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「あ」


2013年鑑賞作品

愛の讃歌
1967年 94分 日本 カラー
監督:山田洋次 脚本:山田洋次 森崎東
撮影:高羽哲夫 音楽:山本直純
出演:倍賞千恵子 中山仁 伴淳三郎 有島一郎 千秋実 太宰久雄 渡辺篤 小沢昭一 北林谷栄 桜京美 青柳直人 中島玲子 内田由美子


2013/1/24/木 劇場(銀座シネパトス)
愛の讃歌と言ってもピアフとは関係ない……けど、フランスの戯曲がベースになっていると知ってへぇー、と思う。山田監督はオリジナルにこだわる人かと思ってた。フランスとは。
それでも舞台は瀬戸内海だし、小さな渡し舟や、近隣の者が集会所のように集う小さな食堂や、町の人から慕われている町医者等々、実に見事に日本的な世界。どの程度、あるいはどのあたりを翻訳したのか、ちょいと興味があるところ。

しかし、しかし、しかぁし、なんといっても有島一郎、なんである!彼は喜劇役者のイメージだったから……などと言いつつ、彼の出演作品はちょこちょことしか見ていない不勉強だからアレなんだけど、まあそういうイメージだったから、まさか彼に泣かされるとは思ってもみなかった。
いやまあ、周りがさ、それこそ“近隣の者”たちがあれもこれもコメディリリーフ、芸達者たちばかりだから、その中に外から入り込んでくる郵便屋さんの小沢昭一に至るまでお見事で、彼らのコント的場面を取り上げるともうキリがないぐらいだからさ。

有島一郎は、彼の演じる町医者の吉永は、そのちょっと天然な、ボーッとしたところをお手伝いさんの老婆のおりん(北林谷栄。これまたお見事)に心配されるようなトッポさで、それがもう映画の冒頭から愛しくてさ。「こんなに天気がいいのに」ゴム長を履き、財布からお弁当から何から何まで忘れてはおりんがシェンシェー!と追いかけてくる。
高台にある診療所から船着場まで船に間に合おうと降りて来るロケーションの見事さ、吉永の人となりと船着場と、それに隣接する食堂で働いている春子の、町のオジサンたちにマドンナ的に人気のある様子、そしてどうやら吉永が春子にホレていることを、彼女はともかくオジサンたちは皆察していること……等々が、冒頭でバッと示される鮮やかさ。

ヒロイン、春子は、当然、倍賞千恵子である。寅さんともう一本の抱き合わせの二本立てである今回の企画、全部、ずーっと倍賞千恵子だから、改めて山田監督にとってのマドンナだったんだと思い知らされる。
寅さんではマドンナにはなれない位置だったからか……いや、思えば寅さん第一作のマドンナは倍賞千恵子と言ってもいいではないか……シリーズ化は考えてなかったのなら、やはり山田監督にとってのマドンナは倍賞千恵子なのだなと思ったり。
まあそれはおいといても、どれを見るにつけても、その監督の期待に応える倍賞千恵子の女優としての上手さと魅力に、ただただ感嘆しきり、なんである。

少女のような可憐さ(は、いくら年をとっても彼女はずっと持ち続けているよね)、そこにひっそりと持っている色香は実はとても情熱的だったりして、遠い国へ行ってしまった恋人の子供を宿した彼女に吉永医師が「春子がそんなふしだらな……」と思わずつぶやく台詞に集約されている。
いや、ね、恋人同士でいるなら、結婚も考えていたのなら子供が出来ることが“ふしだら”なんてことはないんだけど、倍賞千恵子の可憐さがそう思わせてしまうし、だからこその、はっとする色香なんだよね。この場面は……おっとっと、いくらなんでも先走りすぎだ!

軌道修正、軌道修正。えっと、どうしよう。まずアウトラインからか。そう、その春子の恋人ってのが、彼女が働いている食堂の息子、ドラ息子、である。
物語の始まりに、彼はここにいない。父親が苦虫を噛み潰したような顔で、あのションタレが、と毒づいている。大阪だか神戸だかに行ってきたというこの息子、竜太が戻ってくる、それまでの間にも、彼がちょっとないほどのハンサムだとか、だから遊び人だとか、ブラブラしてしょーもないとか、色々なヒントが観客にもたらされる。
そして彼が登場すると……わ、わわ、山田監督の人情劇に登場すること自体が違和感があるほどのは、ハンサムー!!
中山仁!そりゃ中山仁は知ってるけど、確かに今も端正だけど、こ、こ、こ、こんな、なんか、外国の俳優さんみたい、アラン・ドロンみたい!(言い過ぎ?いやでもさ!)なんか、なんか、美男過ぎて、この中にいると違和感―!!

……動揺してしまった。でもこの違和感は確かに正解なのかもしれない。彼はこんな小さな島にいる人間では、ない。といっても大人物という意味ではない。彼は父親が言うように確かにションタレなのだ。
ブラジルに行って一旗あげる夢を語る彼は、確かに美男だけにクラッとくるものがあるが、大きなことを言って、春子と涙の別れまで演じて、たった一年半かそこらで帰ってきちゃうんだもの。おいおいおいおいーっ、って感じである。
手先が器用な彼は島にいる間も店を切り盛りするなんてことには興味をもたず、テレビの修理だのそんなことでこづかい稼ぎをしていた。
だから彼の言う、技術者が当地では重宝されるんだという言は説得力があったから、そして父親に反対されても、密かに渡航の準備を進めていたんだから、それだけの信念があるのかと思ったら、戻ってきた理由が「言葉が通じないと、上手くいかない」なんじゃそりゃ!あ、あ、あ、甘すぎる!!

……そういうションタレの息子だけど、やっぱり父親だから、恋人の春子を気の毒に思う手前、口では毒づくし、おめおめと帰ってきた時なんか、もう蹴飛ばす勢いで罵倒して追い出しちゃうんだけど、でも、でも……本当は、ね。
父親を演じる伴淳三郎が、もう、もう、素敵過ぎて!個人的には有島一郎にラブしてしまうんだけど、本作のいわば主人公は、最も大きな印象を残し、観客の心をわしづかみにするのは、バンジュンなんだよなあ!
先述したけど、有島一郎がコメディリリーフにならなくてもいいぐらい、芸達者なメンメンが笑わせてくれるんだけど、やはりその筆頭が、この食堂に皆を集めるぐらいの吸引力を持つ主人のバンジュンでさ。
その気まぐれ、アマノジャク、素直じゃない性格を皆が承知していて、そうつまり……どんなに息子のことを罵倒しても……罵倒されるだけの息子だってことを、周囲もよく理解しているから、それだけ恋人の春子が不憫だってことも手伝って……彼がどんなに大暴れしても、ちゃんとフォローするのが、イイんだよね。

最初ね私、バンジュンは春子の父親なのかと思ったのさ。それぐらい、二人はもう、信頼関係が、竜太よりもバッチリ出来上がってて、だからこそ千造(バンジュンね)は春子を不憫に思うわけ、なんだよね。
まあ逆に言えば、本当の息子だからこそ色々腹が立って、ぶつかり合うってことなのかもしれないが……。で、竜太からの手紙を一日千秋の思いで待ち焦がれて、ようやく手紙が届いた時、こんなもの、風呂の焚き付けだとか言いながら、先に熟読しながら、春子に音読させて、いちいちチャチャ入れる。
そのチャチャが、つまり息子に毒づくチャチャが、照れと、春子への申し訳なさとから出るんだなって可愛さでさ、でも春子が黙ると読んでくれよと先を促して、もうこの場面は泣き笑いで、忙しくって、メッチャ名場面、なの!!

でもでもやはり、有島一郎、なんである。そう、吉永医師は春子にホレている。その辺は判りやすい、純粋さ、なんである。結果から言うと彼の思いは成就しなかったし、まるで夫婦のように、家族同然に一緒に暮らしながらも、ヘンなことには一切、ならなかった。
吉永医師はクリスチャンなのだ。壁には慎ましく宗教画が貼られているけど、え?あれ誰?キリスト?ぐらいで、吉永医師のそうしたバックグラウンドはそうハッキリと明示される訳ではない。

ただ……先述した、春子の妊娠が発覚した場面、ね。その前に暑い中船着場で仕事をしていた春子は、フラついて海に落ちてしまった。慌てて駆けつけた吉永医師(この尋常じゃない慌てぶりひとつとっても、彼女への思いが判っちゃう)は、その時に知ったのだけど、観客に明示されるのはその後、春子が深夜、先生の元を訪れるシーン。
後に朝帰りする春子を見かけたお手伝いのおりんが、二人がデキているとカン違いするという微笑ましいオマケもあるのだが、そのことに対して吉永医師が烈火のごとく怒った、ということは、彼自身の中でこの夜が、この夜の彼女が、そんな気持を起こさせないこともなかったことを、示唆しているような気がしてならない。

もちろん春子自身はお腹の子供のことを気付いてしまったに違いない先生に、自分自身の悩みと決心を伝えに来たんだけど、寝巻きの浴衣姿だし、寝具を敷いた蚊帳の中に招き入れられるドキドキもあいまって、本当にここは、忘れられないシーンなの。
吉永医師はさ、彼女に眠れるための薬を調合するため、中座する。薬だなんて妊婦にいいの、まさか堕ろす薬では……などとくだらぬ杞憂は、粉末にフワックション!とクシャミする吉永医師の愛らしさでまず吹き飛ぶ。
薬を持って戻ってきたら春子が無防備に寝入っていて、でもその目頭から涙が流れていて、吉永医師は、彼女にそっと自分の布団をかけてね、そして机に腰掛けて、その時に、あの慎ましい宗教画、がふっと映り込む。

この時悩ましく頭を抱えた吉永医師が、その後の展開を考えれば、哀れな春子とお腹の赤ちゃん、そして幼い妹たち(両親はなく、春子が育てているのだ)を引き取ることを考えていたというのが順当だけれど。
なんかね、なんか、蚊帳の中の、涙を流した、無防備な浴衣姿の、お腹に子供を宿した、妙に女の色香と可憐な乙女のギャップがたまんない春子、つーか、倍賞千恵子ってのが、その彼女への思いに耐えている吉永医師、っていう風に、どうしても、見えてさあ!なんか、なんか、萌える訳よ!!!

……ていう前提が、ていうか思い込みが?あるから、どうしてもどうしても、吉永医師に肩入れして見てしまうから。恋する男なのよ、彼は。もうオジサンなのにっ。
竜太が夢破れて帰ってきて、自分の子供の存在を知って、何せ春子が忘れられないことも帰ってきた要因だし、春子だってそうなんだから、竜太は春子と赤ちゃんと共に、大阪に行って再出発をする、と言う。
吉永医師は、春子と妹たちを引き取ると共に、この赤ちゃんを養子として正式に登録した。それ以上に、産まれた時から親同然に育ててきた赤ちゃん、未練が大有りで、自分にこの赤ちゃんをくれと言い、竜太とぶつかってしまう。

春子はもう、ザ・板ばさみで、何にも言えなくて……そこに、父親が、バンジュンがドッカーン!と入ってくるのね。お前はなんたるバカ息子、ションタレ、お前なんかに親なんて言う資格はない!そう、怒るのね……。
春子への同情、吉永医師への感謝、そして双方に対する申し訳なさ……バンジュンの、父親の辛さが痛くて、もう、このバカ息子!!と思う。

いや、それ以上に、やっぱりやっぱり、吉永医師、有島一郎がさ、もう女心をくすぐりまくるんだよ!
あのね、彼は結局、諦めるの。春子のことは最初から諦めてた。彼女たち家族を引き取って、まるで家族みたいに暮らしても、決して彼女は奥さんではなく、娘のように接していた。
実際、年も離れている雰囲気、てーか、離れてるしさ。だからこそ切ないんだよね、報われないと、彼は最初から思い定めている感じ、もちろんクリスチャンと禁欲的雰囲気もあるけれど、それに彼自身が、あの場面に象徴されるように、どこか女性を、あるいは春子をかもしれない、マリア様のような処女性を重視しているところがある気がするしさ。

そういうところ、女としてはイラッともするけど、逆に、めちゃめちゃ、キュンともくるの!だって彼は、彼の気持は、恋、恋の、純粋さ、なんだもの。
それが現実的じゃないことは判ってても、春子が好きなのが、どうしても、どうしようもなく好きなのがションタレの竜太だと判ってても、それでも、やっぱり、シェンシェー、有島一郎の方がいいのに!と思っちゃうのさ!

ションタレの息子のせいもあって酒びたりだった父親は、身体を壊して、帰って来た息子を先述のように罵倒して追い出して、その後、急死してしまう。その手には絶望した息子の置手紙が残されていたこともあってだろう、吉永医師は良心の呵責にさいなまれる。
竜太の居所が判った時、電話をつないだ春子に、赤ちゃんと共にそっちに行って一緒に暮らすと言いなさいと促す場面、そして春子と赤ちゃんを送り出す場面、もう、もう、もおおお、吉永医師、いやさ、有島一郎にめっちゃ、メッチャ、ウルウルくるのさー!!
そう、春子と赤ちゃん、なの。妹たちは吉永医師が引き取るんだよね。いずれは妹たちも、ということがあるのかもしれないけど、なんかこの図式は、吉永医師の春子への思いを感じずにはいられないんだよなあ……。

むっちゃ手を振り涙を流す春子と、船が遠ざかってから涙を流す吉永医師の、その涙の意味は、全然違う、よね、多分。少なくとも吉永医師の思いはただただ、春子だけに、その赤ちゃんも含めて彼にとっては春子だったと思うから……に向けられていたと、思うもの。
もう、この吉永医師、いやさ有島一郎の静かに涙を流すアップに、もう、さあー!絶対絶対、あんなションタレの、顔がいいだけの竜太より、シェンシェーの方がいいのに!私だったら絶対、さあ!ってめっちゃ心の中で叫ぶ。いや、女たちは皆そう叫んでいたと思う。もう、春子の見る目ナシ!!

