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「と」


2019年鑑賞作品

東京アディオス
2018年 108分 日本 カラー
監督:大塚恭司 脚本:大塚恭司 内田裕士
撮影:水梨潤 音楽:ブラボー小松
出演:横須賀歌麻呂 柳ゆり菜 占部房子 藤田記子 チャンス大城 柴田容疑者 コムアイ 村上淳 河屋秀俊 新名基浩 片山友希 居島一平 ゆきおとこ 元氣安 三平×2 ハニーベージュ 比嘉モエル かずみん ルサンチマン浅川 玉山鉄二


2019/10/13/日 劇場(シネリーブル池袋)
時々シネリーブルはこーゆー極北かかってるから!危ない危ない。かなーり興味惹かれる世界である。私はお笑いはほんとに知らなくって、売れてる人も知らなくって、ボキャブラ世代で止まっちゃってるから(爆)。
勝ち抜きトーナメントがいくつもテレビ番組で定着し、結果を残した実力派と呼ばれる芸人さんから、一発屋でもかまわないと爪痕を残したい芸人さんから、もう一年後とどころか数か月ごとに入れ代わり立ち代わりの芸人さんの世界に、すっかり年をとったこちとらがついていけるはずもないし(爆)。

ただ……本当に、テレビに出なければ、という世界だということは、感じていた。テレビに出なければ売れたことにも成功したことにもならない。
勿論舞台というものは芸人さんには前提としてあるにしても、そしてナイツのようにテレビに出つつ、浅草の老舗舞台にベテランの先輩たちの舞台を見に来てね、と本来の活躍の場に誘う立ち位置の芸人さんがいるにしても、でも、テレビに出なければ、なのだ。

いつからそうなったのだろう。“芸人”という言葉が古典文学に出てくるくらい、日本に古くから根付く存在だったことを考えると、それは確かにおかしなことに思える。
これが、役者さんとかミュージシャンだということになると、そういう価値観がないではないけど、やはり話は違ってくる。テレビに出ない役者さんもテレビに出ないミュージシャンも、あまたいるし、それは出られないのではなく、彼らが口を糊する場がテレビではないからなのだよね。

芸人が日本には9000人いるんだという。それは、知られていない“世界記録”なのだと言う。想像もつかない数に驚きはするけれど、でも一方で、役者さんもミュージシャンも同じぐらいいそうな気もする。
ただ……役者さんはその一人だけで仕事が成立することはなかったり、ミュージシャンは音楽のジャンルが多様で、コアなファンを獲得さえすれば、という道がある一方で、確かに芸人さんというのはかなり難しそうに思う。コアなファン、という点ではなんとかなりそうだけれど、ライブやCDを作りやすいミュージシャンとは、やっぱりちょっと、違うというか……。

本作の主人公、横須賀歌麻呂はコアなファンはいるのだろう。劇中のラスト、衝撃のクライマックスで示される年に一度の単独ライブに集う彼のファンは、本当にそれだけ、いるのだろうから。でも年に一度であり、そのために一年かけてネタを苦しみぬいて作り、会場を借りる金で持ち出しになるような状態なのだろう……。
それでも彼は、人を笑わせたい、下ネタこそが最高の笑いだと、下ネタで天下を取るんだと、信じ続けて、貫き続けて、40を過ぎたんである。事務所にも属していない。下ネタがネタである芸人さんはテレビには出られないから、という理由だろうか。いや、単に、事務所に属していない、属することができない芸人さんがあまたいるという現実ということなのだろうか。

事務所に属するということは、マネージメントしてもらうということ。つまり金がかかる。金がかかるだけの存在だと認めてもらわないといけないということなのだろうか。
まぁ、昨今の、集めるだけ集めてほったらかし状態の某大手芸人事務所の例はあるにしても、でもやっぱり、それだけ事務所に属するということはハードルが高い、逆に言えば、フリーランスでも、自分が芸人だと言いさえすれば、それが通る。
それは役者さんでもミュージシャンでも言われるところではあるけれど、世間的な風当たり的には、芸人さんが最もキツイような気もして。

その点を、かなり過多に、妄想主体に描くのが本作なのだけれど、なんたって実在のアングラ芸人さんを本人役で起用しているぐらいだから、こっちにも様々な妄想は広がるんである。
いくらなんでも海外から持ち込んだ、マイケルもだれだかも死んだのはコレが原因だというヤバいドラッグを多量に服用して、衝撃のラストを迎えるあの場面が事実を元にしているなんてことはそらまぁさすがに思わずとも(思うか!)。

40を超えるとショボいバイトしか出来ず、サンドイッチマンをしている街中でチャラいホストみたいな男に鼻をかんだネットリちり紙を押し付けられたり、ホルモン焼き屋のバイトでは、年下の先輩たちにほとんど恫喝、いや、暴力に脅しつけられる。……いくらなんでも、もっとまともなバイトあるよ、マクドナルドとかでいいじゃん……と思っちゃう……。

当然、家賃を滞納しまくり、仲介に入ってる不動産会社の社員と思しきタマテツ演じる男は妙に優しいのだが(だからちょっと怖いのだが)、その上のチョクであるムラジュンが部下を率いて彼に恫喝しに来る場面はマジ怖い。本当に怖い。見てるこっちがちびっちゃいそうである(爆)。
たださ……ムラジュンが見透かしているように、横須賀はやっぱちょっと、ナメているところがあるんじゃないのという気がしちゃうのだ。すみません、申し訳ありません、明日には必ず……そんな気もない癖に、その明日に訪ねれば、いつもと同じく安手のAVでシコシコやってるくせに。その安手のAVに同調してタマテツが一緒にシコシコやるのが可笑しいんだけどね(爆笑!)。

