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「あ」


2015年鑑賞作品

愛の小さな歴史
2014年 81分 日本 カラー
監督:中川龍太郎 脚本:中川龍太郎
撮影:今野康裕 音楽:都築大地
出演:中村映里子 沖渡崇史 中村朝佳 高橋愛実 池澤あやか 小林竜樹 三品優里子 池松壮亮 光石研 藤村駿 朝戸佑飛 広井龍太郎 鈴木太一 榊林乃愛 大塚ニコル


2015/5/17/日 劇場(ユーロスペース/モーニング)
いやっ……正直これはナイなぁ、と思っちゃった。
センシティブなタイトルからかなりの期待を抱かせたが、説明過多でちょいと、いやすんごくクサすぎる台詞のオンパレードで、なんかもう恥ずかしくて聞いていられない、というのが正直な感想。なんか頭のいい文学部が陥りそうな、と思ったら、ホントに頭のいい文学部だった(爆)。ホントに評価されてるの?ホントに??(爆爆)

台詞ってさ……やっぱり文学上で聞かせる言葉とはやっぱりやっぱり、違うと思う。例えば素敵なベストセラー小説でも、それが役者の肉体を通して声として発せられると、文字に書かれた言葉とは違ったものになる。
それこそが役者の見せどころといえばそうなのかもしれないけど、オリジナル脚本なら、そのあたりの按配はしてほしいと思う。

めっちゃ、説明するんだもん。自分の家庭の苦しかった境遇を。聞いてもいないのに、凄く詳細に。地の分がある文学とは違うから、そのあたりの見せ方は確かに難しいとは思うけど、それをまんま台詞でやっちゃいけないと思う、というのは私の個人的な考え。
しかも理解に苦しむ理不尽なまでの感情爆発で、これは役者の熱演を見せるっていう意図なのだろうか……何かこの、説明的わざとらしさをかわすために熱演させてるような気もしてしまう。

映像は紗を賭けたような独特の風合いの美しさで、映像作家としての才覚は感じるんだけど、それでも冒頭、かなりのイメージショットの羅列……水面を鳥がはばたいていくとか、雲が電車の窓からどんどん行き過ぎていくとか……が多くって、あれれ、ちょっと映像ナルシストかもしれん、と思った。
これに詩的(……というか……やっぱりクサいと思うのだが……)台詞がこれでもかと積み重ねられると、うぅっ、勘弁してくれ、という気持ちになってしまう。

この監督さんは初見で、本作の上映前に次回作の予告編も流れたのだが、その時点で同じ印象を抱いたんだよね。二人の男子の、一見現実の厳しさを良く知っているようで、その実ふわふわとした甘い未来を語る台詞の青臭さ、というか古臭さ、というか陳腐さにもだえ(言いたい放題……)、あれ見てみろよ、と指さすのがまさかの夕陽(朝日?)の美しさ。
うっそ、こんなこと今時やるの、と思ったら本作の印象もまんまこんな感じだった。映像の美しさと作劇の陳腐さのギャップに苦しみぬいてしまう。

言い過ぎかなあ、言い過ぎかもしれない。でも、これは、ここは、私的感想文の場なので勘弁してください。
冒頭とラストに出てくる少女のエピソード、ね、そもそも私はこの構成がキライなの(爆)。
一時期ハヤリのようにあった、最初に出てくる時間軸が、次に出てくる時間軸とつながってそうに見せてつながってない。あれ、あの最初のは何だったのと思ってると、ラストになって最初の時間軸が現れて、実はメインの物語は私とこうつながっているんです、みたいな、若手クリエイターが自慢げに使いがちな手法を久しぶりに見た(爆。うーむ、どうもイジワルな書き方になってしまう……)。

そもそもこの、友人を亡くした少女が、いくら特別な親友だからって自殺までしようと思うまでの切実さはとてもここで描き切れるものではないし、その彼女を止めて、自分が兄を亡くしたエピソードを話して聞かせる男の子に「あなたは優しい人なんだろう。でもあなたのお兄さんを私は知らないし、私とは関係ない。私の心には響かない」という少女の台詞には、うっわうわ、なんかイイ台詞っぽいのになんでこんなにクサく聞こえるのっ。
この感覚は上手く説明できない。こうして文字として書き連ねてみると、それなりにセンシティブに素敵な台詞に思えもする。なのに役者の言葉として発せられるとなんでこんなに陳腐に思えるんだろう……。

これは決して役者自身の問題とか、演出の問題ではないと思う。いや、演出の問題はちょっとあるかもしれない(爆)。なんだろう、なんかね、ここまで丁寧に言うことないと思うんだよ。私には関係ないことだということを、こんな筋道立てて言うことない。
そこまで言わないよ、人間って。そんなに親切じゃないよ。そしてそこまで言わせなくても感じさせる台詞こそが、本当のセンシティブということなんだと思う。つまりはこの感覚が全編に満ち満ちていて、どうにも耐えられないのよ……。

この少女の両親の物語だった、ということが、最後に再び登場する現在の時間軸の少女の姿で判ることになる。しかし、自殺まで考えるほどに思い詰めていた娘に「お父さんとお母さんの若い頃です」なんつー、ただのデート映像のDVDをプレゼントして、なぜそれが娘の心を溶かすのか、まったく判らない(爆)。
つまりは本作は娘の時間軸と、その両親の時間軸とで示されるボーイ・ミーツ・ガールの物語。なぜだか全く他人の、話したこともない少女の様子を心配して屋上までつけていって飛び降りる直前に止めに入る青年、などとゆー、ストーカーと切って捨てるにも、少女漫画の甘やかさと持ち上げるにもあまりにもあまりな、娘と青年の出会い。

ラストに時間軸が戻って、お互いの名前を聞き合うという、しかも川のこちらと向こうから声を掛け合って歩み寄るという、もう顔が赤くなるどころじゃない、胃がもたれるような糖度加減。
青年が飛び降りそうになった少女に「哀しいことがあったんだね」と聞いた時にも悶絶したが、その台詞を少女が青年に返して物語が終わることに、悶絶どころか気を失って倒れそうになった(爆)。

で、まあ、ボーイ・ミーツ・ガールはこの少女の両親の話にさかのぼり、パパとママの、それぞれの壮絶な人生が描かれるのがメインなんである。
母親である夏希は幼い頃、父親に暴力を受けた。母親も受けた。そしてその心労で母親は若くして死んでしまった。その憎しみだけをエネルギーにして彼女は生きている。
そして父親である夏生。若い頃に家を飛び出し、高利貸しの取り立てを生業にしている、いわゆるチンピラ。年老いた祖父を押し付けて出て行ってしまった、その妹をふと思い出す。

そしてこの夏希と夏生(リンクさせるこのネーミングも妙にサムい)は、まるで運命の相手のようにすれ違う。まあ、運命の相手だったんだろうな。ついには出会って、結婚し、あの少女が生まれたのだから。
でも、このわっかりやすいすれ違い方が、ああこれは、後に二人はボーイ・ミーツ・ガールよろしく出会うんだろうな、と思わせ、そしてそれが、予想以上にクサドラマチックに展開されたのであった……。

夏希は父を、夏生は妹を訪ねあて、強引に一緒の生活をスタートさせる。夏希は、一緒に暮らすことが何よりの復讐だと言い、夏生は久しぶりに訪ねた妹がクスリ漬けになっていることに茫然として、立ち直らせてやりたいと思ったから(多分)。
(多分)などと言っちゃったのは、彼のその思い立ちがあまりに唐突だったから。後輩から「妹さん、いるんスよね。可愛いッスか」と言われて突然思い出し、そこから急激にそれまでの冷酷な取り立て人の顔さえも180度変わってしまうという豹変っぷり。

だってここまで肩で風切ってる風情だったってことは、この非情な取り立て稼業が板についていたってことでしょ。その冷酷さに後輩が思わずまあまあと間に入るぐらいだった。
なのに妹のことを思い出してからは、取り立てした相手が自殺したらショックを受けて土下座し、取り立てしていたおばあさんに孫娘が優しく欲しいものを聞いているのを立ち聞き(立ち聞きて……)し、それをそっと店先において帰る(サンタか!)という、もう身の置き所がなくなるような甘々ぶり。

説明がつかないよ、こんなの。彼の中の葛藤が全然ないまま、すぱーんと妹ラブに切り替わって、それから後は、もう妹のためだけに生きてる!みたいなさ。
取り立てもやってないでしょ。それで生計立ててたくせに、何やってんの。感じとしては彼が経営者みたいな感じにも見えたのにさ。
ドラッグパーティーから妹を連れだすために無様なダンスを踊ったり、なんか半世紀前の熱血ドラマを見ているみたいな気恥ずかしさ。

で、夏希である。池松壮亮なんつーゴーカなサブを迎えて、彼によってにっくき父親がアル中でクサっていることを知るんである。
この池松君が訪ねてきたシーンで、先述した、めっちゃ説明してる、激怒しながらめっちゃ説明している、という、聞いてるこっちがモゾモゾする場面がまず現れる。

これを見てよ!と、幼い頃にタバコを押し付けられた跡を見せるために、シャツのボタンをバッと飛ばす、それをわざわざ背中を向けて見せ、池松君が「前隠せよ……」と言うぐらいだからあらわなブラジャー姿かと思いきや、しっかりインナー着てるというガックリも、私的には結構許せない(爆)。それならわざわざ背中見せるなよと思い、たばこ跡ぐらい作って、下着姿でドキッとさせろよ、と思う。
台詞といい、こういう描写といい、なんか甘いと思っちゃう。女には言葉にも身体にも武器がある。それを使わずして何のための映画だよと思っちゃう。

夏希が「一緒に暮らすのが最大の復讐」と言うのはね、判る気はしたのだ。自分を死ぬほど憎んでいる相手。でも肉親という、逃げられない相手。散々罵倒して、その復讐を果たしたとも思えた夏希。
でも池松君演じる、この父親を慕うかつての部下に対して「憎んでないから、キツいんだよ」と缶ビールの勢いで吐露する。この台詞にも思わず、うわっと思う。これってさ……実際にそういう境遇であった子供が本当にそう言うだろうかと思う。いや、もしかして監督自身がそういう経験があったり、そういう知人から話を聞いていたりしていたら、ゴメン(爆)。

それこそ、幸福な立場からの勝手な推測に過ぎないかもしれない。でも、親を本当に憎む権利だって、子供にはあると思う。
日本では特に、どんな親だって子供は大好きなんだからと、そんな浪花節的論理で、だから親は子供を愛さなくちゃ、みたいな、現実を甘く見た理想論が横行しがちだけど、本当に憎んでいるのなら、憎むに値する親ならそれでいいと思うし、憎むなんていう、確かに愛情の裏返しのような強い感情さえも、投げ捨てることが時には正解だと思う。

そういう気持ちがずっとふつふつとあったから、この父親の死に夏希が、それまでの舞台女優みたいな激烈感情芝居にも引き気味だったけど、死に際しての号泣には本気でドン引きしてしまった。
いや、作り手側の気持ちは判る、気もする。なんとなく歩み寄るような描写はなくもない。一緒に動物園に行ったり、「初めて自分の似顔絵を描いてくれた」というクレヨン画を池松君から渡されたりさ。

……そうだ、このクレヨン画のくだりでも、かなりのゾゾ気を感じたんであった。凄く、古臭くない?このエピソード……昭和なドラマの一ページって感じ。少なくともウチでは両親の似顔絵なんか一個も残ってないよ。描いた覚えもないし。肩叩き券は作ったけど、それもないよ(爆)。
タバコの火を押し付けた父親が、娘が描いた似顔絵をとっておいているという結びつきが、なされているとは思えない。それこそ逆に、”どんな親も子供が大好き”という、根拠皆無の甘やかしにしか聞こえない。

夏希も夏生も霊安室で泣きじゃくり、夏希は医者に痛ましい目で見守られ、夏生はドラッグパーティーで横柄な態度をとったワカモンに食って掛かる。
そうそう、このワカモン、パーティーで夏生に踊らせた男。いかにも軽薄な男のくせに、この段に至って、「あいつがどんなことを思ってたか、知ってるのかよ!」おいおいおいおい、そんな、悩みを分かち合ってる風も全然見せなかったくせに、霊安室でなら同志を気取ってOKなのかよ!
……いや、これはこの男に対しての苛立ちじゃなくて、それを成立させようとする……兄こそが妹を判ってなかったんだという結論に、この台詞一発でさせようとする、あまりの浅はかさだよ。

そして二人とも世界が終わるほどの激情的、いや劇場的かな、な号泣のまま家に帰り、二人ともに窓の外に亡き人の幻を見て、慌てて階段を駆け下り、そしていない、と判って、そしてふと振り返る。
うう、まさかとは思ったが、ホントにコレでの出会いなのか……。ボーイ・ミーツ・ガールは映画の基本だが、基本なだけにナメてもらっちゃ困るのよ。これが運命と思えるほどの描写は、よほどの細心の描写と演出をもってしなければなしえない。だって、映画の最大のテーマ、永遠のテーマ、ボーイ・ミーツ・ガール、なんだよ!!

