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前田建設ファンタジー営業部
2020年 115分 日本 カラー
監督:英勉 脚本:上田誠
撮影:小松高志 音楽:坂本英城
出演:高杉真宙 水上剣星 岸井ゆきの 鶴見辰吾 小木博明 鈴木拓 六角精児 濱田マリ 上地雄輔 山田純大 町田啓太 高橋努 本多力 永井豪
劇中で語られるとおり、なるほどロボットを作る会社はある。今や花形業種であろう。高度経済成長を華々しく支えた老舗の建設会社は、しかし今やなんでもミニマムな時代になり、土建屋なんぞと言い捨てられて時代錯誤の産物と言われかねない位置にいる。
そうか。そうだったのか。言われてみれば判る気がする。その中で抜け出すためには。まさかの、実際には作らないプロジェクトとは!!
でも作る気はマンマンなのだ。もはやここまでくれば、テイですらないのだ。マジで設計し、マジで問題点を見つけ、アニメのゆるゆる設定に生真面目に対応し、コストダウンも測り、行き詰った時にはまさかの、ライバル会社に知恵を借りるというクライマックスまで!もー、泣き笑いの感動の嵐なのよ。
まあでも、ちょっとトバしすぎかなという気はしないでもなかったけど(爆)。この監督さんは精力的に娯楽作を連発している感がフィルモグラフィーからも伝わってくる。もしかしたらキラキラ系を避けがちなゆえに、意外に私は観る機会が少なかった監督さん。だから慣れてないのかもしれない(爆)。
格納庫、作ろうよ!!と小木さん演じる広報グループのリーダー、アサガワがハイテンションにまくしたてる冒頭の展開にかなり引きつつ、いや、これ最後までもたないよね……と思ったら、ホントにこのテンションのまま最後まで通し切り、最初及び腰だったこちとらも段々慣れて、なんか最終的にはカンドーの涙とかこぼしちゃってるしさ!!
そういう意味ではこんなにハッキリと、潔くエンタテインメントを突っ走る演出は、意外になかなか出会えないかもしれない、などと思う。そしてそれは、“ファンタジー世界から発注を受けて、見積もりを出す”とゆー、積算エンタテインメント(聞いたことないジャンル)を、オタク的盛り上がりの中にうずもれさせないために、まずムリヤリにでも観客を引っ張るために必要だったのかもしれない、と思う。
だからこそか、最後までそれで突っ走った小木さんに驚嘆である。温度が低い印象の彼に、なぜこんな熱血キャラをオファーしたのか理解に苦しむが、ギャップのせいなのか、そうか、そうかもしれない……どこか奇妙に響く、違和感タップリのハイテンションというのは、彼だからこそできることかもしれない。
確かに確かに、これを松岡修造がやったら、違うということなのだ……ハイテンションが人を引き込まない、どんどん撤退しちゃう。彼のハイテンションでつながっていくんじゃなくて、広報チームのそれぞれは、誰もが違う理由でこのプロジェクトに意味を見つけていく。
あ、でも、上地君演じるベッショは、最初は懐疑的だったくせにあっさりアサガワに乗せられたクチで、そのあたりは上地君にまたこれが、ピッタリなんだよなあ。乗せられちゃうのが判ってるから、警戒していたんだなと判る。でもアッサリ鍵を開けられちゃうんだもん!!
かなーり、言い忘れていたが、主人公は社会人になったばかり、もはや諦念に支配されているイマドキ(とゆー形容詞も古いが)青年、ドイである。演じるは高杉真宙君。まごうことなき端正なお顔立ちのイケメン君だが、意外にそのまんま、フツーの男の子の彼を見るのは初めてな気がする。
まぁ私は全然見れてないので、偏っているとは思うのだが、この端正な顔立ちをハードな役柄に連れてきたいと監督に思わせるのか、これまで個性的な役柄が多かったので、なんだか妙に新鮮な気がする。
ドイは同僚のエモトにホレていたのかなあ。エモトが土質のヤマダ君と急接近したことにちょっと驚いた描写があったけど、そのあたりもうっすい感じなのはいかにも現代的だが、まぁそんなところに寄り道しているヒマはない作品だからね!!
