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「わ」


2015年鑑賞作品

私たちのハァハァ
2015年 90分 日本 カラー
監督:松居大悟 脚本:松居大悟 舘そらみ
撮影:塩谷大樹 音楽:クリープハイプ
出演:井上苑子 大関れいか 真山朔 三浦透子 尾崎世界観(クリープハイプ) 小川幸慈(クリープハイプ) 長谷川カオナシ(クリープハイプ) 小泉拓(クリープハイプ) 武田杏香 池松壮亮 中村映里子


2015/9/27/日 劇場(テアトル新宿/モーニング)
「アフロ田中」では正直あまり印象に残っていなかったので、この監督さんの初衝撃は「ワンダフルワールドエンド」から。タイトルでは気になっていたのに見逃した「自分のことばかりで情けなくなるよ」が、本作のウラ主人公ともいえるバンド、クリープハイプのMVから産まれたということを知り、見逃したことが本当に悔しく、歯噛みする思い。

いやだって、なぜこのバンドなのかしらんと思ったんだもの。NHKホールをいっぱいにするぐらいなんだから、私が知らないだけで充分に人気バンドなんだろう。でも私のようなタイプの一般人が知らないバンド、というのが凄く絶妙で、そして地方ならばライブの後に出待ちすれば会えて言葉も交わせる、というのがまた上手い具合のバランスで、彼らと監督の結びつきがなければ本作は産まれない訳で、ちょっとした運命の傑作という感じがしちゃうんである。
だってクライマックスはNHKホールの彼らのライブの、最も盛り上がるアンコールへの乱入(おっといきなりオチバレ!)であり、そこから逆算して本作は作られているんだから、これはもう、さあ!

作品的に言えば主人公の女の子四人は無名の子たちばかりだし……一人だけ、二代目なっちゃんはいるけれど、一般的に名の知れているティーンエイジャーの女優という訳ではない、つまりそういう女優を使おうと思えばいくらだってできた筈で、つまりそうしなかった、んだよね。
いかにも友情出演という感じで池松君が色を添える程度で、ちょっとビックリするぐらいの無名映画。それがもったいないような気がする、のは、そのことだけで小さな映画だと思われる、小さな展開で収まってしまうことこそなのだ!
いや、本作の力があれば、どんどん外へと広がっていけるだろう。現にゆうばりファンタではまさしくその力で賞をかっさらったもようだし、だってこの作品、この女の子たちに心震わされずにはいられないんだもの!!

言ってしまえば、大好きなバンドを追いかけて東京まで自転車→乗り捨ててヒッチハイクで行くロードムービー、ただそれだけ。今時こんなクラシカルなスタイルのセーラー服があるの、と、まるでコスプレかと思うぐらいの、目にもまぶしい真っ白な夏服のセーラーは、ちょっと腕をあげるとまっさらなJKのお腹がチラと見えちゃう萌え萌えぶり。
でも彼女たちは、そんなことにまるで頓着していない。今時の女子高生とは思えぬすっぴんの無防備さで、出待ちをして言葉を交わしたクリープハイプのメンバーから「東京のライブもぜひ来て」と言われて有頂天になって、勢いでママチャリ駆って出てきた、ってなストレートぶり。

しかも、観客が東京までこの自転車で行くことを予想して、感動のラストランとか勝手に期待する向きをあっさりと裏切って、お尻が痛い、疲れた、と乗り捨てて、そっから先は女子高生の武器を丸出しにして、次々とヒッチハイクの車をゲットする。時にはこわそーなトラックのあんちゃんもいるのに、不思議に危ない目にも遭わない。
いや、その危険を教えてくれるのが池松君で、彼はそれを教えるために一人彼氏持ちのさっつんにキスをする。しかも二度も。最近の池松君は無駄に危険な色気を持っていてドキドキする(爆)。
しかしそのさっつんはまるで動じない。そんなもんでしょ、という顔をしている。それがムリをしているのか、これぞ無防備な女子高生の強さなのか、判らない。

この辺で四人のキャラを綴っとこうか。こういう映画ならば当たり前だけれど、皆それぞれ個性が違って面白い。でもそれが出来てない映画も案外あるかもしれないと思う。
最初に名前が出たさっつん(大関れいか)は、私が一番好きだなと思ったキャラ。こう言っちゃえばナンだけど、一番おへちゃで(爆)、ちょっと女芸人っぽい感じ。実際彼女は面白動画で注目を浴びている存在だという。てことは、今後彼女がどんな道を選ぶのかは判らないけれど、このまま普通の人にはなってほしくないと思う!

この中では最も大人っぽくって、野宿の際に見事なギターの弾き語りで魅せてくれる一之瀬(井上苑子)は、若きシンガーソングライターなのだという!西野カナなんかよりずっと才能ありそう(いや、ゴメン!)。
一番女の子っぽいふわふわ感があるチエ(真山朔)は実は一番現実が見えているということが、彼女たちの中に亀裂が入る場面で決定的に判る、という点で、意外に一番キモとなる存在かもしれなくって面白い。

そして何よりメインは、クリープハイプ、その中でも尾崎さんが大好きでたまらない文子(三浦透子)。いわゆる演技経験があるのは彼女だけだ、ということもあるのかもしれないが、いや逆に、だからこそこの文子にはしっかりとした芝居ができる彼女が抜擢されたということなのかもしれない。
そんなことを言ってしまえばほかの三人が出来てないと言ってるみたいだが、そういうことではない。てゆーか、まるでドキュメンタリーのように女子高生のナマなみずみずしさがあふれていて驚くぐらいである。三浦嬢の演技経験どうこうなんてことは、吹き飛ばしてしまう。それは彼女たちの奇跡なのか、それともこれこそが演出なのか。

先述したけれど、最後まで自転車走りとおしてゴール!なんていう、青春ロードムービーじゃないんだよね。好きなバンドのためなら!!みたいに突っ走る、なんて甘酸っぱいものを期待していた向きを早々に裏切るんだよね。そこが凄く、面白い。
ファン仲間であろうと思しき年上女性に途中行き合って、しっかりチケットゲットするというちゃっかりさ加減。無計画だからあっさりお金がなくなるんだけど、この女性が同情してくれてキャバクラでバイトしたり、それで盛り上がっちゃってクラブで遊んじゃったり、昭和時代のオバチャンにはついていけない世界観なの。

でもそれが、それこそ平成時代のツイッターだのなんだのというコワイ世界で叩かれることになる。自分たちがファンの間で有名になってる、盛り上がってるとテンション上がってたのが、キャバクラのバイトやクラブで遊んでることも素直にツイートしちゃったもんだから、炎上しはじめる。
ネットでさらけ出すことには無防備なのに、叩かれることには慣れてなくてあっさり落ち込んじゃう彼女たちにハラハラする。そして案の定、そこらあたりから亀裂が生じ始めるんである。

