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2019年鑑賞作品

閉鎖病棟―それぞれの朝―
2019年 117分 日本 カラー
監督:平山秀幸 脚本:平山秀幸
撮影:柴崎幸三 音楽:安川午朗
出演:笑福亭鶴瓶 綾野剛 小松菜奈 坂東龍汰 平岩紙 綾田俊樹 森下能幸 水澤紳吾 駒木根隆介 大窪人衛 北村早樹子 大方斐紗子 村木仁 片岡礼子 山中崇 根岸季衣 ベンガル 高橋和也 木野花 渋川清彦 小林聡美

2019/8/27/火 劇場(テアトル新宿)
平山監督がたっての願いで製作を実現させたという、ベストセラーだというこの原作が、まさかそんな前に書かれたものだとは思いもしなかった。まさかの20年以上も前。
しかも衝撃だったのは、発表の5年後ぐらいに一度映画化されていて、私、それを観ているのに、ぜんっぜん、まるっきり、覚えていなかったこと、なんである。その事実を知って慌てて自分の記録をチェックしたら、記されている登場人物も展開もそのまんま(当たり前だけど)。いやー……マジで衝撃を受けた。

記憶力なさ過ぎだが、そこで私がやたら連発しているのは、文化映画、文化映画、という台詞で。今はなき銀座シネパトスではその手の映画を引き受ける傾向が確かにその当時あって、その「いのちの海」もそんな雰囲気があったのだろうと思う。教育的視点、みたいな?
覚えてないのにアレだけど、今回の映画化されたものとは、人物も展開もそのまんまでも、まるで感覚が違ったんだろうなあ。

そう、だから、四半世紀も前の原作だから、この閉鎖病棟、つまり精神疾患を持った人たちを収容する病院、閉鎖病棟という名のとおり、スタッフたちは区画ごとに鍵を厳重にかけて歩くという、まるで刑務所みたいな場所が、今でもあるのだろうか、という素朴な疑問が沸き上がる。
こういう形態のまま今もあるのだとしたら、人権的に問題だとか、声が上がりそうな気がするけれど、ここに患者を押し込めている家族たちはいっせいに口を閉ざしているのだろうから、こういう情報は外に漏れないのかもしれない。
ベストセラーとなった原作があったとしても、そうなのかもしれない。相模原の事件が如実に示しているように、精神疾患や知的障害に対する隠匿、排他的、蔑みの思想は今もまだ現在進行中なのだもの。

そもそも、患者、とはあまり言いたくない。疾患、なのだから患者なのだろうが、あまりにも画一化された社会という構図の中に押し込められて生活していると、この中に入れないことが疾患なのだろうか、とその社会という構図そのものを疑いたくなるのは、それなりに大人になれば誰もが当然、抱く疑問であると思う。
だからこそ今なのかもしれない。相模原の事件があって、改めて、彼らと出会えてないからこそ、何も知らないままなのだと、気づいたのだ。

そしてそれを、いわば“健常者”である三人が、狂言回しのような、時に彼ら自身が事件の当事者となって、移り変わり、語りついでいく形なのだと、思う。
その三人は、死刑執行が失敗してしまって、この病棟に送り込まれた秀丸さん(笑福亭鶴瓶)、幻聴で発作を起こすこともあるチュウさん(綾野剛)、義父からのレイプで不登校になり、娘を厭う母親から送り込まれた由紀(小松菜奈)である。

チュウさんを健常者と言うのかと言われるかもしれないけれど、健常者と障害者という線引き自体が難しかったり無意味だったりすることを考えると、この病棟に“入るまでもない”(イヤな言い方だが)チュウさんは、看護師長の言う「任意入院」であり、本人が退院を希望すれば止めることはできない。
それを彼の家族の前できっぱりと言うのが、家族こそが彼を“狂ってる”ことにしていることを痛烈に批判してて、胸がすくんである。

秀丸さんは死刑執行されたのに、蘇生してしまった。そのために身体の障害は残ったが、そういう意味ではこの閉鎖病棟にいるべき条件を満たさないというか、特別枠というか、別格の存在である。
そのせいか、彼のための特別室みたいに、陶芸の作業小屋が与えられていて、始終秀丸さんはそこで静かに土をこねている。由紀以外には実際のモデルがあるということだから、こんな信じられない事例が実際にあったということなのか、と驚く。

