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今はあんまりなくなったかなぁ。恐らくそれは、長回し神話というのが、フィルムにおける限界のワンカットの長さに挑戦する、みたいな意味合いもあったからかもと思う。
今の時代、厳然たるフィルムで撮る映画は、少なくとも日本では絶滅した、と言っていいんじゃないか。今でもピンクではフィルムで撮っているのかなあ。でもピンク自体がもう絶滅寸前といった感じだし……。
だから、今の時代には、長回しである意味というのはほとんどなく、私の中では懐古趣味と言ってもいいぐらいのことだと、思っていた。まさかまさか、映画一本ワンカットで撮ろうなんてことをする作家が出てくるとは、予想もしなかった!!
松居大悟。現代日本映画界を走り続けるトップランナーの一人だろう。若いという以上に、チャレンジ精神と疾走感にあふれている。「私たちのハァハァ」
で若手役者を輝かせる手腕は実証済みだが、その緊張感をワンカットの74分に閉じ込めるなんて、並大抵ではない。
74分というのは、確かに映画では短い方に違いない。舞台なら一発で2時間3時間あるよと言われるかもしれない。
でも奥に引っ込むことも出来ず、場面転換も全て映され、ドアップのカットに耐える繊細なぶつかり合いの演技をし続けなければいけないこの緊張感をそれと一緒にしてほしくないと思う!!
てゆーか、ここではよく言っているけれど、映画ファンとゆーのは芸術の先輩である舞台に対する臆する気持ちが常にあって、一発勝負の中に誇りを見出す舞台に対して悔しくも憧れの気持ちもあって。ああだから、本作が舞台が舞台(シャレじゃないけど)になっているということに、勝手に感慨を覚えたりしちゃうのだ。
監督自身は、どこまでそこんところ意識的なのかなあ。私が勝手にそう思っちゃってるだけかなあ。いやでも、舞台が中止、という設定自体が、監督自身が体験したってことだというんだから、だからカットをかけたくなかったって言ってるっていうんだから、やっぱりやっぱり、凄く意識してるってことだよね!!
そう、舞台が舞台、なんである。しかもその舞台は上演されることもない。チケットが売れずに中止になってしまうんである。なんと皮肉な。
いわば映画ならばそんなことはあり得ない。正直どんなクソ映画であっても(爆)お金を集めることが出来てスタッフキャストがきちんと仕事をすれば、公開できるかどうかが別としてってだけで、映画は出来上がるだろう。
でも本来、チケットが売れなければ、というのは、確かに根源的なことなのだ。チケットも売れない内にモノだけが出来上がってしまう映画というものを考えてしまうと、またまた複雑な気持ちに陥ってしまう。
やっぱりやっぱり、そーゆーことを監督さんも計算ずくでの本作なんじゃないのと思っちゃう。しかもしかも、この舞台は演技の経験を問わずにオーディションで抜擢されたフレッシュな若者たち、多くの子たちにとって初舞台であり、思い入れもハンパない。そんな“大人の事情”が受け入れられる訳が、ない訳で。
ワンカットでも、フィックスではない。それならどんなに楽だろうと思う。それこそそれなら舞台で充分だ。だなんて、ついつい挑戦的な言葉が口をついて出てしまう。
オーディション抜擢組の若手キャストだけでも8人、稽古場から控室、そして外の通りに飛び出し、上演されるはずだった劇場でまで暴れまわる。そしてこれは稽古が始まり、公演中止が決定し、それにあらがって上演されるはずのない舞台に突入する、という、実に数か月の物語を描いている。
ワンカットの中で、稽古場のビルの中、そして往来を雨の中疾走しながら、そして侵入した劇場の中で大人たちに追いかけられまくりながら、日にちが経過していくのだ。
なんということ、なんということ!!時に生着替え、時に夜中にこっそりパーティー(という名のおしゃべり。可愛すぎる……)、監督に対する反発や、プライドや演技論をぶつけ合って、最初はぎくしゃくしていた彼らがどんどん、若芽がぐいぐい伸びるように成長していく。
そう、もう、暴れまわると言いたいぐらい。本当に見ていてほっぺたが赤くなるぐらい、青春の熱に満ち溢れている。ああ、今のワカモンでも、そんなに熱があるのかなと嬉しくなる。
ヒロインの森田想嬢が本当に凄い。いくら経験問わずと言ってもそりゃオーディションを行えば経験のある子が採用される、その中でも実力をハンパなく感じる。
稽古シーンでの安定した演技力もそうだが、監督に注意されて納得いかない表情をしたり、仲間に対して愚痴を言ったり、公演中止が決まっても納得いかずに仲間を巻き込んだり、ファムファタル、そうだ、ファムファタル!!久しぶりにそんな言葉を思い出した。
コケティッシュな小悪魔キャラである以上に、運命をひっかきまわすファムファタルなのだ。彼女は時に、現実の自分と役がごっちゃになる感じがする。いやそれはすべてのキャストがそうなんだけど。
だって、この初舞台に臨む若者たちのために、舞台の役名も彼ら彼女らの名前そのままを使ってる。最初の顔合わせの時に、監督(松井監督自身)が、だから混乱しないようにお願いしますと言ったが、もうこれはホント、ジャブみたいなもんだ。
混乱するに決まってる。てゆーか、それを前提に、それをウリにして本作は展開している。
