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「わ」


2017年鑑賞作品

わが愛
1960年 97分 日本 カラー
監督:五所平之助 脚本:八住利雄
撮影:竹野治夫 音楽:芥川也寸志
出演:有馬稲子 佐分利信 丹阿弥谷津子 田代久美子 谷昌和 高橋とよ 川口京子 河野秋武 安部徹 笹川富士夫 陶隆司 青山宏 中台祥浩 福岡正剛 石井トミコ 乙羽信子 水原真知子 東山千栄子 浦辺粂子 左卜全 左多美子 中村是好 関千恵子 和歌浦糸子 小田切みき 鈴木房子 夏木恵梨 二葉和子 西村公恵 椋橋麗子 高岡成計 立花広二 小田草之助


2017/3/19/日 劇場(神保町シアター)
不倫を純愛だと信じて突き進む女の物語は、古今東西なくならない。いや、そもそも純愛の定義とは何だろうと考えてしまう。
本作のヒロイン、有馬稲子の清冽な美しさは、略奪愛とかいうようなドロドロとしたものとは遠く無縁に見える。しかも彼女の存在は本妻に知られぬまま、そして許されぬ仲の筈の二人は周囲から温かく見守られるという、信じられぬ展開まで見せるのである。これを純愛と言ってはいけないのだろうか。

ちょっと、不満はある。あまりにもヒロイン側、つまり不倫相手の女性、きよ側にしか立たないからである。
そらぁ、奥さんは彼女の存在さえも知らぬのだから、奥さん側の気持ちは乱されることはないから、それはムリというものだが、きよから見れば「夫を信じ切って、家庭の中にどっかり座っている。その自信が憎い」とまで言われちゃうんだから、奥さん側に反論の余地がないのがかえって不公平のようにも思えてくる。

私はフェミニズム野郎だから、女のどちらにも加担したい気持ちがある。結婚なんて単なる契約関係だから、恋愛としての“不倫”を許せないことだなんて思わない。それに男性は異なった愛情を同時に並列に持てる生き物だしね……。
だから殊更きよ側にシンクロしたり、あるいは反発したりはない。それは奥さんも同様だが、あまりに奥さんが蚊帳の外に置かれているのが、フェミニズム野郎としては女として悔しいなあと思っちゃうんである。

不倫は古今東西……と言ったが、本作のきよは、それを習った(というのとはちょいと違うが……)芸者のお姉さんの心持とはやはり違う。時代の絶妙なタイミングのズレというか、過渡期なんである。
きよが運命の相手、新津に出会ったのはまだまだおぼこ娘であった17の時。身を寄せていた芸者の待合のお得意さんが新津で、秀弥姐さんが「何とも言えずいいのよ」と新津に入れあげていたんである。

しかし後に新津が戦況に伴って姿を見せなくなり、秀弥姐さんも芸者を廃業すると、彼女はあっさりと新津への想いを捨て去り、やっぱり男は余裕とカネよね、などと言って新天地に向かう。
つまり、この当時の不倫は不倫と言えない、芸者と客との関係はあくまで疑似な恋愛に過ぎず、それを双方ともに判っている大人の遊びだった。
勿論その中には本気のドロドロもあっただろうけれど、秀弥を演じる乙羽信子のチャーミングな色気と、粋な遊び方をする紳士といった佐分利信の風情が、そんな時代を、ちょいといい時代だったかもとフェミニズム野郎の私にさえも思わせてしまった。
乙羽信子、可愛かったなあ。あのえくぼがたまらない。大人なのに少女のよう。きよの新津への気持ちを知ってて、新津との花火見物に誘うのだ。そして同じ蚊帳の中で、「きよちゃん、寝た……?」そ、そんな隣で、何やる気なの、ヤダー!!

……とゆーよーな、大人の恋愛事情を、まだ何も知らぬ、おさげにリボンなんぞくっつけているきよは間近で見聞きしてドキドキする。きよの新津への想いは、想いというより思慕とか憧れに近かったんじゃないかという気もする。
恋愛感情よりも、大人の恋愛の生々しさを間近で見せられた衝撃。そしてコトが終わって、新津は眠っている(フリをしている)きよの耳元にささやいたのだ。「大きくなったら、浮気をしようね」なんと悪い男!!!

