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「お」


2017年鑑賞作品

奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール
2017年 100分 日本 カラー
監督:大根仁 脚本:大根仁 
撮影:宮本亘 音楽:岩崎太整
出演:妻夫木聡 水原希子 新井浩文 安藤サクラ 江口のりこ 天海祐希 リリー・フランキー 松尾スズキ 松本まりか


2017/9/23/土・祝 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
奥田民生はそりゃまあ知っているけれど、きちんと聴いたことがある訳でもないのでどっちかっつーとPUFFYのプロデューサーというイメージの方が強かったりして。
無論、PUFFYの独特のゆるさも奥田民生自身のそれから来ることは自明の理な訳で、奥田民生というカリスマのゆるぎなさはそれだけとっても全世界に発信されているといっていいほどなのだろう。
どちらかといえば奥田氏自身の方に年が近く、熱心に聴いていた世代は一回りは下という感じで、この役を熱望していたというつまぶっきーはまさに、ドンピシャリの世代だったのだろう。

原作コミックは未読だが、奥田民生に憧れるがちっとも奥田民生にはなれないダメダメ青年はまるで抜け出てきたようにピッタリ。実際の劇中年齢よりは二つ三つ年かさの彼ではあるが、万年青年といったそもそもの雰囲気がこのコーロキ君に似合い過ぎるほど似合っている。
物語の最後には、彼自身の年齢に追いつく結末が用意されていて、少しは奥田民生に近づいたような余裕のある大人になっている。でもそれは、何か寂しい余韻を感じさせもする。あの恋は確かに狂っていたけれど、確かに青春だった。編集長の言う、「大人の青春」だったのだと。

と言う、編集長までもがこの狂わせガールに狂わされていたと判るクライマックスにはアゼン呆然なんだけど!といきなりオチに行くな(爆)。
そういうドラマチックが用意されているとはいえ、本作のメインはただただ、コーロキ君が超かわいいあかりに狂わされる、その描写でひたすら見せ切る、ザ・ラブコメディ。

コーロキ君は10年の編集者歴を持つものの、オシャレ系ライフスタイル雑誌に異動になってかなり戸惑いまくっている。
なんたってラーメンのシミをジーパンにつけたままMステに出た奥田民生に雷打たれて編集者への道を志した(かなり途中はしょったが)というのだから、奥田民生が好きだと言ったとたんになんとなく固まってしまうようなオシャレ系雑誌の編集部は、なかなかにハードルが高いんである。

そんな彼が運命的な出会いをするのが、タイアップ記事で一緒に仕事をするファッションプレスの美女、天海あかり。モデルかと見まごうような美しさ&可愛さに、まさに電光石火の一目惚れ。
このシーンは監督のこだわりぬいた水原希子嬢の可愛さへのリスペクトしまくりに舌を巻く。てゆーか、本作全編、ぜーんぶ、隅から隅まで、水原希子嬢をどう可愛く見せるか、いやそもそもどう切り取ったって可愛いに違いないんだからむしろ苦労はない?でももう100%以上、120%、1000%!!みたいな!ちょっと現実離れしたような可愛さを追及しまくる。

ちょっとげっぷが出そうなほどであるが(爆)、ほんっとうに可愛いので降参せざるを得ない。つまぶっきーもそうだが、希子嬢も、この狂わせガールに当て書きされたような、彼女以外には考えられないベストキャスト。魔性の女とか小悪魔とか言うのが定番だったのが、そんな言い回しが一気に古臭く感じられるような、そう、これこそまさに、“狂わせガール”!!。
彼女自身に無意識と意識的が天才的にミックスされているところが、魔性でも小悪魔でもない、まさしく狂わせガールたるもんなんである。
「男を誘う目をしているとか言われるの。そんなつもりないのに」と言いながら、まさしくザ・その上目遣いでコーロキをノックダウンさせるあの場面、ツッコむことすら忘れて、見てるこっちまで陥落させられてしまーう!!

ちっとも物語に行けないが、水原希子嬢があまりに素晴らしすぎるものだから!絶世の美女だが、絶妙なアンバランスさがそこにあることこそが彼女の狂わせガールに壮絶なまでの信ぴょう性を持たせていることに気づく。
実はすべてが完璧に整った美貌ではなく、例えばちょっと前にそり気味の前歯とかが、ゾクゾクするほどのキュートな色気を暴発するのは何なんだろ!!

早々にオチばれだが、この天海あかりという名前自体も存在することなく、まるで幻のようにその後かき消えてしまった彼女は、男の理想を体現するために創造された、あるいは男の理想への希求、いやさ妄想が作り上げた幻想だったんじゃないかとさえ、思ってしまうのだ。
女が見てもうっかりホレそうになる狂わせガールなんて、一歩間違えれば女からは一気に糾弾される確信犯的恋愛体質の女。いや、なぜ彼女に対して同性が反発を持たないのだろうと不思議に思うぐらい!
だって、結果的に「私は、皆の望む女になろうと思っただけだよ?」と小首かしげて言うような、言ってしまえばトンでもない悪女なのに、どうして??

そうできない、からかなあ。こんな風に、男のなりたい女になって愛されて、でも実は自分自身の核は絶対曲げない、愛されるのは媚びるからじゃない、ワガママもいっぱい言って、自分の信念は通しているところが、実は女の理想なのだ。
だから爽快だし、実はそれが幻の女だったと知らされると……やっぱりそんな上手くはいかないのかァ、とガッカリしたりして。

だからもう、ちっとも物語に行けないんだってば!でも先述したように物語なんてさ、つまぶっきーが希子嬢に狂わせられるだけの話なんだけどね(爆)。
コンセプト通り劇中には奥田民生の名曲が散りばめられる。心地よく重たいビートに抜けたボーカルで歌われる、時にビックリするぐらいストレートな愛の言葉に、ああ、このコーロキが心酔したことが判り、そしてそれは今彼が相手に届いていると信じている心の言葉だけれど、でも彼自身の言葉じゃないんだよな……と思ったりする。

もう照れちゃうぐらいチューしまくる。そこそこ舌も入れてくれる(爆)。時にカラミよりもキスの方がエロいと思っている、キスシーン大好き腐れ女の私にとっては(爆)、あー最高、とか思ってドキドキしながら見ている(……もうダメだ……)。
脱ぎそで脱がない希子嬢には多少は不満はあるが、この狂わせガールというキャラクターは、少なくとも観客に向けては、すべてを見せる必要はないというか、見せてはいけないのだろうと思う。
ギリギリの下着姿までで、それが最高にエロくて、でもすべて(心とか、本音とか)は実は見せていないというのをそんなところで暗示しているようにも思えるのだ。彼女に狂わせられた男たちがカン違いしているだけで、実はすべてを見せてもらってなどいないのだと。

ちょっとフライングしちゃったけど、コーロキとハッキリと対決姿勢になる、彼女に狂わされたもう一人の男、いわば元カレが先輩の吉住であり、演じるは新井浩文。かつてはコワモテの役しか来なかったような彼が近年振られるちょっとヌケた感じのフツーの男が、楽しいんである。
実は自分が付き合っているくせに「確かにあの娘、可愛いよな」と余裕ぶっかまし、その彼女を後輩のコーロキにかっさらわれてしまうと途端に常軌を逸してしまう心弱き男。ああ楽し。

彼はワキではなくもう一人の狂わされた男である編集長、松尾スズキと共にメイン登場人物の一人であるが、ワキと言ってしまうには惜しい面白いメンメンが目白押しに登場する。
ヨックモッククッキーを「ゲロうま!」と昭和の表現してしまうファッションブランド社長の天海祐希のドンピシャに膝を打ち、今でもセンス抜群、デキるフリーライターだと自らに言い聞かせているとしか思えないナルシストライター、リリー・フランキー氏は、いやぁ、楽しそうに演じているよなあ……と思う。
結局は時代に取り残されていて、妬みそねみで自らネットの炎上を画策しちゃうとかメンドくさいキャラが、ちょっと哀しみをそそっちゃったりする、と思うのは、時代はいつでも若い人たちによって牽引されていることが、年々痛感してくるからかなあ。

