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「う」


2017年鑑賞作品

海辺の生と死
2017年 155分 日本 カラー
監督:越川道夫 脚本:越川道夫
撮影:槇憲治 音楽:宇波拓
出演:満島ひかり 永山絢斗 井之脇海 秦瀬生良 蘇喜世司 川瀬陽太 津嘉山正種


2017/8/25/金 劇場(テアトル新宿)
戦争の匂いがするものはあまり好きじゃないのだけれど、満島ひかりと永山絢斗という、今を時めく実際の恋人の二人の出会いの映画であり、何かと気になる奄美大島という舞台、そして「アレノ」で瞠目させられた監督さんの新作となれば、うーん、足を運ぶしかないかなあという感じ。
島尾敏雄と島尾ミホの実際の出会いの物語、というのは全然頭に登らなかった。実は「死の棘」も観てないし。でもこの二人が主人公の物語ならば、どんなに彼が死を目前にしていても、死なないんだんね、と思って見ていると、ちょっとアレなんだけれど。

満島ひかりはいつか脱ぎそうな気はしていたが、なかなか思い切らない?ので、ちょっと失望しかけていた(というのもおかしいのだが)が、きっと、彼女自身のルーツが奄美大島にあるということもあって、これに女優人生を賭ける気持ちがあったのだろうと思われる。
その痛ましいほどに薄い胸の清冽な裸身(残念ながら上半身だけ……)を見せるのがセックスシーンではなく、これから死にゆく恋人を見送るために喪服を着る前に身を清める、しかも真夜中の外で、というのがなんとはなしに、彼女らしい気がするんである。そうか、満島ひかりは胸がこんなに薄いんだな……いやいや、そんなヤボなことを言ってはいけない(爆)。

二人の出会いは、ひそかに駐屯してきた軍隊の隊長さんと、島の代理教員としてである。ここは仮名であるから、隊長さんは朔、村の知恵者を父に持つ女性教員はトエとして登場する。
ここは奄美大島、神の国。島の生霊を追い払うおじさんとかが普通にいたりする。それはヘンな人ではなく、この島には当然必要な人として、存在しているんである。畏敬ですらない、尊敬でもない、それが普通、みたいな。

沖縄もそうだが、ちっとも聞き取れない外国語みたいな奄美の言葉は、まさに神に捧げる言葉、呪文……いや、そんなおどろおどろしいものじゃなく、音に乗って、リズムに乗って、神様に捧げる。それが生活そのもの。
島に伝わる時に童謡のような魅力のある島唄も、そんな感じ。沖縄よりも大和寄りな感じもあり、でも独自の雰囲気を持っている、奄美の、その中の加計呂麻島、いや、劇中では架空の島、カゲロウ島として描かれる。

なぜ、架空にしたのだろう。二人の実際の、運命の出会いを、恐らく克明に刻んだに違いないのに。でもだからこそ何か……神様やそれ以上、それ同等の無数の存在を、感じ取ることが出来るのかもしれないと思う。
この恋は、映画として作られた中ではここだけのもので、この前もこの先もない。島尾敏雄と島尾ミホという実際の夫婦のその先は、ここでは関係ないのだ。

そもそも、軍隊は、そりゃあ穏やかな生活を送っている住人たちにとっては異質の存在であり、歓迎しがたいものであり。
実際、後々隊長さんだけは子供たちにも村民にも慕われるけれども、それ以外の軍人たち……特に川瀬陽太氏に象徴される、ザ・軍人たちは受け入れられている様子は全く、ないんである。てゆーか、隊長さんと、彼の忠実な部下である、もういっかにも青臭い純朴そうな青年、隊長さんに心酔しているのが丸わかりの、大坪だけである。

大坪は何度となくトエの家に隊長さんの手紙を携えてやってくる。伝令係ではあるが……それにしたってパシリっつーか、あんまりにもヤボな役どころである。
しかし彼は「隊長さんもトエさんも好きだから」と言って嬉々としてその役目を果たし、二人が悲劇の運命をたどりそうになると本気で心を痛め、忠実な伝令係の役目を超えて、二人を結び付けようとする。こんな忠犬ハチ公みたいな男の子、いるかっ!てなもんである。