モノクロ回想で、秀丸さんが奥さんと寝たきりの老母を殺めてしまったのが、カッとなったからにしても、充分に情状酌量できる事情で、何も死刑にしなくても……しかも執行しなくても……いや、それでなくても死刑制度がある唯一の先進国だと批判されているのに……四半世紀前と現代とでは、そこんところの風向きも違うんじゃないの……とか複雑な思いが交錯する。

いやさ、ね。もう証拠もハッキリしているとんでもない残酷な事件の場合、被害者や被害者家族のことを考えると、死刑以外ないんじゃないのと思うことは多々ある。もうそういう事件は、絶えないからさ……。でも秀丸さんの場合は、正直言うとそういう意味合いでは、ちょっと無理があるような気もするんである。
こういう物語において、静かに自分の運命を受け入れ、他人にもその優しさの影響を及ぼす人物、となると、どうしようもない凶悪な死刑囚というと確かに物語を展開しづらくなるのはそうなんだけど、でもさ、そういう人間だから死刑が言い渡されるんであって、そういう人間が言い渡された後にどういう境地に至るのかということこそが重要なんじゃないのかな……とか思っちゃったりするので、優しすぎるかなあ……この設定は、と思ったのだった。

それに比べて由紀ちゃんはあまりにも辛い。彼女をレイプする二人(!)の男が、共に大好きな役者さんだとゆーのが辛すぎる。
一人目は彼女の義父。母親の再婚相手、と言ったところだろう。血がつながっていなくても親子だとかしれっと言っていたし、なんといっても由紀をこの病院に連れてきた母親、片岡礼子と、その夫、山中崇の年は離れすぎているんだもの。

年若い夫が娘に手を出していることを、彼女は知っていて、哀しいことに、娘を糾弾する。出て行けという。母親に守ってもらいたいと決死の思いで告白した由紀は呆然とする。
……女が恋愛で嫉妬する時、男ではなく、その相手の方に憎しみを向ける、それが男女では逆なんだということが、こんなところでも作用するのかと呆然とする。
由紀はこの病院で一時は安住を得るが、これまたこともあろうに、ここでもレイプに遭う。ああ、これまた大好きな役者の、一番大好きな役者の、渋川清彦である。うわーん、確かにちょっとコワモテにも見えるけれど、彼自身のキャラクターを反映する、イイヤツが多かったのに!なんかもう、しょっくぅ。

秀丸さん、チュウさん、由紀に加えて、チュウさんと仲のいい、カメラが趣味の、口下手な青年、昭八が大きなカギを握る。彼は精神疾患というより、知的障害の方な感じがする。つまりはここんところが一緒くたにされるのが、四半世紀前の感覚と今も変わらないのかもしれないと思うところである。
凄く人懐っこく、感受性豊かな青年で、子供のように純粋だから、そもそも由紀が鬼畜男に何をされているのか、正確なことは判ってなかったのかもしれないけれど、その暴力的な圧と、何より由紀から発せられる哀しみのオーラが、彼に証拠の写真を撮らせたんだと思うと、もう、胸が詰まるのだ。

その後、由紀は姿を消す。チュウさんを通じてその証拠写真を見せられた秀丸は、一度死んだ人間である自分だから、何の躊躇もないと思ったんだろう。写真をすべて消せとチュウさんに命じ、自分一人がすべてをかぶって、この鬼畜男を刺し殺してしまう。

写真、消さなきゃ良かったのに(爆)。そうすりゃ、この男をブチ殺すなんて当然情状酌量の証拠になったのに(爆爆)。判ってます判ってます。そんなことを思って、秀丸さんがこんな暴挙に出る訳ないって。
法廷の場で、行方不明になってた由紀が証人として自分がレイプされたことを証言することに驚くチュウさんだけれど、実際、証拠もない彼女の証言が、秀丸さんの処分に影響があるかどうか自体疑問だが、そういうことではないということなのだろう。

だって秀丸さんはもともと死刑囚なんだもの。いつ再びの執行がされたって、文句の言えない立場。
秀丸さんの弁護に当たる弁護士さんも、どう闘っていいのかと躊躇して、なんたって秀丸さんがなんも話してくれないから余計に躊躇してて、ここはさ、秀丸さんの人となりというか、人格というか、死刑囚ということではなくて、一人の人間として、彼が思わぬ人生をどう生きて、どう他人に影響を与えたか、っていうのを、示すことこそが、重要だったのかなあって、思うのだ。