ナメてるというか、諦めていたのかもしれない、と思う。いつか、こんな風に、のっぴきならない事態になることを、待っていたような気がしないでもない。横須賀は口では、下ネタで天下を取るんだと言い続けているが、見るからにもうイイ年を過ぎまくっている。
彼のタネ違いの妹が田舎から乗り込んでくる。ある意味、タマテツよりムラジュンより、彼女が一番怖い。演じる占部房子はマニッシュな魅力たっぷりで、ブリブリのカワイイ女の子を携えて、いかにもトランスジェンダーな雰囲気を醸し出すのだが、劇中ではそのことにははっきりと触れない。

語弊を恐れずに言えば、兄とはまた違うベクトルの“異端者”であり、彼女は兄を罵倒するけれど、理解できる材料はたっぷりその身の内に持っている筈なのに、と思ったりもする。
タネ違い、というのは、横須賀の父が死んだあと、女手一つで育ててくれた母親が、セールスレディをした先で寝まくったどれかのタネ、であり、ヤリマンセールスレディとしてマスコミに取り上げられ、トラウマになった過去が横須賀にあるんである。

しかして、この妹とは身を寄せ合って育ち、大切な存在だったという回想が明らかにされる。なのに今は……それは当然、横須賀が芽が出るはずもないままの立場で夢を見続け、脳腫瘍で自分自身も失いつつある母親の介護を、妹に投げっぱなし、当然金も入れない、という状況で確執しかない。
なんかもったいない気がしちゃう。幼い頃二人は、お兄ちゃん大好き、妹を俺が守る、そんなきょうだいで、それはヤリマンと呼ばれた母親を介した関係で……せっかくそんな設定があったのに、ぶっちりと断ち切られて、いまやトランスジェンダーな妹と売れる気配皆無の下ネタアングラ芸人の兄、そこから一つも抜け出せない、なんて。

予告編は観る機会がなかったんだけど、“テレビに出ることなどできるはずのない、下ネタ芸人”だから、横須賀のネタは一切、披露されない。いや、映画で流される予告編なんだからいいんじゃないの、だって当然、本編では出しまくりなんだしさ!!と思うのだが、ネットで見ることができる、とかいうんでも、ダメだからなの??そんなバカな!!
……なんとまぁ、窮屈な世の中になったのだろう。そもそも、下ネタ芸人だからテレビに出られない、ということだけで驚愕、いつの時代かと思ったよ。むしろテレビの世界こそが、どんどんおいてかれている気がする。コンプライアンス、という言葉が擦り切れるように使われて、もはやこれぞ流行おくれ、みたいな感がある。

横須賀が本作で披露する下ネタは、下ネタがいつでもそうであるように、私たちが当然のように使い慣れ、話し慣れている言葉だからこそ、面白いのだ。それがちょっと、例えば学校とか、会社とかで、先生とか、上司の前では、“昼の時間”では使えない言葉ではあるけど、その時間を外れれば、先生……は難しいかもだけど、友達や同僚はもちろん、上司とだって、仕事を外れた場でだったら、いくらだって盛り上がれるコミュニケーションツールではないか。
むしろお笑いには無知な私にとっては、横須賀の下ネタはシンプルに面白かったし、彼のモチベーションとなっているコアな美女ファン、柳ゆり菜が無邪気に笑っている色っぽさが、素直な女の子の反応として、いいじゃんいいじゃん!!と思ったりした。

彼女とのデートシーンから妄想の疑惑はあるのだが、どの辺から、なのだろう……。実際、彼女が彼のコアなファンだというのはそうなのだろうが、いや、それも妄想かも……。
金銭的に追い詰められることもあるが、下ネタを考えるためにAVを見まくったり、こんな芸風なのに童貞で、そのトラウマの記憶をよみがえらせたり、かなりムチャクチャに展開が暴走するので、もう本当に判らなくなる。現実がモノクロで妄想に色がついたりするのだけれど、回想に色がついたりもし出すので、じゃあこの回想は妄想??と思ったり……もうグチャグチャ!!

でも、童貞……??学生時代もガッツで本人を演じる横須賀のトラウマは、気になる女子の前でネタを披露していたところを、不良グループに目を付けられ、おでぶちゃん不良少女に「食っていいの?」とバックからのしかかられてヤラれちゃったこと、なんである。
……えーと、バック、アナルだったから童貞失ったという訳じゃないとかそういうこと……?(書くのもヤだわ、こんなの)。まぁとにかく横須賀は、童貞なのに下ネタで天下を取ることを夢見て、オナニーだけは人一倍、しかして、オナニーしちゃうとネタが書けない、オナニーしたい気持ちを押さえている時がサイコーのネタが書ける、ということを自覚している。

そんな時に、芸人をやめ、株で成功した友人、柴田容疑者(なんつー名前だ)からくだんのヤバい薬を得て、……てのが、その薬に溺れて死んじまった場面に遭遇するという更なるヤバさ。
セックスをするためじゃなく、欲望を押さえる時に出るクリエイティブなアドレナリンに彼は魅せられてしまい、ネタを書く時には最少に抑えてたのに、母が死んだり、その葬儀に出ないと妹に申し渡したりして、どこかで線が切れたのか、年に一度のワンマンということに、物語の最初から、異様なまでの、命を賭けるまでの、執着と言えるような意欲を見せていたから……。

あるったけの錠剤を、一気にのみ込んで舞台に出ちゃうから、ちょっとちょっと!!……えーと、これを量を間違って飲んだら、死んじゃうのは確実だけど、どうなるんだっけ……と考えているうちにワンマンは始まり、ああ、確かに、この瞬間を味わうために、彼は、あるいは日本中の、世界中の芸人さんは、日々歯を食いしばって、世間から罵倒されながらも、歯を食いしばって、頑張っているのだと思って……。
合同ライブじゃない、ワンマンライブ。そりゃ金なり、客を集めるのは大変だけど、自分だけを見に来てくれているワンマンライブ。本当に、アイドルコンサートのようにネタを披露する前からこぶしを突き上げて盛り上がる。何をやってもドッカンドッカンである。
しかして横須賀はあの薬を飲んでいる。それでテンションマックスなのだとしたら……そんなことしなくったって、おめーを待ってる客ばかりだったのに、なぜ……。

