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「す」


2018年鑑賞作品

鈴木家の嘘
2018年 133分 日本 カラー
監督:野尻克己 脚本:野尻克己
撮影:中尾正人 音楽:明星
出演:岸部一徳 原日出子 木竜麻生 加瀬亮 吉本菜穂子 宇野祥平 山岸門人 川面千晶 島田桃依 金子岳憲 レベッカ・ヤマダカ 政岡泰志 岸本加世子 大森南朋


2018/11/18/日 劇場(新宿ピカデリー)
監督さん自身に起こったことが題材になっていると、後で知る。そもそもが初見の監督さんで、映画界で長いキャリアを持ちながら今回がデビューで、そこにこんな自分自身の重さを100%ぶつけてきたことに驚きである。
いや、もちろんそのまんまな訳はない。お兄さんの自死、というところが本当らしい。いや、「突然いなくなった」という表現は、もしかしたらそうではないのかもしれないけれど。
しかしそこに相対する監督自身の分身を女の子にし、息子の遺体を目の当たりにしたお母さんを記憶喪失にし、「お兄ちゃんはアルゼンチンで海老を売って働いてる!!」というトンでもない嘘を妹が叫び、その嘘を家族親戚全員で突き通すというストーリーは、これはもう正しくエンタテインメントであり、客観視、というのとも違う。

それでも監督さん自身が、自分で映画を作るならここを通り抜けなければ二歩目は進めない、という、そんなプロ意識みたいなものを感じるのだ。
自殺者遺族会の集まりとか、そういうのも彼自身、あるいは家族が経験したことなのか、あとから取材したことなのか判らないけど、そこにはお互い相哀れむといったお涙頂戴というよりは、人間くさいユーモラスにあふれていて、それは本作に出てくるどのキャストにも言えることなのだ。

徹頭徹尾深刻なのは、物語の冒頭ですぐにこの世にお別れしてしまったお兄ちゃんぐらいなもの。
ケンカしたまま死なれてしまった妹は本作の主人公であり、家族間、アイデンティティ、他者への取りつくろい等々で悩み苦しみ、シリアス一辺倒に見えなくもないけど、なんたって「お兄ちゃんはアルゼンチンにいる!」と突然叫んだのは彼女であり、もうそれだけでアンタの仕事はいっちょあがり!てなもんなんだもん。

なぜアルゼンチンなのか。それは叔父(母親の弟)である博(大森南朋のテキトーさが最高!こういう彼、見たことなかったなぁ)がまぁ言ってしまえば山師っつーか、一発当てに行く商売ばっかりやってて、今やってるのが「アルゼンチンの赤海老」なのであった。
うーん、判る判る、アルゼンチン赤海老、よくウチの店でも仕入れてますよ。コスパよくて美味しいよね。

そしてお父さんは岸部一徳。加瀬亮と木竜麻生嬢のお父さんにしては年行き過ぎている感じがしなくもない。いや、加瀬亮のお父さんとしたらそれぐらいかなぁ。富美のお父さんにはちょっとツラい。どうしても孫娘に見えてしまう(爆)。
彼は何を思ったか、突然、大宮の男爵というソープランドに行く。わざわざチラシの切り抜きを手に、指名する子も決めての乗り込みは、そんな世界を全然知らない雰囲気マンマンの彼だから、当然何か事情があるだろうと観客側には感じ取れるのだが、ぼったくり料金に異議を申し立て、呼び出された富美は「こんな時に何してんの」と憮然。そりゃそうなのだが……。

結局というか、結果的にというか、この男爵というソープで働いていたイブという女の子とお兄ちゃんは、どういう経緯で知り合い、彼が彼女に生命保険金の受取人にしようとするまでの関係、というか、そういう思いに至るまでってのは、どういうことだったのか、明確にはしないんだよね。恋人同士だったかどうかさえ、明らかじゃない。
そもそもソープの店側が迷惑気にお父さんを追っ払うし、警察沙汰にさえするけれど、お父さんは諦めない。だから最終的にはそれが明らかになるのかなぁと思ったんだけれど、イブがようやく話す気になった、てなところで物語は終わる。