船の別れ、そういやあそれも、今回足を運んだ寅さん抱き合わせ二本目作品、三本とも全部、あったわ。島から新天地へ向かう船、その別れ。
山田監督のあるひとつのこだわりというか思いというか、彼が映像、画として魅力に思っていることというか、そんなものを感じられるのも楽しい。★★★★★


青二才
2012年 82分 日本 カラー
監督:サトウトシキ 脚本:竹浪春花
撮影:道川昭如 音楽:入江陽
出演:伊藤猛 正木佐和 櫻井拓也 吉岡睦雄 伊藤清美 川瀬陽太

2013/1/8/火 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
なんだかんだと批判の向きもあるらしいけれど、なんだかんだと続いている青春H。続けることに意義があるって、あるかもしれないなあ。ソフトや放送もリンクして、ちゃんと利益循環も生み出してきているのかもしれない。なんだかんだの批判をはねのける構図が出来上がってきているのかもしれない。
いつもいつも一週間限定レイトのキビしさにぶつぶつ言いつつ足を運ぶのも、この企画にいい意味でも悪い意味でも玉石混合の面白さがあるからだと思う。それはこんな風に、続けてきたからこそでもあるんだよね、きっと。

とは言いつつ、サトウトシキ監督ならば、ハズれはないだろうと思いつつではあったけれど。
主演は伊藤猛氏。これまたもうベテラン、安定感バツグン。でも、女優が華のピンク界においては、物語的、実質的には主役でも、本当の意味での主演作品というのは、案外観る機会がなかったかもなあ、と思う。ポスターにもバッチリピンで映っている、まさに彼の主演作。

しかしちょっと、驚く。ずっと観続けている筈なのに、アラ彼ったらこんなに年とっちゃったのねと。失礼な言い様であるのは充分承知の上で。
でも観終わって改めて思う。それを前面に出し、協調した、宣材写真だったのだろうと。

劇中でもその印象のまま、しょぼくれた初老のオヤジとして、彼はあまりにも情けない男である。実際は48歳の設定。彼自身もまあそんなところだろうと思うけれど。
手足ばかりがひょろりと長いやせぎすの身体は顔に刻まれる陰影も色濃く感じ、グレーを基調にしただらりとした格好、ボロい自転車にギコギコとまたがる姿は、初老と思わず言ってしまいたくなる老けっぷりである。実際はカッコいい人だと判ってはいても、このよれよれぶりには思わず驚いてしまうんである。

それに……。

彼、結局劇中でカラミ、ないんだよね。メインで出ていてカラミのない彼は、初めて見た。しかもピンクではないけど青春Hの企画ならカラミは必須なのに、主演の彼にそれがフられない。
だからという訳ではないけれど、いや、だからかなあ、必要条件から外されたキャラであることも、彼のしょぼくれ加減に一層拍車をかけた気がした。
だってね、長年連れ添った恋人に、自分のタネかどうかも判らない(てか多分違う)子供を宿されて、しかもカラミがないなんて、ホント、情けない、ってか、どうしようもないじゃん。

ホント、どうしようもない男なんである。このタイトル、青二才、劇中で台詞にのぼることすらないんだけど、云い得て妙というか、なんかぐっと身につまされるものがあるんである。
この年で、結構な人生経験、波乱万丈だったのに、青二才、とつきつけたくなるような、その経験も波乱万丈も全く生かそうとしない男。見も知らぬ他人から「おっさん、もっと頑張れよ!」と声をかけられてしまうような男。

長年連れ添った恋人などと言ったけれど、その始まりは不倫であり、奥さんと子供を捨てさせた女。その紗江子とは10年も付き合った末に、煮え切らない彼に業を煮やしてスナックの客とヤリまくった彼女は妊娠して、彼の元を去った。
紗江子がいなくなってうっすらと動揺し、勤め先のスナックに押しかけた彼、有三はママから「10年も付き合って結婚もしてくれないんじゃ……」と彼女の思いを代弁されてヤケ酒をあおり、居合わせた客にケンカをふっかける。
後に有三と、そして紗江子もつぶやく「誰かを不幸にした人間は、幸せになれない」という呪縛にがんじがらめにされている。そんなこと、誰が言った訳でも、ないのに。

でもホント、もう有三は離婚しているんだし、今は紗江子と一緒にいるんだから、つまり今は不倫じゃないんだから、なのにいまだに二人はこだわっているんだよね。
いや、実は家族を捨てただけで、離婚はしていないの?そういやあそのことは明言してなかった気もしないでもない……いや、言っていたかな?

でも、“結婚してくれない”っていう意識があるんなら、離婚はしてるんだよね……。
ただ、凄く象徴的というか、強い印象に残るのが、紗江子がいまだに有三のことを、“岡本さん”と呼ぶことなのだ。これって……不倫関係のままの、その十字架を、まだしつこく背負い続けているとしか、思えないじゃない。
紗江子だけじゃないよ。そう呼ばせ続けている彼だって、そうじゃない。もう岡本さんなんて呼ぶなよ、って、言えばいいじゃない。普通言うよ。その“岡本家”を出てきたんだから。

有三は、紗江子と暮らし始めてから会社を辞めて、ポスティングのバイトをしながらブラブラしている。冒頭は、ハデなカッコをした紗江子が苛立たしげに彼の元から去るシーンからなんだけれど、その後、二人が暮らしている回想シーンが挟まれる。
飼っていた猫が窓から逃げ出した。うろたえる紗江子に無関心な有三、ケンカになった。
「岡本さんがミーちゃんを拾ってきた時から、飼おうって、一緒に住み始めた。嬉しかったんだよ」そう紗江子が言っても、有三は表情を変えないでヘタなギターをつまびくばかりだった。
「岡本さん、変わったよ。真面目だったのに、会社も辞めちゃうし。」
女性特有の問題のすり替えとでも思ったのか、うっとうしげな顔を向ける有三に、泣き笑いのような顔を見せて、猫を探しに外に出た紗江子。

このシーンは凄く、象徴的な気がした。いろんな意味で。色々、うがちすぎかもしれないけれど。
一緒に暮らしているのに、岡本さんと呼んでいる違和感。一緒に生活しているシーンはここだけだから、とても際立つ。
猫は、この物語の大きなポイントである子供の存在を意識せずにいられない。猫が二人の間をつないだ筈なのに、まるでワザとみたいに無関心を貫く有三と、この出来事がひとつの大きなきっかけとなって彼の元を去る紗江子。

そして、有三のヘタなギター。ホント、ヘタなの。それは伊藤氏がヘタなのか、ヘタな芝居してるのか判んないけど(爆)、紗江子が「いつまでも夢ばかり追って」と言い、有三が「こういう小さな大会で目をつけられるかもしれない」と言い、どうやらミュージシャンを目指しているのか?とも最初は思ったけど、つまびくギターは壊滅的なヘタさだし、後から思うにつけても、やっぱり彼は、ミュージシャンになりたいとか、ホントに思っていたわけじゃないんじゃないかと、思うんだよね……。
後に紗江子が言った。幸せにはなれないから、なっちゃいけないから、自ら手放すようなことをした、その言い訳だったんじゃないのかなあ……。

思わぬキーマンが現われる。いや、もう物語の最初から出てくるから、思わぬなんていう唐突さではないんだけれど、少なくとも有三にとってはそうだっただろうし、登場の仕方的に、カラミ要員だと思っていたからさ(爆)。そーゆー風に見てしまうの、悪いクセかも(爆爆)。
でも後から思うと、それこそカラミ要員などという存在が、本作にはなかったことに気づいてちょっと驚いてしまう。セックス場面はこのキーマン、大学生の男の子だけなのだもの。

有三に見切りをつけた紗江子、なんてスッキリしたもんじゃなく、なかばヤケのようなのは、そのワザとらしいほどのハデな、いかにもヤリマン的なファッションで判ってしまう。
そんな紗江子に声をかけた彼だって、後に彼自身が言うように、くだらない女としか思っていなかっただろうし、紗江子とラブホにい続けてセックスばかりやり続けている日々の間は、そうだったろうと思う。
いや、その日々の間に彼は紗江子を好きになってしまった。

この男の子が、こんな田舎くさい子が(実際、冴えない地方都市の情景が印象的なのだ)、街でハデなお姉さんをヤる目的で拾うなんて、違和感がある気がしていた。
でもなんたってカラミ要員だと思ってたし(爆)、まあ若い子なんて見た目じゃわからん、そんなもんかとか(爆爆)。
でもそれには事情があった。でもその事情ってのは正直、えーっ、そんな浪花節かよとも思ったのだが。

この子にはプラトニックな恋人がいて、しかし彼女は不倫相手がいた。「汚い私でゴメンね」と書き残して彼女は自殺した。彼は風俗で童貞を捨て、紗江子を拾った。

「なんで、過去やこれからにこだわるんだよ!」彼は青年らしく二人に吠えて、「紗江子さんを好きになってしまった」と有三から紗江子を奪い、小さなアパートで日々お腹が大きくなっていく彼女を養う。
夜勤のバイトや、学生らしいチャーハンと味噌汁の、手作りの小さな食卓がいじらしい。紗江子が次第にごめん、としか言わなくなるのを、彼はもどかしく思ってる。

結局、結局、紗江子はここも出て、有三の元に戻ってくる。ことには、えーっと思わなくもない。
だってぐんと年下で学生とはいえ、あの有三よりは頼りになるいい子だし、何より紗江子を愛している。愛されることが女の幸せ、などとそれこそハズかしいベタな浪花節だが、でも正直、そうだからさ。

紗江子はお腹が大きい間、たばこを吸ったり、「蹴るなよ」とお腹を叩いてみたり、女から見ると眉をひそめたくなるような行動をとるんだよね。
最初は中絶するつもりだった。なのに思いとどまったのは、女としての本能だったのか、判らないけれど、この彼女の行動は見ていてヒヤリとする。見たくない、と思う、こんな女は。
でも死んでしまったと思い込んだ赤ちゃんが、自分が殺してしまったと思った赤ちゃんが、だからもう、屋上から身を投げてしまおうと思った彼女を止めるように腹を蹴りだした時、泣いた紗江子に、とてもホッとしてしまう。

主役は、有三だった筈なんだけどね。
ホント、彼はどーしよーもなくて。あのね、凄く印象的なシーンがあるのだ。
ビールを買ってきて冷蔵庫に入れた彼、そのまま冷蔵庫のドアを開けっ放しにしてその前に座り込み、たばこを吸いながら、ビールを飲み、台所から缶切りを持ってきてツナ缶をあけ、マヨネーズを絞り、紙パックの日本酒をコップに注ぎ、カニカマをむさぼり、そして酒におえっとなって、何度も流しに嘔吐する。嘔吐しながら酒を飲み、また嘔吐する。
……もう、見るに耐えないんだよね。たばこをひたすら吸い続けるのはたばこ嫌いとしてはもう、マジでヤだけど、酒好きとしては、……こんな酒の飲み方、してほしくないと、思う。
酒飲み失格だよ、こんなの。こんなの、酒が全然美味しくないよ、こんなの。

で、まあちょいと脱線したけど(爆)、紗江子の妊娠をネタにスナックの客たちからカネを脅し取ろうとしたのも失敗、家賃も滞納して呑んだくれていた有三のもとに紗江子が戻ってくる。
その時彼女、にゃあ、と猫の鳴き声を真似た。やっぱりやっぱり、先述した子供のことや、有三とのつながりに、逃げてしまった猫を重ね合わせていたんじゃないかと思う。
そして破水してへたりこんでしまう。そこに、あの男の子も駆けつけてくる。二人慌てながらも紗江子を部屋に運び込み、救急車が来るまでの間、ヒッ、ヒッ、フーッ!と必死に紗江子を支え続ける。

結局はね、赤ちゃんが産まれるシーンが用意されている訳でもないし、有三と紗江子と赤ちゃんの生活が描かれる訳でもない。
有三が「子供が産まれた。……オレとの子じゃないかもしれないけど」と言うからには、しかも有三はスーツを着て就職面接に臨んでいる訳だし、そういう具合に収まったんだろうとは思うけど、なんとなく、そう言い切れない感じがするのは、何故だろう……。

なんか、私には、あるいは女には、願望があるのかもしれない。
愛してくれた、女にとって愛された幸せがあった、あの男の子もまだ、そばにいてくれている、頼りない男二人で紗江子のことを支えてくれている、そんな願望が。

紗江子が男と寝る時いつも「結婚しよう、って言うんだよ」と有三に言ったのは、スナックの客の一人。それが切ないんだと、何も判ってなかった有三に吐き捨てた。
唯一のカラミ要員であったあの子にも紗江子はそう言って、いいヨと軽く言う彼に「エッチすると、皆そう言うんだよね」と彼女は苦く笑った。
「だったら聞かなきゃいいじゃん」まだ、紗江子のことを良く知らないうちの彼は軽く流したけれど、彼もまた後に、その言葉に込められた彼女の切なさを知ることになる。

有三が就職面接に臨んでいるラストシーンはね、「こうでもしなきゃ、会えないから」という、彼の息子の職場なんだよね。
有三がヘタクソにつまびいていたギターは実は、息子にプレゼントしたもので、息子こそが音楽を目指していた。
「あの夢はどうした」と彼が聞くと、息子は当然、自分を捨てた父親にうらみつらみをぶつけるけれど、夢を捨てた理由にはならない、よね。

この時、有三のギターがヘタクソな理由はこれだったのかと思った。彼の夢ではなかったのかと。つまり彼は、紗江子と暮らしながら、息子のことを思い続けていたのかと思うと、それが紗江子と結婚しない、子供を作らないことなのかと思ったら、なんかたまらない気がした。
何かを理由に夢を、つまり幸せを捨てる、言い訳にするのは、有三も息子も一緒で、男なんて、いや、人間なんてそんなもんで。

だから、あっさりと、有三と元サヤで幸せになった、なんて思いたくないのかもしれないなあ。有三が主人公の筈なのに、男の悲哀より女のそっちを思いたがるのは、やっぱり仕方ない、私が女だから、なのかな。悔しいけど。 ★★★☆☆


あかぼし
2012年 135分 日本 カラー
監督:吉野竜平 脚本:吉野竜平
撮影:平井英二郎 井上塁 音楽:佐藤みえこ
出演:朴?美 亜蓮 Vlada 鯨井和幸 藤井かほり 大林佳奈子 吉川琴海 四條久美子 宮野薫 小坂智也 千葉美紅 吉見一豊 石塚理恵 中條サエ子 石田誠二

2013/8/22/水 劇場(新宿K’scinema/レイト)
驚いてしまった。夏休み映画期間、いまいち触手が伸びるものがなく、時間も押し押しの中で偶然引っかかったに過ぎなかった。劇場に着いて貼ってあるポスターを眺めると、「誰も知らない」に続く……なんて惹句に、いやいや、いくらなんでもそれはねえだろ、と、このよくある“傑作を安易に引き合いに出すやり方”に軽く失笑を覚えたぐらいだった。
何たる不覚の、上から目線。観終わった今は、それは決して安易ではなかったかも、本当に「誰も知らない」を引き合いに出したくなる、拮抗するような作品だったかもしれないと思える。この監督さんは知らない名前。この主演の二人も私は知らない。驚いてしまった。

とはいえ、「誰も知らない」がドキュメンタリズムの中から物語の糸をたぐりよせていったのに対して言えば、本作は真逆とも言えるんだよね。確かに「誰も知らない」を引き合いに出したくなるほど、親を選べない子供の不幸がすさまじいほど緻密に描かれている点では共通しているし、その子供たちがそんなヒドい親でも嫌いになれないという点においてもであり。
この後者に関しては、親のことなんか大っ嫌いな、つまりそれぐらいヒドい親たちも現実にはいるだろうし、親だから、子供だから、憎めない、嫌いになれないというのは、残念ながらそれもまた、甘やかな理想に過ぎないと思う。

まあそれはおいておくとしても……そう、真逆。本作は、筋やエピソードを思い返してみれば、何一つハズしてないし、何一つハズしてないということが、うっかりすると大ベタになる危険の崖っぷちは、火サス並みであると思われる。
突然の夫の蒸発、妻は精神の均衡を崩し、心の弱いところに付け込まれる形で新興宗教に没頭、その一人息子は母親のことを案じて、しかと隣にいながらも、学校ではいじめグループに率先して参加し、しかしこの家庭の、というか母の崩壊によってあっという間にいじめられる側に転落する。