本当の本当は、森田嬢演じるヒロインは、そこまで周りを振りまわしたり、小悪魔的なキャラではないのかもしれない。いわば、この舞台の稽古、そして中止になったことで余計に彼女が、その中に取り込まれちゃったのかもという感じがするのだ。そんなスリリングさが、あるのだ。
元となっている戯曲がある。そりゃそうだ、そもそも上演される筈だった舞台が中止になった、という設定なのだから。
イギリスの戯曲というのがナットク、っていうような、この年頃の少年少女たちが口にするとは時に思えない哲学的な、文学的な言葉に満ち溢れている。だから印象に残る言葉って言うのは正直なくって(爆)、だからこそそれに取り組み、あがいている彼らの熱の方が乱反射されるように放たれてくる。
ヒロインの女の子の合わせ鏡のような女の子がいる。見た目いかにもタレント然とした華のある森田嬢とは対照的な、なんか図書委員とか、科学部とかにいそうな女の子である。でも突っ張らかってる森田嬢に反する形で一見落ち着いて見える田中怜子嬢の静かで熱い闘志が、とっても印象的なのだ。
最終的に彼らは、もう上演中止が決まっている本多劇場(!!また、象徴的なトコを放り込んで来たな……)に乗り込む。スタッフの大人たちが、ちゃんと説明したでしょうと、私たちだって悔しいんだと、でも結局こういう形になったのは君たちの力不足ということでもないのかと、まぁ言ってしまえばまっとうに叱責されて、「劇場に迷惑をかけることになる」そりゃまそうだ。
でもきっと、本多劇場のような場所ならきっと、そんなことは思わないだろう。だから本作にも共鳴して、ロケーションを貸したのだろう。
どうしてもどうしてもこの場に立ちたいと、一度大人たちを巻きながら再度裏口の鎖を切ってまで侵入する彼らが見る、ロビーに押し寄せてくるお客たちは、そりゃ当然、妄想というか、幻想というか、に過ぎない。そんなものを見せるの、と何か胸が締め付けられてしまう。
大人たちが言う、君たちは若い、これからがいくらでもチャンスがあるんだから、というのは、大人だから言えることだろう。若いからチャンスがあるなんてことが無意味だというのは、ちょっと落ち着いて考えてみれば判ることだ。なのに大人は何故無責任に、そんなことを言ってしまうのか。
まだ大人になっていないから、その台詞に反駁することも出来ない“子供”の彼らは、そのうっ憤を晴らすかのようにこの芝居を完結することを目指すのだ。そのために、妄想や幻想を見てまでも。円陣を組み、いざ、と出て行った彼らの前に、いるはずの観客はいない。それでも彼らは、叫ぶ。おのれの今を。
彼らの気持ちを代弁するかのようにギター伴奏に乗せてラップを叫びまくるMOROHA氏の、それこそ心の叫びに心打たれまくる。
彼もまたこの74分のワンカットに命を捧げた一人であり、最後の、「良かった、本当に良かった、故郷を捨てて、あの街を捨てて、しがみ付く手を振り切って良かった。言えるようにならなくちゃ」という叫びに心震えるのだ。ああ、今こう書いてみたら、涙出てしまう。やば。
ラスト、監督の「カット!」の声に、本多劇場のステージに一列に並んでいた彼らは一様に抱き合い、涙をぬぐう。そりゃ泣くでしょう、泣くでしょう!!!
信じられない、ここまでの74分の奇跡!!それを寄らずに引きで見せるのもイイのだ。ステキなのだ!!!★★★★★
いや、どうなのかなぁ。この時代は皆、こんな風に観念的なことを普通に考えていたのかもしれないけれど。
観念的、違うな、理想的だろうか。ただその理想的な生き方とかどう生きるべきかという考え方を突き詰めすぎるあまり、観念的になるという感じだろうか。もう最初から薫君のモノローグで全編通されるので、何か大学の講義でも聞いているような感じがして、なんだか眠くなってきてしまって、ホントに困った(爆)。
作品自体は悩める若者の物語だし、ちょっと口元が赤ちゃんぽい岡田裕介はウブな感じのこの薫君にピタリである。薫君、庄司薫君と呼ばれる場面もあるのだからこれは当然、原作者の分身的存在なのだろうが、ペンネームなのだからそのあたりはヤハリフィクション的世界なのかもしれない。
全体的にそうなのだけれど、特に冒頭はカッティングが絶妙である。いかにもこの時代の、アヴァンギャルドで退廃的な、という感じがする。
真っ黒い大きな犬を散歩している場面に重なるタイトルクレジット(タイトルは和田誠デザインだというが、ただの丸ゴシック文字に思えちゃう。うーん、デザインというのもよく判らん……)。
ギャギャギャッという感じでカットがギザギザに交錯し、犬の名前が叫ばれ、横たわって動かない姿、そしてスキーストックにけつまずいて足の爪をはがす主人公……これらが実にぎゅぎゅっと詰まった描写で描かれる。
そこから先の長い長ーいモノローグ展開を考えると、確かにここだけがぎゅぎゅっと詰まっている。突然の犬の死、そしてまるで遠い国の出来事のようにニュース映像やら新聞記事が荒っぽい画素で差し挟まれ、時は学生運動真っただ中、それも、あの象徴的なクライマックス、東大安田講堂の占拠に至った時なのだと知る。
当の薫君はいかにもお行儀よく育ちのいいお坊ちゃまといった感じで、東大を受けようと思っていたとしても、まだ受けてもいないんだから、この世情からは蚊帳の外にいる。
