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「ほ」


2020年鑑賞作品

冒険者カミカゼ
1981年 115分 日本 カラー
監督:鷹森立一 脚本:内藤誠 桂千穂 中島貞夫
撮影:北坂清 音楽:すずきまさかつ
出演:千葉真一 真田広之 秋吉久美子 あべ静江 川津祐介 尾藤イサオ 矢島由紀 和泉一弥 高橋淳一 竹田敏 岡田英次 曽根晴美 成瀬正 スーパー力 新海丈夫 河西健治 鳥井敏彦 高橋利道 江月美穂 峰蘭太郎 梅田まゆみ 尾崎俊子 水上功治 国一太郎 藤木悠 伊庭剛 波多野博 岡島艶子 大月正太郎 吉沢高明 水野佳律江 田島守 鮎川浩二


2020/4/15/水 録画(東映チャンネル)
キャーッ!千葉ちゃんと真田広之師弟共演、しかもダブル主演!!ああもう素晴らしすぎる真田さんの肉体!!(キャーッキャーッ)もうアクション映画はやらないのかなあ。この時代の彼の雄姿を私はロクに観ていなかったので、本当にカンドーしてしまう。
それにしても、ツッコミどころ満載で、もう今からキーボードを打つ手がふるふる震えるぐらいなんだけど(爆)。いーのっ。これが楽しいの。なんつーかもう、あらゆるリゾートアクティビティをすべて網羅して強奪事件を作り上げちゃうという、書いてるだけで意味判んないムチャクチャさで、それが千葉ちゃんと真田さんなら出来上がっちゃうんだもんなあ。

まず、千葉ちゃんはいっきなり一人乗り飛行機に乗って現れる。さっ、さすが……そしてもう一つドギモを抜くのは、そのヒコーキを仰ぎ見ながら時代を感じさせるボワボワパーマヘアの美女がなんとまあ、馬に乗って疾走しているんである。
予想しない画面である。しかも落馬して馬も哀れ骨折(は後に明かされる)、飛行機は墜落。おいおいおいーである。どーゆーオープニングなのよ!!

しかも千葉ちゃん演じるヒコーキ野郎神風大介(カミカゼが苗字なのかよ……)は元オリンピック体操選手なんだってんである。体操選手がなんでヒコーキ野郎なのか訳が判らん(最後まで判らんのだこれが(爆))。
そして現代の体操選手、星野明が真田さんである。体操部の有力選手で練習場で見事な技を次々に見せてくれて、のっけからカンドーするんである。なんたって真田さんなんだからよもや吹き替えはなしだろう(顔が見えてるし)。すごいなー。それをあの時代である長髪なびかせてやっちゃうんだから。

しかして体操部なのに、そして有力選手として学校に招かれたというのに、彼は医学部学生で、その医学部に入るために親が金を積んだというんである。もう意味が判らない(爆)。
しかもそれを仲間たちに「ウチの親父は1億積んだからなんだからな。親父もおやじだが、それで入学する俺も俺だよ」とかアッケラカンと言うんだから。しかもしかも、「お前は今、医学部でトップの優秀さじゃないか」なんてマジか、もう本当に意味が判らん(爆爆)。
体操部で、医学部に裏口入学で、なのに成績トップで、なんなのだー。更にバンド活動をしている明は、後に急に「この(トップチャートに入っている)曲、俺の作曲なんだぜ」盛り込みすぎだろ!!

この大学は今やその不正入学がバレて、“トカゲのしっぽ切り”として当該学生の明が除籍処分となった。大介もまた大学の職員を解雇になった。大介はそれに関わっていたというのだが、どう関わっていたのかよく判らん。
優秀な体操選手を引っ張るために金を積ませたのか……それにしても医学部……あそうか、明の父は医者なのか……登場してこないからピンとこないし!

で、この二人はそれぞれ別の場所で、“不正入学金の強奪計画”をするんである。いやその、裏口入学の話はあったにしても、新入生が収める入学金が集まるその日、その金を、ってのは、“不正入学金”ではないだろ……単に自分がワリを食った腹いせに立てた強奪計画に、それぞれの仲間たちが、まるでキャンプにでも行くような明るいノリで、オッケーオッケーと盛り上がるのが凄い。
いや、学生側はまだ真剣な感じだったが、大介とその後輩、そして大介の愛人みどりのノリは、まるで飲み会の延長線上のような気軽さだった。この軽さが命取り、という訳じゃないあたりがさすが千葉ちゃんなんだけど(爆)。

大介の愛人、愛人なんだ、恋人じゃなくて、なんでだろう(爆)。まあとにかく、人形作家をしているみどりを演じるのはあべ静江である。めっちゃキレイ!!しかしかなーり早めに殺されちゃう。とゆーのも、彼女がビックリするぐらいバカだからである(爆)。

ちょっと先走って言っちゃうと、見事強奪したその金を、すぐに豪遊したら警察に感づかれるから、しばらく安全な場所に隠しとこうぜ、という、実にまっとうな会話を、確かに聞いていたのに、そうねとうなづいていたのに、反社筋から資金提供を受けていた彼女は、鼻を明かしたいつもりだったのか、耳を揃えて返しますから、と意気揚々と電話しちゃうんである。
あ、アホか!!今、たった今、大きなカネの動きを見せたらヤバいという話にうなづいていたばかりやんか!!しかも警察より一千万倍たちの悪いヤクザに知らせるって!!そこを発端に、もう地獄の底まで大介と明、そしてケイは追われる羽目になる訳で。

ケイってのが、冒頭落馬したパーマぼわぼわ美女である。うっわ、秋吉久美子、めっちゃカワイイ!!ケイは自分を落馬させた大介と偶然再会し(偶然も過ぎるわ……)、この小娘ちゃんの迫力に押された大介は名刺を渡すんである。その時にはすでにクビになっているのに(爆)。
ケイが、明たち強奪チームが乗った盗難車に眠りこんでいたというあまりにもあまりな偶然は、もうそんなこと言い出したらキリがないので言うまい(爆)。
明たちは大介の強奪にバッティングして、力負けしてしまうのだよね。大介のやりようもまー、ハデというか、配送車の下に張りついて、バーナーで穴開けて、車内にハチを送り込むという、どーゆー発想なの、それ!!

しかして先述したように、みどりがチョンボしたせいで、ヤクザたちが乗り込んで、みどりと大介の後輩を射殺して、金を持って行ってしまった。大介は……そんなことって、ある??めっちゃ下戸で、一口の酒でひっくり返って、銃撃戦にも気づかずに眠りこけてた、なんて!!
ここでそんなんあるか!!と言ってはいけない。ちゃんと?伏線であって、クライマックス、銃撃戦で割れた酒瓶から偶然口に注がれてしまったウォッカでそれまでランボー並みに無敵だったのが、急にヨワヨワ酔拳になっちゃうとゆー、笑っていいのかどうなの、って場面が用意されているんだから!!

……もー、いろいろありすぎて、言い切れんが、まあとにかく、バッティングして金をまんまと持ってかれちゃった明は悔しくて、大介はなんたって元オリンピック選手で有名だから住所を突き止めて、ケイと共に乗り込んだら、こーゆー事態で。
それ以降、大介と明とケイはチームを組む訳。でもね、もうこの発端からそうだったけど、相手がヤクザになっちゃったからさ、奪っても、絶対あきらめてくれない。奪い返しても、更に絶対あきらめてくれない、の繰り返しで、じゃあこの先どうするつもりなの??と次第にツッコミとゆーよりは、不安になってくる訳。

でもまあ、なんかそんなことアホみたいに考えてなくて(爆)、ケイの前で大介と明、つまり千葉ちゃんと真田さんがお得意のアクロバティックを、せっまい大学生の一部屋の中でくるんちょくるんちょ回りまくるシーンに、何これ、JACの紹介ビデオかよ!!とか腹抱えまくる。
素晴らしすぎる不条理描写を観た時に、腹がよじれるというのはどーしたことかしらん。宙返りにバレエジャンプにトンボまで切って、いやいやいや、それ学生アパートの一間でやるか!!しかしケイがけらけらと笑うのも相まって妙に青春で、……この時が一番、幸福な時間だったのかもしれんなあ。

ヤクザのアジトを突き止める三人。どうやって突き止めたのかをあっさりすっ飛ばしたけど(爆)海中に沈めたところを目撃、夜中にこっそり取り戻しに行くと、それを察知されてケイが人質になり、ケイを明が単身取り戻しに行くと、大介がグライダーで助っ人に現れたり、もーダイビングやらグライダーやら、これはリゾートアクティビティの宣伝映画なの??と思っちゃう。
究極は、一時気が緩んで(爆)、金を取り戻したぜ!と正装して乾杯する三人、千葉ちゃんは黒、真田さんは白のタキシード姿でジェットスキーするって、意味判んない。タキシードびちょびちょやんか!