夏希が淡い恋の予感を感じる、弁当の配達先のピアニストのキザさも、個人的にはかなり我慢ならなかった(爆)。
ミニコンサートで、弾き終わった後に、貴族みたいに胸に手を当ててお辞儀をする様にゾワゾワ鳥肌が立つ(爆)。これがギャグというか、ちょっとしたウケ狙いだと思えたら良かったが、そもそも弁当を配達した夏希に、外に漏れていた自分の演奏を「どうでした?」と聴く厚顔無恥さからしてそうとは思えず、それを夏希が気づいてそうで気づいてない(だって誘われたコンサートにしっかり行っちゃうんだもん)てあたりがね……。

そしてこのピアニストが弾いていたラフマニノフのドラマチックな曲が、後半は鳴り響きっぱなし、もううるさいうるさい(爆)。台詞だけでもクサいのに、音楽まで加勢するとは(爆爆)。
そしてそれが、夏希の母親が好きな曲で、アル中の父親がラジカセで聞いているという更なるオマケつき。
ラフマのエピソードは夏希から聞いたんじゃなかったけ?だとしたら、父親がラジカセで聞いているシークエンスは、あのアル中の父親がラジカセを引っ張り出したか、買ったかして、CDも買ったかして、ていうことになり、ムリがあるというか、甘すぎるというか。

台詞だけでは「母さんを愛していた」だなんて、信じられないよ。そもそも愛してるなんて言葉は、この年頃の日本人がリアルに使えない台詞なの!!★☆☆☆☆


赤い玉、
2015年 108分 日本 カラー
監督:高橋伴明 脚本:高橋伴明
撮影:小川真司 音楽:安川午朗
出演:奥田瑛二 不二子 村上由規乃 花岡翔太 土居志央梨 柄本佑 高橋惠子 山田奈保 上川周作 福田あさひ 吉井優 林諒一 水上竜士

2015/9/13/日 劇場(テアトル新宿/モーニング)
奥田瑛二と高橋伴明監督というカップリングはもちろんだが、キャストクレジットの次に名前を連ねているヒロインの名前に飛び上がった。
不二子!彼女の名前を見るのはなんと久しぶりのことだろう!!自分が気づいていないだけでちゃんと(爆)出続けていたのだから、こんな失礼な言いぐさはないのだが(爆爆)、でも私にとっては15年ほど前に突然出てきたエロ女優、という感覚が強かったので、それ以降は彼女のその印象に合った役どころはあったんだろうか、などと勝手なことを思ってしまう……。
と思うのは本作の彼女は、まさにティーンそこそこであった頃の彼女のインパクトそのままだったから。ああ、不二子が不二子のまま女になって帰ってきてくれたと思ったから。

奥田瑛二の愛人役。三十路も半ばを過ぎ、決して若くておつむの軽い女ではないけれど、女(エロな)としての成熟期を迎えた彼女は、還暦あたりの、初老と言われても仕方ない男にとっては充分に若くて魅力ある女。でも、三十路も半ばを過ぎている、言いようによっちゃ、熟女と言われ始めても仕方ないお年頃……。
ティーンの役がティーンでなければできないように、この熟れ始めた初期の熟女年代も、この年代でなければできない。昨今、ティーン役を、回想の形とはいえ30近くの女優が演じることを見ることが重なって、それは違うだろう……と疑問を感じ続けてきたからさ。

それで言えば、本作はまさにその問題点にしっかと斬り込んでいる。奥田氏は自身の監督デビュー作品で、本作の片りんを見せるような、少女に恋する老いた男を自ら演じていたけれど、それから15年も経って、その意味合いは更に大きく変化しているんだもの。
どこか高橋監督の分身を演じるような初老の男の性愛の悲哀。そして何といってもその、ティーンの役どころ。まあ、脱げるのが18以上という制約もあるからなかなかリアルティーンは難しいけれど、それに近い意欲的な年若い新星の登場に心躍る。

初老の映画監督が妄想の恋に陥るこの女の子は、どこまでが本当の彼女なのか、彼自身の妄想、という名の映画の筋立て、境界線があいまいな中で、男の夢を身体的にも内面的にも体現するような表現を次々とぶちかましてくれる。
ホントにね、奥田監督デビュー作品の「少女〜an adolescent〜」を思い出したのよ。あの時”少女”を演じた小沢まゆも、この彼女と同じ年頃だった。でも演じる年頃は中学生だった。禁断よりも、神聖の少女性、であった。
でも本作の、村上由規乃嬢演じる律子は……生身のティーンの女の子に限りなく近い、言ってしまえばかなりムチムチのエロを感じさせる。特に、これは現実高妄想だかわからない、セクシーダンスレッスンの場面において顕著である。ダンサーの体つきではなく、これはまんま、男に供する身体なんだもの。

ああ、なんか何を言っているのか判らなくなってきた。とにかく、年齢、年代、それがストレートにぶつかる。この由規乃嬢に比すれば不二子嬢はまさに、圧倒的に何かが負けてしまうんである。どんなにエロで、イイ女でも。
不二子嬢、私ね、林由美香嬢に見えて仕方なかった。ちょっと、驚いたぐらいだった。大きな瞳と、唇の薄さ加減とか、角度によってドキッとするぐらい。ちょうど彼女が亡くなった年恰好に、今の不二子嬢がなっていた。
そりゃ、その程よい大きさの形の良いおっぱいを見れば、由美香嬢でないことは一目瞭然なんだけど(爆)、でもなんだか見ている間中、妙に落ち着かなかった。役柄的にも、確かにぴったりなんだもの。

奥田氏が演じるのは、大学の映像学科で学生たちに映画作りを教えている、しかし自身の新作がなかなか作れないでいる映画監督、時田。
劇中、彼に持ち込まれる企画、「新渡戸稲造」を、制作サイドの若いスタッフは「監督にピッタリの企画」と勧めるんだけれど「もう偉い人の話を聞きたくはないだろう」と彼は断るんである。その若いスタッフは「何を勘違いしているんだか」と吐き捨てる。
この物語の最後に、時田は自身を投影し、少女への理想と性愛を描き込んだ脚本を持ち込むんだけれど、このスタッフは彼が立ち去った後、無言でゴミ箱に投げ捨てる。

実在の人物を文芸色豊かに作品に仕立て上げるのは、近年の高橋監督自身がまさにやっていることで、そして評価も得ていることなのに、あっさりとそれを否定するような台詞を奥田氏に言わせることに戦慄する。
だからこその、自身を投影した企画を捨て去らせる構図にしているのかもしれないけれど、まさにその企画をこうして映画にしているんだから、なんと野太い心臓……と思っちゃうんである。

イジワルな見方をすれば、この物語はまるで少年のよう。妙齢のエロな愛人を持つ一方で、自分が好きな文芸作品を手に取った少女に惹かれる。それは言ってしまえばナルシスト的感情。
自分と同じ感覚を持っているのが、若くみずみずしい肢体を持った少女だという、感覚で言えばひどくグロテスクなナルシシズム。だからこそそれは実ることはないけれども、でもそれに耽溺する初老の男は確かに幸せだったに違いなく。

そしてそんな夢と妄想の世界に引導を渡すように、ゴミ箱に問答無用に脚本を投げ捨てる役に、奥田氏自身の義理の息子である柄本佑を持ってくるってあたりが、もうこれ、奥田氏自身のアイディアなんじゃないの、と思っちゃうんである。
ちょっと思い出しちゃったんだけど、佑君がデビューした時にさ、監督になりたいって、10代の彼は言っていたんだよね。そのことが凄く印象に残ってて、今でも、そう思っているのかなあ、と時たま思い出すのだ。だから本作で、監督でもある義父に対してこの役どころが妙に引っかかりがあったのだ。

本作でとても印象的なのは、大学の映像学科の教授として教鞭をとる、その描写である。教え手としての奥田氏の描写もそうだが、教え子である生徒たちの描写やエピソードもふんだんに取り込まれていて、かなり興味をそそられる。
今は撮影所で作り手を育てるなんていう幸福な時代は遠く過ぎ去ったので、お金を出して学び、その中からチャンスをつかみ取るしか術はないのだ。

このあたりに、初老の監督と学ぶ生徒のズレがある。初老の監督は、こういうギブアンドテイクの感覚に薄く、現場で学んでいくことこそがプロへの道だと固く信じている。だからこそ現場主義である。つまり、モニターにかじりつく生徒を新人類(これ自体、死語だが)と切って捨ててはばからないんである。
でもまあ、本作の中では、なんたってこの主人公に高橋監督自身が投影されているんだろうと思うし、実際、そこまで映画が死んでしまったのだと、高橋監督は言いたいのかもしれない。そしてその中で女優、いやさ女たちに活路を見出すあたりが、監督らしいのかもしれないと思う。

モニターにかじりつき、自分の画角だけを信じ、女に脱がさず、過去作品を鼻で笑う草食男子を蹴散らす女、そして女優を物語中に活写する。
その女の子は、自分の彼氏である学生監督を容赦なくフる。自分はちゃんと脱げるし、ばかばかしいじたばたした演技なんかしたくない。ナマな芝居も見ず、過去の革新的な作品も知らず、何を言ってるんだと。

しかしそれはちょっと、カユい描写でもあると思う。確かにいつでも女はしたたかだし、後に時田がスポーツ新聞で彼女の記事を発見したように、仕事を得るためのビジネス不倫などヘでもないのだろう。
でもそんな女たちが、過去の革新的な”男性”監督たちを賛美し、彼らのような気概あるクリエイターのためなら脱いでも問題なし!と言わせるのは、つまりは男性賛美、それも古いタイプの、ということに他ならないのだ。

実際は、自分が女優としてのしあがるためなら、ということであり、確かにそういう描写……草食系男子のカレシを見限って、先生である”映画監督”の時田に、彼氏になってくれませんかとしたたかに立候補する場面は、ある。
そういう女優はかつてよくいたな、と時田はかわし、後に草食彼氏から助監督にしてほしいと言われた時も、もっと売れてる監督に頼め、とこちらはストレート自虐に徹している。

どちらも断ったことは一緒だけれど、現実を判っていた女子には自らを繕い、判っていない男子には丁寧に現実を教えている、と思うと、やっぱりまだまだ男女の溝は深いな、と思っちゃうんである。
それを監督自身が本当に判ってやっている(つまり自虐)のか、無意識にまだまだ女をナメているのか、正直判然としない。

熟れた愛人がいながらムチピチの女子高校生に妄想恋&ストーカーをし、その描写が妄想なのか現実なのか企画上の脚本なのか判然としないまま、そんな自分は教える立場に値しないとか、思い上がりかナルシストか、とにかく受け手にとってはポカーンの状態で彼は教職から去る。
そしてなぜか突然、妻子に謝罪に行くんである。このシークエンスは一体なんだろう……。今さら何なの、とちゃんと怒ってくれる娘にむしろ優しさを感じ、会わずに去った夫を必死に追いかけて駅のホームで遠のいていく電車を見送る妻に、優しさ……ではなく、こんな優しい、てかバカな妻はいないよ、と思う。
奥さんだからのキャスティングだろうが、高橋惠子氏自身はどう思ってるの(爆)。初老の男の性愛を、仕事を絡めて描写する本作は、つまり結果、奥さんにとっては性愛はもちろん、純粋な愛からも置き去りだよ。

恐らく男は、娘に対しては愛を残しているだろうが、ってことを勝手に推測してしまうと更に腹が立つ(爆)。そこまで言っていないって??いやいやいや、まず娘に怒らせて、母親が可哀想だから、と言わせるのは、それだけ娘が心優しい存在、愛すべき存在だという意味じゃんか。
そしてカット替えて妻に追いかけさせるってゆーのは、妻は自分をただただ愛し、無条件に許してくれる存在、イジワルに言っちゃえば、奴隷だよ、奴隷!なるか、そんなん!!