案の定、っていうか。彼女たちの差異が徐々に、ヴィヴィットに明らかになっていくうちに、本当になんか……親のように心配してしまうのだ。
最初は同じセーラー服を着た女子高生四人。クリープハイプへの思いをキャイキャイ言っているトーンも響き合っていたし、正直、見分けがつかなかった。でも次第に分かって行っちゃう。それはキャラとかそういことじゃなくて、もっと残酷なこと……クリープハイプ、あるいはその中のメンバーへの、彼女たちが言うところの“愛”の度合い、である。

最初に本作に接した時からね、クリープハイプというバンドのチョイスは絶妙だけれど、彼らに対して四人の女子高生が等分に愛を注いでいるという図式に、これはマニアックなのか(ゴメン!)、何かが起こる前触れなのか、と思ったんだよね。
後者だった、やっぱり。やっぱりというのもナンだけど(爆)。勿論、彼女たち四人はみんなクリープハイプが大好き。それは真実。ただ、度合いというか……そう言ってしまうとミもフタもないけれど、好きになり方の違い、というのがだんだん見えてくるにつけ、ツラくなってくる。そしてこのツラさこそが、作り手がしてやったりにネラッたことなんだと思うのだ。

クリープハイプ、その中でも尾崎さんが大好きな文子と、自らもギターを弾いて歌う一之瀬は、一目置かれている感がある。最後の最後、ようやくの思いで東京にたどり着いたのに、東京駅から会場となる渋谷への電車賃がなくて諦めかけた時、この二人を差し置いて行けないよ、という台詞で判る。
そしてまずこの違いはとても重要。文子はクリープハイプの音楽と溶け合う形で、尾崎さんに恋してしまっている。一之瀬の方は、その音楽そのものに心酔しているのと対照的に。

そして残りの二人は、恐らく後追いファンであろうと思われる。この旅をいつでも明るく、そしてしっかりと仕切るさっつんは、カオナシさんLOVEを公言しながらも、いつでも彼氏と連絡を取り合って「カオナシと彼氏が同時に横に並ぶなんてことはないでしょ!」とどっちを選ぶかという選択を避ける。
ふわふわカワイイ系のチエは、尾崎さんのツイッターをこっそりフォローしていて、旅の行き詰まりにSOSを出したことを文子から強烈に責められると、ここでは言っちゃいけない言葉を吐くのだ。「尾崎さんが私たちのことなんて知る訳ないよ。芸能人だよ?遠いんだよ?文子、ちょっと引くわ……」

今の、つながりやすいネット社会ではあるであろう展開かもしれない……と言いかけて、いやいやいや、そんなのは言い訳だと思いなおす。確かに今の時代だからそういうカン違いもしやすい、という、それこそ“言い訳”は成り立つけれど、どんな時代だって、思うでしょ、こんな風に、そりゃ、思うよ!!
……これを判る、と言ってしまうのは、自分のイタい若き日をさらけ出すことのよーな気がするが……。誰もが若き日は似たようなもんだと思ってきたんだけれど、大人になってみると、実はそうでもないのかもしれないという気がしていた。

どうしようもなく、恋に近いぐらい、いや、恋を追い越すぐらい、好きになってしまうミュージシャンとかアイドルとか役者とか。
東京とか、そういう、リアルに存在を感じられる場所だとまた違うのかもしれないけど、これがまた地方にいると……それこそ一年に一度来るか来ないかのライブに来た時に、“会える”ということ、ライブに行くだけで、“会える”だったし、その前後、街中で“会える”こともめっちゃ妄想した。
文子を見ていると、なんかあの頃の自分を思い出しちゃうんだよね……。そして、そんなのは誰の青春にもあるのかと思っていたがそうでもなく、この四人のうちで文子だけが、そのハズかしい青春を今、送っているのだ。確かに思い返せばハズかしくて愚かだったと思うけど、幸せだったと思う。

この物語は四人が等しくクリープハイプを大好き!という横並びでスタートしたけれど、その後の彼女たちの会話を聞くにつけ、文子の想いを尊重しているのが判るし、つまり、恐らく文子の“好き”に引きずられる形で、クリープハイプのファンになったのだ。間違いなく。一之瀬の“好き”はもっと高みのプロっぽくって、JKの勢いに任せるそれとはちょっと違うし。
なんかね……文子を見ていると、凄くハズかしいというか、ああ、私だ!!と思っちゃうの。この思いが好きな相手に届くと本気で妄想していた。妄想、であって、本当にそう思っていた訳じゃない、という言い訳のもとに、本気だった(爆爆)。

そしてそんなことが現実じゃないと判ってる、と頭のどこかで言い訳しながら、それが大人になったという証拠だと言い訳しながら、いまだにそういうところを持ってる(爆爆)。
勿論、それとは別に現実の生活があるし、未来があるし、大人になればしがらみや責任もついてくる。でもなんか私、いまだに変わってない気がするんだよね(恥)。
そういうしがらみや責任を、大人になったことだと言い訳、というよりはしゃいで、いまだに妄想恋を続けている気がする(爆爆)。そしてそのスタートが、確かにこんな時期であり、こんなやけどしそうなほど純粋な気持ちであり、だったと思い……。

そうか、全ての女子がこういうタイプではなかったのか(爆爆)。あの頃の私がチエの喝破を受けてたら、マジに立ち直れなかったかもしれない……。
確かにこの場面、もう旅の先行きも切羽詰まってて、チエも爆発して、謝る気なんてないから!ってな、危機的状況だった。二人だけじゃなくって、お世話になった人への態度とかでも、四人はそれぞれぶつかりあって、東京を目の前にして、サイアクの状況だったんである。

ある一人のバイト代を頼りに、長距離バスに乗ることにして、無言のままLINEで会話する四人が、他愛ないやりとりでそれが溶け合うのはとても微笑ましいが、根本的な解決が見られている訳じゃないことが心のどこかに引っかかり、そしてそれこそが、帰途は四人別々であるという意味なのかもしれないと思ったりする。
ギターを弾いていた一之瀬はこのまましばらく東京に残るといい、文子はみんなに迷惑をかけたという意味でか、鈍行で帰るという。旅の途中で、地元に残る二人組として手を取り合ったさっつんとチエが新幹線で帰ることになる。
なんとも象徴的な、と思うが、でもセーラー服姿で最後の東京、渋谷ではしゃいで写真を撮るのは四人一緒だ。

あれ、最も大事な場面をすっ飛ばしちゃった。いや、先にオチバレはしていたが(爆爆)。
そう、クリープハイプのライブの、アンコールの場面にバックステージから乱入しちゃう驚きのクライマックス。
東京からの電車代がなくて、ライブの始まりに間に合わない、と落ち込む文子に合わせる形でとぼとぼ歩いているものの、最後のアンコールには間に合うかも!!と飛び込んでじれじれしながらクロークに荷物預けて猛ダッシュ!
でも大きな会場で、ステージも最終盤、案内役も誰もいないから、どこが会場への入り口か判らずやみくもに突っ走ったらまさかのバックステージ!もう少しでステージに飛び出す直前に、メンバーと目が合って、会場も動きを止めて、あの永遠のような一瞬!!