このプロジェクトに、社内で冷ややかな空気があったというのは、ヤハリ本当にあったことなのかなあ……。
広報チームだからこそ思いつくアイディアだけれど、つまり一銭にもならない、企業イメージにも関わる、陥りがちな保守的感覚ではあるけれど、若い世代ならもっと面白がる人がいてもいいような気もしたが、そのあたりも現実なのかもしれない。
実際に動かしていくのは、ほんっとうに建築を愛している、社内で一目置かれているも、恐らく変人扱いもされているであろう人々。土質のヤマダ君は超純粋系。ウェブ公開だから派手な要素が求められるのに、掘削を愛する彼はまさに土質から、掘削技術から、排出される土=ズリに至るまで愛しつくし、最初は辟易していたエモトを掘削のトリコにしてしまう。
いや……ここには確かにラブがあったとは思うが、そこまでは淡く匂わせるのみである。広報部という、それこそパソコンの中だけで成立していた彼らを、実際の掘削現場に連れていって、特にヤマダ君にマイッてしまったエモトは完全に陥落してしまったのだ。
この時同行していたドイはまだピンと来ていない感じだったが、彼もまた社内のレジェンド的人物、機械グループ部長のフワさん(六角精児)にムリヤリスパルタ教育を施され、しかしその後、猛勉強したダムの知識を持ってその現場を訪れた時、ドイはひどく感動するのだ。
それはさ、広報部に所属している彼だから余計に、画面上でだけアレコレしていたのが、つまりはそれだけ緻密な計算の上で成り立っていたのが、こんなにも巨大で、人間の手で作られたなんてにわかには信じがたい世界なのだということに、目を覚まされたような思いがしたからに違いないのだ。
遊びまくっていた学生時代と違い、社会人になったらただ粛々と仕事をしていくしかない。そう思ってこれまでクールに過ごしていた彼が、アサガワさんのアツさにも引いていたのが。
本作は、アニメの世界を忠実に再現しようとするというアイディアがまず面白いんだけれど、真の面白さは、そこに自分たちのプライド、あるいはアインデンティティを見つけ出す素晴らしさにあったのだと思う。
アニメのゆるゆるな設定に翻弄され、ここまで構築したのに、こんなのに気づいちゃって、どうすんだよ!!という事態に陥る。一瞬、エモトが、見なかったことにすれば……と言いかけた時、即座に否定したのはアサガワだったと思うが、全員の気持であったと思う。
プロジェクトを諦めかける展開を止めるのが、ここが頂点で爆発したドイであり、演じる高杉君であり。他社にアイディアを募ろうという思い切った知恵に、いち早く賛成したのも彼だった。
例えばフワさんなら、受けると思います。エモトも言う。ヤマダさんも受けると思う。まるで子供のように恋人のように建築というものを愛する人々が、当然他社にもいるはずだというのがドンピシャあたり、ファンタジーの世界という設定も丸ごと受け入れて、「地球が危機に陥ってるんですもんね!」と言い放って、鮮やかなアイディア、緻密な設計図、次々取り出してくる彼らに泣けちゃうの!!
それが鶴見辰吾やら濱田マリやらワクワクする豪華キャストが、ライバル他社で、アイディアを授ける立場として続々出てくるのよ!!もう、感動だよ。みんな本気で、この夢を信じてるんだもん!!
アサガワは「ブルーオーシャン」と評した。新市場という意味合いなのだという。果てしない可能性。確かに日本の、いや、日本のみならず、世界中の、アニメを筆頭とした空想世界に出てくるあれこれを、実際化する試みは、果てしないだろう。
ガンダムが等身大で作られた時の驚きと熱狂は、いまだファンのみならずの間で残っている。実際に作られるのは無論理想だろうけれど、人には誰しも妄想の力があり、それは現実のそれよりもずっとずっとキャパが広く、どこまでも飛んでいける余地があるのだ。それをリアルな構築で迫られたら……やばーい、そりゃやばいわ!
ちょっとねえ、ホントに良かった。ラスト近くの、ドイが寝不足のあまりファンタジー世界と完全に混じっちゃう悪夢を見るシークエンスが長すぎたのはアレだったけど(爆)。
アニメの設定のゆるさ、揺れに翻弄されるあたりはもう、クライマックスのハラハラの再骨頂よ。これは世界中に見てほしいなあ。きっとマジンガーZだって世界中に行ってるだろうし。そして原作者の永井先生が特別出演!!しびれるわあ!