個人的に好きなのは、コーロキの先輩の江口のりこと、原稿が遅くて悩まされるコラムニスト、安藤サクラだなあ。改めてみると、なんか二人、似てるよねと思う。
江口のりこはこの職場の先輩でいかにもこなれた感じで、頼りないコーロキ君を温かい目で見守っているという感じ。彼女を初めて見た「ジョゼと虎と魚たち」でぶっきーと冒頭いきなりエロカラミをかまして驚いたかつてを思い出し、なんかすごぉく感慨深かったのよね。
売れっ子コラムニスト、美上を演じる安藤サクラ、あれほどハッキリと安藤サクラなのに、その登場シーン、たくさんの猫に囲まれてエキセントリックさを大放出してコーロキが弾きまくるインパクトに、まさしく原稿遅れまくりの問題アリアリのこじらせまくり女子だ!!と思って、安藤サクラだって感じがしなかった。でもこの美上はたまらなくチャーミングで、まさにまさに、安藤サクラなのよね、と思う。

猫が行方不明になって原稿が書けなくなり、あかりとラブラブ京都旅行を計画していたコーロキを慌てさせる。
この時の編集長の台詞がイイ。「締め切りに間に合わせるのは作家の仕事じゃない、編集者の仕事だ。自分の都合に合わせて作家に八つ当たりするなんてプロじゃない。そうさせたいなら、どんな手使ってでも原稿とってこい!!」的なことを(すみません、正確じゃない(爆))言う松尾スズキは最高にカッコ良かったが、まさかその彼もがあかりに狂わされていたとは……。まあそれは別の話であり。

この時、美上と一緒に猫捜索に奔走し、それでインスピレーションを得た美上がコーロキをネタにした抜群に面白いエッセイを描きなおし、なんだかんだで結局あかりとの約束を反故にすることになるこの一夜のエピソードは、あかりと仕事の間でほんろうされるコーロキが、結局は何を選択するのか、せざるを得なくなるのか、その先には何が待っているのか、運命は幸せを連れてきてくれるのか、という、すべてのことが凝縮されていて、実はあかりこそがワキ役だったんじゃないかと思ってしまうほど、なんだよね。

オチバレで言ってしまうと、すべてが終わって幾年か経った時、コーロキは美上とイイ仲になっている。それは、かつてのあかりとの燃えるような、人生のすべてを支配されてしまうような恋とは違う、お互いを尊重した穏やかな関係であることが、ほんの少しの会話のやり取りだけで察せられるんである。
そう、二人の仲とその関係性を示唆するのはたったこれだけ、「今日、遅くなるの?」「これからクライアントとの打ち合わせともうひとつ……ミートローフ冷蔵庫に入ってるから」「ありがと」これだけである。
美上の出版パーティーに編集者としてちょっと顔を出しただけのコーロキを送りに出た美上との、このほんの少しの会話と共に醸し出される二人の雰囲気で、それまでの経過が察せられる素晴らしさにドキドキとする。
今や敏腕編集プロデューサーとして名をはせているコーロキは若い女子スタッフからキラキラの目で見られる存在なのだが、あの事件からこの間まで美上は彼のそばに居続けたのだろう。

だーかーらー。そんな大事な事件をすっ飛ばすなって。あの京都旅行に行けない事件であかりから別れを言い渡されたコーロキ。それでなくても、あかりが言う「元カレから束縛された」というそのまんまの状態に陥っていたコーロキ、LINEにひたすら自分からメッセージを送り続けて、返ってこない、返ってこない、キーーー!!みたいな。
ラブラブの時には密な連絡こそがその愛のあかしだと信じているのに、ちょっとズレるとそれが束縛になってしまう、恋愛の恐ろしさ。

別れたくない、諦めきれないコーロキ、吉住先輩が自分たちのLINEを盗み見ていたんじゃないかという疑惑から、あかりの会社のパーティーに彼を誘い込んで、一発対決!をもくろむ。
しかし思いがけずそこに、コーロキが信頼している編集長も姿を見せる。LINEを盗み見ていたのは吉住ではなく、編集長だったことが明らかになり、このどーしよーもない四角関係はなんとまあ、刃傷沙汰にまで……マジかっ!!

結果的にはコーロキは美上と結ばれて良かったと思うけど、でも男たちにとっては、翻弄されるほどに夢中になる女との時間が、たとえ地獄に落ちたとしても良かったのかな。
編集長は逮捕され、吉住は姿を消し、コーロキもニュースやネットに名前をさらされてしまった。名前をかえて編集者として再出発して生まれ変わって成功したけれど、美上がふともらしてしまうように、彼はあくまでコーロキ君なのだもの。

華やかなパーティーのケータリングを断り、ずっと信奉し続けてきた奥田民生に倣って、いつもの立ち食いそばに立ち寄る。いつかの自分を見る。目の前に見る。
そして、編集長がかつての大人の青春の記憶のように語った、惚れた女を街角に見る。セルジュ・ゲンズブールみたいなシブいイイ男と連れ立って、彼が彼女にタバコを吸わせる、映画のような一場面。まばゆいような青春の終焉。幻の女であっても、もしまたどこかで、生まれ変わって出会ったら、きっとまた地獄に落ちるほど恋してしまうような女。

ナンセンスと言えるほどのコメディなのに、なんか鑑賞後感はしんみりしてしまう。それはぶっきーが持っている得がたい才能だと思う。チャーミングで明るくて、でもいい意味での暗さを持っている、っていう。★★★☆☆


幼な子われらに生まれ
2017年 127分 日本 カラー
監督:三島有紀子 脚本:荒井晴彦
撮影:大塚亮 音楽:田中拓人
出演:浅野忠信 田中麗奈 南沙良 鎌田らい樹 新井美羽 水澤紳吾 池田成志 宮藤官九郎 寺島しのぶ

2017/9/3/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
最近好きになった作家さんなので、まだまだ未読のものが沢山あり、これもその一つであった。ちょっと悩みつつ足を運ぶ。
悩みつつというのは……こと映画化作品においてあまり当たりを感じたことがなかったから。まあ単に受け手の相性の問題なのだろうが。

そして私の頭の悪さにもほとほと嫌気がさしてしまう。前半かなりの間、子供と親の相関関係に頭を悩ませてしまった。
どの子とどの子がどちらの子供なのか、奥さんの方だけの連れ子、いや、夫の方がああして会ってるってことは、あれは確実に彼の子、でも奥さんに赤ちゃんが出来て自分だけハブンチョになると思ってぶーたれてるってことは、あの下の子の方はこの夫婦の子供?
てゆーか、夫が会っていた女の子に「もしママに赤ちゃんが出来たらどうする?」「私だけ、あまりってことか……お父さんなら絶対そんな風にしない!」んんー?お父さんって、この会ってる彼のこと?彼女のお母さんって、えーと……?