……うーむ、なんかかなりイジワル路線にいってしまう(爆)。まあその矛盾を感じているからこその、あの強気の女子学生の存在があるのだろうけれど、彼女だけではただセンセーショナルな変わり種というだけで、彼女は自分こそが大事で、女の立場までをも変える気はない。
そりゃそうだ、誰だってそうだ。こうした例の数が揃わなければ変わらない。数が揃わらないことこそが問題なのだ。だからまだ女の立場はただただ弱々しい、前時代なもののままなんである。

そもそもこのタイトルの意味は、男が最後の最後、打ち止めの時に赤い玉が出る、という都市伝説??判らないけど、そういう言い伝えめいたことから来ているという。
劇中それはきちんと示される。でもそれも、妄想チックで本当かどうかなんてわからない。男が一見さいなまれていそうで、実はすべて女に許されている、って感じがちょっと、いやかなり、許せないの!だったら奥さん主演で逆バージョン作ってほしい。★★★☆☆


アリス・イン・ドリームランド
2015年 44分 日本 カラー
監督:蜂須賀健太郎 脚本:太田龍馬 蜂須賀健太郎
撮影:音楽:arai tasuku
声の出演:内田彩 下野紘 一条和矢 勝田詩織 橋本まい 川口翔 松下悠矢 佐藤俊輔 山口立花子 赤山健太

2015/12/20/日 劇場(K’scinema/モーニング)
清水真理という人形作家さんは、絶対にどこかで出会っている。このダークファンタジーそのものの、怖くて妖艶で隠微な球体関節人形。
そうだ、球体関節人形というのも、彼女の人形で初めて知ったような気がする。ウィキなんぞを探ると、ひょっとしたら「ホッテントットエプロン―スケッチ」で触れたのかもしれない、と思ったりする。記憶力ないんでよく思い出せないんだけど……(爆)。

蜂須賀監督、というのは初見。話題を集めたという「サンタクロースがやってきた」という作品が非常に気になる。いつの間にそんなの、やってたのかなあ。私、かなり好きそうなタイプの作品、アンテナに引っかかっていたらきっと観に行っていたのに。
その、未見の作品とはパッケージ的にも、外見的にもがらりと変わる感じ。観てないんだからどうと言っても仕方ないのだが、本作はほんっと、ダークファンタジーなんだもの。
不思議の国のアリスがどんな物語だったか、ぼんやりとしたイメージだけで詳細には覚えていないので(私、こんなんばっかり……)、本作のアプローチを正確に理解できていないのかもしれないけれど、これはオリジナル、だよね?アリスにインスピレーションを得た、という……。

いや、今不安になって、またまたウィキを探った。うーむ、こーゆーのは良くないよね、映画は純粋に楽しまなきゃ……。まあそこは追及しないで(爆爆)。
鏡の国のアリスもかなり範疇に入っている趣。てゆーか、あの有名なハンプティ・ダンプティは鏡の国の方に登場していたのね。元々はマザーグースであったとしても……。

いけないいけない、こんなことは大した問題ではないのだ。いつだって映画はその単独で、単一で、楽しまなくちゃいけないと思っているのに。
でもベースがハッキリとしているとなると、そしてそのベースが超有名であっても自分自身がうろ覚えであると、なんだか不安になってしまうの。
だってその、私ごときでも覚えているハンプティ・ダンプティがプレスされて、つまり活躍することなく、死んじゃってるような状態で、キャー!!みたいに終わってしまって(爆爆)。トゥイードルダム・トゥイードルディーとか、ライオンとユニコーンとか、し、知らない、そんなのアリスに出てきたっけ(汗汗)とか言ってる時点でダメなんだもの、ああ、どうしよう。

だから、そんなことは大した問題ではない筈なのだが……。そう、こうして無知を復習してみると(爆)、やっぱりこれは、アリスからインスピレーションを受けたオリジナル、なのよね。いわばその後のアリス、とでも言ったような。
アリスは覚えていないのだ、自分が経てきた冒険のことを。白ウサギが時間がない、時間がない、とかつてのように駆け抜けても(そうだ、この場面は確かに覚えがある!!)ただぼんやりするばかりなのだ。
不思議なことに、読書好きの彼女が手にしているのは、自分が冒険に出た物語。不思議の国のアリスを初めて読んだ時、興奮してお姉さんに何度も何度も繰り返しおしゃべりして、いいかげんにしなさいと怒られたのよ、なあんていうエピソードを披露する。その冒険に出たのが自分だなんて記憶をすっかり忘れている、このパラドックスのような不思議さ。

そしてそれはラストにしっかりと押さえられている。アリスが現実の世界に戻る直前、白ウサギは言うのだ。戻ったら、アリスはこの世界のことを忘れてしまうかもしれない。でも、物語世界はいつだってここにあるよ、と。
まるでアリスは忘れては戻り、忘れては戻る、そんなループの中にいるようだ。そしてそれは……ちょっと怖いことのように思う。

物語を振り返るのをちょっと置いといて、そこんところに思いをはせてみたりする。だって本作は、人形アニメーション。アニメーション、というのもちょっと違う気がする。人形が役を演じている、それもちょっと違う。人形が、そこに置かれている。……うーん、難しい。
凄く、独特なのよ。人形アニメーションというジャンルは確かにあるけれど、本作はハッキリと違うと思う。清水真理という人形作家の唯一無二の個性がそうしているのは確かである。

このダークファンタジーな人形は、誤解を恐れずに言えば、死んでいるんである。生きてない。なんていうか……解剖された死体というか、ミイラになった美女というか、そんな感じなのだ。
時が確実に止まっている。ていうか、時空という観念がそこにはない、そんな感じ。
だから彼らがいわば、ムリヤリ動かされている、というのが、奇妙な魅力があるのだ。白ウサギがどんなに焦りまくって懐中時計をのぞき込んでも、狂ったようにその針が回りまくっても、そこに時間の流れは感じない。まるで止まった空気の中に、アリスたちは存在しているのだ。

清水真理の人形たちはひどく妖艶なのに、アリスだけが少女を強要されている。いや、そう言い切っちゃうのはおかしいな。だってトゥイードルダム・トゥイードルディーははっきりと少年なのだから。でも物語世界の中にいる、という絶対的価値観のせいか、彼らは子供としての少年、ではない気がやはりするのだ(ヘンな言い方だが)。
で、アリスだけが少女を強要されているんだけれど、なんたって清水真理の人形だから、それが奇妙な違和感をもたらす。勿論、いい意味で。明らかに少女の造形なんだけど、死生観漂いまくっているのだ。

そして何より大きいのは、アリスがこの旅から目覚めると、大人になっていることなんである。アリスというとさっとイメージする、あの水色の、胸当てのあるワンピースが、その前提条件はそのままに、大人の、てゆーか、ハイティーンのそれになっている。
つまりローティーンからハイティーン、一番身体も心も大きく変化する、少女は少女だけど、全く違うそれになっている、っていうのがね、ひどくなまめかしく感じて、不意を突かれた感じだった。

正直言えばそこまでは、アリスの世界に不勉強なせいもあって、眠い目をこすりながら、って感じだったんだけど(爆)、冒険から覚めたアリスが、なまめかしい白く長い首をもたげて、急になにもかも経験しちゃったような妖艶さで身を起こした時、うわっと一気に目が覚めた(爆爆)。
そう、清水真理の人形たちは皆妖艶だったけれど、少女のアリスだけが、不自然に押さえつけられているようだったのだ、後から思えば。もうすべてを知っているのに、大人になるのを許されない、みたいな。

それはおとぎ話の世界に生きていた女の子が、現実世界に目覚めた、などとゆー単純な図式に陥りそうにもなるが、アリスはまた、白ウサギに誘われてゆくのだから、なかなか一筋縄ではいかないんである。
まあ、あんまり意味づけするのは面白くないかなあ、という気もしている。おとぎ話、何よりダークファンタジーは、脱出できないループの中をぐるぐるするのが魅力なのだから。
急に大人になって帰ってきたアリスを迎えるお姉ちゃんが元のままだというのが、それこそ奇妙な恐ろしさというか、本当にアリスだけがこの物語の中で大人になってしまうから、ちょっとね、エロなこととか妄想しちゃうんだけれどね。

そういう布石もなくはない。物語世界の中で、アリスは女王になることを請われ、“闇”と闘う。生娘が闇と闘う、というだけでもまあそれなりに勘繰りたくもなるが、それはさすがにうがちすぎかなとも思う。
黒から白に変わるナイトにそれを勘繰るのもダメ??目覚めた時に大人になっているアリス、というのは、ほんっとゲスの勘繰りなんだけど、セックスを知っちゃった、とか言いたくなるんだけど、残念ながらそーゆー恋の物語は……いや、あのナイトなのかな??
ゲスの勘繰りほど野暮なものはないけれど、大人になったアリス、に対する明確な布石がなかったのがちょっと、物足りない気はしたかなあ。それこそヤボなことなんだけれど……。

でもね、正直なことを言うと、清水真理の人形で、人形アニメーション、というのは、難しかった気がする。
いや、先述したように、これを人形アニメーションなどという単純なくくりにすべきではないんだろうけれど、人形が登場人物、として見えないというのが、想像以上にツラいのよね。喋っているようにどうしても見えない。だって清水真理の人形は死んでるんだもん(爆)。
それこそが魅力だし、本作の面白さであるということは重々承知しているのだが……。球体関節だし、動きは十分すぎるほど出来るのだけど、なんたって彼女の人形の魅力は、その死んでる顔(いい意味でね!)なもんだから……。

何か、もう少し方法があったような気もしている。ちょっとね、声が、いわゆるアニメーションのそのまんま、って気がしたから。
この死んでる(だから、いい意味でね!)人形たちの、隠微で妖艶で耽美な世界に当てる声や台詞進行があった気がする。この“死んでる”人形を“ムリヤリ”動かす、という、その魅力があるからこそ、声もまた、通常ではないべきのような気がしたなあ。

きっと誰もが思っただろうけれど、シュヴァンクマイエルを思い出した。アリス、っていうのもね!彼は本作を観る機会あるだろうか。観たらどう思うのかな、興味シンシン。★★★☆☆


アレノ
2015年 79分 日本 カラー
監督:越川道夫 脚本:越川道夫 佐藤有紀
撮影:戸田義久 音楽:澁谷浩次
出演:山田真歩 渋川清彦 川口覚 内田淳子 遊屋慎太郎 諏訪太朗

2015/11/30/月 劇場(K’scinema)
フランスの文豪、ゾラの名作を日本に置き換えて……とかいう部分はスルーしようと思う。てか、スルーせざるを得ない。読んだこともなければ、何度も映画化されているというその作品を観たこともないのだから。
ただ、この様々な驚きと新鮮な魅力に満ちたこの映画のことをただ、堪能したいと思う。堪能、そうだ、そんな感じだ……。確かにこれは、痛く残酷な物語ではあるけれど、蠱惑的というか、耽美的というか、そんな不道徳な香りが濃厚に漂っているのだもの。
そこんところがフランス的ということなのだろーか、なんて、スルーしようとか言いながらその自分の無知が気になってつい触れてみたり。