★★★★☆
実際にあった事件を題材にしたのだという。母親が息子に命じて自分たちの両親を殺させる。その目的は、「そうすれば金がとれる」あぜんとするほどバカな理由である。それだけ聞くとなんじゃそりゃと思うところを、その転落人生をつぶさに追っていく。
暴力やネグレクト、様々な理由で親たちから虐げられる子どもたちのニュースが報道されるたび、教育学者たちがしたり顔で言う、「それでも子どもたちはお母さんが大好きなんです」だから苦しんでいるんだという説に、私はイマイチ納得できないでいた。
本作はまさにそのことをテーマにしているんだけれど、周平の苦しみは痛くてたまらないけれど、それでもまだ、私はどこか半信半疑なのだ。本当にそうなのだろうかと。
そうでない事例も明らかにあるということもある。公にされた事件でも、あるいは私的に知っている事例でも、決して決してすべての子どもたちが従属的に親に対する愛情を持っているとは決して思わない。
だってそれじゃ、子どもが一人格を持つ一人の人間という絶対的な価値観が揺らいでしまう。所詮は子供だから。親には絶対的な愛情を持つに違いないという論理は、あまりに危険思想だ。
だからこれは、洗脳に似たものじゃないかと思う。人間に刷り込まれた、人間なら親を愛しているべきだ、だって愛されているからという、ただ信じたいがための歪んだ共通認識。
でも今は、現代は決してそうじゃない筈、だろう。それを教えようとする人物も劇中に現れる。自身も親に苦しんだ児童相談所のスタッフである。「お母さんと離れて暮らすことも出来るんだよ」という婉曲な表現は、だってお母さんと離れたいでしょ、あるいは、お母さんのこと嫌いなんでしょ、と探ってくる意味合いがある。
周平はそれに対して多少ゆらぐ。母親が借金取りに追われた恋人と共にあわただしくその宿泊所を出て行く時、自分たち(この時は妹もいる)は残れないのかと言った。学校(スタッフが紹介してくれたフリースクール)に行きたいのだと。
なのに結局、彼は母親を捨てられないのだ。母親の言い放った、「あんた学校で嫌われてるんだよ。気持ち悪いって、臭いって。」というひどい暴言を信じた訳ではなかろうと思う。後に収監された彼が言うように、「あの人は一人では生きていけない人」だということこそが、彼を従わせたに違いないのだ。
……大分、展開を無視して喋ってしまった。
物語は、周平がまだ小学校低学年といったところから始まる。母親と二人きりの生活。冒頭、周平の膝の擦り傷をべろんとなめる母親の秋子の描写は、後に「私はあの子をなめるように育ててきたんだ」と言って、親なら子供をどうしようと勝手だという主張につながってくるんだけれど、実際は、ちっともなめるようには育てていない。
それを彼女が自覚しているのか。序盤の、一緒にプールに行く場面だけである、“なめるような”愛情を感じるのは。
その後は一貫して秋子は周平に罵声と暴言を大音量に声を荒げて浴びせ、明らかに周平よりも今の恋人とイチャイチャする方が大事、という態度を取り続けるんである。ガスも電気もとめられた部屋に何日も息子を置き去りにする。
「なんで宇治田さん(生活保護の世話をした市役所職員)のところにいないの」と逆ギレである。ちなみに宇治田さんは一方的に秋子から周平を押し付けられて、しかし自分の家には入れられずに、差し入れだけして周平を家に送り返した。
お湯も沸かせない中、周平はカップラーメンをそのままぼりぼりかみ砕いた。電気も切られ、それまで日がな一日ゲームで時間をつぶしていた周平は途方に暮れた。
……この時点では彼は、自分に学習意欲があるなんてことは、考えてもいなかっただろう。秋子が周平を学校に行かせなかったのは、あるいは自身のコンプレックスが作用していたんではなかろうかということも考えられる。優秀な妹ばかりがちやほやされて、と自分がちっとも努力しなかったことを棚上げして、というのは、秋子の基本的な思想である。