ただ、なんとなく思うところはある。香港風邪までひいてしまって、爪をはがして動けないし、幼馴染の由美に電話をしてみるけれど、またいつものようにケンカしてしまう。それも薫君のムダな知識の広さが、由美の無邪気な感動を無神経に喝破しちゃったからなんである。
この時彼女が披露する、「エンペドクレスのサンダル」の話なんぞ、当然私は知らんさ。しかし彼女が感動したという、形而上学的理由で自殺した人類初めての人物、というエピソードは、まさにこの物語を象徴してるな、と思うんである。
彼女がどこにどう感動したのかはピンとこないけど(爆)、まさにこの物語が形而上学的そのものなんだもの。私がよく理解できないという意味合いで(爆)。
ヤハリ薫君は頭のいい青年なんである。仲のいいお兄ちゃんから借りた大学講義のプリントに感激し、その教授を紹介され、お兄ちゃんと共に深夜まで飲んで語り合って、すっかり心酔しちゃう。はしゃいで道路で、「知性の自由の広がり」とかなんとか、もうこの世は彼のもの、といった感じである。
この時点で若い感性が言う広がりゆく形而上学的世界についていけないので、かなり焦りを感じる。ただ、この時の薫君と、学生運動が何をもたらしているのかよく判らずに戸惑っている薫君は、やはり少し、違うと思う。
学生運動、映画にも散々なったし、その度になんとなくは復習するんだけれど、そこまで学生たちに火をつけた情熱がいまだによく理解できない気持ちではある。
その度に時代的気分の違いだと片付けてきたのだけれど、この薫君の心情は、まぁ彼は私より100倍頭がいいんでアレだけど(爆)、その戸惑いは、ひょっとしたらちょっと共感できる部分かも知れないなぁと思うんである。
てゆーか、薫君はなんたって思春期なので、女のハダカをモーレツに妄想する。大体あの女医さんはなんなの、ファンタジーだろ、あんなエロい女医!!いやその、薫君の頭の中で妄想される彼女がエロイってことなんだろうが……70年代的アヴァンギャルドなモノクロームで、それこそめっちゃ退廃的にものうげにあっさりハダカになっちゃうこの時代のカッコイイ女優たちに今更ながら衝撃を受ける。
そう、モノクロームなんだよね。すべてがアートのように思えちゃう、様々な煽情的なヌード、というかセックスを想起させるエロあふれる写真が、なんたってこの作品のひとつの魅力だと思う。こんなアートなヌードで妄想しちゃうってのが、ヤハリ頭の良さなのよ(爆)。ただいま氾濫しているエロは、量だけは多いけどやっぱりなんか、やぼったいよね。
薫君はどーゆーツテなのか、なんか乱痴気パーティーみたいなところにまで紛れ込んじゃう。乱痴気パーティーという言葉も、なんというか時代だが、本当にあったんだなという興味深げな眼で見ちゃう。
レコードをガンガンかけて、ウイスキーなんて強めの酒をガンガン飲んで、女の子のTシャツの下はもういきなりブラもなしで、踊って気分が乗ってきたらあっさり脱ぎ捨てて、抱き合い、口を吸い合う。
その中に薫君は入って行けない。「本当に童貞なの?私が食べてあげる」なんていうありがたーいお姉さんが登場するのに、薫君はそれ以上いけない。それを彼は、自分のお行儀の良さ、優等生だとモノローグするんである。
そらぁ、ピアノなんぞ弾きだして、おフランスな感じのスキャットを、彼と同じく居心地悪そうにしていた女の子たちとハモッちゃったりして、そらー、そんなことできるの、おぼっちゃまだわ。
もうこのあたりになるとかなり眠気に勝てなくなってきて(爆)薫君の隣に座ったヒッピーぽい青年がかなりイイことを言っていたような気がするのだが、もう聞いてるのに頭に残らなくなってくる(爆)。
その最たるものが、薫君の元に突然訪ねてきて、自分の苦悩を散々ぱら吐き出す友人である。その間、薫君が口を挟もうとしても「余計なことは言うな!!」と遮りまくって、薫君の部屋のベッドにあおむけに横たわって、天井を見つめながら散々、散々、それこそ形而上学的ナヤミを吐露し続けるんである。
すっかり睡魔に襲われていた私は一生懸命目を開けようとしたが、耳には入ってくるもののその観念的な言葉は私の頭にとどまらず、あぁきっと、彼だって年をとれば、この時の水晶のように透き通った思いを失ってしまうんだろうなぁ、という気がするんである。
小説家志望だった彼は、この大学闘争が高校生である自分たちにもたらした、様々な問題を憂いている、ということだったと思う(爆)。王道に行ける筈の人がいけないとか、それは薫君のことを指してたと思う、彼自身はだからこそ異端に行く筈の自分、とか、充分彼だって出来のいい学生だった筈で、そのあたりが優等生的視点なのかなぁ。
田舎から出てきて東京のあれこれに劣等感を持つようなヤツが評価されるんだ、と悔し気に吐き捨てる言葉は、眠気が少々吹っ飛ぶインパクトがあった。
彼は東京生まれの東京育ちの、つまりは恵まれた環境にあるお坊ちゃんなのだろう。それは薫君もそうなのだろう。だから彼に口を挟むなと言ったのかもしれない。同じ立場じゃ、アドバイスにも何もなりゃしない。
彼の言ういら立ちはよく判るが、ここでは語る必要もスペースもないけれど、田舎から出てきた劣等感というのはそれはそれは大変なものであり、それを東京人に嫉妬されるなんて、そりゃこんな光栄はないってなもんであるが、逆に更なる劣等感でもあるに違いなく……。