後になって、“本物の”父親はパパと呼び、お母さんが再婚した“新しい”父親のことはお父さんと呼んでいたのだった。
それが判ればすべてがすっきりと判るのだが、あー、もう、いーんです、私の頭が悪いんですっ。だからミステリとかホントダメ、本なら立ち止まって考えられるけど……って、これはミステリでもなんでもないんだけど……。

とゆーわけで、まあ落ち着いて考えてみればなんてことない。浅野忠信扮する信とその妻奈苗は再婚同士。奈苗の連れ子である小学校6年生の薫とまだ幼い恵理子。物語の冒頭は、信が元の奥さんとの間の一人娘、沙織との面会のシーンから始まる。
久しぶりに会う娘の成長に驚く信と、無邪気にパパになつきまくる沙織。「もし、ママに赤ちゃんが出来たらどうする?」という先述の台詞に、「だってママ、もう40だよ。それに子供は私一人で充分って言ってるし」という彼女の言葉に、確かになにがしかの引っかかりを感じてはいたのだ。

後に13年前、6年前、と区切ってさかのぼられる過去によって、信にとっての二人の妻の過去が明らかになる。寺島しのぶ演じる信の最初の妻、友佳は最初に出来た子供を信に内緒で、堕ろしてしまった。
ちらりと描かれるだけだが、信が彼女に仕事をやめてほしいと思っていたこと、勿論赤ちゃんも欲しがっていたことが提示され、それは……まあ今時珍しいのか、意外に男性は基本的にはヤハリ変わらないのか、女の仕事は片手間か趣味かぐらいにしか思っていない、自分を愛しているならそばにいるために仕事を辞めるのは大したことではない、と案外フツーに思っている、らしいのだ。
この原作は今からほぼ20年前。今はさすがにその認識が変わっていると思いたいが、どうなんだろう……。

面白いのは、この友佳という女性と本当に対照的な形で、信の再婚相手、奈苗が描かれることなんである。彼女が最初に結婚したのは、一体なんでこんな男と一緒になったのか、子供が出来ちゃったからとかだろーかとか勘繰りたくなるクズ男で、奈苗曰く「ボロボロになって別れた」というのは、確かに確かに、と思うところなんである。
ただ、奈苗の描写というか、田中麗奈嬢の芝居というか、凄く気に障る感じがあって、これは麗奈嬢の芝居そのもののことなんだろうか……とか観ている最中思わず悩んでしまったのだが、

そういうことではなかったのかもしれない。なんていうかね、凄くブリブリな、ねーえ、みたいな、おもねるような喋り方をするのね。それが凄くイライラしてて、あー、これって、ミスキャストじゃね!ぐらいに思ったりしちゃったんだけど(爆)。
でも後に彼女の元夫である、クドカン扮する沢田が登場して、まあ、子供嫌いの身勝手な発言には、おめーだってかつては子供だったんだろ!とカチンとくるが、奈苗に関して、すがってくる、明かりをつけて待っているのがたまらない、っていうのがね、なんか、判るー、とか思っちゃって。
つまり同性としてそういう女は身内嫌悪というか、本当にイヤだと思って……。そしてふと考えると、奈苗は専業主婦なのよね、とか思ったりして。

いや、専業主婦は大変な仕事だし、全然かまわないんだけど、でも、なんていうのかな、奈苗が信に対して、ま、言ってしまえばザ・専業主婦!!な会話と態度で接しているというかさ、彼女は夫が自分の連れ子に対してどう悩んでいるかとか、思春期の娘が赤ちゃんのことをどう感じているかとか、なんつーか、全然悩んでない感じを、まあ麗奈嬢が見事にイヤーな感じで表現してくれてたのかなと思って。
何より、信が沙織と会うのをイヤがるのが、うわー、イヤだ!と思って……。それは、彼女の娘たちがクズ男である元夫と会うことを想像したからなのかしらん、と思わなくもないが、いやでも、単なる嫉妬のようにしか思えない。なんかそういう、表面上のブリブリ明るさの裏側にくっつく粘着質を感じてしまうというか。

奈苗が元夫と別れたのは薫の物心はついていた頃だから、薫が本当のお父さんに会いたい、と言い出したのが奈苗には単なる娘のワガママとしか映らない。
とにかくこの家がイヤなのだと。だって本物の家族じゃないじゃんと。パパじゃない、赤の他人、他人のおじさんじゃないかと言い募る薫の気持ちは……まさしくそのままのもの、だったのだろうと思う。

凡百の物語なら、血はつながらないけれど愛しい娘のために心を尽くして、そしてその心がいつしか娘に通じ、ごめんねパパ、みたいなハッピーエンドになるのが予想つくところだが、そうはならない。薫は、クズ男だと判っていても本当の父親に会いたいと言い募り、なかばそれは意地で……でもいざその場面がセッティングされると、会いに行けない。
かといって信と生まれ来る赤ちゃんと一緒に暮らしていく気持ちも定まらないままで、物語は終わるのだから、オドロキである。本当にリアル。ただそこには勿論、近い未来への希望は感じられるのだけど。

おっと、かなり先走ってオチまで行ってしまった(爆)。信はリストラに近い状態にある。順調に昇進していたのに会社の業績不振で、倉庫番に出向、いや、左遷させられてしまう。そのことをしばらく彼は、奈苗に言えない。
赤ちゃんが出来て、「でもまだ大丈夫よ」と色っぽくウィンクした妻がベッドでイチャついてきた時に告白した、のは、まあそりゃあ、そんな気分になれなかったことをこれ以上ストレートに表現する手段もあるまいと思い、そしてそれに対して奈苗が「……そうなんだ……」と絶句する、っていうのは、専業主婦だからよね、これが元の奥さんだったなら……としてはいけない想像をしてしまうんである。

つまり、専業主婦としての彼女としては、夫の考えが、だからもうこれ以上の子供は、と行くことが予想出来るんであり、勿論それに対して対抗はするにしても、それはただ、いやよ、と言うだけの話で……。
もうこの時に基本的な亀裂は出来ていたのだ、きっと。ただ、だからといって信が、元の奥さんだったならと考えたかといえば、そういう訳ではないだのが……。

元の奥さん、友佳が信と娘との次の面会日をズラしてくれないか、と言ってくる。それでなくても年に数回の貴重な面会日、信が抗議すると、直接会って説明するから、と言ってくる。
この場面は、携帯御法度の工場内でのやり取りで、同僚がバッテンマークを送ってくるのが生々しい。それでなくても成績を上げなければまたまた厳しい状況が待っているのだから。

久しぶりに会った元妻が打ち明けたのは思わぬ話。彼女の今の夫が末期がんなのだという。だから娘に最後まで付き添わせてやりたいからなのだと。
何も言えない信。ただ……この話をわざわざドライブに連れ出してまで報告した友佳の、元妻の気持ちは、「私が今、どういう気持ちか判る?」寺島しのぶのじわりとにじみ出る切羽詰まった哀切な色気に圧倒される。
何がある訳じゃない。そんな事態じゃない。でも、後に沙織が「いつもだったら、会ったらいいじゃんって言っていたのに、こんな時にパパと会うなんて、って思った」と幼いながらも女の直感で吐露するように、やはりやはり、ここには、そういう女の何かが、あったのだ。何もなかった。ある筈はなかったのだけれど。

で、そーゆー機微が、麗奈嬢にはない訳。確信犯的にない、のだとは思うんだけれど、なんかまんま田中麗奈だなーって気がして、結構イラつく気持ちはあったかもしれない。彼女と対峙する二人の娘が、切羽詰まった芝居を見せてくれただけに。
まーでも、薫の設定はかたくなすぎて、彼女の中の複雑な葛藤を感じるまでには至らなかったような気もする。それまでこの田中家がどんな家庭だったのか、普通に仲良かったのかとかが判らないだけに、赤ちゃんが出来たことで突然薫がかたくなになったのか、もともとそういう感じの子だったのかが判らないから……。ちょっと一本調子な感じは、したかなあ。