いや、そういう含みを持たせるのが、いいのかもしれないと思う。実際に、監督さんのお兄さんはどうだったのかは判らないけど……何か、そう、彼にも、そんな風に思う相手がいたのだと、このお父さんが何か嬉しそうに、娘に語るのがさ、何とも言い難くって。
「保険金の受取人には、事実婚や内縁関係でもなけりゃダメだって」と、つまりは彼の片想いだったんじゃないかっていうことを、本当に、何とはなしに嬉しそうに語るお父さん。その手には殴り込みしかけたスコップ(苦笑)。
しかし、ずーっと引きこもりだったお兄ちゃんが、ホント、どうやってイブと知り合うきっかけを……いや、今はネット上だけでのお付き合いというのもマジにあるからなぁ。

そのお兄ちゃん、加瀬亮である。もういきなり死んじゃうし、全編、回想でもほんのちょこっと姿を現すぐらいである。なんつーか、加瀬亮って、なんか凄く自殺しそう、って、失礼すぎるだろ(爆)。
いやその……彼ってキリキリ崖っぷちのところにいる役柄だと、ほんっとうにヤバいと思う。本当に死んじゃうんじゃないかって、心配になる(汗)。

彼はその日、実に静かに、窓を開け、風を入れ、昼の穏やかな日の光を部屋に入れて、首を吊った。一度確かめて失敗して、もう一度のトライ、それも全て粛々と、何も乱れることもなかった。
後の回想的時間軸がずらされたシーンで、お母さんが息子の痛ましい姿を発見する場面、気づく一瞬前、その後ろにぼんやりとぶらさがった姿がひどく恐ろしかった。

そしてそれは、妹の富美もまた強烈に経験しているのだ。兄がぶら下がり、母が手首から血を出して倒れ、その現場を動かさないようにと指示されて、彼女は警察が来るまで家族が最悪の状態にあるのを見捨てるような形で、何も出来なかった。
この人は確かにあなたのお兄さんですか、顔を見て確認してくださいと言われた。判る、判るけど、なんというお役所仕事と思う。ひどい、ひどすぎる。富美が何度も何度もこの場面をフラッシュバックしているというのは、判りすぎるぐらいに判る。

富美は大学で新体操をしている。顧問の先生が無遠慮に、お前の兄さん、引きこもりなんだって?それは愛が足りないんだよ、俺が家庭教師した生徒はな……みたいな、結局自慢話したいのかよ、ってなサイアクの切り込み方。
彼は本当に生徒を救ったのかもしれないが、鬱も引きこもりもなにもかもが人それぞれ、千差万別な訳だし、富美の言うとおり「救えるなんてないですよ」というのが正解、なのだ。そんなことが出来るほど、人間は偉くもなければ万能でもない。この先生が救えたと思ったのはたまたま、相手が自分自身で努力して立ち直るタイミングに合ってたに過ぎないんじゃないのか。

だって、結局は、それしか、ないんだもの。勿論、手助けできればと思う。プロの手も借りて、愛する家族なら。愛する……。
富美は年若いせいもあっただろうけれど、葛藤というか、戸惑いというか、そういうことがあったのだろう。引きこもりの兄に対して苛立ち、生きてる意味ないんなら死ねば、と言ってしまった。そしてその後、兄は本当に旅立ってしまった。だから彼女は悩み苦しみ、でもどこかで兄のそんな“弱さ”を許せなくて、そんな自分も許せなくて、苦しんでる。

お母さんは、専業主婦っぽいから、やはり息子のそんな姿に辛抱強く相対していた、のだろう。それは判る。判るが、どうやら彼女が、自分だけがその苦しみの中にいたと思ってて、あなた(夫)は何もしなかったじゃない!!と責め立てる場面がある。
この場面では判りやすく、家の中のことは妻に任せる夫、日本社会の功罪、みたいにも見えるのだが、実際はお父さんも息子を有名な精神科の医者に連れ出そうとして修羅場を迎えるし、なんたってイブちゃんとの悶着がこの作品の一番の美味しいところでもあるし。

何より、母親が、息子心配のために娘の葛藤を忘れている、とは言わないけれど、なんか、判ってない、ってことなのだ。ただ単にケンカしたまま仲直り出来なくて気まずい、って程度だと思ってて、手紙書きなさいよ、仲直りするチャンス!みたいな。
お兄ちゃんは死んでるのだ。母親にショックを受けさせないため、隠してるだけなんだ。何が仲直りのチャンスだ。そんなチャンスは永遠に来ないんだよ!!