すぐ目の前に憧れの人がいる、あの時の四人、特に文子の、演じる三浦嬢のお顔は、忘れられんかった。あれは恋する女の子の顔で、そして同時に、……確かに相手が遠い存在だということを、思い知らされた顔だった。
でもそれは失望の顔じゃない、幸福の顔なのだ。遠い存在で大好きだからこその幸福。その後、チケットを譲ってくれた女性から叱責されても、しおれながらもその幸せに浸ってぼーっとしているような。
こんな矛盾はないけれど、それが恋ではない恋、音楽と奏でる個人が結びついた奇跡に落ちる、恋に限りなく近い大切な何か、なのだ!!!!★★★★★


私の少女/???
2014年 119分 韓国 カラー
監督:チョン・ジュリ 脚本:チョン・ジュリ
撮影:キム・ヒョンソク 音楽:チャン・ヨンギュ
出演:ペ・ドゥナ/キム・セロン/ソン・セビョク

2015/5/27/水 劇場(渋谷ユーロスペース)
観た後に覗いたオフィシャルサイトのイントロダクションで、希望の物語、と位置づけされているのを見て、えっ、そうなの、と思った。
そうとってしまうと全く違う物語に見えてしまう気がした。いや、映画は観た人の数だけ物語があって、いかようにもとっていいものだとは思うけれど、本当にいかようにもとれる作品なのかもしれないと思った。

いつもオチバレだからざっと概要書いちゃう(爆)。同性愛のスキャンダルで辺鄙な村に飛ばされたエリート女性警官が出会った中学生の少女。継父とその母親(つまり祖母)に日常的に暴力を振るわれているのを見かねて引き離し、一緒に暮らし始める。
そんな中での祖母の不審死。女性警官のスキャンダルをつかんだ継父は、娘に対する性的暴力を告発する。少女は大好きな彼女を救うために、継父こそ自分を性的虐待していたと見せかけて陥れる。そうなると、あの祖母の不審死ももしやこの少女のしわざだったのかと……。

と、いう話で、最終的にこの女性警官、少女、ドヒから所長さんと呼ばれる彼女は、少女のしでかしたことを胸にしまい込んで、施設送りになるであろう彼女を救い出す形で、「私と一緒に行く?」と言い、涙をいっぱいためた少女はうなずき、その胸に飛び込んでいく、という結末で。
それは確かに一見して希望、なのかもしれない。そう見えなくはない。社会からはじかれた孤独な魂が、愛という形ではなしに、手を取り合った形として見れば、希望なのかもしれない、確かに。
でもそれは、愛という形ではなしに、見ればなのよね。
本当にそうだったんだろうか……。

同性愛者だからといって、少女を救って一緒に暮らしている形式だけで、すぐにそういう想像をするのは確かに短絡的であり、だからこそこの所長さんは苦しめられる。
これは全世界的にある傾向で、同性愛者というと、そのアイデンティティをまず、セックスの嗜好からとらえられ、なぜか色情狂のようにとらえられる。異性愛者のように、普通に生活している人間、という側面ではなく、まず同性とセックスしている人間、ととらえられるふしがある。

日本でならまだ、寛容な描写になるのかもしれないと思う。その寛容は、無関心とか、触らぬなんとかとか、そういうことになるのかもしれないけれど、ザ・偏見、というこの辺鄙な村の視線は……。
いや、この村だけではない、その理由で所長さんは左遷されてきたんだから……、やはりまだ、若い文化の国がたどらなければならぬ道、という感じがするのだ。

所長さんがとらえられて、少女が裏付けのために呼ばれる。少女を傷つけずに真相を聞き出そうという、及び腰マンマンの保護観察官的なおばさまから、所長さんはどこを触ったの?と人形でもって示すように促すのね。少女は嬉しそうに、人形のスカートの中まで指を突っ込んでごしごしとさするのだ。
劇中、そんな描写はない、無論、ない。無論、というところが、ない、と断定するに至るのか、と判断すべきかどうかがカギになるのではと思う。
少なくともこの、心が傷つき、そしてそこに恋という熱湯が注ぎ込まれてヤケド状態になった少女が、少なくとも……そう、少なくとも、そうされたかった、ことは、この指の動きから明らかではないか。

中学生。劇中、夏休みの間を所長さんの家で過ごす間に、「太っちゃったかも」と新学期に制服を着てみたら、おっぱいがでかくなってぱっつんぱっつんになっていたこの少女の身体の変化に、どうして所長さんの存在が関係してないと言えるのか。
恋心だけでおっぱいは大きくなるだろうか……いやなるかもしれないが、ただ単にいわゆる第二次性徴期だわよねとも思うが、でも、やっぱり気になる描写が多すぎるんだもの。

お風呂に入っている所長さんの隣で、チョロチョロと音を立てて用を足す少女。少女がムリヤリ入ってくる形で一緒に湯船に入る場面は言わずもがな。
ポスターなどの宣材写真にもなっている、至近距離で抱き合う形で、知り合いに声をかけられて振り返る、しまった、という表情が隠し切れない所長さんと、邪魔しないでよ、という気持ちがアリアリの少女の、重なり合う顔のドアップ。
そしてその場所は、海岸でオソロのビキニ姿で訪れた海岸、まるでプライぺートビーチのように、誰もいない海岸なのだ。

その前にショッピングをする場面も可愛かったけど、妙に親密な雰囲気。ファッショナブルなサングラスをかけて笑い合うところなんて、まるでデートそのものだった。
ていうか、私は、ずっとそう思いながら観続けていたのだ。中学生。女の子が一番変わる季節。暴力を受け続け、ボロボロになった状態で所長さんの前に現れた少女。防波堤で無心に踊るダンスがポジのエロを、暴力を受けた生々しい傷がネガのエロを交互に提示してくる。

そんなことを言ってしまえば、同性愛者というだけで、少女を連れ込んでイタズラするだろうという思い込みの、この世界に同調することになっちまうんだけれど、でもさ、少なくとも少女の方は所長さんにホレていた訳だし……。
それが、いわゆる、この状況を救ってくれた、暴力をふるう父親とは違う性別だからこそ余計に、スーパーヒーロー、もとい、スーパーヒロイン。いや、やはりここはスーパーヒーローかな。
そしてこの年頃になれば、セックスの何たるかだって、判ってくる。実際、自分にされたいことを判ってて、人形の裾をめくったのだから。いや、本当にされていたのか……??