こうなるのは判っていた、が、描写がスゴすぎる。この薬の存在をほのめかした柴田容疑者は、精液が止まらねーと言った。それで、きんたまが破裂して死ぬんだと。まじで、それを、映像でやっちゃうんすか。ぬるぬる相撲に使うような、ローションってやつですか、あれは?
そんな液体がもう正体をなくした横須賀の股間からドワーン!ドカーン!!と発射され、訳も判らず恍惚状態になった彼の熱狂的ファンの元に降り注ぐ!!何度も、何度も!!!何これ、なんじゃこれ!下ネタより、こっちの方がコンプライアンスだろ!!
……いや……下ネタもそうだけど、こんな程度、つまりエンタテインメントとしてのナンセンスな面白さを、テレビの世界が受けつけないのだとしたら、もう終わりだ。テレビにしがみついている最後のジャンルが、お笑いだと、このラストシーンで確信してしまう。

シネリーブルは折々チェックしなければ……うっかりトンでもないものをかけるんだから!!★★★★☆


東京の恋人
1952年 97分 日本 モノクロ
監督:千葉泰樹 脚本:井手俊郎 吉田二三夫
撮影:飯村正 音楽:飯田信夫
出演:原節子 三船敏郎 杉葉子 小泉博 増淵一夫 井上大助 森繁久彌 清川虹子 河村黎吉 藤間紫 沢村貞子 十朱久雄

2019/3/11/月 劇場(神保町シアター)
森繁の名前を見て飛び込んだが、この監督さんは多分、初めてだなぁ。森繁と原節子というのも新鮮。当然双方スターだから共演作品はあるんだろうが、私的には初めてのような気がする。
っつってもどっちかっつーと2グループに分かれていて、原節子のお相手は三船敏郎氏。珍しい役柄、イミテーションを作る職人とはね!

原節子はしがない街角の絵描き。靴磨きをしている三羽烏、いや三銃士と自称している若い男の子三人を引き連れて、というか、この三人がまさに彼女を守っている感じ。
そして彼らが仕事をしているのが宝石店の前で、そしてすぐ隣がパチンコ玉で儲けている金属製造の会社。森繁はそこの社長さんで、色っぽい二号さんをかこってる。ま、森繁だからね(笑)。そこにこわーい奥さんに乗り込まれるのも、ま、森繁だからね(笑笑)。その美貌に見惚れて原節子を口説くも、全く相手にされない、のもそらー森繁だから(笑笑笑)。

しかして思えば、本作ってかなり重層的な構造。原節子側の貧しい暮らしをしているグループ、そこには春を売るしかない病持ちの友達がいたりして、哀しい結末が待っていたりする。
森繁側は完全なセレブリティ、いや、どっちかっつーと成金って感じだが(爆)、二号さんにねだられて50万の指輪(当時の50万よ!!一体今にしたらいくらなんだろう……)を買わされ、それを奥さんに見つかって……というお決まりのドタバタではあるが、面白いのはその2グループをつなぐ三船敏郎の存在である。

ぱりっとした格好をして宝石店に出入りし品物を収めるんだから、彼も一見羽振りがよさそうに見えるが、ニセモノを作る腕利き、というのは、なかなかに皮肉な言い方であり。
実際ニセモノを納品するんだから、いくら本物と遜色がないほどの出来栄えだとしたって、その利益はたかが知れているし、実際彼の住まいは一軒家といえどもボロボロで、始終彼自身が修理して回っている有様で、訪ねて来た原節子と三銃士を驚かせるんである。

原節子=ユキ。三船敏郎=黒川。三銃士は、区別つかないから三銃士でいいや(爆)。病持ちで春を売り続けて最後には死んでしまう哀しい女=ハルミが杉葉子。
彼女のこともきっといろんな映画で観ているんだろうけれど、イマイチ思い出せない(爆)。肉感的にめくれた唇が、こんな商売と言いつつ稼いでいた時は男をとろけさせていたと思わせ、まったく性的イメージを起こさせない原節子とはまったき、対照的である。

森繁=赤澤。その二号さんで割烹料理屋の女将、美人の小夏が藤間紫。はぁなるほど!彼女が!なんか淡島千景を思わせるような(なんて言い方は失礼かもしれんが)色っぽいイイ女!
赤澤の奥さん、鶴子夫人は清川虹子。まさに、まっさーに清川虹子であり、もうすっばらしいコメディエンヌ。美人の二号さんを「あんな、フーチャカピーの粕漬け!」(あってると思うが……とにかくこれ何語(爆笑))とクサし、指輪を洗面所に落とし(あの十字のやつが壊れたままだったのよ!!とパニクりながらわざわざ説明するのが可笑しい)、夫婦二人して釣竿突っ込んで吊り上げようとする場面はもう最高!