もうこのあたりまでくると、取られ取り返しの連続なので、これ終わりないじゃん、そもそもなんであっこで安心しちゃってジェットスキーだったのかも意味判らんしとか思って、どう決着するのかなあ……これは、この感じじゃ全員死ななきゃ終わらんぞ……と危惧しだす予測が見事、というか、当然だと思うけど的中しちゃって(爆)。
冒頭、大介の良きヒコーキ仲間として登場した正平(川津祐介!!)がグライダーと共に蜂の巣にされていた時に、もうこれはあかんわ……てゆーか、後輩と愛人がぶっ殺された時に、こーゆー事態にしかならんことをちょっとは予測せんかいとも思ったが、もー止まらない。

一番の切なさは、そらあそらあ……ケイが銃弾に倒れたことである。ここまでの道行は、彼女がいたからこそ、妙に甘酸っぱい青春のようだった。若い二人のケイと明は当然のように惹かれ合った。敵から逃れて二人必死に馬に二人乗りで逃げた時、「このままどこまでも乗って行きたい気持ち」「俺もさ」なーんていう台詞に、観てるこっちは死にそうになった(爆)。
なのに一方でケイは、子供のように一心不乱で、だけど大人の男である大介に惹かれ始めた。それに明も気づいて、「俺は鳥さ!」とか言って崖から飛び降りてみたり。なんじゃそりゃ(爆)。
でもとにかく、敵のアジトにお手製のパラグライダーで突っ込んで金を取り返し、ケイの運転で逃げ延びた筈、だったのが、もうその時、ケイは虫の息で……。

この時、ケイに対して、どっちが好きなのかと、青年らしい問いかけを明がして、バッカだなあ、と大介がいさめて、でもケイは、「三人で一緒に暮らしたい」と言ったのだった。そしてこと切れた。
小さな教会でケイの葬儀をして、二人は山分けした金を背負って別れるのだが……こんな幕切れはないと思ったら、ヤハリヤハリ、てゆーか、最後まで追ってくるよ、ヤクザは。クライマックスがまた、凄いの!!

ケイは北海道の大きな牧場の娘だと言っていたのはウソで、沖縄の小さな島の出身で、両親ともになく、家は荒れ果てていた。明が訪れた時、大介もいた。二人熱く抱擁するもんだからこっちはキャー!!と萌えかけるが、当然のようにまたしても銃撃戦!そらそうだよ、どこまでも追ってくるよ!!
結局はこのラストが最大の見どころになったことを思うと、途中、「女にはムリだ」と排除されそうになっても食い下がっていたケイのことが女としてはなんだか不憫に思ってしまう……。

しかしてこのクライマックスは凄い。まず舞台が凄い。廃墟島なんだよね。これはひょっとしてあの有名な軍艦島ではないかと思われるが違うかなあ(調べてみたらやっぱりそうらしい!)。すべてが打ち捨てられた、町としての体裁を成しているのに、人が住まなくなるとこうまで荒廃するかというのを残酷なまでに示している廃墟島。
そこを思う存分、縦横無尽にかけめぐって、「そうかここは弾薬庫だったのか」ていきなり手りゅう弾を大量にゲットしたり、そんなんあるか!!みたいな。もうそれ以降は手りゅう弾使いまくりで、結局それで相手皆殺しにしたから手にした金でハッピーエンドかよ!!みたいな。

廃墟島を思う存分のアクションに使うって、この当時、そして素晴らしい師弟のアクションスターが揃って出なければできなかったことだと思う。
色々ツッコミばかり言っちゃったけど(楽しかった(笑))、千葉ちゃん&真田さんの素晴らしきアクションにホレボレし、若き真田さんの青臭さ、それを受け止める千葉ちゃんの男臭さ、総じてのクサさ(爆)、あーたまらんである。

千葉ちゃんがいきなり青パンツいっちょになったり、真田さんがいきなりジーパン脱げちゃったり、サービスカットもたまらない(爆)。
「記録とバージンは破られるために存在しているのさ」「人は不可能なことしか挑戦してはならない」「(グライダーで敵地に突っ込んで)俺たちは天使さ、翼があるのさ」等々、フェミニズム野郎の私も腰砕けになる名言満載である。

一方で、海へと続く滑車で窮地を脱しようとする場面で明が、「やっぱりやめよう、こわいもん」と思わずもらす弱音に母性本能キュンキュンさせたりしちゃうある種のスキのなさ。
こんなんは現代じゃぜえったい作れないエンタテインメント、女が最終的にはやっぱり無力になっちゃうのは悔しいけどね!! ★★★★☆


僕の好きな女の子
2019年 90分 日本 カラー
監督: 玉田真也 脚本:玉田真也
撮影:中瀬慧 音楽:松野泉
出演:渡辺大知 奈緒 徳永えり 山本浩司 仲野太賀 山科圭太 野田慈伸 前原瑞樹 萩原みのり 後藤淳平 福徳秀介 たくませいこ 児玉智洋 秋乃ゆに 濱津隆之 東龍之介 柳英里紗 長井短 朝倉あき

2020/9/2/水 劇場(新宿シネマカリテ)
待ち合わせの時間と場所まで、ひっきりなしに他愛ない会話をLINEして、いざ顔を合わすとまさにその延長線上で弾けるようにじゃれ合って。
秋枯れの公園でそぞろ歩く時も、ストリートミュージシャンの噂をくすくすしあう時も、めちゃくちゃ息が合ってて仲が良くて、おいおい、ラブラブすぎて当てられるぜ!と思ったら、二人がお母さんを探してあげてた迷子の男の子が、無事お母さんと再会しての彼らからの去り際にこう言った。

「お前ら、付き合ってるのか?」

その大人びた言い方のマセガキぶりに噴き出すよりも、そんなの当たり前じゃーん!わざわざ聞くかい!と思ったのに、思いがけず二人はどうとも言えない微妙な笑顔で顔を見合わせた。
あれ?そうだよ、と即座に言うと思ったのに、言わない。照れてる様子でもない。

付き合ってない、のか??

その後も何事もなかったかのように、それまでと同じように、遠慮会釈なくしゃべり、どつき合い、居酒屋で悩みを打ち明け合う時ですら彼女の方は歯に海苔をつけたりしてふざけ合って、ふざけんなよとか言いながら彼の方も爆笑しちゃったり、こんな仲のいい二人が、なぜ付き合ってない、のか??

そう思ったとたん、うっわ、この彼女、ちょっと私苦手、っていうか、好きになれないかも!と思い、しかしそんな感覚はどうなのとも思い。
もしかして私の感覚はひどく偏見で狭い了見なのかなとも思ったのだが、後に彼女に会ったり、彼から彼女の話を聞いたりする友人その他たちは、時に直截に、時に遠慮がちに、一様に言う。こういう女はナイわと。

そうだよね、私の感覚、間違ってないよね!だって彼の方は好き好き光線出っぱなしじゃん。彼女のこと好きだって外側から見て誰もが判るのに、それに気づかなフリなのか、男として認めてないのか、大事な友達だから!とか青臭いこと本気で信じてるのか。
気を持たせる女、と言われるのは当然、ありえん、ヤだわ!!とほっとしたように思ったのだが。
この私がそーゆーことを言うか……と一方で自分で自分に失望したりする。男女は友達同士になれない、という説に、フェミニズム野郎の私はずっと反発し続けていた。実際に特段仲のいい異性の友人がいる訳ではない。ただずっと、憧れていた。男女の友情はあるべきだと思った。

だって人間同士じゃんと思ったし、ここ数年のLGBTQの価値観の浸透に更に勇気を得たりした。男女の友情が存在しないなどというのなら、LGBTQにおける恋愛と友情そのものを否定することだと思ったから。
いや、思っている。それは信念にも近い形で信じている。彼の方も真に彼女を大事な友達だと思っているなら、これは私が理想とする男女の友情の形に違いないし、彼女の方はそういう価値観で、大事な友達としてホントに彼のことを見ていたのだろう。

判らなくなる……。

だったらなぜ私は彼女にムカつくのか。半世紀も前のような価値観で、男に気を持たせる女、男の子とも友達になれるんだもん!と無邪気にふるまう女、として苦々しく思ってしまうのは何故なのか。そんなの、フェミニズム野郎の私が一番嫌悪すべき価値観だと思っていたのに。

まず、彼が、彼女が自分を友達だと思っていることを、“友達だとしか思っていない”というとらえ方をしていることに腹を立てるべきなのだろうと思う。彼女が彼を真の友達として大事にしているのなら、そっちに腹を立てるのはおかしいのだ。なぜそう考えられなかったのだろう。
それは彼女が、こんな判りやすい彼の自分への好き好き光線に気づかない鈍感さに腹が立ったのだろうか……。

彼女はフツーに可愛い女の子で、私みたいなフェミニズム野郎でもなければ、LGBTQに造詣が深そうにも見えない。
この言い方もおかしいんだけれど……彼女はアーティストで、友人と共に小さな個展なぞを開いたりするのだが、その友人がいかにも達観している大人の女であり、私は一瞬、彼女と恋人同士なのかしらんと、ついつい願望含めて妄想してしまった(爆)。