この友人の苦悩に薫君が、難しいこと考えるなヨ、と言った感じで、テレビやコマーシャルの話をわざとバカっぽく話すのはとても印象的。時代を象徴するコマーシャル、っていうのは、今のように流行りすたりが目まぐるしく変わる中じゃ、もう難しくなってきたし、映画のスポンサーに企業が入ってくる時代では、こういう作り方はもう出来ない。
東京の広告ネオンサイン、コマーシャルソング、ふんだんに取り入れられて、まさに時代を映しだしていくんだもの。
その中で、ただ変わらないのは女の子である。ていうか、男の子と女の子である。幼なじみであった薫君と由美のそれまでを語られるのはかなりドキドキする。
初潮が来た時なんだろうな、「もう私は、これから強姦される危険があるのよ、守ってくれる?」と薫君の胸に顔をうずめた、吊りスカートが幼い少女の由美。
初めてのデートだったのか、ボートに揺られ、目が届かないと思しき場所まで来たら、おもむろにブラウスのボタンをはずしておっぱいを見せた由美。でもそれが「最初で最後」で、今、二人は難しい思春期で手をつなぐことさえおぼつかないのだ。
薫君は、銀座の街にさまよいだす。すべてが敵に見えるような感じ。群衆の中で、肩がぶつかりそうになる。一触即発になる。しかし歩き出す。黄色いぼやけた影がスクリーンにいっぱいに映し出され、薫君は倒れる。怪我した足をおさえてうずくまる。
ごめんなさい、と謝ったのはいたいけな少女。気にして、薫君にまとわりついて離れない。本を買ってお母さんのところに戻るんだ、と言う彼女は、幼馴染の由美をどこかほうふつとさせる。
勿論初潮にはまだまだ間があるだろうが、彼女が赤頭巾ちゃんの本を買うんだと言ったこと、薫君が彼女のために一番いい本を選んでやろうと、つまり世に跋扈する狼たちから守るために、彼女にとっての一番いい赤頭巾ちゃんの本を、みたいに思うと、ね……。
なんたってタイトルにもなっているんだから、このシークエンスには一番の尺をとられている。いかにも子供らしい、いい感じにぎこちない感じがいとおしい。
いしだあゆみとか酒井和歌子とか松原智恵子とか、もう当代のスターがばんばん出てくる。いしだあゆみのブルーライトヨコハマに、お蕎麦屋さんの女性店員たちがうっとりと聞き入っている様がリアルな時代を感じたりする。
薫君は童貞のくせに(爆)恋愛主義で、だからこそ妄想ばかりしている。恋愛主義、だなんて、今じゃそれが当たり前なんだけどさ、彼の家で見合いが催されていたり、それがまだまだ普通の時代だったから……だって私の子供の頃までは、ご夫婦に、お見合い?恋愛?と聞くのなんてフツーだったもんなぁ。今じゃ考えられないけど。★★★☆☆
全編、モノローグ。これが一つのゴーモン映画の要素である(爆。すいません……)。なんつーか、言ってしまえば女の子が昼日中、明るい日差しが差し込む部屋のベッドでゴロゴロしながら、母親との関係をつぶやきまくっている。それが最後まで続く。まぁ、なかなかのゴーモンである(だから、すいません……)。
そもそもこれは映画というより、印象としては映像作品、映像アートと言った方がしっくりくる。モノローグも時に音声を変えられ、多重音声になり、役割のよく判らない人たちが、演じるというよりはたたずむといった様相でそこここに現れ、そして時には群衆のダンス、劇団の稽古風景、ダンスは稽古のようで本能のまま踊っているようで、という映像が、光、照明、色彩、明暗、様々に形を変え、重なり合い、言葉と共に重層的に構築されていく。
さび付いたモノレール、ざくざくと落ち葉を踏みしめながら歩きゆく山道、打ち捨てられた廃屋、……退廃的ながらもひどく魅力的な静寂の映像が重ね合わされ続ける。
静寂の映像。そうだ、静止画のようで、そうじゃない。確かに映像なんだけれど、まるで永遠の時の中に止まっているように、目をこらしてもこらしても、ひたと動かない。けれど、確かに時間の中にある。ああ、七里監督だよなぁと思う。
モノローグする女の子は主に、というか、ほぼ母親との思い出話を語り続ける。幼い頃に訳も判らず山に連れていかれた記憶、見も知らぬ父子家族と同行したその道行は、母に連れ行かれた不安な、もしかしたら死の道行だったかもしれないそれに、不思議な疑似家族のような一瞬をもたらした。
彼女はむしろ、母親に見せつけるように、見も知らぬ他人の父親と、親子のように手を絡ませた。
これはそれこそモノローグで語られるだけだし、彼女のトラウマとなっている不安に満ち満ちた体験なのだが、彼女がその後も大学でワンゲルサークルに所属したりして、なんだかやけに山から逃れられないことを考えると、何か妙に、生々しいというか、セクシャルな雰囲気さえ感じてしまう、と言っちゃうのは、言い過ぎだろうか。
透明な馬。これは、これはなんだろう!まさに夢、妄想ではなくて、夢。いや、そうではなくて、なんだろう……彼女の遠い記憶のような、何かそんな中に出てくる。
トーマ、漫画のタイトルにあった、というのは絶対に、「トーマの心臓」だろう、あの作品は世界一の漫画の名作だと思っている私は、妙に胸がキュンとなる。
しかしそれとは関係なく、とにかく夢の中に出てくる馬というのは、何とも言えず御伽噺、それも戻ってこれない深い夢の中のそれのような恐ろしさがある。