ここをどうとるか、本当にそうなのよ。そらま、マトモに考えれば、所長さんはこの哀れな少女を不憫に思っただけ。むしろ、この少女から予想以上の好意をクレッシェンド状態でぶつけられてくることに戸惑いを感じた、というところは、なるほど、そうかもしれない。
でも、ファーストシーン、道端でうずくまっていた少女に、運転する車で水たまりの水をバシャン!とかぶせてしまったあの出会いのシーンから、妙にエロティックだった。
無防備なエロ。髪もぼうぼうに伸びきって、表情も見えないぐらいの少女が、白いボロボロのワンピースを着て、でも白いワンピースなのだ……もうそれだけで、無垢で無防備な少女、ゆえに、逆に、いつでも凌辱OKみたいな(ひどい言い方だな……)危険なエロティシズムを感じてしまう。

のどかな水田のあぜ道を逃げるように走っていく少女の姿は、のどかで美しいけれど、どこにも行けない絶望を感じさせる。
だからこそ彼女を救うには、希望だの、そんななまっちょろいことではなく、破滅も恐れぬ愛でなければいけないと、勝手に思っちまったのだ。

そして、自分の証言のせいでゲス父に告発されてしまった所長さんを助けるために打った”狂言”性的虐待(てか、レイプ)も、本当にここだけの狂言だったのか、痛い、やめて、という台詞の赤裸々さはどこから得た情報なのか。
いや、今の時代だからいくらだって得られる情報だろうけれど、この辺鄙な海沿いの村、そして何も与えられない少女、ドヒには体験なしには得られない情報のように思えた、だなんていうのは、ゲスな妄想なのだろうか??

確かに少女というのはゲスな妄想の生き物だ……。ことにこの、虐げられまくっている少女は、本来の無邪気な部分……歌手のダンスや芝居を完コピして、所長さんを和ませる部分と、暴力に耐え抜いたり、それが日常化しているせいでバランスが保てなくなるのか、自傷行為に及ぶ部分と、あまりにも激しいギャップがあって、この少女に妄想をせずに生きよ、ということ自体、酷なことだ。
それが所長さんは判っているから、暴力を受けているということ以上に少女の状態に危険を感じて、彼女を保護した。でもだからといって、一線を越えなかったかという証拠にはならないのだ。だってそれが、少女が望んでいることだったのならば。

ああ、ゲスは私の方か。でもその考えから逃れられない。私には、少女が所長さんのために父親を陥れ、その前に、自分を守るために祖母を殺し(恐らく)、そこまでの、ある意味の強さを持っているこの少女が、その強さがどこから来たのか、ということを結びつけずにはいられないのだ。
それは単に私の欲望なのかもしれない。劇中、観客の反感をわっかりやすく買った、ブチこまれて当然!!の継父は、でもなぜ、そんなジャマなだけの子供を、それこそ施設にでも預けずに手元においたのか、と考えてしまうのだ。

なぜ、母親は娘を置いていったのか。ついうがってしまう。娘が自分と同様に”ただの暴力”を受けているのならば、同等ならば、一緒に連れて逃げるのではないのか。この一点、なぜ少女がただ一人、置いて行かれたのか、明確な納得が出来なかったから、ついついうがちたくなっちゃうのよ。
だって、継父、ってことは、母親にとっては実の娘、だったんでしょ?その娘を置いていった理由を、ついうがちたくなるじゃない。

ああ、私はただゲスな妄想をするゲス女!!でもさ、所長さんのスキャンダルのモトである元カノが登場して、心かき乱される少女、に、なんかすっごい生々しいものを感じたからさ……。
所長さんがお風呂に入っている間に、「おしっこしたい」と入ってくるのも、無邪気そうに見せる計算のように思えてきて、確かにこの子は、モンスターかもしれない、と思った。

モンスター、そう言ったのは、狂言レイプの通報に駆けつけて、継父を逮捕した若い青年警官。
「あの子の境遇は気の毒だと思うけれど、どこか普通の子と違って本心が見えない。モンスターのように感じてしまう」と、正直に言う。それは観客にはそれなりに感じ取れていたことだったから、青年警官にわざわざ言わせて念押しするのは、少々親切すぎる感もあったけれど、でもそれだけ、念押ししなければならない要素だったんじゃないの。

少女は、モンスターなのだ。同情すべき環境がそうさせたにしても。それを十分判ってて、そのあふれる涙がヤバいと判ってて、それでも切り離せなくて「私と一緒に、来る?」と決死の覚悟で声をかけた所長さんの心が、なぜ愛ではないと、言えるのか。

そしてここまで来て、この映画に足を運んだ決定的動機を今更ながら言う訳ね、私(爆)。そらー、ペ・ドゥナ嬢に決まってるじゃん(爆爆)。
スンマセン、ハリウッドに進出した時にはなんか寂しくて観なかったんだけど(爆)、もー、最愛の女優さんと言っても過言ではないっ。冒頭は長い髪を無造作に束ねて、あら、キュートなマシュマロカットがトレードマークのドゥナ嬢なのに、と思ったら、劇中で髪を切り、私の大好きな、超キュートなドゥナ嬢になってくれた♪
しかし、訪ねてきた恋人カノジョからは、「ダサい」と言われる。バッカ!おまーには彼女の魅力が全然判ってないっ!!とはいえ、所長さんに恋する少女が、同じ髪型にしてご満悦、てーのは、このクソナマイキ娘めっ、と思ったけどね(爆)。

でも、やっぱり大人の女性になったなあと思う。ちょっと寂しい(爆)。なんていうか、無駄な脂肪がついてない、ストイックな大人の女の身体になった。だってこんなクールでシリアスな役柄、ホントはペ・ドゥナみたいなカワイイ人にやらせたくないけど(爆)、でも彼女はもともと素晴らしい女優さんだから、あんなに可愛くっても、どんな役でもやれるんだもんなあ。でもでも、ホント、なんかイイ女の身体になってて、ちょっと寂しかった(爆)。

キーマンとなる継父さんは、それこそ韓国映画にありがちなオーバー芝居で、まあだからこそ判りやすくムカつくんだからいいんだけど、女性陣の繊細な演技に比して、うるさすぎる(爆)。
でも不法滞在者、労働力不足の問題なんかはこーゆー、ワンマンな役どころと芝居によってでなければ強烈にあぶりだされないのかもしれない。それは今の平和ボケ日本ではなかなか感じ取れないところで……いや、ある筈なのに、見ないふりしてることに直面させられるというか。

そう、不法滞在者、あるいはこの田舎町の労働者たちが、正義よりも仕事がうまく回ることを優先し、そのためには子供が虐待されるとか、不法労働者とか、そんなことを告発されるのはいい迷惑、メンドくさい、エリートたちは庶民の過酷な現状を判ってないんだと、それを声高に言うんだよね。
子供を虐待するのも、酒のせいで理性を失うからだ、酒が悪いんだと。彼自身が悪いんじゃなくて、って。信じられない!!