そう。そんなチャンスは永遠に来ない。生きることのどうしようもない苦悩から自死を選んだ人に対して、その苦しみを知ることのない側は、何を言うことも出来ない。そんなチャンス、は、あくまで生き残った側の傲慢な理由に過ぎないのだ。
ずーっと、息子はアルゼンチンで元気に働いていると信じているお母さんは、ちゃらんぽらんで山師な弟を普段は周囲と同様にうさんくさく見ているだろうに、もう感謝のしっぱなしなの。博が声をかけてくれなかったら、今頃どうなっていたか判らない、なんて。

実際声をかけてなくて、今、浩一は死んでいるのだ。記憶を失った母親がそんな台詞を誰彼かまわず投げかけるたびに、彼女以外のすべての人たちが非常なる自己嫌悪に陥り、そして最後の最後、すべてを思い出した彼女自身が、死にそうな自己嫌悪に陥る。
でもね、娘が、富美が、そこまでまさに修羅を生きたから。遺族会での経験とか、いろんなことを見てきたから。吐き出すこと。自己嫌悪でもなんでも、吐き出すことが大事なんだと、長い長い時間をかけて判ったから。お父さんは、もう言うな、と妻を制するんだけれど、娘は、それまでかなりケンアクだったのに、静かに言うのだ。お母さん、言っていいよ、と。

富美は普通に学生生活を送っているように見えるし、お兄ちゃんに対してキツい言葉を投げかけたりもしていたけれど、でも普段の生活って、ただひたすら新体操に没頭しているだけで、先述の、何も判ってないコーチとの会話以外は、誰とも話している場面がないんだよね。それこそ、友達も何も、いないような……。
彼女はお兄ちゃんに辛辣な言葉を放ったけれど、でも一歩間違えれば、彼女だって、いや、誰だって、そうなる可能性があるというのを、示しているように思えた。お兄ちゃんは高校生活でまずつまづいて、でもなんとか大学に行ったけれど、就職活動に失敗して引きこもった、という図式。でもその経緯の中にどんな苦しみがあったかなんて、誰も誰も、誰も判りようがないのだ!!

お兄ちゃんが部屋に飼っていた、あるいは住み着いたこうもりが強い印象を残す。ぱたぱたと部屋の中を飛び回る様は、軽くて可憐で、こうもりというよりまるでちょうちょのようなのだ。でもこうもり。夜行性で、秘密めいていて、そして何か……奥ゆかしいというか、じっと何かを抱えている気がする。
あれは浩一ね、とお母さんが言い、お父さんもそうだなとうなずいた。インチキ霊媒師を呼んだ直後だったのが可笑しく、そういうあたりも本当、上手いなと思った。★★★☆☆


スティルライフオブメモリーズ
2018年 107分 日本 カラー
監督:矢崎仁司 脚本:朝西真沙 伊藤彰彦
撮影:石井勲 音楽:田中拓人
出演:安藤政信 永夏子 松田リマ 伊藤清美 ヴィヴィアン佐藤 有馬美里 和田光沙 清川葵 瑞乃サリー 大塚玲央奈 四方田犬彦

2018/7/23/月 劇場(新宿K’scinema)
女性器の撮影、というスキャンダラスなテーマなのに、不思議なほどにアーティスティック。まさに矢崎監督という感じ。商業映画に行ってもその感覚は失われなかった監督だが、それでも「無伴奏」なんぞは、スター俳優たちが、私たち頑張って体当たり!みたいな風を感じるところはやっぱりちょっと、あった。
こんな風に、それを一切感じさせず、エロさえも感じさせず(全く、という訳じゃないけど、勿論)さらりと風のように素裸になる役者たちに遭遇すると、ああ、矢崎作品の住人だ、と思う。