でもひょっとしたら、友人側がそういう感覚を持ってるのかも、と妄想が進む部分はある(妄想野郎……)。この友人は個展を見に来た彼に対し、「(あなたって)メンドくさい人ですよね」と遠慮がちに笑いながらもバッサリ切り捨てる。その詳細は語らなかったけれど、つまりは好きな女の子に好きのひとことも言えず、友達関係を壊したくないとか女子的ウジウジが外の人間には丸わかりなのに、自身誰にもバレてないと思ってる、周りをヤキモキさせるばかりのメンドくさい男なんである。
つまりは斬って返せば、こんな判りやすい好き好き光線に気づいていない彼女の方がよりメンドくさいと言いたくもなるが、それをあらたに登場する人物がまさに喝破してくれるんである。

なんかぼんやりと書き進めてきちゃったけれど、彼は新進脚本家であり、彼女とのいきさつを元にしてドラマの脚本を書いているんである。
その映像化作品を観て、彼の周囲身内その他がシンラツな評を加えることで、彼はどうやら自分の感覚が、てゆーか、“僕が好きな女の子”に対する世間の見え方がだいぶ違うらしいことに初めて気づいて、動揺するんである。
彼にとってはただただ片想いしている女の子。彼女自身に何の咎もなく、自分が関係を壊したくないからこんなことになっているだけで、彼女が自分に対して無邪気に接してくるその態度はただただいとおしいだけ、チャーミングに他ならないと思っていたのが、総スカン、なのだ。気を持たせる小悪魔、空気の読めない女、クソミソである。

その中で、かなり遠慮がちながらも一番シンラツだったのが、後輩女子である。なぜ好きだと言えないのか。弱いだけですよねと。一応、彼ではなく、彼を模したドラマの中の男に対してというテイでだけど。
結局は彼女の態度に甘んじて、というか彼女のせいにして、そんな彼女が愛しいからという理由付けにして何の行動も起こせない、そのことが彼女自身を周囲にイヤな女だという見え方にしている、とさえこの後輩女子の鋭い指摘は思わせる力がある。遠慮がちだけれどこの指摘にどんどんへどもどする彼の情けなさが際立つんである。

彼の、彼女への想いというか態度は、まるであみんの「待つわ」か、石川ひとみの「まちぶせ」である。昭和世代しか判らんが(爆)。
彼女には今時点で好きな人(付き合ってる?)がいるが、どうやら上手くいってない。彼はその相談を受けてるような受けてないような。つまりまっすぐ相談も出来ない相手ってことは、信頼できる友人、という立ち位置さえ揺らぐんである。

一体何なの、この二人の関係は。彼女の方は彼を真に友人として思っていたんじゃないの。結局は気楽に遊べるだけの友人しか過ぎなかったのかと思えてきて、イタイわ、イタイ……と思っちゃう。
いや、いいのよ。気楽に過ごせる友人というのは、大事。むしろ、大事な相談を友人にするなんていう選択自体、自分で解決しろよ、ということになるのかもしれないし。

でも、とにかく、彼女は失恋したことを彼にしんみりと報告するのね。彼はその報告を聞いて、嬉しいような困ったような絶妙の表情を、彼女には見えないところで浮かべる。
なぜそこで、即座に行動を起こさないの。だったら俺でいいじゃんぐらいの、男らしい言葉は、……彼からは出ないだろうなあ……。このチャンスを待ってたんじゃねーのかい。そらまあ観客側からしても、その次二人が会った時彼女が「好きな人が出来た」てんだからあまりの早さにボーゼンとしたが、まさに千載一遇のチャンスを彼は逃した、のだ。

こともあろうに、その好きな人、首尾よく彼女が付き合うことになった新彼氏と彼は会うことになる。後に示されるに、時間軸がジグザクしていて、冒頭に示されている公園での“デート”に参戦してくるのがその彼氏さんだということが後半戦で知れるからボーゼンとなる。何何、どーゆーこと、とコンランしながら見進める。
彼氏さんはいかにも常識人、スーツにコートをパリッと着こなし、きっちり分けたヘアスタイルといい、……ここで急に、彼も彼女も、そして周囲の人間たちも、いわばフリーダムな価値観や生活スタイルで、どこかまだ夢見がちで、先が見えていないフワフワ感があったのかもと思い至る。

別にサラリーマンが地に足ついてるとは言わないけど、(外から見れば)空気読めない彼女も、彼が彼女の空気読めない感に気づかない(フリをしていた)のも、いわゆる世間的常識人価値観に照らし合わされたキャラが出てくると、途端に見えてきちゃうものがあるのだ。

この彼氏さんは、すぐに彼が彼女を好きなことに気づく。いや、みんな、彼女以外はみんな気づいていることだから当然なんだけど、実際に彼女に相対する人物としては初な訳である。
まさかお前、それに気づいてなかったのかよ、という感じである。いっつも会ってる仲のいい男の子がいるんだもーん!ということに心配していた訳である。当然である。

カレシが会いたいって言ってるんだけど、と彼女から無邪気に言われる彼の方としては動揺しかないが、好きだと言えないままここまで来たら、トモダチとしてのスタンスを崩す訳にはいかないから応じるしかない。
で、そらまあ、気持ちバレバレになるのは当然なんである。ただ、彼氏さんの方はなんたって常識人だから、それをあからさまには言わないけれど、「お前のこと、好きなんじゃないの」と遠慮がちに問いかけ、それはないよう、と無邪気に否定する彼女に、「お前さあ……」と嘆息するんである。

この「お前さあ……」の余韻というか、響きというか、彼氏さんを演じる太賀君の力量ここにまさに集結せりと思うぐらいの、これまでのワレラの気持ちを残酷なまでに彼女に判らせちゃう音具合に震えちゃう。
それが証拠に、それまではアッケラカン小悪魔空気読めないただ可愛いだけの女の子(言い過ぎだな……)が突然、ハッとしたようになって固まってしまうのだもの。それを彼はスワンボートを漕ぎながら何が起こったのか判らんといった状況で眺めてる。キミだけがまだ大人になれてない……。

ああ、男女は友人に、友達に、親友に、なれないのか。それはセックスの嗜好の問題からお互い確認せねばならないのか。
ただ、大事なのは、自分の都合だけで相手の気持ちや価値観を安易に判定しないこと。そんなこと、思ってもみなかったが……こーゆー可愛い女の子だからそんなこと思ってもみなかったのかもしれんが……。
彼と彼女、キャストもとても魅力的だし、役名で語るべきだったけど、私自身の中で、性差、友情、恋愛、人生の価値観、さまざま葛藤があったので、なんか他者の物語として書きたくなくて、判りにくくなっちゃったかもしれない。

そして、現在の時間軸として戻ってくる。新鮮な冒頭と思われたあの秋枯れの公園、彼女とその彼氏さんと別れた彼は、ストリートミュージシャンと会話を交わし、彼の後から追ってきた女性を「妻です」と紹介する。幼い娘も手をつないでいる。つまり……なんなの、どういうこと。彼の妄想?それとも回想?それとも……。★★★☆☆


星屑の町
2020年 102分 日本 カラー
監督: 杉山泰一 脚本:水谷龍二
撮影:佐光朗 的場光生 音楽:宮原慶太 佐々木次彦
出演:大平サブロー ラサール石井 小宮孝泰 渡辺哲 でんでん 有薗芳記 菅原大吉 のん 戸田恵子 小日向星一 相築あきこ 柄本明

2020/3/18/水 劇場(丸の内TOEIA)
25年もの間愛された舞台の映画化、というのは後に知ることになるのだけれど、舞台の映画化っていうのは独特の臭みというか、結構判っちゃうので、あーやっぱりという感じはある。まあその、個性強めなキャストが大声出してぶつかり合うというか(爆)。嫌いじゃないけどね(爆爆)。

今回はなんといってものん嬢の芝居復帰作という部分が大きい。復帰、といったらまるで謹慎していたみたいだし、声優としては大きな足跡を残しているのだが、ヤハリ彼女の姿が見える形での芝居、演技が見たいと思い続けてなんと月日の経ってしまったことだろう。
勿論彼女の豊かな才能はいろんなジャンルで発揮されているのは知っていても、彼女の芝居の才能に一度でも触れてしまったら、それを見たいと思うのは当然のことで。

なんでこんな理不尽なことになっているのかイマイチ判らないが、今回さらりと彼女が主演に迎えられたのは、どうしてだったんだろうか。まあそんな経過なんか全然関係ないけれど、でも舞台が久慈で、あの懐かしい「〜けろ」なまりを耳にするにつけ、ヤハリヤハリ、彼女をスターに押し上げたあの朝ドラとその舞台になった土地、いろんな関係者の力があったのかなあと勝手に推測し、嬉しくなったりもする。
勿論、彼女はあまちゃん(あ、言っちゃった)の二番煎じのキャラに甘んじるような女優ではないし、本作がそうだという訳ではないけれど……この才能をこのままにはしておけぬという愛情がついに花開いたのが本作で、今後の本格的活躍に期待せずにはいられぬのである。

で、前置きが長くなったけど、とゆー訳だから恐らく原作の舞台は久慈ではなかったんだろうなあ。地方に巡業に行って、というのはあっただろうが。舞台を未見なのに勝手な推測ばかり言うのもアレだが、まあ映画作品に対峙してモノを言うしか出来ないヘタレなので(爆)、カンベンしてください。
なあんとなく、舞台においてはあくまで、時代に取り残されたような昭和歌謡のコーラスグループ、「山田修とハローナイツ」こそが主人公であったんじゃないだろうかという気がしている。