幼い恵理子はまだ本物の親とか、そういうことがどういうことなのかもわからないお年頃。沙織と対面しても、パパとの仲良しのお友達、で納得してしまうような。
恵理子の“幼い”言い回し、「だったら、仲良しなんだね!」「恵理子、頭いいでしょ!」うーわー、なんか子役台詞って感じーってゾワゾワしてしまう。恵理子の造形は終始そんな感じが、したなあ。
凄く都合よく、大人(彼女より年上の子供含め)の会話の矛盾を気づいたり。それが子供の敏感さと言われればそうなのかもしれんが、先述のような子役台詞も含めて、なんかリアルさに欠けるというかね……。

沙織が突然、信に会いに来る。面会日をずらされたこともあって、ヒヤリとする場面。信が工場から地上に上がる印象的な暗いエレベーターのある空間。何度も示されるこの場所に、沙織がぽつんと待っている。
豪雨と雷。停電になった喫茶店の中で、友佳から沙織の“お父さん”の危篤を知らされる。車で送る場面で対峙する二つの家族。沙織は、“お父さん”の迫りくる死に泣けないことに悩んでいたが、本当に死んでしまう場面に至って、お父さんは本当にお父さんだったのだと哀しみが襲ってくる。

沙織の悩みに「仕方ないよ、本当の家族じゃないんだから」と自分のナヤミがあったにしても軽く受け流していた信はその場面に遭遇し、ただ立ち尽くすしかないのだ。
だって、愛しい娘を育て上げたのは、今死にゆく目の前の男に他ならないのだから。そしてそして、自分は今、それが出来ていないのだと。

薫と沙織を会わせればいいのにねーっ、とか思ったが、奈苗が先述のような気持ちを持ってたら、そらダメか。
クズ男である元夫を演じるクドカンが強烈な印象。信がなかばヤケクソで薫と会ってくれるように頼みこみ、10万円まで払ってさ。応じたけれど、本当に来るのかと半信半疑だった。まさか来ないのが薫の方だとは思わなかった。

しかも沢田がきちんとスーツを着込んできたのにも驚いたし、思い出すもんですねなどと薫の幼い頃の記憶を呼び起こしたり、恵理子がカートに乗ってはしゃぐ様子に目を細めたりするのにも……これは、ズルいよ、ルール違反だよ、と思った。
しかも薫へのプレゼントまでちゃんと用意しててさ、しかもしかも、「小学校六年生ってそんなに大きいんですか!」と驚いた彼が用意したのが、可愛らしいぬいぐるみだったりして……ズルいよ!!あれだけ悪態ついていたクズ男だったのに、ここに至ってそんなの、ズルイっつーか、作劇上の都合がよすぎんべか!

薫と真摯に向き合った信だけど、でも薫の「この家がイヤ」という気持はくつがえせなかったのか。
次のシーンでは赤ちゃんが産まれそう。恵理子はワクワクと待機している。お姉ちゃん遅い!と地団駄踏んでる。なぜお姉ちゃんが遅いのかは……祖父母の家に行っているから。中学校を出たら、祖父母の家に身を寄せる、かもしれない、という予行演習だという。

赤ちゃんが生まれて、実際にその姿を目にして、変わるのか。判らない。だって最後は、ありがちな感じで彼女が赤ちゃんを抱いて涙を流すとか、そんなのは一切なく、ただ、そっと分娩室にいざない、妹ははしゃいでいるけれどお姉ちゃんの描写は一カットもない。
ただ信が、生まれたての赤ちゃんに、笑顔を見せる、そしてすぐにストップモーション、なのだもの。家族、家族、ああ、家族!そんなすぐにはあれこれ上手くいかないよ。でもね、でもね……。★★★☆☆


おじいちゃん、死んじゃったって。
2017年 104分 日本 カラー
監督:森ガキ侑大 脚本:山崎佐保子
撮影:今村圭佑 音楽:
出演:岸井ゆきの 岩松了 美保純 岡山天音 水野美紀 光石研 小野花梨 赤間麻里子 池本啓太 大方斐紗子 五歩一豊 松澤匠 堀文明 市オオミヤ 菅裕輔 玉置孝匡 柳英里紗 町山博彦 島袋聖南 板橋駿谷

2017/11/15/水 劇場(テアトル新宿)
「光と禿」ですっかりホレ込んだ岸井ゆきの嬢主演ということで勇んで観に行く。いやいや、もうとっくに各方面で活躍しているのだろう、私の情報が遅いだけ(爆)。
いやー、この唇のめくれ加減がたまらん。触ったらふんわり柔らかそうな感じがたまらん(エロオヤジか……)。そしたら監督さんもお若い方で、そして今回が長編デビューなのだという。よろしよろし。新しい才能はワクワクするなぁ。オリジナルにこだわるなんて、嬉しいじゃないの。

葬儀に集まった家族たちが織りなす悲喜こもごも、というより大喧嘩、大騒動。やはりデビューでこんな物語を紡いだ「蛇イチゴ」の西川美和監督を思い出す。人間ドラマ、生と死、家族といううっとうしくも愛しいもの、を描くのに、新人監督さんはまずお葬式に手をつけたくなるのかもしれない。
お葬式を題材とした映画は名画も数多く、実はなかなかにハードルが高いと思われるが、そこはなんつーか、第一作の気合が感じられたなあ。ほんっとうに見事な群像劇で、ひとりひとり言い及ぶのがめんどくさくなるぐらい(爆)。いやそれ位、一人一人が濃いキャラとエピソードを持っているということ!

まず、お気に入りの岸井ゆきの嬢である。微妙になよなよとした男子となーんとなくみたいなセックスを行っている。まぁそこは裸の背中だけなのは惜しいが、別にそれを追及する映画ではないので許してやろう(?)。
でも、このセックスこそが、大きなキーポイントになっているのは事実。タイトルとなっている「おじいちゃん、死んじゃったって。」という台詞をゆきの嬢扮する吉子が発するのは、セックスの最中しつこく鳴り続ける電話に出て、切って、庭にいるお父さんに二階から呼びかけたのがその台詞。
つまり彼氏とセックスしているのが自宅で、フツーに親とかがいる時っていうのがなかなかのショーゲキだが、そんなことは片田舎では普通のことなのか??いやいや……。でも後に吉子のお母さんが登場すると、この彼氏さんをまるで息子のように仲良さげに扱っていたしなあ。

で、ちょいと脱線したが、吉子は自分がおじいちゃんが死んじゃった時にセックスしてたってことに、なんだか罪悪感を抱いちゃう訳。それを彼氏君に吐露する。「私、チャコ(昔飼ってた猫)が交通事故で死んじゃった時も、セックスしてた」あんたじゃないよ、と付け加えて、焼き鳥を焼きながら(彼氏君が勤めている居酒屋)彼氏君がなんともいえない顔をするのがおかしい。
最初から感じていたけど、どうやらこのカップルの上下関係はハッキリとしているようである。なんとなく頼りなさそうに見えるこの彼氏君なんだけど、でも案外と……ね、というのはまた後の話に譲る訳で。

で、その死んじゃったおじいちゃんである。突然、だったのだった。認知症を患ったおばあちゃんを残して、突然逝ってしまった。死ぬ時は家で死にたいと言っていたのに、あまりに突然だったからその願いも叶えられずじまいだった。
と、いうあたりから、喪主となる長男と吉子の父親である次男の言い争いは始まる。家で死にたいと言っていたからと通夜を自宅で手配した長男に、そんなこと言ったって病院で死んじゃったんだからしょうがないだろう、と食ってかかる次男。

岩松了と光石研が、このなんとも仲の悪い、というか、虫の居所が悪い?というか、近しいからこそぶつかり合うバカ息子同士を思いっきりやりあって、もうこれが本作のメインだろう!と言いたい。いや、実際、そうであろう、本当の主人公はこの二人、だったんじゃないかな!
結局は似た者同士なのよ。リストラされた次男、しがない工場勤めで女房に逃げられた長男、お互いをののしり合って、酒におぼれて、あられもないカッコでグーグー寝ちゃう、みたいなさ。超ソックリなんだもん。