その彼の台詞をずっと胸に抱き続け、戦争が終わって女学校を卒業しても縁談に耳を貸さず、ずーっと過ごしていたきよの元に憧れ続けた新津が現れたら、そりゃあ火が付くってもんである。
ちなみに新津は新聞記者。戦争中からリベラリズムの思想の持ち主で、そのことでお上からはあまり覚えめでたくなかったという気骨の持ち主。きよはそんな新津の仕事をまめまめしくスクラップブックに集めていた。

でも新津は記者を辞めるという。中国塩業史(なの?中国のなんかの歴史とは言っていたが……)を山にこもって執筆したいんだという。しかもたった一人で。
きよは、なぜ奥さんはついていかないのかしら。私なら絶対についていく!!と奥さんへの非難を口実にするような勢いで彼を追っていってしまう。まーその前に、彼女をそこまでの行動に駆り立てちゃうだけの出来事があった訳なんだけど……。

つまりは処女喪失、だろうなあ。新津が戦争中、上海へ立つことになってあいさつに来た夜、家には帰るから起こしてくれという彼をきよは起こさず、空襲警報を言い訳にして、「悪酔いなさったので……」などと奥さんに電話をかけちゃう。
この時点でカワイイ顔してなかなかコワイ女だと思うが、なんたって純愛をカクレミノ?にしているんだから、ちょっとそのまま見せきっちゃうんである。
当時だからナマな描写はないけれども、だからこそのなまめかしさ。お手伝いさんが当番の夜回りに行っている間にふすまをカタリと閉めて、空襲警報が鳴り響く中での、恐らくは彼女にとっての初めての秘めごとは、「あの時のことを覚えていないのか」と彼に問いかけたくなるのは仕方ないほどの出来事。

それとも最後までは行ってなかったのかなあ。「初めて接吻なさった時も、そんな困った顔をなさってた」なんていう台詞が後から出てくるから、キスだけで済んでた??だから覚えてなかった??まさか……覚えてなかったふりをしていただけだとは思うけれど。
彼は家族を愛している。先述したけれど男は違う種類の愛情を同時に並列に持てる生き物だから。根本的に女とは違う。
だから古今東西永遠に争いが起きるのだけれど、そこで怒ったってどうしようもない。そして彼のようにそれを自覚して、双方にすまないと思っている男はまだマシなのだ。

なんてことがあったから、だって少女の頃から思い続けていた相手だから、きよは山へ向かう。そうそう、その前にちょっとしたエピソードがあって、金持ちの男に鞍替えした筈の秀弥姐さんだけれど結局騙されていて、金に困って新津に無心し、彼はそれを快く引き受けた。
きよは秀弥姐さんが勝手だと憤るが、新津は彼女のことが好きだったからとあっさりと言っていたと聞き、思わず口をつぐむんである。
このエピソードはそれまでの時代の、不倫というにはちょっと違う、契約関係外の男と女の機微を実に上手く見せていて、でも新津オンリーラブの幼いきよにはそこんところがまだまだ理解出来ないのだ。
奥さんがなぜ、山奥に新津を一人で行かせたか、そこには奥さんにも苦悩があったのだということにまで、想いが及ばないのだ。

物語の冒頭は、久しぶりの上京の最中に酒が過ぎたせいか、突然死んでしまった新津の通夜の席から始まっている。原作のタイトルは「通夜の客」まさにそれがきよであり、突然弔問にやってきた美しく若い女の正体を、奥さんは当然のごとく、その場にいた誰もが知らない。
しかし彼女と新津は連れ立って久しぶりの上京を果たし、山奥で三年の月日を夫婦同然に過ごしてきた。そのことを、この場にいる誰も知らない。

その山奥に行かせたことを奥さんが「新津の思うとおりにするのが一番だと思った」と言いつつ後悔の念を見せるのが、冒頭でその言葉だけ聞いていた時にはなんせ事情が判らないからピンと来てなかったんだけれど、奥さんの気持ちはとってもよく判るのだ。
奥さんはきよの言うような、「家庭にデンと座って、夫のことを信じ切っている憎らしいほどの自信」なんていう女性では決して、ない。お上からは覚えめでたくなかった新聞記者である夫、そこを突然やめて山にこもった夫に、不安でなかった訳があるだろうか。