しかしその一点で彼女は家族を憎み、だからこそ搾り取ろうとしていた、という図式だったのかもしれない。この私をバカにし続けてきた罪をつぐなってもらうよと。
こういう場合、とにかく社会で子供は守らなければいけないし、実際そういう動きだってある。それが祖父母でないというところが哀しいのだが、孫である周平がこの鬼娘の付属品のように彼らに見えてくるというのは、先述したような、子どもと親がセットになりやすい日本社会において、子どもが一人格を持つ人間であるという意識が希薄になる、陥りやすいワナなのだ。
その場合ヤハリ、公的な力が必要になり、本来ならば秋子に生活保護を取り付けた宇治田がその任を担うべきなのだが、秋子にくわえこまれた宇治田にとって、周平はそれこそ付属品でしかない。守るべき存在として目に移らないのだ。
その後、つまらないホスト男、リョウ(阿部サダヲ)に引っかかって、妊娠した上に捨てられ、ホームレス状態で死にかけていた家族を救ったのが、夏帆ちゃん演じる児童相談所職員、亜矢なのだが、彼女は結局、究極的なところに踏み込んでいけない。
周平をフリースクールに通わせ、学習への意欲を目覚めさせたところまでは良かった。しかし彼が母親に止められてフリースクールに顔を見せなくなっても、ただ本を差し入れることしかできないし、それさえ秋子に「何様だよ!!」(いやあんたがね……)と凄まれて突っ返されると、「……ごめんなさい……」とすごすご引き下がる体たらくなのだ。
秋子がジジイに春でも売ったか、イチャイチャしていたことに嫉妬したリョウにボッコボコにされているのを目にしても震えるばかりで、止めに入ることさえできない。
そのことが周平たち幼い兄妹を苦しめていることを判っていながら、そこを解決できなければ子どもたちを救い出すことができないことが判っていながら、手出しできないのだ。
大人と言いながら、子どもを救うなんて口先だけで言いながら、大人はいつだって無力だ。なあんにも出来ない。何度だってチャンスはあった。周平自身も目覚めの機会が何度もあった。
リョウにも逃げられ、もう周平が稼ぐしかなくなって、小さな作業場で寮を与えられて働き始めた周平を、所長が気にかけてくれた。昼ごはんも節約して真面目に働いているのに、前借りばかり繰り返し、ついには事務所に盗みに入る周平を取り押さえ、その原因が、働かない母親であることを突き止める。
秋子に実にまっとうな説教を浴びせ、いきなりシュンとなる秋子がそんなタマでないことは観客には(息子の周平には更に)判り切っているので、その後の展開が読めてしまう。
その前のシークエンスで、脅して金をだまし取ろうと画策した宇治田を誤って殺してしまったと思い込んだリョウと秋子。逃げ出した彼らが逗留したラブホテルで、妊娠に激怒したリョウと決裂した秋子に同情したラブホの支配人もまたそうだったから。最初は周平に正しき同情と理解を示すのに、結局秋子の秋波にあっさり負けてヤッちまう男たちの、なんという浅ましさよ。
結局は彼らの同情や正義は、それしきのことでぶっ壊れるもので、周平が「あの人は一人では生きていけない人」だということの根底は、だから男とやたら引っ付くけど、その大人の男たちは総じて上っ面だけで、母親を守れる人たちじゃない。結局子供の自分をだしにして、近づいただけじゃないか、という思いがあったのかもしれない……。
阿部サダヲ演じるリョウは、その点ではある意味正直な人である。周平をお荷物なんだとハッキリ言い放ち、秋子が自分の種を宿せば途端にソデにし、なのに数年後にどうやって探し当てたんだか、児童相談所が用意した宿泊所に「秋子に会いたかった」と現れ、あれほど堕ろせと足蹴にしたのに、俺の娘だな、と冬華に目を細めるんである。