この三人が、時に小さな事件を積み重ねながらも、基本的には穏やかで優しい時間を過ごすのは、そうした価値観というか、お互いに対する尊敬や尊重が、意識しないながらも、きっとあったからだろうと思う。

チュウさんが、いわばこの事件をきっかけに、自らの意思で退院するシークエンスが大きい。自分たちの都合だけで唐突に訪ねてくる妹とその夫の、自分たちこそ狂った家族を背負わされて金銭的にも負担させられて、メーワクだ、ということを、被害者演技バリバリにする、まぁ、ベタだけど。
彼らが言い募る「お母さん、もうボケちゃって、手におえないから施設に入れようと思う」つまり、その後の家を取り壊してビル建てて儲けたいから、というのを巧妙に尻すぼみに言ってるのは判っていたが、チュウさんが決死の覚悟で退院して、母親に会いに行くと、ボケてるどころかしゃんとして元気で、久しぶりの息子にすぐ気づいて涙の再会。うわー!!……家族って、コワい……。

妹が、狂っている人を野放しにして、とか、家族がどう言われるか、とか、そのお兄ちゃんを目の前に、自分たちが被害者なのに、と自分たちのズルさを大いに判ってるのに、なのにいわば本気でそう思ってドラマティックな演技を見せるのに、震撼するんである。
ああ、でも、人間なんて、こんなもん。私はそういう立場になったら、やっぱりこんな風になっちゃうのかもしれないし……。

チュウさんは退院して、自分の得意分野である園芸関係の会社に就職して、地道に上手くいっている。そして、秀丸さんの裁判を知り、そこで行方知れずになっていた由紀と再会する。
由紀は、当然家族の元に戻る訳にも行かなかっただろうし、どうやって口を糊していたのかなあ……。病院にいた時には未成年だったけど成人して、ぱりっとした服装とお化粧もちゃんとして、きちんと生活している様は見えたが、少なくとも未成年の内、保証人とかさ、ホントに、“子供”というのが弱い立場だって判ってるから、彼女の行方不明の期間の事情がスルーされちゃったのが気になるところだけど。

だってそんなうまく乗り切れるんなら、ここまでこんなにもツラい思いをし続けたこと自体が、悔しいっつーか、ムダっつーか……。
重箱をつつくようなことはしたくないけど、そもそも時代背景の検証が気になるような原作を持ってきているしなぁと思ったり。★★★☆☆


平成風俗史(平成風俗史 あの時もキミはエロかった)
2019年 80分 日本 カラー
監督:竹洞哲也 脚本:当方ボーカル
撮影:創優和 音楽:與語一平
出演:友田彩也香 若月まりあ 長瀬麻美 卯水美咲 東凛 辰巳ゆい 細川佳央 櫻井拓也 折笠慎也 可児正光

2019/8/27/火 劇場(テアトル新宿)
昔、山本晋也監督作品で、江戸風俗史みたいなピンクがあったような気がするが、本作に関しては風俗という言葉が、そういう、エロの風俗のみならず、ファッションや生活スタイルという意味での風俗、も引っかかっていて上手いと思う。ひょっとしたら山本作品もそういう意味合いがあったのかしらん。よく覚えてないけど。
人の一生分あった昭和の期間には及ばずとも、30年というのは、人が一人成人し、働き盛りになるまでの間なんだよなあと思う。本作に照らし合わせて言えば、平成になった瞬間には新婚さんで、子をなし、その子が成人し、あの頃の自分たちと同じ年頃になって結婚し……というまでを刻める時間なのだ。

本作は何人かの人間模様が交錯して描かれる……同じ安アパートに隣り合わせて住んでいた者同士……のだが、その中のメインは、先述した新婚夫婦である。
年号が発表される瞬間にイクんだとか、バカなことばかり言っている子供のような夫に、妻はあきれ顔である。小渕さんが平成と書かれた額縁を持って、四方のカメラに見えるように掲げるモノマネを「年末の忘年会では絶対にウケるから」とノリノリで練習するようなアホさ加減。
一方の妻は、新元号、時代をまたいだことにはさしたる興味も持っていなかったものの、ほどなくして手塚治虫の死に大きなショックを受け、平成が始まったことよりも、昭和が終わったことを痛切に感じるんである。