様々な驚き、その一つは、初見であるこの監督さんの存在そのものであった。監督デビュー、ということになるのだろう、その経歴を見れば。
その経歴!!スローラーナーという配給会社は、現代日本映画がちょっとでも好きという人なら、目にしたことがない筈はない。大きな商業映画ではないけれど、必ずアンテナに引っかかってくる意欲的で先鋭的で、なおかつ娯楽も忘れぬ秀作佳作トンデモ作、あれもこれも、スローラーナーなのね!
彼がプロデューサーとして手掛けた作品の羅列を見るだけで、めまいを起こして倒れてしまいそうなぐらい。
プロデューサーから監督という流れは今までもなくはないけれど、でもやはり少し珍しいし、そしてこんな作品をプロデュースという形で手掛けてきた方ならば、つまりその起こりから関わっている訳なんだから、監督デビューといったって、そりゃあこれぐらいのもの作るでしょう!という感じなのだ。

これぐらいのもの、だなんて、なんて不遜な。いや、そもそも私は監督さんのことなんか(なんかって(爆))全然気にしてなかったくせに。ただひとつ、渋川清彦氏のみで足を運んだくせにっ。
一館のみのひっそり公開だったから、情報を追っていない間にいつのまにやら始まっていて、その作品の存在も知らないぐらいだった。
あっぶない、あぶない。これを見逃していたら本当に一生後悔するところだった(いや、観ていなければ、そんなことも思わないのだろうが……)。

今年はホントに、渋川清彦イヤーだったような気がする。いや今までもコンスタントに出続けてはいたけれど、メイン級で花開いた年、のように思う。そして今まで私はどこかで、彼の本当の魅力、男としての魅力(照)を、ちゃんと見ようとしていなかったように思う。
気のいいあんちゃん、涙が出るほどいいヤツ、とっぴょうしもないけどなんだか憎めない男、情けないけど愛すべき男、そんな渋川清彦氏をこよなく愛してきた私にとって、本作の彼は衝撃、であった。

いや、判っていた。だってさ、なんたってもともとはモデルさんよ。その細マッチョに攻撃的なタトゥーが施された身体だけで、そのセックスアピールを存分に発揮していたことは判っていたさ。なんたってデビューはあの伝説の、「ポルノスター」なのだから!
……それでも、そんな彼を見たくない、とまでは言わないけど、見るのが怖かったんだなあ、きっと。ヤワい部分で渋川氏が好きな自分のグズグズを喝破されるような気がした。いや実際、喝破されたのだ。それがこんなにも、ズキュドキュなことだったなんてっ。

そーゆー意味で、相手となる山田真歩嬢が強烈にうらやましい。いや(爆)。でも彼女がまた、新鮮なオドロキだった。フィルモグラフィーを眺めれば、今まで見てない筈はない彼女なのだが、全く個別認識していなかった。今や朝ドラで重要な役を任されるまでになっているというのに。
いやでも逆に、その朝ドラは未見で良かったと思う。見てしまっていたら、この鮮烈な、ナマなヒロインに100%没頭できなかったかもしれないもの。

ナマなヒロイン。ナマな女。そう、久々にナマな女を見た、と思った。脱げるというのは女優にとって重要な要素ではあるが、そこで美しいヌードを見せて終わりでは、意味がないのだ。
いや別に、彼女のヌードが美しくないと言っている訳ではない(爆)、充分に美しい(爆爆)。でもそれよりも生々しさ。セックスするための女の身体。そういうのって、これが案外、ピンク映画の女優さんでさえ、お目にかかれなかったりするのだ。
ハダカが商売だから、彼女たちは。そして脱ぐことだけが決死の覚悟なタイプの女優さんたちは、やはりその先に行くのは難しいのだ……。

山田真歩という女優の肉体は、今ここで、愛人とセックスするためだけの身体、だった。それ以上でもそれ以下でもない、からこそ、ナマだった。
30代に突入したあたりのナマなヤワヤワ感。20代のはちきれさとも、40代の衰えと必死に闘う感じとも違う、ひょっとしたら、一番セックスに吸い付く感じの、ナマな肉体。

ナマ、なんだよね。エロな肉体じゃなくて。それが凄く生々しかったし、だからうらやましかった(爆)。
彼女は身体の弱い夫の溺死体が上がるのを待ちながら、愛人とラブホでセックスをしている。そう、解説ではそうなってる。つまり、原作のテイストとしてはそういうことなのだろう。
夫が邪魔になった妻とその愛人、というスタンスはでも、日本に舞台が置き替えられた本作では、ちょっと違ったような気がした。

いや、判らない。彼女はあまり雄弁ではないから。その愛人、渋川氏の方は雄弁で、明確過ぎるぐらいで、久しぶりに再会した幼馴染に対する欲情をそのまま、同じく幼馴染である彼女の夫に対する殺意にすげかえることが出来るのだ。
でも、彼女の方は、どこか曖昧である。本当に夫を殺したいと思っていたのか、愛人にそそのかされた、という積極的な感覚さえもはっきりとは感じ取れなかった。
それはネガティブな評ではなくって、それはあくまで原作からの流れの位置づけであって、本作における彼女は、夫のことをきちんと愛していたんではないだろうかと思うのだ。

……きちんと、などと言うのはヘン、だろうか。解説で語られるような味気ない生活、などというのは本作では描かれない。ただ、何年かぶりに突然現れた幼馴染が、この夫婦の運命をかき乱した、ただそれだけだ。
ただ、かといって、彼女がこの愛人にそそのかされるがままに夫殺しに加担した、ともハッキリ言い切れないものを感じる。夫と愛人、つまり男たちの気持ちが明確なだけに、彼女の気持ちの曖昧さが、作り手のはっきりとした意図に感じられてしまう。
彼女はどちらも愛していた、あるいはどちらも愛していない。そんな風に。でもそれは、女のズルさをつい擁護してしまう、フェミニズム野郎のたわごと、なんだろうか??

夫の幽霊、というか、妄想、というか、幻影、というか。それが効果的に彼らの心情を揺さぶる。それもドッキリな感じじゃなく、しずしずと襲ってくる。
冷たい水の底に沈んでいる彼の手、と一発で判る、黒ずんだ、左手の薬指に指輪をしたその手が、愛欲に溺れる(爆。古い表現だ……)この二人のそこここに差し出されるのだ。
彼ら二人ともその全身像も目にする。いつでもぐっしょりとずぶぬれである。それは当然、二人が彼の溺死体が上がってくるのを心待ちにしている(という言い方はヒドすぎるだろうか??でもそうだもの……)ゆえに見る、幻影なのだろうが、でもきっと、夫はそこにいたのだ。そこにいて、ずっと二人の“不貞”を見守り続けていたのだ。

冒頭のシーンが、途中でまた繰り返され、その詳細が明らかになる。この手法は結構使われる……特に新人さんに好んで使われる傾向があり、それが私はあんまり好きじゃなくて……。新人さんと言えどもキャリア的にも年齢的にもベテランさんの監督さんに対してそう思うのはアレだが、確かにアレであった。
その手法、だけでは済まなかったし、この手法を使うのなら、そうでなければいけなかったのだ。
冒頭、彼女と夫の二人のシーン。「突き落とされるなら、冬の湖と夏の湖とどっちがいいと思う?」もうこれだけで、夫がそれを予感していた、どころか判っていた、ことは丸わかりではないか。

冒頭は、これだけだった。そのすぐ後、冷たい湖から助け出されたのは彼女と、この夫ではない男。この意外な流れで、観客の心はつかまされる。
だってあの冒頭、彼女の夫は戸惑う妻の顔をいなすように笑い、逃げよう、と言って彼女の手を取ったのだ。
それは「突き落とされる」相手から逃げよう、と言っているように思えた。実際彼の心の中では、そんな気持ちがあったのかもしれないと思った。それでも彼は、妻である彼女を愛し、友達である彼が好きだったのだ。たとえ殺される予感があったとしても。

助け出されるずぶぬれの妻と愛人、その愛人、つまり渋川氏がまるで詩のように唱えるこの登場シーンが焼き付く。
「彼が泳げないのは判っていた。だから自分は彼にしがみついた。自分が彼を殺したようなものだ。水の中に沈んでいきながら、彼女を……と彼は言った。そう見えた」
詩を唱えるように、というのが彼を擁護しすぎならば、ト書きを読み上げるように、と言った方が正しいだろうか??

でも、本当に、詩を唱えるような美しさだったのだ。冬の湖の冷たさに震えながら、ここで言わなければいけない、とでもいったような切迫感で“唱えた”その台詞が。
後に彼女は彼に迫る。あれはウソだったんでしょ、私の名前を言ったなんて、あんたの作りごとでしょ、と。
でもそれに対して彼はイエスと言わなかった。ノーとも言わなかったけど。私には、それは本当のことのように思えた。その後、彼が彼女といくらセックスしてもしても、彼女のことを捕まえきれないのは、それが本当のことだったからのように、思えたのだ。

ああ、だからやはり、渋川清彦は、私の思う彼なのだ。本作の彼は、まさに男のセクシャルで、抱きたい女を抱くために、その女の夫を殺すような、そんな危険な男、なんだけど、でも結局彼女を、捕えきれないのだ。
そうだ、後から思い返してみれば、そそのかしの言葉を口にするのは彼だけれど、セックスの上位に立っているのはいつだって彼女の方だった。彼女の方から唇を吸い、彼女の方から服を脱ぎ捨て、彼女の方から彼にまたがったのだ……。
彼が上になってピストンしても、彼女はどこか遠くの何かを、誰かを見ているようだった。後から思えば彼女は、彼に対する愛の言葉を口にはしなかった。いや、それは、夫に対してもなのだ。なんてこと!

コインランドリーの場面がある。彼女は夫の溺死体が上がるのを待ちながら愛人とセックスをしている。当然洗濯物がたまるんだけど、彼は洗濯しに行くのを許さない。
ふと、「愛のコリーダ」を思い出した。あれは逆に女の方が、この愛欲ががむせ返る、よどんだ状態が一掃されることに憤った。本作の原作がどうかは知らないけれども、この逆転の感じは、現代の男と女、と思っちゃうのは怒られるだろうか??

夫の溺死体があがり、それまでも何度も彼女の携帯に電話してきていた夫の母親、つまり姑が死体の検分にやってくる。車いすに乗った彼女は、しかしきちんと化粧をして美しく、女の匂いをぷんぷんとさせている。
身体の弱い息子に、車いすの母親、父親の姿がない、というあたりに、禁断の、そしてどこかマニアックな愛の形をかぎつけてしまうのは、ひょっとして差別的なんだろうか……?
でもそれが、冒頭に書いた、蠱惑的、耽美的な愛ということなのだ。現代社会ではなかなかそれを勇気をもって描けないけれども……。

愛息子を見殺しにしたことを本能的に察知したのか、「あなたが死ねばよかったのに」と言い放つ母親は、若干型どおりな感じはしたけれど。
それは、妻である彼女が、これは夫じゃないと言うのに対し、母親としての愛情を自信満々に提示して、これは息子です、と誇らしげに言い放つシーンに呼応するのだが、呼応させるだけの目的のような気もする……だって、彼女はなぜ、これは夫じゃないと言ったの?姑に対する意地だろうか。そうかもしれない……。

ラスト、愛欲と葛藤にまみれた妻とその愛人は、心中を試みるが、あえなく失敗、かなりグダグダな失敗を経て、愛人はそのままラブホでぐずぐずし、彼女の方は、颯爽と外に出る。
いかにも運転し慣れないような車を、つり橋の上でジグザグに運転する。何一つすっきりしないのに、不思議に爽快感がある、と思うのは、女側に寄り添っちゃうフェミニズム野郎だからなのだろうか??★★★★☆


阿波おどり 鳴門の海賊
1957年 89分 日本 モノクロ
監督:マキノ雅弘 脚本:観世光太
撮影:坪井誠 音楽:鈴木静一
出演:大友柳太朗 藤田進 徳大寺伸 時田一男 丘さとみ 千原しのぶ 永田靖 沢村宗之助 吉田義夫 水野浩 内海突破 山内八郎 星美智子 赤木春恵 五味恵子 鳳衣子 人見寛 和泉多衣子 月形哲之介 尾上華丈 梅沢昇 中村時之介 那須伸太郎 団徳麿 東日出雄 島田秀雄 桜村直次郎 舟津進 小金井修 国一太郎 清川荘司 藤原勝

2015/5/23/土 京橋国立近代美術館フィルムセンター
間違いなく痛快時代劇なんだけど、なんだか不思議なんだよね。だって主人公の男は、「帰ってきた男」なのだ。データベースの役名でも、もちろん劇中でも一度も名前を呼ばれることはない。
欲深家老に、密貿易した海賊の濡れ衣をきせられ、哀れ磔となって刺し殺された十郎兵衛の、その弟、という役柄だが、それならばせめて「十郎兵衛の弟」という役名になる筈のところが、それさえならない。だって彼は、宿屋のウブな娘、お光から「十郎兵衛さんの弟なんでしょ!」と迫られ、彼自身、その本人の立場で、長年会えずにいた許嫁との再会を果たしてさえいるのに、否定し続けるんだもの。

そして最後、阿波踊りの喧騒の中、見事かたき討ちを果たし、風のように去っていく。十郎兵衛の弟は帰ってこない。誰も見ていない……などと、踊りの口上のように歌われながら、押し出されるように。
それは、家老を殺したその重い罪を、町民みんなが隠し通す、知らぬ存ぜぬを通す意味もあってのことだろうけれど、なんだか、本当に不思議なの!!