そして魚が釣れちゃうし!結果的にずっとタンクの水に浸かったままだったことで光が鈍り、本物だと思っていたこの指輪が実は偽物だったことが判明。そしてそれを宝石店夫婦も気づいていなかった(奥さんがくしゃみで吹き飛ばして入れ違いになったとゆー、観客にしか知らされないにしてもあまりにあまりなオチ!)。
このちょっとしたミステリチックなドタバタがこっち側で繰り広げられている間、ハルミの病状は瞬く間に進行、それに気のいい黒川が絡んでしまうことになってて……つまり彼は、ほっとけないのよ、何事もさ。三銃士がチンピラに絡まれているのを助けたのだってそうだし。

お医者さんを呼びに行くのに、そのお医者さんがそば屋に行っていて、そば屋に行ってみたら銭湯に行っちゃってて、銭湯からぱんついっちょのお医者さんを引っ張ってくるシーンは爆笑モノには違いないんだけど、でもここで彼の人柄のすべてを言い当ててるんだよね。
黒川とユキと三銃士は最初、チンチン電車の中で出会っているし、ハルミが倒れているのを道端で見かけて送ってくれたなんていう展開につながって、ある意味運命の再会、浅からぬ縁、と言えるのに、ハルミが「あの人の名刺を……」というまで、ユキも三銃士もぼーっとして判ってない(爆)。

ハルミはもちろん、そういう商売で生きてきた女だから、そういう部分に気が回るというのはそれはそうかもしれないんだけれど、でも、やっぱり……ハルミは黒川に、ホレちゃってた、んだろうなぁ。
助けられたあの一発。一目惚れに違いない。正直言って精巧なイミテーションを作れるような繊細な職人とは思えない(爆。偏見……)、武骨な男だが、とてもとても優しい人なのだもの。それはこの物語のキモのクライマックスで判る訳で。

その前に。個人的に喜んじゃったのは、勝鬨橋のはねあげがみられたこと、なんである!!過去、映画で見たことがあったのは、一回、二回……ぐらいかなぁ。今だってね、はねあげられる機能は失われていない筈なのよ。でも一体、何十年、あのスペクタクルは見ることが出来ていないのか。
本当にね、この当時、当然のように、とゆーか、当たり前に、大きな船も通るから、その時間も決まっていたんだろう、あの大きな橋が割れて、ぐーっと上がっていく、今も職場のすぐ近くにある橋、しょっちゅう渡る橋だから、コーフンだよ!!

当たり前だけど、変わってないんだもの、そのまんまなんだもの……。そしてこの勝鬨橋のはねあげこそが物語の転換になってるっつーのが、嬉しいじゃないの。
ニセモノだと思われて、あっさり社長からあの指輪を与えられた給仕のタマ子ちゃん。路面電車で通勤途中、ハルミちゃんの闘病資金に、売ろうと思うの、とユキや三銃士たちに相談して、手をかざしていたら、窓の外に落としてしまう!「だから、親指にしとけばよかったんだよ!!」それってつまり、奥さんの薬指がタマ子ちゃんの親指並みに太いとゆーことだろうなー(笑。だって清川虹子だから!)。
ここで、勝鬨橋のはねあげ!なんである!!だからね、そのほんの隙間から、落ちちゃうの、タマ子ちゃんの細い薬指から滑り落ちた指輪が!あーーーっ!!って観客のだれもが思わず声を上げちゃう!

当然、見つからない。激昂した清川虹子奥さんが訴えるとまで言って、警察交えたプチ裁判みたくまでなっちゃう。つまり、ここで、貧乏人&セレブリティの対決が、明確な形で示される訳なんである。
なんたって奥さんはホンモノの指輪を取り戻したいから、嘘つき呼ばわり、盗人呼ばわりまでして、所詮貧乏人だから、という前提で彼らを罵倒する。しかしユキたちには裕福さ以上にプライドこそが大事なものであり、それは指輪捜索に立ち会っていた警官もいたせいで、あっさりと通っちゃうんである。

まぁね、、セレブリティをコメディ側、つまり笑いものにする側に、ある意味あっさりと位置づけしていたから出来る手法であり、当時だからこそ出来る手法であろうとも思われ。
その後、必死に指輪を探し回るこの赤澤夫婦、てゆーか、鶴子夫人だけが必死、ついにはレトロな宇宙遊泳みたいな(あまちゃんの潜水訓練みたいな?)潜水器具を用いた捜索隊を大金かけて雇ってさ、でも彼らは水中で遊んでて、つまり大金貰って見つかりませんでしたで済むんだから、こんなイイ話はないの。これって、かなーりセレブリティを揶揄する展開よね、と思うのだが。

そっちに気をとられて、メインというか、一番イイ話を忘れていた、訳じゃないんだけど。先述の、病を得ながら春を売るしかなく、死んでいくハルミの物語ね。
そう、先述したが、絶対にハルミは黒川にホレていたのだろう。それを察知したから、ところどころでユキも複雑な表情を見せていたけれど、そこはヤハリ原節子だからかなぁ、ドロドロした嫉妬という展開にはさせないんだよね。

架空の夫の存在を手紙にしたため、再婚して今は連絡が取りづらい関係になっている母親を安心させようとしているハルミ、でもユキに代筆してもらう、その妙に細かいエピソードはどれも黒川との出会いにキュンキュンした時のことを示していると判っちゃうから、観客はもちろん、ユキも心穏やかではない……のだが……そこはやっぱり、原節子、なんだよなぁ。
その直前に黒川に、所詮ニセモノ、そんなもので儲けるなんて!とか言いがかりつけて、大喧嘩になっちゃった訳。あとから考えてみればかんっぜんに痴話げんかだよね(爆)。

ハルミの危篤に母親が駆けつけ、そのウソがバレないように黒川に懇願、ケンカのこともあったから上手くいかず、もう彼は来てくれないかと思ったら、ギリギリで来てくれて、しかもちゃんと、ハルミの設定した石炭職人を思わせるカッコしてさ!コスプレじゃん!!ユキや三銃士のみならず、感動よりもつい可笑しさがこみ上げちゃって、もう、アンタ、イイヤツ!って!!
母親が来てくれたこと、黒川が来てくれたこと、ハルミは小康状態を取り戻し、つまり黒川は、ほんのいっときの芝居の筈が、「ハルミちゃんのお母さんがいる間は続けてくださいな」としれりと言うユキに、イイヤツだからさ、異を唱えることも、出来ない訳!それどころかカンペキな夫っぷり!