そう、隊長さんと最初に子供たちと共にトエが遭遇した時には、決していい印象な訳じゃなかったんだよね。近くて便利な通学路を軍隊によって封鎖され、何時間もかかる迂回路を余儀なくされて、子供たちは不満たらたら。
軍人たちにとっては、特攻隊としてひそかに命をもってこの地に来ている、その必要な通路ということなのだろうが、そんなことを明かす訳にも行かないし。

子供たち、いや村民たちにとって、軍人さんは畏怖する存在だが、相容れない。トエの家で酒宴が設けられるシーンがあるが、勇ましい軍歌から顔を背けてトエが庭に出る、その表情にすべてが物語られてる。
でも隊長さんは、その軍歌を一緒に歌ったりしないんである。庭で二人は遭遇する。「私は、島の唄を覚えたいな」それ以前にも、兵隊の教育のためにという名目で、実際は自分が読むためであろう、トエの家に本を借りに来ていた朔とトエが心を通わせるのに、時間はかからなかった。

それでも、まずキッカケは必要で、やっぱりあの頃の日本人だから、なかなか近づくパンチが来なくて、どうなるんだろうと思っていたら、いきなり朔が彼女を真夜中の焼き塩小屋に呼び出した。
おおー!意外に大胆な手を使う!!と思ったら、人の目を気にして迂回しまくったトエは、約束の時間までつけなかった。海に入ってまで、人の目から隠れるか!!という、まるでロミジュリのような、なんつーか、障害を自分から作っているような燃え上がりようである(爆)。

姿が見えない朔に失望し、トエは来ました、確かに来ました……とウラミの呪文のように唱える彼女がコワイ(爆)。
この焼き塩小屋は、彼らの逢瀬の場所となり、運命を決定づける場所となる。最初に彼女を誘いにかけたのは朔なのに、その後はトエの方が燃えるような恋心を抑えきれずに彼を圧倒し続ける、そんな感じ。

それには、彼女の側にこそ、障害を感じる気持ちがあったからだろう。いわば朔はよそ者、あの生霊退散のおじさんも、トエは島の子だから守るけれども、島の外のものと縁を結んじゃいけないよ、とやわらかな歌声のようなリズムに乗せて説く。
柔らかで、優しそうに響くけれど、それは厳然たる掟のようにしか聞こえない。よそ者と縁を結んじゃいけないよ。よそ者は裏切る、この島のものでしか、いけない。信用など、してはいけない。そう言ってる気がして。

実際、そうなんだろう。朔は村人に慕われていたけれど、それはあくまで、よそ者としてなんだもの。信用できない兵隊さんの中でも、隊長さんだけは違う、そのギャップが大きく作用していたからに、違いないんだもの。
そして朔は迫りくる死の影と、それに怯える隊員たち、リーダーシップをとるという立場には向かない自分、ということに大いに苦悩していくことになる。
もう僕たちは会わない方がいいと言い渡してから、うつ状態のように引きこもりがちになっていると、彼に心酔している大坪青年がトエに知らせにきたり、するんである。

朔は大学で東洋史を学び、知恵者であるトエの父親に話を聞きたがったりする。そこで、海軍に志願した本意や、東アジアに身をひそめてしまいたいといった赤裸々な気持ちを彼やトエに告白するんである。
こうした気持ちは、当時としては非国民どころか、狂人と言われても仕方ないぐらいの考えであり、でも現代に即して言えば、こんな狂気の中で苦悩したんだね、可哀相に、みたいな捉え方で映画にもなっちゃうんだろうけれど……まあ、それじゃ正直、甘いのかな、という気もするのだ。結果論なんだもの、そんなことは。