いや、ある意味映画となった本作でもそうであり、ヒロインであるのん嬢演じる愛は彼らの悲喜こもごもを引き立てる狂言回しなのかもしれないと思うところは確かにある。実際そうなのだろう。
でも、それを判った上で演出も、ハローナイツの激渋系男優陣やベテラン前座歌手キティを演じる戸田恵子ともども、この映画はのん嬢演じるヒロインありきであり、彼女を盛り立てるおじさんおばさんたちなのだと、あたたかな立ち位置で芝居をしているように見えてならないんである。

山田修とハローナイツは、私たちが幼少の時に誤解していたように、「内山田洋とクールファイブ」の内山田洋がボーカルではなく、コーラスの中にいるリーダーという立ち位置で地味に支える。
ボーカルは華があり、おばさまがたにキャーキャー言われる立場であり、ワレラ一般庶民が想像するようにボーカルとコーラスグループの分裂、解散の危機が潜んでいる……のは、クールファイブを勝手に引き合いに出したのは失礼だったけど(爆)、でも誰もが頭に思い浮かべたと思うなあ。違うのはそのボーカルがハンサムだということだけで(余計失礼!)。

演じるは大平サブロー氏で、コーラスグループの小宮氏、ラサール氏、でんでん氏、渡辺氏、有薗氏ともども、舞台そのままのメンツだというんだからオドロキである。それで25年やったということなの??スゴい!!
そういう意味では、ハローナイツの売れない危機というのは年齢的キャリア的にも妙に真実味を持って進んでいったのではないかと想像され(これまた勝手な想像……)、そこに、巡業に行った先で田舎娘だけどピチピチに年若くガッツのある女の子が、ハローナイツに入りたいべ!とか(テキトーでごめんなさい)言ったら、ゆるがされるに違いなくて。

愛はスナックの美人ママの一人娘で、ハローナイツの中に父親がいるんじゃないかと怪しんでいる。というのも、まずリーダーがこの土地の出身で、愛の幼馴染の男の子、啓太の父親の兄であることと、母親が札幌でやはり水商売をしていた時に巡業に行ったメンバーと邂逅しているということもあったりする。
結果的にこの陳腐な(爆)父親探しは言い合いのネタでカスる程度で掘り下げられることはないし、まあそれが正解だろうとも思うのだけれど、ママを演じる相築あきこの影のある美しさが印象に残るので、ちょっと気になったりもしちゃう。

最終的にはママが旧知の仲のリーダーとゴールインするというサプライズもあるが、こと湿っぽい血族の話に陥りがちな日本のストーリーテリングだけれど、あっさりと通り過ぎてくれたのは、良かったかなあ。
それは愛自身の恋愛関係についてもそうで……幼なじみとの淡い気持ちのやりとりをどう決着させるか、というのは意外に難しく、それはいまだに日本において家父長制度的意識が残っている……ことに今回の舞台である地方においては余計に……であるからこそ、どうするのかなあと思っていたが、いい意味で曖昧に結論を出さなかったことが、良かった気がする。

それは男の子の方が、親世代がそういうガッチガチの家父長制度意識を持っていることを充分に感じつつ、自分たちは違うのだと、いくらでも待てるし、離れてたって応援できるし、自分自身の住んでいるところや仕事に誇りを持っているからこそそれが出来るんだというスタンスを、内気ながら見せてくれたのが良かったと思う。

何より、のん嬢の歌声である。音楽活動もしていると聞いていたし、その本来の喋り声の癖のない透明感から期待できるとは思っていたが、そうそう、まず手ずからギターをかき鳴らすところからカンドーし(いやだから、出来るのは知ってはいたけど)、本当に素直でまっすぐ、てらいのない歌声に打たれてしまう。
それは劇中のベテラン歌手として、「上手だし、一生懸命なのは伝わってくるけど、問題はハートだ」という台詞が、それは一方でその通りではあるのは判っているのに、言い訳にしか聞こえないと思わせるだけの力があるのだもの。

この場合の“ハート”はハートに感じさせるテクニックがない、と言っていると同じことで、逆説的に、ハートは感じちゃったんだよね!!と認めているに過ぎないというのが透けて見えるのが、上手いと思う。
ガンコ者のメンバーの中には絶対認めない!!とか言うヤツもいるんだけど、なんたって花形ボーカルが脱退するという危機に瀕したところに飛び込んできた彼女を迎え入れない手はなく、しかもこれが思いがけなく時代にマッチして大ヒット、ひっぱりだこになってしまうんである。

ちょっとね、心配してしまったのだ。このことでメンバーと愛との間で、かつてのスターボーカルとの間に勃発した、「オレがいるから、成り立ってんだろ」的な修羅場が訪れるんじゃ、ないかって。本来の舞台ではどうだったのかなあ。むしろそれがないことが物足りないというか、ちょっと甘いような気がしないでもなかったけど、でもそれがあったら逆に陳腐な気がしたかもとも思ったりする。
そういう、スターを目指すリードボーカルとメンバーとの確執って、ほんっと昔からありがちな設定だったし、だからこそそれが、この売れない(爆)老齢(爆爆)コーラスグループに、昭和のあるある的なお約束で、いわばエンタテインメント的要素として安心して見せ切れたのかもしれないと思う。

そこに絡む緩衝材的なキャラクター、これまたイマイチ売れない前座ベテラン歌手、キティが実に上手くそれを処理している。それこそ彼女がもうちょっと若くて野心が残っていたりしたら、腹芸をちっとも理解しないでグイグイくるこの田舎娘に嫉妬し、イジワルをしたくなるようなところだったかもしれない。
しかしてそこは、もはやドサ回りも慣れ切った姐さんであり、愛と共にハローナイツのこともあたたかに見守り、愛の効果でハローナイツがスターダムに押し上げられてこぼれ仕事にありついた時も、あくまで先輩歌手として、愛を支え、見守るスタンスなのがあたたかいのだ。

こんなんねえ、優しすぎるような気がしないでもないけど(爆)そんな風に考えることこそが、昭和的古さなのかもしれない。
あるいはヤハリ、のん嬢が映像作品に帰ってきてくれて、芝居のみならずあらたに獲得したその歌声の実力も発揮し、それはさあ、やっぱり、戸田恵子姐さんにとって、声優、女優、歌手と、めっちゃ重なることを考えると、勝手に観客側としては、じーんと来ちゃう訳さあ。

レトロでクールな昭和歌謡の名曲の数々を、カラフルでファッショナブルな衣装でステージングする愛=のん嬢とハローナイツのメンメンに、まるで歌謡ショーをフルで堪能しているようにホレボレしつつ、どう着地するんだろう……仲たがいとか、分裂とか、ヤだな!!と思っていたらそういう部分はあっさりとスルーし、愛はあらたにイケメンコーラスグループのボーカルに迎え入れられ、ハローナイツは分裂騒動を起こしたかつてのボーカルを再び迎え入れるという大団円を迎える。
この経過を、修羅場として描くことなく、あくまで夢を見させてくれたと、本来の立ち位置を思い出させてくれたという落としどころとして描き、あたたかな気持ちのまま執着させたことに、少々の甘さを感じつつも、こういう作品はあるべきなのだとも強く思う。
のん嬢をあたたかに迎え入れたベテラン役者たちの懐の深さと、時に笑わせ、時にしみじみと見せてくれた人生喜劇、ザ・エンタテインメントに、惜しみなく拍手を送りたい。 ★★★☆☆


星の子
2020年 109分 日本 カラー
監督:大森立嗣 脚本:大森立嗣
撮影:槇憲治 音楽:世武裕子
出演:芦田愛菜 永瀬正敏 原田知世 岡田将生 大友康平 高良健吾 黒木華 蒔田彩珠 粟野咲莉 新音 池谷のぶえ 池内万作 宇野祥平 見上愛 赤澤巴菜乃 田村飛呂人 大谷麻衣

2020/10/11/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町楽天地)
ドラマを観る習慣が殆どなかったもんだから、芦田愛菜嬢の凄さに私はきちんと気づけていなくて。それでなくても芦田愛菜、というその名前が独り歩きしているような感じもあったし。
一時期はマユツバものぐらいに思っていたのだが、だんだんとそのすごさが判り始め、本作で多分私は、ようやく100%判ったのだと思う。触れれば感電しそうな感性のかたまり。勿論それ以前に彼女自身のクレバーな処理能力というか、深い思想性があるからなのだろうが。

そして本作は、実際に彼女自身が、演じるちひろと同じ中学三年生の時に撮影されたのだという。これは非常に貴重なことである。昨今の学生ものはとかく、役の年齢よりずっとトウがたってから演じられるものが殆どである。
もう酒飲んどるやろ、という年頃の俳優たちがヘーキで中学生、高校生を演じるんである。それはそれで、その時を通り過ぎて来た、その経験を生かして演じられる強みはあるんだろうけれど、ヤハリ肉体的リアリズムからは遠のいてしまう。