……なんか、後から考えると凄いな。成金夫婦との本物かニセモノか紛失騒動だけで一本の映画が出来そうなのに。ハルミの問題って、きっとこの当時の社会問題だと思うし、ユキや三銃士の貧しいエリアとセレブリティの格差だってきっと、そうでしょ。でも結局それを笑い飛ばして……でもでも、苦いものが胸の奥にやっぱり残っちゃうみたいなさ。
そしてさ、黒川が言うとおり、ハルミの母親は、この猿芝居を……猿芝居と言いつつ、必死の猿芝居に、気づいていたんだと思うとさ、もうなんかさ……。彼らはなんか、それに対して、軽く明るく言うけれどさ……。

ラストは、モーターボートで明るく走りさるユキ、黒川、三銃士、タマ子ちゃんのスッキリ明るいメンメン、その通りすぎる横で、赤澤夫妻がいまだに、しかも今や奥さんが宇宙飛行士状態で川底を探し回っているという素晴らしく笑わせてくれるオチ!!
あっさりあっけらかんのように見えて、実は深刻だったりシニカルだったりするのは、昭和のコメディのありがちなところではあるけれど、改めて凄いなぁ……。★★★☆☆


遠い一本の道
1977年 110分 日本 カラー
監督:左幸子 脚本:宮本研
撮影:瀬川順一 音楽:三木稔
出演:井川比佐志 左幸子 市毛良枝 磯村建治 殿山泰司 西田敏行

2019/3/25/月 劇場(渋谷シネマヴェーラ)
観ようと思っていた映画の時間を間違ってて、慌てて探して飛び込んだ映画が、なんか、すっごい、とんでもないもの観ちゃった、と思って!!
左幸子が監督やってたことも知らないし、恐らく役者仲間が総出で友情出演ではと思われるそうそうたるメンバー、殿山泰司が出ているんだものねぇ。チョイ役で若き日の西田敏行局長が登場するのにもぶっ飛ぶ。

しかしてしかして、これは何、プロパガンダ映画??そう言いたくなるほど、なんつーか、言ってしまえば偏った映画。いや、その言い方は正確じゃないか……真摯な国鉄マン、それもうだつの上がらない保線作業員が主人公。
いつまでたっても楽にならない生活を、組合運動という方向に突き進んでいく、その中で仲間や家族と衝突しまくる。しかし俺たちは金を稼ぐことよりもこの仕事を誇りに思っているからこそ闘うんだというような雰囲気になってきて。

なんたって国労全面協力というのはタイトルクレジットからもう打ち出されていたからさ。組合運動礼賛とゆーか、機械化合理化は人間の尊厳を潰す、みたいな、若干のアナログをかなりきつめに押し付けるような雰囲気もして、かなりビビるんである。
いやだって、役者陣もものすっごい芝居がアツいんだもの。井川比佐志、マジでちゃぶ台ひっくり返すしさぁ、

昭和50年かぁ、と思う。私が3歳の歳だよ。そらぁ大昔なんだろうが、自分がもうこの世に生を受けていたと思うと、なんか最近までそんなことなんだなぁと思う。
しかも北海道。雪の中。その訛り具合。だからなんつーか、生活ぶりとか、何となく懐かしい感じは、あるのだ。奥さんが内職で機械編みしてるとかね。あのジャーッ!ジャーッ!ていう機械、ウチにもあったもんなぁ。

私は思いっきりフェミニズム野郎なのだが、この描写にキツいことを言いにくい。
それは多分、ウチの家庭もまさにこうであった、奥さんは当然専業主婦、ダンナの稼ぎが苦しい時だけ内職(それは共稼ぎとは言わない)、当然家事は全部妻の受け持ち、ダンナが酔っぱらって愚痴を吐き散らしながら帰ってきても、奥さん側にそれは許されない(てゆーか、そういう感覚すらない)、ダンナのプライドは家に金を入れるだけのことで、奥さんの内職は彼のプライドに触るのに、それがなければ生活が成り立たない……。

いやあのね、ウチは平和でしたよ。確かに母親は専業主婦で、機械編みの内職をやってた時期もあったけど、生活が苦しいからというよりは、紹介されての小遣い稼ぎのような感もあったし、父親は仕事でいろいろ苦しいことがあったんだろうなと今から思えば推測できるけれど、経済的に苦労を掛けるようなことは一切、なかった。
奥さんの仕事に口出したり、こうあるべきだと言ったり、勿論ちゃぶ台ひっくり返したりなんてことも、なかった(ちゃぶ台なかったし。いやその)。

ただ……口には出さなかったし、優しく穏やかな人だったから自分の思いを主張することはほとんどなかったけど、でもやっぱり、本作の井川氏演じる夫であり父親と、やっぱり凄く……似てるなぁ、と思ったんだよね。仕事に対して、男と女がどうあるべきかに対して、その価値観が、ああ、とーちゃんみたい……と懐かしくほろ苦く、思っちゃったんだよね。
ただ私のとーちゃんはきっと、それが時代に合致して行かないってことを判ってて、だから何も、言わなかったんだと思う。

私の時代からもう10年、20年さかのぼる形のこの家族、この父親は、やはりまだ、そうした意識が強く残っているように、見えた。国鉄マンの奥さんたちが仕事を持っていないのは当然。持っていたとしたら内職か、それが儲からないってんなら保険の外交員。
でも夫は奥さんの内職に苦々しく思い、仕事以外の家庭や子供の相談を持ち込まれるのをうるさく思い、自分のふがいなさを家族に向けて爆発させる、みたいな。