母親が夕食にパックご飯を形のまま皿に乗せ、ぬるそうなレトルトカレーをかけるとか、息子のいじめの描写が、ランドセルの中身をぶちまけるとか、後から考えてみると案外ありがち、いや、判りやすい要素になっていることに気づく。
そう、総じて、破たんすることのない、判りやすさ、ベタに陥りそうになるぐらいの、言ってしまえばワイドショー的な家庭崩壊、社会問題の要素の積み重ねで出来ているのに、なぜこんなに、キリキリと切実に、リアリスティックなのか。

主役の二人はどちらも、名を知られている人物らしい。特に母親役の朴?(王へんに路)美嬢は人気声優として確固たる地位を築いた人物だという。確かに何となく名前は見たことあるような気はするけれど、ちょっと詳しくないもんで……。
でもそのことがこの作品のウリになるのなら、彼女にとっては勿論、製作者にとっても本意ではないだろうと思う。実写初主演(これは、実写自体が初?それとも実写の主演は初?)とは思えない、鬼気迫る、というか鬼気を超えた熱演で、彼女の存在がなかったら本作はなしえなかったと思う。本当に。

ただ、確かにこれはもうけ役だ。こわれゆく女が賞レースにおいては俄然有利と言われることなんぞをついつい思い出してしまう。役作りもしやすかろうなどと、素人は安易に思ったりもしてしまう。
そして、夫が蒸発しただけで(なんて経験もない(第一結婚経験もない(爆)くせに)、そう簡単に女が壊れるなんていう描写こそが安易だ、と言いたくなる気持ちが、特に私のような独女は出そうなもんである(爆爆)。映画にあまた登場する壊れる女に、いちいち敏感に反応してしまうのは事実。

ただ……子供は親を選べない不幸、を描いたこうした物語に際して、そして本作が明確に語っているのは、親はいつでも完璧な親であることを求められている、このゆがんだ社会なのだということなんだと思う。
親、特に母親は、特にというか、母親だけが、社会、いや日本社会からひどく厳しい基準で見られている。
構い過ぎてもいけない、無関心すぎてもいけない。子育てに頑張りすぎないでと言いながら、ちょっとでも手を抜くと無責任だの、母親になる資格がないだの言われる。結局は完璧を強いられながら、社会の温かい目、という虚構の壁にじりじりと迫られているのだ。

ということが、ずっとずっと長い間日本社会の中に横行し続けているのにいっかな改善しないのは、結局は男性社会のままである中で、母親という立場が都合よく神格化、聖域化され、そのことに女たちが苛立つには子育ての期間とその苛烈さが矢のように過ぎてしまうからなのかもしれない。
本作にも少し、少しだけ、母親に対する神格化の目を感じる。正直それは、やはり男性作家の目だとも感じる。夫の蒸発という不測の事態があったとしても、それを女に求める冷徹さ。あるいは逆に、夫の蒸発“だけ”でそれを失ってしまう女への視線の冷たさ。

彼女の妹ですら、同じ女なのに、そのことに甘んじて、しかも無意識に甘んじて姉を責める。お姉ちゃんの気持ちは判るけどさ、と不用意に言って彼女を爆発させる。何が判るの、あんたに私の気持ちの何が判るのと。
この台詞はいかにも女が、不安定な心の女が言いそうな台詞で、それも計算かとちょっと皮肉に思わなくもなかったけれど、結局は女が、そうしたカテゴライズされた中に安住してしまっているということなのかもしれない。
家族だから、身内だからといって、救いの手を差し伸べなければいけないということではないと思う、それは思うし、社会もしたり顔してそれを肯定はするけれど、家族に見捨てられた“孤独な人たち”の悲惨な結末に際して、社会はあっという間に手のひらを反して簡単に同情してこう言うのだ。
「家族がいたのに。冷たいもんだ」と。「子供がいた筈なのに、一度も訪ねてこなかった」とか、なんてよく聞く台詞だろう。

……相変わらず、脱線していくなあ。でね、そう、本作は、そうした、ある意味判りやすい大人社会のことではなくて、子供こそが、メインな訳。
それが最初から明確だった「誰も知らない」に比して言えば、本作は一見、大人の世界こそがメインだと見えなくもない。母親が没頭していく新興宗教の話は、判りやすいカルトっぽくなかったりするあたり、上手いと思うし。

……ああ、また脱線するけど、そう、この宗教団体、ね。しるべの星という、地道な伝道を続けている質素な団体。……などと、なんかうっかり好意的な言い方をしてしまいそうになる。
彼らの活動は、心のよりどころを失ってしまった人たちに声をかけ、神の教えを説き、それを支えに人生を生きましょうというもので……まあすべての宗教がそうなんだろうけれど、それだけ聞くとなんら危ないものでもなく、それこそ心が弱っていたらうっかり入信しちゃいそうなもんである。
“それこそ”とか、“うっかり”というあたりに、現代における宗教に関する身構えた気持ちがある訳なんだけど、そもそも宗教が誕生し、文明、文化、思想、哲学として根付いた古き時代は、何一つ疑問なんて持たなかった筈で、そして本作に描かれる質素な宗教団体は、“それこそ”“うっかり”そんな気持ちを起こさせるのね。

子供を伴って一軒一軒をまわり、パンフレットと講話を聞かせるという勧誘活動は、え、今でもあるの?と思ってしまう……覚えがあるんだよなー、団体名も、こういう感じ、だったよね。ここで名前を出すとアレだからやめとくけど……。
それ自体はやっぱり正直、気持ち悪かったし、ついて歩いている子供が自分と同じ年代だったりすると、彼や彼女は学校では一体どうしているんだろうと、あの時から思っていたから、本作でそれをまざまざと思い出した。
明晰に、はきはきと、団体の謳い文句を声を張り上げて聞かせていた彼や彼女たちが、きっとこの息子、保や団体代表の娘、カノンのように、ただ親を好きだから、嫌いになれないから、頑張っていただけなんだろうと……。

そう、いかにもな宗教団体、それこそ一時社会問題になった、壺を買わせるとか、集団結婚式とか、まだそれはマシな方で、オウムとか……が新興宗教のイメージだから、もう宗教=危ない、って感じで、冠婚葬祭に使われる以外はノーサンキューてのが今の日本の現状、だよね。
でね、その中で本作に出てくる宗教団体ってのが、実に絶妙なんだよね。妹からカルト宗教に入ったのかと激しく問い詰められて、そんなんじゃない、お金を要求もされないし、ただ神の教えを信じているだけだと、拒絶反応を示しまくる彼女の気持ちが、“うっかり”判りそうになっちゃうんだよね……。

一体何がいけないのか、信じることがいけないのか。それはオウムのドキュメンタリー、「「A」」でも“うっかり”思ってしまいそうになったことで、オウムが稀代の大事件を起こしてしまったからアレだけど、そうじゃない小さな団体もいけないのかと、信じて、頑張ることがいけないのかと彼女が強硬に主張することに、反論する言葉を、まずこの妹は持たないし、きっと社会も持たない、んだよな。
本作において彼女は、もうこのシーンでは目がイッちゃってるし、なんたって息子にメーワクかけてること判ってないし、そういう逃げ道、作品としての、キャラクターとしての逃げ道があることが、なんとなくズルいとは思わなくもないんだけど、でもちょっと、というか、かなり問題意識を投げかけているのは事実。

えっと、でまあかなり脱線したが(爆)。そう、メインは子供たち、ていうか子供、この一人息子の保であり、その小さな子供社会であり、そしてもう一人、重要な準メインとも言うべき、かつての子供……いや今も充分子供だけれど、逃げ出すことが出来るまでの成長した子供となった、カノンなんである。
保を演じる亜蓮君は、見たことあるようなないような。素晴らしい芝居力で、まさに圧巻。
それもね、単純に、自然な演技だとか、天才子役とか、そんなくくりでは言えない、……まさに、役者に対しての一番の賞賛の言葉、役を生きてる、って感じなの。

物語の最初から父親は蒸発しちゃっていないし、母親と顔を突き合わせて、母親に気遣いまくって生きている。
宗教の勧誘の先頭に立って、成績を上げていた頃は虚構の幸福が得られたけど、そこから転落してからは、地獄の日々。ライバルに追い落とされて、試練は神が与えたもうたもの、という美しき前提もなんかもうごちゃごちゃに腐って行ってしまった母親は、このライバルの財布を盗んでコンビニのゴミ箱に捨て、当然の疑いをかけられる。
なんでバレないと思ったのか。いや、もうそんな思考能力さえなくなって、もうイッちゃってるんだもの。そりゃまあ実質証拠はないにしても、状況証拠というのが通じないのは、もっともっと高等な裁判沙汰になりうる場合だけでさ……。

冷たく追い出されたのに、自分から辞めてやったという気持ちの彼女は、何とか続けていた清掃の職場も辞め(同僚にしつこい勧誘してたから)、息子の保と二人、伝道の道を歩もうと言い出す。
すっかりイッちゃった目で、息子に語り掛ける。学校なんか行かなくていいと。本当に大切なのは何?神様の教えでしょ、と。

彼はさ、彼は……こんなところに来たくなかったし、伝道なんてやりたくなかったし、何より神様なんて信じてなかったし。困難な状況は神様があなたに与えた試練なのだと言われて目を潤ませてうなずく母親を、否定することなど、出来なかった。
子供部屋と呼ばれる部屋に集められた子供たちは、大人たちが熱心に聖書を読んでいる中、無表情にノアの箱舟のイメージビデオを眺めたり、ゲームや携帯をいじっていたり。

その中でとびぬけて年かさだったのが、代表の娘のカノン。見るからに西洋人のいでたちで、思いっきり日本人夫婦である彼らの本当の娘でないことは明らかだったのに、誰もそれを突っ込まなかった。
何より代表の夫婦がカノンを慈しんでいることは、ウソがないように思われた。……その“ウソのない”ことこそが、無邪気とも言えるほどの天真爛漫が、“子供”であるカノンを苦しめているんだけれど。

新興宗教が不気味だったりアヤしかったり、カルトと呼ばれるゆえんなのは、その崇める対照が、創始者である場合なんだよね。オウムも統一教会も幸福の科学もそう。そんでもって総じて金持ち、つまり信者から金を貢がれまくってる。
先述したけど、本作で描かれているような、私ん家にも訪問された覚えがある、こういう宗教がそのあたり一概に斬って捨てられないのは、彼らの上には見えない神がいて、それは私らもよく見知っている、いわゆる抽象的価値観の神であるから。
じゃあ“肉体として存在する神”と“抽象的価値観の神”にどこに差があるのかと言ったら、途端に答えに窮してしまう。キリストも仏陀も、一応はかつて肉体を持って存在していた人物、という前提なんだもの。
……なんだか人間は難しくなってしまった。純粋に人も、ナニモノも、信じられなくなってしまった。

カノンは女子高校生で、どうやらエンコウに手を染めている。伝道に成績を上げたかつての子供の先輩として、保にノウハウを教え、トップ成績をとらせてしまうんである。
そのことが保たち母子の転落につながったとも言える訳だけど、カノンは最初から保の中にかつての自分を見ていたのかな。
「(親のことを)大好き。嫌いになれない。だからやっかいなの。保ならこういう感じ、判るでしょ」と、普通の女子校生、エンコウもやってるような酸いも甘いも噛み分けた女の子なら、小学生の男の子に、そんな共感を求めないよ。
でもここでは二人は、まさに同じ、同志であり……ただ、ちょっと、ほんのちょっとだけ違う。カノンは未来への時間が開けていて、それは彼女自身が苦しみの中から開いた時間で、保はこの時間の中に閉じ込められている、止まっている、ということ。

思い悩んだ保がカノンに相談してきて、カノンが「一緒に家出しない?言っとくけど、これ本気の計画だから」と持ち掛けた時、そうだ、彼女と逃げなよ。逃げるしかない。こんな親は捨てていい。子供だって捨てていいんだよ、と思ったけど、本当に思ったけど、きっと保はそうしない、出来ない、いや、そうしない、だろうと、思った。
迷う自分の選択をゆだねるように、決死の覚悟で母親に、伝道はイヤだと、もうやめていいかと告げた。伝道が上手くいかない道中だった。
母親は、それまでの「あんたがちゃんとやんないから、何度同じこと言ったらわかるの」という、棚に上げるにもほどがある放り投げっぷりの時と同じ、鬼のような態度を崩さずに言った。
「あんたも私を裏切るの」そして、「いいよ。わたし一人でも出来るから。帰んなよ」と。

帰る、と彼女は思っていたのだ。それでも息子は家に帰るだけだと。保が「お父さんが死んで、泣かなかったのは、お母さんが泣いてなかったから。本当は泣きたかったんだ」と言うと、母親は氷のように冷たい目を向けて言った。「そんなこと、頼んでない」と。
……私ね、この時、もう保は家を出てもいいと思ったの。それだけの理由が充分、出来た、って。
カノンも言ってた。本当は大好き。嫌いになれない。それが厄介なのだと。
保から、本当のお父さんとお母さんじゃないよね、と改めて聞かれて、見るからにそうでしょ、今更そこツッコむ?と笑った。そのあたりにもかなりの事情がありそうだけれど、だからこそ、カノンは大好き、嫌いになれない、連鎖から逃れられなかったのかな、なんて考えることこそベタなんだろう。
けれど、そのあたりをあっさりと組み込み、強い印象を残すのが上手いんだよなあ。

カノンの言う、このまま一緒にいたら、自分て何なのか、自分が判らなくなる、という表現はいかにも青春期のあいまいな青臭さだったけど、そのあいまいささえも手掛かりに出来るだけの時間がカノンの中には流れ、保にはまだ足りなかったのかもしれない。
カノンと一緒に大阪に行く、と保は決めて、駅で待ち合わせるけれども、カノンは「未収金を集金しなきゃ」とラブホテルへと消えていった。
一時間経ったらドアを思いっきり叩いてと、部屋のナンバーを保に告げた時、カノンは殺されてしまうんじゃないかと思った……それこそベタな想像なんだけど。

でもカノンは死なず、男にボコボコに殴られて、目が口が痛々しく腫れ上がって、「もう本当にこれで、帰れなくなった」と言った。本当は、少し、迷っていたのかもしれない。
そして夜行バスの出る新宿へ向かう電車の中、通過待ちの時間で、保は、やはり行けない、とカノンに告げる。どうして、とカノンは一瞬呆然とするも、いいよ、判った。お母さんのところに帰りなよ、と送り出した。
「私のこと忘れないで。保に忘れられたら、誰も私のことを覚えていない気がする」と、涙の味がしそうな、切ないキスを置き土産にして。

この列車の起点から、未来への時間がそれぞれ逆方向に二人に振り分けられたような気がしてならないんだ。いやそれは、保に未来がないってことじゃなくて、カノンの未来だって、開ける希望はあるけど、霞んで見えないし、そして保は、……保はこの物語の時間の中に閉じ込められた保って気がして。
母親から何度も練習させられた「一人の人は幸せになる権利があります」という謳い文句を、ドアを開けた、不気味なシルエットだけの母親に、勧誘客相手よろしくニッコリと練習の成果の笑顔をもって語りかける。
母親が迎え入れるのか、ドアを閉めて拒絶するのかさえ、描かれず、カットアウトされ、エンドロールが流れ始める。

