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「と」


2018年鑑賞作品

止められるか、俺たちを
2018年 119分 日本 カラー
監督:白石和彌 脚本:井上淳一
撮影:辻智彦 音楽:曽我部恵一
出演:門脇麦 井浦新 山本浩司 岡部尚 大西信満 タモト清嵐 毎熊克哉 伊島空 外山将平 藤原季節 上川周作 中澤梓佐 満島真之介 渋川清彦 音尾琢真 高岡蒼佑 高良健吾 寺島しのぶ 奥田瑛二 柴田鷹雄 西本竜樹 吉澤健


2018/10/29/月 劇場(テアトル新宿)
いやー、やばいね、ドキドキする。無論、この時代に生きていた訳じゃない。どころか、劇中、年数が刻まれる度、まだ産まれてない、まだ産まれてない、と思う。
それはその時代を演じる役者たちも皆そうであると思うと、不思議な気持ちにとらわれる。麦ちゃんなんて、親の世代どころか、祖父母の世代ではないかと思う。

しかし、生きている、生きている!こんな女性の助監督が若松プロにいたなんて、全然知らなかった。いや、今まで知っていた人は、それこそその時代にそこに生きていた人たちだけだったんだろうと思う。
今でこそ素晴らしい女性のクリエイターは続々と出ているけれど、この時代、どころかつい最近まで、本当に、本当に、それは難しいことだった。それを、しかも、若松プロでだなんて!

彼女は最後、自ら命を絶ってしまうのだが、それはどこか、この時代に渦巻いていた気分のようなものであったような気もする。三島由紀夫の自決が実に象徴的に刻まれる。
自決前の演説をテレビで流しているのを若松監督が食い入るように見ている。その三島を演じているのが白石監督自身!というのは後で知って思わず笑ってしまったが、若松監督が後にその三島周辺を描き(観なかったなー)、その時の三島を今回若松監督役を熱演した井浦新に任されたことを思うと、何とも、何とも言い難い気持ちになる。
三島の自決は、自決だから、自殺とは意味合いが違うから、その“気分”というのとは違うとは思うけれど、なんていうか、そう、まるで芥川や太宰の時代の文学者をとりまいていた気分のようなものが、あの時代の、闘わなくちゃと疾走し続けていた若い人たちに充満していたような気がするのだ。

劇中、自殺する女子高校生を題材にした映画はどうか、というくだりがある。その手記を集めてシナリオを書こうとする。それこそ気分、なのだ。一人一人の、明確な理由を追い求めるのではなく、自殺する女の子の、その時代の気分なのだ。
気分、なんて軽い言葉に思えるけれど、何かを成し得ないことに死ぬしかないほどの焦燥を抱えた、この吉積めぐみという女の子がひとつ、象徴する、この時代の、この映画界の、残酷な追い詰めようだったのだと思う。 あぁ、なんか、支離滅裂。なんかね、もう、ドキドキなんだもの。井浦新氏がじっつに楽しそうに若松監督を演じているのもドキドキだし(モノマネとは言わないが、井浦氏はあんな喋り方は、そりゃ絶対しないもんね!)、次々出てくる先鋭的クリエイターたちのネームバリューに、もう、死にそうになるんだもの。
まず、もちろんの若松孝二は、日本映画をそこそこ好きになりゃ、絶対に通る、通りたくなくても通らざるを得ない(爆)道だと思う。でも、その出会いがいくつの時なのかで、影響は大きく変わるような気がする。私はギリギリ、20代だった。その時にも何も判らんバカだったけど(今も(爆))、でも、爆弾でブッ飛ばされるような衝撃を受けた。

でもでも、もしこれが、10代で出会っていたら、と思ったりする。ギリギリ20代は遅かったような気がする。
そしてもし、もっと遅かったら、その熱を受け止める体力も持久力も情熱も(哀しいかな)、持ち合わせなかった気がする。そしてその時、既に時代は過ぎ去り、平和と言われるぬるい日本に突入していた。

高間賢治に福間健二、当然足立正生に大和屋竺。ギリギリ見ていた20代の私には、このあたりがごっちゃごちゃで、どれが若松監督でどれが足立監督でどれが大和屋監督とか、判ってなくて、もういっしょくた(爆)。政治的なものが苦手だから、少し及び腰で観ていたような記憶はある。
だから足立監督に関してはかなりビビッていたのだが、山本氏演じる足立監督が凄く優し気で、シャイで、めぐみの気持ちを絶対判ってた筈なのにかわしたりして、なんか凄くキュンキュンくるもんだから、マジか!と思った。
山本氏は「断食芸人」で足立監督の演出を受けてるんだもんね。ホント、キャスト陣は縁のある人が大集結。高岡蒼佑氏を久々に観られたのが嬉しかったなあ。大島渚、激似!彼はホントに素晴らしい役者だから、今のこの状況が本当に悔しいんだもの。

荒井晴彦氏を細面のイケメン君が演じ、めぐみから荒井君と呼ばれ、繊細な美青年、といった感じの描き方で、うっわー、そうだったのか、などと思っちゃう。登場シーンで「悪口ばかりの批評」と若松監督たちに言われ、つい劇場の観客たちの笑いにつられて噴き出してしまう。
すす、すいません。でもさ、今はただ単なる無知の中傷(ですらない。バッシングだわな)の、一億人総批評家の時代でさ、でも本来、“悪口”って、知識と見解に自信と責任を持っていなきゃ、出来ないものなんだよね。でも今は、もうさ……。
それに紙媒体がほぼほぼ、死んでしまった。私がやっているような個人サイトも、同じネット表現の場である筈なのに、SNSというところからは切り離されて、死滅の場になっている。