古今東西、何かやはり馬には神的なものがある。当然、透明な馬なぞというものは存在しないのだけれど、雪山の中を真摯な目をして駆けまわる灰色がかった土臭い馬は、世界のどこからも隔絶された、打ち捨てられたようなオーラがある。
白馬ですらないのだ。そんな、おとぎ話に出てくる馬じゃないのだ。一面の雪景色の中にほこりっぽさを哀しく落としていくような、どこにも行けずに戸惑って走り回っているような、馬たち。
なんかこうして書いていると、舞台は山だったり馬が出てきたり、アウトドアな雰囲気な気がしちゃうが、まったく、そうではない。めちゃめちゃ、インドアだし、人間関係も正直よく判らない。
モノローグしまくっているベッドでごろごろしている女の子はさすがにあなたなのねと判るけれど、ダイニングテーブルの下で膝を抱えているグレーヘアの初老の女性は、彼女の母親にしては年をとりすぎている。かといって、彼女の替わりのように時に踊りながら登場する女性は、年が近すぎるような気がする。
タイトルのことを思い出す。あなたはわたしじゃない。それは、最終的にはモノローグの女性が投げかけるのだが、そのラストシークエンスの段に至っては、完全にダンスの、公演の稽古の趣になる。
それまで繰り返されてきた内省的な詩的なモノローグが、完全に公の、公演のためのそれとなってダメ出しの繰り返しを強要され、それまでの、言ってしまえば誰からも突っ込まれない怠惰な魅力といったものが、自虐的と言っていいほどに、木っ端みじんに崩壊される。
でもそれに反発するかのように、タイトルの言葉である「あなたはわたしじゃない」が発せられる。でも、この二人はどうみても親子じゃないし……てゆーか、出てくる人物、モノローグつぶやきまくる人物、あるいは何も喋らずただ黙って膝を抱えているだけの人物、まさに老若男女、な訳だが、そこに、観客が期待する家族の記号が、ないのだよね。
当てはめられそうで、なんか躊躇してしまう。違うと思ってしまう。彼らは相互に交わることもなく、テーブルの下で膝を抱え、ベッドでごろごろし、芝居の稽古をし、その様が幻想的な色彩の映像で重ねあわされる。
なんか、彼女の恋人っぽい男性もあらわれるのだけれど。でもそれも、純粋に身体パフォーマンスとして、ってことだったのかもしれない。突然上半身裸、なんか、しんねりとしなやか。イイ感じの不気味さ。それは全編そうで、まさにそれが七里監督と感じる。眠かったけど(爆)。
本当に、最後の最後まで、彼女は母親との心の行き違いを口にする。でもきっときっと、彼女は母親に似ているのだ。絶望的に。ひょっとしたら、溶けあうぐらいに。
そういえば、今、現時点で母親がどうしているのかが、判らなかった。象徴的に出てくる二人のどちらかが、母親かどうかも、判然としなかった。ああ、すべてがすべてが、判らない、判然としないのだ!!それが魅力、それはそうなんだけれども。
彼女はね、きっと母親のことを愛していたとは思うんだけれど(思わず過去形で書いちゃったけど、今も生きているのかはよく判らなくて)、なんつーか、千パーセントアンビバレンツというか、死の道行かも知れなかった幼き頃の記憶が、もしかしたら今の自分がそうしてしまうかもしれない、そういう女なのかもしれないみたいな。当時の幼い彼女と母親の姿も、今の母親が、登場するどの女性なのかも判然としないもんだから、その妙な恐怖が観客に伝染してしまうというか。
そして最後の最後、母親じゃないと思うんだ……年がそんなに離れてないもの、ショートカットの女性が、しつこくしつこく、彼女のモノローグに動きと演出をつける。意味のない、まるで意味のない動き!そのモノローグはとてもとても、母親に対する生々しい告白だったのに、どんどん色あせていって、そう感じるのは間違ってる?それともそれこそが確信犯?判らない!!
ああ、なんか何とも疲れた。これはね、ドントシンク、フィーーール、だよね。咀嚼しようとすればするほど、指の間から零れ落ちてく。感性の体力をつけたい……。★☆☆☆☆
今はいろんな手立てもあるし、色んな学校もあるし、才能というものを器用なルートでいくらでも作れるから、こんな風に、もうぶつかるしかない、これを作らなければ死ぬしかないというほどの突進を感じられる人というのはほとんどお目にかかれないのだ。
だからこそこの後がどうなるのか予測がつかない。ぱったりとやめてしまうかもしれない。精力的に作り続けてもの凄い存在になるかもしれない。
宣材写真の女の子の三白眼気味の目にやられてしまった。だから、レイトだけど足を運んでしまったような気がする。こんな、コワい顔の子ではない。でも劇中、教卓からむくりと顔を上げた彼女の顔を一瞬で切り取ったら、この顔になる。ぞくっとする。
あみこ。誰もいない教室で一人、窓からサッカーの練習を見ている。他のクラスのアオミ君が目に入る。足がつったのはフリだったのだと判るのは、彼が突然、あみこのいる教室に入って来たから。
サッカーは本当は嫌いなんだ、汗をかくのも、などとあみこに突然話しかけてくる。固まるあみこ。アオミ君はあみこの唯一の友達、奏子と同じクラスで、そのことを彼は知っている。「似てるよね。ツンとしてて。明るいけど、でも実は誰にも心を開いてない、って感じ」
それは奏子のことを言ったのだと、あみこは、バレてるよ、と後で一人、笑い転げるのだけれど、でも実は、“似てる”あみこに対しても、言っているのだ。