あまりの残酷な時間の閉じ方にゾッと鳥肌がたつ思いがしつつも、どこかでこんな結末を予感していたように思う。保はこの時間の中だけの保なのだ。
自分がいじめていた相手からいじめかえされ、父親が失踪、自殺体となって発見され、母親は壊れ、自分は学校という小さな社会からさえ断絶させられる。そこが、つまらないいじめのループが繰り返され、「先生も、子供の頃はケンカしたモンだ」などと救いの手など皆無の場だったとしても、子供にとっての必要な社会なのだ……。

ということを思うのは、こうして大人になって、こうして客観的に眺めているからで、そして子供時代は、その時代によって、大人社会よりも、大人が監督指導がついていけなくなるほど変容していくんであって。
大人が子供を教育、指導、監督する、という前提、というか理想がムチャだと、大人がいい加減自覚すべき時に来ているのかもしれない。そうでなければ、保のように、時間の中に閉じ込められたまま出られない子供たちがなくなることはない。
大人はどうとでもなる。案外どうとでもなるのだ。あっさり、ケロリとするものだ。でも、保の5年後、10年後を考えること、予想することができない。それはなんて、不幸なことなんだろう。★★★★★


悪太郎
1963年 95分 日本 モノクロ
監督:鈴木清順 脚本:笠原良三
撮影:峰重義 音楽:奥村一
出演: 山内賢 和泉雅子 田代みどり 久里千春 杉山元 野呂圭介 小島和夫 木下雅弘 高峰三枝子 芦田伸介 沢井正延 久松洪介 佐野浅夫 東恵美子 紅沢葉子 青木富夫 小園蓉子 柳瀬志郎

2013/4/11/木 京橋国立近代美術館フィルムセンター
今回は逝ける映画人をしのんでの特集上映。しかし本作でその対象となった、主演の山内氏を私は知らなくて……いや恐らくだけど(爆)。
でもお顔見てみても多分知らないなあ……いや多分(自信ない……)。本作で共演している和泉雅子と「二人の銀座」というデュエットでヒットを飛ばしたという。そのタイトルはなんか聞いたことがあるけれど……。

悪太郎、わるたろうと読むのかあくたろうと読むのかとか思っていたが、あくたろう、でいいんだよね?劇中では冒頭に一回ぐらいしか言ってなかったような気がする。
素行不良で中学を自主退学になった東吾。中学生っつっても劇中では四回生とか五回生とか言っていたから、恐らく今の換算で言うと高校生なんだろうと思うが、それにしても確かに悪太郎である。
いや、ね。この当時の素行不良なんてフタを開けてみれば大したことなかんべ、と思っていたら、確かにこの東吾は結構トンでもないヤツ。

まあ退学になった理由は、おカタイお家柄の女子とイイ中になって、手を握ったかそこらだったのに怒鳴り込まれたとかゆーことらしいが、ま、でもそれも最終的な理由であって、そこまでもいろいろと大暴れだったらしいし。
回想の形で語られる彼の奔放な遍歴は確かに凄まじく、特に手練手管の芸者に「岡惚れしたんやわぁ」と口説かれて筆おろしを済ませるシークエンスは、今見てもエロ過ぎて衝撃!
盆踊りの夜、掘っ立てられた筵の小屋やら小船の上やらでイチャイチャする輩がわんさかいるという描写も何ともおおらかだが、そこをハダカ同然の姿で行きつ戻りつしては、先客カップルを蹴飛ばして場所確保したりと、なんともはや。
小さな渡しの上で座り込んでイチャイチャし、大きなお尻を画面いっぱいに突き出して、彼をつんつん誘惑する、その画のインパクトにのけぞる!

西日本特有のやんわりとした訛りで、「うちは別に、ぼっちゃんに他に好きな人がいてもちっともかましまへん」と、つまり、身体でエエコト出来ればそれでいいと!もうあからさまに!!
その回想を聞かされて口をあんぐり開けて、呆けたようなため息ともなんともつかない合いの手を入れながら、すっかり毒気に当てられた感の同級生のリアクションがホントに可笑しくてさ!そりゃ、このぐらいだと思うわよ、中学生……ホントは高校生……まあいいや……だもの。彼は東吾の同性の友人として唯一、常に彼に進言してくれて、イイヤツなの。
ホント、この芸者の女の子の存在は本作の大きな魅力で、そして後から思えば、大きな伏線になっているのだった。

東吾の本当のもくろみは、神戸の中学を自主退学になって、東京の学校に編入することだったんだけど、母親の厳しい態度によって、地方の中学校に編入することとなる。
そこは、母親が頼った叔父が紹介した人格者が、校長を務めている学校である。この校長がつまり、彼の性根を叩きなおしたる!的な位置づけではあるんだけど、そこそこ厳しく言うのは最初だけで、基本、東吾はやりたい放題、その結果、またしても退学、今度は本当に放校されてしまうんである。
正直、この校長先生が東吾を監視していた風には見えず、彼の奥さんの方がハラハラしながら見守っている。先述の、芸者との体験を同級生に自慢げに披露したシーンでも、茶菓を持ったまま廊下で固まり、行きつ戻りつ、ついには耐えかねて、お盆だけさーっと廊下から差し出す、そのカット一発で可笑しい!

そうそう、これ、鈴木清順監督作品なんだよね。なんか偶然、集中して清順作品を見てる。本作に関しては、まだ彼の強烈な個性、ムチャクチャなまでの様式美までには至ってないんだけれど、このキャラクターの強烈さや、大らかな性の描写に、その萌芽を見ることが出来るのかもしれない。

そして、和泉雅子である。後年はすっかり女冒険家のたくましさで、こんな可憐で病弱なイメージなぞ微塵もない(爆)彼女だが、面影はハッキリと残っている。
まあそりゃそうか、本人なんだから(爆)。特にその顔の大きさと(爆爆)、後年、和泉雅子と言えばパッと思い浮かぶソバカスは、冒険家時代に出来てしまったという訳ではなく、もうこの時からあったんだわね。あ、今あるのはソバカスではなくシミ??そーゆー差別は良くないっ(差別?)。

和泉雅子演じる恵美子は病院の一人娘。その美貌で東吾の周りにも岡惚れ組が結構いる。そのうちの一人が東吾を目の敵にする学校の風紀委員の上級生だったりするもんだから、タイヘンな訳なんである。
東吾はこともあろうにドスを振り回し、その“タコ”と揶揄されるいかにも冴えない上級生を撃退。だってもうそれだけで腰抜かしちゃって、いざるしか出来なくて、そのまま川の中に入っていっちゃうから東吾の方が慌てちゃうぐらいなんだもの(爆笑!)。

いやこんな、一対一の場面のみならず、大勢で風紀委員が押しかけても、東吾は自慢のディベートで論破しちゃう。てか、知識を鼻にかけたヘリクツって感じもして、あんまり好感は持てないけど(爆)。
確かに東吾は悪太郎と呼ばれる素行の悪さ以前に知識と教養があって、小説を読んでいるだけでナンパだ、と押しかける先輩風紀委員たちをケムに巻くような論破ぐらいお手の物なのだ。
いやいや、これは、東吾が小説に情熱を傾けているからに他ならず、だからこそ恵美子ともあんな燃えるような恋愛をした訳だけど……。

でも、恵美子に近づく為に、彼女が購入したストリンドベリの小説を彼も読み、恐らくにわか勉強したんじゃないかなあ、などと思う。
そんな風には劇中では明示しなかったけど、東吾が本屋に買いに行ったのは白樺、つまり日本の小説に耽溺していた筈で、まあそりゃあ、小説家を目指しているんだったらまずそうだろうと思うしさ。
いやでもそれは、イジワルすぎる見方かな。恵美子がストリンドベリを買ったと知った彼は、「こんな田舎でストリンドベリを読む子がいるのか」みたいな発言をしてるんだもん。それ自体、ホンットイヤミな都会っ子のボンボンだけど、後に東京に出た彼が苦学することを考えれば、それもまた見事な伏線かなあ。

ストリンドベリをネタに、まんまと恵美子に近づく東吾。にわか雨がザアザアと降りしきる場面、雨宿りをしませんかと問いかける、実に画になる場面。
恵美子といつも一緒にいる、こちらは判りやすくおへちゃな、何ともチャーミングな友達、芳江の方がアッサリその誘いに乗る。でも、さっさと部屋に上がった彼女を尻目に、東吾と恵美子は軒先でひとしきりストリンドベリの話で盛り上がるんである。
しょざいなげに、というよりは少々ずうずうしく部屋の中をウロウロしている芳江と、軒先の二人のカットバックが印象的。もうこの後ほどなくして、二人は接吻を交わす。解説では東吾がムリヤリ奪ったみたいに書いてるけど、いやいやいやいや、かなーりいいムードでしたやろ!!

それから二人は急接近、旅館の娘の芳江は世情に通じていて二人の逢瀬の場所をセッティングしてくれるし、旅館の敏腕女将である芳江の母親も、世間の目のことを気にしなさいとチクリと言うけれども、風紀委員が押しかけて来た時にはピシリと追い返してくれる、その様が実にカッコ良くて、見惚れてしまうんである。
そういうのがあるからなあ、余計に東吾のガキっぽさが段々と露呈されていくんだよね。彼は確かに頭がいいし、度胸もすわってるし、魅力的な男の子だとは思う。でもそう、恵美子が彼との逢瀬旅行の時に言う、でも、子供みたいなところがある、と言うのが、シンプルだけど凄く言い当ててて。

“でも”っていうのは、彼が「(中学生だけど)自分は大人」と、自信マンマンに言い放つことに対してであって、こんなことを自信マンマンに言うこと自体が子供なのだと、彼が自覚していないっていうのがね……。
それは例えば、女を(それも玄人女を)知っているとか、タバコをたしなんでいるとか、小説が軽薄なものではないことを知っているとか、あるいはもっともっと単純に、こんな田舎町で育ってないから、みたいな……。
ホント子供じみた言い様なんだけど、ただその中で、彼が小説家になりたいと思っていること、小説に向ける情熱、尊敬、知識の深さは確かにハンパなく、だからこそ恵美子と心を通わせたのだし。

でもね、この時には確かに彼はその点でも子供だった。小説に描かれた人生そのもの、あるいは世界そのものというものを、彼はきっと、理解してなかった。
評論家に毛が生えた程度の知識が“大人”だといい気になってた。確かにそれで上級生たちをコテンパンに出来ちゃったからさ、だから余計に……。

私ね、本作が結果的に、ひとときの筈の別離の間にヒロインが死んじゃって、彼が一人、人生に踏み出していくというのがね、なんか悲恋モノみたいで単純でヤだなあ、と思ってたの。でも彼が小説家を目指しているなら、その先にそれがかなうなら、こんな子供のままの彼ではいけないのだ。
逢瀬旅行事件があり、恵美子の親が彼女を軟禁に近い状態で閉じ込める。退学が決まった東吾は、最後になんとか彼女に会いたいと、ムリヤリ連れ出す。
きっと大学に進学してくれ、京都でも東京でも、そうしたらいつでも会える。それは彼らがずっと言い交わしていた甘い未来だった。
ふと彼女の顔に影がさした。ならばと今自分と一緒に来てくれと、ムチャなことを東吾は言った。彼女は首を振り、涙を流して彼を振り切る。

その後時間が飛び、東京で苦学している東吾、バイト中にチンピラのケンカを買ってしまってひと悶着した後に、ボロい下宿に帰ってくる。滑り込んだ速達に気付かず、書きかけの小説の原稿に突っ伏して寝てしまう。
翌朝、朝の光が差し込んだその速達を目にする。芳江から、恵美子の死が告げられた手紙。慟哭し、さまよい、ある小さな寺の尼住職に経を上げてもらう。むせび泣く。
この尼さんの、華奢な眼鏡に隠れた端正な面立ち、その静かなたたずまいと静寂の経が美しく、ただ、ただただ、見とれてしまう。小説家を目指す彼の人生はまだ始まったばかりだと、ナレーションが入り、東吾の背中が映し出される。

こうして書いてみると、タイトルからイメージされる悪たれ悪ガキの物語とはあまりにかけ離れていてね!たださ、東吾のそうした子供っぽい部分とチャーミングに関わるワカモンたちのエピソードが何とも甘酸っぱくて良いからさあ!
風紀委員として東吾を討伐する立場にあった上級生が、東吾のピシリとした態度にホレ込む。そして、住み込みで働く女の子との、つまり地主と雇い人の関係、その苦しい恋を相談する。

東吾は「男と女なんだから」とか、判ったような口をきき、それこそ小説で出てくるようなロマンティックな逢瀬のシーンを語ってみたりするんだけど、それが「そのとおりだよ!」と相手から感に堪えたように言われるとドギマギしているのを隠し切れない。
「くちびるがまくれあがるようなごっつい」キスをするんだと聞かされ、そうだろうという顔の下に狼狽している風味が微かに感じられるのが、何とも何とも、可愛くてさ!

本作の中で、最も心にキーンと刻まれたのは、逢瀬旅行先で、観光名所と思しき古い寺社の前で、若い二人が行ったり来たり、なんてことない話を、青春の会話を交わしながら、何度も往復、行ったり来たり。
本来の旅程、恵美子の親に報告している旅程を無視して、ただただ二人でいたいと貫いた旅の、一番重要なトコは恐らく、二人が“結ばれた”ってトコだったろうとは思うけど、このなんとはなしの、でも青春の燃える、悩める胸のうちを吐露しあう、決して叶わない未来を語り合う行ったり来たりが、ひどく刻まれた。

それは、後にね、“満場一致”で放校になった東吾に、校長がしんみりと言葉をかける。先述では彼を放任してたみたいに言っちゃったけど、確かにそうだったとは思うんだけど(爆)、ただこの場面は良かったの。
10代、20代でしか出来ないことがある。それを後になって、40代、50代でやろうと思っても出来ないことだと、彼は言うの。
だからお前が正しい、とまでは言わない。言わないけど、恵美子の父親から怒鳴り込まれて、教育者としての責任を問われた時、彼は、あなたに言われる前に、自分自身で感じていますと、静かに言うの。静かに。

つまりそれって、相手の意図している“責任”ではない、監視し、閉じ込め、禁止する“教育”ではないってことを、静かに反論している。
ただね、その怒鳴り込んでくる恵美子の父親である校医のセンセは、ナースにところかまわず手を出すなんていうエロさがなかなか魅力的だったんだけど、こんな感じで後半は純愛モノにシフトしちゃったからなあ。

当時からも過去の時代を描く物語であるノスタルジーの雰囲気、その大らかなセクシャルな青春、だけどやっぱり純愛悲恋物語、当時の製作環境を色々感じちゃう、鈴木清順といえども、みたいな。 ★★★☆☆


悪の教典
2012年 129分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:三池崇史
撮影:北信康 音楽:遠藤浩二
出演:伊藤英明 二階堂ふみ 染谷将太 林遣都 浅香航大 水野絵梨奈 山田孝之 平岳大 吹越満 KENTA 西井幸人 藤原薫 綾乃美花 工藤阿須加 松岡茉優 小島藤子 宇治清高 磯村洋祐 鈴木龍之介 塚田帆南 岸井ゆきの 宮里駿 横山涼 堀越光貴 林さくら 藤井武美 菅野莉央 山谷花純 武田一馬 竹内寿 米本来輝 岸田タツヤ 神崎れな 山本愛莉 山崎紘菜 荒井敦史 秋山遊楽 夏居瑠奈 伊藤沙莉 三浦透子 中島広稀 永瀬匡 尾関陸 秋月成美 藤本七海 兼尾瑞穂