もーだから結婚ってイヤ!!とフェミニズム野郎の私は思うが、まさにここは過渡期というか転換期で、見合いですらない、顔も知らずに国鉄マンならくいっぱぐれがないだろうと、雪道を角隠しで楚々と歩いて嫁いできたこの夫婦と、その子供たちは、明らかに、劇的に、時代が違うのだ。
娘は当然、恋愛相手を連れてくる。父親が激怒するのは、「親に隠れてこそこそ、5年も。人の娘に手を出して。」とゆーんだから、いやー……平成も終わろうとしている時代から見ればアゼンであるが、てゆーかむしろ、この時取り残されているのは、合理化が進む国鉄の中でも更に取り残されているこのお父さんのみであり、妻であるお母さんだって、恋愛したかった若き日の自分を、顔も知らずに嫁いできたことを、お父さんにぶつける有様なのだ。

ああ、昭和だな、と思う。でも昭和はそんな、新しい時代への転換期であったことは、間違いないと思う。この子供世代、結婚しようとする姉と、その姉を無邪気に応援する弟が、象徴している。
父親にとっては裏切りの5年でも、間を取り持つために現れる彼の同僚、西田局長が言う「5年間、まじめに付き合ってきた」ということの方が当然、本当に違いないのだから。

会社のために身を捧げて働くという価値観は、いわゆる愛社精神を当然の価値観として求められるのは、私の父親を見ていればこの当時は当然、当然、あったことなのだ。
それがこんな風に家庭をむしばみ、彼自身をむしばむことも、問題にもされずに、当然、あったことであり、だからこそ組合運動、という話が出てくる。

会社にたてつく形になるから、組合運動はしり込みされる。ただ、奥さんたちの方が先に蜂起する。よりリアルに生活苦にあえいでいるから、当然である。
彼女たちの蜂起は予測通り、いいようにあしらわれるが、奥さんが呼び出される。だんなさんが組合運動をしている。にらまれるからやめた方がいいと……。

このワンシーンで、何を思うかで、変わってくるような気がする。少なくとも私は、女がいくら運動したって、少なくともこの時代は、そして今もほとんど……この日本では意味をなさないんだという徒労感である。
それはヤハリ、労働者じゃないからということも大きいと思う。内職をしている奥さんじゃ、ダメなのだ。でも労働者が運動をすると、圧力がかかる。家族を守ろうとして、プライドを捨て、家族も崩壊する悪循環が、この当時、最も悪いスパイラルで蔓延していた、ということだろう。女の社会的力は皆無に近く、男は社会に搾取され、身動きが出来ない。

本作の最も魅力的なところは、これは、ひょっとしてドキュメンタリー??と思うような箇所が多々、あるところなんである。機械化が導入されたシーンが最も象徴的で、枕木を設置するものものしい機械を戸惑いと反発の態度で見守る井川氏、殿山氏は確かに熱演な芝居なのだが、機械を操る若い行員、その工程をつぶさに接写して収める様は、まるで、どころかまんまドキュメンタリー。
きっと、実際の講演内容を実録したんじゃないかと思われる、経験ある職人が食っていけるだけの報酬を得ていないことへの学者さん的な音声とか、何より組合運動の様々な場面の活写が、その挿入シーンの数々が、めちゃくちゃヴィヴィッドで、いやこれは、絶対実際の運動や音声を収めた、ドキュドラマとでもいった手法に違いない!!と思わせるんである。

むしろ、そうしたドキュ場面が鮮烈で、劇映画部分が、言ってしまえばすっごいクサいというか(爆)、濃いというか(爆爆)。
この映画って凄い特殊な雰囲気というか、匂いがあるんだけど、それはそんな、生々しい時代の空気と、それを芝居で再現しようとするとちゃぶ台ひっくり返しちゃうような昭和の空気(いや、昭和なんだから、そらそうなんだけど)の、奇妙なギャップによるものなのかなぁという気がするんである。

新しい時代を生きる、彼らの一男一女は、そんなことはくそくらえである。いやでも、男の子の方が、お父さんと同じ手に職な国鉄マンを、継ぐ形で選ぶのは、やはりまだ、古い気質が残っているのかなぁ。
お父さんと同じ道を行く、と、お父さんじゃなくお母さんに吐露する、この可愛く無邪気な弟君のシーン、長く長く歩いて行く一本道でのワンカットで、こういうの、初監督だとやりたそうだよなとか思っちゃう(爆)。

そもそも冒頭で示されて、象徴的なシーンである、長年の勤労を表彰される式典も、これは実際のものを使ったんだろうなと思われるリアリティで、でもそれを、こうした形で……つまり、簡単に表彰してくれるなよと。昇級試験でふるい落とされ、長年の技術も経験も評価されず、商品は時計ひとつのこんな詐欺みたいな慰労で、と。
勿論、冒頭のシーンだけではそれは、判らないのだ。でもなんか、最初から微妙な雰囲気で、息子は父親がこの式典に出たことに失望したと吐き捨てるし、でも、最初は何があったか、何がこの家族に起こっていたのか、判らないから……。

私はね、愛社精神って、大事だと思う。ただそれは、逆もなきゃというか……会社も社員を愛していなければいけない訳だけど。彼らは、会社からも愛してもらうために闘った。いわば、それしかなかった。でも今は……会社から愛されていない、あるいは自分が望むとおりに愛されていないと思うと、自分からの愛で変えようとは思わない時代、なんだよねと思う。
今はなきとーちゃんをつくづく、思い出した。とーちゃんも会社を愛せない時だってきっとあったと思うけれど、家族を愛してくれてたから、かなぁ、なんて、照れるね(爆)。