彼は何の興味を得たのか、あみこと一緒に帰ろうと誘う。たった二人、暗い山道を歩きながら、“魂の会話”をする。あみこは有頂天になる。アオミ君が好きだと思う。でもそれから半年もの間、彼との接触はなく、女バスのモテモテ女子、東京の大学に通う瑞樹先輩の元へ彼は出奔してしまう……。
重たい紺サージのセーラー服、重たい真っ黒のボブヘアー、そこから無防備に伸びた生白い足。寒い寒いと言いながら生足で、首ばかりにぐるぐる、大して暖かそうでもない布のマフラーを巻いている。
今の女子高生、というにはなんだか少しやぼったいようで、でもそれは、いつでも東京、を中心に考えているからなのかもしれないと思う。
ここがどこか、と判るのは、あみこが後にアオミ君に向かって、長野市で一番孤独、長野県ならベストエイト、甲州なら……などと、バクハツする段に至ってからで、ああ、長野の山道は、あんな風に真っ暗で、遠くに“街”の夜景が見えて、そこに降りていっても道路の片隅には雪が寄せられていて、この地方感が、きっと監督さんの肌感覚なのだろうと思う。
なんかヘンな言い方だけど、あみこのいわば生々しい女の子感というのは、生理の血なまぐさを感じたり、するんである。こんなこと言うとフェミニズム野郎の風上にもおけぬのだが、生理感覚で行動してしまうような。
あみこがアオミ君に言う、「女の人には一年に一度、どうでもいい日があるんだって」という言葉、そのすぐ後に、「私は一ヶ月に一日ある」というのが、その直感を裏付けているように思えてしまうのだ。
それは多分、対するアオミ君がめちゃめちゃ男の子で、この“魂の会話”であみこは彼に対する株を凄く上げてしまっているけれど、でも本当は、本質は、ただの男の子で、そんな大したヤツじゃなかった、のだ。
そう言い切っちゃっていいのだろうか??判らない。でもこの“魂の会話”の感覚にあみこが盛り上がってしまった気持ちは、凄く凄く、判るから、それが彼そのものだと思ってしまった気持ちも、凄く凄く、判るから。
このいっとき、瑞々しい感性で、奇跡みたいに獲得できる、俗世間を潔癖に嫌った、自分の内省を深く見つめる感じは、もう、出来ないのだ。一度何かを、知ってしまったら。
この“魂の会話”は凄く魅力的なんだけど、じゃあどんなことを話していたかと思い返してここに再現しようとすると、にわかに思い出せない、のは、凄く寂しいことだ。大人になった、と単純には言えない、大事な何かを失ってしまったことだ。
そのことをあみこはまだ知らない。アオミ君に関しては、自分がそんな奇跡を過ごしたことを気づきもしないであっさりと手放してしまう。
「色白の、女バスの先輩」瑞樹が後輩の女子たちを訪ねてくるシーンは、なんとも印象的である。後輩たちは憧れの先輩の来訪に無邪気にキャーキャー言っているが、あみこと奏子はそれを冷ややかに眺めている。
いや、奏子は「一応、ツイッターをフォローしている」と言い、あみことともに瑞樹先輩のナルシスティックな投稿を笑ったりもしているが、やはりここが一つ、彼女はあみこより“社会”につながっている気もするんである。
あみこは冷ややかに瑞樹先輩と女子たちの戯れを見ながら思う。あんな風に、後輩女子を可愛がるのが理解できない、と。
その瑞樹先輩がどうやら、アオミ君とデキている、という情報を仕入れてきたのが奏子だった。インスタに、事後の後のようななまめかしさで眠っているアオミ君の寝顔がアップされていたのだった。そして、アオミ君は家出をして、どこに行ったか判らない、という。
この瑞樹先輩の、後輩女子を訪ねる様子、というのも、あみこの冷ややかな目線というのは、なんていうか、当たっているというか。大学新入生である彼女は、そこではぺーぺーの、青臭い一年生である筈で、でも母校に行けば、東京の大学に行った憧れの先輩になれるのだもの。それがね、凄くイタいと思ってしまう。
やはり、そこを通り過ぎてきたから判ることではあるんだけれど、あみこはそれを直感の、肌感覚で感じているというか。あの三白眼の怖さがずっと頭に残っていて、アンテナのように彼女の行動を左右しているように思えてしまう。
瑞樹先輩はそういう意味では、つまんない、俗社会の女だ。東京の大学に行くことがステイタスだと思っているような。オシャレなバッグを持つことがステイタスだと思っているような。
でもあみこはまだそこまでさえ、届かない。あみこはアオミ君に会いに行くことを決意する。奏子からなけなしのお金を借りる場面が忘れられない。寒さに足踏みしながら、なのにやはり生足で、帰ってくるから、帰ってくるんだね、と言い合って。
二人は、確かに、ツンとしていて、心を開いていないのかもしれない。何でも言い合っているように見えて、そうではない、魂の会話のことだって、あみこは話してない。
でも、それこそ肌感覚で、汲み取っているんだ。親友、というのも気恥ずかしい、だって相手はそこまで思ってないかも、時には他の友達の約束を優先されたりもするし、という感じとか、たまらない。
気恥ずかしい、自信がない。でも何よりこの友達を信頼しているし、頼りにしている。それを、口に出して言えない。自分の心でさえ、認めることが怖い。