そう、全く、という訳じゃないけど、不思議にエロじゃないのだ。モノクロの植物写真を撮り続けているカメラマンに出会い、何かを感じ、自分の女性器を撮ってほしいと依頼する女性。
その二人はあくまで被写体とカメラマンの関係しかなく、むしろ後半になって自分のもどかしさをぶつけるように彼女の身体を求める春馬にビックリするぐらいなのだが、やはり彼らにセックスは介在しないのだ。

春馬には恋人がいる。彼の才能をかっているギャラリーに勤めている、少女と言いたいぐらいに若く可愛らしい夏生である。
物語の冒頭、彼女がしんと静まり返ったギャラリーを退屈そうに歩きながら、思いつきのようにバック転(じゃなくて、あれはなんていうのだ……)して、おパンツがあらわになるのにギョッとするが、それこそが矢崎感覚なのだ。

裸になるのも、性器が見えるのも、映されるのも、何が不自然なことがあることか。春馬に扮する安藤政信もまるで苦も無く、陰影ある下の部分までさらりと見せてくれる。いや、別にそれを見たいと言ってる訳じゃないけど(爆)。
でも若き恋人とのセックスは、感じやすく、愛撫する場所を映さない方がおかしいではないか。だから普段の映画にイライラとする訳で(爆)。

春馬に仕事を依頼する怜は、瀕死の母親を抱えている。これもまたなんともはや非現実的な感じである。瀕死なのに、呼吸器とか点滴とか全くなくて、西洋のサナトリウムのような殺風景アンティークとでもいった病室に、ろう人形のように横たわっている。
時々、スイッチが入ったようにぱちりと目を開けるが、意識がある訳ではないらしい。この母親の素裸を、怜は黙々と清める。最後、息を引き取った時にはその淡い陰毛が陰った女性器も映しだす老齢の女性。

そうかそうか、伊藤清美なのだ。なんか納得。いくつになったって、役者は身体をさらすべきだと、エロも何も関係なくそうしている彼女に、深い感銘を覚える。
劇中、怜が見ている昔の写真の中にいるヌードは、やはりこの母親自身のものなのだろうか。とても鮮烈。

この母親は画家だったのか、あるいは趣味程度だったのか。その残骸のようなアトリエで、怜は春馬に自らの女性自身を撮らせる。母親といいアトリエといい、去りゆくもののわびしさをひたすら感じさせる。
でもそれは、この作品自体がそうである。春馬のモノクロ写真に物語世界がリンクするように、場面自体が時に静まり返ったモノクロームになる。写真かと思っていたら色と音がスローモーションでクレシェンドしていく。
雪景色のように思えた木立が、若々しい淡い黄緑色を一斉にたたえたみずみずしさをもって立ち上ってきたりして、本当に驚かされる。
それはまるで、死から生への生還のようにも思えるけれど、でもとにかく静まり返っていて、春馬と怜の世界は静まり返っていて、彼らの先はこの先、何もないようにさえ、思われるのだ。

そう、思ってしまうのは、春馬の年若い恋人、夏生が、彼らと比べて現実世界にタッチしているからじゃないかしらんと思うんである。本当に本当に、ぴんと張った水のように若く可愛らしい女の子。
自分じゃない女性器を撮らせている怜に嫉妬しない訳はないのに、実際嫉妬しているだろうし、私のでいいじゃんと言ったりもするんだけれど、春馬の才能を信じている彼女は、どこかでちゃんと、そういうことではないと、判っているのだろう。判っているけれど、やはり納得しきれないから、撮影現場に来てしまったりするのだけれど、いたたまれずに外に出てしまう。

そんな彼女がとても可愛いと思う。春馬自身はこの恋人をとても愛しているし、妊娠して産むよ、と力強く言った彼女に笑顔を見せたし、怜の存在によってそれが揺るがされたということはないとは思う。
ただ……怜の存在と彼女への執着がなんなのかが、女性器であり、彼女が全き女性であるということが、大人の男である春馬の中にある、つまらない常識を揺るがせてしまったようにも思う。