もちろん、芦田愛菜嬢はちひろのような家庭環境ではないけれど、その肉体的リアリズムは圧倒的である。同級生たちに比してやや幼く小柄な彼女の、でもその中に隠している頑固さが、ひどく大人びて感じたりする。
むしろ、彼氏なんかいたりして、痴話げんかしているすらりとしたモデル体型の友人の方が時に、中学生らしいわがままや奔放さを感じてほほえましく思ったりする。

本作は、新興宗教の信者の親の子供が、自動的に信者になってしまう、という、新興宗教というものが産まれだしてから発生した、いわば社会現象というか、社会問題というか、を根底としている。
新しい記憶でいえば、清水富美加(現千眼美子)嬢がまさにそれで、産まれながらの家庭環境、言ってしまえば家庭のルールというか、朝食はご飯かパンか、バスタオルは一回ごとに洗うのか2、3回乾かして使うのか、ぐらいの、本当に日常に根差したところなので、信者、という強い言い方さえどうなのか、というのが、もしかしたら本人たちの心情なのかもしれないと思う。

ハッキリと洗脳、というには、何かを強いたり、高い壺を買わせたり、望まない相手とムリヤリ結婚させたり、ということがないから難しいところなのだ。
それこそ本作のように、「コンビニよりは高いけど、会員価格でまとめ買いするから」というチョイ高い霊験あらたかな水をありがたくいただいているぐらいの話になると、それって個人の自由じゃん、と言われかねない。

本作を見て、親が信者の子供の苦労を描いた「あかぼし」を即座に頭に浮かべたのだが、それこそあの作品はわっかりやすく、望まない信仰を親から強いられる子供の苦悩を描いていた。
親が信者であっても子供は全然信じてない、でも親のことを愛しているし心配だし見捨てられないから、信じているフリをしている、という、新興宗教を信じる親と子供、ということを考える時に、割とわかりやすくセンセーショナルにイメージする図式だった。
いや、かの作品はその描き方でこそ、宗教、親と子供、依存、さまざまな問題を深く浮き彫りにしたのだからめちゃくちゃ意義のある作品だったのが、本作に行きあたって、これは……ハッキリと親が狂っていてくれた方が楽なのかもしれない、と思って慄然としたんである。

ちひろの両親は、彼女に信仰を強いたりしないし、何より愛情をもってちひろを育てている。ただ、何よりスタート地点がマズかった。ちひろは産まれた時、病弱な赤ちゃんだった。
どっから借りて来たのか、現代の高い特殊メイク技術の故なのか、湿疹におおわれて泣きじゃくる産まれたての赤ちゃんは、見ているこっちが痛々しくなる。

初めての子供ではない。お姉ちゃんがいる。でもひょっとして高齢出産だったとかそういうことが不安にさせたのか。でも両親ともども不安になってる感じだったけど。
父親が職場で宇宙エネルギーが込められた水を勧められて、その時には半信半疑だったんだろうが、みるみるちひろの湿疹は良くなるし、元気になるし、それですっかり信じてしまったのだ。

フツーに、自然治癒だったんだろうと思う。でも、不安な時期を乗り越えられた両親はこの水にのめりこんだ。面白いのは、宗教そのものにのめり込んでいる感じはないってとこなんである。水だけを、神様みたいに信仰している。
それは“コンビニよりは高いけど会員価格”であるから決して経済的負担になりそうもないのに、今現在、中学生のちひろとその両親が暮らしている経済状況は決していいと言えない。

ちひろが産まれた時、お姉ちゃんもいた時、明らかにこぎれいなマンションと思しき部屋の感じだった。今はコーポラスってな感じの古さびた住居環境、薄暗くて、そして……一体両親は、仕事をしているのか。
今時父親が仕事をするべきとも思わないが、父親も母親も一切、仕事をしている感じがない。今時どこで手に入れたのか逆に知りたくなるような、昭和ジャージを着て、夜な夜な神聖なる水をひたしたタオルを頭に乗せて祈る儀式を行っているんである。

狂っている。ひょんなことでちひろと友人カップルを車で送ってきたイケメン数学教師がその有様を目撃して、そう言った。確かにそうかも知れなかった。
そもそも、この水のアヤしさをちひろの叔父(母親の兄だよね)が喝破したところから、両親の意固地さは異常事態になったと思われる。全部公園の水道水に入れ替えたのに、気づかなかったじゃないか、という衝撃の作戦を目の前にさらされて、帰れ!帰れ!!と、その作戦に加担した長女までもが、叔父さんを追い払った。
……でもペットボトルの水を入れ替えたら、新品のキャップを開ける時に気づくと思うけどねえ……。

お姉ちゃんには、両親が病弱な妹を心配するあまり水にのめり込んだ、という図式が明確に見えていたからこの作戦に協力したのに、不思議なことに彼女もまた、発狂したがごとくおじさんを追い出した両親と同調した。お父さんとお母さんが大好きなちひろは訳も判らず同調した。
両親は、この時、判った筈なのに、でも水を信じ続け、仕事さえしなくなり、長女が出て行ったらそれが加速し、ちひろに食事さえ用意しなくなった、のか。

信者仲間からおすそ分けしてもらったという、お腹が痛くなりそうなパック鮨や、みかんやクッキーで夕食を済ます状態なのに、両親は特にそれに疑問を持つこともなく、ちひろには優しく声をかけてそのみかんやらクッキーやらを差し出すのだ。
ゾッとする。絶対に、それ以前はそんなことではなかった筈。ただ水を信じているだけなのに、そして娘を愛している様子は存分に発揮するのに、何かが違う、この恐ろしさは一体何なのか。

ちひろは新任のイケメン数学教師に恋をする。ちひろの面食いっぷりは、親友のなべちゃんにいつもからかわれる。
本作は幼い時と今とをジグザグに交差するように描かれる。周囲すべてが醜く見え、両親も同級生も醜く見え、何より鏡の中の自分が一番醜く見えて苦悩する、というシークエンスがある。
その時ちひろはハリウッド少年スターのエドワード・ファーロングに傾倒しており(年代が違うと思うが……私の中学時代だよなあ。でも周囲の友人も誰も知らないから、昔の映画を観る趣味があったということかな?)、彼があまりにもキレイな顔をしているから、他の人間たちが醜くて観ていられなくなった、というんである。

これは、新興宗教とは別に、全く別に、ひどく心に刺さるファクターであり、中学三年生となった今でも、自他ともに認める面食いなんである。「だから片想いばかりなんだよ」となべちゃんからも言われる。
そして幼き日、家を出て行く前の日のお姉ちゃんが、「勉強も出来ないし、サッカーも下手だし」てな、ちひろの理想の男子と真逆の恋人を、でも好きなんだと幼い妹に吐露する場面からも判るんだけど、ちひろは……まだ人を好きになるという本当の意味が判ってないし、判ってないことを自分自身もなんとなく判っているという、この年頃の複雑さがさあ……。

このイケメン教師に扮するのは岡田将生君。彼はまるで記号のようにイケメンと呼ばれるような存在であるが、それを逆手に取るというか、本作のイケメン教師の残酷さには、震え上がった。
年度初め、新任教師としてあいさつすると女子たちがにわかにわきたつほどのイケメン。

ちひろは授業中、彼を見つめ続け、似顔絵を描き続ける。似顔絵を描いているのは、母親が赤ちゃんの頃のちひろの様子を綴った10年日記で、つまり母親は赤ちゃんの頃を綴っただけで投げ出してしまったのが判るんである。
ちひろはすっかり空いている数年分の余白をイケメン教師の似顔絵に費やしている。彼にバレているとは思いもしない。そして他の同級生がジュースやらコーヒー牛乳を持ち込んでいるところを、彼女はあの神聖な水のペットボトルを常に持ち歩いて口にしているんである。

で、ね。このイケメン教師は顧問をしているテニス部女子部員に手を出しているというウワサが流れる。ウワサに過ぎない。ちひろはこの手のウワサが嫌いだ。宗教団体のトップ幹部である海路さんと昇子さんが信者を監禁したというウワサがネット上にまことしやかに流れているということを聞いた時も、“ウワサでしょ”と一蹴した。
確かに、このくだらないネット社会は、単なるウワサが暴走する。自分が信じることを信じて行かなければやってられない。でもそれって……まさに、ゆがんだ宗教的方向にカンタンに行ってしまうことではないのか。

イケメン教師がちひろとなべちゃんカップルを送っていった翌日、ちひろと二人でイケメン教師がドライブしていたといううわさ話が巡る。
ちひろの両親のあやしげな儀式を目撃して、唾棄するように狂人発言をした時点でコイツの正体は明らかだとは思ったけど、「昨日のことは言うなよ。なんでお前と二人でドライブしたことになってんだよ。また教頭に呼び出されるよ。クソッ」と、教え子への台詞とは思えない自己中な言い様にゾッとするんである。

そして……代理でホームルームを担当したあのシーン、彼をなめくさっているのか(そうだろうなー)なかなか私語がやまない生徒たちにキレ、それをちひろにまとめてぶつけるあのシーン。
フルネームの名指しで、授業中似顔絵を描き続けていることが「ガマンの限界なんだよ!!」と絶叫、そして何より「そのおかしな水もしまえ!!」凍り付く教室。