そういうことを、やっぱり考えちゃう。きよは若く美しく純愛に突っ走っているけれど、そういうことに考えが及ばない。奥さんへの愛情の方が本物なんでしょ、とかすねちゃう。
そして良くないのは、男の方もそんな感情を上手く彼女に理解させきれないことなのだ。でもまあそれはムリもない。だってそれは、「奥さんも愛しているし、子供のことも大事だし、君のことも大好きだ」と臆面もなく言うことを、彼だけを見つめている女に理解させるという難題なのだもの。

押しかけ女房のきよを、山村の人たちは最初、うさんくさそうに見ている。本妻さんのことを知っているから、まあ道義的に当然、そーゆー目で見ちゃう。
しかし、ある嵐の日の後、なぎ倒された墓石を新津と一緒に直している様を村の老婆が見て、一気にその氷が解ける。てか、それをやり出したのは新津であり、きよは最初、あなた、何してんの、と怪訝そうに眺めていたのに(爆)。

まあとにかく、村人とすっかり打ち解けるきよ。この描写はなかなかにフシギである。こんな保守的な山村の人たちにとって、彼女と打ち解けたとはいえ、彼らの関係がどういうことなのかは判っている筈であり、道義的な矛盾も頭をかすめる筈。
でも墓地の一件で一気に融解すると、取材と称して東京に帰っていって家族に会ったり、奥さんからの手紙を彼女の目に触れないように工夫している新津のことも勿論、そのことに傷ついているきよに深く同情しているというのがね……。

かといって奥さんのことを悪者にしている訳でもないし、二人の存在をこの村の人たちだけが知っていて、新津が頓死して、それが偶然二人で上京した時で、焼香出来て良かったね、と心から声をかけるのがさ……。
んで、奥さんに二人の生活の跡を見られたくないというのも理解してくれて、掃除や道具の片付けも率先して引き受けてくれるでしょ。
で、彼の未完の仕事を、女字じゃマズいから、代筆して奥さんのところに送ってくれるとか、もう村民、みんなきよの味方なのだ。別れる時には涙を流したり、なんか、なんか、凄いな、なんなんだー!!

きよにはわだかまりがある。この三年間の生活はなんだったのかと。彼は私をどう思っていたのかと。最初は東京に、彼一人だけが行く予定だった。その前の時に、東京には行かない予定だったのにこっそり寄っていたのがバレていたから。
子供に会いたかったからと彼は言った。それはそうだろう。でもきよはそれだけとはとらなかった。勿論、子供の問題も彼女にとっては苦い要素。でも、子供につながるのは奥さん。奥さんへの愛情がそうさせたのだと、彼女は嫉妬するのだ。

だから次の東京行きの時、最初は理解ある風を見せていたのが、見送る途中、戯れのように両手を広げて行き先をふさいだ。何度も何度も。次第に戯れの雰囲気が失われていった。
新津は怒れなかった。寂しい顔で「……戻ろうか」と行った。あの時、きよは負けたような気がする。

その後、二人で東京に行くことになって、新津は死んでしまった。当然のように奥さんの元に引き取られた。誰もきよの存在も知らずに。
でも負けっていうのはそういうことじゃなくて。きよはもともと期間限定と覚悟していたし、奥さんに返してきたとヤケ酒を飲みながらもそう言い聞かせていたのだから。
でも、そういうことじゃなくて。最後まできよは新津に大事にされていたけれど、彼から本音を言われたことがなかった気がしてさあ。彼女の本音を大事に受け止めて、彼は一人、すべての愛する人に対して苦しんで苦しんで死んでいったような気がして。

そう思うからかな、最後の最後、村を出るきよ、あの人が最後に言いたかったのはなんだったのか、白い布をとった時、ピクリと眉が動いたような気がしたあの時、あの人は何を言いたかったのかと自問する。
豪雨が襲い、雷に打たれて、まるで天命のように彼女の頭にそれが降ってくる。あの人はありがとうと言ったのだと。そして私はあの人を愛した、愛したのだわ!!と。絶叫、である。

有馬稲子はとても素晴らしかったし、切ない愛情に胸を打たれたが、若干この最後には引く気持ちは正直、あったかなあ。まー、あなた自身が愛していればそれで良かったのね、みたいな。
基本フェミニズム野郎だが、それは女自身が自分の足で立って周りが見えていなければまるごと味方する気にはなれないのよねー、というか。