この物語には禁欲的なぐらいに一切、大人が出てこない。教師も、親も、一切出てこない。一人暮らしかと思ったぐらいである。だって、あみこは一人、スパゲティをレンチンする。ちっともおいしくなさそうな伸び切った麺に、生卵を落として食べたりする。クロースアップとカッティングをギザギザにぶち込み、そのにちゃにちゃという咀嚼音が生活音というよりなぜだか、性的な不快さを容赦なくこちらに突き付けてくる。
あみこがアオミ君に会いに行く時、ふすまを開けて、そこに寝てでもいるのか親に対して、しばらく奏子のところに泊まるから、というシーンが、彼女たちの世界に大人は必要ない、目に入ってさえいない、という気がして、気がして、というか、そうだったかもしれない、私のその時も、そうだったかもしれない、と思うから、もうなんか、凄く。
高速バスに乗って、新宿に着く。スイカさえ買わずに切符を買う。瑞樹先輩の大学の前で待ち伏せをする。無謀すぎる、純粋すぎるこの計画性。途中、まるで妄想のように、雑踏の中のカップルをむりやり引っ張って、愛し合ってるなら踊れよ、なんていうシーンが、あみこの、というより、監督さんの突進と焦燥を感じさせてたまらなくなってしまう。
あの、前衛的っつーか、独特すぎるクネリダンス!「日本人は自然と身体が動くなんてこと、ねぇんだよ」そうか、今の若い世代でも、そうなのか。そういう感覚に、私世代は憧れていた。そのもどかしさが、今の時代も続いているのか。
ついに、瑞樹先輩の自宅を突き止める。朝まで待って、瑞樹先輩がカギもかけずにあわただしく出て行くのを見て、あみこは侵入する。うっわ、と思う。震撼する。そ、そんなことやっちゃうの!と思う。
あのインスタの寝顔そのままに、寝ている。ぐーすか、寝ている。全然、起きない。あみこはぼすん!と馬乗りになる。更にうっわ!!と思う。アオミ君は、あれ、何してんの、としか言わない。あの、魂の会話をした、運命を感じたアオミ君は、もう、いないのだ。
そこに瑞樹先輩が帰ってくるなんていう修羅場さえあるのに、あみこは、まるで関せず彼女を追いだし、おいおい、不法侵入者はあんたやん、とか噴き出してしまうのだが、いや違う、真剣なのだ、本気なのだ、もう後には戻れないのだ。
いやでも……あみこはあの時、奏子に、帰ってくる、と言った。帰ってくるんだ、と奏子も安堵した。どこかでこんな結末を、予想していたんじゃないか。
「なんであの女なの。あんな女なの」この台詞は、日本語が誕生してから、一体何万回、いやそれどころじゃなく、吐かれ続けて来ただろう。こんな若い世代でも、こんな腐った言葉を言うのかということに戦慄する。あんたは“魂の会話”を胸にここまで来たんじゃないのと思う。
あんな女、それだけの自信がそれを言う女にあるのか、単なるうぬぼれなのか、あるいは相手に失望しているのか。
あっさりと、アオミ君は言った。「だって、カワイイじゃん」あぁ。あぁ、結局はそうなのだ。魂の会話の記憶すらアオミ君にはなく、ヤラせてくれるカワイイ女が、逃げ込ませてくれる場所を作ってくれていることこそが彼にとっての、いわば大きな理由なのだ。
それをなぜ責めることが出来るだろう。なぜ逃げ出したのか。何か彼にとっても大きな焦燥があったに違いないけれど、それはあみこには見えない。見ようともしない。ただ失望しただけ。
グーパンチにPUREと書かれたあみこの白くやわらかな拳。ピュアだなんて、ピュアだなんて!!いつから絶対にそんな言葉を自分に対して言えなくなっただろう。
ただ、思う。なぜあのたった2年か3年かが、あんなにも奇跡だったのかを思う。
その少し先にこの“恐るべき子供”の監督さんがいて、その気配を濃厚にまといながら、矢も楯もたまらずに生み出された。その焦燥を、その突進を。★★★☆☆
とか言ってきっと、清水監督のファンになったのも私多分、その当時ではまだだったと思うし。「山のあなた」も94分という、現代の映画としては短めの作品だが、1938年っていやー、昭和13年!超戦前!!私の父親すら産まれてないよ!!!という当時では一時間ちょっとという尺は割と普通だったのかなぁ。
でもこの一時間の中に山の豊かな美しさ、掛け合い漫才のようなユーモラス、サスペンス的、ほんのりとした恋愛等々が見事に溶けまじる。やはりすごいなぁと思う。
冒頭、二人の盲目の按摩が、あたたかい気候になると向かういつもの湯治場に向かっている。徳市と福市。イヤー、二人の役者さんとも私、覚えがないわ。徳市が主人公ではあるのだが、相棒の福市も冒頭の掛け合い漫才みたいな徳市とのやりとりがそのまま移っていくような感じで、湯治場でも数々の面白いエピソードを残す。
二人はめくらがめあきを追い越すのがだいご味だと言って、若いハイキング団体を追い越したり、追い越されて悔しがったり。めくら、って、差別語で今は使えないけど、これが当時のヴィヴィッドなんだし当事者が誇りを持って使っているのが何よりワクワクする。この季節はいいねぇ、と、見えなくてもその山の緑が見えるようだと、こっちが心の中で身構える前にさらりと口にする。
何より本作が全編、めくらの(こう言っちゃうのを許してね)勘の良さ、視覚以外で感じ取る残り四感プラスアルファみたいなものを存分に発揮することこそが、物語のメインに関わってくるのだから、冒頭はもう、ジャブみたいなもんよ。
すれ違う子供の数を当ててみたりね。「8人じゃなく、8人半だな」おぶっている赤ちゃんがいるというんである。もう、オドロキ!!