ちひろが、というか彼女の両親が、そういう感じだということさえ、クラスメイトは薄々知っていたに違いない。
でも、クラスメイトとして普通に付き合ってきたし、ちひろ自身になんの責められるところなどないことを、そう明確に思っていた訳ではなかったろうけれど、この顔だけがいいクソ教師の逆ギレに、静まり返った生徒全員が、了解しただろうと思う。

その日、偶然ちひろと早朝の教室二人きりになった、恐らく初めて喋ったぐらいのメガネ女子が恐る恐る助け舟を出し、それにクラスメイト達も恐る恐る同調するも、クソ教師が更にキレて一喝する。ちひろがぶるぶる震えながらノートや鉛筆や水をしまうのが本当に可哀想で見ていられない。
でもそこに救いがあって、すぐになべちゃんがそばに来てくれて、泣きじゃくるちひろに、アイツ、ヤな性格だねと言ってくれて、なべちゃんのノー天気な彼氏君も、事情を知って、(緑のジャージで水たらしてるから)河童かと思ったと、のんきなこと言うのには思わず泣き笑いしてしまう。

ちひろは信者の子供だけど信者じゃない。それは同じ立場の子供たちも同じだろうと思う。若くカッコイイ、美しい幹部の海路さんや昇子さんは素敵だし慕っているけれど、“ウワサ”を聞くと不安になる。集会という名のお泊り会は、後者の意味合いの方こそワクワクする。
集会では、信者の身内で金をもらって代わりに来たという男性から不穏な話を聞いたりもする。でもそもそもちひろは、お父さんとお母さんが大好きなだけで、だから彼らから離れる理由なんてないだけで、水やらを信じている訳じゃない。信じたかったのかもしれないけれども……。

叔父さん家族がちひろを心配して、高校進学を機に自分たち家族のところに来ないかと言ってくれる。めっちゃありがたい申し出である。客観的にみれば……である。
これが、信仰を強いたり、ご飯を与えられなかったり、暴力を振るわれたり、しているなら、ちひろはこの救いの手に乗ったであろう。でもなにひとつ、ないのだ。愛情を注がれているのだ。それがちひろを縛り付ける。どうしたらいいの。

結局、何かが解決する訳じゃ、ないんだよね。そんな単純な物語じゃないし、まだちひろは中学生なのだ。面食いから脱した先に、周囲や自分が好きになれた先に、光明があると、思いたい。両親だって絶対、判ってて、どこかで判ってて、いや、判らないけれど……。

でもさあ、ホント、思ったね。先生って子供にとって絶対の大人だったけど、大人になってみると全く、全然、そうじゃないってこと、判るんだけど、その当時はさ、絶対的存在だったもん。
いや、あったよ、判る。ヒドいこと言われた、先生に。やってないってことを信じてくれなかったり、教室にひとりぼっちで可哀想だなとか言われたり。マジで、一生忘れないってこと、あったよ。
あの時は、絶対的大人だと思っていたから、本当に本当に傷ついたけど、傷つくだけの価値がなかったんだって、あの時の私に教えたいもの。ほんっとうにね!!!★★★★☆


星めぐりの町
2018年 108分 日本 カラー
監督:黒土三男 脚本:黒土三男
撮影:釘宮慎治 音楽:羽岡佳
出演: 小林稔侍 壇蜜 高橋克明 佐津川愛美 神戸浩 小林健 小林千春 石田卓也 高島礼子 平田満

2020/5/27/水 録画(チャンネルNECO)
なんかねえなんかねえ、文部科学省くさいというか、なんだろうなあ。こんなにそれなりにいい役者を揃えているのに芝居までヘタクソに見えるってのは、なんなんだろうなあ(爆)。
いかにも地元主導、いや全面協力で、町ぐるみで作ったって感じだなあというのを裏付けるように、エンドロールに流れる協力者、協力団体の長いこと長いこと。無論映画というものはそうした無数の協力を得なければなされないことだということは充分に判ってはいるんだけれど、それが裏目に出ることもあるような気がして仕方ない。それがこういう、いわゆる良心的な作品であればあるほど、である。

もうみんなの共通認識だから、東日本大震災をいわば話のネタにすることにいちいちドキドキしててもしょうがない。それは判ってる。でもそこでたった一人生き残った幼い男の子がいまだ精神的不安定で、あちこちたらいまわしにされて、それこそ地元の親戚縁戚がどうしようもなく、“最後の親戚”である、豊田市の山奥で豆腐屋を営んでいる勇作の元にまでやってきた、という設定は、なんとなくちくちくと胸に刺さる。
ひがんでいる訳ではないと思いたいけど、なあんとなく、この山間の田舎町の、優しい人たちならばこのあらくれ子供の心をいやせるよ、と言っているような気がしちゃう。そらあまりにねじくれた考え方なのだが……。

と、思うのは、あの東日本大震災があまりに過酷な記憶であり、それによってすっかり心を閉ざしてしまった男の子を“鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス”と言って、特にさしたるキッカケもなしに、その背中を見せるだけで徐々にその心を溶かさせる、というのが、上手くいきすぎだなあ……という気がしちゃうからかもしれない。
いや、勿論それには丁寧に時間をかけるのだがなんとなく首をかしげちゃうのは、いわゆるゲスト出演の有名俳優の方々が、特に平田満が(爆)……必要??といったような、ザ・ゲスト出演な出方をするからなのだ。

平田満、大好きなのに。彼は地元の自動車会社(ま、トヨタだろな)に勤めている“あーさん”と呼ばれる男性。勇作とは彼が豆腐を卸している料理屋に会社の接待で訪れ、女将に紹介される形で出会うんである。
豆腐の美味しさ、それを愚直な手作りで行っていることに感動して、会えてよかった!!とその手を握り、その後豆腐屋を訪れ、更に交友を深めるのだが、なんつーか、……大げさと言ったらよくないんだけどなんつーか……。

いや、美味しい豆腐を手作りしているがんこな職人に出会えて嬉しいというのは字面では判るのだが、特に深く話を交わした訳じゃない内からその出会いにやたら感激するのもヘンな気がする。
訪ねて行った先での描写は豆腐が売り切れだったこと、豆腐を作る滝を見たこと、家用にとっておいた豆腐と京あげをプレゼントされたこと、ただそれだけ。なのに次のシーンで「私はモノづくりの基本を見た」とか部下を目の前に揃えて窓の外を見ながらしみじみと言う、って……タダでプレゼントされに行っただけじゃないの……とか思っちゃう。

豆腐職人としての姿は勇作が豆腐を黙々と作っているのを映せばいいだけの話なのに、数が限られてる手作りであることばかりをやたら言葉で言い募り(移動販売の軽トラにむらがる主婦や、料理屋で湯豆腐のおかわりをしようとする客に対して)もういいよ、判ったよ、とか言いたくなるんである。
なんか、違う気がする。彼の豆腐が素晴らしいことを表現する方法が。そして突然預けられた岩手の男の子、政美の心を溶かすとしたら、そんな言葉ではない筈であり、確かに政美はあくまで勇作の背中を見て心を溶かしていくのだが、そもそもこの設定だけでも厳しいんだから、そっちに集中してほしいとか思っちゃう。豆腐自慢ばっかり聞かされてる気がする。

勇作の娘がなんとビックリ、壇蜜さんである。稔侍さんの娘が壇蜜さん……想像がつかない……。冒頭から大型バイクを乗りこなすカッコイイ姐さんっぷりである。
彼女、志保は突然現れたぶすったれた政美に正直に苛立ちを示す。まさに正直に。政美が話しかけられるのも触れられるのも過敏に逃げ回ってすみっこに隠れてしまうのはまさに猫のようだが、そんな政美に腹を立てて追い詰め、シャー!と歯を見せて威嚇する壇蜜さんもまさに猫のようである。

一応結果的には勇作の職人としての愚直な背中が政美の心を溶かしたという展開なんだろうが、女の自分的にはこの色っぽくかっこよく正直に体当たりして来てくれた姐さんが、幼い男の子ながらその中の本能を掻き立てたんじゃないかなあという気がしてる。
だってなんたって、彼女と二人乗りして緑深い山の中をバイクで疾走、だもん。ぎゅっとその細腰にしがみついてよ!!