だってさ、山奥の彼のもとに行って「こんなことだろうと思った」と男臭い片付かない様子に嬉々としておさんどんするのもさ、奥さんがなぜついていかないのかと思った理由にそこが直結している訳でしょ。
それは愛情という問題じゃない訳でしょ。男の世話をすることで女が自分の足で立っているとは思えないワケ。女中じゃないんだからさ。まあ時代だからしょうがないけどさあ……。★★★★☆


笑う招き猫
2017年 127分 日本 カラー
監督:飯塚健 脚本:飯塚健
撮影:山崎裕典 音楽:海田庄吾
出演:清水富美加 松井玲奈 落合モトキ 荒井敦史 浜野謙太 前野朋哉 稲葉友 那須晃行 中西茂樹 犬飼直紀 森田想 諏訪太朗 岩井堂聖子 嶋田久作 市川しんぺー 中村倫也 角田晃広 菅原大吉 岩松了 戸田恵子

2017/5/7/日 劇場(新宿武蔵野館)
「暗黒女子」で清水富美加見納めかと思っていたら、もう一本あった。いや、まだあるらしい。つか、別にこれからだって充分に彼女が出てくる可能性はあるのだけれど。
それにしても、先にドラマ版があったことは知らなかったので、マズったかな、と思う。そーゆー“こっち観とかないと、世界観理解できないゼ”てなことに、凄く怯えちゃうのだ。でもドラマ版では、ネット動画を作る二人の日常に絞っていたらしいから、大丈夫かなあ(怯えすぎ)。
でも若干、本作自体もオムニバス的というか、売れない漫才師としてテッペンとることを目指して頑張る二人のエピソードのいくつかをピックアップしている、という感があり、一つの物語としてのダイナミズムがあまり感じられなかったのが、それがドラマからの流れだからなのかと思っていたが、そーゆー訳ではなかったのね、という……。

アカコとヒトミ。それが二人のコンビ名。売れない漫才師。大学時代の同級生、ただいま27歳。出会って7年、コンビ組んで5年。舞台に出る前は「行くよ、アカコ。合点、ヒトミ。」が合言葉。
稽古や舞台やささいなことで始終ぶつかってはヒトミが「もうやめる!!」と叫ぶものの、やっぱり戻ってきちゃう、腐れ縁の恋人のような関係。
アカコはけんかっ早くて、時には先輩を殴っちゃってクビの危機になったり。ヒトミは元カレが忘れられなくて芸人を続けることを悩んでいたり。

アカコに扮するのが松井玲奈。ヒトミに扮するのが清水富美加。松井玲奈嬢の変貌ぶりに驚く。本当にいそうな……ちょっとオセロの松嶋さんみたいな雰囲気があるような、男気あふれるヤンキー娘。しかし実家はセレブで家事手伝い。
アカコに誘われて漫才師を目指すことになったヒトミの方は、実家が浜松の超庶民。バイトしながらの売れない芸人生活で、当然のようにぶつかるのはその生活レベルの差。
軽いうちはネタで済むし、まさにそれがネタのようなもんなんだが、激昂してくると「バイトしたことないあんたには判んないよね!!」というお決まりの台詞。でもそれは、元カレへの未練を隠していたり、いろいろフクザツなことが、あるんだけど。

今さらりと“ネタで済むし”と書いたが、それこそヤンキーの見た目でセレブ女子というギャップと庶民女子の二人はいかにもネタになりそうなのに、そういやー、アカコとヒトミはそのことは一切ネタにしてなかったよな、と思う。アカコがお金持ちのお嬢様の、バイトなんか一切しなくていい家事手伝いさん、というのが見ている間中ちっともピンとこなかったのはそのせいかなあと思う。
すごーくもったいない気がする。なぜ?なぜ?なぜそれをネタにしないの?そういやー本作は原作からかなり逸脱しているらしいが、そのあたり?いや判んないけど……でも個人的には“原作を独自に解釈”とかゆーの、あまり好きじゃない、てか、キライ。ならば原作の意味ってなんなのと思っちゃう。