2013/1/11/金 劇場(ヒューマントラストシネマ有楽町)
ラストの「To be continued」に、えーっこれ続くの、そりゃないよ、それなら言ってよーっ!と心の中で叫ぶ私。
それだったら観なかったよと、極度のシリーズキライの私はぶつぶつつぶやき(そのワリには旧作は観る……つまりリアルタイムでついていくのがめんどくさいナマケモノ(爆))、でもこれってそういう意味での「To be……」だったのかなあ。
蓮実がこれからも舞い戻って殺戮を続けていくという意味でだったのか。もういいよ……お腹いっぱい……。

そうか、三池作品を観るのは久しぶりだなあと思う。熱狂して追っかけてる監督の一人だったが、多作と、いかにもな商業作品を連打するようになってからは怖気づいて、ここんところはあまり足を運んでいなかった。
本作に関してはセンセーショナルな作品告知で、三池作品だという意識もなく、ああ三池監督だったんだ……と観終わってから思った。
あ、でも主演の伊藤英明が再び三池作品に出れて嬉しいみたいなこと言ってたっけ。てゆーか、そうかそうか、あの(ある意味)伝説の「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」伊藤氏は出ていたんだっけ。

私はドラマはほとんどチェックできてないんで、伊藤氏が「海猿」でスターになったことは知っていても、それゆえに彼についているイメージとかにはあまりピンと来ていないところがあって、それが本作に対峙する上で良かったのか悪かったのか。
本作はなんたって彼を殺戮教師にキャスティングしたことが、一番のアピールポイントだったと思うからさ。そういう世間的イメージのついている彼が、こんな役を演じるなんて考えられない!みたいなさ。そのギャップがあるからこその恐ろしさ、みたいなさ。
なんか私はそのギャップ自体にきちんとついていけてなかったから(爆。ホント世間から取り残されている……)、うーん、という感じだった。

確かにさわやかな教師の顔がだんだんと崩されていって、最後にはライフル片手に生徒をバキュンバキュンと殺していく殺人鬼は恐ろしいんだけど、表情が鬼畜に一変する訳でもないし、かといって無表情の恐ろしさでもないし、動機もイマイチよく判らないし(まあこんな殺人鬼に動機なんて求めるのがおかしいのかもしれないが……)、頭のいい人の筈なのに、なんかバカみたいな策をとるんだな、なんて思ったりして。

動機、動機、かあ……。なんか後から解説を読むと、“他人への共感能力を持ち合わせていない”サイコパス、つまり人格障害である、みたいな設定がなされているんだけど、それがイマイチよく判らなかったのが難しかったかもしれない。いや、それは私の理解能力の低さだろうか(爆)。
本作は彼の少年時代、そんな我が子の人格欠如に悩む両親が話し合っているところから始まり、世間から隔離すべきだ、と主張する父親、それを泣いて諌める母親、というところに、なぜか全裸の少年がすっと入ってきて、どうやらその後両親惨殺……。
その時の傷がなぜか蓮実の背中に残っている、のは、強盗に見せかけて自らを傷つけたからで、彼がそんな罪を犯したなんてことは世間には知られることなく、時は過ぎた。

全裸、全裸なのよねー。現在の時間軸、つまり伊藤氏はやたら全裸でシャワー浴びたりぶら下がり腹筋したり。やたらやたら、その筋肉美を見せ付ける。
少年時代からハダカになってたんだから、そういう自己顕示欲的なものなのかとも思うが、やたらいい身体をしてる伊藤氏に、うーんこれはヤハリ海猿効果だろうかなどといらんことを考えてしまうのはジャマなことだよなあ。
この蓮実がやたら出来のいい男で、有名国立大から(どこだか忘れた)、アメリカの有名大学(更に忘れた(爆))にさらりと行っちゃうような奴で。
で、そこで更に彼のサイコパス能力は磨かれてしまった。同じ嗜虐性を持つ学生に近づかれ、しかしコイツの生ぬるい思想は蓮実には合わなかったらしく、ガソリンぶっ掛けて火をつけて殺してしまった。
その後、蓮実は密かにブラックリストに乗せられて国外永久追放。ていうかなぜフツーに捕まらない。わっかんないなあ。

そんな蓮実の“不自然な隙間”に気づいて不審を抱いたのが、同僚の物理教師、釣井。蓮実は彼の持っている工学的能力を最初の自身のカクレミノにしようとするんだけど、それ以上に釣井がかぎつける同類に対する嗅覚に気づき、まず抹殺。
工学的能力……携帯を圏外にする妨害電波を、カンニング防止を理由に持ち込もうとして、それをアマチュア無線部顧問の釣井を協力者として盾にしようとしたんだけど、蓮実自身、そんなことはお手のもんだった訳で。
釣井は自身のヒクツな性格に最もカンが触る筈の蓮実がなぜかそれを感じさせなかったことで、不審を持つ。

ゲーム感覚で集団カンニングを起こしている実際は優秀な生徒、早水に問われて蓮実の過去の“隙間”のおかしさを淡々と説く。まさかそれが、蓮実に盗聴されているとも思わずに。
そして蓮実にジャマモノと判断された釣井は電車のつり革に首吊りを装った形で殺され、そのことで蓮実に盗聴されたことを知った早水もまた、散々いたぶられて惨殺されるんである。

……こうして書いていくと、確かに恐ろしい男なのだけれど。この時殺される釣井を演じるフッキー、早水を演じる染谷君、双方年代は違えど強い個性と影響力を持つ俳優さんで、それが大して物語に貢献しないまま、あっさり殺されてしまうのかと、そのもったいなさの方が衝撃で。いや、最後まで見れば、彼らは充分貢献した方なんだけどさ。
……だってあの山田孝之をあの程度で終わらせるなんて、もったいなさすぎるし!いや、あの程度って訳じゃないのかもだが。

山田氏が演じるジャージ上下がダサすぎるけど生徒と協調する気なんてさらさらない……それこそ、外見的には蓮実より彼の方がそう思われる、ってあたりがミソなのか……柴原は、女生徒の弱みにつけこんでセクハラ、つーか、食っちゃうキチクなんだけど、まー、カラミを見せる訳じゃない、暗示だけだしさ。
山田氏が醸す、悪相ではあるけど一種トボけた感じが、文化祭準備中の生徒たちにドラムの見事な腕前を披露して、先生スゲー!なんて言わせるあたりの可愛らしさに通じたりして。
ひょっとして彼は、ミヤに対してもセクハラではなく本気で好きだったのかもなんて思ったりするのは、蓮実から投げられた彼女の下着をくんと嗅いで、「……ミヤ?」と判っちゃう、ちょっとマヌケな可愛らしさがあったりするから。でもその直後、バキュン!と撃ち殺されちゃうんだけどさ……。

なんだろう、なんだろう。私何が不満なのかな。あのね、三池監督はさ、こーゆー、スプラッタも凄く得意な人じゃん。本作で、陽気なマック・ザ・ナイフを、シャワーのように血しぶきがあがる殺戮場面に高らかに響かせたり、そういう残酷な遊び心に震え上がらせるのも上手いと思ったけど、てゆーか、本気で楽しんでいる感じがするのが三池監督らしい怖さだよなとも思ったけど。
でも、あの、一対一でリアルに痛い感じが、「オーディション」「インプリント 〜ぼっけえ、きょうてえ〜」その感じが、その恐ろしさが、なかったかな、とも思って……。まあそれはさ、制作費の関係上(爆)、本作はそんなところにこだわるより、もっともっと、大きな恐ろしさなんだろうと思うしさ。

でも、何となく先述してきたような、伊藤氏に対する決定力不足というか……まあ殺人鬼に完璧な正解を求めること自体がおかしいのかもしれないけど、でもだからこそ、理不尽な怖さが、もっと明確にほしかったような、気がしてさあ。
かつて黄金期のホラー映画には確実にあった、理不尽な怖さ。でもそれは、最初から理不尽な殺人鬼であった訳で、誠実でさわやかで信頼できる教師からのギャップ、となると、これは想像以上に難しいのかもしれない。
それこそ、オリジナルとなる原作上であれば、読者の想像力は映画の観客よりずっと秀逸だと思うからさ(爆)。

それとね、本作のことを知った時に、即座に頭に浮かんだのが、「バトル・ロワイアル」だったのね。高校生が理不尽な殺し合いに巻き込まれる、と。多分多くの観客が頭に浮かんだと思う。
本作はただただ蓮実に殺されるだけ、そこから逃げ出すために知恵を絞りあったり、裏切りがあったりといったことはあるにしても、それもほとんどがあっさり蓮実の銃弾に打ち抜かれてしまうし。

バトロワでは号泣したのになあ、などと思って、そりゃそうだよな、と思った。だって彼ら同士が殺し合いの当事者になって、友達や恋人がその相手になることに、苦しんだり悲しんだりしたバトロワとは、違うんだもの。
それでも、蓮実から逃げるためのギリギリの場面での生徒同士のやりとりがもっと切実にあればとも思ったけど、この展開になると、もう蓮実の殺戮のショッキングさに重点を置かれるんで……。
あるいはただただ高校生たちが彼の銃弾にあっさりと血だらけになって倒れていく、ショッキングさの方こそかな。なので、生徒おのおのがあまり見えてこないんだよね。……まあそのう、それはそれこそ私の理解能力のせいかもしれないが(爆)。
やっぱりやっぱり、せっかく高校、高校生たちがメインの一翼であるならば、と思うからさあ。高校生が、制服で、血だらけになるなんていうとっときが、こんな風にあっさり片付けられちゃうの、もったいないっ(うわ、私、サイテー……)。

そりゃ、キーマンになる生徒は何人もいる。先述した早水、柴原にセクハラされていることを相談したことで蓮実と肉体的にも親密になったミヤ、不登校の生徒の家に放火したと疑われた(実際の下手人は蓮実)不良気味の生徒蓼沼、個人的には一番ドキュンだった、平岳大扮する久米先生と関係を持つ遣都君演じる前島。
平氏と遣都君!まず画的にこの二人とゆーのはヤバすぎるし(爆)。はっきりとしたカラミがある訳じゃないんだけど、クレー射撃を見事に見せる久米先生に「……カッコイイ」とつぶやく遣都君だけで淫靡さ大爆発。
肩を抱かれていざなわれ、キャシャなハダカの遣都君が、どーやら久米先生にナメられているらしいひかえめなあえぎを見せるほんの短いカットにドカーンと打ち抜かれて悶絶死。
うっわ、うっわー、ヤバいわ、ヤバイわーっ!遣都君は華奢な美少年を崩さぬまま、こーゆーことを結構ヤッてくれるアブなく素晴らしいコっ。あー、ヤラれたわーっ(爆)。

……気を取り直して。だから、ね。彼らは愛し合っていたんだから、んで、蓮実は生徒虐殺を久米先生のせいにしようとしていたんだから、なんつーかなあ、もうちょっと、色々と葛藤が見たかったというか……。
ただ単に平氏と遣都君の画の美しさ、ヤバさに、こ、これだけかよ!もっと見せてよ、生殺しかよ!と思ったからかもしれんが……(キチクー)。

スタンダードナンバーが、オリジナルが人殺しの歌だったというトリビア的ショッキングな下地、蓮実の中だけに見えている神話的イメージ、それを投影したカラスの邪悪さ。
生き残った生徒に罪を暴かれて「彼らは悪魔にとりつかれていた。神が自分にささやいた」などと言ったのは狂った自分を演出したのだとは思うけれど、でもカラスとか神話とかは、ホラーの王道、だよね。
でもでも、それが生きていられたのは、デジタルの今ではなく、フィルムの中にそんな邪悪が映りこみそうだった時代、だったかもしれないなあ、やっぱり……。

容赦ない殺戮、殺人鬼の恐ろしさはジャック・ニコルソンを連想させたけれど、伊藤氏のキャラの決め切れなさは、そこまで行くのは難しかった。
でも、あのシーンは、さすがに怖かった。蓮実先生を、ハスミンを信じていたのに、ただただ殺されていく生徒たち、特に、屋上に出るドアの前に追い詰められて、ここだけは撃たれる生徒を見せずに、団子状態になった生徒たちに容赦なく打ち込む蓮実を引きで見せる場面。
壁にジャマされて、追い詰められた生徒たちは見えない。こんな狭い場所に追い詰められて、もう逃げること出来なくて、蓮実に撃ち込まれるのに悲鳴を上げるしかなくて、尋常じゃない血しぶきが火山のマグマのように吹き上がる。
コンビニに売ってる様なやっすいレインコートをはおった蓮実に降りかかる血しぶき。ライフルの音に耳をつんざかれてあーもう!とイラ立つ蓮実にコミカルさをゆだねているのがどこか中途半端に感じてここまではイラッとしていたんだけど、この場面だけは、それがホント、恐ろしかった。★★★☆☆


あの頃、君を追いかけた/You Are the Apple of My Eye
2011年 110分 台湾 カラー
監督:ギデンズ・コー 脚本:ギデンズ・コー
撮影:ジョウ・イーシエン 音楽:ジェイミー・シュエ/クリス・ホウ
出演:クー・チェンドン/ミシェル・チェン/スティーブン・ハオ/ジュアン・ハオチュエン/イエン・ションユー/ツァイ・チャンシエン/フー・チアウェイ

2013/9/18/水 劇場(新宿武蔵野館)
友人に誘われる形で、久しぶりに台湾映画を鑑賞。私にとっての台湾映画の印象は、瑞々しいこと。すっかりやさぐれてしまった昨今の日本映画ではお目にかかれない瑞々しさに、たまーに台湾映画を観ると必ず触れることができる、という印象。
本作も瑞々しいことは確かに瑞々しいけれど、そんな私自身の台湾映画の……つまりは繊細な印象とはちょっと、違っていた。ちょっとというか、かなりというか。
これは男子バカの目線で、それこそが魅力だということを、観た後に友人とも笑いあったものだった。
んでもって、その男子バカ自身による自伝的小説で、彼はそれをそのまま映画の初監督作品にまでしてしまった訳で。

めっちゃ青春の、キラキラの青春の、私らの時代にも覚えのあるような女子と男子のピュアすぎるぶつかり合い。
とはいえ監督さん自身は私らよりぐっと若いし、こんな青春が共通認識としてあるのは意外な気はするけど、そこはそれ、やはり台湾だからなのかなあ、と思う。
このちょっと、どころかかなーり気恥ずかしい作劇の仕方、それこそ今のやさぐれ日本映画ではお目にかかれずとも、一昔、いやふた昔以上前には確かになんとなく覚えがあるような。
たのきん映画とか(爆)、少年隊あたりのジャニーズ映画とか、ありそう、あったような気がする。
たのきん映画っ、あー恥ずかしい。でも結構いい作品もあった気がする。大人の階段を上るのよ。

台湾映画や、時に韓国映画にも時々感じる、このまぶしく懐かしい感じは、別に日本がススんでいるからという訳ではないだろうけど、でもなんか、その国が一度は通り過ぎる純粋さのような気がして。
冒頭に語られる、ジャッキー・チュン(チェンじゃない訳!)とか、あとは台湾の有名人なのだろう、知らない名前とその事件が挙げられて、こんな時代だった、と振り返っていく。