若松監督が生きた時代の映像表現の仕方も、当時の時点で目まぐるしく変わり、「ピンク映画を誰に対して作るのか」「利益なのか、表現なのか」といったことに苦悩したりする。
しかしてそれに対して若松監督自身は、ビックリするぐらいあっけらかんとしていて、カネのためなら内容の希薄なカラミ映画も作るし、きっと当時は小難しいアカデミックなイメージがあったであろうATGにも“身売り”する。私は結構、若松監督とATGの孤高のイメージはリンクしていたので、ちょっと意外だったりしたんだけどなあ。

てゆーか、白石監督が若松プロ出身だったということを今更ながら知り、大いに驚く。社会派ではあるけれど、充分に商業映画市場を見据えた監督さんだから、そんなイメージがなかった。てゆーか、若松プロはどんなイメージ(爆)。
ヘンな言い方だけど、若松監督が生きているうちは、この作品は出来なかっただろうなぁと思う。少なくとも、あんなに井浦氏が楽しそうに若松監督を演じることはできなかっただろう。

劇中、実際の映画映像も織り交ぜて、それを現代の役者で再現しつつ、巧みに若松プロの傑作を紹介しつつの展開を見せる。
助監督として飛び込んだめぐみが最初に託されるのは女子高生に見える女優を探してくること。女優、というのはプロという意味じゃない。フーテンでもなんでも、そこらから使えるやつを拾ってこい、という意味である。勿論、脱げる、という意味合いも含む。

ちょっと、思い出したりする。自分は本意ではなく脱ぐような映画に出され、それが今も流布しているのが苦痛だと、データベースから名前を消してほしいと、ネット創成期でまだ個人サイトも少なかった時代だから、私のような末端のサイトにも本人から直々のお願いが来た。
その時、本当にショックだったのだ。私はその映画が大好きだった(ちなみに、若松作品ではないけれど)。その女優さんも素晴らしかった。なのに、そういう経緯で、彼女はその過去を消したいんだという。
本当にショックだった。そして、そういう時代、なのだ。でも、だからこそ傑作が生まれる。過去を消したいぐらいのすさまじい芝居を要求され、それに応える役者がいて、命を賭けるスタッフがいるから。

でも、若松プロは、方向転換をしていく。若松作品に打たれ、どんな映画が撮りたいかも判らないけれど、でもとにかく身を投じたい、映画を撮りたいんだという思いで飛び込んだめぐみは、三島由紀夫の自決から始まって、安保よりも皆が目を向けていないパレスチナだと、テレビ局に売り込むんだという名目で足立監督と共に旅立ち、すっかり問題意識に目覚めてしまった若松監督以下男性どもについていけなくなる。

これはなかなかに、辛辣であると思う。女はそういう問題意識がないのだというようにも取れる。しかもその延長線上でめぐみは死を選んでしまうんである。乱暴に言えば、女には所詮、男が命を賭ける世界は判らないんだとも言えるかもしれない。
でも、足立監督が飛び込んだ連合赤軍も、若松監督が思いをはせたパレスチナ、そしてキャラバン上映も、何が、何が出来たのかと考えてしまう。こんなことを言うのは不遜だ、生意気だと思うけれど、やはりそれは、……本当に、乱暴に言ってしまえば、あの時代の“気分”だと言えなくはないか。

だって、じゃあ、めぐみの死はそこにどう位置づけられるの。彼女が彼らについていけないという思いで死んだなら、そんなほどのことだったの。何が撮りたいのか、何を映画にしたいのか。男たちは、無邪気に世界を変えられると思って、外に出て行った。でもそれは、でもそれは!!
あぁ、こんなことを言ってはいけないと判っているけれど、めぐみが彼らに憧れたのは、私も衝撃を受けた作品がいっぱいあるけれど、でもそれは、世界を変えられるなんて思いの前の、彼ら自身の衝動が同志と共に爆発したものだったんじゃないのか。そして映画って、基本的にはそういう、個人的思いが結晶したものだと、私は思うから……。

どう言ったらいいの、どう言ったら。そもそもこの作品の魅力は、あの信じられないアバンギャルドな映画の、ひとつのプロダクションの奇跡を、軌跡を描く、映画ファン垂涎のものなのだ。
でも、でも、いろんなことを考えてしまう。めぐみは実に男まさりに製作スタッフとして奔走するけれど、任された作品は誰からも評価されず、その後、政治的な方向転換をする若松プロに映画スタッフとして残るものの、それは結局、若松プロが映画を捨てた時代であり、捨てた場所にめぐみはただ数合わせで残されたに過ぎないのだ。なんて悲しいのだ。そりゃ、自殺もするわ。

若松プロダクションには、めぐみの写真がずっと壁に貼られていたという。公には誰も知らない、おかっぱ少女の助監督。タバコもふかすし大酒のみで酒癖も悪いし、荒っぽい男たちにも食ってかかって、強い女のように見えながら、なんてなんて、か弱き繊細な女の子だったのだ。
そりゃそうだ。彼女は男として闘っていたんだけれど、自分ではそうだったんだけれど、当然女の子として見られ、扱われ、だから便利だったし、本当に彼女のことを判っている男は、いなかった。
めぐみは足立監督のことが好きだった。でも彼は、その気持ちに当然気づいていただろうが、応えることはできなかった。高間賢治と肉体関係を持ち、それなりに淡い恋愛感情も持つが、でもそれは、彼の側だけだったのか。めぐみが自殺した時、そのお腹には彼の子供がいた。

なんかヤだな。結果的には相変わらずフェミニズム論みたいになってしまう。そんなこと、あの時代の熱に対して言ったって、太刀打ちできる訳ないのに。
ところでいつでも音尾さんを重用してくれる白石監督、今回はなんとなんと!赤塚不二夫役とは!キャー!!めっちゃしっくりくる、似合ってる!!★★★★☆


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