つまらない常識、だなんて。でも、だって、怜の方はそれが愛だの恋だのということではないということは判った上での、秘密の関係だったんだもの。
いやでも、判らない。彼女を突き動かしたのは、アンリ・マッケローニという写真家が愛人の性器を撮り続けた写真集であったのであり、写真家と被写体の関係を再現したいと思ったのならば、彼女自身にもなにがしかの想いはあったのか。

年頃的には、夏生よりも怜の方が春馬との釣り合いは確かにとれているし、撮影シーンの春馬の指示のささやき声、怜の上気した半開きの唇、かすかに乱れた髪、女性器だけの撮影なのに、素裸になり、それが全身に及ぼすしびれるような感覚が観客にも伝わって、セックスシーンよりヤバいと思っちゃうが、でもでも、やっぱりエロとは違うのだ。
何かがそこに、挟まっている。それは、マッケローニが愛人の女性器を撮った時と、何かが違っただろうか。

マッケローニがなぜ女性器、それも一人のそれにこだわったのか。特に解説される訳じゃないけれど、怜の勤める写真美術館での四方田犬彦氏の講演が、少しその片鱗に触れさせる。
人間が産まれ出る場所であるということがその最大限の神的、原始的、存在感として、決してエロではない、いわば信仰の対象ですらあることとして語られる、のは、宗教的、哲学的なそれだけではなく、勿論美術芸術、文学の世界においても語られているのは誰もが知るところなんである。

だから……日本の扱いというか、なんかね、造形物とかがパッパッと映されると、あっ、秘宝館、とか思っちゃうのが、エロからお笑いになっちゃうのが、なんか凄く残念だと思っちゃうのね。
だって結局はさ、このマッケローニの写真集もいまだ日本に入ってくることが出来ていないというし、こうした作品に寛容な姿勢を示しつつも、作品のラストに披露される何十枚もの渾身の女性器カットは、そのどれもがお上品なぼかしがかけられちゃってて、これじゃ意味ないよーと、凄くガッカリする。

でもそれでも、矢崎監督はこれを、作品として世に問いたいと、思ったのだろう。いや、そんな強烈な感覚じゃないかもしれない。だって、とても美しいんだもの。矢崎監督そのものの、世界なんだもの。
女性器はその一つとして入り込む。思えば以前からそうだった。ヌードもセックスも、まるで風のよう。ああ、川越美和は死んじゃったんだよなあ。

可愛らしいヤキモチやいて撮影現場を見に行った夏生が、でも春馬が行き詰っちゃって、その間に怜と湖?でボートに乗るシーンがある。
不思議な、関係。ピリピリしたっておかしくないのに、湖面はとても静かで、ちゃぷちゃぷと水を叩いて夏生は、シャッターの音みたい、と言ったりする。

そのお腹に春馬の赤ちゃんを宿した彼女はその晩、浴室で彼と素裸で、ああ、これも官能的ではあるのに、なにかとてもさらりとした本能的な男女二人の裸が、とても美しくて。
この時に「私のでもいいじゃん」と夏生は言うけれども、ヤキモチのようにも聞こえるけれども、確かにこの時春馬は自分自身の撮りたいものの葛藤で揺れていたりして、三人の中でぎくしゃくとしているんだけれど、でも、そうじゃないんだと。

誰の女性器でもいいんなら、それこそ色んな女性器を撮ったのだろう。でもマッケローニが一人の女性のそれにこだわったように、春馬にとってはそれが怜のものではなくてはいけなかった。ただマッケローニと違って、そこに愛が介在しているかどうかで、この三角関係が凄く、微妙なのだ。
怜は死にゆく母を抱え、夏生は生まれ来る子供を宿している。夏生の出産に春馬と共に怜もその場にいて、赤ちゃんが吸う母乳を怜も請うて吸わせてもらう。うわ、うわうわうわ、なんてこれは、ちょいヤバい……。こんなの、さらりと描ける映画作家は、ちょっといない。