志保は自動車会社(まあだから、トヨタだろな)の整備工場に勤めている。敏腕で、後輩男子から頼られ、上司からも信頼されている。この後輩男子とラブなのかと思ったら、彼とランチで行きつけのラーメン屋の店主とその妹にそれぞれラブなのである。
しかしてこのうっすら恋愛模様はこれまた中途半端である。正直、“トヨタスタジアムでの名古屋グランパスの試合”というデートコースを紹介したいだけだったんじゃないかと思っちゃう。先述のように、こんな中途半端にするぐらいなら、それでなくても重たいメインテーマに集中してほしいと思っちゃうんである。

ある日、地震が起こる。配達中、政美を留守番させていた勇作は慌てて家に戻る。いない。志保も心配して仕事先から早く帰ってくる。大騒動になる。消防隊の捜索が山中をかけめぐる。
ラーメン屋の店主も心配して、志保のバイクの後ろに乗って山の中を捜索する。……この描写も特段いらないなと思っちゃう。なぜ彼が政美のことを心配するのか、人道的な意味なのか志保の係累だからなのか、彼女もあいまいに問いかけるだけで、ただ謝辞を述べ、一緒に探すシークエンスがあっさり終わるだけである。
店主の妹に関しては、後輩男子とのエピソードも全然なく、せっかく佐津川愛美嬢なのに、中途半端にマンガ描くのが趣味なのか漫画家を目指しているのか、みたいなテキトーな描写が挟まれるばかりなんである。もったいなさすぎる。

勇作は、政美を探さなかった。信じて家で待っていた。不安で心配でしょうがなかっただろうけれど、それまで政美と次第に心を通わせていった自負があったからこそだったろう。
豆腐を作る過程を丁寧に彼に示して、時には水をろ過するこうぞの皮を分けてくれる和紙工房に連れて行ったりして、一人じゃ生きられない、誰もが身を寄せ合って生きているんだということを、外堀をじわじわと責めるような途方もなく遠回りなやり方で、教え込んだ。
全然喋らないし、表情の乏しい子だから、理解しているのか、なにか感じているのか、そもそも耳に入っているのかさえ確信が持てない中、それが出来るのはやはり年の功というヤツなのか。

政美が帰ってきた時、一番にその小さな姿を認めたのは志保だった。一晩まんじりともせず、仮眠からふと起きた彼女の目に飛び込んできたその姿に、嗚咽を漏らした。
引き戸を控えめに開けて入ってきた政美に勇作は努めて動じず、もうすぐ朝飯だからそこに座っとけ、と言った。それでも立ち尽くす政美に、志保は想いを胸いっぱいに近づき、今まで自分がかけてウトウトしながら待っていた、その毛布を巻きつけて、抱きしめて、ただただ涙を流した。

……私はフェミニズム野郎だから、こーゆー男女の役割の違いをやたらと明確に打ち出すのはあまり好きじゃないのさ。その前段で、帰ってこない政美を心配しているに違いないのに、「男には誰も手を出しちゃいけない時がある。誰の手も借りず自分一人で歯を食いしばって闘わなければならない時がある。今その時だ。誰かが手を差し伸べてあいつを助けたら、これから先、生きていけない。もっともっと人として男として辛い時がある、それに負けない男にならなきゃいけない」とかもう、男男男、と連発する勇作に、まあこーゆー年代のそれこそ男は言いがちだよなと思いつつ、イラっとする気持ちは正直あったのさ。
でもでも……そういうガチガチを、まさにニュートラルな壇蜜さんがバッサリとろかしてくれた訳で、こんなザ・女に見える人もいないのに、この人はホント、凄いなーと思っちゃう。背中で教えるのも大事だけど、自分のために泣いてくれる人、っていうのは、なにより大事。政美は愛する人すべてを失って、ずっと自分が泣いてきたから。

豆腐の移動販売について行っている政美がふと姿を消すシーンがある。地元の子供たちのサッカーチームと試合に興じている。その前のエピソードで、政美が亡き妹の姿を散歩している幼稚園児の中に見てひと騒動おこすという事件があったから、勇作は慌てて探しまくるのだけれど、思いがけない活発な、そして言葉ではないコミュニケーションをとる政美を見つけるんである。
正直、台詞がほぼないこの政美という男の子の役は相当に難しく、いわゆる芝居として彼を見ているのはなかなかに辛かったのだが、このサッカーシーンで、あら、もしかしてサッカーが上手いってことが抜擢だったのかしらん、とか思ったりする。

しかしてこのシーンでは、特段説明もせず外国人の女の子なんぞも試合に混じっており、ナルホド、トヨタの工場のある町だもんなとも思うのだが、説明もせず、がなんかモヤモヤとする。
だってそれまでの見た目が、いかにもザ・田舎、山あいの村であり、そらまあトヨタスタジアムにデートに行ったりできる距離ではあるんだろうけれど、薪でお風呂を焚いたり、炭で魚を焼いたりと、まるで縄文時代のような生活を勇作はしているし、つまりアピールしたいのはどこなのと。こういうのをアピールしたいんならほのめかしじゃなくハッキリ言ってよ、と思っちゃう。

そりゃあ外国人労働者、その家族、子供も豊田なら暮らしているだろう。そこには政美の遭遇した苦労とは違うけれども、それもまた厳しい苦労があるに違いなく、こんなほのめかしみたいに外国人の子供たちを、それこそネタみたいに見せるにとどめるのは、ダメじゃん、と思っちゃうのだ。
なんかねー、なんかねー、だからすべてにおいて中途半端なのよ。真摯な気持ちは判る。すべてを見せたいのも判るけど、表現って厳しいもの。誰もが納得できるものは作れない。すべてに目配せは出来ない。それが作り手の責任だと思うのだけれど。

政美は、妹を思い出していたんだよね。こんな幼い男の子なのに、親じゃなくて、失ってしまった幼い妹を、ずっと肌身離さず持っていたのも妹の形見であるサンタのスノードームだった。
自分を守ってくれる親じゃなく、自分が守るべき、守りたかった妹が常に心にあった、っていうのが、男の子の、お兄ちゃんのいじらしさが胸に迫る。

ラストシーンは、勇作と政美が二人山に登る。どこでの共通認識だったのか、勇作の妻に連なる“遠い親戚”である二人、勇作の亡き妻は岩手の花巻出身で、そう、宮沢賢治。二人して交互に“アメニモマケズ”を吟じ、最後、アドリブで政美が、「そういう豆腐屋にわたしはなりたい」と言って勇作に抱きつくんである。
うーむ、あまりにも突然で、そもそもアメニモマケズのことを話したシークエンスもなければ、政美がそれを読んでいるとかいう場面もないのに、あまりに突然で、抱きつかれても、カンドーせよと言われているみたいだけど、いやいやいや……という感じで。結局徹頭徹尾こんな感じなのよね。良心的な作品だというのは判るんだけれど、それだけで人を感動させる作品は作れない。難しいよなあ。★☆☆☆☆


ホテルローヤル
2020年 104分 日本 カラー
監督:武正晴 脚本:清水友佳子
撮影:西村博光 音楽:富貴晴美
出演:波瑠 松山ケンイチ 余貴美子 原扶貴子 伊藤沙莉 岡山天音 正名僕蔵 内田慈 冨手麻妙 丞威 稲葉友 斎藤歩 友近 夏川結衣 安田顕 和知龍範 玉田志織 長谷川葉生

2020/11/14/土 劇場(TOHOシネマズ錦糸町オリナス)
実家がラブホテルっていうのはすんごく興味深い状況で、親がAVの役者、というのと匹敵するぐらい、子供にとってはキビしい状況であろうと思われる。AV役者さんなら仕事を隠すことも出来なくもなかろうが(18歳以下は見られないんだし)、ラブホだと、帰っていく家がその場所、なんだものなあ。
などと思いながら観ていたが、原作者さんがそもそも実家がラブホテルだったというんである。へえーっ!である。フィクションなのだから本作のヒロイン雅代をそのまま作者自身に投影するのは単純すぎるだろうが、実際に実家がラブホでなければ書けない経験値は様々あるんだろうなあ。

よっぽどハートの強い子供か、環境を面白がれる性格の子供でなければ、本当にキツいと思われるが、さて自分を振り返って考えると、ラブホテルという存在や、そもそもセックスというもの、赤ちゃんがどうやってできるか、自分はどうやって産まれて来たのかさえ、いつ知ったのだろうと思ったりする。
幼き頃の自分が生理用ナプキンというものが判らず、コマーシャルを見てこれはおしっこを吸い取るの?と言って親に笑われたことを思い出したりする。その意味が判らないうちは、実家がラブホというのはどういう感覚なのだろう。そして知ってしまえば、……もうそれはめちゃくちゃ想像がつくんだけれども。

そしてそれが地方都市であれば、尚更である。大都会の雑多な中ならば、むしろ実家がラブホテルというのはちょっとアイツんちラブホだって、すごくね?ぐらいの、他とは違う面白さになる場合もあるかもしれない。でも地方都市とくれば……。
本作に描かれているように、延々と車で運転してきた、だだっ広く何にもないところにぽつんと、離れ小島のように建っている、センスのないネーミングとけばけばしい外装のラブホテルというのは、恐らくその界隈に一軒しかなかろうと思われる。ラブホテルといえば、ああ、あそこね、ホテルローヤルの子だよね、と言われるような状況ならば、これはかなりかなり、であり。

本当に、小さなラブホテルなのだ。客室は10もないぐらい。清掃係のおばちゃんが二人で切り回せるぐらい。このホテルが建った時から、つまり雅代が産まれた時からの、20年以上勤続している大ベテランのおばちゃん二人である。
雅代はこのホテルにも、そして両親にもぶんむくれに反発しているが、このおばちゃんとは、仏頂面はそのままながらも仕事も手伝うし、買い出しにも行くし、一緒に地下のボイラー室で客室から聞こえてくるカップルたちの様々な睦言に耳を傾けたりする。
そのたんびに、大福をほおばっているのが確かに気になっていた。後に判る。それはオーナー夫人がかつて勤めていた和菓子屋のもので、その時にはまだ妻子があったオーナーが彼女と出会った場所だったのだと。