本当に苦しかったのは、信じるべき信念もないまま、川瀬氏のように軍人たることこそが正しいと信じるしか道がなかった大多数の人間たちなんだもの。狂気に巻き込まれるしか道がなかった人たちこそ、なんだもの。
こんな風に、自分の信念が正しかったにせよ、時代に跳ね返されてしまって苦悩する人間たちなんてのをいくら描いても……共感を得られるだけでは、戦争のなんたるかは見えてこない。現代に描かれる戦争映画で、そういう危惧を感じることが、往々にしてあるんである。

だって結局、朔は死に損ねた(という言い方もアレだが)んだもんねー。しかしこのシークエンスはまさに、クライマックス。朔が出撃に向かうということを、悲壮な覚悟で知らせに来る大坪青年。それ以前に自分の運命を覚悟した朔は、彼女ともう会わない覚悟を決めてふさぎ込んでいたという。
大坪に急ぎ手紙を持たせ、トエは母の形見の喪服を用意する。庭先で上半身裸になって身を清める。

ある日語られていたエピソード、彼女が父子家庭なのがどうしてなのか気になっていたが、母親は海で死んだという。突然の心臓発作で。見つけられた時、海の中で立った状態で浮かんでいたという。
トエは朔に、きっとあなたは私の母が助けてくれる、と言った。言い募った。泣きながら、泣きじゃくりながら言い募る彼女が、それを本当に信じている訳はないと、思った。

朔の出撃前最後に会うシーンは、それまでもかなーりその傾向はあったけれども、ひどく長い長い、長回しである。私は正直、長回し、キライである(爆)。最初は二人の切ない最後の別れを、それを押し隠しながらという胸に迫るものを感じたのだが、最後の方になると長回しを成立させるためといった冗長感を正直覚えてしまって、辛くなる。トエ、お前しつけーよ!!とか言いたくなるんである(爆)。
感情の爆発は必要だけれど、映画は編集してナンボ、気持ちが切なく高まるところでイイ感じに切り替えてほしいんだよなあ。凄く重要な場面だったから余計に……。

トエは、彼の出撃を見送って、自分も自害するつもりだった。だから喪服を着て来たし、短刀も携えて来たのだ。しかし朝になっても出撃する様子はうかがえなかった。トエは他の不安を抱えてその場を飛び出す。
彼女の脳裏、だろうな、あの場面は、皆が集団自決する様子が映され、あれ、ちょっとまった、そーゆーのやめてよ!!とか思ったら、トエが裾もあらわに走り出した先に可愛い教え子が現れて、赤ちゃんが生まれたよ、先生、抱いてって、と言う。

生まれたての可愛い赤ちゃんを抱いて、そして家に帰ると、妄想の中で手榴弾のピンを抜いていた筈の父親がのんびりと縁側でうちわを使っている。父親は、トエが隊長さんを思って死ぬのではないかと心配していた。「親より早く死ぬな」と島唄に乗せて娘を案じていた。
きっと心中、姿を消した娘を心配していたに違いないのに、乱れた姿で帰ってきた娘に、穏やかにお帰り、と言い、朝食の準備をするね、という娘に鷹揚にうなづいて、何を責め立てることもない。
奄美で生きてきた男を体現する津嘉山氏が、素晴らしすぎて泣きそうになる。私は彼の声が大好きで、ラジオのナビゲーターの声が好きすぎて、失望したくないから姿を見たくないとずっと思っていた。失礼だよねー、すみません。本当に素敵な人。

あの長回しのシーン後は、朔とトエが会う場面は描かれない。結局そのまま終戦を迎え、東京の大空襲や、広島に落とされた新型爆弾の話はされるけれど、危機感はうっすらとしめされるものの、この島は平穏なままなのだ。
そりゃまあ、敵機が襲来したり、学校の窓がバリバリ割れたりはするけれども、……こんなことを言っちゃアレだけれど、戦争に苦しめられるという描写としてはこの地は甘くて、だからそういうことじゃないっていうか……。