ぜっんぜん、違うトコから話をもってきてアレなんだけど、「プリンセス トヨトミ」をふっと思い出してしまった。
クライマックスの阿波踊りの中での仇の果たし打ちは本当に圧巻で、阿波踊り×チャンバラなんて、アリ!?と本当アゼンとしちゃうほどの臨場感なんだけど、お面をかぶって踊りまくる膨大な町民誰もが、この計画を知ってて、何年も前から待ち望んでだってことなのか。
「明日は踊りますよ」なんていう、阿波踊りのお祭りなんだから当然の”暗号”に、あいよ、と皆がさりげなく手を挙げていたのは、そういうことだったのか!!そう考えるとにわかに鳥肌が立つ思いがする!

んで、なんで「プリンセス トヨトミ」かとゆーと(爆)、すべての人たちがそのことを了解しているのに、お光の立ち位置が、そうした事情を何にも知らない、輪の外から外れている、「プリンセス トヨトミ」言うところのはるかちゃんたち会計検査院のメンメンのようで、共通認識から一人だけ外れている、奇妙なファンタジー感が何とも言えず、不思議なのだ。

”十郎兵衛の弟”が宿泊した宿屋の看板娘なんだけど、10歳かそこらの時に出会っていることさえ覚えていない、恋に恋してこのヒーローに会ったこともないのに恋しちゃってる女の子、お光。
「一目見て好きになってしまう人が、十郎兵衛さんの弟に違いない」という、少女漫画もかくやという思い込みで待ち続ける。でも後から考えると、このお光を温かく見守っている宿屋の大人たちは、この時が来るのを待ってて、すべてを知ってて、まだ子供であるお光一人が知らなかったということなのだろうか。なんとミステリアス!

てゆーか、主人公が出てくるのが遅すぎる(爆)。いわばさんざんじらして待たせて、舞台が整えられる。
それまで場をつないでいるのは、”ひげ先生”、”尺八先生”、”道八旦那”と呼ばれる、かなりお調子もんな浪人三人組。宿屋の若い娘にちょっかい出して、そのうち二人はまんざらでもなく、まあベテランらしく、あら私も好きヨとか言ってノッてくるんだけど、道八旦那に言い寄られるお光だけは、恋に恋する乙女の潔癖さで、決して態度を崩そうとはしない。ノリの軽い三人と、宿屋の女衆、純情お光をからかいながらの丁々発止はかなり楽しい。

そしてこの三人組の、のんびりとした間合いのやり取りが、何とも言えず、いいの!その中でもひげ先生の、外見はおひげのワイルドさで荒っぽく男臭い印象なんだけど、妙にのんびり、ボーヨーとしていて「あ、そう」「(ひっぱたかれて)……痛い(ぼそっと)」なんていう間合いが絶妙、なのよね!
尺八先生は、その尺八は仕込み刀、尺八なんぞ吹きゃしない。マイペースなひげ先生と、女経験が浅くてヤボな純情青年、道八旦那の間に挟まれる形で、上手く場をまとめる立場。でも本人も腰が軽くて軽妙洒脱。上手くできてるんだよなあ。

でね、この三人が、十郎兵衛の参上宣言の貼り紙を貼りまくったことで、誰かは本人なんではないかと目を付けられてとらえられてしまう。
結局は筆跡も全然違うし(三人横並びで優雅にお習字する間抜けさに思わず噴き出す!)、彼ら自身が、自分はあの男の居所を知っている、といわば裏切って売る形になるから、お光以下、女たちは一様に激怒するんだけれど、果たしてそうだったんだろうか。
阿波踊りの日に戻ってくるという伝説を信じていた町民たちをいわば先導する形で、一番最初に「明日は踊る」というキーワードを口にしていたのが彼らだったんだもの。何この、壮大なダマしダマされの漫才みたいな関係性を、かたき討ちに昇華させるなんていう上手さ!

だって正直ホント、十郎兵衛の弟、つまり本作の主人公が登場するまで、彼らがすんごくチャーミングで、あれ?主人公って三人なの??と思ったくらいでさあ。多くの御用提灯が揺れた捕り物劇で、「どうする」「殺すか」「いや、つかまってやろう」なんつー、おまぬけな台詞に爆笑!
この、数多くの敵、突きつけられる無数の御用提灯、というシチュエイションは、後に大本命、しかし名前の判らない(爆)、"帰ってきた男"がまさに遭遇するところでさ。それを思うとこの三人組もやっぱり手下、”十郎兵衛の弟”が、いわば分身的な目線で考えたマニュアルに従って行動していたのかなあ?

十郎兵衛の弟、なんだもの。でも十郎兵衛自身ではない。十郎兵衛はこの地で慕われていた市井の味方、ビッグネーム。濡れ衣によって殺されて、それが阿波踊りの当日だった。それ以来町民たちは、阿波踊りの日に戻ってくる、"十郎兵衛の弟"を待ち続けていた。

兄が海賊の濡れ衣を着せられたから、自分がその海賊になってやろうというオドロキの逆転の発想。身体中に入れた刺青を見せて、「7年の間にこんなになってしまった」と愛する許嫁に哀しげに言う彼は、つまり海の上でそれだけの悪いこともしでかしてきたのか。海賊=悪、そして処刑された兄のことを考えると、この辺はなかなかに感慨深いところである。
いわばその7年の修行の末、力を蓄えて帰ってきた弟、なのだが、その力、だけで海賊としてのコネクションを見せつける訳でもなく、たった一人、斬り込んでいく訳だからさ。

そりゃまあ、町民みんなが彼の味方であるという確信を、この7年の間、毎年貼り紙を貼り続けながら(貼り紙貼りには戻ってきてたということ……いやそれも、手下たちにやらせていたんだろうか)得ていたんだろうけれど。それともあの三人こそが海賊としてのコネクション??どっちかっつーと、桃太郎の犬猿雉みたいな感じだけど(爆)。

“帰ってきた男”の大友柳太郎がさわやかな笑顔で、しかしどこか甘いムード。かつての家に帰ってきて、泣き崩れる爺をじっと抱いてほほを寄せる場面なんて、確かに”若様”といったところなんである。
許嫁にお手製の首飾りをつけてやる、後ろからそっと抱きしめるようにつけてやるそのシーンに、ちょっと女子的にはときめき高し!

三人の”裏切り”によって無数の御用提灯に囲まれた彼は、笑いながらバッタバッタとその群衆を斬り倒していく。大通りに出ていく。あんなに無数にいるのに、誰一人彼に斬りつけられない!
そして何人倒した後だったか、彼はまるでやけくその子供のように「あーあ、ヤメた!」と座り込んでしまうのだ。
その後の展開を考えると、牢の番人ですら暗号に従って扉を開けたのだから、捕まる前に何もこんなに切り殺さずともとも思ったが(爆)、まあこのへんは東映チャンバラシーンを存分に見せない訳にもいかないから。

そして、先述した、夜じゅうかかっての、「明日は踊りますじょ(この独特の訛りがイイ!)」「あいよっと」と町中に触れ回っての了解のざわめきが、ただならぬ予感を感じさせてめっちゃドキドキしてしまうのだ!
皆の士気が異様に高まっていくのが判る。おかめやひょっとこといったユーモラスなお面が皆の顔を隠していくと、それが何とも不気味で、うわーっ!と思ってしまう。

寄せ返す波のようにぎっしりとした群衆の阿波踊り。家老たちのお屋敷にも知らぬふりして寄せては返す。扉から何気なくひと固まりが入っていく。門番も、判っているのか!
そこは十郎兵衛の許嫁のお市と、欲深家老の祝言の祝いの席。あの一件で落ちぶれていたお市の家を救う名目で無理やり輿入れさせたのだった。
しかし!しかあし!!その庭に踊り入ってくるひょっとこ面の男!それは牢に押し込んだ筈の十郎兵衛の弟!そして次々に踊り入ってくるお面の群衆!!
お市はさっと彼の後ろに入り込む。「私と一緒に海賊になってくれるか」「はい!どこへでもお供にします!!」えーっ!お市さん、海賊になるの!!す、すごいプロポーズ!!

で、もうその後は、圧巻のチャンバラとなる訳だが、家老をこんなところで斬り倒しはしない。この欲深家老をかつて十郎兵衛を磔にした彼の実家、もう廃屋となってしまったそこへと群衆の波が誘っていく、踊りながら、家老は怒りと恐怖に青ざめながら。
そしてバッとカットが変わり、雨のぬかるみの中に、家老は倒れている。かつて十郎兵衛が磔にされた、その十字の木の下に。まるで行き倒れのように、背中を見せて。

この十字の磔、なんかまるでキリストだよね。コメ不足に悩んでいる市井の人たちのために働いたのに陥れられた、人々にとってはまさに神様であった十郎兵衛、その処刑のシーンだって、白い着物にひげぼうぼうで、十字に磔、なんだもの。本当にキリストチックなの!こういうあたりも何とも不思議ムードなのよね……独特の雰囲気。

そしてさ、ラストシーンがまた独特なのよ。あれはお光ちゃんだよね。もうあの人は行ってしまった。あの人の笠と合羽を身に着けて、雨の中、背中を見せて、阿波踊りを踊る。
雨は、あの人がやってきた日にも降っていた。恋に恋していた彼女の前に現れた、本当に好きになった人。あの時の彼女のはしゃぎっぷりったら可笑しいほどに可愛かった。低い声で彼の口まねをしてみたりして、袖で顔を覆ってキャー!と照れてみたりした。
この時には彼女はまだ少女で、でも一連の事件が過ぎ去って、大人になった気がした。あの、不思議に哀しいラストシーンは、そんな印象を感じさせて、心に残るのだ。!!★★★★☆


ある取り調べ
2015年 90分 日本 カラー
監督:村橋明郎 脚本:中西良太
撮影:富田伸二 高橋正信 藤田朋則 音楽:田尻光隆
出演:佐藤B作 中西良太 斉藤陽一郎 西歩美 村田一晃 大迫右典 中田浄

2015/6/17/水 劇場(K's cinema/モーニング)
緊張感あふれる密室心理劇、……と言いたいところなんだけど、外見上は確かにそうなんだけど、なんかいろいろ言いたくなってしまう。
この構成、これって私がついつい毛嫌いする、舞台くさい感じは確かにある。今回脚本を手がけた、主演の一翼でもある中西氏はやはりもともと舞台畑の人で、ああやっぱりそうかぁ、という思いがある。舞台で最もやりやすい形、ワンシチュエイション。舞台だと生身の人間がやるという特別なスパイスが効くから、やはりそれを映画でやろうというと、感覚がどうしても異なってしまう。舞台畑のクリエイターが作ると、時々そういう齟齬が生じる印象がある。

それにもともと彼はベテラン役者さんなわけだし……経歴を見ても脚本家としてのそれは見受けられず、本作はきちんとしたオフィシャルサイトも作られていないから、仲間を集めてやりたい映画を作った、という感じなのかなあ、と思ったりもする。それでもオフィシャルサイトぐらいは作ってほしいけれども……。
監督さんの名前も私にはあまりピンと来なくて、観てる作品はない訳じゃないけど、まあテレビドラマ界のお人みたいだし……いや、ヘンケンがある訳じゃ、あるのかもしれないけど(爆)。