矢崎監督は山梨の出身だという。怜が勤めているのは山梨県立写真美術館だし、東京に住む春馬を怜がいざなうのも、山梨の山奥だろうと思われる。
こういうの、いいなぁと思う。東京のギャラリーの室内の螺旋階段もひどく印象的だったが、まるで夜の中に蛇のように浮かんでいるような螺旋階段が圧倒的な印象を残す。

そこに静止しているという点で、建造物というのは、写真に似ていると思う。死にかけたアトリエ、死にかけた母親のいる病室。どんなにイキイキとしたものを映していても、写真は死の世界だ。そこには過去しかないし、動いているように見えても、決して動いていないのだもの。
そんなことを言ったら写真家の人に怒られてしまうかもしれないけれど……それを矢崎監督はそれそのものの魅力としてとらえていると思うし、モノクロからカラーに映っていく映像の美しさは、写真と映画のコラボレーションなのだ。

安藤政信、素晴らしかったなぁ。役者としては本当に寡作だけど、時々出てくると目を離せなくなる。写真家としても活動してるって??まさにこの役のための彼ではないか。あるいは安藤氏のそんな存在に触発される形もあったのかもしれないと思うと、楽しくなる。
二人の対照的なヒロインも本当に素晴らしかった。怜に指示する春馬のささやき、写真を現像するちゃぷちゃぷという音、ささやきのような、風のような、その世界にいざなわれた。★★★★☆


素敵なダイナマイトスキャンダル
2018年 138分 日本 カラー
監督:冨永昌敬 脚本:冨永昌敬
撮影:月永雄太 音楽:菊地成孔 小田朋美
出演:柄本佑 前田敦子 三浦透子 峯田和伸 松重豊 村上淳 尾野真千子 中島歩 落合モトキ 木嶋のりこ 瑞乃サリー 政岡泰志 菊地成孔 島本慶 若葉竜也 嶋田久作 末井昭

2018/3/26/月 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
予告編での、お母さんがダイナマイト爆発!というのと、オマンコが36箇所!!というのがインパクト強すぎて、あれ、意外に普通というか、その他の要素が結構あるというか、一人の人生じっくり描くのね、みたいな。
なんたってオマンコ36箇所!なので(くどい)、もっとハチャメチャな作劇なのかと思ったら、監督さんはこの末井さんにぞっこんほれ込んでいるということなんだろうな。この人の人生を、きっちり描きたいということなんだろうな。

それに抜擢されたのが柄本佑氏。勿論彼は平成のワカモノだが、同世代の中でこれほど昭和が似合う人もいなかろう。風貌だけじゃなく、なんというかまとう気配、空気感。長髪になっても短髪になっても色濃く昭和が漂う。
描かれる時代は80年代から一気に弾けるといった感じなので、私にとってはまさに生きてきた時代、それがノスタルジーになっちゃうんだなぁという感慨。

ただ、その頃私は子供だったから、なんとなくこうしたエロ雑誌の存在を知ってはいても、それこそまだコンビニすらなかったし(!!そう思うと凄い)、本屋に積まれてても自分の人生とはすれ違わない存在だと、当時は思っていた。
今はすれ違いまくっている気がするけど(爆)それこそ地方にいると、ちょっと違うんだよなあ。

いや、この末井氏も地方も地方、ド田舎ご出身である。母上様がダイナマイト自殺なさったのも、仙人が出てきそうな山の中である。
結核にかかり、周囲からつまはじきにされているお母さまにオノマチちゃん。ほつれたおくれ毛と弱々しい浴衣姿は、病的と色気の間を行ったり来たり。隣の若い息子をくわえ込み、ついにはダイナマイト抱えて心中したというぶっとび母ちゃんだが、今の時代ならば意外にすんなり納得できるような気もしちゃう。
つまはじきにされている自分に対して何もしない夫への報復、若い男とも恋愛できるんだという自負、そして純粋に恋愛に命をかけて、母よりも妻よりも女としての自分を選んだ彼女に、今の時代ならば案外とすんなりと共感できそうな気がしちゃう。