女性陣が軒並み魅力的である。ゆきの嬢はもちろん、長男と離婚したチャキチャキ女房の美保純はサイコーである。このなっさけない元夫に「あんたのそーゆーところ、大っ嫌い!!」とぶん投げつつ、「私は関係ないけど!」と言いつつ娘と息子を葬式に送ってくる律義さが素敵である。
その娘は高校生ながら煙草をスパスパ、ビールをグビグビ、割と鷹揚にながめている吉子も時に慌てるぐらいのなかなかの女子高生である。……こんな家庭に育ったら、それぐらいしたたかにならざるを得ないのかも。だってお兄ちゃんは引きこもりで、喪服も持ってない、合う靴もなくて黒のバッシュはいてくる、ネクタイも結べない体たらくなんだもの。

そして一番のカッコイイ女は、何の仕事をしてるのかも明かされない、ただただデキる女として、見るからにヤバい感じの真っ赤な車で乗り付け、喪服もノースリーブ!!という、めちゃくちゃイイ女の末妹、薫である。
演じる水野美紀がメチャクチャイイ女!情けない兄たちに激昂する形で、田舎でダラダラ暮らしているヤツらをくさすようなことを思わず言ってしまうが、でも当然、何事もなく独り身を都会で過ごしてきたわけもなく、彼女の中には数多くの葛藤がある訳なのだ。

それをつぶさに明確にする訳じゃない。ただ……「結婚は縁がなかったから。必要も感じなかったし。ただ、子供は欲しいと思った」だって、育てるのって、楽しそうじゃない??この最後につけた台詞は本音半分、照れ半分、と言うところだと思う。多分、本当の本当の本音は……ヤハリ、自分につながるものが何もなくなってしまう怖さ、寂しさなんてものじゃない、恐怖、なんじゃないかなぁと思う。
それをまるで当たり前みたいに、フツーのことみたいに、だからそんなことも出来ないお前はダメなんだと、その恐怖を判ってもいないのに言い放つ兄たちにイラッとしたに違いないのだよなあ。

だってね、おじいちゃん、つまり彼女にとってのお父さんが死んで、泣いたのは、子供たち孫たち含めて彼女だけだった。離れていて、しがらみがないということも無論あっただろう。でも……一人になってしまった、ボケちゃったお母さんを施設に送っていく時、薫はまた泣いたのだ。「お父さん、死んじゃったんだよ……」
その前に、吉子にぽつりと漏らした。これで家族がいなくなっちゃったと。家族、それはそれぞれに家族を持って“しまった”きょうだいたちは含まれないのだ。その感覚、凄く凄く判る。子供は欲しいと思ったのは、自分だけの家族を持ちたかったからじゃないのか。

……ついつい、自分を顧みて、薫に肩入れしてしまった。まだまだカッコイイ女たちはいるのよ。次男の嫁、パート主婦って感じだし、そういう意味では薫からクサされたりしちゃう立場ではあるんだけど、このお母さんが、今や失業した夫に代わっての大黒柱のお母さんが、なっさけない夫にイラッと来てぶつけた台詞がめちゃくちゃ、良かった。
それは葬儀も終わり、荼毘に付され、帰途につく場面である。通夜、告別式の最中、認知症のおばあちゃんはずっと恍惚の人で、喪服のスカートまくって畳で放尿しちゃうのにはあぜんとしたし(これは女優魂を感じたわ……)ずっと鈴をシャンシャン鳴らしちゃうし、息子たちはイライラしどうしな訳。

でも女たちは、老いも若きも大して動じてない。なぜかってことが、夫を一喝するこの台詞で判るのだ。あんたたちバカ息子を育てるために、農家でずっと働きどうしで頑張って来たんじゃないの、と。それは夫がこともあろうに、ああなっちゃおしまいだみたいな、あれじゃゾンビだよ、ゾンビ、なんつってさ、母親をクサしたことにキレちゃったからなんであった。
息子にとっては、母親がそういう姿になってしまうことは、確かにショックなのだろう。でもここに至るまで女たちが、孫も嫁も娘も、全然動じてないのは、視点が違うからなんだよね。息子にとってはやっぱり、母親(あるいは親そのものかもしれない)は、完全無欠なもの、なのかもしれないなぁと思う。その点男は甘くて、だから時に可愛いものなのかもしれない。

そのおばあちゃんも、だから、孫や嫁からはきちんと評価して見られている。認知症の豪快な演技もステキだし、その過去の部分……彼女たちに素敵なお母さん、お姑さん、おばあちゃんとして認識されているのもグッとくる。
あ、でもそうそう、男子でも孫の一人、吉子の弟はなかなかに繊細なヤツで、おばあちゃんが泥だらけの千円札でおこずかいをくれたことを思い返したりするんである。泥だらけのお札……なんか、北の国からみたいね、なんて。いや、この監督さんはお若いから、そーゆー世代ではなかろうとは思うが。

もう一人の若き孫は、昨今かなり活躍を目にする独特の雰囲気を持った男の子、岡山天音君である。彼演じる洋平君はただいま絶賛引きこもり中……別れた女房は娘を引き取り、長男が息子を引き取ったという形なのだが、でも結局離れて暮らしている雰囲気。この長男が口で言うほど、自分が絶対に最後まで守ってやるんだ!!みたいなのが及んでいるのかはアヤしいところ、なんである。
同様に一人暮らしの次男の方の孫息子は「オレはYouTubeとかで学んだんだから」と、イトコのネクタイがねじれているのはテメーのせいだと言い放つ。そう……ここが、凄く、差で。

劇中、香典泥棒事件が勃発するのだが、父親から即座に疑われて、すっかり拗ねちゃう洋平君。このあたりが、いかにも子供っぽいというか、父親に似ているとゆーか(爆)。妹に迎えに来られちゃう時点でもう、ダメだろ(爆)。
でもこの妹もね、ちょっと危うい感じはあるんだよね。タバコスパスパ吸うしビールガバガバ飲むし、怖いもんなし!!みたいには見えるんだけど、その制服姿、パンチラも辞さない(照)無防備さが、凄く何とも……無力な気がするの。自分の弱さを判ってない、っていうか……。

でも一番強力だったのは、おばあちゃんだったのかもしれない。確かにボケてる。ボケまくってる。でも、なんか……なんかさ、すべてを判ってたんじゃないかって気がしちゃうんだ。
自分の息子たちの愚かなケンカにふるまいの桶寿司をブチまけて止める勇ましさ、涙にくれながら施設に送っていく娘に何も知らないような顔で大人しく助手席に乗っている姿さえ、すべてを判っているような気がしちゃうのだ。

吉子は、彼氏さんを呼び出す。それは、カッコイイ叔母、薫から「欲しいものは、全力でとりに行かないとダメだよ」(ちょっと言い回し違ったかもしれない……)と言われたから。それで即座に呼び出すのが、あの一見ナヨナヨとした彼氏君だというのがなかなかに泣かせる。
「眠いよ!!」と言いながら満面の笑顔で朝もやの中飛ばしてきた車の横で手を振る彼氏君、車の中で行われる何とも幸福なセックスは、おじいちゃんが、そして飼っていた猫が死んじゃった時、セックスしてたことを、罪悪感になんて思わなくていいんだと思わせてくれる、素敵な素敵な、セックスなのであった。
冒頭のセックスは、吉子はすんごくつまんなそうな顔で上の彼氏を受け止めていたんだよね。だから罪悪感があったんじゃないかと思う。そこに愛がなかったから、なんて単純すぎる言い方かな??でも、何かがあって、判ることって、あるよね。