現状を見に来た所長さんに、あのインドの人がどこに行ったかなんて知らない、と冷たい視線をずっと送り続けながら船の上でたたずむ労働者たちのカットは、ゾッとする冷たさがあった。
でもそれは、うっかり騙されそうになるけどそれは、やっぱり、当然、絶対に違うのだ。そうやっていい迷惑だと言うヤツらは、自分自身には直接の被害が及ばない、労働力が足りなくなって大変、という程度のことなんだもの。

それは哀しい、とても哀しい。何が哀しいって、足りなくなった労働力のその原因になった人たちの行く末を考えたり心配することが出来ない社会だから。それはそんなに贅沢なことなんだろうか……?★★★★☆


「春情鳩の街」より 渡り鳥いつ帰る
1955年 128分 日本 モノクロ
監督:久松静児 脚本:八住利雄
撮影:高橋通夫 玉井正夫 音楽:団伊玖磨
出演:久慈あさみ 桂木洋子 淡路恵子 高峰秀子 織田政雄 水戸光子 森繁久彌 田中絹代 富田仲次郎 浦辺粂子 二木てるみ 勝又恵子 春日俊二 太刀川洋一 岡田茉莉子 藤原釜足 左卜全 植村謙二郎 加藤春哉 中村是好 月野道代 深見泰三

2015/11/23/月・祝 劇場(神保町シアター)
女たらしで優柔不断でどうしようもないのに、なぜか憎めない。そんな、私が見たかったモリシゲで、それは大いに喜んだのだけれど、しかししかし、この話は、てかこの映画は、なんと凄い作品なのだろう!モリシゲはいわば狂言回しのようで、真の主人公はこの哀しき女たちに違いない。
鳩の街。いわば色町。そう、呼ばれていたのだろうか、あるいは本当にそういう場所があったのだろうか。

そこでなじみの女、つまりかつてはやはり色を売っていたであろうそのアイカタの主人に収まってのらりくらりと暮らしているのがモリシゲ扮する伝吉。店の女たちにはお父さんと呼ばれ、彼もまた彼女たちを娘と呼ぶ。それがこの色町のしきたりなんである。
表向きは売春宿ではなく、カフェーの女給なのだと。店同士の組織は飲食店組合と称しているんだと。
つまりは伝吉はこのおしげという女のヒモである。てことは正妻じゃなくって、愛人。彼には別に妻と娘がいる。彼曰く、空襲で死んでしまったと思っていた、というんである。つまりその一大事の時、彼はおしげのところにシケこんでいた訳である。ああ、モリシゲである。

このおしげを演じるのが田中絹代。ああ、田中絹代!そうだ、田中絹代だ!!見ている間はこの圧倒的すぎるおかみさんに気おされて、時には爆笑し、時にはドン引きし、モリシゲがすっかり小さくなる様も可笑しくて、つまりそれ位、身体も大きく見えるぐらい、尻に敷かれるどころじゃないって感じの女将さんで、私の抱いている小さな体の田中絹代じゃなくって……。
いや、やはりそれは言い訳だ。私は田中絹代の凄さをちっとも判っていなかった。田中絹代が凄い女優だということを、文字面でしか判っていなかったのだっ。
こんなタイプの役柄を見たことがなかった、などとゆーのは、田中絹代に驚かされるたびに言っているように思う。金にガメつく“娘たち”に厳しいおかみさんは、しかし実は伝吉にホレきっていて、だからこそ彼がいまだ正妻と別れずぐずぐずしていることにすっかりやきもきしているのだ。それどころかタブー中のタブー、“娘”に手を出すなんてことまでするのだから。

おっと、口が滑った(爆)。でも娘たちはそれぞれ主役を張れるぐらい濃いエピソードをお持ちなので、滑ったついでにこの娘から行こうか。
栄子。演じるは淡路恵子。はすっぱな美人っぷりが目にまぶしいぐらいである。彼女にベタ惚れの時計職人から結婚を迫られてヘキエキしている。
栄子には彼がヤバい状態にあるのはきっと判っていたと思う。伝吉から「あいつ、ちょっとおかしいぞ」と言われなくったって、観客側からだって、彼の目のイッてる感じが、ただ単に栄子にホレ切っているだけという訳じゃないって判るんだもの。
後に知れることだが、栄子に貢ぐために客の品物に手を出した、ということだった。その前に栄子は巧みに伝吉を誘惑して、店をトンズラする。この、誘惑する場面の、誘惑される伝吉=モリシゲの芝居がモリシゲ!!で嬉しくなってしまう。ほんっとに、だらしない女たらし、いや、この場合、たらしではなく、たらされているんだから!

栄子はいかにも現代っ子のよう、こんな仕事から足を洗うために結婚すればと言われても、楽しく暮らしたいワ、と言い放つんだけれど、でも、本当は違うんだよね。凄く繊細な神経の持ち主なんだよね。
「あの娘、いやなことがあると水をかぶるのよ」と同僚から言われる彼女は、それだけこの稼業をテキトーに流してやっている訳ではないのだ。

戦後もしばらく経ったこの町では、経営者のおっちゃんたちはしたり顔で、今は昔みたいに女の子たちに縛りがないし、自由だ。いつでも辞められるし、民主主義でやっているんだ。彼女たちはしたたかだよ、と。
栄子のようなタイプの女の子こそ、それを謳歌しているように見えたのに、伝吉に対してズバリと言い放つ台詞が胸を打った。「身体を売るのが平気な女なんていないんだ。バカにするな!」

冒頭を飾るのは、久慈あさみ扮する民江。彼女はもう最初から、身体を売るのが平気な女、なんていう風には全然見えない。たおやかな美人で、お客に次回の前払いを頼むのもよくよくの事情だとすぐに推察される。それなりの年がいっているのが判るのも、切ない。一人娘と老母を養うために身をやつしているのだ。
戦争未亡人だったんだったかな??この老母というのがまたスゲーのよ。しれっと金を無心に現れ、悪いねえ、と言うのが口先だけなのがメッチャ判る悪い顔!

病気になって療養のために実家に帰るも、不幸にも娘がひき逃げに遭ってしまい、入院費が必要になる。あんた、どうするつもりなんだよ、と、我が娘も病気で臥せっているというのにメイワク千万な口調を隠しもせずに言うこの老母にアゼン!あんた確かにトシヨリだけど、めっちゃ元気やんか、オメーが働け!!と言いたくなる!!
この幼い娘照子が、この先日観たモリシゲ特集一発目でもうすっかり泣かされた二木てるみ。ここでも、大人しい娘ながら母親のことが大好きで、どこにも行かないでね、と控えめながら言う様に泣かされるのだ。そして民江はまだ全然病気が治っていないのに鳩の街へと帰ってくる。ああなんてこと!!