末井氏は“母親がダイナマイト心中した”ということを周囲からのススメ?でネタにし、つまりそれがトラウマ的マザーコンプレックスにもなっている訳だが、それはヤハリこの時代は、今よりもずっとずっと、母親は母親であるべきという価値観だったからだろうなぁという気がするのだ。
母親も女であるなんていうことは、特に男の子にはなかなか理解できないことなのだろうし。

そんな末井氏が、女が女であることの象徴であるエロの世界に突き進んでいくというのは皮肉というか、ある意味正解というか、実に興味深く、面白いんである。
でもみんな、そうかな。それこそ末井氏と共に時代を作ったアラーキーにしたって、エロ=女=おっぱい=母性、そんなことを感じなくもない、気がする。
古典絵画の時代から、女のヌードはふくよかで包み込む、母性こそが求められていたのだ。それがおっぱいに特化し、エロという芸術に昇華、という形で男のマザコン思想が言い訳されていった、なんて言っちゃったら、言い過ぎかしらん??

最初から末井氏はエロを目指してた訳じゃない。工場に憧れていた、というのは、なんとも独特である。当時の、地方、というか、田舎の子供独特なのかなあ。
“軍隊のような”労働環境についていけず、出稼ぎ先の父のもとに身を寄せるもそこも結局おんなじ、一人暮らしの下宿を探して、運命の相手、牧子と恋に落ちる。カネにも女にもだらしない父親に牧子が夜這い(いや、昼だが)されかけて、二人は引っ越し、結婚。

しかし夫婦間の愛、という以上にエピソードもあまりなかった。これはこの当時子供だった私も充分に記憶のある、男はモーレツに働きまくって、家にほとんどいないのも当たり前、みたいな時代性もあろうが、ヤハリなかなか寂しいものがある。
奥さん役はあっちゃん。若い頃は彼の仕事を手伝ったり、細々とした看板描きの仕事も喜んでくれたりと、彼が恐縮するほど可愛いイイ奥さんだったが、そりゃー、家にも帰ってこない、どうやら浮気もしているらしいときたら、家庭内には隙間風も吹くってもんである。

でも、それで決定的な場面には至らないんだよなあ。私が一人で家にいるところを想像してみてよ、と投げかける場面が最高潮ぐらい、ってのは、まぁしょうがない、これはこの当時の男性映画、なのだから、仕方ない。
むしろこんな中途半端に湿っぽい奥さんを出してくるぐらいなら、出さない方が良かったんじゃないかと思う。だって結局、奥さんはダンナの浮気にも気づかない(と思っていたのは彼だけかもしれんが)んだし、この浮かれた時代をまさに乗り切った末井氏の人生を描くのに、奥さんの気持ちを描き切れないのなら、むしろジャマなんだよね。だってこんな気持ちで済む訳ないじゃん、奥さんはさ!!

……ついついフェミニズム路線で突っ走ってしまった。末井氏の破天荒な人生こそがキモなのだから!
工場に絶望した彼は、デザイン学校に通い出す。もともと絵は得意だった、というところから始まり、看板会社に勤めてデザインを語り合える生涯の友も得る。
この友、近松さんが峯田和伸氏で、才能があるのにそれを生かしきれない哀しみある男をペーソスあふれる芝居で演じて、胸に迫る。

末井君は、この時にはまだイケイケなんである。ゴリッパなデザイン・芸術論をぶったりする。それに対して近松さんは、そうかなぁ……と地に足の着いた物言いをする。
恐らくその当時の末井君にとっては、それは大人の意見という以上に、物足りなさというか、いや違うな、末井君の方こそが、問い返される現実的な質問に対して答えられないぐらい、ただただ、抽象的な理想しか追っていなかったのだ。

ただ末井君は、エロという運命の出会いに電光石火のインスピレーションを受けて、もうそのままそのまま、突き進んだ。それには近松さんのデザインに衝撃を受けた引き金はもちろん、あった。だから……末井君は幸せだったのだ。これだと思う出会いに引き金が説得力をくれた。そして若かった。
近松さんは……そこまでのものを得られなかったんじゃないかなあ。峯田氏がね、なんともたまんないんだよね。末井君がエロ雑誌の編集に革新的な腕を発揮しているのを、本当に尊敬して眺めている。自分にはできなかったよ、そんな、自分の方こそを尊敬するなんて言わないでよ、みたいなさ。