舞台が人吉っていうのが!!おおー、ウッチャンのふるさと!!どこなのかなーとずっと思って見ていた。繁華街と祖父母が住んでいる集落の田舎さ加減、近隣の都市、あるいは東京から駆けつける孫、地方ならではの集まる距離感が面白い。
全員集まったから、絶対後で良かったと思うから、と撮る全員写真は、まぁお約束だけど、イイよね、これはお約束の感動でも、イイよね。それをニコニコカメラマンを担当する彼氏君が、カワイイのだっ。★★★★☆


劇場版 お前はまだグンマを知らない
2017年 89分 日本 カラー
監督:水野格 脚本:樫田正剛
撮影:岡崎真一 古川好伸 音楽:牧戸太郎
出演:間宮祥太朗 吉村界人 馬場ふみか 入江甚儀 加治将樹 山本博 レイザーラモンRG ゆもみちゃん 福田薫 益子卓郎 磯山さやか 椿鬼奴 ほんこん

2017/8/7/月 劇場(渋谷TOEI)
「ライチ☆光クラブ」「帝一の國」と驚愕しっぱなしの間宮祥太朗君の主演ということでとりもなおさず足を運ぶ。
タイトルもかなり心惹かれるものを感じる。これまで私が数少なく見てきた間宮君は圧倒的な美貌と狂気に満ちていて、こんな普通の高校男子を演じるイメージが全くなかったので、それもまた興味深かったし。

これは、ドラマが最初なのかあ。てゆーか、完全にドラマ主導でホームページも作られていて、四話しかない(どういう放送形態だったんだろう……それとも五話以降もあったんだろうか??)ドラマも映画の本編の内容とまんまかぶっているので、はたして映画として撮られたところがあるのだろうか、ドラマをそのまんまつなげて映画にしたんじゃなかろうか、ドラマとして紹介されている画もソックリだし……などと思わず悩んでしまう。
ドラマとしてあったと知っていたなら足を運んだかどうかも微妙だからこんなことを言うのもアレだが、わざわざ劇場版と銘打ち、映画として公開するなら映画だけのスペシャルがほしいと思うのは、勝手な言いぐさなのかしらん。

とはいえ、ドラマの時点で(ということはまんま同じと思しき映画はもちろん)、オリジナルストーリーを構築している、らしい。それは青春としてのラブの部分なのか、キツネと呼ばれるグンマーを批判する謎の人物のことなのか。
なんとなく感触としては、群馬の不思議あるあるをネガティブもたっぷり入れながら面白おかしくコミック化、といった感がありそうで、そうなるとストーリーがひとつないとキビシイドラマや映画では、どうしてもそうしたオリジナルを作らざるを得ない訳で。若干それによって、道徳的な話に落ちた感も、なくはないかなあ。

なにより喧伝されていたのは、こうしたナンセンスコメディ系に必要不可欠な、主人公の多彩な変顔である。
間宮君は恐るべき柔軟さで百面相とでも言いたい変顔を披露していて見事なのだが、なんかそれが逆にすっごく一生懸命一個ずつこなしているようで、あんまり素直に笑えないんである。今までクール狂気の間宮君しか見たことなかったせいで偏見と言うか先入観は確かにあるかなあ。

まあともかく。間宮君演じる神月は、チバからグンマに転向してくるんである。この、カタカナ表記というのにはヤハリそれなりの意味を感じてしまう。その後出てくるトチギもイバラキも当然カタカナ。
グンマをはじめとして近隣の県それぞれにささやかれるローカルな伝説(というか、自嘲話というか)がどこかおとぎ話チックで、これが限りなく現実の群馬であり栃木であり茨城ではあるんだけれど、でもやっぱり違う、パラレルワールドのように、別の世界のグンマでありトチギでありイバラキなんだという気もしてくるんである。

チバから来た神月は、東京やディズニーランドに行ったことのある回数を答えて、羨望のまなざしで見られる。しかしその彼もまた、チバではいじめにあっていた経験がある。そしてグンマのこの地でも、いじめまでは至らないまでも、よそ者として肩身の狭い思いをするんである。
というのも、このグンマというところに生息するグンマーなる人種は、自分たちの血筋をこよなく愛し誇り、オリジナルゲームで日本全国、いや全世界、いやいや銀河系までグンマで征服しようというのが、あながちゲームだけの話じゃなくマジに思っているっぽいほどなんである。
小学生の時に上毛かるたによって郷土愛を刷り込まれ、歴代総理輩出一位、ハーゲンダッツの工場が全世界三か所のうちのひとつ、等々の彼らのグンマ愛は、東京に近く、ディズニーランドに何度も行ったことのある神月には理解不能であると同時に、どこかまぶしいことなんである。

地方のこういう、奇妙な愛しいあるあるは、面白い。どこにでも多かれ少なかれ、あると思う。正直言えば、もっと強烈で面白いエピソード満載の場所も、あるだろうと思う。何度か転校を経験した私にとっても思いつく場所はある。
でもこのグンマが面白いのは、ヤハリ東京に近くて遠い、ということなんだろうと思う。海なし県というのもあるが、それは東京を絡めないで言うのならば、それほどにネガティブにはならないように思う。まぐろの消費量が全国一、ねぎとろの発祥の地、ということに間宮君は「海がないのに?海がないのに!?」としつこく驚くが、半世紀前ならともかく、流通が発達している今ならそんなに驚くこともないような気がするのだけれど。

でも確かに、海の見えないところに住んでいると、それがたとえ、都道府県としては海があっても、自分の住んでいるところからは遠方であったり、そこが寒々とした、浮かれた海ではなかったりすると、テンションが上がるのは判る気がする、と、面積だけは広い北日本を転々としてきた自分としては、思うんである。
海で海水浴、って、自分が住んできた土地では感覚としてなかったからなあ。グンマ女子の水着姿はイバラキの独り占め、というエピソードに笑えるのは、海=海水浴、バカンス、という感覚があるからに違いなく。

なんか海にこだわっちゃって、前に進めない(爆)。神月君は、一人の女子に恋をする。ツンデレならぬツンツンの篠岡さんである。転校初日、アカギ山から吹き下ろすからっ風に自転車が全然進まない神月君の横を、自転車をこいで追い抜いて行ったのが、篠岡さんなのであった。
からっ風に鍛えられたグンマの女子たちは一様に競輪選手のような恐るべき太ももを持ち、バスケの時なんて驚異的なジャンプを見せるのだが、篠岡さんだけは奇跡の細く美しい太ももの持ち主。
それがなんで判ったかというと、からっ風が彼女のスカートをめくり、グンマ愛全開のパンツをあらわに見せたから(これ以降もいくつか見せるのだが、この時何の柄だったか忘れた(爆)グンマちゃんだったか、それとも……)。

女子のパンチラは、この後、アカギ山の神様を沈めるために男子たちがチ〇コを神様にお見せするというナンセンス極まりない場面で大風が吹き、次々と見せてくれて楽しいのだが、でもねー、ヒロインの馬場ふみか嬢はあれ、吹き替えでしょ。切り返しで彼女の顔にカット替わっちゃってるもん。
それじゃダメなんだなー。こーゆーの、結構私は重視しちゃう。パンツぐらいは見せてくれなくちゃ、つまんないのよー。

まー、そういう点では、チ〇コそのものはさすがに見せられないまでも(爆)、パンツを下げ、お尻をあらわにマグナム砲でアカギ山の女神を黙らせる間宮君には拍手を送りたい……って、なんか全然話が判らないんですけどー!!
……まあその、グンマー以外は男じゃないと篠岡さんに拒否され、トチギやイバラキのヤンキーたちに戦いを挑まれ、アカギ山の神様の怒りに触れてチ〇コを出し、という物語よ、ってなんじゃそりゃ!!