振り返るのは主人公のバカ男子、いや元バカ男子、いやいや、最後まで見てみると、充分最後までバカ男子のコートン。つまぶっきーと山本太郎を足して、テキトーに割ったような顔をしている。
家の中で全裸でいるという設定は、彼自身のアイディアだというのを後で知り、なかなかセンスあるんじゃん、と思う。
正直本作のコメディ要素は、そうした懐かしさが気恥ずかしさに化学変化することの方が多くてなかなか素直に笑えなかったけど、この全裸父子には思わず噴き出しちゃったもんなあ。

冒頭は、彼が友人たちに「花嫁を待たせる気か」と聞かれてニヤリと振り返り、上着を羽織って出ていくシーン。そこから時間が巻き戻されて、彼らの学生時代を語っていく。
いずれこの冒頭に戻っていくんだろうなというのを予感させるけれど、オバカな私は実際に戻るまで、すっかりそのことを忘れている。
ダメだな、だってこれって重要なシークエンスじゃん。つまりコートンが花嫁を待たせていると観客に思わせているからこそ、ここからの展開も、そして大オチまでもが効いてくるんだから。私、ダメダメだなー。

惹句では、全ての世代に懐かしさを感じさせるとかなんとか書いていたけれど、正直に言うと、まあそれは難しいと思う。先述したけど、バカ男子の目線から見た青春時代であって、女子の造形はあまりにヒロイン然としているから。
というか、彼らの目に映る女子はあまりに単純で、マドンナである美少女と、その友達でちょっと格が落ちるけど気さくでいいヤツ、この二つしかない。それ以外は見事に、のっぺらぼーのへのへのもへじ状態なんである。
バカ男子たちがバカなりに、5パターンも用意されているのに比べて、あまりにお粗末すぎる。
ていうか、女子はもっと粘着質で怖くて難しい存在で、こんなモテ女とその友達がさっぱりさわやか女子高生なんてありえないよーっ、と高校時代寝てばかりでさっぱり記憶がないダメ女子高生だった私は思うんである(記憶がないなら言うな……)。

でもね、不思議なことに、そんな風に心の片隅で思っていても、あんまり腹が立たない。むしろそんな風に、わざと腹を立てているようなところがある。
確かに自分の懐かしい思い出には程遠いのに、やはりどこか懐かしく感じるのは、いい意味で、青春の記憶というものをねつ造しているからなのかなと思う。うーん、なんか言い方が良くないけど、何て言ったらいいか……。
例えばね、これを当時、あるいは当時からそう遠くない、20年ぐらい前の自分が見ていたら、そんな風にケッと思ったと思う。そんな女の子どんだけのパーセンテージだよ、バーカ!みたいにさ(爆)。
このヒロイン、チアイーは素行も成績も良い、教師の覚えもめでたい女の子。しかも容姿も「他の子より、ちょっと可愛いだけ」とコートンがモノローグするってことは、もうバツグンに可愛いに決まってる女の子なんである。
このオバカ男子五人はそろって彼女に恋してるし、彼ら以外の男子たちだって少なからずそうに違いない。

チアイーといつも一緒にいる親友のチアウェイの絶妙なざっくり感は、チアイーに近づきたいけど近づけない男子たちとの間に上手い具合にクッションとなっているけれど、こんなデキた親友は、それこそ半世紀前の少女漫画にだってなかなか登場せんよ、と思う。
しかしこのチアウェイは、後に人気ブロガー、ベストセラー漫画家となった姿が紹介されるが、それは実際の彼女なのだという!
つまり学生時代から教科書に落書きしている独自のゆる系イラストも含め、彼女だけが、彼女そのものとしてキャスティングされているんだという!!
へえーっ、と思う。でもそう考えると、上手いキャスティングかもと、あっさり考えを翻すあたり(爆)。
成績が良かったりするヤツよりも、諦めないヤツが成功する、という紹介で人気ブロガーの彼女の成功を点描するのはいささか失礼な気もしないでもないけど(爆)、でも確かに、そうだもんなあ。

そう、つまり学生時代はキラキラだった奴らが、そのまま輝かしい人生を送る訳ではない。優等生のチアイーは受験の時の体調不良で入試を失敗してしまうし……。というのはもっともっと後の話。そんなすっ飛ばしちゃいけない。
で、話を戻すとね、自分にとっての懐かしい記憶とはかけ離れた、モテ女史とバカ男子のキラキラ青春物語、それこそ当時やその周辺当たりの若い頃(……って言うしかないのが中年のツラいところ(爆))にはイラッとしたかもしれない、この単純図式の青春が、多少の気恥ずかしさを覚えながらも、何かほほえましく、確かに懐かしく、思えてしまうのか、っていうことで。

さっき、言い方が良くないとか言ったけど、記憶のねつ造とかね、でもちょっとそんなところはあると思う。
確かに私はそんな青春は送れなかった。男の子とろくろく話すことすらなかったもんなあ。
彼らのような、バカではあるけどキラキラ男子にとっては、そういう女子は記憶の片隅にも残らないであろうし(爆)、キラキラ女子にとってもそうであろうし(爆爆)。
そんなひがんだ言い方をしながらも、なぜか懐かしく感じるのは、そう、これは20年前だったら思えなかったこと、……恥ずかしいけど、一つの理想として思い描いていた、それを年を経るごとに素直に認めるようになれたからかなあ、なんてさ。

都市伝説のキョンシー出現に本気で怯えるような、そんな可愛い女の子だったら、きっと男子はその怖がる様を見たくて、からかい続けただろう。
いつも髪を降ろしている優等生の彼女のポニーテールが見たくて、賭けをして猛勉強する。実際は負けて自分が丸坊主になったけど、彼女は涼しい顔でポニーテール姿を披露する。その可愛さに男子たちは釘づけになる。
そんな可愛い女の子だったら。実際に可愛い女の子として青春を謳歌した女子には判らない妄想を、知らず知らず底辺女子はしていたのかもしれん訳さ(あー、恥ずかしい)。

ポニーテールとかさ、ホントドンピシャだよね。我ら世代にとってポニーテールはまず、たのきん映画の(またか(爆))、「ハイティーン・ブギ」。
原作漫画が不良への憧れをかきたてるものとしても作用して、あの当時、女子がポニーテールにするってことは、それこそ優等生女子にとっては、かなりの勇気がいったものだろうと思う。
先述の通り、台湾の事情においては年代自体は新しい方にずれてくるし、私らが感じていたような価値観とはまた違うのだろうけれど、とにかく、ポニーテールというのは、青春の一つの用語だからさ(爆)。

集金したお金が行方不明になって、警備員のカッコした厳しい教官が生徒間で告発しろとか言い出す場面が、最もそんな、キラキラの青春の一ページだった。
それまでにも、いろんな魅力あるエピソードは用意されている。授業中にマスカキにふけってモロ出して立ち上がる、おしり丸出しの後姿。
そのエピソードは妙に力を入れていて、陽気な音楽と凝りまくったカッティングで、ギターをかき鳴らすがごとく陽気にマスカキするバカ男子二人が活写される。
これぞもっともわっかりやすい気恥ずかしさのコミカル場面で、この青春のオープニングに、うう、私ついて行けるのかしらん、と不安になったぐらいだったんである。

そんな不良男子、コートンの見張り役となった優等生、チアイーが半ば強制的に彼に参考書を与えて宿題を出す。その流れで、夜の学校で自習しているチアイーに付き合う形でコートンもまた……。
というのは、都市伝説で語られているキョンシー出没にオトメなチアイーが本気で怯えてて、表向きはそれを隠してコートンに勉強しなきゃダメよ、とつきあわせたた訳で。
……ならばチアイーが学校で一人自習ってのをやめればいいだけの話じゃないかと思うんだけど……そもそもなんで夜の学校で勉強してるのよ、家でじゃダメなの??

と、いうことが半ば腹いせ気味に疑問に浮かぶと、そういやー、チアイーの家庭環境って、全然語られてないよな、と気づく。
いや、家庭環境が語られているのはコートンぐらいで、あとはいっつもおっ勃ってるから、勃起と呼ばれてる(ひどい呼び名だ……)男の子が、留学に旅立つ前に、同じく勃起してる父親と腰を引け気味にハグする場面で笑わせるぐらいでさ。
いや、別にそれで、全然いいんだとは思うのよ。青春物語なんて、当事者だけで充分だもの。でもチアイーが自身の勉強を、わざわざ夜の学校でやっているのは、さすがに気になるよ。
この青春のエピソードのためだけに作られたと言っちゃえばそれまでだが、それこそ一昔、ふた昔前ならそれで成立しちゃうんだろうけれど、今の時代じゃねえ、勘ぐられても仕方ないような。

それで言うと、バカ男子たちは、それぞれキャラは立っているものの、バカ男子のままで終わってしまった感はかなりアリアリで(爆)。
勃起君とマタカキ君はその点微妙にキャラかぶってるし(爆)、やたらかっこつけのツァオはもっと、そのキザ男加減を強烈にぶつけてほしかったなあ。
「必ずいるデブキャラ」と紹介され、判りやすくホットドッグをほおばっているところにドーン!とやられて、ソーセージを落っことし、口の周りをケチャップだらけにするアハは、見た目はドンくさいのに、成績優秀、エア・サプライなんて洋楽にも精通してて、チアイーたちを台北へのコンサートに誘うのに成功するスマートさを持つ意外さ。
後にコートンとケンカ別れしたチアイーを「好機だから」と正直に口にして口説くあたりも好感すら持てて、彼はなかなかイイと思ったけど、いざ付き合ったチアイーがちっとも彼のことを好きになっている描写がないあたりがか、かわいそ過ぎる。
カフェの窓の外で痴話げんかした後にハグするカップルを羨ましそうに眺めていたチアイーはつまり、そんなラブを恋人に求めていたんだろうけれど、ふとっちょで人好きのするアハを、結局はそんな、「大学院に行った方が、後の給料もずっと違ってくる」なんてデートで発言して興ざめさせるキャラにしちゃうのは、なんか、あんまりって気がしちゃう。

で、大分、だいーぶ脱線したけど(爆)、最もキラキラだったのは、お互いにドロボー探しをさせようとした、あのシークエンスである。
コートン、チアイーはじめとしたあのチームによって、クラス中が総反発、犯人は見つからなかったけれど、率先してはむかったチアイーとバカ男子五人が、“腕を水平に上げて中腰のまま”の罰を下されるんである。
……あれ、ここにはチアウェイはいない訳。いたら、このキラキラシーンはここまでキラキラにならなかったから、と思うと、再びモクモクとした不信感が湧き上がりそうになるが、ここは抑えて抑えて。
こんな恥をかいたのは初めてだと、鼻を真っ赤にして泣きじゃくり、しかし優等生だから腕を上げて中腰、は崩さず、そんな彼女を真ん中に挟んで、バカ男子五人は、口々に慰め、ほめたたえる。
何より、コートンの言葉だった。カッコ良かった、と。そして鼻を真っ赤にしてうぇ、うぇ、と泣きじゃくるチアイーは確かに、同性から見ても見とれてしまうほど可愛くて、きれいだった。それはポニーテールシーンを凌駕するほど、だったんである。

進学となり、まあ浪人したヤツもいて、コートンとチアイーは遠距離恋愛がはじまる。いや、後から思えば遠恋ですら、なかった。彼と彼女は、手すら握らなかったんだから。
新歓のダンパで判りやすくブチャデブな女の子と(でもこういう子が可愛いんだと思うんですけど!!)仕方なく手をつないで、あーあ、という顔をしたコートンは、まだ携帯電話がなかった時代、寮の電話の列に並んで毎夜チアイーに電話をかけて、ダンスだけはするなよ、と言ったりした。
休暇には見ていてくすぐったくなるようなデートをしたけれど、やっぱり手さえつながなかった。

モヤモヤしたのか、コートンは、大学で格闘技大会を企画した。
コートンの寮生活は、高校生活とは比べ物にならないぐらい個性的な学生……アニメオタク、筋肉バカ、エリート志向で今からガリベン……とそんなヤツらがひしめいていて、でもって“四足の獣”ゲイカップルがシャワー室でイチャイチャしていたりして。
つまりコートンは、高校まではそれなりに人気者でイケてたのに、それまでバカやってた仲間たちはそれなりに道を進んで、彼女とも離れちゃって、行く道を見失って……なんてことがあったのかなあ。

なあんて予測するのはちょっと親切すぎるかしらん(爆)。ここで重要なのは、相変わらず幼稚なことばかりしているコートンとチアイーがぶつかって、ケンカ別れが、結果的に決定的な別れになってしまうことであり……。
ここではね、コートンは、女の方が先に大人になり、男との差が出来る、と言っているし、まあある意味それは正解ではあるんだけど、でもチアイーがもっともっと大人になれば、こんな幼稚な男だからこそ可愛くて、戦闘本能があるという将来性があって、魅力的だということが判るんだろうと思うからさ。

だからすっかりオバサンになってしまったこちとらとしては、何かほほえましく見てしまう訳よ。
まあだからといって、コートンを辛抱強く支えて、結婚まで行けばよかったとか言う訳じゃない。そういう訳じゃない。学生時代の絆は、友情であれ憧れであれ恋であれ、あるいは単なる同級生としてのつながりであっても、変わらず、稀なる大切なものであると思う。
そんなものが……こんな男子交えることは出来ずとも(爆)、きっと私にもあったんだと思う。

格闘技大会でカタルシスを得て、チアイーも来てくれて、すっかり有頂天になったはずのコートンが、彼女からの「幼稚!」の罵倒で地に落とされ、ケンカ別れになる。
アハに奪われ、嫉妬も手伝って音信不通の二年間。不毛な男子寮がグラグラと揺れた。通じない携帯電話をみんなが空に向かってかざしていた。コートンも寮を飛び出してチアイーにかけ続けた。

この時には、二年も連絡を取っていなかったなんて、そんなことさえ、忘れていたんじゃないかと思う。
台北の大都市の、電気の消えた暗い雑踏の中でコートンの電話を受けたチアイーは誰か、男性と腕を組んでた。
顔は映らなかったけど……つまりそれは、冒頭のジャブを覚えていた観客に対するじらしで、その腕を組んでいた男性こそが、ラスト、結婚相手となる人だったのかもしれない。

久しぶりに話す二人は、友情以上、恋愛未満の、すれすれの会話を交わす。 パラレルワールド、とコートンが口にする。う、ううっ、私の大好きな、ていうか、困った時に頼りになるパラレルワールド(爆)。
同じ月を見ながら、違った場所で言葉を交わす二人が、いろんなことがあった二人が、パラレルワールドと思うのは確かにリアルに想像できるかもしれない。
そして、このパラレルワールドという言葉が発せられた途端、あったかもしれない場面があふれ出す。喧嘩別れした夜、涙を流すチアイーの元に戻って、彼女の頬に優しく触れながら、素直にごめんと言えるコートン、実際は、彼女と同じように、それ以上に子供のように号泣しながら、後悔するしかないのに。

それが最大限に発揮されるのが、時間が冒頭まで引き戻されるラストシークエンス。それぞれに社会人として頑張っている元バカ男子たちは、たわむれに、マドンナをさらった男に足を引っ掛けてやろうかとか言いつつ、和やかに楽しげである。
しかし最後の最後、記念撮影の後、それこそ誰かがたわむれに、祝儀を弾んだんだから、花嫁にキスさせろと言い出す。寛容な新郎はにこやかに応じつつ、ならば自分で試験をしてからにしてください、とナイスな提案。

そのアイディアに皆が笑った後、一人真剣に突進していったコートンの、新郎をパーティーテーブルに押し倒しての熱烈&ロングロングキッスが現実だったのか。そしてそれをなしたからこそ許された、花嫁となったチアイーとのアングル組み換えまくりのちょっとエロ入ったキッスは現実だったのか。
コートンの新郎へのキッスは、その後、友人たちがオオーー!!!と突進して折り重なった場面が可愛くて笑えたから、現実だったのかなと思う。でもチアイーとのキスは……パラレルワールド、だよね。
ラストクレジットの前に、二人、誠実な距離を保って向き合い、笑い合う場面こそが、現実、でも幸せな現実、と思う。★★★☆☆


甘い鞭
2013年 118分 日本 カラー
監督:石井隆 脚本:石井隆
撮影:佐々木原保志 山本圭昭 音楽:安川午朗
出演:壇蜜 間宮夕貴 中野剛 屋敷紘子 中山峻 諏訪太朗 光山文章 クラ 有末剛 伊藤洋三郎 中島ひろ子 竹中直人

2013/10/26/土 劇場(池袋シネマ・ロサ/レイト)
容赦ない、容赦なさすぎる、石井隆!久しぶりに石井隆の真骨頂を見た気がする!!
前作「フィギュアなあなた」はどちらかというとスウィートな部分の方が出ていて、結果的にはエロだけど純愛?みたいな感もあったし。その前にさかのぼると、うっ、彩姐さんの「花と蛇」かあ……あれはなんか彩姐さんの露出狂って感じがしなくもなかったから(爆)。

いやあ……本当に、久しぶりに、石井隆の容赦ない世界、を見た気がした。
それに充分過ぎるほどに応えたこの二人のヒロイン、過去、少女時代を演じる間宮夕貴嬢、現在のヒロイン檀蜜姐さん、双方ともに素晴らしすぎる。てか、やりすぎだよと思うぐらい!!