そういう意味では、いいカッコはしない人である。だからといって周平は彼を大嫌いだったろうし、でもそれは、他のどの大人に対しても同様だったであろうと思われる。一番ヒドい目にあわされている母親のことは大好きなのに、なぜ、なぜ……。
秋子はもう最後には判断力も薄れたのか、カネがあるのはババア(自分の母親)のところ。殺せば確実に金がとれるね、とぼんやりと思い付きのように言う。
この、周平との会話シーン、長い長い橋の上、ゴウゴウと車が行き過ぎ、時に会話が聞きとれなくなる。戯れのように言った秋子の思い付きを、彼女はさらに戯れのように、本当に出来る?と念を押した。そしていつものように有無を言わさぬ居丈高な大音量で、出来るかって聞いてんだよ!!!と突き上げた。周平に選択の余地はなかった。
なぜ、選択の余地はなかったのか。この時言われたのは、「このままじゃ冬華が死ぬよ」という台詞だったが、それが彼を突き動かしたのか、いや……。
妹のことは慈しんでいたけれど、明らかに彼にとっての優先順位は母親だった。母親からは、時には苛立った彼女からビンタなども食らったけど、基本的にはいわゆる暴力はなかった。ただ言葉の暴力は容赦なかった。このあたりのさじ加減がどう作用するのか……。
ヤハリ、洗脳という言葉が見え隠れしてしまう。肉体の暴力じゃないから外から見えにくいし、言葉というのは肉体の暴力以上に征服させる力を持っている。それが洗脳という言葉に単純に置き換えられるかどうかは難しいところだけれど……。
あれほど孫もセットで絶縁したのに、成長した孫息子を見ると、おばあちゃんはあらあら……と愛し気に引き入れたのだ。あの頃何度も罵倒され、追い返された周平にとって、この時の気持ちはどうだったのか。妹が産まれた、女の子か、会いたいね、とてらいなく言い合う老いた祖父母をこれから殺さなければならない自分をどう思ったのか。
大体世の中、シングルマザーよね、と思う。それは劇中、リョウとの子供を妊娠した場面で、産むのは女だから男は逃げられるもんね、という根本的な問題が厳然としてあるのは確かだが、何より問題なのは、シングルマザーに対して、両極端な価値観、一人で育ててエラいね、という視線と、全く逆、シングルマザー選択しといてまともに育てられないってクズ、みたいな。
なんでなんで、女だけが、女親だけが、こんな極端な社会的正義感に打ちのめされなければならないのと常々思っていて(いや私は独女だが)、その点では、秋子に対して、何とも言えない気持ちがあるのだ。
彼女はこんなに自分勝手なのに、なぜか子供にはやたら執着している。ジャマな存在のようにぞんざいに扱うのに、なぜか捨てない。思いがけない妊娠だったのに絶対に堕ろさないと言って、男から足蹴にされ、捨てられても産む。その狂気なまでの母性はなんなのか。
ずっと周平の父親の存在が気になっていたのだが、実にまっとうに登場する。養育費をきちんと振り込んでいる。それを秋子がパチンコで食いつぶしている訳である。息子の窮状を見かねて、「お父さんのところに来るか」と声をかける。
実際、どー考えたって、親権を担うべき人物は、この一瞬の登場でも父親であると思われるし、離婚に際してどういう経緯があったのかは明らかにされないが、日本においては、どんな問題があっても大抵母親に親権が渡されるというのは聞いたことがあって、それを糾弾しているという向きもあるのだろうと思う。
でも、でも……この場合父親も、先述したように、何人も現れる、子どもたちを救える可能性のある大人たちの一人なのだ。見えている、彼らの窮状が見えているのに、結局は大人の理由で取り下げる。
子供に聞いたよ、どうしたいか聞いたよ、なんて理由にならない。洗脳されてる子どもたち自身が、本当の気持ちが自分自身で判ってない子どもたちが、最良の判断を持てるわけがないのだ。だって、母親が目の前で男とセックスしてるのに!!