湯治場の主人や仲居たちとももうすっかり顔なじみである。そろそろ来る頃だとウワサしてたよ、あとで土産話を聞かせてね、なんて、温泉場の風情もいいし、仲間の按摩たちとの腐れ縁みたいなやり取りも楽しい。
途中追い越し追い越されしてきた男女それぞれのワカモンハイキンググループと遭遇し、女の子たちには「そのせいですっかり足が痛くなったんだからまけてよ!」と全員にキャイキャイ言い任され、男の子たちには追い越された悔しさをキッツキツの按摩で仕返しして、翌日彼らはその痛さに歩けなくなって宿に引き返すという(笑)。
こんなのどかなユーモアの中に、ふっと夜開く月下美人のように謎めいて登場する“東京からのお客さん”が高峰三枝子、なんである。
東京のお客さん、としか呼ばれないのだ。名前すらも。湯治客で彼女と仲良くなる男の子だって、おばさん、と呼ぶばかりなのだ。おばさん、だなんて。ああでも、こんな幼い年頃の彼にとってはおばさんなのか。きれいなおばさん。きれいをつけてもおばさん、なんだなぁ。
到着したばかりの徳市を呼び、肩だけもませるこの女性は、謎めいている。こんなにお若いのにこんなに凝っているなんて珍しいですね、と四感プラスアルファのカンを持つ徳市はことさらに世間話でもなさそうに言う。
その後、徳市を指名してくれるのだが、指名しているのに逃げ回ってみたりと、なんだか不思議な女、なんである。
徳市のカンの良さを試しているようであり、彼にとってはそれは、何かに怯えている、追ってくる誰かを恐れている、ようにその優れたカンで察しをつける。それは確かに間違ってはいなかったんだけれども……。
オチバレで言うと、彼はカンを働かせすぎた。盗難事件の犯人が彼女であろうと思い込んだ。実際は、彼女は東京でお妾さんになってて、暴力的なダンナから逃げ出してこの湯治場に来たのであった、のだが……。
結局は、湯治場で頻発していた盗難事件の犯人が挙げられる訳じゃ、ないんだよね。最後、徳市はすんなり彼女を見送っちゃうから結構ビックリする。あれ、あれれ、何か全然解決されてないんですけどー!!みたいな。
なんていうかね、ひょっとしたら彼女はああは言ったけど、本当は盗難犯人だったんじゃないのかしらん、と思っちゃうような解決のされなさなのだ。それぐらい謎めいた美女だったし……。
高峰三枝子の、着物が吸い付くような細身の曲線、柳腰ってーのはこーゆーことを言うんだねぇ!と思う美しさ。徳市は肩しか揉んでないけれど、もうそれだけで全身の美しさが判っちゃうのだろう。
いや、それどころじゃない。なんたって最初の出会いは、湯治場に向かう馬車をやりすごしたあの山道、それだけで徳市と福市は、イイ女が乗っていたねぇ、あれは東京の女だね、と言い当てるんだもの!もう既に超能力!!
彼らは時には自虐的になることだってある。「明るいうちに宿に着きたい」「どうせいつも暗闇じゃないか」なんてね。そんな、笑っていいのかしらんというようなことでふっと笑わせたりする。
でもその敏感な感性は驚くべきものである。だからこそ、「お前さんが他人に突き当たるなんて、めずらしいじゃないか」と相棒の福市は徳市の異変にいち早く気づく。通り向こうからの人とすれ違えないなんて、異常事態なのだと。
その東京からのお客さんには、淡い恋愛のようなエピソードが出てくる。なんたって佐分利信だから、高峰三枝子とのツーショットは絵になる。
爆弾小僧演じる男の子の両親が相次いで亡くなったことで、叔父である彼は引き取ることになっているらしいのだが、こんな湯治場に逃げ込んでいるあたり、独り者で自分だけで持て余しているという彼の率直な言葉がそのままうなずけるような感じなんである。
彼と彼女は同じ東京から出てきたのだし、いずれ東京で、みたいな雰囲気もなくもないし、なんたって彼女との出会いで彼は東京へ帰るのを、子供を言い訳にずるずると引き延ばしているのだから、二人の間には確かに交感するものがあったに違いない。
そんな大人のやりとりにほっとかれて、つまんねぇやとぶんむくれる爆弾小僧がカワイイんである。しかしてその“大人のやりとり”は、按摩の徳市との間にも行われるんだから、不思議なんである。
いや、不思議、ではないのかもしれない。恋愛と考えてしまうから大人は、単純に。爆弾小僧がこれまたつまんねぇやと言うから、あらららと思うが、つまりは高峰三枝子は恋愛とかそういう部分じゃない安らぎを、二人の男に感じていたのかもしれないし、そして二人の男は二人して、彼女に恋をしていたということなのだろう。
それをつまんながる幼い男の子描写で伝えるというのは、なんと絶妙なことだろう!
徳市はあからさまに佐分利信に対して対抗意識を持つがために、爆弾小僧と仲良くしていた感じアリアリだし。めくらだって散歩も出来る、水泳も出来る、飛び込みも出来る!!とかってライバル心まるだし!
高峰三枝子が突然現れて、パンツ姿から慌てて着物を着ようとして裏返しになっていたあの場面、笑って着物をちゃんと着せかけてくれる彼女に、あぁ、なんかもうかなわないんだな、と思った。二人の男は、二人ともそれなりに社会でもまれているんだろうけれど、この彼女には、かなわないのだ。
盗難事件が頻発し、警察が本腰を入れて犯人捜しをしているという話を聞きつけて、徳市は彼女を逃がそうとする。はだしのまま二人、旅館から抜け出す。彼女がすんなりついてったから、本当に犯人なのだと思ったら、先述のような事情を語り出すんである。あなたはカンが良すぎて、思い違いをしたのネ、と……。
本当、なんだろうか。とにかく彼女は謎めいていた。そして、罪深かった。二人の男が自分に恋していたことぐらい、察していたに違いないのに、佐分利信が帰ると知ると、徳市を置いてあわてて駆けだすなんて非情なことをしたり。
あの場面、川辺で語り合っていた徳市を置いて、駆けだす彼女を俯瞰でとらえる、あえて表情をとらえないあの場面!
結局間に合わず、呆然と馬車を見送った彼女が、雨が降る中、旅館の傘をさしかけて、戻ってくるも、当然、もういない。徳市はいない。川面をうつ雨のしずく、旅館の傘からのぞく彼女の顔、あぁ、なんてなんて。
データベースでは徳市、福市、東京のお客さんである彼女、そして爆弾小僧の役名が揃って同じ苗字なのが、なんでなんで!それじゃ違う話になっちゃいそう。★★★☆☆