あ、一人、とっても重要な人物を紹介しなければならぬ。神月と奇跡的にこの地で再会した、同じ転校生仲間の轟である。彼はすっかりこの地に溶け込んでいるが、篠岡さんの言う「でも、ネイティブグンマーじゃないんだよね」という言葉が、すべてを物語っているんである。
これは、どの地でも大なり小なり転校生が経験する辛さであると思うが……でも殊更にこれを強調する、っていうのは、やはり閉鎖性を感じるよね。

そんなことを言いながら、グンマパートの高校生たち、つまりはグンマーはちっとも訛っていないのは、ちょっと残念だったような気もする。彼らに挑戦状をたたきつける、トチギやイバラキのヤンキー面々は、激励を授けるU字工事が象徴するように、素敵な北関東訛りを発揮するから余計にである。
こういうのって、大事じゃないかなーという気がするのだ。こんな?作品でも、思いっきり全力投球して、マジに方言完璧にマスターして、それで、お前はよそものだから、と言ってほしかった。轟君も方言はマスターしてても、そのニュアンスの違いを指摘されたりとか、してほしかった。

そう思うのは、地方のアイデンティティの最も大きな位置を占める一つは、やはり言葉だと思うから。ネイティブ、という言葉そのものに、言語につながるイメージもあるし。
二度だけだけれど転校を経験したその先で、一番のカルチャーショックはここで描かれているような文化的なことは二の次で、まずは言葉だった。それは絶対に明らかなことだと思う。言葉こそが、よそ者感を際立たせる。これは絶対に明らかなことだと思うんだけれど。

ちょっと笑っちゃったのは、イバラキのヤンキーたちに踏み絵を迫られる場面、篠原涼子はヤンキーたちまでもが「彼女は宝だから」とひるむのに、次に出したイモリの写真には、「踏めます!」後から神月に責められるも、「イモリならいいだろ!!」お、お約束ー。
篠原涼子はやはり宝なのね。群馬なのね。めっちゃ桐生のイメージポスターになってるし。う、美しい……。ここに千パーセントお約束登場の磯山さやかには爆笑!「あ、磯山さやか」じゃねーだろー!!道に迷ってこんな廃工場にたどり着くかっ。

転校生目線としては、ヤハリ轟の存在は気になるところである。彼はいくらいくらグンマになじもうとしても、先述の篠岡さんの言葉が象徴するように、壁を感じて、グンマを愛することが出来ていなかった。グンマを恨んでいた。
まー、最初っからグンマを愚弄するペインティング行為を行っていたのは彼だよねと、見ている誰もが予測ついたであろう。だってこの私が判ったぐらいなんだもん(爆)。

グンマのカルチャーをすべて身につけ、上毛かるたも完璧にマスター。それでも「でも、轟君はネイティブグンマーじゃないんだよね」ああ、なんて悲しいの。判る判る、彼の気持ち!!
判るから、キツネが轟君だと見抜いた神月君が、かなーり道徳的に彼を諭すのには、うーん……と思っちゃうのよね。いやいやいや、ナンセンスこそが魅力の映画にマジになりすぎるのも良くないんだけど!
でもねえ……根本的に自分が受け入れられないコンプレックスを長年抱え続けてきたっていうのさ、判る、判るんだものー。

グンマの聖地のようにたびたび登場する、メガメニューで目を引く喫茶店(?レストラン??)シャンゴがめっちゃ気になる。近隣県のヤンキーたちが口ではクサしながらも驚嘆している、という描写は、グンマー側からの自負のそれに間違いない。
こーゆー名物喫茶店みたいな場所って、それこそローカルありありだよねー、と思う。なんか懐かしい、こういう感覚。特にそれこそ高校生がたまり場になるような、チェーン店ではない特定の場所って、地方には絶対ある。なんか懐かしくてキュンキュン来る。

群馬は近年、それこそイモリやヒデちゃんが大きく表立って観光に乗り出したから、こういう映画も出やすくなった気がするなあ。
だって上毛かるたって、彼らが散々テレビで言ってて、グンマーじゃないワレワレも知ってるぐらいなんだから。本作を見るには、これは知らない方が、面白いんだけどねえ。★★☆☆☆


女になる
2017年 74分 日本 カラー
監督:田中幸夫 脚本:
撮影:田中幸夫音楽:
出演:未悠

2017/11/8/水 劇場(宿K’scinema)
「ITECHO 凍蝶圖鑑」の監督さんと聞けば、観に行かずにいられない、いや、そう言いつつあれ以来作品に足を運んでいる訳じゃないんだけど(爆)。興味を惹かれたのはやっぱり、凍蝶圖鑑にも濃厚に含まれていたジェンダーがより絞られた形でテーマとなっているからに違いない。この人が描くならドキュメンタリーとしてもエンタテインメントとしても間違いない。そういう思いがあったから。
ドキュメンタリーといえども映画はやはりエンタテインメントでなければいけない。そしてドキュメンタリーと言ったって百パーセントの真実を映しだす訳じゃない。そこにはカメラを通した製作者側の意図が、意識的無意識的に関わらず必ず介在している。
それは“観察映画”としてそれを取り払う創造を目指すあの監督さんですら、なのだ。この田中監督にはそれが明快な形としてある。だからこそ面白いし、だからこそある一つの“真実”には必ず近づいているんだと思うのだ。

さて、この魅力的な題材は、一人のヒロインが核となって進められる。これから性別適合手術を受けようとしている大学生の未悠(みゆ)である。ナチュラルな魅力にあふれたこの女の子をどうやって見つけて来たのかと思ったら、凍蝶圖鑑を見た彼女自らが売り込んできたというのである。なぁるほど!!と膝を打つ思い。
同じ立場の人たちを応援していきたいという彼女の想いは、ナチュラルにスクリーンに躍動する姿に本当にヴィヴィッドに感じ取ることが出来るのだ。凍蝶圖鑑を観て彼女は、この人なら自分を、そして自分たちを偏見なく、そしていい意味で面白がって撮ってくれると確信したに違いない。そして念願の“女になる”過程を、自分のためと、同じ立場の人たちのために、残しておきたいと思ったに違いない。

ジェンダー映画といえば「彼らが本気で編むときは、」には大感動したものだが、生田斗真君は素晴らしかったが、でもやはり、男性が演じる女性、であることはどうしても否めないのだ。
こうして未悠嬢や同じ立場の女の子たちを見ていると、そのことを痛感する。ホルモン治療を受け続け、性別適合手術を間近に控えている未悠はもちろん、友達として登場する一人なんかはただただ美人で、いやー、タイプ……と見とれてしまうぐらい、女の子以外の何物でもない。

しかし同じ“性同一性障害”(これを障害というかどうかはなかなか難しい問題だが)の、同じ年頃の中だけでも様々なケースがあって、それは一番大きいのはお金の問題。ホルモン治療ひとつとってもそうだし、いまだそうやって心の性に一致するための治療や施術は、保険がきかず、当事者に重くのしかかるのだ。
心身ともに女になるためにこつこつお金をためて、今それを実現しようとしている未悠を、友人たちは心から尊敬し、応援しているが、そう簡単に出来ない人たちもいっぱいいる。

学生のうちはやらない、社会人として自分でお金を稼いでから、と語る子は、まだ声や顔つきに男っぽさをどうしても残している。それは、私たちがなんとなく見慣れた“オネエ”的な雰囲気であり、それがお金という即物的なことで解決できていないことを目の当たりにして、本当に驚愕するのだ。
日本はほんっとに、この問題に対して偏見もあるし、対応が遅れていると思う。人間の尊厳の問題を、道化みたいに扱う風潮がまだまだ拭い去れない。