一番不幸だったのは、この娘だったかもしれない。種子。なじみの客がいつしか情人となり、しかしそう思っていたのは彼女の方だけだったのかもしれない。
金を貢ぐだけ貢いで、捨てられる。そのことに絶望して、相手は誰でもいい、と、栄子に執着していたあの時計職人の男と心中を図る。その結果がなんと……。
という、意外な結末は後のおたのしみで。種子の情人、ヤマを張って賭けに出るようなバクチ仕事で失敗する武田はしかし、本当は種子のことを本当に愛していたのかもしれない。でも、彼女が深刻な病に侵されていると知っていたら、どうだっただろうか……。

この鳩の街から足を洗って、今は流しの兄弟(という感じの青年二人)と共に歌を歌って生活している鈴代という女の子が、種子のカギを握るんである。
周囲からも、鳩の街にいたとは思えないしっかりした娘、という評判の女の子、この表現自体が、色町の女を軽侮して一つのイメージにくくりあげていることに他ならないのだが、もう足を洗ってしまっている鈴代は、その矛盾に気づかなかったのかもしれない。自分はもうカタギだと、思っていたから、鳩の街に近づくことすら嫌っていた。

種子の情人、武田から手紙と金を託されるも、手紙だけを、しかも本人に直接ではなく、同僚の街子に渡して済ませてしまう。
その金を、胸を患っている流し仲間の兄の療養費に当てようと思った訳だけど、どんな理由にしろ、人のカネをかすめとったことは事実なのだ。
鈴代は涙ながらに言う。女の人に貢ぐ金なのだからと。そんなことを、ヘーキで言う。つまり、自分も身を置いていた場所の出来事なのに、それが軽い金だと、薄汚れた金だと、今自分が違う場所にいるから、斬って捨てられるのだ……!!

厳しくうがちすぎかもしれないけれども、でもここは見過ごせない。だって本作は、鳩の街の女たちの生きざまこそがメインテーマなのだもの。
お兄ちゃんに諭されてよよと泣き崩れ、明日には返しに行きます、と鈴代は言う。でも手遅れなのだ。いや、そもそも街子に手渡した時点で、その時金も渡していたら彼女がネコババしたに違いないと思うし、種子にきちんと渡ったからといって、武田の想いを種子は慮っただろうか、そして死を思いとどまっただろうか??それは判らない……。

でも、貢いだ、ということが心のかせになっていたんだから、やっぱり結果は違っただろうと思う。
結果的に、種子は伝吉と心中した形になってしまった。な、なぜ!!種子と土手で心中するはずだった寺田が、不審な水音から飛び込み自殺だと察し、すたこらさっさとその場を逃げてしまったからなんである。
それにしても、ただ土手でクスリかなんか飲んで死ぬ手筈の種子と、川に落ちた伝吉が、入水心中の形になるなんてそんな上手いコト……と思うが、本当にこの展開は鮮烈で。

それはなんといっても……あんなにガメつく、恐妻(妻じゃないけど)っぷりをヒモの伝吉に対して発揮していたおしげさんが、まず栄子とのことで嫉妬のあまり泣き狂い、その次に待っていたのが、栄子ではない、まさかの種子との心中の末の伝吉の死で、現実逃避して唱えまくるナンミョーホーレンゲキョーも可笑しくも哀しすぎて、たまらないんだもの!
だって、だってさ、なぜこんなことになったかっていうと、なのよ。つまり伝吉はピンでの自殺、ヤケになってヤケ酒くらっての、まあ酔っぱらっていたから自殺というより事故だったのかもしれんが、でもやっぱり、ハッキリと絶望した末の泥酔の、飛び込み、だったんだもの。

大空襲の時に女んとこにシケこんで、そのままヒモとあいなった身分で、エラソーなことなんて言えっこない。正妻から、もうあんたなんか夫でも父親でもない、夫となり父親となってくれる男がいるんだから正式に別れてほしいと言われるのもごもっともさ。
今の身分が居心地いいんだから、彼にとってはしてやったりかと思いきや、優柔不断にのらりくらり。モリシゲっぽいけれど、モリシゲっぽくない、のは、その理由が、奥さんに対する未練ではなく、娘に対するそれだということ。
奥さんに対する未練ではなく、なのよ。のみならず、じゃなくて。娘に対する未練なのだ。奥さんはそのことをよく判ってて、ハッキリと口にもする。

あの地獄の中で出会った彼、由造は妻子を失っていた。そんな相手を得たからこそ、余計に判るのだ。伝吉があまりにも勝手で無神経で……女を傷つけているということを。
伝吉には娘しか目に入っていないのだ。自分の代わりのしっかりした男がいるということにショックを受けて、娘のお土産にと高そうなお人形なんか買って乗り込んだりさ。
そりゃ奥さん、怒るよ。もう父親はちゃんといるんだと。それは裏返して言えば、母親である自分を、もう奥さんとしてあんたは見ていないじゃないかと、それは未練ではなく、ただ純粋な怒りとして彼女が吠えているように思えるのは、私のフェミニズム野郎故、かなあ……?

一人、娘の中で完全にコメディリリーフがいた。娘不足の店に、仲間の店に売り込みに来た、北海道から飛行機に乗ってやってきたという街子。
他の“娘”たちが、先述したように、あっさりとなんてしてないと。身体を売ることがカンタンな訳がないと、そういうツラさを観客側に十二分に感じさせる一方、街子は、最初から仕事する気さえさらさらない訳。
もしこの時、彼女に聞いたならば、栄子が悲痛に叫んだ台詞を、軽い調子でさらりと言ってのけるのだろう。
自由なんですよね。お客さんとは恋愛という形で。無理強いして仕事させるんだったら、訴えますからね、と面接の段階からひょうひょうという感じでぶちかまし、お茶貰えますか、甘いものないですかね、せんべいですか……バリバリバリ、みたいな、もうあり得ない、心臓に毛がボウボウ生えているの!

そんな感じだから当然仕事する気もなく、落ち込んで臥せってる種子のおかずまで失敬してお腹いっぱい、フアーア、と伸びをして店先に出るも、「私眠いのよ、また今度」おーーーーいい!!!
しかも種子が遺書を書き残し、民江に生活道具を譲ると書いてあるのを盗み読むと、おかみさんに手紙を渡す前にちゃっかり種子の家財道具を持ち出して売り飛ばし、トンズラ。北海道から飛行機でやってきた女、という設定ヤメてほしい。北海道の女はそんなにヒドくないよ……多分……うーむ!!