戦争の情報やなんかが、確かに怖いんだけれど、どこか遠い世界のように語られるままに、終戦を迎える、といった、独特の世界観、なんだよね。確かに愛する人が死ぬかもしれない、という一夜を迎えるけれど、そのまま何事もなく終戦を迎える。この地は祈りをささげたことで守られたみたいな、何か隔絶された感がある。
戦争を絡める映画は難しいと思う。それをダイレクトに描くんだったら簡単、それから離れると……意味があるのかとか思われちゃう。そもそも戦争映画は嫌いだし。

美しく脱いでくれたひかり嬢は素敵だった。あの裸には意味があった。でもそんな意味に固執しないでほしいけどねー。★★★☆☆


海辺のリア
2017年 105分 日本 カラー
監督:小林政広 脚本:小林政広
撮影:古屋幸一 音楽:佐久間順平
出演:仲代達矢 黒木華 原田美枝子 小林薫 阿部寛

2017/6/4/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
これは、リア王が誰もが知ってる物語であるという前提があっての物語なのね。そりゃそうか、タイトルからそれ位判る。しかしこれほど超有名で、誰もが知ってるとされてる物語でも、外国文学と演劇にそれほど興味のない私のようなバカは知らないのだ。
ああ後悔。タイトルからそれ位予測できたんだから、予習してから臨めばよかったと思ってももう遅い。物語の中盤からすっかりリア王になり切った主人公、桑畑兆吉が独り舞台よろしく長台詞を延々と聞かせ始める時にようやくしまったと思った(爆)。
仲代達矢先生のひとり舞台を見ることが出来るような贅沢ではあると思ったけど、いかんせんリア王を知らないもんだから、その台詞に感銘を受けることが出来ないていたらく(落)。ああ、私のようなバカはこうした気概のある映画を観る資格ナシ!!

……と若干落ち込みつつも、そこはもうリア王のことは忘れて、一つの映画として対峙するしかない。とか言って小心者だからきっとちょいちょい気になるに決まってるんだけど(爆)。
そう、後追いで物語をチェックした時に気になったのは、阿部寛扮する娘婿であり、兆吉の弟子でもある行男はどちらの立場だったのかなあ、ということ。冷酷な妻の言うなりになるしかないように見えて、その妻の腹違いの妹、伸子からはグル呼ばわりされる、つまりは兆吉に財産分与の遺言を書かせて老人ホームに追いやった共犯者、のように見えている。つまりその時点では、リア王における娘姉妹のうちの一人のように見える。

しかし中盤では師匠への愛を取り戻し、妻と別れても彼を救いたいと願う。つまりリアの忠臣、ケント伯だったのか実は、とも思われるが結局は妻の甘言に負けて師匠を売り渡してしまう。……さてどっち??
いや、だから、リア王を下敷きにしていてもリア王じゃないんだから、こういうところが面白いんだろう。でも黒木華嬢演じる伸子は間違いなくコーディリア。だいぶガラッパチなコーディリアだけど。

……結局リア王のことが気になって進まないじゃない。でも本作はね、とにかく画の魅力に尽きると思う。タイトル通り、海辺のリア。まるで舞台のように、ひたすら海岸だけで物語が進む。
認知症が進んでいるかつての大スター、桑畑兆吉は、ある日老人ホームを抜け出した。抜け出したはいいが、自分がどこから来て、どこへ向かっているのか、途中からすっぽり抜け落ちてしまった。娘や娘婿に会っても誰だか判らない。高そうなシルクのパジャマの上に分厚い冬のロングコートを羽織って、タオル一枚だけが入ったキャリーバッグを引きずって歩く。長いトンネルを抜けたら、靴もスカーフ(マフラー?)も脱ぎ捨てて、裸足で猛然と歩く。

その先は、日本唯一の砂浜が車を走れることで名高い千里浜なぎさドライブウェイである。つまりここは石川県。途中、長女の由紀子(原田美枝子)が、お父さんが死んでくれれば、こんな家なんて売っちゃって、都会の生活に戻れるかもしれない、などとヒドいことを言う。
どういう事情でこの地に住み、父親を老人ホームに放り込んだのか、特に明確にはされないけれども、往年の大スターであった兆吉はもう20年も前に役者を引退している。ちょっと早いよな、と思う。仲代氏自身がかなり投影されているキャラ設定だから、20年前の引退だったら60代だ。早い、早すぎる。
後に狂気の中にも本音を吐露しだす兆吉が、自分は舞台をやりたかったのに、映像の仕事ばかりをとってくる、愚痴り出すのが、ヤハリ映像の仕事の方が実入りがいいということなのかなあ、と、なんか役者セキララねと思ったりする。