それにしても、この未悠嬢のチャーミングさときたら、どうだろう!!自らを主人公に売り込むだけはある。なんていうか、セルフプロデュース能力があるというか。
凍蝶圖鑑もそうだったが、大阪っていう土地柄が見せるこのあっけらかんさとどっこい生きてやるのパワフルさはどこから来るのだろう。一方では保守的だったり排他的な部分も持っているのに、自分!!を出すことへのためらいのなさに、本当にいつも驚いてしまう。

劇中に登場する大学の先生や、手術を担当する医師、撮影に関しても彼女が手配りしたんちゃうかなー、と思う、セルフプロデュース力の高さ。そう思うのは、物語冒頭に行われる、同じ立場の友人二人と共に行われるガールズトークの赤裸々さと爆発力が完璧に構成されていること、手術前に壮行会よろしく行われる学生時代の同級生たちのひと時の和やかさ、楽しさに、自分自身がどういう人間だったか、どういう人たちに支えられ、ここまで来たのか、を彼らに語らせる能力を感じるからなんである。
それは無論、未悠嬢自身に友人たちを惹きつける魅力があったからに相違ないにしたって、相当のセルフプロデュース能力がなければ出来ない問題である。こうした“障害”を抱えつつも、いい友人にめぐりあえて、いじめられることもなかった、という彼女は確かに特異な存在かもしれないが、裏返して言えば、そんなことでイジメるってことがフツーに思われているってことに対する彼女自身の糾弾ではないかとも思っちゃうんである。

印象的なのは、そうした子供の頃からの友人たち、特に女の子たちが、「これで本当の女同士になれる。温泉旅行にも行けるネ」とはしゃぐ、いい意味での軽やかさ、なんである。とったタマタマを捨てちゃうんなら私にちょうだい!玄関に飾るの?ペンダントにするとか!とか女子っぽい赤裸々さで大いに盛り上がる。
冒頭の同じ立場の友人たちとの赤裸々ガールズトークからその魅力は爆発だったけれど、ヤハリ大きな問題はなんたって、恋愛におけるセックス、なんである。手術前の未悠は当然、いわゆる挿入という形でのセックスは出来ない。それでも数多くの恋愛経験を持つ未悠は、後輩に貫禄たっぷりのアドヴァイスをするし、なんかね、しみじみ、確かに恋愛の先のセックスは重要だけれど、挿入だけがセックスじゃないし、そしてでも、挿入はしたいんだよなあ……とか、性と心が一致した形で産まれてしまうと考えることもなかったことを、深く深く、考えてしまうのだ。

学生時代の双子美女の友人が問う。セックスはできるようになる、妊娠も出来るの??と。結構アゼンとする質問だが、世の中の認識というのはそういう程度なのかもしれない。女になるっていうのが、つまりなんつーか、世間的役割っつーか、あるいは単純に、生殖機能としてイメージされるってのが、いやー、日本、教育しろよ、もっと子供たちに!!と思ったりして!!
いや、この友人たちはとても素敵で、彼女のことをとてもよく理解しているんだけれど、それでもそうなんだ、というところに、問題の根深さを感じたりもして……。

単純な興味としてヤハリ、手術がどう行われるか、どうやって性器が男から女になるのか、ていうのは凄く、ある。「彼らが……」でもちらりと示唆されてはいたが、どうやらその方法とは未悠嬢が受けたものは違う方法、らしい。お腹を開いて腸も使って、ということらしい。
手術を行う名古屋の先生は、これまで数百件の事例を手掛けたまさにプロフェッショナル。彼がその道に進むきっかけになったのが、思わず想像してしまう人道的な使命とかじゃなくって、「他人が出来ないことをしたい」という、医師としてのプライドというか欲求、だったということ、それを何のためらいもなく口にするのがメチャクチャカッコイイ!と思ってしまう。

日本の閉鎖的な意識の中で、アンダーグラウンドでしか手術を受けられなかった人たちの話、しかしその手術を請け負った医師も受けた患者もその勇気は凄いと称え、でもあまりにも出来る医者がいなさすぎることに警鐘を鳴らす。
加えて、「自分はLGBTsと呼ばれる人たちの中の、Tにしか関わっていない、そしてTはLGBとは明らかに異なっているのに、同じく語られるのがおかしいと思っている。そしてLGBTの団体はたくさんあるが、大抵仲が悪いですヨ」と言っちゃう!!

最後のひとことについては改めてそれに突っ込んだ話を聞きたいところだが(爆)、言われてみて、その明らかな違いに初めて自分が気づいたことに、ちょっと呆然とするんである。自分たちが手術をするために関わるのはTだけだと。
彼は本当にその明確な違いだけで言うのだけれど、それ以上の意味が、ここには含まれているように思う。それこそ、すべてをひとくくりにオネェという世間の認識も無論、そうである。

未悠嬢が手術をする様子を、まず物語の冒頭、手術を受ける名古屋の病院に診察に向かう新幹線からつぶさに見つめ続ける。その間に学校生活、家族へのカミングアウトの回想、その家族たちの想い、等々が、これはまぁ、お約束的経過としてきちんと描写される。
オミズ商売な感じの彼女の母親は、まるで友達同士みたいに若いいでたちで、一般的な母親に比べれば理解が早い感じはする。「私は一人しか産んでいないけど、男の子と女の子の両方を産むことができた」という台詞も秀逸だし。思い詰めた表情でカミングアウトしようとする未悠に「よっぽどのこと、殺人を犯したのかと思った」というエピソードも母親っぽい。

でも何よりじんわりと心に残るのは祖母で、本当にいわゆるフツーの地味なおばあちゃんなんだけど、孫息子から孫娘になった未悠に、きっと一ミリの愛情の変化もなかったと思わせ、ただひとつ変わったのは、「前はこうやって、手を握るなんてことは、なかったよね」と。
女の子だから、女同士だから、すべてを打ち明け、手術への不安の前に心を許せるおばあちゃんに、ぎゅっと両手を握ってもらう。手術にも立ち会ってもらう。なんかそれが、ほんっとうに、心に染みたんだよね……。
なんだかどうやら、父親はそばにはいない雰囲気。別れたとか言ってたかな?お父さんには言わなくちゃ、というのも、セルフプロデュース完璧な彼女には珍しく、判ってもらえた、と口に出しただけだった。

手術のシークエンスはさすがに見てるこっちも緊張する。結構キワキワまで手術シーンを見せてくれる。特にドキリとしたのは、手術直後、まだ麻酔がさめていない状態なのか、そこからは覚めているのか、身体中をブルブル震わせて病室で昏睡しているところをカメラが見つめ続ける場面、なんである。
勿論、本当に危ない状態ならそんなのんきにカメラを回していられる訳もないのだが、それだけ身体に負担がかかることなんだ……だって局部だもん、血もいっぱい出る、って言ってたもん!!と思って戦慄する。

だからこそ、元気な女子大生として学校に戻ってきて、「精巣がなくなったから、ホルモン治療の負担が軽くなった。尿道が短くなって、トイレが近くなった」と信頼している担当教授に明るく話している、今まで通りの彼女に心底ホッとし、知らない世界を見せてくれて本当にありがとう、という気持でいっぱいになる。
最初から最後まで、間違いなく彼女は女の子で、それ以外の何物でもなかった。そして素晴らしく勇気あふれる、素晴らしい女性だった。同じ女として、誇りに思う。

そして一言。上映機会が少なすぎる!単館ってのもそうだけど、平日の午後じゃ、チャンスが少なすぎる!!もっともっと多くの人に観てもらいたい、ってか、観てもらわなきゃいけない。ただ単純に面白い映画としてもよ!! ★★★★★


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