ああ、モリシゲを観に行ったのに、女はコワい!!だって、死んじゃう、って、さあ!!!!!!★★★★★


ワンダフルワールドエンド
2014年 84分 日本 カラー
監督:松居大悟 脚本:松居大悟
撮影:塩谷大樹 音楽:大森靖子
出演:橋本愛 蒼波純 稲葉友 利重剛 町田マリー 大森靖子

2015/2/3/火 劇場(新宿武蔵野館)
こうした、ミュージッククリップの延長線上モノはヤハリ、成り立ち自体やミュージシャンその人に距離感を感じてしまうのでどうしてもスルーしがちなのであるが、本作はなんか最初から、映画的魅力をぷんぷんと匂わせている気がして、迷いなく足を運ぶ。
レイトなのにすごい人気!きっといつまでたっても満員、立ち見状態だったから、夕方の回を増やしてくれたのであろう。その夕方の回も満杯で、私がこの大森靖子という新進気鋭のミュージシャンを知らないだけなのかもしれないけれど、最近はヒットの動向が結構予想外で、ナカナカに嬉しいオドロキだったりするんである。
あるいは橋本愛、なのだろうか、ヤハリ。確かに今彼女は旬の売れっ子女優ではあるけれど……やはりそれだけではない気がする。この映画的魅力の匂いにつられて、まるで花の蜜に知らずに寄って行ってしまう蝶のように、いやそんなウツクシイもんでもないが(爆)、そんな集客な、気がする。

女の子二人がゴスロリ姿で並んだ宣材写真、「さよなら、男ども。」の惹句。実際はそれほど徹底的に男排除の物語ではなかったけれど(ちょっと残念(爆))、なんともなんとも、心惹かれるんである。
しかも片方は私の知らない、妙にロリロリな女の子。実際にも、リアルロリ、今14歳ということは、撮影時は12か13か。素晴らしい!
昨今は少女も大人女優にやらせる風潮があって、私はタイヘン不満足だったんだよー。やはり少女はリアル少女でなければならない。そうでなければ、その中の魔力は出せないのだ。私はそう、信じている!

おっと、脱線してしまった(爆)。で、若干”大森靖子のミュージッククリップ”が前提にあるということに腰が引ける気持ちはあるけれども、観ている時にはまったくそんなこと思わなかった、一本の映画作品として心惹かれて楽しめたので、もうそれは気にしないことにする(だからツッコまないでね、というヒクツな牽制(汗))。
橋本愛は、これまで見た彼女の中で、一番魅力的だと、思ったなあ。彼女はクールビューティーで、つまりどこか一定温度な感じがあって、今まで私が見た彼女の役は、その中にいる、感じだった、気がする。いや、あくまで本作の彼女を思ってそう思うのかもしれないけれど。
クールビューティーだけど、声は柔らかで可愛らしい彼女は、実はフツーの、いや、フツーだけど可愛い女子が、よく似合うんだよね。本作では、売れない、というか、まだまだ駆け出しのモデル、つーかタレント、つーか、そんな女の子、詩織を演じている。

地方から上京して、撮影イベントとかしか仕事がない。仕事なのだろうか、というショボさで、その中でも彼女のファンは数えるほどしかいない。ツイキャス(っていうんだね、この生配信のこと。勉強になるなあ)やブログでファンと交流し、草の根活動をするも、なかなか先が見えてこない。
同棲している恋人もいかにも売れない小劇団の役者で、なのに「駅前でビラ配りとかありえない。面白ければ客は来るはず」という、ゼツボー的な未来のなさ、なんである。
テレビの仕事が舞い込んで有頂天になるも、セクハラチックな芸人との絡みや私生活切り売りの毒舌を求められて、ファン層も変わっていくし、詩織は追い詰められちゃう。
でもそんな中で出会ったのが、リアルファンの女の子、13歳の亜弓。詩織と同じゴスロリのコスプレをして、熱心なコメントや、ブログでレビューを残してくれる。実際会ってみると恥ずかしがりやの無口な女の子なのに。その内的世界は宇宙的に広がっているみたい。

ああ、そうなのだ。女の子は、そう、そうなのだ!!亜弓ちゃんはね、本当は心の中に言いたいことが沢山、沢山あって、でも大好きな人を前にすると、言えないのだ……。
”家出娘”というテイで詩織の前に現れた亜弓ちゃんは、詩織の彼氏の浩平とは心安く喋る、らしい。らしい、というのは、彼がそう言うだけで、詩織が帰ってくると、途端に亜弓ちゃんは無口になってしまうから。
帰ってくる、そう、家出した亜弓ちゃんを、家に留めたのは浩平。この展開に、泥沼、修羅場が待っているんじゃないかと、ちょこっと期待も込めて(キチク(爆))ハラハラしたが、まあ確かに浩平はワカラズヤの男だったけれど、ぶっ飛ばすだけで事足りる程度の、平均的男だった。良かった良かった(?)。

えーと、色々飛ばしてるかな(爆)。詩織の売れないモデル業のしょっぱさは、なんともリアリティがあってイイんだよね。
彼女が所属している事務所の社長は、そうそうそう!利重剛!橋本愛嬢が主演した「さよならドビュッシー」で監督と女優として顔合わせしていることを考えると、なんとも感慨深いものがある!!
利重さんは、こーゆー、いい人な大人、がメッチャ似合うんだよねーっ。この役ってさ、ちょっとよくあるエンタメチックにすれば、非道な社長にも出来ると思うんだけど、そうはならないの。やっぱり利重さんだから、なんて(照)。

一歩進めるためにきわどいテレビの仕事を持ってきたのは彼だけれど、詩織が無理していると感じると、慎重に、心配して、やんわりとだけれど、注進する。
その先、詩織が仕事を辞めることを決意して挨拶に行く場面では、もう次の女の子をオーディションしているという、よくある冷たい図式はあれど、「戻ってくる気があるなら、いつでも来てよ」という言葉を信じられるのは、やっぱり利重さんだからだと思うもの。

それに、そういう含みが充分に感じられるラストだしね!って、全然すっ飛ばしまくってラストの話をしてどうする(爆)。
そうそう、亜弓ちゃんが詩織と浩平が同棲している部屋に居候する形になって、詩織がそれに我慢できなくって、家を出てしまう。
亜弓ちゃんは自分のブログに「好きな人が出来た」なんて書いて、その思いをツイキャスで綴るんである。視聴している人の数が出るという残酷さは、プロとして配信している詩織にとっては死活問題だけれど、それに対して、亜弓ちゃんが、たった一人の視聴者=詩織に対して思いを吐露するのが、そして匿名のコメントをギリギリの心情で詩織が……ネカフェで一人残すのが……すんごく胸を締め付けられるのだ。

私ね、この時、ああ、女の子同士の、同志の、ラブは、消えてしまったかと思ったの。女の子ラブだけを期待して足を運んだヘタレだからさ(爆)、亜弓ちゃんが浩平を好きだと言った時点で、ああ、もうダメだと思った。
でも……次の瞬間、はたと目を覚ましたの。「好きな人の好きなものを、好きになってしまう」的な(すみません……正確な言い回し、覚えてないの(爆))ことを亜弓ちゃんが言ったから、ハタ、と目が覚めた、起き直した。
亜弓ちゃんは、浩平が好きなんじゃない、詩織が好きな浩平だから、好きになったんだと!!