仲代氏は間違いなく映画スターだけれど、後進を育成して舞台に立たせたり、間違いなく舞台の人でもある。そう……兆吉の設定に、後進育成の俳優養成所の主宰、という、もうまんま仲代氏だろ、というものが含まれていてさ、なんかドキッとしちゃうんだよね。
勿論仲代氏は今も現役バリバリ、ボケてなんかいないさ。でも、かつての名優、往年のスターということは、現代の芸能事情においては何の役にも立たない。まるでそれを皮肉るかのように、突き出たお腹を隠そうともせず、海辺を右往左往する仲代氏が、凄い、ああ凄い、と思って……。

海辺を一心不乱に歩いている兆吉に最初に遭遇するのは、コーディリア、じゃなくて、次女の伸子である。演じるのは黒木華嬢。これは小林演出マジック(というのとは違う気もするが……)なのだろうか、これまで見たことのない黒木華、言ってしまえば、泥臭いというか、わざとらしいというか(爆)、舞台くさいというか(爆爆)、ああ、なんか、小林監督だわーって感じ(爆)。
しっかしいくら近場まで父親を捜しに来ていたからって、あんな偶然に行き合うかね。しかもちっとも驚かない。そーゆー「え??お父さん??」みたいなベタさが監督さんはきっと、嫌いなのだろー。
でも独特の話術というか……リア王が下敷きになっているせいなのか、この最初から二人のやり取りが妙に舞台くさく思っきしな感じなのが何とも気になったりする。……すみません、ちょっとね、舞台アレルギーがあるのよ、映画ファンはね(爆)。

現金を使ったことがないぐらいのスター。お金は長女が管理している……と言うのは、つまり監獄に入れられているのも同じ。自分の娘だということも全然認識できずに、買ってきてもらった弁当を無邪気な子供みたいな表情で嬉しげに食べる兆吉=仲代達矢に衝撃を受ける。
この時点で娘婿の行男も合流していて、この処置をどうしたもんかと悩んでいる。妻の由紀子は野垂れ死にしてくれればいいと言い募り、自分が不倫していることを隠そうともしない。

そこに現れたのが、由紀子と兆吉に追い出されたという腹違いの娘、伸子。「私も、お母さんと同じことをしただけなのに」という彼女は、認知されないまま子供を産み、それが兆吉の逆鱗に触れて、家を追われた。
いやそこには恐らく、彼女の存在を忌み嫌う由紀子の思惑の方が強く絡んでいただろう。その後、経済力のない伸子は相手の家族に“認知してやるから”と子供を奪われる。経済力がないからお前には親の資格はないのだと言われて。
すべての人に見捨てられて、歯を食いしばって愛しい子供とともに頑張って生きてきた伸子は、打ちのめされる。つまりね、伸子がこの場所にいるのは……「もう、死んだって、いいと思わない??」憎悪と愛情が濃厚にまぜまぜされてる父親と一緒に死ぬつもりだった、ということ、だろう。

出会った(という言い方もおかしいが。親子なんだから)最初から、「まるで女子じゃないな、ヒドイカッコだ」とからかうように伸子に言う兆吉。それはつまり、どんなに男の子みたいなカッコしてても女の子だと認識して、そんな軽口を叩くってことは……娘だということは忘れているのに、でもやっぱり娘に対する軽口のように思えて仕方ないのだ。
兆吉がヒドい目にあわされた長女の由紀子のことを、長年連れ添って先立たれた奥さんと混同して、長女こそが自分を大切にしてくれた、自分は女房は持たなかった、と頑として主張するのが、なんとも言えないのだ。哀しいような……決して嬉しくはない。なんだろう……。