脱線修正。で、先述したが、いくつかのエピソードを積み重ねていく方式、なのよね。最初に登場するのはいじめられっ子男子中学生との出会い。
イジメの描写はカバンを持たされているという程度だが、程度、などというのは好きじゃないけど……でもそれにしても、「逃げたら逃げ癖がつくよ!!」とアカコが叱咤するのが、まあ判るけど、判るけど……今の激烈なイジメ事情を鑑みると、そんな単純に、こんなワンエピソードで入れ込むのは危険だよなあ、と思う。

つーか、私は、イジメはもう逃げちゃえ、それしかない!!という意見の持ち主なんで……なんでいじめられているこっちが闘わなければいけない義務を課せられるの、それこそ不公平だ!と思っちゃうんで……。
いかにもワンエピソード、なんだよね。夜の校舎に忍び込んでいじめっ子の机を校庭に放り投げちゃう、その後、勝ったらライブに来い!つって、顔にバンソーコ一個貼ってるだけですがすがしい顔で来てる、って甘い、あまーい!!あんまりイジメを軽く扱ってほしくないんスよ、しかもイジメ女子と仲良く来てるとか、ありえなーい!!

……落ち着こう。順序がどっちが先だったか定かではないが、先輩芸人とのトラブルの話。
テレビに出て調子こいてる先輩が、ヒトミの胸をモミモミしたのにアカコが激昂、ぶん殴って舞台に躍り出て、なぜか先輩の下半身まるだし(爆)。そしてクビの危機に陥る。
アカコとヒトミの幼馴染で気のいい仲間、自転車屋の蔵前と、蕎麦屋の大島が、アカコがライブがある筈の日に草野球に参加しているからヘンだなと察知する訳。

しかしこん時の仲直りのきっかけっつーのもなんつーか、ヒトミのバイトしている弁当屋の主人と愛人の痴話げんかからの傷害事件。切羽詰まった目の岩井堂聖子嬢は楽しかったが、彼女は後に彼と共に二人の合同ライブに訪れて、ひと笑いもしないのがコワいんである。
つまりこの時点でのアカコとヒトミの実力はその程度であり、テレビに毒されたと先輩を批判する資格もないんであった。

そもそもこの物語は大学時代の同級生、土井とヒトミが偶然再会するところから始まる。いや、その前か。カラオケボックスで稽古していたアカコとヒトミが毎度の大げんかで、「もうやめる!!」から始まるんだった。
土井は学生時代のイベントノリでやっていたそのまま、撮影現場で録音の仕事をしていた。まだまだぺーぺーで怒鳴られてばっかり。それでも辞めないのは、現場で先輩のアツい思いに出会ったから。演じるのは前野朋哉。彼と浜野謙太が同時に出ているってのが、短身俳優そろい踏み、って感じで楽しい。
彼のみならず、今頑張っているかつての友人たちの姿がアカコとヒトミに力を与える、ってトコなんだけれど、なんつーか、脇役登場、程度にしか思えないのがツマラナイっつーか。

浜野謙太扮する和田先輩の方は、いまやすっかりくすぶったサラリーマンに成り下がってしまった。「全然、和田先輩っぽくない」と二人にガッカリさせるだけの人物ってことなんだけれど、そう二人が言った後に解説めいた過去回想でその雄姿が語られる程度って感じで、観客の方に、そうそう、和田先輩っぽくないよね!!と思わせられないとツライっつーか。
彼はちゃんと和田先輩っぽさを取り戻して、ガマンばかりしてきたサラリーマン生活に自ら“アツく”辞表を叩きつける。

でもさ、なぜ二人に“和田先輩っぽくない”と言われたかっつーと、二人との久しぶりの再会で飲んだ居酒屋の席で、サラリーマンをいわゆる奴隷扱い、会社人間を侮蔑しまくったケツの青い大学生の意気揚々とした罵倒を、和田先輩がただ黙って、スルーしようとしたからで。
で、最後の最後には、「就職もしてないガキに何が判るんじゃ!!」と飛び蹴りまでお見舞いする訳でしょ。それはつまり、和田先輩が、歯を食いしばって頑張っているサラリーマンたちをバカにするな、それが日本を支えてるんじゃ!!という意味合いだったんじゃないの。
なのにその後、アツい辞表を、しかもナマイキな後輩ににぎりっぺ付きでたたきつけるとは……何この矛盾……歯を食いしばって頑張っているサラリーマンたち(私もじゃ!!)の立場はどうなるんじゃー!!