こーゆー感覚は、男子には理解できない、んだろうなあ……。この公式が明らかになった瞬間から、私はこの映画が好きになった。女子の映画だと思った。残念ながら作っているのは男子だけど(爆)、でもそれでもいいの。
最初のうち、詩織は亜弓ちゃんを敬遠する向きがある。それは、自分のファンを同棲してる部屋に引き入れた浩平に対する、価値観を共有出来ない気持ち。
逆ならどうよと言われて彼は納得するけれども、この時点でもう、男と女の気持ちの決裂は決定的だったと思う。亜弓ちゃんがほんの子供であったとしても、でもやっぱり、ティーンと名がつく女の子、なんだもの。

でもそんな、ゲスの勘繰りは杞憂だったのが嬉しいような肩透かしのような気もするが(爆)、でも判るの、女子と女子のシンパシィ、憧れからくる、相手の好きなものを全部好きになっちゃう、いや、好きになりたいと思う気持ち。あぁ、不毛なまま、年を重ねてしまった(爆)。
でもね、でもでも、最終的に、最初は内容にそんなにそぐわなかったなあ、と思う惹句どおりに、男なんていらねぇ、とばかりに、手に手を取って二人の女の子が駆けていくラストシーンに、何よりのカタルシスを感じるんだもの。

だーかーらー、かなーり脱線しまくってるんだってば!どこをすっ飛ばしてる、どこどこどこ……。
えーとね、えーと、そうそう、詩織が亜弓ちゃんこそ運命の相手だと悟るまで、ちょっと時間がかかる訳。やっぱり恋人が無造作に女の子を引き入れた、って思いがあるから、ぶんむくれでネカフェでしばらく過ごしちゃうし。
でもそこで亜弓ちゃんのブログとか見て、ツイキャスで一対一のやり取りをしているうちに……判ってくるのだ。だって詩織も亜弓ちゃんと同じ、女の子なんだもの!!

詩織がまだまだ売れないモデルの頃は、焦りながらも素直な自分が出せていたと思う。メイクの方法を実況中継したりする、なじみの人のコメントにありがとー、と返したりする。売れているモデルならあり得ないユルさではあったけど、確かな手触りを感じるやりとりがあった。
それを忘れさせずに最後までい続けていたのが、亜弓ちゃんの存在だったんだよね。深夜テレビに出ることで、エロな書き込みが急増して、イラ立ちを隠せなくなる詩織、という、判り易い図式を持ち出さなくっても、充分にそれが判るんだもの。

彼氏とすんなり同居を始める亜弓ちゃん、というピリピリモードがあったけれど、一度彼氏と離れると、亜弓ちゃんとの距離をすんなりと縮めることになる詩織。
いや、そのためには、彼氏をベランダの外に放置するという荒業が必要なのだが。しかも物語のラストになってようやく救い出された彼が、ゾンビ手前になっているというオチ付き(苦笑)。
このあたりは多少、どころかかなりファンタジーも入っていて、男に対して優しいなーっ、と思っちゃうが、女の子同士のラブのシンパシィが、まだまだファンタジーの領域だってことなのかもしれない、と思うと、なんだかちょっと、やっぱり、哀しいかなあ。

でも、いいの。いいのいいの。女の子の淡いラブがあったから、いいの!こういう淡淡(あわあわと読んでください)ラブがなんとも胸をくすぐるの!
詩織にソデにされそうになった彼氏、亜弓ちゃんにいきなり手のひらを反して家に帰れよ、と小銭を渡す、こういうことだろ、と詩織を振り返る、これが優しさだと思っているとゆー、サイテー中のサイテー男!

ソイツにガッツンガッツン、ベランダのガラス戸をブチ当てるシーンが、もう、メッチャ、溜飲下がるのよねーっ。亜弓ちゃんがケーキを顔面に当てるのなんて、カワイイもんよ。
そう……一見、浩平は理解ある男のように見えるからこそ、そのジツが明かされるこの展開に実に実に、溜飲が下がるのだっ。あれっ、でもこれって、男性監督だけど(汗)。なんでそんなに、女の生理が判るの(汗汗)。
本作が初見なんだよね、この監督さん……。気になるタイトルはあったんだけど、時間とか合わなくて、今までなかなか見れずにいた。本作が初見なのが良かったのかどうなのか、判らないけど(爆)、女の子の生理が判ってくれてるのは、嬉しかった!

亜弓ちゃんが母親に連れ戻されてからのシークエンスは社会派、という感じすらする。
父親の影がない理由がちょっと知りたかった気もするけれど、母親に縛られる亜弓ちゃんの苦しさが凄く伝わってきて……ああ、こういうの、きょうだいがいない、たった一人の子供がたった一人の親に対峙しなくちゃいけない辛さって、判らないからさ、判らないだけに、想像するとゾッとしてしまう。

そして現代の日本では、こういうシチュエイションがフツーにあるんだと思うと、彼女の辛さが本当に、痛いのだ。
子供のことを案じているのは判るけれど、という前提で見ている中で、iPhoneを返してとすがっていた娘に母親が、土鍋にバシャン!と顔を突っ込んで「ごめんね、これもう、食べられないね」と笑顔を向けた、あまりの予想外、あまりの卑怯な予想外に、ああもう、大人であることが、自分自身、イヤになってしまった。

その後、iPhoneを取り上げられて詩織との連絡を断たれた、その亜弓ちゃんを着ぐるみのウサギが救いに来る、というのはあまりにもあまりなファンタジーだけれど、いいの、それでいいのよ。だって、だって!!
……もう、ファンタジーじゃなければ、救えないよ。それに、ファンタジーに生きることができるのは、女子だけなんだもの。それでいいのよ、そこに男子は入っていけないのだ。
ゾンビ状態になった彼氏がせっかくせっかく亜弓ちゃんを、詩織の元に導いてくれたのに、その彼氏を蹴倒す形で、夢のような、オレンジの花畑の中に、ゴスロリ姿の二人が分け入っていく。ゴメンネと思うけど、そこに男子は入っちゃいけないんだもの!!

事務所の社長、利重さんが、「二人のゴスロリツーショット」が魅力的だと言ってくれた、そのことに、詩織は未来を感じた、その実現、ゴスロリアイドルとして花開く展開を見たかった。
それが唯一の不満だったけど、そうなってしまうと、女の子同士のラブはなしえなかった??いやいやそんなことはない!
女の子はいつだって最強、何があっても最強、夜の公園のジャングルジムの中で押し倒すドキドキで死にそうだったけど(爆)、そこで終わられちゃ、女を見くびってるっちゅーもんよ!!★★★★☆


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