まず概略を言ってみますとね。連日徹夜続きのベテラン刑事。妻はうつ病を患ってて、今日こそ早く帰ってきてよと娘からの電話を受けている。そこに無情にも取り調べが入る。
初老の男。妻と息子の殺人の容疑。状況からは無理心中しようとして自分が死にきれなかったと推測される。ベテラン刑事は年も近いこの容疑者にシンパシィを感じ、なんとか真実を引き出したいと思う。
鑑識の結果からも、息子と妻への殺害手口が違うこと(同じ扼殺でも、手と、紐を使っているという違い)で何か引っかかるものを感じていた。

ただかたくなに、自分が妻と息子を殺した、死刑にしてくださいの一点張り。結果的には、追い詰められた妻がしきりに自分を殺してほしいと訴え続け、ついには妻が息子を殺してしまった。
苦しみ続けた妻を犯罪者にはできないと、夫は息子殺しをかぶった。そして殺してほしいという妻の頼みにも負けてしまった……。

なんかね、この設定だけに頼り切ってる感じがしたんだよね。この設定と、それを演じる役者さえ揃えば、というか。容疑者を問い詰めるベテラン刑事が突然どアップになったりしてドキッとさせる描写は上手いけど、なんかあざとい感じもしたし……。
あ、もう一つ、いわゆるオチ、泣きオチとでもいったようなものも、満を持してそーれ!と持ってきた感があった。つまり、息子を殺したのは妻、妻を殺したのは彼だけれど嘱託殺人、というね。同情の余地をめちゃくちゃ持ってきて、それが明かされたら当然、彼にみーんな同情するだろう、というね。

それだけに中身の精査というか、詰めが出来ていないような気がした。別にね、本当の取り調べがどんな風なのか知ってる人は少ないだろうから(爆)、絶対的なリアリティを求める、っていう訳じゃない。でも、この設定自体が緊張感を誘うものなのだから、イメージの上でのリアリティは欲しいと思ってしまう。
それこそ、今時かつ丼をとってやるってことはないだろうからとジョーク気味に思ったりはするものの、本作の中で行われていることは、それに準じるようなクサさをどうしても感じざるを得ないんである。

容疑者の口から真実を引き出すために、ベテラン刑事さんが“思わず”口に出す家庭の事情……。これが、“思わず”と観客の側にもきちんと感じさせられたらまた違ったのかもしれないが、物語の冒頭から既に、娘から「今日は早く帰ってきてよ」と電話がかかってくる、なんていう判り易さ(身もだえするほどのクサい判り易さだ……)。
劇中の印象としては、容疑者に同情して自分のグチをついこぼした、としか、客観的立場にいる観客に対してでさえ、そうとしか見えない弱さがあった気が、どうしてもしてしまう。

私的には、大好きな斉藤陽一郎氏が記録係として、このワンシチュエイションの緊張感あふれる芝居に参戦することが嬉しかったが、これがまたあまりにも甘すぎて……。
後輩刑事(と言っても中堅どころという感じだろうが……)としてこの業務に参戦する彼もまた、何日も家に帰っていなくて、ヨメさんの一人暮らしをしている親がけがをしているのを迎えに行かなくちゃいけない、という事情を抱えているんである。

そういうバックグラウンドを判り易く用意するあたりが、舞台くさいと思うのは、そこまで思うのはさすがにヘンケンなのだろーか(爆)。
でもこうして登場人物が出てきて、今日はアレだからちょっとね、みたいに言いながら引き止められていく、っていうのって、凄い舞台にありそうな気がしちゃって(爆)。
おおもとの、中西氏演じる奥さんのうつ病のバックグラウンド自体にそういうアレを感じちゃってるから更にクサいというかさ(爆爆)。

それにさ、この斉藤氏演じる後輩刑事は記録係としてここにいる筈なのに、容疑者の名前ぐらいはノートパソコンに向かって打ち込むけれど、それ以外はすっかりこちら側に向きなおっちゃって、ちっとも“記録”してる様子がないんだもの。ここが一番のツッコミどころだった。お前何しにここにいるんだよ!!って……。
それこそ、舞台でありがちなんだよね。設定は記録係にしても、役者として舞台に立っている、そうなるとこの関係性に登場人物として関わってくる訳で、そのあたりの“リアリティ”は観客も見逃してしまう。
でも映画の観客はそこまで優しくないのだ。だって舞台と違ってそこは、仮想現実としてだって実際の取調室としてある筈の場所なんだから。そのノートパソコンは飾りかよ!いや実際、飾りなんだろう(爆)。

しかもその割に大して話に割り込んでこない、聞いてるだけ、割り込んできても小話的なことでしかない。容疑者とその妻の誕生日が生年月日までピッタリ同じことに驚いたり、「その時僕は中学生でした」なんて口を挟んでみたり。
もうイライラを通り越して驚きを禁じ得ない。えーっ、わざわざ彼を配置して、ヨメさんの親が云々、といった状況設定まで用意してコレだけ!?という驚きよ。自分が気に入りの俳優さんだから余計に歯がゆさを感じてしまう。

ほぼほぼ3人オンリーの登場人物なのだから、そういう意味で彼はより客観的立場である筈。
もちろん、実際に取り調べを行うベテラン刑事こそが客観的視点を持っていなくちゃならないんだけど、そこはそれ、舞台くささ……だけに責任を負わせちゃ申し訳ないか、映画というフィクションの中でも、ある程度は刑事が容疑者に対する同情を感じてなくてはこういう話は成立しない訳だから……。
ま、とにかく、この後輩刑事までもが記録もせずにうんうん話を聞いてたら、ダメなんだよ。しかも斉藤陽一郎なのに!!このチャーミングな俳優さんの何を活かせていたというの、もったいなさすぎ!!

容疑者は佐藤B作。コメディアン的役者のイメージがあるが、それこそ彼もまた舞台で叩き上げてきた役者、こういうシリアスな役柄をがっつり演じさせて不足がある訳もない。
それで言ったら追い詰める中西氏だって同様なのだけれど、先述してきたような違和感をどうしても感じざるを得ないから、難しい。

実はね、実は……一番私がキモに感じていた違和感は、うつ病とか、知的障害とか、そういういわゆる、バリアに関することだったのよ。これを、充分な理解の上で作劇に用いているなら、確かに今の日本ではまだまだ偏見も多いし、それを喚起する上では有効でない、とは言わない。でもそれは、今の現代では、本当に、それこそ精査が必要であると思う。
それこそ一昔、ふた昔前ならば、ちょっとしたヒューマンドラマの味付けに簡単に有効であると考えられて、誰も疑問に思わなかったと思う。誰も、という中に本当に万人までもは含まれていなかったであろうことが、ある意味(皮肉な意味で)平和な時代だったということだろうと思う。

確かに劇中では、うつ病は心の風邪と呼ばれる、誰でもなりえるんだ、という解説がなされ、うつ病患者に対する偏見をブロックしようという意図は感じられなくもないけれども、その本人の描写なり言葉なりが1秒も出てこないと、結局は患者を抱えた家族の美談に成り下がってしまう。
容疑者が抱える息子の“知的障害者”は更に深刻。知的障害者、って凄くざっくりとし過ぎ。

知的障害には無数のレベルがあって、日常生活に支障がない状態から、重篤な状態まである。そしてそうなった原因も、先天性から後天性、症状の出方も千差万別だし、逆に特定の分野に天才的な才能を発揮するケースも多い。
ここで語られている“知的障害者”、実際にその描写を出してこないこともあって、凄く古くて差別的なイメージ……隠しておくべき存在、他人に迷惑をかけ、自分じゃ何もできない、という、全人格を否定したイメージしかなくて、ホント、一体いつの時代の認識だよ、とボーゼンとしてしまった。
判ってる。これがいまだに世間のイメージだってことは。でもだからこそ、クリエイターは、万人に対して作品を発表するクリエイターは、常に最新の、現実を、それこそ真実を、突き止めている必要が、いや義務が、あると思う。

まずね、“知能は二歳程度”という表現にイラッとした。こういう言い方は確かによく聞く。でもこの基準はどこにおいてるの?文字が読めること?計算ができること?知能が二歳程度だから、彼はずっと二歳の子供であるってことな訳??
劇中の言い様ではそんな風に聞こえた。無邪気な二歳の子供、でも身体は大人だから、パニックになったら手におえなくて悩み続けていたと。
人間のモノサシに合わせて考えるから二歳、なんであって、彼はその年齢の彼であった筈。子供でも大人でも、その一人の彼として人間として相対することが、福祉の現場のみならず、人間同士としての当然の常識でなければ、あらゆる差別は撲滅できないじゃないの。

確かに今の日本は福祉が未熟だけど、相談できる窓口や施設は皆無ではない筈、あった筈。今の常識から考えて、彼らの息子への処し方は逆に虐待だと思ってしまう。
口だけで、息子と仲良く遊んでることをアピールして、でもそんな息子だから一度パニックに陥ってしまったら、自分たち親は疲れ切ってしまった、なんて、そんなの、あんまりだよ!
プロにも誰にも任せることなく、勝手に思いつめて、殺してしまった。それに対して同情するのか、美談とまでは言わないけど、親側だけに同情させるのか。

それは確かに、今の日本の未熟な福祉をあぶりだすことになるのかもしれないけれど、まず制作時点、クリエイター自身のそれへの無知があぶりだされているとしか思えないからさ……。
だから、妻への嘱託殺人、という、家族のもとに行きたいから死刑にしてほしいと願っている彼の想いが、叶えられないよ、とベテラン刑事が言う浪花節的結末にも、とても感動できないんだよなあ……。

なんかしつこく雨が降り続けているのも、うっとうしいドラマ仕立てだなあと思ってしまう。人の中の陰鬱さを映しているかもしれないが、まあこれも、いかにもな舞台くささだよね(爆)。
時々さ、舞台で表現されるシチュエイションを、映画に、つまり実写にしてみたらすんごくリアリティあるかも!!みたいな意識マンマンで移してくることあるけど、その悪しき例だよなーっ、と思う。
いつも雨が降ってる、っていうのを舞台で雨音だけでやった方が、それこそリアリティがあるんだよ。それを映画に移した方がリアリティあるかも、と思うのは、人間の五感を信じてないってことなんだと思うなあ。★☆☆☆☆


あん
2015年 113分 日本・フランス・ドイツ カラー
監督:河瀬直美 脚本:河瀬直美
撮影:穐山茂樹 音楽:
出演:樹木希林 永瀬正敏 市原悦子 内田伽羅 浅田美代子 水野美紀 太賀 兼松若人 村田優吏愛 高橋咲樹 竹内海羽

2015/6/15/月 劇場(新宿武蔵野館)
樹木希林演じる老女、徳江さんがハンセン病だったことを、イジワルな経営者の女から告げ口される段に至って、そういう話だったのか……とちょっとビックリした。それまでのあたたかなヒューマニズムの感覚に、突然現れた社会問題みたいな感じで、唐突な印象が個人的に否めない気がした。
この原作は学校図書にも選ばれたほどの良書として知られたロングセラーなのだから、単に予備知識のないままに対峙した私の勝手な言い分なのかもしれないけれども、そもそも河瀬監督が原作モノを手掛けるのがこれ以上ないぐらい意外な気がしたし(初めてではないの?)、それがこのどことなく感じる唐突感にもつながっている感じがした。

ハンセン病患者の強制隔離という国の重大犯罪は、恐るべきことについ最近になってようやくほどかれた。その時にも、なぜこんな現代社会になるまで、という驚きを禁じ得なかったし、それ以前もそれ以降も、私を含めあまりにも知識と理解がないまま来てしまった。
つまりハンセン病、というより旧病名、らい病というものへの刷り込まれたイメージを解かれないまま、国もそれをきちんと解く努力をしないまま、もちろん、国民である私たちも……。