聞こえてくる、というのは、スピーカーからなんだけど、つまり客室の音が聞こえる仕組みになっているということなんである。
切り替えて、どの部屋の声を聴くとか、あるのだろうか。何のためにあるのか判らんが、例えば痴情のもつれとか、殺し合いに発展しそうだとか、場所柄そういう可能性のためなのか。ラブホテルには必須のものなのか、それともこのホテルローヤルならではのものなのか。

そういう意味でいえば、心中事件があったのに、それを阻止することはできなかった。そりゃそうだ。痴情のもつれでもなく、殺し合いでもなかったのだから。
恋人同士ですら、なかった。ワザと受験の面接をすっぽかした女子高校生と、彼女に付き添っていったのに行方をくらまされておかんむりの担任教師。
ここには突然の豪雨の雨宿りに立ち寄ったに過ぎなかった。「そんなこと、信じる人がいると思う?」と彼女の方が言うようにそんなんあるかいとも思ったけど、どうやらホントらしかった。だだっ広い中にたった一軒、他には軒を借りるような場所がないことをとってみるとなるほどとも思わせた。

いわゆるネグレクト。両親から見限られている女の子。もう18歳なのだから、これから一人、自立して生きて行けばよかったのだろうとも思うし、同じように両親に捨てられたような状態の雅代が「死ぬ選択しかなかったのかな」とつぶやくのも判る。
でも、雅代の両親は不器用ながらも、娘への愛情は示そうという努力は感じられた。しかしてその前に一人の男と女、母親は出入りの酒屋の若い青年と駆け落ちし、捨てられた父親は酒におぼれてしまう。
でもその時点で雅代はもう高校を卒業していたし、美大の夢はついえて実家で働くことにはなったけれど、なによりあの二人のおばちゃん、彼女が産まれた時から働いている、身内以上の身内と言っていいおばちゃん二人がいるのだもの。

心中した女の子にはきっとそんな存在はいなかったのだろう。そして高校教師の青年は、仲人になってくれた禿おやじの校長が、妻の学生時代からの愛人関係だったことを知って絶望にさいなまれている。
彼がホステスになれる資格として話す、確信を持って嘘をつける女、みたいな、つまり自分の方が人間としてただ負けていただけなのか、みたいな打ちのめされ方がハンパなく、孤独の魂が共鳴してしまったのか、二人はセックスさえせず、本当に生徒と教師のまま、心中してしまったんであった。

そんなカップルばかりじゃない。心がほっこりするようなカップルだって泊まりに来る。親戚の葬儀に出たであろう喪服姿の中年夫婦は、まるで初めてラブホに来た10代の恋人同士みたいにはしゃいでいる。
でも彼女の方が、「このシャワーキャップ、持って帰っていいですか?しっかりしてて、おばあちゃんの介護にぴったり」と言うのにはハッとする。夫の母を介護し、子育てにも奮闘し、疲れ果てているであろう主婦、なのだが、ここに一緒に来ている夫とはラブラブである。

何より「何年ぶりに二人きりになれた?」てなもんだから、当然、セックスだって久しぶりに違いないんである。それを思うと二人、ラブホで休憩しようという話になったのも泣けるし、妻の苦労をいたわり、慈しむ夫が泣けるんである。
パートで稼いだ“5000円”を、家族のすき焼きではなく、「またあなたをここに誘うね」という台詞が、いいじゃないの。演じる正名氏と内田慈嬢がたまらなく滋味あふれて、ちゃんとおっぱいも見せて、いいんだよなあ。

ラブホテルはまさに人生の縮図。男女の縮図、と言いそうになったが、それ以上に人生の縮図であると思う。
両親にぶんむくれている雅代はまだ、そのことを判らずにいる状態から物語は始まる。札幌の美大に受かって、こんな場所は蹴って捨ててやる気持ちでいた。でも落ちてしまって、もうここに跡継ぎみたいな空気がマンマンであった。

最初の事件は、おばちゃん二人のうちの一人、ミコさんの、離れて暮らす息子さん、職人として頑張っている筈の彼が、実はヤクザで、殺人容疑で捕まったことがテレビで報じられたことだった。
ミコさんを演じる余貴美子サマがもう、ああもう、この人は役者界の至宝!ホントは美人さんなのに、すっかりしょぼくれたラブホの清掃員であり、夫は脚を悪くして働けず、彼女の稼ぎで細々と日々を暮らしている。

最初聞いていた感じでは、足を悪くしたことは口実で、夫はナマケモノなのかと思ったらそうではなかった。息子のニュースにショックを受けて、行方をくらました妻を血相変えて探しに、ホテルローヤルに飛び込んできた夫の顔一発で、彼がどんなに彼女を愛しているかを思い知る。
そもそも「週に三度はヘンタイなの?」ともう一人のオバチャン同僚に真顔で問いかけた時点で、この夫婦のラブラブっぷりは見て取れた。

ああいいなあ。超理想。夫婦になった途端、ダンナとなんか、ニョウボウとなんか、出来るか、みたいなことを言いがちな日本が、照れなのか実際そうなのか判らないけど、凄くイヤだったから、凄くいいなあと思った。
そりゃ身体的に衰えてもくるし、最後まで行けなかったりもするのかもしれないけど、いくつになっても、そしてお互い老いていっても、その日々を肌で感じ取りながら、肌と肌を合わせている夫婦って、すんごく素敵だと、理想だと思ったから。

だから夫が森の中にミコさんを探し当てる場面には、胸が熱くなる。おとうちゃん、としがみ付き、その足が悪いことが判っていても甘えて背中におぶさるミコさんが可愛らしくてたまらない。
母親にとって息子は最愛の存在だろうから、一瞬でもミコさんは良くないことを考えたかもしれない。でもすぐそばに、ミコさんこそを最愛だと思ってくれている人が、いるのだということを、気づいた、気づかせてくれたことが。夫を演じる斎藤歩氏がもうまた……はああ。

夫といえばまあ、これはまた対照的な話になってしまう。妻を若い男に寝取られたオーナーの大吉である。おお!ヤスケン!!本当に本当に不器用なヤツで、最後には酒浸りになって倒れて死んでしまう(んだよね?そこまでは示されなかったけど)なのが哀しすぎる。
若き日の大吉はイケイケで、ミニスカートのるり子をご自慢の車の助手席に乗せて、ラブホを建てる予定地に連れて行った。その場で彼女の妊娠を知らされて驚くも、もうこの時点で妻を捨てることを決意したのだろう。それもイケイケ時代だったから、出来たことだ。

現在の時間軸で語られる大吉は、仕事は妻とスタッフに任せっぱなしで、パチンコの景品を持って帰る時だけ現れるような男だ。
そしてかつての自分が妻を捨てたように、妻に捨てられてしまう。雅代がそんな両親を、実家がラブホということも含めて嫌悪するのは無理からぬことである。

ただ、雅代がこの実家を離れがたい要素が存在する。これがなければ、美大に落ちたって、女一人、どうとだって生きていけるのだから、この実家を捨て去ったんじゃないかとも思われる。出入りのアダルトグッズ営業、通称“えっち屋さん”宮川の存在である。ああ、我が愛しの松ケンである。
雅代はずっと続く反抗期よろしく、この宮川にも不愛想に接しているんだけれど、その目線の動かし方で、彼女が宮川に恋しているのは一目瞭然である。
誠実温厚、仕事の内容とは反していかにも女っ気がなさそうだったのに、ある日、「妻に白砂糖を控えるように言われてまして」と出されたコーヒーをブラックのままいただく場面で雅代の失恋が決定するんである。

でも宮川は、きっと雅代と似たタイプだったんじゃないかと思われる。心中事件があってマスコミに騒がれ、父も死んでホテルを閉じることになったシークエス、雅代は在庫を引き取りに来た宮川に積年の想いを打ち明ける。
それ以上に……自分が死んだように生きてきたこと、セックスがいいことなのかどうかさえ判らないことを訴え、自分とセックスしてほしい、いや正確に言うと、彼が営業してきた大人のおもちゃを使って自分としてほしいと訴えるのだが……。

宮川は彼女の想いに打たれて服を脱ぎ、キスまではする。でもそこまでしか、そこまでしか、出来ない!!理由が、理由がさあ。「妻が初めての相手だったから」理由にもならない理由だけれど、ドカンと打たれる。
雅代も「ちゃんと傷つきました」とそれはありがとうという意味で、である。セックスによって生きている実感を感じるより、100倍素晴らしい贈り物だ。
松ケンは、素晴らしいなあ……同じ年頃の役者さんの中で、ひときわ特異で、こんな台詞をリアリティまんまんに聞かせてくれる人はいないと思う。

物語の冒頭は、もう廃墟となったホテルローヤルに、起死回生のヌード写真を撮りに来たモデルとカメラマンだった。
つまり時間軸は三つ存在し、それらがするりと、まるでタイムリープするようにすれ違う。まるで小さな見世物小屋でカシャカシャと回るフィルムを見ているような懐かしい甘酸っぱさだった。★★★★☆


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