何より強烈な印象に残るのは、彼ら夫婦が娘の結婚相手の家族に挨拶に行き、義理の息子となる彼の生まれ育った、今は廃墟となった島、軍艦島を訪れる長いシーンである。
この廃墟の島は知識としては知っていたし、ちょっと映像めいたものを見たこともあったけど、こんなにつぶさに、死んでしまった町を、しかもその死んでしまった時からさして時を経ずに、生々しく活写した映像をこの目で、目撃できることに、衝撃を受けるんである。

勿論、この作品のメインテーマである、いわば国の隆盛のために働かされた、使い果たされた痕跡のみの、見るのもつらい敗残の後なのだが、今現在はともかく……。
この時はまだ、彼の故郷の記憶であり、最後に訪れたメッセージがそこここにあり、でもこれが、これが、……日本あちこちの、ただ単に土地そのもののことだけではなく、人がそれぞれ持ち得る心象風景として、無数に生れ出る可能性があるという絶望感が、ただただ胸をひたひたと浸すのだ。 ★★★☆☆


翔んで埼玉
2019年 107分 日本 カラー
監督:武内英樹 脚本:徳永友一
撮影:谷川創平 音楽:Face 2 fAKE
出演:二階堂ふみ GACKT 伊勢谷友介 ブラザートム 麻生久美子 島崎遥香 成田凌 間宮祥太朗 加藤諒 益若つばさ 中尾彬 武田久美子 麿赤兒 竹中直人 京本政樹 JAGUAR

2019/3/27/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町楽天地)
わーん、なぜか公式サイトで作品情報に行けないよーっ。キャスト相関図が見たいのに……とあちこちさまよってしまう。原作読んでおけば良かったな、一巻だけなんだから。
「パタリロ!」を87巻までは揃えてその後軽く挫折している程度に魔夜先生のファンとも言えるので、この原作は未読だったけれど、噂には聞いていた原作の映画化はちょっと、嬉しかったなぁ。不安もあったが、ふたを開けてみれば凄い評判で、客足が落ち着くまでかなり待ってしまった。

うーん、凄い。魔夜先生が「パタリロ!」以外の作品が代名詞となりうるような、社会現象と言ってもいいぐらいの大ヒットになるなんて、本当にビックリ!!
だって、彼の作品世界って、やっぱりある意味、異質、じゃない?ボーイズラブなんて言葉がなかった時から、男性同士のカップルが彼の作品世界では基準で、それはわざわざ言い立てるほどのことでもなかったから、今回劇中、現代パートの娘が「だからそれって、ボーイズラブでしょ」と何度も口を挟むのが、あぁやっぱり、魔夜先生の世界って特別なんだなと改めて思って……。

一見ナンセンスギャグ漫画家のように見えながら、その実際は国際情勢、社会経済、あるいは怪奇ワールドに至るまで実に深遠な彼の作品は、それが少女漫画のフィールドにあるというのが、本当に不思議。
てゆーか、だからといって少年マンガでも青年漫画でもないんだな。やはり唯一無二の漫画家。

冒頭、原作者ご本人がキャラクターをナマ描きしながら、美しいダンサーを従えて登場することにキャーッ!と叫びたくなる。キャーッ、ミーちゃん本人登場!ヨッ、永遠の27歳!!いやでも、いまだにちょっと年齢不詳だよね。
「パタリロ!」も大きなムーブメントはあったけれど、まさか平成も終わりになってミーちゃんフィーバーが来るとは……感慨深し!

ボーイズラブという世界観を借りるなら、いわばネコ側である百美を演じる二階堂ふみ嬢、設定を女の子にする案を彼女が原作どおりが面白いと変えたって??てゆーか、それが当然だろーが!!(ちょっと怒っちゃう)。魔夜先生の世界は、美青年と美少年のカップルによって成り立っているのよ。
ふみ嬢がどこまでそれを判っていたかは判らんが、女の子役にしようとしていたという時点で製作者サイドの良識?を疑う!!しかし、どうやらキャスティングの時点から魔夜先生が関わっていたらしいから、そんな愚行は許されなかったとは思うが……それにしても!

だからガクト氏が高校生でも、言い訳さ。美青年と美少年、なんだから、設定上彼らの年齢がさして違わなくても、魔夜先生の世界は美青年と美少年だから、GACKT氏が高校生をやったってなーんら問題はない訳さ。
てゆーか、魔夜先生のキャラクタービジュアルを臆せず再現してくれたことに、私はとっても満足した。そらー現実離れ、非現実的、こんな高校生あるか、こんな高校あるかっ、とゆー世界感さ。しかしそれこそが魔夜峰央ワールドであり、百美をちゃんを男の子として描いてくれた基本から、宝塚かと思われるような(それ以上かも)派手な衣装まで完璧。

都会指数の高さで上下関係をはかっている、お高く留まった学園の中では出身区によって厳格に立場が区切られている。世田谷区とか港区とか……なんか東京にいながら私もその辺のセレブリティ的な区分けはよく判らんのだが、私の住む墨田区なんて、出てきもしなかったな(爆)。
なんかいきなり田無とかに飛んじゃって、つまりなんていうのか……そういうお高いところに当然入れる区画と、そこに憧れて何とか入る区画、そして……本来はいることも許されないのに金にものを言わせてなんとかもぐりこませた埼玉、という図式があり、あぁ、これっていかにも魔夜ワールドだなぁ!貧民にボロとつぎあての服を着させるっての!!それが同じ学園内で配置されているってのがね!!