やりすぎだよと思うのは、少女時代の間宮夕貴嬢の方に大きく傾く。う、うう、いくら映画でもっ、周りに撮影クルーがいると判っていてもっ、拉致監禁、レイプの果てのレイプ、M字開脚縛り上げられ、暴力に次ぐ暴力……。
成人しているとはいえ、実際の少女の年齢とそう遠くない若き彼女が、こんな過酷な……。本当の現実を見せられているかのごとき残虐さで、ここまでやるか、石井隆、悪魔……。

そして確かに、ここで彼女は、間宮夕貴は、17歳の奈緒子、なのだ……ああ、何たること!
倫理上問題あるとか、なんかそんなつまんないことが喉元まで出かかるほどすさまじいシーンの連続に、自分が舌噛み切って死にたくなる……って、なんだそりゃっ。

でもこの地獄の一か月を乗り切って、犯人の男を切れない果物ナイフでざくざく殺して逃げ出した彼女よりも、その周囲、特に母親の方が、壊れてしまったのだった。
命からがら逃げてきた娘を化け物でも見るような目で見て、それからは他人行儀に「奈緒子さん」と呼ぶようになった……。

ということまでを、リアリティを持って観客に感じさせるためには、この少女にここまでやらせなくてはいけないのか、ああ……。
確かにひどく映画的ではある。どしゃぶりの雨の中、周りの音も聞こえないような雨の中、軒先を借りた“丸い屋根の家”で肩を叩かれ振り向くと、全身レインコートの異様な風体の男。
でもその男のことを奈緒子は、豪邸に一人暮らし。ちょっとカッコイイし、なんて言っていたのだ。実際は、親の期待に応えられずに医大受験に三度失敗、親の遺産で食っているような男。

娘の失踪に、あの家にいるんじゃないかと母親のカンで思っていたフシもあるんだけど、警察は“事件性がなければ動かない”。
こういう話、現実にもよく聞くし、フィクションの映画なのに、ものすっごく腹が立ってしまう。事件性がなければ動かないだと!?実際露呈してみれば、これが事件じゃなくてなんなんだっ!と。
この警察の態度の描写は結構しんねりと描かれていて、若くてまじめそうな警官が「事件性がなければ動けない」ことをすまなそうに語ってたりして、かなり辛辣な皮肉が効いてるんである。

顔中殴られてボコボコの状態で、一糸まとわぬ姿は男の返り血で真っ赤に染まってて、そんな異様な姿のまま、更に警察は「裁判で有利になるため」と、恥ずかしい体位すら撮らせて何枚も写真を撮る。
そして、妊娠検査、陽性……。物語としてはまだまだオープニングに過ぎないこの時点で、神経が擦り切れてしまいそうになる。
ひどいひどいひどい、エンタテインメントと判っていても、もう耐えられない、こんなの。
でもこれだけやらなければ、大人になったヒロインのしでかした結末に決着がつかないのだ。なんたること。

本当に、間宮夕貴嬢は凄かった。豊かなボリュームなのにつんと立った若きおっぱいが、ぱつんぱつんに張った若き肉体が、それだけでは確かに美しいのに、うっとりするのに、それがキチク男に凌辱されまくるのが、とてもエロとして見ることができなくて、本当につらかった。
しかしこのキチク男も、さすがに上手いのだが……。劣等感をパンパンに抱えているのがひしひしと感じられて。
でももちろん同情なんてする気もないんだけどっ。でも、哀れだった。
こんなヤツ、死んで当然と思う一方で、親の趣味のクラシックを聴く地下室を、そのクラシックを流しながら女を凌辱する彼が、しかもそれが愛だと信じている彼が、あまりに哀れだった。死んで当然だけど、哀れだった。

奈緒子が医者になったのは、この時、親さえも娘を怪物を見るような目で見て、警察は冷酷に証拠写真をおさめ、その中で、立ち会った女医だけが、奈緒子の心情に寄り添ってくれて、「あなたは何も悪くないのよ。大丈夫、私が元の身体に戻してあげるから」と言ってくれたから。
まるであたたかな湯の中につかっているようだった、と奈緒子は述懐する。

私もそんな風になりたい。親からも受け入れられなかった彼女が、そう思うのは自然な流れだけれど、これは実に皮肉、なんだよね。
拉致男が医者になり損ねた男だということを、少なくとも劇中で、奈緒子が医師になったということに絡めて語ることはない。だけど、これはあの男を見下すためと単純に思われても仕方ない要素で、だけどだけど奈緒子自身はちっともそのことに頓着していない、どころか気づいてさえもいないところが、更にあの男を、クズ以下に突き落としているのだもの。

しかも、奈緒子は婦人科の医師。不妊に悩む若き夫婦の強い味方。なんたる皮肉。
一か月間強姦されまくって、妊娠してしまった身体で逃げてきた奈緒子は、当然“元の身体にも戻る”ために、その赤ちゃんは天国に行ってしまったのだ……。
この後奈緒子が、普通に恋愛をして、結婚をして、子供を持つ姿がどうしても想像できない。

少なくとも彼女は、あの時に感じた、口の中に広がる甘い味、それがなんなのかを探り当てたいと思ってる。
エロい身体を湯船に沈めて、シャワーを浴びながら自慰で上り詰める檀蜜姐さんは超絶エロエロだが、彼女が思い出しているあの地獄の日々がズリネタになるというこのゆがんだ構図が、この時点では、ちょっと不安に感じもした。
単に檀蜜にオナニーさせる刺激的な構図が欲しいためだけなら、あの過去をズリネタにするのは、いくらなんでも無神経なんじゃないのとつい思ってしまった。
でもそれこそ、そんな単純なことではなかったのだ。彼女はまだ、まだまだ、過去を清算などしていなかったのだッ。

で、流れでかなり遅れましたけれども、檀蜜姐さんにも、脱帽した。いや正直ね、彼女を最初に観た「私の奴隷になりなさい」はあんまりピンとこなかった。
あの時、すっかり世の中を席巻していた彼女自身を知らなかったってこともあるんだけど、タイトルからすっかり、SMでも女王様の方、かと思っていたもんだから、ひたすらMに徹する彼女にピンと来なかったんだよね。
もちろん檀蜜姐さんは、それこそ彩姐さんと違って、Mが似合うからこそのステキさなのだが。

本作では、Sの気質に目覚め、そのことが、「口の中に広がる甘い味」に到達する衝撃のラストにつながる訳だから、SとMの両方の彼女を堪能できる。
てか、何より、MからSに目覚める檀蜜姐さんを目撃することができる、もうそれこそが事件、鳥肌が立つ!
彼女はあんまり演技力を評価されることがないみたいだけど、まあ私も、彼女のお芝居にはあんまり遭遇してなかったんでアレだけど、本作の彼女の、そのSに変貌するシーンの、獣の目になる姐さんは本当に、ゾクゾクした。
なんか、目覚めた瞬間を目撃してしまった、それは“Sに目覚めた女”を獲得した、つまり女優として目覚めた瞬間を目撃してしまった、そこまで思ってしまった。

それを促したのが、石井作品にはしつこく出続けている竹中直人(ヘンな言い方だけど、色々出まくりの中でも、ホント、石井作品には仁義切ってる気がするんだもん)だというのも感慨深い。
えーと、ここまで全然説明してなかったけど、女医である奈緒子の副業がSMクラブのM嬢で、その客として竹中直人は現れる。
オーナーであるSの女王様を、M女として勤務している奈緒子に打たせる訳。
このオーナーの女性はレズビアンで、つまりレズビアンのタチの方で、薄い胸があらわになり、奈緒子の鞭に悲鳴を上げる様が、それまでマニッシュにキメキメだっただけに、何か見てはいけないものを見てしまったような気分にさせて、こんなとこまで容赦ないんである。
「フィギュアなあなた」でもマッチョなレズビアンにヒドい目に合わせてたし、なんかちょっとゆがんだ嗜虐性が、なんか、なんだかなあ……(爆)。

そんなオーナーのあられもない姿にキャーキャー喜ぶ竹中直人、……石井隆が竹中直人を離さない訳だわ……こんなことが出来る役者はそうそういない……。
てか、竹中直人以外にも、彼のように名前をそれほど知られてなくても、石井隆チームといった俳優陣の怪演を見ると、こんな容赦ない監督に応えられる俳優は、そりゃ囲われちゃうわな、と思っちゃう。
拉致監禁する男、中野剛、奈緒子に“甘い味”を目覚めさせる“真正S男の客”伊藤洋三郎。
伊藤氏、ペニスカップが異様すぎる……お顔立ちは端正なだけに余計に不気味で、ホントに、ホントに、ほんっとに、石井隆の真骨頂を叩きつけられる。

この伊藤氏演じるS男に、本当に殺される恐怖を感じて、奈緒子は逆に彼を殺してしまう訳だけど、その決断の隙間に、彼女はずっと探し求めてきた、口の中に広がる甘い味、をついに感じてしまったのだった。
あんなひどい過去を持って、トラウマなのは当然だけれど、なぜか感じた甘い味を忘れられずにいた。
親からも異端視され、孤独なまま過ぎた10数年。甘い味は、当然だけど凌辱されたことではなく、凌辱した相手を殺す、これ以上なくざっくざくに殺す、それまで組み伏されていた相手を一発逆転、倍返しにしてぶっ殺す、その甘い快感にあったのだ。

あの、見るに堪えない一か月に及ぶ地獄の暴力と強姦も、大人になって自ら飛び込むSMクラブのM女の仕事も、全てはこの、甘い味をなめつくすためにあったのか。
ここを結論と、カタルシスとするならば、そりゃ、そりゃあ、その布石になる過去のトラウマは、壮絶になるに決まってる。壮絶になればなるほど、彼女が男をブチ殺す理由とカタルシスが十分な説得力を増しますのだから。

この客をあてがわれたのは、辱めを受けた女オーナーの復讐のような感があったけど、そんな単純なリベンジは、この長い長い呪いの思いの前には歯が立つ訳がないんである。
奈緒子はもうすっかり正気を失ってしまって、目の前にいるオーナーや用心棒は、自分の両親のように見えている。妄想の両親だけど、優しい言葉をかけて近づいているのにその懐に、ナイフを持って突進していく。

実際にはもう、父親は家庭を避けるように単身赴任の末、死んでしまい、母親は末期がんでホスピスにいる。
この場面で、看護師からもう危ないと、緊急の電話がかかってきている。その中で奈緒子は、S男に何度も何度もナイフを突き立てる。切れない果物ナイフで監禁暴行男を何度も刺したように。
あの時、決死の思いでマットレスの中に隠した果物ナイフを、必死に探し出す夕貴嬢の、全裸なのにちっともエロじゃない、鬼気迫る必死さは、本当に、忘れられない。

ナレーションが喜多嶋舞、というのをラストクレジットで知って、ビックリした。てっきり檀蜜姐さんだと思っていたからさあ。
ちょっと高めの声が似ていて、それが檀蜜姐さんの、彼女自身はしっとり美人なんだけど、時折色っぽさをじゃまするような感じがあって、へえ、それって喜多嶋舞にそのまま似てるんだなあ、と思った。
その、ちょっと幼さを感じる声が、ギャップとして感じられればまた、面白いんだろうけどね。そういう意味では檀蜜姐さんは、まだまだ未知がある訳だ!