……若干またまた脱線してしまった。そんなこんながあって、とゆーか、そんなエピソードの度に、彼女たちの合同ライブに足を運ぶメンメンも増え、アカコとヒトミは敏腕マネージャーの手腕でテレビの仕事もゲットし、生活も安定しだす。
しかしそこに暗雲が。ヒトミが元カレからプロポーズを受ける。そしてマネージャーが実家の事情で会社を辞める。この二つは全く関係のないことだし、確かに信頼していたマネージャーが辞めてしまうことはツラいことだけど、いつもはなだめられる側のアカコの方がヒトミを慰め役にまわる事態なのが、不穏な空気を醸し出すのだ。
豪雨のバッティングセンター。アカコはある瞬間で敏感に察知する。マネージャーの話にまぎらしているけれど、この先を迷っているのは、男がいるからだと。

いまだに、こーゆー話になるのかなあ。男の漫才師だったら、彼女が出来たらとか、彼女と結婚するから、てことで辞める辞めないとか、そもそも漫才を続ける続けないとか、そんな話には……ならないとは言わないけど、こんな風に根本的に突き付けられることは、絶対にないのに。
やはりやはり、いまだに日本は封建社会、結婚が永久就職、そんな言葉もう、死語だと、ミイラ語だと、思っていたのに!!!

元日のライブをひかえているのに、ヒトミは実家に帰ってきてる。その前のライブから絶縁状態でキャンセルになった二人は、もう絶体絶命。
両親、特に母親の方は、アカコがこっちに向かっていることを知っていたんじゃないのかなあ。そうでなければ、深夜に娘を散歩に出させるなんてしないんじゃないのかなあ。
かなーり、ここは不自然だった。実は知っていた、ということがちっとも示唆されないからまるで偶然の様なまま進んでいくのが、なんか居心地悪くって。

それまでも何度かあったんだけど、時間がかつてに巻き戻されて、若かった頃の、最初のモチベーション持ってた頃に、戻っていく。アカコはほとんど変わらないけど、ヒトミを演じる清水富美加嬢の、あきらかにウィッグってな頭がなんかギャグみたいでツラい(爆)。
で、まあこの重要なクライマックスでは、ですね、両親の脳裏に、いや、ヒトミの脳裏にかな、やっぱり、に思い出されるのは、アカコが「ヒトミさんを私にください!!必ずや一人前の漫才師になりますから!!」とまさにプロポーズの言葉を発した場面なのであった。
こんな言葉をもらった記憶があったら、そりゃーオシャレなレストランで指輪見せられても、この“恋人”の元にいくであろう。

……あ、しまった。その前に重要エピソード、忘れてた。テレビに毒されてすっかり天狗になってしまった先輩芸人の単独ライブにシークレットゲストで呼ばれた二人、客前に立つこと自体が久しぶりの先輩芸人、すっかり浮足立って客に罵声を浴びせて引っ込んでしまう。
その窮地を見事救ったのが、いつのまにやら実力をつけたアカコとヒトミだった。彼女のマネージャーは、先輩芸人たちのこともかつて面倒見ていた。同じ言葉が、二組を鼓舞した「負けんじゃねーぞ!!」
先輩芸人が立ち直るのも早すぎる気がするが(爆)しかしここは確かに、一つのクライマックス。

だからこそ、ラストシーンが際立つのだよね。あの時はまだシークレットゲストに過ぎなかった。テレビに出ることへの葛藤、ただ舞台で勝負したいという気持ちと生活をしていかなければという悩みを抱えてきた彼女たちが、いろいろ潜り抜けてギリギリに間に合った元旦ライブは、先輩芸人と同列の大きなクレジット。
心配そうに待ち続けて、舞台をつないでいてくれていたのは、前回とは逆にその先輩芸人。「負けんじゃねーぞ!!」舞台に飛び出していく。その後、ワンカットで撮られた二人の漫才は素晴らしくスリリングで、勿論ネタをプロの漫才師が作っているということはあれど、とっても素晴らしかった。このシーンだけで語られても、いいぐらい。

タイトルでもある、“お母さんの形見の招き猫”が正直全然響かなかったんだけどもね……。招き猫、もうちょっといろいろ可愛かったらよかったのにな。猫好きとしてはっ。★★★☆☆


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