なんてことを言ってしまったら、固い社会派作品になってしまう、ということが、原作者も河瀬監督も本意ではなかったのかもしれないけれど、まず埋められていない溝をいきなり市井のヒューマニズムに持ってくることが、今の段階ではまだ難しいように感じた。
いやでもそれは、私が劇中の中学生、ワカナのように柔らかな感性を持っていないからかもそれないけれど。

物語は、過去にけんかの仲裁から相手に暴力をふるってしまって重い障害を負わせてしまった、どら焼き屋の店長の男(永瀬正敏)から始まる。
彼はこの店の先代に慰謝料を肩代わりしてもらっていて、小さな間口のこの店で黙々とどら焼きを焼いている。時にキャピキャピうるさい女子中学生を追い払いながら。

そこに、働きたいとやってくるのが、徳江という老女(樹木希林)。時給は300円でも200円でもいい、と働くことにこそこだわる彼女の作るあんは絶品で、彼は雇い入れることになる。
あんが美味しくなったと店は大繁盛。しかし女経営者が、徳江はハンセン病だから辞めさせるようにと言ってくる。そのあたりから客足もピタリと途絶える。店長は店の常連の女子中学生、ワカナと共に徳江を訪ねてハンセン病療養所に向かう……。

映画の宣伝として目に見える部分にね、ハンセン病ということに触れていなかったのが気になったんだよね。原作が有名だっていうんだから、ただ単に私が知らなかっただけってこともあるだろうけれど。
チラシやポスターの外観、オフィシャルサイトのイントロダクションやストーリー解説にさえ、「心ない噂」としか触れられておらず、まず目に飛び込んでくるのは、一面満開の桜を嬉しそうに見上げて微笑んでいる樹木希林、という実に暖かな画づら。そして、「やり残したことは、ありませんか?」という当たり障りのない惹句。

まるで、ハンセン病、というキーワードを出してしまったら、客足が鈍る、とでも思っているように感じてしまった。それこそ劇中の、遠のいてしまった客足、顔の見えない客を象徴していて、顔の見えない客、というのはつまり、客を信用していないことだ、という気もしてしまった。
そもそも河瀬監督のような、自分の世界観を独自のドキュメンタリズムの中で描き出す作家さんに、原作モノ、それもアツそうなドリアン助川氏の著書というのが勝手ながらイメージだけでもしっくり来ず、“満開の桜”だの、“過去に傷ある男”だの舞台となる小さなどら焼き屋でさえ、河P直美の痛々しいほどのリアリティの世界の中では、まるで異質に思えて、何とも居心地が悪かったのだ……。

それは偏った映画ファンとしての偏った見方で、一つの映画作品として対峙して見れば素直に感動できたのかもしれないけれど、でもやっぱり、最も重要なテーマであるハンセン病を、宣伝の段階で完全に封じること自体が、アンフェアな気がして仕方なかった。
だからこそ、唐突な感じがしたのだ。唐突に社会派問題に突入するから、人物のエピソードのつなぎの中に入る形じゃなくて、まずハンセン病!!と斬り込んでくるから、そこからはまるで、河瀬節である柔らかなドキュメンタリズムじゃなくて、ハードなドキュメンタリー番組を見ている気がしてドキドキしてしまう。

確かに、その斬り込みを印象的に行う人物はいる。きっと先代はあたたかな人物であっただろう、と思わせる、それだけにヘンケン丸出しの女経営者である。
ハンセン病患者の話をしながら露骨に顔をしかめ、消毒液で手をこすりまくる彼女は見事に、それまでののどかなハートフル雰囲気の中にハンセン病というキーワードを唐突にぶっこんでくる。
ある意味強引な場面転換、これ以上ない起承転結の“転”を実現し、ヤな女を演じる浅田美代子氏の素晴らしさはアゼンとするぐらいなのだが、でも、なんか、ズルいと思う。結局は彼女だけがワルモノである。あまりにも、記号化されている。

確かにその後、客足はピタリと途絶える。それは、“世間って、怖いな”と店長さんが言うように、この女経営者同様、世間だって無知で無責任で冷たい生き物なのだ。
永瀬氏が自分と近い年代だからこそ、ハンセン病という大きな問題に対してのスタンスもきっと似ていると思い、彼の反応の仕方は凄く……身につまされるというか、共感できるだけに、自己嫌悪と社会への絶望の気持ちもダイレクトに伝わってくるのだ。

それは観客にも投げかけられること……の筈なんだけど、この女経営者だけが見事にヤなヤツで、遠のいた客足、は、遠のいているんだから顔が見えず、この作品を観ている観客も、自分へのトゲをハッキリと感じ取ることが出来ない。むしろ判り易くイヤなヤツである女経営者を嫌悪することで、自分はそうはならない、と思い、徳江さんを守れなかった、と苦悩する店長さんに同情して、私は判ってるよ!と思う。
それじゃ何にもならないのだ。人は無意識の悪意の塊。店に行かない、という選択は積極的な攻撃ではないから無自覚で、行かなくなった彼らはハンセン病だから差別したなどと、明確に自覚していないから始末に負えないのだ。
ハンセン病というキーワードから逃げ、きっかけを作った人物だけをワルモノにしてしまうことに、どうしようもない違和感を感じてしまう。それでいいの、それでいいのかと。

でも“それ”を追究してしまえば違う作品になってしまう、それこそ社会派ドキュメンタリーにでもなってしまう、ということなのかもしれない。
でも河P直美という映画作家こそが、そうした側面を少なからず持っているからこその、違和感である。ハンセン病というキーワードが出てから、やはり風向きは変わったと思うし。

実際に残っているハンセン病療養所(という名の強制隔離施設)にカメラは入っていく。ちらりと映る入居者たちは当然皆年を取っていて、鼻がもげたりといったドキリとする風貌の人も当然、いる。
小説上では結局は文字でしかなかった“感動物語”がホンモノになるのは、映画だからであり、河瀬監督だから、な筈なんである。実際の療養所、実際の患者さんたち。樹木希林や市原悦子が手に特殊メイクを施して演じる、ニセモノの患者ではないのだ。

浅田美代子氏は確かに素晴らしかったが、彼女が「未来の社長」として連れてくる甥っ子が、あまりにも見た目判り易く気力のない今風の(という表現自体が死語だってことが、このキャラ自体の問題を物語ってる)ワカモンだってことが、妙に気になってしまう。
判り易すぎる。あまりにも判り易すぎる。一見、見た目が今風でやる気がなさそうでも、中身は判らない。マジメでやる気があるかもしれない。それが作劇上の面白さである筈だし、現実としてもそうであると思う。

やる気のない子が、文字通りやる気のない風貌をしている訳ではない、そんなことは、現実に生きる誰もが判っている筈なのに、現代を描く映画作家自体が判っていないのだとしたら重大な問題だと思う。
かなりこの描写には気恥ずかしさとガッカリ感を感じてしまった。それともこの判り易さこそが狙いなのだろうか……いや……。

本作は樹木希林と実の孫である内田伽羅嬢が共演するというのでも大きな話題になっていた。「奇跡」でちらりと顔を見せていた彼女は、祖母自身の推薦で大きな役を得た。
お父さんの本木雅弘にソックリの、凛々しい眉と目鼻立ちでちょっといないタイプの美少女だが、河瀬作品に抜擢される新人さんが皆そうであるように、大きな可能性を感じながらも未知数MAX。むしろ役者に進まない方がいいんじゃないかと思える無垢さにハラハラする。

このワカナの存在は確かに気になるが、決定的な印象を与えたかと言われると、うーん、と思ってしまう。
彼女は恐らく母子家庭、男にだらしない母親との二人暮らし、という図式だろうか。この図式だけでなんだか単純すぎる感じがしてしまうし、どら焼き屋でできそこないの皮を大量にもらって、どうするのだろう……。食事代わりにするにも大量すぎるし、第一身体に悪そうだし(爆)。
きちんと洗い物をする場面がある(母親は缶ビールを片手に男に電話してる)シーンがあるということは、料理もできるということなんではないの??カナリアをうるさがる母親に追い出される形で、徳江さんのもとに連れていく訳だが、そもそもじゃあなんで飼いだしたんだろう……そんなに可愛がってる風もないし……。

このワカナの存在はなんかピンとこないんだよね。いやそれを言ったらみんなピンと来ないんだけど(爆)。徳江さんの不自由な手に気が付き、おずおずながらも真っ先に問いかけるのがワカナだし、後に告白するところによると、彼女が母親に徳江さんの手のことを言ったことが、女経営者の耳に入ったらしいし、キーマンであることは間違いないのだが……。
それにそんな、あの母親にそんなことを言うほど仲のいい親子では到底なかった、よね?そんなシーンもなかったし……。
老女と中年男性の間を取り持つ無垢な女子中学生という立場は魅力的だけど、母子家庭の中で孤独に生きている女の子、という感じは、確かに画的にはあったとは思うけど、それだけって感じで……。キャピキャピ女子中学生と対比させているだけに感じて……。

樹木希林と同じだけのキャリアを持つベテラン女優、市原悦子との共演も大きな話題だったが、市原悦子がこれが、なかなか出てこない(爆)。もちろん、出てきてからは柔らかでチャーミング、かつ強烈な存在感で釘付けにさせるのだけれど、樹木希林と市原悦子の共演!!とばかりに待っていたもんだから、かなり待ちくたびれた(爆)。
徳江さんはこの施設の中であん作りの技術を磨いた。一方で市原悦子演じる佳子は洋菓子作りを得意としているという。と、いう、部分は台詞で語られるのみであるというのも、残念だった。確かに市原悦子は登場してからはかっさらうのだけれど、市原悦子出しました!という感じで終わっちゃった感は、あるかなあ。

店長さんは自分のふがいなさに、酒に溺れ、涙を流し、する訳。永瀬氏はストイックな男優さんだが、涙も似合うというあたりが稀有な存在。
お酒は自分が失敗してしまった、人生を狂わされた原因。だから今は、甘いものは基本苦手なのに、どら焼きを焼いて生計を立てている。
なのに夕食に蕎麦屋に入ればフツーにビールもつけるし、落ち込めば自販機でカップ酒を買ってあおり、それどころか自分の店に一升瓶を持ち込みさえする。……うーむ、これがリアルな男の姿なのかもしれんが……。
でもこれじゃ、「(甘党じゃないなら)酒場で働けばよかったのに」と無邪気に聞く徳江さんに、彼より数倍どころじゃない重い人生を歩んできた徳江さんに、何も言うことは出来ないよなあ……。

樹木希林氏演じる徳江さんがどら焼き屋を辞めて、店長さんとワカナが訪ねてみると、急に老け込んでしまっていた。「歯を治しているの」というのは、実際の樹木氏の状態なのかもしれないが、歯が欠け、白髪をサンバラにした彼女は、いつも飾らない樹木希林ではあるけれど、それとはやっぱり、決定的に違って、急に老人になったように見えた。
まさに死ぬ手前に……老いよりも気力こそを失った……。これこそがベテラン女優の演技力だというのなら、女優というのは確かにバケモノに違いない!!★★☆☆☆


アンフェア the end
2015年 108分 日本 カラー
監督:佐藤嗣麻子 脚本:佐藤嗣麻子
撮影:佐光朗 音楽:住友紀人
出演:篠原涼子 永山絢斗 阿部サダヲ 加藤雅也 向井地美音 吉田鋼太郎 AKIRA 寺島進 佐藤浩市

2015/9/21/月・祝 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
本当に珍しく、連続ドラマから観ていたシリーズ。佐藤嗣麻子監督(ドラマ時は脚本)だったから観たのか、観た後で知ったのかは今となっては判然としない。でもあの時、ああ、確かにエコエコアザラクの監督の世界観だ!と思ったことは覚えている。
そしてそれ以降、佐藤嗣麻子監督の名前はこのアンフェアシリーズでしか聞かなくなった、というのは言い過ぎかもしれないけれど、少なくとも私は、それ以外で彼女の作品に接する機会がなかった。そしてこうしてエンドを迎えることになって監督の言葉に接すると、やはり彼女自身、アンフェアだけにとりつかれていたとも言うべき10年だったのだと改めて思う。
それだけ彼女の世界観にぴったりとくる作品だったし、篠原涼子の当たり役という以上に、佐藤監督の当たり世界だったのだ。