物語の最後に、夫が新婚時代の妻との思い出を振り返り、また新しい元号を迎えることがあるのかな……なんて、お風呂に一緒に入ってイチャイチャしながら言っている。その時も一緒にいようね、という願いは、妻の病死によってかなわなかった。夫は平成にかわった時に、新しい時代に無邪気に浮かれていたけれど、むしろそれは、現代、令和にかわった瞬間にこそあふれていた気分だった。
昭和から平成にかわった時は、平成と書かれた額縁が黒縁の遺影のように私には見えてしまったもの。だって昭和天皇の崩御と引き換えに訪れたものだったから。それだけに確かに、痛烈に、“新しい時代”に変わった感は、後々思い出せばあったのだったが。

いわゆる、カルチャーとしての風俗、ほぼほぼエロ風俗の面をつぶさに見せてくれるのは、隣に住んでる、“テレクラ地蔵”と陰口をたたかれている青年である。
フリーターというのも、そうか、確かに平成に産まれた言葉であり、彼が言うとおり、それまではプータローとか言われていたのが、フリーターと言ったとたんに、カタカナに弱い日本人は、何かその地位が上がったように感じたと。

でもプータローだってカタカナだけど(爆)、まあフリーターの方が英語っぽいというか、和製英語だわね。フリーターという価値観だけが、彼にとってのエロ以外の風俗史である。
隣の新婚さんの毎夜毎夜のセックスの声に、負け組として打ちのめされつつ、いや、セックスは回数じゃなくて人数だ!と奮い立たすも、その点も童貞じゃねーかと疑われ、テレクラ、ダイヤルQ2(な、なつかしー)、出会い系、と順当にエロ風俗を駆け上っていくんである。

……でも多分、ガチでセックスは、一度もしていないと思う。最後の最後には隣に住んでいる買い物依存症の女子が半ばヤケクソで彼を誘い、セックスに至りそうになる、のだが……。
なんたってAV命(これぞエロ風俗の最高峰)である彼は、そこで得たテクニックこそが女の子を喜ばせると信じ、指で腕立てして強化を怠らず(それはテレクラで早く受話器を取るためにまず始めたことなのだが)、自信満々で彼女の×××に指を突っ込むも、「イタタタタタ!!」「AVの見過ぎなんだよ、バーカ!!」(繰り返して)「AV見過ぎなんだよ、ヴァーカ!!」……そうなのそうなの、AVの負の遺産ですよ、これは……。

後に彼は、アルバイト先でさわやかなボクシング青年と仲良くなる。青年とその恋人ははた目から見てもあまりにお似合いのさわやかさで、青年から聞かされた、という脳内妄想される二人のセックスも、あまりにもあまずっぱく、信頼関係の元に成り立っていて、テレクラ地蔵君は「妄想の入り込む隙間もねーよ!!」と打ちのめされる。

彼は、なんとなく時代のカッコ良さに乗って、というか、やりたいことが見つからず、というか、見つけようともせず流されて、フリーターってなんか現代的でカッコイイぐらいの思いで、そのままどうしようもなく大人になってしまった。
ふと気づくと、おなじフリーターと名のつく人たちは皆、その先の目指す夢あって、万人がそれを叶えられないにしても、少なくともフリーターというのはそのステップアップのためのものに過ぎないんだと判ってて、その先に進んでいた。

それに気づいた時にテレクラ地蔵君は呆然とし……。しかして彼が一番、平成の風俗史を体現していたよね。先述したエロ風俗の段階もそうだし……6秒10円とかいう値段設定、懐かしすぎる……寝落ちしちゃってトンでもない請求が来て「初めて親に土下座した」とか、あの当時、よく聞いたエピソードだったもんなあ……。
テレクラなんて、男子を釣る詐欺のようなもんなのに、SMジャンルはサクラが少なめとか、サクラのシステムで成り立っているのが判ってるのに、判っていることを知識と言い訳して騙されてるとか、バカか!!とか思ったり……。
平成エロ風俗あるあるネタ。平成エロ風俗といえばエンコウだが、当然彼のようなカイショなしに縁がある訳がなく……。