ここに隠れ埼玉県人として潜入してきたGACKT氏演じる麻実麗(まんま、宝塚やね)が、見た目は都会指数めっちゃ高しで、百美の仕掛けた東京の利き空気テストも見事突破するし(インド人のスパイスとか、細かいテイストがいかにも魔夜先生!)、まさか埼玉県人なんて、誰も思わない。なんたって見た目麗しだし。
しかし最初から、虐げられた埼玉県人生徒に目をかけていたし、なんたって麗にホレてしまった百美とのデート(貸し切った遊園地というあたりが……)で完全にバレてしまう。

とゆーのも、麗の家政婦が子供を連れてこっそり遊びに来ていたところを不法入国?(言い方がおかしいが……でも通行手形というアイテムがあるからさ)で捕らえられてしまい、そこで百美は麗の秘密を知るのだが、でも彼にホレてしまったから、所沢へ一緒に行かないかと言われて倒れそうになっても(爆笑!)、彼についていくことを決意。
そんな具合に、あらゆる埼玉のローカル地名に失神しそうになりながらも、彼への愛ゆえに、通行手形撤廃へ向けて、神奈川以外の他の関東県と、いがみあいながらも協力体制を築き上げ、クライマックスへとなだれこむんである!!

って、かなりはしょってしまった。それはいけない(爆)。この物語の見どころは、埼玉対東京という他に、埼玉以外の関東圏の立ち位置、対立具合をどう示すかというところが大変、重要なんである。
本作の冒頭、こっそり東京に入り込んだ埼玉県人がどういう目に遭うか、という、サンプル的なエピソード映像が流れるのだが、そこに登場する埼玉県人が間宮祥太朗君!おいおいおいー、キミはついこないだ、「お前はまだグンマを知らない」で、まさに本作の群馬バージョンともいえる作品に出ていたではないか!!グンマーより埼玉の本作が大きくヒットしてしまったことが、複雑だったりしないのかなぁと思ったり(爆)。

映画作品の立場だけで感じるところからすると、グンマーは劣等感は確かに凄かったけど、それ以上に郷土愛が半端なかったんだよね。
でも埼玉は、劇中でも描かれていたけれど、ヘンなあきらめというか、逆に、東京に最も近い埼玉都民という言葉が象徴するちょっとした誇りというか、それの間で揺れるアンビバレンツ、郷土愛があるのかないのか、どっちなんかーい!といういら立ちを他の県に持たせるという、稀有な県(爆)。一歩間違えれば、鼻持ちならないことにだってなりそうなさ。

でも本作は、そこにこそ、そんな曖昧な、郷土意識にこそ焦点を当てているんだよね。千葉との決戦の直前の、広い県土だからこそ、対東京より内部でのライバル意識の方が強いというのは、それこそ全国的に見ても、埼玉ほどそれが顕著なところはないんじゃないかなーと思う。
なんつーか、県内の結束が弱いというか(爆)、それが県としての郷土愛の低さにつながるとゆーか(爆爆)。

彼らの敵となる千葉だって県土は広いと思うんだけど、東京に近く、東京と関する場所が多いだけに、なんていうか、逆説的というか、ちょっと自嘲的な郷土愛、がある感じがするんだよね。
東京に魂を売っているように見えるかも知れないけど、決してそんなことはないんだ!!みたいなさ。そういう意味では埼玉は、そういう決定的な劣等感もないというか……。

なんか、自分の説ばかりで尺をとってしまった(爆爆)。いわば都市伝説として描かれる、埼玉、千葉の東京への通行手形を撤廃するための闘い、埼玉デュークとして伝説的に登場する京本政樹、県境の川を挟んでの出身地合戦に爆笑!(アルフィーか……嫌いじゃない!とか!!)もー、なんてローカルなのっ。昨今盛り上がってる日本映画なのに、これじゃ全然海外出せないわ(爆)。
しかも結局、別に激突する訳じゃなくて、なんか知らない間に連合軍になってて、都庁に突撃、その間に百美が都知事である父親の、不正に隠し持っている金塊のありかを群馬の山中に見つけるという……そこは群馬(爆)。

本作は、当然のことながら埼玉でメッチャ盛り上がっているんだけれど、ウワサによると、ロケーションはほとんど埼玉では行われていないという。そらそうだろ。だって、東京に通行手形でしか入れないなんてことはない、そんなド田舎じゃないんだから(爆)。
もうね、サバンナかよ、っていうド田舎描写されるんだから、そらー、埼玉で撮影なんかできないに決まってる。出来たら問題だわ、そりゃ(爆)。

でも現代パートで、広大な農地や林を映しだす中を東京へと向かって小さな車で走っていくシーンののどかさは、なかなかに素敵である。それは、まさに今の埼玉なのだ。
なんか、いろんなワーストであることを示して、何にもないことを自嘲して、最後には、何にもないけど、住みやすい、そのモデルケースが日本全国に、果ては世界に輸出されつつある、日本、そして世界の埼玉化計画!!と銘打って、爽快に終わるんである。

ちょっと、判るなぁと思っちゃうのは、福島がね……東北の他の県は皆個性ある中で、福島って、特産品もみーんな二番手で、郷土料理とか名物料理とか、ないよね……みたいな。何にもないけど、でも住みやすいよね!というのは、まさに埼玉とおんなじ!!とか思って……。
いやいや!埼玉さんには浦和レッズもNACK5もさいたまスーパーアリーナもありますから、到底かなわないですけど!!あ、そーいやー、コバトンを刻印した草加せんべいを、GACKT様がどうしても踏めないというステキなシーンがあったが、福島ならどういうことになるんだろう……そもそも県の動物もゆるキャラも知らんし……。

いやー、良かったね。本当に面白かった。魔夜先生のフューチャリングも嬉しかったし、魔夜ワールドのビジュアルを臆せず再現してくれたこと、それをキャストもめっちゃマジにやってくれたこと、様々に嬉しかった。
他関東の細かいネタ、崎陽軒のお弁当の醤油とかさ、いい感じにはさんでくるのも楽しい。北日本で育った身としては、こういう細かいネタで映画を作れる関東さんがうらやましいけどねー!★★★★☆


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