結局は血のつながりが大事なのか、でも大事に思っている思い出は、間違いなく奥さんとのもの。でもそれを、あんなに冷酷にされた娘を、血のつながりですり替えさせて、奥さんの思い出が娘の名前とそれに置き換わってしまう。やりきれない。
伸子も当然そう思うからこそ、なんどもなんども、兆吉にただす。それはあなたの奥さんだよ、と。父親の奥さんだけれど、自分のお母さんではない、のだけれど……。
兆吉の奥さんが伸子にとってどういう存在だったのかまでは、明確にされなかった、よね??伸子の母親は、産んですぐに彼女を捨てた。でもそれだってどういう状況だったのか……。

ちょっとね、いろいろ気になる部分はあるのだ。こうした、厳しい状況に置かれた未婚の母に対する冷たい視線、施設に入れた=親を捨てたという図式にしてしまうこと。
……勿論この作品に置いての、特に後者に関しては、明らかにドロドロなものが提示されているにしても、でもね、やっぱりね、どんな状況になっても家族が面倒を見るべき、っていう根強く残る日本の因習ね。それでボロボロになって、子殺し親殺しが起こったら当事者を責めるという身勝手さね。
ああ、ここでそれを言うのは違う、違うとは思うのだが、結構記号的というか……明確な芝居で押してくるから、ふっとそんなことも言いたくなっちゃうの。

原田美枝子はちょっと笑っちゃうぐらいの鬼娘である。夫の目に触れるのもかまわず、恋人(サングラスの謎の男って風貌がクサい(笑))をうろちょろさせるのが、見ていてなんかハズかしいというか、ゾワゾワする(爆)。
ただ、父親の方も、負けてはいなかった、と思う。一度はしおらしく娘の言うことを聞きます、思い出の中で生きようと思います、とかいう態度を見せて、娘、してやったり、恋人から悪党と言われても、悪党よね、とすがすがしいばかりの笑顔を見せる。
でもその直後、兆吉は、あっさりとそれをひるがえし、思い出の中に生きる?皆が自分を思い出してくれればそれでいいんだ、と、これ以上ないぐらいスターさんな傲慢なことを言って、また海辺に戻ってくるのだ。

してやったり!いや……もう、そこを、死に場所と決めたのかと。だってその前に伸子が、靴を脱いでしずしずと海の中へ入っていくのだもの。そしてそれに、誰も気づかないのだもの!!
……誰も、気づかずに、死んでしまうのかと思った。そして兆吉も。この時にはもう、長女ではなく奥さんでもなく、本当に自分のことを、罵倒しながらもだからこそ隠しようのない愛情をぶつけてきた末娘、コーディリアを思い続けた。

舞台そのままの長台詞についていけなくなってどうしようと思った頃に、海の中にバッタリ、やべ、死んでしまうと思ったら、海の中に歩んで行ってどうなったかしらと思っていた伸子が、憎んでいた筈の父親を助け起こした。華奢な身体で、大男の老人に肩を貸し、ずぶぬれになって、海を這い出た。
海辺のリアは、実際のリア王では死んでしまったはずのコーディリアに助けられて、そして自身も、生きていくのだ。

先述したけど、阿部寛扮する娘婿の立ち位置がイマイチ判然としない。後半、妻に歯向かうものの結局は丸め込まれて、師匠愛から転落する振り幅を、電話の向こうの妻との会話の、つまりは一人芝居だけで見せ切ってしまうのだが、それを見せ切るのはなかなかにツラい。
芝居臭いし(……私はどんだけ、芝居アレルギーなのだ……)一度は師匠愛に戻ってくる描写を妻にたたきつける電話の会話だけで済ませて、そのすぐ後にあっさり丸め込まれちゃうのも電話の会話だけで、しかもそれがすべて、彼だけの一人芝居、な訳でしょ??阿部氏の芝居にケチをつける訳ではないが、これはさすがに難しかったんじゃないかなあ。★★☆☆☆


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