末井君は大ヒットのエロ雑誌を生みだすまでに、かなりの紆余曲折を経験する。
キャバレーの看板描き時代はなかなか面白いエピソードが満載。男性のシンボル(古い言い方だ……)をまんまハリボテにしてオブジェに仕立てた力作がアッサリとボツになる、有り余る“情念”を真っ裸にペインティングして夜の酔客の中をうわー!!!とばかりに疾走する。末井青年は、迷っていたのかもしれない。

ヤハリ面白いのは、警察の摘発を受ける場面。性器が明確、オマンコが36箇所、性器を吸うとはどういうことか、と眼鏡を興奮?の水蒸気で曇らせながら詰問してくる松重氏がサイコーである。
それに対して、「いやー、ヘアがダメなら剃ればいいと思ったんすけど」と反省たっぷりの態度を示しながらしれりと返す佑君もサイコーである。

お互い充分に判り切ってて、こういうウソ芝居というか、イタチごっこを繰り広げられる、いわば幸福な時代。現代みたいに追いきれないほどにネット社会が横行している時代では、呼び出しだの、形だけの謝罪だの、そんなノンビリしたことではとってもとっても追いつかないもの。
36箇所だと判るぐらい熟読している警察さんはいわば愛読者な訳で、警察さんに対する対策を喫茶店でまったりと協議し合う同業者たちという図にしても、なんだかやたらと平和、なんだよなあ。

末井氏の手掛けた雑誌に、いわばカルチャー誌だというカクレミノとして数々の文化人、作家が参加した中でも、アラーキーは最も特別な存在だったろうと思う。演じているのは音楽を担当したジャズの大物、菊地成孔氏。めちゃくちゃ雰囲気ある。
こういうお話なんで、ヌードモデルになる女の子たちが、役どころ的にも重要なキャラで続々登場する。末井氏が恋しちゃう新入社員、笛子はそういう立ち位置ではないけれど、脱いでくれるという点ではそうである。
こーゆーところで、有名若手女優がチャレンジ出来てないのが残念である。ヤハリ、脱げる環境?にいる女の子たちであり、ここで脱いだからといって特に注目もされないだろうってあたりが、これもまた残念なんである。

どうやらボーイフレンドがいるらしい笛子にしつこく言い募って、イイ仲になったが、これがやっちまった、ってことだった。結婚してくれるんでしょ、ああ、なんて聞き慣れたコワい台詞……。でも精神崩壊するほどの描写は……つまり現実にはあったということか。
精神病棟の描写まで出てくる。でも、認めたくないけど、壊れた女というのはなんでかなんだか、妙に……美しいんである。これは、爆発してしまった母親、オノマチちゃんにも通じることなのかも、しれないなあ。
「芸術は爆発だというけれど、僕の場合はお母さんが爆発でした」というのはさ、結局はさ、おんなじ意味だったんじゃないの??お母さんが爆発したこともまた、芸術だったんじゃないの??うわぁ、極論……でも、愛と人生の究極の選択だもの、芸術じゃないの!

一方のお父さんは、息子の恋人にちょっかいを出した後は、年の離れた恋人との純愛をテレビ取材に向かって叫び、そしてポックリと死んでしまう。当時、苦渋をなめた弟と共に、なんとも苦笑のご臨終の枕元、なんである。
この父親がムラジュンっての、気づかなかったなあ。ふくよかに中年っぽくて、顔の印象がいい意味でないっていうか。役者やのう。

セロハンテープを指先でくっつけて鳴らして、テレホンセックスの効果音にするのには、噴き出しつつ、唸った!そーか、こーゆーことで80年代の男子諸君は騙されていたのかー。
ラストクレジットに流れる主題歌は、実際の末井氏とオノマチちゃんのデュエット。これがなんともイイ。なんつーか、おフランスっぽく絶妙に揺れているボーカルがヤラしくて、エロを生き抜いた末井氏の人生を感じさせるんである。★★★☆☆


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