まさみちゃんがしっかり老けていって、それを執拗に気にして、なのに男をくわえこんで、うっわ!!と思った。彼女は働けない人だ。働くことに義務はもちろん、達成感を感じない。もう、それはどうしようもないのだ。
そういう人たち、その子供たちをどう守り、導けばいいのか。以前は家族に全て委ねられてきたことで悲しい結果も産んだこうした事態が、いかに社会で解決できるのか、日本も、世界も、試されているのだ。
★★★☆☆
だってこういう事態になっても特に雅美の親と連絡をつける訳でもなく、マトモな映画ならありえない雑さで(爆)、その雑さが、彼女のいい意味での妖精感を漂わせるというか。
それは、雅美がこの倦怠期夫婦だけでなく、美紗の不倫相手、更には自身の彼氏さえも、彼女の信じる愛の力で更生?させちゃうってことなんである。
後から落ち着いて考えると、ただエロエロを振りまいてるだけでなく、結構ヒドい目にも遭っている。美紗の不倫相手からのレイプ、そして脅迫。しかしそれは、雅美がみんなに幸せになってもらいたいと思って、あえて身を投じているんである。
これを天使、妖精、生身のリアルな女の子じゃあり得ないでしょと感じるのは当然ではなかろうか。そしてそれは、ピンク映画(じゃないんだけど)という特殊な構造においてこそ成し得ることなんである。
なんか全部すっ飛ばして、オチまで行っちゃったような感じだけど(爆)。とにかくそう、タイトル通りマンネリ、倦怠期の夫婦。倦怠期っつったって、見た目は充分若い夫婦。
しかし後から明かされる、結婚して5年、子どもが出来なかったということがこの夫婦に影を落としていたことを知ると、そこに向き合うために現れた雅美であり、向き合えばお互い愛していることにも向き合えるのだから、全然オッケーなんである。正直言うと、リアルにマンネリ、倦怠期の夫婦は、子どもがいようがいまいがこーゆー危機に陥るからこそ、マジにヤバいんだろうと思う。
本作はまず、ダンナ側から語られる。彼としては隣に寝ている奥さんに手を出したい。でも奥さんは、もう、何言ってんの、とセックスそのものがあり得ないこととして振り払っているんである。
なんたってマンネリというタイトルだし、ダンナはミドルクライシスだと嘆息するし、情熱が失われたセックスレス夫婦と思いきや、ダンナの方はその気もあるし。
奥さんの方は……その気になれない理由が先述のようにあった訳で、現代の社会派作品とはならないのだけど、実は愛し合ってるのにその想いにお互い背を向けている夫婦、というのは、案外いるのかもしれないとも思ったり。
夫婦は喫茶店を営んでいる。昭和レトロな喫茶店、昔ながらのナポリタンに舌鼓をうつ客の描写に、明確にその店の魅力が浮かび上がる。今風に、職場を持たずにパソコンで仕事しているデキる女子もいたりするが、その女子に毎回ちょっかいを出すおっさんはこの古い喫茶店そのものを愛している。
後にバイトに入った雅子がわざとらしく(これは芝居の問題だろうが)コーヒーをこぼし、ズボンを脱がされてソーサーで股間を隠しているのには爆笑したが、つまりはこのおっさんは、喫茶店の風情と共に、客やバイトやおかみさんといった、女子たちにエロい妄想を抱くのも楽しみなのだろう。
その常連の中に、美紗の不倫相手もいる。そもそも今のダンナ、卓也と出会ったのは、不倫相手との別れと失職に打ちひしがれて泥酔していたのを介抱された時だったんであった。
後に語るところによると、最大にリバースした私を、イヤな顔一つせずに介抱してくれた、んだという。恐らく美紗はそのことをずっと、忘れていたんじゃないかと思う。不倫相手からのなんとなくの鞍替えみたいな罪悪感がずっとあって、それは美紗の方からの逆プロポーズだったってことに、私は逃げたんじゃないか、という思いと、ダンナの方は私を本当に愛しているのだろうかという怯えもあっただろう。
でも美紗は本当にホレたから逆プロポーズをしたのだし、卓也は結婚後も続いている不倫相手のことをどうやら感づいている。
でも本当にホレているから、彼女の色んな感情や夫婦の事情を考えて、そこを突くのは違うと思っていたのだろう。お互い膝を突き合わせれば、雲散霧消することなのに。
