからしばらく、生きていてくれ、生きていてくれさえすれば、と願い続けた。だから、彼女の姿がまだ登場しない段階で、とりあえず生きてる、とわかった時には、それこそ神に祈りたい気持ちだったのだけれど。

現れ出たのは、口もきけず、身体も動かせず、あいたままの口を閉じることさえできないままに成長した娘の蛍と、“ちょっと美人の奥さん”だったあの頃とは見る影もなく老け込み、身体もたるみきった章江。筒井真理子に心底ひれ伏した瞬間。
蛍の壮絶な現状と、疲れ切った章江の姿に、あの時死んだ方が良かったんじゃないかと、一瞬でも頭をよぎってしまった自分に本気で死ねと思い、そう思わせた監督を本気で殺したくもなった。

なんという残酷な、とも思い、でも、蛍は生きているし、何も言えないけれどその心の中で苦しみ続けた8年間だったのだ。バリア問題に対しても、深く切り込んでくる。どんな事情であったってバリアを持つ人にとって大事なのは、今と、これからの未来の筈。
そう、判っているのに。こんなことを思わせる監督を本気で憎み……そして、直面する。だから私は甘いのだと。

今でも夫婦は、というか夫は、八坂を探し続けている。もうやめたらと妻は言う。興信所の金づるになっているだけではないかと。
そこにやってくる爆弾。いや、一見爆弾には見えない、穏やかで人懐っこい青年。まるで、八坂のようだ……と思った訳ではなかった。決して。穏やかさは共通してても、その人懐っこさ、天性の好かれキャラは、やはり八坂とは違っていた。
だからこそすっかり娘命の潔癖症になっていた章江さえ、彼を受け入れ始めていたのに。八坂の息子だったなんて。

正直、この事実が明かされた時には、あれれれ、なんかメロドラマっぽいなあと思ったもんだが(だってあまりにも、出来すぎじゃない?)でもでも、こういう出来すぎな運命って、確かにあって、時に人間を試すのかもしれないと思う。
絵の上手い青年である山上君は、蛍をスケッチしたりする。イアリングをプレゼントしたりして、障害者であっても女の子、ということをさらりと受け止められる好青年である。
人は一人ひとり、オンリーワン。それは、家族や血に縛られた日本ではやはり、そうは簡単にいかないのだろう。……いかないのだろうか?

正直、章江の反応は凄く、予想範囲内、なんだよね。そしてこういう芝居は実に、役者の求められるところ、という感じもする。
ただただ静謐を守っていた夫に対して、事実が判ると激昂して、もうダメだと言って、見た目も八坂と関係を持っていた時のちょっとイイ女からすっかり後退して、スウェットパンツにパンパンの太ももとお尻、はみ出たお腹を無造作に隠したり、うっわ、ちょっと美人な女優さんでも、やっぱ女優さんやなー!!!と妙に感心したりさ。

それは凄かった、確かに。でもひょっとして一番凄かったのは、やっぱり古舘寛治だったのでは……と思ったりするのだ。
彼はずっと戦々恐々としていたに違いないのに。八坂が訪れるまでも、訪れてからも、去ってからも、ずっと。妻についに告白する時も。
「実は、蛍がああなってホッとしていた。」彼が抱え続けていた罪が娘が被る形になってそう思うなんてあんまりだけど、それを苦しげじゃなく、本当に、ホッとしたように淡々と語るというのが、正直すぎる怖さで、でも人間ってもしかしたらそういうことなのかもしれないと思って。

奥さんは当然それに対して激怒し、別れる、と言い放つんだけど、母親としての立場を強調して、あなたはそうじゃなかった、みたいなニュアンスで責め立てるんだけど、確かに寡黙な父親で、決してベッタリな感じではなかったけど、でも、……それも逃げで。
奥さんは娘も一人の人間、大人なんだから子ども扱いするなとかしきりに言うけど、誰よりもベッタリで、つまり免罪符で、罪悪感で、子ども扱いしまくっているのは誰より……奥さん、なんだよね。
そしてそれに対して娘は、否とも応とも……つまり彼女にとってどっちが正解と指し示すこともできない、なんて。

ラストの、欄干から川への母子飛び込みは、生死を明らかにしないラストといい、若干ネライな感もあるのだが。あの思わせぶりは、蛍ちゃんも山上君も生きていると思いたいけどねー。
水中でももがく蛍ちゃんが、その時だけ急に手足の自由を得て、それを父親が見ているシーン、ふと「オアシス」を思い出したりした。妄想チックなシーンだというのも妙に共通していた。
蛍ちゃんは心の中では普通の女の子で、心身自由の羽を広げているのだ。それがあの一瞬に集約されていたと思った。
彼女があの時本当はどんな目に遭って、そのためにこんな体になって、どんな気持ちで生きているのか分からなくても、彼女の心の中だけは誰にも触られない、自由の翼を持っているのだと。★★★★☆


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