原作は連続ドラマの序盤で使い切っていたというのは初めて聞いたが、一冊の小説なら確かにそのあたりが限界だろうと思われる。でも、ならば、原作の中では雪平の追っている父親の仇は明らかにされなかったのか、と思うと意外な気もする。
あるいは、ヒロインのキャラ設定として、そうした暗い過去を背負っているという魅力でのみ付されたことだったのだろうか。
そう考えるとあくまで原案としての扱いになったともいえる“原作”者が、その後どんどん膨らんでいくこの世界をどう思ったのかは少々気になるところだが。

でも確かに、ドラマを観ている時からずっと気になっていた点が、“原作を4話で使い切っていた”と判ると妙に納得する部分もあるんだよね。アンフェアというタイトルは原作タイトルとは異なり、そして不条理や哀しみを想わせてとてもセンスが良かったと思う。このタイトルこそがまず、シリーズの勝ちの一要素だったように思う。
でも内容自体はアンフェアというよりは、裏切り、それも意外な人物の、という部分にシフトしていったように思う。それはエンタテインメントとしては非常に重要なことなのだけれど、最初こそは次々に意外な人物が裏切っていくので視聴者、あるいは観客を驚かせていたものも、この最終作に至ってはさすがにそこまで観客を騙せなかったように思う……。

てゆーか、私は前作まではフツーに驚いていたんだけど(爆)、ふと思い返して、なぜこの法則に気づかなかったのかと、いや気づかなかった訳じゃないんだけどやはりそこは、佐藤しまこワールドに酔わされていたんだと言い訳したいのだが(爆爆)。
雪平を裏切る人物は、どんどんネタ切れしていっちゃうんだよね。一番の頂点は、濱田マリ演じる蓮見の裏切りが発覚した時だったと思う。
あの時が一番のショックだった。ずっとずっと、雪平の良き理解者というスタンスだったし、なんたってあの濱田マリの人懐こいキャラだから、いきなり冷徹な裏切り者の顔を見せられて、まさか、という衝撃だった。今も忘れられない。

その後は正直、ゲストとして参戦する新入りさんの裏切り、というパターンが定着化し、確かに作劇は上手いし役者さんたちも当然達者なので驚くんだけれど、蓮見を超えるそれは、やはりなかったように思う。
でも前作、確かにその法則であった筈なのに、可愛い年下男、という近年の山田孝之には意外すぎるキャラにすっかり酔わされて、彼が裏切り者であることが発覚したラスト(しかもその見せ方が、バン!とドアップで上手いんだもん!!)には素直に驚かされ、いやそれ以上に、蓮見以来の衝撃となる、本当に信頼し続けていた同僚、がその裏切り者チームに加わっていたことに、倒れそうになった。

薫ちゃん。頼りがいのある鑑識のプロ。親友といっていいほどの信頼を雪平が持っている相手。加藤雅也がチャーミングなオフビートを醸し出して、ザ・モデル的なギャップから強い印象を与え、いわばシリーズの癒し的存在だったから、本当に倒れそうになったのだ。
まさかまさかまさか、薫ちゃんを裏切り者にするなんてあんまりだよ!と。その衝撃で前作は終わってしまった。だからいくらニブイ私でも、この最終作に接するにあたっては、そう簡単に騙される訳にはいかなかった。
薫ちゃんを裏切り者にするぐらいなんだから、もう100%、信用できる人間なんていないと、今更ながら思い至った。本当に、今更ながら。遅すぎるよ、私!!!

だから、今回のキーパーソン、永山絢斗君が、確かに意味深なナゾは振りまきながらもヤギ顔して信用させに至っても、騙されない騙されない、だって彼は裏切るんでしょ、とずっと自分に言い聞かせていた。どんなに心が揺れても、言い聞かせ続けていた。
結果的には、ホラやっぱりね、ということには確かになった。彼は雪平を裏切った。だけれども……やはりそこはさすがアンフェア、溜飲が下がるばかりには至らなかったのだ。

まあ、ぐだぐだ言ってもあれなんでざっくり概略いきますと……。雪平が父親の仇と共に追っているのが、父が追っていた警察の闇であり、本作はそれが検察、司法共にグルになっているということが発覚、雪平個人で追うにはあまりに深すぎる闇なんである。
前作で山田孝之扮する村上が握っていたのもその闇であり、本作で彼とその父親はそのトップの座を追われ、殺された。すげかえられたトップは、最高検察庁検察官である武部。
いくら穏やかなエリート顔で雪平に協力を要請する、なんていう形で接触したって、演じるAKIRAは今を時めくEXILEさんだし、主演を張れるぐらいの彼がワキにまわって時点で、尋常じゃなく重要ポストだというのが判っちゃう。そうつまり、彼も裏切り者なのだと。

なーんて言いつつ、本当に判ってた訳じゃない。ただ漠然と、信用できる人物なんて出てこないだろうということだけ。と、自分の感慨で横道にそれるとまた脱線するので……。
んで、その闇の証拠を握っていると近づいてきたのが、永山君演じる津島。いや近づいてきた訳じゃなく、物語の冒頭で殺されたことが明らかになった村上の殺害容疑で拘束されたという形だったけれど。

彼は雪平としか話をしないと言い募る。彼女だけが信頼できると。なぜか。「あなたが監視されているからです」こうしたミステリ要素のある物語の王道、本当の部分を混ぜ込むこと。
雪平が監視されているのは本当。いや、本当なのだろう……この辺も考え出すと、津島がどこまで実際人物だったのかと思わなくもないが、ただ一点、父の無念を晴らすために取り引きした相手が間違っていたこと、そしてその相手の言うことを信じてしまったことこそが彼の誤算、ひいては甘さ、弱さであり、それ以外はすべて本当だったのだろうと……思わせてしまうのが永山君の誠実な芝居であり、いや、確かに本当だったのだろうと思う。

トラックドライバーだった彼の父親は白バイとの接触事故を起こし、明らかに白バイに非があったのに、全ての証拠や目撃証言を握りつぶされ、有罪にされた。そして彼の父親は、自殺してしまった。
もうオチバレもバレバレで言っちゃうけど、彼が取り引きした相手は、まあ最初っからバレバレ度満載のAKIRAであり、ムリムリムリ、マトモに考えて、こんなヤツが約束守る訳ないじゃん!てゆーか、こんな卑怯な取引をする時点で信用できないだろ!!と思うのだが、わらをもすがる弱い立場の人間は、やはりそこまで思いが及ばないのだろーか。

どうも脱線しがちだが、もうめんどくさいからこのまま行く(爆)。ほとんどが真実をもって雪平に相対したからこそ、雪平は津島を信用したし、津島だって、信用されたことに対して確かな喜びはあった筈なのだ。
そうでなければ、その裏切りが発覚した時、あんなに哀しそうな顔をして雪平に対して銃を向ける訳がないし、雪平もまた、そんな事態になっても「あなたを信じる。私を殺していいから、この事実を世界に公表して。」(表現は違うだろうが、ゴメン、そんなニュアンス(爆))。などと言わない筈。
つまり、最初から、前作のような、山田孝之的冷たい裏切りフェイスを覚悟していたから、拍子抜け、じゃないな、なんかそれこそ裏切り、ズルい、と思ってしまったのだ。裏切った相手に対して、その裏切りの驚きではなく、憐憫を、そして親愛を、愛を、感じてしまうなんてさ!!

だって、津島は雪平に「人を信じてしまう。それがあなたの弱さだ!」と言ったでしょ。確かにそれはそうなんだ。あれだけクール、超クールなカッコイイスーパーウーマンである雪平が、孤高に生きているように見える雪平が、毎回毎回、性懲りもなく裏切られるのは、彼女が人を信じてしまうからなんだ。充分に慎重に見えながらも、結局は信じてしまうからなのだ。
それを津島は弱さと言った、確かにそうだと思う。でも津島はそれ以上に弱い。決して信じてはいけない人を浅はかに信じて、信じてくれた相手を裏切ったのだから。
そこが今までの、ただただ裏切られる相手に驚くばかりの展開と違ったかもしれないと思う。裏切り者にためらいがあったのだ。しかも彼は、ほとんどが真実のまま彼女に接した。つまりあまりに無防備だった。それだけ純粋だった。永山君がピタリだから、ズルいと思っちゃうんだ!!

ズルいといえば、前作のラストで裏切りが発覚した薫ちゃんが、実は味方だったなどとゆー、それはないでしょ!というそれこそ“裏切り”にはかなりのアゼン!
そりゃー、薫ちゃんだけには雪平の味方になっててほしかったけど、まさか薫ちゃんまでもが、彼だけはあり得ないと思っていたのに……という部分を、いわば甘ったるくひっくり返されたもんだから、えーっ!と思っちゃう。

まあ、彼自身が“兵隊”として仕えていたその立場をひっくり返しちゃったから、なんと殺されてしまう!!という薫ちゃんが殺されてしまう!!というオドロキこそが、本作においての、裏切り以上に観客を驚かせる要素だったのかもしれんが……。
それこそアンフェアをずっと見続けていなければ、薫ちゃんが裏切り者であった、あるいは雪平をかばうがために殺されてしまう、ということがどれだけ衝撃か、というのは判らない訳だし、正直、この最後に至って少々のネタギレ、苦し紛れの逆転ネライ、のような気がしないでもないんである。いや、前作からつながって考えられていたのだとしたらゴメンナサイなんだけど(爆爆)。

もう一人のキーパーソンは、元恋人、一条役の佐藤浩市。前作で死んだ筈……というのもうろ覚えだった時点でもうダメだが(爆)、それが実は生きていた、というのはそりゃあんまりだわと思っちゃう。
死んだはずが生きていた、というのは正直、最も使っちゃいけない手だと思う。奥の手、ではあるんだろうけど、これをやられると全てがOKになってしまう。

だから薫ちゃんが撃たれて死んでしまっても、もう明らかに眉間に撃ち込まれても、実は死んでないんじゃないかとずーっと待っちゃう訳。実際、薫ちゃんに関しては、裏切り者の筈がそうじゃなかった、という禁じ手を一度使っているから、またそうじゃないかと思っちゃう訳。
でも薫ちゃんの死は雪平には一時のショックしか与えず、娘の危機にこそ翻弄されてしまう。まあそれは仕方ないんだけれど、それ以降すっかり忘れ去られているような薫ちゃんが不憫で……。

シリーズからずっとレギュラーで、雪平と表面上は対立しながらもナイスな関係を続けてきた、残り少ない(爆)キャラの二人が、阿部サダヲと寺島進。
同じようなスタンスだった薫ちゃんがまさかの裏切り者にチョイスされちゃったから、あとキャラも残り少ないし(爆)、彼らもそうなのかぁ、とハラハラしたが、AKIRA氏扮するトップもトップ、超トップの最高検察官からの圧に、阿部サダヲは屈しそうになり、寺島進は屈する気もないどころか、彼から殺されかけたのにジョークみたいな運の強さで生還、二人ともまるでアメリカの青春映画みたいなさわやかさで雪平の応援に回る。

ま、マジで、なんか今までのアンフェアの雰囲気と違う!!そらまあ結果的には津島も一条も死んじゃう訳だけど、最終章だから、雪平はすべての闇を海外メディアに告発して、いわばメデタシメデタシであり、そんなの、アンフェアじゃない!!
いつだってアンフェアは、言いようのない不安を観客に重しのように持たせて、カタルシスとか爽快感とかからは一番遠いところにいたのだ。でも、仕方ないのか。これは最終章、観客の思いに答えなければすっきりと終わらないのだろうが……。

元恋人の前では、彼が父親の仇だと知っても弱い女でしかいられなかった雪平は、今までとは似ているようでどこか、違った。
ドラマが始まった時にはまだほんの子供だった娘が思春期を迎えていることにも感慨を覚える。こういうことが、シリーズのだいご味。

時間を早送りした冒頭と、それに追いついたラストで美しいバックヌードを見せた篠原涼子=雪平。背中からヒップ、すんなりと伸びた足、たまらなく美しい。でもやっぱりそこまで見せても、篠原涼子はおっぱいは見せないのね!!!★★★☆☆


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