だから、そこに飛び込んでくる、非現実的なキャラクターが雅美なのだ。だってあり得ないよ。風呂上がりタオル巻きつけたまま寝転んでいる卓也をまたぎ(見えるって!)ドーン!と卓也に抱き着き(観客に見えるって……)、コスプレか!ってフリフリの下着姿でやたら寝相悪かったり、転んだりして、一体何度ぱんつ丸見えにするんかよ。
夢や妄想の中でのおっぱい丸出しやカラミシーンはピンク(じゃないんだけどね、だから)ではお決まりのエロ消化部分ではあるが、リアル生活部分での、無邪気無防備というにはリアル女子としては非現実的すぎるモロだし状況はもはや、野生で暮らしていたんじゃないかというぐらいの羞恥心のなさなのだ。
羞恥心……という概念は多分、彼女にはないな。だから妖精か天使かと思っちゃうのだ。だって雅美は一見自分勝手で天衣無縫に見えながら、常に他人の幸せのことばかり考えているんだもの。
まず、自分が転がり込んだことで、おばさん夫婦が愛し合えなくなっちゃったと突然出ていこうとする。雅美の存在が冷え切った夫婦仲を和ませたことに自覚し始めていた二人だから、必死に止める。
美紗はダンナとの仲を取り戻すために、不倫相手との別れを決意する。その身代わりとして雅美は拉致軟禁されてしまう。それも、雅美が落ち込んでいる彼を心配して声をかけたのが発端だというんだから、これが天使キャラじゃなくてなんだというんである。おばさん夫婦のために、レイプされてやむなしだなんて、これが天使キャラじゃなくてなんだというんである。
連絡のつかない雅美を心配し、もしやと思ってコイツのアパートに乗り込み救出、しかしその直後、このヘタレ男はガス自殺を図る。ダンナまで駆けつけてひと騒動になるのだが、一番ヒドい目にあった雅美が、救いの言葉をかけるのがスゴいのだ。
卓也が美紗の不倫を知っていても、自分は彼女が帰る場所を作っているから、とこれ以上ない愛の言葉を発し、それに打ちのめされたのはこのヘタレ男だったのだった。自分には帰る場所なんてない、と。このヘタレ!!と思ったところに思いがけず雅美が、思いがけないことを言うんだもの。
「あるよ。帰るところ。奥さんと子供のところ」不倫がバレて、リストラされて、だから美紗とただれた関係を続けてきたのに、思いがけないまっとうなこと言われたコイツは目を丸くするんだけれど、恐らく、彼自身が最も望んでて、でも怖くて進めなかった道を、この天使はあっけらかんと示唆した訳なんだよね。
いくつになってもやり直せるなんて台詞、こんなぱんつ丸出しのエロ女の子に言われたって本来なら説得力ない筈なんだけど、彼女は人のために身を投げ出し、レイプも監禁もものともせずに、まさに天使の笑顔で、そんなことを言うんだもの。これ以上の説得力があるだろうか。
こーゆーのがピンク(じゃないんだけどさ。しつこい。)の大好きなところなんだよなあ。女の子のカワイイエロさが肯定的に発揮されるところが凄く好きだ。多少芝居がマズくても許しちゃう(爆)。
ちなみに雅美がフラれたという彼氏は、後に彼女を迎えに来る。その別れの原因は、好き好き光線が強すぎて、毎日マッパで迎えられ、新鮮味がなくなるし、プレッシャーにも耐えられない、ということだったとは、なんとも同情つかまつる。
ヨリを戻しに迎えに来た彼氏と人んち(おばさん夫婦んち)で一戦交えて、ラブラブで帰っていって夫婦二人、はー、ようやく落ち着いたね、じゃあセックスしましょうか、てなところに、またまたバーン!!とふすまを開けて、「彼氏とケンカした!!」またー??いや、幸福なラストですよ。なんというか、永遠の繰り返しだもん。
マンネリは素晴らしいと、卓也は言ったのだった。それは、雅美の彼氏に講義する形でね。玉子を取り出して、鶏が先か、玉子が先か……。それは、エッチが先か、愛が先か、という、男女の、特に女の子側が気にする永遠のテーマである。雅美の場合はあんまり気にしてない感じがするけど(爆)。
つまりは卓也は、自分たち夫婦、あるいはそれを気にしている奥さんの美紗に対して言ったのかとも思う。どっちでもいいんだと。愛しているからエッチしても、エッチしてから愛が産まれても、いいんだと。
ちなみにこの夫婦は、「私たちはエッチが先だったね」美紗がそう言うと、「どっちが先かっていう答えは、アルファベットではあるんだ。」
エッチ、アイ……つまり奥さんの言うことを肯定し、その先に愛があるんだと言ってる訳!キャー!!!素敵!!★★★☆☆