それが、隣の女の子につながる訳だ。「AVの見過ぎなんだよ、ヴァーカ!!」と言い放ったあの子である。
平成の始まりと共に社会人になった彼女は、もともとは地味系だったのに、やたらくっついてくる先輩に影響される形で、結果的にバブルの申し子、買い物中毒に陥るんである。

この先輩、後輩を可愛がるテイで、昼休みや休日など、プライベートにまでべったりとくっついてくるうざったさは、想像するもおえっとなるが、モデル体型、OL制服のタイトスカートがやたらミニで美脚見せすぎ、当時の、時代をナメきった、バブル女の雰囲気アリアリである。
こんなに自己顕示欲が強いのに、結果的にはデキ婚、絶対にそれは狙っての玉の輿、……チヤホヤされる女としての誇りの方が、自分自身の存在の誇りより勝ってしまう価値観が横行した、……バブル期に社会人になってなくて良かった、としみじみ思う、フェミニズムがねじれて飛んでっちゃっていたような、時代。

ヤハリ、人間、ラクで快楽な方に行くんだなあと。玉の輿だなんて、腰掛OLとかさ、バカにされている、重きを置かれていない、男女差別の最たるものだということを、チヤホヤされることで逆のベクトルに受け取っていた。なんと恐るべき時代だったことよ。

買い物中毒になっちゃった女の子は、その後付き合った男から紹介された会社の経理に転職。経理、と聞いた途端にイヤな予感がしたが案の定、会社の金に手を付けたのは、当然この男の最初からの思惑だったに違いなく、手が後ろに回るという最悪の結果に。
その先輩のイケイケ女子は、結局離婚し、ある男と飲み会で意気投合し、ホテルを共にした時「私、あなたのこと知ってる」彼女の後輩の隣の隣に住んでいた新婚夫婦の夫。

そして今は……。平成の(エロ)風俗を介して、倦怠期も含めて重ねてきた彼の夫婦生活が、「子供を持つ女性は、自分のことは顧みない」ことで健診を怠り、あっという間にこの世を去ってしまったことを振り返る。
闘病生活とか、妻の死後に子育てに奔走したとか、描写を見せる訳じゃない。ただ……それに気づけなかった、愛していたのにその愛を伝えきれなかった自分に、ただただ後悔するばかり、なんである。

本当に、夢のように、妻はいつのまにやらという感じで死んでしまっている。娘が、これまたいつのまにやらリッパに成長し、アイドルになりたいとか思っている。
ヤリたい盛りの恋人と、勇気あるなー、あれは実家でのセックスでしょ?声を気にしているというのは……なんてことをじっくりと見せながら、恋愛御法度のアイドル世界に挑戦しようとしている娘ちゃん。
彼女との別れの予感に苦しんでいる恋人と、何より、男手一つで育てた娘が、ヤハリ性差もあって最近はなかなかうまくコミュニケーションをとれていなくて、アイドルになりたいということも、賛成も反対も出来かねて苦しんでいる父親と、交錯するんである。

お父さんと娘って、本当に……難しいと思う。父親が鬼籍に入ってしまった今、父親こそが私の本当の理解者だったのかもしれない、なぜもっと話をし、酒を酌み交わさなかったのだろうと折に触れて想い、後悔ばかりが先に立ってしまう。
彼女の場合はお母さんに先立たれ、同じ女同士としてそっちに相談したかったという想いが強く、私のケースとは違うのだけれど、男親となかなかしっくりこないというのは、すごく、判っちゃう。
二人の最愛の男に後押しされてオーディションに合格したのに、結果的にはあっさりと夢を捨て、家庭人に収まってしまった、というのは、うーむ、何とも言い難いが、競争の激しい女子アイドル芸能世界としては、まぁ致し方ないというところか。

フェニミズム野郎としては、平成に限らず、エロ風俗史に関して、いつでも男子に需要も供給も過多過多よねと思うが、それは、女子がエロの欲望に対して、ヤハリそこは、日本文化的抑圧に負けているんじゃないかと思う気持は大きくて。
こういう企画特集上映に際して、登壇する女優さんたちはそんなことは感じさせなくて、素晴らしくカッコイイんだけど、でも、それは、需要じゃなく、供給しているよ!!というプライドであって、やはり平等でない気はするんだよな……。令和で何かが変わるのだろうか。 ★★★☆☆


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