正直、本作ではビックリした。石井監督によって開花したという感じがした。彼女自身、頭のいい人だし、だから制御してしまう部分もあるんだと思うんだけど、石井監督との相性は良かったと思う。ていうか、これ以上に弾けられる余剰もあると思う。
二人のヒロイン、夕貴嬢と檀蜜姐さんは、「フィギュアなあなた」で、ちょこっと使われたみたいな感じだったじゃない?
そこでなんか、試してたような気がしちゃうんだ。それで、石井監督、おっしゃ、コイツら使える、ってなって、本作で、もう思う存分、使った、というか、痛めつけたというか(爆)。
観てられないほど辛かったけど、それをしっかり乗り越えてみせて、さ。……やっぱり女優ってのはコワイ生きものだ。こんなことをしれりと乗り越えてみせて、次のステップにしちゃうんだもの。
監督もしたたかだけど、女優もしたたか。観客はただただ、彼らの才能と度胸に、ひれ伏するしかないの!!★★★★★


あれから
2012年 63分 日本 カラー
監督:篠崎誠 脚本:酒井善三 篠崎誠
撮影:山田達也 川口諒太郎 金山翔太郎 音楽:柳下美恵
出演:竹厚綾 磯部泰宏 太田美恵 木村知貴 川瀬陽太 杉浦千鶴子 伊沢磨紀

2013/3/15/月 劇場(オーディトリウム渋谷)
ある日、他の映画を観に行った時、階下の別のシアターにかかっているのを見て、その日の映画を観ている間さえ気もそぞろになってしまった。
だってだってだって、篠崎監督の新作がこんなひっそりと公開されているなんて思いもよらなかったから。うわ、なんかもう終わっちゃうみたい!(実際は時期おいてレイトショーで継続になってたんだけど、)やばいやばいと慌ててムリヤリスケジュールに組み込んだ。

とはいえ、篠崎作品に出会った頃の衝撃は最近鳴りをひそめていたし、そうか、「東京島」が一番最近の作品なのかと思えばやっぱり、ちょっと失望感もあったりして(勝手な言い草だけど)。
それになんか震災映画ばかりでかなり疲れていたこともあって、またそうなのか……という思いもあったんだけど、でもやっぱり足を運ばずにはいられなかったし、運んで良かったと心底思った。
劇場からの帰り道、ぶつぶつぶつぶつ、良かった良かった、来て良かった、もう胸がいっぱいだよう、とつぶやいている私はさぞかしヘンな人に見えたに違いない。

こんな言い方をしたら不遜なのは判ってるけど、ああ、なんか久々に篠崎監督らしい映画だ、と思ってしまった。
それは無論あの「おかえり」との出会いを思い出したからに他ならず、あの静謐で、美しくて、でもひりひり痛くてたまらない二人、を思い出してしまったからに他ならず。

でも、これはやはり震災映画なのだ。そういうテーマなのだ。震災後映画、と言った方がいいのか。
特に去年、ばたばたと作られたそうした映画たちに、本当にイライラしたし、まだ震災をテーマにフィクションを作るべきではないんじゃないかという気がしていた。かといってドキュメンタリーを見るのも気が滅入った、などと言ったら本当に無責任極まりないんだけどさ。

でも本作は……震災をテーマにして、というか、バックグラウンドにしての、こんな映画は初めて見た、というか、こんな映画を作った人に初めて遭遇した、というべきかもしれない。
言ってしまえば本作は、震災がバックグラウンドになくても成立してしまう物語だから。
恋人同士である二人は、彼の方が精神を病んでしまって、周囲からの「距離を置いた方がいい」という勧めに従って故郷に帰っていくばくかの時が経っている。

そして震災が起き、彼は一層病を深め、お兄さんに言わせれば「自分のせいで震災が起きた」とまで思いつめている。
ここんところは確かに震災テーマだけど、彼が病んだのは震災のためではなく、その病が重くなってしまったという要素にのみ使われている。
映画の舞台は東京で、被災地を映すことも無論ないどころか、「気味が悪いほど静かですね」と言うほどに、静まり返っているんである。

「気味が悪いほど静か」と言ったのは、ヒロイン、祥子が切り盛りするオーダーメイドの靴屋の店員、真実である。彼女はお腹に赤ちゃんを宿して、間近に結婚式を控えている。
彼女のダンナの友人である祥子の恋人、正志と連絡がとれたか心配している。「こんな時だから式を延期するべきかどうか迷っている」と言っていた彼女は後に、「こんな時だからこそ、やることに決めました」と笑顔を見せる。

地震が起こった時、祥子は正志に真っ先に電話をするものの、全くつながらない。それはあの当時を思えば当然なんだけど、それにしても、つながらない、何日経ってもつながらないんである。
母親を亡くした祥子を気にかけてくれている叔母の直子が公衆電話から「ああ、やっとつながった」と電話をくれたのが当日の夜であることを考えると、これはやはり尋常ではないんである。
でも、どうやら被災地であるらしい彼の実家、つながらない電話、しかしうたた寝をしてしまっていた祥子がふと気付くと留守電にメッセージが残っていた。こっちは大丈夫、祥子は無事かと。

このシークエンスの時には、二人はいつか出会えると思っていた……と書いてみると、それはウソかもしれない。「おかえり」を思い出していたということは、やはりハッピーエンドなんて予想してなかったかもしれない。
ハッピーエンド……?ハッピーエンドって、なんだろう。「おかえり」だってハッピーエンドなんじゃなかったのか。

店員の真実が言った“気味が悪いぐらい静か”というのは、私自身は当時、リアルに感じたことではなかった。市場だから当日の朝から喧騒にまみれていたし、津波だから、港だから、魚だから……やはり影響が縷々あって皆、心穏やかでなく、ヘンにテンションが高い感じがずっと続いてた。それにやはりテレビにかじりついてしまっていたし、本作のように、まるでどことも切り離されたような空間ではなかった。

でも一方でそういう感覚も、きっとあったのだろうと思う。真実は静かだということ以上に、まるで何もなかったようにあっという間に日常に戻ってしまったことに対して、拍子抜けの気持ちを吐露する。
彼女は家族を心配して、実家に帰っていたんである。彼女の実家がどこであるかは明らかにされないけど、あの時に普通に帰れる場所であることから何となく推測される。
そして帰ってみたら「あっさり日常に帰っていて、私一人大騒ぎしてバカみたいって思っちゃって」と祥子に告げた。その延長線上で、結婚式も予定通り決行することに決めたんである。

劇中では計画停電によってエレベーターが止まり、マンションの階段を登っていくシーンや、町内会から配られた、絆を強調するポスターや、あの時にしか経験し得なかった非日常が頻々と現われるんだけど、それらがひどく静かな中で行われるもんだから、何とも言えない、んだよね。
今の目線から見れば、計画停電も浅慮だったんじゃないかと思うところがあるし、流行語のように絆が連呼されるのが、今になって揶揄されるところもある。
それを祥子は最初から、透徹して見ているように見えた。だって彼女にとって大事なのは、愛する正志の存在だけだったんだもの。それは震災だのなんだの、全然関係ないところにいるんだもの。

こうして書き連ねてみると、震災特有(という言い方もヘンだけど)の描写も数多く出てきて、ああ、そうだったなどと書きながら当時を思い出したりもするんだけど、観ている時にはそんなこと、全然感じないの。ただただ、祥子が遠く離れた恋人を心配している様が、静謐の中にひしひしと感じられるだけ。
そしてどうして今離れているのか、その恋人がどういう彼なのか、しばらく判らないから……割と冒頭、彼女のモノローグで、母親の葬儀の後、じっと手を握ってくれていた彼、ということが語られるから、信頼の置ける恋人だったんだという印象付けがなされ、でもそれだけで、いきなり、「その後から正志は電車に乗れなくなった」だから、えええ?と思い……そこから、粛々と、彼の、彼女の、二人のことが描かれていく。

考えてみればこの短い尺の中で、それを示していくのはかなり凄いことのように思う。観ている時には割と単純な構成で、しかも先述したように震災が関係なくても出来るじゃん、ぐらいに思ってたんだけど、そうじゃない。
そんな風に見せてしまえるのは、勿論監督の手腕ではあるけれど、この尋常ならぬ芝居を見せる恋人たち、祥子と正志を演じる竹厚綾嬢と、磯部泰宏氏によってだと思う。

そう、それこそ「おかえり」の恋人二人の緊密な芝居を思い出したが、あの作品とは逆で壊れているのは男の子の方。近年特に壊れゆく女を描きたがる向きにカチンとくる当方にとっては、よしよしなどと思わなくもないが、でも今の私が「おかえり」に初めて出会ったとしても、やっぱりカチンとなんて、こなかったと思う。
あれは本物の映画だった。そういう言い方も若い頃は好んで使ってて、今はなかなかそんな青臭いことは言えなくなってきたけど、でも、今でも、そう思う。

祥子は正志になんとかして会いたいと思う。携帯にかけ続けて、ついにつながったと思ったら、出た相手は彼の兄だった。キャストクレットに名前がある川瀬氏は、なんと声のみの出演。なんとまあ、贅沢な。しかしこれがまた上手くて。
「今来てもらってもこまる。それに、あなたの負担になる。もう会わない方がいいと思う」というのをイヤミでもなく、冷たくもなく、かといって優しくもなく、こっちの大変さなどあなたには判らないというニュアンスと、あなたには弟を大事に思ってもらって本当にありがたく思っているというニュアンスとを、見事に等分に感じさせるんだもの。

祥子を心配して訪ねてくる叔母さんは、その意味では画の力が大きい。彼女が言う台詞は、後に電話で言ってくる台詞も含めて割と平凡、というか。
まあ最初はお互いのために行かない方がいい、あなたはとても疲れていた、と言い、祥子の思いを知った後には、やっぱりあなたの思うとおりにした方がいいと思う。姉が生きていたら、きっとそう言うと思った、と言う。
こうして字面に起こしてみれば、ホント、平凡とも言えるんだけど、それがね、沁みるんだわ……最初に“割と単純な構成”なんて言ってしまったけど、ホントにそう思っていたけど、こうして書き起こせば書き起こすほど、しっかりと組み込まれていることが判って、この尺を思うと本当に驚く。

しかもね、祥子が勤めるオーダーメードの靴屋の描写も、凄くいいのね。全篇、このとおりの静寂、それはこの靴屋が醸しだす静寂が画面いっぱい、いや作品いっぱいに広がっているかのよう。
勿論その基本は、この店が客に感じさせる心地のいい静寂。丁寧に足の型を取り、丁寧に形成して合わせる。心と懐に余裕があったら、こんな靴屋にぜひとも行きたいと思わせる。

祥子が後に思い出す、心穏やかだった頃の二人のデート、あの時祥子はミュールっていうの?ヒールの靴を履いててさ、坂道だらけで靴擦れしちゃって、コンビニでビーチサンダル買って、靴屋なのにって、大笑いしてさ……。
その回想の時には、幸福な時間を思い出して、幸せだった。でも、その後の路面電車を思い出した途端、正志の心の病気が思い起こされてしまった……。

このシーンは、結局は祥子の夢だったんだよ、ね?お兄さんから入院したと聞かされた正志が、突然彼女の部屋に現われる、その時から非現実感は漂っていたけど、でも、判然としなかった。
多分、きっと、二人が一緒にいた時に、ほぼ同じことが、起こったんだろう、あるいは複数回、あったんだろうと、思わせた。
本当は兄貴にもう会わない方がいいと言われてホッとしたんだろう、ずっと連絡を待っていたのに、祥子からは連絡をくれなかった。自分からは出来なかった。祥子の隣に誰かがいるんじゃないかと思うと怖かった……と正志が吐露する、のは、あるいは祥子が彼に会ったらそう言われるんじゃないかとずっと恐れていたことだったのかもしれない。だから夢に現われたのかもしれない。

しかしこのシーンが本作の一番目のクライマックスで、身じろぎしてしまうほどアップでとらえた二人のカットバックが、こんな、こんな緊張感に満ちた、いやそんな言葉じゃ足りない、カメラがここにあるのが信じられないような、いや、そんな言葉はあまりに使い古されている……とにかく、もう、ビリビリに緊密感に満ちていて、こんな芝居を見たの、いつ以来だろうと思った……それこそ「おかえり」以来かもと思うぐらい。
こんなこと言っちゃアレだけど、カットバックのどアップを見た「東京家族」があまりにモノマネチックでガッカリしたから、余計そう、思っちゃったのかもしれない。

彼らがお互いを責め、打たれ、抱擁しあうも、その後彼が落ち込んで壁に頭を打ちつけ、止めた彼女が振り払われる形でブチのめされて鼻血を出して床に倒れ、……なんていうシークエンスで交わされる台詞は、言葉に直してしまえば恐らく、きっと、とても単純で、つまり純粋ということなんだろうと思うけど、それを本当に響かせるってことはさ、本当に、本当に……。
だってさ、俺と別れられると思ってホッとしたんだろ、そんな風に言うのはズルい、付き合っていれば負担はお互い様でしょ、言っちゃえばこういう台詞の応酬なんだもん。

でも特に、特に特に、この最後の“負担”という言葉が、つまりはキーワードになってて、それは恋人同士、あるいはこういう関係の恋人同士、そして、震災、なんだよね……。
本当にね、観ている時には、これのバックグラウンドに震災がなくてもいいじゃん、と思うの。なくても成立するって。でも、私らが次第に負担に思い始めた絆という言葉、それを象徴させる町内会のポスター。つまり絆ってのは美しすぎる見出し的言葉で、言っちゃえば、負担、でさ、でも負担は、彼女の言うように、愛や信頼の上には絶対的に生じるもので、それを愛しく思うからこその関係なのだということでさあ!

ああ、ああ、私は、単純に胸がいっぱいになっているだけで、何にも見えてなかったのか、あるいは勝手に先読みしてるだけかもしれないけれど。
でもね、でもでも、もうひとつのクライマックス、後輩店員の真実の結婚式。立食パーティー形式のラフさが好ましく、気の置けない仲間といった雰囲気の歴々が集っている。
都合で来れなかった人たちのビデオレターという形で、正志が二番目に紹介される。一番目の無難な女の子の尺の短さに比すれば、これはちょいと不自然な長さとドラマチックのように思えなくもないけど、でもやっぱり、やっぱりやっぱり、胸がいっぱいになってしまう。

祥子と共に過ごした何気ない思い出の数々がまさしく走馬灯のように再現され、他人同士が一緒になる夫婦とは、そういう共通体験を築くことだと、まあそれなりに無難にまとめるんだけど、でも、この場面は、ズルい、ズルいんだよなーっ!!
やっぱり、やっぱりさ、しんどい記憶って、人間に残るよ。祥子の夢?にしたって、そう。壁に貼られた青い空に白い雲が爽やかに散るポスターは、正志がゴンゴンやってあけた穴を隠すためのものなんだもの。
そのポスターを見るたび、祥子がそのことを思い出していたんだと判明すると、それまでそのポスターを見てサワヤカな気持でいた当方は、たまらないんだもの。でもそれが、人間だよなと思ってたんだもの。

でも、でも、そんなの、やっぱり、もったいないし、二人は好き合っているんだし。
ビデオレターが流されている中、祥子の横顔がしんと映される。周囲の様子は全く映されない。その映像を見てる新郎新婦の映像はおろか、まるでこの映像がホントに映されているのかと思うぐらい、しんとした空気が充満してくる。
それまでも美しい人だと思っていたけれど、まつげを伏せ、愛しい人の声に耳を済ませる祥子はとてもキレイで。彼女がようよう顔をあげるまで、その正志のビデオ映像は映されないのよ。それがさ!!それまで、彼女の中に封じ込められていた、彼を封じ込めてたのは彼女自身、みたいなさ!

目を赤くして涙をいっぱいためて、愛しい人の穏やかな笑顔を見上げた祥子が、次の場面、さわやかな朝、叔母さんに車を借りて、とっときの靴を履いて靴紐をきゅっと結んで、ナップザックを背負った軽快な様子で玄関を出る。
冒頭に示されていた、冗談みたいに冴え冴えと青い空に鮮やかなピンクの桜が、もう一度示される。それは、東京の淡い、はかなげな、すぐに花びらを散らしてしまう桜とは、違う、力強さだった。

冒頭のお客さん、恐らく常連のお客さん、震災で、歩いて帰らなくちゃいけなくて、閉店後の店を訪ねる。思えばこの時が一番、震災の緊張感を思い出させるところだったんだけど、この時からしんと静かで、それが見事に最後まで貫かれた。
このお客さんが物語に作用する訳でもないんだけど、初老の女性、今何が起きているかを示す。ダンナさんに連絡がつかないことを「いつも大事な時に」と冗談めかし、祥子に「御家族は大丈夫?」と問う。
祥子が「私は一人だから」と言っても特に頓着することもないのは、この非常事態だからなのか、滅多なことでは動じない年代だからなのか、とにかく、後から思えば、本作のあらゆる伏線が示されていて、見事だった。

それにしてもこの二人、祥子と正志の二人、何者っ。素晴らしすぎる。フィルモグラフィー見ると結構見てるハズなのに、ホント、私って、ダメ。 ★★★★★


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